余震の一夜
徳田秋聲
或夜中に私は寝所について、いくらか眠つたと思ふ頃に、又人騒がせな余震があつたとみえて、家中騒ぎだした。私は夢心地にこの地震を感じたに違ひなかつたが、どのくらゐの強さで初まつたかを、感ずるほど微細な知覚は働いてゐなかつた。私は今度の大地震を経験する前から、時々坐つてゐる尻の下で、大地が動もするとゆら〳〵と揺(ゆら)いでゐるやうな気のすることが屡であつた。勿論それは私の神経が微弱なために、自身の体の無意識な揺(ゆら)ぎを、さう感じたり、又は病的な中(ちう)枢(すう)神経から来る軽い眩暈のやうな種類のものに過ぎないのだらうと思はれたが、しかし矢張り大地が始終動いてゐるやうな気がしてならないのであつた。或地震学者は臆病になつた市民が、科学の智識がないために、徒らに余震におびえて戸外へ出て寝てゐたのを非文明だと言つて嗤つてゐるが、大地が揺ぎつゞけに揺らいでゐた当時では、粗末な建物のなかなぞに、迚も安住してゐられないのも無理はなかつた。その上悠久な地球の生命について、わづか三千年やそこいらの経験しかもたない我々の智識が、果して何程の権威をもつことができやうか。勿論我々はそれでも結構生きて行かれるには行かれる。生の不安と恐怖が、生活の歓びの裏づけとさへなつてゐるのである。
私が起きあがつた時には、妻と幼児はまだ床の中にゐた。私はあの大震災の時家にはゐなかつた。多勢の子供たちと一緒に家を守つてゐた彼女は、十四日目にのこ〳〵帰つて来た私に、余り好い感じをもたなかつた。一生の大難とも言ふべき運命の苦痛を偕(とも)にしなかつたことが彼女の飽足りなさであつた。彼女の弟達が、悲痛な気持で遠くから救ひに来てくれたり、友人や近隣の人達が、女子供のうへに何彼と気を配つてくれるにつけて、生死の巷をさまよはせられたあの大動乱の真(まん)中(なか)に、中心となるべき主人のゐなかつた寂しさが、どのくらゐヒステリー質の彼女の心持を苛立たせたか知れなかつた。
﹁そのために私は却つて働けたのかも知れませんけれど。﹂彼女はさう言つてゐたけれど、子供達と一緒に帰りの遅いのにじれ〳〵してゐたことは私にもよく判つた。事によるともつと酷(ひど)い余震を経験させたいくらゐに思つてゐるかも知れなかつた。
とにかく私は幼児の春子を抱いて、縁へ飛出した。妻はさう驚きはしなかつた。と言ふよりも敏捷に働くには、彼女の体は余りに疲れてゐた。私は板戸を繰開けた縁側の口(くち)へ集まつて来た子供を順々に降りさせてから、下駄を捜して庭へおりて行つた。そしてこぶしの大樹と柘榴の老木の間のところへ皆(みん)なを集めた。
﹁大きいね。﹂長男と二男が、棟が別になつてゐる裏(うら)の家(うち)から、隣りの三階建の下宿の建物の下をくゞつて出て来た。その同じ棟のなかに仕切をして住つてゐる二組の罹災者のT氏夫婦やS氏夫妻も、三尺ばかり切り開いてある別の出入口から遣つて来た。
﹁まだ安心はできませんな。﹂T氏が笑ひながら言つた。
﹁この頃は夜分ばかりで、始末がわるい。﹂S氏も言つた。
﹁やつぱり枕(まく)頭(らもと)に何かを纏めておかなくちや可けませんね。﹂妻も彼等の細君達と話してゐた。
﹁追々お寒くなりますと取廻しが悪くなりますからね。﹂
今一組の夫婦が来てゐたけれど、年が其の男と半分の余も若い、この頃の細君――私は彼の何番目かに当る其の新らしい細君をまだ知らなかつた――が、私の家まで辛(から)々(〳〵)避難して来て、庭の柘榴の木の下で産(さん)気(け)づいて、産後が悪いとかで、今は病院に入つてゐた。
