雨を含んだ風がさっと吹いて、磯いその香が満ちている――今日は二時頃から、ずッぷりと、一降り降ったあとだから、この雲の累かさなった空そら合あいでは、季節で蒸暑かりそうな処を、身に沁しみるほどに薄寒い。…… 木の葉をこぼれる雫しずくも冷い。……糠ぬか雨あめがまだ降っていようも知れぬ。時々ぽつりと来るのは――樹こだ立ちは暗いほどだけれど、その雫ばかりではなさそうで、鎮守の明神の石段は、わくら葉の散ったのが、一つ一つ皆蟹かにになりそうに見えるまで、濡々と森の梢こずえを潜くぐって、直線に高い。その途中、処々夏草の茂りに蔽おおわれたのに、雲の影が映って暗い。 縦たて横よこに道は通ったが、段の下は、まだ苗代にならない水みず溜たまりの田と、荒れた畠はたけだから――農のう屋おく漁ぎょ宿しゅく、なお言えば商家の町も遠くはないが、ざわめく風の間には、海の音もおどろに寂しく響いている。よく言う事だが、四あた辺りが渺びょうとして、底冷い靄もやに包まれて、人影も見えず、これなりに、やがて、逢おう魔まが時になろうとする。 町屋の屋根に隠れつつ、巽たつみに展ひらけて海がある。その反対の、山やま裾すその窪くぼに当る、石段の左の端に、べたりと附くッ着ついて、溝どぶ鼠ねずみが這はい上あがったように、ぼろを膚はだに、笠も被かぶらず、一いっ本ぽん杖づえの細いのに、しがみつくように縋すがった。杖の尖さきが、肩を抽ぬいて、頭の上へ突出ている、うしろ向むきのその肩が、びくびくと、震え、震え、脊丈は三尺にも足りまい。小こど児もだか、侏いっ儒すんぼうしだか、小男だか。ただ船虫の影の拡ひろがったほどのものが、靄に沁み出て、一段、一段と這上る。…… しょぼけ返って、蠢うごめくたびに、啾しゅ々うしゅうと陰気に幽かすかな音がする。腐れた肺が呼い吸きに鳴るのか――ぐしょ濡れで裾すそから雫が垂れるから、骨を絞る響ひびきであろう――傘の古骨が風に軋きしむように、啾々と不気味に聞こえる。 ﹁しいッ、﹂ ﹁やあ、﹂ しッ、しッ、しッ。 曳えい声ごえを揚げて……こっちは陽気だ。手頃な丸まる太たん棒ぼうを差さし荷にないに、漁りょ夫うしの、半裸体の、がッしりした壮わか佼ものが二人、真まん中なかに一尾の大魚を釣るして来た。魚頭を鈎かぎ縄なわで、尾はほとんど地じず摺れである。しかも、もりで撃った生々しい裂さき傷きずの、肉のはぜて、真まっ向こう、腮あご、鰭ひれの下から、たらたらと流るる鮮なま血ちが、雨あま路みちに滴って、草に赤い。 私は話の中のこの魚うおを写出すのに、出来ることなら小さな鯨と言いたかった。大おお鮪まぐろか、鮫さめ、鱶ふかでないと、ちょっとその巨おお大きさと凄すさまじさが、真に迫らない気がする。――ほかに鮟あん鱇こうがある、それだと、ただその腹の膨れたのを観みるに過ぎぬ。実は石いし投な魚ぎである。大温にして小毒あり、というにつけても、普通、私どもの目に触れる事がないけれども、ここに担いだのは五尺に余った、重量、二十貫に満ちた、逞たくましい人間ほどはあろう。荒海の巌がん礁しょうに棲すみ、鱗うろこ鋭く、面つら顰しかんで、鰭はたが硬い。と見ると鯱しゃちに似て、彼が城の天守に金銀を鎧よろった諸侯なるに対して、これは赤あか合がっ羽ぱを絡まとった下郎が、蒼あお黒ぐろい魚身を、血に底光りしつつ、ずしずしと揺られていた。 かばかりの大おお石いし投な魚ぎの、さて価ねう値ちといえば、両を出ない。七八十銭に過ぎないことを、あとで聞いてちと鬱ふさいだほどである。が、とにかく、これは問屋、市場へ運ぶのではなく、漁村なるわが町内の晩のお菜かずに――荒磯に横づけで、ぐわッぐわッと、自や棄けに煙を吐く艇ふねから、手てか鈎ぎで崖がけ肋あば腹らへ引ひき摺ずり上あげた中から、そのまま跣はだ足しで、磯の巌いわ道みちを踏んで来たのであった。 まだ船底を踏占めるような、重い足取りで、田たん畝ぼ添いの脛すねを左右へ、草摺れに、だぶだぶと大おお魚うおを揺ゆすって、 ﹁しいッ、﹂ ﹁やあ、﹂ しっ、しっ、しっ。 この血だらけの魚の現うつ世しよの状さまに似ず、梅雨の日暮の森に掛かかって、青あお瑪めの瑙うを畳んで高い、石段下を、横に、漁りょ夫うしと魚で一列になった。 すぐここには見えない、木の鳥居は、海から吹抜けの風を厭いとってか、窪地でたちまち氾あ濫ふれるらしい水場のせいか、一ひと条すじやや広い畝あぜを隔てた、町の裏通りを――横に通った、正面と、撞しゅ木もくに打ぶつ着かった真まん中なかに立っている。 御みは柱しらを低く覗のぞいて、映画か、芝居のまねきの旗の、手てぬ拭ぐいの汚れたように、渋茶と、藍あいと、あわれ鰒あわび、小こが松つ魚おほどの元気もなく、棹さおによれよれに見えるのも、もの寂しい。 前へ立った漁りょ夫うしの肩が、石段を一歩出て、後うしろのが脚を上げ、真まん中なかの大魚の鰓あごが、端を攀よじっているその変な小男の、段の高さとおなじ処へ、生なま々なまと出て、横よこ面づらを鰭ひれの血で縫おうとした。 その時、小男が伸上るように、丸太棒の上から覗いて、 ﹁無むざ慙んや、そのざまよ。﹂ と云った、眼まなこがピカピカと光って、 ﹁われも世を呪のろえや。﹂ と、首を振ると、耳まで被かぶさった毛が、ぶるぶると動いて……腥なまぐさい。 しばらくすると、薄墨をもう一ひと刷はけした、水みず田たの際を、おっかな吃びっ驚くり、といった形で、漁りょ夫うしらが屈かが腰みごしに引返した。手ぶらで、その手つきは、大石投魚を取返しそうな構えでない。鰌どじょうが居たら押おさえたそうに見える。丸太ぐるみ、どか落しで遁にげた、たった今。