一
五六台の一輪車が追手に帆をあげた。 そして、貧民窟を横ぎった。塵ほこ埃りの色をした苦クリ力ーが一台に一人ずつそれを押していた。たった一本しかない一輪車の車軸は、巨大な麻マア袋タイの重みを一身に引き受けて苦るしげに咽びうめいた。貧民窟の向う側は、青い瓦の支那兵営だ。 一輪車は菱形の帆をふくらましたまゝ貧民窟から、その兵営の土煉瓦のかげへかくれて行った。帆かげは見えなくなった。だが、車軸はいつまでも遠くで呻うめ吟きを、つゞけていた。 貧民窟の掘立小屋の高粱稈の風よけのかげでは、用便をする子供が、孟子も幼年時代には、かくしたであろうと思われるようなしゃがみ方をして、出た糞を細い棒切でいじくっていた。 紙ぎれ、ボロぎれ、藁屑、玻璃のかけらなど、――そんなものゝ堆積がそこらじゅう一面にちらばっていた。纏てん足そくの女房は、小盗市場の古びた骨董のようだ。顔のへしゃげた苦力は、塵芥や、南京豆の殻や、西瓜の噛りかすを、ひもじげにかきさがしつゝ突ついていた、﹇#﹁、﹂はママ﹈彼等は人蔘の尻尾でも萎れた菜っぱでも大根の切屑でも、食えそうなものは、なんでも拾い出してそれを喰った。 一輪車が咽ぶその反対の方向では、白楊の丸太を喰うマッチ工場の機械鋸が骨を削るようにいがり立てた。――青黒い支那兵営の中から四五人の白露兵が歩き出して来た。 ﹁要ヨウ不ブヨ要ウ?﹂ 客を求める洋ヤン車チョの群むれが、どこからか、白露兵の周囲にまぶれついた。苦力のズボンの尻はフゴ〳〵していた。彼等は、自分だけさきに客を取ろうと口やかましく争った。 ﹁要不要?﹂ ロシヤ人は、洋車の群に見むきもせず、長い脚でのしのしと歩いてきた。 彼等は、昔、本国から極東へ逃げ、シベリアから支那へ落ちのびて来た。着のみ着のまゝの彼等の服装は、もう着破って、バンド一条さえ残っていなかった。が、彼等は、金がなくても、どこからか、十年前の趣味に合致した服や外套を手に入れてきた。汚れた黒い毛皮のコサック帽も、革の長靴も、腰がだぶつき、膝がしまっている青鼠のズボンも、昔に変らぬものを、彼等は、はいていた。 頭も肩も、低い支那人から遙かに高く聳そびえていた。 ﹁今月は、いくら月給を貰ったい?﹂ 支那服の大タア褂コア児ルの男が、彼等と並んで歩き乍ながら、話しかけていた。これは山崎である。 ﹁一文も貰わねえや。﹂ ﹁先月は、いくら貰ったい?﹂ ﹁先月だって、一文も貰わねえや。﹂ ﹁先々月は?﹂ ﹁先々月だって一文も貰わねえや。﹂ ﹁ひっぱたいたれ!﹂支那服の山崎は声をひそめた。﹁かまうもんか、ひっぱたいたれ! あの大男の張宗昌のぶくぶく肥っている頬ッぺたをぴしゃりとやったれよ。﹂ 白露兵は、ふいに、愉快げに上を向いて笑いだした。 彼等は、頭領のミルクロフが、張宗昌に身売りをした、そのあとについて、山東軍に買われて来た。いつも、せいの低い、支那馬にまたがり、靴を地上にひきずりそうにして、あぶない第一線ばかりに立たせられた。ある者は、戦線で、弾丸にあたって斃たおれてしまった。ある者は、びっこになり、片目になり、腕をなくして追っぱらわれた。ある者は、支那人の大にん蒜にくの匂いに愛想をつかして逃亡した。仲の悪い支那兵と大喧嘩をした。 彼等が戦線からロシヤバーに帰って来る時、皮下の肉体にまで、なまぐさい血と煙硝の匂いがしみこんでいた。 ﹁畜生! 女郎屋のお上かみに、唇を喰いちぎられそこなった張宗昌が何だい! 妾ばっかし二十七人も持ってやがって!……かまうもんか。ひっぱたいてやれ!﹂ 白露兵は、なお嬉しげに上を向いて笑った。 彼等の眼のさきの、マッチ工場のトタン塀に添うて、並んでいるアカシヤは、初うい々ういしい春の芽を吹きかけていた。 そのなお上には、街の空を、小さい烏が横腹に夕陽を浴びて、嬉しげに群れとんでいた。二
工場は、塵埃と、硫黄と、燐、松まつ脂やになどの焦げる匂いに白紫ずんでいぶっていた。 少年工と少女工が、作業台に並んで、手品師の如く素早く頭付軸木を黄色の小函に詰めている﹁函詰﹂では、牛を追う舌打ちのように気ぜわしい音響が絶えず連続して起っている。全く歯の根がゆるむような気ぜわしさだった。 乾燥室から運ばれる頭付軸木を手ごころで一定の分量だけ掴んで小函の抽ひき斗だしに詰め、レッテルを貼った外函にさす、それを、手を打ち合わす、拍手のような動作のように、一瞬に一箇ずつ、チャッ、チャッとやってのけた。七つか八つの遊びざかりの少年や少女も営々と気ばっている。 支那人は、小さい子供は籠に担い、少しおおきいのは、歩かして、街へ子供を売りにくる。それを七元か、十元で買い取った者が半分まじっていた。幼年工もあった。おさなくって、せいがひくいので、その子供達は、ほかの男女工達と同列の椅子に腰かけては、作業台に手が届かなかった。床に盆を置いて貰って、その上へ小さな机ウー子ズ︵腰かけ︶を置き、そこへ腰かけて、小ちッちゃい、可愛らしい手で、ツメこんでいた。 彼等は、みな、灰黄色の、土のような顔になっていた。燐寸の自然発火と、外函の両側に膠着された硝子粉のため、焼き爛ただらした指頭には、黒い垢じみた繃帯を巻いていた。 作業にかゝると休憩まで、彼女達と彼等は、用事上で喋ることも、雑談することも禁じられていた。彼等は、六時間を、たゞ、唖の小ロボットのように、手を動かすばかりで過すのだった。 時々シュッといったり、シャッといったりする。黄燐マッチが、自然と摩擦して一刹那に発火する音響だ。その時、子供達は、指を焼くのだった。同時に、よごれた彼等は、ユラ〳〵と立上る薄紫の煙に姿がボカされた。 一人として、一言も発する者がなかった。が、そこには、騒々しい雑音と、軋あつ音おんが、気狂いのように溢れていた。 幹太郎は、そこの工場をぐる〳〵まわり歩いていた。 彼も、鞭と拳銃を持っていゝことになっていた。彼の下には、支那人の把バト頭ウがついていた。把頭も木の棒を持っていた。その木の棒は、相手かまわず、ブン殴っても、軟らかい手や脚を叩き折ってもかまわないことになっていた。しかし、日本人と把頭の前では、ちり〳〵して勤勉振りを示そうとつとめる工人達には棒も拳銃も更に必要がなかった。 彼は今年二十五歳の青年だった。ひどく気むずかしやで、支那人をよりよく働かせることが嫌いなような、監督振りがまずい、理窟ッぽい男だった。 塵埃と共に黄燐を含んだ有毒瓦斯は、少年達へと同様に、彼の肺臓へも、どん〳〵侵入して来た。 ――君は、一体、支那人かね。それとも日本人かね? 最近、瑞スエ典ーデンマッチの圧迫を受けてぷり〳〵している不機嫌な支配人は、彼がむしろ支那人に肩を持つ癖があるのを責めて、皮肉な辛辣な眼つきをした。 幹太郎は、親爺が、とうとうヘロ者となってしまった。それと、これを思い合わして淋しげな顔をした。日本人はヘロを売ってもかまわない。しかし、支那人の如くヘロを吸ってはいけない。そのヘロを親爺は、支那人の如く吸飲した。支那人の如く者となってしまった。 ﹁俺れらは、日本人仲間からも嫌われているんだ、どうも、追ッつけ、俺れも、この工場からお払箱か……﹂ 実際、幹太郎は、すれッからしの日本人よりも、支那人に対して親しみが持てた。又、工人達も、彼に対して、ほかの小山や守田に対するよりも、親しく、ざっくばらんであるように見えた。 ﹁お前あといくつだい?﹂ 軸削機をがちゃ〳〵ならして、木枠に軸木を並べている房ファ鴻ンホ吉ウチに、彼は、なでるように笑ってみせた。房ファンの頭は、ホコリで白くなっていた。平べったい鼻の下には、よごれた大きい黄色い歯が、にやりとしていた。 ﹁あといくつだい?﹂ ﹁三ツ、三ツ﹂房は、あたふたと答えた。枠わく台だい車しゃに三台のことだ。 ﹁早くやれ。﹂ ﹁すぐ、すぐ。﹂ 房は小さい軸木を林のように一面に植えつけた木枠に止め金をあてがった。ピシン〳〵とつまった音がした。 幹太郎は、そこから、浸点作業へ通り抜けた。焼くような甘味のある燐の匂いが、硫黄や、松脂ともつれあって、鼻をくん〳〵さした。 開け放された裏の出入口からは、機械鋸と軸じく素そち地は剥く機きが、歯を削るように、ギリ〳〵唸っていた。生の軸木を掌てにとってしらべていた小山は、唾を吐くように、叺かますにポイと投げて汚れた廊下をかえってきた。 ﹁君、于ユイの奴をどう思うね?﹂ 幹太郎の受持の、常から頭の下げっ振りが悪い変骨の于ユイ立リソ嶺ンを指しているのは分っていた。 ﹁どうも思いません。﹂ ﹁あいつの仕事は、いつもおおばちだから、浸点で屑が出来るこた知っとるだろうね?﹂ ﹁そうでもありませんよ。﹂ ﹁君の眼に、屑でも屑でないと見えるんならそれでもいゝさ。﹂ あんまりしつこく支那人の肩を持っていると、邪推されるのは癪だが、小山と一緒になって自分の受持の者を悪く云うのは、なお更、自分が許さなかった。軸列と、浸点と、乾燥室は幹太郎の受持になっていた。 ﹁あんな奴を放って置いちゃ、北伐軍でもやって来た日にゃ、手がつけられなくなっちまうんだ!﹂ 小山は傷つけられたものを鼻のさきに出して鳴らした。 小山がむきになると、幹太郎は、ワザと、于の尻を押してみたい気持を感じるのだった。小山は、下顎骨が燐の毒で腐り、その上、胸を侵され、胴で咳をしていた。于は、人を小馬鹿にしたような、フーンと小鼻を突き出したりする支那人ではあった。 彼等は歩いた。 ﹁呀アイヤ!﹂ その時、小函を一打ダースずつ紙に包み、更に大きい木箱に詰めている包装で、ふいに、シユーッシユーッと空気を斬る音響が起った。 仲間の工人から、工場での美人とされている、しかし、日本人が見ると、どうしても美しいとは思われない、平たい顔の紅ホン月ユエ莪ウオがびっくりして身を引いた。脚が弱々しく細かった。木箱の中のマッチが、すれて、発火してしまったのだ。紫黒の煙が、六百打詰の木箱から、四方へ、大砲を打ったように、ぱあッとひろがった。煙に取りまかれた紅月莪は、指を焼いたらしかった。 小山は、骨ばった手を口にあてゝ煙にむせながら、こっちから、じろりと眼をやった。焼いた手を痛そうに、他の手で押えながら顔をあげて、ぐるりをはゞかるように見わたした紅ホンは、小山の視線に出会すと、すぐ、まだ煙が出ている木箱の方へ眼を伏せた。 幹太郎は、小山の下顎骨の落ちこんだ口元が、苦るしげに歪むのを見た。紅ホンは、なお気がかりらしく、今度は恐る恐る、上目遣いに職長の方を見た。 依然として、濛々とゆれている煙に、小山は、なお、胴ぐるみにむせていた。 幹太郎は事務所の方へ歩いた。三
蒋介石の第二次の北伐と、窮乏した山東兵の乱暴と狼藉が、毎日、巷の空気をかき乱した。 名をなすために排日宣伝を仕事とする者もあった。何故、排日をやるかときくと、食えないからやるのだ、と答えたりした。 六カ月も、七カ月も、一元の給料さえ、兵卒に支払わない、その督トバ弁ンの張宗昌は、城門附近で、自動車から、あわれげな乞食の親子を見て、扈こし従ょうに、三百元を放ってやらした。張という男は、こんな気まぐれな男だった。 ﹁鬼の眼に涙だ!﹂ 支那人達も、張宗昌をボロくそに、くさした。 街の空気は、工場の工人達に、ひゞいてこずにはいなかった。 あてがわれる機密費を、自分の貯金として、支那にいる間に、一と財産作って帰る腹の山崎は、M製粉や、日華蛋たん粉ぷん、K紡績、福隆火ホサ柴イコ公ン司スなどを順ぐりに、めぐり歩いていた。 金を出して、支那人から、あんまりあてにならない情報を一ツ〳〵買いとるよりは、実業協会の情報を、そのまゝ貰って、それで、報告のまに合わせる方が気がきいている。山崎は、それをやっていた。そして、あてがわれる金は、自分の懐へ取りこんだ。 彼のポケットには、福隆火柴公司の社員の名刺がはいっていた。日華蛋粉の外交員の名刺も這入っていた。勿論、燐火の注文を取って来た、ためしもなく、用材の買い出しに行ったこともなかった。 工場の出入口まで来ると彼は、そこで煙と塵埃と、不潔な工人や、鼻をもぎあげる硫黄の臭気に、爪を長くのばした手を鼻のさきにあてゝたじろいだ。今、ロシヤ兵と、別れて来たばかりだ。 彼は話しも、顔の恰好も、歩きっ振りも、支那人と全く変らないのを自慢にしていた。手てば洟なをかんで、指についた洟はなをそこらへなすりつけるのは平気になっていた。上に臍のついた黒い縁なし帽子をかむり、服も、靴も、支那人のものを着けている。爪を長くのばしているのも、支那人の趣味を真似たのだ。たゞ、一ツ、彼の気づかない欠点は、白眼と黒眼のさかいがはっきりしすぎている尖った眼だ。これだけは、職業と人種とをどうしても胡麻化すことが出来なかった。どんよりと濁っている支那人とは違っていた。裏から裏をこそ〳〵とつゝいて歩く職業は、ひとりでに形となって外部に現れた。 うぬぼれやの山崎は、自分の欠点を知らなかった。それについて面白い話がある。が、丁度、彼が作業場の入口へやってくると、そこへ幹太郎が、鼻のさきへ黄色いゴミをたまらして内部から出て来た。幹太郎は急ににこ〳〵笑って何か云った。 ﹁何だね?﹂と山崎はきいた。 ﹁とても面白い種ですよ。﹂ ﹁何だね?﹂ ﹁すぐ云いますがね。――云ったら、情報料をくれますか? 五円でいゝですよ。たった五円でいゝですよ。﹂ ﹁出すさ、物によっちゃ出すさ。﹂ ﹁呉れなけりゃ、山崎さん、儲かりすぎて、金の置き場に困るでしょう。﹂ 山崎は、唇から気に喰わん笑いをこぼした。 ﹁何だね?﹂ ﹁――土匪が出たんですよ。昨日、口ロンコーの沼へ鴨打ちに行ったら、土匪がツカ〳〵っと、六、七人黄河の方からやって来たんですよ。﹂ 幹太郎は笑い出した。 情報料は冗談だと云いたげな、罪のなげな笑い方をした。 ﹁乗って行った自転車を打っちゃらかして逃げて来たんですよ。ケントの上等だったんですがな。﹂ 山崎は、出て来る苦笑をかみ殺していた。国家︵?︶の安否にも関係する重大なことをあさっているのに、何ンにもならんことで茶化すんねえ! そんな顔をした。それに気づいた幹太郎は、彼の方でも、次第に硬ばった、不自然な笑い方になった。 そこへ、胴ぐるみの咳をつゞけながら小山が出て来た。 一日分の請取り仕事を終った工人達は、色のあせてしまった顔で出口へやって来はじめた。幹太郎は、山崎と一緒に事務室へ歩いた。工人は一日の作業高を出勤簿に記入して貰う。食事札を受取る。そのどよめきと、せり合いが金属的な支那語と共に、把バト頭ウの机の周囲で起った。 あたりは薄暗くなっていた。 ﹁ここじゃ、相変らず温順そのものだな。﹂ 山崎は、もみ合っている工人達をじろりと一いち瞥べつした。そしてささやいた。 ﹁そこどころか、……幹部にまで不穏な奴があるんだから。﹂ 小山が答えた。 ﹁ふむむ、総工会のまわし者がもぐりこんどるかどうかは、なか〳〵吾々日本人にゃ分からんもんだ。用心しないと。﹂ ﹁なに、そんなもぐりこみなら、囮おとりを使やアすぐ分るさ。﹂ ﹁ところが、此頃は、その囮に、又囮をつけなきゃあぶなくなっていますよ。﹂ ﹁チェッ! 如何にも訳が分らねえや。﹂ 小山はつゞけて咳をした。そこらへ痰を吐きちらした。 三人は事務室へ這入った。そこも燐や、硫黄や、塩酸加里などの影響を受けて、すべてが色褪せ、机の板は、もく目ともく目の間が腐蝕し、灰色に黝くろずんでいた。 三円で払下げを受けた一挺ちょうの古鉄砲を、五十円で、何千挺か張宗昌に売りつけた仲間の一人の内川は、憂鬱で心配げな暗い顔をして二重硝子の窓の傍に陣取っていた。その顔は、この工場と同じように、規則正しくかたまって、乾き切っていた。これが支配人である。 ﹁なんだ、あんたが来ると馬鹿に大にん蒜にくくさいや。﹂ 内川はブッキラ棒に笑った。その笑い方までが乾燥していた。 ﹁それゃありがたい。これで大蒜の匂いがすりゃ、支那人と一分も変りがないでしょう。どうです?﹂ 山崎は、自慢げに、幇ほう間かんのような恰好をした。 ﹁自分でそう思っていれば、それが一番いゝや、世話がいらなくって。﹂ ﹁我ウン和ホツ中ンゴ国レン人ブ不シ是イ一ヤ様ン。怎ソン不モブ一イヤ様ン、那ナア児ルブ有イ不ヤ一ン様テ的ヤ様ン子ス?﹂ 急に山崎は支那語で呶鳴った。どこが俺ゃ支那人と異うのだ――というような意味だ。しかし、それは、明かに冗談でむしろ、内川を喜ばす一つの手段の如く見えた。 彼は、古鉄砲でウンと儲けた内川から約束通りのものをせしめようと念こころがけていた。今にも出してよこすか、今か、今か、と待っていた。――幹太郎は、それを知っていた。 それは、実に、見ッともないざまだった。 彼は、飢うえた宿なしの犬のように、あらゆる感覚を緊張さして、どこでも、くん〳〵嗅ぎまわっていた。自分より新米の者の前では、すっかり、その本性の野獣性を曝露する小山は、支配人が居るとまるで別人になった。無口に、控え目になった。山崎は、内川に使われている人間でないだけ、まだ、無雑作で平気だった。しかしそれも、故意に無雑作をよそおっていた。無雑作のかげから、迎合する調子がとび出した。 小山は、支配人が興味を持つことなら、もう十年間も土つ地ちを踏んだことのない内地の、新聞紙上だけの政治にも、なか〳〵興味をよせた。――よせた振りを見せた。 彼は、内川の暗い顔を見て、すぐそれに反応した。 ﹁めった、今度は去年あたりよりゃあいつらの景気がいいと思ったら、独逸が新しい武器を提供しとるそうじゃありませんか?﹂ ﹁うむむ。﹂ 内川は唸った。 ﹁どれっくらいですかな? その数量は?﹂ 今朝来たばかりの封書の口を引っぺがしてぬすみ見した。ぬすみ見して、その数量をも知っていた。それを、小山は、それだけは知らん振りをした。 ﹁紅毛人は、やっぱし、教会だとか慈善だとか云ってけつかって、かげじゃなか〳〵大きな商売をやっているね。こちとらとは、桁けたが異うわい。﹂ ﹁只の学校、只の病院なんて、まるっきり、奴等の手ですな。どうしても。﹂ ﹁うむむ。﹂ ﹁しかし、今度は、いくら精鋭な武器を持って蒋介石がやって来たって、大たい人じんの方でも背水の陣を敷いてやるでしょう。どちらかというと、大人の方が、どうしても負けられない戦じゃありませんか。﹂ 彼は、専門家の山崎の前で、一ツかどの意見を示したつもりだった。顔は得意げになった。山崎はそれに気づいた。 ﹁古鉄砲の張宗昌が、新しい独逸銃に負けるっていう胸算用だな……﹂ ﹁なに、張大人が勝ったって負けたって、何もかまいやせんじゃないか。そんなことまで、何も鉄砲を売った人間の責任じゃないですよ。﹂ 髯のない山崎は、その唇の周囲には皮肉げな、君達はこんなことを云ったり、こねたりする柄か! と云いたげな微笑を含めた。 ﹁北伐軍にゃ、まだ〳〵政治部を出た共産党が、だいぶまじっとるんだよ。﹂内川は、にが〳〵しげに囁いた。﹁こいつだけは、いくら共産党狩りをやったって、どこまでもだにのように喰いついとるという話だな。――そんな共匪どもがこの町を占領したらどうなるんだね?――一体、どうなるんだね?﹂ ﹁共産党は空気ですよ。隙間のあるところなら、どこへだって這入りこんで行くんでさ。しかし、それよりゃ、僕は、北伐軍がここまで漕ぎつけて来るだけの力があるかどうか、それが見ものだと思ってるんだがな。そいつを見きわめて置く方が先決問題だと思ってるんだがな。﹂ ﹁何で、それを見きわめるかね?﹂ ﹁金ですよ。﹂と、山崎は冷笑した。﹁十万の大兵を動かすには、二十万元や三十万元あったところで、二階から目薬にもなりませんからな。﹂ ﹁金なら、総商会で最初に四百万円、あとから二百万円出しとるさ。﹂ ﹁へええ、それゃ、又、誤報じゃないですな?﹂山崎は、又、冷笑するような声を出した。が、鯛でも釣ったように喜んだのは、色あせた机にツバキがとんだので分った。 ﹁たしかにそれじゃ六百万円出したんですな。……そんならやって来ません。大丈夫やって来ません。それは結構なこってすな。総商会が六百万円献金したというのは結構なこってすな。――なかなか結構なこってすな。﹂ 小山には、山崎が、馬鹿々々しくはしゃぐ理由がちょっと分らなかった。四
内川は三ツ股かけと呼ばれていた。 カタイ大ッピラな燐寸工場以外、硬派と軟派を兼ねているからだ。 ここの硬派、軟派は、新聞社内の二つの区別じゃ勿論なかった。武器を扱う商売が硬派だった。そして、阿片、モルヒネ、コカイン、ヘロイン、コデイン等を扱う商売が軟派だった。 すべて、支那人相手の商売である。 広い、広い、渾こん沌とんたる支那内地に居住する外国人の多くは、この硬派か軟派かを本当の仕事としていた。英国人もそれをやった。フランス人もそれをやった。ドイツ人もスペイン人もそれをやった。そして一方では支那人を麻酔さした。痴呆症となし了おわらしめた。他方では軍閥や匪徒に武器と弾薬を供給した。 戦乱と掠奪と民衆の不安は、そこからも誘導された。 内川は頑固な一徹な目先の利く男だった。馬の眼をくり抜くのみならず、土匪の眼玉だってくり抜いたかも知れない。彼は、物事に熱中しだすと、散髪する半時間さえ惜しがった。胡麻塩頭をぼう〳〵と散乱さしひげむじゃのまま、仕事に打ちこんでいた。工場へはよく暗号の電話がかかって来た。 三号十八匹、今日、ツブシに到着。と言ってくれば、四千円は動かなかった。豚の鼻十、五目飯で焚き込み。と云えば、十挺の鉄砲と、それに相当する弾薬、所属品が売れたことだ。 山崎は、こんな、内川の秘密を知っていた。 いろいろな情報や、日々の変遷、事件が手に取るように速急に這入る機関があるだけでも、工場を兼ねていることは、内川に有利だった。支那の巡警や、鉄道員や、税関吏は、金持をせびって余得をせしめるのが昔からの習慣となっている。内川はそれをうまく利用していた。 ﹁工場へ来とったって、どっちが本職だか分らねえんだからな。あんまり一人でうまい汁ばかり吸っていると、今に腹が痛みだすんだから。﹂ ﹁それを云うなよ、君、それ、それを云うなよ。﹂ 内川は、なぞをかけようとする山崎を見抜いて、おどけたように頸をすくめ、手を振って、茶化しようと努めた。 ﹁こいつはまるで、軽業の綱渡りだからね。まかりまちがえば、落っこちて死んじまうんだからね。本当にこうして坐っていたって、しょっちゅう、ヒヤ〳〵しているんだよ。﹂ ﹁落っこちる人は、あんたじゃなくってボーイやほかの野郎ですよ。﹂ ﹁いや〳〵なか〳〵そうとばかりは行かないんだ、そうとばかりは……。﹂ 支那人は、誰でも、一号か、二号か、三号か、どれかがなければ、一日だって過して行けなかった。そんな習慣をつけられていた。 督トバ弁ンでも、土豪劣紳でも、苦クリ力ーでも、乞食でも。一号、二号、三号……というのは阿片、ヘロイン、モルヒネなどの暗号だ。 拒毒運動者はそれと戦った。 その輸入は禁止されていた。その吸飲も禁止されていた。 彼等に云わすと、阿片戦争以来、各国の帝国主義が支那民族を絶滅しようとして、故意に、阿片を持ち込むのだ。それにおぼれしめるのだ。しかし、いくら禁止しても、その法令は行われなかった。網の目をくゞる。 没収されても罰金をとられても、又別の方法で持って来る。メリケン粉の中へしのびこましたり、外の薬品にまぎれ込ましたり、一人、一人の腹に巻きつけたり。どうにも、こうにも防ぎきれなかった。山崎はそれを知っていた。 若し、内川が持って来なくっても、それは、ほかの誰れかゞ持って来るのにきまっていた。 若し、日本人が持って来なくっても、独逸人か、ほかの外国人かゞ持って来るにきまっていた。――山崎は、そこで、内川を援助する理由を見つけた。誰かゞ持って来て欲求を満してやらなけりゃ、中毒した支那人が唸り死んじまうだろう。それなら彼は同胞に味方すべきだ。仏蘭西人や、独逸人は、むしろ、図太く、平気の皮でむちゃくちゃな数量を、輸入していた。六千トンの船にいっぱい積みこんで来たりした。それに較べると日本人は、こせ〳〵したあの内地のように、あまりに小心に、正直にすぎる。…… だが、内川は、例外的にケチン坊で、不当に、むくいなかった。山崎はつむじを曲げた。 彼は、内川とS銀行の高津が、鉄砲で、どれだけ掴んだかを知っていた。 硬派は軟派よりはもっと仕事が困難だった。すべてを絶対に秘密にやらなけりゃならなかった。支那官憲は極度にやかましかった。軟派が曝露して罰金や牢屋ですむところを、硬派は命をかけなければならなかった。武器を持っていて見つかることは、支那では命がけの仕事だ。これこそ本当の軽業の綱渡りだった。古い錆のついた小銃弾を、ほかの屑物と一緒に買い取った屑屋が、何気なくそれをいじっていて、そこを巡警に見咎められ、ついに死刑にされたことさえあった。 それほどやかましいのは、それほど、武器が大切であることを意味していた。 殊に小軍閥や、土匪は、武器なら人を殺しても、それを奪取した。武器ならいくら金を出しても、それを買い取った。そこで、土匪のうわ前をはねるのさえ、実は容易な業だった。 だから、売込の妨害をされないためだけにでも、五百やそこらは放り出すべきだ。 それを、下積みの膳立ては、すべて、彼――山崎がちゃんとこしらえてやったんじゃないか。それを内川はむくいようとしなかった。 山崎は、あんまり気長く放って置くと、自分の努力が時効にかゝっちまう、と気をもんだ。 しかし内川が、彼を蹴るなら蹴るで、彼は又、彼として、考えがあった。若し万が一、今度百や二百やの眼くされ金で胡麻化そうとするんなら、その時は、その時で、今後の商売を、全く、上ったりにして呉れるから。 山崎は、内川等がどんなことをやっているか、それを知っていた。そして、彼は、それをあげてやろうと思えばあげてやれるのだった。 彼は、自国人であるために、それを庇護していた。 それは、ある秋のことである。市街から離れた田舎道を、なお、山奥へ、樹々が枯色をした深い淋しい林へ、耳の長い驢ろ馬ばに引かれた長い葬式の列が通っていた。 棺車は六頭の驢馬に引かれていた。驢馬は小さい胴体や、短かい四本の脚に似合わず、大きい頭を、苦るしげに振り振り、六頭が、六頭とも汗だくだくとなっていた。そのちぢれたような汚れた毛からは、湯気が立った。 棺は死人を弔とむらうにふさわしく、支那式に、蛇頭や、黒い布でしめやかに飾られていた。喪主らしい男は、一人だけ粗麻の喪帽をかむり、泣き女はわんわんほえながらあとにつゞいていた。 町で死んだ者が、郷里の田舎へつれかえられているのだろう。 だが、一人の死屍に、そして、山の方へだが、まだ、山へはさしかからず平地をつゞいて行くのに、どうして六頭もの馬が、湯気が立つほど汗をかいているのだろう。 どうして、一人の死屍がそんなに重いのか? 巡警は、不思議に思った。 暫らくは安全だった。普通葬列は、馬に引かれず、人の肩に棒で舁かつがれて行くべきだ。それも巡警の疑念を深くした。が、二人の巡警は、棺車を守る七八人の屈強な男の敵じゃなかった。そして葬列は林へ、山へと近づいて行った。しかし、林へ這入ってしまうまでには、まだ、もう一つの村があった。 村のたむろ所には巡警のたまりがあった。 行儀正しくあとにつゞいている粗麻の喪主と、泣き女はくたびれると、欠あく伸びをして変に笑った。それが一人の巡警の眼にとまった。 そこで、葬列が村の屯所の前にさしかゝった時、状態が急に変化した。棺車は停止を命じられた。 銃と剣をつけた巡警は、車を取りまいた。 棺桶を蔽う天蓋や、黒い幕は引きめくられた。桶の蓋ふたはあけられた。蓋の下は死屍でなく、鉄砲と手榴弾が、ずっしりと、いっぱいに詰めこまれてあった……。 ﹁うへエ!﹂ 山崎はそんなことをも知っていた。内川は人の意表に出る男だ。五
十シワ王ンテ殿ン附近に、汚ない、ややこしい、褌ふんどしから汁が出るような街がある。 幹太郎はそこの親爺の家に住んでいた。 そこには、彼の二人の親と、母親のない一人の子供と、二人の妹が住んでいた。彼は、そこから、商しょ埠うふ地ちの街をはすかいに通りぬけて工場へ通った。 ﹁あの、よぼよぼのじいさんは日本人ですか?﹂ 邦人達は、黄白の眼が曇った竹三郎のことを、知りあいの支那人からきかされると、 ﹁なに、あいつは朝鮮人だよ。﹂ と軽蔑しきった態度で答えた。 ここでは、邦人達は、労働することと、者となることを、国辱と思っていた。 邦人達は、つい三丁先へ野菜ものを買いに行くのでも、洋くる車まにふんぞりかえって、そのくせ、苦力にやる車代はむちゃくちゃに値切りとばして乗りつけなければ、ならないものと心得ていた。 落ちぶれた、日本人が、苦力達の仲間に這入って、筋肉労働を売っているとする、――そういう者も勿論あった。 と、 ﹁ふむ、あいつは朝鮮人だ!﹂ 洋車の上から、唾でも吐きかけぬばかりに軽蔑した。 親爺の竹三郎は、その軽蔑を受ける人間の一人だった。 彼は、煙エン槍ジャンと、酒アル精コールランプと、第三号がなければ生きて行かれなかった。彼は、一日に一度は必ず麻酔薬を吸わずにはいられなかった。体内から薬の気けが切れると、疼うずくような唸きにのた打った。それは、桶から、はね出した鯉のように、どうにもこうにも、我慢のしようがなかった。 幹太郎は、その親爺が、見るからに好きになれなかった。 親爺は仕事らしい仕事は殆んど出来なくなっていた。そして親爺の代りは、妹のすゞがした。彼女は、今、三、四封ポン度ドを携えてくるために内地に帰って行っていた。 邦人達は、たいてい、この軟派を仕事としている。饅頭屋、土産物商、時計屋、骨董屋などの表看板は、文字通り表看板にすぎなかった。内川は大量を取扱う卸商とすれば、彼等は小商人だった。――そんな商売をやる人間がここには一千人からいた。 竹三郎もその一人だった。 阿片は、苦力や工人達には、あまりに高すぎる。そこで、阿片の代りに、もっと割が安い、利き目が遙かにきつい三号含有物がここでは用いられた。阿片なら、三カ月間、吸いつゞけても、まだ中毒しない、しかし、ヘロインは、十日で、もう顔いろが、病的に変化するのだった。 ――これにも主薬と佐薬がある。調合がうまくなければ、売行はよくなかった。そして、その調合法は、それぞれ、自分の秘密として家伝の如く、他人には容易にそれを話さなかった。竹三郎は、いろいろな仕事に失敗して、とうとう、一番、最後の切札に、この三号品を扱い出した。当初、売行が悪いのに、苦るしんだ。何もかも、すべてに失敗しても、彼は内地へは帰れなかった。彼は内地を追われて来たのだ。 いくらでも、めちゃくちゃに金の儲かるボロイ商売のように云われている薬屋でも、やって見れば、やはり、苦労と、骨折がかゝるものだった。 ﹁畜生! 今度は、俺がためしに吸うて見てやる。それくらいなことやらなけゃ、商売はどうしたって、うまくは行かんのだ。﹂ こんなことを云っていた時には、まだ薬の恐ろしさは、彼にも、妻にも分っていなかった。 ﹁阿呆云わんすな。――中毒したらどうするんじゃ。﹂――お仙も笑っていた。 ﹁そんな呑気なことを云っちゃいられないぞ。どうしたって俺は、日本へは帰れないんだ!﹂彼は品物がだんだんに売行きがよくなると、彼の顔色は、古びた梨のように変化した。 麻酔薬は、体内の細胞を侵していた。 彼は、蟻地獄に陥る蟻だった。どんなに、もがいても、あがいても、吸わずにいられなくなっていた。 すゞも、俊も、幹太郎も、内地からここへ来て、まる二年ばかりしか経っていなかった。 すゞは、﹁快上快﹂の調合から、原料の補給や、時には、それを裏口から、足音をしのばせて、そッと這入ってくる青い顔の支那人に売ることも為していた。 俊は、トシ子が置いて帰った一郎をあやしてたわむれた。一郎は幹太郎の子である。トシ子は、彼と、家を嫌って帰ってしまった妻だ。そして、俊は以前、トシ子と仲がよかった。 姉の方のすゞは、トシ子が帰ってしまうと、家のことに、心から身を入れて働くようになった。 原料の補給に内地へ帰らされるのはいつもすゞだった。彼女も、また、危険を冒してもそれをやった。 やかましい税関をくゞり抜けて、禁制品を持ちこむのは、荒くれた男よりも、女の方が、――殊にまだどこかあどけない娘の方が、はるかにやりよかった。竹三郎は、初めて、幹太郎とすゞと、幹太郎の妻のトシ子を内地からつれて来しなに、もう、早速、一封度ずつ、三人に、肌身につけて上陸するように強いた。 幹太郎は、その時、親爺の破はれ廉ん恥ちさ加減に、暫らく唖然とした。二人の兄弟だけになら、まだ我慢が出来た。ところが、親爺は貰って四月しか経たないトシ子にも、平気の皮で云いつけた。彼は、トシ子と一年半ばかりで別れなければならなくなった原因の一半は親爺にあるような気が、今だにしている。人の気持が分らないのにも程があった。 だが、第一回は、はずかしがったり、気をもんだりしたすゞと、トシ子が、うまく、やすやすとやりおおせた。親爺と幹太郎は上陸すると、すぐ眼のさきにある、税関のくぐりぬけがかえって面倒だった。女は、すらすらと通ってしまった。 親爺は、一度味をしめると、それをいいことにして、またすゞを内地へ帰らした。 すゞは、二回、三回のうちに税関をだまくらかすのを痛快がりだした。 ﹁お前、あの時、どんな気がしたい?﹂ 露顕した時の恐怖と、親爺への不服が忘れられない幹太郎は、あとから、すゞに訊いた。 ﹁どんな気もしない。ただお父さんが気の毒で可哀そうだっただけ。﹂ ﹁お前は、腹のまわりに袋に入れたあの粉をまきつけて、――おや、妊娠三カ月にも見えやしなくって? なんて、ひどく気に病んどったじゃないか。﹂ ﹁それゃ、気になったわ。帯がどうしても、うまく結べないんだもの、――でも、そんなこと、なんでもなかった。ただお父さんが可哀そうだったの、始めて済南へ連れて来る子供とそれから花嫁さんにまでこんなことをさせなけりゃならんかと思ったら、お父さんが可哀そうで、涙がこぼれたわ。﹂ ﹁なあに、見つからせんかと、びくびくものだったくせに、今になって、ませた口をたたいてやがら。﹂ ﹁じゃ、兄さん、あの時から、こっちの暮しが、こんな見すぼらしいものだって分ってて?﹂ ﹁俺ら、なんぼなんだって、こんなにひどいとは思わなかったよ。﹂ ﹁私、ちゃんと分ってた。……おじいさんがなくなったのに、お母さんもつれずに、たった一人っきり、お父さんが帰っちゃったでしょう、あれで、もうすっかり、すべてが分るじゃないの。﹂ ﹁へええ、貴様あとからえらそうなことを云ってやがら。﹂ 妻に子供を残されて、逃げ帰られてしまってから、二人はお互にかたく結びつくようになった。 第三者にいわすと、幹太郎はもっといい妻がほしくって、トシ子をヘイ履の如く捨て去ったのだった。ところが、一度、妻とした女を、かえすということは、功利的な打算だけで、そんなに、たやすく出来得ることじゃなかった。旧式な彼には、いろいろな迷いや、苦悩や、逡巡があった。それを知っているのは、すゞだけだ。彼は、妹が、しみ入るように好きになった。子供も彼女になついた。すゞは、浅草の鳩のように、人なれがしていた。つかまえようとすると、鳩が、一尺か二尺かの際どいところで、敏感に、とび立って逃げる。そんなかしこさがあった。 彼女が内地へ帰ったのは、もう、これで七回目だ。六
