一
お島しまが養やし親ないおやの口から、近いうちに自分に入いり婿むこの来るよしをほのめかされた時に、彼女の頭あた脳まには、まだ何等の分はっ明きりした考えも起って来なかった。 十八になったお島は、その頃その界かい隈わいで男おと嫌こぎらいという評判を立てられていた。そんなことをしずとも、町屋の娘と同じに、裁縫やお琴の稽けい古こでもしていれば、立派に年頃の綺きれ麗いな娘で通して行かれる養家の家柄ではあったが、手てさ頭きなどの器用に産れついていない彼女は、じっと部屋のなかに坐っているようなことは余り好まなかったので、稚ちいさいおりから善く外へ出て田畑の土を弄いじったり、若い男たちと一緒に、田植に出たり、稲刈に働いたりした。そうしてそんな荒仕事がどうかすると寧むしろ彼女に適しているようにすら思われた。養蚕の季節などにも彼女は家うち中じゅうの誰よりも善く働いてみせた。そうして養父や養母の気に入られるのが、何よりの楽しみであった。界隈の若い者や、傭やとい男などから、彼女は時々揶から揄かわれたり、猥みだらな真ま似ねをされたりする機会が多かった。お島はそうした男たちと一緒に働いたり、ふざけたりして燥はしゃぐことが好すきであったが、誰もまだ彼女の頬ほおや手に触れたという者はなかった。そう云う場合には、お島はいつも荒れ馬のように暴れて、小こッぴどく男の手顔を引かくか、さもなければ人前でそれを素すっ破ぱぬいて辱はじをかかせるかして、自ら悦よろこばなければ止まなかった。 お島は今でもその頃のことを善く覚えているが、彼女がここへ貰もらわれてきたのは、七つの年であった。お島は昔むか気しか質たぎの律りち義ぎな父親に手をひかれて、或日の晩方、自分に深い憎しみを持っている母親の暴あらい怒と惨ざん酷こくな折せっ檻かんから脱のがれるために、野原をそっち此こっ方ち彷うろ徨ついていた。時は秋の末であったらしく、近在の貧しい町の休茶屋や、飲食店などには赤い柿の実が、枝ごと吊つるされてあったりした。父親はそれらの休み茶屋へ入って、子供の疲れた足を劬いたわり休めさせ、自分も茶を呑んだり、莨たばこをふかしたりしていたが、無智なお島は、茶屋の女が剥むいてくれる柿や塩しお煎せん餅べいなどを食べて、臆おく病びょうらしい目でそこらを見まわしていた。今まで赤々していた夕ゆう陽ひがかげって、野のづ面らからは寒い風が吹き、方々の木立や、木立の蔭の人家、黄色い懸かけ稲いね、黝くろい畑などが、一様に夕ゆう濛も靄やに裹つつまれて、一日苦こき使つかわれて疲れた体からだを慵ものうげに、往来を通ってゆく駄馬の姿などが、物悲しげみえた。お島は大きな重い車をつけられて、従順に引張られてゆく動物のしょぼしょぼした目などを見ると、何となし涙ぐまれるようであった。気の荒い母親からのがれて、娘の遣やり場ばに困っている自分の父親も可哀そうであった。 お島は爾その時とき、ひろびろした水のほとりへ出て来たように覚えている。それは尾お久くの渡わたしあたりでもあったろうか、のんどりした暗あん碧ぺきなその水の面おもにはまだ真珠色の空の光がほのかに差していて、静かに漕こいでゆく淋さびしい舟の影が一つ二つみえた。岸には波がだぶだぶと浸ひたって、怪獣のような暗い木の影が、そこに揺ゆらめいていた。お島の幼い心も、この静かな景色を眺ながめているうちに、頭のうえから爪先まで、一種の畏い怖ふと安易とにうたれて、黙ってじっと父親の痩せた手に縋すがっているのであった。二
その時お島の父親は、どういう心つも算りで水のほとりへなぞ彼女をつれて行ったのか、今考えてみても父親の心持は素もとより解らない。或あるいは渡しを向うへ渡って、そこで知合の家うちを尋ねてお島の体の始末をする目算であったであろうが、お島はその場合、水を見ている父親の暗い顔の底に、或可おそ恐ろしい惨ざん忍にんな思おも着いつきが潜んでいるのではないかと、ふと幼心に感づいて、怯おびえた。父親の顔には悔恨と懊おう悩のうの色が現われていた。 赤児のおりから里にやられていたお島は、家へ引取られてからも、気強い母親に疎うとまれがちであった。始終めそめそしていたお島は、どうかすると母親から、小さい手に焼やけ火ひば箸しを押しつけられたりした。お島は涙の目で、その火箸を見詰めていながら、剛情にもその手を引込めようとはしなかった。それが一層母親の憎しみを募らせずにはおかなかった。 ﹁この業ごうつく張ばりめ﹂彼女はじりじりして、そう言って罵ののしった。 昔は庄屋であったお島の家は、その頃も界隈の人達から尊敬されていた。祖父が将軍家の出しゅ遊つゆうのおりの休憩所として、広々した庭を献納したことなどが、家の由緒に立派な光を添えていた。その地面は今でも市民の遊園地として遺のこっている。庭作りとして、高貴の家へ出入していたお島の父親は、彼が一生の瑕きずとしてお島たちの母親である彼が二度目の妻を、賤いやしいところから迎えた。それは彼が、時々酒を飲みに行く、近辺の或安料理屋にいる女の一人であった。彼女は家にいては能よく働いたがその身みじ状ょうを誰も好く言うものはなかった。 お島が今の養家へ貰われて来たのは、渡わた場しばでその時行逢った父親の知合の男の口くち入いれであった。紙かみ漉すき場ばなどをもって、細々と暮していた養家では、その頃不思議な利得があって、遽にわかに身代が太り、地所などをどしどし買入れた。お島は養やし親ないおやの口から、時々その折の不思議を洩もれ聞いた。それは全まる然で作つく物りも語のがたりにでもありそうな事件であった。或冬の夕暮に、放さす浪らいの旅に疲れた一人の六ろく部ぶが、そこへ一夜の宿を乞求めた。夜があけてから、思いがけない或幸いが、この一家を見舞うであろう由を言いい告つげて立去った。その旅客の迹あとに、貴い多くの小判が、外に積んだ楮かぞのなかから、二三日たって発見せられた。養父は大分たってから、一つはその旅客の迹を追うべく、一つは諸方の神仏に、自分の幸さちを感謝すべく、同じ巡礼の旅に上ったが、終ついにそれらしい人の姿にも出逢わなかった。左とに右かく、養家はそれから好い事ばかりが続いた。ちょいちょい町の人達へ金を貸つけたりして、夫婦は財産の殖えるのを楽んだ。 ﹁その六部が何者であったかな﹂養父は稀まれに門かど辺べへ来る六部などへ、厚く報謝をするおりなどに、その頃のことを想出して、お島に語かた聞りきかせたが、お島はそんな事には格別の興味もなかった。 養家へ来てからのお島は、生うみの親や兄弟たちと顔を合す機会は、滅多になかった。三
然しかし時がたつに従って、その時の事実の真相が少しずつお島の心に沁しみ込こむようになって来た。養家の旧もとを聞知っている学校友達などから、ちょいちょい聞くともなし聞きき齧かじったところによると、六部はその晩急病のために其そ処こで落命したのであった。そして死んだ彼の懐ふところに、小判の入った重い財布があった。それをそっくり養父母は自分の有ものにして了しまったと云うのであった。お島はその説の方に、より多く真実らしいところがあると考えたが、矢やっ張ぱり好い気持がしなかった。 ﹁言いたがるものには、何とでも言わしておくさ。お金ができると何とかかとか言いたがるものなのだよ﹂ お島がその事を、私そっと養母に糺ただしたとき、彼女はそう言って苦笑していたが、養父母に対する彼女のこれまでの心持は、段々裏切られて来た。自分の幸福にさえ黒い汚し点みが出来たように思われた。そしてそれからと云うもの、出来るだけ養父母の秘密と、心の傷を劬いたわりかばうようにと力つとめたが、どうかすると親たちから疎うとまれ憚はばかられているような気がさしてならなかった。 六部の泊ったと云う、仏壇のある寂しい部屋を、お島は夜よる厠かわやへの往ゆき来きに必ず通らなければならなかった。そこは畳の凸でこ凹ぼこした、昼でも日の光の通わないような薄暗い八畳であった。夫婦はそこから一段高い次の部屋に寝ていたが、お島は大きくなってからは大たい抵てい勝手に近い六畳の納なん戸どに寝ねかされていた。お島はその八畳を通る度たんびに、そこに財布を懐ろにしたまま死んでいる六部の蒼あお白じろい顔や姿が、まざまざ見えるような気がして、身うちが慄ぞ然っとするような事があった。夜はいつでも宵の口から臥ふし床どに入ることにしている父親の寝言などが、ふと寝ねざ覚めの耳へ入ったりすると、それが不幸な旅客の亡霊か何ぞに魘うなされている苦くも悶んの声ではないかと疑われた。 陽気のぽかぽかする春先などでも家うちのなかには始終湿っぽく、陰惨な空気が籠こもっているように思えた。そして終日庭むきの部屋で針をもっていると、頭あた脳まがのうのうして、寿命がちぢまるような鬱うっ陶とうしさを感じた。お島は糸いと屑くずを払いおとして、裏の方にある紙かみ漉すき場ばの方へ急いで出ていった。 薮やぶ畳だたみを控えた広い平地にある紙漉場の葭よし簀ずに、温かい日がさして、楮かぞを浸すために盈なみ々なみと湛たたえられた水が生なま暖あたたかくぬるんでいた。そこらには桜がもう咲きかけていた。板に張られた紙が沢山日に干されてあった。この商売も、この三四年近辺に製紙工場が出来などしてからは、早晩罷やめてしまうつもりで、養父は余り身を入れぬようになった。今は職人の数も少かった。そして幾分不用になった空あき地ちは庭に作られて、洒しゃ落れた枝しお折りも門んなどが営しつらわれ、石や庭木が多く植え込まれた。住すま居いの方もあちこち手入をされた。養父は二三年そんな事にかかっていたが、今は単にそればかりでなく、抵当流れになったような家屋敷も外ほかに二三箇所はあるらしかった。けれど養父母はお島に詳しいことを話さなかった。 ﹁貧乏くさい商売だね﹂お島は自分の稚ちいさい時分から居ずわりになっている男に声かけた。その男は楮の煮らるる釜の下の火を見ながら、跪しゃ坐がんで莨たばこを喫すっていた。 顎あご髯ひげの伸びた蒼白い顔は、明い春先になると、一層貧相らしくみえた。 ﹁お前さんの紙漉も久しいもんだね﹂ ﹁駄目だよ。旦だん那なが気がないから﹂作さくと云うその男は俛うつむいたまま答えた。﹁もう楮のなかから小判の出て来る気きづ遣かいもないからね﹂ ﹁真ほん実とうだ﹂お島は鼻はな頭のさきで笑った。四
お島は幼ちいさい時分この作という男に、よく学校の送おく迎りむかいなどをして貰ったものだが、養父の甥おいに当る彼は、長いあいだ製紙の職工として、多くの女工と共に働かされたのみならず、野良仕事や養蚕にも始終苦こき使つかわれて来た。そうして気の強い主婦からはがみがみ言われ、お島からは豕ぶたか何ぞのように忌いみ嫌きらわれた。絶え間のない労働に堪えかねて、彼はどうかすると気分が悪いといって、少し遅くまで寝ているようなことがあると、主婦のおとらは直じきに気荒く罵った。 ﹁おいおい、この忙せわしいのに寝ている奴があるかよ。旧もとを考えてみろ﹂ おとらは作の隠れて寝ている物置のような汚いその部屋を覗のぞ込きこみながら毎い時つものお定きま例りを言って呶ど鳴なった。甲かん走ばしったその声が、彼の脳天までぴんと響いた、作は主人の兄にあたるやくざ者と、どこのものともしれぬ旅芸人の女との間なかにできた子供であった。彼の父親は賭とば博くや女に身しん上しょうを入いれ揚あげて、その頃から弟の厄介ものであったが、或時身寄を頼って、上州の方へ稼かせぎに行っていたおりにその女に引かかって、それから乞食のように零おち落ぶれて、間もなくまた二人でこの町へ復かえって来た。その時身重であったその女が、作を産うみおとしてから程なく、子供を弟の家に置おき去ざりに、どこともなく旅へ出て行った。男が病気で死んだと云う報しら知せが、木きさ更ら津ずの方から来たのは、それから二三年も経たってからであった。 お島はおとらが、その頃のことを何かのおりには作に言聞かせているのを善く聞いた。おとらは兄夫婦が、汽車にも得え乗のらず、夏の暑い日と、野原の荒い風に焼けやつれた黝くろい顔をして、疲れきった足を引きずりながら這はい込こんで来た光景を、口癖のように作に語って聞かせた。少しでも怠けたり、ずるけたりするとそれを持出した。 ﹁あの衆しゅと一緒だったら、お前だって今頃は乞食でもしていたろうよ。それでも生みの親が恋しいと思うなら、いつだって行くがいい﹂ 作は親のことを言出されると、時々ぽろぽろ涙を流していたものだが、終しまいにはえへへと笑って聞いていた。 作はそんなに醜い男ではなかったが、いじけて育ったのと、発育盛さかりを劇はげしい労働に苦こき使つかわれて営養が不十分であったので、皮膚の色いろ沢つやが悪く、青春期に達しても、ばさばさしたような目に潤いがなかった。主人に吩いい咐つかって、雨降りに学校へ迎えに行ったり、宵に遊びほうけて、何時までも近所に姿のみえないおりなどは、遠くまで捜しにいったりして、負おぶったり抱いたりして来たお島の、手足や髪の見ちがえるほど美しく肉づき伸びて行くのが物もの希めずらしくふと彼の目に映った。たっぷりしたその髪を島田に結って、なまめかしい八つ口から、むっちりした肱ひじを見せながら、襷たすきがけで働いているお島の姿が、長いあいだ彼の心を苦しめて来た、彼女に対する淡い嫉しっ妬とをさえ、吸取るように拭ぬぐってしまった。それまで彼は歴れっ々きとした生みの親のある、家の後取娘として、何かにつけておとらから衒ひけらかす様に、隔てをおかれるお島を、詛のろわしくも思っていた。五
お島が作を一層嫌って、侮ぶべ蔑つするようになったのもその頃からであった。 蒸暑い夏の或真夜中に、お島はそこらを開あけ放はなして、蚊か帳やのなかで寝苦しい体を持もて余あましていたことがあった。酸すっぱいような蚊の唸うな声りごえが夢ゆめ現うつつのような彼女のいらいらしい心を責せめ苛さいなむように耳についた。その時ふとお島の目を脅おびやかしたのは、蚊帳のそとから覗のぞいている作の蒼白い顔であった。 ﹁莫ば迦か、阿おっ母かさんに言いい告つけてやるぞ﹂ お島は高い調子に叫んだ。それで作はのそのそと出ていったが、それまで何の気もなしに見ていたそれと同じような作の挙動が、その時お島の心に一々意味をもって来た。お島は劇しい侮蔑を感じた。或時は野良仕事をしている時につけ廻されたり、或時は湯殿にいる自分の体に見入っている彼の姿を見つけたりした。 お島はそれ以来、作の顔を見るのも胸が悪かった。そして養父から、善く働く作を自分の婿に択えらぼうとしているらしい意いこ嚮うを洩もらされたときに、彼女は体が竦すくむほど厭いやな気持がした。しかし養父のその考えが、段々分はっ明きりして来たとき、お島の心は、自おのずから生みの親の家の方へ嚮むいていった。 ﹁何しろ作は己おれの血筋のものだから、同じ継つがせるなら、あれに後を取らせた方が道だ﹂ 養父は時おり妻のおとらと、その事を相談しているらしかったが、お島はふとそれを立聞したりなどすると、堪えがたい圧迫を感じた。我わが儘ままな反抗心が心に湧わき返かえって来た。 作の自分を見る目が、段々親しみを加えて来た。彼は出来るだけ打うち釈とけた態度で、お島に近づこうとした。畑で桑など摘つんでいると、彼はどんな遠いところで、忙せわしい用事に働いている時でも、彼女を見廻ることを忘れなかった。彼はその頃から、働くことが面白そうであった。叔父夫婦にも従順であった。お島は一層それが不快であった。 おとらが内ない々ないお島の婿にしようと企てているらしい或若い男の兄が、その頃おとらのところへ入いり浸びたっていた。青柳と云うその男は、その町の開業医として可かな也りに顔が売れていたが、或私立学校を卒業したというその弟をも、お島はちょいちょい見かけて知っていた。 気きさ爽くで酒のお酌などの巧いおとらは、夫の留守などに訪ねてくる青柳を、よく奥へ通して銚ちょ子うしのお燗かんをしたりしているのを、お島は時々見かけた。一日かかって四十把ぱの楮かぞを漉すくのは、普通一いち人にん前まえの極度の仕事であったが、おとらは働くとなると、それを八十把も漉くほどの働きものであった。そして人のいい夫を其そっ方ち退のけにして、傭い人を見張ったり、金の貸かし出だし方かたや取とり立たて方かたに抜目のない頭あた脳まを働かしていたが、青柳の顔が見えると、どんな時でも彼女の様子がそわそわしずにはいなかった。 お島の目にも、愛あい相そのいい青柳の人柄は好ましく思えた。彼は青柳から始終お島坊お島坊と呼びなずけられて来た。最近青柳がいつか養父から借りて、新座敷の造営に費つかった金高は、少い額ではなかった。六
お島は作との縁談の、まだ持あがらぬずっと前から、よく養母のおとらに連れられて青柳と一緒に、大師さまやお稲いな荷りさまへ出かけたものであった。天うま性れつき目性の好くないお島は、いつの頃からこの医者に時々かかっていたか、分はっ明きり覚えてもいないが、そこにいたお花と云う青柳の姪めいにあたる娘とも、遊び友達であった。 おとらは時には、青柳の家で、お島と対ついの着物をお花に拵こしらえるために、そこへ反物屋を呼んで、柄がらの品しな評さだめをしたりしたが、仕立あがった着物を着せられた二人の娘は、近所の人の目には、双ふた児ごとしかみえなかった。おとらは青柳と大師まいりなどするおりには、初めはお島だけしか連れていかなかったものだが、偶たまにはお花をも誘い出した。 お花という連つれのある時はそうでもなかったが、自分一人のおりには、お島は大人同志からは、全まる然で除のけものにされていなければならなかった。 ﹁じゃね、小お父じさんと阿おっ母かさんは、此こ処こで一服しているからね。お前は目がわるいんだから能よくお詣まいりをしておいで。ゆっくりで可いいよ。阿母さんたちはどうせ遊びに来たんだからね。小父さんも折角来たもんだから、お酒の一口も飲まなければ満つまらないだろうし、阿母さんだって偶に出るんだからね﹂ おとらはそう言って、博はか多たと琥こは珀くの昼夜帯の間から紙入を取出すと、多分のお賽さい銭せんをお島の小さい蟇がま口ぐちに入れてくれた。そこは大師から一里も手前にある、ある町の料理屋であった。二人はその奥の、母おも屋やから橋がかりになっている新築の座敷の方へ落着いてからお島を出してやった。 それは丁度初はつ夏なつ頃の陽気で、肥ったお島は長い野道を歩いて、脊せす筋じが汗ばんでいた。顔にも汗がにじんで、白おし粉ろいの剥はげかかったのを、懐中から鏡を取出して、直したりした。山がかりになっている料理屋の庭には、躑つつ躅じが咲乱れて、泉水に大きな緋鯉が絵に描いたように浮いていた。始終働きづめでいるお島は、こんなところへ来て、偶に遊ぶのはそんなに悪い気持もしなかったが、落着のない青柳や養母の目色を候うかがうと、何となく気がつまって居いづ辛らかった。そして小ちいさいおりから母親に媚こびることを学ばされて、そんな事にのみ敏さとい心から、自ひと然りでに故ことさら二人に甘えてみせたり、燥はしゃいでみせたりした。 ﹁ええ、可よござんすとも﹂ お島は大きく頷うなずいて、威勢よくそこを出ると、急いで大師の方へと歩き出した。 町には同じような料理屋や、休み茶屋が外にも四五軒目に着いたが、人家を離れると直すぐに田たん圃ぼ道へ出た。野や森は一面に青々して、空が美しく澄んでいた。白い往来には、大師詣りの人達の姿が、ちらほら見えて、或雑木林の片陰などには、汚い天てん刑けい病びょう者が、そこにも此処にも頭を土に摺すりつけていた。それらの或者は、お島の迹あとから絡まつわり着いて来そうな調子で恵みを強ね請だった。お島はどうかすると、蟇口を開けて、銭を投げつつ急いで通とお過りすぎた。七
曲がりくねった野道を、人の影について辿たどって行くと、旋やがて大師道へ出て来た。お島はぞろぞろ往ゆき来きしている人や俥くるまの群に交って歩いていったが、本ほん所じょや浅草辺の場末から出て来たらしい男女のなかには、美しく装った令嬢や、意気な内か儀みさんも偶たまには目についた。金きん縁ぶち眼鏡をかけて、細ほそ巻まきを用意した男もあった。独ひと法りぼ師っちのお島は、草履や下駄にはねあがる砂すな埃ぼこりのなかを、人なつかしいような可いじ憐らしい心持で、ぱっぱと蓮はす葉はに足を運んでいた。ほてる脛はぎに絡まつわる長なが襦じゅ袢ばんの、ぽっとりした膚はだ触ざわりが、気持が好かった。今別れて来た養母や青柳のことは直じきに忘れていた。 大師前には、色々の店が軒を並べていた。張子の虎とらや起きあがり法師を売っていたり、おこしやぶっ切り飴あめを鬻ひさいでいたりした。蠑さざ螺えや蛤はまぐりなども目についた。山門の上には馬ばか鹿ばや囃しの音が聞えて、境内にも雑多の店が居並んでいた。お島は久しく見たこともないような、かりん糖や太たい白はく飴あめの店などを眺ながめながら本堂の方へあがって行ったが、何ど処こも彼かし処こも在郷くさいものばかりなのを、心寂しく思った。お島は母に媚びるためにお守札や災難除のお札などを、こてこて受けることを怠らなかった。 そこを出てから、お島は野広い境内を、其そっ方ちこっち歩いてみたが、所々に海獣の見せものや、田いな舎か廻りの手品師などがいるばかりで、一緒に来た美しい人達の姿もみえなかった。お島は隙ひまを潰つぶすために、若い桜の植えつけられた荒れた貧しい遊園地から、墓場までまわって見た。田いな舎かじ爺じいの加か持じのお水を頂いて飲んでいるところだの、蝋ろう燭そくのあがった多くの大師の像のある処の前に彳たたずんでみたりした。木立の中には、海軍服を着た痩やせ猿ざるの綱つな渡わたりなどが、多くの人を集めていた。お島はそこにも暫しばらく立とうとしたが、焦いら立だつような気分が、長く足を止とどめさせなかった。 休茶屋で、ラムネに渇かわいた咽の喉どや熱いきる体を癒いやしつつ、帰路についたのは、日がもう大分かげりかけてからであった。田圃に薄寒い風が吹いて、野末のここ彼処に、千住あたりの工場の煙が重く棚たな引びいていた。疲れたお島の心は、取とり留とめのない物足りなさに掻かき乱みだされていた。 旧もとのお茶屋へ還って往くと、酒に酔えった青柳は、取ちらかった座敷の真中に、座ざぶ蒲と団んを枕にして寝ていたが、おとらも赤い顔をして、小こよ楊う枝じを使っていた。 ﹁まあ可よかったね。お前お腹なかがすいて歩けなかったろう﹂おとらはお愛あい相そを言った。 ﹁お前、お水を頂いて来たかい﹂ ﹁ええ、どっさり頂いて来ました﹂ お島はそうした嘘うそを吐つくことに何の悲しみも感じなかった。 おとらはお島に御飯を食べさせると、脱いで傍に畳んであった羽織を自分に着たり、青柳に着せたりして、やがて其処を引揚げたが、町へ帰り着く頃には、もうすっかり日がくれて蛙かえるの声が静しずかな野中に聞え、人家には灯ひが点ともされていた。 ﹁みんな御苦労々々々﹂おとらは暗い入口から声かけながら入って行ったが、養父は裏で連しきりに何か取込んでいた。八
お島は養父がいつまでも内に入って来ようともしず、入って来ても、飯がすむと直ぐ帳簿調に取かかったりして、無口でいるのを自分のことのように気味悪くも思った。お島はいつもするように、﹁肩をもみましょうか﹂と云って、養父の手のすいた時に、後へ廻って、養母に代って機きげ嫌んを取るようにした。お島は九つ十の時分から、養父の肩を揉もませられるのが習慣になっていた。 おとらは一ト休みしてから、晴れ着の始末などをすると、そっち此こっ方ち戸締をしたり、一日取ちらかった其そ処こらを疳かん性しょうらしく取片着けたりしていたが、そのうちに夫婦の間にぼつぼつ話がはじまって、今日行ったお茶屋の噂うわさなども出た。そのお茶屋を養父も昔から知っていた。 此処から三四里もある或町の農家で同じ製紙業者の娘であったおとらは、その父親が若いおりに東京で懇意になった或女に産れた子供であったので、東京にも知合が多く、都会のことは能よく知っているが、今の良おっ人とが取引上のことで、ちょくちょく其処へ出入しているうちに、いつか親しい間なかになったのだと云うことは、お島もおとらから聞かされて知っていた。その頃痩やせ世じょ帯たいを張っていた養父は、それまで義理の母親に育てられて、不仕合せがちであったおとらと一緒になってから、二人で心を合せて一生懸命に稼いだ。その苦労をおとらは能くお島に言聞せたが、身しん上しょうができてからのこの二三年のおとらの心持には、いくらか弛たるみができて来ていた。世間の快楽については、何もしらぬらしい養父から、少しずつ心が離れて、長いあいだの圧迫の反動が、彼女を動ともすると放ほう肆しな生活に誘おび出きだそうとしていた。 お島は長いあいだ養父母の体を揉んでから、漸やっと寝床につくことが出来たが、お茶屋の奥の間での、刺しげ戟きの強い今日の男ふた女りの光景を思浮べつつ、直じきに健すこやかな眠に陥ちて了った。蛙の声がうとうとと疲れた耳に聞えて、発育盛の手足が懈だるく熱ほてっていた。 翌あし朝たも養父母は、何のこともなげな様子で働いていた。 お花を連出すときも、男ふた女りの遊び場所は矢やは張り同じお茶屋であったが、お島はお花と一緒に、浅草へ遊びにやって貰ったりした。お島はお花と俥くるまで上野の方から浅草へ出て往った。そして観音さまへお詣りをしたり、花屋敷へ入ったりして、![※(「日/咎」、第3水準1-85-32)](../../../gaiji/1-85/1-85-32.png)
九
何い時つの頃であったか、多分その翌年頃の夏であったろう、その年重おもにお島の手に委まかされてあった、僅わずか二枚ばかりの蚕が、上じょ蔟うぞくするに間まのない或日、養父とごたごたした物もの言いいの揚あげ句く、養母は着物などを着替えて、ぶらりと何処かへ出ていって了しまった。 養母はその時、青柳にその時々に貸した金のことについて、養父から不足を言われたのが、気に障さわったと云って、大声をたてて良人に喰くってかかった。話の調子の低いのが天もち性まえである養父は、嵩かさにかかって言募って来るおとらの為めに遣やり込こめられて、終しまいには宥なだめるように辞ことばを和げたが、矢やっ張ぱりいつまでもぐずぐず言っていた。 ﹁ちっと昔しを考えて見るが可いいんだ。お前さんだって好いことばかりもしていないだろう。旧もとを洗ってみた日には、余あんまり大きな顔をして表を歩けた義理でもないじゃないか﹂ 養蚕室にあてた例の薄暗い八畳で、給きゅ桑うそうに働いていたお島は、甲かん高だかなその声を洩聞くと、胸がどきりとするようであった。お島は直じきに六部のことを思出さずにいられなかった。ぶすぶす言っている哀れな養ち父ちの声も途断れ途断れに聞えた。 青柳に貸した金の額は、お島にはよくは判らなかったが、家の普請に幾分用立てた金を初めとして、ちょいちょい持っていった金は少い額ではないらしかった。この一二年青柳の生活が、いくらか華美になって来たのが、お島にも目についた。養父の知らないような少額の金や品物が、始終養母の手から私そっと供給されていた。 お島はその年の冬の頃、一度青柳と一緒に落会った養母のお伴をしたことがあったが、十七になるお島を連出すことはおとらにも漸ようやく憚はばかられて来た。場所も以前のお茶屋ではなかった。 その日も養父は、使い道の分はっ明きりしないような金のことについて、昼頃からおとらとの間に紛いざ紜こざを惹ひき起おこしていた。長いあいだ不問に附して来た、青柳への貸のことが、ふとその時彼の口から言出された。そして日頃肚はらに保もっていた色々の場合のおとらの挙ふる動まいが、ねちねちした調子で詰なじられるのであった。 結局おとらは、綺麗に財産を半分わけにして、別れようと言出した。そして良人の傍を離れると、奥の間へ入って、暫しばらく用よう箪だん笥すの抽ひき斗だしの音などをさせていたが、それきり出ていった。 ﹁まあ阿おっ母かさん、そんなに御立腹なさらないで、後生ですから家にいて下さい。阿母さんが出ていっておしまいなすったら、私わたしなんざどうするんでしょう﹂ お島はその傍へいって、目に涙をためて哀願したが、おとらは振ふり顧むきもしなかった。 夜になってから、お島は養父に吩いい咐つかって、近所をそっち此こっ方ち尋ねてあるいた。青柳の家へもいって見たが、見つからなかった。 おとらの未まだ帰って来ない、或日の午後、蚕に忙せわしいお島の目に、ふと庭向の新しん建だちの座敷で、おとらを生さ家とへ出してやった留守に、何時か為したように、夥おびただしい紙さ幣つを干している養父の姿を見た。八畳ばかりの風通しのいいその部屋には、紙幣の幾束が日当りへ取出されてあった。十
お島は養父が、二三軒の知合の家へ葉書を出したことを知っていたが、おとらが帰ってから、漸やっと届いたおとらの生さ家との外は、その返辞はどこからも来なかった。 養父はどうかすると、蚕室にいるお島の傍へ来て、もうひきるばかりになっている蚕を眺めなどしていた。蚕の或物はその蒼あお白じろい透すき徹とおるような躯からだを硬こわ張ばらせて、細い糸を吐きかけていた。 ﹁お前阿おっ母かあから口止されてることがあるだろうが﹂ 養父はこの時に限らず、おとらのいない処で、どうかするとお島に訊たずねた。 ﹁どうしてです。いいえ﹂お島は顔を赧あからめた。 しかし養父はそれ以上深入しようとはしなかった。お島にはおとらに対する養父の弱点が見えすいているようであった。 もう遊びあいて、家うちが気にかかりだしたと云う風で、おとらの帰って来たのは、その日の暮近くであった。養父はまだ帳場の方を離れずにいたが、おとらは亭主にも辞ことばもかけず、﹁はい只今﹂と、お島に声かけて、茶の間へ来て足を投げ出すと、せいせいするような目めつ色きをして、庭先を眺めていた。濃い緑の草や木の色が、まだ油絵具のように生なま々なましてみえた。 お島は脱ぎすてた晴衣や、汗ばんだ襦じゅ袢ばんなどを、風通しのいい座敷の方で、衣えも紋んだ竹けにかけたり、茶をいれたりした。 ﹁こんな時に顔を出しておきましょうと思って、方々歩きまわって来たよ﹂おとらは行水をつかいながら、背せなかを流しているお島に話しかけた。その行った先には、種違いのおとらの妹の片かた着づき先さきや、子供のおりの田舎の友達の縁づいている家などがあった。それらは皆みんな東京のごちゃごちゃした下町の方であった。そして誰も好い暮しをしている者はないらしかった。そして一日二日もいると、直じきに厭いや気けがさして来た。おとら夫婦は、金ができるにつれて、それ等の人達との間に段々隔てができて、往ゆき来きも絶えがちになっていた。生さ家ととも矢やっ張ぱりそうであった。 湯から上がって来ると、おとらは東京からこてこて持って来た海の苔りや塩しお煎せん餅べいのようなものを、明あかりの下で亭主に見せなどしていたが、飯がすむと蚊のうるさい茶の間を離れて、直じきに蚊か帳やのなかへ入ってしまった。 毎夜々々寝苦しいお島は、白い地面の瘟いき気れの夜露に吸取られる頃まで、外へ持出した縁台に涼んでいたが、近所の娘達や若いものも、時々そこに落会った。町の若い男女の噂が賑にぎわったり、悪わる巫ふ山ざ戯けで女を怒おこらせたりした。 仕しま舞い湯ゆをつかった作が、浴ゆか衣たを引かけて出て来ると、うそうそ傍へ寄って来た。 ﹁この莫ば迦かまた出て来た﹂お島は腹立しげについと其処を離れた。十一
おとらと青柳との間に成立っていたお島と青柳の弟との縁談が、養父の不同意によって、立消えになった頃には、おとらも段々青柳から遠ざかっていた。一つはお島などの口から、自分と青柳との関係が、うすうす良人の耳に入ったことが、その様子で感づかれたのに厭気がさしたからであったが、一つは青柳夫婦がぐるになって、慾一方でかかっていることが余りに見えすいて来たからであった。 お島が十七の暮から春へかけて、作の相続問題が、また養父母のあいだに持あがって来た。お島はそのことで、養父母の機嫌をそこねてから、一度生みの親達の傍へ帰っていた。お島はその頃、誰が自分の婿であるかを明はっ白きり知らずにいた。そして婚礼支度の自分の衣いし裳ょうなどを縫いながら、時々青柳の弟のことなどを、ぼんやり考えていた。東京の学校で、機械の方をやっていたその弟と、お島はついこれまで口を利きいたこともなかったし、自分をどう思っているかをも知らなかったが、深川の方に勤め口が見つかってから、毎朝はやく、詰つめ襟えりの洋服を着て、鳥打をかぶって出て行く姿をちょいちょい見かけた。途中で逢うおりなどには、双方でお辞儀ぐらいはしたが、お島自身は彼について深く考えて見たこともなかった。そして青柳とおとらとの間に、その話の出るとき毎いつ時も避けるようにしていた。 ある時そんな事については、から薄ぼんやりなお花の手を通して、綺きれ麗いな横封に入った手紙を受取ったが、洋紙にペンで書いた細こまかい文字が、何を書いてあるのかお花にはよくも解らなかったが、双方の家庭に対する不満らしいことの意味が、お島にもぼんやり頭あた脳まに入った。お島のそんな家庭に縛られている不幸に同情しているような心持も、微かすかに受取れたが、お島は何だか厭いや味みなような、擽くすぐったいような気がして、後で揉もみくしゃにして棄すててしまった。その事を、多少は誇りたい心で、おとらに話すと、おとらも笑っていた。 ﹁あれも妙な男さ。養子なんかに行くのは厭だといって置きながら、そんな物をくれるなんて、厭だね﹂ お島は養父母が、すっかり作に取決めていることを感づいてから、仕事も手につかないほど不快を感じて来た。おとらは不機嫌なお島の顔を見ると、お島が七つのとき初めて、人につれられて貰われて来た時の惨みじめなさまを掘返して聞せた。 ﹁あの時お前のお父とっさんは、お前の遣やり場ばに困って、阿おっ母かさんへの面つらあてに川へでも棄ててしまおうかと思ったくらいだったと云う話だよ。あの阿母さんの手にかかっていたら、お前は産れもつかぬ不かた具わになっていたかも知れないよ﹂おとらはそう言って、生みの親の無情なことを語り聞かせた。十二
近所でも知らないような、作とお島との婚こん礼れい談ばなしが、遠方の取引先などで、意おもいがけなくお島の耳へ入ったりしてから、お島は一層分はっ明きり自分の惨みじめな今の身のうえを見せつけられるような気がして、腹立しかった。そしてその事を吹聴してあるくらしい、作の顔が一層間ぬけてみえ、厭らしく思えた。 ﹁まだ帰らねえかい﹂そう言って、小さい時分から学校へ迎えに来た作は、昔も今も同じような顔をしていた。 ﹁外に待っておいで﹂お島はよく叱しかりつけるように言って、入り口の外に待たしておいたものだが、今でも矢やっ張ぱり、下駄に手をふれられても身ぶるいがするほど厭であった。 婚礼談ばなしが出るようになってから、作は懲りずまに善くお島の傍へ寄って来た。余よそ所ゆ行きの化粧をしているとき、彼は横へ来てにこにこしながら、横顔を眺めていた。 ﹁あっちへ行っておいで﹂お島はのしかかるような疳かん癪しゃ声くごえを出して逐おい退しりぞけた。 ﹁そんなに嫌わんでも可いいよ﹂作はのそのそ出ていった。 作の来るのを防ぐために、お島は夜自分の部屋の襖ふすまに心しん張ばり棒ぼうを突つっ支かえておいたりしなければならなかった。 ﹁厭だ厭だ、私死んでも作なんどと一緒になるのは厭です﹂お島は作のいる前ですら、始終母親にそう言って、剛情を張通して来た。 ﹁作さんが到頭お島さんのお婿さんに決ったそうじゃないか﹂ お島は仕切を取りに行く先々で、揶から揄かい面づらで訊きかれた。足まめで、口のてきぱきしたお島は、十五六のおりから、そうした得意先まわりをさせられていた。お島のきびきびした調子と、蓮はす葉はな取引とが、到るところで評判がよかった。物もの馴なれてくるに従って、お島の顔は一層広くなって行った。 それが小心な養父には、気に入らなかった。時々お島は養父から小言を言われた。 ﹁可いいじゃありませんか阿おと父っさん、家の身しん上しょうをへらすような気きづ遣かいはありませんよ﹂お島は煩うるさそうに言った。 ﹁阿父さんのように吝けち々けちしていたんじゃ、手広い商売は出来やしませんよ﹂ ぱっぱっとするお島の遣やり口くちに、不安を懐いだきながらも、気きぶ無しょ性うな養父は、お島の働きぶりを調法がらずにはいられなかった。 ﹁嘘ですよ﹂ お島は作と自分との結婚を否認した。 ﹁それでも作さんがそう言っていましたぜ﹂取引先の或人は、そう言って面白そうにお島の顔を瞶みつめた。 ﹁あの莫迦の言うことが、信用できるもんですか﹂お島は鼻で笑っていた。 王子の方にある生家へ逃げて帰るまでに、お島の周囲には、その噂が到るところに拡がっていた。 ﹁それじゃお前は、どんな男が望みなのだえ﹂おとらは終しまいにお島に訊ねた。 ﹁そうですね﹂お島はいつもの調子で答えた。 ﹁私はあんな愚図々々した人は大嫌いです。些ちっとは何か大きい仕事でもしそうな人が好きですの。そして、もっと綺麗に暮していけるような人でなければ、一生紙をすいたり、金の利息の勘定してるのはつくづく厭だと思いますわ﹂十三
