一
宮みや重しげ大根のふとしく立てし宮柱は、ふろふきの熱田の神のみそなわす、七里のわたし浪なみゆたかにして、来往の渡船難なく桑名につきたる悦よろこびのあまり……
と口くち誦ずさむように独ひと言りごとの、膝ひざ栗くり毛げ五編の上の読初め、霜月十日あまりの初夜。中なか空ぞらは冴さえ切きって、星が水みず垢ご離り取りそうな月つき明あかりに、踏切の桟橋を渡る影高く、灯ともしびちらちらと目の下に、遠おち近こちの樹こだ立ちの骨ばかりなのを視ながめながら、桑名の停ステ車エシ場ョンへ下りた旅客がある。
月の影には相ふさ応わしい、真まっ黒くろな外がい套とうの、痩やせた身から体だにちと広過ぎるを緩く着て、焦茶色の中折帽、真新しいはさて可いいが、馴なれない天あた窓まに山を立てて、鍔つばをしっくりと耳へ被かぶさるばかり深く嵌はめた、あまつさえ、風に取られまいための留とめ紐ひもを、ぶらりと皺しなびた頬へ下げた工ぐあ合いが、時とき世よなれば、道中、笠も載のせられず、と断あき念らめた風に見える。年配六十二三の、気ばかり若い弥や次じ郎ろ兵べ衛え。
さまで重荷ではないそうで、唐草模様の天びろ鵝う絨どの革かば鞄んに信玄袋を引ひき搦からめて、こいつを片手。片手に蝙こう蝠もり傘がさを支つきながら、
﹁さて……悦びのあまり名物の焼やき蛤はまぐりに酒汲くみかわして、……と本ほん文もんにある処ところさ、旅はた籠ご屋やへ着ちゃくの前に、停車場前の茶店か何かで、一本傾けて参ろうかな。︵どうだ、喜きだ多は八ち。︶と行きたいが、其その許もとは年上で、ちとそりが合わぬ。だがね、家元の弥次郎兵衛どの事も、伊勢路では、これ、同つ伴れの喜多八にはぐれて、一人旅のとぼとぼと、棚からぶら下った宿屋を尋ねあぐんで、泣きそうになったとあるです。ところで其許は、道中松並木で出来た道づれの格だ。その道づれと、何なんと一口遣やろうではないか、ええ、捻ねじ平べいさん。﹂
﹁また、言うわ。﹂
と苦い顔を渋くした、同つ伴れの老人は、まだ、その上を四つ五つで、やがて七なな十そじなるべし。臘らっ虎こ皮の鍔つばなし古帽子を、白い眉まゆ尖さき深々と被かぶって、鼠の羅らし紗ゃの道みち行ゆき着た、股もも引ひきを太く白足袋の雪せっ駄たば穿き。色褪あせた鬱うこ金んの風呂敷、真まん中なかを紐で結ゆわえた包を、西さい行ぎょ背うじ負ょいに胸で結んで、これも信玄袋を手に一つ。片手に杖つえは支ついたけれども、足腰はしゃんとした、人柄の可いいお爺じい様さま。
﹁その捻平は止よしにさっしゃい、人聞きが悪うてならん。道づれは可よけれども、道中松並木で出来たと言うで、何とやら、その、私わしが護ご摩まの灰ででもあるように聞えるじゃ。﹂と杖を一つとんと支くと、後あとの雁がんが前さきになって、改札口を早さっ々さと出る。
わざと一足後うしろへ開いて、隠居が意見に急ぐような、連つれの後姿をじろりと見ながら、
﹁それ、そこがそれ捻平さね。松並木で出来たと云って、何もごまのはいには限るまい。もっとも若い内は遣ったかも知れんてな。ははは、﹂
人も無げに笑う手から、引ひっ手た繰くるように切符を取られて、はっと駅夫の顔を見て、きょとんと生き真ま面じ目め。
成程、この小お父じ者ごが改札口を出た殿しんがりで、何をふらふら道草したか、汽車はもう遠くの方で、名物焼蛤の白い煙を、夢のように月下に吐いて、真まっ蒼さおな野路を光って通る。……
﹁やがてここを立たち出いで辿たどり行ゆくほどに、旅人の唄うを聞けば、﹂
と小父者、出た処で、けろりとしてまた口くち誦ずさんで、
﹁捻平さん、可いい文句だ、これさ。……
﹁旦だん那な、お供はどうで、﹂
と停ステ車エシ場ョン前の夜の隈くまに、四五台朦もう朧ろうと寂しく並んだ車の中から、車夫が一人、腕組みをして、のっそり出る。
これを聞くと弥次郎兵衛、口を捻ねじて片かた頬ほ笑えみ、
﹁有あり難がてえ、図星という処へ出て来たぜ。が、同じ事を、これ、︵旦那衆戻り馬乗らんせんか、︶となぜ言わぬ。﹂
﹁へい、﹂と言ったが、車夫は変哲もない顔がん色しょくで、そのまま棒立。
二
小お父じ者ごは外套の袖をふらふらと、酔ったような風ふう附つきで、
﹁遣やれよ、さあ、︵戻馬乗らんせんか、︶と、後ごし生ょうだから一つ気取ってくれ。﹂
﹁へい、︵戻馬乗らせんか、︶と言うでございますかね、戻馬乗らんせんか。﹂
と早口で車夫は実じっ体てい。
﹁はははは、法ほう性しょ寺うじ入のに道ゅう前どうさきの関かん白ぱく太だじ政ょう大だい臣じんと言ったら腹を立ちやった、法性寺入道前の関白太政大臣様と来ている。﹂とまたアハハと笑う。
﹁さあ、もし召して下さい。﹂
と話は極きまった筈はずにして、委細構わず、車夫は取とッ着ついて梶かじ棒ぼうを差向ける。
小父者、目を据えてわざと見て、
﹁ヤレコリャ車なんぞ、よオしよし。﹂
﹁いや、よしではない。﹂
とそこに一人つくねんと、添そえ竹だけに、その枯かれ菊ぎくの縋すがった、霜の翁おきなは、旅のあわれを、月空に知った姿で、
﹁早く車を雇わっしゃれ。手荷物はあり、勝手知れぬ町の中を、何を当あてにぶらつこうで。﹂と口くち叱こご言とで半ば呟つぶやく。
﹁いや、まず一つ、︵よヲしよし、︶と切出さんと、本文に合わぬてさ。処へ喜多八が口を出して、︵しょうろく四しも銭んで乗るべいか。︶馬うま士かたが、︵そんなら、ようせよせ。︶と言いやす、馬がヒインヒインと嘶いばう。﹂
﹁若いもの、その人に構うまい。車を早く。川口の湊みな屋とやと言う旅はた籠ご屋やへ行ゆくのじゃ。﹂
﹁ええ、二台でござりますね。﹂
﹁何んでも構わぬ、私わしは急ぐに……﹂と後うし向ろむきに掴つかまって、乗った雪駄を爪つま立だてながら、蹴け込こみへ入れた革鞄を跨またぎ、首に掛けた風呂敷包みを外ずしもしないで揺ゆすっておく。
﹁一いち蓮れん託たく生しょう、死なば諸共、捻平待ちやれ。﹂と、くすくす笑って、小父者も車にしゃんと乗る。……
﹁湊屋だえ、﹂
﹁おいよ。﹂
で、二台、月に提かん灯ばんの灯あかり黄色に、広ひろ場っぱの端へ駈かけ込こむと……石いし高たか路みちをがたがたしながら、板塀の小路、土塀の辻、径ちか路みちを縫うと見えて、寂しい処幾曲り。やがて二階屋が建続き、町幅が糸のよう、月の光を廂ひさしで覆おおうて、両側の暗い軒に、掛かけ行あん燈どんが疎まばらに白く、枯柳に星が乱れて、壁の蒼あおいのが処々。長い通りの突当りには、火の見の階はし子ごが、遠とお山やまの霧を破って、半はん鐘しょうの形活いけるがごとし。……火の用心さっさりやしょう、金かな棒ぼうの音に夜更けの景色。霜枯時の事ながら、月は格子にあるものを、桑名の妓こ達は宵寝と見える、寂しい新くる地わへ差さし掛かかった。
輻やぼねの下に流るる道は、細き水銀の川のごとく、柱の黒い家の状さま、あたかも獺かわうそが祭まつ礼りをして、白しら張はりの地じぐ口ちあ行んど燈んを掛連ねた、鉄橋を渡るようである。
爺様の乗った前の車が、はたと留とまった。
あれ聞け……寂ひっ寞そりとした一ひと条すじ廓くるわの、棟むね瓦がわらにも響き転げる、轍わだちの音も留まるばかり、灘なだの浪を川に寄せて、千里の果はても同じ水に、筑前の沖の月影を、白しろ銀がねの糸で手繰ったように、星に晃きらめく唄の声。
田舎の人とは思われぬ、
と博多節を流している。……つい目の前さきの軒陰に。……白地の手てぬ拭ぐい、頬ほお被かむり、すらりと痩やせぎすな男の姿の、軒のその、うどんと紅べにで書いた看板の前に、横顔ながら俯うつ向むいて、ただ影法師のように彳たたずむのがあった。
捻平はフト車の上から、頸うなじの風呂敷包のまま振向いて、何か背うし後ろへ声を掛けた。……と同時に弥次郎兵衛の車も、ちょうどその唄う声を、町の中で引ひっ挟ぱさんで、がっきと留まった。が、話の意味は通ぜずに、そのまま捻平のがまた曳ひき出だす……後あとの車も続いて駈かけ出す。と二台がちょっと摺すれ摺れになって、すぐ旧もとの通り前あと後さきに、流るるような月夜の車。
三
お月様がちょいと出て松の影、
アラ、ドッコイショ、
アラ、ドッコイショ、
と沖の浪の月の中へ、颯さっと、撥ばちを投げたように、霜を切って、唄い棄すてた。……饂うど飩ん屋やの門かどに博多節を弾いたのは、転てん進じんをやや縦に、三さみ味せ線んの手を緩めると、撥を逆さか手てに、その柄で弾はじくようにして、仄ほんのりと、薄赤い、其そ屋この板障子をすらりと開けた。
﹁ご免なさいよ。﹂
頬ほお被かむりの中の清すずしい目が、釜かまから吹出す湯気の裏うちへすっきりと、出たのを一目、驚いた顔をしたのは、帳場の端に土間を跨またいで、腰掛けながら、うっかり聞きき惚とれていた亭主で、紺の筒袖にめくら縞じまの前まえ垂だれがけ、草色の股もも引ひきで、尻からげの形なり、にょいと立って、
﹁出ないぜえ。﹂
は、ずるいな。……案ずるに我が家の門かど附づけを聞きき徳どくに、いざ、その段になった処で、件くだんの︵出ないぜ。︶を極きめてこまそ心積りを、唐だし突ぬけに頬被を突つッ込こまれて、大分狼うろ狽たえたものらしい。もっとも居合わした客はなかった。
門附は、澄まして、背うし後ろじめに戸を閉たてながら、三味線を斜はすにずっと入って、
﹁あい、親方は出ずとも可いいのさ。私の方で入るのだから。……ねえ、女おか房みさん、そんなものじゃありませんかね。﹂
とちと笑声が交って聞えた。
女房は、これも現い下まの博多節に、うっかり気を取られて、釜前の湯気に朦もうとして立っていた。……浅あさ葱ぎの襷たすき、白い腕を、部厚な釜の蓋ふたにちょっと載のせたが、丸まる髷まげをがっくりさした、色の白い、歯を染めた中ちゅ年うど増しま。この途端に颯さっと瞼まぶたを赤うしたが、竈へッついの前を横ッちょに、かたかたと下駄の音で、亭主の膝を斜はす交っかいに、帳場の銭ぜに箱ばこへがっちりと手を入れる。
﹁ああ、御心配には及びません。﹂
と門附は物優しく、
﹁串じょ戯うだんだ、強ゆす請るんじゃありません。こっちが客だよ、客なんですよ。﹂
細長い土間の一方は、薄汚れた縦に六畳ばかりの市松畳、そこへ上れば坐れるのを、釜に近い、床しょ几うぎいの上に、ト足を伸ばして、
﹁どうもね、寒くって堪たまらないから、一杯御ごち馳そ走うになろうと思って。ええ、親方、決してその御迷惑を掛けるもんじゃありません。﹂
で、優おと柔なしく頬被りを取った顔を、と見ると迷惑どころかい、目鼻立ちのきりりとした、細ほそ面おもての、瞼まぶたに窶やつれは見えるけれども、目の清らかな、眉の濃い、二十八九の人ひと品がらな兄あに哥いである。
﹁へへへへ、いや、どうもな、﹂
と亭主は前へ出て、揉もみ手でをしながら、
﹁しかし、このお天気続きで、まず結構でござりやすよ。﹂と何もない、煤すすけた天井を仰ぎ仰ぎ、帳場の上の神棚へ目を外そらす。
﹁お師匠さん、﹂
女房前垂をちょっと撫なでて、
﹁お銚ちょ子うしでございますかい。﹂と莞にっ爾こりする。
門附は手拭の上へ撥ばちを置いて、腰へ三味線を小こと取りま廻わし、内うち端わに片膝を上げながら、床几の上に素足の胡あぐ坐ら。
ト裾すそを一つ掻かい込こんで、
﹁早速一合、酒は良いのを。﹂
﹁ええ、もう飛切りのをおつけ申しますよ。﹂と女房は土間を横よこ歩あ行るき。左側の畳に据えた火鉢の中を、邪険に火ひば箸しで掻かい掘ほじって、赫かっと赤くなった処を、床几の門附へずいと寄せ、
﹁さあ、まあ、お当りなさりまし。﹂
﹁難あり有がてえ、﹂
と鉄てっ拐かに褄つまへ引ひッ挟ぱさんで、ほうと呼い吸きを一つ長く吐ついた。
﹁世の中にゃ、こんな炭火があると思うと、里心が付いてなお寒い。堪たまらねえ。女おか房みさん、銚子をどうかね、ヤケという熱あつ燗かんにしておくんなさい。ちっと飲んで、うんと酔おうという、卑劣な癖が付いてるんだ、お察しものですぜ、ええ、親方。﹂
﹁へへへ、お方かた、それ極ごく熱あつじゃ。﹂
女房は染めた前歯を美しく、
﹁あいあい。﹂
四
﹁時に何かね、今此こ家この前を車が二台、旅の人を乗せて駈かけ抜ぬけたっけ、この町を、……﹂
と干した猪ちょ口くで門かどを指して、
﹁二三町行った処で、左側の、屋根の大きそうな家へ着けたのが、蒼あおく月明りに見えたがね、……あすこは何かい、旅はた籠ご屋やですか。﹂
﹁湊みな屋とやでございまさ、なあ、﹂と女房が、釜の前から亭主を見向く。