巷ちまたの騒々しさと、蒋介石の北伐遂行の噂は、彼女が内地へ着いた頃から、日々、頻ぱんになって来た。 在留邦人達の北伐に対する関心は、幾年かを費して、拵え上げた財産や、飾りつけた家や、あさり集めた珍らしい支那器具や、生命を、五・三十事件当時の南京、漢口の在留者達のように、無惨に、血まみれに、乱暴な南兵のため踏みにじられやしないか、という一事にかかっていた。 彼等は、誰かからそういう心配をするように暗示された。彼等はそのことのために、居留民団で会議を開いた。二人の選ばれたものが、領事館へ陳情に出かけた。小金をためこんでいる者も、すっからかんのその日暮しの連中も、同様に暗示にかかって、そのことにかゝずらった。 絶えまない軍閥の小ぜり合いと、騒乱の連続は、その暗示をなお力強いものにした。――実際、町ではしょっちゅう騒乱が繰りかえされていた。遊芸園の東隣の女子学校へ、巡じゅ邏んらの支那兵が昼間闖ちん入にゅうした。 支那兵は二人だった。二人の支那兵は、女学生の寄宿している宿へ入り、彼等の飢えた性欲を十分に満足させた。 ところが、女教師は、兵士に、そのことを内所にしといて呉れと頭を下げて頼むのだった。兵士は金を要求した。教師は弱味につけこまれた。金を出した。 しかし、二人は青黒い兵営に帰ると、そのことを、ほかの者達にすっかり名誉のようにバラしてしまった。 夜になると、まだ味をしめない兵士等が、群をなして学校へ押しよせて来た。支那語の叫喚、金属的なざわめきが、遠くで騒がしく起った。 街では、毎晩、そこ、ここの家々が、武器を持った兵士等に襲われた。﹁諱ウイ三サ路ルの×さアん、いらっしゃいますか? 急用!﹂映画を見ている最中に、木戸から誰かが呼ばれると、呼ばれない、附近の者までがギクリとした。――おや、又、強盗かしら? 兵士達は食に窮していた。顔と頭を黒い布で包み、大きな袋のような大タア褂コア児ルに身をかくしている。それは、どこでもかまわず、めちゃくちゃだった。 土匪のように現金のある家をねらった計画的なものじゃなかった。それだけに尚、厄介だった。貧乏な者までが、気が気じゃなかった。 そいつは押し入ると、獲物を求める、夜鷹のように、屋内を、隅から隅へ突きあたり、ひっくりかえした。はね上がったり、すねを突いて、物置の奥へ手を突ッ込む拍子に、大褂児の裾から、フト軍服の子クウズがまくれ出た。 ﹁おや、兵隊だ!﹂ ﹁兵隊がどうしたい?﹂ ﹁兵隊だって食わずにゃ生きとれねんだぞ。督トバ弁ンは一文だってよこさねえし!﹂ そいつらは正体を見破られて引っ込むどころじゃなかった。﹁我オー的デオ我ー的デ! 爾ニー的デオ我ー的デ! ︵おれのもんはおれのもんだ! お前のもんはおれのもんだ!︶﹂ 工場では、内川が、北伐にともなう、共産系の宣伝と組織運動、動乱にまぎれての工人の逃亡に対する対策に腐心していた。 頭の下げっぷりが悪い、生意気な者には、容赦のないリンチが行われた。 工人は妻のある男も、夫のある女工も、門外に出ることを絶対に禁じられた。すべてが、二棟の寄宿舎に閉じこめられてしまった。 門鑑は、巡警によって守られていた。 巡警は、公コン司スの証明書を持たない者には、一切入門を拒絶した。 逃亡の防止策としては、給料が払われなかった。工人達は、三月末に受け取る筈の一カ月分の給料と、四月になってから働いた分を貰わず、そのままとなっていた。 彼等の仕事は、すべて請負制度だった。 彼等は、函詰、百八十盒でトンズル一文半︵日本の金で約九厘︶を取った。軸列一台︵木枠三十枚︶トンズル二文半、外し一車につき、一文、小箱貼り、軸木運び、庭掃は一カ月二円か三円だった。骨が折れること、汚いこと、燐の毒を受けることはすべて彼等がやった。日本人はピストルを持って見張っているだけだ。 そして燐寸は、中国の国産品と寸分も異わないものが出来上った。商標も支那式で﹁大吉﹂を黄色い紙に印されていた。レッテルの四隅には﹁提倡国貨﹂︵国産品を用いましょう︶とれい〳〵しく書いてあった。 これは排日委員会で決議されたスローガンの一ツだ。それが、うま〳〵と逆用されていた。――なる程、何から何まで、すべてが支那人の手によって作られたものである。支那の国で作っている。だから、支那の国産品にゃ違いなかった。資本をのければ。 猛烈な日貨排斥運動に、皆目売れ口がない神戸マッチを輸入して、関税や、賦金や、附加税を取られるよりは、労働賃銀が安い支那人を使って、全く支那の製品と違わない﹁国産品﹂を、支那でこしらえ支那で売る方がどれだけ合理的なやり方か知れない。 大井商事は、とっくにこれに眼をつけていた。マッチだけじゃない。資本家は、紡績にも、機械にも、製粉にも、搾油にも、製糖にもこの方法を用いていた。世知辛い行きつまった内地で儲けられない埋め合せはここでつけた。 工人達の窮乏は次第に度を加えて来た。彼等はただ饅マン頭トウや、餅コウビンのかけらを食わして貰うだけだった。そして湯をのまして貰うだけだった。金は一文もなかった。 金がない為めに、一本の煙草も吸えなかった。ぼう〳〵となった髪を刈ることが出来なかった。 稼いで金を送って、家族を養うことが出来なかった。 三日も四日も飯にありつけない、彼等のおふくろや、おやじや、妻が、キタならしいなりをして息子に面会を求めに来ても、門鑑はそれを拒絶した。 内には、親にあいたい息子がいた。娘がいた。妻にあいたい夫がいた。夫にあいたい妻がいた。 外には、息子や夫の仕送りを待っている親や、妻がいた。 小山達は、会せた後の泣きごとを面倒がって、会せなかった。 さんぼろさげた工人達は、鉄条網の張られた白楊材置場へまわった。そこの僅かの一部分だけは、トタン塀が張られていなかった。 そこで、彼等は、金属的な、悲しげな声を出した。 工人達は、親の唸くような、叫ぶ声をきゝつけると、そっと、作業場を抜け出して、鉄条網のそばへしのびよった。 彼等は、鉄条網をへだてて、内密に、面会した。 しかし、息子は、親に与える金がなかった。夫は、妻に与える金がなかった。 それは悲痛な面会だった。 幹太郎はこういう者たちから、給料をくれるように話してくれとせがまれた。 ﹁猪川さん。﹂王ワン洪ホン吉チは、おず〳〵と、浸点を見ている幹太郎のそばへ近よった。気の弱い、勤勉な工人の一人だ。 ﹁何だね?﹂ ﹁猪川さん。﹂ ﹁何だね?﹂幹太郎は早く云えというような顔をした。 ﹁猪川さん。……あのう、月給を半分だけでも渡して貰えるように、あんたから、小山さんに頼んで呉れませんか。﹂ 王ワンの、卑屈げに、はにかんだ声を、幹太郎は意識した。 ﹁今、おふくろが来て、女房がお産をしたが、もう、三日、飯をくわずにいると云うんです。﹂王はつゞけた。﹁おとゝいまで、嬶の妹のところから、粟を貰って来て食ったが、妹のところにも、なんにもなくなっちまったんです。﹂ ﹁当分、月給を渡さないということになってるんだがなあ。﹂幹太郎は当惑げな顔をした。 ﹁おふくろ、大きい方の餓鬼をおぶって来て、柵の外で泣いているです。――餓鬼も、おふくろも泣いているです。﹂ ﹁会計にだって、支配人にだって、俺の云うことなんか、ちっとも効果がありゃせんのだよ。﹂ ﹁…………﹂ 王洪吉は何か云おうとして、不思議な眼つきで、幹太郎を見た。彼は、肉体と精神と、両方で苦るしんでいた。胸がへしゃがれるようで、息をすることも、出来なかった。幹太郎は王の眼から、眉みけ間んを打たれた瞬間の屠殺される去勢牛のように、人のいい、無抵抗なものを感じた。それは無抵抗なまゝに、俺れゃどうして殺されるんだ! 俺れゃ殺される覚えはない! というように無心に訴えていた。 ふと、彼は ﹁よし、云ってやるよ。話してやるよ!﹂憤然と叫んだ。 ﹁まるで、君等を人間並とは考えていないんだからなア。――かまわん。待ってい給え、云ってやる! 話してやるよ!﹂ 幹太郎は、工場の日本人のうちで一番植民地ずれがしていない、新顔だった。支配人の内川、職長の小山、大津、守田、会計の岩井、みな、コセ〳〵した内地に愛想をつかして、覊きは絆んのない奔放な土地にあこがれ、朝鮮、満洲へ足を踏み出した者ばかりだ。内地で喰いつめるか、法律に引っかゝるかする。居づらくなる。すると先ず朝鮮へ渡る。朝鮮が面白くない、満洲へ来る。満洲も面白くない、天津へ来る。北京へ来る。そこでもうまく行かない。そういう連中が、ここへ這入りこんでいた。 彼等は、大連、奉天、青島、天津などを荒しまわっていた。常にニヤ〳〵している、顔にどっか生殖器のような感じのある大津のために、娘を山分けの手数料を取られて、七八十円で売らされた朝鮮人がどれだけあるか知れない。しかも、その生娘は、一人残らず大津に﹁あじみ﹂されて、それから、買手に渡されていた。小山の棍棒にかかって、不具者となり、くたばってしまった苦力は十人を下らないだろう。 岩井は、今こそ、いくらか小金をためて虫をも殺さぬ顔をしている。が、その金を得るために、彼は日本人でも、朝鮮人でも、支那人でも、邪魔になるものは誰でも、なきものにし兼ねない手段を選んで来た。 そんな面つらの皮の厚さが、二寸も三寸もありそうなゴツイ彼等も、自分自身の悪業のため、満洲がいにくゝなる。天津がいにくゝなる。青島がいにくゝなる。そしてここへやって来ていた。 工場には、悪党上りが集った場所によくある、留置場のような、一種特別な、ざっくばらんな空気がかもされていた。こゝでは自分の悪業を蔽いかくそうとする者は一人もなかった。強姦でも、強盗でも、窃盗でも、自分の経験を大ッぴらに喋りちらした。そこへ這入って来る人間は、自分にやった覚えのない罪悪をも、誇大に作り出して喋らないと、はばがきかない感じを受けた。いろ〳〵な前科と剛胆な犯罪の経験をよけいに持っている奴ほど、はばをきかし、人を恐れさし、えらばっていることが出来た。 小山は、工人の気に喰わぬ奴に対しては、燐や、塩酸加里、硫黄、松脂などが加熱されて釜の中でドロ〳〵にとけている頭薬を、柄ひし杓ゃくですくって、頭からピシャリとぶちかけた。支那人は、彼の手に握られた柄杓を見ると、物がひっくりかえるようなトンキョウな声を出して逃げ出すのだった。そのくせ、工人達が頭薬をこぼすと口ぎたなく呶鳴りちらした。 彼等は、幹太郎をのけると、みなが、工人に対して、動物に対すると同じような態度をとった。幹太郎は工人等が、黒い饅頭か、高粱粉をベッタラ焼きのようにした餅コウビンのかけらを噛って、湯をのむだけで、よくも一日十五時間の労働に消費される熱量を補給し得るものだと考えた。 彼には支那人ほど、根気強く、辛抱強い奴はないと見えた。文句を云わなかった。一箇でもよけいにマッチを詰めて、たゞ金を儲けたいと心がけている。請負制度は彼等の愛銭心を挑発して働かせる。その一つの目的のために、案出された制度のようだった。 ﹁馬鹿な!﹂小山は冷笑していた。﹁奴等自身だって、熱量が補給されるかどうかなんてこたア、考えてみもしねえんだ!﹂ 小山は、彼自身の経験から割り出して、ここの工人は、満洲の苦力よりも生意気で、能率が上らないと確信していた。彼は、大連埠頭の碧山荘の苦力を使った経験があった。﹁支那人って奴は、やくざな人種だということを知って置かなけゃだめだよ。奴らをほめたりなんかするこたア、そりゃ、決していらんこったよ。﹂先輩振って、云ってきかすような調子だった。 ﹁あいつらは恥というものがないんだ。こっちがいくらよくしてやったって、それで十分なんてこたないんだ。十円くれてやったって、シェシェでそこすんだりだ。一円くれてやっても、やっぱし、シェシェでそこすんだりだ。十銭くれてやっても、同じように、シェシェとは云うよ。だから奴等に、大きな恩をきせてやるなんか馬鹿の骨頂だよ。――それで、貰ったが最後、なまけて、こっちの云うことなんかききやしないんだ。﹂ ﹁朝鮮でも、満洲でも、――ヨボやチャンコロは吾々におじけて、ちり〳〵してるんだがな。﹂ 支配人は繰り返えした。 汽車で席がない時、あとから乗り込んだ彼等が、さきから乗りこんでいるヨボを立たして、そこへ坐るのが当然とされている。それを、皆に思い出させながら、 ﹁それが、こっちでは支那人が威張りくさってやがるんだ。やっぱし、ここにゃ、日本の軍隊がいないせいだな。﹂ 彼等は、満洲や朝鮮をゴロツク間に、不逞なヨボや、苦力が、守備隊の示威演習や、その狂暴な武力によって取っちめられてしまうのを、痛快に思いつつ目撃して来た。 彼等は、ここに、そういう、日本帝国の守備隊が、来て呉れていないことを残念がった。 ﹁しかし、物はなんでも比較の上の話ですよ。﹂ 幹太郎は、悪党に対して純なものの正しさを譲るまいと心がけながら云った。 ﹁働くという点から較べると、日本人は到底支那人には及ばんですよ。それに、内地じゃ組合が出来たり、ストライキをやったりして労働者が、そうむちゃくちゃに、ひどい条件でこき使われて黙っちゃいなくなっていますよ。﹂ ﹁そんなこた俺れゃ知らん。――そんなこたホヤホヤの君が知っているだけだよ。﹂小山は幹太郎がうぶいことを軽蔑した。﹁吾々が支那までやって来て、苦力のように働くってことがあるかね。吾々は奴等に仕事を与えているんじゃないか。ね。吾々が、こうしてこの土地に工場をこしらえなかったら、奴等は、ゼニを儲ける口もありゃせんのだよ。洋ヤン車チョだって俺等が乗ってゼニを払わなかったら、誰れからゼニを貰うかね。それを、何を好んで、俺等が、奴等と同じレベルにまでなりさがって働くって法があるかい!そんなこた、それゃ、日本人の面汚しだぞ。﹂ ﹁働くことが何で面汚しなんだ!﹂と幹太郎は考えた。﹁何てばかな奴だ。﹂ ﹁もっと年を喰やア、君だって今に、分るんだ!﹂小山は呶鳴った。 どうかした拍子に、田舎から、口を求めに出た男が、ひょっこりマッチ工場へ這入って来ることがある。 垢に汚れた布団を肩に引っかけ、がらくたの炊事道具を麻マア袋タイになでこんで、そいつを手にさげたままやって来た。巡警は前以って、内川の云いつけでそんな奴は門内に這入らせた。幹太郎がそういう奴の相手になった。 内川は、幹太郎が支那語講座流の発音で話している間中、脇の方からその支那人を観察していた。 おとなしくって、若い、丸々と肥えて、いくらでも働かし得る、そういう奴かどうかによって採否を決した。 健康そうな、しかし、きれいではない、田舎出の若者が、一人採用される。と、その代りマッチ工場独特の骨こつ壊え疽そにかかった老人や、歯はぐ齦きが腐って歯がすっかり抜け落ちてしまった勤続者や、たびたびの火やけ傷どに指がただれ膿うんで、なりっぽのように、小さい物をつまみ上げることが出来ない女工が一人ずつ追い出されて行った。給料ぽッきりで。 栄養不良と、日光不足︵朝四時から夜七時まで作業︶にもってきて、世界各国で禁止されている、最も有毒な黄燐を使うため、健康な肉体も、極めて短時日の間に、毒素に侵されてしまった。 工人の出入は、はげしかった。一人が這入って来ると、一人が追い出された。それが度々繰り返された。そのうちに、一人の採用によって、工場中の支那人が、恐怖と不安に真蒼になることに幹太郎は気がついた。 それは、解雇されそうな、ヒヨ〳〵の老人や、睨まれている連中だけじゃなかった。どうしても工場になくてはならない熟練工や、いたいけない、七ツか八ツの少年工や少女工までが、蒼くなって、どんよりとした、悲しげな眼で、生殺与奪の権を握っている日本人をだまっておがむように見るのだった。 賃銀支払は、幹太郎がいくら懸命に話したところで、内川や小山は容れるどころじゃなかった。 ﹁君は青二才だが、チャンコロのように雄弁だね。﹂ 小山は、そばに内川がひかえているのを意識しながら、皮肉に、鼻のさきで笑った。 ﹁賃銀は、こっちから、めぐんでやる金じゃないんですよ。﹂と幹太郎は、喧嘩をするつもりで云った。﹁支払うべき金ですよ。労働は一つの商品ですからね。買ったものの代金を払うのは当然じゃないですか。﹂ いくら人情に訴えたところで、きくような彼等じゃなかった。 ﹁ふふむ、君は一体、支那人かね、ロシヤ人かね、――過激派の。﹂ ﹁日本人ですよ。﹂ 幹太郎は、狂暴なものが、一時に、胸のなかで蠢うごめくのを感じた。この二人に対してなにかしてやらねばならない!でなければ、胸のなかの苦痛は慰められない。だが、彼のやろうと思うことは、あまりに、結果がはっきりと分りすぎていた。 ﹁日本人なら、日本人らしくしとり給え!﹂と小山は云った。﹁理屈ばかりじゃ、マッチは出来ねえんだから。﹂ ﹁工人を見殺しにしちゃ、なお、マッチは出来ねえでしょう。﹂とうとうこらえていたものが、爆発してしまった。﹁泥棒! バクチ打ち!……﹂ 彼は、横の椅子を掴みあげた。ひょろ〳〵しながら、それを振り上げた。 だが、内川は、豹のように立って来て、その椅子を取り上げた。 ﹁馬鹿! 馬鹿! 何をするんだ猪川! 何をするんだ!……﹂ 幹太郎は扉の外へ押し出されてしまった。バタン! と扉が閉った。 ﹁実際、あいつは、若いからね。﹂と、内川は緊張しきって、眼が怒っている小山に笑った。 ﹁仕方のない奴だ。わしも、あいつのおふくろが気の毒だから、あれを使っているんだ。あいつの親爺はヘロ中だし、あいつはあいつで生意気だし、役に立たんが、ただ、あれのおふくろが気の毒でね……﹂七
黄ホワ風ンフォンが電線に吠えた。 この蒙古方面から疾駆して来る風は、立木をも、砂土をも、家屋をも、その渦のような速力の中に捲きこんで、捲き上げ、捲き散らかす如く感じられた。太陽は、青白くなった。人間は、地上から、天までの土煙の中で、自分の無力と、ちっぽけさに、ひし〳〵とちゞこまった。彼等は、いろ〳〵なことを考えた。 支那、支那、何事か行われているが、収拾しきれない支那! ここの生活はのんきなようで、一番苦るしい。つらい! 人間は、自分の通ってきた、これまでの生活が疵きずだらけであることを考えた。――ある者は、それを蔽いかくして生きて行かねばならぬと決心した。ある者は、自分で、自分の為したことにへたばった。 俊だけは、憂鬱に物を考える人の中で、一人だけ、何も考えず、何も思わず、三歳の一郎をあやして、ふざけていた。 一郎は、﹁テンチン﹂﹁テエアンチーン﹂など、支那語の片言をもとりかねる舌で、俊に菓子を求めた。 ﹁一郎は、まるで、トシ子さんそっくりだわ。……それ、その天向きの可愛い鼻だって、眼もとだって、細長い眉だって﹂俊は嬉しげに笑った。彼女は、去った嫂あによめと一番の仲よしだった。 ﹁天下筋の通っている手相までが、そっくりなんだわよ!﹂ 俊は、嫂を去いなしてしまったことに不服を持っていた。その不服の対照は母だった。母は最初だけ、珍らしい内は、下にも置かないマゼ方をする。が、暫らくして、アラが見え出すと、それからは、徹底的にクサスのだ。俊は、それが大嫌いだった。 彼女は、編んでやった一郎の毛糸のドレスの藁ゴミを指頭でツマミ取った。そして、倒れないように、肩を支えて子供を歩かしながら、兄の方へつれて行った。 母は、工場が引けて帰る幹太郎を待ちかねていた。すゞがいないことは彼女を淋しがらせた。 ﹁何ですか?﹂ 母の顔はそわ〳〵していた。 ﹁一寸、油断しとったら、早や、王ワンが黙って、﹃快クワ上イシ快ャンクワイ﹄を、持ち出して売ってるんだよ。﹂ ﹁ふむ。﹂ ﹁こないだだって、靴直しに三円持って行って、あれで、一円くらいあまっとる筈だのに自分で取りこんどるんだよ。﹂ ﹁ま、ま、知らん顔をして黙っときなさい。﹂と、幹太郎は言った。﹁抽出しへは鍵をかけとかなけゃ!﹂ 第三号に侵され切った、竹三郎は、もうそんなことに神経が行き届かなくなってしまった。快い薬の匂いが体中に浸みこんでくる。彼は、毛のすり切れた、そして、いくらか、白らけた赤毛布の上に高い枕で横たわって、とけるように、まどろんだ。たゞ、自分の恍惚状態を夢のようにむさぼるばかりだ。ほかの一切にかゝずらわなかった。 幹太郎は、俊が歩かして来た一郎を抱き上げた。 ﹁こないだ、土匪が三人、捕まったんだってよ。﹂ ﹁じゃ、また、さらし頸ね。﹂ 俊は嬉しげに笑った。彼女は徳川時代に於けるような、この野蛮なやり方に興味を持っていた。 ﹁ところが、その土匪の一人は、もと愧クワ樹イシェの兵営に居った山東兵の中士だそうだよ。そいつが四人分の弾丸や鉄砲を持ち逃げして土匪の仲間入りをしていたのを捕まえて来たんだって。﹂ ﹁愉快ね、軍曹が銃を持ってって土匪になるって、愉快ね。――面白いじゃないの、気みたいがいゝじゃないの。﹂ ﹁たいがい、毎日、何か、乱が起るなア。﹂母は形だけの仏壇へ、燈とう明みょうをあげていた。その仏壇の下の抽出しは、第三号の、秘密なかくし場所だ。﹁いっそ、すゞに、南軍がこっちへやって来るか来んかはっきりするまで、内地に居るように手紙を出したらどうだろう。あれだって可哀そうだもの。﹂ ﹁ええ﹂幹太郎が一寸考えた。﹁しかし今から手紙出したって間に合わんでしょう。……ひょっと、日光丸に乗っとるとしたら、今日あたり入港しとる日ぐりだから。﹂ ﹁そうかしら。﹂ 親爺は、かなり久しく赤毛布の上でまどろんでいた。ぶ厚い、すず黒い、唇からは、だらしなげによだれが、だらだら毛布にたれた。これは、恍惚状態に入った時、いつも現われる現象だ。 ﹁お休み! お休み! ゆっくりお休み!﹂俊は、その父を指さして、おきゃんな声を出した。 この時、一寸でもその、まどろみの邪魔をすると、父は、火がついたような狂暴性を発揮する。幹太郎も、母も黙って、大きな音さえ立てぬように努力した。 親爺の皮膚は、薄黒く、また黄色ッぽく、白血球は、薬のために抵抗力を失って、まるで棺桶に半脚突ッこんだ病人のように気息奄えん々えんとしていた。 ﹁お休み! お休み! ゆっくりお休み!﹂ やがて親爺は死ぬだろうと、幹太郎は思った。自分では、滅亡へと急ぎつゝあるのだ。 彼は、親爺が故郷を追われたことを思った。 親爺のような人間が、植民地へ来て、深みへ落ちてしまうのは、四人や五人ではきかないだろう。 いや、幾人あるかしれないだろう。ここは、みな、郷里に居づらくなった者ばかりが来るところだ。食い詰めて頸が廻らなくなった者か、前科を持っている者か、金を儲けて、もう一度村へ帰って威張りたい、俺を侮辱しやがった奴を見かえしてやろう! と、発憤した者か、そして朝鮮や満洲に渡って、そこでも失敗を重ね、もっと内地とは距った遠い地方へ落ちねばならなくなった者がやって来るところだ。 竹三郎は、九ツの幹太郎と、五ツと、三ツのすゞと、俊を残して満洲へ渡った。 村の背後には、川を隔てて高峻な四国山脈が空を劃くぎっている。前面は、波のような丘陵の起伏と、そのさきの太平洋に面した荒海がある。幹太郎は、その村で、ほかの子供たちから除のけ者にされながら少年時代を過した。太陽は、山に切り取られた狭い、そして、青い〳〵、すき通った空を毎日横ぎった。春には山際の四国八十八カ所の霊場の一つである寺の鐘がさびた音で而もにぎやかに村の上にひびき渡る。遍路が、細い山路を引っきりなしに鉦をならして通る。幹太郎は、そこで、小さい手を受けて遍路から豆を貰うのにさえ一人ッきりで、皆からのけ者にされた。理由は、親爺が、ほかの子供達のお父さんである村会議員を、確証がないのに、涜職罪として罪人に落そうとたくらんだ。ということからきていた。 だが本当に確証がなかったか、本当に、親爺がほかの村会議員を罪に落そうとたくらんだか! 小学校の新築が落成した。その年である。竹三郎は村会議員に当選した。自作農で小作農も兼ねている。そんな人間は、村会議員どころか、衛生組合の伍長の資格さえないもののように思われていた。 そんな頃である。親爺は、誰の前でも恐れずに、ものを云い得る口を持っていた。物事の裏を衝く眼を持っていた。彼が村会へ頸を出すのは、ほかの議員達は一人として喜ばなかった。 ――一カ月ほど前、親爺は、門を建てた。用材に山の樹を伐った。そして引き出しを手伝ってくれた近隣の者と、義兄や甥に酒を振る舞った。それが悪かった。それを見ていた﹃松葉屋﹄が、買収手段だとして、密告した。用材出しを手伝ったお祝いのしるしに、おみき︵酒︶を振る舞うのは一つの習慣だ。それだのに、それが、すったもんだの揚句、罰金をとられることになった。あとから二升だけ酒を買い足し、偶然来あわした一人の男に盃したのが悪いというのだ。 村会議員は、ごた〳〵言い出して、すぐ自分から引いてしまった。 補欠選挙が来た。親爺は家に引っ籠って、謹慎の意を表した。もう、家に火をつけて全まる焼けにするとおどかされたって、議員などになる意志は毛頭なかった。彼は憤慨に堪えなかった。そんな時、蒲団を引っかぶって寝て我慢するたちだった。その時も、敷き流して脂あぶ垢らあかにしみた蒲団から、這い出て飯を食うと、また、そこへ這いこんだ。三日ばかりを無為に過した。ところが、よせばいゝのに、﹃松葉屋﹄の小作人達が、また、親爺に投票した。 再選した。親爺にもいくらか色気が出た。 それから間もなくである。 二年前から取りかゝっていた学校の新築は落成した。田舎村のその時代としては、驚嘆すべき三万円がかゝっていた。それは洋式だった。青味がかったペンキを塗り立ててあった。屋根はスレート葺きだ。棟は鋭角をなして空中に高く尖っていた。しかし、柱や梁は古木で細く、所々古い孔へ埋め木をしたり、別の板で中味をかくしたりしていた。見えぬところは手を抜いてあった。 この新築に関係した村会議員の涜職事件が村の者達の前にだん〳〵曝露されだした。 親爺は、前に、買収の罪をきせられた意趣がえしもあった。たしかにあった。彼は﹃松葉屋﹄や﹃庄屋﹄がその同類として引き込みに手を廻して来るのを、きっぱりとはねつけた。 幹太郎には、すべてが、つい一昨日の出来事のようにまざまざと躍っている。彼は、頑丈で、闘志があって、米俵をかつぐ力持にかけては村中、誰も親爺に及ぶ者がなかった。﹇#﹁。﹂はママ﹈素朴なあの親爺の一ツ、一ツを、はっきりと手に取るように覚えていた。だが、それは十年も昔、いや、もう十三年も昔のことに属するのだ。 三月のことだった。畠の、端々に、点々と一と株ずつ植えられた食わずの貝のような蚕そら豆まめの花が群がって咲きかけていた。親爺には一寸留守にしなければならない事件が起った。妹が嫁入ったさきで折合いが悪く、すったもんだやっていたのだ。親爺はK市の海岸通りの船具屋である、その義弟の家へ出かけた。 事件は、すべて彼の留守中に悪化した。﹃松葉屋﹄も、﹃網元﹄も、﹃庄屋﹄も、証拠不十分で不起訴になった。 村の九割までは、﹃松葉屋﹄に掴まされて、ぱたりと騒動が静まった。 すべての証拠は湮いん滅めつされた。 誣ぶこ告くざ罪いの攻撃が、今度は、反対に村中から、親爺に向って降りかかった。﹃庄屋﹄は、門の用材に伐った松が、竹三郎の所持林の境界線をはずれて、﹃庄屋﹄自身の山にあったものだと云い出した。 その松は、皮をむかれ、削られて建ったばかりの門の背骨のような附木となっていた。 親爺は樹泥棒だった。庄屋は、その樹を戻せと云い出した。だが、その樹を戻すには、折角建った門を、屋根瓦を引っぺがし、塗った壁を叩き落し、組立てた材木をばらばらにしてしまわなければならなかった。――所持林の境界線を間違えた――ごま化したことは、すっかり親爺の信用を落してしまった。 彼は買収のきく村の人間に愛想をつかした。そして、村の人間は、樹泥棒であり、誣告人である彼に、頭から見切りをつけた。 八月の末のある晩、親爺は、幹太郎と妹を残して村を出た。路ばたの草叢では蟋こう蟀ろぎが鳴き始めていた。家の前の柿の古樹の垂れさがった枝には、渋柿が、青いまゝに、大変大きくなっていた。その下の闇を通ると、実がコツ〳〵と頭を打った。 親爺は、村のはずれの船橋を渡ると馬車に乗った。馭者の両脇の曇ったガラスの中のローソクは、ゆら〳〵とゆれていた。 ﹁さよなら! さよなら!﹂ 幹太郎は長いこと寝つかれなかった。 ――あれから親爺の転落が始まったのだ。あんなことさえなかったら、俺等だって、支那へなんか来てやしないのだ! 彼はやはり、いつかは内地へ帰ってしまいたい希望を捨てなかった。腐った奴等に叩き落されて、リン落して行く、彼等もその中の一人だった。どこでも大きなものに媚こびへつらう、卑屈な奴等がうまくやって行くのだ! 彼は長いこと寝つかれなかった。 犬が根気強く吠えていた。黄ホワ風ンフォンは轟々と空高く唸った。彼は、でくの坊のように、骨ばった親爺が、ひょく〳〵と日本建ての家の中を歩いている夢を見ていた。親爺は、何か厚い帳簿を持って廊下へ出た。廊下には戸がたてゝある。親爺は、薄暗い廊下で、脚が引きつるものゝようにひょくひょくした。そのひょうしに、かたい頭が、はげしく戸板にぶつかった。ガタン〳〵という音がした。すっかり内地における出来事だ。 幹太郎は、ふと、眼がさめた。実際、誰かが戸を叩いていたのだ。 母が咳払いをした。そして、ぼそ〳〵起きて、戸口へ行くのを彼は感じた。戸は、また叩かれた。 支那人が立っているようだった。母は、誰であるか、疑念と同時に用心しい〳〵細目にあけてのぞいた。それからぴしゃりと閉して帰ってきた。 ﹁今頃、電報が来たが。﹂ ﹁誰からです?﹂幹太郎は半身を起した。 ﹁さあ、……一寸見ておくれ。﹂ 彼は、頭の上にスイッチをひねった。母が寝巻で、そう寒くはない筈だのに慄えていた。 ﹁今頃に何だろう?﹂ ﹃スズサン、リヨウジカンケイサツニコウリユウセラル、ドナタカスグゴライセイヲコウ――ハナカワヤ﹄ ﹁おや、すゞがあげられた。﹂ 母は、ばたりと畳の上にへたばった。子守台の上で寝ていた一郎が、物音に驚いて頭を動かした。 ﹁今日、やっぱし日光丸で着いたんだな。上陸ししなに税関で見つかったんだ。﹂ 母はカメレオンのように、真ッ蒼になってしまった。 ﹁あんまり、さい〳〵持って来さすせに、税関で顔を見覚えられとったんだよ。こりゃ。﹂八
幹太郎が青チン島タオまで出むいて行かなけりゃならなかった。彼はすゞの身を案じた。ここは、膠済鉄路が青島から西に向ってのび、津しん浦ぽ線と相合して三叉路を形作っている。その要衝に陣取っていた。 幹太郎は、ここから、青島まで、九時間、支那人が唾や手洟をはきちらす不潔な汽車に揺られなければならなかった。 彼は家を出た。支那の汽車ほどのんきな、あてにならない汽車はない。三時間や五時間は駅で無駄につぶす気でなけりゃ、汽車に乗れなかった。 彼は、支配人が、しょっちゅう、大々的に、硬派と軟派と兼ねて禁制品を扱いながら、一度もあげられたためしがないのを知っていた。支配人は、彼の親爺や、彼の妹が持ちこむ量の、二十倍も、三十倍も、五十倍もの数量を平気の皮で取り寄せていた。そして、大手を振って歩いている。それだのに、貧弱な親爺や妹は、たった一封度か二封度を持ってきて、あげられる。留置場に拘留される! 領事館は金持ばかりをかばった。金のない細々と商売している奴ばかりが、やかましい規則の制裁を受けた。こんなところでも、やはり、より多く腐った奴等がより多くうまいことをやっているのだ。 彼は太タ馬マ路ロ通りへ出た。駅前の処刑場へ引っぱって行かれる土匪が、保安隊士に守られて、蠅のように群がる群衆や丸腰の兵士に俥上から口ぎたない罵声をあびせつつ通りかかった。三人だった。 騎馬士官と、丸腰の兵士たちが、街上になだれる群衆を制して道をあけた。苦力も、乞食も、独逸人も、日本人も街上に波をなしていた。 ﹁煙草だアい! 煙草だアい!﹂ デボチンの色の黒い眼がくり〳〵した一人の土匪は、両手をうしろへ廻されて、項うなじに吊すように、ふん縛られ、足は大きな足あし枷かせで錠をかけられていながら、真中の洋ヤン車チョにふんぞりかえって、俥夫と、保安隊士を等分に呶鳴りつけていた。 どす黒い俥夫は、煙草屋の主人が喜捨した哈ハタ達メ門ン︵紙巻の名称︶を一本ぬいてくわえさした。デボチンは、それを噛んではき出してしまった。 ﹁こんな安煙草がなんだい! 馬鹿! 砲ポー台タイ牌パイをよこせ!砲台牌だ! 砲台牌だ!﹂ 俥夫は暫らくまごついた。 ﹁砲台牌をよこせい! 砲台牌だい! 砲台牌だアい! 馬鹿!﹂ 一番さきの囚徒は真蒼に頭を垂れ、打ち凋しおれていた。三番目の男は、肘の関節を逆に、ねじ折れそうに縛り上げられたまゝ、俥上で、口からこぼれるほど酒をあおって、ぐでんぐでんに酔っぱらっていた。これが軍曹だろう。 囚徒は、刑場へ引いて行かれる途中で目につく店舗のあらゆる品物を欲するがまゝに要求した。舗プー子ズの主人は、やったものから代金は取れなかった。役人は、囚徒が食い飲んだものゝ金は払わなかった。しかし、どんな業ごう慾よくなおやじでも、一時間か二時間の後に地獄の門をくゞる囚徒の要求は拒絶しなかった。 土匪は遉さすがに、あの世へ持って行けない金銀の器物はほしがらなかった。ひたすら、酒か、菓子か、果実か、煙草を要求した。露天店の、たった一箇二銭か三銭の山梨を、うまそうに頬張らして貰うしおらしい奴もあった。 見物の群集は、俥が進むに従って数を加えた。馬の糞やゴミでほこりっぽい、広い道にいっぱいになってあとにつづいた。 駅前の広場には、また別の、もっと〳〵数多い真黒な群集の山が待ちかまえて、うごめいていた。 そこには、刑場らしい、かまえも、竹矢来も、何もなかった。しかし、そこへ近づくと、土匪の表情は、さっと変ってこわばってしまった。唸くような、おがむような、低い、聞きとれない叫びが俥上からひびいた。足の鉄錠ががちゃがちゃ鳴った。 ただ、三番日の酔っぱらいだけは、全く正気を失っているものの如く、ぐにゃ〳〵の頭は、洋車の泥よけにコツコツぶつかっていた。 ﹁あの酔っぱらいはどうなるかな。﹂と幹太郎は思った。﹁酔っぱらったまゝでぱっさりとやられゃ、本人は却ってらくでいゝかな。﹂ 兵士は群集を追いのけた。俥夫は梶棒をおろした。 三番日の囚徒は、ふと、頭をあげた。よだれのように酒がだら〳〵流れ出る土色の唇が、ぴりぴりッと顫えて引きしまった。そして眼は、人の山を見た。死んだ魚の眼のようだ。 ﹁やりやがれ! 怖かねえぞ! やりやがれ!﹂ 彼はうつゝのようにむにゃ〳〵呟いた。言葉は、群集のどよめきに消されてしまった。 さん〴〵駄々をこねて砲台牌をくわえさして貰った真中のデボチンは、三分の一ほど吸った吸いがらを、俥から、傍の保安隊士の頭上に吐きすてた。火のついた吸いがらは、帽子から、辷って襟首に落ちた。 ﹁おやッ、つッ、つッ! つッ!﹂ 若い保安隊士は、びっくりして、とび上った。 デボチンは、皮肉げに、意地悪げに、空にうそぶいていた。 ﹁畜生!﹂ 三人は俥から引きずりおろされた。足枷についた鉄の鎖が、錆びた音色で鳴った。囚徒は動かなかった。 群集は、けしきばんでどよめいた。 ソウ リウユチエ プル シュエ テイ ユーピンテン チュンチュ シチュネン カイン シュエ タ トンチェン チャン ペイ ハイ ピエン ………… ふと、幹太郎は、やけッぱちな、蘇武の歌を耳にした。子供でもしょっちゅう歌っている耳なれた軍歌だった。見ると、デボチンの土匪が、唇をひん曲げて口ずさんでいた。 ﹁あいつ、あの眉メイ楼ロー頭トー︵デボチン︶なか〳〵、図太いやつだな!﹂ 彼の傍で、一人の若い支那人が、憎々しげに呟いた。 ﹁……まだ、歌ってやがら。そら、まだ歌ってやがら。﹂ しかし、幹太郎は、その時、日本人として漢詩を習った時のような感情にとらわれた。瞬間、彼は、ひどく淋しい感情に打たれた。一番最後に歌った意味は、﹃老母は愛児の帰りを待ちわび、紅粧の新妻淋しく空くう閨けいを守る。﹄というようなものである。 ――恐らくあのデボチンは、農村に育って、歴山から吹きおろす南風に、その歌を、幼時から歌いなれたものだろう。何等の悪事をもしちゃいないのかもしれない。彼だって、のどかな罪のない幼時はあっただろう! チュアン イエン ペイフォン ツイ イエンジュン ハン コアンフイ パイ ファニャン ワンアルツイ ホン ゾアン イ コン ウエイ ﹁畜生! 俺れが人殺しでもしたと云うのか、畜生!﹂九