……いや、遁げたの候の。……あか褌ふんどしにも恥じよかし。 ﹁大でっかい魚さかなア石地蔵様に化けてはいねえか。﹂ と、石投魚はそのまま石投魚で野の倒たれているのを、見定めながらそう云った。 一人は石段を密そっと見上げて、 ﹁何あにも居ねえぞ。﹂ ﹁おお、居ねえ、居めえよ、お前めえ。一つ劫おどかしておいて消えたずら。いつまでも顕あらわれていそうな奴じゃあねえだ。﹂ ﹁いまも言うた事だがや、この魚うおを狙ねらったにしては、小ちっこい奴だな。﹂ ﹁それよ、海から己おれたちをつけて来たものではなさそうだ。出た処とこ勝負に石段の上に立ちおったで。﹂ ﹁己おらは、魚さかなの腸はらわたから抜出した怨おん霊りょうではねえかと思う。﹂ と掴つかみかけた大魚腮えらから、わが声に驚いたように手を退のけて言った。 ﹁何しろ、水ものには違えねえだ。野山の狐鼬いたちなら、面つらが白いか、黄色ずら。青蛙のような色で、疣えぼ々えぼが立って、はあ、嘴くちばしが尖とがって、もずくのように毛が下った。﹂ ﹁そうだ、そうだ。それでやっと思いつけた。絵に描かいた河かっ童ぱそっくりだ。﹂ と、なぜか急に勢いきおいづいた。 絵そら事と俗には言う、が、絵はそら事でない事を、読者は、刻下に理解さるるであろう、と思う。 ﹁畜生。今ごろは風うわ説さにも聞かねえが、こんな処さ出おるかなあ。――浜方へ飛ばねえでよかった。――漁場へ遁にげりゃ、それ、なかまへ饒しゃ舌べる。加勢と来るだ。﹂ ﹁それだ。﹂ ﹁村の方へ走ったで、留守は、女子供だ。相談ぶつでもねえで、すぐ引ひっ返かえして、しめた事よ。お前めえらと、己おらとで、河童に劫おどされたでは、うつむけにも仰あお向むけにも、この顔さ立ちっこねえ処だったぞ、やあ。﹂ ﹁そうだ、そうだ。いい事をした。――畜生、もう一度出て見やがれ。あたまの皿ア打ぶっ挫くじいて、欠かけ片らにバタをつけて一口だい。﹂ 丸太棒を抜いて取り、引きそばめて、石段を睨ねめ上あげたのは言うまでもない。 ﹁コワイ﹂ と、虫の声で、青あお蚯みみ蚓ずのような舌をぺろりと出した。怪しい小男は、段を昇切った古杉の幹から、青い嘴くちばしばかりを出して、麓ふもとを瞰みお下ろしながら、あけびを裂いたような口を開けて、またニタリと笑った。 その杉を、右の方へ、山道が樹こがくれに続いて、木の根、岩角、雑草が人の脊より高く生はえ乱みだれ、どくだみの香深く、薊あざみが凄すさまじく咲き、野のば茨らの花の白いのも、時ならぬ黄たそ昏がれの仄ほの明あかるさに、人の目を迷わして、行手を遮る趣がある。梢こずえに響く波の音、吹当つる浜風は、葎むぐらを渦に廻わして東西を失わす。この坂、いかばかり遠く続くぞ。谿たに深く、峰遥はるかならんと思わせる。けれども、わずかに一町ばかり、はやく絶が崖けの端へ出て、ここを魚うお見みさ岬きとも言おう。町も海も一目に見渡さる、と、急に左へ折曲って、また石段が一個処ある。 小男の頭は、この絶崖際の草の尖さきへ、あの、蕈きのこの笠のようになって、ヌイと出た。 麓では、二人の漁りょ夫うしが、横に寝た大おお魚うおをそのまま棄てて、一人は麦むぎ藁わら帽ぼうを取忘れ、一人の向むこ顱うは巻ちまきが南とう瓜なすかぶりとなって、棒ばかり、影もぼんやりして、畝うねに暗く沈んだのである。――仔しさ細いは、魚が重くて上らない。魔ものが圧おさえるかと、丸太で空くうを切ってみた。もとより手ごたえがない。あのばけもの、口から腹に潜っていようも知れぬ。腮えらが動く、目が光って来た、となると、擬勢は示すが、もう、魚の腹を撲なぐりつけるほどの勇気も失せた。おお、姫ひめ神がみ――明神は女体にまします――夕ゆう餉げの料に、思召しがあるのであろう、とまことに、平和な、安易な、しかも極めて奇特な言ことばが一致して、裸体の白い娘でない、御ご供くを残して皈かえったのである。 蒼あおざめた小男は、第二の石段の上へ出た。沼の干ひたような、自然の丘を繞めぐらした、清らかな境内は、坂道の暗さに似ず、つらつらと濡れつつ薄うす明あかるい。 右斜めに、鉾かま形ぼこがたの杉の大樹の、森しん々しんと虚空に茂った中に社やしろがある。――こっちから、もう謹慎の意を表する状さまに、ついた杖を地から挙げ、胸へ片手をつけた。が、左の手は、ぶらんと落ちて、草くさ摺ずりの断たたれたような襤ぼ褸ろの袖の中に、肩から、ぐなりとそげている。これにこそ、わけがあろう。 まず聞け。――青あお苔ごけに沁しむ風は、坂に草を吹ふき靡なびくより、おのずから静しずかではあるが、階段に、緑に、堂のあたりに散った常とき盤わ木ぎの落葉の乱れたのが、いま、そよとも動かない。 のみならず。――すぐこの階きざはしのもとへ、灯ともしの翁おきな一人、立たち出いづるが、その油差の上に差置く、燈心が、その燈心が、入相すぐる夜よあ嵐らしの、やがて、颯さっと吹起るにさえ、そよりとも動かなかったのは不思議であろう。 啾しゅ々うしゅうと近づき、啾々と進んで、杖をバタリと置いた。濡鼠の袂たもとを敷いて、階きざはしの下に両もろ膝ひざをついた。 目ばかり光って、碧へき額がくの金こん字じを仰いだと思うと、拍かし手わでのかわりに――片手は利かない――痩やせた胸を三度打った。 ﹁願いまっしゅ。……お晩でしゅ。﹂ と、きゃきゃと透とおる、しかし、あわれな声して、地に頭こうべを摺すりつけた。 ﹁願いまっしゅ、お願い。お願い――﹂ 正面の額の蔭に、白い蝶が一羽、夕顔が開くように、ほんのりと顕あらわれると、ひらりと舞まい下さがり、小男の頭の上をすっと飛んだ。