一
時とき田だ先生、名は立派なれど村そん立りつ小学校の教員である、それも四角な顔の、太い眉まゆの、大きい口の、骨格のたくましい、背せいの低い、言うまでもなく若い女などにはあまり好かれない方の男。
そのくせ生徒にも父兄にも村長にもきわめて評判のよいのは、どこか言うに言われぬ優しいところがあるので、口数の少ない代わりには嘘うそを言うことのできない性分、それは目でわかる、いつも笑みを含んでいるので。
嫁を世話をしよう一ひと人りいいのがあると勧めた者は村長ばかりではない、しかしまじめな挨あい拶さつをしたことなく、今年三十一で下宿住まい、このごろは人もこれを怪しまないほどになった。
梅むめちゃん、先生の下宿はこの娘のいる家うちの、別はな室れの中ちゅう二階である。下は物置で、土ど間まからすぐ梯はし子ごだ段んが付いている、八畳一間ぎり、食事は運んで上げましょというのを、それには及ばないと、母おも屋やに食べに行いく、大概はみんなと一いっ同しょに膳ぜんを並べて食うので、何を食べささりょうと頓とん着ちゃくしない。
梅ちゃんは十と歳おの年から世話になったが、卒業しないで退ひ校いても先生別に止めもしなかった、今は弟の時坊が尋常二年で、先生の厄介になっている、宅うちへ帰ると甘えてしかたがないが学校では畏おそれている。
先生の中二階からはその屋根が少しばかりしか見えないが音はよく聞こえる水すい車しゃ、そこに幸こうちゃんという息むす子こがある、これも先生の厄介になッた一人で、卒業してから先生の宅うちへ夜やぶ分ん外史を習いに来たが今はよして水車の方を働いている、もっとも水車といっても都の近在だけに山国の小さな小屋とは一つにならない。月に十四、五両も上がる臼うすが幾いく個つとかあって米を運ぶ車を曳ひく馬の六、七頭も飼ッてある。たいしたものだと梅ちゃんの母親などはしょっちゅううらやんでいるくらいで。
﹃そんならこちらでも水車をやったらどうだろう、﹄と先生に似合わないことをある時まじめで言いだした。
﹃幸こうちゃんとこのようにですか、だってあれは株ですものう、水車がそういつだってできるもんならたれだってやりますわ。﹄おかみさんは情けなそうに笑って言った。
﹃なるほど場処がないからねエ。﹄先生はまじめに感心してそれで水車の話はやんで幸ちゃんのうわさに移ッた。
お神かみさんはしきりと幸ちゃんをほめて、実はこれは毎度のことであるが、そして今度の継まま母はははどうやら人が悪そうだからきっと、幸ちゃんにはつらく当たるだろうと言ッた。
﹃いい歳としをしてもう今度で三度めですよ、第一小こど供もがかあいそうでさア。﹄
﹃三度め!﹄先生は二度めとばかり思ッていたのである。
﹃もっとも幸ちゃんの母おふ親くろは亡なくなッたんですけれども。﹄
この時、のそり挨あい拶さつなしに土間に現われたのが二十四、五の、小づくりな色の浅ぐろい、目元の優しい男。
﹃オヤ幸ちゃんが! 今お前さんのうわさをしていたのよ。﹄実はお神さん少し驚いてまごついたのである。
﹃先生今日は。﹄
﹃この二、三日見えないようであったね。﹄
﹃相変わらず忙しいもんですから。﹄
﹃マアお上がんなさいな、今こん日にちはどちらへ。﹄お神さんは幸こう吉きちの衣な装りに目をつけて言った。
﹃神かん田だの叔お父じの処へちょっと行って来ました、先生今晩お宅でしょうか。﹄幸吉の言葉は何となく沈んでいる。
﹃在い宅るとも、何なんか用だろうか。﹄
﹃ナニ別に、ただ少しばかし……﹄
﹃今夜宅うちで浪なに花わぶ節しをやらすはずだから幸ちゃんもおいでなさいな、そらいつかの梅ばい竜りゅう﹄お神さんは卒然言葉をはさんだ。