今度の大地震では、もう其(そ)の儘(まゝ)ではいくらも持たないので、早く何うかしなければならない私の家も、地盤のお蔭で床の間の古壁に二筋割目が入つたのと、屋根が傷んだゝけであつた。そして旅行先から帰つてみると、こゝに永住するだけの設備をしようか、それともいつそ他へ移らうかと、絶えず不安定な気分で迷つてゐた荒廃その物のやうな貧弱な家が、ひどく尊(たうと)いものゝやうに思はれたのであつたが、それも日が経つて見ると、段々厭気がさして来るのであつた。それに今度も何をおいても其が気遣はれたのであつたが、東南の方角に高い三階の下宿が、裏の家の境界一杯に、私の家を見下すやうに多くの窓をもつて、聳え立つてゐるのであつた。私が自分の家を咀はしく思ふのも、一つはその為めであつた。勿論人との交渉ではないので、単に建物其物が咀はしいのであつた。朝日を遮つてもゐたし、風の流動を淀ませてもゐた。それだけでも私の古い住居は、可也私の頭脳を憂欝にした。木が立枯れになつたり、下枝が寂しくなつたりすることも、自然に愛着をもつてゐる私には、とかく気になりがちであつた。勿論周囲にも年々二階家が立てこんで来て、平屋建の私の家だけが穴窪のやうなどん底に埋れてゐた。地震をおそれる私は、二階屋が嫌ひであつた。まだ生活に愛着の淡かつた若いをりの私は、地震がさほど苦にもならなかつたけれど、一度芝浦のロセツタホテルへ出て仕事をしてゐたとき、今にも大きな梁がはづれさうに、みしり〳〵と無気味な音を立てゝ、可也長い時間を揺れたことがあつて、がらんとした二階の端の一つの部屋にゐた私は廊下へ出て、大きな段梯子の降り口まで出たきり、危険を感じて降りることができずに、立悚んでゐた。その時受けた衝動が、幾分私を臆病にしたのであらうが、誰もさうであるとほり、年々責任の重くなつて来てゐることにも原因してゐるのであつた。
柘榴の木の蔭に佇んでゐた私は、倭い惨めな自分の家を眺めてみた。空のどんよりした晩で、大地もおどんでゐた。その処々に掘立小屋のやうな私の住馴れた家が、重苦しい屋根をもつて立つてゐた。最初のやうな、若しくはそれに類似した少し激しい震動が来るならば、いつでもぐしやりと地に
り伏(ふ)しさうに思はれた。簡素な、比較的かつちりした私の気分によくそぐふた小屋であるけれど、もうそここゝに朽腐したところや、壊れたところがあつて、側面へまはつてみると、よくもかうして寝起きがしてゐられると思ふくらゐであつた。庭にも庭らしい風情がなかつた。二十年その下に蟄してゐた三階建の、二階の中程の窓から明りがさしてゐた。目の加減でか、その高楼も私の庭の方へ、五六寸もよろけかゝつてゐるやうに見えた。
﹁お宅もこれで何ですね、突(つつ)支(かへ)棒(ぼう)でもしておかれたら何うですかね。﹂S氏は家を見上げながら私に言つた。
﹁さうですね。それに瓦が落ちさうで……。﹂私は応へた。
﹁この際屋根を亜鉛にするのも、一つの方法ですよ。﹂
実際破損のなかつた家でも、すぢかひを入れたり、支(しち)柱(う)をしたりしてゐる家が沢山あるのであつた。
﹁何に支(つつ)柱(かへ)なら私でもできますよ。﹂いくらか心得のあるS氏が言つた。
﹁それがいゝですね。﹂妻も言つた。
私もその時はその気になつたのであつたが、不時の用意などはやつぱり其れなり怠りがちのものであつた。そしてそこいらの親爺さんたちのやうに、屋根の漏るのを心配したり、板塀の腐るのを気にしたりして、貧弱な子供たちの巣を大切にしなければならない私の生活も、ひどくぢゝむさいものだと思はれた。地震その物よりも沈滓と黴で一杯になつた生活の破壊に怖れを抱かせられるやうになつた。私の固定生活を咀はずにはゐられない。
﹁お茶でも飲みませう。﹂
そのまゝ別れるのが寂しかつたので、私は皆なをさそつて茶の室へ入つて来た。老人がお茶をいれた。妻が茶棚のブリキ缶から塩煎餅を取出し、饅頭の菓子器を出して、皆なの前においた。