――この蝶が、境内を切って、ひらひらと、石段口の常夜燈にひたりと附くと、羽に点ともれたように灯影が映る時、八やそ十と年しにも近かろう、皺しわびた翁おきなの、彫刻また絵画の面より、頬のやや円いのが、萎なえ々なえとした禰ね宜ぎいでたちで、蚊かず脛ねを絞り、鹿革の古ぼけた大きな燧ひう打ちぶ袋くろを腰に提げ、燈心を一束、片手に油差を持添え、揉もみ烏え帽ぼ子しを頂いた、耳、ぼんの窪くぼのはずれに、燈心はその十と筋七なな筋の抜毛かと思う白しら髪がを覗のぞかせたが、あしなかの音をぴたりぴたりと寄って、半ば朽崩れた欄干の、擬ぎぼ宝し珠ゅを背に控えたが。 屈かがむが膝を抱く。――その時、段の隅に、油差に添えて燈心をさし置いたのである。―― ﹁和わ郎ろはの。﹂ ﹁三里離れた処でしゅ。――国くに境ざかいの、水溜りのものでございまっしゅ。﹂ ﹁ほ、ほ、印いん旛ばぬ沼ま、手賀沼の一族でそうろよな、様子を見ればの。﹂ ﹁赤沼の若いもの、三郎でっしゅ。﹂ ﹁河童衆、ようござった。さて、あれで見れば、石段を上のぼらしゃるが、いこう大儀そうにあった、若いにの。……和郎たち、空を飛ぶ心得があろうものを。﹂ ﹁神かん職ぬし様さま、おおせでっしゅ。――自動車に轢ひかれたほど、身から体だに怪け我がはあるでしゅが、梅雨空を泳ぐなら、鳶とび烏からすに負けんでしゅ。お鳥居より式台へ掛かからずに、樹の上から飛込んでは、お姫様に、失礼でっしゅ、と存じてでっしゅ。﹂ ﹁ほ、ほう、しんびょう。﹂ ほくほくと頷うなずいた。 ﹁きものも、灰塚の森の中で、古ふる案か山が子しを剥はいだでしゅ。﹂ ﹁しんびょう、しんびょう……奇特なや、忰せがれ。……何、それで大怪我じゃと――何としたの。﹂ ﹁それでしゅ、それでしゅから、お願いに参ったでしゅ。﹂ ﹁この老ぼれには何も叶かなわぬ。いずれ、姫神への願いじゃろ。お取次を申そうじゃが、忰、趣は――お薬かの。﹂ ﹁薬でないでしゅ。――敵かた打きうちがしたいのでっしゅ。﹂ ﹁ほ、ほ、そか、そか。敵打。……はて、そりゃ、しかし、若いに似合わず、流行におくれたの。敵打は近頃はやらぬがの。﹂ ﹁そでないでっしゅ。仕返しでっしゅ、喧けん嘩かの仕返しがしたいのでっしゅ。﹂ ﹁喧嘩をしたかの。喧嘩とや。﹂ ﹁この左の手を折られたでしゅ。﹂ とわなわなと身震いする。濡れた肩を絞って、雫しずくの垂るのが、蓴じゅ菜んさいに似た血のかたまりの、いまも流るるようである。 尖とがった嘴くちばしは、疣いぼ立だって、なお蒼あおい。 ﹁いたましげなや――何としてなあ。対あい手てはどこの何ものじゃの。﹂ ﹁畜生!人間。﹂ ﹁静しずかに――﹂ ごぼりと咳せいて、 ﹁御おん前まえじゃ。﹂ しゅッと、河童は身を縮めた。 ﹁日の今日、午ひる頃ごろ、久しぶりのお天気に、おらら沼から出たでしゅ。崖を下りて、あの浜の竃かま巌どいわへ。――神かん職ぬし様さま、小こぶ鮒な、鰌どじょうに腹がくちい、貝も小こが蟹にも欲しゅう思わんでございましゅから、白い浪の打ちかえす磯いそ端ばたを、八葉ようの蓮れん華げに気取り、背うし後ろの屏びょ風うぶ巌いわを、舟ふな後ごこ光うに真似て、円座して……翁おき様なさま、御存じでございましょ。あれは――近郷での、かくれ里。めった、人の目につかんでしゅから、山根の潮の差引きに、隠れたり、出たりして、凸でこ凹ぼこ凸凹凸凹と、累かさなって敷く礁いわを削り廻しに、漁師が、天然の生いけ簀す、生いけ船ぶねがまえにして、魚さかなを貯えて置くでしゅが、鯛たいも鰈かれいも、梅雨じけで見えんでしゅ。……掬すくい残りの小ちゃっこい鰯いわ子しこが、チ、チ、チ、︵笑う。︶……青い鰭ひれの行列で、巌いわ竃かまどの簀すの中を、きらきらきらきら、日ひな南たぼっこ。ニコニコとそれを見い、見い、身のぬらめきに、手てつ唾ばきして、……漁師が網を繕つぐのうでしゅ……あの真似をして遊んでいたでしゅ。――処へ、土地ところには聞きき馴なれぬ、すずしい澄んだ女おな子ごの声が、男に交って、崖上の岨そば道みちから、巌いわ角かどを、踏んず、縋すがりつ、桂かつ井らいとかいてあるでしゅ、印しる半しば纏んてん。﹂ ﹁おお、そか、この町の旅はた籠ごじゃよ。﹂ ﹁ええ、その番頭めが案内でしゅ。円まる髷まげの年増と、その亭主らしい、長なが面づらの夏帽子。自動車の運転手が、こつこつと一所に来たでしゅ。が、その年増を――おばさん、と呼ぶでございましゅ、二十四五の、ふっくりした別べっ嬪ぴんの娘――ちくと、そのおばさん、が、おばしアん、と云うか、と聞こえる……清すずしい、甘い、情のある、その声が堪たまらんでしゅ。﹂ ﹁はて、異な声の。﹂ ﹁おららが真似るようではないでしゅ。﹂ ﹁ほ、ほ、そか、そか。﹂ と、余念なさそうに頷うなずいた――風はいま吹きつけたが――その不思議に乱れぬ、ひからびた燈心とともに、白しら髪がも浮世離れして、翁おきなさびた風情である。 ﹁翁様、娘は中肉にむっちりと、膚はだつきが得えう言われぬのが、びちゃびちゃと潮へ入った。褄つまをくるりと。﹂ ﹁危あぶなやの。おぬしの前でや。﹂ ﹁その脛はぎの白さ、常とこ夏なつの花の影がからみ、磯風に揺れ揺れするでしゅが――年増も入れば、夏帽子も。番頭も半纏の裙すそをからげたでしゅ。巌いわ根ねづたいに、鰒あわび、鰒、栄さざ螺え、栄螺。……小こい鰯わしの色の綺麗さ。紫式部といったかたの好きだったというももっともで……お紫むらと云うがほんとうに紫……などというでしゅ、その娘が、その声で。……淡い膏あぶらも、白おし粉ろいも、娘の匂いそのままで、膚はだざわりのただ粗あらい、岩に脱いだ白足袋の裡なかに潜って、熟じっと覗いていたでしゅが。