﹁湊屋、湊屋、湊屋。この土地じゃ、まああすこ一軒でござりますよ。古い家じゃが名なだ代いで。前せんには大きな女郎屋じゃったのが、旅籠屋になったがな、部屋々々も昔風そのままな家うちじゃに、奥座敷の欄てす干りの外が、海と一所の、大いかい揖い斐びの川かわ口ぐちじゃ。白帆の船も通りますわ。鱸すずきは刎はねる、鯔ぼらは飛ぶ。とんと類のない趣おもむきのある家じゃ。ところが、時々崖裏の石垣から、獺かわうそが這はい込こんで、板廊下や厠かわやに点ついた燈あかりを消して、悪いた戯ずらをするげに言います。が、別に可おそ恐ろしい化方はしませぬで。こんな月の良い晩には、庭で鉢はち叩たたきをして見せる。……時し雨ぐれた夜さりは、天てん保ぽう銭せん一つ使賃で、豆腐を買いに行ゆくと言う。それも旅の衆の愛あい嬌きょうじゃ言うて、豪えらい評判の好いい旅籠屋ですがな、……お前様、この土地はまだ何も知りなさらんかい。﹂
﹁あい、昨ゆう夜べ初めてこっちへ流込んで来たばかりさ。一向方角も何も分らない。月夜も闇やみの烏さね。﹂
と俯うつ向むいて、一口。
﹁どれ延びない内、底を一つ温めよう、遣やったり! ほっ、﹂
と言って、目を擦こすって面おもてを背けた。
﹁利く、利く。……恐しい利く唐辛子だ。こう、親方の前だがね、ついこないだもこの手を食ったよ、料りょ簡うけんが悪いのさ。何、上方筋の唐辛子だ、鬼ほお灯づきの皮が精々だろう。利くものか、と高を括くくって、お銭あしは要らない薬味なり、どしこと丼へぶちまけて、松坂で飛上った。……また遣ったさ、色気は無えね、涙と涎よだれが一いっ時ときだ。﹂と手の甲で引ひっ擦こする。
女房が銚子のかわり目を、ト掌てのひらで燗かんを当った。
﹁お師匠さん、あんたは東の方かたですなあ。﹂
﹁そうさ、生うまれは東だが、身しん上しょうは北山さね。﹂と言う時、徳利の底を振って、垂たら々たらと猪ちょ口くへしたむ。
﹁で、お前様、湊屋へ泊んなさろうと言うのかな。﹂
それだ、と門口で断らりょう、と亭主はその段含ませたそうな気の可いい顔かお色つき。
﹁御ごじ串ょう戯だんもんですぜ、泊りは木きち賃んと極きまっていまさ。茣ご蓙ざと笠かさと草わら鞋じが留守居。壁の破れた処から、鼠が首を長くして、私の帰るのを待っている。四五日はこの桑名へ御厄介になろうと思う。……上じょ旅うは籠たごの湊屋で泊めてくれそうな御人品なら、御当家へ、一夜の御無心申したいね、どんなもんです、女おか房みさん。﹂
﹁こんなでよくば、泊めますわ。﹂
と身軽に銚子を運んで寄る。と亭主驚いた眉を動かし、
﹁滅相な。﹂と帳場を背し負ょって、立たち塞ふさがる体ていに腰を掛けた。いや、この時まで、紺の鯉こい口ぐちに手首を縮すくめて、案か山か子しのごとく立ったりける。
﹁はははは、お言葉には及びません、饂飩屋さんで泊めるものは、醤おし油たじの雨宿りか、鰹かつ節おぶしの行者だろう。﹂
と呵から々からと一人で笑った。
﹁お師匠さん、一つお酌さしておくんなさいまし。﹂と女房は市松の畳の端から、薄く腰を掛込んで、土間を切って、差向いに銚子を取った。
﹁飛んでもない事、お忙しいに。﹂
﹁いえな、内じゃ芸げい妓こ屋やさんへ出前ばかりが主おもですから、ごらんの通りゆっくりじゃえな。ほんにお師匠さん佳いいお声ですな。なあ、良あん人た。﹂と、横顔で亭主を流なが眄しめ。
﹁さよじゃ。﹂
とばかりで、煙たば草こを、ぱっぱっ。
﹁なあ、今お聞かせやした、あの博多節を聞いたればな、……私ゃ、ほんに、身に染みて、ぶるぶると震えました。﹂
五
﹁そう讃ほめられちゃお座が醒さめる、酔も醒めそうで遣やる瀬せがない。たかが大道芸人さ。﹂
と兄あに哥いは照れた風で腕組みした。
﹁私がお世辞を言うものですかな、真まっ実たくですえ。あの、その、なあ、悚ぞ然っとするような、恍うっ惚とりするような、緊しめたような、投げたような、緩めたような、まあ、何なんと言うて可よかろうやら。海の中に柳があったら、お月様の影の中へ、身を投げて死にたいような、……何んとも言いようのない心持になったのですえ。﹂
と、脊筋を曲くねって、肩を入れる。
﹁お方かた、お方。﹂
と急せき込こんで、訳もない事に不機嫌な御ごて亭いが呼ばわる。
﹁何じゃいし。﹂と振向くと、……亭主いつの間にか、神棚の下もとに、斜しゃと構えて、帳面を引ひっ繰くって、苦く睨にらみ、
﹁升ます屋やが懸かけはまだ寄越さんかい。﹂
と算そろ盤ばんを、ぱちりぱちり。
﹁今時どうしたえ、三み十そ日かでもありもせんに。……お師匠さん。﹂
﹁師匠じゃないわ、升屋が懸じゃい。﹂
﹁そないに急に気になるなら、良あん人た、ちゃと行って取って来きい。﹂
と下唇の刎はね調ぢょ子うし。亭主ぎゃふんと参った体ていで、
﹁二進が一進、二進が一進、二にい一ち天作の五ご、五ぐい一ちさ三ぶろ六くな七なや八あこ九この。﹂と、饂飩の帳の伸のび縮ちぢみは、加さし減ひきだけで済むものを、醤した油じに水を割算段。
と釜の湯気の白けた処へ、星の凍いてそうな按あん摩まの笛。月つき天てん心しんの冬の町に、あたかもこれ凩こがらしを吹込む声す。
門附の兄あに哥いは、ふと痩やせた肩を抱いて、
﹁ああ、霜に響く。﹂……と言った声が、物語を読むように、朗ほがらかに冴さえて、且つ、鋭く聞えた。
﹁按摩が通る……女おか房みさん、﹂
﹁ええ、笛を吹いてですな。﹂
﹁畜生、怪けしからず身に染みる、堪たまらなく寒いものだ。﹂
と割膝に跪かし坐こまって、飲みさしの茶の冷えたのを、茶碗に傾け、ざぶりと土間へ、
﹁一ツこいつへ注ついでおくんな、その方がお前さんも手数が要らない。﹂
﹁何んの、私はちっとも構うことないのですえ。﹂
﹁いや、御深切は難あり有がたいが、薬やか罐んの底へ消けし炭ずみで、湧わくあとから醒さめる処へ、氷で咽の喉どを抉えぐられそうな、あのピイピイを聞かされちゃ、身から体だにひびっ裂たけがはいりそうだ。……持って来な。﹂
と手を振るばかりに、一息にぐっと呷あおった。
﹁あれ、お見事。﹂
と目をって、
﹁まあな、だけれどな、無理酒おしいなえ。沢たん山と、あの、心配する方があるのですやろ。﹂
﹁お方、八百屋の勘定は。﹂
と亭主瞬まばたきして頤あごを出す。女房は面白半分、見返りもしないで、
﹁取りに来たらお払いやすな。﹂
﹁ええ……と三百は三銭かい。﹂
で、算盤を空に弾はじく。
﹁女おか房みさん。﹂
と呼んだ門附の声が沈んだ。
﹁何んです。﹂
﹁立続けにもう一つ。そして後あとを直ぐ、合がっ点てんかね。﹂
﹁あい。合点でございますが、あんた、豪えらい大たい酒しゅですな。﹂
﹁せめて酒でも参らずば。﹂
と陽気な声を出しかけたが、つと仰あお向むいて眦まなじりを上げた。
﹁あれ、また来たぜ、按摩の笛が、北の方の辻から聞える。……ヤ、そんなにまだ夜は更けまいのに、屋根越ごしの町一つ、こう……田たん圃ぼの畔あぜかとも思う処でも吹いていら。﹂
と身みぜ忙わしそうに片膝立てて、当あて所どなくしながら、
﹁音おとは同じだが音ねが違う……女おか房みさん、どれが、どんな顔つらの按摩だね。﹂
と聞く。……その時、白しろ眼まなこの座頭の首が、月に蒼あおざめて覗のぞきそうに、屋の棟を高く見た……目が鋭い。
﹁あれ、あんた、鹿の雌めす雄おすではあるまいし、笛の音で按摩の容よう子すは分りませぬもの。﹂
﹁まったくだ。﹂
と寂しく笑った、なみなみ注ついだる茶碗の酒を、屹きっと見ながら、
﹁杯の月を酌くもうよ、座頭殿。﹂と差さし俯うつむいて独ひと言りごとした。……が博多節の文句か、知らず、陰々として物寂しい、表の障子も裏透くばかり、霜の月の影冴えて、辻に、町に、按摩の笛、そのあるものは波に響く。
六
﹁や、按摩どのか。何んだ、唐だし突ぬけに驚かせる。……要らんよ。要りませぬ。﹂
と弥次郎兵衛。湊屋の奥座敷、これが上段の間とも見える、次に六畳の附いた中ちゅ古うぶるの十畳。障子の背うし後ろは直ぐに縁、欄てす干りにずらりと硝がら子す戸どの外は、水みず煙けむ渺りびょうとして、曇らぬ空に雲かと見る、長なが洲すの端に星一つ、水に近く晃きらめいた、揖斐川の流れの裾すそは、潮うしおを籠こめた霧白く、月にも苫とまを伏せ、蓑みのを乾ほす、繋かか船りぶねの帆柱がすくすくと垣根に近い。そこに燭台を傍かたわらにして、火ひお桶けに手を懸け、怪けげ訝んな顔して、
﹁はて、お早いお着きお草くた臥びれ様で、と茶を一ツ持って出て、年とし増まの女中が、唯ただ今いま引ひっ込こんだばかりの処。これから膳にもしよう、酒にもしようと思うちょっとの隙間へ、のそりと出した、あの面つらはえ?……
この方、あの年増めを見送って、入いり交かわって来るは若いのか、と前髪の正面でも見ようと思えば、霜げた冬とう瓜がんに草わら鞋じを打ぶち着つけた、という異体な面つらを、襖ふすまの影から斜はすに出して、
︵按摩でやす。︶とまた、悪く抜ぬき衣えも紋んで、胸を折って、横坐りに、蝋ろう燭そく火びへ紙かみ火ぼ屋やのかかった灯あかりの向うへ、ぬいと半身で出た工合が、見みこ越しに入ゅう道どうの御おや館かたへ、目め見み得えの雪女郎を連れて出た、化ばけの慶庵と言う体ていだ。
要らぬと言えば、黙だん然まりで、腰から前さきへ、板廊下の暗い方へ、スーと消えたり……怨おん敵てき、退たい散さん。﹂
と苦笑いして、……床の正面に火桶を抱えた、法ほう然ねん天あた窓まの、連つれの、その爺様を見遣って、
﹁捻平さん、お互に年は取りたくないてね。ちと三ぺん絃ぺんでも、とあるべき処を、お膳の前に按摩が出ますよ。……見くびったものではないか。﹂
﹁とかく、その年とし効がいもなく、旅籠屋の式台口から、何んと、事も慇いん懃ぎんに出迎えた、家うちの隠居らしい切髪の婆ばあ様さまをじろりと見て、
︵ヤヤ、難あり有がたい、仏壇の中に美た婦ぼが見えるわ、簀すの子の天井から落ち度たい。︶などと、膝栗毛の書抜きを遣らっしゃるで魔が魅さすのじゃ、屋台は古いわ、造りも広大。﹂
と丸木の床柱を下から見上げた。
﹁千年の桑かの。川の底も料はかられぬ。燈あかりも暗いわ、獺かわうそも出ようず。ちと懲こりさっしゃるが可いい。﹂
﹁さん候ぞうろう、これに懲りぬ事なし。﹂
と奥歯のあたりを膨らまして微ほほ笑えみながら、両手を懐に、胸を拡く、襖ふすまの上なる額を読む。題して曰いわく、臨りん風ぷう榜ぼう可かし小ょう楼ろう。
﹁……とある、いかさまな。﹂
﹁床に活いけたは、白の小菊じゃ、一ひと束たばにして掴つかみざし、喝お采お。﹂と讃ほめる。
﹁いや、翁おき寂なさびた事を言うわ。﹂
﹁それそれ、たったいま懲りると言うた口の下から、何んじゃ、それは。やあ、見やれ、其そ許この袖口から、茶色の手の、もそもそとした奴やつが、ぶらりと出たわ、揖斐川の獺かわうその。﹂
﹁ほい、﹂
と視ながめて、
﹁南なむ無さん三ぼ宝う。﹂と慌あわただしく引ひッ込こめる。
﹁何んじゃそれは。﹂
﹁ははははは、拙者うまれつき粗そこ忽つにいたして、よくものを落す処から、内の婆ばばあどのが計略で、手袋を、ソレ、ト左右糸で繋つないだものさね。袖から胸へ潜くぐらして、ずいと引ひっ張ぱって両手へ嵌はめるだ。何んと恐しかろう。捻平さん、かくまで身しん上しょうを思うてくれる婆どのに対しても、無駄な祝儀は出せませんな。ああ、南なむ無あ阿み弥だ陀ぶ仏つ。﹂
﹁狸たぬきめが。﹂
と背を円くして横を向く。
﹁それ、年増が来る。秘すべし、秘すべし。﹂
で、手袋をたくし込む。
処へ女中が手を支ついて、
﹁御支度をなさりますか。﹂
﹁いや、やっと、今草わら鞋じを解いたばかりだ。泊めてもらうから、支度はしません。﹂と真面目に言う。
色は浅黒いが容よう子すの可いい、その年増の女中が、これには妙な顔をして、
﹁へい、御飯は召あがりますか。﹂
﹁まず酒から飲みます。﹂
﹁あの、めしあがりますものは?﹂
﹁姉さん、ここは約束通り、焼やき蛤はまぐりが名物だの。﹂
七
﹁そのな、焼蛤は、今も町はずれの葦よし簀ずば張りなんぞでいたします。やっぱり松まつ毬かさで焼きませぬと美おい味しうござりませんで、当う家ちでは蒸したのを差上げます、味みり淋ん入れて味あじ美よう蒸します。﹂
﹁ははあ、栄さざ螺えの壺つぼ焼やきといった形、大道店で遣りますな。……松並木を向うに見て、松毬のちょろちょろ火、蛤の煙がこの月夜に立とうなら、とんと竜宮の田でん楽がくで、乙おと姫ひめ様さまが洒しゃ落れに姉あねさんかぶりを遊ばそうという処、また一段の趣おもむきだろうが、わざとそれがために忍んでも出られまい。……当こ家この味淋蒸、それが好よかろう。﹂
と小お父じ者ご納得した顔して頷うなずく。
