一
紫の幕、紅くれないの旗、空の色の青く晴れたる、草木の色の緑なる、唯ただうつくしきものの弥いやが上に重なり合ひ、打うち混こんじて、譬たとへば大おおいなる幻うつ燈しえの花かり輪んし車ゃの輪を造りて、烈はげしく舞出で、舞込むが見え候のみ。何をか緒いとぐちとして順序よく申上げ候べき。全市街はその日朝まだきより、七色を以て彩られ候と申すより他はこれなく候。
紀元千八百九十五年―月―日の凱がい旋せん祭まつりは、小生が覚えたる観みせ世も物のの中うちに最も偉おおいなるものに候ひき。
知事の君をはじめとして、県下に有数なる顕官、文官武官の数を尽し、有志の紳商、在野の紳士など、尽く銀山閣といふ倶く楽ら部ぶ組織の館やかたに会して、凡およそ半月あまり趣向を凝こらされたるものに候よし。
先まづ巽たつみの公園内にござ候記念碑の銅像を以て祭の中心といたし、ここを式場にあて候。
この銅像は丈たけ一丈六尺と申すことにて、台石は二にけ間んに余り候はむ、兀こつ如じょとして喬きょ木うぼくの梢こずえに立ちをり候。右め手てに提ひっさげたる百ひゃ錬くれ鉄んてつの剣つるぎは霜を浴び、月に映じて、年と紀し古ふれども錆せい色しょく見えず、仰ぐに日の光も寒く輝き候。
銅像の頭かしらより八方に綱を曳ひきて、数千の鬼ほお灯ずき提じょ灯うちんを繋つなぎ懸け候が、これをこそ趣向と申せ。一ツ一ツ皆真まっ蒼さおに彩り候。提灯の表には、眉を描き、鼻を描き、眼まなこを描き、口を描きて、人の顔になぞらへ候。
さて目も、口も、鼻も、眉も、一いつ様よう普通のものにてはこれなく、いづれも、ゆがみ、ひそみ、まがり、うねりなど仕つかまつり、なかには念ねん入いりにて、酔狂にも、真赤な舌を吐はかせたるが見え候。皆切取つたる敵兵の首の形にて候よし。さればその色の蒼きは死相をあらはしたるものに候はむか。下の台は、切口なればとて赤く塗り候。上の台は、尋常に黒くいたし、辮べん髪ぱつとか申すことにて、一々蕨わら縄びなわにてぶらぶらと釣りさげ候。一ツは仰向き、一ツは俯うつ向むき、横になるもあれば、縦になりたるもありて、風の吹くたびに動き候よ。
二
催もよおしのかかることは、ただ九きゅ牛うぎゅうの一いち毛もうに過ぎず候。凱がい旋せん門もんは申すまでもなく、一いっ廓かく数百金を以て建られ候。あたかも記念碑の正面にむかひあひたるが見え候。またその傍かたわらに、これこそ見みも物のに候へ。ここに三みか抱かえに余る山桜の遠山桜とて有名なるがござ候。その梢より根に至るまで、枝も、葉も、幹も、すべて青き色の毛布にて蔽おおひ包みて、見上ぐるばかり巨大なる象の形に拵こしらへ候。
毛布はすべて旅団の兵員が、遠征の際に用ゐたるをつかひ候よし。その数八千七百枚と承り候。長ちょ蛇うだの如き巨象の鼻は、西の方にさしたる枝なりに二ふた蜿うねり蜿りて喞ポン筒プを見るやう、空高き梢より樹下を流るる小川に臨みて、いま水を吸ふ処に候。脚あしは太く、折から一員の騎兵の通り合せ候が、兜かぶ形とがたの軍帽の頂いただきより、爪つめの裏まで、全体唯その前まえ脚あしの後うしろにかくれて、纔わずかに駒こまの尾のさきのみ、此こな方たより見え申し候。かばかりなる巨象の横腹をば、真まっ四しか角くに切り開きて、板を渡し、ここのみ赤き氈せんを敷詰めて、踊子が舞の舞台にいたし候。葉桜の深ふか翠みどりしたたるばかりの頃に候へば、舞台の上下にいや繁しげりに繁りたる桜の葉の洩もれ出いで候て、舞台は薄暗く、緋ひの毛氈の色も黒ずみて、もののしめやかなるなかに、隣国を隔へだてたる連山の巓いただき遠く二ツばかり眉を描きて見渡され候。遠山桜あるあたりは、公園の中うちにても、眺ちょ望うぼうの勝しょ景うけい第一と呼ばれたる処に候へば、式かたの如き巨大なる怪獣の腹の下、脚あしの四よツある間を透すかして、城の櫓やぐら見え、森も見え、橋も見え、日ひが傘ささして橋の上渡り来るうつくしき女の藤色の衣きぬの色、あたかも藤の花一ひと片ひら、一片の藤の花、いといと小さく、ちらちら眺められ候ひき。