盆か正月でなければ、滅多に泊ったことのない生みの親達の家へ来て二三日たつと、直じきに養母が迎いに来た。 お島が盆暮に生家を訪ねる時には、砂糖袋か鮭さけを提たずさえて作が急きっ度とお伴ともをするのであったが、この二三年商売の方を助すけなどするために、時には金の仕舞ってある押入や用よう箪だん笥すの鍵かぎを委まかされるようになってからは、不断は仲のわるい姉や、母親の感化から、これも動ともすると自分に一種の軽けい侮ぶを持っている妹に、半はん衿えりや下駄や、色々の物を買って行って、お辞儀されるのを矜ほこりとした。姉や妹に限らず、養家へ出では入いりする人にも、お島はぱっぱと金や品物をくれてやるのが、気持が好かった。貧しい作男の哀願に、堅く財布の口を締めている養父も、傍へお島に来られて喙くちを容いれられると、因いん業ごうを言張ってばかりもいられなかった。遊女屋から馬をひいて来る職工などに、お島は自分の考えで時々金を出してくれた。それらの人は、途みちでお島に逢うと、心から叮てい嚀ねいにお辞儀をした。 大方の屋敷まわりを兄に委せかけてあった実家の父親は、兄が遊ゆう蕩とうを始めてから、また自分で稼かぎ業ょうに出ることにしていたので、お島はそうして帰って来ていても滅多に父親と顔を合さなかった。毎日々々箸はしの上あげ下おろしに出る母親の毒々しい当こすりが、お島の頭あた脳まをくさくささせた。 ﹁そう毎日々々働いてくれても、お前のものと云っては何なんにもありゃしないよ﹂ 母親は、外へ出て広い庭の草を取ったり、父親が古くから持っていて手放すのを惜んでいる植木に水をくれたりして、まめに働いているお島の姿をみると、家のなかから言聞かせた。広い門のうちから、垣根に囲われた山がかりの庭には、松や梅の古木の植わった大きな鉢はちが、幾いく個つとなく置おき駢ならべられてあった。庭の外には、幾十株松を育そだててある土地があったり、雑多の庭木を植つけてある場所があったりした。この界かい隈わいに散ばっているそれ等の地面が、近頃兄弟達の財産として、それぞれ分割されたと云うことはお島も聞いていた。 いつか父親が、自分の隠居所にするつもりで、安く手に入れた材木を使って建てさせた屋敷も、それ等の土地の一つのうちにあった。 ﹁ええ。些ちっとばかりの地面や木なんぞ貰もらったって、何になるもんですか。水島の物にだって目をくれてやしませんよ﹂お島は跣はだ足しで、井戸から如じょ露ろに水を汲込みながら言った。 ﹁好い気前だ。その根性骨だから人様に憎がられるのだよ﹂ ﹁憎むのは阿母さんばかりです。私はこれまで人に憎がられた覚おぼえなんかありゃしませんよ﹂ ﹁そうかい、そう思っていれば間違はない。他人のなかに揉まれて、些ちっとは直ったかと思っていれば、段々不いけ可なくなるばかりだ﹂ ﹁余計なお世話です。自分が育てもしない癖に﹂お島は如露を提げて、さっさと奥の方へ入って行った。十四
お島はもう大概水をくれて了ったのであったが、家へ入ってからの母親との紛いさ紜くさが気きう煩るささに、矢やっ張ぱり大きな如露をさげて、其そっ方ちこっち植木の根にそそいだり、可かな也りの距離から来る煤煙に汚れた常とき磐わ木ぎの枝葉を払いなどしていたが、目が時々入に染じんで来る涙に曇った。 ﹁お島さん、どうも済んませんね﹂などと、仕事から帰って来た若いものが声をかけたりした。 ﹁私はじっとしていられない性分だからね﹂とお島はくっきりと白い頬ほおのあたりへ垂れかかって来る髪を掻かきあげながら、繁しげみの間から晴やかな笑声を洩していたが、預けられてあった里から帰って来て、今の養家へもらわれて行くまでの短い月日のあいだに、母親から受けた折せっ檻かんの苦しみが、憶おも起いおこされた。四つか五つの時分に、焼やけ火ひば箸しを捺おしつけられた痕あとは、今でも丸々した手の甲の肉のうえに痣あざのように残っている。父親に告口をしたのが憎らしいと云って、口を抓つねられたり、妹を窘いじめたといっては、二三尺も積っている脊せ戸どの雪のなかへ小こづ突き出だされて、息の窒つまるほどぎゅうぎゅう圧しつけられた。兄弟達に食物を頒わけるとき、お島だけは傍に突立ったまま、物欲しそうに、黙ってみている様子が太ふて々ぶてしいといって、何もくれなかったりした。土つち掻かきや、木きば鋏さみや、鋤すき鍬くわの仕舞われてある物置にお島はいつまでも、めそめそ泣いていて、日の暮にそのまま錠をおろされて、地じだ鞴んだふんで泣立てたことも一度や二度ではなかったようである。 父親は、その度たんびに母親をなだめて、お島を赦ゆるしてくれた。 ﹁多勢子供も有もってみたが、こんな意いじ地っぱ張りは一人もありゃしない﹂母親はお島を捻ひねりもつぶしたいような調子で父親と争った。 お島は我子ばかりを劬いたわって、人の子を取って喰くったという鬼きし子ぼ母じ神んが、自分の母親のような人であったろうと思った。母親はお島一人を除いては、どの子供にも同じような愛執を持っていた。 日が暮れる頃に、お島は物置の始末をして、漸やっと夕飯に入って来たが、父親は難むずかしい顔をして、いつか長火鉢の傍で膳ぜんに向って、お仕着せの晩酌をはじめているところであった。外はもう夜の色が這はい拡ひろがって、近所の牧場では牛の声などがしていた。往来の方で探偵ごっこをしていた子供達も、姿をかくして、空には柔かい星の影が春めいてみえた。 ﹁まあ一月でも二月でも家においてやるがいい。奉公に出したって、もう一人前の女だ﹂父親はそんなことを言って、何かぶつくさ言っている母親を和なだめているらしかったが、お島は台所で、それを聞くともなしに、耳を立てながら、自分の食器などを取出していた。 ﹁今に見ろ、目の飛出るようなことをしてやるから﹂お島はむらむらした母への反抗心を抑えながら、平気らしい顔をしてそこへ出て行った。切せめて自分を養家へ口入した、西田と云う爺じいさんの行やっているような仕事に活動してみたいとも思った。その爺さんは、近頃陸軍へ馬糧などを納めて、めきめき家を大きくしていた。実直に働いて来た若いものにくれてやった姉などを、さも幸福らしく言たてる母親を、お島は苦々しく思っていたが、それにつけても、一生作などと婚礼するためには、養家の閾しきいは跨またぐまいと考えていた。食事をしている間まも、昂こう奮ふんした頭あた脳まが、時々ぐらぐらするようであった。十五
或日の午後におとらが迎いに来たとき、父親も丁度家に居合せて、ここから二三町先にある持もち地じで、三四人の若い者を指さし図ずして、可也大きな赤松を一ひと株もと、或得意先へ持運ぶべく根ねご拵しらえをしていた。 お島はおとらを客座敷の方へ案内すると、直じきに席をはずして了ったが、実母の吩いい咐つけで父親を呼びに行った。お島はこうして邪じゃ慳けんな実母の傍へ来ていると、小さい時分から自分を可かわ愛いがって育ててくれた養母の方に、多くの可なつ懐かしみのあることが分はっ明きり感ぜられて来た。養家や長い馴なじ染みのその周囲も恋しかった。 ﹁島ちゃん、お前さんそう幾日も幾日もこちらの御厄介になっていても済まないじゃないか。今日は私がつれに来ましたよ﹂おとらにいきなりそう言って上り込んで来られた時、お島は反抗する張合がぬけたような気がして、何だか涙ぐましくなって来た。 ﹁手前の躾しつけがわりいから、あんな我わが儘ままを言うんだ。この先もあることだから放うっ抛ちゃっておけと、宅ではそう言って怒っているんですけれど、私もかかり子ごにしようと思えばこそ、今日まで面倒を見てきたあの子ですからね﹂ おとらのそう言っている挨あい拶さつを茶の間で茶をいれながら、お島は聞いていたが、お島のことと云うと、誰に向ってもひり出すように言いたい実母も、ただ簡単な応うけ答ごたえをしているだけであった。 こんな出入に口無調法な父親は、さも困ったような顔をしていたが、旋やがて井戸の方へまわって手顔を洗うと、内へ入って来た。お島は母親のいないところで、ついこの一両日前にも、父親が事によったら、母親に秘密で自分に頒わけてもいいと言った地面の坪数や価格などについて、父親に色々聞されたこともあった。その坪は一千弱たらずで、安く見積っても木ぐるみ一万円が一円でも切れると云うことはなかろうと云うのであった。お島は心強いような気がしたが、母親の目の黒いうちは、滅多にその分わけ前まえに有附けそうにも思えなかった。 ﹁家の地面は、全部でどのくらいあるの﹂お島は爾その時ときも父親に訊いてみた。 ﹁そうさな﹂と、父親は笑っていたが、それが大おお見けん一万近いものであることは、お島にも考えられた。中には野菜畠や田地も含まれていた。子供が多いのと、この二三年兄の浪費が多かったのとで、借金の方かたへ入っている場所も少くなかった。去年の秋から、家を離れて、田舎へ稼かせぎにいっている兄の傍には、暫く係かか合りあっていた商くろ売う人とあがりの女が未だに附つき絡まとっていたり、嫂あによめが三つになる子供と一緒に、東京にあるその実家へ引取られていたりした。父親の助けになる男おと片こきれと云っては、十六になるお島の弟が一人家にいるきりであった。 家が段々ばたばたになりかかっていると云うことが、そうして五日も六日も見ているお島の心に感ぜられて来た。母親のやきもきしている様子も、見えすいていた。十六
お島は父親が内へ入ってからも、暫く裏の植木畑のあたりを逍ぶら遥ついていた。どうせここにいても、母親と毎日々々啀いがみあっていなければならない。啀み合えば合うほど、自分の反抗心と、憎悪の念とが募って行くばかりである。長いあいだ忘れていた自分の子供の時分に受けた母親の仕打が、心に熟うみ靡ただれてゆくばかりである。一万二万と弟や妹の分前はあっても、自分には一ひと握つかみの土さえないことを思うと頼りなかった。それかと言って、養家へ帰れば、寄って集たかって急きっ度と作と結婚しろと責められるに決っていた。多くの取引先や出では入いりの人達には、もうそれが単なる噂ではなくて、事実となって刻まれている。お島は作の顔を見るのも厭だと思った。あの禿はげあがったような貧相らしい頸えりから、いつも耳までかかっている尨むく犬いぬのような髪かみ毛のけや赤い目、鈍のろくさい口の利きき方かたや、卑しげな奴隷根性などが、一緒に育って来た男であるだけに、一層醜くも蔑さげ視すましくも思えた。あんな男と一緒に一生暮せようとは、どうしても考えられなかった。実母がそれを生意気だといって罵ののしるのはまだしも、実父にまで、時々それを圧おしつけようとする口こう吻ふんを洩されるのは、堪たえられないほど情なかった。 大分たってから皆みんなの前へ呼ばれていった時、お島は漸やっと目に入に染じんでいる涙を拭ふいた。 ﹁私わしもこの四五日忙せわしいんで、聞いてみる隙ひまもなかったが、全体お前の了りょ簡うけんはどういうんだな﹂ お島が太ふてたような顔をして、そこへ坐ったとき、父親が硬かたい手に煙きせ管るを取あげながら訊ねた。お島は曇うるんだ目めつ色きをして、黙っていた。 ﹁今日までの阿母さんの恩を考えたら、お前が作さんを嫌うの何のと、我儘を言えた義理じゃなかろうじゃねえか。ようく物を考えてみろよ﹂ ﹁私は厭です﹂お島は顔の筋肉を戦わななかせながら言った。 ﹁他ほかの事なら、何でも為して御恩返しをしますけれど、これだけは私厭です﹂ 父親は黙って煙管を啣くわえたまま俛うつむいてしまったが、母親は憎さげにお島の顔を瞶みつめていた。 ﹁島、お前よく考えてごらんよ。衆みなさんの前でそんな御挨拶をして、それで済むと思っているのかい。義理としても、そうは言わせておかないよ。真ほん実とに惘あきれたもんだね﹂ ﹁どうしてまたそう作太郎を嫌ったものだろうねえ﹂おとらは前まえ屈こごみになって、華きゃ車しゃな銀煙管に煙草をつめながら一服喫ふかすと、﹁だからね、それはそれとして、左とに右かく私と一緒に一度還っておくれ。そんなに厭なものを、私だって無理にとは言いませんよ。出入の人達の口も煩うるさいから、今日はまあ帰りましょう。ねえ。話は後でもできるから﹂と宥なだめるように言って、そろそろ煙管を仕舞いはじめた。 お島を頷うなずかせるまでには、大分手間がとれたが、帰るとなると、お島は自分の関係が分はっ明きりわかって来たようなこの家を出るのに、何の未練気もなかった。 ﹁どうも済みません。色々御心配をかけました﹂お島はそう言って挨拶をしながら、おとらについて出た。 そして何時にかわらぬ威勢のいい調子で、気きさ爽くにおとらと話を交えた。 ﹁男前が好くないからったって、そう嫌ったもんでもないんだがね﹂ おとらは途みち々みちお島に話しかけたが、左とに右かく作の事はこれきり一切口にしないという約束が取とり極きめられた。十七
おとらは途みちで知合の人に行逢うと、きっとお島が、生家の母親の病気を見舞いにいった体ていに吹聴していたが、お島にもその心つも算りでいるようにと言含めた。 ﹁作太郎にも余りつんけんしない方がいいよ。あれだってお前、為することは鈍のろ間までも、人間は好いものだよ。それにあの若さで、女買い一つするじゃなし、お前をお嫁にすることとばかり思って、ああやって働いているんだから。あれに働かしておいて、島ちゃんが商売をやるようにすれば、鬼に鉄かな棒ぼうというものじゃないか。お前は今にきっとそう思うようになりますよ﹂おとらはそうも言って聞せた。 お島は何だか変だと思ったが、欺だましたり何かしたら承知しないと、独ひとりで決心していた。 家へ帰ると、気をきかして何ど処こかへ用よう達たしにやったとみえて、作の姿は何処にも見えなかったが、紙かみ漉すき場ばの方にいた養父は、おとらの声を聞つけると、直に裏口から上って来た。お島はおとらに途々言われたように、﹁御父さんどうも済みません﹂と、虫を殺してそれだけ言ってお叩じ頭ぎをしたきりであったが、おとらが、さも自分が後悔してでもいるかのような取とり做なし方かたをするのを聞くと、急に厭気がさして、かっと目が晦くらむようであった。お島はこの家が遽にわかに居心がわるくなって来たように思えた。取返しのつかぬ破は滅めに陥おちて来たようにも考えられた。 ﹁あの時王子の御おと父っさんは、家へ帰って来るとお島は隅すみ田だが川わへ流してしまったと云って御おっ母かさんに話したと云うことは、お前も忘れちゃいない筈はずだ﹂養父はねちねちした調子で、そんな事まで言出した。 お島はつんと顔を外そ向むけたが、涙がほろほろと頬へ流れた。 ﹁旧もとを忘れるくらいな人間なら、駄目のこった﹂ お島がいらいらして、そこを立かけようとすると、養父はまた言足した。 ﹁それで王子の方では、皆さんどんな考だったか。よもやお前に理りがあるとは言うまいよ﹂ お島は俛うつむいたまま黙っていたが、気がじりじりして来て、じっとしていられなかった。 おとらが汐しおを見て、用事を吩いい咐つけて、そこを起たたしてくれたので、お島は漸やっと父親の傍から離れることが出来た。そして八畳の納なん戸どで着物を畳みつけたり、散かったそこいらを取片着けて、埃ごみを掃出しているうちに、自分がひどく脅おどかされていたような気がして来た。 夕方裏の畑へ出て、明あし朝たのお汁つゆの実にする菜なっ葉ぱをつみこんで入って来ると、今し方帰ったばかりの作が、台所の次の間で、晩飯の膳に向おうとしていた。作は少し慍おこったような風で、お島の姿を見ても、声をかけようともしなかったが、大分たってから明あし朝たの仕かけをしているお島の側へ、汚れた茶碗や小皿を持出して来た時には、矢やっ張ぱりいつものとおり、にやにやしていた。 ﹁汚きたない、其そっ地ちへやっとおき﹂お島はそんな物に手も触れなかった。十八
お島が作との婚礼の盃がすむか済まぬに、二度目にそこを飛出したのは、その年の秋の末であった。 残暑の頃から悩んでいた病気の予後を上州の方の温泉場で養生していた養父が、急にその事が気にかかり出したといって、予定よりもずっと早く、持っていった金も半分弱たらずも剰あまして、帰って来てから、この春の時に用意したお島の婚礼着の紋附や帯がまた箪たん笥すから取出されたり、足りない物が買足されたりした。 お島はこの夏は、いつもの養蚕時が来ても、毎年々々仕馴れた仕事が、不思議に興味がなかった。そして病床に寝ている養父が、時々じれじれするほど、総すべてのことに以前のような注意と熱心とを欠いて来た。家におって、薬や食たべ物ものの世話をしたり、汚れものを洗濯したりするよりも、市中や田舎の方の仕切先を廻って、うかうか時間を消すことが、多かった。七つのおりからの、色々の思出を辿たどってみると、養父や養母に媚こびるために、物の一時間もじっとしている時がないほど、粗がさ雑つではあったが、きりきり働いて来たことが、今になってみると、自分に取って身にも皮にもなっていないような気がした。或時は、着物の出来るのが嬉しかったり、或時は財産を譲渡されると云う、遠い先のことに朧げな矜ほこりを感じていた。そして妹達に比べて、自分の方が、一層慈愛深い人の手に育てられている一人娘の幸福を悦よろこんでいた。 ﹁お島さんお島さん﹂と云って、周囲の人が、挙こぞって自分を崇あがめているようにも見えた。馬糧用よう達たしの西田の爺じじいから、不断ここの世話になっている、小作人に至るまで、お島では随分助かっている連中も、お島が一切を取仕切る時の来るのを待設けているらしくも思われた。 ﹁くよくよしないことさ。今にみんな好くしてあげようよ。ここの身代一つ潰つぶそうと思えば、何でもありゃしない﹂ お島は借金の言訳に、ぺこぺこしている男を見ると、そういって大おお束たばを極きめ込こんだ。 病気の間もそうであったが、養父が湯治に行ってからは、青柳がまたちょくちょく入込んでいた。それでなくとも、十年来住みなれて来ながら、一生ここで暮せようとは思えなくなった家に、めっきり親しみがなくなって来たお島は、よく懇意の得意先へあがっていって、半日も話込んでいた。主ある人じに代って、店みせ頭さきに坐ってお客にお世辞を振ふり撒まいたり、気の合った内か儀みさんの背うし後ろへまわって髪を取とりあげてやったりした。 ﹁私二三年東京で働いてみようかしら﹂お島は何か働き効がいのある仕事に働いてみたい望みが湧いていた。 ﹁笑じょ談うだんでしょう﹂内儀さんは笑っていた。 ﹁いいえ真まっ実たく。私この頃つくづくあの家が厭になってしまったんです﹂ ﹁でも貴方にぬけられちゃ、お家うちで困るでしょう﹂ ﹁どうですかね。安心して私に委せておけないような人達ですからね。何を仕し出で来かすかと思って、可おっ怕かないでしょう﹂お島は可お笑かしそうに笑った。 目こする間まに、さっさと髷まげに取揚げられた内儀さんの頭あた髪まは、地じが所々引ひき釣つるようで、痛くて為しか方たがなかった。十九
お島は或時は、それとなく自分に適当した職業を捜そうと思って、人にも聞いてみたり、自分にも市中を彷ぶら徨ついてみたりしたが、自分の智識が許しそうな仕事で、一生懸命になり得るような職業はどこにも見当らなかった。坐って事務を取るようなところは、碌ろく々ろく小学校すら卒業していない彼女の学力が不足であった。 お島は時とすると、口入屋の暖のれ簾んをくぐろうかと考えて、その前を往ったり来たりしたが、そこに田舎の駈かけ出だしらしい女の無智な表情をした顔だの、みすぼらしい蝙こう蝠もりや包みやレーザの畳のついた下駄などが目につくと、もう厭になって、その仲間に成なり下さがってまでゆこうと云う勇気は出なかった。 お島は日がくれても家へ帰ろうともしず、上野の山などに独ひとりでぼんやり時間を消すようなことが多かった。山の下の多くの飲食店や、商あき家ないやには灯ひが青黄色い柳の色と一つに流れて、そこを動いている電車や群衆の影が、夢のように動いていた。お島はそんな時、恩人の子むす息こで、今アメリカの方へ行っているという男のことなどを憶おも出いだしていた。そして旅費さえ偸ぬすみ出すことができれば、何時でもその男を頼って、外国へ渡って行けそうな気さえするのであった。 ﹁ここまで漕こぎつけて、今一ト息と云うところで、あの財産を放うっ抛ちゃって出るなんて、そんな奴があるものか﹂ お島がその希望をほのめかすと、西田の老人は頭からそれを排斥した。この老人の話によると、養家の財産は、お島などの不断考えているよりは、![※(「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55)](../../../gaiji/1-92/1-92-55.png)
二十
婚礼沙ざ汰たが初まってから、毎日のように来ては養父母と内ない密しょで談はなしをしていた青柳は、その当日も手てす隙きを見てはやって来て、床の間に古風な島台を飾りつけたり、何処からか持って来た箱のなかから鶴つる亀かめの二幅対を取出して、懸けて眺ながめたりしていた。 ﹁今度と云う今度は島ちゃんも遁にげ出だす気きづ遣かいはあるまい。己おれの弟は男が好いからね﹂青柳はそう言いながら、この二三日得意先まわりもしないでいるお島の顔を眺めた。青柳は頭あた顱まの地がやや薄く透けてみえ、明あかるみで見ると、小こび鬢んに白しら髪がも幾筋かちかちかしていたが、顔はてらてらして、張のある美しい目をしていた。弟はそれほど立派ではなかったが、摺すった揉もんだの揚句に、札がまたその男におちたと聞されたとき、お島は何となく晴がましいような気がせぬでもなかった。彼はその頃通いつつある工場の近くに下宿していて、兄の家にはいなかった。お島はこの正月以来その姿を見たこともなかった。一度自分に附つけ文ぶみなどをしてから、妙に疎うと々うとしくなっていたあの男が、婚礼の晩にどんな顔をして来るかと思うと、それが待遠しいようでもあり、不安なようでもあった。 その日は朝からお島は、気がそわそわしていた。そしてまだ夜露のじとじとしているような畠へ出て、根芋を掘ったきりで、何事にも外の働きはしなかった。畑にはもう刈残された玉とう蜀もろ黍こしや黍きびに、ざわざわした秋風が渡って、囀さえずりかわしてゆく渡鳥の群が、晴きった空を遠く飛んで行った。 午ひる頃ごろに頭か髪みが出来ると、自分が今婚礼の式を挙げようとしていることが、一層分はっ明きりして来る様であったが、その相手が、十三四の頃から昵なじんで、よく揶から揄かわれたり何かして来た気象の剽ひょ軽うきんな青柳の弟に当る男だと思うと、更あらたまったような気分にもなれなかった。おとらと三人でいる時でも、青柳はよくめきめき娘に成ってゆくお島の姿すが形たかたちを眺めて、おとらに油断ができないと思わせるような猥みだらな辞ことばを浴せかけた。 作太郎はというと、彼も今日は一日一切の仕事を休ませられて、朝から床屋へいったり、湯に入ったりして冶めかしていた。そしてお島の顔さえみるとにこにこして、座敷へ入って、ごたごた積重ねられてある諸方からの祝の奉書包や目録を物珍らしそうに眺めていた。 頼んであった料理屋の板前が、車に今日の料理を積せて曳ひき込こんで来た頃には、羽はお織りは袴かまの世話焼が、そっち行き此こっ方ちいきして、家中が急に色めき立って来た。その中には、始終気遣わしげな顔をして、ひそひそ話をしている西田の老人もあった。 ﹁今夜遁にげ出だすようじゃ、お島さんも一生まごつきだぞ。何でも可いいから、己おれに委して我慢をして……いいかえ﹂ 箪笥に倚よりかかって、ぼんやりしているお島の姿を見つけると、老人は側へよって来て力をこめて言聴かせた。二十一
お島が、これも当夜の世話をしに昼から来ていた髪結に、黒の三枚襲がさねを着せてもらった頃には、王子の父親も古めかしい羽織袴をつけ、扇子などを帯にはさんで、もうやって来ていた。余り人中へ出たことのない母親は、初めから来ないことになっていた。 川へ棄てようかとまで思おも余いあましたお島が、ここの家を相続することに成りさえすれば、婿が誰であろうと、そんな事には頓とん着ちゃくのない父親は、お島の姿を見ても見ぬ振をして、茶の間で養父と、地所や家屋に関して世間話に耽ふけっていた。日頃内輪同様にしている二三の人の顔もそこに見えた。不断養父等の居間にしている六畳の部屋に敷かれた座布団も、大概塞ふさがっていた。中には濁だみ声ごえで高たか話ばなしをしている男もあった。 外が暗くなる時分に、白おし粉ろいをこてこて塗って繰込んで来た若い女おん連なれんと無駄口を利きいたりして、お島は時の来るのを待っていた。女連は大方は一度か二度以上口を利きき合あった人達であったが、それが孰いずれも、式のあとの披ひろ露うの席に、酌や給仕をするために![※(「にんべん+就」、第3水準1-14-40)](../../../gaiji/1-14/1-14-40.png)
二十二
追かけて来た人達は、色々にいってお島をなだめたが、お島は箪たん笥すをはめ込んである押入の前に直ぴったり喰くっ着ついたなりで、身動きもしなかった。 ﹁これあ為様がない﹂幾度手を引張っても出て来ぬお島の剛情に惘あきれて、青柳が出ていったあとに、西田の老人と王子の父親とが、そこへお島を引据えて、低こご声えで脅おどしたり賺すかしたりした。 ﹁あれほど己が言っておいたに、今ここでそんなことを言出すようじゃ、まるで打ぶち壊こわしじゃないか﹂お爺さんは可くや悔しそうに言った。 ﹁ですから行きますよ。少し気分が快よくなったら急きっ度と行きます﹂お島は涙を拭きながら、漸やっと笑わら顔いがおを見せた。 ﹁厭なものは厭でいいてこと。それはそれとして何処までも頑がん張ばっていなければ損だよ。なに財産と婚礼するのだと思えば肚はらはたたねえ﹂お爺さんは、そう言いながら、漸やっと安心して出て行った。 しんとして白けていた座敷の方が、また色めき立って来た。ちょいちょい立ってはお島を覗のぞきに来た人達も、やっと席に落着いて、銚ちょ子うしを運ぶ女の姿が、一ひと時しきり忙せわしく往ゆき来きしていた。 ﹁おい島ちゃん、そんなに拗すねんでもいいじゃないか﹂作が部屋の前を通りかかったとき、薄うす暗くらがりのなかにお島の姿を見つけて、言寄って来た。お島は帯をときかけたままの姿で、押入に倚よっかかって、組んだ手のうえに面おもてを伏せていた。疳かん癪しゃくまぎれに頭あた顱まを振たくったとみえて、綺きれ麗いに結った島田髷の根が、がっくりとなっていた。お島は酒くさい熱い息がほっと、自分の顔へ通かよって来るのを感じたが、同時に作の手が、脇わき明あきのところへ触れて来た。 ﹁何をするんだよ﹂お島はいきなり振ふり顧かえると、平手でぴしゃりとその顔を打ぶった。 ﹁おお痛いてえ。えれえ見けん脈まくだな﹂作は頬ほおっぺたを抑えながら、怨うらめしそうにお島の顔を眺めていた。 髪結が来て、顔を直してくれてから、お島が再び座敷へ出て行った頃には、席はもう乱れ放題に乱れていた。お島はぐでぐでに酔っている青柳に引張られて、作の側へ引すえられたが、父親や養父の姿はもう其処には見えなかった。作は四五人の若いものに取囲まれて、連しきりに酒を強しいられていたが、その目は見みす据わって、あんぐりした口や、ぐたりとした躯からだが、他たわ哩いがなかった。二十三
その夜の黎ひき明あけに、お島が酔えい潰つぶれた作太郎の寝息を候うかがって、そこを飛出した頃には、お終しまいまで残ってつい今し方まで座敷で騒いで、ぐでぐでに疲れた若い人達も、もう寝静ってしまっていた。 お島は庭の井戸の水で、白おし粉ろいのはげかかった顔を洗いなどしてから、裏の田たん圃ぼみ道ちまで出て来たが、濛も靄やの深い木こだ立ちぎ際わの農家の土間から、釜かまの下を焚たきつける火の影が、ちょろちょろ見えたり、田圃へ出て行く人の寒そうな影が動いていたりした。じっとりした往来には、荷車の軋きしみが静かなあたりに響いていた。徹よっ宵ぴて眠られなかったお島は、熱病患者のように熱ほてった頬ほおを快い暁の風に吹ふかれながら、野良道を急いだ。酒くさい作の顔や、ごつごつした手足が、まだ頬や体に絡まつわりついているようで、気味がわるかった。 王子の町近く来た時分には、もう日が高く昇っていた。そこにも此こ処こにも烟けむりが立って、目覚めた町の物音が、ごやごやと聞えていた。 ﹁今時分はみんな起きて騒いでるだろうよ﹂お島はそう思いながら、町まち垠はずれにある姉の家の裏口の方へ近寄っていった。 山さざ茶ん花かなどの枝葉の生茂った井戸端で、子供を負おぶいながら襁むつ褓きをすすいでいる姉の姿が、垣根のうちに見られた。花畠の方で、手てお桶けから柄ひし杓ゃくで水を汲んでは植木に水をくれているのは、以前生さ家との方にいた姉の婿であった。水入らずで、二人で恁こうして働いている姉夫婦の貧しい生活が、今朝のお島の混乱した頭あた脳まには可うら羨やましく思われぬでもなかった。姉は自分から好きこのんで、貧しいこの植木職人と一緒になったのであった。畠には春になってから町へ持出さるべき梅や、松などがどっさり植つけられてあった。旭あさひが一面にきらきらと射していた。はね釣つる瓶べが、ぎーいと緩ゆるい音を立てて動いていた。 ﹁長くはいませんよ、ほんの一日か二日でいいから﹂お島はそう言って、姉に頼んだ。そして、いきなり洗いものに手を出して、水を汲みそそいだり、絞ったりした。 ﹁そんな事をして好いのかい。どうせお詫わびを入れて、此こっ方ちから帰って行くことになるんだからね﹂姉は手ばしこく働くお島の様子を眺めながら、子供を揺ゆすり揺り突立っていた。 ﹁なに、そんな事があるもんですか。何といったって、私今度と云う今度は帰ってなんかやりませんよ﹂ お島は絞ったものを、片端から日ひあ当たりのいいところへ持っていって棹さおにかけたりした。日光が腫はれただれたように目に沁しみ込こんで、頭痛がし出して来た。 ﹁またお島ちゃんが逃げて来たんですよ﹂姉は良おっ人とに声かけた。 良人は柄ひし杓ゃくを持ったまま﹁へへ﹂と笑って、お島の顔を眺めていた。お島も眩まぶしい目をふいて笑っていた。二十四
晩方近くに、様子を探りかたがた、ここから幾いく許らもない生さ家とを見舞った姉は、養家の方からお島を尋ねに出向いて来た人達が、その時丁度奥で父親とその話をしているところを見て帰って来た。それらの人を犒ねぎらうために、台所で酒の下さか物なの支度などをしていた母親と、姉は暫しばらく水口のところで立話をしてから、お島のところへ戻って来たのであった。 ﹁島ちゃん、お前さん今のうちちょっと顔をだしといた方がいいよ﹂ 一日痛い頭あた脳まをかかえて奥で寝転んでいたお島の傍へ来て、姉は説とき勧すすめた。 お島は何だか胸がむしゃくしゃしていた。今夜にも旅費を拵こしらえて、田舎の方にいる兄のところへ遠とおっ走ぱしりをしようかとも考えていた。どこか船で渡るような遠い外国へ往って、労働者の群へでも身を投じようかなどと、棄すて鉢ばちな空想に耽ふけったりした。夜明方まで作と闘った体の節々が、所々痛みをおぼえるほどであった。 姉婿も同じようなことを言って、お島に意見を加えた。お島はくどくどしいそれ等の忠告が、耳にも入らなかったが、何時まで頑張ってもいられなかった。 ﹁ふん、御おと父っさんや御おっ母かさんに、私のことなんか解るものですか。彼あい奴つ等は寄ってたかって私を好いようにしようと思っているんだ﹂お島はぷりぷりして呟つぶやきながら出ていった。 外はもうとっぷり暮れて、立昇った深い水蒸気のなかに、山の手線の電燈や、人家の灯ほか影げが水々して見えた。茶畑などの続いている生さ家との住居の周まわ囲りの垣根のあたりは、一層静かであった。 お島が入っていった時分には、もう衆みんなは弓ゆみ張はり提ぢょ灯うちんなどをともして、一同引揚げていったあとであった。お島は両ふた親おやの前へ出ると、急に胸苦しくなって、昨ゆう夜べから張詰めていた心が一時に弛ゆるぶようであった。 ﹁御心配をかけて、どうも済みません﹂お島はそう言ってお叩じ頭ぎをしようとしたが、筋肉が硬こわ張ばったようで首も下らなかった。 ﹁何て莫ば迦かなまねをしてくれたんだ﹂父親はお島に口を開あかせず、いきなり熱いきり立って来たが、養家の財産のために、何事にも目をつぶろうとして来たらしい父親の心が、やっとお島にも見えすいて来た。二十五
お島が数す度どの交渉の後、到頭また養家へ帰ることになって、青柳につれられて家を出たのは、或日の晩方であった。 お島はそれまでに、幾度となく父親や母親に逆さからって、彼等を怒らせたり悲しませたり、絶望させたりした。滅多に手荒なことをしたことのなかった父親をして、終しまいにお島の頭たぶ髪さを掴つかんで、彼女をそこに捻ねじ伏ふせて打ぶちのめすような憤怒を激発せしめた。お島を懲しておかなければならぬような報告が、この数日のあいだに養家から交渉に来た二三の顔利ききの口から、父親の耳へも入っていた。それらの人の話によると、安心して世しょ帯たいを譲りかねるような挙ふる動まいがお島に少くなかった。金遣いの荒いことや、気前の好過ぎることなどもその一つであった。おとらと青柳との秘密を、養父に言いい告つけて、内輪揉めをさせるというのもその一つであったが、総てを引ひっ括くるめて、養家に辛抱しようと云う堅い決心がないと云うのが、養父等のお島に対する不満であるらしかった。 ﹁だから言わんこっちゃない。稚ちいさい時分から私が黒い目でちゃんと睨にらんでおいたんだ。此方から出なくたって、先じゃ疾とうの昔に愛あい相そをつかしているのだよ﹂母親はまた意いじ地っぱ張りなお島の幼ちいさい時分のことを言出して、まだ娘に愛着を持とうとしている未練げな父親を詛のろった。 ﹁こんなやくざものに、五万十万と云う身しん上しょうを渡すような莫ば迦かが、どこの世界にあるものか﹂ 太ふてていて、飯にも出て来ようとしないお島を、妹や弟の前で口汚く嘲あざけるのが、この場合母親に取って、自分に隠して長いあいだお島を庇かば護いだてして来た父親に対する何よりの気持いい復ふく讎しゅうであるらしく見えた。 お島も負けていなかった。母親が、角張った度どづ強よい顔に、青い筋を立てて、わなわな顫ふるえるまでに、毒々しい言葉を浴せかけて、幼いおりの自分に対する無慈悲を数えたてた。目からぽろぽろ涙が流れて、抑えきれない悲しみが、遣やる瀬せなく涌わき立って来た。 ﹁手てめ前え﹂とか、﹁くたばってしまえ﹂とか、﹁親不孝﹂とか、﹁鬼婆﹂とか、﹁子殺し﹂とか云うような有りたけの暴言が、激げきしきった二人の無思慮な口から、連しきりに迸ほとばしり出た。 そんな争いの後に、お島は言葉巧な青柳につれられて、また悄すご々すごと家を出て行ったのであった。二十六
その晩は月は何処の森もりの端はにも見えなかった。深く澄すみわたった大気の底に、銀ぎん梨なし地じのような星影がちらちらして、水みず藻ものような蒼あおい濛も靄やが、一面に地上から這はいのぼっていた。思いがけない足あし下もとに、濃い霧を立てて流れる水の音が、ちょろちょろと聞えたりした。お島はこの二三日、気が狂ったような心持で、有らん限りの力を振絞って、母親と闘って来た自分が、不思議なように考えられた。時々顔を上げて、彼女は太とい息きを洩もらした。道が人気の絶えた薄暗い木こだ立ちぎ際わへ入ったり、線路ぞいの高い土ど堤ての上へ出たりした。底にはレールがきらきらと光って、虫が芝生に途と断ぎれ途断れに啼なき立たっていた。青柳がいなければ、お島はそこに疲れた体を投出して、独ひとりで何時までも心の限り泣いていたいとも考えた。 けれどお島は、長く青柳と一緒に歩いてもいなかった。松の下に、墓石や石地蔵などのちらほら立った丘のあたりへ来たとき、先さっ刻きからお島が微かすかな予感に怯おびえていた青柳の気きま紛ぐれな思附が、到頭彼女の目の前に、実となって現われた。 ﹁ちょッ……笑じょ談うだんでしょう﹂ 道みち傍ばたに立たち竦すくんだお島は、悪いた戯ずらな男の手を振払って、笑いながら、さっさと歩きだした。 甘い言ことばをかけながら、青柳はしばらく一緒に歩いた。 ﹁御母さんに叱られますよ﹂お島は軽かろくあしらいながら歩いた。 ﹁現にその御母さんがどうだと思う。だから、あの家のことは、一切己おれの掌てのうちにあるんだ。ここで島ちゃんの籍をぬいて了しまおうと、無事に収めようと、すべて己の自由になるんだよ﹂ 威いか嚇くの辞ことばと誘惑の手から脱のがれて、絶望と憤怒に男をいら立だたせながら、旧もとの道へ駈かけ出だすまでに、お島は可かな也り悶も![※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)](../../../gaiji/1-92/1-92-36.png)