﹁では、蛤でめしあがりますか。﹂
﹁何?﹂と、わざとらしく﹇#﹁わざとらしく﹂は底本では﹁わざとしらく﹂﹈耳を出す。
﹁あのな、蛤であがりますか。﹂
﹁いや、箸はしで食いやしょう、はははは。﹂
と独ひとりで笑って、懐中から膝栗毛の五編を一冊、ポンと出して、
﹁難あり有がたい。﹂と額を叩く。
女中も思わず噴ふき飯だして、
﹁あれ、あなたは弥次郎兵衛様でございますな。﹂
﹁その通り。……この度の参宮には、都合あって五二館と云うのへ泊ったが、内ない宮ぐう様さまへ参る途中、古ふる市いちの旅籠屋、藤屋の前を通った時は、前度いかい世話になった気で、薄暗いまで奥深いあの店みせ頭さきに、真しん鍮ちゅうの獅しか噛みひ火ば鉢ちがぴかぴかとあるのを見て、略儀ながら、車の上から、帽子を脱いでお辞儀をして来た。が、町が狭いので、向う側の茶店の新しん姐ぞに、この小すこ兀はげを見せるのが辛かったよ。﹂
と燈あかりに向けて、てらりと光らす。
﹁ほほ、ほほ。﹂
﹁あはは。﹂
で捻平も打笑うと、……この機会に誘われたか、――先さっ刻き二人が着いた頃には、三味線太鼓で、トトン、ジャカジャカじゃじゃじゃんと沸返るばかりだった――ちょうど八ツ橋形に歩あゆ行み板が架かかって、土間を隔てた隣の座敷に、およそ十四五人の同勢で、女交りに騒いだのが、今しがた按摩が影を見せた時分から、大おお河かわの汐しおに引かれたらしく、ひとしきり人ひと気けは勢いが、遠くへ裾拡がりに茫ぼうと退のいて、寂しんとした。ただだだっ広い中を、猿が鳴きながら走廻るように、キャキャとする雛おし妓ゃくの甲かん走ばしった声が聞えて、重く、ずっしりと、覆おっかぶさる風に、何を話すともなく多たに人ん数ずの物音のしていたのが、この時、洞ほら穴あなから風が抜けたように哄どっと動ど揺よめく。
女中も笑い引きに、すっと立つ。
﹁いや、この方は陰々としている。﹂
﹁その方が無事で可いの。﹂
と捻平は火桶の上へ脊くぐまって、そこへ投出した膝栗毛を差さし覗のぞき、
﹁しかし思いつきじゃ、私わしはどうもこの寝つきが悪いで、今夜は一つ枕まく許らもとの行あん燈どんで読んでみましょう。﹂
﹁止よしなさい、これを読むと胸が切せまって、なお目が冴えて寝られなくなります。﹂
﹁何を言わっしゃる、当あて事ごともない、膝栗毛を見て泣くものがあろうかい。私わしが事を言わっしゃる、其そ許こがよっぽど捻平じゃ。﹂
と言う処へ、以前の年増に、小こお女んながついて出て、膳と銚子を揃えて運んだ。
﹁蛤は直じきに出来ます。﹂
﹁可よし、可。﹂
﹁何よりも酒の事。﹂
捻平も、猪ちょ口こを急ぐ。
﹁さて汝てめえにも一つ遣ろう。燗かんの可い処を一杯遣らっし。﹂と、弥次郎兵衛、酒飲みの癖で、ちとぶるぶるする手に一杯傾けた猪ちょ口こを、膳の外へ、その膝栗毛の本の傍わきへ、畳の上にちゃんと置いて、
﹁姉さん、一つ酌ついでやってくれ。﹂
と真顔で言う。
小女が、きょとんとした顔を見ると、捻平に追っかけの酌をしていた年増が見向いて、
﹁喜き野の、お酌ぎ……その旦那はな、弥次郎兵衛様じゃで、喜多八さんにお杯を上げなさるんや。﹂
と早や心得たものである。
八
小お父じ者ごはなぜか調子を沈めて、
﹁ああ、よく言った。俺おれを弥次郎兵衛は難あり有がたい。居いご心ころは可よし、酒は可。これで喜多八さえ一所だったら、膝栗毛を正しょうのもので、太平の民となる処を、さて、杯をさしたばかりで、こう酌ついだ酒へ、蝋ろう燭そくの灯ひのちらちらと映る処は、どうやら餓鬼に手た向むけたようだ。あのまた馬鹿野郎はどうしている――﹂と膝に手を支つき、畳の杯を凝じっと見て、陰気な顔する。
捻平も、ふと、この時横を向いて腕組した。
﹁旦那、その喜多八さんを何んでお連れなさりませんね。﹂
と愛あい嬌きょ造うづくって女中は笑う。弥次郎寂さみしく打笑み、
﹁むむ、そりゃ何よ、その本の本文にある通り、伊勢の山田ではぐれた奴さ。いい年をして娑しゃ婆ばっ気けな、酒も飲めば巫ふ山ざ戯けもするが、世の中は道中同然。暖いにつけ、寒いにつけ、杖つえ柱とも思う同つ伴れの若いものに別れると、六十の迷まい児ごになって、もし、この辺に棚からぶら下がったような宿屋はござりませんかと、賑にぎやかな町の中を独りとぼとぼと尋ね飽あ倦ぐんで、もう落がっ胆かりしやした、と云ってな、どっかり知らぬ家うちの店みせ頭さきへ腰を落おと込しこんで、一服無心をした処……あすこを読むと串じょ戯うだんではない。……捻平さん、真からもって涙が出ます。﹂
と言う、瞼まぶたに映って、蝋燭の火がちらちらとする。
﹁姉や、心しんを切ったり。﹂
﹁はい。﹂
と女中が向うを向く時、捻平も目をしばたたいたが、
﹁ヤ、あの騒ぎわい。﹂
と鼻の下を長くして、土間越ごしの隣とな室りへ傾き、
﹁豪えらいぞ、金かな盥だらいまで持ち出いたわ、人間は皆裾が天井へ宙乗りして、畳を皿小鉢が躍るそうな。おおおお、三味線太鼓が鎬しのぎを削って打合う様子じゃ。﹂
﹁もし、お騒がしゅうござりましょう、お気の毒でござります。ちょうど霜月でな、今年度の新兵さんが入営なさりますで、その送別会じゃ言うて、あっちこっち、皆、この景気でござります。でもな、お寝よります時分には時間になるで静まりましょう。どうぞ御辛抱なさいまして。﹂
﹁いやいや、それには及ばぬ、それには及ばぬ。﹂
と小父者、二人の女中の顔へ、等分に手を掉ふって、
﹁かえって賑かで大きに可い。悪く寂ひっ寞そりして、また唐だし突ぬけに按摩に出られては弱るからな。﹂
﹁へい、按摩がな。﹂と何か知らず、女中も読めぬ顔して聞返す。
捻平この話を、打消すように咳しわぶきして、
﹁さ、一いっ献こん参ろう。どうじゃ、こちらへも酌人をちと頼んで、……ええ、それ何んとか言うの。……桑名の殿様時しぐ雨れでお茶漬……とか言う、土地の唄でも聞こうではないかの。陽気にな、かっと一つ。旅の恥は掻かき棄すてじゃ。主ぬしはソレ叱こご言とのような勧進帳でも遣らっしゃい。
染めようにも髯ひげは無いで、私わしはこれ、手拭でも畳んで法ほう然ねん天あた窓まへ載のせようでの。﹂と捻平が坐りながら腰を伸のして高く居直る。と弥次郎眼まなこをって、
﹁や、平家以来の謀むほ叛ん、其そ許この発議は珍らしい、二にほ方うこ荒うじ神んく鞍らなしで、真まん中なかへ乗りやしょう。﹂
と夥おびただしく景気を直して、
﹁姉あんねえ、何んでも構わん、四五人木きや遣りで曳ひいて来い。﹂
と肩を張って大きに力む。
女中酌の手を差控えて、銚子を、膝に、と真まっ直すぐに立てながら、
﹁さあ、今あっちの座敷で、もう一人二人言うて、お掛けやしたが、喜野、芸げい妓こさんはあったかな。﹂
小女が猪いく首びで頷うなずき、
﹁誰も居やはらぬ言うてでやんした。﹂
﹁かいな、旦那さん、お気の毒さまでござります。狭い土地に、数のない芸妓やによって、こうして会なんぞ立たて込こみますと、目めぼ星しい妓こたちは、ちゃっとの間に皆みんな出払います。そうか言うて、東京のお客様に、あんまりな人も見せられはしませずな、容きり色ょうが好いいとか、芸がたぎったとかいうのでござりませぬとなあ……﹂
﹁いや、こうなっては、宿賃を払わずに、こちとら夜よに遁げをするまでも、三味線を聞かなきゃ納まらない。眇めっかち、いぐちでない以上は、古道具屋からでも呼んでくれ。﹂
﹁待ちなさりまし。おお、あの島屋の新しん妓こさんならきっと居るやろ。聞いて見や。喜野、ソレお急ぎじゃ、廊下走って、電話へ掛かかれや。﹂
九
﹁持って来い、さあ、何んだ風かざ車ぐるま。﹂
急に勢いきおいの可いい声を出した、饂飩屋に飲む博多節の兄あに哥いは、霜の上の燗かん酒ざけで、月あかりに直ぐ醒さめる、色の白いのもそのままであったが、二三杯、呷あお切っきりの茶碗酒で、目の縁ふちへ、颯さっと酔よいが出た。
﹁勝手にピイピイ吹いておれ、でんでん太鼓に笙しょうの笛、こっちあ小こど児もだ、なあ、阿おっ媽か。……いや、女おか房みさん、それにしても何かね、御当処は、この桑名と云う所は、按摩の多い所かね。﹂と笛の音に瞳がちらつく。
﹁あんたもな、按摩の目は蠣かきや云います。名物は蛤はまぐりじゃもの、別に何も、多い訳はないけれど、ここは新しん地ちなり、旅籠屋のある町やに因って、つい、あの衆しゅが、あちこちから稼ぎに来るわな。﹂
﹁そうだ、成程新くる地わだった。﹂となぜか一人で納得して、気の抜けたような片手を支つく。
﹁お師匠さん、あんた、これからその音の声どを芸げい妓こ屋やの門かどで聞かしてお見やす。ほんに、人ひと死じにが出来ようも知れぬぜな。﹂と襟の処で、塗盆をくるりと廻す。
﹁飛んだ合せかがみだね、人死が出来て堪たまるものか。第一、芸げい妓しゃ屋やの前へは、うっかり立てねえ。﹂
﹁なぜえ。﹂
﹁悪くすると敵かたきに出でっ会くわす。﹂と投なげ首くびする。
﹁あれ、芸が身を助けると言う、……お師匠さん、あんた、芸げい妓こゆえの、お身の上かえ。……ほんにな、仇かたきだすな。﹂
﹁違った! 芸者の方で、私が敵さ。﹂
﹁あれ、のけのけと、あんな憎いこと言いなさんす。﹂と言う処へ、月は片明りの向う側。狭い町の、ものの気けは勢いにも暗い軒下を、からころ、からころ、駒こま下げ駄たの音が、土間に浸しみ込こむように響いて来る。……と直ぐその足あし許もとを潜くぐるように、按摩の笛が寂しく聞える。
門附は屹きっと見た。
﹁噂をすれば、芸げい妓こはんが通りまっせ。あんた、見たいなら障子を開けやす……そのかわり、敵打たりょうと思うてな。﹂
﹁ああ、いつでも打たれてやら。ちょッ、可い厭やに煩うるさく笛を吹くない。﹂
かたりと門かどの戸を外から開ける。
﹁ええ、吃びっ驚くりすら。﹂
﹁今晩は、――饂飩六ツ急いでな。﹂と草ぞう履り穿ばきの半はん纏てん着ぎ、背中へ白く月を浴びて、赤い鼻をぬいと出す。
﹁へい。﹂と筒抜けの高調子で、亭主帳場へ棒に突つッ立たち、
﹁お方、そりゃ早うせぬかい。﹂
女房は澄ましたもので、
﹁美しい跫あし音おとやな、どこの?﹂と聞く。
﹁こないだ山田の新町から住替えた、こんの島家の新しん妓こじゃ。﹂と言いながら、鼻赤の若い衆は、覗のぞいた顔を外に曲げる。
と門附は、背うし後ろの壁へ胸を反らして、ちょっと伸上るようにして、戸に立つ男の肩越しに、皎こうとした月の廓くるわの、細い通とおりを見透かした。
駒下駄はちと音低く、まだ、からころと響いたのである。
﹁沢たん山と出なさるかな。﹂
﹁まあ、こんの饂飩のようには行かぬで。﹂
﹁その気で、すぐに届けますえ。﹂
﹁はい頼んます。﹂と、男は返る。
亭主帳場から背うし後ろ向きに、日ひよ和り下げ駄たを探って下り、がたりびしりと手当り強く、そこへ広ひろ蓋ぶたを出だし掛かける。ははあ、夫婦二人のこの店、気の毒千万、御亭が出前持を兼ねると見えたり。
﹁裏表とも気を注つけるじゃ、可えいか、可いか。ちょっと道寄りをして来るで、可いか、お方。﹂
とそこいらじろじろと睨ねめ廻まわして、新地の月に提ちょ灯うちん入いらず、片手懐にしたなりで、亭主が出前、ヤケにがっと戸を開けた。後あとを閉めないで、ひょこひょこ出て行ゆく。
釜の湯気が颯さっと分れて、門附の頬に影がさした。
女房横合から来て、
﹁いつまで、うっかり見送ってじゃ、そんなに敵かたきが打たれたいの。﹂
﹁女おか房みさん、桑名じゃあ……芸者の箱屋は按摩かい。﹂と悚ぞ気っとしたように肩を細く、この時やっと居直って、女房を見た、色が悪い。
十
﹁そうさ、いかに伊勢の浜はま荻おぎだって、按摩の箱屋というのはなかろう。私もなかろうと思うが、今向う側を何んとか屋の新しん妓ことか云うのが、からんころんと通るのを、何心なく見送ると、あの、一軒おき二軒おきの、軒のき行あん燈どんでは浅あさ葱ぎになり、月影では青くなって、薄い紫の座敷着で、褄つまを蹴け出ださず、ひっそりと、白い襟を俯うつ向むいて、足の運びも進まないように何んとなく悄しおれて行く。……その後あとから、鼠色の影法師。女の影なら月に地つちを這はう筈はずだに、寒い道どう陸ろく神じんが、のそのそと四五尺離れた処を、ずっと前むこ方うまで附添ったんだ。腰附、肩附、歩あ行るく振ふり、捏でっちて附くッ着つけたような不ぶか恰っこ好うな天あた窓まの工合、どう見ても按摩だね、盲めく人ららしい、めんない千鳥よ。……私あ何んだ、だから、按摩が箱屋をすると云っちゃ可おか笑しい、盲めく目らになった箱屋かも知れないぜ。﹂
﹁どんな風の、どれな。﹂