﹃そうですか、来ましょう、それじゃあまた晩に﹄と言って幸吉は帰ってしまった。
﹃幸ちゃん今きょ日うはどうかしているよ﹄とお神さんは言ったが、先生別に返事をしないで立て膝ひざをしながらお神さんの手元をながめていた。お神さんは時田のシャツの破ほこ綻ろびを繕っている。
夜食が済むと座敷を取り片付づけるので母おも屋やの方は騒いでいたが、それが済むと長屋の者や近所の者がそろそろ集まって来て、がやがやしゃべるのが聞こえる。日はとっぷり暮れたが月はまだ登らない、時田は燈ひ火も点つけないで片足を敷居の上に延ばし、柱に倚よりかかりながら、茫ぼん然やり外そ面とをながめている。
﹃先生!﹄梅ちゃんの声らしい、時田は黙って返事をしない。﹃オヤいないのだよ﹄と去いってしまった、それから五分も経たったか、その間身動きもしないで東の森をながめていたが、月の光がちらちらともれて来たのを見て、彼は悠やお然ら立って着きも衣のの前を丁寧に合わして、床とこに放ほ棄うってあった鳥打ち帽を取るや、すたこらと梯はし子ごだ段んを下おりた。
生いけ垣がきを回ると突だし然ぬけに出っくわしたのがお梅である。お梅はきゃんな声で
﹃知らないよ。いいジャアないかあたしがだれのうわさをしようがお前さんの関かまった事ジャアないよ、ねエ先生!﹄
時田は驚いて木この下した闇やみを見ると、一人の男が立っていたが、ツイと長屋の裏の方へ消えてしまった。
﹃だれ。﹄時田は訊たずねた。
﹃源公の野やろ郎う、ほんとにこの節は生意気になったよ。先生散歩?﹄お梅は時田のそばに寄って顔をのぞくようにして見た。
﹃あの幸ちゃんが来たら散歩に行ったって、そしてすぐ帰るからッて言っておくれ、﹄と時田は門を出た。お梅は後あとについて来て、
﹃すぐお帰んなさいナもう梅ばい竜りゅうが来ましたから。あらお月さま!﹄お梅は立ち止まった。時田は橋を渡って野の方へと行ってしまった。
二時間も経たったろうか、時田の帰って来たのは。月影にすかして見ると橋の上に立っているのはお梅である。
﹃先生どこを歩いていました今まで、幸ちゃんがさっきから待っていますよ。﹄
﹃梅ちゃんここで何してたの。﹄
﹃先生を待っていました、幸ちゃんの用ッて何でしょう。﹄
﹃何だか知らない。何だってよいジャあないか。﹄
﹃だって何だか沈ふ鬱さいでいるようだから……もしかと思って。﹄
﹃ああ少し寒くなって来た。﹄
二ふた人りは連れだって中二階の前まで来たが、母おも屋やでは浪なに花わぶ節しの二ふた切きりめで、大たゆ夫うの声がするばかり、みんな耳を澄ましていると見えて粛し然んとしている。
﹃幸ちゃんに今帰ったからッて、そ言っておくれ、﹄と時田は庭の耳くぐ門りへ入はいった、お梅はばたばたと母おも屋やの方へ駆かけ出して土間へそっと入ると、幸吉が土間の入口に立っている。
﹃帰って?﹄幸吉は低い声で言った。
﹃今帰ってよ、用が済んだらまたお寄んなさいナ。﹄お梅の声もささやくよう。
﹃ありがとう。﹄幸吉は急いで中二階の方へ行った、しかし頭を垂たれたまま。お梅は座敷の隅すみの方の薄暗い所に蹲つく居なんで浪花節を聞いていたが、みんなが笑う時でも笑えが顔お一つしなかった。二切りめが済むと座敷はにわかににぎやかになって、煙たば草こを吸うやら便所に立つやら大騒ぎ。
﹃お梅。﹄母おふ親くろがきょろきょろと見回すと、
﹃なに。﹄お梅は大きな声で返事をした。
﹃どこにいたのさっきから。﹄
﹃ここで聴きいていたのよ、そして頭が痛くって……﹄と顔をしかめて頭をこつこつと軽くたたく。