こは月のはじめより造りかけて、凱旋祭の前一日の昼すぎまでに出来上り候を、一度見たる時のことに有これ之あり候。
夜に入ればこの巨象の両個の眼まなこに電燈を灯ひともし候。折から曇どん天てんに候ひし。一体に樹こだ立ち深く、柳松など生おい茂しげりて、くらきなかに、その蒼白なる光を洩もらし、巨象の形は小山の如く、喬木の梢を籠こめて、雲低き天に接し、朦もう朧ろうとして、公園の一方にあらはれ候時こそ怪獣は物もの凄すさまじきその本ほん色しょくを顯あらわし、雄大なる趣を備へてわれわれの眼には映じたれ。白昼はヤハリ唯毛布を以て包みなしたる山桜の妖精に他ならず候ひし。雲はいよいよ重く、夜はますます闇くらくなり候まま、炬きょの如き一いっ双そうの眼、暗夜に水銀の光を放ちて、この北の方かた三十間、小川の流ながれ一たび灌そそぎて、池となり候池のなかばに、五条の噴水、青竜の口よりほとばしり、なかぞらのやみをこぼれて篠しのつくばかり降りかかる吹上げの水を照し、相あい対たいして、またさきに申上候銅像の右め手てに提ひっさげたる百錬鉄の剣に反映して、次第に黒くなりまさる漆うるしの如き公園の樹こだ立ちの間なかに言ふべからざる森しん厳げんの趣を呈し候、いまにも雨降り候やうなれば、人さきに立帰り申候。
三
あくれば凱旋祭の当日、人々が案じに案じたる天候は意外にもおだやかに、東しの雲のめより密雲破れて日光を洩もらし候が、午前に到りて晴れ、昼少しすぐるより天あっ晴ぱれなる快晴となり澄すまし候。
さればこそ前ぜん申上げ候通り、ただうつくしく賑にぎやかに候ひし、全市の光景、何より申上げ候はむ。ここに繰返してまた単に一いっ幅ぷくわが県全市の図は、七色を以てなどりて彩られ候やうなるおもひの、筆執とればこの紙しめ面んにも浮びてありありと見え候。いかに貴下、さやうに候はずや。黄なる、紫なる、紅くれないなる、いろいろの旗天を蔽おおひて大鳥の群れたる如き、旗の透すき間まの空青き、樹き々ぎの葉の翠みどりなる、路を行く人の髪の黒き、簪かざしの白き、手てが絡らの緋ひなる、帯の錦、袖そでの綾あや、薔しょ薇うびの香か、伽きゃ羅らの薫かおりの薫くんずるなかに、この身から体だ一ツはさまれて、歩あ行るくにあらず立たち停どまるといふにもあらで、押され押され市まち中なかをいきつくたびに一歩づつ式場近く進み候。横の町も、縦の町も、角も、辻も、山下も、坂の上も、隣の小こう路じもただ人のけはひの轟ごう々ごうとばかり遠波の寄するかと、ひツそりしたるなかに、あるひは高く、あるひは低く、遠くなり、近くなりて、耳じて底いに響き候のみ。裾すその埃ほこり、歩あゆみの砂に、両側の二階家の欄らん干かんに、果しなくひろげかけたる紅の毛もう氈せんも白くなりて、仰げば打うち重かさなる見物の男なん女にょが顔も朧おぼろげなる、中空にはむらむらと何にか候らむ、陽かげ炎ろうの如きもの立ち迷ひ候。
万丈の塵ちりの中に人の家の屋根より高き処々、中空に斑はん々はんとして目めざ覚ましき牡ぼた丹んの花の翻ひるがえりて見え候。こは大なる母ほ衣ろの上に書いたるにて、片端には彫刻したる獅し子しの頭かしらを縫ぬひつけ、片端には糸を束つかねてふつさりと揃へたるを結び着け候。この尾と、その頭と、及び件くだんの牡丹の花描いたる母衣とを以て一頭の獅子にあひなり候。胴中には青竹を破わりて曲げて環にしたるを幾いく処ところにか入れて、竹の両はしには屈くっ竟きょうの壮わか佼ものゐて、支へて、膨ふくらかに幌ほろをあげをり候。