と門かどへ出そうにする。
﹁いや、もう見えない。呼ばれた家うちへ入ったらしい。二人とも、ずっと前さ方きで居なくなった。そうか。ああ、盲目の箱屋は居ねえのか。アまた殖ふえたぜ……影がさす、笛の音に影がさす、按摩の笛が降るようだ。この寒い月に積つもったら、桑名の町は針の山になるだろう、堪たまらねえ。﹂
とぐいと呷あおって、
﹁ええ、ヤケに飲め、一杯どうだ、女おか房みさん附合いねえ。御亭主は留守だが、明あけ放っぱなしよ、……構うものか。それ向う三軒の屋根越に、雪坊主のような山の影が覗のぞいてら。﹂
と門を振向き、あ、と叫んで、
﹁来た、来た、来た、来やあがった、来やあがった、按摩々々、按摩。﹂
と呼い吸きも吐つかず、続けざまに急せき込こんだ、自分の声に、町の中に、ぬい、と立って、杖を脚あし許もとへ斜はす交っかいに突つッ張ぱりながら、目を白く仰あお向むいて、月に小鼻を照らされた流しの按摩が、呼ばれたものと心得て、そのまま凍いて附つくように立留まったのも、門附はよく分らぬ状さまで、
﹁影か、影か、阿おっ媽かあ、ほんとの按摩か、影法師か。﹂
と激しく聞く。
﹁ほんとなら、どうおしる。貴あん下た、そんなに按摩さんが恋しいかな。﹂
﹁恋しいよ! ああ、﹂
と呼い吸きを吐ついて、見直して、眉を顰ひそめながら、声こわ高だかに笑った。
﹁ははははは、按摩にこがれてこの体ていさ。おお、按摩さん、按摩さん、さあ入ってくんねえ。﹂
門附は、撥ばちを除のけて、床しょ几うぎを叩いて、
﹁一つ頼もう。女おか房みさん、済まないがちょいと借りるぜ。﹂
﹁この畳へ来て横におなりな。按摩さん、お客だす、あとを閉めておくんなさい。﹂
﹁へい。﹂
コトコトと杖の音。
﹁ええ……とんと早や、影法師も同然なもので。﹂と掠かすれ声を白く出して、黒いけんちゅう羊よう羹かん色いろの被ひ布ふを着た、燈ともしびの影は、赤くその皺しわの中へさし込んだが、日和下駄から消えても失うせず、片手を泳ぎ、片手で酒の香を嗅かぎ分わけるように入った。
﹁聞えたか。﹂
とこの門附は、権のあるものいいで、五六本銚子の並んだ、膳をまた傍わきへずらす。
﹁へへへ﹂とちょっと鼻をすすって、ふん、とけなりそうに香においを嗅かぐ。
﹁待ちこがれたもんだから、戸そ外とを犬が走っても、按摩さんに見えたのさ。こう、悪く言うんじゃないぜ……そこへぬっくりと顕あらわれたろう、酔っている、幻かと思った。﹂
﹁ほんに待兼ねていなさったえ。あの、笛の音ばかり気にしなさるので、私もどうやら解よめなんだが、やっと分ったわな、何んともお待遠でござんしたの。﹂
﹁これは、おかみさま、御ごは繁んじ昌ょう。﹂
﹁お客はお一人じゃ、ゆっくり療治してあげておくれ。それなりにお寝よったら、お泊め申そう。﹂
と言う。
按摩どの、けろりとして、
﹁ええ、その気で、念入りに一ツ、掴つかまりましょうで。﹂と我が手を握って、拉ひしぐように、ぐいと揉もんだ。
﹁へい、旦那。﹂
﹁旦那じゃねえ。ものもらいだ。﹂とまた呷あおる。
女房が竊そっと睨にらんで、
﹁滅相な、あの、言いなさる。﹂
十一
﹁いや、横になるどころじゃない、沢山だ、ここで沢山だよ。……第一背中へ掴つかまられて、一ひと呼い吸きでも応こたえられるかどうだか、実はそれさえ覚おぼ束つかない。悪くすると、そのまま目を眩まわして打ぶっ倒たおれようも知れんのさ。体ていよく按摩さんに掴み殺されるといった形だ。﹂
と真顔で言う。
﹁飛んだ事をおっしゃりませ、田舎でも、これでも、長年年期を入れました杉山流のものでござります。鳩きゅ尾うびに鍼はりをお打たせになりましても、決して間違いのあるようなものではござりませぬ。﹂と呆あきれたように、按摩の剥むく目は蒼あおかりけり。
﹁うまい、まずいを言うのじゃない。いつの幾いく日かにも何なん時どきにも、洒しゃ落れにもな、生れてからまだ一度も按摩さんの味を知らないんだよ。﹂
﹁まあ、あんなにあんた、こがれなさった癖に。﹂
﹁そりゃ、張って張って仕様がないから、目にちらつくほど待ったがね、いざ……となると初うい産ざんです、灸きゅうの皮切も同じ事さ。どうにも勝手が分らない。痛いんだか、痒かゆいんだか、風うわ説さに因ると擽くすぐったいとね。多分私も擽ったかろうと思う。……ところがあいにく、母おふ親くろが操正しく、これでも密まお夫とこの児こじゃないそうで、その擽ったがりようこの上なし。……あれ、あんなあの、握にぎ飯りめしを拵こさえるような手附をされる、とその手で揉まれるかと思ったばかりで、もう堪たまらなく擽ったい。どうも、ああ、こりゃ不いけ可ねえ。﹂
と脇腹へ両りょ肱うひじを、しっかりついて、掻かい竦すくむように脊筋を捻よる。
﹁ははははは、これはどうも。﹂と按摩は手持不沙汰な風。
女房更あらためて顔を覗のぞいて、
﹁何んと、まあ、可愛らしい。﹂
﹁同じ事を、可かわ哀いそ想うだ、と言ってくんねえ。……そうかと言って、こう張っちゃ、身も皮も石になって固かたまりそうな、背せなかが詰つまって胸は裂ける……揉んでもらわなくては遣やり切きれない。遣れ、構わない。﹂
と激しい声して、片膝を屹きっと立て、
﹁殺す気で蒐かかれ。こっちは覚悟だ、さあ。ときに女おか房みさん、袖そで摺すり合うのも他たし生ょうの縁ッさ。旅空掛けてこうしたお世話を受けるのも前さきの世の何かだろう、何んだか、おなごりが惜おしいんです。掴つか殺みころされりゃそれきりだ、も一つ憚はばかりだがついでおくれ、別れの杯になろうも知れん。﹂
と雫しずくを切って、ついと出すと、他愛なさもあんまりな、目の色の変りよう、眦まなじりも屹きっとなったれば、女房は気を打たれ、黙だん然まりでただ目をる。
﹁さあ按摩さん。﹂
﹁ええ、﹂
﹁女おか房みさん酌ついどくれよ!﹂
﹁はあ、﹂と酌をする手がちと震えた。
この茶碗を、一息に仰ぎ干すと、按摩が手を掛けたのと一緒であった。
がたがたと身震いしたが、面おもては幸さいわいに紅潮して、
﹁ああ、腸はらわたへ沁しみ透とおる!﹂
﹁何かその、何事か存じませぬが、按摩は大丈夫でござります。﹂と、これもおどつく。
﹁まず、﹂
と突つッ張ぱった手をぐたりと緩めて、
﹁生いの命ちに別条は無さそうだ、しかし、しかし応こたえる。﹂
とがっくり俯うつ向むいたのが、ふらふらした。
﹁月は寒し、炎のようなその指が、火水となって骨に響く。胸は冷い、耳は熱い。肉みは燃える、血は冷える。あっ、﹂と言って、両手を落した。
吃びっ驚くりして按摩が手を引く、その嘴くちばしや鮹たこに似たり。
兄あに哥いは、しっかり起直って、
﹁いや、手をやすめず遣ってくれ、あわれと思って静しずかに……よしんば徐そっと揉まれた処で、私は五体が砕ける思いだ。
その思いをするのが可い厭やさに、いろいろに悩んだんだが、避よければ摺すり着つく、過ぎれば引ひっ張ぱる、逃げれば追う。形が無ければ声がする……ピイピイ笛は攻せめ太だい鼓こだ。こうひしひしと寄よッ着つかれちゃ、弱いものには我慢が出来ない。淵ふちに臨んで、崕がけの上に瞰み下おろして踏ふみ留とどまる胆きも玉だまのないものは、いっその思い、真まっ逆さかさまに飛込みます。破れかぶれよ、按摩さん、従い兄と弟こ再は従と兄こ弟か、伯おじ父お甥いか、親類なら、さあ、敵かたきを取れ。私はね、……お仲間の按摩を一人殺しているんだ。﹂
十二
﹁今からちょうど三年前。……その年は、この月から一月後おくれの師しわ走すの末に、名古屋へ用があって来た。ついでと言っては悪いけれど、稼かせぎの繰廻しがどうにか附いて、参宮が出来るというのも、お伊勢様の思おぼ召しめし、冥みょ加うがのほど難あり有がたい。ゆっくり古ふる市いちに逗とう留りゅうして、それこそついでに、……浅あさ熊まや山まの雲も見よう、鼓ヶ嶽たけの調しらべも聞こう。二ふた見みじゃ初日を拝んで、堺橋から、池の浦、沖の島で空が別れる、上かみ郡ごおりから志摩へ入って、日ひよ和りや山まを見物する。……海が凪ないだら船を出して、伊い良ら子こヶ崎の海なま鼠こで飲もう、何でも五日六日は逗留というつもりで。……山田では尾上町の藤屋へ泊った。驚くべからず――まさかその時は私だって、浴衣に袷あわせじゃ居やしない。
着換えに紋もん付つきの一枚も持った、縞しまで襲かさ衣ねの若旦那さ。……ま、こう、雲助が傾けい城せい買がいの昔を語る……負まけ惜おしみを言うのじゃないよ。何も自分の働きでそうした訳じゃないのだから。――聞きねえ、親なり、叔父なり、師匠なり、恩人なりという、……私が稼業じゃ江戸で一番、日本中の家元の大黒柱と云う、少すこ兀はげの苦い面つらした阿おや父じがある。
いや、その顔がん色しょくに似合わない、気さくに巫ふ山ざ戯けた江えど戸ッ児こでね。行ぎょ年うねんその時六十歳を、三つと刻んだはおかしいが、数え年のサバを算よんで、私が代理に宿帳をつける時は、天地人とか何んとか言って、禅ぜんの問答をするように、指を三本、ひょいと出してギロリと睨にらむ……五十七歳とかけと云うのさ。可いいかね、その気だもの……旅籠屋の女中が出てお給仕をする前では、阿おと父っさんが大の禁句さ。……与一兵衛じゃあるめえし、汝てめえ、定さだ九くろ郎うのように呼ぶなえ、と唇を捻ねじ曲まげて、叔父さんとも言わせねえ、兄さんと呼べ、との御意だね。
この叔父さんのお供だろう。道中の面白さ。酒はよし、景色はよし、日和は続く。どこへ行っても女はふらない。師走の山路に、嫁菜が盛りで、しかも大おお輪りんが咲いていた。
とこの桑名、四日市、亀山と、伊勢路へ掛かかった汽車の中から、おなじ切符のたれかれが――その催もよおしについて名古屋へ行った、私たちの、まあ……興行か……その興行の風うわ説さをする。嘘にもどうやら、私の評判も可よさそうな。叔父はもとより。……何事も言うには及ばん。――私が口で饒しゃ舌べっては、流儀の恥になろうから、まあ、何なに某がしと言ったばかりで、世間は承知すると思って、聞きねえ。
ところがね、その私たちの事を言うついでに、この伊勢へ入ってから、きっと一所に出る、人の名がある。可いかい、山田の古市に惣そう市いちと云う按あん摩まは鍼りだ。﹂
門附はその名を言う時、うっとりと瞳を据えた。背せなかを抱いだくように背うし後ろに立った按摩にも、床しょ几うぎに近く裾を投げて、向うに腰を掛けた女房にも、目もくれず、凝じっと天井を仰ぎながら、胸むな前さきにかかる湯気を忘れたように手で捌さばいて、
﹁按摩だ、がその按摩が、旧もとはさる大名に仕えた士族の果はてで、聞きねえ。私等が流儀と、同おんなじその道の芸の上手。江戸の宗家も、本山も、当国古市において、一人で兼ねたり、という勢いきおいで、自ら宗そう山ざんと名な告のる天てん狗ぐ。高慢も高慢だが、また出来る事も出来る。……東京の本場から、誰も来て怯おびやかされた。某それがしも参って拉ひしがれた。あれで一眼でも有ろうなら、三重県に居る代しろ物ものではない。今度名古屋へ来た連中もそうじゃ、贋にせ物ものではなかろうから、何も宗山に稽古をしてもらえとは言わぬけれど、鰻うなぎの他ほかに、鯛たいがある、味を知って帰れば可いに。――と才さい発はじけた商あき人んど風のと、でっぷりした金の入歯の、土地の物持とも思われる奴の話したのが、風うわ説さの中でも耳に付いた。
叔父はこくこく坐いね睡むりをしていたっけ。私わっしあ若気だ、襟巻で顔を隠して、睨にらむように二人を見たのよ、ね。
宿の藤屋へ着いてからも、わざと、叔父を一人で湯へ遣り……女中にもちょっと聞く。……挨あい拶さつに出た番頭にも、按摩の惣市、宗山と云う、これこれした芸人が居るか、と聞くと、誰の返事も同じ事。思ったよりは高名で、現に、この頃も藤屋に泊った、何なに某がし侯こうの御隠居の御召に因って、上かみ下しもで座敷を勤した時、︵さてもな、鼓ヶ嶽が近いせいか、これほどの松風は、東京でも聞けぬ、︶と御賞美。
︵的てき等らにも聞かせたい。︶と宗山が言われます、とちょろりと饒しゃ舌べった。私わっしが夥なか間まを――︵的等。︶と言う。
的等の一いち人にん、かく言う私だ……﹂
十三
﹁なお聞けば、古市のはずれに、その惣市、小料理屋の店をして、妾めかけの三人もある、大した勢いきおいだ、と言うだろう。――何を!……按摩の分際で、宗家の、宗の字、この道の、本山が凄すさまじい。
こう、按摩さん、舞台の差さしは堪か忍にしてくんな。﹂
と、竊そっと痛そうに胸を圧おさえた。