﹃奥へ行って、寝やすみな、寝てたッて聞こえるよ。﹄母おふ親くろは心配そうに言う。それでもお梅は返事をしないでそのまま蹲つく居なんでいた。そのうち三み切きりめが初まるとお梅はしばらく聴いていたが、そッと立って土間へ下りると母おふ親くろが見つけて、低い声で、
﹃奥でお寝やすみな。﹄半ばしかるように言った。お梅は泣き出しそうな顔をして頭を振って外そ面とへ出た。月は冴さえに冴え、まるで秋かとも思われるよう。庭木の影がはっきりと地に印いんしている。足を爪つま立だてるようにして中二階の前の生いけ垣がきのそばまで来て、垣根越ごしに上を見あげた。二階はしんとしている。この時母おも屋やでドッと笑い声がした。お梅はいまいましそうに舌うちをして、ほんとにいつまでやってるんだろうとつぶやきながら道へ出た。橋の上で話し声が聞こえるようだから、もしかと思って来ると先生一人、欄干に倚よっかかッて空を仰いでいた。
﹃オヤお一人?﹄
﹃あア。﹄気のない返事。
﹃幸ちゃん帰りましたの?﹄お梅も欄干に倚よって時田の顔をじっと見ている。
﹃今帰ったよ、﹄と大あくびをして﹃梅ちゃんどうして浪花節聴かないの、僕一つ聴いて来ようか。﹄
﹃およしなさいよつまらない! あたし聴いてたけど頭が痛くなって逃げ出したの。﹄
二人はしばし黙っていた。水車へ水を取るので橋から少し下流に井いせ堰きがある、そのため水がよどんで細長い池のようになっている、その岸は雑ぞう木きが茂って水の上に差し出ているのが暗い影を映しまた月の光が落ちているところは鏡のよう。たぶん羽はむ虫しが飛ぶのであろう折り折り小さな波紋が消えてはまた現われている、お梅はじっと水を見ていたが、ついに
﹃幸ちゃんの話は何でした。﹄
﹃神田の叔父の方へしばらく往いっていたいがどうしたもんだろうと相談に来たのサ。﹄
﹃先生何と言ってやりました。﹄お梅は時田の顔を見て言ったがその声は少し震えていた、しかし時田はそんなことには気がつかないかして、すこぶる平気で、
﹃なるべくは家うちにいた方がよかろう、そうしないとなおの事継おふ母くろとの間がむずかしくなるからッて、留めてやった、かあいそうに泣いていたよ。﹄
﹃泣いて? まアかあいそうに。﹄お梅は涙ぐんで黙ってしまった。それも時田には気が付かない、
﹃なんでも詳しい事は聞かなんだが、今度の継おふ母くろに娘があってそれが海軍少将とかに奉公している、そいつを幸ちゃんの嫁にしたいと思っているらしい、幸ちゃんはそれがいやでたまらない、それを継おふ母くろが感づいてつらく当たるらしい、だから幸ちゃんの身になって見るとたまらないサ。﹄
﹃そうなのよ、わたしもその事はちょっと聞いてよ、そうなのよ、だってあんまりそれは無理だわ……﹄まだ何か言いそうな時、突然橋の上に通り掛かった男、お梅の顔をのぞき込んで
﹃オヤ梅ちゃん、今晩は、﹄と意味ありげに声を掛けて行き過ぎた。橋を渡ったと思うとちょっと振り向いて、
﹃忘れていた、幸ちゃんによろしく。﹄
﹃知らないわ、お菊さんが待ってるよ。﹄
﹃ハハハハありがとう。﹄いううち姿が見えなくなった。
﹃お菊さんて踏切の八や百お屋やの娘だろうか。﹄時田は訊たずねた。お梅はうなずいたぎり黙っていた。
二
この日は近ごろ珍しいいい天気であったが、次の日は梅つ雨ゆ前のこととて、朝から空模様怪しく、午後はじめじめ降りだした。普通の人ならせっかくの日曜をめちゃめちゃにしてしまったと不平を並べるところだが、時田先生、全く無むと頓んじ着ゃくである。机の前に端座して生徒の清書を点検したり、作文を観みたり、出席簿を調べたり、倦くたぶれた時はごろりとそこに寝ころんで天井をながめたりしている。