私はまたいつも苦労になつてゐる住居のことについて話した。それを話したところで、別に二人に好い思案があらうとは思へなかつたけれど、折が折なので、やつぱり言はずにはゐられなかつた。私は近頃になつて、鬱陶しいこの古家の改築に見切りをつけて、どこか適当な場所へ移つても可いと思つて、遠い郊外に地面を卜しておいたのであつたが、その負担は今後幾年かのあひだの重荷であつた。妻はさう云ふ方法を取ることに不満であつた。私は年齢と逆比例に自身の気持を積極的にするために、わざとさうしようとしたのであつたけれども、今が今そこへ移ることは、私の経済が許さなかつたし、ひどい不便を忍ばなければならなかつた。それにさうした懸離れた寂しい場所に不似合な彼女の気分をも考へない訳に行かなかつた。寂しい田舎道や、上り下りの臆劫な郊外電車や、森や田圃は彼女の性に合はなかつた。居なじんだ町を離れ、愛児の永眠についた家を見棄てることは、哀れな生活と別れることであつた。私自身のなかにも、年ごとに不決断と無精の虫が巣くつてゐた。そして郊外に住むことを思ふと、古い町が懐かしくなつたり、こゝに落着かうとすると、また心が浮ついた。幼年の頃から家らしい家に安定することのできなかつた私の一つの放浪性だとも思はれたが、本質的に決定的になれない私の気持が、余儀ないところに落着かせられるまでは、いつも私の態度を浮動的なものにしてゐた。勿論漠然とした大きな輪廓を描いて、私の意志は守られて来た。若し適切な言葉で言現はすならば、私の生活はあつちこつちへ偏倚し、迷乱しつゝも、いつも私自身の中庸に落着いてゐるのかも知れなかつた。
﹁あの三階――それはあの人達とは親しくしてゐるんですから、そんな事はいへないけれど、旅先で色んな勝手な想像を描いてあれが倒れてくれゝば、私の家も潰れても可いと思つてゐたんだけれど。﹂私は笑ひながら言つた。
﹁尤も今度は駄目だが、保険が取れゝば、お宅なぞはつぶれてくれた方が両得でしたね。私達の行派はなくなるけれどその時はその時で。﹂法律家のT氏も言つた。
﹁こんな家を買はなけあ可かつたんだ。﹂一番年長の子供が側から皮肉を言つた。
﹁でもこの家があつたから、かうして居られるんぢやありませんか。有難いぢやないの。﹂妻が喙を出して、﹁家を追(おひ)立(た)てられたときのことを思つてごらんなさい。厭なもんだわ。﹂
﹁けれどあの時一と思ひに引越してゐれば、こんなにこゝに執着しなくてもよかつたぢやないか。﹂その子供がまた言つた。
﹁それだつて皆なお前達のためぢやないか。﹂
﹁何におれたちは、こんなところに居やしない。メキシコへでもブラヂルへでも行くからね。こんな貧弱な日本なんか……﹂胡座をかいてゐた二男の中学生が笑ひながら躰をゆすつた。
﹁こんな危険な国でも、海外へ移すと言ふこともできないんだからね。﹂
﹁それあさうさ。遷都論なんかも、やはりさういふ処から来てゐるのさ。徳川の政策さへなかつたなら、日本ももつと〳〵海外へ発展してゐたらうからね。﹂
﹁西の方へ首都を遷すのもいゝかも知れんね。﹂
﹁それもちよつと困難でね。﹂
﹁僕等の家が引越せないやうなもんでね。﹂年長の子供が附加へた。
﹁今かうやつてゐても、いつまで皆なが一つに纏まつてゐられるか。﹂妻が心細げに呟(つぶや)いた。
﹁さう思ふと子供もつまりませんね。﹂
﹁だつて、それあ仕方がないぢやないか。﹂
﹁千代子や愛子なんかも、遠方の人には片づけたくないものですね。男は仕方がないとしても、女の子だけはね。﹂妻が先きの先きを案じるやうに言つた。
﹁お前がさう思つても、子供は親の傍にばかりはゐないんだよ。また居るやうぢや困るんだよ。﹂
﹁まあ可いさ。みつ子さんは死んでよかつたかも知れないしね。みんなが又何ういふ目に逢ふか知れないんだから。﹂