﹁後で、よく気がつけば、信州のお百姓は、東京の芝居なんぞ、ほんとの猪ししはないとて威張る。……な、宮重大根が日本一なら、蕪かぶの千枚漬も皇国無双で、早く言えば、この桑名の、焼蛤も三都無類さ。
その気で居れば可いものを、二十四の前厄なり、若気の一いち図ずに苛いら々いらして、第一その宗山が気に入らない。︵的等。︶もぐっと癪しゃくに障れば、妾三人で赫かっとした。
維新以来の世がわりに、……一ひと時しきり私等の稼業がすたれて、夥なか間まが食うに困ったと思え。弓矢取っては一万石、大名株の芸人が、イヤ楊よう枝じを削る、かるめら焼を露店で売る。……蕎そ麦ば屋やの出前持になるのもあり、現在私がその小お父じ者ごなどは、田舎の役場に小使いをして、濁り酒のかすに酔って、田たん圃ぼの畝あぜに寝たもんです。……
その妹だね、可いかい、私の阿おふ母くろが、振袖の年頃を、困る処へ附込んで、小こが金ねを溜めた按摩めが、ちとばかりの貸を枷かせに、妾にしよう、と追い廻わす。――危あぶなく駒下駄を踏返して、駕か籠ごでなくっちゃ見なかった隅田川へ落ちようとしたっさ。――その話にでも嫌いな按摩が。
ええ。
待て、見えない両眼で、汝うぬが身の程を明あかるく見るよう、療治を一つしてくりょう。
で、翌あく日るひは謹んで、参拝した。
その尊さに、その晩ばかりはちっとの酒で宵寝をした、叔父の夜具の裾を叩いて、枕まく許らもとへ水を置き、
︵女中、そこいらへ見物に、︶
と言った心は、穴を圧おさえて、宗山を退治る料りょ簡うけん。
と出た、風が荒い。荒いがこの風、五いす十ず鈴が川わで劃かぎられて、宇治橋の向うまでは吹くまいが、相の山の長坂を下から哄どっと吹上げる……これが悪く生なま温ぬるくって、灯あかりの前じゃ砂が黄色い。月は雲の底に淀どんよりしている。神かみ路じや山まの樹は蒼あおくても、二見の波は白かろう。酷ひどい勢いきおい、ぱっと吹くので、たじたじとなる。帽子が飛ぶから、そのまま、藤屋が店へ投返した……と脊筋へ孕はらんで、坊さんが忍ぶように羽織の袖が飜ひら々ひらする。着換えるのも面倒で、昼間のなりで、神かみ詣もうでの紋付さ。――袖畳みに懐ふと中ころへ捻ねじ込こんで、何の洒しゃ落れにか、手拭で頬被りをしたもんです。
門附になる前兆さ、状ざまを見やがれ。﹂と片手を袖へ、二の腕深く突つッ込こんだ。片手で狙ねらうように茶碗を圧おさえて、
﹁ね、古市へ行くと、まだ宵だのに寂ひっ然そりしている。……軒が、がたぴしと鳴って、軒のき行あん燈どんがばッばッ揺れる。三さみ味せ線んの音もしたけれど、吹ふきさらわれて大屋根へ猫の姿でけし飛ぶようさ。何の事はない、今夜のこの寂しい新地へ、風を持って来て、打ぶッ着つけたと思えば可い。
一軒、地つちのちと窪くぼんだ処に、溝どぶ板いたから直ぐに竹の欄てす干りになって、毛もう氈せんの端は刎はね上あがり、畳に赤い島が出来て、洋ラン燈プは油煙に燻くすぶったが、真まっ白しろに塗った姉さんが一人居る、空気銃、吹矢の店へ、ひょろりとして引ひっ掛かかったね。
取とッ着つきに、肱ひじを支ついて、怪しく正面に眼まなこの光る、悟った顔の達だる磨まさ様まと、女の顔とを、七分三分に狙いながら、
︵この辺に宗山ッて按摩は居るかい。︶とここで実は様子を聞く気さ。押懸けて行ゆこうたってちっとも勝手が知れないから。
︵先生様かね、いらっしゃります。︶と何と、︵的等。︶の一人に、先生を、しかも、様づけに呼ぶだろう。
︵実は、その人の何を、一つ、聞きたくって来たんだが、誰が行っても頼まれてくれるだろうか。︶と尋ねると、大おお熨の斗しを書いた幕の影から、色の蒼あおい、鬢びんの乱れた、痩やせた中ちゅ年うど増しまが顔を出して、︵知ちか己づきのない、旅の方にはどうか知らぬ、お望のぞみなら、内から案内して上げましょうか。︶と言う。
茶代を奮は発ずんで、頼むと言った。
︵案内して上げなはれ、可いい旦那や、気を付けて、︶と目めく配ばせをする、……と雑作はない、その塗ったのが、いきなり、欄干を跨またいで出る奴さ。﹂
十四
﹁両袖で口を塞ふさいで、風の中を俯うつ向むいて行ゆく。……その女の案内で、つい向う路地を入ると、どこも吹附けるから、戸を鎖さしたが、怪しげな行あん燈どんの煽あおって見える、ごたごたした両側の長屋の中に、溝どぶ板いたの広い、格子戸造りで、この一軒だけ二階屋。
軒に、御手軽御おん料りょ理うりとしたのが、宗山先生の住すま居いだった。
︵お客様。︶と云う女の送りで、ずッと入る。直ぐそこの長火鉢を取巻いて、三人ばかり、変な女が、立膝やら、横坐りやら、猫板に頬杖やら、料理の方は隙ひまらしい。……上あが框りかまちの正面が、取とッ着つきの狭い階はし子ごだ段んです。
︵座敷は二階かい、︶と突いき然なり頬ほお被かむりを取って上ろうとすると、風立つので燈あかりを置かない。真まっ暗くらだからちょっと待って、と色めいてざわつき出す。とその拍子に風のなぐれで、奴等の上の釣つり洋ラン燈プがぱっと消えた。
そこへ、中なか仕じき切りの障子が、次の室まの燈あかりにほのめいて、二枚見えた。真まん中なかへ、ぱっと映ったのが、大坊主の額の出た、唇の大おおきい影法師。む、宗山め、居るな、と思うと、憎い事には……影法師の、その背中に掴つかまって、坊主を揉もんでるのが華きゃ奢しゃらしい島田髷まげで、この影は、濃く映った。
火マッ燧チ々々、と女どもが云う内に、
︵えへん︶と咳せきばらいを太くして、大おおきな手で、灰吹を持上げたのが見えて、離れて煙きせ管るが映る。――もう一倍、その時図体が拡がったのは、袖を開いたらしい。此こい奴つ、寝ねん寝ね子この広どて袖らを着ている。
やっと台洋燈を点つけて、
︵お待遠でした、さあ、︶
って二階へ。吹矢の店から送って来た女はと、中段からちょっと見ると、両膝をずしりと、そこに居た奴の背うし後ろへ火鉢を離れて、俯うつ向むいて坐った。
︵あの娘こで可いいのかな、他ほかにもござりますよって。︶
と六畳の表座敷で低声で言うんだ。――ははあ、商売も大あら略まし分った、と思うと、其そい奴つが
︵お誂あつらえは。︶
と大おおきな声。
︵あっさりしたものでちょっと一口。そこで……︶
実は……御主人の按摩さんの、咽の喉どが一つ聞きたいのだ、と話した。
︵咽喉?︶……と其奴がね、異おつに蔑さげすんだ笑い方をしたものです。
︵先生様の……でござりますか、早速そう申しましょう。︶
で、地獄の手てび曳きめ、急に衣えも紋んづ繕くろいをして下りる。しばらくして上って来た年と紀しの少わかい十六七が、……こりゃどうした、よく言う口だが芥はき溜だめに水仙です、鶴です。帯も襟も唐とう縮ちり緬めんじゃあるが、もみじのように美しい。結いい綿わたのふっくりしたのに、浅あさ葱ぎ鹿かの子の絞しぼ高だかな手柄を掛けた。やあ、三人あると云う、妾の一人か。おおん神の、お膝ひざ許もとで沙汰の限りな! 宗山坊主の背中を揉んでた島田髷の影らしい。惜しや、五十鈴川の星と澄んだその目許も、鯰なまずの鰭ひれで濁ろう、と可あわ哀れに思う。この娘が紫の袱ふく紗さに載のせて、薄茶を持って来たんです。
いや、御本山の御見識、その咽の喉どを聞きに来たとなると……客にまず袴はかまを穿はかせる仕しむ向けをするな、真剣勝負面白い。で、こっちも勢いきおい、懐ふと中ころから羽織を出して着直したんだね。
やがて、また持出した、杯さかずきというのが、朱塗に二見ヶ浦を金きん蒔まき絵えした、杯台に構えたのは凄すごかろう。
︵まず一ツ上って、こっちへ。︶
と按摩の方から、この杯の指図をする。その工合が、謹んで聞け、といった、頗すこぶる権高なものさ。どかりとそこへ構え込んだ。その容よう子すが膝も腹もずんぐりして、胴どう中なかほど咽の喉どが太い。耳の傍わきから眉みけ間んへ掛けて、小蛇のように筋が畝うねくる。眉が薄く、鼻がひしゃげて、ソレその唇の厚い事、おまけに頬骨がギシと出て、歯を噛かむとガチガチと鳴りそう。左の一眼べとりと盲しい、右が白しろ眼まなこで、ぐるりと飜かえった、しかも一面、念入の黒くろ痘あば瘡ただ。
が、争われないのは、不か具た者わの相そう格ごう、肩つきばかりは、みじめらしくしょんぼりして、猪いの熊入道もがっくり投首の抜ぬき衣えも紋んで居たんだよ。﹂
十五
﹁いえな、何も私が意地悪を言うわけではないえ。﹂
と湊屋の女中、前垂の膝を堅くして――傍かたわらに柔かな髪の房ふっさりした島田の鬢びんを重そうに差さし俯うつ向むく……襟足白く冷たそうに、水とき紅い色ろの羽はぶ二た重えの、無地の長なが襦じゅ袢ばんの肩が辷すべって、寒げに脊筋の抜けるまで、嫋なよやかに、打うち悄しおれた、残んの嫁よ菜め花なの薄紫、浅あさ葱ぎのように目に淡い、藤色縮ちり緬めんの二枚着で、姿の寂しい、二はた十ちばかりの若い芸者を流しり盻めに掛けつつ、
﹁このお座敷は貰もろうて上げるから、なあ和あん女た、もうちゃっと内へお去いにや。……島家の、あの三み重えさんやな、和女、お三重さん、お帰り!﹂
と屹きっと言う。
﹁お前さんがおいでやで、ようお客さんの御機嫌を取ってくれるであろうと、小こお女んなばかり附けておいて、私が勝手へ立違うている中うちや、……勿体ない、お客たちの、お年寄なが気に入らぬか、近頃山田から来た言うて、こちの私の許とこを見くびったか、酌をせい、と仰おっ有しゃっても、浮うき々うきとした顔はせず……三さみ味せ線ん聞こうとおっしゃれば、鼻の頭さきで笑うたげな。傍そばに居た喜野が見かねて、私の袖を引きに来た。
先さっ刻きから、ああ、こうと、口の酸くなるまで、機嫌を取るようにして、私が和女の調子を取って、よしこの一つ上方唄でも、どうぞ三味線の音ねをさしておくれ。お客様がお寂しげな、座敷が浮かぬ、お見やんせ、蝋ろう燭そくの灯も白けると、頼むようにして聞かいても、知らぬ、知らぬ、と言通す。三味線は和女、禁物か。下手や言うて、知らぬ云うて、曲まがりなりにもお座つき一つ弾けぬ芸げい妓こがどこにある。
よう、思うてもお見。平の座敷か、そでないか。貴あな客たがたのお人柄を見りゃ分るに、何で和女、勤める気や。私が済まぬ。さ、お立ち。ええ、私が箱を下げてやるから。﹂
と優しいのがツンと立って、襖ふす際まぎわに横にした三味線を邪険に取って、衝つと縦たて様ざまに引立てる。
﹁ああれ。﹂
はっと裳もすそを摺すらして、取とり縋すがるように、女中の膝を竊そっと抱き、袖を引き、三味線を引留めた。お三重の姿は崩るるごとく、芍しゃ薬くやくの花の散るに似て、
﹁堪忍して下さいまし、堪忍して、堪忍して、﹂と、呼い吸きの切れる声が湿うるんで、
﹁お客様にも、このお内へも、な、何で私が失礼しましょう。ほんとに、あの、ほんとに三味線は出来ませんもの、姉さん、﹂
と言ことばが途絶えた。……
﹁今しがたも、な、他よ家そのお座敷、隅の方に坐っていました。不断ではない、兵隊さんの送別会、大陽気に騒ぐのに、芸のないものは置かん、衣きも服のを脱いで踊るんなら可よし、可い厭やなら下げると……私一人帰されて、主人の家うちへ戻りますと、直ぐに酷ひどいめに逢いました、え。
三味線も弾けず、踊りも出来ぬ、座敷で衣きも物のが脱げないなら、内で脱げ、引ひっ剥ぱぐと、な、帯も何も取られた上、台所で突つッ伏ぷせられて、引窓をわざと開けた、寒いお月様のさす影で、恥かしいなあ、柄ひし杓ゃくで水を立続けて乳へも胸へもかけられましたの。
こちらから、あの、お座敷を掛けて下さいますと、どうでしょう、炬こた燵つで温あたためた襦じゅ袢ばんを着せて、東京のお客じゃそうなと、な、取って置きの着物を出して、よう勤めて帰れや言うて、御主人が手で、駒下駄まで出すんです。
勤めるたって、どうしましょう……踊は立って歩あ行るくことも出来ませんし、三味線は、それが姉さん、手を当てれば誰にだって、音のせぬ事はないけれど、弾いて聞かせとおっしゃるもの、どうして私唄えます。……
不かた具わでもないに情なさけない。調子が自分で出来ません。何をどうして、お座敷へ置いて頂けようと思いますと、気が怯ひけて気が怯けて、口も満足利けませんから、何が気に入らないで、失礼な顔をすると、お思い遊ばすのも無理はない、なあ。……
このお家へは、お台所で、洗い物のお手伝をいたします。姉さん、え、姉さん。﹂
と袖を擦さすって、一生懸命、うるんだ目めも許とを見得もなく、仰あお向むけになって女中の顔。……色が見る見る柔やわらいで、突いて立った三味線の棹さおも撓たわみそうになった、と見ると、二人の客へ、向直った、ふっくりとある綾あやの帯の結むす目びめで、なおその女中の袂たもとを圧おさえて。……