午後二時、この降るのに訪たずねて来て、中二階の三段目から﹃時田!﹄と首を出したのは江えと藤うという画えか家きである、時田よりは四つ五つ年下の、これもどこか変へん物ぶつらしい顔つき、語もの調いいと体みの度こなしとが時田よりも快活らしいばかり、共に青あお山やま御ごけ家に人んの息むす子こで小供の時から親の代からの朋ほう輩ばい同士である。
時田は朱しゅ筆ふでを投げやって仰向けになりながら、
﹃君先せんだって頼んで置いたのはできたかね。﹄
江藤は火ひば鉢ちのそばに座すわって勝手に茶を飲み、とぼけた顔をして、
﹃なんだッたかしら。﹄
﹃そら手本サ。﹄
﹃すっかり忘れていた、失敬失敬、それよりか君に見せたい物があるのだ、﹄と風ふろ呂し敷きに包んでその下をまた新聞紙で包んである、画がは板んを取り出して、時田に渡した。時田は黙って見ていたが、
﹃どこか見たような所だね、うまくできている。﹄
﹃そら、あの森のところサ御料地の、あそこから向こうの畑と林とを見たところサ。﹄
﹃なるほどそうだ、﹄といいながら時田は壁に下げてある小さな水彩画と見比べている。
﹃無論この方がまずいサ。ところがこの絵にはおもしろい話があるからそれで持って来たがこれからまたこれを持って行くところがあるのだ。﹄
時田は起ち上がって火鉢のそばへ来て、﹃ふうン﹄とはなはだ気のない返事をして聞いている、これはこの人の癖だから対あい手てはなんとも感じない。
﹃昨きの日うはあのいい天気だからいつものように出かけて例の森、僕はまだあそこは画かいたことがないからどうせろくなものはできまいが、一ツ試みて見ようと、いつもの細い径みちを例のごとく空想にふけりながら歩いた。実は――もう白状してもいいから言うが――実は僕近ごろ自分で自分を疑い初めて、果たしておれに美術家たるの天才があるのだろうか、果たしておれは一個の画家として成功するだろうかなんてしきりと自脈を取っていたのサ。断然この希望をなげうってしまうかとも思ったがその時思い当たッたのは君の事だ。君がこうやッて村立尋常小学校の校長それも最初はただの教員から初めて十何年という長い間、汲きゅ々うき乎ゅうことして勤めお互いの朋ほう輩ばいにはもう大たい尉いになッた奴やつもいれば法学士で判事になった奴もいるのを知らん顔でうらやましいとも思わず平気で自分の職分を守っている。もちろんこれは君の性分にもよるだろう、しかしそれはどちらでもいい、ともかく一心専念にやっているという事が僕は君の今日成功している所ゆえ以んだと信ずる、成功とも! 教育家としてこの上の成功はないサ。父兄からは十二分の信用と尊敬とを得て何か込み入ったことはみんな君のところへ相談に来て君の判断を仰ぐ。僕は今の教育家にこういう例はあまりなかろうと思う。そこで僕は思った、僕に天才があろうがなかろうが、成功しようがしなかろうがそんな事は今顧みるに当たらない何でもこのままで一心不乱にやればいいんだ、というふうに考えて来ると気がせいせいして来た。
昨きの日うもちょうどそんな事を考えながら歩いて、つまるところがペンキの看かん版ばんかきになろうが稲いな荷りや八はち幡まん様さまの奉納絵を画こうがかまわない。やるところまでやると決心したからには、わき目もふれないなどしきりに思い続けて例の森まで行った。
どこを画こうかと撰えらんで見たが、森その物は無論画いたところで画えとしてはかえっておもしろくないから、何でも森を斜はすに取って西北の地平線から西へかけて低いところにもしゃもしゃと生はえてる楢なら林ばやしあたりまでを写して見ることに決めた。