二十七
お島が不断から目をかけてやっている銀さんと云う年取った車夫が、誰の指さし図ずとも知れず、俥くるまを持って迎いに来たのは、お島たちが漸やっと床に就こうとしている頃であった。 ﹁何だ今時分……﹂玄関わきの部屋に寝ていたお島は、その声を聞つけると、寝ねま衣きに着替えたまま、門の潜くぐりを開けに出たが、盆暮にお島が子供に着物や下駄を買ってくれたり、餅もちをついてやったりしていた銀さんは、どうでも今夜中に帰ってくれないと、家の首尾がわるいと言って、門の外に立ったまま動かなかった。 ﹁きっと青柳と御母さんと相談ずくで、寄越したんだよ﹂お島は一応その事を父親に告げながら笑った。 父親は、お島から養家の色々の事情を聞いて、七分通り諦あきらめているようであったが、矢やっ張ぱりこのまま引取って了しまう気にはなっていなかった。作太郎と表向き夫婦にさえなってくれれば、少しくらいの気きま儘まや道楽はしても、大目に見ていようと云ったと云う養母の弱味なども、父親には初耳であった。 ﹁芸人を買おうと情おと人こを拵こしらえようとお前の腕ですることなら、些ちっとも介か意まやしないなんて、そこは自分にも覚えがあるもんだから、お察しがいいと見えて、よくそう言いましたよ。どうして、あの御母さんは、若い時分はもっと悪いことをしたでしょうよ﹂お島は頑固な父親をおひゃらかすように、そうも言った。 そんな連れん中じゅうのなかにお島をおくことの危険なことが、今夜の事実と照てり合あわせて、一層明はっ白きりして来るように思えた父親は、愈いよいよお島を引取ることに、決心したのであったが、迎いが来たことが知れると、矢張心が動かずにはいなかった。 ﹁作さんを嫌って、お島さんが逃げたって云うんで、近所じゃ大評判さ﹂とにかく今夜は帰ることにして、銀さんは、漸ようようお島を俥に載せると、梶かじ棒ぼうにつかまりながら話しはじめた。 ﹁だが今あすこを出ちゃ損だよ。あの身代だいを人に取られちゃつまらないよ﹂ ﹁作の馬鹿はどんな顔している﹂お島は車のうえから笑った。 家へ入っても、いつものように父親の前へ出て謝あや罪まったり、お叩じ頭ぎをしたりする気になれなかったお島は、自分の部屋へ入ると、急いで寝支度に取かかった。 ﹁帰ったら帰ったと、なぜ己おれんとこへ来て挨拶をしねえんだ﹂養母にささえられながら、疳かん癪しゃ声くごえを立てている養父の声が、お島の方へ手に取るように聞えた。 ﹁お前がまたわるいよ﹂おとらは、寝ねま衣きのまま呼つけられて枕まく頭らもとに坐っているお島を窘たしなめた。 ﹁それに自分の着物を畳みもせずに、脱ぬぎっぱなしで寝て了うなんて、それだから御父さんも、この身しん上しょうは譲られないと言うんじゃないか﹂ 剛情なお島は、到頭麺めん棒ぼうで撲なぐられたり足あし蹴げにされたりするまでに、養父の怒を募らせてしまった。二十八
植うえ源げんという父の仲間うちの隠居の世話で、父や母にやいやい言われて、翌年の春、神田の方の或鑵かん詰づめ屋やへ縁えん着づかせられることになったお島は、長いあいだの掛合で、やっと幾分かを養家から受取ることのできた着物や頭あた髪まのものを持って、心淋しい婚礼をすまして了った。 植源の隠居の生れ故郷から出て来て、長いあいだ店でも実直に働き、得意先まわりにも経験を積み、北海道の製造場にも二年弱たらずもいて、職人と一緒に起おき臥ふしして来たりした主人は、お島より十とお近ぢかくも年上であったが、家附の娘であった病身がちのその妻と死別れたのは、つい去年の秋の頃だと云うのであった。 鶴さんというその主人を、お島の姉もよく知っていた。神田の方のある棟とう梁りょうの家から来ている植源の嫁も、その主人のことを始終鶴さん鶴さんといって、噂うわさしていた。植源の嫁は、生さ家との近所にあったその鑵詰屋のことを、何でもよく知っていたが、色白で目鼻立のやさしい鶴さんをも、まだ婿に直らぬずっと前から知っていた。その頃鶴さんは、鳥打帽をかぶって、自転車で方々の洋食店のコック場や、普通の家の台所へ、自家製の鑵詰ものや、西洋食料品の註ちゅ文うもんを持ちまわっていた。 先せんの上かみさんが、肺病で亡なくなったことを、お島はいよいよ片着くという間まぎ際わまで、誰からも聞されずにいたが、姉の口からふとそれが洩れたときには、何だか厭いやなような気もした。 ﹁先の上さんのような、しなしなした女は懲こり々ごりだ。何でも丈夫で働く女がいいと言うのだそうだから、島ちゃんなら持って来いだよ﹂姉は肥りきったお島の顔を眺めながら揶から揄かったが、男のいい鶴さんを旦だん那なに持つことになったお島の果報に嫉しっ妬とを持っていることが、お島に感づかれた。死んだ上かみさんの衣いし裳ょうが、そっくりそのまま二階の箪笥に二ふた棹さおもあると云うことも、姉には可うら羨やましかった。 結納の取とり換かわせがすんで、目録が座敷の床の間に恭うやうやしく飾られるまでは、お島は天もち性まえの反抗心から、傍はたで強しいつけようとしているようなこの縁談について、結婚を目の前に控えている多くの女のように、素直な満足と喜よろ悦こびに和やわらぎ浸ることができずに、暗い日蔭へ入っていくような不安を感じていた。養家にいた今までの周囲の人達に対する矜ほこりを傷つけられるようなのも、肩身が狭かった。作太郎に嫁が来たと云う噂うわさが、年のうちに此こっ方ちへも伝っていた。お島はそのことを、糧りょ秣うまつ問屋の爺さんからも聞いたし、その土地の知合の人からも話された。その嫁はお島も知っている、男に似合いの近在の百姓家の娘であった。 ﹁あの馬鹿が、どんな顔してるか一度見にいってやりましょうよ﹂お島は面白そうに笑ったが、何かにつけ、それを引合いに自分を悪く言う母親などから、そんな女と一つに見られるのが腹立しかった。二十九
結婚の翌日、新郎の鶴さんは朝早くから起出して、店で小僧と一緒に働いていた。昨夜極ごく親しい少数の人たちを呼んで、二人が手軽な祝しゅ言うげんをすました手狭な二階の部屋には、まだ新郎の礼服がしまわれずにあったり、新婦の紋附や長なが襦じゅ袢ばんが、屏びょ風うぶの蔭に畳みかけたまま重ねられてあったりした。蓬ほう莱らいを飾った床の間には、色々の祝物が秩序もなくおかれてあった。 客がみなお開きになってからも、それだけは新調したらしい黒羽二重の紋附をぬぐ間がなく、新郎の鶴さんは二度も店へ出て、戸締や何かを見まわったりしていたが、いつの間にか誰が延べたともしれぬ寝床の側に坐っているお島の側へ戻って来ると、いきなり自分の商売上のことや、財産の話を花嫁に為して聞せたりした。そして病院へ入れたり、海辺へやったりして手を尽して来た、前せんの上かみさんの病気の療治に骨の折れたことや、金のかかった事をも零こぼした。先代の時から続いてやっている、確な人に委せて、監督させてある北海道の方へも、東京での販路拡張の手てす隙きには、年に一度くらいは行ってみなければならぬことも話して聞かせた。そういう﹇#﹁そういう﹂は底本では﹁さういう﹂﹈時には、お島は店を預かって、しっかり遣やってくれなければならぬと云うので、多少そんなことに経験と技量のあるように聞いているお島に、望みを措おいているらしかった。 部屋などの取とり片かた着づけをしているうちに、翌日一日は直じきに経ってしまった。お島は時々細こまかい格こう子しのはまった二階の窓から、往来を眺めたり、向いの化粧品屋や下駄屋や莫メリ大ヤ小ス屋やの店を見たりしていたが、檻おりのような窮屈な二階に竦すくんでばかりもいられなかった。それで階し下たへおりてみると、下は立込んだ廂ひさしの差さし交かわしたあいだから、やっと微かすかな日影が茶ちゃの室まの方へ洩もれているばかりで、そこにも荷物が沢山入れてあった。店には厚あつ司しを着た若いものなどが、帳場の前の方に腰かけていた。鶴さんがそこに坐って帳簿を見たり、新聞を読んだりしていた。お島はそこへ姿を現して、暫く坐ってみたがやっぱり落着がなかった。 二日三日と日がたって行った。お島は頭あた髪まを丸まる髷まげに結って、少しは帳場格子のなかに坐ることにも馴れて来たが、鶴さんはどうかすると自転車で乗出して、半日の余よも外廻りをしていることがあった。そして夜は疲れて早くから二階の寝床へ入ったが、お島は段々日の暮れるのを待つようになって来た、自分の心が不思議に思えた。姉や植源の嫁が騒いでいるように、鶴さんがそんなに好い男なのかと、時々帳場格子のなかに坐っている良おっ人との顔を眺めたり、独り居るときに、そんな思いを胸に育はぐくみ温めていたりして、自分の心が次第に良人の方へ牽ひきつけられてゆくのを、感じないではいられなかった。三十
麗うららかな春らしい天気の続いた或日、鶴さんは一日潰つぶしてお島と一緒に、媒なこ介うどの植源などへ礼まわりをして、それからお島の生さ家との方へも往ってみようかと言出した。同じ鑵詰屋を出している、前せんの上かみさんの義理の弟――先代の妾めかけとも婢はしたとも知れないような或女に出来た子供――のいる四谷の方へもお島は顔出しをしなければならないように言われていたが、それはもう商売上の用事で、二度も尋ねて来たりして、大概その様子がわかっていたが、鶴さんはそのお袋が気に喰くわぬといって、後廻しにすることにした。 お島はこの頃漸ようやく落着いて来た丸髷に、赤いのは、道具の大きい較やや強きつ味みのある顔に移りが悪いというので、オレンジがかった色の手てが絡らをかけて、こってりと濃い白おし粉ろいにいくらか荒あれ性しょうの皮膚を塗ぬりつぶして、首だけ出来あがったところで、何を着て行こうかと思惑っていた。 鶴さんは傍で、髷の型の大きすぎたり、化粧の野暮くさいのに、当惑そうな顔をしていたが、着物の柄がらも、鶴さんの気に入るような落着いたのは見当らなかった。 ﹁かねのを少し出してごらん。お前に似合うのがあるかも知れない﹂ 鶴さんはそう言って、押入の用箪笥のなかから、じゃらじゃら鍵かぎを取出して、そこへ投ほう出りだした。 ﹁でも初めていくのに、そんな物を着てなぞ行かれるものですか﹂ ﹁それもそうだな﹂と、鶴さんは淋さびしそうな顔をして笑っていた。 ﹁それにおかねさんの思いに取とっ着つかれでもしちゃ大変だ﹂お島はそう言いながら、自分の箪笥のなかを引ひっくら返していた。 ﹁でもどんな意気なものがあるんだか拝見しましょうか﹂ ﹁何のかのと言っちゃ、四谷のお袋が大分持っていったからね﹂鶴さんは心からそのお袋を好かぬらしく言った。 ﹁あの慾よく張ばり婆ばばあめ、これも廃すたれた柄がらだ、あれも老とし人よりじみてるといっちゃ、かねの生きてるうちから、ぽつぽつ運んでいたものさ﹂鶴さんはそう言いながら、さも惜しいことをしたように、舌打ばかりしていた。 お島は錠をはずして、抽ひき斗だしを二つ三つぬいて、そっちこっち持あげて覗のぞいていたが、お島の目には、まだそれがじみすぎて、着てみたいと思うようなものは少かった。 ﹁そんなに思いをかけてる人であるなら、みんなくれてお仕舞いなさいよ。その方がせいせいして、どんなに好いか知れやしない﹂お島は蓮はす葉っぱに言って笑った。 ﹁戯じょ談うだんじゃない。くれるくらいなら古着屋へ売っちまう﹂ 左とに右かく二人は初めて揃そろって、外へ出てみた。鶴さんは先へ立って、近所隣をさっさと小半町も歩いてから振ふり顧かえったが、お島はクレーム色のパラソルに面おもてを隠して、長なが襦じゅ袢ばんの裾すそをひらひらさせながら、足早に追ついて来た。外は漸くぽかぽかする風に、軽く砂がたって、いつの間にか芽ぐんで来た柳やな条ぎのえだが、たおやかに![※(「車+(而/大)」、第3水準1-92-46)](../../../gaiji/1-92/1-92-46.png)
三十一
奉公人などに酷だというので、植源いこうか茨ばら脊し負ょうか、という語ことばと共に、界かい隈わいでは古くから名前の響いたその植源は、お島の生さ家となどとは違って、可かな也り派手な暮しをしていたが、今は有名な喧やかまし屋やの女隠居も年取ったので、家風はいくらか弛ゆるんでいた。お島は一二度ここへ来たことはあったが、奥へ入ってみるのは、今日が初めであった。 大秀の娘である嫁のおゆうが、鶴さんの口にはゆうちゃんと呼れて、小僧時代からの昵なじみであることが、お島には何となし不快な感を与えたが、それもしみじみ顔を見るのは、初めてであった。 おゆうは、浮気ものだということを、お島は姉から聞いていたが、逢ってみると、芸事の稽けい古こなどをした故せいか、嫻しとやかな落着いた女で、生はえ際ぎわの富士形になった額が狭く、切きれの長い目が細くて、口もやや大きい方であったが、薄皮出の細やかな膚の、くっきりした色白で、小こづ作くりな体の様子がいかにも好いと思った。いつも通るところとみえて、鶴さんは仕立物などを散ちらかしたその部屋へいきなり入っていこうとしたが、おゆうは今日は更あらたまったお客さまだから失礼だといって、座敷の床の前の方へ、お島のと並べてわざとらしく座ざぶ蒲と団んをしいてくれた。 ﹁そう急に他人行儀にしなくても可いいじゃありませんか﹂鶴さんは蒲団を少しずらかして坐った。 ﹁いいじゃありませんか。もう極きまりのわりいお年でもないでしょう﹂おゆうは顔を赧あからめながら言って、二人を見比べた。 ﹁貴あな女たちっとは落着きなさいましてすか﹂おゆうはお島の方へも言ことばをかけた。 ﹁何ですか、私はこういうがさつものですから、叱しかられてばかりおりますの﹂お島は体ていよく遇あしらっていた。 ﹁でもあの辺は可ようございますのね、周まわ囲りがお賑にぎやかで﹂おゆうはじろじろお島の髷の形などを見ながら自分の髪あたまへも手をやっていた。 性せっ急かちの鶴さんは、蒲団の上にじっとしてはおらず、縁側へ出てみたり、隠居の方へいったりしていたが、おゆうも落着きなくそわそわして、時々鶴さんの傍へいって、燥はしゃいだ笑声をたてていたりした。広い庭の方には、薔ば薇らの大きな鉢が、温室の手前の方に幾十となく並んでいた。植木棚のうえには、紅や紫の花をつけている西洋草花が取出されてあった。四あず阿ま屋やの方には、遊覧の人の姿などが、働いている若い者に交ってちらほら見えていた。 ﹁どうしよう、これからお前の家へまわっていると遅くなるが……﹂鶴さんは時計を見ながらお島に言った。﹁何なら一人でいっちゃどうだ﹂ ﹁不い可けませんよ、そんなことは……﹂おゆうはいれ替えて来たお茶を注つぎながら言った。 それで鶴さんはまた一緒にそこを出ることになったが、お島は何だか張合がぬけていた。三十二
日がそろそろかげり気味であったので、このうえ二三十町もある道を歩くことが、二人には何となし気けだ懈るい仕事のように思えた。鶴さんは植源へ来るのが今日の目的で、お島の生さ家とへ行ってみようと云う興味は、もうすっかり殺そげてしまったもののように、途中で幾度となく引返しそうな様子を見せたが、お島も自分が全く嫌われていないまでも、鶴さんの気持が自分と二人ぎりの時よりも、おゆうの前に居る時の方が、﹇#﹁方が、﹂は底本では﹁方が。﹂﹈話しの調子がはずむようなので、古ふる昵なじみのなかを見せつけにでも連れて来られたように思われて、腹立しかった。二人は初めほど睦むつみ合っては歩けなくなった。 ﹁でも此こ処こまで来て寄らないといっちゃ、義理が悪いからね﹂ 今度はお島が立寄るまいと言出したのを、鶴さんは何処か商人風の堅いところを見せて、すっかり気が変ったように言った。 ﹁それ程にして戴かなくたって可いいんですよ。あの人達は、親だか子だか、私なぞ何とも思っていませんよ。生さ家とは生さ家とで、縁も由ゆか縁りもない家ですからね﹂お島はそう言いながら、従ついて行った。 生さ家とでは母親がいるきりであった。母親はお島の前では、初めて来た婿にも、愛あい相そらしい辞ことばをかけることもできぬ程、お互に神経が硬こわ張ばったようであったが、鶴さんと二人きりになると、そんなでもなかった。お島は母親の口から、自分の悪口を言われるような気がして、ちょいちょい様子を見に来たが、鶴さんは植源にいた時とは全まる然で様子がかわって、自分が先代に取立てられるまでになって来た気苦労や、病身な妻を控えて商売に励んで来た長いあいだの身みの上うえ談ばなしなどを、例の急せか々せかした調子で話していた。 ﹁ここんとこで、一つ気をそろえて、みっちり稼がんことにゃ、この恢とり復かえしがつきません﹂ 鶴さんは傍へ寄って来るお島に気もつかぬ様子であったが、お島には、それがすっかり母親の気に入って了ったらしく見えた。 ﹁どうか店の方へも、時々お遊びにおいで下すって……﹂ 鶴さんは語ことばのはずみで、そう言っていたが、お島は、何を言っているかと云うような気がして、終しまいに莫ば迦か々ば々かしかった。それでけろりとした顔をして、外を見ていながら、時々帰りを促した。 ﹁こう云う落着のない子ですから、お骨も折れましょうが、厳やかましく仰おっしゃって、どうか駆こき使つかってやって下さい﹂母親はじろりとお島を見ながら言った。 鶴さんは感激したような調子で、弁しゃべるだけのことを弁ると、煙きせ管るを筒に収めて帰りかけた。 ﹁何を言っていたんです﹂お島は外へ出ると、いらいらしそうに言った。﹁あの御母さんに、商売のことなんか解るものですか。人間は牛馬のように駆こき使つかいさえすれあ可いいものだと思っている人間だもの﹂三十三
夏の暑い盛りになってから、鶴さんは或日急に思立ったように北海道の方へ旅立つことになった。気の早い鶴さんは、晩にそれを言出すと、もうその翌朝夜のあけるのも待かねる風で、着替を入れた袋と、手てさ提げか鞄ばんと膝ひざ懸かけと細ほそ捲まきとを持って、停ステ車ーシ場ョンまで見送の小僧を一人つれて、ふらりと出ていって了った。三四箇月のあいだに、商売上のことは大体頭あた脳まへ入って来たお島は、すっかり後を引受けて良おっ人とを送出したが、意気な白地の単ひと衣え物に、絞しぼりの兵へこ児お帯びをだらりと締めて、深いパナマを冠かぶった彼の後姿を見送ったときには、曽て覚えたことのない物寂しさと不安とを感じた。 それにお島は今月へ入ってからも、毎いつ時ものその時分になっても、まだ先月から自分一人の胸に疑問になっている月のものを見なかった。そうして漸やっとそれを言出すことのできたのは、鶴さんが気きぜ忙わしそうに旅行の支度を調えてからの昨ゆう夜べであった。 ﹁私何だか体の様子が可おか笑しいんですよ。きっとそうだろうと思うの﹂一度床へついたお島は、厠かわやへいって帰って来ると、漸やっとうとうとと眠りかけようとしている良人の枕まく頭らもとに坐りながら言った。蒸暑い夏の夜は、まだ十時を打ったばかりの宵の口で、表はまだぞろぞろ往ゆき来きの人の跫あし音おとがしていた。朝の早い鶴さんは、いつも夜が早かった。 ﹁そいつぁ些ちっと早いな。怪しいもんだぜ﹂などと、鶴さんは節の暢のび々のびした白い手をのばして、莨たば盆こぼんを引寄せながら、お島の顔を見あげた。鶴さんはその頃、お島の籍を入れるために、彼女の戸籍を見る機会を得たのであったが、戸籍のうえでは、お島は一度作太郎と結婚している体からだであった。それを知ったときには鶴さんは欺かれたとばかり思込んで、お島を突返そうと決心した。しかし鶴さんはその当座誰にもそれを言出す勇気を欠いていた。そしてお島だけには、ちょいちょい当あて擦こすりや厭いや味みを言ったりして漸やっと鬱憤をもらしていたが、どうかすると、得意まわりをして帰る彼の顔に、酒気が残っていたりした。お島が帳場へ坐っている時々に、優しい女の声で、鶴さんへ電話がかかって来たりしたのも、その頃であった。そんな時は、お島は店の若いもののような仮こわ声いろをつかって、先さきの処と名を突留めようと骨を折ったが、その効かいがなかった。お島はその頃から、鶴さんが外へ出て何をして歩いているか、解らないと云う不安と猜さい疑ぎに悩されはじめた。植源の嫁のおゆう、それから自分の姉……そんな人達の身のうえにまで思い及ばないではいられなかった。日頃口に鶴さんを讃ほめている女が、片端から恋の仇かたきか何ぞであるかのように思え出して来た。姉は、お島が片づいてからも、ちょいちょい訪ねて来ては、半日も遊んでいることがあった。 ﹁それなら、何故私をもらってくれなかったんです﹂姉は、鶴さんに揶から揄かわれながら自分の様子をほめられたときに、半分は真剣らしく、半分は笑じょ談うだんらしく、妹のそこにあることを意こころにかけぬらしく、ぽっと上気したような顔をして言ったことがあったくらいであった。 お島はそれが癪しゃくにさわったといって、後で鶴さんと大おお喧げん嘩かをしたほどであった。三十四
鶴さんは、その当座外で酒など飲んで来た晩などには、時々お島が自分のところへ来るまでの、長い歳月の間のことを、根掘葉掘して聴くことに興味を感じた。結婚届まですましてあったお島と作太郎との関係についての鶴さんの疑いは、お島が説明して聴きかす作太郎の様子などで、その時はそれで釈とけるのであったが、その疑いは護ゴム謨ま毬りのように、時が経つと、また旧もとに復かえった。 ﹁嘘うそだと思うなら、まあ一度私の養家へ往ってごらんなさい。へえ、あんな奴がと思うくらいですよ。そうね、何といって可いいでしょう……﹂お島は身みぶ顫るいが出るような様子をして、その男のことを話した。 ﹁嫌う嫌わないは別問題さ。左とに右かく結婚したと云うのは事実だろう﹂ ﹁だから、それが親達の勝手でそうしたんですよ。そんな届がしてあろうとは、私は夢にも知らなかったんです﹂ ﹁しかもお前達夫婦の籍は、お前の養家じゃなくて、亭主の家の方にあるんだから可お怪かしいよ﹂ 最初は心にもかけなかったその籍のことを、二度も三度も鶴さんの口から聴されてから、お島は養家の人達の、作太郎を自分に押つけようとしていた真意が、漸やっと朧おぼろげに見えすいて来たように思えた。 ﹁そうして見ると、あの人達は、そっくり私に迹あとを譲る気はなかったもんでしょうかね﹂お島は長いあいだ自分一人で極きめ込こんでいた、養家やその周囲に於ける自分の信用が、今になって根こん柢ていからぐらついて来たような失望を感じた。 お島は、最近の養家の人達の、自分に対するその時々の素振や言ことばに、それと思い当ることばかり、憶おも出いだせて来た。 ﹁畜生、今度往ったら、一ひと捫もん着ちゃくしてやらなくちゃ承知しない﹂お島はそれを考えると、不人情な養母達の機嫌を取り取りして来た、自分の愚しさが腹立しかったが、それよりも鶴さんの目にみえて狎なれ々なれしくなった様子に、厭気のさして来ていることが可くや悔しかった。 二年の余よも床についていた前せんの上かみさんの生きているうちから、ちょいちょい逢っていた下した谷やの方の女と、鶴さんが時々媾あい曳びきしていることが、店のものの口くち吻ぶりから、お島にも漸く感づけて来た。お島はそれらの店の者に、時々思いきった小こづ遣かいをくれたり、食物を奢おごったりした。彼等はどうかすると、鼻はなッ張ぱりの強い女主人から頭ごなしに呶ど鳴なりつけられて、ちりちりするような事があったが、思いがけない気前を見せられることも、希めずらしくなかった。 鶴さんの出ていった後から、自身で得意先を一循巡まわって見て来たりするお島は、時には鶴さんと二人で、夜おそく土みや産げなどを提げて、好い機嫌で帰って来た。三十五
荒い夏の風にやけて、鶴さんが北海道の旅から帰って来たのは、それから二月半も経ってからであった。暑い盛りの八月も過ぎて、東京の空には、朝晩にもう秋めかした風が吹きはじめていた。 鶴さんの話によると、帰りの遅くなったのは、東北の方にあるその生れ故郷へ立寄って、年取った父親に逢ったり、旅でそこねた健康を回復するために、近くの温泉場へ湯治に行っていたりした為だというのであったが、それから程なく、鶴さんの留守の間まに北海道から入って来た数通の手紙の一つが、旅で馴なじ染みになった女からであることが、その手紙の表うわ記がきでお島にも容たや易すく感づけた。 帰ってからも、そっちこっち飛歩いていて、碌ろく々ろく旅の話一つしんみり為しようともしなかった鶴さんが、ある日帳簿などを調べたところによると、お島はお島だけで、留守中に可かな也り販路を拡めていることが解って来たが、それは率おおむね金払いのわるいような家ばかりであった。これまでに鶴さんが手をやいた質たちの悪い向むきも二三軒あったが、中にはまたお島が古くから知っている堅い屋敷などもあった。お島は少しでも手てが繋かりのあるようなそれ等の家から、食料品の註文を取ることが、留守中の毎日々々の仕事であったが、品物ばかり出て勘定の滞っているのが、其そっ方ちにも此こっ方ちにも発見せられた。 悪つわ阻りなどのために、夏中動ややもするとお島は店へも顔を出さず、二階に床を敷いて、一日寝て暮すような日が多かったが、気分の好い時でも、その日その日の売うり揚あげの勘定をしたり、店のものと一緒に、掛取に頭あた脳まを使ったりするのが煩わずらわしくなると、着飾って生さ家とや植源へ遊びに出かけるか、昵なじみの多い旧もとの養家の居いま周わりやその得意先へ上って話こむかして、時間を銷けさなければならなかった。養家では、作太郎が近所の長屋を一軒もらって、嫁と一緒に相変らず真黒になって働いていたが、お島はその方へも声をかけた。 ﹁今度田舎の土産でもさげて、お島さんの婿さんの顔を見にいくだかな﹂作は帰りがけのお島に言ってにやにや笑っていた。 ﹁まあそうやって、後生大事に働いてるが可いいや。私も危あぶなく瞞だまされるところだったよ。養おっ母かさんたちは人がわるいからね﹂お島も棄すて白ぜりふでそこを出た。三十六
暫しばらくぶりで、一日遊びに来た姉が、その日も朝から店をあけている鶴さんや、知りたくもない植源の嫁の噂うわさなどをして、一人で饒しゃ舌べりちらして帰って行った。 お島は気骨の折れる子持の客の帰ったあとで、気きづ憊かれのした体を帳ちょ場うば格ごう子しにもたれて、ぼんやりしていた。お島の体は、単ひと衣えもののこの頃では、夕方の涼みに表へ出るのも極きまりのわるいほど、月が重っていた。 旅から帰って来た鶴さんは、落着いて店で帳合をするような日とては、幾ほとんど一日もなかった。偶たまに家にいても、朝から二階へあがって、枕などを取出して、横になっているような事が多かった。機嫌のいい時には、これまで口にしたこともなかった、猥みだらな端はう唄たの文句などを低こご声えで謡うたって、一人で燥はしゃいでいた。 ﹁おお厭だ、誰にそんなものを教わって来ました﹂お島はぼつぼつ支度にかかっていた赤子の着物の片きれなどを弄いじりながら、傍で擽くすぐったいような笑わら方いかたをした。 ﹁面白くでもない。北海道の女のお自のろ惚けなんぞ言って﹂ ﹁どうして、そんなんじゃない﹂と云いそうな顔をして、鶴さんは物珍しげに、形のできた小さい襦じゅ袢ばんなどを眺めていた。 ﹁ちょいと、貴あな方たはどんな子が産れると思います﹂お島は始終気にかかっている事を、鶴さんにも訊きいてみた。 ﹁どうせ私あっしには肖にていまい。そう思っていれあ確たしかだ﹂鶴さんは鼻で笑いながら、後向になった。 ﹁どうせそうでしょうよ、これは私のお土産ですもの﹂お島は不快な気持に顔を赧あからめた。﹁でも笑じょ談うだんにもそういわれると、厭なものね。子供が可哀そうのようで﹂ ﹁此こっ方ちの身も可哀そうだ﹂ ﹁それは色女に逢えないからでしょう﹂ 二人の神経が段々尖とがって来た。そしてお島に泣いて突かかられると、鶴さんはいきなり跳はね起おきて、家では滅多にあけたことのない折鞄をかかえて、外へ飛出してしまった。その折鞄のなかには、女の写真や手紙が一杯入っているのであった。 今もお島は、何の気なしに聞過していた姉の話が、一々深い意味をもって、気遣しく思浮べられて来た。姉の話では、鶴さんの始終抱えて歩いている鞄のなかの文ふみが、時々植源の嫁の前などで、繰拡げられると云うのであった。 ﹁それは可お笑かしいの﹂姉は一つはお島を煽あおるために、一つは鶴さんと仲のいい植源の嫁への嫉しっ妬とのために、調子に乗って話した。 ﹁その女というのが、美人の本場の越後から流れて来たとやらで、島ちゃんの旦那は碌ろく素すっ法ぽう工場へ顔出しもしないで、そこへばかり入いり浸びたっていたんだって。それで、その手紙にこんな事まで書いてあるんだってさ。これも東京の人で、彼あち方らへ往く度たんびに札びら切って、大尽風をふかしているお爺さんが、鉱や山まが売れたら、その女を落ひ籍かして東京へつれていくといっているから、それを踏台にして、東京へ出ましょうかって。ねえ、ちょいとお安くないじゃないの﹂ 姉は植源の嫁から聞いたと云うその女の噂を、こまごまと話して聞した。 ﹁それに鶴さんは、着物や半はん衿えりや、香水なんか、ちょいちょい北あ海ち道らへ送るんだそうだよ。島ちゃん確しっかりしないと駄目だよ﹂姉はそうも言った。 ﹁何なあに﹂と思って、お島は聞いていたのであったが、女にどんな手があるか解らないような、恐おそ怖れと疑ぎ惧ぐとを感じて来た。三十七
植源の嫁のおゆうの部屋で、鶴さんと大喧嘩をした時のお島は、これまで遂ついぞ見たこともないようなお盛めか装しをしていた。 お島が鶴さんに無断で、その取つけの呉服屋から、成金の令嬢か新しん造ぞの着る様な金目のものを取寄せて、思いきったけばけばしい身な装りをして、劈のっ頭けに姉を訪ねたとき、彼女は一調子かわったお島が、何を仕し出で来かすかと恐れの目を![※(「目+爭」、第3水準1-88-85)](../../../gaiji/1-88/1-88-85.png)
三十八
姉の家へ引取られてからも、お島の口にはまだ鶴さんの悪あっ口こうが絶えなかった。おゆうに庇か護ばわれている男の心が、歯はが痒ゆかったり、妬ねたましく思われたりした。男を我わが有ものにしているようなおゆうの手から、男を取返さなければ、気がすまぬような不安を感じた。 お島は仕事から帰った姉の亭主が晩酌の膳ぜんに向っている傍で、姉と一緒に晩飯の箸はしを取っていたが、心は鶴さんとおゆうの側にあった。 ﹁そうそう、こんな事しちゃいられないのだっけ。店のものが皆みんな私を待っているでしょう﹂お島は蚊か帳やのなかで子供を寝ねかしつけている、姉の枕元で想出したように言出した。 ﹁良う人ちはあんなだし、私でもいなかった日には、一日だって店が立行きませんよ﹂ ﹁今度あばれちゃ駄目よ﹂姉は出てゆくお島を送出しながら言った。 ﹁どうもお騒がせして相済みません﹂お島は何のこともなかったような顔をして、外へ出たが、鶴さんがまだ植源にいるような気がして、素直に家へ帰る気にはなれなかった。 外はすっかり暮れてしまって、茶の木畑や山さざ茶ん花かなどの木立の多い、その界かい隈わいは閑ひっ寂そりしていた。お島の足は惹ひき寄よせられるように、植源の方へ歩いていった。﹁鶴さんも可哀そうよ﹂そう言ってお島を窘たしなめたおゆうの目顔が、まだ目についていた。北海道の女よりも、稚おさ馴なな染じみのおゆうの方に、暗い多くの疑がかかっていた。 大きな石の門のうえに、植源と出ている軒けん燈とうの下に突立って、やがてお島は家の方の気けは勢いに神経を澄したが、石を敷つめた門のうちの両側に、枝を差交した木陰から見える玄関には、灯ほか影げ一つ洩れていなかった。お島は![※(「木+要」、第4水準2-15-13)](../../../gaiji/2-15/2-15-13.png)
三十九
お島は二三度階し下たへおりてみたけれど、鶴さんは、いつまで経たっても、帳場から離れて来る様子もなかった。そのうちに表が段々静になって、夜が更ふけて来ると、店を片着けにかかっている物音が聞えたりして、鶴さんはやがて茶の間へ入って来た。お島は気持わるく壊くずれた髪を、束髪に結直して、長火鉢の傍へ来て坐ってみたりしていたが、頭あた脳まがぴんぴん痛みだして来たので、鶴さんが二階へ上って来る時分には、彼か女れもいつか蒲ふと団んを引ひっ被かついで寝ていた。 ﹁お先へ失礼しましたよ。何だか気分がわるいので﹂お島はそう言いながら、呻うめ吟きご声えを立てていた。 鶴さんは床についてからも、白い細長い手を出して、今朝から見るひまもなかった新聞を、かさこそ音を立てて、彼あっ方ちかえし此こっ方ち返しして読んでいるらしかったが、するうちに、それを投ほうりだして、枕につくかと思っていると、ぱちんと云う音がして、折鞄を開けて、何か取出したらしかった。後は闃ひっ寂そりして、下の茶ちゃの室まの簷のき端ばにつるしてある鈴虫の声が時々耳につくだけであった。 お島は後向になったまま、何をするかと神経を研とぎすましていたが、今まで懈だるくて為方のなかった目までが、ぽっかり開あいて来た。そして、ふと紙のうえを軋きしる万年筆の音が、耳にふれて来ると、渾から身だじゅうの全神経がそれに錘あつまって来て、向返ってその方を見ない訳にいかなかった。 ﹁何をしてるんです、今時分……﹂ お島はいきなり声を立てて、鶴さんを吃びっ驚くりさせた。鞄のなかには、女の手紙が一二通はみ出しているのが見えた。 鶴さんは、ちらと此こっ方ちを見たが、黙ってまたペンを動かしはじめた。お島はいらいらしい目をすえて、じっと見つめていたが、忽たちまち床から乗出して、その手紙を褫ひっ奪たくろうとした。 ﹁おい、戯じょ談うだんじゃないぜ﹂ 鶴さんはそれでも落着いたもので、そっと書かけの手紙を床の下へ押込もうとしたが、同時に、お島の手は傍にあった折鞄を浚さらっていくために臂ひじまで這はい出だして来た。 ﹁おい、ちょっと話がある﹂大分たってから、鶴さんは床のうえに起上って、疲れて枕に突伏になっているお島に声かけた。暴あれ出だすお島を押えたために、可也興奮させられて来た鶴さんは、爪つめ痕あとのばら桜になっている腕をさすりながら、莨たばこを喫ふかしていた。 お島はまだ肩で息をしながら、やっぱり突伏していた。 ﹁……お前のようなものに、勝手な真ま似ねをされたんじゃ、商人はとても立って行ゆきっこはありゃしないんだからね﹂鶴さんは、自分がこの家に対する責任や、家つきの前せんの内か儀みさんに対する立場などを説立ててから言出した。 ﹁そんな事は、おゆうさんにでも聞いてお貰もらいなさい﹂お島は憎さげに言ことばを返したまま、またくるりと後向になった。四十