十六
お三重は、そして、更あらためて二ふた箇りの老人に手を支ついた。
﹁芸者でお呼び遊ばした、と思いますと……お役に立たず、極きまりが悪うございまして、お銚ちょ子うしを持ちますにも手が震えてなりません。下おさ婢んをお傍そばへお置き遊ばしたとお思いなさいまして、お休みになりますまでお使いなすって下さいまし。お背中を敲たたきましょう、な、どうぞな、お肩を揉もまして下さいまし。それなら一生懸命にきっと精を出します。﹂
と惜おし気げもなく、前髪を畳につくまで平ひれ伏ふした。三指づきの折かがみが、こんな中でも、打上る。
本を開いて、道中の絵をじろじろと黙って見ていた捻平が、重くるしい口を開けて、
﹁子孫末代よい意見じゃ、旅で芸者を呼ぶなぞは、のう、お互に以後謹もう……﹂と火箸に手を置く。
所在なさそうに半眼で、正まと面もに臨りん風ぷう榜ぼう可かし小ょう楼ろうを仰ぎながら、程を忘れた巻まき莨たばこ、この時、口許へ火を吸って、慌てて灰へ抛ほうって、弥次郎兵衛は一つ咽むせた。
﹁ええ、いや、女中、……追って祝儀はする。ここでと思うが、その娘こが気が詰つまろうから、どこか小座敷へ休まして皆みんなで饂飩でも食べてくれ。私が驕おごる。で、何か面白い話をして遊ばして、やがて可いい時分に帰すが可い。﹂と冷くなった猪ちょ口こを取って、寂しそうに衝つと飲んだ。
女中は、これよりさき、支ついて突つッ立たったその三味線を、次の室まの暗い方へ密そっと押おし遣やって、がっくりと筋が萎なえた風に、折重なるまで摺すり寄よりながら、黙だん然まりで、燈ともしびの影に水のごとく打うち揺ゆらぐ、お三重の背中を擦さすっていた。
﹁島屋の亭が、そんな酷ひどい事をしおるかえ。可いわ、内の御隠居にそう言うて、沙汰をして上げよう。心安う思うておいで、ほんにまあ、よう和あん女た、顔へ疵きずもつけんの。﹂
と、かよわい腕かいなを撫なで下おろす。
﹁ああ、それも売物じゃいうだけの斟しん酌しゃくに違いないな。……お客様に礼言いや。さ、そして、何かを話しがてら、御隠居の炬こた燵つへおいで。切きり下さげ髪がみに頭ずき巾ん被かぶって、ちょうどな、羊よう羹かん切って、茶を食べてや。
けども、﹂
とお三重の、その清らかな襟えり許もとから、優しい鬢びん毛のけを差さし覗のぞくように、右とみ瞻こ左う瞻みて、
﹁和あん女た、因果やな、ほんとに、三味線は弾けぬかい。ペンともシャンとも。﹂
で、わざと慰めるように吻ほ々ほと笑った。
人の情なさけに溶けたと見える……氷る涙の玉を散らして、はっと泣いた声の下で、
﹁はい、願掛けをしましても、塩断ちまでしましたけれど、どうしても分りません、調子が一つ出来ません。性うま来れつきでござんしょう。﹂
師走の闇やみ夜よに白しら梅うめの、面おもてを蝋ろうに照らされる。
﹁踊もかい。﹂
﹁は……い、﹂
﹁泣くな、弱虫、さあ一つ飲まんか! 元気をつけて。向後どこへか呼ばれた時は、怯おびえるなよ。気の持ちようでどうにもなる。ジャカジャカと引鳴らせ、糸へち瓜まの皮で掻廻すだ。琴ことも胡こき弓ゅうも用はない。銅どら鑼にょ鐃うはを叩けさ。簫しょうの笛をピイと遣れ、上手下手は誰にも分らぬ。それなら芸なしとは言われまい。踊が出来ずば体操だ。一、﹂
と左右へ、羽織の紐の断きれるばかり大手を拡げ、寛かん濶かつな胸を反らすと、
﹁二よ。﹂と、庄屋殿が鉄砲二つ、ぬいと前へ突出いて、励ますごとく呵から々からと弥次郎兵衛、
﹁これ、その位な事は出来よう。いや、それも度胸だな。見た処、そのように気が弱くては、いかな事も遣やっつけられまい、可哀相に。﹂と声が掠かすれる。
﹁あの……私が、自分から、言います事は出来ません、お恥はずかしいのでございますが、舞の真ま似ねが少しばかり立てますの、それもただ一ツだけ。﹂
と云う顔を俯うつ向むいて、恥かしそうにまた手を支つく。
﹁舞えるかえ、舞えるのかえ。﹂
と女中は嬉しそうな声をして、
﹁おお、踊や言うで明かんのじゃ。舞えるのなら立っておくれ。このお座敷、遠慮は入いらん。待ちなはれ、地が要ろう。これ喜野、あすこの広間へ行ってな、内の千がそう言うたて、誰でも弾けるのを借りて来やよ。﹂
とぽんとしていた小女の喜野が立とうとする、と、名な告のったお千が、打傾いて、優しく口許をちょいと曲げて傾いて、
﹁待って、待って、﹂
十七
﹁いつもと違う。……一度軍隊へ行きなさると、日曜でのうては出られぬ、……お国のためやで、馴なれぬ苦労もしなさんす。新兵さんの送別会や。女衆が大勢居ても、一人抜けてもお座敷が寂しくなるもの。
可いわ、旅の恥は掻棄てを反あべ対こべなが、一泊りのお客さんの前、私が三味線を掻廻そう。お三重さん、立つのは何? 有るものか、無いものか言うも行過ぎた……有るものとて無いけれど、どうにか間に合わせたいものではある。﹂
﹁あら、姉さん。﹂
と、三味線取りに立とうとした、お千の膝を、袖で圧おさえて、ちとはなじろんだ、お三重の愛あい嬌きょう。
﹁糸に合うなら踊ります。あのな、私のはな、お能の舞の真似なんです。﹂と、言いも果てず、お千の膝に顔を隠して、小お父じ者ごと捻平に背そが向いになった初々しさ。包ましやかな姿ながら、身を揉もむ姿の着崩れして、袖を離れて畳に長い、襦袢の袖は媚なまめかしい。
﹁何、その舞を舞うのかい。﹂と弥次郎兵衛は一言云う。
捻平膝の本をばったり伏せて、
﹁さて、飲もう。手酌でよし。ここで舞なぞは願い下げじゃ。せめてお題目の太鼓にさっしゃい。ふあはははは、﹂となぜか皺しわ枯がれた高笑い、この時ばかり天井に哄どっと響いた。
﹁捻平さん、捻さん。﹂
﹁おお。﹂
と不ぶし性ょうげにやっと応こたえる。
﹁何も道中の話の種じゃ、ちょっと見物をしようと思うね。﹂
﹁まず、ご免じゃ。﹂
﹁さらば、其その許もとは目を瞑ねむるだ。﹂
﹁ええ、縁起の悪い事を言わさる。……明日にも江戸へ帰って、可愛い孫娘の顔を見るまでは、死んでもなかなか目は瞑ねむらぬ。﹂
﹁さてさて捻ねじるわ、ソレそこが捻平さね。勝手になされ。さあ、あの娘こ立ったり、この爺じい様さまに遠慮は入らぬぞ。それ、何にも芸がないと云うて肩腰をさすろうと卑下をする。どんな真似でも一つ遣れば、立派な芸者の面めん目ぼくが立つ。祝儀取るにも心持が可よかろうから、是非見たい。が、しかし心のままにしなよ、決して勤つとめを強いるじゃないぞ。﹂
﹁あんなに仰おっ有しゃって下さるもの。さあ、どんな事するのや知らんが、まずうても大事ない、大事ない、それ、支度は入らぬかい。﹂
﹁あい、﹂
とわずかに身を起すと、紫の襟を噛かむように――ふっくりしたのが、あわれに窶やつれた――頤おとがい深く、恥かしそうに、内うち懐ぶところを覗のぞいたが、膚はだ身みに着けたと思わるる、……胸やや白き衣えも紋んを透かして、濃い紫の細い包、袱ふく紗さの縮ちり緬めんが飜ひら然りと飜かえると、燭台に照って、颯さっと輝く、銀の地の、ああ、白しら魚うおの指に重そうな、一本の舞扇。
晃きら然りとあるのを押頂くよう、前髪を掛けて、扇をその、玉ぎょ簪くさんのごとく額に当てたを、そのまま折目高にきりきりと、月の出でし汐おの波の影、静しずかに照てら々てらと開くとともに、顔を隠して、反らした指のみ、両方親骨にちらりと白い。
また川口の汐しお加かげ減ん、隣の広間の人ひと動ど揺よめきが颯と退ひく。
と見れば皎こう然ぜんたる銀の地に、黄金の雲を散らして、紺こん青じょうの月、ただ一輪を描いたる、扇の影に声澄みて、
「――その時あま人申様 、もしこのたまを取得たらば、この御子 を世継の御位 になしたまえと申 しかば、子細 あらじと領承したもう、さて我子ゆえに捨ん命、露ほども惜 からじと、千尋 のなわを腰につけ、もしこの玉をとり得たらば、このなわを動かすべし、その時人々ちからをそえ――」
と調子が緊しまって、
﹁……ひきあげたまえと約束し、一ひとつの利剣を抜持って、﹂
と扇をきりりと袖を直す、と手てだ練れぞ見ゆる、自おのずから、衣紋の位に年長たけて、瞳を定めたその顔かんばせ。硝がら子す戸越に月さして、霜の川浪照てり添そう俤おもかげ。膝立たて据すえた畳にも、燭しょ台くだいの花颯と流るる。
﹁ああ、待てい。﹂
と捻平、力の籠こもった声を掛けた。
十八
で、火鉢をずっと傍そばへ引いて、
﹁女中、もちっとこれへ火をおくれ。いや、立つに及ばん。その、鉄瓶をはずせば可よし。﹂と捻平がいいつける。
この場合なり、何となく、お千も起たち居いに身から体だが緊しまった。
静しずかに炭火を移させながら、捻平は膝をずらすと、革かば鞄んなどは次の室まへ……それだけ床の間に差置いた……車の上でも頸うなじに掛けた風呂敷包を、重いもののように両手で柔やわらかに取って、膝の上へ据えながら、お千の顔を除よけて、火鉢の上へ片手を裏表かざしつつ、
﹁ああ、これ、お三重さんとか言うの、そのお娘こ、手を上げられい。さ、手を上げて、﹂
と言う。……お三重は利剣で立とうとしたのを、慌あわただしく捻平に留められたので、この時まで、差開いたその舞扇が、唇の花に霞むまで、俯うつ向むいた顔をひたと額につけて、片手を畳に支ついていた。こう捻平に声懸けられて、わずかに顔を振上げながら、きりきりと一まず閉じると、その扇を畳むに連れて、今まで、濶かっと瞳を張って見据えていた眼まなこを、次第に塞ふさいだ弥次郎兵衛は、ものも言わず、火鉢のふちに、ぶるぶると震う指を、と支えた態なりの、巻まき莨たばこから、音もしないで、ほろほろと灰がこぼれる。
捻平座さぶ蒲と団んを一ひと膝ひざ出て、
﹁いや、更あらためて、熟とくと、見せてもらおうじゃが、まずこっちへ寄らしゃれ。ええ、今の謡うたいの、気組みと、その形かた。教えも教えた、さて、習いも習うたの。
こうまでこれを教うるものは、四国の果はてにも他ほかにはあるまい。あらかた人は分ったが、それとなく音たよ信りも聞きたい。の、其そ許こも黙って聞かっしゃい。﹂
と弥次が方かたに、捻平目めづ遣かいを一つして、
﹁まず、どうして、誰から、御お身みは習うたの。﹂
﹁はい、﹂
と弱々と返事した。お三重はもう、他たわ愛いなく娘になって、ほろりとして、
﹁あの、前さっ刻きも申しましたように、不器用も通越した、調子はずれ、その上覚えが悪うござんして、長唄の宵や待ちの三さみ味せ線んのテンもツンも分りません。この間まで居おりました、山田の新町の姉さんが、朝と昼と、手てす隙きな時は晩方も、日に三度ずつも、あの噛かんで含めて、胸を割って刻込むように教えて下すったんでございますけれど、自分でも悲しい。……暁の、とだけ十日かかって、やっと真似だけ弾けますと、夢になってもう手が違い、心では思いながら、三の手が一へ滑すべって、とぼけたような音ねがします。
撥ばちで咽の喉どを引裂かれ、煙きせ管るで胸を打たれたのも、糸を切った数より多い。
それも何も、邪険でするのではないのです。……私が、な、まだその前に、鳥と羽ばの廓くるわに居ました時、……﹂
﹁ああ、お前さんは、鳥羽のものかい、志摩だな。﹂
と弥次郎兵衛がフト聞入れた。
﹁いえ、私はな、やっぱりお伊勢なんですけれど、父おとっさんが死なくなりましてから、継まま母ははに売られて行きましたの。はじめに聞いた奉公とは嘘のように違います。――お客の言うことを聞かぬ言うて、陸おかで悪くば海で稼げって、崕がけの下の船ふな着つきから、夜になると、男衆に捉つかまえられて、小船に積まれて海へ出て、月があっても、島の蔭の暗い処を、危いなあ、ひやひやする、木の葉のように浮いて歩あ行るいて、寂しんとした海の上で……悲しい唄を唄います。そしてお客の取れぬ時は、船頭衆の胸に響いて、女が恋しゅうなる禁まじ厭ないじゃ、お茶ちゃ挽ひいた罰、と云って、船から海へ、びしゃびしゃと追下ろして、汐しおの干た巌いわへ上げて、巌の裂目へ俯うつ向むけに口をつけさして、︵こいし、こいし。︶と呼ばせます。若い衆は舳へさきに待ってて、声が切れると、栄さざ螺えの殻をぴしぴしと打ぶッ着つけますの。汐風が濡れて吹く、夏の夜でも寒いもの。……私のそれは、師走から、寒の中うちで、八百八やし島まあると言う、どの島も皆白い。霜風が凍りついた、巌の角は針のような、あの、その上で、︵こいし、こいし。︶って、唇の、しびれるばかり泣いている。咽の喉どは裂け、舌は凍って、潮しおを浴びた裙すそから冷え通って、正体がなくなる処を、貝殻で引ひっ掻かかれて、やっと船で正気が付くのは、灯あかりもない、何の船やら、あの、まあ、鬼の支ついた棒見るような帆柱の下から、皮の硬こわい大おおきな手が出て、引ひッ掴つかんで抱込みます。