﹁だから何時までも一緒にゐたいぢやないか。﹂
﹁さう云ふことばかり考へてゐたんぢや仕様がないもの。地震やテツペレンのためにのみ生活してゐられないやうなもんでね。﹂年長の子供が言つた。
﹁あの井村のおばあさんでしたか、岩崎の避難場からお宅へおつれになつて、ひどく威張つてゐたお婆さん、あの年で荷物は何一つ焼かなかつたんですからな。さう心配したもんでもないですよ。﹂楽天家のT氏が笑つて、﹁いや、あのお婆さんには驚きましたね。﹂
﹁私も腹がたちましたわ。﹂妻も言つた。
孤独な井村のお婆さんは、長いあひだ東京で貧しい間借り生活をしてゐて、寂しいをり〳〵には、時々私のところへやつて来てゐた。彼女は私の幼いときからの親友である竹内の厄介ものであつた。竹内は私たちの田舎で、高等学校時代そのお婆さんの家に下宿してゐた。そして何時とはなし学資などの補助を受けるくらゐ彼女の世話になつてゐた。その頃四十ばかりであつた彼女は、まだみづ〳〵した肉体をもつてゐた。そして又いつとはなし若い竹内が誘惑されたのであつた。しかし彼女の生活もさう楽ではなかつた。東京では二人で酸苦を嘗めた。そしてそれが竹内が世のなかへ出て、結婚するやうになつてから、彼の家庭と社会生活とに、思ひも及ばない負担と障碍となつて、現在の生活にまで祟ることになつたのであつた。
地方にゐる竹内とは別々に、東京で佗しくつゞまやかに暮してゐる彼女は、もう七十を三つも越してゐて、邪慢の角は好い加減折れてゐたけれど、刺(とげ)はまだ全く取れてゐなかつた。そして折にふれてそれが出た。私の妻は、しかし不断は物わかりの好い彼女を、素直にしてさへゐればいつでも好感を以つて迎へてゐた。好きな酒などつけることもあつた。お婆さんはそのお仕(しき)着(せ)のお神酒がまはると、好い機嫌になつて唄など口吟みながら、笑つたり泣いたりして嬉しがるのであつたが、何うかすると姑(しう)風(とかぜ)を吹かしなどして、妻の気色を悪くするのであつた。
震災中故郷の姉の家にゐた私が、妻や子供たちは勿論、色々の人の身のうへに、色々の場合を想像してゐたなかにはこの老婆もあつたことは勿論であつた。彼女は下町の方で、或る行詰つた狭い路次のなかに、二階の一室を借りてゐたので、どんなに贔負目に見ても、地震は免れたところで、火災に遭つてゐることは確かであつた。公園の池が其の近くにあつた。そして其の池が死体に埋れてゐると云ふことが避難者によつて、間接に私の耳にも入つてゐた。私は泥深い其の水に浮いてゐる彼女の哀れな死体を想像せずにはゐられなかつた。私は余り好い気持がしなかつたけれど、漸く竹内が救はれたやうな気がなくもなかつた。
或る日私は茶の室にぼんやり独りゐた。私の家も家族も無事だと云ふ簡短な知らせを受取つてから、それが三日目の八日の日であつた。すると其の時昼は内部からのみ往来がよく見えるやうになつてゐる簾(すだ)格(れか)子(うし)の外に近よつて来る一人のお婆さんがあつた。それが彼女であつた。私は吃驚して入口へ飛出して行つた。
﹁よく来たね。﹂私が言ふと、彼女も私を見上げた目に涙を浮べて、
﹁吉村さ……ん。﹂とおろ〳〵声になつて、
﹁ひどい目に会つて来た、吉村さん、かういふ時こそ人の心がわかる。﹂
﹁まあおあがんなさい。よく来られたね。﹂私は彼女を上へあげた。
この秋には彼女も長く住みなれた東京を引揚げて、田舎へ帰らうとしてゐたほど、死に近づきつゝある身(しん)世(せい)の寂莫を感じてゐた。地震はたゞそれを早めたに過ぎないのであつた。彼女は半夜を大宮で、野天で明かした。そして死物狂ひになつて、しかし老人の特権を可也我武者羅に主張して、威張りくさつて、人を押退け〳〵して遣つて来た。