頭かしらに一人の手して、力逞たくましきが猪いく首びにかかげ持ちて、朱盆の如き口を張り、またふさぎなどして威を示し候都つ度ど、仕掛を以てカツカツと金こん色じきの牙きばの鳴るが聞え候。尾のつけもとは、ここにも竹の棹さおつけて支へながら、人の軒より高く突上げ、鷹おう揚ように右左に振り動かし申候。何貫目やらむ尾にせる糸をば、真紅の色に染そめたれば、紅の細き滝支ふる雲なき中空より逆さかさにおちて風に揺ゆらるる趣おもむき見え、要するに空間に描きたる獣王の、花々しき牡丹の花はな衣ぎぬ着けながら躍おどり狂ふにことならず、目覚しき獅子の皮の、かかる牡丹の母衣の中に、三さ味み、胡こき弓ゅう、笛、太鼓、鼓つづみを備へて、節をかしく、かつ行き、かつ鳴して一ゆるぎしては式場さして近づき候。母衣の裾すそよりうつくしき衣きぬの裾、ちひさき女の足などこぼれ出でて見え候は、歌うた姫ひめの上じょ手うずをばつどへ入れて、この楽器を司つかさどらせたるものに候へばなり。
おなじ仕組の同じ獅子の、唯ただ一ひとつには留まらで、主おも立だつたる町々より一つづつ、すべて十五、六頭
り出いだし候が、群ぐん集じゅのなかを処々横断し、点てん綴てつして、白き地に牡丹の花、人を蔽おおひて見え候。
四
群集ばらばらと一いっ斉せいに左右に分れ候。
不意なれば蹌よ踉ろめきながら、おされて、人の軒に仰ぎ依りつつ、何事ぞと存じ候に、黒き、長き物ずるずると来て、町の中な央かを一文字に貫きながら矢の如く駈かけ抜け候。
これをば心付き候時は、ハヤその物体の頭かしらは二、三十間けんわが眼の前を走り去り候て、いまはその胴どう中なかあたり連しきりに進行いたしをり候が、あたかも凧たこの糸を繰出す如く、走まわ馬りど燈うろ籠うの間断なきやう俄にわかに果つべくも見え申さず。唯ただ人の頭も、顔も、黒く塗りて、肩より胸、背、下腹のあたりまで、墨もていやが上に濃く塗りこくり、赤あか褌ふど襠し着けたる臀いしき、脛はぎ、足、踵かかと、これをば朱を以て真赤に色染めたるおなじ扮いで装たちの壮わか佼ものたち、幾百人か。一人行く前の人の後あとへ後へと繋つなぎあひ候が、繰出す如くずんずんと行き候。およそ半時間は連続いたし候ひしならむ、やがて最後の一人の、身から体だ黒く足赤きが眼前をよぎり候あと、またひらひらと群集左右より寄せ合うて、両側に別れたる路を塞ふさぎ候時、その過すぎ行ゆきし方かたを打うち眺ながめ候へば、彼かの怪物の全体は、遥はるかなる向の坂をいま蜿うねり蜿りのぼり候首しゅ尾びの全まったきを、いかにも蜈むか蚣でと見受候。あれはと見る間に百ひゃ尺くせき波状の黒こく線せんの左右より、二条の砂さえ煙ん真まし白ろにぱツと立つたれば、その尾のあたりは埃ほこりにかくれて、躍やく然ぜんとして擡もたげたるその臼うすの如き頭こうべのみ坂の上り尽くる処雲の如き大おお銀いち杏ょうの梢こずえとならびて、見るがうちに、またただ七色の道路のみ、獅子の背のみ眺ながめられて、蜈むか蚣では眼界を去り候。疾とく既に式場に着し候ひけむ、風うわ聞さによれば、市内各処における労働者、たとへばぼてふり、車夫、日ひよ傭うと取りなどいふものの総人数をあげたる、意匠の俄パフナリーに候とよ。
彼かの巨象と、幾頭の獅子と、この蜈蚣と、この群集とが遂ついに皆式場に会したることをおん含ふくみの上、静にお考へあひなり候はば、いかなる御おん感かんじか御おん胸むねに浮び候や。
五
別に凱がい旋せん門もんと、生なま首くび提じょ灯うちんと小生は申し候。人の目鼻書きて、青く塗りて、血の色染めて、黒き蕨わら縄びなわ着けたる提灯と、竜の口なる五条の噴水と、銅像と、この他に今も眼に染しみ、脳に印して覚え候は、式場なる公園の片隅に、人を避けて悄しょ然うぜんと立ちて、淋さびしげにあたりを見まはしをられ候、一ひと個り年若き佳人にござ候。何といふいはれもあらで、薄紫のかはりたる、藤色の衣きぬ着けられ候ひき。