支那では土匪が捕まると、市街をひきずりまわして、見せしめに、群集の面前で断罪に処するのが習慣となっている。斬られた頸は三つも四つも並べて路傍の電柱にぶらさげられ、晒さらし首にされた。 その頸はうす気味が悪かった。あるやつは、口をあけて歯くそのついた汚い歯を見せていた。あるやつは、笑いそうだった。しかめッ面をしているのがあった。夏は腐爛した肉に、金蠅がワン〳〵たかった。 人々は、一と目で、すぐ顔をそむけ、あとを見ずに通りすぎてしまう。土匪の中には、勿論、強盗を働いたものもあった。殺人をやったものもあった。邦人で無惨に殺された者も二人や三人ではきかない。 彼等は庄長から金をせびり、若しよこさなければ、土墻をめぐらした村を襲い、妻女を奪い、家を焼き、村民全部を惨殺したりなどもやった。たび〳〵それをやった。いくら晒し首にしたところで、彼等の悪業のむくいとしてはやり足らぬかもしれなかった。だから、掠奪の被害をなめた群集は、むしろ残忍な殺し方を歓喜した。 ﹁跪クイ下シャ!﹂ 洋車からおろされた三人に、馬上の士官が叫んだ。三人は、へたばるように、くた〳〵と地べたに膝をついた。兵士は、荒々しく囚徒の肩を掴んだ。 ﹁西へ向くんだ、馬鹿! そんな方に向いて仕置きを受けるちゅう法があるか、馬鹿!﹂ また鎖が鳴った。三人は一間半ずつの距離に坐り直らされた。 一人の肥ったせいの高い兵士は、青竜刀を肩からはずして、空間に気合をかけて斬る練習のようなことをやっていた。青竜刀は刃のところだけがぴか〳〵光っていた。鉈なたのようだ。 ﹁包ポオ子ツを持ってこい! 包子を持ってこい! 包子が食いてえんだ!﹂ さきに、砲ポー台タイ牌パイを要求したデボチンは、足の鎖を鳴らし、縛られた自由のきかない手を、ぱたぱたやって、メリケン粉の皮に豚肉を入れて蒸した包子をほしがった。 ﹁ぜいたくぬかすな!﹂ ﹁えゝい! 持って来い! 持って来い! 包子を持って来い!﹂ 彼は、頭を振って叫びつゞけた。 群集は、銃を持った兵士が制するのもきかず、面白がって、前へ、前へとのり出した。幹太郎は、支那人の、脂肪と大にん蒜にくの臭気にもまれながら人々を押し割った。 うしろへまわした両手を背中で項うなじに引きつるようにされていた囚人は、項からだけ繩をときほぐされた。眼を垂れ、蒼白に凋れこんでいた一人は、ぼう〳〵と髪がのびた頭をあげた。 ﹁俺れだって、好きや冗談で土匪になったんじゃねえんだぞ………﹂悲痛な暗い声だった。 動かせないように囚人の頭と、背を支える二人の地ティ方フォンがこづきあげた。動かせないのは、斬り易くするためだった。 ﹁包子をよこせい! 包子をよこせい!﹂ ﹁またあの眉メイ楼ロー頭トー︵デボチン︶は駄々をこねてるよ。﹂ 幹太郎の傍で、紫の服を着た婦人が囁いた。前髪をたらしていた。すると、そのうしろの前歯のない老人が、 ﹁やれ、やれ、もっとやれ! 困らしてやれい!﹂とそこら中へ聞えるように、何か明らかな反感をひゞかせて呶鳴った。 幹太郎は群集にもまれながら、うしろから肩をつつかれた。 山崎だった。そして、山崎と並んで、も一人、額の禿げた大柄な顔が、一寸彼を見てほゝえみかけた。やはり日本人だった。中津である。 ﹁君、どっかへ行くんかね?﹂ 取り落して人波に踏みつぶされないように、一心に、ひん握っている幹太郎の手鞄を群集の動揺の間隙に眼ざとく認めて山崎は訊ねた。 幹太郎はわけを話した。 中津は、傍で話をきゝながら彼を見て、好意をよせるような、又、あざ笑うような、複雑な微笑をした。これは、この地方の邦人達を慄え上らしているゴロツキの馬賊上りだった。張宗昌の軍事顧問だ。 ﹁ふむ。ふむ。﹂山崎はうなずいた。﹁俺れも今、二人で青島へ出むこうとするところだよ。君は、どんな用事だね?……ふむふむ……そいつは、妹さんが税関で引っかゝるなんて、まのぬけたことをやったもんだね。ふむ、ふむ。﹂ ﹁支配人がやる商売ならどんなに大げさにやらかしたって、一向、見て見ぬ振りをしとくって云うんだが、親爺のようなぴい〳〵のするこたア、いけねえって云うんですよ。﹂ ﹁そう、すねなくたっていゝさ。……それで君は妹さんを貰い受けに行こうとしているんだね?﹂ ﹁そうですよ。﹂ ﹁俺等が向うへ行ったついでに、早速貰い下げて来てやろうか。﹂と、山崎は、中津を見た。﹁俺等が貰うんならわけなしだよ。﹂山崎の声のひゞきには、それを現わそうとしているところがあった。幹太郎は、それを感じた。こんな時こそ、山崎を利用しなけゃ損だ、と思った。 ﹁どうだ、情報料はなしで、只でやってやるよ。﹂ そして、又、山崎は中津を見た。中津は、掴みどころのない微笑を、その鬚だらけの顔に浮べていた。幹太郎は、山崎が、いつかの冗談への応酬をしていると感じながら、殊更、気づかぬ振りをしていた。 その時、群集の間に、激しい歓喜の動揺が起った。囚徒の頭と背とを支えていた二人の地ティ方フォンは、頭から腕に、いっぱい熱い鮮血をあびていた。首のない屍体は、ガクッと前につんのめった。吹き出る血潮は、心臓の鼓動の弱るがままに、小きざみになって行った。 ﹁うわあ! うわあ!﹂頸が落ちると群集はわめきたてた。﹁うわあ! うわあ!﹂ 拍手して喜ぶものもあった。これは、日本人には、解げせない感情だ。 三四分の後、三人は、悄しょげかえっていた奴も、酔っぱらいも、頸が落ちるまで包子を要求してついに与えられなかったデボチンも、同じような姿勢で空骸となって横たわっていた。 取りまく群集の間からは、纏足の黒い女房がちょか〳〵と走り出た。二三人も走り出た。男もまじっていた。それからはにや〳〵笑いながら、皮をむいた饅頭を、長い箸のさきに突きさして持っていた。士官と兵士達が去りかけた頃である。死体に近づくと、彼女達は斬られて縮少した切り口に、あわてて、その皮むきの饅頭を押しあてた。饅頭には餡が這入っていなかった。それは見る〳〵流出する血を吸い取って、ゆでた伊いせ勢え蝦びのように紅くなった。 ﹁やってる、やってる。﹂と山崎は笑った。﹁いつまでたっても支那人は、迷信のこりかたまりなんだからな。﹂ 中津はあたりまえだよ、というような顔をした。 ﹁張大人だって、ちょい〳〵あいつを食ってるんだぞ。﹂ ﹁第十何夫人連中も喰うかね?﹂ ﹁勿論、食うさ。あいつが無病息災の薬だちゅうんだから。﹂ ﹁張大人は野蛮だからよ……さぞ、内地の人間が見たら、おったまげるこったろうな。﹂ 群集はなお笑ったり、さゞめいたりしていた。彼等は、三人の人間が殺されたと感じてもいないようだった。犬か猫かが殺されたとさえ感じないようだ。幹太郎は、そう感じた。それは毛虫か稲子が頭をちぎられた位にしか感動を受けていない。 たゞ、囚人をのせてきた俥夫だけは、不吉げに悄れこんでいた。三つの洋車は、ぽそぽそと喇ラッ叭パもならさず、人ごみの中を引いて行かれた。俥夫は、強制的に狩り出された。一度罪人を運ぶと、一生涯運気が上がらない。そういう迷信があった。丁度、内地の船頭が土左衛門を舟に積むのを忌み嫌うように。それで悄れきっているのだ。 ﹁こいつに見せちゃいけねえ、見せちゃいけねえ! おい、見せちゃいけねえ!﹂ ふと、三台の洋車とすれちがいに、又、三台の洋車が、刑場を目がけて全力で突進して来た。前の俥から、三十がらみの纏足の女がころげるように跳びおりると、無二無三に群集の垣に突き入った。そのあとから、狼狽した百姓が、女に追いすがって引き戻そうと争った。 ﹁こいつに見せちゃいけねえ! こいつに見せちゃいけねえ!﹂ 百姓は懸命な声を出した。 女は何かヒステリックに叫んで、大声をあげて泣き喚わめき、群集をかき分けて、屍体の方へ近づこうとするのだった。 百姓は、五十歳すぎの老人だ。彼は大またに、かまんが脚をかわしながら、両手をひろげて娘のような女を抱き止めた。と、女はその腕の中へ身を投げた。纏足の脚をばたばたやりながら号泣した。 ﹁寃ユア※ンナ﹇#﹁口+那﹂の﹁二﹂に代えて﹁はみ出た横棒二本﹂、U+54EA、204-上-19﹈! 寃※﹇#﹁口+那﹂の﹁二﹂に代えて﹁はみ出た横棒二本﹂、U+54EA、204-上-19﹈!﹂彼女は、百姓の腕に泣きくずれた。﹁悪い人は主人です! 悪い人は主人です! 主人がうちの人をこんなめにあわしてしまったんです!﹂ ﹁諦めなさい、諦めなさい! どんなに歎いたって死んだものが生きかえれやせん﹂ 老人は女をなだめた。﹁仕様がねえ! 諦めなさい! 諦めなさい!﹂ 群集は、再び緊張して、その女の周囲に集りだした。彼女は、軍歌を唄い、包子をほしがり、砲台牌をねだったあの男のために悲しんでいた。山崎は、女と見ると、何か仔細ありげに中津に耳打ちをした。幹太郎は、なぜか、彼の直観に結びつくものを感じた。中津は、人々を押し分けて兵士達の方へ急いだ。 ﹁あのデボチンは、支配人に使われとったボーイじゃなかったですかな?﹂幹太郎は、何気なげに訊ねた。 山崎は、聞えなかったもののように、そっぽをむいていた。 ﹁むじつです! むじつです! 悪い人は親方です! 親方です!﹂ 女はやはりすすり泣いていた。 ﹁こいつの亭主は、決して土匪じゃねえんだ!﹂と、百姓はぐるりへたかってくる人々へ説明した。 ﹁日本人の親方がこれの亭主に云いつけて、土匪のもとへ商売にやらしたんだ。そこを官憲に見つかって、土匪と一緒くたにされちまったんだ。自分のボーイに商売をやらしといて、捕まりゃ、もう日本人は解雇したから知らねえと云い張ってるんだ。悪えのは親方だよ。……親方が悪えんだよ! 日本人が悪えんだ!﹂ 硬派でも軟派でも、細々と、小心に、ちょっとずつ扱っている人間は、発覚すると、自分自身の血税で、そのつぐないをつけさせられている。ところが、大々的に、何にでも手を出している人間は、取りこむだけのものは取りこんだ。血税は、使っているボーイが払わせられた。支那人のボーイは、主人の外国人の命令で、硬派の商品の運搬中に、逮捕せられ、水にぬらした皮の鞭の拷問や、でたらめな裁判で、死刑となることがどれだけあるか知れなかった。 幹太郎の一家は、自分で自分の血税を払っている組だ。彼は興奮せずにはいられなかった。若し、捕まった支那人のボーイと、それを使っていた外国人の主人とが、切っても切れない連絡があった確証が上がっても、外国人は、自分の国の領事館で裁判を受けるだけだった。ボーイが断罪となっても、主人は、自国人同志が、同胞愛で、罰金か、拘留か、説諭くらいですんじまう。中国人が、治外法権、領事裁判の撤廃を絶叫するのは、こんなところから原因していた。 女と百姓を取りまいている群集は、中津に注意された兵士達に依って追っぱらわれてしまった。女は、墓地へかつがれて行く夫の屍体のあとにつづいた。彼女は、三番目の俥に積んできた棺に、夫の屍体をおさめることを頼んだが、地ティ方ファンに容れられなかった。 ﹁さあ、発車だ! 発車だ! おそくなっちゃった。﹂ 見物にまぎれこんでいた機関手は、その時、ほっと吐息をするように、彼を待っている汽車の方へ馳け出した﹇#﹁馳け出した﹂はママ﹈。発車時刻は、もう一時間もすぎていた。一〇
領事館と支那官憲の疑問の眼が竹三郎の身辺に光っていた。 銃を持ち、剣をさげた第七区警察署の巡警は、歩哨のように、アカシヤの並木道の辻に立って、彼の裏門に出入する人間を見張っていた。夜間の、闇にまぎれて、こっそりと麻酔薬を買いに来る人間を見張っているのだ。 ふと、俊は、それに注意をひかれた。彼女は、よち〳〵の一郎の手を引いて、石畳の上を隣の馬マク貫ワン之シの家から出てきていた。 ﹁あれは、何故、あんなところに立ってるんでしょう?﹂俊は、巡警の方へ、頸を長くして、馬貫之の細君にたずねた。彼女は、はじめて気がついたのだ。 ﹁あら、猪川さん、まだご存じなかったんですか?﹂と、纏足の若い細君は答えた。これは、隣同志で、非常に仲よくしていた。細君は、一寸、云いにくげに、舌の根を縺もつらした。﹁もう、あいつ、五日も前から毎晩立ってるんですよ。あんたの家、用心なさいね。﹂ ﹁一体、どうするって云うんでしょう?﹂ ﹁買マイ々〳〵を見張っているのよ。丸ワン子ズを買いに来る人を見張っているのよ。﹂と細君は、弱々しげな吐息をついた。﹁立っていて、丸子を買いに来させまいとしているのよ。﹂ 俊は、自分の家の商売を、馬貫之の細君の前に恥じて、頸まで真紅になってしまった。彼女は、一郎を抱き上げて家の中へ走はせこんだ。竹三郎は磨いた煙エン槍チャンをくわえて、赤毛布の上に横たわり、酒アル精コールランプを眺めながら、恍惚状態に這入ろうとしていた。来訪の諱五路の骨董屋と、母が話相手をしていた。骨董屋は、今朝、戦線へ出動した山東兵が、雨傘を持ったり、石油罐の一方をくり抜いて太い針金を通したバケツをさげていた、と笑っていた。 ﹁あいつ、ぬしとの番人にもならねえんだぞ。﹂ 俊の報知は、母には恐怖をもたらした。骨董屋には、別の違ったものをもたらした。 ﹁裏からやって来る人間は咎めたって、泥棒にゃ、見て見ん振りをしていら。﹂ ﹁でも泥棒の方で、ちっとは遠慮するでしょう。﹂ 母は恐怖を取りつくろった。 ﹁馬鹿云っちゃいけねえ。あんな奴が居たっていなくたって、同じこったくらい泥棒はちゃんと心得ていますよ。経験で。﹂ 巡警は、人が出入をするのは、暗くて見分けのつかない夜間だと睨んでいた。昼間は立たなかった。ところが、商売は昼間のうちにすんじまった。 宵から、夜ふけまで夜ッぴて立ちつくして、獲物は一匹もあがらなかった。しかし、獲物があがらないということは巡警の疑念を晴らす足しにはちっともならなかった。 昼間、竹三郎は、天秤と、乳鉢と乳棒を出して仕事をした。昼間なら安心していられた。第三号に、いろ〳〵なものをまぜて、丸子を作る。匙を持つ手は、ヘロ中の結果、ニコチン中毒のひどい奴より、もっとひどくブル〳〵ふるえた。手と同時に、椅子にかけた脚もブル〳〵ふるえていた。隣家の、観音開きの戸口からは、馬貫之の細君が、歯がすえるヴァイオリンのような歌を唄うのがひびいてきた。 慄える手に握られた彼の乳棒も、歯をすやすように、がじがじと気味悪く乳鉢の面へいめんにすれていた。 ﹁ヘロが一本三千円、……ヘロが一本三千円……﹂ 乳棒は、丸い乳鉢の中をがじ〳〵まわりながら、こう呟いている。竹三郎にはそんな気がした。﹁ヘロが一本三千円、ヘロが一本三千円……﹂これは変になった彼の頭の加減だった。 支那靴の足音がした。俊がさかさまにひっくりかえったような叫声をだした。竹三郎がうしろへ向くと、平服の身体のはばが広い支那人が立っていた。かくす暇も、何もなかった。 ﹁それゃ何だね?﹂ 支那人の大タア褂コア児ルの下では、剣ががちりと鳴った。どっか顔に見覚えのある巡警だった。 ﹁それゃ何だね?﹂ 竹三郎は、すくみ上がるように憐憫を乞う、哀しい眼つきでこの支那人を眺めていた。 ﹁そいつは何だね? どら、こっちへよこせ! すっかり貰って行くんだから。……もっと〳〵まだまだかくしとるんだろう。出せ! すっかり出しちまえ!﹂ 竹三郎はヘロ中と恐怖で二重にふるえた。椅子が地べたへ崩折れそうだった。 そこへ又、もう一人、小柄な大褂児の支那人が、ひょこひょこッと這入って来た。様子で、相棒であることが云わずとも知れた。支那人の大きな手は、かしゃくなしに、乳鉢を掴みにきた。 ﹁ちょっと、待って! ちょっと待って!﹂ うしろから、わく〳〵しながら眺めていたお仙は、何を云うともなく支那語をくりかえして隣室へ立った。彼女は、机の引き出しから一円銀貨を掴んできた。 ﹁請チン悠ニン等トン一イホ会イ児ル。﹂ そして、彼女はおど〳〵しながら、二人の大褂児の袖の下へ、その大タア洋ヤンを入れてやった。俊は蒼白になってしまった父と母を見ていた。巡警は、大褂児へ手をやって、母が入れたものをさぐっていた。 ﹁たったこれっぱちか!……。もう二元よこせい! もう二元!﹂ おどかしつける声だった。母は、哀れげな父を見た。昔、村会議員の収賄を摘発しようとした彼の眼が、今は、もう、全く無力な、濁ったものとなってしまっていた。巡警は、二度の要求が満たされると、掴み上げた乳鉢を、またもとへ戻した。そして﹁シェ、シェ﹂と帰って行った。 竹三郎は胸をなでおろした。 この日から彼は、たび〳〵、味をしめた巡警等に襲われるようになった。少しずつ買いに来るヘロ者からかき集めた金は、右から左へ巡警が持ち去った。 彼の顔色は、薬のために、ますます失われだした。手足の顫えは一層ひどく、はげしくなった。もう全然者となり了ってしまった。一日でも、ヘロインがなければ、彼は、時を過すことが出来なかった。一一
戦争について、不安な風説が、だんだん拡まって来た。 退却をつづけた張宗昌は、孫伝芳の部隊と協力して蒋介石にあたった。 どの兵営からも殆んど全部の部隊が戦線へ出はらってしまった。留守の兵営は、僅かな兵士に依って守られていた。 青黒い兵営から、布団や、床チャ篦ペイ子ズや、弾丸が持ち出された。そして、街で、金に換えられた。ホヤのすすけた豆ランプも、卓チオ子ズも、街へ持ち出された。 留守をまもる兵士のしわざだ。 彼等は、捲きあげて水をつる井戸の釣瓶や塀の棒杭や、茶碗や、茶壺を持ち出した。しまいに残ったのは、持って行く訳に行かない兵営の家だけになった。と、彼等は、その家についている、窓硝子や、床板をはずして街をホガホガ持ち歩きだした。そんな姿が、チラホラ見えた。――彼等の、いくさの強さはこれで分った。 竹三郎の家はすゞが帰ると、切り立ての生花をいけたように、清新になった。 ﹁青島には巡洋艦が一隻と、駆逐艦が四隻も碇泊してるのよ。銃をかついだ陸戦隊があがってたわ。ズドンと大砲をぶっぱなしたら、陰気くさい支那人が﹃デモだ﹄なんて云ってるのよ。﹂ すゞはこんな話をした。 一郎は、すゞを、親のように、﹁かあちゃん、かあちゃん。﹂ともとりかねる言葉でよんだ。 幹太郎は、今頃、とし子が居たならば! と考えるともなく、なつかしがった。とし子は、者の親爺や、その親爺を盲目的に尊敬する義母を、むきつけに、くさしていた。支那でなけりゃ、内地へ帰っちゃ、親爺もおふくろも、生存さえ出来ない。廃人だ。とし子に云わすとそうだった。――その両親がよくくさされていたことさえ、彼には、今は、なつかしいものに思いかえされた。 すゞは、口に出して云いはしなかったが、こんな彼の心持を諒解していた。彼女は、そのために、嫂にもう一度もとへ戻って貰うのではなく、兄をえらくして、﹁これ見たか!﹂と、とし子を見かえしてやりたい、そんな気持を抱いていた。彼女が親爺の嫌な仕事を懸命で助けるのも、そんなところからきていた。その心持が、又、幹太郎に分った。彼は、自分は、所謂、えらくなりたい希望など全然持たないことを妹に納得させる必要があると考えた。殊に、ヘロインを売って、無茶な金を取ろうなどとは思ってもいないことを示す必要があると考えた。 だが、二人の兄妹の気持は、不幸に際してよく起るように、しっくりと一つに合っていた。すゞは二十だった。そして妹の俊は十七だった。俊は、まだ、汚いものが美しく見える、なんでもないことが面白、おかしくってたまらない――そんな年頃だった。二人とも、その体内には、健康で清純な血液の循環を妨げる一つの病菌も、一ツの傷もないように見えた。 着物の着かたや、髪の結び方や、断片的な方言まじりの話しっ振りの中に、まだ、内地の匂いが多分に匂っていた。それは、ほかの、支那で産れ、支那に於ける日本人の学校で育った娘と比較すればすぐ分かった。 すゞが帰ると、間もなく、青島で彼女を貰い受けるため骨折った中津が、足繁く出入りするようになった。バクチ打ちで、のんだくれで、味方にしても、こっちの懐におかまいなしに食い荒されて厄介だし、敵にまわせばなお怖い、どんなことをやり出されるか分からない男が中津だ。 彼は日露戦争でびっこになっていた。歩くとき、身体全体がヒョク〳〵した。目立たない、ジミったれた風彩をしていた。新しいドンスの支那服でも中津が着ると、ホコリにまみれて汚れているように見える。 何故、こんな男に睨みがきくのか、幹太郎は、一寸解せなかった。彼は、土匪にさらわれた日本人の※ホウ票ヒョウ﹇#﹁女+邦﹂、U+2A976、209-上-1﹈︵金を取るために捕えて行く人質︶を取りかえして来たことも一度や二度できかない。敵に対する残忍なやり方では、多くの話種を持っていた。 幹太郎の二人の妹は、中津が帰ると、チンバ、チンバと、おかしそうに笑いながら、家の中をぴん〳〵はねとんだ。 中津が外から声をかけて門のかんぬきをボーイの王ワン錦チン華ファにはずさして、中庭の飛び石を、ひょこひょこやって来る時、窓からそれを見て、やはり、チンバ、チンバと、ぴんぴんはねて笑った。中津は、それをきいても、にこ〳〵していた。 ﹁ねえ、おじちゃん、どうしてそんな脚でいくらでも人を斬ったり、はつッたりすることが出来るの?﹂ とうとうある日、俊は相手の気持を損じやしないか、顔色を見い見い、茶目らしい話しッぷりで切り出した。 ﹁斬るんはこの脚じゃねえぞ、ピストルも刀も、この手だ。この手が使うんだ。﹂ だぶ〳〵の支那服の袖から、太短かい指を持った毛深い腕がのぞいていた。 ﹁だって、おじさんのようにひょこ〳〵歩いていた日にゃ、斬るんだって、うつんだって人が逃げッちまうんじゃないの?﹂ 俊の声は、なごやかに笑いを含んでいた。が、眼は、犬に立ちむかった瞬間の猫のように、緊張して相手の顔に注がれていた。 ﹁なあに、これだって、いざとなりゃ、お前なんぞよりゃ早いんだぞ。﹂ ﹁そう。――おじさん。どこで怪我をしたん?﹂ ﹁どこだって――それゃ、もう遠い遠い昔だ。お前らまだ、親爺さんの睾丸の中に這入っとった時分だよ。﹂ ある時は、山寨の馬賊の仲間に這入り、ある時は、奉直戦争に加わり、又、ある時はハルピンの郊外に出没して、ロシア人の家を荒し、何人、人を殺したか数しれないこの不思議な、ゴロツキも、二人の妹には、おかしな、そして少し滑稽なおじさんにすぎなかった。 彼は、張宗昌と共に戦線をかけめぐったり、北京に赴いたり、何万元かの懸賞金が頸にブラさがっているその頸の番をしたりするほか、二人の娘を相手に辛気くさいカルタを取った。麻雀を教えてやった。支那語の一二三を何十回となく、馬鹿のように繰りかえした。 彼は、この家族の中に溢れている内地の匂いをなつかしがり、利己的にそれをむさぼっているかのように見えた。 妹が寝てしまって、父親と、おふくろと、彼と三人きりになった。幹太郎は云い出した。 ﹁長さんは、どうしても、おかしいな。――すゞに気があるんですよ。……それから、お俊にも一寸気がある。﹂ ﹁馬鹿。﹂竹三郎は風を吹くように笑った。﹁中津は、俺と同い年だから、もう五十三になるんだぞ。それがたった、十七や八の小娘をどうするもんか。﹂ ﹁いや、いや。――這入って来てから帰るまで、あいつは、何もほかのものは見てやしませんよ。すゞと、俊ばっかし、顔に孔があく程見つめに見ているんですよ。――俺れゃ、ちゃんと知っとる。﹂ ﹁それには、私も気がついています。﹂母が内気に口を出した。 ﹁それ、そうでしょう。きっと、あいつ気があるんですよ。﹂ ﹁馬鹿、――五十三にもなって、人間が、自分の子供のような娘をどう思うもんか。﹂ ﹁でも、男は、年がよる程、若い娘がよくなるという話じゃありませんか。それに、あの人は、まだ独身者ですよ。﹂ ﹁馬鹿、馬鹿! 何てお前ら、邪推深いんだね。――中津は俺のえゝ朋輩だぞ。俺れゃ、あいつの気心をようくのみこんどる。あいつは、そんな義理にそむいた、見っともないことをやらかす男じゃないよ。﹂親爺は四五年前から中津を知っていた。 だが、幹太郎の疑問は誤っていなかった。 チンバがやって来ると、おかしがって、家の中をはねとんでいたすゞが、門の外から王ワンを呼ぶ中津の巾はばのある押しつけるような声に、耳の根まで真紅に染め、どこかへ逃げかくれだした。 中津の視線は、鋭く、燃えさかっていた。その視線に出会すと二十のすゞが堪えきれないばかりでなく、俊や、おふくろまでが、心臓をドキリと打たれた。 中津はひげ面のひげを青く剃り、稍や々やちゞれる癖のある、ほこりをかむった渦まける髪をきれいに梳くしけずって、油の臭いをプンプンさしていた。 終日家につかっていた。この馬賊上りの、殺人、強盗、強姦など、あらゆる罪悪を平気でやってのけた鬚づらの豪の者が、娘々したすゞに少なからず参っている有様は、実際不思議だった。彼は五十三の老人とは見えなかった。彼は、おぼこい二十歳の青年のように、少女の魅力に悩まされ切っているところがあった。 ある朝、馬マク貫アン之シの犬の﹃白ぺい白ぺい﹄が火のついたように吠えた。 幹太郎は、それで眼をさました。すゞが起きかけたようだった。 犬は燃えるようなやかましさで吠えつゞけていた。暫くしてすゞは窓をあけに立った。と、緊張した足どりで、兄の枕頭へかえってきた。 ﹁また、たアくさん、領事館から来ているよ。﹂ 彼女の声には、真剣さがあった。そして、どっかへ身をかくしてしまい度たそうだった。幹太郎は、はね起きた。 周囲は、厳重に領事館警察署員等に依って取りまかれていた。 家の中は、ゴミ箱をごったかえすように、掻きまわされた。 今度は、主人の竹三郎が封印をするばかりにした﹁快クワ上イシ快ャンクワイ﹂の一と箱と、乳鉢、天秤等と共に、引っぱって行かれてしまった。 間もなく、中津は、張宗昌のいる宿州へ向って出発した。 戦線のひっぱくは、彼をして内部に思いなやんでいることを打ちあけるひまを与えなかった。 彼は、夜行の汽車で出発した。一二
日没後、なお、一と時は、物が白く明るく見える、生暖い晩だ。 昼の雑ざっ鬧とうと黄色い灰のようなほこりはよう〳〵おさまった。 無数にうろついていた乞食の群れが闇に姿を消した。※ヤオ子ズ﹇#﹁穴かんむり/缶﹂、U+7A91、211-上-16﹈の家と家との間では、耳輪をチラ〳〵させた女が、奇怪な微笑を始めだした。 山崎は、その家と家の間から出てきた。彼は、いつもの黒い支那服と違って、鼠色の、S大学の学生服を着こんでいた。生暖い街は潤うるおいを帯びて見えた。不安と険悪さは夜になる程ひどくなった。それを恐れないのは、マアタイにくるまった乞食だけだ。 山崎の眼は、何かを、しびれを切らして待ちもうけているもののように、いら〳〵していた。 街をもぐり歩いている陳チン長チャ財ンツァイが、まだ帰ってこないのだ。 せいぜい徐州か臨城まで押しかけて来れば大出来だ、と高をくゝっていた北伐軍が、もう袞こん州しゅうを陥れ、泰安へ迫っていた。 防戦の張宗昌は、宿州から、徐州、臨城、袞州へと退却をつゞけた。宿州の激戦に依る負傷兵は、その儘まま、戦場に遺棄された。のみならず、前線から手足まといとなってついてきた他の負傷者達も、そこで、急ぐ退却の犠牲となって、片ッぱしから生埋めにされてしまった。 臨城では、彼は、なだれのように退却する部下の将校をピストルで射殺した。 山東兵は、南は、北伐軍に圧迫された。北の退路は、張督弁にふさがれていた。で、立往生をした。その一部は、やむを得ず途中で脇道にそれ、高峻な泰山を踏み越し、明水や郭店を通って、住みなれた都市へ逃げこんで来た。他の一部は蒋介石に投降した。 北伐軍の威勢が案外にあがるのは、金があるからだ。山崎は、総商会が蒋介石に金を出したという福フー隆ルン火ホサ柴イコ公ン司スのレポが嘘だったのを、最近たしかめた。金を出したのは、米国のある実業家だ。それによって、その金額によって、蒋介石が北京までのりこみ得ることがチャンと測定されてしまった。 文化的に支那侵略を企てゝいる米国は、到るところに教会、学校、病院、を設立した。欺瞞的な慈善事業を行った。贈物を持ってきた。庚こう子しあ賠んか款んを放棄した。そして支那人を手なずけた。 俺れは希ギリ臘シャ人が怖い、たとえやつらが、どれだけ贈物を持ってきたって、俺れゃ希臘人が怖い。ローマ人でない支那人にとっては、その希臘人は亜米利加人じゃないか! と山崎は考えた。 それを、支那人は、贈物に乗せられているのだ。これが、すべて、日本に、どんな意味を持つか、勿論山崎は知ちし悉つしていた。 ﹁済チヒ南ナンは、実に天下の要衝である。陸は南北の中間に位置し、海には、渤海の南半を抑制し、一呼して立てば、天津、北京の形勢を扼することが出来る。河らんか上流の地を北京の背面とすれば、済南は、実に、その前面、腹部にあたるの観がある。而して、青チン島タオへの沿線には、坊子、博山、川るせん、章邱等に約十八億トンの石炭が埋蔵されている。又、西二百数十哩の地には、山西の大炭田があり、全亜細亜蔵炭量の約八割に当る六千八百億トンの石炭と、無尽蔵とも言うべき鉄が死蔵されている。日本が今後、鉄と石炭との需給において独立せんとするならば、山東炭の価値を無視するを許さぬと共に、更に、山西大炭田の世界的価値を逸するを得ないだろう。﹂︵﹁日本と山東の特殊関係﹂十九頁︶ 山崎は、勿論、こういうことを知っていた。 ﹁満蒙の特殊利益は、日本が高価なる犠牲を払い、巨額の資金を投下して開拓したるものである。飽くまでこれを擁護する必要がある。ある場合、山東を放棄するとも、満蒙の特殊利益は、最後まで保持せねばならない。満蒙は先であり、山東は後である。満蒙のためには国力を賭しても争わねばならぬが、山東は、或る程度まで忍ぶも已むを得ない。かゝる議論をなすものがある。勿論、満蒙の天地が広大であり、その利害が広汎であり、その全局の得失は極めて重大である。しかし、広東に起りたる支那の民族革命、共産主義者の潜航運動は、今や完全に中部支那を浸潤し、北部及び満洲にも、その魔手をのばさんとする状態にある。山東は満蒙の障壁として、又、重大なる価値を有するものである。山東ありて、満蒙も安全たり得るのである。況んや山東が、その地理的優越に於て、その軍需的価値に於て、その黄河流域無限の富庫を後方地帯に抱容する点に於て、我等は国防上、国民生活上、永久にこれを勢力圏中より逸し去ることは出来ない。米国資本家の如きは、早くも黄河の氾濫地帯が棉花栽培に適することに着目し、調査の歩を進めている。もし、この地に棉産を得るとせば、日本は米国より棉花の輸入を仰がずとも済む時節が来るかもしれない。日本にして、山東の主人公たる優越的地位を失うならば、日本は将来、鉄と石炭との独立を全うすることが出来ない。のみならず、日本は北支那より退却し、退たい嬰えい自じく屈つの政策の下に、国運の日に淪りん落らくに傾くことを如何ともなし能わざるに至るであろう。支那大陸広しと雖も、我が経済的勢力の絶対に支配する地域は、満蒙を除けば山東あるのみである。日本は過去十余年間、巨額の資本と高貴なる犠牲︵日独戦争︶を払いて、山東の資源を開発し、現に邦人の投資額約一億五千万円に達する。我等は、我が同胞が、粒粒辛苦の余に開拓したる経済的基礎を擁護し、発展し、確保することは、当然と云わねばならぬ。﹂︵同上書三十一頁より三十二頁︶ 山崎は、勿論、こういうことは知り悉つくしていた。そこへのアメリカの策動が、どんな意味を持っているか、それは日本人なら、云わずとも、すぐ神経にピリッと来る筈だ。 彼は、同僚を出し抜こうと野心した。 こういうことは、もう本になって出ていることだ。誰れにでもしれ渡っていることだ。しかし、この土地に於ける、もっと具体的な事実については誰れも知る者がなかった。そして、それが重要なことだ。 彼は、最近中津から手に入れた支那人の陳チン長チャ財ンツァイを使って、そこへもぐりこもうと計画していた。一三