一波上るわ、足あし許もとへ。あれと裳もすそを、脛がよれる、裳が揚る、紅あかい帆が、白百合の船にはらんで、青々と引く波に走るのを見ては、何とも、かとも、翁様。﹂ ﹁ちと聞苦しゅう覚えるぞ。﹂ ﹁口へ出して言わぬばかり、人間も、赤沼の三郎もかわりはないでしゅ。翁様――処ででしゅ、この吸すい盤つき用意の水みず掻かきで、お尻を密そっと撫なでようものと……﹂ ﹁ああ、約束は免れぬ。和郎たちは、一族一門、代々それがために皆怪我をするのじゃよ。﹂ ﹁違うでしゅ、それでした怪我ならば、自業自得で怨うら恨みはないでしゅ。……蛙手に、底を泳ぎ寄って、口をぱくりと、﹂ ﹁その口でか、その口じゃの。﹂ ﹁ヒ、ヒ、ヒ、空ざまに、波の上の女おみ郎なえ花し、桔きき梗ょうの帯を見ますと、や、背しょ負いま守もりの扉を透いて、道中、道すがら参さん詣けいした、中山の法華経寺か、かねて御守護の雑ぞう司しヶ谷やか、真まっ紅かな柘ざく榴ろが輝いて燃えて、鬼きし子も母じ神んの御みえ影いが見えたでしゅで、蛸たこ遁にげで、岩を吸い、吸い、色を変じて磯へ上った。 沖がやがて曇ったでしゅ。あら、気味の悪い、浪がかかったかしら。……別べっ嬪ぴんの娘の畜生め、などとぬかすでしゅ。……白足袋をつまんで。―― 磯浜へ上って来て、巌いわの根松の日蔭に集あつまり、ビイル、煎せん餅べいの飲のみ食くいするのは、羨うらやましくも何ともないでしゅ。娘の白い頤あごの少しばかり動くのを、甘う味まそうに、屏びょ風うぶ巌いわに附くッ着ついて見ているうちに、運転手の奴が、その巌の端へ来て立って、沖を眺めて、腰に手をつけ、気取って反そるでしゅ。見つけられまい、と背うし後ろをすり抜ける出合がしら、錠の浜というほど狭い砂浜、娘等四人が揃って立つでしゅから、ひょいと岨そば路みちへ飛ぼうとする処を、 ――まて、まて、まて―― と娘の声でしゅ。見み惚とれて顱さらが顕あらわれたか、罷しま了いと、慌てて足あし許もとの穴へ隠れたでしゅわ。 間の悪さは、馬まて蛤が貝いのちょうど隠かく家れが。――塩を入れると飛上るんですってねと、娘の目が、穴の上へ、ふたになって、熟じっと覗のぞく。河童だい、あかんべい、とやった処が、でしゅ……覗いた瞳の美しさ、その麗うららかさは、月宮殿の池ほどござり、睫まつげが柳の小さざ波なみに、岸を縫って、靡なびくでしゅが。――ただ一ひと雫しずくの露となって、逆さかさに落ちて吸わりょうと、蕩とろ然りとすると、痛い、疼いたい、痛い、疼いッ。肩のつけもとを棒ぼう切ぎれで、砂越しに突つき挫くじいた。﹂ ﹁その怪我じゃ。﹂ ﹁神職様。――塩で釣出せぬ馬ま蛤てのかわりに、太い洋ステ杖ッキでかッぽじった、杖は夏帽の奴の持ものでしゅが、下手人は旅籠屋の番頭め、這しゃ奴つ、女ばらへ、お歯向きに、金歯を見せて不ふら埒ちを働く。﹂ ﹁ほ、ほ、そか、そか。――かわいや忰せがれ、忰が怨うらみは番頭じゃ。﹂ ﹁違うでしゅ、翁様。――思わず、きゅうと息を引き、馬蛤の穴を刎はね飛とんで、田たう打ちが蟹にが、ぼろぼろ打つでしゅ、泡ほどの砂の沫あわを被かぶって転がって遁にげる時、口く惜やしさに、奴の穿はいた、奢おごった長靴、丹精に磨いた自慢の向むこ脛うずねへ、この唾つばをかッと吐掛けたれば、この一ひと呪のろ詛いによって、あの、ご秘蔵の長靴は、穴が明いて腐るでしゅから、奴に取っては、リョウマチを煩らうより、きとこたえる。仕返しは沢山でしゅ。――怨うらみの的は、神職様――娘ども、夏帽子、その女房の三人でしゅが。﹂ ﹁一通りは聞いた、ほ、そか、そか。……無理も道理も、老おいの一存にはならぬ事じゃ。いずれはお姫様に申上ぎょうが、こなた道理には外れたようじゃ、無理でのうもなかりそうに思われる、そのしかえし。お聞済みになろうか。むずかしいの。﹂ ﹁御鎮守の姫様、おきき済みになりませぬと、目の前の仇かたきを視みながら仕返しが出来んのでしゅ、出来んのでしゅが、わア、﹂ とたちまち声を上げて泣いたが、河童はすぐに泣くものか、知らず、駄だだ々っ子こがものねだりする状さまであった。 ﹁忰、忰……まだ早い……泣くな。﹂ と翁は、白く笑った。 ﹁大慈大悲は仏ぶつ菩ぼさ薩つにこそおわすれ、この年老いた気の弱りに、毎度御意見は申すなれども、姫神、任にん侠きょうの御気風ましまし、ともあれ、先んじて、お袖に縋すがったものの願い事を、お聞届けの模様がある。一たび取次いでおましょうぞ――えいとな。…… や、や、や、横扉から、はや、お縁へ。……これは、また、お軽々しい。﹂ 廻廊の縁の角あたり、雲低き柳の帳とばりに立って、朧おぼろに神々しい姿の、翁の声に、つと打うち向むかいたまえるは、細ほそ面おもてただ白玉の鼻筋通り、水晶を刻んで、威のある眦まなじり。額髪、眉のかかりは、紫の薄い袖そで頭ずき巾んにほのめいた、が、匂はさげ髪の背に余る。――紅べに地じき金んら襴んのさげ帯して、紫の袖長く、衣えも紋んに優しく引合わせたまえる、手かさねの両の袖口に、塗骨の扇つつましく持添えて、床板の朽目の青あお芒すすきに、裳もすその紅くれないうすく燃えつつ、すらすらと莟つぼみなす白い素足で渡って。――神か、あらずや、人か、巫み女こか。 ﹁――その話の人たちを見ようと思う、翁、里人の深切に、すきな柳を欄干さきへ植えてたもったは嬉しいが、町の桂井館は葉のしげりで隠れて見えぬ。――広前の、そちらへ、参ろう。﹂ はらりと、やや蓮はす葉はに白しら脛はぎのこぼるるさえ、道きよめの雪の影を散らして、膚はだを守護する位が備わり、包ましやかなお面おもてより、一層世の塵ちりに遠ざかって、好色の河童の痴たわけた目にも、女の肉とは映るまい。 