道は随分暑かッたが森へ来て少し休むと薄暗い奥の方から冷たい風が吹いて来ていい心ここ持ろもちになった、青葉の影の透きとおるような光を仰いで身から体だを横に足を草の上に投げ出してじっと向こうを見ていると、何という静かな美しい、のびのびした景色だろう! 僕は何なんもかも忘れてしばらくながめていた。
でき上がったのがこれだ。われながらお話にはならないまずサ加減、しかし僕は幾度でもこれを画かく、まず僕の力でこれならと思うやつができるまでは何度でも写しにくると決心してかかったのだ。ところでこのまずいやつをここまで画かき上げるのに妙なことがあったのサ。
しきりと画いていると、実景があまりよくッて僕の手がいかにもまずいので、画いていながらまたもや変な気になって何というまずサだろう、これが画といわりょうかおれはとてもだめなのかしらん、と思うと画くのがいやになってもうよそうかもうよそうかと思いながらやっていた。すると後ろの森の方でガサゴソと妙な音がした。この時サ、僕は振り向いて見ようとしたが、待て! こんな事では到底だめだ、たといまずかろうがまずいからこそ勉強して画かくのだ、奉納絵を画いてもいいという決心はどうした、一心不乱とはここの事だ、たとい耳のそばで狼おおかみがほえようが心を取り乱し気を散じないくらいでなければならないのが、森の奥でちょっと音がしたって、すぐそれに気を取られるようでどうするかと、今度はまずくても何でもずんずん画いていると、ゴソッ、ガサッという音がだんだん近づいて来るようで気になってならない、その音がまたすこぶる妙なので、ちょうど僕が一心に画かいているのをつけこんで後ろから何者か、忍び足に僕をねらうように思われる。さアそう思うと振り向いて見たくッてたまらない。しかし一たん見まいと決心したからには意い地じが出て振り向くのが愧はずかしく、また振り向くと向かないのとで僕の美術家たり得うるや否いなやの分かれ目のような気がして来た。
またこうも思った、見る見ないは別問題だ、てんであんな音が耳に入はいるようでそれが気になるようでそのために気をもむようではだめなんだ。もし真にわが一心をこの画幅とこの自然とに打ち込むなら大砲の音だって聞こえないだろうと。そこで画板にかじりつくようにして画かきはじめた。しかし何の益やくにも立たない、僕の心は七分ぶがた後ろの音に奪われているのだから。
そこでまたこうも思った、何もそう固まるには及ばない、気になるならなるで、ちょっと見て烏からすか狐きつねか盗賊か鬼か蛇じゃかもしくは一つ目小僧か大おお入にゅ道うどうかそれを確かめて、安心して画いたがよサそうなものだ、よろしいそうだと振り向こうとしたが、残念でたまらない、もしここでおれが後ろへ振り向くならもう今きょ日うかぎり画家はやめるのだゾ、よしか、それでよければ向け、もしこの森にいるとかうわさのある狂犬であっておれの後ろからいきなり頸くび筋すじへ食らいつくなら着いてもいいではないか。それで死んでもかまわない、こうなればもう意地だ! この意地が通されないくらいなら美術家たるはおろか、何一ツしでかすものかと、今度はけんか腰になッて、人を後ろへ向かそうッて、たれが向くか、ざまを見ろと今から思えばおかしいがほんとにそう独ひと語りごとを言いながら画き続けた。
音が近づくにつけて大きくなる、下草や小こや藪ぶを踏み分ける音がもうすぐ後ろで聞こえる、僕の身から体だは冷ひや水みずを浴びたようになって、すくんで来る、それで腋わきの下からは汗がだらだら流れる、何のことはない一種の拷問サ。