返したとも返ったとも決らずに、お島が時々生さ家とや植源の方へ往ったり来たりしていた頃には、鶴さんの家も大分ばたばたになりかけていた。 北海道の女の方のそれはそれとして、以前から関係のあった下谷の女の方へ、一層熱中して来た鶴さんは、店のものの一人が所々の仕切先をごまかして、可也な穴を開けたことにすら気のつかぬほど、店を外にしていた。 ﹁子供だけは私あっしが家において立派に育ててやるつもりです﹂ 鶴さんは、植源の隠居や嫁の前へ来ると、いつもお島の離縁話を持出しては、口癖のように言っていたが、お島に向ってもそれを明言した。 植源の隠居に委まかしてある、自分の身のうえに深い不安を懐いだきながら、毎日々々母親に窘いびりづめにされていたお島は、ある朝釜の下の火を番しながら、跪しゃ坐がんでいたとき言ことばを返したのが胸にすえかねたといって、母親のために、そこへ突つっ転こかされて、竃へっついの角で脇腹を打ったのが因もとで、到頭不幸な胎児が流れてしまった。 その時お島は、飯の支度をすまして、衆みんなと一緒に、朝飯の膳に向って、箸を取かけていた。もう十月の半なかばで、七輪のうえに据えた鍋のお汁つゆの味み噌その匂や、飯めし櫃びつから立つ白い湯気にも、秋らしい朝の気分が可なつ懐かしまれた。 女を追って、田舎へ行ったきり、もう大分になる総領の姿のみえぬ家のなかは、急に衰えのみえて来た父親の姿とともに、この頃際立って寂しさが感ぜられて来た。食たべかけた朝飯の箸を持ったまま、急に目のくらくらして来たお島は、声を立てるまもなく、そこへ仆たおれてしまったのであったが、七なな月つきになるかならぬの胎児が出てしまったことに気の附いたのは、時を経てからであった。 一目もみないで、父親や鶴さんの手で、産児の寺へ送られていったのは、その晩方であったが、思いがけなく体の軽くなったお島の床についていたのは、幾日でもなかった。 健康が回復して来ると同時に、母親と植源の隠居とのどうした談はな合しあいでか、当分植源にいっていることに決められたお島は、そこで台所に働いたり、冬物の針仕事に坐ったりしていた。ぐれ出した鶴さんは、口くち喧やかましい隠居の頑がん張ばっているこの閾しきいも高くなっていた。お島はおゆうの口から、下谷の女を家へ入れる入れぬで、苦労している彼の噂をおりおり聞されたりした。 ﹁ああなってしまっちゃ、あの人ももう駄目よ﹂おゆうは鶴さんに愛あい相そがつきたように言った。四十一
一つは人に媚こびるため、働かずにはいられないように癖つけられて来たお島は、一年弱たらずの鶴さんとの夫婦暮しに嘗なめさせられた、甘いとも苦にがいとも解らないような苦しい生活の紛いざ紜こざから脱のがれて、何ど処こまで弾はずむか知れないような体を、ここでまた荒い仕事に働かせることのできるのが、寧むしろその日その日の幸福であるらしく見えた。 植源の庭には、大きな水みず甕がめが三つもあった。お島は男の手の足りないおりおりには、その一つ一つに、水を盈なみ々なみ汲込まなければならなかった。そしてそれを沢山の花はな圃ばたけや植木に漑そそがなければならなかった。その頃かかっていた病身な出戻りの姉娘の連れていた二人の子供の世話も、朝晩に為なければならなかった。田舎で鉄道の方に勤めていた官吏の許もとへ片づいていたその姉は、以前この家に間借をしていたことのあるその良人が、田舎へ転任してから、七年目の今こと茲しの夏、遽にわかに病死してしまった。 東北訛なまりのその子供は、おゆうには二人とも嫌われたが、お島には能く懐なついた。お島は暇さえあると、髪を結ったり、リボンをかけてやったり、寝ねお起きや入浴や食事の世話に骨惜みをしなかった。 嫁にやられるとき、拵えて行ったものなどを不そっ残くり亡なくして、旅費と当分の小遣にも足りぬくらいの金を、少すこしばかりの家財を売払って持って来た姉は、まだ乳離れのせぬ小ちいさい方の男の子を膝ひざにのせて、時々縁側の日ひな南たに坐りながら、ぼんやりお島の働きぶりを眺めていた。 ﹁能よくそんなに体が動いたもんだわね﹂ 姉は感心したように言ことばをかけた。お島は襷たすきがけの素すは跣だ足しで、手ちょ水うず鉢ばちの水を取かえながら、鉢前の小石を一つ一つ綺きれ麗いに洗っていた。夏中縁先に張出されてあった葭よし簀ずの日ひお覆いを洩もれて、まだ暑苦しいような日の差込む時が、二三日も続いた。 ﹁ええ、子供の時分から慣れっこになっていますから﹂お島は笑いながら応こたえた。 ﹁子供を産んだ人とは思われないくらいですよ﹂ ﹁だって漸ようよう七なな月つきですもの。私顔も見ませんでしたよ。淡さっ白ぱりしたもんです﹂ ﹁それにしたって、旦那のことは忘れられないでしょう﹂ ﹁そうですね。がさがさしてる癖に、余あんまり好い気持はしませんね﹂ ﹁矢やっ張ぱり惚ほれていたんだわね﹂ ﹁そうかも知れませんよ﹂お島は顔を赧あからめて、 ﹁私が暴れて打ぶち壊こわしたようなもんですの。あの人はまたどうして、あんなに気が多いでしょう。些ちょいと何かいわれると、もう好い気になって一人で騒いでいるんですもの。その癖嫉やき妬もちやきなんですがね﹂ ﹁でも能く思切って了しまったわね﹂ ﹁芸者や女郎じゃあるまいし、いつまで、くよくよしていたって為方がないですもの。私はあんなへなへなした男は大嫌いですよ﹂ ﹁それもそうね。――私も思切って、どこか働きに行きましょうかしら﹂ ﹁御笑じょ談うだんでしょう。そんな可愛い坊ちゃんをおいて、何処へ行けるもんですか﹂四十二
夜になると、お島はまた隠居の足腰をさすって、寝かしつけてやるのが、毎日の日課であったが、時とすると子むす息こ夫婦に対する、病的な嫉妬から起るこの老とし婦よりの兇暴な挙ふる動まいをも宥なだめてやらなければならなかった。 四十代時分には、時々若い遊あそ人びにんなどを近ちかづけたと云う噂のある隠居は、おゆうが嫁に来るまでは、幼ちいさい時から甘やかして育てて来た子むす息この房吉を、猫ねこ可かわ愛ゆがりに愛した。一度脳を患わずらったりなどしてから、気に引ひっ立たちがなくなって、温おと順なしい一方なのが、彼か女れには不ふび憫んでならなかった。房吉は植木屋の仕事としては、これと云うこともさせられずに日を送って来たが、始終家にばかり引込んで、母親の傍に率ひきつけられていたので、友達というものもなかった。絵の好きであった彼は、十六七の時分には、絵師になろうとの希望を抱いだきはじめたが、それも母親に遮さえぎられて、修業らしい修業もしずにしまった。 寝るにも起きるにも、自分ばかりを凝み視つめて暮しているような、年取った母親の苛から辣つな目が、房吉には段々厭いとわしくなって来た。そして何時の頃からか時々顔を合す機会のあった、おゆうの懐かしい娘姿に心が惹ひきつけられた。どんなことがあっても、おゆうちゃんを嫁に貰ってくれなければならない、房吉のそう言った辞ことばが、母親の口から大秀やおゆうの耳へも入れられた。 結婚してからも、どうかすると、おゆうから離されて、房吉が気きぶ鬱せな母親の側に寝かされたり、おゆうが夜おそくまで、母親の側に坐って、足腰を揉ませられたりした。夜よな更かに目めざ敏とい母親の跫あし音おとが、夫婦の寝ね室まの外の縁側に聞えたり、夜よの未ひき明あけに板戸を引あけている、いらいらしい声が聞えたりした。 お島が来てからも、おゆうが物蔭で泣いているようなことが、時々あった。 家にいても、大抵きちんとした身な装りをして、庭の方は職人まかせにして、自身は花を活いけたり、書画を弄いじったりして暮している内気な房吉は、どうかすると母親から、聴いていられないような毒々しい辞ことばを浴せられた。 ﹁あれを手前の子と思ってるのが、大間抜だ﹂母親はそうも言った。 衰えのみえる目などのめっきり水々して来たおゆうは、爾その時とき五いつ月つきの腹を抱えていた。日に日に気けだ懈るそうにみえて来るおゆうの媚なまめいた姿や、良人に甘えるような素振が、母親には見ていられないほど腹立しくてならなかった。四十三
お島の姉が、暑い日盛に帽子も冠せない子供を、手かけに負おぶって、庭の方からまわって、おゆうを呼出しに来たとき、門のうちに張物をしていたお島と、自分の部屋の縁側で、髪を洗っていたおゆうを除いたほか、大抵の人は風通しの好さそうな場所を択んで、昼寝をしていた。房吉は時々出かけてゆく、近所の釣つり堀ぼりへ遊びに行っていたし、房吉の姉のお鈴は、小さい方の子供に、乳房を啣ふくませながら、茶ちゃの室まの方で、手枕をしながら、乱だら次しなく眠っていた。家のなかは、どこも彼かし処こも長い日の暑熱に倦うみ疲れたような懈だるさに浸っていた。 大輪の向ひま日わ葵りの、萎しおれきって項うなだれた花はな畑ばじ尻りの垣根ぎわに、ひらひらする黒い蝶ちょうの影などが見えて、四あた下りは汚し点みのあるような日光が、強く漲みなぎっていた。 姉はおゆうと、五六分ばかり縁側で話をしていたが、やがて子供をそこへ卸おろして、袂たもとで汗をふいていた。おゆうはまだ水気の取りきれぬ髪の端はじに、紙かみ片きれを捲まきつけて、それを垂らしたまま、あたふた家を出ていった。 ﹁きっと鶴さんが来ているんだ﹂ お島はそう思うと、急に張物が手に着かなくなって、胸がいらいらして来た。 ﹁姉さんも随分な人だよ﹂ お島はいきなり姉の側へ寄っていった。 ﹁どうしてさ﹂姉は這はっている子供に、乳房を出して見せながら、汗ばんだ顔を赧あからめた。 ﹁解ってますよ﹂ ﹁可おか笑しな人だね。解っていたら可いいじゃないの﹂ ﹁そんな事をしても可いんですか﹂ ﹁いいも悪いもないじゃないか。感違いをしちゃ困りますよ﹂ 二三度口留をしてから、姉の話すところによると、金の工面に行詰った鶴さんが、隠居や房吉に内ない密しょで、おゆうから少すこしばかり融通をしてもらうために、私そっと姉の家へやって来たのだと云うのであった。鶴さんが、そんなに困っているとは、お島には信ぜられないくらいであったが、姉の真顔で、それは事実であるらしく思えた。 ﹁ふむ﹂お島は首を傾かしげて、﹁じゃもう、あの店も駄目だね﹂ ﹁そうなんでしょう。事によったら、田舎へ行いくて言ってるわ﹂ ﹁芸者を引張込むようじゃ、長続きはしないね。散さん々ざ好きなことをして、店を仕舞うがいいや﹂ お島は自や暴けに言いすてて、仕事の方へ帰って来たが、目が涙に曇っていた。せかせか出て行った今のおゆうの姿や、おゆうを待受けている鶴さんの、この頃の生活に荒すさみきった神経質な顔などが、目について来た。 暫く経って、帰って来たおゆうの顔には、鶴さんのためなら、何でも為かねないような浮いた大胆さと不安が見えていた。 おゆうの部屋を出て行く姉の手には、小こそ袖でを四五枚入れたほどの、ぼっとりした包みが提げられた。四十四
堅い口留をして、ふとそれ等の事をお鈴に洩もらしたお島は、それを又お鈴から聞いて、宛さな然がら姦かん通つうの手てし証ょうでも押えたように騒ぎたてる、隠居の病的な苛かし責ゃくからおゆうを庇か護ばうことに骨がおれた。 宵の口に、お島にすかし宥なだめられて、一度眠りについた隠居は、衆みんながこれから寝床につこうとしている時分に、目がさめて来ると、広々した蚊か帳やのなかに起き坐って、さも退屈な夜の長さに倦うみ果てたように、四あた下りを見回していた。 宵に母親に警いましめ責められた房吉は、隠居がじりじりして業ごうを煮にやせば煮すほど、その事には冷淡であった。遊人などを近ちかづけていた母親の過去を見せられて来た房吉の目には、彼女の苦しみが、滑こっ稽けいにも莫ば迦か々ば々かしくも見えた。 ﹁誰のためでもない、みんなお前が可愛いからだ﹂![※(「兀のにょうの形+王」、第3水準1-47-62)](../../../gaiji/1-47/1-47-62.png)
四十五
二時過まで、植源の人達は騒いでいた。 お鈴と二人で漸やっと宥なだめて、房吉から引離して、蚊か帳やのなかへ納められた隠居が鎮しずまってからも、お島はじっとしてもいられなかった。 ﹁どうしましょうね。大丈夫でしょうか﹂お島は庭の方を捜してから、これも矢やっ張ぱりそこいらを捜しあぐねて、蚊帳の外に茫ぼん然やり坐っている房吉の傍へ帰って来て言った。 房吉は蒼あお白ざめた顔をして、涙なみ含だぐんでいた。 ﹁大丈夫とは思うけれど、偶ひょ然っとするとおゆうは帰って来ないかも知れないね。不断から善く死ぬ死ぬと言っていたから﹂ ﹁そうですか﹂お島は仰山らしく顫ふるえ声で言った。 ﹁それじゃ私少し捜して来ましょう﹂ お島が近所の知った家を二三軒訊きいて歩いたり、姉の家へ行ってみたり、途中で鶴さんや大秀へ電話をかけたりしてから、漸ようよう帰って来たのは、もう大分夜が更ふけてからであった。 ﹁安心していらっしゃい﹂お島は房吉の部屋へ入ると、せいせい息をはずませながら言った。﹁おゆうさんは大丈夫大秀さんにいるんですよ﹂ お島が、大秀へ電話をかけたとき、出て来て応うけ答こたえをしたのは、おゆうには継母にあたる大秀の若い内か儀みさんであった。 おゆうが俥くるまで飛込んでいった時、生さ家とではもう臥ねど床こに入っていたが、おゆうはいきなり昔し堅気の頑がん固こな父親に、頭から脅おどかしつけられて、一層突つきつめた気分で家を出た。鶴さんに着物を融通したり何かしたと云うことが、植源へ片着かない前からの浮気っぽいおゆうを知っている父親には、赦ゆるすことのできぬ悪事としか思えなかった。 おゆうが帰って来たとき、お島は自分の寝床へ帰って、表おもての様子に気を配りながら、まんじりともせず疲れた体を横よこたえていた。 帰って来たおゆうが、一つは姑しゅうとめや父親への面つら当あてに、一つは房吉に拗すねるために、いきなり剃かみ刀そりで髪を切って、庭の井戸へ身を投げようとしたのは、その晩の夜中過であった。おゆうは、うとうと床とこのなかに坐っている房吉には声もかけず、いきなり鏡台の前に立って、隠居の手から取離されたまま、そこに置かれた剃刀を見つけると、いきなり振ふり釈ほどいた髪を、一握ほど根元から切ってしまった。 ﹁可くや悔しい可悔い﹂跣足で飛出して来たお島に遮ささえられながら、おゆうは暴あばれ悶も![※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)](../../../gaiji/1-92/1-92-36.png)
四十六
情おん婦なの流れて行っている、或山国の町の一つで、暫しばらく漂浪の生活を続けている兄の壮そう太たろ郎うが、其そ処こで商売に着手していた品物の仕入かたがた、仕事の手てだ助すけにお島をつれに来たのはその夏の末であった。 ﹁阿母さんは、一体いつまで私を彼あす処こで働かしておくつもりだろう﹂ 植源の忙しい働き仕事や、絶え間のないそこの家うちのなかの紛いざ紜こざに飽はてて来たお島は、息をぬきに家へやって来ると父親に零こぼした。 長いあいだ家へ寄つきもしない壮太郎の代りに、家に居坐らせるため、植源を出て来て、父の手助に働かせられていたお島は、兄に説ときつけられて、その時ふいと旅に出る気になったのであった。 ﹁誰が来たって駄目だ。お前ならきっと辛抱ができる﹂ お島に家へ坐られることが不安であったと同時に、田舎で遣やりかけようとしている仕事と、そこで人に囲われている女とから離れることの出来なかった兄の壮太郎は、そう言って話に乗のり易やすいお島を唆そそのかした。 田舎の植木屋仲間に売るような色々の植木と、西洋草花の種た子ねなどを、どっさり仕込んで、それを汽車に積んで、兄はしばらく住なれたその町の方へ出かけていった。一緒に乗込んだお島の心には、まだ見たことのない田舎の町のさまが色々に想像されたが、これまで何処へ行っても頭を抑えられていたような冷酷な生母、因いん業ごうな養父母、植源の隠居、それらの人達から離れて暮せるということを考えるだけでも、手足が急に自由になったような安易を感じた。 ﹁みっちり働いて、お金を儲もうけて帰ろう﹂お島はそう思うと、何もかも自分を歓迎するための手をひろげて待っているような気がした。 黝くろずんだ土や、蒼あお々あおした水や広々した雑木林――関東平野を北へ北へと横よこぎって行く汽車が、山へさしかかるに連れて、お島の心には、旅の哀愁が少しずつ沁しみひろがって来た。 ﹁矢やっ張ぱりこんなような町?﹂お島は汽車が可かな也り大きなある停車場へ乗込んだとき、窓から顔を出して、壮太郎にささやいた。 停車場には、日光帰りとみえる、紅べに色いろをした西洋人の姿などが見えた。 ﹁とてもこんな大きなんじゃない﹂壮太郎は、長く沁込んだその町の内部の生活を憶おも出いだしていると云う顔をして笑った。その土地では、壮太郎はもう可也色々の人を知っていた。 ﹁どこを見ても山だからね。でも住なれてみると、また面白いこともあるのさ﹂ 汽車は段々山国へ入っていった。深い谿たにや、遠い峡はざまが、山国らしい木立の隙すき間まや、風にふるえている梢こずえの上から望み見られた。客車のなかは一様に闃ひっ寂そりしていた。四十七
車窓に襲いかかる山さん気きが、次第に濃密の度を加えて来るにつれて、汽車はざッざッと云う音を立てて、静に高原地を登っていった。鬱うっ蒼そうとした其処ここの杉さん柏ぱくの梢からは、烟えん霧むのような翠すい嵐らんが起って、細い雨が明い日光に透すかし視みられた。思いもかけない山さん麓ろくの傾斜面に痩やせた田畑があったり、厚い薮やぶ畳だたみの蔭に、人家があったりした。 その町へ着くまでに、汽車は寂しい停車場に、三度も四度も駐とどまった。東京の居いま周わりに見なれている町よりも美しい町が、自然の威圧に怯おじ疲れて、口も利きけないようなお島の目に異様に映った。 ﹁へえ、こんな処にもこんな人がいるのかね﹂お島は不思議そうに、そこに見えている人達の姿を凝み視つめた。 S――と云うその町へ入った時にも、小雨がしとしとと降そそいでいた。停車場を出て橋を一つ渡ると、直ぐそこに町まち端はならしい休茶屋や、運送屋の軒に続いて燻くすぶりきった旅はた籠ご屋やが、二三軒目についた。石しゃ楠くな花げや岩松などの植木を出してある店みせ屋やもあった。壮太郎とお島とは、そこを俥くるまで通って行った。 町はどこも彼かし処こも、闃ひっ寂そりしていた。 俥は直じきに大通の真中へ出ていった。そこに石造の門口を閉とざした旅館があったり、大きな用よう水すい桶おけをひかえた銀行や、半鐘を備えつけた警察署があったりした。 壮太郎の家は、閑静なその裏通にあった。町屋風の格子戸や、土どべ塀いに囲われた門構の家などが、幾軒か立たて続つづいたはずれに、低い垣根に仕切られた広々した庭が、先ずお島の目を惹ひいた。木組などの繊かぼ細そいその家は、まだ木き香がのとれないくらいの新しん建だちであった。 留守を頼んで行った大おお家やの若い衆しゅと、そこの子供とが、広い家のなかを、我もの顔にごろごろしていた。 ﹁へえ、こんな処でも商売が利くんですかね﹂ 部屋に落着いたお島は、縁えん端ばなへ出て、庭を眺めながら呟いた。 ﹁この町は先ずこれだけのものだけれど、居いま周わりには、またそれぞれ大きな家があるからね﹂壮太郎は、茶盆や湯沸をそこへ持出して来ると、羽織をぬいで胡あぐ坐らを掻かきながら呟つぶやいた。 秋雨のような雨がまだじとじと降っていた。水分の多い冷つめたい風が、遠く山国に来ていることを思わせた。ごとんごとんと云う慵だるい水車の音が、どこからか、物悲しげに聞えていた。四十八
そこにお島を落着かせてから、壮太郎が荷物運搬の采さい配はいに、雨のなかを再び停車場へ出かけていってから、お島は晩の食事の支度に台所へ出たが、女がおりおり来ると見えて、暫しばらく女中のいない男世帯としては、戸とだ棚なや流なが元しもとが綺きれ麗いに取片着いていた。 壮太郎は、夜までかかって、車で二度に搬はこび込まれた植木類を、すっかり庭の方へ始末をしてから、お島にはどこへ往くとも告げずに、またふいと羽織や帽子を被きて出て往ったが、お島はその晩裏から入って来た壮太郎が、何時頃帰ったかを知らないくらい疲れて熟睡した。 明あし朝た目のさめたとき、水車の音が先ずお島の耳に着いた。お島はその音を聞きながら、寝床のなかにうとうとしていたが、今日から全く知らない土地に暮すのだと思うと、今まで憎み怨うらんでいた東京の人達さえ懐なつかしく思われた。 ここから二ふた停てい車しゃ場ばほど先にある、或大きな市まちへ流れて来て、そこで商売をしていた兄の女が、その頃二三里の山奥にある或鉱山の方に係かかっている男に落ひ籍かされて、市とS――町との間にある鉱や山まつづきの小さい町に、囲われていたことは、お島も東京を立つ前から聴きかされていた。女がまだ商売をしている頃から、兄はその市まちへ来て、何も為することなしに、宿屋にごろついていたり、居周の温泉場に遊んでいたりしているうちに、土地の遊人仲間にも顔を知られて、おりおり勝負事などに手を出していた。女が今の男に落ひ籍かされてから、彼は少すこしばかりの資もと本でをもらって、![※(「夕/寅」、第4水準2-5-29)](../../../gaiji/2-05/2-05-29.png)
四十九
直じきにお島は、ここの主人や上かみさんや、子供達とも懇意になったが、来た時から目についた、通りの方の浜屋と云う旅館の人達とも親しくなった。 旅館の方には、お島より二つ年下の娘の外に、里から来ている女中が三人ほどいたが、始終帳場に坐っている、色の小白い面長な優やさ男おとこが、そこの主人であった。物堅そうなその主人は、大おおきい声では物も言わないような、温おと順なしい男であった。 山国のこの寂れた町に涼すず気けが立って来るにつれて、西北に聳そびえている山の姿が、薄墨色の雲に封とざされているような日が続きがちであった。鬱くさ々くさするような降あめ雨ふりの日には、お島はよく浜屋へ湯をもらいに行って、囲いろ炉り裏ば縁たへ上り込んで、娘に東京の話をして聞かせたり、立込んで来る客の前へ出たりした。 一家の締しまりをしている、四十六七になった、ぶよぶよ肥りの上さんと、一日小まめに体を動かしづめでいる老おじ爺いさんとが、薄暗いその囲炉裏の側に、酒のお燗かん番ばんをしたり、女中の指さし図ずをしたりしていた。町の旅はた籠ごや料理屋へ肴さかなを仕送っている魚うお河が岸しの問屋の旦那が、仕切を取りに、東京からやって来て、二日も三日も、新しん建だちの奥座敷に飲つづけていた。 精米所の主人が建ててくれたと云う、その新座敷へ、お島も時々入って見た。糸いと柾まさの檜ひのきの柱や、欄らん間まの彫刻や、極彩色の模様画のある大きな杉戸や、黒柿の床とこ框がまちなどの出来ばえを、上さんは自慢そうに、お島に話して聞せた。 河岸の旦那の芸づくしをやっているその部屋を、お島も物珍しそうに覗のぞいてみた。それでも安お召などを引張った芸者や、古着か何かの友ゆう禅ぜん縮ちり緬めんの衣いし裳ょうを来て、斑まだらに白おし粉ろいをぬった半はん玉ぎょくなどが、引ひっ断きりなしに、部屋を出たり入ったりした。鼓や太鼓の音がのべつ陽気に聞えた。笛の巧いという、盲の男の師匠が、芸者に手をひかれて、廊下づたいに連れられて行った。 そこへ精米所の主人がやって来て、炉ろば縁たに胡あぐ坐らをかくと、そこにごろりと寝転んでいたお爺さんは直じきに奥へ引込んで行った。精米所の主人の前には、直に銚ちょ子うしがつけられて、上さんがお酌をしはじめた。 ﹁あれを知らねえのかい。お前も余よっ程ぽど間ぬけだな﹂ 兄はその主人と上さんとの間なかを、お島に言って聞せた。 ﹁あの家も、精米所のお蔭で持っているのさ。だから爺さんも目をつぶって、見ているんだ﹂ 兄はそうも言った。五十
旦那を鉱や山まへ還してから、女が一里半程の道を俥くるまに乗って、壮太郎のところへ遣やって来るのは、大抵月曜日の午前であった。 家が近所にあったところから、幼ちいさいおりの馴なじ染みであった、おかなと云うその女が、まだ東京で商売に出ている時分、兄は女の名前を腕に鏤えりつけなどして、嬉しがっていた。そして女の跡を追うて、此こ処こへ来た頃には、上かみさんまで実さ家とへ返して、父親からは準禁治産の形ですっかり見みき限りをつけられていた。 日本橋辺にいたことのあるおかなは、痩やせぎすな躯がらの小ちいさい女であったが、東京では立行かなくなって、T――町へ来てからは、体も芸も一層荒すさんでいた。土地びいきの多い人達のなかでは、勝手が違って勤めにくかったが、鉱や山まから来る連中には可也に持もて囃はやされた。 おかなは朝来ると、晩方には大抵帰って行ったが、旦那が東京へ用よう達たしなどに出るおりには、二晩も三晩も帰らないことがあった。二里ほど奥にある、山間の温泉場へ、呼出をかけられて、壮太郎が出向いて行くこともあった。 おかなは素しろ人うとくさい風をして、山やま焦やけのした顔に白粉も塗らず、ぼくぼくした下駄をはいて遣って来たが、お島には土地の名物だといって固い羊よう羹かんなどを持って来た。 女のいる間、お島は家を出て、精米所へ行ったり、浜屋で遊んでいたりした。 精米所では、東京風の品ひんのいい上かみさんが、家に引ひっ込こみきりで、浜屋の後ご家けに産れた主人の男の子と、自分に産れた二人の女の子供の世話をしていた。 ﹁浜屋のおばさんの処とこへいきましょうね﹂ お島は近所の子供たちと、例の公園に遊んでいるその男の子の、綺麗な顔を眺めながら言ってみた。 ﹁あ﹂と、子供は頷うなずいた。 ﹁阿おっ母かさんとおばさんと、孰どっちが好き?﹂お島は言ってみたが、子供には何の感じもないらしかった。 お島はベンチに腰かけて、慵だるい時のたつのを待っていた。庭の運動場の周まわりに植うわった桜の葉が、もう大半黄きばみ枯れて、秋らしい雲が遠くの空に動いていた。お島は時々炉ろば端たで差向いになることのある、浜屋の若い主人のことなどを思っていた。T――市から来ていた、その主人の嫁が、肺病のために長いあいだ生さ家とへ帰されていた。五十一
お島が楽たのしみにして世話をしていた植木畠や花はな圃ばたの床に、霜が段々滋しげくなって、吹ふき曝さらしの一軒家の軒や羽目板に、或時は寒い山やま颪おろしが、凄すさまじく木葉を吹きつける冬が町を見舞う頃になると、商売の方がすっかり閑ひまになって来た壮太郎は、また市まちの方へ出て行って、遊人仲間の群へ入って、勝負事に頭を浸している日が多かった。 持って行った植木の或者は、土が適ふさわぬところから、お島が如い何かに丹精しても、買手のつかぬうちに、立枯になるようなものが多かったが、草花の方も美事に見込がはずれて、種た子ねが思ったほどに捌さばけぬばかりでなく、花はな圃ばたけに蒔まかれたものも発芽や発育が充分でなかった。壮太郎はそれに気を腐らして、この一冬をどうしてお島と二人で、この町に立たて籠こもろうかと思いわずろうた。 山にはもう雪が来ていた。鉱山の方へ搬ばれてゆく、味み噌そや醤しょ油うゆなどを荷造した荷馬が、町に幾頭となく立たち駢ならんで、時しぐ雨れのふる中を、尾をたれて白い息を吹いているような朝が幾日となく続いた。小こは春るび日よ和りの日などには、お島がよく出て見た松並木の往還にある木こび挽き小ご舎やの男達の姿も、いつか見えなくなって、そこから小川を一つ隔てた田たん圃ぼなかにある遊ゆう廓かくの白いペンキ塗の二階や三階の建物を取捲いていた林の木この葉はも、すっかり落尽くしてしまった。 それでも浜屋の奥座敷だけには、裏町にある芸者屋から、時々裾すそをからげて出てゆく箱屋や芸者の姿が見られて、どこからともなく飲みに来る客が絶えなかった。お島は町を通るごとに目についていた、通りの飲食店や、町がさびれてから、どこも達だる磨まをおくようになったと云う旅籠屋などに、働きに入ろうかとさえ思ってみることもあったが、それらのお客が皆みんな近在の百姓や、繭まゆ買かいなどの小こあ商きゅ人うどであることを想ってみるだけでも、身みぶ顫るいが出るほど厭であった。 裸になって市まちから帰って来ると、兄はよくお島のものを持出して、顔を知っている質屋の門などを潜くぐったが、それも種た子ねが尽きて来ると、矢張女のところへ強せ請びりに行くより外なかった。 その使に、お島も時々遣られた。峠の幾いく箇つもある寂しい山道を、お島は独りでてくてく歩いて行った。どこへ行っても人家があった。休み茶屋や居酒屋もあった。女の囲われている町では、馬ばて蹄いや農具を拵こしらえている鍛か冶じ屋やが殊ことに多かった。 ﹁おかなさんが、こんな処によくいられたもんだ﹂お島は不思議に思ったが、それでも女のいるところは、小こざ瀟っぱ洒りした格子造の家であった。家のなかには、東京風の箪たん笥すや長火鉢もきちんとしていた。五十二
けれど、そうしてちょいちょい往ってみる、お島の目に映ったところでは、おかなは兄の思っているほど気楽な身分でもなかった。おかなの話によると、鉱こう敷しき課かとやらの方に勤めて、鉱夫達と一緒に穴へ入るのが職務であるその旦那から、月々配あてがわれる生活費と小遣とは、幾いく許らでもなかった。もと居た市まちの方では、誰も知らないもののない壮太郎との情な交かが、鉱や山まの人達の口から、薄々旦那の耳へも伝わってから、金の受渡しが一層やかましくなって、おかなはその事でどうかすると旦那と豪えらい喧嘩を始めることすらあった。夏の頃から、山間の湯に行ってみたり、市まちの方の医者へ通っていたりしていたおかなの体は、涼すず気けが経つに従って、いくらか肉づいて来たようであったが、やっぱり色いろ沢つやが出て来なかった。それに何どち方らを向いても、山ばかりのこの寂しい町で、雪の深い長い一冬を越すことは、今まで賑にぎやかな市まちにいたおかなに取っては、穴へ入るほど心細い仕事であった。どこか暖い方へ出て、もとの商売をしよう! おかなは時々その相談を、壮太郎にも為てみるのであった。 旦那から少すこしばかりの手切をもらって、おかなが知合をたよって、着のみ着のままで千葉の方へ落ちて行くことになった頃には、壮太郎もすっかり零おち落ぶれはてていた。月はもう十二月であった。山はどこを見ても真白で、町には毎日々々じめじめした霙みぞれが降ったり、雪が積ったりしていた。 東京の自う宅ちの方へ、時々無心の手紙などを書いていた壮太郎が、何の手てご応たえもないのに気を腐らして、女から送って来た金を旅費にして、これもこの町を立って行ったのは、十二月の月ももう半なか過ばすぎであった。旅客の姿の幾ほとんど全く絶えてしまった停車場へ、独ひとり遺のこされることになったお島は、兄を送っていった。精米所の主人や、浜屋の内か儀みさんなどに、家賃や、時々の小遣などの借のたまっていた壮太郎のために、双方の談はな合しあいで、その質かたに、お島の体があずけられる事になったのであった。 寒い冬空を、防寒具の用意すらなかった兄の壮太郎は、古い蝙こう蝠もり傘がさを一本もって、宛さな然がら兇きょ状うじ持ょうもちか何ぞのような身すぼらしい風をして、そこから汽車に乗っていった。鳥打の廂ひさしから、落おち窪くぼんだ目ばかりがぎろりと薄気味わるく光っていた。 その日は、夕方から雪がぼそぼそ降出して来た。綿の入ったものの支度すらできなかったお島は、袷あわせの肌にしみる寒さに顫えながら、汽車の出てしまった寂しい停車場を、浜屋の番傘をさして、独りですごすご出て来た。 ﹁兄さんにすっかりかつがれてしまったんだ!﹂ お島は初めて気がついたように、自分の陥ちて来た立場を考えた。 達だる磨まなどの多い、飲食店のなかからは、煮物の煙などが、薄白く寒い風に靡なびいていた。五十三
繭買いや行商人などの姿が、安やす旅はた籠ごの二階などに見られる、五六月の交こうになるまで、旅客の迹あとのすっかり絶えてしまうこの町にも、県の官吏の定じょ宿うやどになっている浜屋だけには、時々洋服姿で入って来る泊客があった。その中には、鉄道の方の役員や、保険会社の勧誘員というような人達もあったが、それも月が一月へ入ると、ぱったり足がたえてしまって、浜屋の人達は、炉ろば端たに額を鳩あつめて、飽々する時間を消しかねるような怠屈な日が多かった。 ﹁さあ、こんな事をしちゃいられない﹂ 朝の拭ふき掃除がすんで了しまうと、その仲間に加わって、時のたつのを知らずに話に耽ふけっていたお島は、新しん建だちの奥座敷で、昨ゆう夜べも悪わる好ずきな花に夜を更ふかしていた主婦の、起きて出て来る姿をみると、急いで暖かい炉端を離れた。そして冬中女の手のへらされた勝手元の忙しい働きの隙ひま々ひまに見るように、主婦から配あてがわれている仕事に坐った。仕事は大抵、これからの客に着せる夜着や、![※(「糸+弟」、第4水準2-84-31)](../../../gaiji/2-84/2-84-31.png)
五十四
新座敷の方の庭から、丁字形に入込んでいる中庭に臨んだ主人の寝ね室まを、お島はある朝、毎いつ朝もするように掃除していた。障子襖ふすまの燻くすぼれたその部屋には、持主のいない真新しい箪笥が二ふた棹さおも駢ならんでいて、嫁の着物がそっくり中に仕舞われたきり、錠がおろされてあった。お島は苦しい夢を見ているような心持で、そこを掃出していたが、不安と悔恨とが、また新しく胸に沁しみ出だしていた。 お島は人に口を利きくのも、顔を見られるのも厭になったような自分の心の怯おびえを紛らせるために、一層精かい悍がいしい様子をして立働いていた。そして客の膳ぜん立だてなどをする場所に当ててある薄暗い部屋で、妹達と一緒に朝飯をすますと、自分独りの思いに耽るために、急いで湯殿へ入っていった。窓に色いろ硝ガラ子スなどをはめた湯殿には、板壁にかかった姿見が、うっすり昨ゆう夜べの湯気に曇っていた。お島はその前に立って、いびつなりに映る自分の顔に眺なが入めいっていた。親達や兄や多くの知った人達と離れて、こんな処に働いている自分の姿が可いじ憐らしく思えてならなかった。 お島は湯をぬくために、冷い三た和た土きへおりて行った。目が涙に曇って、そこに溢あふれ流れている噴ふき井いの水もみえなかった。他人の中に育ってきたお蔭で、誰にも痒かゆいところへ手の達とどくように気を使うことに慣れている自分が、若主人の背せなかを、昨夜も流してやったことが憶おも出いだされた。そうした不用意の誘惑から来た男の誘惑を、弾はね返かえすだけの意地が、自分になかったことが悲しまれた。 ﹁鶴さんで懲こり々ごりしている!﹂ お島はその時も、溺おぼれてゆく自分の成なり行ゆきに不安を感じた。 お島は力ない手を、浴よく槽そうの縁ふちにつかまったまま、流ながれ減たっていく湯を、うっとり眺めていた。ごぼごぼと云う音を立てて、湯は流れおちていった。 橋をわたって、裏の庫くらの方へゆく、主人の筒つつ袖そでを着た物腰の細ほっそりした姿が、硝子戸ごしにちらと見られた。お島は今朝から、まだ一度もこの主人の顔を見なかった。親しみのないような皮膚の蒼あお白じろい、手足などの繊きゃ細しゃなその体がお島の感覚には、触るのが気味わるくも思えていたのであったが、今朝は一種の魅力が、自分を惹ひき着つけてゆくようにさえ思われた。 ﹁郵便が来ているよ﹂ 不意にその主人が、湯殿のなかへ顔を出して、懐ふところから一封の手紙を出した。 それは王子の父親のところから来たのであった。 ﹁へえ、何でしょう﹂ お島は手を拭きながら、それを受取った。そして封を披ひらいて見た。五十五
山に雪が融けて、紫だったその姿が、くっきり碧あおい空に見られるようになる頃までに、お島は三度も四度も父親の手紙を受取った。 冬中閉とざされてあった煤すすけた部屋の隅すみ々ずみまで、東こ風ちが吹流れて、町に陽かげ炎ろうの立つような日が、幾いく日かとなく続いた。淡雪が意おもいがけなく、また降って来たりしたが、春の日光に照されて、直にびしょびしょ消えて行った。樋ひの破われ目めから漏れおちる垂すい滴てきの水しぶ沫きに、光線が美しい虹を棚たな引びかせて、凧たこの唸うな声りごえなどが空に聞え、乾燥した浜屋の前の往来には、よかよか飴あめの太鼓が子供を呼んでいた。 ﹁お暖あったかになりやした﹂ 浜屋の炉端へ来る人の口から、そんな挨拶が聞かれた。 ちらほら梅の咲きそうな裏庭へ出て、冷い頸えり元もとにそばえる軽い風に吹かれていると、お島は荐しきりに都の空が恋しく想出された。 ﹁御父さんから、また手紙が来ましたよ﹂ 人のいないところで、帯の間から手紙を出してお島は男に見せた。 正月頃までは、ちょいちょい嫁の病気を見にいっていた男は、この頃ではすっかり市まちの方へも足を遠退のいていた。湯殿口や前二階で、ひそひそ話ばなしをしている二人の姿が、妹達の目にも立つようになって来た。 そんな処に何時までぐずぐずしていないで、早く立って来い。父親の手紙は、いつも同じようであったが、お島の身のうえについて、立っているらしい碌ろくでもない噂うわさが、昔むかし気かた質ぎの老とし人よりを怒らせている事は、その文もん言ごんでも受取れた。 ﹁どうしましょう﹂ お島はその度たんびに、目に涙をためて溜ため息いきを吐ついたが、還るとも還らぬとも決らずに、話がぐずぐずになる事が多かった。 ﹁御父さんは、私が酌婦にでもなっているものと思っているのでしょう﹂ お島はそうも言って笑った。 一緒に東京へ出る相談などが、二人のあいだに持上ったが、何もする事のない男は、そこまで盲目には成りきれなかった。市まちへお島を私そっと住わしておこうと云う相談も出たが、精米所の補助を受けて、かつかつ遣っている浜屋の生くら計しむ向きでは、それも出来ない相談であった。 一里半ほど東に当っている谿たに川がわで、水力電気を起すための、測量師や工夫の幾組かが東京からやって来たり、山から降りて来たりする頃には、二人のなかを、誰も異あやしまなかった。月はもう五月に入りかけていた。五十六