﹁奥さんもお子達が多勢だからね、それあ無理もなからうけれど、吉村さん、こんな時人の心がわかる。奥さんはお米があるのか無いのか、それは知らん。又荷物も出さにやならんけれど、あんなに狼狽てなくともよからうと思つてね。﹂
私にはその場の光景と二人の心理的交錯がすぐ判つた。
﹁まあいゝさ。お婆さんは荷物は。﹂私は笑つてゐた。
﹁私はお蔭で三度行つて残らず出しましたよ、奥さんに預けては来たけれど……。﹂彼女はさう言つてひどく其の荷物が気になるらしかつた。
﹁不忍の池にも人死があつたつて?﹂
﹁不忍の池! なあに、そんなことは大(だい)嘘(うそ)。蓮が青々してゐますよ。﹂
私はその時彼女の見聞によつて、初めて本統に安心することができた。気分の張詰めた子供の手紙も受取つた。
﹁えらい婆さんだね。﹂私は後で姉に其の話をして聞かせながら驚嘆したのであつた。
今T氏の口から出たのは、その老婆のことであつた。
﹁何しろ近所の人を頼んで荷物をそつくり出さしたんですからね。私も気にかゝつたから、子供をやつて捜させたんですけれど、あのお婆さん何うも面白くない。余り勝手が強いんですもの。﹂さう言ふ妻はしかし余り好い気持もしないのであつた。
﹁あのお婆さん、長煙管で煙草なぞふかして、大威張りでゐましたな。﹂S氏も言つた。
﹁私たちは御飯もたべず、三日も四日も寝もしないで、立詰めで働いてゐるのに、あの婆さんといへばづゐぶん無遠慮だつたんですよ。年寄りなんか自分の親でも、場合によつては介意つてゐられない時なんですもの。﹂
﹁とにかく甲斐性ものさ。﹂
﹁えゝ、それあ何うしたつてあんな強いお婆さんですから。荷物は取扱ひがはじまり次第荷造りをして、出さうと思つてゐます。その事をくれ〴〵も頼んでいきましたから。さぞ不自由をしてゐることでせう。私もあれまで同情してゐて、こゝのところであんな風で帰つたんですから。﹂
﹁まあいゝさ。﹂
﹁あの場合のことはお互ひに仕方がないね。人間は極度に好いところも出したが、勝手にもなつたから。﹂年長の子供が側から言つた。
﹁それよりもあのお婆さん厭なことを一つ言つたんです。﹂妻はまた言出した。
﹁田舎で吉村さんの親類に、奥さんの評判がわるくても、決して私がしやべつたと思つてはならんよつて、そんなことを言ふんですもの。だから私は別に悪く言はれるやうなことはしてゐない積りですと言つてやりましたわ。﹂
﹁いや、みんな分つてゐる。﹂
﹁え、それにあのお婆さんも、威張るには威張りますけれど、さうまたべちやくちやと人の悪口を言ふつていふ方ぢやありませんわ。﹂
﹁まあ今度は年寄は助かつて、若いものが余計やられてゐますね。﹂T氏が言つた。
﹁いや、その年寄でどのくらゐ苦労した人があるか知れませんね。﹂
﹁まさか年寄をおいて行かれはせず、どうしても若いものが働くことになりますからね。あんな豪い婆さんばかりならいゝが……。﹂T氏が言つた。
﹁僕も田舎で、それを一番心配したんだ。年寄りにかゝつて、子供の誰かゞ犠牲になりはしなかつたかと……。﹂
﹁今度火事になると、お婆さんなんか置いていくぞ。﹂二男が傍に居睡りをはじめてゐる老婆を振返つた。
﹁家のお婆さんなぞ、迚もあのお婆さんの真似はできませんね。今に止むづら、なんてつて、腰をすゑてゐるんですもの。漸と叱りつけるやうにして、外へ連出したんですよ。あの広場まで歩かせるのは大変な仕事ですからね。﹂
﹁僕も家のお婆さんが、事によると独り生き残つて、つまり僕と二人きりになつた場合がないとも限らないと思つて、づゐぶん変な気持だつた。﹂私は皮肉に笑つた。
