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因果
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この項目では、主として仏教やインド哲学の概念について記述しています。原因と結果の概念に関する総合的記事については「因果性」をご覧ください。 |
因果︵いんが、梵 hetu-phala︶は、もとは仏教用語であった。
本記事では、主として仏教やインドの哲学における考え方について解説する。
西洋哲学や科学哲学等々も含めて、原因・結果という考え方についての人類が考えてきたことに関する総合的な記事としては因果性が立てられているのでそちらを参照のこと。
時代の関係を考慮し、ヴェーダ、仏教の順で解説する。
[編集] ヴェーダやバラモン教における説明
[編集] 因中有果(いんちゅううか)
正統バラモン教の一派に、この世のすべての事象は、原因の中にすでに結果が包含されている、とするものがある。
[編集] 仏教における説明
釈迦は、原因だけでは結果は生じないとし、直接的要因︵因)と間接的要因︵縁︶の両方がそろった︵因縁和合︶ときに結果はもたらされるとする︵因縁果︶。そこで、縁起と呼ぶ法によってすべての事象が生じており、﹁結果﹂も﹁原因﹂も、そのまま別の縁となって、現実はすべての事象が相依相関して成立しているとする。
釈迦が悟った上記のような内容を縁起という。その教えを学問上﹁縁起説﹂と呼ぶこともある。
仏教で通俗的に因果と言う場合には、業︵ごう︶思想と結びつき、自己の存在のあり方にかかわる因果性をいうことも多い。﹁善因楽果・悪因苦果﹂と言うように、人間や天人として生まれる善の結果や、地獄・餓鬼・畜生として生まれる悪の結果を得るのは、前世の自己の善業あるいは悪業を原因とするという、方便︵本来の教説に導くための一種の方法︶としてしばしば使われる。
この因果は、われわれの行為に関するものである。すなわち、自分のやった善は善果を生み、また悪を行えば悪果が返ってくる、と教える。因果応報とも言われ、人間の行為を倫理的に規定する教説として言われたものであろう。また、因果を植物にたとえ善因を善根︵ぜんこん︶ということがある。なお、無貪・無瞋・無癡のことを三善根ということもある。
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[編集] 善因善果・悪因悪果・自因自果
因果の道理は大きく3つに分けられる。すなわち、善因善果︵善を行えば、善い結果が返る︶・悪因悪果︵悪を行えば、悪い結果が返る︶・自因自果︵自分の行いの報いは、自分に返る︶の3つである。また、これらを知れば当然、廃悪修善の心が起きてくるものである。原始仏典に含まれる法句経の﹁七仏通戒偈﹂には﹁諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教﹂︵もろもろの悪事をなすなかれ。もろもろの善事を行え。自分の心を清めよ。これが諸仏の教えである。︶と説かれている。
[編集] 過去現在因果経
﹃過去現在因果経﹄は、5世紀に求那跋陀羅︵ぐなばつだら︶によって漢訳された全4巻の仏伝経典で、釈迦の前世の善行︵本生譚、ジャータカ︶と現世での事跡︵仏伝︶を記し、過去世に植えた善因は決して滅することなく果となって現在に及ぶことを説いている。
[編集] 因果応報
因果応報とは、﹁善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす﹂とする考え方、信仰である。
﹁善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす﹂といった考え方自体は、仏教に限ったものではなく、世界に広く見られる。ただし、仏教では、過去生や来世︵未来生︶で起きたこと、起きることも視野に入れつつこのような表現を用いているところに特徴がある。
もともとインドにおいては、バラモン教などさまざまな考え方において広く、業と輪廻という考え方をしていた。つまり、過去生での行為によって現世の境遇が決まり、現世での行為によって来世の境遇が決まり、それが永遠に繰り返されている、という世界観、生命観である。
仏教においても、この﹁業と輪廻﹂という考え方は継承されており、業によって衆生は、﹁地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天﹂の六道︵あるいはそこから修羅を除いた五道︶をぐるぐると輪廻している、とするようになった。
仏教が目指す仏の境地、悟りの世界というのは、この因果応報、六道輪廻の領域を超えたところに開かれるものだと考えられた。
修行によって悟ることができない人の場合は、︵次に仏界に行けないにしても︶善行を積むことで天界に生まれる︵=生天︶のがよいとされた。
[編集] 因果応報説の受容
インドではもともと業と輪廻の思想が広くゆきわたっていたので、仏教の因果応報の考え方は最初から何ら違和感なく受容されていたが、それが他の地域においてもすんなりと受容されたかと言うと、必ずしもそうではない。
中国ではもともと﹃易経﹄などで、家単位で、良い行いが家族に返ってくる、といった思想はあった。だが、これは現世の話であり、家族・親族の間でそのような影響がある、という考え方である。輪廻という考え方をしていたわけではないので、個人の善悪が現世を超えて来世にも影響するという考え方には違和感を覚える人たちが多数いた。中国の伝統的な思想と仏教思想との間でせめぎあいが生じ、六朝期には仏教の因果応報説と輪廻をめぐる論争︵神滅・不滅論争︶が起きたという。
とはいうものの、因果応報説はやがて、六朝の時代や唐代に小説のテーマとして扱われるようになり、さらには中国の土着の宗教の道教の中にもその考え方が導入されるようになり、人々に広まっていった。
日本では、平安時代に﹃日本霊異記﹄で因果応報の考え方が表現されるなどし、仏教と因果応報という考え方は強く結びついたかたちで民衆に広がっていった。現在、日本の日常的なことわざとしての用法では、後半が強調され﹁悪行は必ず裁かれる﹂という意味で使われることが多い。ただ、ここにおいての因果応報という考えも輪廻との関わりよりも、現実での利益を強調しているという事実も見逃すことはできない。
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[編集] 関連文献
●神塚 淑子﹁霊宝経と初期江南仏教--因果応報思想を中心に﹂東方宗教 91,1998/05, pp.1-21 ︵日本道教学会︶
●西本陽﹁上座仏教における積徳と功徳の転送﹂金沢大学文学部論集. 行動科学・哲学篇[1]
[編集] 脚注、出典
(一)^ しかし、﹁このような一般的考え方は、縁起説から考えられない俗説であり、仏教本来の考え方にはそぐわない。[要出典]﹂ともいう。
(二)^ しかし実際の起源・意味としては間違っており、ただ単に﹁行動﹂と﹁結果﹂は結び付いているという意味でしかない。ここに一つ例を挙げる。[要出典] 人物Aが人物Bの落としたハンカチを、まったくの善意で拾って手渡してあげた。しかし人物Bは自身の持ち物を他人に触れられることに極度の嫌悪を感じる人間であり、逆上した人物Bは包丁で人物Aを刺殺した。 ここでは﹁善意が悪意で返ってきた﹂わけではあるが、因果応報という言葉の意味とは矛盾しない。なぜなら人物Aがハンカチを拾った﹁行動﹂によって、人物Bが人物Aを刺し殺すという﹁結果﹂が生まれてしまったわけであり、﹁行動と結果の因果関係に矛盾や無理が存在しないから﹂である。[要出典]