嫁の生さ家とや近所への聞えを憚はばかるところから、主おか婦みの取計いで、お島がそれとなく、浜屋といくらか縁続きになっている山の或温泉宿へやられたのは、その月の末頃であった。 S――町の垠はずれを流れている川を溯さかのぼって、重なり合った幾いく箇つかの山やま裾すそを辿たどって行くと、直じきにその温泉場の白壁や屋やの棟むねが目についた。勾こう配ばいの急な町には疾はやい小川の流れなどが音を立てて、石高な狭い道の両側に、幾十かの人家が窮屈そうに軒を並べ合っていた。 お島の行ったところは、そこに十四五軒もある温泉宿のなかでも、古い方の家であったが、崖がけ造づくりの新しい二階などが、蚕の揚り時などに遊びに来る、居いま周わりの人達を迎えるために、地下室の形を備えている味噌蔵の上に建出されてあったりした。庭にはもう苧おだ環まきが葉を繁しげらせ、夏雪草が日に熔とけそうな淡紅色の花をつけていた。 雪の深い冬の間、閉たてきってあったような、その新しん建だちの二階の板戸を開けると、直ぐ目の前にみえる山の傾斜面に拓ひらいた畑には、麦が青々と伸びて、蔵の瓦かわ屋らや根ねのうえに、小こと禽りが怡うれしげな声をたてて啼ないていた。山国の深さを思わせるような朝雲が、見あげる山の松の梢こずえごしに奇くしく眺められた。 繭まゆ時どきにはまだ少し間のあるこの温泉場には、近郷の百姓や附近の町の人の姿が偶たまに見られるきりであった。お島はその間を、ここでも針仕事などに坐らせられたが、どうかすると若い美術学生などの、函はこをさげて飛込んで来るのに出逢った。 ﹁こんな山奥へいらして、何をなさいますの﹂ お島は絶えて聞くことの出来なかった、東京弁の懐かしさに惹ひき着つけられて、つい話に![※(「日/咎」、第3水準1-85-32)](../../../gaiji/1-85/1-85-32.png)
五十七
浜屋の主人が、二度ばかり逢いに来てくれた。 主人は来れば急きっ度と湯に入って、一晩泊って行くことにしていたが、お終しまいに別れてから、物の二日とたたぬうちに、また遣って来た。東京から突だし如ぬけに出て来たお島の父親をつれて来たのであった。 お島はその時、貰もらい子ごの小娘を手かけに負おぶって、裏の山畑をぶらぶらしながら、道端の花を摘つんでやったりしていた。この町でも場末の汚い小こい家えが、二三軒離れたところにあった。朝晩は東京の四月頃の陽気であったが、昼になると、急に真夏のような強い太陽の光熱が目や皮膚に沁しみ通とおって仄ほのかな草いきれが、鼻に通うのであった。一雨ごとに桑の若葉の緑が﹇#﹁緑が﹂は底本では﹁縁が﹂﹈濃くなって行った。 ﹁東京から御おと父っさんが見えたから、ここへ連れて来たよ﹂ 主人は或百姓家の庭の、藤ふじ棚だなの蔭にある溝どぶ池いけの縁ふちにしゃがんで、子供に緋ひご鯉いを見せているお島の姿を見つけると、傍へ寄って来て私ささ語やいた。 ﹁へえ……来ましたか﹂ お島は息のつまるような声を出して叫んだなり、男の顔をしげしげ眺めていた。 ﹁いつ来ました?﹂ ﹁十一時頃だったろう。着くと直ぐ、連れて帰ると言うから、お島さんが此こっ方ちへ来ている話をすると、それじゃ私わしが一人で行って連れて来るといって、急せき立たつもんだからな﹂ ﹁ふむ、ふむ﹂ とお島は鼻はな頭がしらの汗もふかずに聞いていたが、﹁気のはやい御父さんですからね﹂と溜息をついた。 ﹁それでどうしました﹂ ﹁今あすこで一服すって待っているだが、顔さえ見れば直ぐに引ひっ立たてて連れて行こうという見けん脈まくだで……﹂ ﹁ふむ﹂と、お島は蒼くなって、ぶるぶるするような声を出した。 ﹁御父さんにここで逢うのは厭だな﹂お島は手を堅く組んで首を傾かしげていた。﹁どうかして逢わないで還す工夫はないでしょうか﹂ ﹁でも、ここに居ることを打明けてしまったからね﹂ ﹁ふむ……拙まずかったね﹂ ﹁とにかく些ちょっと逢った方がいいぜ。その上で、また善く相談してみたらどうだ﹂ ﹁ふむ――﹂と、お島はやっぱり凄すごい顔をして、考えこんでいた。﹁東京を出るとき、私は一生親の家の厄介にはなりませんと、立派に言いい断きって来ましたからね。今逢うのは実に辛つらい!﹂ お島の目には、ほろほろ涙が流れだして来た。 ﹁為方がない、思おも断いきって逢いましょう﹂暫くしてからお島は言出した。﹁逢ったらどうにかなるでしょう﹂ 二人は藤棚の蔭を離れて、畔あぜ道みちへ出て来た。五十八
父親は奥へも通らず、大きい柱時計や体量器の据えつけてある上り口のところに、行儀よく居いず住まって、お島の小さい時分から覚えている持古しの火の用心で莨たばこをふかしていたが、お島や浜屋にしつこく言われて、漸やっと勝手元近い下座敷の一つへ通った。 ﹁よくいらっしゃいましたね﹂お島は父親の顔を見た時から、胸が一杯になって来たが、空々しいような辞ことばをかけて、茶をいれたり菓子を持って来たりして、何か言出しそうにしている父親の傍に、じっと坐ってなぞいなかった。 ﹁私のことなら、そんな心配なんかして、わざわざ来て下さらなくとも可よかったのに。でも折角来た序ついでですから、お湯にでも入って、ゆっくり遊んで行ったら可いいでしょう﹂ ﹁なにそうもしていられねえ。日帰りで帰るつもりでやって来たんだから﹂父親も落着のない顔をして、腰にさした莨入をまた取出した。 ﹁お前の体が、たといどういうことになっていようとも、恁こうやって己おれが来た以上は、引張って行かなくちゃならない﹂ ﹁どういう風にもなってやしませんよ﹂と、お島は笑っていたが、父親の口くち吻ぶりによると、彼はお島の最初の手紙によって、てっきり兄のために体を売られて、ここに沈んでいるものと思っていた。そして東京では母親も姉も、それを信じているらしかった。 それで父親は、今日のうちにも話をつけて、払うべき借金は綺麗に払って、連れて帰ろうと主張するのであった。 お島はその問題には、なるべく触れないようにして、父親の酒の酌をしたり、夕飯の給仕をしたりすると、奥の部屋に寝転んでいる浜屋の主人のところへ来て、自分の身のうえについて、密談に![※(「日/咎」、第3水準1-85-32)](../../../gaiji/1-85/1-85-32.png)
五十九
お島が腫はれぼったいような目をして、父親の朝飯の給仕に坐ったのは、大分たってからであった。明放した部屋には、朝あさ間まの寒い風が吹通って、田たん圃ぼの方から、ころころころころと啼なく蛙かわずの声が聞えていた。 ﹁今日は雨ですよ。とても帰れやしませんよ﹂お島は縁えんの端はじへ出て、水分の多い曇空を眺めながら呟つぶやいた。 ﹁さあ、どういう風になっているんですかね、私にもさっぱりわからないんですよ。多分お金なんか可いいんでしょう﹂ ここに五十両もって来ているから、それで大概借金の方は片着く意つもりだからといって、父親が胴巻から金を出したとき、お島は空そら![※(「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45)](../../../gaiji/1-84/1-84-45.png)
![※(「日/咎」、第3水準1-85-32)](../../../gaiji/1-85/1-85-32.png)
六十
山の方へ入って行くお島の姿を見たという人のあるのを頼りに、方々捜しあるいた末に、或松山へ登って行った浜屋と父親との目に、猟師に追詰められた兎か何なんぞのように、山裾の谿たに川がわの岸の草原に跪しゃ坐がんでいる、彼女の姿の発見されたのは、それから大分たってからであった。 赤い山やま躑つつ躅じなどの咲いた、その崖がけの下には、迅はやい水の瀬が、ごろごろ転がっている石や岩に砕けて、水しぶ沫きを散ちらしながら流れていた。危い丸木橋が両側の巌いわ鼻はなに架かけ渡わたされてあった。お島はどこか自分の死を想像させるような場所を覗のぞいてみたいような、悪いた戯ずらな誘惑に唆そそられて、そこへ降りて行ったのであったが、流れの音や、四あた下りの静しずけさが、次第に牾もどかしいような彼女の心をなだめて行った。 人の声がしたので、跳はねあがるように身を起したお島の目に、松の枝葉を分けながら、山を降りて来る二人の姿がふと映った。お島は可はず恥かしさに体が慄ぞ然っと立たち悚すくむようであった。 お島は二人の間に挟はさまれて、やがて細い崖道を降りて行ったが、目が時々涙に曇って、足あし下もとが見えなくなった。 父親に引立てられて、お島が車に乗って、山間のこの温泉場を離れたのは、もう十時頃であった。石高な道に、車輪の音が高く響いて、長いあいだ耳についていた町の流れが、高原の平地へ出て来るにつれて、次第に遠ざかって行った。 夏時に氾はん濫らんする水の迹の凄いような河原を渉わたると、しばらく忘れていたS――町のさまが、直じきにお島の目に入って来た。見覚えのある場末の鍛か冶じ屋やや桶おけ屋やが、二三月前の自分の生活を懐かしく想出させた。軒の低い家のなかには、そっちこっちに白い繭まゆの盛もられてあるのが目についた。諸方から入込んでいる繭買いの姿が、めっきり夏めいて来た町に、景気をつけていた。 お島は浜屋で父親に昼飯の給仕をすると、碌ろく々ろく男と口を利くひまもなく、直じきに停ステ車ーシ場ョンの方へ向ったが、主人も裏通りの方から見送りに来た。 ﹁帰ってみて、もし行いくところがなくて困るような時には、いつでも遣って来るさ﹂浜屋は切符をわたすとき、お島に私ささ語やいた。 停車場では、鞄かばんや風呂敷包をさげた繭まゆ商あき人ゅうどの姿が多く目に立った。汽車に乗ってからも、それらの人の繭や生糸の話で、持切りであった。窓から頭を出しているお島の曇った目に、鳥打をかぶって畔あぜ伝づたいに、町の裏通りへ入って行く浜屋の姿が、いつまでも見えた。汽車の進行につれて、S――町や、山の温泉場の姿が、段々彼女の頭あた脳まに遠のいて行った。深い杉木立や、暗い森林が目の前に拡がって来た。ゆさゆさと風にゆられる若葉が、蒼い影をお島の顔に投げた。 自分を窘いじめる好い材料を得たかのように、帰りを待ちもうけている母親の顔が、憶い出されて来た。お島はそれを避けるような、自分の落つき場所を考えて見たりした。六十一
汽車が武むさ蔵しの平野へ降りてくるにつれて、しっとりした空気や、広々と夷なだらかな田畠や矮わい林りんが、水から離れていた魚族の水に返されたような安易を感じさせたが、東京が近ちかづくにつれて、汽車の駐とどまる駅々に、お島は自分の生いの命ちを縮められるような苦しさを感じた。 ﹁このまま自分の生う家ちへも、姉の家へも寄りついて行きたくはない﹂お島は独りでそれを考えていた。 ﹁何等かの運を自分の手で切きり拓ひらくまでは、植源や鶴さんや、以前の都すべての知合にも顔を合したくない﹂と、お島はそうも思いつめた。 王子の停ステ車ーシ場ョンへついたのは、もう晩方であったが、お島は引ひき摺ずられて行くような暗い心持で、やっぱり父親の迹あとへついて行った。静かな町にはもう明あかりがついて、山国に居なれた彼女の目には、何を見ても潤いと懐かしみとがあるように感ぜられた。 父親が、温泉場で目っけて根ぐるみ新聞に包んで持って来た石しゃ楠くな花げや、土地名物の羊よう羹かんなどを提げて、家へ入って行ったとき、姉も自分の帰りを待うけてでもいたように、母親と一緒に茶の間にいた。もう三つになったその子供が歩き出しているのが、お島の目についた。 ﹁へえ、暫く見ないまにもうこんなになったの﹂お島は無造作に挨拶をすますと、自分の傷ついた心の寄りつき場をでも見つけたように、いきなりその子供を膝ひざに抱取った。 ﹁寅とら坊ぼう、このおばちゃんを覚えているかい。お前を可愛がったおばちゃんだよ﹂ 羊羹の片きれを持たされた子供は、直じきにお島に懐なついた。 ﹁何て色が黒くなったんだろう﹂姉はお島の山やけのした顔を眺めながら、可おか笑しそうに言った。お島の様子の田舎じみて来たことが、鈍い姉にも住んでいた町のさまを想像させずにはおかなかった。 ﹁一口に田舎々々と非くさすけれど、それあ好いところだよ﹂お島はわざと元気らしい調子で言出した。 ﹁だって山のなかで、為しか方たのないところだというじゃないか﹂ ﹁私もそう思って行ったんだけれど、住んでみると大違いさ。温泉もあるし、町は綺麗だし、人間は親切だし、王子あたりじゃとても見られないような料理屋もあれば、芸者屋もありますよ。それこそ一度姉さんたちをつれていって見せたいようだよ﹂ ﹁島ちゃんは、あっちで、なにかできたっていうじゃないか。だからその土地が好くなったのさ﹂ ﹁嘘ですよ﹂お島は鼻で笑って、﹁こっちじゃ私のことを何とこそ言ってるか知れたもんじゃありゃしない。困って酌婦でもしていると思ってたでしょう。これでも町じゃ私も信用があったからね、土地に居つくつもりなら、商売の金きん主しゅをしてくれる人もあったのさ﹂ ﹁へえ、そんな人がついたの﹂六十二
山の夢に浸っているようなお島は、直に邪じゃ慳けんな母親のために刺しげ戟きされずにはいなかった。以前から善く聴きなれている﹁業ごう突つく張ばり﹂とか﹁穀ごく潰つぶし﹂とかいうような辞ことばが、彼女のただれた心の創きずのうえに、また新しい痛みを与えた。 お島が下した谷やの方に独身で暮している、父親の従いと姉こにあたる伯母のところに、暫く体をあずけることになったのは、その夏も、もう盆過ぎであった。素もとは或由緒のある剣客の思いものであったその伯母は、時代がかわってから、さる宮家の御ぎょ者しゃなどに取立られていた良おっ人とが、悪い酒しゅ癖へきのために職を罷やめられて間もなく死んでしまった後は、一人の娘とともに、少すこしばかり習いこんであった三味線を、近所の娘達に教えなどして暮していたが、今は商売をしている娘の時々の仕送りと、人の賃仕事などで、漸ようよう生きている身の上であった。 昔しを憶いだすごとに、時々口にすることのある酒が、萎なえつかれた脈管にまわってくると、爪つめ弾びきで端はう唄たを口くち吟ずさみなどする三味線が、火ひば鉢ちの側の壁にまだ懸っていた。良人であったその剣客の肖像も、煤すすけたまま梁うつばりのうえに掲かかっていた。 お島は養家を出てから、一二度ここへも顔出しをしたことがあったが、年を取っても身だしなみを忘れぬ伯母の容態などが、荒く育ってきた彼女には厭味に思われた。色の白そうな、口くち髭ひげや眉まゆや額の生はえ際ぎわのくっきりと美しいその良人の礼服姿で撮とった肖像が、その家には不似合らしくも思えた。 ﹁伯母さんの旦那は、こんなお上品な人だったんですかね﹂ お島は不思議そうにその前へ立って笑った。その良人が、若いおりには、或大名のお抱えであったりした因いん縁ねんから、桜田の不意の出来事当時の模様を、この伯母さんは、お島に話して聞かせたりした。子供をつれて浅草へ遊びに行ったとき、子供が荷物に突当ったところから、天てん秤びん棒ぼうを振あげて向って来る甘酒屋を、群衆の前に取って投げて、へたばらしたという話なども、お島には芝居の舞台か何ぞのように、その時のさまを想像させるに過ぎなかった。 ﹁この伯母さんも、旦那のことが忘れられないでいるんだ﹂ 伯母と一緒に暮すことになってから、お島は段々彼女の心持に、同感できるような気がして来た。 ﹁やっぱり男で苦労した若い時代が忘れられないでいるんだ﹂ お島はそうも思った。 そんなに好いものも縫えなかった伯母の身のまわりには、それでも仕事が絶えなかった。中には芸者屋のものらしい派手なものもあった。 その手てだ助すけに坐っているお島は、仕事がいけぞんざいだと云って、どうかすると物差で伯母に手を打ぶたれたりした。 重おもに気のはらない、急ぎの仕事にお島は重宝がられた。六十三
客から註文のセルやネルの単ひと衣えも物のの仕立などを、ちょいちょい頼みに来て、伯母と親しくしていたところから、時にはお島の坐っている裁たち物もの板いたの側へも来て、寝そべって戯じょ談うだんを言合ったりしていた小野田と云う若い裁縫師と一緒に、お島が始めて自分自身の心と力を打うち籠こめて働けるような仕事に取着こうと思い立ったのは、その頃初まった外国との戦争が、忙いそがしいそれ等の人々の手に、色々の仕事を供給している最さな中かであった。 自分の仕事に思うさま働いてみたい――奴隷のようなこれまでの境きょ界うがいに、盲動と屈従とを強しいられて来た彼女の心に、そうした欲望の目覚めて来たのは、一度山から出て来て、お島をたずねてくれた浜屋の主人と別れた頃からであった。 東京へ帰ってからのお島から、時々葉書などを受取っていた浜屋の主人は、菊の花の咲く時分に、ふいと出て来てお島のところを尋ねあてて来たのであったが、二日三日逗とう留りゅうしている間に、お島は浅草や芝居や寄よ席せへ一緒に遊びに行ったり、上野近くに取っていたその宿へ寄って見たりした。 浜屋は近頃、以前のように帳場に坐ってばかりもいられなかった。そして鉱や山まの売うり買かいなどに手を出していたところから、近まわりを其そっ方ちこっち旅をしたりして暮していたが、東京へ来たのもそんな仕事の用事であった。 ﹁気を長くして待っていておくれ。そのうち一つ当れば、お島さんだってそのままにしておきゃしない﹂ 彼は今でもお島をT――市まちの方へつれていって、そこで何等かの水商売をさせて、囲っておく気でいるらしかった。 ﹁今更あの山のなかへなぞ行って暮せるもんですか。お妾さんなんか厭なこった﹂お島はそう言って笑って別れたのであった。 男は少しばかりの小こづ遣かいをくれて、停ステ車ーシ場ョンまで送ってくれた女に、冬にはまた出て来る機会のあることを約束して、立っていった。 東京で思いがけなく男に逢えたお島は、二三日の放ほし肆いままな遊びに疲れた頭あた脳まに、浜屋のことと、若い裁縫師のこととを、一緒に考えながら、ぼんやり停車場を出て来た。六十四
﹁どうです、こんな仕事を少し助すけてくれられないでしょうか﹂と、小野田がそう言って、持って来てくれた仕事は、これから寒さに向って来る戦地の軍隊に着せるような物ばかりであった。 それまで仕売物ばかり拵こしらえている或工場に働いていた小野田は、そんな仕事が仲間の手に溢あふれるようになってから、それを請うけ負おうことになった工場の註文を自分にも仕上げ、方々人にも頼んであるいた。 ﹁仕事はいっくらでも出ます。引受けきれないほどあります﹂ 小野田はお島がやってみることになった、毛布の方の仕事を背し負ょいこんで来ると、そう言ってその遣方を彼女に教えて行った。 毛布というのは兵士が頭から着る柿色の防寒外がい套とうであった。女の手に出来るようなその纏まとめに最初働いていたお島は、縫あがった毛布にホックや釦ボタンをつけたり、穴かがりをしたりすることに敏びん捷しょうな指ゆび頭さきを慣した。﹁これのまとめが一つで十三銭ずつです﹂小野田がそう云って配あてがっていった仕事を、お島は普通の女の四倍も五倍もの十四五枚を一日で仕上げた。 手ばしこく針を動かしているお島の傍へ来て、忙せわしいなかを出来上りの納おさめものを取りに来た小野田はこくりこくりと居睡をしていた。 平気で日に二円ばかりの働きをするお島の帯のあいだの財布のなかには、いつも自分の指ゆび頭さきから産出した金がざくざくしていた。 ﹁こんな女ひとを情い婦ろにもっていれば、小遣に不自由するようなことはありませんな﹂ 小野田は眠からさめると、せっせと穴かがりをやっている手の働きを眺めながら、そう言ってお島の働きぶりに舌を捲まいていた。 ﹁どうです、私を情い婦ろにもってみちゃ﹂お島は笑いながら言った。 ﹁結構ですな﹂ 小野田はそう言いながら、品物を受取って、自転車で帰っていった。 ホックづけや穴かがりが、お島には慣れてくると段々間まだ弛るっこくて為方がなくなって来た。 年の暮には、お島はそれらの仕事を請負っている小野田の傭やとわれ先の工場で、ミシン台に坐ることを覚えていた。むずかしい将校服などにも、綺麗にミシンをかけることが出来てきた。 ﹁訳あないや、こんなもの、男は意気地がないね﹂ お島はのろのろしている、仲間を笑った。 車につんで、溜ため池いけの方にある被ひふ服くし廠ょうの下した請うけをしている役所へ搬はこびこまれて行く、それらの納めものが、気むずかしい役員等らのために非けちをつけられて、素直に納まらないようなことがざらにあった。 ﹁こんなものが納まらなくちゃ為方がないじゃありませんか﹂ 男達に代って、それらの納めものを持って行くことになったとき、お島はそう言って、ミシンが利いていないとか、服地が粗悪だとか、何なんだかんだといって、品物を突返そうとする役員をよく丸め込んだ。 お島のおしゃべりで、品物が何の苦もなく通過した。六十五
お島が自分だけで、どうかしてこの商売に取着いて行きたいとの望みを抱きはじめたのは、彼女が一日工場でミシンや裁たち板いたの前などに坐って、一円二円の仕事に働くよりも、註文取や得意まわりに、頭あた脳まを働かす方に、より以上の興味を感じだしてからであった。 ﹁被服も随分扱ったが、女の洋服屋ってのは、ついぞ見たことがないね﹂ ちょいちょい納おさ品めものを持って行くうちに、直じきに昵ちか近づきになった被服廠の役員たちが、そう云って、てきぱきした彼女の商あきないぶりを讃ほめてくれた辞ことばが、自分にそうした才能のある事をお島に考えさせた。 ﹁洋服屋なら女の私にだってやれそうだね﹂ 仕事の途絶えたおりおりに、家の方にいるお島のところへ遊びに来る小野田に、お島がその事を言出したのは、今までその働きぶりに目を注いでいる小野田に取っては、自分の手で、彼女を物にしてみようと云う彼の企てが、巧く壺つぼにはまって来たようなものであった。 ﹁遣ってやれんこともないね﹂感じが鈍いのか、腹が太いのか解らないような小野田は、にやにやしながら呟つぶやいた。名古屋の方で、二はた十ち歳ご頃ろまで年季を入れていたこの男は、もう三十に近い年輩であった。上うわ向むきになった大きな鼻はな頭がしらと、出張った頬ほお骨ぼねとが、彼の顔に滑こっ稽けいの相を与えていたが、脊せが高いのと髪の毛が美しいのとで、洋服を着たときの彼ののっしりした厳いかつい姿が、どうかするとお島に頼もしいような心を抱かしめた。 ﹁私のこれまで出逢ったどの男よりも、お前さんは男振が悪いよ﹂お島はのっそりした無口の彼を前において、時々遠慮のない口を利いた。 ﹁むむ﹂小野田はただ笑っているきりであった。 ﹁だけどお前さんは洋服屋さんのようじゃない。よくそんな風をしたお役人があるじゃないか﹂ しなくなした前まえ垂だれがけの鶴さんや、蝋ろう細ざい工くのように唯美しいだけの浜屋の若主人に物足りなかったお島の心が、小野田のそうした風ふう采さいに段々惹ひき着つけられて行った。 ﹁工場から引っこぬいて、これを自分の手で男にしてみよう﹂ 薄うす野の呂ろか何ぞのような眠たげな顔をして、いつ話のはずむと云うこともない小野田と親しくなるにつれて、不思議な意地と愛あい着じゃくとがお島に起って来た。 ﹁洋服屋も好い商売だが、やっぱり資も本とがなくちゃ駄目だよ。金の寝る商売だからね﹂小野田はお島に話した。 ﹁資も本とがあってする商売なら、何だって出来るさ。だけれど、些ちょっとした店で、どのくらいかかるのさ﹂ ﹁店によりきりさ。表通りへでも出ようと云うには、生なまやさしい金じゃとても駄目だね﹂六十六
芝の方で、適当な或小ちいさい家が見つかって、そこで小野田と二人で、お島がこれこそと見込んだ商売に取着きはじめたのは、十二月も余程押迫って来てからであった。 そうなるまでに、お島は幾度生う家ちの方へ資金の融通を頼みに行ったか知れなかった。小いところから仕上げて大きくなって行った、大おお店だなの成功談などに刺しげ戟きされると、彼女はどうでも恁こうでもそれに取着かなくてはならないように心が焦いらだって来た。町を通るごとに、どれもこれも相当に行き立っているらしい大きい小いそれらの店が、お島の腕をむずむずさせた。見たところ派手でハイカラで儲もうけの荒いらしいその商売が、一番自分の気分に適ふさっているように思えた。 ﹁田町の方に、こんな家があるんですがね﹂ お島はもと郵便局であった、間口二間に、奥行三間ほどの貸家を目っけてくると、早速小野田に逢ってその話をした。金をかけて少しばかり手入をすれば、物に成りそうに思えた。 ﹁取とり着つきには持ってこいの家だがね﹂ 持主が、隣の酒屋だと云うその家が、小野田にも望みがありそうに思えた。 ﹁あすこなら、物の百円とかけないで、手頃な店が出来そうだね。それに家賃は安いし、大家の電話は借りられるし﹂ 幾度足を運んでも、母親が頑がん張ばって金を出してくれない生う家ちから、鶴さんと別れたとき搬はこびこんで来たままになっている自分の箪たん笥すや鏡台や着物などを、漸やっとのことで持出して来たとき、お島は小野田や自分の手で、着物の目星しいものをそっち此こっ方ち売ってあるいた。 もと大秀の兄弟分であった大工が愛あた宕ごし下たの方にいることを、思いだして、それに店の手入を頼んでから、郵便局に使われていた古いその家の店が、急に土間に床が拵こしらえられたり、天井に紙が張られたり、棚が作られたりした。一畳三十銭ばかりの安畳が、どこかの古道具屋から持運ばれたりした。 雨降がつづいて、木きぎ片れや鋸おが屑くずの散らかった土間のじめじめしているようなその店へ、二人は移りこんで行った。 陳列棚などに思わぬ金がかかって、店が全く洋服屋の体裁を具そなえるようになるまでに、昼間お島の帯のあいだに仕舞われてある財布が、二度も三度も空からになった。大工が道具箱を隅すみの方に寄せて、帰って行ってから、お島はまたあわただしく箪笥の抽ひき斗だしから取出した着物の包をかかえて、裏から私そっと出て行った。 外はもう年とし暮ぐれの景色であった。赤い旗や紅べに提ぢょ灯うちんに景気をつけはじめた忙しい町のなかを、お島は込合う電車に乗って、伯母の近所の質屋の方へと心が急せかれた。六十七
ミシンや裁たち台だいなどの据えつけに、それでも尚なお足りない分を、お島の顔で漸やっと工面ができたところで、二人の渡わたり職しょ人くにんと小僧とを傭い入れると、直に小野田が被ひふ服くし廠ょうの下請からもらって来た仕事に働きはじめた。 ﹁大おお晦みそ日かにはどんな事があってもお返しするんですがね。仕事は山ほどあって、面白いほど儲もうかるんですから﹂ お島はそう言ってそのミシンや裁たち板いたを買入れるために、小野田の差金で伯母の関係から知合いになった或る衣いし裳ょう持もちの女から、品物で借りて漸やっと調ととのえることのできた際きわどい金を、彼女は途中で目についた柱時計や、掛かけ額がくなどがほしくなると、ふと手を着けたりした。 ﹁みんな店のためです。商売の資も本とになるんです﹂ お島は小野田に文句を言われると、悧りこ巧うぶって応こたえた。 まだ自分の店に坐った経験のない小野田の目にも、そうして出来あがった店のさまが物珍しく眺められた。 ﹁うんと働いておくれ。今にお金ができると、お前さんたちだって、私が放うっ抛ちゃっておきやしないよ﹂ お島はそう言って、のろのろしている職人に声をかけたが、夜おそくまで廻っているミシンの響や、アイロンの音が、自分の腕一つで動いていると思うと、お島は限りない歓喜と矜ほこりとを感じずにはいられなかった。 劇はげしい仕事のなかに、朝から薄ら眠いような顔をしている乱だら次しのない小野田の姿が、時々お島の目についた。 ﹁ちッ、厭になっちまうね﹂ お島は針の手を休めて、裁板の前にうとうとと居いね睡むりをはじめている、彼の顔を眺めて呟つぶやいた。 ﹁どうしてでしょう。こんな病気があるんだろうか﹂ 職人がくすくす笑出した。 ﹁そんなこって善く年季が勤まったと思うね﹂ ﹁莫ば迦かいえ﹂小野田は性しょうがついて来ると、また手を働かしはじめた。 色々なものの支払いのたまっている、大晦日が直じきに来た。品物でかりた知合の借金に店たな賃ちん、ミシンの月賦や質の利子もあった。払いのこしてあった大工の賃銀のことも考えなければならなかった。 ﹁こんなことじゃとても追おっ着つきこはありゃしない﹂お島は暮に受取るべき賃銀を、胸算用で見積ってみたとき、そう言って火鉢の前に腕をくんで考えこんだ。 ﹁もっともっと稼がなくちゃ﹂お島はそう言って気をあせった。六十八
大おお晦みそ日かが来るまでに、二時になっても三時になっても、皆が疲れた手を休めないような日が、三日も四日も続いた。 夜が更ふけるにつれて、表通りの売出しの楽隊の囃はやしが、途絶えてはまた気けだ懈るそうに聞えて来た。門飾の笹ささ竹だけが、がさがさと憊くたびれた神経に刺さるような音を立て、風の向むきで時々耳に立つ遠くの町の群衆の跫あし音おとが、潮うしおでも寄せて来るように思い做なされた。 職人達の口に、嗄かれ疲れた話声が途絶えると、寝不足のついて廻っているようなお島の重い頭あた脳まが、時々ふらふらして来たりした。がたんと言うアイロンの粗がさ雑つな響が、絶えず裁板のうえに落ちた。ミシンがまた歯の浮くような騒々しさで運転しはじめた。 ﹁この人到頭寝てしまったよ﹂ 寒さ凌しのぎに今までちびちび飲んでいた小野田が、いつの間にかそこに体を縮めて、ごろ寝をしはじめていた。 ﹁今日は幾いく日かだと思っているのだい﹂ ﹁上かみさんは感心に目の堅い方ほうですね﹂職人がそれに続いてまた口を利いた。 ﹁私は二日や三日寝ないだって平気なもんさ﹂ お島は元気らしく応こたえた。 晦日の夜おそく、仕上げただけの物を、小僧にも脊し負ょわせ、自分にも脊負って、勘定を受取って来たところで、漸やっと大家や外の小口を三四軒片着けたり、職人の手間賃を内金に半分ほども渡したりすると、残りは何程もなかった。 ﹁宅うちじゃこういう騒ぎなんです﹂ 品物を借りてある女が、様子を見に来たとき、お島は振ふり顧むきもしないで言った。 店には仕事が散ちらかり放題に散かっていた。熨のし斗も餅ちが隅すみの方におかれたり、牛ごぼ蒡うじ締めや輪飾が束つかねられてあったりした。 ﹁貴あな女たの方は大口だから、今夜は勘弁してもらいましょうよ﹂ お島はわざと嵩かさにかかるような調子で言った。 小野田に嫁の世話を頼まれて、伯母がこれをと心がけていたその女は、言にくそうにして、職人の働きぶりに目を注いでいた。女は居いづ辛らかった田舎の嫁入先を逃げて来て、東京で間借をして暮していた。着替や頭あた髪まの物などと一緒に持っていた幾いく許らかの金も、二三月かげつの東京見物や、月々の生活費に使ってしまってから、手が利くところから仕立物などをして、小遣を稼かせいでいた。二三度逢ううち直にお島はこの女を古い友達のようにして了った。 ﹁まあ宅うちへ来て年越でもなさいよ﹂お島は女に言った。 女は惘あきれたような顔をして、火鉢の傍で小野田と差向いに坐っていたが、間もなく黙って帰って行った。 ﹁いくらお辞儀が嫌いだって、あんなこと言っちゃ可いけねえ﹂後で小野田がはらはらしたように言出した。 ﹁ああでも言って逐おっ攘ぱらわなくちゃ、遣やり切きれやしないじゃないか﹂お島は顫ふるえるような声で言った。 ﹁不人情で言うんじゃないんだよ。今に恩返しをする時もあるだろうと思うからさ﹂六十九
同じような仕事の続いて出ていた三みつ月きばかりは、それでもまだどうか恁こうかやって行けたが、月が四月へ入って、ミシンの音が途絶えがちになってしまってからは、お島が取かかった自分の仕事の興味が、段々裏切られて来た。職人の手間を差引くと、幾いく許らも残らないような苦しい三み十そ日かが、二ふた月つきも三月も続いた。家賃が滞ったり、順繰に時々で借りた小ちいさい借金が殖ふえて行ったりした。 ﹁これじゃ全まる然で私達が職人のために働いてやっているようなものです﹂お島は遣やり切きりのつかなくなって来た生活の圧迫を感じて来ると、そう言って小野田を責めた。冬中忙せわしかった裁板の上が、綺麗に掃除をされて、職人の手を減した店のなかが、どうかすると吹払ったように寂しかった。 近頃電話を借りに行くこともなくなった大家の店には、酒の空あき瓶びんにもう八重桜が生いかっているような時候であった。そこの帳場に坐っている主人から、お島たちは、二度も三度も立たち退のきの請求を受けた。 ﹁洋服屋って、皆みんなこんなものなの。私は大変な見込ちがいをして了った﹂ 終しまいに工賃の滞っているために、身動きもできなくなって来た職人と、店みせ頭さきへ将棋盤などを持出していた小野田の、それにも気乗がしなくなって来ると、ぽかんとして女の話などをしている暢のん気きそうな顔が、間がぬけたように見えたりして、一人で考え込んでいたお島はその傍へ行って、やきもきする自分を強しいて抑えるようにして笑いかけた。 ﹁何なあに、そうでもないよ﹂ 小野田は顔を顰しかめながら、仕事道具の饅まん頭じゅうを枕に寝そべって、気の長そうな応うけ答ごたえをしていた。 お島はのろくさいその居眠姿が癪しゃくにさわって来ると、そこにあった大きな型定規のような木きぎ片れを取って、縮ちぢ毛れげのいじいじした小野田の頭あた顱まへ投なげつけないではいられなかった。 ﹁こののろま野郎!﹂ お島は血走ったような目一杯に、涙をためて、肉厚な自分の頬ほお桁げたを、厚い平手で打返さないではおかない小野田に喰くってかかった。猛烈な立ちまわりが、二人のあいだに始まった。 殺しても飽足りないような、暴悪な憎悪の念が、家を飛出して行く彼女の頭に湧わき返かえっていた。 暫くすると、例の女が間借をしている二階へ、お島は真まっ蒼さおになって上って行った。 ﹁あの男と一緒になったのが、私の間違いです。私の見みそ損こないです﹂お島は泣きながら話した。 ﹁どうかして一いち人にん前まえの人間にしてやろうと思って、方々駈かけずりまわって、金をこしらえて店を持ったり何かしたのが、私の見込ちがいだったのです﹂ お島は口く惜やしそうにぼろぼろ涙を流しながら言った。 ﹁どうしても私は別れます。あの男と一緒にいたのでは、私の女が立ちません﹂ 荒い歔すす欷りなきが、いつまで経っても遏やまなかった。七十