このたび戦死したる少尉Ｂ氏の令れい閨けいに候。また小生知人にござ候。
あらゆる人の嬉しげに、楽しげに、をかしげに顔色の見え候に、小生はさて置きて夫人のみあはれに悄しおれて見え候は、人いきりにやのぼせたまひしと案じられ、近う寄り声をかけて、もの問はむと存じ候折から、おツといふ声、人なだれを打つて立騒ぎ、悲鳴をあげて逃げ惑ふ女たちは、水車の歯にかかりて撥はね飛ばされ候やう、倒れては遁にげ、転びては遁げ、うづまいて来る大蜈むか蚣でのぐるぐると巻き込むる環のなかをこぼれ出で候が、令れい閨けいとおよび五三人はその中心になりて、十と重え二は十た重えに巻きこまれ、遁のがるる隙ひまなく伏ふしまろび候ひし。警官駈かけつけて後のち、他は皆無事に起上り候に、うつくしき人のみは、そのまま裳もすそをまげて、起たず横はり候。塵ちり埃ほこりのそのつややかなる黒髪を汚けがす間もなく、衣えも紋んの乱るるまもなくて、かうはなりはてられ候ひき。
むかでは、これがために寸断され、此こ処こに六尺、彼かし処こに二尺、三尺、五尺、七尺、一尺、五寸になり、一分になり、寸ずた々ずたに切り刻まれ候が、身から体だの黒き、足の赤き、切れめ切れめに酒気を帯びて、一つづつうごめくを見申し候。
日暮れて式場なるは申すまでもなく、十万の家軒ごとに、おなじ生首提灯の、しかも丈たけ三尺ばかりなるを揃うて一いっ斉せいに灯ひともし候へば、市内の隈くま々ぐま塵ちり塚づかの片隅までも、真まっ蒼さおき昼とあひなり候。白く染め抜いたる、目、口、鼻など、大路小路の地つちの上に影を宿して、青き灯ひのなかにたとへば蝶の舞ふ如く蝋ろう燭そくのまたたくにつれて、ふはふはとその幻まぼろしの浮いてあるき候ひし。ひとり、唯、単に、一いち宇うの門のみ、生首に灯ひともさで、淋さびしく暗かりしを、怪しといふ者候ひしが、さる人は皆人の心も、ことのやうをも知らざるにて候。その夜更ふけて後、俄がぜ然んとして暴風起り、須しゅ臾ゆのまに大方の提灯を吹き飛ばし、残らず灯ひきえて真まっ闇くらになり申し候。闇やみ夜よのなかに、唯一ツ凄すさまじき音聞え候は、大木の吹折られたるに候よし。さることのくはしくは申上げず候。唯今風の音聞え候。何につけてもおなつかしく候。
月 日
ぢい様
り出いだし候が、群ぐん集じゅのなかを処々横断し、点てん綴てつして、白き地に牡丹の花、人を蔽おおひて見え候。
四
群集ばらばらと一いっ斉せいに左右に分れ候。
不意なれば蹌よ踉ろめきながら、おされて、人の軒に仰ぎ依りつつ、何事ぞと存じ候に、黒き、長き物ずるずると来て、町の中な央かを一文字に貫きながら矢の如く駈かけ抜け候。
これをば心付き候時は、ハヤその物体の頭かしらは二、三十間けんわが眼の前を走り去り候て、いまはその胴どう中なかあたり連しきりに進行いたしをり候が、あたかも凧たこの糸を繰出す如く、走まわ馬りど燈うろ籠うの間断なきやう俄にわかに果つべくも見え申さず。唯ただ人の頭も、顔も、黒く塗りて、肩より胸、背、下腹のあたりまで、墨もていやが上に濃く塗りこくり、赤あか褌ふど襠し着けたる臀いしき、脛はぎ、足、踵かかと、これをば朱を以て真赤に色染めたるおなじ扮いで装たちの壮わか佼ものたち、幾百人か。一人行く前の人の後あとへ後へと繋つなぎあひ候が、繰出す如くずんずんと行き候。およそ半時間は連続いたし候ひしならむ、やがて最後の一人の、身から体だ黒く足赤きが眼前をよぎり候あと、またひらひらと群集左右より寄せ合うて、両側に別れたる路を塞ふさぎ候時、その過すぎ行ゆきし方かたを打うち眺ながめ候へば、彼かの怪物の全体は、遥はるかなる向の坂をいま蜿うねり蜿りのぼり候首しゅ尾びの全まったきを、いかにも蜈むか蚣でと見受候。