姫のその姿が、正面の格子に、銀色の染まるばかり、艶つや々つやと映った時、山やま鴉がらすの嘴はし太ぶとが――二羽、小刻みに縁を走って、片足ずつ駒こま下げ駄たを、嘴くちばしでコトンと壇の上に揃えたが、鴉がなった沓くつかも知れない、同時に真まっ黒くろな羽が消えたのであるから。 足が浮いて、ちらちらと高く上ったのは――白い蝶が、トタンにその塗下駄の底を潜くぐって舞上ったので。――見ると、姫はその蝶に軽く乗ったように宙を下り立った。 ﹁お床しょ几うぎ、お床几。﹂ と翁が呼ぶと、栗り鼠すよ、栗鼠よ、古栗鼠の小栗鼠が、樹の根の、黒こく檀たんのごとくに光つ沢やあって、木目は、蘭を浮彫にしたようなのを、前脚で抱えて、ひょんと出た。 袖近く、あわれや、片手の甲の上に、額を押伏せた赤沼の小さな主は、その目を上ぐるとひとしく、我を忘れて叫んだ。 ﹁ああ、見えましゅ……あの向う丘の、二階の角の室まに、三人が、うせおるでしゅ。﹂ 姫の紫の褄つま下したに、山やま懐ふところの夏草は、淵ふちのごとく暗く沈み、野のば茨ら乱れて白きのみ。沖の船の燈ともしびが二つ三つ、星に似て、ただ町の屋根は音のない波を連ねた中に、森の雲に包まれつつ、その旅館――桂井の二階の欄干が、あたかも大船の甲板のように、浮いている。 が、鬼神の瞳に引寄せられて、社やしろの境内なる足許に、切きっ立たての石段は、疾はやくその舷ふなばたに昇る梯はし子ごかとばかり、遠おち近こちの法おき規てが乱れて、赤沼の三郎が、角の室という八畳の縁近に、鬢びんの房ふっさりした束髪と、薄手な年増の円まる髷まげと、男の貸かし広どて袖らを着た棒ぼう縞じまさえ、靄もやを分けて、はっきりと描かれた。 ﹁あの、三人は?﹂ ﹁はあ、されば、その事。﹂ と、翁が手てび庇さしして傾いた。 社の神木の梢こずえを鎖とざした、黒雲の中に、怪しや、冴えたる女の声して、 ﹁お爺さん――お取次。……ぽう、ぽっぽ。﹂ 木みみ菟ずくの女性である。 ﹁皆、東京の下町です。円髷は踊の師匠。若いのは、おなじ、師匠なかま、姉あね分ぶんのものの娘です。男は、円髷の亭主です。ぽっぽう。おはやし方の笛吹きです。﹂ ﹁や、や、千里眼。﹂ 翁が仰ぐと、 ﹁あら、そんなでもありませんわ。ぽっぽ。﹂ と空でいった。河童の一肩、聳そびえつつ、 ﹁芸人でしゅか、士農工商の道を外れた、ろくでなしめら。﹂ ﹁三郎さん、でもね、ちょっと上手だって言いますよ、ぽう、ぽっぽ。﹂ 翁ははじめて、気だるげに、横にかぶりを振って、 ﹁芸一通りさえ、なかなかのものじゃ。達者というも得難いに、人間の癖にして、上手などとは行過ぎじゃぞよ。﹂ ﹁お姫様、トッピキピイ、あんな奴はトッピキピイでしゅ。﹂ と河童は水みず掻かきのある片手で、鼻の下を、べろべろと擦こすっていった。 ﹁おおよそ御合点と見うけたてまつる。赤沼の三郎、仕返しは、どの様に望むかの。まさかに、生いの命ちを奪とろうとは思うまい。厳しゅうて笛吹は眇めかち、女どもは片耳殺そぐか、鼻を削るか、蹇あしなえ、跛びっこどころかの――軽うて、気ひき絶つけ……やがて、息を吹返さすかの。﹂ ﹁えい、神かん職ぬし様さま。馬ま蛤ての穴にかくれた小さなものを虐しいたげました。うってがえしに、あの、ご覧ろうじ、石段下を一杯に倒れた血みどろの大おお魚うおを、雲の中から、ずどどどど!だしぬけに、あの三人の座敷へ投込んで頂きたいでしゅ。気絶しようが、のめろうが、鼻かけ、歯はッかけ、大おおきな賽さいの目の出次第が、本望でしゅ。﹂ ﹁ほ、ほ、大魚を降らし、賽に投げるか。おもしろかろ。忰せがれ、思いつきは至極じゃが、折から当お社もお人ずくなじゃ。あの魚は、かさも、重さも、破れた釣鐘ほどあって、のう、手頃には参らぬ。﹂ と云った。神に使うる翁の、この譬たと喩えの言ことばを聞かれよ。筆者は、大石投魚を顕あらわすのに苦心した。が、こんな適切な形容は、凡慮には及ばなかった。 お天守の杉から、再び女の声で…… ﹁そんな重いもの持運ぶまでもありませんわ。ぽう、ぽっぽ――あの三人は町へ遊びに出掛ける処なんです。少しばかり誘さそいをかけますとね、ぽう、ぽっぽ――お社近ぢかまで参りましょう。石段下へ引寄せておいて、石投魚の亡者を飛上らせるだけでも用はたりましょうと存じますのよ。ぽう、ぽっぽ――あれ、ね、娘は髪のもつれを撫なでつけております、頸えりの白うございますこと。次の室まの姿見へ、年増が代って坐りました。――感心、娘が、こん度は円まる髷まげ、――あの手がらの水色は涼しい。ぽう、ぽっぽ――髷の鬢びんを撫でつけますよ。女同士のああした処は、しおらしいものですわね。酷ひどいめに逢うのも知らないで。……ぽう、ぽっぽ――可哀相ですけど。……もう縁側へ出ましたよ。男が先に、気取って洋ステ杖ッキなんかもって――あれでしょう。三郎さんを突いたのは――帰かえ途りは杖にして縋すがろうと思って、ぽう、ぽっぽ。……いま、すぐ、玄関へ出ますわ、ごらんなさいまし。﹂ 真まっ暗くらな杉に籠こもって、長い耳の左右に動くのを、黒髪で捌さばいた、女顔の木みみ菟ずくの、紅あかい嘴くちばしで笑うのが、見えるようで凄すさまじい。その顔が月に化けたのではない。ごらんなさいましという、言葉が道をつけて、隧トン道ネルを覗のぞかす状さまに、遥はるかにその真正面へ、ぱっと電燈の光のやや薄赤い、桂井館の大式台が顕あらわれた。 向う歯の金歯が光って、印しる半しば纏んてんの番頭が、沓くつ脱ぬぎの傍そばにたって、長靴を磨いているのが見える。いや、磨いているのではない。