﹁どうなすったね﹂ 脇目もふらずに、一日仕事にばかり坐っている沈みがちなその女は、惘あきれたような顔をして、お島が少し落着きかけて来たとき、言出した。 ﹁貴あん女たはよく稼ぐというじゃないかね。どうしてそう困るね﹂ ﹁私がいくら稼いだって駄目です。私はこれまで惰なまけるなどと云われたことのない女です﹂お島は涙を拭ふきながら言った。 ﹁洋服屋というものは、大変儲もうかる商売だということだけれど……二人で稼いだら楽にやって行けそうなものじゃないかね﹂女はやっぱり仕事から全く心を離さずに笑っていた。 ﹁それが駄目なんです。あの男に悪い病気があるんです。私は行やろうと思ったら、どんな事があっても遣やり通とおそうって云う気象ですから、のろのろしている名古屋ものなぞと、気のあう筈はずがないんです﹂ ﹁そんな人とどうして一緒になったね﹂女はねちねちした調子で言った。 お島は﹁ふむ﹂と笑って、泣顔を背そ向むけたが、この女には、自分の気分がわかりそうにも思えなかった。 ﹁でも東京というところは、気楽な処じゃないかね。私わし等ら姑しゅうとさんと気が合わなんだで、恁こうして別れて東京へ出て来たけれど、随分辛い辛抱もして来ましたよ。今じゃ独ひと身りの方が気楽で大変好いわね。御亭主なんぞ一生持つまいと思っているわね﹂ ﹁何を言っているんだ﹂と云うような顔をして、お島は碌ろく々ろくそれには耳も仮さなかった。そしてやっぱり自分一人のことに思い耽ふけっていた。時々胸からせぐりあげて来る涙を、強いて圧おしつけようとしたが、どん底から衝こみ動あげて来るような悲痛な念おもいが、留とめどもなく波だって来て為方がなかった。どこへ廻っても、誤り虐しいたげられて来たような自分が、可いじ憐らしくて情なさけなかった。 小野田がのそりと入って来たときも、静に針を動かしている女の傍に、お島は坐っていた。どんよりした目には、こびり着いたような涙がまだたまっていた。 ﹁何だ、そんな顔をして。だから己おれが言うじゃないか、どんな商売だって、一年や二年で物になる気遣はないんだから、家のことはかまわないで、お前はお前で働けばいいと﹂ 小野田はそこへ胡あぐ坐らをくむと、袂たもとから莨たばこを出してふかしはじめた。 ﹁被服の下請なんか、割があわないからもう断然止めだ。そして明あし朝たから註文取におあるきなさい﹂ お島は﹁ふむ﹂と鼻であしらっていたが、女の註文取という小野田の思いつきに、心が動かずにはいなかった。 ﹁そしてお前には外で活動してもらって、己は内をやる。そうしたら或は成立って行くかも知れない﹂ ﹁こんな身な装りで、外へなんか出られるもんか﹂お島ははねつけていたが、誰もしたことのないその仕事が、何よりも先ず自分には愉快そうに思えた。 帰るときには、お島のいらいらした感情が、すっかり和なだめられていた。そして明あし日たから又初めての仕事に働くと云うことが、何かなし彼女の矜ほこりを唆そそった。 ﹁こうしてはいられない﹂ 彼女の心にはまた新しい弾力が与えられた。七十一
晩春から夏へかけて、それでもお島が二着三着と受けて来た仕事に、多少の景気を添えていたその店も、七、八、九の三月にわたっては、金にならない直しものが偶たまに出るくらいで、ミシンの廻転が幾どもばったり止ってしまった。 最初お島が仲間うちの店から借りて来たサンプルを持って、註文を引出しに行ったのは、生さ家との居いま周わりにある昔からの知合の家などであったが、受けて来る仕事は、大抵詰つめ襟えりの労働服か、自転車乗の半はん窄ズボ袴ンぐらいのものであった。それでもお島の試された如才ない調子が、そんな仕事に適していることを証あかすに十分であった。 サンプルをさげて出歩いていると、男のなかに交まざって、地じを取決めたり、値段の掛引をしたり、尺を取ったりするあいだ、お島は自分の浸っているこの頃の苦しい生活を忘れて、浮々した調子で、笑じょ談うだんやお世辞が何の苦もなく言えるのが、待設けない彼女の興味をそそった。 煙突の多い王子のある会社などでは、応おう接せつ室まへ多勢集って来て、面白そうに彼女の周まわ囲りを取とり捲まいたりした。 ﹁もし好かったら、どしどし註文を出そう﹂ その中の一人はそう言って、彼女を引立てるような意志をさえ漏した。 ﹁そう一時ときに出ましても、手前どもではまだ資本がございませんから﹂ お島はその会社のものを、自分の口一つで一手に引受けることが何の雑作もなさそうに思えたが、引受けただけの仕事の材料の仕込にすら差さし閊つかえていることを考えずにはいられなかった。 註文が出るに従って、材料の仕込に酷ひどく工くめ面んをして追おっ着つかないような手づまりが、時々好いい顧とく客いを逃したりした。 ﹁ええ、可よろしゅうございますとも、外ほかさまではございませんから﹂ 品物を納めに行ったとき、客から金の猶予を言出されると、お島は悪い顔もできずに、調子よく引受けたが、それを帰って、後の仕入の金を待設けている小野田に、報告するのが切せつなかった。それでまた外の顧とく客いさ先きへ廻って、懈だるい不安な時間を紛らせていなければならなかった。 ﹁堅い人だがね、どうしてくれなかったろう﹂ お島は小野田の失望したような顔を見るのが厭いやさに、小野田がいつか手本を示したように、私そっと直しものの客の二重廻しなどを風呂敷に裹つつみはじめた。 ﹁どうせ冬まで寝ねかしておくものだ﹂お島は心の奥底に淀よどんでいるような不安と恐怖を圧しつけるようにして言った。そしてこの頃昵なじみになった家へ、それを抱だきこんで行った。 一日外をあるいているお島は、夜になるとぐっすり寝込んだ。昼間居眠をしておる男の体が、時々夢ゆめ現うつつのような彼女の疲れた心に、重苦しい圧迫を感ぜしめた。七十二
それからそれへと、段々展ひろげて行った遠い顧とく客いさ先きまわりをして、どうかすると、夜遅くまで帰って来ないお島には解らないような、苦しい遣やり繰くりが持切れなくなって来たとき、小野田の計画で到頭そこを引払って、月島の方へ移って行ったのは、その冬の初めであった。 造作を売った二百円弱たらずの金が、その時小野田の手にあった。細こま々ごました近所の買がかりに支払をした残りで、彼はまた新しく仕事に取とっ着つく方針を案出して、そこに安い家を見つけて、移って行ったのであったが、意おもいのほか金が散かったり品物が掛かけになったりして、資本の運転が止ったところで、去年よりも一層不安な年の暮が、直すぐにまた二人を見舞って来た。 荒いコートに派手な頸えり捲まきをして、毎日のように朝夙はやくから出歩いているお島が、掛先から空から手てでぼんやりして帰って来るような日が、幾いく日かも続いた。 仕事の途絶えがちな――偶たまに有っても賃銀のきちんきちんと貰えないような仕事に働くことに倦うんで来た若い職人は、好い口を捜すために、一日店をあけていた。 病気のために、中途戦争から帰って来たその職人は、軍隊では上官に可愛がられて上等兵に取立てられていたが、久振で内地へ帰ってくると、職人気かた質ぎの初めのような真ま面じ目めさがなくなって、持って来た幾いく許らかの金で、茶屋酒を飲んだり、女に耽ふけったりして、金に詰って来たために、もと居た店の物をこかしたり、友達の着物を持逃したりして居いど所ころがなくなったところから、小野田の店へ流れて来たのであったが、その時にはもうすっかりさめてしまって、旧もとの小心な臆病ものの自分になり切っていた。 来た当座、針を動かしている彼は時々巡査の影を見て怕おそれおののいていた。そしてどんな事があっても、一切日ひの面おもてへ出ることなしに、家にばかり閉とじ籠こもっていた。彼は救われたお島のために、家のなかではどんな用事にも働いたが、昼間外へ出ることとなると、釦ボタン一つ買いにすら行けなかった。点呼にも彼は居所を晦くらましていて出て行く機会を失った。それが一層彼の心を萎いし縮ゅくさせた。 今朝も彼は朝飯のとき、奥での夫婦の争いを、蒲ふと団んのなかで聴いていながら、臆病な神経を戦わななかせていた。最初その争いは多分夫婦間独自の衝突であったらしく思えたが、この頃の行詰った生活問題にも繋つながっていた。 ﹁私はこうみえても動物じゃないんだよ。そうそう外も内も勤めきれんからね﹂ お島はこの頃よく口にするお株を、また初めていた。 誰があの職人を今まで引留めておいたかと言うことが、二人の争いとなった。 ﹁お前さんさえ働けば、家なんざ小僧だけで沢山なんだ﹂飽っぽいようなお島が言出していた。どんな事があっても、三人でこの店を守立ててみせると力んでいた彼女が、どんな不人情な心を持っているかとさえ疑われた。七十三
二日ばかり捜しあるいた口が、どこにも見つからなかったのに落がっ胆かりした彼が、日の暮方に疲れて渡わた場しばの方から帰って来たとき、家のなかは其そ処こらじゅう水だらけになっていた。 以前友達の物を持逃したりなどしたために、警察へ突出そうとまで憤っている男もあって、急にぐれてしまった自分の悪い噂うわさが、そっちにも此こっ方ちにも拡がっていることを感づいたほか、何の獲物もなかった彼は、当分またお島のところに置いてもらうつもりで、寒い渡しを渡わたって、町へ入って来たのであったが、お島の影はどこにも見えずに、主人の小野田が雑ぞう巾きんを持って、水浸しになった茶の間の畳をせっせと拭ふいていた。 気の小さい割には、躯からだの厳丈づくりで、厚手に出来た唇くちびるや鼻の大きい銅あか色がねいろの皮膚をした彼は、惘あきれたような顔をして、障子も襖ふすまもびしょびしょした茶ちゃの室まの入口に突立っていた。 ﹁どうしたんです、私あっしの留守のまに小ぼ火やでも出たんですか﹂ ﹁何なあに、彼あい奴つの悪いた戯ずらだ。為様のない化物だ﹂小野田はそう言って笑っていた。 昨日の晩から頭あた顱まが痛いといってお島はその日一日充血したような目をして寝ていた。髪が総毛立ったようになって、荒い顔の皮膚が巖いわ骨っころのように硬こわ張ばっていた。そして時々うんうん唸うなり声をたてた。 米や醤した油じを時とき買がいしなければならぬような日が、三日も四日も二人に続いていた。お島は朝から碌ろく々ろく物も食べずに、不思議に今まで助かっていた鶴さん以来の蒲ふと団んを被かぶって臥ふせっていた。 自身に台所をしたり、買いものに出たりしていた小野田には、女手のない家か何ぞのような勝手元や家のなかの荒れ方が、腹立しく目についたが、それはそれとして、時々苦しげな呻うめ吟きの聞える月経時の女の躯からだが、やっぱり不安であった。 ﹁腰の骨が砕けて行きそうなの﹂ お島は傍へ寄って来る小野田の手に、絡からみつくようにして、赭あかく淀おどみ曇うるんだ目を見据えていた。 小野田は優しい辞ことばをかけて、腰のあたりを擦さすってやったりした。 ﹁私はどこか体を悪くしているね。今までこんな事はなかったんだもの。私の体が人と異ちがっているのかしら、誰でも恁こうかしら﹂お島は小野田に体に触らせながら、この頃になって萌きざしはじめて来た、自分か小野田かに生理的の欠陥があるのではないかとの疑いを、その時も小野田に訴えた。 お島は小野田に済まないような気のすることもあったが、この結婚がこんな苦しみを自分の肉体に齎もたらそうとは想いもかけなかった。 お島は今着ているものの聯れん想そうから鶴さんの肉体のことを言出しなどして、小野田を気きま拙ずがらせていた。男の体に反抗する女の手が、小野田の火ほ照てった頬ほおに落ちた。 兇暴なお島は、夢中で水道の護ゴム謨せ栓んを向けて、男の復ふく讎しゅうを防ごうとした。七十四
小野田の怯ひるんだところを見て、外へ飛出したお島は、何ど処こへ往くという目当もなしに、幾いく箇つもの町を突切って、不思議に勢いづいた機械のような足で、ぶらぶら海岸の方へと歩いて行った。 町幅のだだっ広い、単調で粗がさ雑つな長い大通りは、どこを見向いても陰鬱に闃ひっ寂そりしていたが、その癖寒い冬の夕暮のあわただしい物音が、荒さびれた町の底に淀おどんでいた。燻くすみきった男女の顔が、そこここの薄暗い店屋に見られた。活気のない顔をして職工がぞろぞろ通ったり、自転車のベルが、海辺の湿っぽい空気を透して、気けう疎とく耳に響いたりした。目に見えないような大だい道どうの白い砂が、お島の涙にぬれた目や頬に、どうかすると痛いほど吹つけた。 お島は死場所でも捜しあるいている宿なし女のように、橋の袂たもとをぶらぶらしていたが、時々欄らん干かんにもたれて、争闘に憊つかれた体に気い息きをいれながら、ぼんやり彳たたずんでいた。寒い汐しお風かぜが、蒼い皮膚を刺すように沁しみ透とおった。 やがて仄ほの暗ぐらい夜の色が、縹ひょ渺うびょうとした水のうえに這はいひろがって来た。そしてそこを離れる頃には、気分の落おち著ついて来たお島は、腰の方にまた劇はげしい疼とう痛つうを感じた。 暗くなった町を通って、家へ入って行った時、店の入口で見慣れぬ老じじ爺いの姿が、お島の目についた。 お島は一言二言口を利いているうちに、それがつい二三日前に、ふっと引込まれて行くような射しゃ倖こう心しんが動いて、つい買って見る気になった或賭かけものの中あたった報しら知せであることが解った。 ﹁お上さんは気象が面白いから、きっと中あたりますぜ﹂ 暮をどうして越そうかと、気をいらいらさせているお島に、そんな事に明い職人が説とき勧すすめてくれた。秘密にそれの周旋をしている家の、近所にあることまで、彼は知っていた。 ﹁厭いやだよ、私そんなものなんか買うのは……﹂お島はそう言って最初それを拒んだが、やっぱり誘惑されずにはいなかった。 ﹁そんな事をいわずに、物は試しだから一口買ってごらんなさい、しかし度たび々たびは可いけません、中あたったら一遍こきりでおよしなさい﹂職人は勧めた。 ﹁何といって買うのさ﹂ ﹁何だって介か意まいません。あんたが何処かで見たものとか聞いた事とか……見た夢でもあれば尚面白い﹂ それでお島は、昨ゆう夜べ見た竜の夢で、それを買って見ることにしたのであった。 意おもいもかけない二百円ばかりの纏まとまった金を、それでその爺さんが持込んで来てくれたのであった。 秘密な喜よろ悦こびが、恐怖に襲われているお島たちの暗い心のうえに拡がって来た。 ﹁何だか気味がわるいようだね﹂ 爺さんの行ったあとで、お島はその金を神かみ棚だなへあげて拝みながら、小野田に私ささ語やいた。七十五
燈明の赤々と照している下で、お島たちはまるで今までの争いを忘れてしまったように、興奮した目を輝かして坐っていた。何か不思議な運命が、自分の身のうえにあるように、お島は考えていた。暗い頭あた脳まの底から、光が差してくるような気がした。 ﹁ふむ、こう云うこともあるんだね﹂お島は感激したような声を出した。 ﹁全く木村さんのいうことは当ったよ。して見ると、私は何でもヤマを張って成功する人間かも知れないね﹂ ﹁お上さんの気前じゃ、地じみ道ちなことはとても駄目かも知れませんよ﹂ ﹁面めん倒どくさい洋服屋なんか罷やめて、株でも買った方がいいかも知れないね﹂ ﹁そうですね。洋服屋なんてものは、とても見込はありませんね。私あっしは二日歩いてみて、つくづくこの商売が厭になってしまった﹂ 職人は首を項うな垂だれて溜ため息いきを吐ついた。 ﹁そんな事を言ったって、今更この商売が罷やめられるものか﹂小野田は何を言っているかと云う顔をして、呟いた。 職人はやっぱり深く自分のことに思入っているように、それには耳も仮さなかった。 ﹁私あっしは早晩洋服屋って商売は駄目になると思うね。羅らし紗ゃ屋と裁縫師、その間に洋服屋なんて云う商人とも職工ともつかぬ、不思議な商売の成なり立たちを許さない時期が、今にきっと来ると思いますね﹂ 職人は興奮したような調子で言った。 ﹁どうしてさ﹂お島は目元に笑って、﹁この人はまた妙なことを言出したよ﹂ ﹁だってそうでしょう﹂職人は誰にもそれが解らないのが不思議のように熱心に、﹁だからお客は莫ば迦かに高いものを着せられて、職人はお店たなのために働くということになる。その癖洋服屋は資本が寝ますから、小い店はとても成立って行きやしませんや。これはどうしたって、お客が直接地を買って、裁縫師に仕立を頼むってことにしなくちゃ嘘うそです﹂ ﹁ふむ﹂とお島は首を傾かしげて聴きき惚ほれていた。今まで莫迦にしていたこの男が、何か耳新しい特殊な智識を持っている悧りこ巧う者のように思えて来た。 ﹁君は職人だから、自分の都合のいいように考えるんだけれど、実地にはそうは行かないよ﹂小野田は冷あざ笑わらった。 ﹁だがこの人は莫迦じゃないね。何だか今に出世をしそうだよ﹂ お島はそう言って、神棚から取おろした札束の中から、十円札を一枚持出すと、威勢よく表へ飛出して行った。 ﹁おい、ちょっと己にもう一度見せろよ﹂小野田はそう言って、札を両手に引張りながら、物欲しそうな目を![※(「目+爭」、第3水準1-88-85)](../../../gaiji/1-88/1-88-85.png)
七十六
そんな噂うわさがいつか町内へ拡がったところから、縁起を祝うために、鈴木組と云う近所の請負師の親分の家で出た註文を、不意に受けたのが縁で、その男の引立で、家が遽にわかに景気づいて来た。 月島で幅を利きかしていたその請負師の家へ、お島は新調の著きも物のなどを着込んで、註文を聞きに行った。寒い雨の降る日で、茶ちゃの室まの火鉢の側には下に使われている男が仕事を休んで、四五人集っていた。大きな縁起棚の傍には、つい三四日前の酉とりの市いちで買って来た熊手などが景気よく飾られて、諸方からの附届けのお歳暮が、山のように積まれてあった。男達のなかには、お島が見みし知りの顔も見受けられた。 ﹁お上さんは莫迦に鉄火な女だっていうから、外がい套とうを一つ拵こさえてもらおうと思うんだが……﹂ 金歯や指環などをぴかぴかさせて、糸織の褞どて袍らに着きぶ脹くれている、五十年輩のその親方は、そう言いながら、サンプルを見はじめた。痩やせぎすな三十七八の小意気な女が、軟かものを引張って、傍に坐っていた。 ﹁工合がよければ、またちょいちょい好いお客をおれが周旋するよ﹂ 親分は無造作に註文を決めて了うと、そう言って莨をふかしていた。今まで受けたこともないような河かわ獺おその衿えりつき外套や、臘らっ虎このチョッキなどに、お島は当あて素ずっ法ぽうな見積を立てて目の飛出るほどの法外な高値を、何の苦もなく吹きかけたのであった。 ﹁これを一つあなたのような方に召していただいて、是非皆さんに御吹聴して頂きたいのでございます。どういたしましても、親方のようなお顔の売れた方の御贔ひい屓きにあずかりませんと、私わた共くしどもの商売は成立って行きませんのでございます﹂ 男達はみんなお島の弁しゃべる顔を見て、面白そうに笑っていた。 ﹁お上さんの家では、お上さんが大層な働きもので、お亭主はぶらぶら遊んでいるというじゃないか﹂男たちはお島に話しかけた。 ﹁衆みなさんがそう言って下さいます﹂お島は赤い顔をして、サンプルを仕舞っていた。 ﹁たまに宅へお見えになるお客がございましても、私わたくしがいないと御註文がないと云う始末でございますから。あれじゃお前が一人で切廻す訳だと、お客さまが仰おっしゃって下さいます﹂ お島はそう言って、この商売をはじめた自分の行ゆき立たてを話して、衆みんなを面白がらせながら、二時間も話しこんでいた。 ﹁あの辺でおきき下さいませば、もう誰どな方たでも御存じでございます。滝たき庄しょうという親分が、以前私の父の兄で、顔を売っていたものですから、ああ云う社会の方かたが、あの辺ではちょいちょい私のお得意さまでございます﹂ 帰りがけにお島は、自分のそうした身のうえまで話した。七十七
そんなような仕事が、少しばかり続くあいだ、例の金で身みな装りのできたお島は、暮のせわしいなかを、昼間は顧とく客いまわりをして、夜になると能よく小野田と一緒に浮々した気分で、年の市などに景気づいた町を出歩いたり、友達のようになった顧客先の細君連と、芝居へ入ったり浅草辺をぶらついたりして調子づいていたが、それもまたぱったり火の消えたように閑ひまになって、肆ほしいままに浪費した金の行ゆく方えも目にみえずに、物足りないような寂しい日が毎日々々続いた。 定きまりだけの仕事をすると、職人は夫婦の外を出歩いているあいだ、この頃ふとした事から思いついた翫おも具ちゃの工夫に頭あた脳まを浸して、飯を食うのも忘れているような事が多かった。 仕事の断え間になると、彼は昼間でも一心になってそれに耽っていた。時とすると夜よる夫婦が寝しずまってからも、彼はこつこつ何かやっていた。 ﹁この人は何をしているの﹂ 隅すみの方へ入って、ボール紙を切刻んだり、穴を明けたり、絵具をさしたりして、夢中になっている彼の傍へ来て、お島は可おか笑しそうに訊たずねた。 ﹁こう云う悪いた戯ずらをしているんです﹂ 彼は細こまかく切ったその紙片を、賽さいの目めなりに筋をひいて紙のうえに駢ならべていながら、振ふり顧むきもしないで応えた。 ﹁何だねその切符のようなものは……﹂ ﹁これですか﹂木村はやっぱりその方に気を褫とられていた。 ﹁これは軍艦ですよ﹂ ﹁軍艦をどうするの﹂ ﹁これでもって海軍将棋を拵こさえようというんです﹂ ﹁海軍将棋だって? へえ。そしてそれを何なんにするの﹂ ﹁高尚な翫具を拵こさえて、一儲けしようってんですがね……この小ちいさいのが水すい雷らい艇ていです﹂ ﹁へえ、妙なことを考えたんだね。戦争あて込みなんだね﹂ ﹁まあそうですね。これが当ると、お上さんにもうんと資も本とを貸しますよ。どうせ私あっしは金の要いらない男ですからね﹂ ﹁はは﹂と、お島は笑いだした。 ﹁可よかったね﹂ ﹁こればかりじゃないんです﹂職人はこの頃夜もろくろく眠らずに凝り考えた、色々の考案が頭あた脳まのなかに渦のように描かれていた。新しい仕事の興味が、彼の小さい心臓をわくわくさせていた。 ﹁私あっしゃ子供の時分から、こんな事が好きだったんですから、この外にまだ幾いく箇つも考えてるんですが、その中には一つ二つ成功するのが急きっ度とありますよ﹂ ﹁じゃ木村さんは発明家になろうというんだわね。発明家ってどんな豪えらい人かと思っていたら、木村さんのような人でもやれるような事なら、有あり難がたくもないね﹂ ﹁笑談言っちゃ可いけませんよ﹂ ﹁まあ発明もいいけれど、仕事の方もやって下さいね、どしどし仕事を出しますからね﹂七十八
お島たちが、寄よりつく処もなくなって、一人は職人として、一人は註文取として、夫婦で築地の方の或洋服店へ住込むことになったのは、二人が半歳ばかり滞っていた小野田の故郷に近いN――と云う可かな也り繁華な都会から帰ってからであった。 一月から三月頃へかけて、店が全く支え切れなくなったところで、最初同じ商売に取とりついている知人を頼って、上シャ海ンハイへ渡って行くつもりで、二人は小野田の故郷の方へ出向いて行ったのであったが、路用や何かの都合で、そこに暫く足を停とめているうちに、ついつい引かかって了ったのであった。 二人が月島の店を引払った頃には、三みつ月きほどかかって案じ出した木村の新案ものも、古くから出ているものに類似品があったり、特許出願の入費がなかったりしたために、孰どれもこれも持腐れになってしまったのに落がっ胆かりして、又渡り職人の仲間へ陥おちて行っていた。 南の方の海に程近いN――市では二人は少しばかり持っている著きが替えなどの入った貧しい行こう李りを、小野田の妹の家で釈とくことになったが、町には小野田の以前の知合も少くなかった。 主人が勤人であった妹の家の二階に二三日寝泊りしていた二人は、そこから二里ばかり隔たった村落にいる小野田の父親に遭あって、そこから出発するはずであったが、以前住んでいた家や田畑も人の手に渡って、貧しい百姓家の暮しをしている父親の様子を、一度行って見て来た小野田は、見すぼらしげな父親をお島に逢わせるのが心に憚はばかられた。東京に住つけた彼の目には、久しく見なかった惨みじめな父親の生活が、自分にすら厭いとわしく思えた。 逢いさえすれば、路費の出来そうに言っていた父親の家への同行を、お島は二度も三度も迫ってみたが、小野田は不快な顔をして、いつもそれを拒んだ。 八九年前に、効かい性しょものの妻に死しに訣わかれてから、酒飲みの父親は日に日に生活が荒すさんで行った。妻の働いているうちは、どうか恁こうか持もち堪こたえていた家も、古くから積り積りして来ている負債の形かたに取られて、彼は細ささやかな小屋のなかに、辛かろうじて生きていた。 到頭お島がつれられて行ったときに、彼は麦や空豆の作られた山畑の中に、熱い日に照されて土つち弄いじりをしていたが、無智な顔をして畑から出て来る汚いその姿を見たときには、お島は慄ぞ然っとするほど厭であった。一緒に行った小野田に対する軽けい蔑べつの念が一時に彼女の心を凍らしてしまった。七十九
それでお島は、小野田が自分をつれて来なかった理由が解ったような気がして、父親が本ほ意いながるのも肯きかずに、その日のうちにN――市へ引返して来たのであった。自分のこれまでがすっかり男に瞞だまされていたように思われて、腹立しかったが、小野田が自分達のことをどんな風に父親に話しているかと思うと、擽くすぐったいような滑こっ稽けいを感じた。 空くう濶かつな平野には、麦や桑が青々と伸びて、泥田をかえしている農夫や馬の姿が、所とこ々ろどころに見えた。砂すな埃ぼこりの立つ白い路みちを、二人は鈍のろい俥くるまに乗って帰って来たが、父親が侑すすめてくれた濁酒に酔って、俥の上でごくりごくりと眠っている小野田の坊ぼう主ずえ頸りをした大きい頭あた脳まが、お島の目には惨みじめらしく滑稽にみえた。 この貧しげな在所から入って来ると、着いた当時は鈍のろくさくて為しか方たのなかった寂しい町の状さまが、可也賑にぎやかで、豊かなもののように見えて来た。大きい洋風の建物が目についたり、東京にもみられないような奥行の深そうな美しい店屋や、洒しゃ落れた構かまえの料理屋なども、物珍しく眺ながめられた。妹の住すまっている静な町には、どんな人が生活しているかと思うような、門構の大きな家や庭がそこにも此こ処こにもあった。 小野田の話によると、父親の財産として、少すこしばかりの山が、それでもまだ残っていると云うのであった。その山を売りさえすれば、多いく少らかの金が手につくというのであった。そしてそうさせるには、二人で機きげ嫌んを取って、父親を悦よろこばせてやらなければならないのである。 ﹁そんな気の長いことを言っていた日には、いつ立てるか解りやしないじゃないか﹂ お島はその晩も二階で小野田と言争った。時々他国の書生や勤め人をおいたりなどして、妹夫婦が細い生活の補たす助けにしているその二階からは、町の活動写真のイルミネーションや、劇場の窓の明あかりなどが能よく見えた。四あた下りには若葉が日に日に繁しげって、遠い田たん圃ぼからは、喧かまびすしい蛙かえるの声が、物悲しく聞えた。春の支度でやって来た二人には、ここの陽気はもう大分暑かった。小野田はホワイト一枚になって寝転んでいたが、昔住慣れた町で、巧く行きさえすれば、お島と二人でここで面白い暮しができそうに思えた。上シャ海ンハイくんだりまで出かけて行くことが、重苦しい彼の心には億おっ劫くうに想われはじめていた。 ﹁厭いやなこった、こんな田舎の町なんか、成功したって高が知れている。東京へ帰ったって威張れやしないよ﹂そう言って拒むお島の空想家じみた頭あた脳まには、ぼろい金儲けの転がっていそうな上海行が、自分に箔はくをつける一ひと廉かどの洋行か何ぞのように思われていた。八十
其そ処こをも散々遣やり散ちらしてN――市を引揚げて、どこへ落着く当もなしに、暑い或日の午後に新橋へ入って来たとき、二人の体には、一枚ずつ著つけたもののほか何一つすら著いていなかった。 鼻息の荒いお島たちは、人の気風の温和でそして疑り深いN――市では、どこでも無ぶ気き味みがられて相手にされなかった。一ひと月つき二ふた月つき小野田の住込んでいた店たなでは、毎日のように入いり浸びたっていたお島は、平和の攪こう乱らん者しゃか何ぞのように忌いみ嫌きらわれ、不謹慎な口の利き方や、遣やりっぱなしな日常生活の不ふし検だ束らさが、妹たち周囲の人々から、女雲助か何かのように憚はばかられた。著いて間もない時分の彼女から、東京風の髪をも結ってもらい、洗濯や針仕事にも働いてもらって、頭あた髪まのものや持物などを、惜気もなげにくれてもらったりしていた妹は、帯や下駄や時々の小遣いの貸かし借かりにも、彼女を警戒しなければならないことに気がついた。 ﹁そんなに吝けち々けちしなさんなよ、今に儲けてどっさりお返ししますよ﹂ それを断られたとき、お島はそう云って笑ったが、土地の人たちの腹の見えすいているようなのが腹立しかった。自分の腕と心持とが、全く誤解されているのも業ごう腹はらであった。 小野田にも信用がなく、自分にも働き勝手の違ったような、その土地で、二人は日に日に上海行の計画を鈍らされて行った。二人は小野田が数日のあいだに働いて手にすることのできた、少しばかりの旅費を持って、辛から々がらそこを立ったのであった。 一日込合う暑い客車の瘟うん気きに倦うみつかれた二人が、停車場の静かな広場へ吐出されたのは、夜ももう大分遅かった。 ﹁どこへ行ったものだろうね﹂ 青い火や赤い火の流れている広告塔の前に立って、しっとりした夜の空気に蘇よみがえったとき、お島はそこに跪しゃ坐がんでいる小野田を促した。 前せんに働いていた川西という工場のことを、小野田は心に描いていたが、前借などの始末の遣やりっぱなしになっている其処へは行きたくなかった。上海行を吹聴したような人の方へは、どこへも姿を見せたくなかった。八十一
不安な一夜を、芝口の或安やす旅はた籠ごに過して、翌日二人は川西へ身を寄せることになるまで、お島たちは口を捜すのに、暑い東京の町を一日彷ぶら徨ついていた。 最後に本郷の方を一二軒猟あさって、そこでも全く失望した二人が、疲れた足を休めるために、木蔭に飢えかつえた哀れな放浪者のように、湯ゆし島ま天神の境内へ慕い寄って来たのは、もうその日の暮方であった。 漸ようよう日のかげりかけた境内の薄闇には、白い人の姿が、ベンチや柵さくのほとりに多く集っていた。葉の黄ばみかかった桜や銀いち杏ょうの梢こずえごしに見える、蒼い空を秋らしい雲の影が動いて、目の下には薄うす闇ぐらい町々の建物が、長い一夏の暑熱に倦み疲れたように横よこたわっていた。二人は仄ほの暗ぐらい木蔭のベンチを見つけて、そこに暫く腰かけていた。涼しい風が、日に焦やけ疲れた二人の顔に心持よく戦そよいだ。 水のような蒼い夜の色が、段々木こだ立ちぎ際わに這い拡がって行った。口も利かずに黙って腰かけているお島は、ふと女坂を攀よじ登のぼって、石段の上の平地へ醜い姿を現す一人の天てん刑けい病びょうらしい躄いざりの乞食が目についたりした。 石段を登り切ったところで、哀れな乞食は、陸おかの上へあがった泥どろ亀がめのように、臆病らしく四あた下りを見廻していたが、するうちまた這い歩きはじめた。そして今夜の宿泊所を求めるために、人影の全く絶えた、石段ぎわの小さい祠ほこらの暗闇の方へいざり寄って行った。 ﹁ちょっと御覧なさいよ﹂お島は小野田に声かけて振ふり顧むいた。 今まで莨を喫すっていた小野田は、ベンチの肱ひじかけに凭もたれかかっていつか眠っていた。 ﹁この人は、為様がないじゃないの﹂お島は跳はねあがるような声を出した。 ﹁行きましょう行きましょう。こんな所にぐずぐずしていられやしない﹂お島は慄ふるえあがるようにして小野田を急せき立たてた。 二人は痛い足を引ひき摺ずって、またそこを動きだした。 ﹁何でもいいから芝へ行きましょう。恁こうなれば見えも外聞もありゃしない﹂お島はそう言って倦うみ憊くたびれた男を引立てた。 食たべ物ものといっては、昼から幾ほとんど﹇#﹁幾んど﹂は底本では﹁幾んで﹂﹈何をも取らない二人は、口も利けないほど饑うえ疲れていた。 川西の店へ立ったのは、その晩の九時頃であった。八十二
長い漂浪の旅から帰って来たお島たちを、思いのほか潔きよく受納れてくれた川西は、被ひふ服くし廠ょうの仕事が出なくなったところから、その頃職人や店員の手を減して、店がめっきり寂しくなっていた。 そこへ入って行ったお島は、久しい前から、世しょ帯たい崩くずしの年とし増まお女んなを勝手元に働かせて、独身で暮している川西のために、時々上さんの為するような家事向の用事に、器用ではないが、しかし活かっ溌ぱつな働き振を見せていた。 前せんにいた職人が、女気のなかったこの家へ、どこからともなく連れて来て間もなく、主人との関係の怪しまれていたその年増は、渋皮の剥むけた、色の浅黒い無智な顔をした小こが躯らの女であったが、お島が住込むことになってから、一層綺麗にお化つく粧りをして、上さん気取で長火鉢の傍に坐っていた。 始終忙せわしそうに、くるくる働いている川西は、夜は宵の口から二階へあがって、臥ふし床どに就いたが、朝は女がまだ深い眠にあるうちから床とこを離れて、人の好よい口くち喧やかましい主人として、口のわるい職人や小僧たちから、蔭口を吐つかれていた。 お島は女が二階から降りて来ぬ間に、手てば捷しこくそこらを掃除したり、朝飯の支度に気を配ったりしたが、寝ね恍ぼけた様な締しまりのない笑顔をして、女が起出して来る頃には、職人たちはみんな食しょ膳くぜんを離れて、奥の工場で彼女の噂うわさなどをしながら、仕事に就いていた。 彼らが食事をするあいだ、裏でお島の洗い灑すすぎをしたものが、もう二階の物干で幾枚となく、高く昇った日に干されてあった。 ﹁どうも済みませんね﹂ ばけつをがらがらいわせて、働いているお島の姿を見ると、それでも女は、懈だるそうな声をかけて、日のじりじり照はじめて来た窓の外を眺めていた。毛並のいい頭あた髪まを銀いち杏ょう返がえしに結って、中ちゅ形うがたのくしゃくしゃになった寝ねま衣きに、紅あかい仕しご扱きを締めた姿が、細そりしていた。白おし粉ろいの斑まだらにこびりついたような額のあたりが、屋根から照返して来る日光に汚きたならしく見えた。 ﹁どういたしまして﹂ お島は無造作に懸つらねた干物の間を潜くぐりぬけながら、袂たもとで汗ばんだ顔を拭ふいていた。 ﹁私は働かないではいられない性分ですからね。だから、どんなに働いたって何ともありませんよ﹂ ﹁そう﹂ 女はまだうっとりした夢にでも浸っているような、どこか暗い目めつ色きをしながら呟いた。 ﹁私の寝るのは、大抵十二時か一時ですよ﹂ ﹁そうですかね﹂お島は白々しいような返辞をして、﹁でも可いいじゃありませんか。お秀さんは好い身分だって、衆みんながそう言っていますよ﹂ 女は紅くなって、厭な顔をした。 ﹁そうそう、お秀さんといっちゃ悪かったっけね。御免なさいよ﹂八十三
﹁どうです、今日は素敵に好いいお顧とく客いを世話してもらいましたよ﹂ 半日でも一日でも、外へ出て来ないと気のすまないようなお島は、職人たちの手がしばらく空すきかかったところで、その日も幾いく日かぶ振りかで昼からサンプルをさげて出て行ったが、晩方に帰って来ると、お秀と一緒に店の方にいる川西にそう言って声かけた。 ﹁為様がないね、私がなまけると直ぐこれだもの﹂お島は出てゆく時も、これと云う目星しい仕事もない工場の様子を見ながら言っていたが、出れば必ず何かしら註文を受けて来るのであった。中には自分の懇意にしている人のを、安く受けて来たのだと云って、小野田との相談で、店のものにはせず、自分たちだけの儲もう仕けし事ごとにするものも時にはあった。そんなものを、小野田は店の仕事の手てす隙きに縫うことにしていたが、川西はそれを余り悦よろこばないのであった。 ﹁ほんとに好い腕だが、惜しいもんだね﹂ 川西は、独ひとり店みせ頭さきにいた小僧を、京橋の方へ自転車で用よう達たしに出してから、註文先の話をしてお島に言った。彼はもう四十四五の年頃で、仕入ものや請負もので、店を大きくして来たのであったが、お島たちが入って来てから、上物の註文がぼつぼつ入るようになっていた。 川西は晩酌をやった後で、酒くさい息をふいていた。工場では皆みんな夕方から遊びに出て行って、誰もいなかった。 ﹁そんな腕を持っていながら、名古屋くんだりまで苦労をしに行くなんて、余よっ程ぽど可おか笑しいよ﹂ 川西は、傍に附つき絡まとっているお秀をも、湯へ出してやってから、時々口にすることをその時もお島に言出した。 ﹁ですから私も熟つく々づく厭になって了ったんです。あの時疾とっくに別れる筈だったんです。でもやっぱりそうも行かないもんですからね﹂ ﹁小野田さんと二人で、ここでついた得意でも持って出て、早晩独ひと立りだちになるつもりで居るんだろうけれど、あの腕じゃまず難むずかしいね﹂ ﹁そうですとも。これまで散々失敗して来たんですもの﹂ ﹁どうだね、それよりか小野田さんと別れて、一つ私と一緒に稼かせぐ気はないかね﹂ 川西はにやにやしながら言った。 ﹁御笑談でしょう﹂お島は真まっ紅かになって、﹁貴あな方たにはお秀さんという人がいるじゃありませんか﹂ ﹁あんなものを……﹂川西はげたげた笑いだした。﹁どこの馬の骨だか解りもしねえものを、誰が上さんなぞにする奴があるもんか﹂ ﹁でも好い人じゃありませんか。可愛がっておあげなさいまし。私みたような我わが儘ままものはとても駄目です﹂ お島はそう言って、茶ちゃの室まを通って工場の方へ入って行くと、汗ばんだ着物の着替に取りかかった。蒸暑い工場のなかは綺麗に片着いて、電気がかっかと照っていた。八十四