夜は暗くなってきた。 人の通りは疎まばらになった。 しかし、この星がきらきら瞬いている夜空の下の一角で、騒がしい乱が行われている。その騒音がどこからともなく、空気を泳いで伝わって来た。 山崎は、アカシヤの葉がのび、白い藤のような花がなまめかしく匂う通りを、気慌ぜわしげに往き来した。彼は、不機嫌だった。不機嫌なのは、一緒に出かける筈の陳がまだ帰ってこないからだ。 アカシヤの樹の下には、カギをつけた長い竹竿で、子供達が、白い藤のような花を薄暗い街燈にすかして、もぎ取ろうと肩が凝るほど首を上に向けきっていた。その子供達は、よう〳〵垂れだした花を昼間から、夜にかけてあさっていた。彼等は、その花をむしり取って食べるのだ。 枝がカギにひっかけられて、ポキンと折れていた。 ﹁枝まで、折っちまっちゃア、駄目じゃないか!﹂ ひもじい子供たちは、花を食って、おなかをこしらえる。 ﹁お、おい、山崎︵しゃき︶さん!﹂ 幾分びっくりした叫声に、ほかのことを考えていた山崎は、ぎくっとした。洋車をとめると、福フー隆ルン火ホサ柴イの小山がおりてきた。工場内で、工人を慄えあがらし、えらばっている小山は、通りへ出ると顎が落ちて、燐くさく、芯が頼りなげに、ひょろ〳〵していた。 ﹁山東軍は散々な敗北でしゅよ。﹂小山は、サシスセソがはっきり云えなかった。骨こつ壊え疽そで義歯を支えていた犬歯が抜け落ち、下顎の門歯がとれてしまったのだ。﹁あの勇敢なコシャック騎兵までが逃げてきまひた。﹂ 他人事でないという小山の意気込み方である。 ﹁この様子では、これゃ、どうしゅたって、共産主義がこっちまでやってきましゅぞ。﹂真に大事だという話し振りで、﹁早よ、内地へ軍隊をくり出しゅように云ってやって貰わなけゃ、財産︵しゃん︶や工場だけじゃない、頭やチンポまで引きちぎられてしゅまいますぞ!﹂ ﹁ロシヤ兵は、今、退却してきたんですか?﹂ ﹁ええ、ええ、やっぱし、︵しがうまく云えなかった︶郭店の方から、歩いてやって来たんだ。あんまり馬を馳はしらせしゅぎたもんだから、半分は、馬が途中で斃たおれてしゅまったんだそうだ。――今、やって来ましゅよ。これゃ、どうも、こんな風じゃ、どこかで、だいぶ蒋介石に尻押しをしてる奴があるんだな。わしゃ、どうも、そう睨む。﹂ ﹁今夜中に、さぐっちまって、電報を打たなけゃ、ほかの奴等に先を越されるんだ!﹂﹁陳は、何をしてやがるんだろう。﹂彼はいらいらした。﹁もう、どうしたって、今夜中だ。明日の晩となれば、おそい。誰か、外の奴にしてやられちまう。﹂ 状勢がひっ迫するに従って、五六人の彼の同僚が、方々から、ここをめがけてはいりこんできていた。 二馬マ路ル通りに、乱れた、元気のない、跛をひくような蹄ひづめの音がひびいた。跛の数は多い。 ﹁そら、やってきだひた。やってきだひた。﹂ と、小山は云った。そして音響のくる方へ歩きだした。 やがて、何分間かたつと、せいのひくい、毛並のきたない、支那馬にまたがった白露兵がぐったりして、長靴を、地上に引きずりそうに、だらりと垂れて、薄暗い街燈の光の中に姿を現わした。 ﹁こいつら、支那兵よりゃ、よっぽど強い手あいなんだがなア。﹂ 小山は惜しげに云った。 馬を乗り斃してしまった連中は、跛を引きながら、脚をひきずっていた。それは、とぎれ、とぎれに、遠く、駅前通りの方にまでつゞいていた。途中でどっかへまぎれこんでしまった者もあると云う。 月給の不渡りと、食糧の欠乏と、張宗昌の無理強いの戦闘に、却って戦意を失ってしまった。彼等は、泰山を越して逃げ帰った連中だ。そのうちの一部だ。塩を喰わされた蛭ひるのようだった。へと〳〵で、考えることも、観察することも、軍刀を握りしめる力もすっかり失って、たゞ惰性的に歩いている。立ち止まったら、もう、そのまゝそこでへたばってしまいそうだ。 ﹁こいつらは、支那兵よりゃ、よっぽど強い手あいなんだがなア。﹂小山は繰りかえした。﹁あいつらが逃げて来るようじゃ、こゝが陥落するのも、もう時間の問題だ。﹂ その時、向う側のアカシヤの並木の通りで、ブローニングの音が一発して、誰れかが、乱雑な白露兵の列を横切って、こちらへとぶように走り出してきた。つゞいて、もう一発、銃声がした。山崎と、小山は、思わず立止まって、はっとした。逃げる男が二人の方へ突進してくる。従って銃口も二人が立っている方向へむけられている。と、瞬間に感じた。 疲ひは憊いしきった白露兵は、銃声にも無関心だった。振りむきもしなかった。 突進して来る男は、すぐ二人の前に来た。山崎は、眼のさきへ来た時、それが、陳チン長チャ財ンツァイだと気づいた。 ﹁なに、まご〳〵してるんだ。馬鹿野郎!﹂彼は、いまいましげに怒鳴った。 ﹁何をしてやがったんだい、今までも!﹂ が陳は、敏捷に山崎の前をとびぬけて、猿のように、家と家との間の狭い、暗いろじへもぐりこんでしまった。 ﹁馬鹿野郎! 本当に仕様のない奴だ! 畜生!﹂ ﹁知ってる奴でしゅか?﹂ 小山は訊いた。 ﹁あいつですか、あいつは、手におえん奴ですよ。使ってる奴ですがね、滑稽な奴で、二時間もどっかでぐず〳〵してやがって……﹂ 陳長財は、現在、山崎にとって、ごく必要な人物だった。彼は、もと、上海の碼はと頭ば苦クリ力ーだったという話である。中津が、青島から帰りに、周村でつれてきて、呉れてよこした男だ。 中津は陳を呼んで、魚心があれば水心だ。それ相当のむくいをしてやる。が、俺れと、俺れの兄弟を裏切るような行為をしくさったくらいにゃ、生かしては置かないぞ。お前だけじゃない、お母アをも生かしちゃ置かないから、と数言を費した。 ﹁こいつは昨日まで南軍の密偵をつとめたかと思うと、今日は、早や、こっちへ寝がえりを打つような奴なんだから﹇#﹁奴なんだから﹂は底本では﹁奴なんだからら﹂﹈。﹂と、中津は、山崎に注意した。﹁ちびり〳〵しか金をやらないのに限るんだ。前金でも渡したら、もう、手にとれなくなっちまうぞ。君が、しょっちゅう、こいつをキュウキュウさしとく必要があるんだ。﹂ それから、又、 ﹁こいつの云うことを、まるきり信用してかゝっちゃ駄目だよ。――それゃ、云うまでもないこっちゃが、支那人は金にさえなると思ったら、どんなありそうなことでもねつ造して持って来る奴なんだから。﹂ ﹁うむ、分ってる、分ってる。﹂と、山崎は答えた。 陳は、独逸から送った武器の送り状とか、それを荷役している現場の写真、弾薬を受取った受取り、など、そんな重要な証拠物件を、どこからか手に入れていた。云いつけると、外交部から交付される筈の、外国へのパスポートまで、ちゃんと、印まで間違いのない印を捺おして拵こさえてきた。だから、日本でパスポートがおりない者でも、ここで、支那人に化けて、支那の名前をつけさえすれば、陳の手でロシヤへのだって作ることができた。間違いのない筆で、領事館の裏書までしてあった。面白い。 ﹁また、やってるな!﹂ 山崎と歩いていると、ふと、見知らぬ男が、陳に、にやにや笑いかけて行きすぎることがある。一日に、二人や三人は、そんなえたいの知れない奴に出会した。この男は、どんなところへでも頸を突きこんでいるらしかった。 ﹁今のは何者だい。﹂ ﹁あれですか、なに、あいつは、ジャンクに乗ってた時、一緒に働いてた船方でがすよ。あれで、今なか〳〵金をしこたまこしらえてるんでがすよ。﹂ ﹁貴様、しょっちゅう知り合いに出会すが、一体、こゝだけに何人知り合いがあるんだい?﹂ ﹁僅かしかありゃしねえでがすよ、顔を知っとる奴なら、三百人もありますべえか。﹂ ﹁馬鹿野郎! 三百人が僅かかい……﹂ こいつほど、人の懐ふと中ころを見抜くことに機敏な奴はなかった。スリよりも機敏だった。その点、山崎自身も警戒してかゝらなければならなかった。支那で金を多額に懐中していることは、ズドンとやられる機会を、より多く持つことだ。 陳は、蒋介石の北上と共に、だん〳〵はいりこんで来た南軍の密偵と、便衣隊について調べるため街に出かけたのだ。そこで、金を持っている人間から、金をくすねようとして、やりそこなったのか、それとも、便衣隊にあんまりひつこくつきまとって、あやしく思われ、発砲されたのか、今、不意に逃げ出して来たのだ。一四
約、二時間の後、二人は、城東のS大学へ洋車を走らしていた。 その大学は、日本軍と、南軍の衝突の際、盛んに活躍した便衣隊の本拠となったところである。日本の兵士は、その便衣隊に、さんざんなやまされた。それは、パルチザンと同じだった。彼等はすきをうかがって躍り出したかと思うと、すぐ安全な地帯へ逃げこんでしまった。 三千人の将卒が、総がかりで、その便衣隊を追っかけまわした。しかし、一人をも本当の奴を捕まえることが出来なかった。 彼等は、普通の良民と、同じような服装をしていた。兵士には、支那人なら、どれもこれも同じように見えた。安全地帯はアメリカ人の学校だった。 山崎は、陳から、そうらしいという話をきいた。そして、その便衣隊の巣へ這入りこんで見とどけよう、と決心した。陳長財の報告は、七割まではあてにならない。しかし、これだけは、本当だ、という直観が山崎にした。彼は、それを確実に突きとめて、今夜中に電報を送ろうと思った。それが出来れば彼は、儕せい輩はいを出し抜ける。それからもう一ツ、言葉も、服装も、趣味も、支那人と寸分違わない。彼は、どこへ行ったって、バレる気づかいがない。と思っていた。それを、確実に試験して、自信をつけて置きたかった。 それから、なおもう一ツ、こういう際どい芸当は、彼には、むしろ快楽となる。――これは、一生のうちの、俺の自慢話の種の一つとなるに相違ない、と彼は思った。 敵の陣地へ、しかも、はしっこい、便衣隊の本拠へ乗りこんで行く。これは一生のうちの、誇るに足る、業績の一つとなるに違いない! 俺の一生は、まだこれからだ。まだ〳〵これから、本当の仕事をやるんだ。人間は、三十代になっても、四十代になっても、なお、未来に期待をかけているものである。が、山崎は、この時、生涯に於て、今、本当の実の入った仕事をやっているのだ。未来ではない、現在だ! と感じた。 陳長財は、射撃されたいきさつを説明した。それから、 ﹁こんな暴ぼう虎こひ馮ょう河がの曲芸は、やめとく方が利口じゃないでがすか。﹂と、止めた。﹁今度ア、なかなか奴らの威勢がいいんですよ。﹂ ﹁いや、俺れゃ、行くんだ。﹂と、山崎はきっぱり云った。﹁洋車を呼べ。奴らの威勢がよけりゃよい程こっちは、行ってたしかめてこなけゃならんじゃないか。﹂ ﹁ズドンと一発やられたあとで、来なけゃよかったと、後悔したって、もう追っつかねえでがすよ。﹂ ﹁分ってる!﹂ ﹁わっしゃ、命がけでやる仕事であるからにゃ、ウンとこさ金がほしいなア。目くされ金じゃ、のっけから真平だ。﹂ ﹁金は、いくらでも出すと云ってるじゃないか。うまく行きさえすりゃ。﹂ 山崎は、さっきから学生服に着かえていた。陳も学生服を着た。 礫こいしの多い、凸凹のところどころ崖崩れのある変な道で、洋車は歩くよりも遅くしか進まなくなった。二人は車をおりた。平生は、淋しい、大学に近い郊外の闇の中に、何か動く人の気配が感じられた。 ﹁大丈夫かね。﹂陳は囁いた。 山崎は、自分でちっとも怖いとは思わなかった。それだのに、脚がひどく力がなく萎なえこんだ。脚だけがどうしたのか、つい、五六間も歩いたら、へたばりやしないか、彼は、それを危ぶんだ。 ﹁呀ヤソ怎ンモ着チョ了ラ、!︵おい、どうしていたい。……︶﹂ ひょっと、狭い道を向うからすれ交るとたんに、人かげが声をかけた。が、中途で、人違いだと気づいたらしく、言葉を切って、疑い深げにあとを見かえした。 ﹁蠢チュ東ント西ンシ! ︵馬鹿野郎!︶﹂陳長財は、振りかえりもせずに呶鳴った。 道の附近の、身の丈ほどの灌木の繁っているところにも、なお人が、動いている気がした。夜気がいくらか寒くなったようだ。 第一校舎の脇を通りぬけた。向うのアカシヤの植えこみに包まれた鈎かぎ型の第三、第四校舎の間で、焚火が見えた。若芽が伸びたアカシヤの葉末は、焚火に紅く染っていた。 ﹁怖かないかね?﹂いざという場合には、自分の方が、一枚うわ手だと確信している陳長財は、冷かすように囁いた。﹁馬鹿! いらんことを喋っちゃいかん!﹂ 山崎は真面目に叱った。と同時に、アカシヤの幹と幹との間で、﹁誰れだ、そこへ来るんは?﹂という支那語の声がした。 手にピストルを握っている有様が、遠くで燃え上った焚火にすけて見えた。 用心してやがるんだな。相手がやり出せば、やぶれかぶれだ、畜生! と考えて、山崎は腰のブローニングに手をやった。 ﹁タフト先生はいらっしゃるかね?﹂ 陳はやはり歩きながら訊ねた。顔をたしかめるため、黒い影はアカシヤの間から、近づいて来た。 ﹁君は誰れだ?﹂と影は云った。 ﹁師範部の学生だ。﹂ ﹁名前は?﹂ ﹁先生に、今夜、お伺いする約束がしてあるんだ。﹂山崎は横から支那語で呶鳴った。﹁学生が学校へ這入って行くんが、何故に文句があるんだい!﹂ 歩哨小屋のような門鑑の前をぬけて、柵をめぐらした校内に這入ると、彼は、陳長財のかげにかくれて、焚火からは見えないように、一歩ほどあとにおくれた。 陳は、この便衣隊の巣へ乗りこみながら、ちっとも恐れたり、取りつくろったりする様子がなかった。 二人は宿舎の方へ進んだ。こいつ、南軍の奴と何か連絡を持ってるんじゃないかな。ふと、山崎は陳を疑った。金を出せば何でも喋るが、まさかの場合は、向うへつく。そういう奴じゃないかな。 いくつも、いくつもの、適当に区切られた真暗の部屋の中に挾まれて、一つだけ電気のついたのがあった。支那語の話がもれていた。 二人は、窓の下を通って、暗い廊下へ曲った。反対側に出ると、その部屋の、入口は開けはなたれていた。鉄砲をガチャ〳〵鳴らしたり、弾た丸まを数えたりする音が聞えた。明らかに大学生ではない。黒服の支那人が、室内で、左の肘を水平に曲げ、拳銃をその上にすえて、ねらって撃つ真似をしていた。 その男は、ガチッと引ひき鉄がねを引いた。 ﹁命中!﹂ が、弾丸が這入っていないと見えて発射はしなかった。 ﹁おや、こんな、ロシヤの弾丸がまじっていやがら――こいつのさきは、両方とも尖っているんだぞ。﹂ 弾丸を数えている奴が笑い出した。 ﹁ロシヤは腹背に敵を受けとるからだべ。﹂ 彼等は、入口に立っている陳と山崎に気づくと、ふと口を噤つぐんで、訝いぶかしげに、二人を見すえた。 ﹁呀ヤ! 吃チワ晩ンフ飯ァン了ラ! ︵いよう、今晩は。︶﹂ つとめて気軽く、山崎は部屋の中へ一歩踏みこんだ。その時、彼は、陳が、黒服の支那人と眼でお互いに笑い合ったような気がした。 隅の暗いところで武器をいじっていた、いな頭の若い男は、彼の声をきゝつけて、わざ〳〵ほかの者の前に来て、じっとこっちの顔を見た。 ﹁諸君は、どっちからやって来たんだね。……上海の方は大変景気がいゝって話じゃないか。本当かね。﹂ 誰も、何とも答えなかった。お互いに、何かもの云うような眼で顔を見合って、黙っていた。山崎は、あまり話が上わずッていたと、また後悔しながら、心臓に押しよせる血の高鳴りを聞いた。 部屋の中には、約二十挺の鉄砲と、箱に這入った拳銃が古靴を積重ねた傍に置いてある。一方の白い壁には、日本と朝鮮の地図を両足に踏んだ田中義一が、悪魔のような爪の伸びた長い手で、満洲、蒙古、山東地方を一掴みに掴みとろうとするポスターが、二枚つゞけて貼りつけてある。 ﹁中ツン国ゴレ人ン、不ブチ斉シ心ン、日リベ本ンク鬼イ、逞チン野ケエ心シン。﹂ 傍にはこう書いてある。 もう一方の窓の上の壁には、人民から強奪、強姦して国を売る張作霖の漫画と、共産党とソヴェートロシアを、﹁共産賊党﹂﹁赤色帝国主義﹂と称しているポスターが、電燈の陰影の背後に、ボンヤリと並んでいた。これは、上海あたりで、既に、たび〳〵見受けたものだ。 米国は、こっちの野心を、もう、穿うがちすぎるほど穿っているんだ。ポスターを見て、山崎は感じた。 満洲、蒙古、山東地方は、こっちが取らなけゃ、かわりに米国がそれを取るんだ。アメリカ人は、労働賃銀が動物なみで、原料がいくらでも得られる、殆んど組織がない支那へ眼をつけている。大工場、大銀行を持ってこようとしている。支那人すべてを、賃銀奴隷としてしまおうとしている。 ﹁こんなにおそく、女郎買いにでもさそいに来たんか。﹂一人のせいの低い滑稽な顔をした支那人が、眼尻を下げて笑った。 山崎は、こっちからも笑いでそれに答えながら、陳長財に、どうだタフト先生の方へまわって見るかね、と言葉をかけた。すると、 ﹁タフト先生、タフト先生!﹂と、髪を長くのばした若い一人が繰りかえした。﹁お前さん達、タフト先生に用事があるんかね。﹂ ﹁今夜、お伺いする約束がしてあるんだ。﹂ 山崎は、ためらい〳〵語をつゞけた。 ﹁ふむ、む。おっつけ先生は二階からおりていらっしゃる時分だよ。﹂ ﹁そうかね、それじゃ丁度いゝところへ来た訳だな。﹂ 彼は、うますぎる支那語の口が辷って、心にもない、反対のことを喋ってしまった。彼はタフトを知らなかった。タフトにこの場へやってこられるのは一番困ることだ。 陳は、そこの支那人と並んで、腰かけに腰かけ、南京から何人くらい一緒にやって来たか、今夜はなお、あとから何人くらい来る見込みか、月給はいくら貰っているか、そんなことをたずねだした。 山崎は、前チェ門ンメ牌ンパイ︵煙草の名︶を出してマッチをすった。――こいつが一本燃えつきてしまったら引きあげよう。彼は心できめた。前門牌が一本なくなるのは五分間だ。その間なら、タフトはまだやって来ない気が彼にはした。煙草一本を安全時間ときめる根拠は、全く迷信から来ていた。しかし、一度それをきめると、それを実行した。山崎はそんな人間だった。 彼は、自分の煙草に火をつけると、口を切った前門牌の袋をそこに居る者達の前に出してすゝめたが、陳以外、誰も貰おうとする者がなかった。髪の長いさっきの男は、じっと、彼のつまさきから、頭の髪まで丹念に、ちびる程執拗に睨めながら、もう一度、タフト先生に、どんな用事かときゝ直した。 山崎は、敵意を持たれていると感じながら、日本の出兵に及んでいた陳長財の話に耳を奪われているものゝように、吸いこんだ煙を、そこにはき出して話のつゞきをとった。いくら日本軍がやって来たって、今度の北伐軍の前には、牛車に向かうとうろうだよ、と笑った。 ﹁あの鬼は、どこへやって来たって、人を食わずにゃ帰らねえや。﹂いな頭の若い奴が憎々しげに口を出した。 ﹁いや、あの……︵鬼がと云おうとしたが、流石に自分を鬼とは云えなかった︶日本軍が強いのは、正服を着た軍隊に対した時だけだよ。平常服の俺等にゃ、いくら日本軍でも手が出せめえ。﹂と山崎は訊ねるようにつゞけた。誰れも疑わしげに同意しなかった。 煙草はだん〳〵残り少なくなって来た。何気なげに、笑ったり喋ったりする一方、彼の耳は、しょっちゅう、廊下のタフトがやって来る靴音に向って、病的に働いた。支那人がばた〳〵歩いて来る音にも、彼は、とび上りそうだ。 ﹁さあ、もう、引きあげよう。﹂五分ぶ程になった煙草を、足のさきでもみ消しながら考えた。 陳は、声をひそめて、蒋介石が、アメリカから二千万円貰ったことに、話を引っぱって行った。今度は、独逸人の軍事顧問ばかりで、日本人には、見学さえ許していないそうだが、本当か、アメリカは、北伐軍には、もっと金を出す腹じゃないか、二千万円は、貧乏たれの日本人ならともかく、アメリカにしちゃケチくさいじゃないか、など話しはじめた。 暗い隅の方へよって行った三四人が、何か不審げに囁きだした。 山崎は、自分が疑われているばかりでなく、正体を見破られた、と思った。彼は、もう陳が、話を打ち切るか、打ち切るか、と、一分間を十時間ほどに長く感じながら入口に行った。 彼は暗い廊下の足音に耳を傾けた。遠く、二階から、梯子段をおりて来る靴の音がした。陳はまだ、可お笑かしげに、呵々と笑ったり、喋ったりしている。靴は、どうも、こっちへやってくるらしい。 彼は、殆んど何も考えるひまもなしに、たゞ陳に何か云って、廊下へ出た。十秒間に、十五間ほどを、曲り角まで足が宙をとんでやってきた。そこで彼は立止った。陳は、出てくる気配がなかった。 山崎は、支那人に追っかけられる。と、予期しつゝ、なお、しばらく、様子をうかゞった。陳は、親しげに、おかしそうに笑いながら、とうとう出て来た。つゞいて、支那人が、どや〳〵と崩れ出て来た。彼は、ハッとした。どっかで爆音が起った。 五秒の後、それは、武器を積んだトラックが、校庭に着いたのだと知れた。 焚火にあたっていた者どもや、部屋にいた連中が、車からおろされる武器をかつぎこんだ。 陳と山崎は、暗い夜露のおりた芝生の上に立ってそれを見ていた。タフトらしい、せいの高い、鼻筋の通った、アメリカ人が支那語を使って何か指図をしていた。 武器は大型のトラックに、一ぱい積込んできていた。 ﹁おい、おい、張り番はもういゝ。大丈夫だ。お前らも来て手伝ってくれ。﹂ ふと、鼻の高い男が、学生服の二人を見つけて声をかけた。 ﹁はい。﹂ 咄嗟に、気軽く陳はとび出て行った。 その恰好を、山崎はおかしく、くつ〳〵笑いながら、自分は、小さくなって、うしろの方へ引きさがった。 ﹁これゃ、どっちにしろ戦争だ!﹂彼は、帰りがけに、陳に囁いた。﹁だが、今夜こそ、俺れゃ、お前に感謝するぞ。これで、すっかり手柄を立てることが出来た……何んて、気しょくのいいこっだろう!﹂ ﹁金のこたア、忘れやすまいねえ?﹂ 陳は、興ざめて冷静だった。 ﹁うむ、いゝいゝ、忘れるもんか。きっとむくいるよ。だが、どっちにしろ、これゃ戦争にならずにゃいないぞ……﹂そして、彼は考えた。﹁これは、南軍と日本軍との戦争じゃない。これは、日本とアメリカの戦争だ。﹂一五
ここは、早晩、陥落するものときめられた。 いわゆる﹃粒々辛苦の末に開拓した経済的基礎﹄が、水泡に帰するだろう。家も、安楽椅子も、飾つきの卓も、蓄音機も、骨董や、金庫も、すべて、ナラズ者の南兵の掠奪に蹂じゅ躪うりんされてしまうだろうと居留民たちは考えさせられた。残虐な共産系が南兵には多数まじっている。良民を串刺しにし、道々墓を発あばいているという流言が飛んだ。 停車場は、持てるだけ荷物をかゝえこんだ青島への避難者でごった返した。 七ツか八ツの少年が、自分の身体もその中に這入ってしまいそうな、大きい、トランクを持たされていた。妊娠の婦人は、その腹よりも、もっとふくらんだ二ツ折の柳やな行ぎご李うりを、支那人のボーイに、一箇は肩にかつがし、一箇は片手に提げさして、肩で息を切らし乍ながらやって来た。箱や袋を山のように積み上げた、土豪劣紳の馬車は、あとからあとからつゞいて馳せつける。 物価は、社会の動きを、詳細に反映した。 彼等の動揺と、街の状態は物価によって、明らかに物語られた。十元に対して、金票十二円三十銭の相場を持続していた交通銀行と、中国銀行の大タイ洋ヤン紙幣が、がた落ちに落ちた。八円から、七円、五円になり、ついには、外国人は︵日本人も含めて︶支那紙幣を受取らなくなってしまった。張宗昌系の山東省銀行はつぶれた。拳銃、金、銀、金票、食料品、馬車、自動車賃は、どんどん昇あがった。一挺の拳銃を八百五十八円で売買したものさえある。高価な椅子や卓や鏡や、絹織物が、誰れからも、一顧も与えられなくなってしまった。 同時に、社会の動揺は、無数の労働者達の行動の上にも反映した。工場労働者も――男工も、女工も、――街頭の苦力も、三四万の乞食も、監督の鞭とピストルに恐れなくなった。銃と剣を持った巡警は、案か山ゝ子しだ。 工場主は、︵どの工場でも︶僅かに賃銀不払いの戦術を持続することによって、工人達をつなぎとめていた。それが、やっとだった。工人達は怠業状態に這入った。 便衣隊と前後して、共産党員が市内にもぐりこんだ。――という風説がやかましくなった。工人に武器を配附して暴動を企てゝいるといううわさが立った。 工場主が勝手にきめた規則も、命令も、テンデ問題にされなかった。 工人達には、こういう時こそ、彼等の偉力を発揮するのに、好都合な条件がひとりでに備わってくる。そう感じられた。 マッチ工場の工人達は、もう怺こらえられるだけ怺えた。辛抱が出来る範囲以上に辛抱した。 ある夕方、五人の代表者があげられた。給料の即時、全額支払を要求した。 王ワン洪コウ吉チもその代表者となった。頭の下げっぷりの悪い、ひねくれた于ユイ立リソ嶺ンも代表者となった。王はお産をした妻からも、老母からも、その後、便りがなかった。 便りがないことは、なおさら彼を不安にした。 工人達は長いこと、馬鹿にせられ踏みつけられた。 幾人か、幾十人かが最も猛烈な黄燐の毒を受けて、下顎を腐らしてしまった。 七ツか八ツの幼年工は一年たらずのうちに軟らかい肉体を腐らしてしまった。 そして、給料だけで、おっぽり出された。 十元か八元で、売買人から買い取られた子供は、給料さえ取れなかった。 彼等は働いた。 働いて、親をも妻をもかつえさせなければならなかった。 彼等は、去勢された牡牛のように、鞭を恐れた。 だが、いつまでも鞭を恐れることは、永久に奴隷となることだ。 親の家を恋しがっていた少年工は、一文の給料も取らないまゝ、ある夜、暗に乗じて逃走した。永久に買い取られてしまった子供は、逃げて行く家も、何もなかった。寄宿舎の方で涙ぐんで淋しげに黙っていた。 王洪吉ら五人は、夕方、おずおずと、事務所へ這入った。 給料はどうでもこうでも取らなけゃならなかった。それは当然だ! 会計係の岩井と、社員の小山は﹁何だい!﹂と頭から拒絶した。彼等は、はげしい喰ってかゝりあいを演じた。支配人は、工人が給料に未練を残して、逃亡もしない。受取るまでは、諂へつらうように仕事に精を出す。――平生の見方をかえなかった。 支那人は、命よりも、金の方が大事なんだ。金をくれさえすりゃ、頸でもやるんだ。彼の考え方はこれだった。 五人の代表者は、引きあげた。二棟の寄宿舎は、険悪なけしきに満ちた。そこではまた、会議が始められた。 工人は、不ふて逞いなむほんをたくらみ︵小山の言葉をそのまま用うれば︶にかゝった。宿舎からは、工人の金属的な、激昂した声が、やかましく事務所の方へもれて行った。 ﹁何を、がい〳〵騒いどるんじゃ?﹂ 様子をさぐりにやった社宅のボーイが戻ると、小山は、ボーイまでが癪に障ってたまらないものゝように、呶鳴った。 ﹁賃銀、呉れないなら、呉れない、いゝと云います。﹂八年間、日本人に使われて、日本語が喋れる劉リュウは、自分が悪いことをしたようにおど〳〵した。 ﹁それで、どうしゅるだい?﹂ ﹁それで、呉れない。――呉れない、工人、考えあると云います。﹂工人達は暴力によって工場を占領し、管理しようと計画していた。製品を売って、月給は、その中から取る。日本人は門から叩き出してしまう。支那人のくせに日本人をかばう巡警は叩き殺して呉れる! ﹁馬鹿をぬかしゅな!﹂ 小山は呶鳴りつけた。劉は、びく〳〵した。 ﹁なまけて、何もしゅくさらんとて、工場から飯を食わしゅてやっとるんだ。――嬶や、親が、かつえるなんて、あいつら、生大根でも、人参の尻ッポでもかじっとりゃいいんじゃないか! 乞食のような生活をしゅとるくせに、威張りやがって!﹂ 賃銀を渡せば工人は逃げる心配があった。そして、あとに、熟練工の代りはない。 手下をなだめるためには、喋れるだけの言葉を喋りつくした把バト頭ウの李リラ蘭ン圃プは引きあげて来た。 ﹁これゃ、どうしても駄目です。どうしたって手のつけようがありません。﹂と李は云った。﹁半分だけでも、払うてやっていたゞくんですな。そうでもしないと、収拾のしようがありません。奴等も、この頃は、時節柄現金でなけりゃ、何一つ買うことも出来ねえそうですから。﹂ ﹁畜生! 貴様も、奴等と、ぐるになっとるんだろう。﹂ ﹁小山さん、誤解せられちゃ困ります。﹂李はいそいで遮った。﹁誤解せられちゃ困ります!﹂ ﹁しやがれ! しやがれ!﹂と、小山は呶鳴った。 ﹁生意気なことをぬかしゅと承知がならんぞ! しやがれ!﹂ 彼は壁にかけられた拳銃を頼もしげにかえり見た。 支配人は、どんなことになっても仕様がない、と決心した。いざとなれば武器に頼るばかりだ。社宅の女房や子供達は晩の十一時すぎに、あわてゝ、自動車でKS倶楽部へぬけ出した。 工人達は、本能的に団結した。暴動に移るけはいは多分に加わった。 街は、南軍の侵入と、掠奪、破壊ばかりでない。北軍がこゝを棄てゝ退却する行きがけの駄賃に、どんなひどいことをやるかわからない。 平生から、掠奪、強姦を仕事のようにやっていた彼等である。今度こそ、あとは、シリ喰え観音だ。思う存分なことをやらかして行くだろう。 外国人は、たまに自分の国の人間の顔を見ると、それだけに心強いような気持になった。 彼等は、国と言葉を同じゅうしている関係から、この騒乱の中にあって、どんな困難にむかっても、どんな襲撃にむかっても、自分達は力を合して、堪えて行かなければならない。彼等は同胞というセンティメンタルな封建的な感情に誘惑された。﹁あゝ、早く、あの、カーキ色の軍服を着た兵隊さんが来て呉れるといゝんだがなア!﹂とひとしくそれを希ねがった。彼等は単純に、軍隊が何のために、又、誰のために、やって来るかは考えなかった。軍隊がやって来さえすれば、自分達を窮境から救い出して呉れると思っていた。 下旬になった。 軍隊は到着しだした。 汗と革具の匂いをプンとさしていた。一人だけ離れ島に取り残されたように心細くなっていた居留民は、なつかしさをかくすことが出来なかった。なによりも、内地から来たての、訛なまりのある日本語がなつかしかった。 二十六日、未明に、ある一ツの聯隊は、駅に着いた。 深い霧がかゝっていた。 濃厚な朱や青に塗りこくられた支那家屋、ほこりをかむったさま〴〵の、ずらりと並んだ露天店、トンキョウな声で叫んでいる支那人、それらのものは、闇と霧にさえぎられて見分けられなかった。悩ましげに春を刺戟する、アカシヤの花が霧を通して、そこらの空気に、くん〳〵と匂っている。 兵士達は、駅前の広場で叉さじ銃ゅうして背嚢をおろした。営舎がきめられるのを待った。彼等は、既に、内地にいる時よりも、言葉も、行動も、気性自身が、荒ッぽく殺気立っていた。 ﹁宇吉ツぁん。﹂ 無数の小さい日の丸の旗を持って、出迎えている、人々の中から一人の女が、ふいに一等卒の柿本の前にとび出した。中年の歯を黒く染めた女だった。彼女は、柿本の腰にすがりついて、わッと泣き出した。……﹁宇吉ツぁん! よう来てくれたのう、宇吉ツぁん!……﹂ ﹁中ン条のおばさんじゃないか?﹂ちょっと一等卒は上官をはゞかって当惑げな顔をした。が、やがて云った。 ﹁お、お、お……﹂その女は、嬉しさと、感激がこみ上げてくるものゝように声をあげて泣いた。﹁……お前さんが来て呉れたんか。……お、お、お……これで私わつッしらも助かろうわい。お、お、お……﹂ この感情は、露わに表現しないにしろ、迎えに出揃った居留民達のどの胸にも、浸潤しているところのものだった。 兵士達が焚き火を始めた。その焔が、ぱッと燃え上った。柿本は、自分の膝に崩折れかゝったこの婦人の蒼ざめて、憔悴した、骨ばった顔を見た。やはり、同村の、見覚えのある、顔の輪郭だけは残っていた。このおばさんがどれだけ恐怖と、心労に、やつれきっているか。彼は昔の、村に於ける顔を思い起しながら考えた。この婦人は、彼からは、従姉の又、又の従姉にあたった。年は、おばさんと呼んでいゝだけ違っていた。村では、殆んど親戚のうちに這入らないような親戚だ。しかし、こゝでは、彼も、このおばさんに、近々しい肉親に対するようなケチくさい感情が湧いて来た。 婦人の方では、彼を、もっと、それ以上に感じていた。 ﹁どうじゃろう、私等は別条ないんだろうか?﹂と、女はきいた。 ﹁大丈夫だ。俺等の師団が、一箇師団やって来るんだ。これこんなに弾薬も持たされとるし、︵彼はずっしりした弾薬盒をゆすぶって見せた。︶剣は、切れるように、刃がついとんだ。﹂ ﹁お、お、お……﹂ 婦人はまた声をあげて、嬉しさとなつかしさをかくそうとせずに泣いた。 兵士達には部署がきめられた。部隊は別れ別れになった。一部は、蛋たん粉ぷん工場へ向けられた。一部は福フー隆ルン火ホサ柴イコ公ン司スへ向けられた。一部は正金銀行へ向けられた。 銃をかつぎ、列伍を組んで、彼等はそれぞれ部隊長に指揮されながら、自分の部署へむかって行進した。 多くの居留民達は、自分達の家とは反対の方向へ列をなして去って行く軍隊を、なつかしげに、いつまでも立って見送っていた。子供達は嬉しげに旗を振りながら、あとにつゞいた。 だが、おとなの居留民達は、出兵請求の決議にかけずりまわり、一ツ一ツ印を集め、懇願書を出して、折角やってきて貰ったなつかしい兵士が、自分達のちっぽけな家とはかけ離れた、工場や銀行の守備に赴くのを、はたして、ペテンにひっかゝったように、憤いきどおろしく、意外に感じなかっただろうか?一六
三時間の後、工場は、堅固な土嚢塁と、鉄条網と、拒きょ馬ばによって、武装されてしまった。 機関銃が据えつけられた。カーキ服が番をしている。 黄色の軽はく土は、ポカ〳〵と掘り起された。 大陸のかくしゃくたる太陽は、市街をも、人間をも、工場をも、すべてを高くから一目でじり〳〵睨みつけていた。細い、土ほこりが立つ。火事場の暑さだ。 上衣を取った兵士の襦袢は、油汗が背に地図を画いた。土ほこりはその上に黄黒くたまった。じゃり〳〵する。 ﹁のろくさと、営所に居るように油を取ってはいけない! これは正真正銘の戦時だぞ。﹂重藤中尉が六角になった眼をじろじろさしてまわった。﹁おい、そこで腰骨をのばして居るんは誰だッ!﹂ 一方で掘りかえされる黄土は、他の兵士達の手によって、麻マア袋タイに、つめられる。 兵士は顔を洗うひまもなかった。頑丈な、蟇がまのような靴をぬいで、むせる足を空気にあてるひまもなかった。部署につくと同時に作業は初まった。 黄土にふくらんだ、麻袋は、工場の前へ、はこばれる。一ツ一ツ積み重ねられる。見るまに土嚢塁が出来上ってしまった。五分間の休憩もなかった。 別の一隊は、どこからか徴発して来た丸太を打ちこんで、土嚢塁の外側へ、四重に鉄条網を張りめぐらした。 街路には、もっと太い丸太を組み合して、拒馬を作った。鉄条網は、工場の周囲から、遠くの街路に添い、街路を横切ってのびて行く、S銀行には、丸い、瓦斯タンクのような歩哨の土嚢塁が築かれた。 製粉工場も、福隆火柴公司も、土嚢塁と鉄条網と、武装した兵士によって護衛された。 支配人の内川は、中隊長や、中隊附将校にお上手を使った。営々として作業をつゞける兵士たちの方にもやって来た。作業の邪魔をしながら、軍隊でなければならんと思っている、その意思を兵士達に伝えようと骨折った。 次は、周囲の範囲を拡大した区域の守備工事だ。土嚢は作るそばから、塀のように、又、別の箇所へ積み重ねられる。いくら作っても足りない。警戒巡視に出る人員がきめられる。歩哨がきめられる。当番卒がきめられる。炊事当番がきめられる。不寝番がきめられる。 ﹁おやッ、俺の上衣を知らねえか?﹂ 柿本の組で作業していた上川が、猫のようにアカシヤの叉またにかけられた他ひ人との軍衣をひっくりかえして歩き出した。巡邏隊の一人として呼ばれた男だ。黄土のほこりに襦袢が、カーキ色に変ってしまっていた。アカシヤの枝から、アカシヤの枝を、汚れた汗と土の顔を上にむけて、やけくそにたずねだした。無い。兵士が揃うのを待っている引率の軍曹はさん〴〵に毒づいた。 上川は、一度しらべた他人の被服記号をもう一度、汚れた手でひねくった。 ﹁誰れか俺れのやつを間違って着とるんじゃないんか。﹂ますますいらいらした。負け惜みを云う。 ﹁どこにぬいだったんだい? ぼんやりすな。﹂ ﹁どこちゅうことがあるかい。ここだい。﹂ ﹁ボヤッとしとるからだ。今に生命までがかッぱらわれてしまうぞ。戦地にゃ物に代りはねえんだぞ。﹂ つるはしを振るっている連中は、腰が痛くてたまらない。土は深くなれば深くなる程、掘るのは困難だった。中尉や、中隊長や、特曹が作業を見ッぱっている。麻袋につめる連中があとから追ッかける。 ﹁どうしたんですか。何か紛な失くしたんですか?﹂支配人が、騒ぎの方へ、ちょかちょかと馳せてきた。 ﹁上衣が見ッからねえんですよ。多分、誰かゞ間違って着たんだ。俺の名前が書いてあるのに。﹂強しいて作ったような、意気地のない笑いを浮べた。中隊長は聞いて、聞かぬらしく苦々していた。 ﹁チャンコロめ、かっぱらって行きやがったんじゃないんですかな。﹂と内川は云った。﹁さっき、このあたりで、ウロウロしていたじゃありませんか?﹂ なるほどと、はッとした。 ﹁ぼんやりすなよ。チャンコロに、来る早々から、軍衣をかッぱらわれたりして……そのざまはなんだ!﹂ ﹁なか〳〵あいつらは、油断がならんですからな。﹂支配人は云ってきかすように愉快げに笑った。 彼等は、到着した第一日から、支那人を殴る味を覚えてしまった。 貧民窟から、二人の支那人が引っぱって来られると、上川は、それによって、焦慮と、憤怒と、冷かされた鬱憤を慰めるものゝように、拳を振りあげて支那人に躍りかゝった。あとから、ほかの兵士達も、つゞいて二人の乞食の上に、なだれかゝった。殴ったり、踏んだり、蹴ったり、日本語で毒づいたり。しかし、いくら、どんなことをやったって、上川の軍衣は発見されなかった。 ここでも、早速、内地における軍隊生活と、同じ軍隊の生活は初められた。彼等の飯は彼等が炊たいた。部屋の掃除も、便所の掃除も、被服の手入れも、歩哨勤務も、警戒勤務も、すべて彼等がやった。初年兵と二年兵の区別は、いくらかすくなくなった。が、やはり存在した。兵卒と下士の区別、兵卒と将校の区別は、勿論厳として存在した。 ﹁寝ろ、寝ろ! 寝るが勝ちだ。﹂ マッチ工場の寄宿舎から、工人を他の一棟へ追いやって、そこの高コウ粱リャ稈ンかんのアンペラに毛布を拡げ、背嚢か、携帯天幕の巻いたやつを枕にして、横たわった。実に、長いこと、彼等は、眠るということをせず、いろ〳〵さま〴〵な作業を、記憶しきれない程やったもんだ。一週間も、もっと、それ以上も睡眠と忘却の時間を省いて労働と変転とを継続した気がした。十日間、いや、二十日間。 ﹁ここは、たゞ、家屋の広い適当なやつがほかにない関係上、泊るだけだから、﹂当直士官は、誠まことしやかな注意をした。﹁ここの、工場の支那人とは、あんまり接触してはいけない。殊に、マッチを箱に詰めるところや、職工の寄宿舎には、婦人もいるんだから、用事のないのに、そこへむやみに出入りしてはいけない。﹂ ﹁はいッ!﹂ ﹁それから、支那人の中には、よくない思想を抱いている奴があるかも知れない、それにも気を配って、大和魂を持っている吾々がそんな奴に赤化されては、勿論、いけない。そんなことがあっては日本軍人として面目がないぞ。﹂ ﹁はいッ!﹂ 兵士達は、靴もぬがず、軍服もぬがず巻脚絆も解かず、たゞ、背嚢の枕に頭を落すと、そのまゝ深淵に引きずりこまれるように、執拗な睡眠の誘惑に打ちまかされてしまった。一七