僕はただ夢中になって画いていたが目と手は器械的に動くのみで全身の注意は後ろに集まっていた。すると何者かが確かに僕の背なかにくっつくようにして足を止めた。そして耳のそばで呼吸の気けは合いがする。天下何なん人びとか縮み上がらざらんやだ。君のような神経の少し遅鈍の方なら知らないこと――失敬失敬――僕はもう呼吸が塞ふさがりそうになって、目がぐらぐらして来た。これが三十分も続いたら僕は気絶したろう。ところが間もなく、旦だん那なはうめえなアと耳元で大声に叫んだ奴やつがある。
びっくりして振り向くと六十ばかりの老おや爺じが腰を屈かがめて僕の肩越しにのぞき込んでいるんだ。僕はあまりのことに、何だびっくりしたじゃアないかと怒鳴ってやッた。渠きゃつ一向平気で、背負っていた枯れ木の大束をそこへ卸して、旦那は絵の先生かときくから先生じゃアないまだ生徒なんだというとすこぶる感心したような顔つきで絵を見ていた。﹄
ここまで話して来て江藤は急に口をつぐんで、対あい手ての顔をじっと見ていたが、思い出したように、
﹃そうだッけ、あの老おや爺じさんを写生するとよかッた、﹄と言って膝ひざを拍うった。この近在の百姓が御料地の森へ入はいって、枯れ枝を集めるのは、それは多分禁制であろうが、彼らは大びらでやっているのである。その事は無論時田も江藤も知っていたので、江藤もよく考えたら森の奥のガサガサする音は必ずそれと気の付くはずなんだ。
﹃それはそうとして君、それから僕は内心すこぶる慙はずかしく思ったから、今度は大いに熱心になって画かきだしたが、ほぼできたから巻まき煙たば草こを出して吸い初めたら、それまで老おや爺じさん黙って見ていたが、何と思ったか、まじめな顔で、その絵をくれないかと言いだした。その言い草がおもしろいじゃアないか、こういうんだ、今度代よ々よ木ぎの八はち幡まん宮ぐうが改築になったからそれへ奉納したいというんだ。それから老おや爺じしきりと八幡の新築の立派なことなんかしゃべっているから、僕は聴ききながら考えた、この画はともかくもわがためには紀念すべきものである、そして、この老おや爺じもわがためには紀念すべき人である、だからこの画をこの老おや爺じにくれてやって八幡に奉納さすれば、われにもしこの後また退転の念が生じたとき、その八幡に行ってこの画を見て今日のことを思い出せば、なるほどそうだとまた猛進の精神を喚起さすだろう。そうだとこう考えて老おや爺じにくれてやることにした。老爺大変よろこんですぐ持って帰るというから、それは困る明あ日すまで待ってくれろ今日は自う宅ちへ持って帰って少しは手を入れたいからと言うと、そんならちょっとわしが宅うちへ寄ってくれろじきそこだからッて、僕が行くとも言わないに先に立ってずんずんゆくから、僕もおもしろ半分についていったサ。思ったより大きな家うちで庭に麦が積んであって、婆ばあさんと若夫婦らしいのとがしきりに抜こいでいたが、それからみんな集まって絵を見るやら茶を出すやら大騒ぎを初めた。それで僕は明あ日す自分で持って来てやると約束して来たんだ。今日は降るから閉口したが待っていると気の毒だから、これから行って来ようと思う。﹄
時田はほとんど一口も入れないで黙って聴いていたが、江藤がやっとやめたので、
﹃その百姓家に娘はいなかったか、﹄と真顔で問うた。
﹃アアいたいた八や歳つばかしの。﹄何心なく江藤は答える。
﹃そいつは惜しかった十六、七で別べっ品ぴんでモデルになりそうだと来ると小説だッたッけ、﹄と言って﹃ウフフフ﹄と笑った。この先生に不似合いなことを時々言ってそうして自分でこんなふうな笑いかたをするのがこの人の癖の一つである。
﹃そううまくは行ゆかないサ、ハハハハ、イヤそんなら行って来ようか、ご苦労な話だ、﹄と江藤が立ち上がろうとする時、生いけ垣がきの外で、