九時頃に小野田が外から帰って来たとき、駭おどろかされたお島の心は、まだ全く鎮しずまらずにいた。人品や心の卑しげな川西に、いつでも誰にも動く女のように見られたのが可はず恥かしく腹立しかった。 ﹁へえ、私がそんな女に見えたんですかね。そんな事をしたら、あの物堅い父に私は何といわれるでしょう﹂ お島は迹あとから附つき絡まとって来る川西の兇暴な力に反抗しつつ、工場の隅すみに、慄ぞ然っとするような体を縮めながらそう言って拒んだ。 髯ひげの延びた長い顎あごの、目の落おち窪くぼんだ川西の顔が、お島の目には狂きち気がいじみて見えた。 ﹁可いけません可けません、私は大事の体です。これから出世しなくちゃなりません。信用を墜おとしちゃ大変です﹂お島は片意地らしく脅おどしつけるように言って、筋張った彼の手をきびしく払はら退いのけた。 劇はげしい争闘がしばらく続いた。 婉えん曲きょくとしおらしさとを欠いた女の態度に、男の顔を潰つぶされたと云って、川西がぷりぷりして二階へあがって行ってから、お島は腕うで節ぶしの痛みをおさえながら、勝かち矜ほこったものの荒い不安を感じた。 暫しばらくすると、白粉をこてこて塗って、湯から帰って来たお秀が、腕を組んで、ぼんやり店みせ頭さきに彳たたずんでいるお島に笑顔を見せて、奥へ通って行った。 ﹁ぽんつくだな﹂お島はそう思いながら、女の顔を見返しもせずに黙っていた。何のことをも感づくことができずに、全く満足し切っているように鈍い、その癖どこかおどおどしている女の様子に、妄むやみに気がいらいらして、顔の筋肉一つすら素直に働かないのであった。 ﹁小野田が帰ったら、今の始末を残らず吩いい咐つけよう。そして今からでも二人でここを出てやろう﹂ お島はそう思いながら、そこに立ったまま彼の帰りを待っていた。外は秋らしい冷ひややかな風が吹いて、往来を通る人の姿や、店屋々々の明あかりが、厭に滅入って寂しく見えた。浜屋や鶴さんのことが、物悲しげに想い出されたりした。 その晩、小野田は二階でしばらく川西と何やら言合っていたが、やがて落着のない顔をして降りて来ると、店にいるお島の傍へ寄って来た。 ﹁店が閑ひまでとても置ききれないから、気の毒だけれど、己たちに今から出てくれというんだがね﹂ 小野田は言出した。 ﹁ふむ﹂お島はまだ神経が突っ張っていて、こまこました話をする気にはなれなかった。 ﹁己おれたちが自分の仕事をするので、それも気に加くわんらしい﹂ ﹁どうせそうだろうよ﹂お島は荒い調子で冷あざ笑わらった。 ﹁出ましょう出ましょう。言われなくたって、此こっ方ちから出ようと思っていたところだ﹂八十五
翌日朝夙はやくから、お島はぐずぐずしている小野田を急せき立たてて家を捜しに出た。 ﹁また何かお前が大将の気に障さわることでも言ったんじゃないか﹂ 小野田は昨ゆう夜べも自分たちの寝ね室まにしている茶ちゃの室まで、二人きりになった時、そう言ってお島を詰なじったのであったが、今朝もやっぱりそれを気にしていた。 ﹁私があの人に何を言うもんですか﹂お島は顔をしかめて煩うるさそうに応うけ答ごたえをしていたが、出る先へ立って、細こまかい話をして聞かす気にもなれなかった。 ﹁それどころか、私はこの店のために随分働いてやっているじゃありませんか﹂ ﹁でも何か言ったろう﹂ ﹁煩うるさいよ﹂お島は眉まゆをぴりぴりさせて、﹁お前さんのように、私はあんなものにへっこらへっこらしてなんかいられやしないんだよ﹂ ﹁だがそうは行かないよ。お前がその調子でやるから衝突するんだ﹂ ﹁ふむ。私よりかお前さんの方が、余よっ程ぽど間抜なんだ。だから川西なんかに莫ば迦かにされるんです。もっとしっかりするが可いいんだ﹂ それで二人は半日ほど捜しあるいて、漸やっと見つけた愛あた宕ごの方の或る印判屋の奥の三畳一ひと室まを借りることに取決め、持合せていた少すこしばかりの金で、そこへ引移ったのであった。 そこは見みつ附きの好い小こぎ綺れ麗いな店屋であった。お島はその足で直ぐ、差当り小野田の手を遊ばさないように、仕事を引出しに心当りを捜しに出たが、早速仕事に取かかるべく少しばかり月賦の支払をしてあったミシンを受取の交渉のために、川西へ出向いていった小野田が、失望して――多少怒いかりの色を帯びて帰って来た頃には、彼女も一二枚の直しものを受けて来て、彼を待受けていた。 ﹁どうです、同情がありますよ。すぐ仕事が出ましたよ。だから、ここでうんと働いて下さいよ﹂ 人に対する反抗と敵てき愾がい心しんのために絶えず弾力づけられていなければ居いられないような彼女は、小野田の顔を見ると、いきなり勝かち矜ほこったように言った。 部屋にはもう電燈がついて、その晩の食たべ物ものを拵こしらえるために、お島は狭い台所にがしゃがしゃ働いていた。印判屋の婆さんとも、狎なれ々なれしい口を利くような間なかになっていた。 ﹁それでミシンはどうしたんです﹂ ﹁それどころか、川西はお前のことを大変悪く言っていたよ。そして己にお前と別れろと言うんだ﹂ ﹁ふむ、悪い奴だね﹂お島は首を傾かしげた。﹁畜ちき生しょう、私を怨うらんでいるんだ。だがミシンがなくちゃ為しよ様うがないね﹂ 飯をすますと直ぐ、お島が通りの方にあるミシンの会社で一台註文して来た機械が、明あし朝た届いたとき、二人は漸やっと仕事に就くことができた。八十六
住居の手狭なここへ引移ってから、初めて世しょ帯たいを持った新夫婦か何ぞのように、二人は夕方になると、忙しいなかをよく外を出歩いた。 川西を出たときから、新しい愛執が盛返されて来たようなお島たちはそれでもその月は可也にあった収入で、涼すず気けの立ちはじめた時候に相応した新調の着物を着たり着せたりして、打連れて陽気な人ひと寄よせ場ばなどへ入って行った。 行く先々で、その時はまるで荷厄介のように思って、惜げもなく知った人にくれたり、棄すて値ねで売ったり又は著きく崩ずしたりして、何一つ身につくもののなかったお島は、少しばかり纏まとまった収入の当がつくと、それを見越して、月島にいる頃から知っていた呉服屋で、小野田が目をまわすような派手なものを取って来て、それを自分に仕立てて、男をも着飾らせ、自分にも着けたりした。 ﹁己たちはまだ着物なんてとこへは、手がとどきやしないよ。成算なしに着物を作って、困るのは知れきっているじゃないか﹂ 着ものなどに頓とん着じゃくしない小野田は、お島の帰りでもおそいと、時々近所のビーヤホールなどへ入って、蓄音機を聴きながら、そこの女たちを相手に酒を飲んでいては、お島に喰ってかかられたりしたが、やっぱり自分の立てた成算を打ぶち壊こわされながら、その時々の気分を欺かれて行くようなことが多かった。 ﹁あの御おと父っさんの産んだ子だと思うと、厭になってしまう。東京へでも出ていなかったら、貴あん方たもやっぱりあんなでしょうか﹂ お島はにやにやしている小野田の顔を眺めながら笑った。 ﹁莫ば迦か言え﹂小野田はその頃延しはじめた濃い髭ひげを引張っていた。 ﹁だからビーヤホールの女なぞにふざけていないで、少しきちんとして立派にして下さいよ。あんなものを相手にする人、私は大嫌い、人じん品ぴんが下りますよ﹂ お島はどうかすると、父親の面おも差ざしの、どこかに想像できるような小野田の或卑しげな表情を、強しいて排はね退のけるようにして言った。小野田が物を食べる時の様子や、笑うときの顔かお容つきなどが、殊ことにそうであった。 ﹁子が親に似るのに不思議はないじゃないか。己は間まお男とこの子じゃないからな﹂ 小野田は心から厭そうにお島にそれを言出されると、苦笑しながら慍む然っとして言った。 ﹁間男の子でも何でも、あんな御父さんなんかに肖にない方が可いいんですよ﹂ ﹁ひどいことを言うなよ。あれでも己を産んでくれた親だ﹂ 小野田は終しまいに怒りだした。 ﹁お前さんはそれでも感心だよ。あんな親でも大事にする気があるから。私なら親とも思やしない﹂八十七
そんな気持の嵩こうじて来たお島には、自分一人がどんなに焦やき燥もきしても、出世する運が全く小野田にはないようにさえ考えられてきた。彼の顔が無む下げに卑しく貧相に見えだして来た。ビーヤホールの女などと、面白そうにふざけていることの出来る男の品性が、陋さもしく浅あさ猿ましいもののように思えた。 ﹁己はまた親の悪あっ口こうなぞ云う女は大嫌いだ﹂ 顔色を変えて、お島の側を離れると、小野田は黙って仕事に取りかかろうとして、電気を引張って行ってミシンを踏みはじめた。 そのミシンは、支払うべき金がなかったために、お島が機転を利きかして、機械の工合がわるいと言って、新しく取替えたばかりの代しろ物ものであった。そうすれば試用の間、一時また支払いが猶予される訳であった。 ﹁こんな際きわどいことでもしなかった日には、私たちはとてもやって行けやしません。成功するには、どうしたってヤマを張る必要があります﹂ お島はその時もそう言って、自分の気働きを矜ほこったが、何の気もなさそうに、それに腰かけている小野田の様子が、間抜らしく見えた。 がたがたと動いていたミシンの音が止ると、彼は裁たち板いたの前に坐って、縫目を熨のすためにアイロンを使いはじめた。 ﹁ふむ、莫迦だね﹂ お島は無性に腹立しいような気がして、腕を組みながら溜ため息いきを吐ついた。 ﹁一生職人で終る人間だね。それでも田を踏んで暮す親よりかいくらか優ましだろう﹂ ﹁生意気を言うな。手前の親がどれだけ立派なものだ。やっぱり土つち弄いじりをして暮しているじゃないか﹂ ﹁ふむ、誰がその親のところへ、籍を入れてくれろと頼みに行ったんだ。私の親父はああ見えても産れが好いんです。昔はお庄屋さまで威張っていたんだから。それだって私は親のことなんか口へ出したことはありゃしない﹂ ﹁お前がまた親不孝だから、親が寄せつけないんだ。そう威張ってばかりいても得とくは取れない。ちっとはお辞儀をして、金を引出す算段でもした方が、![※(「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55)](../../../gaiji/1-92/1-92-55.png)
八十八
上シャ海ンハイへ行くつもりで、N――市へ立つ前に、一度顔かお出だししたことのある自分の生さ家との方へ、小野田がお島を勧めて、贈物などを持って、更あらためて一緒に訪ねて行ってから、続いて一人でちょいちょい両ふた親おやの機きげ嫌んを取りに行ったりしていた。 ﹁これだけの地面は私の分にすると、御父さんが言うんですけれどね﹂ 最初二人で行ったとき、お島は庭木のどっさり植うわっている母屋の方の庭から、附近に散かっている二三箇所の持地を、小野田と一緒に見廻りながら、五百坪ばかりの細長い地所へ小野田を連れて行って言った。 雑木の生おい茂しげっているその地所には、庭へ持出せるような木も可也にあった。暗い竹たけ藪やぶや荒れた畑地もあった。周まわ囲りには新しい家いえが二三軒建っていた。 ﹁ふむ﹂小野田は驚異の目を![※(「目+爭」、第3水準1-88-85)](../../../gaiji/1-88/1-88-85.png)
![※(「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45)](../../../gaiji/1-84/1-84-45.png)
八十九
小野田がこの家に信用を得るために、母親の傍に坐って、話込んでいるあいだ、お島は擽くすぐったいような、いらいらしい気持を紛らせようとして、そこを離れて、子供を揶から揄かったり、嫂あによめと高たか声ごえで話したりしていた。 ﹁家じゃ島が一番親に世話をやかせるんでございますよ。これまでに、幾いく度たび家を出たり入ったりしたか知れやしません﹂ 母親はお島が傍についているときも、そんな事を小野田に言って聴きかせていたが、彼女の目には、これまでお島が干かん係けいした男のなかで、小野田が一番頼もしい男のように見えた。取澄してさえいれば、口くち髭ひげなどに威のある彼のがっしりした相そう貌ぼうは、誰の目にも立派な紳士に見えるのであった。小野田は切きりたての脊せび広ろなどを着込んで、のっしりした態度を示していた。 お島は自分の性しょ得うとくから、N――市へ立つ前に、この男のことをその田舎では一ひと廉かどの財産家の息子ででもあるかのように、父や母の前に吹聴しずにはいられなかった。それで小野田もその意つもりで、母親に口を利いていた。 ﹁この人の家は、それは大したもんです﹂ お島は母親を威圧するように、今日も皆みんなが揃そろっている前で言ったが、小野田はそれを裏切らないように、口裏を合せることを忘れなかった。 ﹁いや私の家も、そう大した財産もありませんよ。しかしそう長く苦しむ必要もなかろうと思います。夫婦で信用さえ得れば、そのうちにはどうにかなるつもりでいますので﹂ 母親の安心と歓心を買うように、小野田は言った。 お島はその傍に、長くじっとしていられなかった。自分を信用させようと骨を折っている、男の狡わる黠ごすい態度も蔑さげ視すまれたが、この男ばかりを信じているらしい、母親の水臭い心持も腹立しかった。 嫂は、この四五年の良おっ人との放ほう蕩とうで、所有の土地もそっちこっち抵当に入っていることなどを、蔭でお島に話して聴せた。 ﹁御父さんが、あすこの地面を私にくれるなんて言っていましたっけがね、あれはどうする気でしょうね﹂ お島は嫂の口くち占うらを引いてでも見るように、そう言ってみた。 ﹁へえ、そんな事があるんですか。私はちっとも知りませんよ﹂ ﹁男だけには、それぞれ所も有ちを決めてあるという話ですけれどね﹂ お島はこの場合それだけのものがあれば、一ひと廉かどの店が持てることを考えると、いつにない慾心の動くのを感じずにはいられなかったが、家を出て山へ行ってから、父親の心が、年々自分に疎うとくなっていることは争われなかった。 ﹁行きましょうよ﹂ お島はまだ母親の傍にいる男を急せきたてて、やっと外へ出た。九十
狭い三畳での、窮屈で不自由な夫婦生活からと、男か女かの孰いずれかにあるらしい或生理的の異常から来る男の不満とが、時とするとお島には堪えがたい圧迫を感ぜしめた。 ﹁へえ、そんなもんですかね﹂ 若い亭主を持っている印判屋の上さんから、男女間の性慾について、時々聞かされることのあるお島は、それを不思議なことのように疑い異あやしまずにはいられなかった。 ﹁じゃ、私が不かた具わなんでしょうかね﹂ お島はどうかすると、男の或ある不自然な思いつきの要求を満すための、自分の肉体の苦痛を想い出しながら、上さんに訊きいた。 ﹁でもこれまで私は一度も、そんな事はなかったんですからね﹂ お島はどんな事でも打明けるほどに親しくなった上さんにも、これまでに外に良人を持った経験のあることを話すのに、この上ない羞しゅ恥うちを感じた。 ﹁真ほん実とうは、私はあの人が初めじゃないんですよ﹂ ﹁それじゃ旦那が悪いんでしょうよ﹂ ﹁でも、あの人はまた私が不いけ可ないんだと言うんですの。だから私もそうとばかり思っていたんですけれど……真ほん実とに気きの毒どくだと思っていたんです﹂ ﹁そんな莫迦なことってあるもんじゃ有りませんよ、お医者に診ておもらいなさい﹂ 上さんは、真まっ実たくそれが満つまらない、気毒な引込思案であるかのように、色々の人々の場合などを話して勧めた。 ﹁まさか……極きまりがわりいじゃありませんか﹂ お島は耳みみ朶たぶまで紅くなった。若い男などを有もっている猥みだらな年取った女のずうずうしさを、蔑さげ視すまずにはいられなかったが、やっぱりその事が気にかかった。人並でない自分等夫婦の、一生の不幸ででもあるように思えたりした。 朝になっても、体中が脹はれふさがっているような痛みを感じて、お島はうんうん唸うなりながら、寝床を離れずにいるような事が多かった。そして朝方までいらいらしい神経の興奮しきっている男を、心から憎く浅あさ猿ましく思った。 ﹁こんな事をしちゃいられない﹂ お島は註文を聞きに廻るべき顧とく客いさ先きのあることに気づくと、寝床を跳はねおきて、身じまいに取かかろうとしたが、男は悪闘に疲れたものか何ぞのように、裁板の前に薄ぼんやりした顔をして、夢ゆめ幻うつつのような目を目ま眩ぶしい日光に瞑つぶっていた。 ﹁それじゃ私が旦那に一人、好いのをお世話しましょうか﹂ 上さんは、笑じょ談うだんらしく妾めかけの周旋を頼んだりする小野田に言うのであったが、お島はやっぱりそれを聞流してはいられなかった。 ﹁そうすればお上さんもお勤めがなくて楽でしょう﹂ ﹁莫迦なことを言って下さるなよ。妾なんかおく身しん上しょうじゃありませんよ﹂ お島は腹立しそうに言った。九十一
五六箇月の間に、そこの仮かり店みせで夫婦が稼ぎ得た収入が二千円近くもあったところから、狭苦しい三畳にもいられなかった二人が、根津の方へ店を張ることになってからも、外の活動に一層の興味を感じて来たお島は、時々その事について、親しい友達に秘密な自分の疑いを質ただしなどしたが、それをどうすることもできずに、忙しいその日その日を紛らされていた。 生理的の不ふけ権んこ衡うから来るらしい圧迫と、失望とを感ずるごとに、お島は鶴さんや浜屋のことが、心に蘇よみがえって来るのを感じた。 ﹁成功したら、一度山へ行ってあの人にも逢ってみたい﹂ そんな秘密の願が、気きぜ忙わしい顧とく客いまわりに歩いている時の彼女の心に、どうかすると、或異常な歓楽でも期待され得るように思い浮かんだりした。一つは、妾になら為しておこうといったことのある、その男への復ふく讐しゅ心うしんから来る興味もあったが、現在の自分等夫婦には、欠けているらしい或要求と歓楽とに憧あこがるる心とが、それを彼女に想像させるのであった。 一旦田舎へ引込んで、そこで思わしいことがなくて、この頃また東京へ来て、日本橋の方の或洋酒問屋にいるとか聞いた鶴さんのことをも、時々彼女は考えた。植源のおゆうが、鶴さんの迹を追って、家を出たりなどして、あの古い植木屋の家にも、紛いざ紜こざの絶えなかった一頃の事情は、お島もこの頃姉の口などから洩もれ聞きいたが、その鶴さんにも、いつか何処かで逢う機会があるような気がしていた。 それに鶴さんや浜屋と、はっきりその人は定きまっていないまでも、どこかに自分が真ほん実とうに逢うことのできるような男が、小野田以外の周囲に、一人はあるような気がしないでもなかった。成功と活動とのみに飢え渇かつえているような荒いそして硬い彼女の心にも、そんな憧あこ憬がれと不満とが、沁しみ出ださずにはいなかった。 お島はそれからそれへと、![※(「夕/寅」、第4水準2-5-29)](../../../gaiji/2-05/2-05-29.png)
九十二
そこへ引越して行ったのは、その頃開かれてあった博覧会の賑にぎわいで、土地が大した盛場になっていた為であった。 その家は、不断は眠っているような静かな根津の通りであったが、今は毎日会場からの楽隊の響が聞えたり、地方から来る色々な団体見物の宿泊所が出来たりして、近い会場の浮立った動どよ揺めきが、ここへも遽あわただしい賑かしさを漂わしていた。 陽気がややぽかついて来たところで、小野田が出した懇ねんごろな手紙に誘いざなわれて、田舎で毎日野良仕事に憊くたびれている彼の父親が、見物にやって来たり、お島から書送った同じ誘引状に接して、彼女が山で懇意になった人々が、どやどや入込んで来たりした。世のなかが景気づいて来たにつれて、お島たちは自分たちの浮揚るのは、何の造作もなさそうに思えていた。 この店を張るについての、二人の苦しい遣やり繰くりを少しも知らない父親は、来るとすぐ倅せがれ夫婦につれられて、会場を見せられて感激したが、これまで何一つ面白いものを見たこともない哀れな老とし人よりを、そうした盛り場に連出して悦ばせることが、お島に取っては、自分の感激に媚こびるような満足であった。 上野は青葉が日に日に濃い色を見せて来ていた。蟻ありのように四方から集ってくる群衆のうえに、梅つ雨ゆらしい蒸暑い日が照りわたり、雨雲が陰鬱な影を投げるような日が、毎日毎日続いた。 お島は新調の夏のコオトなどを着て、パナマを冠かぶった小野田と一緒に、浮いたような気持で、毎日のように父親をつれて歩いたが、親に甘過ぎる男の無反省な態度が、時々彼女の犠牲的な心持を、裏切らないではいなかった。無知な老とし人よりの彳たたずんで見るところでは、莫迦孝行な小野田は、女にのろい男か何ぞのように、いつまでも気長に傍についていて、離れなかった。驚きの目を![※(「目+爭」、第3水準1-88-85)](../../../gaiji/1-88/1-88-85.png)
![※(「需+頁」、第3水準1-94-6)](../../../gaiji/1-94/1-94-06.png)
九十三
﹁そんな事を言ってもいいのか﹂ そう言って極きめつけそうな目をして、小野田は疳かん癪しゃくが募って来るとき、いつもするように口くち髭ひげの毛根を引張っていたが、調子づいて父親を![※(「肄のへん+欠」、第3水準1-86-31)](../../../gaiji/1-86/1-86-31.png)
![※(「肄のへん+欠」、第3水準1-86-31)](../../../gaiji/1-86/1-86-31.png)
九十四
山で知合になった人達が、四五人誘いあわせて出て来てから、父親は一層お島たちのために邪魔もの扱いにされた。 連中のうちには、その頃呼吸器の疾患のため、遊覧旁かたがた博士連の診察を受けに来た浜屋の主人もあった。山の温泉宿や、精米所の主人もいた。精米所の主人は、月に一度くらいは急きっ度と蠣かき殻がら町ちょうの方へ出て来るのであったが、その時は上さんと子供をつれて来ていた。 その通知の葉書を受取ったお島は、大きな菓子折などを小僧に持たせて、紋附の夏羽織を着込んで、丸まる髷まげ姿で挨拶のために、ある晩方その宿屋を訪ねたが、込合っていたので、連中はこの部屋にかたまって、ちょうど晩酌の膳に向いながら、陽気に高たか談ばなしをしていた。 ﹁えらい仕揚げたそうだね。そのせいか女振もあがったじゃねえか。好い奥様になったということ﹂ 精米所の主人は、浴ゆか衣たがけで一座の真中に坐っていながら言った。 ﹁御笑談でしょう﹂ お島は初うぶらしく顔の赤くなるのを覚えた。 ﹁お蔭でどうか恁こうかね。でもまだまだ成功というところへは参りません。何しろ資本のいる仕事ですからね。どうか少しお貸しなすって下さいまし。あなた方はみんな好い旦那方じゃありませんか﹂ お島はそう言って、自分の来たために一層浮立ったような連中を笑わせた。 夜景を見に出るという人達の先に立って、お島も混雑しているその宿を出たが、別れるときに家の方角を能よく教えておいて、広小路まで連中を送った。 ﹁病気って、どこが悪いんです﹂ お島はまさかの時には、多少の資本くらいは引出せそうに思えていた浜屋に、二人並んであるいている時訊たずねた。浜屋がその後、ちょくちょく手を出していた山林の売買がいくらか当って、融通が利くと云う噂うわさなどを、お島はその土地の仲間から聞伝えている兄に聞いて知っていた。 ﹁どこが悪いというでもないが、肺がちっと弱いから用心しろと言われたから、東こち京らで二三専門の博士を詮せん議ぎしたが、事によったら当分逗とう留りゅうして、遊び旁かたがた注射でもしてみようかと思う﹂ ﹁それじゃ奥さんのが移ったのでしょう。私は一緒にならないで可よかったね﹂ お島は可こ怕わそうに言ったが、やっぱりこの男を肺病患者扱いにする気には成なり得えなかった。 ﹁あんたが肺病になれば、私が看病しますよ。肺病なんか可おっ怕かなくて、どうするもんですか﹂ ﹁今じゃそうも行かない。これでも山じゃ死しのうとしたことさえあったっけがね﹂ ﹁おお厭だ﹂お島は思出してもぞっとするような声を出した。﹁そんな古いことは言いいっこなし。あなたは余よっ程ぽど人が悪くなったよ﹂九十五
一日の雑ざっ沓とうと暑熱に疲れきったような池の畔はたでは、建たて聯つらなった売店がどこも彼かし処こも店を仕舞いかけているところであったが、それでもまだ人ひと足あしは絶えなかった。水に臨んだ飲食店では、人が蓄音器に集っていたり、係のものらしい男が、粗野な調子で女達を相手に酒を飲んでいたりした。暗闇の世界に、秘密の歓楽を捜しあるいているような、猥みだらな女と男の姿や笑声が聞えたりした。 お島はその間を、ふらふらと寂しい夢でも見ているような心持で歩いていた。会場のイルミネーションはすっかり消えてしまって、無気味な広告塔から、蒼あおい火が暗やみに流れていたりした。 浜屋の主人が肺病になったと云うことが、ふと彼女の心に暗い影を投げているのに気がついた。自分の世界が急に寂しくなったようにも感じた。しかし離れているときに考えていたほど、自分がまだあの男のことを考えているとは思えなかった。今のあの男とは全く懸はなれたその頃の山の思出が、微かすかに懐なつかしく思出せるだけであった。あの時分の若い痴ちほ呆うな恋が、いつの間にか、水に溶とかされて行く紅の色か何ぞのように薄く入に染じんでいるきりであった。 自分の若い職人が一人、順吉というお島の可愛がって目をかけている小僧と一緒に、熱い仕事場の瓦ガ斯スの傍を離れて、涼しい夜風を吸いに出ているのに、ふと観月橋の袂たもとのところで出でっ会くわした。 ﹁どうしたえ、田舎のお爺さんは﹂お島は順吉に訊ねた。 二人はにやにや笑っていた。 ﹁今夜も酔っぱらっているんだろう﹂ ﹁ええ何だかやっぱり外で飲んで来たようでしたよ﹂ お島はこの順吉から、父親が自分の嫁振を蔭で非くさして、不平を言っていることなどを、ちょいちょい耳にしていたが、それはその時で、聴流しているのであった。 ﹁私のこったもの、どうせ好くは言われないさ。あの田舎ものにこの上さんの気前なんかわかるものかね﹂ お島はそう云って笑っていたが、新しく入って来たものから、世間普通の嫁と一つに見られているのが、侮辱のように感ぜられて腹立しかった。 ﹁お上さん今夜は好いことがあるんだから、何かおごろうか﹂お島は二人に言った。 ﹁おごって下さい﹂ ﹁じゃ、みんなおいでおいで﹂ お島は先に立って、何か食べさせるような家を捜してあるいた。 ﹁……上さんを離縁しろなんて言っていましたよ﹂ 風の吹通しな水辺の一品料理屋でアイスクリームや水菓子を食べながら、順吉は話した。 ﹁へえ、そんなことを言っていたかい﹂お島はそれでも極きまりわるそうに紅くなった。 ﹁へん、お気の毒さまだが、舅しゅうとに暇を出されるような、そんな意気地なしのお上さんと上さんが異ちがうんだ﹂九十六
お島が毎日のように呼出されて、市内の芝居や寄よ席せ、鎌倉や江の島までも見物して一緒に浮々しい日を送っていた山の連中は、田舎へ帰るまでに、一度お島達夫婦のところへも遊びにやって来たが、それらの人々が宿を引揚げて行ってからも、浜屋の主人だけは、お島の世話で部屋借をしていた家から、一月の余よも病院へ通っていた。 田舎では大した金持ででもあるように、お島が小野田に吹聴しておいた山の客が、どやどややって来たとき――浜屋だけは加わっていなかったが――お島は水菓子にビールなどをぬいて、暑い二階で彼等を![※(「肄のへん+欠」、第3水準1-86-31)](../../../gaiji/1-86/1-86-31.png)
九十七
暑い東京にも居いた堪たまらなくなって、浜屋がその宿を引払って山へ帰るまでに、お島は幾いく度たびとなくそこへ訪ねて行ったが、彼女はそれを小野田へ全く秘密にはしておけなかった。ちょっと手ても許との苦しい時なぞに、お島は浜屋から時とき借がりをして来た金を、小野田の前へ出して、その男がどんな場合にも、自分の言うことを聴いてくれるような関係にあることを、微ほの見めかさずにはいられなかった。 浜屋はその通かよっている病院で、もう十本ばかり、やってもらった注射にも飽きて、また出るにしても、盆前にはどうしても一度は帰らなければならぬ家の用事を控えている体であったが、お島たち夫婦の内幕が、初め聴いたほど巧く行っていないことが、幾度も逢っているうちに、自ひと然りでに彼女の口から洩聞されるので、その事も気にかかっているらしかったが、やっぱり自分の手でそれをどうしようと云う気にもなれないらしかった。 ﹁そんな事を言わずにまあ辛抱するさ﹂ お島はその時の調子で、どうかすると心にもない自分の身みの上うえ談ばなしがはずんで、男に凭もたれかかるような姿よう態すを見せたが、聴くだけはそれでも熱心に聴いている浜屋が、何時でもそういった風の応うけ答ごたえばかりして笑っているのが物足りなかった。 ﹁あの時分とは、まるで人が変ったね﹂お島は男の顔を眺めながら言った。 ﹁変ったのは私ばかりじゃないよ﹂お島は男がそう云って、自分の丸髷姿をでも見返しているような羞しゅ恥うちを感じて来た。 ﹁月日がたつと誰でもこんなもんでしょうか﹂ お島は二階の六畳で疲れた体を膝ひざ掛かけのうえに横よこたえている男の傍に坐って、他人行儀のような口を利いていたが、興奮の去ったあとの彼女は、長く男の傍にもいられなかった。 部屋には薄明い電気がついていた。お島はどうしても直ぴったり合うことの出来なくなったような、その時の厭な心持を想出しながら、涼すず気けの立って来た忙しい夕暮の町を帰って来たが、気重いような心持がして、店へ入って行くのが憚はばかられた。 ﹁己おれも一度その人に逢っておこう﹂ 小野田はお島から金を受取ると、そう云って感謝の意を表あらわした。 ﹁可いけない可けない﹂お島はそれを拒んで、﹁あの人は莫ば迦かに内気な人なんです。田舎にもあんな人があるかと思うくらい、温おと順なしいんですから、人に逢うのを、大変に厭がるんです﹂ 小野田はそれを気にもかけなかったが、やっぱりその男のことを聴きたがった。 ﹁それは東京にも滅多にないような好い男よ﹂お島は笑いながら応えたが、自分にも顔の赧あかくなるのを禁じ得なかった。九十八
避暑客などの雑ざっ沓とうしている上野の停ステ車ーシ場ョンで、お島が浜屋に別れたのは、盆少し前の或日の午後であったが、そんな人達が全く引揚げて行ってから、お島たちはまた自分の家のばたばたになっていることに気がついた。 浜屋はお島に買せた色々の東京土みや産げなどを提げこんで、パナマを前のめりに冠かぶり、お島が買ってくれた草履をはいて、軽い打いで扮たちで汽車に乗ったのであったが、お島も絽ろち縮りめ緬んの羽織などを着込んで、結立ての丸髷頭で来ていた。 足音の騒々しい構内を、二人は控室を出たり入ったりして、発車時間を待っていたが、このステーションの気分に浸っていると、自ひと然りでに以前の自分の山の生活が想出せて来て、涙なみ含だぐましいような気持になるのであった。 ﹁どうでしょう。西洋人は活かっ溌ぱつでいいね﹂ 日光へでも行くらしい、男おと女こおんなの外国人の綺きれ麗いな姿が、彼等の前を横よこぎって行ったとき、お島は男に別れる自分の寂しさを蹴けち散らすように、そう云って、嘆美の声を放った。 ﹁どうだね、一緒に行かないか﹂ 浜屋は瀬戸物のような美しい皮膚に、この頃はいくらか日ひや焦けがして、目の色も鋭くなっていたが、お島が暫くでも夫婦ものの旅行と見られるのが嬉しいような、目まぶ眩しいような気持のするほど、それは様子が好かった。 客車に乗ってからも、お島は窓の前に立って、元気よく話を交えていたが、そのうちに汽車がするする出て行った。 ﹁そのうち景気が直ったら、一度温泉へでも来るさ﹂ 浜屋は窓から顔を出して、どうかすると睫まつ毛げをぬらしているお島に、そんな事を言っていた。 お島はとぼとぼと構内を出て来たが、やっぱり後うし髪ろがみを引ひかるるような未練が残っていた。 盆が来ると、お島は顧とく客いさ先きへの配りものやら、方々への支払やらで気きぜ忙わしいその日その日を送っていた。そして着いてから葉書をよこした浜屋のことも忘れがちでいたが、自分たちの不幸な夫婦であったことが、一層判って来たような気がした。お島は時々その事に思い耽ふけっているのであったが、それを小野田に感づかれるのが、不安であった。お島は可はず恥かしい自分の秘密な経験を押隠すことを怠らなかった。 暑い盛に博覧会が閉とざされてから、お島たちの居いま周わりの町々には、急に潮がひいたように寂しさが襲って来たと同時に、二人の店にもこれまで紛らされていたような、頽たい廃はいの色が、まざまざと目に見えて来た。 多くの建物の、日に日に壊されて行く上野を、店を支えるための金策の奔走などで、毎日のようにお島は通った。やがてまた持切れそうもない今の家を一思いに放ほう擲りだして了しまいたいような気分になっていた。 ﹁ここは縁起がわるいから、私たちはまたどこかで新規蒔まき直なおしです﹂ ここへ引移って来てから、貸越の大分たまって来ている羅らし紗ゃの仲買などに、お島は投出したような棄すて鉢ばちな調子で言っていた。九十九
本郷の通りの方で、第四番目にお島たちが取着いて行った家を、すっかり手を入れて、洋風の可かな也りな店つきにすると同時に、棚たなに羅紗などを積むことができたのは、それから二三年もたって、店の名が相応に人に知られてからであったが、最初二人がそこへ引移っていった時には、店へ飾るものといっては何一つなかった。 愛あた宕ご時代に傭やとったのとは、また別の方面から、お島が大工などを頼んで来たとき、二人の懐ふところには、店を板敷にしたり、棚を張ったりするために必要な板一枚買うだけの金すらなかったのであったが、新しいものを築き創はじめるのに多分の興味と刺しげ戟きとを感ずる彼女は、際きわどいところで、思いもかけない生活の弾力性を喚よび起おこされたりした。 ﹁面倒ですから、材料も私あっしの方から運びましょうか﹂ 父親の縁故から知っている或叩たたき大工のあることを想出して、そこへ駈かけつけていった彼女は、仕事を拡張する意味で普請を嘱たのんだところで、彼は呑込顔にそう言って引受けた。 ﹁そうしてもらいましょうよ。私達は材料を詮せん議ぎしている隙ひまなんかないんだから﹂ 材木がやがて彼等の手によって、車で運びこまれた。 ﹁どうです、訳あないじゃありませんか﹂ 大工が仕事を初めたところで、釘くぎをすら買うべき小銭に事かいていたお島は、また近所の金物屋から、それを取寄せる智ち慧えを欠かなかった。 ﹁これから普請の出来あがるまで、何かまたちょいちょい貰もらいに来るのに、一々お金を出すのも面倒ですから、お帳面にしておいて下さいよ。少しばかりお手つけをおいてきましょう﹂ お島は夜を待つまもなく、小僧の順吉に脊し負ょいださせた蒲ふと団んに替えた、少すこしばかりの金のうちから、いくらか取出してそれを渡した。その蒲団は、彼女が鶴さん時代から持古している銘仙ものの代しろ物ものであった。 ﹁乗るか反そるか、お上さんはここで最後の運を試すんだよ﹂ 萌もえ黄ぎの風呂敷に裹つつんだその蒲団を脊負いださせるとき、お島は気きが嵩さな調子で、その時までついて来た順吉を励はげました。 ﹁お前もその意つもりでやっておくれ。この恩はお上さん一生忘れないよ﹂ 涙なみ含だぐんだような顔をして、それを脊負って行く順吉のいじらしい後姿を見送っているお島の目には、涙が入に染じんで来た。 ﹁どうでしょう。職人は小ちいさい時分から手なずけなくちゃ駄目だね。順吉だけは、どうか渡わた職りじ人ょくにんの風ふうに染しましたくないもんだ。それだけでも私たちは茫ぼん然やりしちゃいられない﹂ お島は大工の仕事を見ている、小野田の傍へ来て呟つぶやいた。 表では大工が、二人ばかりの下を使って、せっせっと木きご拵しらえに働いていた。百