軍隊は、工場の寄宿舎の一と棟に泊まっただけだった。 職工には、何等干渉しなかった! それは坂東少尉が注意した通りだった。 隊長も、士官も、武士気かた質ぎを持っていた。軍人が労資の対立にちょっかいを入れることを潔いさぎよしとしなかった。 それにも拘らず、軍隊が到着した、その日から、工人の怠業状態は、鞭を見せられた馬のように、もとの道へ引き戻されてしまった。 監督と、把頭の威力は、以前に倍加した。 下顎骨が腐蝕し、胴ぐるみの咳をする小山は、自分の背後に控えている強大な勢力を頼もしく意識した。その意識は、棍棒の暴威を、三倍も四倍にも力づけた。 把頭の李リラ蘭ン圃プは、平ひら工人よりは、一日に二十三銭だけ、よけいに内川からめぐんで貰っている。それだけの理由で、この支那人は、自分が日本人であるかのように、カーキ色の軍隊が、自分の保護者となり、自分の勢力となり、自分の樫の棒に怨うらみを持つ、不逞の奴等や、回フイ々〳〵教徒を取りひしいで呉れるものと、一人ぎめにきめこんでいた。工人達をなだめたり、すかしたり、おどかしたりした。内川や小山のために、スパイの役目をつとめるのも彼だった。囮おとりの役目をつとめるのも彼だった。 兵士達は、工人のやることには、なんらの干渉をもしなかった。しないつもりだった。のみならず、工人を守った。そして、工場を守った。しかし、それでも工人は、軍隊に庇護される感じは受けずに、威嚇されるのだった。 兵士は守備区域の作業をつゞけた。街路には、縦横無尽に、蜘蛛の巣のような、鉄条網が張りめぐらされた。辻々には、ゴツゴツした拒馬が頑張った。 旅団司令部と、大隊本部の間は、急設電話によって連絡された。大隊本部と、歩哨線も、緊密に連絡された。兵士は、命令一下、直ちに武器を携えて、戦闘に応じ得る状態の下に置かれた。 辻々では歩哨が、装テンした銃を持って往き来する支那人を一人一人厳重に誰すい何かした。 僅か、一昼夜半の間に、市街は、すっかりその風ボウをかえてしまった。やにわに、平ふだ常ん着ぎの上へ甲胃をつけたように。 拒馬は、にょき〳〵とした二本の角を街路の真中に突ッぱっている。機関銃は、敏感な触角のように、土嚢塁の上に、腕をのばしている。工場も、塀も、社宅も、すべてが、いかめしい棘だらけの鉄によって庇護されている。 日本軍人の労働能率の高いことに眼を丸くしたのは、支那人だけじゃなかった。兵士達自身が、綿々と連続せる鉄条網と、万里の長城のような土塁を見かえして、われながら、自分の作業の結果にびっくりした。これが、支那兵を撃退するためと、ブルジョアの工場を、かためるために作られたとは云え、自分が拵えた器械を見て嬉しいように、嬉しかった。これが、俺れたちの工場を守るための武装だったらなア! 司令部の阪西大尉は、土嚢塁の出来上った成績を点検した。敵が押しよせて来る方向を考察した。完全無欠のものからも、なお、アラを探し出して一言せずにいられないのが阪西だ。完全、非の打ちどころのないものは、その完全であることが欠点となった。あまりに完成せるものは、完成せるが故に、それ以上発展性がないとの理由から。 ﹁こゝは、津しん浦ぽ線の界かい首しゅ駅から真一文字だ。まず、こゝへ、南軍が、全力をあげて殺到して来るものと見なければならん。﹂彼は、ほかの将校、下士を従えて南西角の土塁にまわって来た。﹁末永中尉、これで、こんなひはくな土嚢塁で、幾万の敵を支え得ると思うかね。千の敵をも支え得ると思うかね。どうだね?﹂ ﹁は。﹂ ﹁敵は、敵だ。向うから戦闘をいどんで来るものと見て差支ない。……よし、やり直し! この一倍半の高さと、二倍の幅と、三倍の長さと、倍の機関銃を要する。﹂ ﹁は。﹂ 西南角の土塁の彼方には、遙かに、草原と、黄土の上の青畑と、団どん栗ぐりや、楢や、アカシヤの点々たる林が展開していた。霞んで見える。いつも、ほっついている山羊の群れもなかった。――百姓が略奪を用心してかくしたんだろう。階級が一ツちがっていても、いいだくだくと、命令を聞かなければならないのが軍人だ。意見を開陳することは許されなかった。末永中尉は軍曹に命令した。軍曹は兵卒に命令した。土嚢塁は、四重の鉄条網をひッぺがしてやりかえられだした。 ﹁もっと、もっと、ここまでのばせ!﹂ 末永中尉は、やかまし屋の阪西の顔色を伺いながら、目じるしに、大地へ靴で疵きずをつけた。この一角を特別に堅牢にすれば、堅牢でない他の部分に敵の攻撃力は集中されるだろう。そして、そこが崩壊するのだ。と彼は考えていた。 ﹁土は、ここから取れッ! そのアカシヤは邪魔ものだ。折ッちまえ! チェッ! その拒馬は、こっちへ持って来る。﹂彼は、自分の考えは、おくびにも出さず、兵卒に指揮をつゞけた。﹁……もっと、もっと、円えん匙ぴと、つるはしを持って来い。出来ていないのはここだけだぞ! おそい! 振角伍長! そう、そんなことをしていないで!﹂ 青年訓練所を出た奴が、一年六カ月で、帰休になると喜んでいた。それが出兵で、帰休は無期延期だ。べそをかいた、その連中が、中尉の叱るような命令に、はい〳〵して、セッセと働いた。働き振りが目立った。 償勤兵の高取は苦笑をしていた。柿本は、普通にやった。 ﹁そうだ、この倉矢や、衣笠などの働き振りをみんな見習え! 十分鶴つる嘴はしに力を入れて!﹂特曹は、訓練所出の一群を指さした。﹁高取! もっとしッかり麻袋にドロをつめる!﹂ ﹁特務曹長殿! この袋の鼠の喰った穴はどうするんでありますか。藁を丸めてつめて置きましょうか?﹂ ﹁うむ、うむ、そうしろ。﹂ 口の曲った特務曹長は、同じ訓練所出の松下に、満足げに頷うなずいて見せた。 又、ほかのが、向うの方で、何か、ゴマすっていた。 それを、聞きのがさなかった高取は、苦笑を繰りかえしていた。︵見えすいている!︶ 一時間十五分の後、命令された通りの巨大な防禦設備が出来上った。これなら、鬼でも来ろだ。 兵士たちは、くた〳〵になって宿舎へかえった。ドロまみれの手も、鼻も、頸も洗えなかった。水がなかった。昼食喇叭が鳴り渡る。向うの蛋粉工場からも、呼応して鳴り渡る。 ﹁支那ちゅうところは、まだ四月だのに、もう七月のような陽気だなあ。……ああ、弱った弱った、暑いし、腹はぺこぺこになりやがるし。……﹂ 飯盒にわけられた、つめたい飯をかきこんだ。 ﹁どいつもこいつも、水筒が、みんなからっぽだな。――当番! おい、お湯はないんか? お湯はないんか?﹂ 炊事当番はシャツの上に胸掛前垂をあてゝ、テンテコまいをしていた。完全な炊事道具が揃っていない。 ﹁お湯だよ! おい、お湯だよ!﹂ ﹁お湯どころか、米を洗う水さえなくって困っとるんだ。﹂﹁チェッ! 飯がツマってのどを通らねえぞ、おいらをくたばらす気か。﹂ ﹁くたばらすも、ヘッタくれもあったもんかい!﹂ ﹁チャンコロは、お湯を売ってるね。薬罐一杯、イガズル――。﹂ 見て来た福井が話をした。 ﹁イガズルって、なんぼだい?﹂ ﹁そら、支那の一銭銅貨のようなやつ一ツさ、あれがイガズルだ。二厘五毛か、そこらだろう。﹂ ﹁お湯を売る――けちくさい商売があるもんだなア。﹂ 訓練所出の、上品ぶりたい倉矢が仰ぎょ山うさんげに笑った。 高取は、一方の壁の傍で苦り切っていた。ボロ〳〵剥げて落ちるような壁だ。製麺工場の玉田が、何故そんな面をしているのか訊ねた。 ﹁貴様、仕事がツライから癪に障っているんか? 虫食ったような顔をしやがって。﹂ ﹁そんなこっちゃないよ。あいつらが、仕様がねえ奴等なんだ。あの、衣笠や松下などのゴマすり連中め。﹂と、高取は、むッつり云った。﹁あんな奴等が多いから、支那人は、マッ裸にひきむかれるどころか、肝臓のキモまで掴み取られるんだ。﹂ ﹁あいつらか、うむ。……あいつらは、女の腐れみたいな野郎さ。﹂ ﹁さんざん、工場主や、地主に搾られて居りながら、それでもなお、ペコ〳〵頭をさげて、尾を振らずにゃいられねえ奴隷だよ。あんな奴等は。﹂高取は、そばの、助平の西崎をもかえり見た。初はつ物もの食いで、同一の女郎を二度と買った、ためしがないという男だ。 ﹁あんな奴等が一番困りものなんだ。さんざん、ブルジョアから酷使され、搾られ、苦しめられる。それでも、憎むことも、反抗することも知らねえんだ。おべっかを使って、落ちこぼれをめぐんで貰おうと心がけている手あいだ。﹂ ﹁それは、そやけど、ま、ま、ええやないか。あいつらのゴマすりは、今日に始まったこっちゃないやないか。﹂西崎は卑猥に笑った。 ﹁西崎! 貴様も、あいつらの仲間に這入れ! それが似合ってら!﹂ 高取の腕からは、頑固な拳がとび出しそうになった。 ﹁そやないよ、そやないよ。ここで、そんなに、おこらんかてええやないか。……そら、衣笠の面相を見ろ、ぬれマラのようやないか。そら、ほんまに、ぬれマラのようやないか。﹂ 西崎は、話のたがをはずしてしまった。むしゃむしゃと向うの入口の方で、こちらの話には気がつかず、鑵肉をつついている厚唇の衣笠は、本当に、ぬれマラという感じだった。玉田は笑った。西崎の助平は有名なものだった。おかしいヒョウキンな奴だ。 彼は、支那へ来たからには、チャンピーの味をみたいと望んでいた。それは、来る前からの望みだった。作業中にも、纏足の前がみをたらした、褐色や紫の支那服を着た女が通ると、そッとそれをぬすみ見た。手や脚が、とてもきゃしゃだった。 工場の函詰の女工にも彼の心はひかれた。 それは、美しくはなかった。ホコリと、煙と、燐に汚れていた。しかし、それは、日本人とは、どこかちがっていた。ちがった何ものかを持っていた。 ちがったものが彼に刺戟となった。 ﹁何かやってるぞ、おい、工場の奴が、何かやってるぞ。﹂ 飯を食って暫らく休んでいた。一人が、削った軸木を乾してある附近の騒ぎに目をとめた。工人が、思いきったいじめ方をされている。 ﹁リンチだ、リンチだ!﹂ 内ない所しょごとのように柿本が声をひくめた。 ﹁なに?﹂ ﹁リンチだ、リンチだよ!﹂ 于ユイ立リソ嶺ンという、肩の怒った、皮肉な顔つきの工人が、二人の把頭の腕の下で、頸をしめられた雄鶏のように、ねじられて、片足は、しきりに空を蹴っていた。 ﹁監督が、爪の裏へ針をつき刺しているんだ。﹂ 貝形の爪が、指さきの肉と、しっかり膠こう着ちゃくしている。その肉と爪の間へ、木綿針をつきさしている。小指からはじめて、薬指、中指、人さし指に針をつきさゝれていた。二本の手は動かせないように、二人の把頭によって、しっかりと脇の下にからみつけられていた。 工場の騒音をつんざいて、う――うッと唸る声がする。兵士達は、自分の生なま爪づめをもがれるように身慄いした。 于立嶺は、平生から社員に睨まれていた。頭のさげッぷりが悪かった。監督や、把頭が何か云っても、ふゝんと、うそぶいている。そんな男だった。それで殊に小山から睨まれていた。 高取は、蛋粉工場においても、工人達が兵士の威嚇を受けて、すくみ上っているのを知っていた。そこでも社員のリンチが行われた。兵士達はそれを見た。そして、そういう私刑をやるのなら、工場の守備は御免を蒙る、と云い出した。 その蛋粉工場の中隊は、内地でも有名な中隊だった。日清戦争にも、日露戦争にも全滅した歴史を持っていた。毎年、二、三カ月で、現役から、おっぽりかえされるシュギ者が不思議にも、二人か三人這入って来る。工場の社員が、軍隊を笠に着て、工人を虐待する心理を読むと、その中隊の兵士達は承知しなかった。 ――そうだ、ここの奴等も、俺達を笠に着てやがるんだ。と高取は思った。くそッ! 人を馬鹿にしてやがら! ﹁貴様、このあいだの、賃銀をよこせと云ってきた時のように威張ってみろ!﹂と小山は呶鳴っていた。 ﹁何だ、ひいひい泣きやがって、もう一度、あの晩のような、横柄な口を利いてみろ!﹂ ﹁うむ、支那じゃ、職工を殴り殺すやつもあるときいとったが、やっぱりむちゃくちゃにやるんだな。﹂ 兵士は恐ろしいものに近づくように、ぼつぼつ、ぼつぼつと、軸木を拡げた蓆の間を縫って、現場へ近づいた。彼等は、ビンタを殴ったり、殴られたりはしたことがある。しかし、爪に針をつき刺すのは、見るのも今が始めてだ。錆びた針が、爪の根の白い三日月にまでつきさゝった。紫ずんだ血が、半透明の爪の下に、にじんでいた。 ﹁こんな奴にちやほやする青二才があるから、のさばりやがるんだ。︵これは幹太郎へのあてつけだ。︶貴様、共産党の手さきであろうが!――工場が占領出来るんなら、占領して見ろ!……こらッ! もう一度、あの晩のような口はばったいことを、ぬかして見ろ!﹂ 小山は近づいてくる兵士達が、自分のうしろ楯だてだと意識した。 怒りにゆがんだ彼の顔が、兵士たちの方へは、一寸、にこりとほころびた。 が、于ユイに向っては、すぐもとの通りにひきゆがんだ。 職場で、工人達は、水を打ったようにしんとなって、耳を澄まし、仕事をつゞけていた。器械の動く騒音だけはつづいていた。 ある者は、軸列機を動かす手を休めて、そッと、社員に発見されないように、窓のかげから、小山が、于のもう一方の拇おや指ゆびに針を突き刺すのを見つめていた。やはり、それを見ている、気の弱い少年工は、自分が刺されるような気がして、顔をそむけた。 ﹁貴様ッ、まだ、ふてぶてしくかまえていやがるんか!――李、今度は、濡ぬれ皮かわ鞭むちだ、濡皮鞭を持って来い!﹂ 小山のかんかん声がひゞいた。 ノホホンをきめこんで、作業をつゞけていた工人までが、今度は、はッとした。手をとめ、お互いに顔を見合わした。于立嶺が、代表者の一人となって、賃銀支払の要求を突きつけた、そのかたきを打たれている。彼等は、それを知っていた。同時に、于、一人に、リンチを加えるだけでなく、工人全体をも嚇かしている意味を知っていた。――兵タイさえ、居なけゃ、俺等が、みんなが立ってやるんだ! と、心で泣いている者もあった。 ﹁どうです、もう、いいかげんでよしてはどうです。﹂ と、見ている兵士の柿本が云った。 工人達は、小山の骨ばった手に握られた濡皮鞭を見て、裸体にひンむかれて、筋肉がぼろぼろにちぎれるほどしぶきをあげられる、場面を眼の裏に描いた。 警察の拷問によくある場面だ。 于の悲鳴と、小山の噛みつける声がも一度した。濡皮鞭が、物体に巻きついた。ピシリ。ピシリ。切れるような音だ。 その時、豪放な、荒っぽい兵士がとび出した。 ﹁よしやがれ! コン畜生! 出来そこないめ!﹂ 兵士は、小山の病的な横ッ面を張りとばした。濡皮鞭を持った小山の骨ばかりの手は、たくましい兵士の腕で、さかさまに、ねじ曲げられた。 ﹁俺等が来とると思って、工人をひどいめにあわしやがったくらいにゃ、承知しねえぞ! ヒョットコ野郎奴!﹂ 小山は、あっけにとられた。 ﹁叩き殺してくれるぞ。ヒョットコ野郎奴!﹂ 兵士は高取だった。一八
後発部隊が到着した。寄宿舎は狭くなった。 ベッドもなく、藁蒲団もなく、床の上に毛布をのばして、ごった寝にねた。高粱稈のアンペラが破れかけていた。下から南京虫がごそ〳〵と這い出してくる。 南京虫は、恐らく、硫黄や、黄燐くさい、栄養不良な工人の病的な肌の代りに、どうしたのか急に、汗と脂あぶ肪らぎった溌剌たる皮膚があるのを感じて、いぶかしげな顔をしただろう。 高取は、あとからきた者達と、暫くあわずにいた。その間の行程を、おたがいに話しあった。 彼等は、門司から御用船に乗る際、同様にビラを拾っていた。それを胸のポケットへ、畳んで、お守りのように大事に、しのばしている者もあった。 ﹁俺等が桟橋通りを歩いていたら、天からビラの雨が降ってくるじゃねえか。﹂と彼は笑った。 ﹁上を向いたら、なんだ、組合の安川が窓から頸を出して、引っこめよう、としとるところだよ。――しっかりやって来い! と呼ぶから、どんなに、しっかりやるんだい! と云ってやったら、しっかり、あっちの連中と手を握って来い! とおらんでるんだよ。﹂ のんきに、高らかな声を出した。 傍へ特務曹長がきかゝった。誰かを呼びに来た。彼は﹁しっかり、チャンピーと手を握って行くかな。﹂ と大声で、又笑った。 無意識に破れかけのアンペラのはしを、ひきむしる彼の手は、マメだらけで、板のようにかたくなっていた。 ﹁工藤は、とうとう、船の中で片づけられちまったよ。﹂尻眼で特曹に気を配りながら、木谷が囁いた。 ﹁一人で意気まいたって駄目だからと、止めたんだがね、あいつ、多血質だから、きかないんだ。﹂ ﹁今度は、なかなか労働組合や、俺等の反対に敏感になっている。﹂高取がしめつけられるように声をひくめた。﹁日独戦争や、シベリア出兵時代とは、時代が違うからね。俺等もブルジョアの手先に使われてたまるかい、くらいなこたア知ってるが、ブルジョアもまた、俺等の出兵反対に敏感になってる。三月十五日の検挙はやる、四月十日の左翼の三団体の解散は喰らわす。それから出兵。何から何まですべてが、ブルジョアの方が、はるかに用意周到で組織的じゃないか。﹂ ﹁どんな障害を押しのけても、まっさきにここは占領しなけりゃならんと思ってるんだな。﹂ ﹁そうだよ、そうだよ、支那を取るためにそう思ってるんだよ。﹂ ﹁しかし、俺等は、俺等として出来るだけサボって邪魔をしてやるさ。鉄砲をうてと云われたって、みんなうたねえんだな。﹂ だが、彼等は、まだ、自分たちの支配者を憎み、出兵に反対していたが、皆なが同じ一つの意見を持っているのではなかった。 この現在の持場において俺等が、今すぐ、一箇師団を内地へ引き上げさし、支那から手を引かすことは、なし得ない。出来ない相談だ。しかし俺等は、俺等として仕事がある。如何に、軍隊が、俺等の目あてに反することに使われていようが、それだからと云って軍務を放棄してはいけない。俺等は、俺等が、本当に生れ出る日のために、市街戦を習っておくのだ。装甲自動車の操り方を習っておくのだ。その日のために戦うのだ。 木谷は、小声で語った。高取は、半分頷き、半分かぶりを振った。 ﹁その日のためにか。それはいゝ。しかし、君はいつも気が長いぞ。しかし、現在、吾々の眼前で、吾々の手で叩きつぶされつゝある支那の労働者はどうするか?﹂ 二人は、入営前まで、同じ工場で働いていた。木谷は、几きち帳ょう面めんで、根気強い活溌な性質がとくをして、上等兵になっていた。 高取は一年間の勤めを了えて、二年兵になったその日に、歩哨に立っている場所を離れて鶩あひるを追っかけまわした。そして軍法会議にまわされた。 彼は、夕暮れに、迷まい児ごとなった遅鈍な鶩を、剣をつけた銃で突き殺そうとした。そして、追っかけた。 練兵場から、古いお城の麓の柴山の中にまで、五町ほど、鶩を追って、追いこんでしまった。鶩は、ぶさいくな水かきのある脚を、破れるばかりにかわして、ひょくひょくした。とうとう突き殺せなくて、靴で踏みつぶした。彼はホッとした。そして長い頸を垂れた鶩の脚を提げて立ちあがった。その時、巡察将校に見つかってしまった。 彼は、償勤兵となったことを、恥ずかしがりもしなければ、引けめに感じもしなかった。機械を使うのがすきだった。殊に、軽機関銃を使うのがすきだった。空砲射撃の時にでも、多くのよせて来る奴等を、この銃一ツで、雨が降り注ぐようにやッつけることを想像しながらタッタタタとやっていた。 すこし馬鹿な、まがぬけた彼の性質が、みなの人気をあおっていた。 一緒に、睾丸をふり出して検査を受け、一緒に薄暗い兵営に這入って赤飯を食った。一緒に銃の狙い方を習った。剣の着け方を習い、射撃のしかたを習った。その工藤が、御用船の中で片づけられていた。何故、片づけられたか、それは云わなくッても分っている! 甘いしるこがすきな男だった。眼は火のような男だった。それが殺されてしまった! それは、兵士たちの血を狂暴なものにせずにはいなかった。壁のざらざらした、屋根がひくい、息づまる寄宿舎で、彼等は思い〳〵の考えにふけった。 高取の横には、内ポケットまでさぐられて、ビラを見つけられ、重藤中尉に、頬がちぎれるほど殴りとばされた那須がいた。 那須は何も云わず黙っていた。 ﹁いくら、ビラを取りあげて、やかましく云ったって、俺等の脳味噌まで引きずり出す訳には行かねえんだぞ!﹂ 誰かゞ、云った。 ﹁それはそうだ!﹂と、那須は黙って考えた。 ﹁俺れが何を考えようが、何をやろうが、それゃ、俺の勝手だ!﹂ 藤のようなアカシヤの花が匂っていた。その近くで柿本は、小母の一家がどうしているか、それを気にかけていた。 消息をたしかめるひまもなかった。 遠い血縁のはしッくれでも、海を一つ渡って、内地を離れると、非常に近しい親か兄弟のように感じられる。 彼は、居留民保護の名で、盲腸炎の小母を見舞に帰るひまもなくせき立てられて、あわたゞしく、こゝまでやって来た。 しかし、彼とは最もちかしい、市ま街ちの方々に散らばって、細々と暮しを立てゝいる人々や、血縁のつながっている人間を、直接、保護することも、行って見ることも出来なかった。 彼は工場を保護していた。 そのために、汗みどろになって働いた。 汗みどろになって守備作業をつゞけた。 工場の附近は、土塁や、拒馬や、鉄条網で、がんじがらめにかためられていた。実弾をこめた銃を持ち、剣をさげて、彼等は、そこを守った。 それ以外の場所には、守備工事は施ほどこされなかった。柿本は、折角、兵士としてやってきながら、この土塁や、拒馬にかこまれた区域からは、離れることが出来なかった。 居留民は、この守備区域内へやって来いというのだ。 そして、この区域内で保護を受けろというのだ。 では、何のために、彼は、この支那までやってきたのだろう?…… ﹁おい、おい、ここのマッチは、軸木さえありゃ、板をこすっても、石をこすっても火が出るんだよ。﹂作業場へはいっていた三人が、珍らしげに黄色い、小さい函のマッチを一ツずつ持って帰ってきた。松岡と、本岡と、玉田だ。 三人は、柱や、床板をこすって、火をつけた。 ﹁これゃ、内地のマッチとは異うよ。﹂ ﹁俺等、子供の時に、ちょっと、そんなマッチを見たことがあるような気がするがな。ボスって云うんだ。﹂ と那須が沈んだ顔をしていた。 ﹁これ黄燐マッチ、――と、そこの支那人が云っているんだよ。ちょっと、日本語の片ことが云えるんだ。﹂製麺工場の、まだ、ウドン粉くさい玉田が云った。﹁――これ、大いに毒ある。外国の工場作らせない。私ら、身体、すぐ悪くなる。この薬、悪い、大いに毒ある、悪い、こいつは、……この黄燐マッチは、有毒だし、すぐ火事を起すから、どこの国でも禁止しているんだよ。それを、ここじゃ作っているんだ。﹂ ﹁これ、大いに毒ある。人、死ぬる。﹂と玉田は、支那人の言葉の真似をつゞけた。﹁鉄道もない、劇薬もない、田舎、これ、自殺にのむ。男と、女、夫婦、喧嘩をする。婦シーフ︵妻︶死にたくなる、これ、この軸木のさきの薬、けずり取ってのむ。この函に十函ぶんのむ。死ぬる。日本、ネコイラズ、中国黄燐マッチ……﹂ ﹁ふむむ、……それだけ日本語が分りゃ、話が出来るじゃないか。﹂高取があたりかまわぬ声を出した。 ﹁その支那人を、ここへつれてこんか、話してやろうぜ。面白いじゃないか。﹂一九
昼につゞく夜の勤務があった。 夜につゞく昼の勤務があった。ねるひまもない。 兵士達は、汗と垢でドロドロになった。水がない。あっても、極ごく僅かしかない。濁って、生なまでのめるようなしろものじゃなかった。のんだら、胃と腸が、雷のように鳴り出すだろう。 彼らは長いこと入浴しなかった。七日間、いや、もう十五日以上。 内地を出発する前日に、炊事場の隣の入浴場で、汗とホコリを流した。それきりだ。 窓のない、支那風の暗い寄宿舎には、男ばかりのくさい息がこもった。連日の勤務、不自由と、過労と、苦るしみによって、工場は守られている。それからひいて、この物資の豊かな山東地方をブルジョアジーは、わが物に確保しようとたくらんでいる。兵士たちは、内地で、自分を搾取するブルジョアジーの利益のために、支那へ来ても、苛さいなまれ、酷使されている。内地の職場にも、飢餓と、酷使と、搾取がある。失業地獄がある。支那へ来ても、また、同様なことがある。彼等は、労働者、農民の出身である彼等は、どんな場合のどんな瞬間に於ても、苦悩から脱却することは出来ないのだ。自分の生命を削らずに、生きて行くことは出来ないのだ。﹁そうだ、どうすれば、この邪魔になる重い足あし枷かせを断ち切ることが出来るか!﹂ と、高取は考えた。彼は、誰れにすゝめられるともなく、マッチ工場の作業場に出入した。ドロドロの黄燐を冷す裸体の旋風器がまわっている。無頓着な工人は、旋風器の羽に、頭を斬られそうだ。 当直士官は、作業場への出入に対して、二三言を費した。兵士たちは、おとなしくそれをきいた。が、二三日たつと、又、作業場や、支那街を物ずきにほっついた。言葉は分らなかった。眼と眼が語りあった。顔と眼が感情を表現した。 将校との対立は、いつとはなしに深くなっていた。上陸前に工藤が片づけられている。それが一層将校に近づき難い感じを与えた。それが、目前のカタキだ。 入浴も、飯も、勤務時間も、休む寝床も、はッきりと区別がついていた。兵士は麦飯だ。将校は米だった。苦楽を共にするのは兵士たちの間だけに於けることだ。彼らは、久しく入浴しなかった。将校は、毎日、製チビ氷ンコ公ン司スで風呂を立てゝいた。製氷公司の社員からビールや、菓子や、お茶を御馳走されて、牛のよだれのような長話をつゞけていた。兵士たちは、あとから、あいたら這入ろうと思っても、牛のよだれが長くって、はいるひまがなかった。彼等がはいれる頃には、もう晩がおそくなりすぎていた。 ある時、上衣を紛な失くした上川が、ぬれ手拭をさげ、風呂からあがりたての、桜色の皮膚で帰って来た。こっそり、おさきに這入ってきたのだ。愉快がった。 ﹁製氷会社の奥さんは、金すじが光っとったって、光っていなくたって、何も区別をつけやしないんだ。タンツボにだって、あいているから、さきおはいんなさいって云ってるよ。居留民保護という段になりゃ、ベタ金だって、タンツボだって、働きに変りはねえからな。……ちゃんと、こら、俺れゃ、一番風呂に失敬してやった。﹂ ﹁まだ、誰れも来ていなかったかい?﹂ ﹁うむ、来ていない。﹂ ﹁製氷会社の奥さんは、若い奥さんだね。﹂ ﹁うむ、一寸、可愛い顔をしている。﹂ ﹁よし、俺も行って垢を落してきよう。﹂ ﹁俺も行くよ。﹂ ﹁俺も行く。﹂ 彼等は、泥棒をやる時の愉快さを知っていた。靴紐を結ばずに、靴の中へなでこんだ。十四人が、汗のにじんだ手拭をさげ、石鹸は一ツも持たずに、マッチ工場から、貧民窟とは反対側の雑草が青濃く茂っている広場を横ぎった。――チット人数が多すぎるぞ。が、一人をやめさすのなら、十四人がみなやめなければならなかった。赤い屋根の上に、巨大な貯水タンクがのっかっている。そこが製氷公司だ。 一町あまりも距っていた。 そこは、蛋粉工場へ行った中隊の方に近かった。門を這入る。ポンプが動いていた。 ふと、赤煉瓦建ての扉のうちから、将校らしいきれるように冴えた音声が呶鳴った。顔見知りの一等卒が、蛸たこをゆでたように、真赤になって、似ちん指ぼこを振りだしのまゝとび出してきた。猫をつまむように、軍ぐん衣い袴こと、襦袢袴こし下たをつまんでいた。 ﹁何中隊のやつだッ!﹂扉の中から、きれるような声がひびいた。﹁人の迷惑も考えないのか! 今ごろから、早や、人の家に厄介をかける奴があるかッ!﹂ 語尾が、カンカンあがった。 ﹁どうしたんでえ?﹂ 連隊中の顔を知らない者はない高取は、のんきげに、素すっ裸ぱだ体かの一等卒にきいた。 ﹁旅団副官だ。﹂ ﹁副官が、どうしたちゅうんでえ?﹂ 十四人は、扉の前で立止った。何だろう? 扉は、内から、ぐいと押しあけられた。 副官章を肩からはすかいにかけた、目立って鼻すじの通った貴族的な、中尉の顔が、兵士達の前に立ちはだかった。 副官は、剣吊りボタンをはずして、ぞろぞろ押しよせた十四人を、いぶかし気に睨みまわした――何ごとだ。何でこんな厚かましい奴らが大勢やってきたんだろう! ﹁閣下がおいでになるんだ! 帰れ! 帰れ!﹂ 彼はきれるような声を出した。 ﹁不ふら埒ちな奴め! 帰れ! 帰れッ!﹂ 十四人は冴えた音声に斬りつけられた。 ﹁チェッ!﹂ 高取はあっけにとられた。渡し場で舟に乗ることを拒まれた旅人のように、眼のさきの風呂場を、残念げに眺めた。そして、通ってきた雑草の広場を眺めかえした。 ﹁チェッ! どうしたんでえ?﹂彼は口のうちで呟つぶやいた。 ﹁くそッ! 誰だって人間なら、汗や垢が、ぬるぬるして気持が悪いなァ同じこった! チッ! また、辛抱するかな。﹂ 将校よりさきに風呂に這入っていた兵卒が叱りとばされ、追い出されたのだ。 ……間もなく、湯に浮いた垢がキレイに掬すくいとられていた。湯加減をした。風呂場の入口は、着剣した二人の歩哨によって守られた。アカシヤとバラが植えてある。 扉の中から湯をチャバチャバいわす音がもれた。 湯は、汲み出されたり、温められたり、水がうめられたりした。当番卒が背中を流すけはいがする。髯をあたるけはいがする。 そうかと思うと、二十分間も、おおかた三十分間も、かたこその音響もしない。 歩哨は、上気して、脳貧血でもおこしたのではないかと、扉のすきからのぞいて見た。鬚の閣下は浴槽の縁に頭をゆすぶりながら、居眠りをしていた。いい気持の鼾いびきが、かすかにもれた。 歩哨は、退屈げに、扉の前を往き来した。その頸すじは、汗につもった土ほこりで、気持悪るく、じゃりじゃりしていた。足もとの地中から石が凸凹と頭を出している。二人は、十五万円の懸賞金で、便衣隊につけねらわれている閣下の頸の番をしているのだ。退屈さと、欠あく伸びをかんでいた。 腕の時計は一時間を経過した。それから二十分が経過した。ようよう馬丁の爺さんが、うやうやしげな腰つきで、新らしいサル又を持ってはいった。乾いたタオルがいる。 ﹁一と晩だけでいい、垢を洗い落して、サッパリした蒲団でねてみたいなア!﹂ ﹁ゼイタクぬかすな。俺おいらにゃ、そんなことナニヌネノだ、とよ。﹂ 製氷所の機械場では、黄ろいホコリをかむった蟇のような靴を、マメだらけの足にひっかけて兵士達が、しびれをきらして、自分達の番を待ち、待っていた。 夕暮れは白く迫ってきた。二〇