空には蒼あおい星ばかり、海の水は皆黒い。暗やみの夜の血の池に落ちたようで、ああ、生きているか……千鳥も鳴く、私も泣く。……お恥かしゅうござんす。﹂
と翳かざす扇の利剣に添えて、水のような袖をあて、顔を隠したその風情。人は声なくして、ただ、ちりちりと、蝋ろう燭そくの涙なんだ白く散る。
この物語を聞く人々、いかに日和山の頂より、志摩の島々、海の凪なぎ、霞の池に鶴の舞う、あの、麗うら朗らかなる景色を見たるか。
十九
﹁泣いてばかりいますから、気の荒いお船頭が、こんな泣虫を買うほどなら、伊良子崎の海なま鼠こを蒲ふと団んで、弥やし島まの烏い賊かを遊ぶって、どの船からも投出される。
また、あの巌いわに追上げられて、霜風の間あい々あいに、︵こいし、こいし。︶と泣くのでござんす。
手足は凍って貝になっても、︵こいし︶と泣くのが本望な。巌の裂目を沖へ通って、海の果はてまで響いて欲しい。もう船も去いね、潮も来い。……そのままで石になってしまいたいと思うほど、お客様、私は、あの、﹂
と乱れた襦袢の袖を銜くわえた、水とき紅い色ろ映る瞼まぶたのあたり、ほんのりと薄くして、
﹁心でばかり長い事、思っておりまする人があって。……芸も容きり色ょうもないものが、生意気を云うようですが、……たとい殺されても、死んでもと、心願掛けておりました。
ある晩も、やっぱり蒼あおい灯の船に買われて、その船頭衆の言う事を肯きかなかったので、こっちの船へ突返されると、艫ともの処に行あん火かを跨またいで、どぶろくを飲んでいた、私を送りの若い衆しゅがな、玉ぎょ代くだいだけ損をしやはれ、此こな方たし衆ゅうの見る前で、この女を、海あ士まにして慰もうと、月の良い晩でした。
胴の間で着物を脱がして、膚はだの紐へなわを付けて、倒さかさまに海の深みへ沈めます。ずんずんずんと沈んでな、もう奈落かと思う時、釣つる瓶べのようにきりきりと、身から体だを車に引上げて、髪の雫しずくも切らせずに、また海へ突つッ込こみました。
この時な、その繋かかり船に、長崎辺の伯父が一人乗込んでいると云うて、お小こづ遣かいの無心に来て、泊込んでおりました、二見から鳥羽がよいの馬車に、馭ぎょ者しゃをします、寒中、襯しゃ衣つ一枚に袴ずぼ服んを穿はいた若い人が、私のそんなにされるのが、あんまり可哀相な、とそう云うて、伊勢へ帰って、その話をしましたので、今、あの申しました。……
この間までおりました、古市の新しん地まちの姉さんが、随分なお金か子ねを出して、私を連れ出してくれましたの。
それでな、鳥羽の鬼へも面つら当あてに、芸をよく覚えて、立派な芸子になれやッて、姉さんが、そうやって、目に涙を一杯ためて、ぴしぴし撥ばちで打ぶちながら、三味線を教えてくれるんですが、どうした因果か、ちっとも覚えられません。
人さしと、中指と、ちょっとの間を、一日に三度ずつ、一週間も鳴らしますから、近所隣も迷惑して、御飯もまずいと言うのですえ。
また月の良い晩でした。ああ、今の御主人が、親切なだけなお辛い。……何の、身から体だの切ない、苦しいだけは、生いの命ちが絶えればそれで済む。いっそまた鳥羽へ行って、あの巌いわに掴つかまって、︵こいし、こいし、︶と泣こうか知らぬ、膚の紐になわつけて、海へ入れられるが気安いような、と島も海も目に見えて、ふらふらと月の中を、千鳥が、冥めい土どの使いに来て、連れて行かれそうに思いました。……格子前さきへ流しが来ました。
新町の月影に、露の垂りそうな、あの、ちらちら光る撥ばち音おとで、
……博多帯しめ、筑前絞り――
と、何とも言えぬ好いい声で。
︵へい、不調法、お喧やかましゅう、︶って、そのまま行ゆきそうにしたのです。
︵ああ、身みぶ震るいがするほど上う手まい、あやかるように拝んで来な、それ、お賽さい銭せんをあげる気で。︶
と滝たき縞じまお召めしの半はん纏てん着て、灰に袖のつくほどに、しんみり聞いてやった姉さんが、長火鉢の抽ひき斗だしからお宝を出して、キイと、あの繻しゅ子すが鳴る、帯へ挿はさんだ懐紙に捻ひねって、私に持たせなすったのを、盆に乗せて、戸を開けると、もう一二間けん行きなさいます。二人の間にある月をな、影で繋つないで、ちゃっと行って、
︵是こい喃し。︶と呼んで、出した盆を、振向いてお取りでした。私や、思わずその手に縋すがって、涙がひとりでに出ましたえ。男で居ながら、こんなにも上手な方があるものを、切せめてその指一本でも、私の身から体だについたらばと、つい、おろおろと泣いたのです。
頬ほお被かむりをしていなすった。あのその、私の手を取ったまま――黙って、少し脇の方へ退のいた処で、︵何を泣く、︶って優しい声で、その門附が聞いてくれます。もう恥も何も忘れてな、その、あの、どうしても三味線の覚えられぬ事を話しました。﹂
二十
﹁よく聞いて、しばらく熟じっと顔を見ていなさいました。
︵芸事の出来るように、神へ願がん懸がけをすると云って、夜の明けぬ内、外へ出ろ。鼓ヶ嶽の裾にある、雑樹林の中へ来い。三日とも思うけれど、主人には、七日と頼んで。すぐ、今夜の明方から。……分ったか。若い女の途中が危あぶない、この入口まで来て待ってやる、化ばかされると思うな、夢ではない。……︶
とお言いのなり、三味線を胸に附くッ着つけて、フイと暗がりへ附着いて、黒塀を去いきなさいます。……
その事は言わぬけれど、明方の三時から、夜の白むまで垢こ離り取って、願懸けすると頼んだら、姉さんは、喜んで、承知してくれました。
殺されたら死ぬ気でな、――大恩のある御主人の、この格子戸も見納めか、と思うようで、軒下へ出て振返って、門かどを視ながめて、立っているとな。
︵おいで、︶
と云って、突いき然なり、背うし後ろから手を取りなすった、門附のそのお方。
私はな、よう覚悟はしていたが、天狗様に攫さらわれるかと思いましたえ。
あとは夢やら現うつつやら。明方内へ帰ってからも、その後あとは二日も三日もただ茫ぼうとしておりましたの。……鼓ヶ嶽の松風と、五十鈴川の流ながれの音と聞えます、雑木の森の暗い中で、その方に教わりました。……舞も、あの、さす手も、ひく手も、ただ背うし後ろから背中を抱いて下さいますと、私の身から体だが、舞いました。それだけより存じません。
もっとも、私が、あの、鳥羽の海へ投入れられた、その身の上も話しました。その方は不思議な事で、私とは敵かたきのような中だ事も、いろいろ入組んではおりますけれど、鼓ヶ嶽の裾の話は、誰にも言うな、と口留めをされました。何んにも話がなりません。
五日目に、もう可いから、これを舞って座敷をせい。芸なし、とは言うまい、ッて、お記かた念みなり、しるしなりに、この舞扇を下さいました。﹂
と袖で胸へしっかと抱いて、ぶるぶると肩を震わした、後おく毛れげがはらりとなる。
捻平溜ため息いきをして頷うなずき、
﹁いや、よく分った。教え方も、習い方も、話されずとよく分った。時に、山田に居て、どうじゃな、その舞だけでは勤まらなんだか。﹂
﹁はい、はじめて謡うたいました時は、皆みんなが、わっと笑うやら、中には恐おそろしい怖こわいと云う人もござんす。なぜ言うと、五日ばかり、あの私がな、天狗様に誘い出された、と風うわ説さしたのでござんすから。﹂
﹁は、いかにも師匠が魔でなくては、その立方は習われぬわ。むむ、で、何かの、伊勢にも謡うたいうたうものの、五人七人はあろうと思うが、その連中には見せなんだか。﹂
﹁ええ、物もの好ずきに試すって、呼んだ方もありましたが、地をお謡いなさる方が、何じゃやら、ちっとも、ものにならぬと言って、すぐにお留やめなさいましたの。﹂
﹁ははあ、いや、その足拍子を入れられては、やわな謡うたいは断ちぎれて飛ぶじゃよ。ははははは、唸うなる連中粉こっ灰ぱいじゃて。かたがたこの桑名へ、住替えとやらしたのかの。﹂
﹁狐狸や、いや、あの、吠ほえて飛ぶ処は、梟ふくろの憑つき物ものがしよった、と皆気きち違がいにしなさいます。姉さんも、手放すのは可哀相や言って下さいましたけれど、……周まわ囲りの人が承知しませず、……この桑名の島屋とは、行ゆきかいはせぬ遠い中でも、姉さんの縁続きでござんすから、預けるつもりで寄よ越こされましたの。﹂
﹁おお、そこで、また辛い思おもいをさせられるか。まずまず、それは後でゆっくり聞こう。……そのお娘こ、私わしも同おん一なじじゃ。天魔でなくて、若い女が、術わざをするわと、仰天したので、手を留めて済まなんだ。さあ、立直して舞うて下さい。大儀じゃろうが一さし頼む。私わしも久ひさしぶりで可なつ懐かしい、御おん身みの姿で、若師匠の御意を得よう。﹂
と言ことばの中うちに、膝で解く、その風呂敷の中を見よ。土佐の名手が画えがいたような、紅あかい調しらべは立たつ田たが川わ、月の裏皮、表皮。玉の砧きぬたを、打つや、うつつに、天人も聞けかしとて、雲井、と銘めいある秘蔵の塗ぬり胴どう。老おいの手てさ捌ばき美しく、錦にしきに梭ひを、投ぐるよう、さらさらと緒を緊しめて、火鉢の火に高く翳かざす、と……呼い吸きをのんで驚いたように見ていたお千は、思わず、はっと両手を支ついた。
芸の威厳は争われず、この捻平を誰とかする、七十八歳の翁おきな、辺見秀之進。近頃孫に代よを譲って、雪せっ叟そうとて隠居した、小鼓取って、本朝無双の名人である。
いざや、小お父じ者ごは能役者、当流第一の老手、恩地源三郎、すなわちこれ。
この二人は、侯こう爵しゃく津の守かみが、参宮の、仮の館やかたに催された、一調の番組を勤め済まして、あとを膝栗毛で帰る途中であった。
二十一
さて、饂うど飩ん屋やでは門附の兄あに哥いが語り次ぐ。
﹁いや、それから、いろいろ勿体つける所作があって、やがて大坊主が謡うた出いだした。
聞くと、どうして、思ったより出来ている、按摩鍼はりの芸ではない。……戸おも外てをどッどと吹く風の中へ、この声を打ぶち撒まけたら、あのピイピイ笛ぐらいに纏まとまろうというもんです。成程、随分夥なか間まには、此こい奴つに︵的等。︶扱いにされようというのが少くない。
が、私に取っちゃ小しょ敵うてきだった。けれども芸は大事です、侮あなどるまい、と気を緊しめて、そこで、膝を。﹂
と坐すわ直りなおると、肩の按摩が上へ浮いて、門附の衣えも紋んが緊しまる。
﹁……この膝を丁ちょうと叩いて、黙って二ツ三ツ拍子を取ると、この拍子が尋た常だんじゃない。……親なり師匠の叔父きの膝に、小こど児もの時から、抱かれて習った相伝だ。対あい手ての節の隙間を切って、伸のび縮ちぢみを緊しめつ、緩めつ、声の重味を刎はね上あげて、咽の喉どの呼吸を突崩す。寸法を知らず、間拍子の分らない、まんざらの素人は、盲めく目らつ聾んぼで気にはしないが、ちと商売人の端くれで、いささか心得のある対あい手てだと、トンと一つ打たれただけで、もう声が引ひっ掛かかって、節が不ぶざ状まに蹴けつ躓まずく。三味線の間あいも同おん一なじだ。どうです、意気なお方に釣合わぬ……ン、と一ツ刎はねないと、野暮な矢の字が、とうふにかすがい、糠ぬかに釘でぐしゃりとならあね。
さすがに心得のある奴だけ、商売人にぴたりと一ツ、拍子で声を押おっ伏ぷせられると、張った調子が直ぐにたるんだ。思えば余計な若気の過あや失まち、こっちは畜生の浅あさ猿ましさだが、対あい手ては素人の悲しさだ。
あわれや宗山。見る内に、額にたらたらと衝つと汗を流し、死しに声ごえを振絞ると、頤あごから胸へ膏あぶらを絞った……あのその大きな唇が海なま鼠こを干したように乾いて来て、舌が硬こわって呼い吸きが発は奮ずむ。わなわなと震える手で、畳を掴つかむように、うたいながら猪ちょ口こを拾おうとする処、ものの本をまだ一枚とうたわぬ前さき、ピシリとそこへ高拍子を打込んだのが、下した腹っぱらへ響いて、ドン底から節が抜けたものらしい。
はっと火のような呼い吸きを吐く、トタンに真まう俯つ向むけに突つッ伏ぷす時、長々と舌を吐いて、犬のように畳を嘗なめた。
︵先生、御病気か。︶
って私あ莞にっ爾こりしたんだ。
︵是非聞きたい、平にどうか。宗山、この上に聾つんぼになっても、貴あな下たのを一番、聞かずには死なれぬ。︶
と拳こぶしを握って、せいせい言ってる。
︵按摩さん。︶
と私は呼んで、
︵尾上町の藤屋まで、どのくらい離れている。︶