あらかた出来あがったところで、大工の手を離れた店の飾窓や、入口の戸ドアに張るべき硝ガラ子スを、お島が小野田に言われて、根津に家を持ったときから顔を知られている或硝子屋へ懸けあいに行ったのは、それから間もなくであった。 お島はその日も、新しい店を持った吹聴かたがた、朝から顧とく客いまわりをして、三時頃にやっと帰って来たが、夏場はどこでも註文がなくて、代りに一つ二つの直しものを受取ったきりであった。 外は黄おう熟じゅくした八月の暑熱が、じりじり大地に滲しみ透とおるようであった。蝉せみの声などのまだ木蔭に涼しく聞かれる頃に、家を出ていった彼女は、行く先々で、取るべき金の当がはずれたり、主あるじが旅行中であったりした。古くからの昵なじみの家では、彼女は病気をしている子供のために、氷を取替えたり、団うち扇わで煽あおいだりして、三時間も人々に代って看護をしていたりして、目がくらくらするほど空腹を感じて来た頃に、家へ帰って来たのであった。 家では大工がみんな昼寝をしていた。小野田もミシン台をすえた奥の六畳の涼しい窓の下で、横わっていた。 お島はそこらをがたぴし言わせて、着替などをしていた。根津の家を引払う前に、田舎へ還してしまった父親の毎日々々飲みつづけた酒代の、したたか滞っている酒屋の註文聞の一人に、途中で出逢って、自分の方からその男に声をかけて来なければならなかったことなどが、一層彼女の頭あた脳まをむしゃくしゃさせていた。小野田がその父親を呼寄せさえしなければ、あの家もどうか恁こうか持続けて行けたように考えられた。あの飲んだくれのために、どのくらい自分の頭脳が掻かき廻まわされ、働きが鈍らされたか知れないと思った。 ﹁撲ぶちのめしても飽足りない奴だ﹂ お島は、酔ったまぎれに自分を離縁しろといって、小野田を手て甲こ擦ずらせていたと云う父親の言分から、内輪が大おお揉もめにもめて、到頭田舎へ帰って行くことになった父親に対する憎悪が、また胸に燃えたって来るのを覚えた。小野田の寝顔までが腹立しく見返えられた。 ﹁せっせと仕事をして下さいよ。莫迦みたいな顔して寝ていちゃ困りますよ﹂ 小野田が薄目をあいて、ちろりと彼女の顔を見たとき、お島はいらいらした声で言った。 お島は台所で飯を食べている時分に、やっと小野田はのそのそ起出して来た。 ﹁仕事々々って、そうがみがみ言ったって仕事ができるもんじゃないよ﹂ 小野田は火鉢の傍へ来て、莨たばこをふかしはじめながら、まだ眠ねむ足りたりないような赭あかい目をお島の方へ向けた。 ﹁それよりか硝子の工面もしなければならず、店だって飾なしにおかれやしない﹂ ﹁知らないよ、私は。自分でもちっと心配するがいいんだ﹂お島は言返した。百一
小野田はそこへ脱ぎっぱなしにしたお島の汗ばんだ襦じゅ袢ばんや帯が目に入ったり、不断著を取出すために引ひっ掻かきまわした押入のどさくさした様子などを見ると、とても世帯は持てない女だといって、自分のために離縁を勧めた父親の辞ことばが思い出された。 ﹁技はた倆らきがあるか何だか知らんが、まあ大変なもんだ。とても女とは思えんの﹂ そうも言って、荒いお島の調子に驚いていた父親の善良そうな顔も思出された。 ﹁朝から出て、あれは一日どこを何をして歩いてるだい﹂ 父親はそうも言って、不思議がったが、お島自身に言わせると、朝は誰かが台所働きをしてくれて、気持よく家を出なければ、とても調子よく外で働くことはできないというのであった。帰って来た時にも、自分を迎えてくれる衆みんなの好い顔をでも見なければ埋らないと言うのであった。それで小野田は順吉と一緒に、どうかすると七輪に火をおこしたり、漬つけ物もの桶おけへ手を入れたりすることを行やっているのであったが、お島が一人で面白がってやっている顧とく客いまわりも、集金の段になってくると、やっぱり小野田自身が出て行くより外ないようなことが多かった。 夕方にお島は機嫌を直して、硝子屋の方へ出て行った。 ﹁この店さえ出来あがれば、少し資本を拵こしらえて、夏の末には己が新趣向の広告をまいて、有あらゆる中学の制服を取ろうと思っている﹂ 小野田はそう言って、この頃から考えていた自分の平易で実行し易やすいような企もく劃ろみをお島に話した。 ﹁それには女めと唐うふ服くを着て、お前が諸学校へ入込んで行かなければならぬのだがね﹂ ﹁駄目です駄目です。制服なんかやったって、どれだけ儲かるもんですか﹂ そんな際きわ物もの仕事が、自分の顔にでもかかるか何かのように考えているお島は、そう言って反抗したが、好い客を惹ひき着つけるような立派な場所と店と資本とをもたない自分達に取っては、そうでもして数でこなすより外ないことを小野田は主張した。 学生相手の確たしかなことはお島も知っていた。洋服姿で、若い学生だちの集りのなかへ入って行く自分の姿を想像するだけでも、彼女は不思議な興味を唆そそられた。 ﹁そうすると、お前の顔は直きに学生仲間に広まってしまうよ﹂ 小野田はその妻や娘を売物にすることを能よく知っている、思附のある興行師か何ぞのような自分の計けい劃かくで、成功と虚栄に渇かわいている彼女を使しそ嗾うする術を得たかのように、自信のある目を輝かしていた。 ﹁ふむ﹂お島は自分がいつからかぼんやり望んでいたことを、小野田が探りあててくれたような興味を感じた。男が頼もしい悧りこ巧うもののように思えて来た。 ﹁それは確たしかにあたるね﹂お島はそういって賛成した。百二
横浜に店を出している知合いの女唐服屋で、お島が工面した金で自分の身みな装りをすっかり拵こしらえて来たのは、それから大分たってからであった。 新築の家はすっかり出来あがって、硝子もはまった飾窓に、小野田が柳原から見つけて買って来た古い大礼服の金モオルなどが光っていた。 一度姿見を買ったことのある硝子屋では、主人はその申込を最初は断ったが、お島のことを知っている息むす子こが、自分で引受けて要いるだけの硝子を入れてくれた。 ﹁老おや爺じはああいいますけれど、お上さんの気前を買って、私がお貸し申しましょう。だから入れられるだけ入れてみて下さい。倒されればそれまでです﹂ そしてその翌朝、彼は小僧と一緒に硝子を運びこんで、それを飾窓や入口のドアなどに切はめてくれた。 ﹁お前さんは若いにしては感心だよ。そう云う風に出られると、誰だって贔ひい屓きにしないじゃいられないからね。また好いお得意をどっさり世話してあげますよ﹂ お島はそう言って、その硝子屋を還した。 看板を書くために、ペンキ屋が来たり、小野田が自転車で飛して、方々当ってみてあるいた羅紗のサンプルが持込まれたり、スタイルの画見本の額が、店に飾られたりした。 白い夏の女唐服に、水色のリボンの捲まかれた深い麦むぎ稈わら帽子を冠かぶって、お島が得意まわりをしはじめるようになったのは、それから大分たってからであった。 ﹁どうです、似合いますか﹂などと、お島は姿見の前を離れて、その頃また来ることになった木村という職人や小野田の前に立った。コルセットで締つけられた、太い胴が息がつまるほど苦しかった。皮膚の汚し点みや何かを隠すために、こってり塗りたてた顔が、凄せい艶えんなような蒼あお味みを帯びてみえた。 ﹁莫ば迦かに若くみえるね。少くとも布ハワ哇イあたりから帰って来た手品師くらいには踏めますぜ﹂木村は笑った。 お島はその身な装りで、親しくしているお顧とく客いをまわって行った。その中には若い歯科医や弁護士などもあった。 ﹁どこの西洋美人がやって来たかと思ったら、君か﹂ 途中で行逢った若い学生たちは、そういって不思議な彼女の姿に目を![※(「目+爭」、第3水準1-88-85)](../../../gaiji/1-88/1-88-85.png)
百三
時間割表などの刷込まれた、二つ折小形のその広告札を、羅らし紗ゃの袋に入れて、お島は朝早く新入生などの多く出では入いりする学校の門の入口に立った。 ﹁どうぞどっさりお持くださいまし。そして皆さん方へも、お拡めなすって下さいまし﹂お島はそう云って、それを彼等の手に渡した。 ﹁私わたくしどもでは皆さんの御便宜を図って、羅紗屋と特約を結んで、精々勉強いたしますから、どうぞ御贔屓に……スタイルも極ごく斬ざん新しんでございます﹂彼女はそうも云って、面白そうに集ってくる若い人達の心を惹ひき着つけた。 ﹁安いね﹂ ﹁洋行がえりの洋服屋だとさ﹂ 学生たちは口々に私ささ語やきあった。 ﹁おいおい、引札を撒まくことは止めてもらおう。此こち方らではそれぞれ規定の洋服屋があるから﹂ 門番や小使たちは、学生の手から校庭へ撒棄てられる引札を煩うるさがって、彼女を逐おい攘はらおうとした。 お島は時とすると、札さつを二三枚ポケットから取出して、彼等の手に渡した。そして学校の事務員にまで取入ることを怠らなかった。 ﹁品物を好くして、安く勉強すると云うなら、どこで拵えるのも同じだから、学生を勧誘するのも君の自由だがね﹂ 事務員はそう云って、彼女の出しゅ入つにゅうに黙諾を与えてくれたりした。 広い運動場に集っている生徒のなかへ、お島の洋服姿が現れて行った。 時には一つの学校から、他の学校へ彼女は腕くる車まを飛しなどして、せり込んで行く多くの同業者と劇はげしい競争を試みることに、深い興味を感じた。 小野田や職人たちが、まだぐっすり眠っているうちに、お島は床を離れて、化おつ粧くりをするために大きい姿見の前に立った。そして手ばしこくコルセットをはめたり、漸ようやく着なれたペチコオトを着けたりした。洋服がすっかり体に喰くっついて、ぽちゃぽちゃした肉を締つけられるようなのが、心持よかった。そして小ちいさいしなやかな足に、踵かかとの高い靴をはくと、自ひと然りでに軽く手足に弾力が出て来て、前へはずむようであった。ぞべらぞべらした日本服や、ぎごちない丸髷姿では、とても入って行けない場所へ、彼女の心は、何の羞しゅ恥うちも億おっ劫くうさも感ずることなしに、自由に飛込んで行くことができた。 朝おきると、懈だるい彼女の体が、直じきにそれらの軽快な服装を要求した。不思議なほど気持の引締ってくるのを覚えた。朝露にまだしっとりとしているような通りを、お島は一朝でも、洋服で出て行かない日があると、一日気分が悪かった。 自転車で納めものを運んで行く小野田が、どうかすると途中で彼女の側へ寄って来た。 ﹁惜い事には丈たけが足りないね﹂ 小野田は胴どう幅はばなどの広い彼女の姿を眺めながら言った。 ﹁どうせ労働服ですもの、様子なんぞに介か意まっていられるもんですか﹂ 二人は暫く歩きながら話した。百四
月が十月へ入ってから、撒いておいた広告の著しい効きき験めで、冬の制服や頭ずき巾んつきの外がい套とうの註文などが、どしどし入って来た。その頃から工場には職人の数も殖えて来た。徒歩の目まだ弛るいのに気を腐くさらしていたお島は、小野田の勧めで、自転車に乗る練習をはじめていた。 晩方になると、彼女は小野田と一緒に、そこから五六丁隔へだたった原っぱの方へ、近所で月賦払いで買入れた女乗の自転車を引出して行った。一ひと月つきの余よも冠った冠かぶ物りものが暑い夏の日に焦やけ、リボンも砂埃に汚れていた。お島はその冠物の肩までかかった丸い脊を屈こごめて、夕暗のなかを、小野田についていて貰もらって、ハンドルを把とることを学んだ。 近いうちに家が建つことになっているその原には、桐きりの木やアカシヤなどが、昼でも涼しい蔭を作っていた。夏草が菁せい々せいと生おい繁しげって、崖のうえには新しい家が立たち駢ならんでいた。 そこらが全く夜よるの帷とばりに蔽おおい裹つつまるる頃まで、草原を乗まわしている、彼女の白い姿が、往来の人たちの目を惹ひいた。 木の蔭に乗物を立てかけておいて、お島は疲れた体を、草のうえに休めるために跪しゃ坐がんだ。裳もす裾そや靴くつ足た袋びにはしとしと水分が湿しとって、草くさ間あいから虫が啼ないていた。 お島はじっとり汗ばんだ体に風を入れながら、鬱陶しい冠かぶりものを取って、軽い疲労と、健やかな血行の快い音に酔っていた。腿ももと臀でん部ぶとの肉に懈だるい痛みを覚えた。小野田は彼女の肉体に、生理的傷害の来ることを虞おそれて、時々それを気にしていたが、自転車で町を疾走するときの自分の姿に憧あこがれているようなお島は、それを考える余裕すらなかった。 ﹁少しくらい体を傷いためたって、介か意まうもんですか。私たちは何か異かわったことをしなければ、とても女で売出せやしませんよ﹂ お島はそう言って、またハンドルに掴まった。 朝はやく、彼女は独ひとりでそこへ乗出して行くほど、手があがって来た。そして濛も靄やの顔にかかるような木蔭を、そっちこっち乗りまわした。秋らしい風が裾に孕はらんで、草の実が淡青く白しろい地じについた。崖のうえの垣根から、書生や女たちの、不思議そうに覗のぞいている顔が見えたりした。土ど堤ての小こみ径ちから、子供たちの投げる小石が、草のなかに落ちたりした。 ﹁おそろしい疲れるもんですね﹂ 一ひと月つきほどの練習をつんでから、初めて銀座の方へ材料の仕入に出かけて行って、帰って来たお島は、自転車を店みせ頭さきへ引入れると、がっかりしたような顔をして、そこに立っていた。 ﹁須田町から先は、自分ながら可おっ怕かなくて為しよ様うがなかったの。だけど訳はない。二三度乗まわせば急きっ度と平気になれます﹂お島は自信ありそうに言った﹇#﹁言った﹂は底本では﹁言つた﹂﹈。百五
忙いそがしいその一冬を自転車に乗づめで、閑ひまな二月が来たとき、お島は時々疑問にしていながら、診てもらうのを厭いやがっていた、自分の体をふとした機会から、病院で医者に診せた。 ﹁……毛がすっかり擦切れてしまったところを見ると、余よっ程ぽど毒なもんですね﹂ お島はそう言って、そこを小野田に見せたりなどしていたが、それはそれで真ほんの外面の傷害に過ぎないらしかった。 その病院では、お島の親しい歯科医の細君が、腹部の切開で入院していた。そこへお島は時々見舞に行った。 そんなところへも自分の商売を広告するつもりで、看護婦や下足番などへの心づけに、切きれ放はなれの好いお島は、直に彼等とも友達になったが、一二度体を診てもらううちに、親しい口を利ききあう若い医師が、二人も三人もできた。 段々肥ひ立だって来た、売くろ色うとあがりの細君の傍で、お島は持って行った花を花かび瓶んに挿さしたり、薄くなった頭あた髪まに櫛くしを入れて、束つくねてやったりして、半日も話相手になっていた。 ﹁どう云うんでしょう、私の体は……﹂ お島は看護婦などのいる傍で、いつかも印判屋の上さんに訊たずねたと同じことを言出した。 ﹁夫婦の交まじ際わりなんてものは、私にはただ苦しいばかりです。何の意味もありません﹂ ﹁それは貴あな女たがどうかしてるのよ﹂ 患者は日ましに血色のよくなって来た顔に、血の気のさしたような美しい笑顔を向けて、お島の顔を眺めた。 ﹁でも可おか笑しいんですの。こんなことを言うのは、自分の恥を曝さらすようなもんですけれど、実際あの人が変なんです﹂ お島は紅い顔をして言った。 ﹁ええ、そんな人も千人に一人はありますね﹂ お島が診てもらった医者に、それを言出すほど気がおけなくなったとき、彼はそう言って笑っていた。 位置が少し変っているといわれた自分の体を、お島はそれまでに、もう幾いく度たびも療治をしてもらいに通ったのであった。 ﹁当分自転車をおやめなさい。圧迫するといけない﹂ お島は苦しい療治にかかった最初の日から、そう言われて毎日和服で外そと出でをしていた。 長いお島の病院がよいの間、小野田が、多く外まわりに自転車で乗出した。 顧とく客い先で、小野田が知合になった生は花なの先生が出では入いりしたり、蓄音器を買込んだりするほど、その頃景気づいて来ていた店の経済が、暗いお島などの頭あた脳までは、ちょと考えられないほど、貸や借の紛こぐ紜らかりが複雑になっていたが、それはそれとして、身みな装りなどのめっきり華は美でになった彼女は、その日その日の明い気持で、生活の新しい幸福を予期しながら、病院の門を潜くぐった。百六
小野田は時々外廻りに歩いて、あとは大抵店で裁たちをやっていたが、隙すきがありさえすれば蓄音器を弄いじっていた。楽らく遊ゆうや奈なら良ま丸るの浪なに華わぶ節しに聴きき惚ほれているかと思うと、いつかうとうと眠っているようなことが多かった。 しげしげ足を運んでくる生は花なの先生は、小野田が段々好いお顧とく客いへ出では入いりするようになったお島に習わせるつもりで、頼んだのであったが、一度も花はな活いけの前に坐ったことのない彼女の代りに、自身二階で時々無器用な手てつ容きをして、ずんどのなかへ花を挿さしているのを、お島は見かけた。 もと人の妾などをしていたと云う不幸なその女は、どうかすると二時間も三時間も遊んで帰ることがあった。上かみ方がたに近い優しい口の利き方などをして、名古屋育ちの小野田とはうまが合っていた。 ﹁私だって偶たまには逆さか様さにお花も活いけてみとうございますよ﹂ 外から帰って、ふと二階の梯はし子ごをあがって行くお島の耳に、その日も午ひるから来て話込んでいたその年とし増まの媚なまめかしい笑い声が洩もれ聞えた。嫉しっ妬とと挑発とが、彼女の心に発作的におこって来た。 女が帰って行くとき、お島はいきなり帳場の方から顔を出して行った。 ﹁お気きの毒どくさまですがね、宅たくはお花なんか習っている隙ひまはないんですから、今日きり私わたくしからお断りいたします﹂ お島は硬こわばった神経を、強しいておさえるようにして、そう言いながら謝礼金の包を前においた。 もう三十七八ともみえる女は、その時も綺麗に小こじ皺わの寄った荒すさんだ顔に薄化粧などをして、古いお召の被ひふ布すが姿たで来ていたが、お島の権幕に怯おじおそれたように、悄すご々すご出ていった。 ﹁この莫迦!﹂ 二階へ駈かけあがって往ったお島は、いきなり小野田に浴せかけた。毎日鬢びんや前髪を大きくふっくらと取った丸まる髷まげ姿で出ていた彼女は、大きな紋のついた羽織もぬがずに、外めじ眦りをきりきりさせてそこに突立っていた。 ﹁髯ひげなんかはやして、あんなものにでれでれしているなんて、お前さんも余よっ程ぽどな薄うす野の呂ろだね﹂ お島はそう言いながら、そこにあった花はな屑くずを取あげて、のそりとしている小野田の顔へ叩たたきつけた。吊つりあがったような充血した目に、涙がにじみ出ていた。 ﹁何をする﹂ 小野田も怒りだして、そこにあった水差を取ってお島に投げつけた。彼女の御召の小袖から、水がだらだらと垂れた。 負けぬ気になって、お島も床の間に活かったばかりの花を顛ひっ覆くらかえして、へし折りへし折りして小野田に投ほうりつけた。 劇はげしい格闘が、直じきに二人のあいだに初まった。小野田が力づよい手を弛ゆるめたときには、彼女の鬢びんがばらばらに紊ほつれていた。そうして二人は暫く甘い疲労に浸りながら、黙って壁の隅っこに向きあって坐っていた。百七
二人が階し下たへおりていったのは、もう電燈の来る時分であった。病院通いをするようになってから、可おそ恐ろしいものに触れるような気がして、絶えて良おっ人との側へ寄らなかった彼女は、その時も二人の肉体に同じような失望を感じながら、そこを離れたのであった。 ﹁あなたは別に女をもって下さい﹂ お島はそう言って、根津にいた頃近所の上さんに勧められて、小野田が時々逢ったことのある女をでも、小野田に取戻そうかとさえ考えていた。 ﹁そうでもしなければ、とてもこの商売はやって行けない﹂お島はそうも考えた。 産れが好いとかいわれていたその女は、ここへ引越してからも、一二度店みせ頭さきへ訪ねて来たことがあったが、お島はそれの始末をつけるために、砲兵工こう廠しょうの方へ通っている或男を見つけて、二人を夫婦にしてやったのであった。 小野田がどうかすると、その女のことを思い出して、裏うら店だな住ずまいをしている、戸崎町の方へ訪ねて行くことを、お島もうすうす感づいていた。 ﹁あの女はどうしました﹂ お島は思出したように、それを小野田に訊ねたが、その頃は食たべ物もの屋やなどに奉公していた当座で、いくらか身綺麗にしていた女は、亭主持になってからすっかり身みな装りなどを崩しているのであった。 ﹁いくら向うに未練があったって、あの頃とは違いますよ。亭主のあるものに手を出して、呶どな鳴り込こまれたらどうするんです﹂ 小野田がまだ全く忘れることのできないその女のことを口にすると、お島はそう言って窘たしなめたが、別れてからも、小野田に執着を持っている女を不思議に思った。 ﹁あいつの亭主は、そんな事を怒るような男じゃない、おれがあいつの世話をしていたことも、ちゃんと知っていて、今でもそういうことには無神経でいるんだ﹂ 小野田はそう言って笑っていた。 二三日前から、また時々自転車で乗出すことにしていたお島が、ある晩九時頃に家へ帰って来ると、女から、呼出をかけられて、小野田は家にいなかった。 ﹁どこへ行ったえ﹂ お島は何のことにも能よく気のつく順吉に、私そっとたずねた。 ﹁白はく山さんから来たと云って、若わかい衆しゅが手紙を持って、迎いに来ましたよ。私あっしが取次いだんだから、間違いはありません﹂ 順吉はそう云って、まだ洋服もぬがずにいるお島の血相のかわった顔を眺めていた。 ﹁じゃまた何処かで媾あい曳びきしてるんだろうよ。上さん今夜こそは一つ突止めてやらなくちゃ……﹂ お島は急いでコルセットなどを取はずすと、和服に着替えて、外へ飛出していった。時々小野田の飲みに行く家を彼女は思出さずにはいられなかった。百八
秘密な会合をお島に見みい出だされたその女は、その時から頭あた脳まに変調を来して、幾夜かのあいだお島たちの店みせ頭さきへ立って、呶ど鳴なったり泣いたりした。 女はお島に踏込まれたとき、真まっ蒼さおになって裏の廊下へ飛出したのであったが、その時段だん梯ばし子ごの上まで追っかけて来たお島の形相の凄すごさに、取殺されでもするような恐おそ怖れにわななきながら、一散に外へ駈出した。 ﹁この義理しらずの畜生!﹂ お島は部屋へ入って来ると、いきなり呶鳴りつけた。野獣のような彼女の体に抑えることが出来ない狂暴の血が焦やけただれたように渦をまいていた。 締切ったその二階の小こ室まには、かっかと燃え照っている強い瓦ガ斯スの下に、酒の匂においなどが漂って、耳に伝わる甘い私ささ語やきの声が、燃えつくような彼女の頭あた脳まを、劇しく刺しげ戟きした。白い女のゴム櫛ぐしなどが、彼女の血走った目に異常な衝動を与えた。 手に傷などを負って、二人がそこを出たときには、春雨のような雨が、ぼつぼつ顔にかかって来た。 まだ人通りのぼつぼつある、静かな春の宵に、女は店みせ頭さきへ来て、飾窓の硝ガラ子スに小石を撒まきちらしたり、ヒステリックな蒼白い笑顔を、ふいにドアのなかへ現わしたりした。 ﹁お上さんはいるの﹂ 女は臆病らしく奥口を覗のぞいたりした。 ﹁旦那をちょっと此こ処こへ呼んで下さいな﹂ 女はそう言って、しつこく小僧に頼んだ。 小僧は面白そうに、にやにや笑っていた。 ﹁旦那は今いないんだがね、お前さんも亭主があるんだから、早く帰って休んだら可いいだろう﹂ お島は側へ来て、やさしく声かけた。そして幾いく許らかの金を、小い彼女の掌に載せてやった。 女はにやにやと笑って、金を眺めていたが、投げつけるようにしてそれを押戻した。 ﹁わたしお金なんか貰いに来たのじゃなくてよ。私を旦那に逢わしてください﹂ 女はそこを逐おっ攘ぱらわれると、外へ出ていつまでもぶつぶつ言っていた。そして男の帰って来るのを待っているか何ぞのように其そ処こらをうろうろしていた。 ﹁そっちに言分があれば、此こっ方ちにだって言分がありますよ﹂ 亭主から頼まれたと云って、四十左そ右うの遊人風の男が、押込んで来たとき、お島はそう言って応対した。そして話が込入って来たときに、彼女の口から洩れた、伯父の名が、その男を全くその談はなしから手を引かしめてしまった。顔かお利ききであった伯父の名が、世話になったことのあるその男を反対に彼女の味方にして了しまうことができた。百九
親思いの小野田が、田舎ではまだ物珍しがられる蓄音器などをさげて、根津の店が失敗したおりに逐おい返かえしたきりになっている、父親を悦よろこばせに行った頃には、彼が留守になっても差さし閊つかえぬだけの、裁たちの上手な若い男などが来ていた。 知った職人が、この頃小野田の裁を飽足らず思っているお島に、その男を周旋したのは、間あい服ふくの註文などの盛んに出た四月の頃であったが、その職人は、来た時からお島の気に入っていた。 自分でも店を有もったりした経験のある、その職人は、最近に一緒にいた女と別れてそれまで持っていた世しょ帯たいを畳んで、また職人の群へ陥おちて来たのであったが、悪いものには滅多に剪はさ刀みを下くだそうとしない、彼の手に裁たれ、縫わるる服は、得意先でも評判がよかった。おっつけ仕事を間に合すことのできないその器用な遅い仕事振を、お島は時々傍から見ていた。体つきのすんなりしたその様子や、世間に明いその男は、お島たちの見も聞きもしたことのないような世界を知っていたが、親しくなるにつれて小野田と酒などを飲んでいるときに、ちょいちょい口にする自分自身の情話などが、一層彼女の心を惹ひいた。 ﹁こんな仕事を私にさせちゃ損ですよ﹂ 彼はそう云って、どんな忙いそがしい時でも下等な仕事には手をつけることを肯がえんじなかった。 ﹁それじゃお前さんは貧乏する訳さね﹂ お島も躯からだの弱いその男を、そんな仕事に不断に働かせるのを、痛々しく思った。 ﹁それにお前さんは人品がいいから、身が持てないんだよ﹂ お島は話ぶりなどに愛あい嬌きょうのあるその男の傍にすわっていると、自ひと然りでに顔を赧あかくしたりした。黒ほく子ろのような、青い小ちいさい入墨が、それを入れたとき握合った女とのなかについて、お島に異様な憧しょ憬うけいをそそった。 ﹁いくつの時分さ﹂ お島はその手の入墨を発見したとき、耳の附根まで紅くして、猥みだらな目を![※(「目+爭」、第3水準1-88-85)](../../../gaiji/1-88/1-88-85.png)
百十
小野田が田舎へ立ってから間もなく、急に浜屋に逢う必要を感じて来たお島が、その男に後を頼んで、上野から山へ旅立ったのは、初はつ夏なつのある日の朝であった。 病院で躯からだの療治をしてからのお島は、先天的に欠陥のない自分の肉体に確信が出来たと同時に、今まで小野田から受けていた圧迫の償いをどこかに求めたい願いが、彼女の頭あた脳まに色々の好奇な期待と慾望とを湧かさしめた。いつからか朧おぼろげに抱いだいていた生理的精神的不満が、若いその職人のエロチックな話などから、一層誘発されずにはいなかった。 そしてそれを考えるときに、彼女はその対象として、浜屋を心に描いた。 ﹁あの人に一度逢って来よう。そして自分の疑いを質ただそう﹂ お島はそれを思いたつと、一日も早くその男の傍へ行って見たかった。 一つはそれを避けるために田舎へ帰った小野田がいなくなってからも、まだ時々店みせ頭さきへ来て暴れたり呶ど鳴なったりする狂女が、巣すが鴨もの病院へ送込まれてから、お島はやっと思出の多いその山へ旅立つことができた。 全く色情狂に陥ったその女は、小野田が姿を見せなくなってからは、一層心が狂っていた。そして近所の普請場から鉋かん屑なくずや木屑をを拾い集めて来て、お島の家の裏手から火をかけようとさえするところを、見つけられたりした。 近所の人だちの願ねが出いいでによって、警察へ引張られた彼女が、梁はりから逆さにつられて、目口へ水を浴せられたりするところを、お島も一度は傍で見せつけられた。 ﹁水をかけられても、目をつぶらないところを見ると、これは確たしかに狂きち気がいです﹂ 責道具などの懸けられてあるその室で、お島は係の警官から、笑いながらそんな事を言われた。 ﹁私は二三日で帰って来ますからね、留守をお頼み申しますよ﹂ お島は立つ前の晩にも、その職人に好きな酒を飲ませたり、小こづ遣かいをくれたりして頼んだ。 ﹁多分それまでに帰ってくるようなことはないだろうと思うけれど、偶ひょ然っとして良う人ちが帰って来たら、巧うまい工合に話しておいて下さいよ。前せんに縁づいていた人のお墓参りに行ったとそう言ってね﹂ お島は顔を赧あからめながら言った。 ﹁可よござんすとも。ゆっくり行っておいでなさいまし﹂ その男はそう言って潔きよく引受けたが、胡うさ散んな目をして笑っていた。 ﹁真ほん実とうにわたし恁こういう人があるんです﹂ お島は終しまいにそれを言出さずにはいられなかった。 ﹁けどこれだけはあの人には秘密ですよ﹂百十一
博覧会時分に上京して来た、山の人たちに威張って逢えるだけの身のまわりを拵こしらえて、お島があわただしい思いで上野から出発したのは、六月の初めであった。 四五年前に、兄に唆そそのかされて行った頃の暗い悲しい心持などは、今度の旅行には見られなかったが、秘密な歓楽の果みをでも偸ぬすみに行くような不安が、汽車に乗ってからも、時々彼女の頭あた脳まを曇らした。 汽車の通って行く平野のどこを眺めても、昔むかしの記憶は浮ばなかった。大宮だとか高崎だとかいうような、大きなステーションへ入るごとに、彼女は窓から首を出して、四あた下りを眺めていたが、しばらく東京を離れたことのない彼女には、どこも初めてのように印象が新しかった。高崎では、そこから岐わかれて伊い香か保おへでも行くらしい男おと女こおんなの楽しい旅の明い姿の幾組かが、彼女の目についた。蓄音器をさげて父親を悦よろこばせに行った小野田が思出された。不ぶか恰っこ好うな洋服を着たり、自転車に乗ったりして、一年中働いている自分が、都すべて見くびっているつもりの男のために、好い工合に駆使されているのだとさえしか思われなかった。 ﹁わたしは莫迦だね。浜屋に逢いに行くのにさえ、こんなに気兼をしなくてはならない。あの人はこれまでに、私に何をしてくれたろう﹂ お島は口を利くものもない客車のなかで、静かに東京の埃ほこりのなかで活動している自分の姿が考えられるような気がした。慾よく得とくのためにのみ一緒になっているとしか思えない小野田に対する我わが儘ままな反抗心が、彼女の頭あた脳まをそうも偏へん傾けいせしめた。何のために血ちま眼なこになって働いて来たか解らないような、孤独の寂しさが、心に沁しみ拡ひろがって来た。 桐の花などの咲いている、夏の繁みの濃い平野を横ぎって、汽車はいつしか山へさしかかっていた。高崎あたりでは日光のみえていた梅つゆ雨ど時きの空が、山へ入るにつれて陰鬱に曇っているのに気がついた。窓のつい眼のさきにある山の姿が、淡うす墨ずみで刷はいたように、水霧に裹つつまれて、目まぢ近かの雑木の小枝や、崖の草の葉などに漂うている雲が、しぶきのような水滴を滴した垂たらしていたりした。白い岩のうえに、目のさめるような躑つつ躅じが、古風の屏びょ風うぶの絵にでもある様な鮮あざやかさで、咲いていたりした。水がその巌いわ間まから流れおちていた。 深い渓たにや、高い山を幾つとなく送ったり迎えたりするあいだに、汽車は幾いく度たびとなく高原地の静なステーションに停とどまった。旅客たちは敬けい虔けんなような目を側そばだてて、山の姿を眺めた。 ステーションへつく度に、お島は待遠しいような気がいらいらいした。 山の町近くへ来たのは、午後の四時頃であった。糠ぬかのような雨が、そのあたりでも窓硝子を曇らしていた。百十二
目ざす町に近い或小駅で、お島は乗込んで来る三四人の新しい乗客が、自分の向側へ来て坐るのを見た。 それらの人は、どこかこの近辺の温泉場へでも遊びに行って来たものらしく、汽車が動きだしてからも、手てん々でにそんな話に耽ふけっていた。山の町の人達の噂うわさも、彼等の口に上のぼったが、浜屋々々と云う辞ことばが、一層お島の耳についた。汽車の窓から、首をのばして彼等の見ている山の形が、ふと浜屋の記憶を彼等に喚よび起おこしたのであった。その山は、そこから二三里の先の灰色の水霧のなかに幽かすかな姿を見せていた。 ﹁あなた方がたはS――町の方のようですが、浜屋さんがどうかしましたのですか﹂ お島は、断きれ々ぎれに耳につくその話に、ふと不安を感じながら訊いた。 ﹁私わたくしは東京から、あの人に少し用事があって来たものですが、お話の様子では、あの人があの山のなかで何か災難にでも逢ったと云うのでしょうか﹂ 遊女屋の主人か、芸者町の顔かお利ききかと云うような、それらの人たちは、みんなお島の方へその目を注いだ。 金歯などをぎらぎらさせたその中の一人の話によると、浜屋は近頃自分の手に買取ったその山のある一部の森林を見廻っているとき、雨あまあがりの桟そば道みちにかけてある橋の板を踏すべらして、崖がけへ転ころがり陥おちて怪け我がをしてから、病院へ担かつぎこまれて、間もなく死んでしまったと云うのであった。 お島はそれを聴いたとき、あの男が、そんな不幸な死方をしたとは、信じられなかったが、その死の日や刻限までを聴知ってから、次第にその確実さが感じられて来た。 ﹁すれば、あの人の霊たましいが、私をここへ引寄せたのかもしれない﹂ お島はそうも考えながら、次第に深い失望と哀愁のなかへ心が浸されて行くのを感じた。 浜屋へついたのは、日の暮方であった。以前よく往ゆき来きをしたステーションの広場には、新しい家などが建っているのが二三目についたが、俥くるまのうえから見る大通りは、どこもかしこも変りはなかった。雨がはれあがって、しめっぽい六月の空の下に、高原地の古い町が、澱おどんだような静さと寂しさとで、彼女の曇うるんだ目に映った。 お島はその夜よ一ひと夜よは、むかし自分の拭ふき掃そう除じなどをした浜屋の二階の一室に泊って、翌あくる日ひは、町のはずれにある菩ぼだ提いし所ょへ墓まいりに行った。その寺は、松や杉などの深い木立のなかにある坂路のうえにあった。 松風の音の寂しい山門を出てからも、お島はまだ墓の下にあるものの執着の喘あえぎが、耳につくような無気味さを感じた。彼女は急いで道をあるいた。 半日を浜屋で暮して、十二時頃お島はまた汽車に乗った。 ﹁どこか温泉で二三日遊んでいこう﹂ 失望の安易に弛ゆるんだ彼女は、汽車のなかでそうも考えた。百十三
途中汽車を乗替えたり、電車に乗ったりして、お島はその日の昼少し過ぎに、遠い山のなかの或温泉場に着いた。
浴客はまだ何処にも輻ふく湊そうしていなかったし、途みち々みち見える貸別荘の門なども大方は閉しまっていて、松が六月の陽よう炎えんに蒼あお々あおと繁り、道ぞいの流れの向うに裾をひいている山には濃い青せい嵐らんが煙けぶってみえた。
お島の導かれたのは、ある古い家やだ建ちの見みは晴らしのいい二階の一室であったが、女中に浴ゆか衣たに着替えさせられたり、建物のどん底にあるような浴場へ案内されたりする度たんびに、一人客の寂しさが感ぜられた。
浴場の窓からは、草の根から水のちびちびしみ出している赭あか土つち山やまが侘わびしげに見られ、檐のき端ばはずれに枝を差さし交かわしている、山国らしい丈たけのひょろ長い木の梢こずえには、小こと禽りの声などが聞かれた。
﹁お一人でお寂しゅうございますでしょう﹂
浴後の軽い疲をおぼえて、うっとりしているところへ、女がそう言いながら膳ぜん部ぶを運んで来た。
笑い声などを立てたことのない、この二日ばかりの旅が、物悲しげに思いかえされた。どこの部屋からか蓄音器が高調子に聞えていた。
電話室へ入って、東京の自う宅ちの様子を聞くことのできたのは、それから大分たってからであった。小野田はまだ帰っていなかった。
﹁好いところだよ。旦那の留守に、お前さんも一日遊びに来たらいいだろう﹂
お島は四五日の逗とう留りゅうに、金を少し取寄せる必要を感じていたので、その事を、留守を頼んでおいた若い職人に頼んでから、そう言って誘いざなった。
﹁それから順吉もつれて来て頂戴よ。あの子には散さん々ざ苦労をさせて来たから、一日ゆっくり遊ばしてやりましょうよ﹂
お島はそうも言って頼んだ。
その晩は、水の音などが耳について、能よくも睡ねむられなかった。
夜があけると、東京から人の来るのが待たれた。そして怠屈な半日をいらいらして暮しているうちに、旋やがて昼を大分過ぎてから二人は女中に案内されて、お島の着替えや水菓子の入った籠かごなどをさげて、どやどやと入って来た。部屋が急に賑にぎやかになった。
﹁こんな時に、私も保養をしてやりましょうと思って。でも、一人じゃつまらないからね﹂お島は燥はしゃいだような気持で、いつになく身綺麗にして来た若い職人や、お島の放ほう縦じゅうな調子におずおずしている順吉に話しかけた。
﹁医者に勧められて湯治に来たといえば、それで済むんだよ。事によったら、上さんあの店を出て、この人に裁たちをやってもらって、独ひと立りだちでやるかも知れないよ﹂
お島は順吉にそうも言って、この頃考えている自分の企もく画ろみをほのめかした。