籠のカナリヤが軒で囀さえずっていた。 大陸の気温は、夜になると、急激にさがってくる。 肌の襦袢がつめたくッて気持が悪い。工人は自分が食えなくっても、小鳥をば可愛がっていた。不思議な趣味だった。 ﹁ふむ、なる程、なる程、面白い!﹂と高取は頷うなずいた。 ﹁もっとやれ、もっと何か話をしろ!﹂ 彼の声は怒るようだった。依然としてあたりを憚らなかった。 ﹁回フイ々〳〵教徒、人悪るい。よろしくない。冬、日が短い。暗くなる早い。電気つかない。工場暗い。われ〳〵顔見えない。男と女、いつもちちくる。始める。﹂鼻づまりの工人が分りかねる日本語で語りつゞけた。﹁回々教徒、人悪るい、ちちくりながら、ひとのツメたマッチ函、かッぱらって、自分のツメた函にする函多い。金多い。﹂ 時シイ以リ礼イという工人である。蒼ざめて、骨まで細くなったような、おやじに見える男だ。年をきくと、三十一歳だった。まだ若い。 ﹁ふむむ、暗くなると男工と女工がちゝくり合うんだね。その騒ぎにつけこんで、回々教徒が、人がつめたマッチを、自分がつめたようにかっぱらうんだな。なる程、面白い、面白い。﹂と高取は頷ずいた。﹁もっとやれ、もっと何か話をしろ!﹂ 工人は、だんだんに兵タイを怖がらなくなった。兵士は、大にん蒜にくと、脂肪と、変な煙草のような匂いのする工人の周囲に輪を描いた。 ﹁あの、窩ウオ棚バンの向うの兵営のそのさきに、英吉利人のヘアネット工場ある、私の妹、そこの女工、毎日、ふけとゴミばかり吸う﹂と、時以礼はつづけた。﹁妹、髪と、ゴミくさい。胸、悪るい。肺病。ヘアネットの髪、田舎の辮髪者の髪、三銭か四銭で切らして、仲買人、公かい司しゃへ持って来て売る。辮髪切らない者、税金を出せという。公司、仲買人の持ってきた髪を、また六割か、五割に値切る。――仲買人、掛値を云うて持ってくる。私の親爺、昔の人、辮髪税、取られている。親爺、辮髪切りたくない。仲買人、巡警と来て、切れ、切らなければ、税金をとるという。――そんな税金、仲買人と、巡警が勝手にこしらえた税金、そんな税金ない。でも、辮髪きらない、税金無理やり取って行く。英吉利人の公司、仲買人と巡警に金掴ましている。……英吉利人、米国人、独逸人、日︵云いかけたが、時以礼は口を噤んだ︶……みな、支那、百姓、工人、苦るしめる。私達生きる。つらい!﹂ ﹁エヘン!﹂ 雷のような咳払い。がちゃッという、軍刀と靴の音。すぐ、兵士達の背後で起った。重藤中尉が、知らぬまにうしろへ来て立っていた。びくッとした。 時以礼は、唖のように口を噤んでしまった。中尉は、時シを、六角の眼でじいッと睨みつけていた。支那人は、罪人のように、悄しお々〳〵とうなだれて立上った。そして、力なく肩をすぼめて、音ひゞ響き一ツ立てずに去ってしまった。 ﹁あいつは、お前達に思想宣伝に来とるんだろう。ここの工場にだって赤い奴が這入っとるんだぞ。あんな奴に赤化宣伝をされちゃ、お前達の面目があるめえ!﹂ ﹁中尉殿、ヒョウキンな話をして居るだけであります。あのチャンコロ、一寸、日本語が分るんであります。﹂と高取は云った。 ﹁嘘云うな! 聞いて知っとる!﹂急激に中尉の顔は、けわしくなった。﹁ヒョウキンな奴でもなんでもいかん! 散れ! 散れ! 散って寝ろ! 用心しろ!﹂ ﹁はい。用心します。﹂ 兵士たちは、時以礼の話に心を引かれた。そして、その周囲に集った。宿舎はいつも暗かった。壁は、ボロ〳〵と剥げ落ちて来そうだ。そこは、虐げられ、苛まれた人間ばかりが集ってくる洞窟のように感じられた。 兵士と工人、これは同一運命を荷っている双生児ではないだろうか? 昼間の憔いら々〳〵しい労働は、二人を共に極度の疲ひは憊いへ﹇#﹁疲ひは憊いへ﹂は底本では﹁疾ひは憊いへ﹂﹈追いこんでいた。 俺れらは、この支那人の工人をいじめつけて、結局は、俺れら自身の頸をくゝっているんだぞ。工人達がいじめつけられてそいつが嬉しいのは大井商事だけだ。ほかの誰れでもないのだ。 高取は簡単にその話をした。いぶかしげに頸を振る者もあった。高取は、又話をした。補足するつもりだ。俺れらがここまでやって来て、俺れらは、日本の国のために尽していると考える。国の利権を守っていると考える。その結果、肥え太ったブルジョアジーは、どんな政策をとってくるか? その結果、肥え太るのは、ブルジョアだけだぞ。金を儲けて、なお、労働者の頸をしめる。ダラ幹には金を呉れてやるだろう。しかし優秀な労働者は、ます〳〵頸をしめつけられるんだ。 ﹁兵タイて、何て馬鹿な奴だろうね。﹂と高取は、感慨深かげに云った。﹁自分が貧乏な百姓や、労働者の出身でありながら、詰襟の服を着とるというんで工人や百姓の反抗を抑えつけているんだ。植民地へよこされては、ブルジョアをます〳〵富ませるために命がけで働いてやっているんだ。一体、なんのために生きているのか、訳が分らない盲目的とは俺等のコッたなア! 全く自分で、自分の頸をくくっているんだ!﹂ 皆んな、しみじみした、考えずにいられない気持になった。 ﹁忍耐だ!﹂と木谷は心のうちで云っていた。﹁笞の下をくゞり、くゞって底からやって行かなきゃならないんだ。﹂ ここにも、彼等が、内地の工場や農村で生活をした、それと同じような、――もっとひどい、苦るしい生活があった。彼らは、工人がもう一カ月も、この工場の一廓から一歩も外へ出ることを許されずにいるのを知った。月給を貰っていなかった。幼年工のなかには、一番年下の、六歳になるものが七人もいた。その五人までは、十元か十二元で、永久に買いとられた者だった。そんな子供が、やせて、あばら骨が見えるような胸を、上衣をぬいで、懸命に、軸木を小函につめていた。マッチの小函を握りかねるような、小さい手をしていた。 腰掛の下にもう一ツ、台を置いて貰わないと、仕事台に、せいが届かなかった。 ﹁俺等も、やっぱし、これぐらいな六ツか七ツの時から、仕事をしろ、仕事をしろと、親爺に叱られて育ってきたものだ。﹂と、夜中の一時頃に起きて仕事にかゝる、製麺屋の玉田は、幼時のことを考えていた。﹁しかし、俺等は、身体ぐち売られやしなかった!﹂ 工人の多くは田舎の百姓上りだ。それが、百姓をやめて工人となっていた。百姓は、工人よりも、もっとみじめだった。 百姓は、各国の帝国主義に尻押しをされて、絶えまなく小こぜ競りあ合いを繰りかえす軍閥の苛かれ斂んち誅ゅう求きゅうと、土匪や、敗残兵の掠奪に、いくら耕しても、いくら家畜をみずかっても、自分の所得となるものは、何一ツなかった。旱かん魃ばつがあった。雲うん霞かのような蝗いな虫ごの発生があった。収穫はすべて武器を持った者に取りあげられてしまった。 ある者は、土地も、家も、家畜も売り払って、東三省へ移住した。多くの者が移住した。――その移住の途中で、行軍する暴兵に掴まって、僅かの路銀を取りあげられた。そして、それから向うへは行けなくなった。そんな者が工人として這入りこんでいた。 ある者は、家族を村に残して出でか稼せぎに来ていた。残っている家族は、樹の根をかじったり、草葉を喰ったりしていた。石の粉を食って死ぬ者もあった。 ﹁あの、俺の町の、場末の煤煙だらけの家に残っているおッ母アも、手袋を縫って、やっと、おまんまを食っているんだ。﹂と、のんきな、馬鹿者の高取も、しみじみした気持になった。 ﹁……こうっと、六十三歳にもなっていたかな。……もう、皺だらけのおッ母アのところへ遊びに来る助平爺もあるめえ! 誰れも相手にしちゃ呉れめえ! 手袋を縫うだけで、腹いっぱい飯が食えるかな。﹂ 兵士達は、ここの工人と、自分等の内地に於ける生活とを思い較べた。 村で、間もなく麦が実ることを思い、すこし、ボケかけた親爺がどうしているかな、――と考える者もあった。 ﹁王ワン洪コウ吉チの女房、こないだ、女の子供、産んだ。﹂ 日本語の分る時以礼は、人のよげな、いくらか顔にしまりがない、落胆した、恨めしげな王を指して、兵士達に話した。 ﹁ふむ、お産をしたんだね。﹂ 二十人あまりの兵士の視線が、王一人に集中された。王はかくれてしまいたげな、気の弱い表情をした。 ﹁王、ゼニない、女房ゼニない。職長ゼニ呉れない。﹂ ﹁ふむ、賃銀をよこさないんだね。工場が。﹂ ﹁王のおッ母ア、上の子供をおんぶして、工場へ泣いて来る。社員、おッ母アと、王とあわせない。﹂ ﹁ふむ。﹂ ﹁ゼニやれない、やるゼニない。﹂ ﹁ふむ。﹂ ﹁女房、飯、食えない。ちゝ出ない。赤ん坊泣く。﹂ ﹁ふむ。﹂ ﹁赤ン坊、六日間、泣き通した。女房、腹がへる。湯ばかりのむ、湯、腹がおきない。眼まいする。十日目、朝、赤ン坊泣かない。起きて見た。赤ン坊、死んでいる。おッ母ア、工場へ飛んできた。それでも巡警、王にあわせない。柵のすきまから、おッ母ァ、話をした。王、なかできいていた。王、家へ帰れない。職長、一歩も、門から出さない。﹂ ﹁ふむむ!﹂ 王洪吉には、日本語が分らなかった。しかし、彼は、時以礼が、兵士達に何を話しているか、兵士達と、時以礼の、緊張した表情からそれを看取した。 ﹁――買い取られた子供、もっともっとひどい。﹂と時以礼はつゞけた。﹁働く、働く、ゼニ一文も呉れない。髪剪つめない。手拭買えない。正月、十五銭呉れるだけ。子供、一年、二年、三年働く。いつまでも働く。いつまでも正月に十五銭だけ。いつまでも外へ出られない。三年間、一日もここから出ない者十八人。働くばかり。希望、一ツもない。絶望する。九ツか﹇#﹁九ツか﹂は底本では﹁九ッか﹂﹈十の子供、子供なりに、死ぬ方がましと考える。黄燐、ぬすんでのむ。二月、死んだ子供二人。三月、死んだ子供四人。黄燐のむ、腹のなか焼ける。苦るしい。細い、小さい子供の身体、皮と骨だけになって、脚かたかたになっていた……社員、職長笑う。支那人、意気地なし、面つらあてに死ぬる。意気地なし……。﹂ ﹁ふむむ!﹂ 兵士達は、息がつまりそうに唸った。二一
幹太郎は、工人達と、接触する機会を奪われた。 受持の浸点作業と、乾燥室から、事務室の計算係にまわされた。彼は帳簿に頸を埋めた。朝から晩まで、ソロバンばかりはじいていた。これは、寛大な処置だったのである。 親爺は、十日をすぎて、まだ、領事館警察の留置場から出てきなかった。 ヘロのきれたその肉体は、地獄よりもツラかった。監視巡査の恥じッかゝしと、軽蔑ばかりの中で、恥をかまっていられず、疼うずくような呻吟をつゞけていた。 工場では、幹太郎を、不穏な工人の肩を持つものと睨んだ。支配人も、職長も、古参の社員も、嫌悪した。支那人ならとっくに頸が飛んでいるところだろう。日本人同志で大目に見られた。 総ソン工コン会ホイ系の煽動者が、市中に潜入している。それは、単なる噂ではない。事実である。そして工場は内外共に多事だった。 いつの間にか、外塀や、電柱に、伝単がベタベタ貼りさがされていた。 漫画の入った伝単が、製粉工場に振りまかれた。 火ホサ柴イコ公ン司スでは煽動者の潜入を警戒した。工場の出入は、極度に厳重になった。内部の者を外へ出さないばかりでなかった。外部の者を、一人も内部へ入れなかった。そして、内部と外部との境界線は、武装した兵士と、雇い巡警によって二重に守られた。 ﹁いずれ、俺の頸がとぶのも近いうちのこった!﹂ これを口の内で呟くと、幹太郎の表情は淋しげになった。 彼は、軍隊の到着以来、小山が、気に喰わない工人達に、虱つぶしに、リンチを加えるのを目撃していた。一つは、それは彼にあたっている。 工人は、ぬれた皮の鞭でしぶきあげられ爪の裏へ針をつき刺されるばかりではなかった。 ある者は、電話をかけていた。と、そのうしろから、ふいに送話器の喇叭状の金具をめがけて、急激に、ドシンと突きつけられた。壁の電話がガチャンと鳴った。鼻が送話器にお多福饅頭のようにはまった。顔の中央は、鼻梁が真中から折れて、喇叭の型に円く窪んでしまった。血の玉がたらたら垂れた。ある者は、十字架に釘づけにされるように、脚を宙に浮かして、アカシヤの幹から枝にかけて縛りつけられた。 ﹁私、生意気者で、油売り、横着者で、悪者で……これが見せしめ……これが見せしめ……。﹂ アカシヤに縛りつけられた工人は、枝にぶらさがったまま、一千回繰りかえさせられた。うらなりのトマトのような少年工が、その樹の下で、回数をかぞえた。繩が四肢や胴体に喰いこんでいる。もがけば、もがくほど喰いこむ。樹の工人は、息がきれそうに喘いだ。 ﹁私は、生意気者で、……悪者で……ございましたんです。……﹂喘ぎ喘ぎ風のように、工人は、白い泡と一緒に言葉を吐いた。 ――これは、一度兵士達が見つけて以来、勤務について、寄宿舎にいなくなった留守を見はからって敢行された。特務曹長からの注文だったのである。兵士は南軍接近の知らせに、警備手配に忙殺されていた。 工場の空気は、幹太郎を忌避し、敬遠した。幹太郎自身も、それを感じないではいられなかった。 ﹁やっぱし俺は、お払い箱だ! あの態度は、俺からトットと出て行けと云ってるんだな。﹂ 支配人と小山にまつわっている不思議な、ばつの悪さを感じながら、彼は考えた。 ﹁馘くびにならんさきに、自分から、出て行けッと云うんだな。﹂ 彼はその原因が、親爺の支那人なみのヘロ中と、王洪吉の賃銀を代って要求してやったことにあるのを知っていた。 彼は、時々、事務室をぬけ出した。請負作業の出来高を調べるものゝように、仕事場に這入った。殊更、注意深く、工人達を観察した。 稍やゝ、うつむきこんで軸列器をがちゃがちゃ鳴らし、木枠に軸木を植えつけている于ユイ立リソ嶺ンは、おどおどして、あたふたと頭をさげた。 ﹁びくびくすんなよ。﹂ ﹁はい、はい。﹂ 傲慢で、ツンとした于立嶺が、全く、おびえきった子供のように変っていた。 ﹁やっぱし、薬がきくんだな!﹂ 小山の、軍隊の駐屯に対する感謝と、自分のやり方に対する、得意さは、一日々々顕著になっていた。リンチが度重なるに従って、工人の挙動がおとなしくなってきた。社員に、おべっかを使うように、ペコペコ頭を下げた。 ﹁畜生! こんなに卑屈に落ちぶれたって、やっぱしコツコツと働かなきゃならないのが工人だ。――動物! こいつらは、全く、睾丸を抜き取られてしまった、おとなしい動物だ!﹂ しかし、幹太郎は、自分たち自身も、反抗もなにもよくしない、おとなしい動物だと感じた。 彼には、親爺がいつまでも留置場から出られないことも、彼等の家が何ものにも保護されず、工場が、ひたすら堅固に守られることも、食えない工人達の当然すぎる賃銀支払の要求が、拒絶せられ、その上、一人々々が殴られることと同様に、すべて、ある一ツの原則から、出ているように感じられた。 それは無数の小さいものを犠牲にして、大きい奴だけが肥大して行くことだ。親爺は昔、学校の建築費を、町の芸妓へ注ぎこんだ村会議員をあばこうとした。そのことのために、却って坂の上から、突き落されてしまった。そして、転落がはじまった。 ――最後の、もうそれ以上落ちるべき段階がないところまで、落っこちてしまわなければ承知されはしない! と、彼は思った。これは、人生の運とか、マンとかいうものじゃない。大きいやつが、かばわれるために、小さいやつが落っこちるのだ。そのために、われわれは皆んな、トコトンまで落っこちてしまわなければならないのだ! しかし、いつかは、巨大な大建築が土台石から、がた崩れに、くずれてしまう時が来る。来るにきまっている。 彼は、大根ナマスのように、白楊の素地が軸刻機にきざまれて軸木の山が出来て行く、刻作業部を通りぬけて、用材置場から、薄暗い兵士のいない宿舎をちょっとのぞいた。 背嚢や、毛布や、天幕や、外套が、乱雑に畳まれて、ごちゃごちゃと並べられていた。口をあけられた空鑵には、煙草の吸い殻が、うじ虫のようにつまっている。工人の大蒜や葱の匂いと、兵士の汗と革具の匂いが交錯して、寄宿舎の厚い重たい壁についているようだった。 彼は靴のツマさきで歩きながら、東側のアカシヤのある入口の方へ通りぬけた。と、何か、バラバラと脚にふれるものがあった。見ると、それはビラだった。おやおやと思いながら、もう一度、そこを入念に眺めまわした。同じような恰好に畳まれた外套の畳み目や、毛布や、天幕の間にそれぞれ紙片がはさまれてあった。紙片は畳み目の中にかくれて見えないのもあった。が、また畳み目から舌のようにそのはしが見えているのもある。彼は、その一枚を取って見た。 それは蝎さそりのように怖がられている伝単だった。 ﹁へええ!﹂厳重極まる警戒線をくぐりぬけて、いつのまにこんな伝単が持ちこまれたか幹太郎には不思議だった。 伝単には次のようなことが書かれてあった。彼はよんだ。 日本人兵士諸君 日本帝国主義ブルジョアジーハ、諸君ヲシテ、銃ヲ携エ砲ヲ持チ、急速ニ山東ノ地ニ来ラシメタ。而シテ、支那ノ軍事的分割ハ、既ニ始メラレタ。 諸君ハ、日本居留民ノ生命ヲ保護スルタメニ来タノデアルカ。居留民ノ財産ヲ守ルタメニ来タノデアルカ? 否、断ジテ否! 思イ見ヨ、諸君ハ、現ニ、商埠遙ニ散在シテイル貧窮セル居留民達ノ生命ヲモ財産ヲモ保護シテハイナイノデアル。諸君ハ、工場ヤ、銀行ヤ、病院ヲ守ッテイルダケデアル。工場ヤ、銀行ヤ、病院ハ誰レノ所有ニ属スルモノデアルカ! 諸君! 労働者、農民ノ出身デアル兵士諸君! 諸君ハ、居留民ノ生命財産ノ保護、国旗ノ尊厳トイウガ如キ言葉ニ迷ワサレテハナラヌ。諸君ハ、日本国内ニ於テハ、農村ヤ工場ニ於テ、資本家ヤ地主カラ搾取セラレ、支那ニキテハ帝国主義ブルジョアジーノタメニ命ガケノ血ナマグサイ戦争ヲサセラレヨウトシテイル。莫大ナル出兵費ハ誰カラ出ルカ、諸君ガ一本ノ煙草ヲ喫ンデモ、半斤ノ砂糖ヲ使ッテモ、一足ノサル又ヲ買ッテモ、必ズ間接ニ徴収セラレル税金カラ出テイルノダ。 支那ノ労働者農民ノ国民革命運動ヲ、血ヲ以テ窒息セシメタ各国ノ帝国主義ハ、干渉カラ土地掠奪ニ移ロウトシテイル。日本帝国主義ハ、真先ニ掠奪スルタメニ有利ナル戦略的状勢ヲ利用シテ、諸君ヲコノ地ヘ来ラシメタ。日本ハ山東ヲ満洲ノ如ク、奴隷的植民地トシヨウトシテイルノダ。満鉄ヤ撫順炭坑カラ諸君ハ一文デモ利益ヲ得タカ。満鉄ヤ撫順ノタメニ諸君ノ暮シガチットデモラクニナッタカ。 満洲ハタダ大資本家大地主ヲ太ラセルダケダ。太ッタ大資本家共ハ、鈴文ヤ松駒ノ如キ階級的裏切者ヲ買収シ、諸君カラノ搾取ヲマスマスヤサシクシ、諸君ノ妻ヤ子ヲ、飢ニヒンセシメ、諸君ヲモ絞殺スル反動ノ城塞ヲ固クスルモノデアル。 分割センガ為メニ弾圧スル――コレガ支那ニ於ケル帝国主義者共ノ政策デアル。帝国主義者共ハ既ニコノ憎ムベキ計画ノ第一部ヲ国民革命ニ対スル連合ノ軍事干渉ニヨッテ実現シタ。山東ノ折軍素的占領ハ、コノ計画ノ第二部ノ開始デアル。植民地再分割ノタメ帝国主義戦争ガ勃発スル可能性ガ十分ニアルノダ。 諸君ヨ、思エ! 将軍、独裁官田中ハ、諸君ヲ山東ニマデヨコサシメタル田中ハ諸君ノ階級ノ最悪ノ敵デアルコトヲ! 彼奴ハ内地ニ於テ、労働者農民ヲ搾取シ、蹂躪シテイル奴デアル。彼奴ハ諸君ノ兄弟ヤ父ヲ刑務所ニ閉ジコメ、諸君ノ妻ヤ児ヤ、母ヲ虐待シテイルモノデアル。 日本人兵士諸君! 諸君ハ山東侵略ノ命令ニ服スルコトヲ止メヨ! 支那民衆ニ対シテ、剣ヲ振リカザスコトヲ止メヨ! 而シテ諸君ハ、支那ノ労働者、農民、兵士達ト手ヲ握レ、諸君ガ革命的連帯ノ固キ握手ニ達スルタメニハ、如何ナル犠牲ヲモ辞スルナ。両側カラ反革命ノ戦線ヲ切リ崩セ。支那革命擁護ノタメニ、諸君ハ支那ノ労働者、農民、兵士達ト力ヲ結合セヨ! ﹁おいおい、これゃなんだい。こんなものを外套の間へ突ッこんどるが。﹂ 勤務が終って帰って来た兵士達に、この奇怪な紙片が眼にとまった。 巻脚絆を解いて、自分の背嚢に近づいた。製麺職工の玉田にも、その紙片は眼にとまった。那須も紙片を拾い上げた。 ﹁おや、これゃ、こんなもんは、届けんきゃなんないぞ。﹂ ﹁待て、待て! 何だか訳が分らずに届けることが出来るかい!﹂ 高取が幅のある声で訓練所を抑えつけた。 夕暮れになっていた。薄暗い寄宿舎で、彼等は、それを読んだ。読んでしまうと、互に顔を見合わせた。そして、かげにかくれて、盗んでするような微笑を浮べた。 ﹁これゃなんだい……なかなか面白い奴がいるね。﹂ ﹁これゃ、チャンコロの仕事だ。チェ!﹂ ﹁なんだい。これッくらいのこたァ、俺れでも知ってるぞ!﹂ 黙り屋の那須は一心にそれを読みかえしていた。 ﹁諸君が、革命的連帯の固き握手に達するためには、如何なる犠牲をも辞するな。﹂高取は最後を、声をあげて読みかえした。﹁両側から反革命の戦線を切り崩せ。支那革命擁護のために諸君は、支那の労働者、農民、兵士達と力を結合せ!――そうだ、全く、その通りだ!﹂ まもなく、寄宿舎と工場内に大騒動が起った。兵士達は、その場に立たされた。慌てふためいた支配人、社員、中隊長、重藤中尉、特務曹長が、そこら中をかけずりまわった。 ポケットがさぐられて、頬ッぺたがぶん殴られた。アンペラから、毛布から、背嚢から、私物まで、すっかりひっくりかえされてしまった。 伝単が持ちこまれた径路と出所が厳重に詮索せられた。二百何十名かの工人は、一人々々裸体にひきむかれた。女工も素裸体にせられた。 くさい工人は、キリストのように、柱にくくりつけられた。そして工人たちの底の平ぺったい汚れた支那靴が、しきりに宙を苦しげに踏んばっていた。 伝単は、恐らく猿飛佐助でもが持ちこんだものだろう。誰の仕業だか、あきていやになるまで探しても分らなかった。 兵士たちの殴られた頬は、まだ、ぴりぴりはしっていた。こんな場合、いつも真先に睨まれる高取は、頭に角つののようなコブが出来ていた。ごったかえしたあとを掃除して、寝についた。油を搾られたにもかかわらず、彼等は、腹の中から、おかしい。笑いたくてたまらないものが、こみ上げて来て、なかなか眠れなかった。笑いを吹き出してしまって静まったかと思うと、また、一人が、﹁ふふふふッふ。﹂と、吹き出してくる。﹁両側から反革命の戦線を切り崩せ!﹂ 誰れの仕業か分らないことも、えらい人がすっかり仮面をぬいで慌て出してしまったことも、犯人が決して兵士たち自身でないことも、彼等を明るく愉快にした。高取は、幾度となく、毛布をかむって、眠ろうとした。が、誰れかの言葉がすぐ彼の気を散らした。又、子供らしい笑いが洞窟のような宿舎に響き渡る。…… 十一時すぎになった。彼等は、まだ眠っていなかった。ふいに、当直下士が、靴音荒くとびこんできた。 ﹁起きろ! 起きろ! 皆んな起きろ!﹂ ﹁また検査でありますか?﹂ ﹁馬鹿ッ! 検査どころか。南軍が這入ってくるんだ。張宗昌が、今さっき城をあけて逃げ出してしまったんだ。徹夜警戒だ!﹂ ﹁ふふふふふッふ。﹂ 兵士たちは、又、吹き出しながら起きあがった。二二
張宗昌と孫伝芳は、戦わずに泰安を抛棄した。そして界首の線によって一時を支えようとした。 しかし、黄河を迂回して、側面からここを圧迫する馮玉祥の騎兵部隊と、泰山の南を縫うて、明水平野に出た陳調元の優勢な一部隊に圧迫せられ、又、戦わずに、界首と、黄河の線を抛棄した。 敗北した軍隊は、雪なだ崩れを打ってこの古い都済南へ総退却した。 つゞいて、黄河の鉄橋を破壊しつゝ津浦線を、天津に向って退却した。逃げおくれることを恐れる山東軍の兵士は、さきを争った。貨車の屋根に梯子をかけて這い上った。ころげ落ちそうになった。屋根の上には兵士がすゞなりになった。 約六時間経って、王舎人荘で一夜をあかした南軍の顧クシ祝ュト同ンの第三師は夜があけると同時に入城してきだした。つづいて、陳調元の第十三師と第二十二師が入城した。ついさきほど、張宗昌のために、優秀な機関車の都合をつけた、津浦線停車場の駅長は、顧祝同を停車場と、無線電信局へうや〳〵しく案内した。直ちにそこは顧祝同の軍隊によって占領された。 一時間の後、津浦線伝いに、賀耀祖の部隊が到着した。更に三時間の後、黄河に沿うて側面から迫りつゝあった方振武が到着した。これらの軍はすべてで、約二万はあったであろう。 夜になった。夜半近く、又、行軍縦隊や、自動車や、鍋釜をかついだ大行李の人夫等が、駅頭に着いた。 一台の立派な自動車には、抜身のピストルを持った二人の少年兵が左右に立って、注意を怠らず、そこらにじろじろ眼を配っていた。少年は懸命の努力にも拘わらず、どうかすると、こッくりこッくりと、脳髄が執拗な睡眠に襲われ、立ったまゝひょっと他の世界に引きずりこまれそうになった。 自動車は、前後、左右を騎兵によって守られていた。まだ、あとに自動車はつゞいている。 一隊は、街頭の拒馬に遮られた。馬も、車も、速力をゆるめ、辛かろうじて、その間をくゞりぬけた。ピストルの少年が立っている自動車の窓から、ふと、面長の、稍やゝ、頬のこけた顔が、頸を出した。﹁これは何だね?﹂かんかん声で呶鳴った。 ﹁これは、日本軍の作りつけたものであります。﹂ ﹁何のために、横暴にも、こんなものを作りつけたんだ。﹂と、けいけいとした、黒玉のしょっちゅう動いている眼で、附近を見やりながら、﹁土嚢塁もあるし、鉄条網は、そこら中いっぱいじゃないか。﹂ ﹁はい。﹂ ﹁兵タイが立っている、機関銃まで据えつけている、……これは、わが革命軍に対して敵対行動をとるにも等しい仕わざじゃないか! 何故、君等は、こんなものを撤退することを要求しなかったか!﹂ ﹁は、……﹂ 自動車の傍の馬上の男も、参謀か、師長であるらしかった。 ﹁早速、こんなものを、全然撤退してしまうよう、厳重に抗議しなけゃならん!﹂ 拒馬の間をくゞりぬけると、自動車の速力は加わった。こくりこくりしかけていた少年兵は、ふと頭をゴツンと打って眼をあけた。一隊は城内に向って疾駆した。 これが、一年前在モスクワの息子経国から﹁……いまやあなたは支那国民の敵となった。父上あなたは、反革命の英雄であり、新しき軍閥の頭領であります。あなたは上海において労働者を虐殺しました。これに対して全世界のブルジョアはむろん歓迎の辞を以てあなたを呼びかけるでしょう、帝国主義者は、数多の贈物をもたらすでしょう。しかし、プロレタリアートが一方に厳存していることを、ゆめ、忘れては下さるな! 父上、あなたはクーデターによって一世の英雄となった。しかし、あなたの勝利は一時的なものと信じます。父よ! コンミニストは日を逐うて、戦いの用意を整えている……﹂この悲痛な手紙を突きつけられた、裏切者、蒋介石の軍司令部の一行だった。二三
中山服のデモの群れに、支那将校が、瓜で口をもぐ〳〵動かしていた。市ま街ちは、さまざまな伝単の陳列会だ。剥げ落ちた朱門の上で、細長い竿の青天白日旗が、大きく風をはらんでいる。 びっこの中津は、山東軍の綿服を、大タア褂コア児ルに着かえた。彼は城内を出た。そして、張宗昌の落ちのびる列車に乗らず、商埠地にとゞまっていた。 最近、張宗昌は、あの太い頸をねじ曲げるようにして、彼と視線がカチ合うのを避けた。ロシア人のミルクロフもよくなかった。いゝのは、第十五夫人の弟の蔡サイ徳トウ樹シュである。中津は、すゞに未練を残して宿州へ出かけて以来、前々から抱いていた直感をたしかめた。 ﹁やっぱし俺を好かなくなりやがったんだな。﹂ 張は、彼に、ものを云わなかった。やって来た旨を述べても、たゞ会釈したのみだ。 ﹁好かなけゃ、すかなくってもいゝさ。﹂と彼は考えた。 ﹁人間の好悪の感情は、自分自身でも、どうにも支配のしようがないもんだ。それくらいのことは俺にだってある。分りきった話だ。﹂ それでも、彼はいくらか、やけくそになった。昔の本性を現わした。張大人に相談もせず、臨城で退却して来る将卒をピストルで射殺した。癒る見込のない負傷兵は片づけッちまえ! という命令を出した。 埋められる負傷兵は、 ﹁可哀そうだと思って下され! 私たちは、大人のために戦って、負傷をしたのじゃありませんか。――こんな生きている者を埋めるんですか?﹂ と憫れみを乞うた。 ﹁張大人のために負傷をして、張大人のために埋められるんさ。お前たちが大馬鹿さ!﹂これは、中津が、中津自身に向って云ってもいい言葉だった。 ﹁それゃ、不憫じゃありませんか! それゃ不憫じゃありませんか!﹂ わい〳〵声をあげて泣き叫んだ。 殺伐な荒仕事は彼の荒んだ感情を慰めた。 大人は、何らの謀計もなく、意気地もなく古い首都へ退却した。そして、二カ年半住みなれた、督弁公署を捨てゝしまった。ここを捨てれば全然の没落だ。民心は離反している。張作霖からは、譴けん責せきを喰っている。没落以外に道はない。中津は、それを観取していた。 ﹁くそッ! 今が、あいつとの腐れ縁も見切時かな。﹂ ……彼は、昔の浪人にかえってしまった。戦線から退却してくると、直ちに、猪川の家へ立ちよった。竹三郎が、留置場に呻吟している。家に幹太郎以外、男けがない。これも昼間はいなかった。これは、彼に、頗る好都合だった。暫らく、前線に出て、すゞを見なかったことは、彼の気持を枯淡にせしめるどころかむしろ、五十の情熱をかり立てるのだった。 彼の、すゞに対する感情は、老人が、自分の孫にあたるような幼い娘を、老後の断ち切ることの出来ない欲情から愛めずる。――そういう気持になるかと思うと、ええい、恋のへちまのと、上品ぶったまだるッこいことは面倒だ。いっそ、荒療治で、あっさりと無断で失敬して行っちまおうか? その方が面白れえや! と、この二ツの間を、乗合いみたいに往復した。彼は、このブラ〳〵する自分の感情を噛みしめるのが愉快だった。 噛みしめて、そのさきをどうするか、それを空想するのが愉快だった。 中津の、再度の訪問、これは、すゞにも、俊にも、それほど、恐怖を与えなかった。 市街の、その行きつまったところには、河があった。古代より湧き出ている城内の泉からつゞいているその水は、音をたてなかった。丸腰の支那兵が、河馬の群れのように、その中へ頭を突ッこみ、濁している。 街の一方は、青鼠の中山服の兵士たちが、蟻のように一面に這いまわっていた。他の一方には、土嚢塁の中でカーキ服が光っていた。シャモが蹴あいをやる、その前に、まず睨めッこをして相手のすきを伺う、それのようだった。何等奪われるものを持たない乞食や、浮浪漢は強かった。 すゞも、俊も、お母も、自分達の家が、中山服の蟻と、乞食、浮浪漢の群れの中に、ポツンと一つだけ、存在しているのを知っていた。そして、それにおびえた。ほかは皆な支那人だ。 山東軍は、退却際に、行きがけの駄賃として、数カ所で金品を奪い、むやみな発砲をした。中山服の眼には敵意があった。不安は、ます〳〵ひどくなった。 馬賊上りの、つわものゝ、中津の来訪は、この不安と恐怖に、若干の、主観的な緩和剤となったのである。中津は、ピストルがうまい。睨みがきく。彼がいてくれることは、彼女達を心強くした。 石を敷いた狭いゴミだらけの通りを、え体の知れない支那人が、犬のようにうさんくさく行ったり来たりする。猪川の家は、石の重い、壁の厚い、支那式の家でありながら、壁に切りあけた窓と、四国の田舎にありそうな、石の築つき塀などによって、すぐ支那人の住家とは見分けがついた。すゞも、俊も、母も、長い、フゴフゴとした支那服を見ると、そのポケットに、ピストルをしのばしている気がして、無気味だった。そして、誰かにすがりつき度いような、あこがれにも似た不安を感じた。 中津は、この家のあっさりとして、華やかな、日本娘の着物や、四国訛なまりのある日本語や、若々しい鶏の胸肉のように軟らかい、ふるいつきたくなる娘の肉体を、視覚で享楽しながら、一家の不安に同感し、心配げな顔をしたり、また、特別、力になってやるようなことを云ったりした。 お仙は、中津が、朝飯を食い、昼飯を食い、晩飯を食い、夜おそくなるまでいて呉れるために、心細い財布をはたいて物惜みをしなかった。 俊は無邪気だった。 すゞは、ほかの第三者に対するように、こだわらない、馴れ〳〵しい態度で、中津に向おうとすると、気骨が折れた。何故か、顔が紅くほてった。中津が強盗、殺人、強姦などをやってきた、そして多くの人々から、恐るべき蝎として、嫌われ、おっかながられている。にもかゝわらず、実際は、滑稽な、おかしい、快活な微笑の持主であることは、以前と変らなかった。これは、すゞにとって、奇怪で、同時に快よかった。しかし、中津は、やって来ると、玄関に這入った瞬間から、帰えりに、観音開きの門を出て、なお、も一度、あとを振りかえるその時間まで、十二時間でも、十五時間でも、その間、一分間も、彼女の、顔や、頸や手から、微笑を含んだ、怖げな眼を離さなかった。それが、すゞには、窮屈で、息苦るしかった。 その執拗な視線は、彼女が、用事をして、こちらからは、彼を見ていない時にも、やはり注がれていた。そのことを、彼女は感じた。 ときどき、彼女は、どうかすると、中津の濃い毛だらけの頑丈な二本の腕が、うしろから無遠慮に自分を抱きしめて、首筋のあたりを、熊のようになめやしないかと気にかかった。ぞッとした。 兄がいないと、なお、この恐怖は強かった。母もいなくなると、恐怖と危険は、もっと、もっと身に迫るような気がした。 すゞは、妹と、歩きかねる甥とを頼りにするような心持になった。小鳥のように、隅の方にうずくまっていた。 幹太郎は、この一家を襲っている二つの恐怖を感じた。同時に、妹も母も、支那兵の乱暴に対する強迫観念のようなものは、戦慄するほど強いが、中津の恐ろしさは、女達が、殆んど意識していないと思った。殊に、それを気にとめていないのは母だった。それが、彼は不満だった。母は、わざと、中津を家に引き入れているように見えた。彼は母と対立した。その気持は、知らず〳〵、言葉となって母が感じたかもしれない。 ある晩、マッチ工場の社宅に、六畳の物置が一と間だけ、あけて貰えるから、そこへ金目のものだけを持って避難していてはどうか、と話していた。母は、突然、中津を好きやこのんで家へ引っぱりこんでいるのではないんだ、と云いだした。幹太郎は、その鋭鋒が、自分にあたって来るのを感じた。 ﹁一体なんで気持をこじらしているんだろう? おッ母アが、中津と通じたとでも、俺が、一度でも、もらしたためしがあるんか?﹂と幹太郎は思った。﹁馬鹿らしい、見当ちがいだ!﹂ 彼は、こんな場合の例で、黙りこんでしまった。 ﹁嫌いなら、なんにも、社宅へなんか行かなくってもいゝんだ。﹂ 彼は、簡単に云った。それ切り黙りこんだ。母は、ヒステリックに、嫁に来て以来、竹三郎のことや、お前達のことを心配しない日は一日だってないんだ。それを、支那へまでやってきて、こんなツラさをするのは一体誰のせいだ! と泣き狂いになった。 変に、家の中の機構が、トンチンカンになった。 翌晩、幹太郎は、妹がいるところで、 ﹁いつまで中津先生、逃げ出さずに止とどまっているんだい。捕虜ンなっちまうぞ。﹂と云った。 ﹁もう、張宗昌について行くのはやめたんだってよ。﹂ ﹁何故だい?﹂ ﹁何故だか知らないわよ。﹂と俊は、工場から、途中を誰何されながら帰ってきた兄に答えた。 ﹁ずっとここに止っているんだってよ。﹂ ﹁いつそれを云っていた? いつそれをきいた?﹂ ﹁界首から帰った日にそう云っていたわよ。もう一週間も前に。――兄さんきかなくって?﹂ ﹁俺が、何をきくか! 貴様、なぜ、それを俺れにかくしていた。﹂彼も、ヒステリックに呶鳴った。 ﹁――あいつがいつまでも、ここに止っているのは、︵彼は、ます〳〵いら〳〵しながら、︶すゞをつけねろうてだぞ!﹂ ﹁いやだわ。﹂俊までが、パッと紅くなった。﹁そんなことを云うもんじゃないわ。﹂ ﹁馬鹿! 馬鹿! 貴様ら、親爺が、まだ出て来られないのを嬉しがっとるんだろう!﹂どうしたのか、幹太郎の機構までが狂ってしまった。二人の妹を睨んで、蹴とばすように呶鳴りつけた。﹁親爺と俺れがいないから、あんな奴が、のさばりこんでけつかるんだ! それが分らんのか!﹂ ﹁呀テイヤ! 呀テイヤ!﹂ 何も知らない一郎が、幹太郎の膝によってきた。二四
塵ほこ埃りッぽい通りの一角に、露天商が拡げられた。 支那人は、通りと同様に、赤銅色に塵埃をあびていた。店が財産である。露店のうしろには、半分出来さしの支那家具ががらんとしていた。 青鼠の中山服の群れが通りかゝった。半信半疑で警戒を怠らなかった赤銅色の売手は、店をたゝむひまもなしに、忽ち、中山服に取りまかれた。わめき、罵ば詈り、溺れるような死にものぐるいの手と脚のもがき、屋台の顛覆。……哄笑に腹を波打たして、中山服は散らばった。皿と笊ざるにもられていた一ツの茹ゆで卵も、一と切れの豚肉の油煮も残っていなかった。 中山服は、街をとび〳〵して歩きながら、快活に口をもぐもぐさした。向う側の通りでは、カーキ服が、棘とげのある針金を引っぱって作業をつゞけていた。睨みあった。こちらが睨む。向うが睨む。石が飛んだ。 その時、西はずれの、三倍の抵抗力にやり直した堅固な土嚢塁に、はゞまれた細い通りで、一人の支那人をつれた日本人が、着剣の歩哨に咎められていた。 ﹁君は、どうも、日本人ではないらしいぞ。﹂歩哨は、剣をさしつけた。﹁あんまり支那語がうますぎるじゃないか。﹂ ﹁私は、日本人でしゅよ。﹂ ﹁そうかね?﹂垢まぶれの歩哨は驚いた。 ﹁本当に、日本人でしゅよ。﹂ その男は、下の前歯が、すっかり抜け落ちていた。 ﹁そのチャンコロは何だい?﹂ ﹁こいちゅは、そのう、今朝、工場をぬけだしゅた、不届けな工人でしゅ、今、しょいつを………﹂歯がないために、ふわ〳〵して、発音がうまく出なかった。二挺の剣が、胸さきで光っている。小山は汗を拭いた。それがかえって歩哨の疑念を深めるのだった。軍隊というものは、非常に有りがたいものである。が、一ツ間違えば頗る恐怖すべきものである。小山は、慌てゝ、自分が燐寸工場の職長であること、逃亡を企てた工人を捕まえに行ったこと、自分の工場にも兵タイを泊めてやっていることなどを説明した。しどろ、もどろだった。 一方の、しッかりした顔つきの歩哨は、それでは、小哨長のところまで行って呉れ、と通りのさきの狭ッ苦るしい暗い支那家屋につれて行った。歩哨の疑念は晴れぬらしい。カンテラの光に、兵士たちが蠢うごめいていた。 ﹁軍曹殿! こいつ南軍の密偵であるかもしれません。顔つきと、言葉が随分あやしいんであります。﹂ 面倒なことになってしまった、小山は、あれだけ工場で軍隊を世話してやっていながら……と、何か矛盾するようなものを感じた。 ﹁いよう、どうしたんです?﹂聞き覚えの声が暗い隅の方からだしぬけに呼びかけた。 ﹁あゝ、山崎︵しゃきと出た︶さん!﹂小山は、すぐ密偵の山崎だと悟った。助かった! 彼は、歩哨への面あてに、特に、山崎と親しいことを見せつけようとして、蠢めく兵士達を横柄にまたいで握手した。 黒い支那服の山崎は、同様な支那服の中津と並んで、片隅の、眠ねむげな軍曹の前の長い腰掛に腰かけていた。 ﹁どうしたんです?﹂ ﹁ここの兵タイら、これゃ、わッしゅの工場で厄介を見とる、あの兵タイじゃないんでしゅね。﹂如何にも兵士など、わしの風しもに立つべき奴等なんだ! と云わぬばかりの語調で小山は口を切った。彼は、朝、早くから、逃亡した工人を追っかけて、汚穢物乾燥場の、汚穢の乾物を積重ねてある蓆こも俵だわらのかげに、すなんでいたのを掴まえてきた話をした。 ﹁あれでしゅよ。あれでしゅよ。﹂ 入口で、眼をウロ〳〵やりながら、慄えている、よごれて蒼い支那人を指さした。二十一歳だった。額に三ツの瘤があった。ついさきほど、彼に殴られて出来た瘤だった、紅く血がにじんでいた。 ﹁間のぬけた野郎もあったもんだね。張宗昌の兵タイにだって、逃げて捕まるような馬鹿はいねえだ。﹂中津は嘲笑した。﹁いっそ、オトシちゃどうです。ほかの奴等に、又とない、ええ薬となりますぞ。﹂ 中津の殺伐な眼は、舌なめずりでも始めそうにかゞやいた。 小山は眼を細めて反対しなかった。兵士が顔をあげて、今更、珍らしげに中津を見た。 睨み合いと、石の飛ばしあいをやっていた方向で銃声がした。みな、耳を傾けた。山崎と中津は急いで外に出た。山崎は、最前から軍曹に云いつけて置いたことを、も一度念を押した。 ﹁は、は。﹂ 軍曹は、暗がりの中で、彼の背にむかって頭をさげていた。 通りで、浮浪漢が、銃声の方向へ物ずきに馳せて行く。纏足が、その方向から逃げて来る。又、銃声がした。まもなく、この小衝突の一方を敷きつぶしてしまうかのように、灰色の装甲自動車が、機関銃の角をはやし、地響きを立てて疾駆してきた。犬がうろつく。 ﹁チエッ! こういうことをやるからいけない!﹂ 山崎は、頭から、自動車の土塵埃にまかれて、親方が弟子の失策を不満がるように舌打ちをした。彼は、彼として深い計画を持っていた。彼は、そのために苦心した。利用し得る人間は、誰れでも利用した。中津も利用される株だった。 ﹁こういうことをやるからいけない。勝とうと思えば、まず負けろ! だ。﹂ 彼は中津にむかって呟いた。 ﹁勝つも負けるもねえじゃないか、そこらの蟻は、大砲を持ってきて、一となめに、なめッちまえばいゝじゃないか!﹂ ﹁それが……すべて、仕事には、大義名分が立たなけゃ、勝っても、勝った方が負けとなるんだよ。﹂ ﹁君等のやることはいつも面倒くさいね!﹂ 山崎は、中津の剛胆さ、支那人の間にきく顔の広さを好いていた。それは、利用できる一ツの財産だ。しかし、この一とすじものでないゴロツキは、ほかの空想に夢中になって、彼の相談に乗ろうとしなかった。それが気に喰わなかった。 ――顧祝同が、津浦線停車場と、無電局を占領している。それは、甚だ危険なことだった。それは最もひどく山崎を悩ました。本国や、世界各国に送る報道は、彼の思う通りのものでなければならない。そのためには、多少の捏ねつ造ぞうがあってもかまわなかった。その通信機関を顧祝同が握っている。それから、蒋介石は、これ以上、天津、北京にむかって進軍させる訳には行かなかった。満洲を確保する上から最もいけないことだ。そこで、何か、大義名分が必要となってくるのだ。云いがかりといってもよい。それを作るのには、中津のようなゴロツキを手さきに使うのが一番いいのだ。 将校が、横の通りからとび出してきた。 小ぜり合いは、おさまってしまった。二人は、のぞきの看板だけを見物した馬鹿者のように、東興桟の方へ歩いた。 ﹁おい、子供のような、あんな娘さんへの日参はよして、ちっと、俺の仕事でも手伝えよ。﹂山崎は冗談のように切り出した。 中津は、道を歩きながら、すゞの、手や、脚や、肩や、鼻、口もとなどの美点を夢中に数えあげるようになっていた。彼は、彼女を誘かいする計画を空想に描いてたのしんでいた。その計画がどんなに滑稽なものであるか。その結果がどうなるか、そんな点は、考えなかった。彼は、遮二無二、娘を奪い出そうと考えていた。そして、それを、計画し、空想するのが愉快だった。中津は、山崎が、すゞのことを云いだしたついでに、こころよげに、にこ〳〵しながら、自分の計画を打ちあけた。 ﹁君は、一体いくつだね?﹂と、山崎はきいた。 ﹁五十三さ。﹂ 別に、中津は不思議がらなかった。 ﹁あの娘ッ子は、君の子供ぐらいの年恰好なんだよ。恐らく、君の三分の一しか年はとっていまい。﹂ ﹁それがいゝんじゃないか。君には、俺れのこの気持が分らないんだ。あの、軟らかい、子供々々したところが、とてもたまらなくいゝんじゃないか。俺れゃ、この年になるまで、あんな娘は見たことがない。何と云っていゝか、……俺れの全存在を引きつけるような、とても、なんとも云えん気持なんだ。﹂ ﹁いゝ年をして、生若い、紺絣の青年のようなことを云ってら!﹂ ﹁そんな軽々しい問題じゃないよ。俺れゃ、君がどう云ったって、この決心は、やめられやせん。﹂ ﹁ふふふッ、﹂山崎は冷笑した。﹁ちょっと、可愛いゝ娘ではあるが、……しかし、君なら、あの娘のおッ母アが丁度持って来いだ。あの婆さんと夫婦なら似合ってら。どうだい、あの親爺はヘロ中で領事館に叩ッこまれとるし、婆さんをひとつものにしちゃどうだい? それなら、俺も手を貸してやるよ。﹂ ﹁冗談はよせやい。――あんな腐れ婆にゃ、あき〳〵していら。何と云ったって、俺れゃ、処女でなけゃ駄目なんだ! 処女の味は、また、特別なもんだ! 二度とあんな娘は手に入れやしない!﹂ 小山は支那家屋の兵士たちに、糞喰え! のような顔をして、そこを立ち去った。捕まえられた工人は彼のあとにつゞいた。二五