﹃昨ゆう夜べまたやったよ、聞いたかねもう。今度は三十ばかしの野郎よ、野郎じゃアねッからお話になんねエ、十七、八の新しん造ぞと来きなきゃア、そうよそろそろ暑くなるから逆の上ぼせるかもしんねエ。﹄と大きな声で言うのは﹃踏切の八や百お屋や﹄である。
﹃そうよ懐ふところが寒くなると血がみんな頭へ上って、それで気が狂ちがうんだろうよ﹄と言ったのは長屋の者らしい。
﹃うまいことをいってらア﹄と江藤はつぶやいた。
﹃おいらは毎晩逆の上ぼせる薬を四合瓶びんへ一本ずつ升ます屋やから買って飲むが一向鉄道往おう生じょうをやらかす気にならねエハハハハ﹄
﹃薬が足りないのだろうよ、今夜あたりお神さんにそう言って二合も増ふやしておもらいな。﹄
﹃違えねえ、懐ふところが寒くならアヒヒヒヒ﹄と妙な声で笑った。
三
その夜八時過ぎでもあろうか、雨はしとしと降っている、踏切の八や百お屋やでは早く店をしまい、主ある人じは長なが火ひば鉢ちの前で大あぐらをかいて、いつもの四合の薬をぐびりぐびり飲やっている、女房はその手つきを見ている、娘のお菊はそばで針仕事をしながら時々頭を上げて店の戸の方を見る。
﹃なるほど四合では足りねエ。﹄
﹃何がなるほどだよ。﹄女房はもう不平らしい。
﹃逆のぼ上せの薬が足りないッてことよ。﹄
﹃ばか言ってらア。﹄女房には何のことだかわからない。
﹃お菊、もう二合取って来てくんねエ。﹄
﹃およしよ嘘うそだよ、ばかばかしい。﹄女房はしかるように言って、燗かん徳どく利りをちょっと取って見て、﹃まだあるくせに。﹄
﹃あってもいいよ、二合取って来てくんねエ。明あし日た口がきけねえから。﹄
﹃だれにさ、だれに口がきけねえんだよ。ばかばかしい。﹄
﹃なるほどうまいことを言うじゃアないか、今日おいらが蔦つた屋やへ行って今け朝さの一件を話すと、長屋の者が、懐ふところが寒くなるから頭へ逆の上ぼせるだッて言やアがる。うまいことを言うじゃアないか。そいでおいらア四合ずつ毎晩逆のぼ上せぐ薬すりを飲むが鉄道往生する気になんねえッて言ったら、お神さんにそう言ってもう二合も買ってもらえッてやアがる。﹄
﹃大きにお世話だッて言ってやればいいに。﹄と女房は言って見たが、笑わざるを得なかった、娘も笑った。
﹃だから二合取って来てくんねえッてんだ。﹄
﹃ほんとに今夜はおよしよ、道が悪くってお菊がかあいそうだから。﹄女房は優しく言った。
﹃いいよわたし行って来ても。﹄娘は針を置いた。
主ある人じは最後の酒さか杯ずきをじっと見ていたが、その目はとろんこになって、身から体だがふらふらしている。
﹃やっぱり四合かな。﹄
三人とも暫時無言。外そ面とはしんとして雨の音さえよくは聞こえぬ。
﹃お前さん薬が利きいたじゃアないか。﹄
﹃ハハハハハ﹄主ある人じは快く笑って﹃しかしおいらアいくら逆の上ぼせても鉄道往生はご免だ。ドラ床とこの中うちで朝まで安あん楽らく成じょ仏うぶつとしようかな。今け朝さの野郎なんかまだ浮かばれねエでレールの上を迷ってるだろうよ。﹄
﹃チョッ薄気味の悪イ! ねエもうこんなところは引っ越してしまいたいねエ。﹄女房は心細そうに言った。
﹃ばか言ってらア、死ぬる奴やつは勝手に死ぬるんだ、こっちの為せえじゃアねエ。踏切の八百屋で顔が売れてるのを引っ越してどこへ行くんだイ。死にたい奴はこの踏切で遠慮なしにやってくれるがいいや、方々へ触れまわしてやらア、こっちの商売道具だ。﹄
あくまで太い事をいって、立ち上がって便所へ行きながら、﹃その代わり便所の窓から念仏の一つも唱えてやらア。﹄