それに、客のではない。捻ひねり廻して鬱ふさいだ顔がん色しょくは、愍ふび然んや、河童のぬめりで腐って、ポカンと穴があいたらしい。まだ宵だというに、番頭のそうした処は、旅館の閑散をも表示する……背うし後ろに雑木山を控えた、鍵の手形なりの総二階に、あかりの点ついたのは、三人の客が、出掛けに障子を閉めた、その角座敷ばかりである。 下廊下を、元気よく玄関へ出ると、女連の手は早い、二人で歩あゆ行みい板たを衝つと渡って、自分たちで下駄を揃えたから、番頭は吃びっ驚くりして、長靴を掴つかんだなりで、金歯を剥むき出だしに、世辞笑いで、お叩じ頭ぎをした。 女中が二人出て送る。その玄関の燈ともしびを背に、芝草と、植込の小松の中の敷石を、三人が道なりに少し畝うねって伝つたわって、石いし造づくりの門にかかげた、石ぼやの門燈に、影を黒く、段を降りて砂道へ出た。が、すぐ町から小半町引ひっ込こんだ坂で、一方は畑になり、一方は宿の囲かこいの石垣が長く続くばかりで、人通りもなく、そうして仄ほの暗くらい。 ト、町へたらたら下りの坂道を、つかつかと……わずかに白い門燈を離れたと思うと、どう並んだか、三人の右の片手三本が、ひょいと空へ、揃って、踊り構えの、さす手に上った。同時である。おなじように腰を捻った。下駄が浮くと、引く手が合って、おなじく三本の手が左へ、さっと流れたのがはじまりで、一列なのが、廻って、くるくると巴ともえに附くッ着ついて、開いて、くるりと輪に踊る。花やかな娘の笑声が、夜の底に響いて、また、くるりと廻って、手が流れて、褄つまが飜かえる。足腰が、水みず馬すましの刎はねるように、ツイツイツイと刎ねるように坂くだりに行ゆく。……いや、それがまた早い。娘の帯の、銀の露の秋草に、円髷の帯の、浅あさ葱ぎに染めた色絵の蛍が、飛とび交かって、茄なす子ばた畑けへ綺麗にうつり、すいと消え、ぱっと咲いた。 ﹁酔っとるでしゅ、あの笛吹。女どもも二三杯。﹂と河童が舌打して言った。 ﹁よい、よい、遠くなり、近くなり、あの破われ鐘がねを持扱う雑作に及ばぬ。お山の草くさ叢むらから、黄腹、赤背の山やま鱗うろこどもを、綯なえ交まぜに、三筋の処を走らせ、あの踊りの足許へ、茄子畑から、にょっにょっと、蹴出す白しら脛はぎへ搦からましょう。﹂この時の白髪は動いた。 ﹁爺じじい。﹂ ﹁はあ。﹂と烏帽子が伏ふさる。 姫は床しょ几うぎに端然と、 ﹁男が、口のなかで拍子を取るが……﹂ 翁は耳を傾け、皺しわ手でを当てて聞いた。 ﹁拍子ではござりませぬ、ぶつぶつと唄のようで。﹂ ﹁さすが、商くろ売う人と。――あれに笛は吹くまいよ、何と唄うえ。﹂ ﹁分りましたわ。﹂と、森で受けた。 ﹁……諏す訪わ――の海――水みな底そこ、照らす、小玉石――手には取れども袖は濡ぬらさじ……おーもーしーろーお神かぐ楽ららしいんでございますの。お、も、しーろし、かしらも、白し、富士の山、麓ふもとの霞――峰の白雪。﹂ ﹁それでは、お富士様、お諏訪様がた、お目かけられものかも知れない――お待ち……あれ、気の疾はやい。﹂ 紫の袖が解けると、扇おう子ぎが、柳の膝に、丁ちょうと当った。 びくりとして、三つ、ひらめく舌を縮めた。風のごとく駆下りた、ほとんど魚の死しが骸いの鰭ひれのあたりから、ずるずると石段を這はい返かえして、揃って、姫を空に仰いだ、一ひと所ところの鎌首は、如にょ意いに似て、ずるずると尾が長い。 二階のその角座敷では、三人、顔を見合わせて、ただ呆あきれ果ててぞいたりける風情がある。 これは、さもありそうな事で、一座の立たて女おや形またるべき娘さえ、十五十六ではない、二はた十ちを三つ四つも越しているのに。――円髷は四十近ぢかで、笛吹きのごときは五十にとどく、というのが、手を揃え、足を挙げ、腰を振って、大道で踊ったのであるから。――もっと深入した事は、見たまえ、ほっとした草くた臥びれた態なりで、真まん中なかに三方から取巻いた食ちゃ卓ぶだいの上には、茶道具の左右に、真新しい、擂すり粉こ木ぎ、および杓しゃ子くしとなんいう、世の宝たか貝らものの中に、最も興がった剽ひょ軽うきんものが揃って乗っていて、これに目鼻のつかないのが可おか訝しいくらい。ついでに婦おんな二人の顔が杓子と擂粉木にならないのが不思議なほど、変な外そと出での夜であった。 ﹁どうしたっていうんでしょう。﹂ と、娘が擂粉木の沈黙を破って、 ﹁誰か、見ていやしなかったかしら、可い厭やだ、私。﹂ と頤おとがいを削ったようにいうと、年増は杓子で俯うつ向むいて、寂しそうに、それでも、目もとには、まだ笑わらいの隈くまが残って消えずに、 ﹁誰が見るものかね。踊よりか、町で買った、擂粉木とこの杓しゃもじをさ、お前さんと私とで、持って歩あ行るいた方がよっぽどおかしい。﹂ ﹁だって、おばさん――どこかの山の神様のお祭に踊る時には、まじめな道具だって、おじさんが言うんじゃないの。……御ごへ幣いとおんなじ事だって。……だから私――まじめに町の中を持ったんだけれど、考えると――変だわね。﹂ ﹁いや、まじめだよ。この擂粉木と杓しゃ子もじの恩を忘れてどうする。おかめひょっとこのように滑おど稽けもの扱いにするのは不届き千万さ。﹂ さて、笛吹――は、これも町で買った楊よう弓きゅう仕立の竹に、雀が針がねを伝つたわって、嘴くちばしの鈴を、チン、カラカラカラカラカラ、チン、カラカラと飛ぶ玩おも弄ち品ゃを、膝について、鼻の下の伸びた顔でいる。……いや、愚に返った事は――もし踊があれなりに続いて、下り坂を発は奮ずむと、町の真まん中なかへ舞出して、漁師町の棟を飛んで、海へころげて落ちたろう。 