あれはと見る間に百ひゃ尺くせき波状の黒こく線せんの左右より、二条の砂さえ煙ん真まし白ろにぱツと立つたれば、その尾のあたりは埃ほこりにかくれて、躍やく然ぜんとして擡もたげたるその臼うすの如き頭こうべのみ坂の上り尽くる処雲の如き大おお銀いち杏ょうの梢こずえとならびて、見るがうちに、またただ七色の道路のみ、獅子の背のみ眺ながめられて、蜈むか蚣では眼界を去り候。疾とく既に式場に着し候ひけむ、風うわ聞さによれば、市内各処における労働者、たとへばぼてふり、車夫、日ひよ傭うと取りなどいふものの総人数をあげたる、意匠の俄パフナリーに候とよ。
彼かの巨象と、幾頭の獅子と、この蜈蚣と、この群集とが遂ついに皆式場に会したることをおん含ふくみの上、静にお考へあひなり候はば、いかなる御おん感かんじか御おん胸むねに浮び候や。
五
別に凱がい旋せん門もんと、生なま首くび提じょ灯うちんと小生は申し候。人の目鼻書きて、青く塗りて、血の色染めて、黒き蕨わら縄びなわ着けたる提灯と、竜の口なる五条の噴水と、銅像と、この他に今も眼に染しみ、脳に印して覚え候は、式場なる公園の片隅に、人を避けて悄しょ然うぜんと立ちて、淋さびしげにあたりを見まはしをられ候、一ひと個り年若き佳人にござ候。何といふいはれもあらで、薄紫のかはりたる、藤色の衣きぬ着けられ候ひき。
このたび戦死したる少尉Ｂ氏の令れい閨けいに候。また小生知人にござ候。
あらゆる人の嬉しげに、楽しげに、をかしげに顔色の見え候に、小生はさて置きて夫人のみあはれに悄しおれて見え候は、人いきりにやのぼせたまひしと案じられ、近う寄り声をかけて、もの問はむと存じ候折から、おツといふ声、人なだれを打つて立騒ぎ、悲鳴をあげて逃げ惑ふ女たちは、水車の歯にかかりて撥はね飛ばされ候やう、倒れては遁にげ、転びては遁げ、うづまいて来る大蜈むか蚣でのぐるぐると巻き込むる環のなかをこぼれ出で候が、令れい閨けいとおよび五三人はその中心になりて、十と重え二は十た重えに巻きこまれ、遁のがるる隙ひまなく伏ふしまろび候ひし。警官駈かけつけて後のち、他は皆無事に起上り候に、うつくしき人のみは、そのまま裳もすそをまげて、起たず横はり候。塵ちり埃ほこりのそのつややかなる黒髪を汚けがす間もなく、衣えも紋んの乱るるまもなくて、かうはなりはてられ候ひき。
むかでは、これがために寸断され、此こ処こに六尺、彼かし処こに二尺、三尺、五尺、七尺、一尺、五寸になり、一分になり、寸ずた々ずたに切り刻まれ候が、身から体だの黒き、足の赤き、切れめ切れめに酒気を帯びて、一つづつうごめくを見申し候。
日暮れて式場なるは申すまでもなく、十万の家軒ごとに、おなじ生首提灯の、しかも丈たけ三尺ばかりなるを揃うて一いっ斉せいに灯ひともし候へば、市内の隈くま々ぐま塵ちり塚づかの片隅までも、真まっ蒼さおき昼とあひなり候。白く染め抜いたる、目、口、鼻など、大路小路の地つちの上に影を宿して、青き灯ひのなかにたとへば蝶の舞ふ如く蝋ろう燭そくのまたたくにつれて、ふはふはとその幻まぼろしの浮いてあるき候ひし。ひとり、唯、単に、一いち宇うの門のみ、生首に灯ひともさで、淋さびしく暗かりしを、怪しといふ者候ひしが、さる人は皆人の心も、ことのやうをも知らざるにて候。その夜更ふけて後、俄がぜ然んとして暴風起り、須しゅ臾ゆのまに大方の提灯を吹き飛ばし、残らず灯ひきえて真まっ闇くらになり申し候。闇やみ夜よのなかに、唯一ツ凄すさまじき音聞え候は、大木の吹折られたるに候よし。さることのくはしくは申上げず候。唯今風の音聞え候。何につけてもおなつかしく候。
月 日
ぢい様