﹃あれだもの﹄女房は苦い顔をして娘と顔を見合した。娘はすこぶるまじめで黙っている。主ある人じは便所の窓を明けたが、外そ面とは雨でも月があるから薄うす光あかりでそこらが朧おぼろに見える。窓の下はすぐ鉄道線路である。この時傘かさをさしたる一ひと人りの男、線路のそばに立っていたのが主ある人じの窓をあけたので、ソッと避よけて家の壁に身を寄せた。それを主人はちらと見て、
﹃何を言っても命あっての物もの種だねだ、﹄と大きな声で独ひと言りごとを初めた、﹃どうせ自分から死ぬるてエなアよくよくだろうが死んじまえば命がねえからなア。﹄
この時クスリと一声、笑いを圧し殺すような気けは勢いがしたが、主ある人じはそれには気が付かない。
﹃命せえあればまたどんな事でもできらア。銭がねえならかせぐのよ、情い人ろが不ふじ実つなら別な情い人ろを目つけるのよ。命がなくなりゃア種なしだ。﹄
娘が来て、
﹃何言ってるの?﹄気味わるそうに言う。
﹃命あっての物種だてエ事よ、そうじゃアねえか、まアまア今夜なんか死しに神がみに取っ付かれそうな晩だから、早く帰ってよく気を落ち着けて考えるんだなア。﹄
﹃何言ってるの。﹄
﹃まア出直した方がいいねエ、どうせ死ぬなら月でもいい晩の方がまだしゃれてらア。﹄
﹃いやな、﹄と娘は言って座敷の方へどたばたと逃げ出してしまった。
﹃出直した、出直した。その方がいい、あばよ、﹄と言って主ある人じはよろめきながら出て来たが、火鉢の横にころりと寝たかと思うとすぐ大いびきをかいている。
﹃ほんとにこんなとこア早く越してしまいたいねえ、薄気味の悪い。しまいにはろくなことはないよ、ねえお菊。﹄母おふ親くろはやはり針仕事を始めながら、それも朝が早いからもうそろそろ眠そうな目つきでいう。
﹃そうねえ。﹄娘はさほどにも思わぬよう。
﹃この月になってからでも今け朝さのが三人目だよ、よくよくこの踏切はけちがついていると見える。﹄
娘は黙って相手にならない。二人は無言で仕事をしていたが、母の手は折り折りやんで、その度たびごとにこくりこくりと居眠りをしている。娘はこのさまを見て見ないふりをしていたが、しばらくしてソッと起き上がって土間を下おりた。表の戸は二寸ばかり細目に開あけてあるのを、音のせぬように開けて、身から体だを半分出して四あた辺りを見まわすようであったが、ツと外に出た。軒下に立っているのが昨ゆう夜べお梅から﹃お菊さんによろしく﹄と冷やかされた男。
﹃オヤ磯いそさん? なぜそんなところに立ってるの、お入はいりな、﹄と娘は小声でいう。
﹃入はいりそこねて変だから今夜はよそうよ、さっき親と父っさんが出直せッて言ったから、﹄とにやにや笑いながら言う。
﹃アラお前さんだったの? 何だか妙なことを言ってたと思ったよ。まアお入りな、かまわないから。﹄
﹃出直そうよ、ぐずぐずしてるとまた鉄道往生と間違えられるから、﹄と行きかける、
﹃人をばかばかしい、﹄と娘はまだ何か言いかけると内から母おふ親くろがあくび声で、
﹃お菊もう寝るから外をお閉しめ。﹄
﹃何だか雲ぎれがして晴れそうだよ、﹄と嘘うそを言ってだまかす。
﹃オヤ外にいたの、何してるんだねえ、早くお閉めよ、﹄と険けん貪どんに言う。
﹃星が見えるよ、﹄と言って娘は肩をすぼめて、男の顔を見てにっこり笑う。
﹃早くお入りよ、﹄と言って男は踏切の方へすたこら行ってしまったが、たちまち姿が見えなくなった。娘は軒の外へ首を出して、今度はほんとに空を仰いで見たが、晴れそうにもない。霧のような雨がひやひやと襟えり頸くびに入るので、舌打ちして﹃星どころか﹄と微かすかに言ったが、荒々しく戸を閉めたと思うと間もなく家の内ひっそりとなってしまった。
︵明治三十三年七月作︶