馬鹿気ただけで、狂きち人がいではないから、生いの命ちに別条はなく鎮静した。――ところで、とぼけきった興は尽きず、神み巫この鈴から思いついて、古びた玩弄品屋の店で、ありあわせたこの雀を買ったのがはじまりで、笛吹はかつて、麻布辺の大資産家で、郷土民俗の趣味と、研究と、地鎮祭をかねて、飛ひ騨だ、三河、信しな濃のの国々の谷谷谷深く相交こう叉さする、山また山の僻へき村そんから招いた、山民一行の祭に参じた。桜、菖あや蒲め、山の雉き子じの花踊。赤鬼、青鬼、白鬼の、面も三尺に余るのが、斧おの鉞まさかりの曲舞する。浄きよめ砂置いた広庭の壇場には、幣ぬさをひきゆい、注し連めかけわたし、来きたります神の道は、︵千ちみ道ち、百もも綱づな、道七つ。︶とも言えば、︵綾あやを織り、錦にしきを敷きて招じる。︶と謡うほどだから、奥山人が、代々に伝えた紙細工に、巧わざを凝らして、千道百綱を虹にじのように。飾かざりの鳥には、雉子、山やま鶏どり、秋草、もみじを切出したのを、三み重え、七なな重えに――たなびかせた、その真まん中なかに、丸太薪たきぎを堆うずたかく烈々と燻くべ、大おお釜がまに湯を沸かせ、湯玉の霰あられにたばしる中を、前あと後さきに行違い、右左に飛廻って、松たい明まつの火に、鬼も、人も、神み巫こも、禰ね宜ぎも、美女も、裸も、虎の皮も、紅くれないの袴はかまも、燃えたり、消えたり、その、ひゅうら、ひゅ、ひゅうら、ひゅ、諏訪の海、水みな底そこ照らす小玉石、を唄いながら、黒雲に飛ひぎ行ょうする、その目覚しさは……なぞと、町を歩あ行るきながら、ちと手真似で話して、その神楽の中に、青いおかめ、黒いひょっとこの、扮いで装たちしたのが、こてこてと飯粒をつけた大おお杓しゃ子くし、べたりと味噌を塗った太ふと擂すり粉こ木ぎで、踊り踊り、不意を襲って、あれ、きゃア、ワッと言う隙ひまあらばこそ、見物、いや、参詣の紳士はもとより、装よそおいを凝らした貴婦人令嬢の顔へ、ヌッと突出し、べたり、ぐしゃッ、どろり、と塗る……と話す頃は、円髷が腹はら筋すじを横によるやら、娘が拝むようにのめって俯うつ向むいて笑うやら。ちょっとまた踊が憑ついた形になると、興に乗じて、あの番頭を噴ふき出ださせなくっては……女中をからかおう。……で、あろう事か、荒物屋で、古新聞で包んでよこそう、というものを、そのままで結構よ。第一色気ざかりが露むき出だしに受取ったから、荒物屋のかみさんが、おかしがって笑うより、禁まじ厭ないにでもするのか、と気味の悪そうな顔をしたのを、また嬉しがって、寂せき寥りょうたる夜店のあたりを一廻り。横町を田たん畝ぼへ抜けて――はじめから志した――山の森の明神の、あの石段の下へ着いたまでは、馬にも、猪いのししにも乗った勢いきおいだった。 そこに……何を見たと思う。――通合わせた自動車に、消えて乗って、わずかに三分。…… 宿へ遁にげ返かえった時は、顔も白澄むほど、女二人、杓子と擂粉木を出来得る限り、掻かき合あわせた袖の下へ。――あら、まあ、笛吹は分別で、チン、カラカラカラ、チン。わざと、チンカラカラカラと雀を鳴らして、これで出迎えた女中だちの目を逸そらさせたほどなのであった。 ﹁いわば、お儀式用の宝ものといっていいね、時ならない食ちゃ卓ぶだいに乗ったって、何も気味の悪いことはないよ。﹂ ﹁気味の悪いことはないったって、一体変ね、帰る途みちでも言ったけれど、行がけに先さっ刻き、宿を出ると、いきなり踊出したのは誰なんでしょう。﹂ ﹁そりゃ私だろう。掛引のない処。お前にも話した事があるほどだし、その時の祭の踊を実地に見たのは、私だから。﹂ ﹁ですが、こればかりはお前さんのせいともいえませんわ。……話を聞いていますだけに、何だか私だったかも知れない気がする。﹂ ﹁あら、おばさん、私のようよ、いきなりひとりでに、すっと手の上ったのは。﹂ ﹁まさか、巻込まれたのなら知らないこと――お婿さんをとるのに、間違ったら、高島田に結いおうという娘の癖に。﹂ ﹁おじさん、ひどい、間違ったら高島田じゃありません、やむを得ず洋ハイ髪カラなのよ。﹂ ﹁おとなしくふっくりしてる癖に、時々ああいう口を利くんですからね。――吃びっ驚くりさせられる事があるんです。――いつかも修善寺の温ゆ泉や宿どで、あすこに廊下の橋がかりに川水を引入れた流ながれの瀬があるでしょう。巌いわ組ぐみにこしらえた、小さな滝が落ちるのを、池の鯉が揃って、競って昇るんですわね。水をすらすらと上るのは割合やさしいようですけれど、流れが煽あおって、こう、颯さっとせく、落口の巌いわ角かどを刎はね越すのは苦くげ艱んらしい……しばらく見ていると、だんだんにみんな上った、一つ残ったのが、ああもう少し、もう一息という処で滝壺へ返って落ちるんです。そこよ、しっかりッてこの娘ひと――口へ出したうちはまだしも、しまいには目を据えて、熟じっと視みたと思うと、湯上りの浴衣のままで、あの高々と取った欄干を、あッという間もなく、跣はだ足しで、跣足で跨またいで――お帳場でそういいましたよ。随分おてんばさんで、二階の屋根づたいに隣の間へ、ばア――それよりか瓦かわらの廂ひさしから、藤棚越しに下座敷を覗のぞいた娘さんもあるけれど、あの欄干を跨いだのは、いつの昔、開業以来、はじめてですって。……この娘ひと。……御当人、それで巌飛びに飛移って、その鯉をいきなりつかむと、滝の上へ泳がせたじゃありませんか。﹂ ﹁説明に及ばず。私も一所に見ていたよ。吃びっ驚くりした。時々放れ業をやる。それだから、縁遠いんだね。たとえばさ、真のおじきにした処で、いやしくも男の前だ。