竹三郎は、領事館警察の留置場から、S病院に出た。 彼は、瀬戸引きの洗面器の縁で、自分の足の小こゆ趾びをぶち切った。 それで留置場から出ることが出来た。内地から来たての、若い外務省巡査が、しけこんだような顔をして、彼を監視して病院へついて来た。 マッチ工場で、蒋介石の抗議による守備区域の障害物の撤退、南軍と、日本軍との衝突の危険、などについて、軍隊自身よりも、支配人が気をもんだ。社員は、朝からそわそわした。 工人が、北伐兵の過激派と策応しないとも限らない。十時頃、幹太郎は、親爺が、S病院に出たことを知らされた。 お母ふくろと、だぶ〳〵の詰襟の支那人が、咎めたてる巡警をつきのけて、いきなり事務室へとびこんで来た。彼は吃びっ驚くりした。 お母は、息を切らし、虫がつめた子供のような眼をして、どういっていいかわからないものゝように、何も喋れなかった。幹太郎はそれを見たゞけで、すぐ、すゞがかっぱらわれたのではないかと不安にされた。 ﹁早よ、S病院、去チュイ。あなたのお父ツぁん、負傷あります。日リベ本ンタ太イ夫フ、診みて、出血あります。クヮイクヮイデ。﹂ 詰襟の善人らしい支那人は、日本語と、支那語を、ごちゃごちゃに使った。早く、幹太郎に用談を伝えようとあせる。距離のある眉と眉の間に、皺をよせた。あせると、あせるほど、日本語は舌の先でもつれてしまった。業を煮やして、とうとう、支那語ばかりで叫んだ。分った。 幹太郎は、軽蔑の眼を、小山とかわして冷笑している支配人に、むっとするものを抑えて、一言、ことわった。そして、すぐ、病院の方へとび出した。兵士たちが、街上に撤退する拒馬を重そうにひきずっていた。 ﹁ちょっと待ちなさい。﹂母があとから呼んだ。 ﹁……。﹂ 幹太郎は、母だと知りつゝわざと返事をしなかった。 ﹁ちょっと待ちなさい!﹂母は繰りかえした。 ﹁何ですか?﹂彼は怒ったような声を出した。 ﹁これを持って行かなきゃ駄目なんだよ。﹂虫がつめた子供のような母は、門鑑の巡警の前に立っていた。﹁これがなけりゃ駄目なんだよ。﹂ 帯の間から、小さい、紙の小こば匣こを取り出した。﹁快クワ上イシ快ャンクワイ﹂だ。 ﹁家は大丈夫ですか?﹂ 幹太郎は、云いたくないと思いながら、やはり中津が気にかゝって口に出してしまった。 母は、何をきかれたのか解しかねて黙っていた。 ﹁家は、すゞと俊で大丈夫ですか?﹂ ﹁あゝ﹂と母は無心に云った。﹁今、さっき、出しなに、長さんが、すれちがいにやって来た。大丈夫だよ。﹂ ﹁中津がやって来た!――何をやり出されるか分らんじゃないですか!﹂ ﹁……。﹂ ﹁あんたは、こゝからお帰ンなさい。﹂幹太郎は小さい行きがかりの感情にこだわっていられないと思った。きっぱり云った。 ﹁お父さんは、どうなんだろう。﹂母は躊躇した。 ﹁すゞと俊では、どんなことをせられるか油断がならんじゃありませんか。﹂ ﹁でも……﹂ やはり、夫が気にかゝるらしかった。どうなとなれ! これ以上強いることは出来なかった。母は病院へ急ぐ彼のあとから、詰襟の支那人と二人でついてきた。 彼は、中津のあぶない陰謀に、うすうす感づいていた。母と喧嘩をしながら、それでも蜿えん曲きょくに、家を留守にしないように繰りかえしていた。母とすれちがいに中津が家へやって行った。――それは、彼には、中津が、卑猥な会心の笑みをもらしている有りさまさえ想像せられた。そして、不安はますます強くされるのだった。 竹三郎は、領事館の留置場で、ヘロインがきれてしまった肉体を、我慢が出来るだけ我慢をした。しかし、どうしても、二十九日の拘留期間を我慢し通すことは出来なかった。彼は、監視の若い巡査の軽蔑と、冷笑をあびながら、唸き死ぬばかりに、ばたばたと肉体的にもだえ苦るしんだ。 昔、村会議員になった。ほかの収賄をやった連中を摘発してやろうとした。そんな時代の颯爽とした面かげは、全く失われてしまった。外科病室の、白いベッドで、看護婦達に押えつけられながら、あばれている黄色ッぽい、死にかけた黄疸患者のような、親爺を見つけて、幹太郎は、まず、それを思った。誰れが、こういうことにしてしまったか! 俺達は、誰からも保護をうけてはいないのだ! 日本人の特典は、貧乏な者には、通用しない特典だ! 若い、男まえの、支那人の医者が、骨ばかりの右の足のさきに、繃帯を巻いていた。巻かれながら親爺はうめいた。 医者は、一見、日本人のような感じがした。親爺のちぎれた趾あしゆびからは、紅い血が、ガーゼで拭かれたあとへ、スッスッと涌きあがった。白い繃帯は、巻くそばから紅く染った。 監守の支那人が、いまいましげな顔をしてそばに立っていた。幹太郎が這入って行くと、領事館からついてきた、帽子にエビ茶の鉢巻のついた若い巡査は、二人が、ちょっと顔を見合して室外に出た。幹太郎が、﹁快上快﹂を親爺に与えるために持ってきた。それで巡査は気をきかして場をはずした。――そのことは、幹太郎の方へも、すぐ感じられた。 親爺は餓死した屍のように、かん骨はとび上がり、眼窩は奥の方へ窪んで、喘ぎ〳〵呻いていた。 ﹁いっそ、この際、再び麻酔薬を与えぬように我慢をさして、悪い習慣を打ちきる方がいゝんだ!﹂と息子は思った。 親爺は病的に落ち窪んだ眼で、息子を認めると、扉の外の巡査に聞えるのもかまわず、むずかる子供のように﹁快上快﹂を求めた。 ﹁チェッ! 仕方がないなア!﹂ 薬は与えられた。 竹三郎は、如何にも、うまそうに、むさぼり吸った。たてつゞけに、一と匣分の麻酔薬を吸ってしまった。 ﹁苦しゅうて、苦しゅうて、やりきれんからとうとうこんな芸当をやっちまった。洗面器で足の小指をぶち切った。――そうでもしなきゃ、留置場から出られねえんだ。俺れがどんなにのた打ちまわっとったって、領事館の奴はへへら笑っていやがるんだ。﹂ 母と、詰襟の支那人がやってきた。薬がまわった竹三郎は、足の疼痛を忘れた。自分を取りかこんだ者達にはしゃぎ、唇には、足らん男のような微笑さえ浮んだ。 ﹁全くヘロインの虜とりこになっちまったんだ!﹂と幹太郎は思った。﹁自分の指を切り落してもヘロインが吸いたいんだ! 指とヘロインの交換! 支那へさえ来ていなければ、そんなことになりゃしなかったんだ! あの村から追い出されさえしなければ、こんなことになりはしなかったんだ!﹂ 彼は恐ろしい気がした。 ﹁もうないか。……もっとねえか、吸わせろい! 吸わせろい!﹂ 親爺は、また、子供のようにせびりだした。 支那には、この竹三郎のように、外国人の手によって持ちこまれる阿片や、モルヒネや、ヘロインの捕虜となっている人間がどれだけあるかしれないのだ! 阿片のために、どれだけの人間が者いんじゃとなり滅されつゝあるか知れないのだ。……二六
額の禿げ上った、見すぼらしい跛が、炎熱と塵埃にむれている石畳の小路へ這入った。 ヒョク〳〵して、外見は、えげつない歩き方をしていた。が、身軽るくさッさと歩いた。 暫らくすると、それが、這入った石畳の小路から引っかえしてきた。以前より、もっと身軽るく、片チンバの脚で飛ぶようだった。やがて、洋車を呼ぶと、一足とびにとび乗った。 ﹁早くやれッ!﹂ 洋車は、塵埃と炎熱の巷へ吸いこまれて行った。 小路の奥の、石塀の中の一ツの家では、すゞが、安物の手ミシンにむかって、ドレスを縫ったり、ほぐしたり、また縫ったりやっていた。真直に、平行に行かない縫目が彼女に気に入らないのだ。 天むきの鼻の一郎は、顔じゅうが眼ばかりのように見える。眼が大きく光っていた。去いんだトシ子そっくりだ。彼は、俊のそばに這いよった。俊がよんでいるビラを小さい手で荒ッぽく引ったくろうとした。 ビラは、蒋介石の出したビラだ。学校の、漢文読本の漢本とも、またいくらかちがう。俊はなかなかそれが読めなかった。 ﹁ま、待ってなさいよ。﹂ 手で掴み取りに来る一郎を彼女は追いやった。玩具の犬をやる。 ――国民政府は、この地方に限り、租税を全額免除する。…… 一郎は、犬をほうった。そして、また手を拡げて掴みかかってくる。ビラは皺くちゃになる。俊はそれをのばして、またよんだ。 ――張作霖、張宗昌、強盗、強姦、売国的……… ふと、一郎は、両手で彼女の手からビラを叩き落してしまった。紙はずた〳〵になった。まだ、よみさしである。 俊は、それが惜しいとは思わなかった。彼女は、何か考えていた。すゞは、一心に、ミシンに注意を集中している。針が急速に、規則的に上下する。縫目がジャリ〳〵と送られて行く。 ﹁ちょっと、あの人、今日、何だか変におかしかったわよ。﹂ ﹁なアに?﹂ すゞは空虚な返事だった。 ﹁なにか、たくらみがありそうだったわよ、あの怒ったような眼で、じろ〳〵家ン中や、私達を見て行っただけじゃないわ。眼と、口もとの笑い方に、恐ろしい何かがあったわよ。﹂ ﹁そうかしら。﹂ 猫のような俊は、先日からの中津の行動をいろ〳〵に思い起していた。恐ろしい何かの兆候が、二三日も四五日も前からあった。 ﹁ちょっと! ちょっと!……﹂ 俊は﹇#﹁俊は﹂は底本では﹁俟は﹂﹈また姉を呼んだ。…… 支那宿の東トウ興コウ桟サンの一室には、張宗昌の退却後、変装をして市街にとゞまっている中津の仲間が集っていた。四五人だ。荒っぽい、無茶な仕事が飯より好きな連中だった。せいの低いずんぐりした唐タンは素手で敵の歩哨に掴みかゝって、のど笛を喰い切り、銃と剣を奪ってくるような男だった。金持の娘や、細君を、人質にかっぱらった経験は、みんなが三回や、五回は持っていた。 床チア篦ンペ子イズ、卓チオ子ズ、机ウー子ズ、花模様の茶壺、旅行鞄、銀貨の山。 中津は、何回となく空想で練り直した掠奪の計画を、実行する段になって、なお、心は迷っていた。いっそ、根本からよしてやろうか。孫娘を可愛がるように、可愛がるのはいゝことだ。その方がいゝかもしれん。こんなに迷うことは、嘗てなかった。が仲間には、それは、おくびにも出さなかった。ともかく実行方法を話した。仲間を三台の自動車に分けて乗らす、日本軍の守備区域を走る時には、山崎に云って、誰何されない交渉をした。和服の娘を無理やり積みこんでいるのを歩哨に目つけられると面倒だからだ。南軍の駐屯している区域にさしかゝると、かねて手に入れておいた、青天白日旗を自動車に立てる。そういうことにした。 二台の自動車は、街を流している。中津は娘を、おびき出してそこへ、歩いて通りかゝる。さきの一台が、急停車をする。刹那に、躍り出た仲間は娘を車中へさらいこむ。中津は、うしろの車に乗ってあとにつゞく。こういう風にきめられた。妹も、子供もついてくれば、三人共、さらって行く。そして、こゝから約四哩の黄河の沿岸の口ロンコーまで、一息にとばして、そこから天津方面へ落ちのびるのだ。こういう計画だった。若し、すゞが、中津のさそいに乗らなければ、五人が屋内に押し入って行くつもりだった。暴力で拉らつ致ちするよりほかはなかった。金は銀が五百元あった。それから通らない、紙幣が三千五百元あった。 中津は、なお千円ほど工面をしなければならなかった。 同宿の山崎は、頻りに、この暴動を思い止まらせようとするのだった。けちくさい男だ。中津にはそれが、金を貸すのが嫌いだからとめていると取れた。それは急所を突いていた。そして、彼はとめられればとめられるほど、依い怙こ地じになった。 ﹁よさないか、おい、そんなことは……﹂と、山崎は云った。﹁郷票をかっぱらうんなら、まだ分るが、鐚びた一文もない軟派の娘をかっぱらってどうするんだい。ええ、冗談じゃないぜ。﹂ ﹁黙ってい玉え!﹂中津は、時刻が迫れば迫るほど、動揺をかくして、糞落ちつきに落ちついていることを示そうとした。 ﹁君が、芯からそんなに熱心なら、なにも、かっぱらわなくたって、結婚を申し込めばいいじゃないか。野蛮な暴力的なことをやらなくたって、正式に娘を貰えばいいじゃないか、それなら俺れだって賛成だ。﹂ ﹁馬鹿云い玉え!﹂と中津は笑った。﹁張大人だって、北京の東トン安アン市シー場チへ行く途中で、ちょっと見た別嬪を早速、自動車へかっぱらって、タイタイとしちゃったじゃないか、俺等にゃ結婚申込なんて、お上品なやり口は、性に合わねえんだ。ほしいものは、どんどん遠慮なしにかっぱらって行く方が、はるかに、面倒くさくなくて愉快じゃないか。﹂ 中津の仲間の赫ヘイ富フク貴イは、濁った眼を細めながら、賛成するように頷いた。 ﹁やっぱし、君等は、馬賊の習慣から、ぬけきれねえんだ。﹂ 中津は笑った。 ﹁そんなこというのは、理屈ッぽいあの娘の兄と君だけくらいなもんだよ。この広い支那じゅうで。﹂ ﹁いいや。俺れゃ真面目に云ってるんだ。君のために。﹂ ﹁真面目もへったくれも有ッたもんかい!……気に入りゃ、かっぱらって嬶かかあにするし、いやになりゃポイポイ売ッとばすんだ。世話がなくって、どれだけ気しょくがいいか知れめえ!﹂ ﹁あんまり増長するなってよ! 俺れゃ歩哨線の通過なんか知らねえぞ。﹂ ﹁ふふふ。……知らなきゃ、知らなくッてもいゝさ。その代り俺れの方もバラシてやるから、――ネタはいくらでも豊富に掴んでんだぞ。﹂ これはおどかしだった。 集まった五人は、出発前の酒杯をとった。五人に較べると、山崎は、まだ、どこともなく日本人くさい感じが残っていた。さかずきをすゝめてもプリッとしてのまなかった。その身肌につけている五挺の、全部弾薬をこめたピストルは、大褂児の上から、胸に二挺、両脇に二挺、右の腰のポケットに一挺と、一寸した服の凸凹によって見破られた。――このケチン坊、なかなか金を溜めこんでけつかって、人には貸そうとしやがらねえんだ! 中津は、忌いま々〳〵しげに考えた。畜生! こいつは、支那へ奔放自由な生活をたのしみにやって来ているのじゃないんだ。小金をために来てやがるんだ! チェッ! くそッ! 自動車がやってきた。 も一度、中津は正式に嫁に貰って、孫のように可愛がってやったら! と思った。 その方が平和で、その方がよかった。が、もう一歩を河に踏みこんでいた。どうせ、激流でも渡ってしまわなければなるまい! ﹁さア、出かけるとしようか。﹂彼は立ちあがった。金が、たりないことにも、気がかゝった。 ﹁ボーイ、毛布はどうしたんだ?﹂眼を細めて賛成した赫ヘイ富フク貴イが云った。﹁あのロシア毛布を前の車に積んどけ。﹂赫はまた、快よげに眼を細めた。﹁――街ンなかを通る時にゃ、女をすっぼり頭からくるんどかないと、今日びの物々しい戒厳では、一寸、仕事がむずかしいからな。あのカーキ服の歩哨に猿さる轡ぐつわをはめた女が見つかった日にゃ最後だよ。﹂ 五人の者は、身支度を整えて、廊下へ出た。二階の窓硝子から通行人のポケットへ手を突ッこんでいる青鼠服が見えた。ボーイは毛布をもってきた。 ﹁それじゃないよ。ロシア毛布じゃないか。﹂ 赫は大声で呶鳴った。 中津の金のバラ撒き方は荒かった。向うにいた別の、少女のような美しいボーイが、赤茶色のロシア毛布を手にして馳せ出してきた。 ﹁うむ、これこれ。﹂赫は階段のところでそれを受取った。手のこんだ、厚い、いくらか、はしッかいような毛布だ。赫は、ちょっと、両手をひねらした。と思うと、一瞬に、スッポリと美しいボーイを頭から毛布にくるんでしまった。 ﹁呀アイヤ!﹂ボーイは不意打ちを喰って、びっくりした。 ﹁どうだい、こうやるんだ。﹂自分の手に入ったやり方を誇らしげに、赫は、ほかの者達を見まわした。 ﹁こうやればもうしめたもんだ。﹂ 中津は満足げに笑っていた。 山崎は、この五人のゴロツキどもを、なお、未練げになにか釣銭でも取ってやりたいように見送っていた。ふと、彼は中津の耳もとへ馳せよって、何事かを囁いた。中津は頷いた。――いくらかの金が中津へ渡された。…… 自動車は、太タ馬マ路ルから、拒馬や、鉄条網が、頑張っていない、緯ウイ四路ルへ出て、七馬マ路ルで永イン門スイメンの方面に曲り、日本軍の警備区域でもなく、南軍が散在している区域でもない、その中間の線を選んで迂廻した。中津は、洋車で十シワ王ンテ殿ンへ乗りつけた。 おびき出した娘をかっさらッちまうのは、館駅街に於てやる。打合わせが済まされていた。 中津は、洋車からおりた。一時間ばかり前に、飛ぶように這入って飛ぶように出てきた石畳の小路を、又とぶように歩いて行った。アカシヤの青葉が風にさらさらと鳴っていた。その下を、彼は進んだ。 跛をひきながら、しかも、青年のように元気な足どりで。足が地につかぬものゝようだった。 門はしまっていた。 中津は、王ワン錦チン華ファを呼んだ。内部に人の気配がする。それだのに返事がなかった。また、彼は呼んだ。 数言の強迫的な文句の後、かんぬきが、ガチッとはずされた。中に支那人のボーイがおずおずと立っていた。 ﹁どうしたんだ!﹂ ﹁はい。……いらっしゃいませ。﹂ ﹁どうしたんだ?﹂ 屋内には、ついさきほどまで、ミシンをかけていたすゞが、縫いさしのドレスをそのまゝに見えなかった。俊も、一郎もいなかった。 ﹁どうしたんだ?﹂ 中津は勝手を知っている部屋々々を急速に一巡した。身体だけで、何物も持たずに逃げ出したあとがあった。――﹁感づきやがったな! どっかへ、かくれたな。逃げだしやがった!﹂ 暫らくうろ〳〵していた。自動車で待ちかねていた連中がどやどやと押しよせてきた。 掠奪や乱暴がすきな連中だった。 仏壇をはねかえした。抽出しをぬいた。中の快クワ上イシ快ャンクワイと、銅トン子ズ児ルが、がらくたのように床の上になだれ落ちた。 体裁よく飾りつけられた屋内のさまざまなものが、片ッぱしからめちゃめちゃに放り出された。めぼしいものは、五人の手が、それを掴み取ると、慌てゝポケットへねじこんだ。 娘の掠奪がいつのまにか、家財の掠奪にかわっていた。 それも彼等には、非常に面白かった。二七
幹太郎と、お母ふくろは、病院から家へ帰ろうとした。洋車に乗った。 何処からともなく、小銃の音が五六発聞えた。 花火だと思った。 街を、剽ひょ悍うかんな蒙古騎兵の一隊が南へ、砂煙を立てながら、風のように飛んで行く。 カーキ服の兵士達は、着剣した銃をさげ、ばらばらとそのあとへ現われた。豆をはぜらすような、小銃の発射は、方々ではげしくなった。緯ウイ六路ルへさしかゝると、俥夫は、おじけづいて、しりごみした。 ﹁早くやれッ! 家へ帰ってみなきゃならんのだ!﹂ 緯五路まできた。壁が厚い洋館の二階から発射される弾丸が、ヒウヒウと、街路の上をとび交うた。 兵士が走る。はだしで、シャツの前をはだけた日本人が走る。紅い繻しゅ子すの、前髪の女が、ころげそうに走る。 そこから、緯三路まで、突ッきって行く。その間が、幹太郎自身も、危険だと感じずにいられなくなった。 ﹁早くやらんか! なに、マゴ〳〵しているんだ!﹂ ﹁旦那、いけましねえ。いのちあぶない。﹂ ﹁かまわん! やれ、やれッ!﹂ しかし、苦力は、どうしても進まなくなった。 これは、彼の家の掠奪に引きつゞいて急激に起ったことだった。まさに崩れようとする家は、一本のくさびをはずしても、巨大な屋台骨が、一度に、バラ〳〵に崩壊してしまうものだ。喧嘩買いには、袖がちょっと触れるだけで十分だ。それが、結構云いがかりとなる。 中津の掠奪が市街戦のきっかけとなった。中津の乱暴を見て、附近にうよ〳〵している青い服が押しよせてきた。家は叩き毀こわされた。それをきいたカーキ服が馳せつけた。撃ちあいはすぐ始まった。そして、瞬くひまに全市にひろがってしまった。まるで、用意をして、待ちもうけていたものゝように。 猛烈な、有名な市街戦が、これから引き起されて行った。 KS倶楽部の土間は、命からがら、身をもって逃のがれて来た人々で埋まっていた。 避難者は、そのあとから、まだ、まだ押しよせて来た。 青鼠色の南兵に、出口をふさがれ、壁を破って隣家へ逃げ、支那服を借りて、通りかゝった洋車のあと押しをして、苦力に化けてのがれてきた男があった。妻が南兵に拉らつし去られるのを目撃しつゝ、自分だけ、のがれてきた男があった。毛布、風呂敷包をかゝえて来る者。サル又と襦袢だけの者。父親の背に背負われて、身体の具合が悪いような泣き声で眼が赤い小さい子供。 ﹁まあ、百も々もちゃんはえらいんですよ。私がつれて避難して来る時に、若し、南軍に掴まったら、どうするかってきくとね、おッ母さんと一緒に剃かみ刀そりでのどをかき切って死ぬるッて云うんですよ。﹂腹にボテのある呉服屋のお上は、一人だけ得意げに癇高く喋っていた。﹁本当にえらいでしょう。これこそ日本男児ですわね。﹂ 彼女は、十歳ばかりの鼻の平たい子供を高く抱き上げて人々に示した。 ﹁まあこれこそ、本当に日本男児ですわね。﹂ 知っている人間の顔を見ると、この太ッちょの牝鶏は、相手の心配をかまわず、誇らしげに、これを繰りかえした。 すゞと、俊とは、この土間の片隅に、人々に押されて、小さくなって蹲うずくまっていた。一郎を南軍に取られてしまった! 彼女たちは、父親の背でむずかる眼の赤い子供を見て、始めてそれを思い出した。どこで失ってしまったか? はっきりした記憶がなかった。 ひっかえして探しに行くのは、命がけだった。彼女は、自分の身を守るだけに力いっぱいだった。 ――また、おおぜいの女達が足袋はだしで、どや〳〵と飛びこんできた。詠エイ仙セン里リの娼婦だった。支那兵が女郎屋街に這入りこんだ。娼婦はすっかりあわてゝしまった。 裂けたワイシャツに、ズボンだけの男は、アンペラに腰をおろすことも出来ず、弾丸よけに毛布を垂らした窓の傍に突ッ立って、唇をかみしめ、ポケットに、片手を突ッこみ、光った眼で前方を見つめていた。じっとしていられない焦躁が、その身体全体に現れていた。妻と子供を見失ってしまった人だった。 ﹁まあ、小出さん! おききなさい。うちの百々ちゃんはね……﹂ また、牝鶏がうるさく繰りかえしだした。 すゞは、中津らが彼女の家へ押し入ってきた時、俊と一郎と三人で隣の馬マカ貫ン之シの棕しゅ梠ろの張った床チャ篦ンペ子イズの下で小さくなっていた。それを覚えている。たしかに三人だった。寝台にも、寝具にも、その附近すべてに、支那人の変な匂いがしみこんでいた。 家の方では、大勢の荒々しい足音と、罵る叫び声と、破壊の騒音が渦を巻いていた。板をはぎ取るめりめりボキン。戸棚が倒れる轟音、硝子が割れる音、壁がどさる音。 恐る、恐る、彼女は床篦子の下から這い出て窓に近づいた。そして、眼だけを出して外をのぞいた。石畳の、無気味な小路に、青鼠服の兵士が、いっぱいうごめいていた。 彼女の手ミシンを小脇にかゝえて、向い側の小路へ消えて行くよごれた男があった。針金の鳥籠が踏みへしゃがれていた。 よく隣の馬貫之の細君にかくして貰ったものだ。 誰れか、外から門を叩く音がした。殺しに来た気がした。また床篦子の下へ這いこんで首をすくめた。 荒々しい足音が近づいた。彼女達は呼い吸きをとめて耳を澄ました。 馬貫之だ。 ﹁あなたがた、ここにいては危いです。早く便所にかくれなさい。﹂――馬貫之は親切だった。 便所へ逃げた。 そこも、見つかり易かった。困った。もひとつ隣の支那人の家が、この便所にくッつこうとする、そこに隙間があった。俊は、夢中に、六尺の塀をよじのぼった。そして、その間にとびおりた。そこはよかった。すゞもあとからつづいてとびおりた。 五六人の足音が、塀の向側でどやどやと椅子や箱を蹴散らしている。 便所にも来る様子がした。塀がドシンと蹴られた。耳をすました。話声は支那語だ。中津だろうか南兵だろうか? どっちにしろ見つかれば殺されるか、裸はだ体かに引きむかれるかだ。 家と家の隙間は、反対側の小路に通じて開いていた。慌てゝ、白足袋跣はだ足しで、逃げて行く人かげが細い間からちらッと見えた。着剣のカーキ服が馳せて来る。何も考えるひまはなかった。その小路へとび出した。 そして、人が走って行く方へ一目さんに走ってしまった。前にのろ〳〵と行く者は、押しのけて走った。一郎はどうなったか忘れてしまっていた。 KS倶楽部へは、あとから、あとからといくらでも避難者が押しよせて来た。いつのまにこういう大動乱になってしまったか? 彼女達は不思議に思った。彼女の家が市街戦のきッかけとなった。それは知らなかった。悪いのは南兵だ。そう思わせられた。多くの人々も、勿論、そう思っていた。いつでも事件のきッかけは中津のような反動のゴロツキが必要に応じて作っているのだ。そういうことは勿論知らなかった。 遠いところや、或は近くで、大砲や銃声が断れ〴〵に、又、つゞいて響いていた。大砲が発射されるごとに、硝子窓は、ビリビリッと震動した。頭をめちゃ〳〵に斬られた人が這入ってきた。何時間かが過ぎた。 男の者が外に出て米をといだ。 飯が出来ると、その男たちは、自分の知っている者や、女郎ばかりに飯を配って、向うの方の人々は、腹いっぱいに食べていた。が、知り合いでない者には一杯もあたらなかった。すゞと俊とは自分達がのけ者にされてしまったような淋しい感情に満された。兄がいれば、飯を食べさして貰えるだろう。ふとすゞは、そんなことを思った。紅い着物の娼婦達は、もう沢山というのに、なおも一ツずつの握り飯を強いられていた。 ようよう、向うの人々の食った残りの飯が、櫃ひつの底にちょっぴりまわって来た。一段下の別扱いをされたような腹立たしさがした。しかし、それを食い逃がしたら、又、いつ飯を食べられるかわからない。 みんな、我れさきに、その飯をよごれた手に掴んで取りがちをした。それは悲惨ながきのような有様だった。 夕方、人々は、S銀行の宿舎へ、移れという命令をうけた。ここでは防ぎきれないからだ、と云う。 すゞは、俊の手を、しっかりと握りしめた。弾丸があたらないように壁に添うて大通りへ出た。いつもはにぎやかな大通りが、がらんとして、犬の子一匹も通っていなかった。時々、銃声がぱッぱッぱときこえた。 ﹁あれ見なさい! あれ……南軍め、沢山やられとる。﹂ 子供をおぶって、走せて行く、鬚の男が、馳せながら、郵便管理局の構内を指さした。 ﹁何だろう?﹂ すゞはちらっと、指さゝれた方へ顔を向けた。 鉄条網を引っぱった柵の中に、武装解除をされた紺鼠の中山服の兵士達が、両手を後に縛られて、獣のように、呻いたり、わめいたりしていた。何十人いるか? 何百人いるか、数がわからない。着剣した銃を持って、四五人のカーキ色の兵士が、ばらばらと立っていた。 ふと、俊が、何か叫ぶと、彼女の手を重く引いて、地上にがくッとへたばった。 ﹁どうしたの?﹂ 俊は、流弾に脚をうたれていた。白ッぽいメリンスに血がにじんでいた。 ﹁どうしたの?﹂ 傷の痛さよりも、弾丸にあたった意識が、すっかり、張りつめた気持を奪ってしまった。俊は、どうしても立ちあがれなかった。ほかの者はどんどん彼女達を抜いて走った。 すゞは、妹に、自分の肩へすがらして、背負って立上った。二人だけが一番最後に取り残されていた。たび〳〵重い妹をすり上げた。つめたい血が、せわしくかわす、ふくらはぎに、ぽた〳〵流れかかった。 ……人々は、S銀行の舎内のゴザの上で、一夜を過した。二枚のゴザの上に、十三家族が坐るのだ。医者はなかった。すゞは、ハンカチを裂いて、うたれた紫色の俊の太股をしばった。 二人には、ゴザの端もあたらなかった。板の上に坐った。 ﹁そこでは痛いでしょう。これに坐んなさい。﹂ お歯ぐろをつけた小さいおばさんが、自分のねまきをゴザの代りにひろげた。 すゞは、そのおばさんの顔を知らなかった。しかし、その上で血で、ねまきを汚さないように気をつけながら俊に脚をのばさした。 二人は、並んで、おばさんの、ねまきの上に寝た。 ﹁あゝ、恐ろしいこった。今日中にどれだけの人間が殺したり、殺されたりしたか、数が知れまい。﹂ と、おばさんは吐息をして、なむあみだぶを唱えた。 ﹁……すっかり財産を失った人がどれだけあるか知れまい……百ではきくまい。家を壊されてしまった人だって、どれだけあるか!……あ、あ、怖いこった! 怖いこった!﹂ なむあみだぶ。 なむあみだぶ。 夜はふけた。俊は、歯を喰いしばって疼痛をこらえようとしたが、唸きが、ひとりでに、その歯の間から漏れた。 大砲は、なお遠くで、静けさを破って轟いていた。人の鼾いび声きごえや、犬の吠えるのがきこえる。電燈だけが、ます〳〵明るくなっていた。憲兵の靴が、廊下にコットン〳〵とひびいた。 翌日、お昼すぎ、二人は、脚を怪我した父と母がいる病院へつれて行かれた。 そこで、俊は手あてを受けた。二八