お婆さんは善良な老人ではあつたけれど、しかし又井村の老婆と全く違つた意味で、づゐぶん厄介な年寄りでもあつた。彼女は年から年中休みなしに何かしら働いてゐた。昼でも夜でも坐ればきつと居睡りをするけれど、眠りながらも夜は一時までも二時までゞも針仕事につかまつた。勿論これと言つて、何一つ纏めることはできなかつたけれど、でも何かしらこと〳〵遣つてゐた。そして其の丹念なことは、片(きれ)の薄(うす)切(き)れたところや、薄くなつてゐる部分を、どんなに手間がかゝつても、綴らなければ気がすまないといふ風であつた。その品物が着物に仕立てゝ役立つか何うかは問題ではなかつた。洗濯や掃除が同じ方法で馬鹿叮嚀であつた。絣の目を、一つ〳〵指端で丹念に揉むのであつた。総てがその流義であつた。湯が舌も触れることのできない極度の熱度に沸騰させられ、茹(ゆで)物(もの)がぐしよ〳〵になるまで煮られたりした。
多勢の子供たちを育てるために、長いあひだ左(と)に右(かく)私は彼女を働かせて来た。私達夫妻に小言を言はれながら、そして又其の小言に反抗しながら、不思議な彼女の流儀をつゞけてゐるうちに、背骨や腰が柳の枝でもたかねたやうに屈(かゞ)んで来たけれど、私には何うしても同情することのできない気質をもつてゐた。私は長い間、心から彼女に優しい言葉をかけることのできないのに、苦しんで来た。自分自身の童蒙的な剛情を通すほか、積極的には何の障りにもならない鈍重な動物のやうな彼女ではあつたけれど、親らしい、若しくは祖母らしい心が少しも働かないのが飽足りなかつた。彼女から逃避しようとして、私の神経はたえず苛々してゐた。そして其がまた何んなに妻を悩ませてゐるか知れないのであつた。三人は余り幸福だとは思はれなかつた。けれど、彼女なしには妻は一日も家事を繰返しては行けなかつた。そして年々に体の衰へて行くのを見るにつけ、私の心も和らいで来た。そして今度はまた﹁まあよかつた﹂と云ふ気がするのであつた。
近頃めつきり健康の損はれて来た妻と彼女とが、互ひに生存を剋し会つてゐるやうに私に思はれたりした。老婆は娘の病気なぞに、余りデリケートな同情をもつことができなかつたと同時に、妻は老母の不仕合な寿命を咀つたりした。
﹁誰だつて生きたいのは同じだけれど、迚も助からない場合には、づゐぶん親が助かれる子供を逃がしたり、妻が良人のあとに残つたりしたからね。﹂私はまた妙に皮肉に言ふのであつた。
﹁しかしそんな場合何うでせうか、誰でもそんな気になるでせうか。﹂T氏がきいた。
﹁さあ、やつぱり人の性質ですね。私なぞ、玄米のお結びを一緒に食べなかつたことを、随分不満に思はれてゐるからその癖私は玄米食を主張してゐるんだが……。﹂
﹁しかし、運命を偕にするのと逃すのと孰らが本統の愛だらうか。﹂T氏がきいた。
﹁さうさ、生残つたものゝ方が辛い場合もあるし、生残るのが辛い場合もあるから。﹂
﹁死ぬなら矢張り一緒ですね。だけれど、お婆さんにかゝつて死ぬのは、私だつて御免だわ。﹂妻は母親を振顧つた。
老母は眠さうな目をあげて、硬い手で口のはたを撫ぜながら、善良さうな微笑を浮べて、もぞ〳〵してゐた。
﹁大丈夫、お婆さんも助けてあげるよ。﹂年長の子供が目元に優しい微笑を浮べて言つた。
私はまた体に微かな揺らぎを感じた。そして電燈を見あげた。皆も目を挙げたが、何のこともなかつた。
︵大正13年1月﹁改造﹂︶
底本:「徳田秋聲全集 第14巻」八木書店
2000(平成12)年7月18日初版発行
底本の親本:「改造 第六巻第一号」
1924(大正13)年1月1日発行
初出:「改造 第六巻第一号」
1924(大正13)年1月1日発行
※「流義」と「流儀」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きりんの手紙
2020年1月24日作成
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