あれでは跨いだんじゃない、飛んだんだ。いや、足を宙へ上げたんだ。――﹂ ﹁知らない、おじさん。﹂ ﹁もっとも、一所に道を歩あ行るいていて、左とか右とか、私と説が違って、さて自分が勝つと――銀座の人込の中で、どうです、それ見たか、と白い……﹂ ﹁多サン謝キュウ。﹂ ﹁逞たくましい。﹂ ﹁取消し。﹂ ﹁腕を、拳固がまえの握にぎ拳りこぶしで、二の腕の見えるまで、ぬっと象の鼻のように私の目のさきへ突つき出だした事があるんだからね。﹂ ﹁まだ、踊ってるようだわね、話がさ。﹂ ﹁私も、おばさん、いきなり踊出したのは、やっぱり私のように思われてならないのよ。﹂ ﹁いや、ものに誘われて、何でも、これは、言合わせたように、前後甲乙、さっぱりと三人同いっ時ときだ。﹂ ﹁可い厭やねえ、気味の悪い。﹂ ﹁ね、おばさん、日の暮方に、お酒の前。……ここから門のすぐ向うの茄なす子ばた畠けを見ていたら、影法師のような小さなお媼ばあさんが、杖に縋すがってどこからか出て来て、畑の真まん中なかへぼんやり立って、その杖で、何だか九字でも切るような様子をしたじゃアありませんか。思出すわ。……鋤すき鍬くわじゃなかったんですもの。あの、持ってたもの撞しゅ木もくじゃありません? 悚ぞ然っとする。あれが魔法で、私たちは、誘い込まれたんじゃないんでしょうかね。﹂ ﹁大丈夫、いなかでは遣る事さ。ものなりのいいように、生なれ生れ茄な子すのまじないだよ。﹂ ﹁でも、畑のまた下道には、古い穀こく倉ぐらがあるし、狐か、狸か。﹂ ﹁そんな事は決してない。考えているうちに、私にはよく分った。雨続きだし、石段が辷すべるだの、お前さんたち、蛇が可こ恐わいのといって、失礼した。――今夜も心ばかりお鳥居の下まで行った――毎朝拍かし手わでは打つが、まだお山へ上らぬ。あの高い森の上に、千ち木ぎのお屋根が拝される……ここの鎮守様の思召しに相違ない。――五さみ月だ雨れの徒つれ然づれに、踊を見よう。――さあ、その気で、更あらためて、ここで真ま面じ目めに踊り直そう。神様にお目にかけるほどの本芸は、お互にうぬぼれぬ。杓子舞、擂粉木踊だ。二人は、わざとそれをお持ち、真面目だよ、さ、さ、さ。可いかい。﹂ 笛吹は、こまかい薩さつ摩まの紺こん絣がすりの単ひと衣えに、かりものの扱しご帯きをしめていたのが、博はか多たを取って、きちんと貝の口にしめ直し、横縁の障子を開いて、御おや社しろに。――一座退しさって、女二人も、慎み深く、手をつかえて、ぬかずいた。 栗り鼠すが仰あお向むけにひっくりかえった。 あの、チン、カラ、カラカラカラカラ、笛吹の手の雀は雀、杓子は、しゃ、しゃ、杓子と、す、す、す、擂粉木を、さしたり、引いたり、廻り踊る。ま、ま、真顔を見さいな。笑わずにいられるか。 泡を吐き、舌を噛かみ、ぶつぶつ小じれに焦じれていた、赤沼の三郎が、うっかりしたように、思わず、にやりとした。 姫は、赤地錦の帯脇に、おなじ袋の緒をしめて、守まも刀りがたなと見参らせたは、あらず、一管の玉の笛を、すっとぬいて、丹花の唇、斜めに氷つら柱らを含んで、涼しく、気高く、歌口を―― 木みみ菟ずくが、ぽう、と鳴く。 社の格子が颯さっと開くと、白兎が一羽、太鼓を、抱くようにして、腹をゆすって笑いながら、撥ばち音おとを低く、かすめて打った。 河童の片手が、ひょいと上って、また、ひょいと上って、ひょこひょこと足で拍子を取る。 見返りたまい、 ﹁三人を堪忍してやりゃ。﹂ ﹁あ、あ、あ、姫君。踊って喧嘩はなりませぬ。うう、うふふ、蛇も踊るや。――藪やぶの穴から狐も覗のぞいて――あはは、石いし投な魚げも、ぬさりと立った。﹂ わっと、けたたましく絶叫して、石段の麓ふもとを、右往左往に、人数は五六十、飛んだろう。 赤沼の三郎は、手をついた――もうこうまいる、姫神様。…… ﹁愛あい想そのなさよ。撫なで子しこも、百合も、あるけれど、活きた花を手折ろうより、この一折持っていきゃ。﹂ 取らしょうと、笛の御み手てに持添えて、濃い紫の女扇を、袖すれにこそたまわりけれ。 片手なぞ、今は何するものぞ。 ﹁おんたまものの光は身に添い、案か山か子しのつづれも錦にしきの直ひた垂たれ。﹂ 翁が傍かたわらに、手を挙げた。 ﹁石段に及ばぬ、飛んでござれ。﹂ ﹁はあ、いまさらにお恥かしい。大海蒼そう溟めいに館やかたを造る、跋ばつ難なん佗だ竜王、娑しゃ伽が羅ら竜王、摩ま那な斯し竜王。竜神、竜女も、色には迷う験ためし候。外海小湖に泥土の鬼畜、怯きょ弱うじゃくの微輩。馬ま蛤ての穴へ落ちたりとも、空を翔かけるは、まだ自在。これとても、御恩の姫君。事おわして、お召とあれば、水はもとより、自在のわっぱ。電火、地火、劫ごう火か、敵火、爆火、手一つでも消しますでしゅ、ごめん。﹂ とばかり、ひょうと飛んだ。
ひょう、ひょう。
翁が、ふたふたと手を拍たたいて、笑い、笑い、
﹁漁師町は行水時よの。さらでもの、あの手てお負いが、白い脛すねで落ちると愍ふび然んじゃ。見送ってやれの――鴉からす、鴉。﹂
かあ、かあ。
ひょう、ひょう。
かあ、かあ。
ひょう、ひょう。
雲は低く灰あ汁くを漲みなぎらして、蒼あお穹ぞらの奥、黒く流るる処、げに直ちょ顕っけんせる飛行機の、一万里の荒海、八千里の曠あら野のの五さつ月きや闇みを、一いっ閃せんし、掠かすめ去って、飛ぶに似て、似ぬものよ。
ひょう、ひょう。
かあ、かあ。
北をさすを、北から吹く、逆らう風はものともせねど、海洋のかあ、かあ。
かあ、かあ。
ひょう、ひょう。
かあ、かあ。
ひょう、ひょう。
かあ、かあ。
ひょう、
ひょう。
…………
…………
昭和六(一九三一)年九月