︵何んで、︶
と聞く。
︵間によっては声が響く。内証で来たんだ。……藤屋には私の声が聞かしたくない、叔父が一人寝てござるんだ。勇士は霜の気けは勢いを知るとさ――たださえ目めざ敏とい老とし人よりが、この風だから寝苦しがって、フト起きてでもいるとならない、祝儀は置いた。帰るぜ。︶
ト宗山が、凝じっと塞ふさいだ目を、ぐるぐると動かして、
︵暫しばらく、今の拍子を打ちなされ……古市から尾上町まで声が聞えようか、と言いなされる、御大言、年のお少わかさ。まだ一ひと度たびも声は聞かず、顔はもとより見た事もなけれども……当流の大師匠、恩地源三郎どの養子と聞く……同じ喜多八氏の外にはあるまい。さようでござろう、恩地、︶
と私の名をちゃんと言う。
ああ、酔った、﹂
と杯をばたりと落した。
﹁饒しゃ舌べって悪い私の名じゃない。叔父に済まない。二人とも、誰にも言うな。……﹂
と鷹おう揚ようで、按摩と女房に目をあしらい。
﹁私は羽織の裾を払って、
︵違ったような、当ったようだ、が、何しろ、東京の的等の一人だ。宗家の宗、本山の山、宗山か。若わか布めの附焼でも土産に持って、東海道を這はい上れ。恩地の台所から音おと信ずれたら、叔父には内証で、居候の腕白が、独こ楽まを廻す片手間に、この浦船でも教えてやろう。︶
とずっと立つ。
二十二
﹁痘あば瘡たの中に白しろ眼まなこを剥むいて、よたよたと立上って、憤いきどおった声ながら、
︵可なつ懐かしいわ、若旦那、盲人の悲しさ顔は見えぬ。触らせて下され、つかまらせて下され、一ひと撫なで、撫でさせて下され。︶
と言う。
いや、撫られて堪たまりますか。
摺すり抜ぬけようとするんだがね、六畳の狭い座敷、盲めく目らでも自分の家うちだ。
素早く、階はし子ごだ段んの降口を塞ふさいで、むずと、大手を拡げたろう。……影が天井へ懸かかって、充いっ満ぱいの黒坊主が、汗あせ膏あぶらを流して撫じょうとする。
いや、その嫉しっ妬と執しゅ着うぢゃくの、険な不思議の形相が、今もって忘れられない。
︵可い厭やだ、可厭だ、可厭だ。︶と、こっちは夢中に出ようとする、よける、留める、行違うで、やわな、かぐら堂の二階中みしみしと鳴る。風は轟ごう々ごうと当る。ただ黒雲に捲まかれたようで、可おそ恐ろしくなった、凄すごさは凄し。
衝つと、引ひっ潜くぐって、ドンと飛び摺りに、どどどと駈かけ下りると、ね。
︵袖そでや、止めませい。︶
と宗山が二階で喚わめいた。皺しわ枯がれ声ごえが、風でぱっと耳に当ると、三四人立騒ぐ女の中から、すっと美しく姿を抜いて、格子を開けた門かど口ぐちで、しっかり掴つかまる。吹きつけて揉もむ風で、颯さっと紅あかい褄つまが搦からむように、私に縋すがったのが、結ゆい綿わたの、その娘です。
背中を揉んでた、薄茶を出した、あの影法師の妾めかけだろう。
ものを言う清すずしい、張はりのある目を上から見込んで、構うものか、行きがけだ。
︵可愛い人だな、おい、殺されても死んでも、人の玩おも弄ち物ゃにされるな。︶
と言捨てに突つッ放ぱなす。
︵あれ。︶と云う声がうしろへ、ぱっと吹飛ばされる風に向って、砂しゃ塵じんの中へ、や、躍込むようにして一散に駈かけて返った。
後のちに知った、が、妾じゃない。お袖と云うその可愛いのは、宗山の娘だったね。それを娘と知っていたら、いや、その時だって気が付いたら、按摩が親の仇かた敵きでも、私わっしあ退治るんじゃなかったんだ。﹂
と不意にがッくりと胸を折って俯うつ向むくと、按摩の手が、肩を辷すべって、ぬいと越す。……その袖の陰で、取るともなく、落した杯を探りながら、
﹁もしか、按摩が尋ねて来たら、堅く居おらん、と言え、と宿のものへ吩いい附つけた。叔父のすやすやは、上首尾で、並べて取った床の中へ、すっぽり入って、引ひっ被かぶって、可いい心持に寝たんだが。
ああ、寝心の好いい思いをしたのは、その晩きりさ。
なぜッて、宗山がその夜の中うちに、私に辱はずかしめられたのを口く惜やしがって、傲ごう慢まんな奴だけに、ぴしりと、もろい折方、憤死してしまったんだ。七代まで流儀に祟たたる、と手探りでにじり書がきした遺かき書おきを残してな。死んだのは鼓ヶ嶽の裾だった。あの広ひろ場っぱの雑樹へ下さがって、夜よが明けて、やッと小こや止みになった風に、ふらふらとまだ動いていたとさ。
こっちは何にも知らなかろう、風は凪なぐ、天気は可よし。叔父は一段の上機嫌。……古市を立って二見へ行った。朝の中うち、朝日館と云うのへ入って、いずれ泊る、……先へ鳥羽へ行って、ゆっくりしようと、直ぐに車で、上の山から、日の出の下、二見の浦の上を通って、日和山を桟さじ敷きに、山の上に、海を青あお畳だたみにして二人で半日。やがて朝日館へ帰る、……とどうだ。
旅はた籠ごの表は黒山の人だかりで、内の廊下もごった返す。大おお袈げ裟さな事を言うんじゃない。伊勢から私たちに逢いに来たのだ。按摩の変事と遺かき書おきとで、その日の内に国中へ知れ渡った。別にその事について文句は申さぬ。芸事で宗山の留とどめを刺したほどの豪えらい方々、是非に一日、山田で謡うたいが聞かして欲しい、と羽はお織りは袴かま、フロックで押寄せたろう。
いや、叔父が怒るまいか。日本一の不所存もの、恩地源三郎が申渡す、向後一いっ切せつ、謡を口にすること罷まか成りならん。立たち処どころに勘当だ。さて宗山とか云う盲人、己おのが不ふつ束つかなを知って屈死した心、かくのごときは芸の上の鬼おに神がみなれば、自分は、葬とむ式らいの送おく迎りむかい、墓に謡を手向きょう、と人々と約束して、私はその場から追出された。
あとの事は何も知らず、その時から、津々浦々をさすらい歩あ行るく、門附の果はか敢ない身の上。﹂
二十三
﹁名古屋の大須の観音の裏町で、これも浮世に別れたらしい、三味線一挺ちょう、古道具屋の店にあったを工くめ面んしたのがはじまりで、一銭二銭、三銭じゃ木賃で泊めぬ夜よも多し、日数をつもると野宿も半分、京大阪と経へめぐって、西は博多まで行ったっけ。
何んだか伊勢が気になって、妙に急いで、逆戻りにまた来た。……
私が言ったただ一ひと言こと、︵人のおもちゃになるな。︶と言ったを、生いの命ちがけで守っている。……可愛い娘に逢ったのが一生の思おも出いでだ。
どうなるものでもないんだから、早く影をくらましたが、四日市で煩って、女おか房みさん。﹂
と呼びかけた。
﹁お前さんじゃないけれど、深切な人があった。やっと足腰が立ったと思いねえ。上方筋は何でもない、間違って謡を聞いても、お百姓が、︵風呂が沸いた︶で竹たけ法ぼ螺ら吹くも同然だが、東あずまへ上って、箱根の山のどてっぱらへ手が掛かかると、もう、な、江戸の鼓が響くから、どう我慢がなるものか! うっかり謡をうたいそうで危くってならないからね、今いま切ぎれは越せません。これから大おお泉いず原みはら、員いな弁べ、阿あ下げ岐きをかけて、大垣街道。岐阜へ出たら飛ひだ騨ご越えで、北ほっ国こく筋へも廻ろうかしら、と富田近所を三日稼いで、桑名へ来たのが昨きの日うだった。
その今夜はどうだ。不思議な人を二人見て、遣切れなくなってこの家うちへ飛込んだ。が、流ながしの笛が身から体だに刺ささる。いつもよりはなお激しい。そこへまた影を見た。美しい影も見れば、可おそ恐ろしい影も見た。ここで按摩が殺す気だろう。構うもんか、勝手にしろ、似たものを引ひきつけて、とそう覚悟して按摩さん、背中へ掴つかまってもらったんだ。
が、筋を抜かれる、身をられる、私が五体は裂けるようだ。﹂
とまた差さし俯うつ向むく肩を越して、按摩の手が、それも物に震えながら、はたはたと戦おののきながら、背中に獅し噛がんだ面つらの附くッ着つく……門附の袷あわせの褪あせた色は、膚はだ薄うすな胸を透かして、動どう悸きが筋に映るよう、あわれ、博多の柳の姿に、土つち蜘ぐ蛛も一つ搦からみついたように凄すごく見える。
﹁誰や!﹂
と、不意に吃びっ驚くりしたような女房の声、うしろ見られる神棚の灯ともしも暗くなる端に、べろべろと紙が濡れて、門かどの腰障子に穴があいた。それを見みと咎がめて一つ喚わめく、とがたがたと、跫あし音おと高く、駈かけ退のいたのは御亭どの。
いや、困った親おや仁じが、一人でない、薪まき雑ざっ棒ぽう、棒ぼう千ち切ぎれで、二人ばかり、若いものを連れていた。
﹁御老体、﹂
雪叟が小鼓を緊しめたのを見て……こう言って、恩地源三郎が儼げん然ぜんとして顧みて、
﹁破格のお附合い、恐おそれ多いな。﹂
と膝に扇を取って会釈をする。
﹁相変らず未熟でござる。﹂
と雪叟が礼を返して、そのまま座を下へおりんとした。
﹁平に、それは。﹂
﹁いや、蒲団の上では、お流儀に失礼じゃ。﹂
﹁は、その娘この舞が、甥おいの奴の俤おもかげゆえに、遠慮した、では私も、﹂
と言った時、左右へ、敷物を斉ひとしく刎はねた。
﹁嫁女、嫁女、﹂
と源三郎、二声呼んで、
﹁お三重さんか、私は嫁と思うぞ。喜多八の叔父源三郎じゃ、更あらためて一さし舞え。﹂
二人の名家が屹きっと居直る。
瞳の動かぬ気高い顔して、恍うっ惚とりと見詰めながら、よろよろと引ひき退さがる、と黒髪うつる藤紫、肩も腕かいなも嬌なよ娜やかながら、袖に構えた扇の利剣、霜夜に声も凜りん々りんと、
﹁……引上げたまえと約束し、一つの利剣を抜持って……﹂
肩に綾あやなす鼓の手影、雲井の胴に光さし、艶つやが添って、名誉が籠こめた心の花に、調しらべの緒の色、颯さっと燃え、ヤオ、と一つ声が懸かかる。
﹁あっ、﹂
とばかり、屹きっと見据えた――能楽界の鶴なりしを、雲隠れつ、と惜おしまれた――恩地喜多八、饂飩屋の床しょ几うぎから、衝つと片足を土間に落して、
﹁雪叟が鼓を打つ! 鼓を打つ!﹂と身を揉もんだ、胸を切せめて、慌あわただしく取って蔽おおうた、手拭に、かっと血を吐いたが、かなぐり棄てると、右め手てを掴つかんで、按摩の手をしっかと取った。
﹁祟たたらば、祟れ、さあ、按摩。湊屋の門かどまで来い。もう一度、若旦那が聞かしてやろう。﹂
と、引ひっ立たてて、ずいと出た。
「(源三郎)……かくて竜宮に至りて宮中を見れば、その高さ三十丈の玉塔に、かの玉をこめ置 、香花 を備え、守護神は八竜並居 たり、その外悪魚鰐 の口、遁 れがたしや我 命、さすが恩愛の故郷 のかたぞ恋しき、あの浪のあなたにぞ……」
その時、漲みなぎる心の張はりに、島田の元もと結ゆいふッつと切れ、肩に崩るる緑の黒髪。水に乱れて、灯に揺ゆらめき、畳の海は裳もすそに澄んで、塵ちりも留とどめぬ舞まい振ぶりかな。
「(源三郎)……我子 は有 らん、父大臣もおわすらむ……」
と声が幽かすんで、源三郎の地じ謡う節が、フト途絶えようとした時であった。
この湊屋の門口で、爽さわやかに調子を合わした。……その声、白き虹にじのごとく、衝つと来て、お三重の姿に射さした。
「(喜多八)……さるにてもこのままに別れ果 なんかなしさよと、涙ぐみて立ちしが……」
﹁やあ、大事な処、倒れるな。﹂
と源三郎すっと座を立ち、よろめく三重の背せなを支えた、老おいの腕かいなに女めな浪みの袖、この後見の大磐石に、みるの緑の黒髪かけて、颯さっと翳かざすや舞扇は、銀地に、その、雲も恋人の影も立添う、光を放って、灯ともしびを白しらめて舞うのである。
舞いも舞うた、謡いも謡う。はた雪叟が自得の秘曲に、桑名の海も、トトと大おお鼓かわの拍子を添え、川浪近くタタと鳴って、太鼓の響ひびきに汀みぎわを打てば、多たど度さ山んの霜の頂、月の御在所ヶ嶽たけの影、鎌ヶ嶽、冠かむりヶ嶽も冠着て、客座に並ぶ気けは勢いあり。
小さ夜よ更けぬ。町凍いてぬ。どことしもなく虚おお空ぞらに笛の聞えた時、恩地喜多八はただ一人、湊屋の軒の蔭に、姿蒼あおく、影を濃く立って謡うと、月が棟高く廂ひさしを照らして、渠かれの面おもてに、扇のような光を投げた。舞の扇と、うら表に、そこでぴたりと合うのである。
「(喜多八)……また思切って手を合せ、南無 や志渡寺 の観音薩 の力をあわせてたびたまえとて、大悲の利剣を額にあて、竜宮に飛び入れば、左右へはっとぞ退 いたりける、」
と謡い澄ましつつ、
﹁背せなを貸せ、宗山。﹂と言うとともに、恩地喜多八は疲れた状さまして、先さっ刻きからその裾に、大きく何やら踞うずくまった、形のない、ものの影を、腰掛くるよう、取って引ひっ敷しくがごとくにした。
路一筋白くして、掛かけ行あん燈どんの更けたかなたこなた、杖を支ついた按摩も交って、ちらちらと人立ちする。
明治四十三︵一九一〇︶年一月