軍隊と戦争には、殺さつ戮りくと掠奪はつきものである。 戦争が起れば、必ず、掠奪が行われ、徴発が行われ、殺人が行われる。 これが、利害に応じて、誇大に報道される。又、利害に応じて、反対に黙殺され終る。 この日の、虐殺された邦人は、二日後に土の中から発見した九人をも合わして十四名だった。 内地のブル新聞には、それが、二百八十名と報道された。 新聞は、婦人を裸体にして云うに忍びざる惨酷な嬲なぶり方の後、虐殺した、と書いた。娘は局所に棒を突きこまれ、腕の骨を棍棒で叩き折られ、両眼をくりぬかれた。と書いた。 特派員の眼前には頭蓋骨を叩き割られた死体の脳味噌が塵の路上にこぼれていると知らせた。 掠奪についても、同様な報道がせられた。 貴重品や被服は勿論、床板、畳、天井板をひっぺがし、小学生の教科書をまでかっぱらった。そして、金鎖、金時計、大タヤ洋ン二百四十元、紙幣三百八十元を強奪された。その遭難者の談が載せられた。 それを読んで、南軍を憎まない人間は、どうかしている。暴兵を全滅せしめるのが当然だと憤らない人間はどうかしている。 それほど誇大な報道の力は強かった。 国民の輿論、敵がい心、兵士達の向う見ずの勇気、憤激などは、こういう報道から不可避的に作り出されて行くのだった。 山崎は、これを理解していた。そして、利用した。 三日目に、彼は、津浦線ガードの東北の畑地で、新しく盛られた土饅頭の下から、埋められた惨殺体を発見した。 新らしい鍬のあとが明らかな土饅頭は、何となくあやしげだった。 掘りかえした。 一人の女と、二人の男がなまなましい、酸ッぱい匂いを放ちながら横たわっていた。更に、そこから僅かばかり隔った亜細亜タンクの附近にも六名の死体がかくされてあった。左右の耳が斬りそがれ、ある者の腹は石をつめこまれてふくらんでかたくなっていた。 十王殿も、館駅街も、多くの家が掠奪と破壊のために、ごたごたにひっくりかえされて見るかげもなくなっていた。 支那服の山崎は、そこを見てまわった。――これを知らしてやらなければならない。と、彼は考えた。兵士たちにも、邦人にも、内地へも。 職業的な感覚から、彼は、これを知らせば何が起るか、それはよくわかった。十名内外を二百八十名と云いふらす偉大な効果を、この男はよく知っていた。戦争は、国民を興奮と熱狂の状態に誘導しなければやり得るものではない。敵を極ごく悪あくに宣伝しなければならない。第三者の同情を引かなければならない! 彼はこれをよく知っていた。…… 彼の友達の中津が、まッさきに、侵入して掠奪した家は、十王殿に、バラバラの空骸となって残っていた。これがきッかけとなったのは、彼にとって、もッけの幸いだった。乞食がそこへ這入っていた。第一回の掠奪の後、放りさがされて散らばっている、壊れ椅子や、アンペラや、柄が折れた娘の洋傘を盗み出していた。全く俺はこのきッかけをうまうまと利用したものだ。 ﹁そうだ、これが猪川の家だっけ。﹂と彼は他人事のように呟いた。 ﹁ここを南軍の奴等が掠奪したのが、戦争のもとになったんだ! そうだ。非は南軍にあるんだ!﹂ この得手勝手な男はその前に立ち止った。壊れた厚い壁のかげで、乞食はこそこそやっていた。 ﹁おい山崎さん!﹂ 耳に不快な記憶のある声が背後でした。 ﹁ああ、陳チン先セン生ショ!﹂ ドキリとしたものを、山崎は取りつくろった。 S大学へ学生に化けてしのびこんだ。それ以来、酬いを約束しながら、幾度かはぐらかして一元も渡さずにいる陳チン長チャ財ンツァイだった。 ﹁どうです。景気はどうです?﹂ ――陳は複雑な笑い方で山崎を見た。 ﹁あゝ、そいつか、――そいつは、また今度だよ、このどさくさに、そこどころじゃねえんだ。﹂ ﹁また今度? また今度?﹂陳は繰りかえした。﹁……何回でもそんなことが云えた義理じゃあるめえ!﹂一歩を山崎に詰めよった。誰の力で、アメリカの秘密を具体的に掴むことが出来たんだ! 誰の力で貴様が手柄を立てたんだ! その眼はそう云っているようだった。 ﹁厄介な奴がついて来やがった!﹂と、山崎は考えた。 ﹁いっそのこと、この、どさくさまぎれに、片つけッちまおうか。﹂ 彼は、歩き出した。 陳はあとからついて来た。 どこまでも、尾行のように、あとについてきた。館コア駅ンイチエ街に出た。緯ウイ一路ルへ曲る角にきた。山崎の右の手は、前後左右に眼をやったかと思うと、大タア褂コア児ルのポケットに行った。 次の瞬間、豆がはじけるような、ピストルの響きが巷に起った。殆んど同時に、陳長財の手元にもニッケル鍍金のものがピカッと光った。 しかし陳は、引ひき鉄がねを引くひまがなかった。ピストルを持った手を壊れた屋根の方へさしあげビリビリッと胴慄いをして、がらくたものが散らばっている街上に重くドシンと倒れた。 ﹁くたばりやがった!﹂ 山崎は歩いた。このピストル一発で、陳に渡す三百元が、自分の懐へころげこんだのだ。それを思うとぞくぞくした。 彼は、邦人の家が掠奪された有様や、両耳を斬られた女の屍体、腹に石を詰められた男の屍体、それを、兵士達や、避難民や、内地の大衆に知らしてやる必要があった。そのことを考えた。世界中に知らしてやる必要がある!…… 司令部の前に来た。 ﹁止まれッ!﹂ 歩哨の声は彼の耳に入らなかった。 ﹁止まれッ!﹂ やはり彼は、何事か考えながら歩いていた。 そこは、北軍退却の以前から厳重な服装検査と警戒のあるところだった。孫伝芳の自動車もそこで停止を命じられたりした。 自動車の主は引きずりおろされた。ポケットはさぐられた。 ﹁俺は、孫伝芳だぞ!﹂ 金モールの額のはげ上ったおやじは、じだんだを踏んで口惜しがった。 ﹁俺は、孫伝芳だぞ! 無礼者め!﹂ けれども、歩哨には、直魯連合軍司令もヘッタクレもあったもんじゃなかった。すべてが同じだった。任務をはたすだけだ。 ﹁チェッ! 孫伝芳ッて何だい! ごつげな、いい金モール服を着てやがって、どこの馬の骨だい!﹂ 山崎が通りかゝったのはこの歩哨線である。歩哨は、支那服の、支那くさい男を咎めた。 ﹁止まれッ!﹂ 山崎は、自分の支那服を忘れて、すっかり日本人のいい気持になっていた。惨酷な情報で、群衆の熱情をあおり立てる、その沸騰する有様を、夢中に想像していた。話してやる! 知らしてやる!……そして、誰何されるのは、ほかの支那人だと感じた。そんなつもりだった。 ﹁止まれッ!﹂ まだ、彼は気がつかなかった。 つゞいて銃声がした。 五挺のピストルと、八千円の預金通帳を肌身につけて離さなかった山崎は、ぱたりひっくりかえった。 くたばっちゃった。とうとう!二九
飛行機がとんできた。 市街の上空にさしかゝると、それは、糞をする鳥のように、続けさまに黒いかたまりを落した。スーッと空中に線を引いてボーンと地響きがする。投下爆弾! 三機である。くの字形に距離を置いてとんでくる。古巣のような、この街の上空に大きな円を描いて翔けめぐった。西端の上に来た。その中の一ツは、ポッと硝子だまのようにはじけた。すると、すぐ、火花が散った。そして機体は黒烟を吐き、火焔となって、つばさは、真二ツに折れ、真直に、大地をめがけてもぐるように墜落した。 市街戦はすんだ。 兵士たちは、ぐたぐたに、二日半の休息を得た。酒。一週間吸わなかった煙草を二日で吸い戻した。 街路の到るところに支那人の屍体がころがっている。 酸っぱい臭気! 無数の唸る蠅。 毛並の房々とした野犬と、乞食が、舌なめずりをしながら、愉快げに、野犬は尾を振り立てて屍体の間をうろ〳〵していた。 爆破された無電局の、天に突きさゝるようなアンテナ柱は、半分どころからへし折れ、傾き、倒れかゝっていた。振りかえる者もなかった。直す者もなかった。黒い土のような人間が、その下にころがっている頭蓋から脳味噌をバケツに掻き取っていた。 不意に出動! 午前四時、疲労が直り、性慾が頭を擡もたげかかった頃である。兵士達は、急然と叩き起された。 柿本は、支那商館の石の窓口から、とびこむとき、向う脛ずねをすりむいた。沃ヨウ丁チンを塗ったあとが化膿して、巻脚絆にしめられる袴下は、傷とすれた。びっこを引きながら整列に加わった。東の空が白みかけたばかりだ。高さ四丈、幅七間、周囲三里の城壁を攻撃するのだ。リンとした寒い中隊長の号令。目に見えぬ顔。重藤中尉は、軍刀を掴んで歩いた。鉄条網を丸めて、片方にのけた狭い出口から兵士たちの列伍は、電柱伝いに行進した。 路は、露で、しッとりとしていた。静まりかえっている。歩調の揃った靴の音ばかりが、ザックザックと暗い空へ吸い込まれて行った。S病院の西側には、低い力のこもった号令で、砲兵隊が、がちゃ〳〵車輛をゆるがして砲列を敷いていた。兵士たちは黙って進んだ。青みかかった雲は、東方からさしてくる赤い日の出に、薄紫色に染めぬかれて、ゆるやかに動いていた。明るくなる。 墜落した飛行機に棟を折られた民屋は、甲羅をへしゃがれた蟹のようにしゃがんでいた。兵士たちばかり。家に人気はない。草は人間に踏みにじられて姿も分らなくなっていた。 だん〳〵高取や、木谷や、那須などの顔がはっきり見分けられるようになってきた。でくの坊のように、銃をかつぎ、背に、飯盒をつけた背嚢を喰いつかせて歩いていた。 戦争の恐怖以外に柿本は、中ン条の小母が子供を殺され、家がすっかり掠奪され、明日から宿も、食物もない心配で、くしゃ〳〵していた。折角、俺れがやって来ていながら、どうにもしてやることが出来なかった! 高取らが、でくの坊の馬鹿のようにして歩いているのにも理由があった。忍従しているのだ。 中隊は破壊しつくされた街に這入った。窓硝子、扉、壁、屋根、すべてが滅茶苦茶だ。籐張りの女の下駄が片脚だけ放り出されて、靴にあたった。兵士たちは、石の高い頑丈な家と塀とをまわって、広い荒らされた、草ッ原に出た。そこをはすかいに横ぎった。そして、又、破壊された家ごみに這入った。縫うように、細い道を折れ曲った。 太陽は、壊れたぎざ〳〵の屋根の間から輝かしく、鮮やかにぬッと浮び出た。空の方々に散在していたきれぎれの雲は、どこかへ消え失せてしまった。また暑くなる! ごたごたしたすべての物が、強く照し出された。 中隊は大通りへ出た。城壁の外門へ一直線である。外門の上の建物に、青天白日旗が、ひら〳〵と翻ひるがえって見えた。 どこかで、何かの合図が聞えたものゝようだった。と、遙か後方の砲列を敷いていたあたりから、砲声が轟き渡った。つゞく。空を唸って、前方で爆発する。それに応じるもののように、反対の東の方で、銃声が連続して起った。柿本は、腓ふく脛らはぎが、ぴく〳〵、ぴく〳〵と顫えた。そして全身で身顫いした。 その時である。中隊の縦列は、だしぬけに、側面から射撃を受けた。中隊長は、耳のすぐ上で、数発の銃声がパチパチとひゞいたのをきゝとめた。T病院の二階からだ。柿本もそれをきいた。銃声は杜絶えた。 ﹁あ、あ、あんなところから不意打ちを喰わして居る!﹂ 特務曹長は、なさけなげな声を出して、アカシヤのかげにかくれるように伏せをした。兵士たちは顔を見合わした。ひとりでに、微苦笑が口をついて出た。同時に、彼等は、たまげちゃったような中隊長の散解の号令をきいた。 ﹁そら、また、ここへ突ッ込めだぞ。﹂ 高取は、にた〳〵意味ありげに笑って、どっしりとした玉田に云った。柿本にもそれが聞えた。 ﹁なんだ、何も居りゃせんじゃないか。﹂ 玉田は、頸をあげて、二階建の病院を見まわした。それが終らないうちに、右翼は、重藤中尉が先頭に立って、開き扉を押し割り、着剣した銃を突き出し、クレゾールくさい室内へ突入していた。つづいて兵士がどや〳〵となだれこんだ。白い服の看護婦がちら〳〵していた。ベッドには病人がねていた。肋膜炎、腎臓炎、胃かいよう、心臓弁膜不全症――内科と外科は別だった。多くの部屋を区切った扉は、次々に、バタン、バタンと突きあけられた。泥靴がベッドにとびあがった。手術台の厚い硝子は、亀裂が入った。 これが、その当時の記録に、﹁第×××聯隊が、逐次暗夜を辿りつゝ城門に近づかんとするや、俄かにその北側にあるT病院内より支那兵の猛射を受け、危険極まりなきに到ったが、該建物が病院たるの性質にかんがみ、一時、その措置に窮した。しかし、何分、事態急迫し、躊躇すれば、暴兵の乱射のため、多大の損害を受けざるを得ぬので、N大尉は一部隊を以てこれを駆逐せしめた。当時、急迫の場合の措置として、寔まことに、止むを得なんだのである。云々﹂と弁じている事件である。 約三十分の後、兵士たちは、不愉快な記憶を脳髄にこびりつかして、病院を引きあげた。不愉快な記憶は、一日中、とれなかった。翌日も、それは取れなかった。柿本は気がすゝまぬ様子で、渋々と動作をした。そして何か、自分でも分からないような考えにふけった。――﹁子供の病人が壁に突きささった。そして、胸から血潮を吹いてガクガクっとその下に蹲うずくまった。そんなことをしてもいゝもんか! そんなことがあってもいゝもんか!﹂悔恨のようなものに苦るしめられた。﹁あの顔色の蒼い女は、口をあけて、何も知らずベッドの中でねむっていた。……毛布に三角の小さい孔があいた。そうしてあの女は、永久に醒さめることなく眠っているだろう。……俺れの手はあの時顫えた。力が、腕から急に抜けてしまった! そうだ、俺れらは、あんなことまでさせられたのだ!﹂ 彼等は、隊伍を直して城門にむかった。攻城戦は既にたけなわになっていた。タラッ! タ、タ、タ、タ、タ、タッタ! 機関銃が城門の内と外から呼応して、迅く、つゞけさまにひゞき渡る。ちょっと、きれたかと思うと、また、ひゞく。榴弾が城壁で炸さく裂れつしていた。 高取や、玉田や、松下などを見ると、彼等は、むッつりして、虫を喰ったような顔をしていた。訓練所出の、倉矢までが、浮かぬ顔で何か考えこんでいた。――﹁そうだ、あいつらも、みんな不愉快な記憶に心臓をしめつけられているのだ!﹂と柿本は思った。 直接剣を握って殺し合いをやる最下級の彼等は、殺すことが誰れのためだか、その判断がつかなくなるのだった。何者かに取ッつかれたようだった。 同胞の日本人が惨殺された。掠奪された。天井裏の板一枚まで剥ぎ取られた。と、彼等は、その現象だけを問題とした。そして、一人が殺されたその倍がえしをせずにいられない、憤怒と、情熱と、復仇心を感じた。 その憤怒と、その情熱と、その復仇心とが、いわゆる﹁敵﹂をやッつけるのに最も重要な要素となるのは、争われなかった。 この情熱によって、彼等は、市街戦で殺された日本人の約十五倍の支那人を血祭りにあげていた、屍体を蹴とばした。 何のために、それをやったか! 誰のためにそれをやったか!三〇
翌々朝、六時。 大陸の焼けつくような一日は、既に始まっていた。 兵士たちは、マッチ工場の白楊材置場の片隅に整列した。 敏感な重藤中尉は、上官の直視を避けるような兵卒の眼つきに注意をとめた。動揺と、士気の沮喪と、いや〳〵ながら行動する煮え切らないものを彼は見た。前々から兵卒の間に醸かもされていた険悪な空気を彼は感じた。即座に、誰かゞ、かげにかくれて、何かやっているな! と思った。 勇敢で、単純で、感情的な重藤は、自分の扱っている兵卒の要求と、本能を直感的に見抜く鋭敏な才能を持っていた。 彼は、その自分の感じによって、兵卒が、上官の眼の行き届かないかげで、何かこそこそやっているのを知っていた。たちが悪い。明かに信服しなくなっている。高取は、職長を殴りつけて、工人への給料を全額、暴力で払わしていた。それ以来、少くとも、五六人の兵タイは、国家のために出征しているのか、工人と一ツとなって不届き至極なことをやるために来ているのか区別がつかなくなっていた。彼は、中でも、特に、高取に最も注目していた。なお、多くの兵士らも、自身から、高取の言説に心をひかれている。それも分った。それには、理由がなければならない! 人事をやっている特務曹長もこれに気づいていた。特曹は、支那の共産党員と、何か共謀して事をたくらんでいると、重大視していた。しかし、重藤は、その点、どうせ兵卒のやることだ、どんなにしたって、大したことは出来ない、と高をくゝっていた。 彼は、整列した兵士たちの眼に、動揺と、不安と、ある意気地なさを見ると、すぐ原因を高取らのこそ〳〵に帰した。そして、こんな日に限って負けるんだ。と考えた。無数の負傷者が出るんだ。大きなしくじりをやるんだ! 彼は顔をしかめた。 高取は、一番最後に、巻脚絆を巻き直して、靴を引きずり、整列に加わろうとしていた。彼は高取につめよった。横合いから、頬を殴りとばした。故意に、兵士達、皆んなに見えるところでやった。 ﹁おい、高取、なまけるな!﹂ ﹁……。﹂ ﹁お前は、国のために働くのが嫌いなのか? そんな奴は謀むほ叛ん人だぞ。﹂そして、もう三ツぶん殴った。 ﹁分ったか?﹂ ﹁……。﹂ 高取の眼は、眼窩からとび出して、前へ突進して来るように燃えていた。何のためにいきなりやられるのか訳が分らなかった。 中尉は、高取の眼が気に喰わなかった。ぷーンとした態度が満足できなかった。 ﹁こらッ! 不真面目にすると、お前のためにならんぞ!﹂と、彼は呶鳴った。 ﹁どうしたんでありますか。﹂ ﹁こらッ! 高取やめろ!﹂彼は軍刀をガチャッと鳴らした。﹁俺れは、お前の腹の中を見すかして居るんだぞ。お前のやっとることは、何一ツ残らず知っとるんだぞ。お前は、自分で、何をやっとるかその恐ろしさを知らんのだ。﹂ ﹁何も、やって居りはしねンであります。﹂ 高取は、一寸、まごついた。が、すぐ、光った眼で中尉を見つめた。 ﹁よせ!﹂重藤は、儼然と云った。﹁俺れは何もかも知って居るんだぞ!﹂ ﹁はい、何ですか?﹂ 償勤兵となった彼は、これまでにも、幾度か殴られた。蹴られた。指揮刀が歪むほどひッぱたかれた。彼は、何回となくそれを忍んできた。ほかの者だって、そんなに異いはしなかった。 ﹁こうして、この結果、俺等が現にやらせられているのは、何であるか? 自分で、自分の頸を縛ることだ! それ以外のなんでもない! 兵タイほど、人のいゝ馬鹿な奴はない。﹂ 兵士たちは、高取を殴るのは、高取一人を殴るのではない。自分たち、全体をも殴るのだ! と感じた。おどかしにやっているのだ。彼等は、顔色が変った。 敏感な重藤は、正確な晴雨計のように、すぐ、それに気づいた。兵士たちが、色めいて、変に動揺しだしたのを眼にとめた。もうこれ以上殴りすえては、却って、藪蛇になる。部隊全体に対して。と感じで意識したが、語調の行きがかりが、意識を裏切った。高取は、上をむいて何か云おうとした。中尉はそれを遮った。 ﹁一体、お前らは、何事を考えだしているんだい? ええ? 一体、どういうことを考えだしているんだい?﹂ ﹁自分達が苦るしめられるために、働いてやりたくはないんであります。﹂ ﹁ふむ、――苦るしめられたくはないと云うんだな。︵わざと相手の言葉をごま化した。︶……それなら命令をよく聞け! 命令をききさえすればいゝんだ。﹂ ﹁……。﹂ 重藤は、それ以上、突ッこまなかった。大胆不敵な彼も、多数の前には恐怖した。彼は、兵士たちの顔色を見い見い、言葉を切った。しかし兵卒を扱って来た経験から、自分の云った命令が、実行されないかも知れないという疑念を、絶対に素振りに出してはいけない。自分の命令は、必ず、確実に実行されるものだ。と、信じ切っている。そう兵卒に見せる。それが必要であるのを心得ていた。そして、その態度を取った。高取の態度は、決して、彼に満足を与えるどころじゃなかった。しかし、彼は、これで、注意はすんだというように、身体のこなしを一新して、整列した兵卒にむかった。三一
兵士は藁人形のようにバタバタと倒れた。 方振武は頑強に、城内に踏み止まっていた。 どんな妨害に抗しても、天津、北京へ、攻めのぼらずには置かない意気を示した。城門はかたく、なかなか破ることが出来なかった。城壁が厚かった。青天白日旗は、いつまでも元気よく、その中に翻っていた。弱くない。武器も新しい。 蒋介石は、日本のどんな要求でも容れるから、たゞ、ここを通過して、天津、北京を攻撃することをゆるせ! と提議した。それが、いれられなかった。司令官は、満洲が脅かされることを知っていた。そこで、支那兵は意地になった。 ほかの部隊が各々、西北角や、泰安門や、新建門を占領して行くに従って、柿本の部隊の幹部は、やっきになって自分の持場を攻めあせった。バタバタ倒れる者が多くなる。幹部の功名心と競争心は兵士に重量がのしかゝるように出来ていた。柿本らにも、それが眼に見えて分った。巻脚絆を解くひまもない。へと〳〵になった。つらくッてたまらない。鉄砲の照準をきめながら、フラ〳〵ッと居眠りをしたりした。 戦友が、どこで、どうしているか分からないまでに、ごたごたに入り乱れた。市街は、焼火箸が降るような暑さだ。 アカシヤの青葉が黄ホワ風ンフォンに吹きちぎられ、土煙にまじって、目つぶしのように街を飛んだ。その晩、青鼠服は、射撃を中止した。兵士たちは、工場へかえって脚をのばした。午前二時頃、彼らは、恐ろしい夢にうなされた。宿舎の二百人ばかりのつわものが、同時に、息の根をとめられ、うーッと唸って、現うつゝで立ちあがった。苦るしまぎれに、両手でむちゃくちゃに空気を引ッかいた。 これは、内地で、早足行進に、どうしてもすねが伸びない初年兵が、教官にボロクソにこづきまわされて、古いお城の松の枝で頸を吊って死んだ、その晩にうなされたのと同じ現象だった。その時にも、中隊全部が、息の根をとめられた。唸った。そして同時に眼がさめた。何と説明していゝか分からない。 ﹁これは、何か不吉なことが起っているぞ。﹂ ﹁俺れゃ、自分がしめ殺されたと思うた。……つらくッて、どうしても息が出来なかった。﹂ ﹁誰れかゞ、現に、やられている! 無理、無法にやられている!﹂ 正気づくと、彼等は云った。 ﹁高取はいるか? 高取! 高取はいるか? どうも、俺れには、高取が、誰れかと一緒に眼のさきへやって来たような気がしてならん!﹂ 柿本が、まだ、幻影を見ているような顔をして云った。 冷やッと、身が深い底へ引きずりこまれる感じがした。 翌朝、高取と、那須と、岡本と、松下、玉田が帰っていないことが分った。誰れしも、不思議がりながら、口に出しては、何も云わなかった。眼と眼でものを云った。木谷と柿本が、病院の負傷者と屍室の屍体をしらべた。いない。夕方になった。まだ帰らない。翌々朝になった。まだ帰らない。交代した歩哨は、寝不足と夜露で蒼くなって、宿舎へ這入ってきた。消息がない。 高取らの指揮者の、重藤中尉は、ひひ猿に頬ッぺたをなめられたような顔をして、どこからか帰って来た。室の隅の木谷と柿本は、身に疵きずがあるのに、強いてそれをかくして笑うような中尉の笑い方に目をとめた。 木谷の直感は、その笑い方に、ぴたりとかたく結びついた。彼は、中尉の心の状態が手にとれるような気がした。 ﹁どうだい、今日は、源ラク門ゲンモンの攻撃だぞ……。﹂ ﹁そうですか。﹂ 木谷は、ご機嫌を取るように近づいてくる相手の疚やましげな顔つきに、平気な、そッけない声で答えた。 ﹁今日、お前らが、ウンときばればもう落ちてしまうんだぞ。﹂ ﹁そうですか。――中尉殿! 高取なんぞ、どうしたんでありますか。一昨日から帰らないんであります。どこを探しても見つかりません。﹂ ﹁なに、それを訊ねてどうするんだ! 木谷! お前、高取に何の用があるんだい?﹂ 急に、重藤中尉は、険しい眼に角を立てて声を荒だて木谷に詰めよってきた。木谷をも、また銃殺しかねない見幕だった。 ﹁用があるさ。戦友がどうなったか気づかうのはあたりまえじゃないか!﹂傍で、中尉と木谷の応酬を見ていた柿本は、決意と憤怒を眉の間に現わしながら、ぬッと、銃を握って立ちあがった。 巻脚絆を巻いたり、煙草を吸ったりしていた兵士たちも緊張した。向うの隅でも銃を取って立ちあがると、ガチッと遊底を鳴らして弾丸をこめる者があった。 ﹁こら、柿本、そんなことをして何をするのだ?﹂と中尉は云った。 ﹁何をしようと、云う必要はないだろう。﹂ 重藤中尉は正真正銘の、力と力との対立を見た。中尉は、一個小隊を指揮する力を持っているつもりだった。だが、今、彼は、一兵卒の柿本の銃の前に、一個の生物でしかなかった。ちょうど、一昨日、武器を取り上げた高取や、那須や、岡本などが、一個の弱い生物でしかなかったように。そこで、彼はまた、翻然と、狡猾な奥の手を出した。彼は、柿本から、五六歩身を引くと、 ﹁さア、整列! 整列! 皆な銃を持って外へ出ろ!﹂ と叫びながら、寄宿舎から逃げるように駆け出してしまった。 ﹁畜生! 将校の面さげて糞みたいな奴だ!﹂ 兵士たちは、口々に、憤って罵った。 柿本は、少し、馬鹿で、大まかな高取のことを思った。あの竹を割ったような、愉快な奴が、どこへ行ったのだろう。馬鹿のようで、本当は、決して馬鹿じゃなかった。工人達に、真ッさきに接近して行き出したのも高取だった。そして工人と友達のように仲がよくなってしまった。日露戦争や、日清戦争には、兵士達は、命を投げ出した。今は、居留民の生命財産の保護に命をかけている。しかし、そのいずれもが、真赤な嘘である。それを、まッさきに云い出したのも高取だった。 ﹁実際、俺等にゃ、支那人をやっつけることばかりしかやらせやしないじゃないか。﹂と高取は云った。そして、柿本に、親しげな、同感をよせる態度で普利門外のおばさんの家は、どうなったかと訊ねた。 その時、柿本には、まだ、おばが、文字通りに着のみ着のまゝでS銀行に避難して、五ツの娘は、殺されていた、ことは分っていなかった。地下の秘密室にかくして置いた銀貨まで、あとで帰って行ってみるとなくなっていた。それも分っていなかった。 ﹁普利門は、一番、被害のひどかった方面じゃないか。﹂ ﹁そうらしいんだ。まだ、見に行くことも出来ねえんだ。﹂﹁俺等は、何のためにここへ来とるんだね?――折角やって来て、自分の肉親さえ、保護することも見ることも出来ねえって、……身体だけでも無事でいてくれればいゝがね。﹂ ﹁うむ、気にかゝって仕様がないんだ!﹂ ﹁俺等が、わざわざここまでよこされて、本当の親がいるとしてもだ、その親を守ることさえ出来ないんだぞ。……これが真相だよ。これが現在の、われ〳〵の置かれている位地の真実の姿だよ。大金を持っている奴等だけしか守られはしないんだ。そのために、俺等を犠牲にすることは、いくら犠牲にしたって、なんとも思っちゃいないんだ。﹂と高取はつゞけた。﹁ここで、工場を守らしながら、工人は、いじめつける。南軍は、追ッぱらわす。満洲の利益は、ちゃんと、これで確実に握りしめて置こうと考えているんだ。満洲が、奴等にとっちゃ、一番大切なんだからね。俺等は、月七円かそこらの俸給を貰うだけだよ。そして生命は、只で大ッぴらに投げ出してあるんだ。利益は何にもありゃしない。内地へ帰れば、やっぱし稼がなければ、金は取れやしないよ。満洲の防壁となってやったって、一生涯、遊ばして食わしちゃくれやしめえ。……実際居留民の保護だけなら、何故、こんな不便な、きたないマッチ工場の南京虫がうようよしている寄宿舎に入れて置くかね? 小学校だって、居留民団だって、KS倶楽部だって、もっときれいな、大きい建物がいくらでもあるんだ。そして、そっちの方が便利なんだ。それを、工場に置くのは、工人を圧えつけるためと、工場を守らす以外に、どこに理由が見出されるかね。﹂ 柿本は、高取の放胆な話しッ振りに似ず、しみ〴〵とした心持になった。 ﹁俺等が支那を叩きつける役に使われて、工人や百姓の運動を、邪魔すりゃ、邪魔するほど、俺等の内地の暮しが苦るしくなるんだ。﹂また高取は、そんな話もした。﹁支那を弾圧してニコニコしているのは大金持だけだよ。大金持は、それで、また、金を儲けら。……金を儲けりゃ、その金を使って内地で俺等をからめ手から押しつけるんだ。どっちにしたって、俺等だけが部分的によくなるちゅうことはあり得ないんだ。支那の連中に大いにやって貰わんことにゃ、俺等の内地の仕事もやりにくいんだ!﹂ その高取がいなくなった。 柿本には、最後の言葉だけは、まだ、意味がはっきり分らなかった。 幹部は、城内に頑張っている南軍よりも、土匪よりも、猿飛佐助のまく伝単や高取や、工人たちと一つになった兵士の赤化を一番に、気にやんでいた。それを一番怖がっていた。 それは争われなかった。三二
この日、また、死にもの狂いの猛烈な攻撃が試みられた。 午後三時、柿本は、ゴミの中で城壁のかげから飛来した弾丸に肩をうちぬかれた。一群の負傷者にまじってトラックに揺られ病院に来た。 負傷兵は、どの病室にも、いっぱいにあふれていた。担架にのせられ、歩ける者は歩いて、あとからどん〳〵這入り得るだけの密度で、病室につめこまれる。外科病棟は、びっしりとなっていた。内科病棟と伝染病棟の一部にも、負傷者は這入っていた。 柿本が入れられたのは支那人を追い出した、支那人への施せり療ょう病室だった。白ペンキが禿げた鉄寝台、汚し点みだらけの藁蒲団、膿うみくさい毛布。敷布や、蒲団蔽いはなかった。普通の病室よりは悪かった。 煎いりつくようなのどの乾きと、傷が生命を奪って行く、それとの戦い、疼痛などで、病室は、檻のようなわめきで、相呼応していた。 各部署の戦闘のはげしさは、負傷者の数と、思い切り無遠慮なその負傷ぶりによって完全に表現されていた。 ﹁砲兵の榴散弾で、城門近くの歩兵がやられて居るんだ。照準が間違っているのにめちゃくちゃにうって居るからだ。味方の頭の上で味方の弾丸が炸裂しているんだからな。﹂ 負傷者を運んできた担架卒は、ベッドの脇で、にが〳〵しげに呟いた。 ﹁南軍の遺棄した弾丸を使ってるちゅうじゃないか。﹂ ﹁ふむ、そうかもしれねえ。そんなことをするから着弾が狂って、味方の砲兵が、味方の歩兵を殺すんだ。﹂ ﹁チェッ! そんなこともあろうかい。もともとろくでもねえ戦争だ!﹂ 一ツのトラックの負傷者が、それぞれベッドに運ばれて、一時担架卒のがたがた出入する靴音が消えたかと思うと、まだ、軍医の傷の手あてが、みんなの三分の一にも行き渡らないうちに、次のトラックが病庭へ唸りこんできた。また、担架卒が、靴音をばたばたと、重い負傷者をかついで這入ってくる。 ﹁□×が一等、やられる者が多いぞ。もはや、戦死が九人。――聯さんが抜けがけの功名をあげるとてあせっているからだ。﹂新しく柿本の傍のベッドへやってきた担架卒は、太い低こご声えで、運んできた負傷者に﹇#﹁負傷者に﹂は底本では﹁象傷者に﹂﹈喋っていた。﹁幹部の功名心は、俺等を踏台にしなきゃ遂げられねえ性質を持っているんだ! 旅順攻撃にだって、屍の山を積んだんだ。それで、一人の大将が、神さまに祭られてら!﹂ 柿本はうすうすきいていた。 □×とは、彼の聯隊だった。見ると、ベッドに移されているのは、中隊の黒岩である。ズボンを取って脚にくゝりつけた三角巾が、赤黒くこわばっていた。彼等は、隊長の功名心や、ほかの部隊との競争心から、むやみの突撃、前進を強いられていた。見す見す傷つき倒れる。××氏大隊□□占領! △△氏中隊どこそこを奪取! この報知に虚栄心を燃やされるのは﹁長﹂がつく人間だった。 ﹁無理をするからだ。誰れにだって出来ねえことを、一と息でやって見せようと見栄坊を張ってやがるんだ!﹂ 黒岩は、傷の痛みを感じるよりも、神経が立っている話し振りで話した。 ﹁どこの部隊だって、兵タイにゃ、最大限度の馬力をかけさしているんじゃないか?﹂ と、柿本は、ふいに、横から云った。 担架卒は、ちょっと黙って不思議げに彼を見た。黒岩は、柿本だと知ると、口もとに、笑いのかげを浮べた。 ﹁そうかもしれんて。﹂ ﹁そうだよ、そうにきまっているよ! この数しれん負傷者は。――戦争は、隊長の功名心の競争場だよ。そういう風に出来ているんだ。それで支那兵は、徹底的に追ッぱらってしまうさ。俺れらは、隊長の踏み台にせられて手や脚を落すさ。ははは、隊長は隊長で、その功名心に、また、もうひとつ上からあおりをかけられているんだ。勲章というね。上にゃ、上があらア。﹂ ﹁その一番下は俺らじゃないか。﹂ ﹁うむ、その俺らの上にゃ、重い石が、三重も四重もにのっかっていら! 畜生!﹂ のんきな軍医は、兵士の苦るしみや、わめきや、怺こらえきれなくなって手足をばた〳〵やるのが快よいものゝように、にこ〳〵しながら、平気で処置をつゞけていた。血糊でへばりついたシャツを鋏で切った。 ﹁一将功成り、万卒倒る、か。﹂ 兵タイの不平を小耳にした彼は、詩吟の口調で、軽るく口ずさんだ。 柿本は、その軍医の手あてを受けた。そして、白い、新しい病衣を着た。 城壁は、翌日、午前中、陥落した。ベッドに坐って彼はそれを聞いた。傷の疼痛は、だんだんに少くなった。肩の負傷は、歩くことには一向差支なかった。三日目に、木谷と山下が見舞に来た。 ﹁おい、柿本、どうだい。﹂木谷は、男性的な渋い声で叫んだ。﹁高取らがやられていたぞ! 五人とも黄河の河畔で、犬に喰われて白骨が出ていた。﹂ 多分そんなことになっただろうとは感じていた。が、現実にそれをきくと、柿本は、ぎくッと心臓が突きのめされた。 ﹁そうか、やっぱしそうだったか。あの晩にうなされたのは、だてや、冗談じゃなかったんだな!﹂ ﹁今、五人とも、屍しか室ばねしつへ運んできている。﹂ ﹁一体、誰どや奴つにやられたんだ!﹂黒岩が云った。﹁誰奴がやりやがったんだ。犯人は、はっきり分らんか?﹂ ﹁黙っていろ! それをきいたって無駄だ。﹂木谷は、厳粛な素振りで手を振った。﹁云わなくたって分っている。あいつだ!﹂ ﹁あいつッて?﹂ ﹁あいつだ!﹂ 暫らく彼等は無言でいた。 傷ついた肩から玩具のようにブラさがっている片腕を、三角巾で首に吊って柿本は、木谷らと、屍室へ歩いた。大腿骨が砕けた黒岩は動けなかった。院庭から見える市街は荒廃し切っていた。踏み折られて泥にまみれた草は、それでも、又、頭を持ちあげようとしていた。アカシヤは、風にもかゝわらず、なお一層青々としていた。屍室には、看護婦や、患者や、兵士や、街の人々が、入口と窓の外に、黒山のようにたかっていた。五人の、犬にしゃぶられた遺骸を見ようとつまさきで立ちあがっている。 高取たちは、もう、暑さで腐爛していた。酸っぱい鼻もちのならぬ腐肉の匂いと、線香の煙がもつれあって、嗅覚を打った。どれが高取だか、那須だか、玉田だか分らない。白布で蔽うてあった。殺されたまゝ放任されていたのだ。捜索隊が行くまで、毛のむく〳〵した野犬どもが集って、舌なめずりをしながら、しゃぶっていたそうだ。 ﹁あいつらの黒い手がこんなめにあわしくさったんだ!﹂山下が呟いた。﹁しかし、この肉体のどこから、俺等をうなしに来たんだろう?﹂ 山下が、いぶかしげにきいた﹇#﹁きいた﹂は底本では﹁きたい﹂﹈。 ﹁そりゃ、何か分らん、俺れにゃ、どう説明していゝか分らないよ。﹂と木谷が云った。﹁しかし、奴等は、俺等の武器が奴等にむかって突ッかかって行くのを怖がって、先手を打ちやがったんだ! あいつらの利益を守るためには、あらゆるものを犠牲にしてかえりみないのだ!﹂ 三人は、芝生の土手を越して、塹壕のある草ッ原に出た。大きなアカシヤのかげには火葬場が作られていた。 ﹁俺れらだって、ひとつまちがえば、やられていたかもしれないんだ。﹂と、木谷は、塹壕をとび渡って小声で云った。﹁あいつらは俺らが怖いんだ。だが、今度、俺等が剣を持った日にゃ、先手を打たれやしないぞ。まず、あいつらの心臓を串ざしにしなきゃ置かないんだ!﹂三三
――後記――
半分しか肉がついていない五名の兵士は、﹁名誉の戦死﹂ということになった。
棺に納められ、石油をぶっかけられた彼等の肉体は、火葬竈の中で、くさい煙となって消えて行った。
内地の彼等の親たちは、本当に、彼等が、憎むべきチャンコロの弾丸にあたって戦死したものと思いこんでいるだろう。しかし、兵士はそのためにすべてが将校に対する新しい憎悪を激しく燃やした。
出兵の結果、支那には、排日、反帝国主義運動が、かえって強くみなぎった。破壊しつくされた源門には﹁誓セイ雪セツ此コノ恥ハジ﹂﹁看ショ見ウカ?﹂﹁記ショ得ウキ?﹂と、民衆の心に火をつけている。﹇#﹁。﹂は底本では﹁、﹂﹈日本ブルジョアジーは、出兵当初の目的とした﹁満洲植民地の確保﹂は、一時的にせよ、殆んどそれを達成した。喰えない男、張作霖の爆死や、蒋介石と結ぶ揚宇霆の銃殺などによって、日本のブルジョアジーは、武力によってでも、満蒙を握りしめ、完全に、それを属領化しなければならないようになっている。そのために、あらゆる力を、そこに傾注している。
福フー隆ルン火ホサ柴イコ公ン司スの工人達は、その後兵士と握手して立ちあがった。社宅の女房達は、また、いつかのように自動車でKS倶楽部へ逃げ出した。そして、彼女達は、永久に社宅へは帰らなかった。工人の力は強かった。と、内川らはマッチ業界の世界統一を企図している瑞典の資本を結合した。工人たちは、また、強敵と立ち向うこととなった。
それから、最後に、猪川幹太郎は、このドサクサ騒ざに、家も、仕事も、子供も、すっかり失ってしまった。彼は、マッチ工場を馘くびになった。
一郎は、どこで、どう失われたか、皆目分らなかった。恐らく支那人にツマミ殺されたのだろう。彼は、それを残念がった。トシ子によく似た子供を失ってしまった。それが惜しかった。しかし、また一方、殺されたなら殺されたっていゝとも思った。
だが、ある日である。
彼は、以前の住居の十王殿附近をブラ〳〵歩いていた。破壊のあとはまだ恢復していなかった。街は、一層きたなく、ホコリッぽかった。支那人が生大根の尻ッポをかじっていた。
﹁呀テイヤ! 呀!﹂
ふと、彼の足もとへ近づいて来る者があった。汚い支那服を着た子供だった。頭は支那の子供のように前髪と、ビンチョを置いて剃られていた。
﹁呀! 呀!﹂
よち〳〵とその子供は、遊んでいるほかの子供の仲間から離れて歩いてきた。
見ると、それが一郎だった。
馬マカ貫ン之シの細君が、辻の枝が裂けたアカシヤのところに立っていた。彼は、思わず、子供を抱きあげた。
一郎は、馬貫之に助けられていたのである。
︵昭和五年十一月︶