化銀杏
泉鏡花
貸したる二階は二間にして六畳と四畳半、別に五畳余りの物置ありて、月一円の極(きわめ)なり。家(やぬ)主(し)は下の中の間の六畳と、奥の五畳との二間に住(す)居(ま)いて、店は八畳ばかり板の間になりおれども、商(あき)売(ない)家(や)にあらざれば、昼も一枚蔀(しとみ)をおろして、ここは使わずに打捨てあり。
往来より突抜けて物置の後(うしろ)の園(その)生(う)まで、土間の通(とお)庭(りにわ)になりおりて、その半ばに飲井戸あり。井戸に推(おし)並(なら)びて勝手あり、横に二(ふた)個(つ)の竈(かまど)を並べつ。背(うし)後(ろ)に三段ばかり棚を釣りて、ここに鍋(なべ)、釜(かま)、擂(すり)鉢(ばち)など、勝手道具を載(の)せ置けり。廁(かわや)は井戸に列してそのあわい遠からず、しかも太(いた)く濁りたれば、漉(こ)して飲用に供しおれり。建てて数十年を経たる古家なれば、掃除は手(てぎ)綺(れ)麗(い)に行届きおれども、そこら煤(すす)ぼりて余りあかるからず、すべて少しく陰気にして、加賀金沢の市中にてもこのわたりは浅野川の河畔一帯の湿(しけ)地(ち)なり。
園生は、一重の垣を隔てて、畑造りたる裏町の明(あき)地(ち)に接し、李(すもも)の木、ぐみの木、柿の木など、五六本の樹(こだ)立(ち)あり。沓(くつ)脱(ぬぎ)は大戸を明けて、直ぐその通庭なる土間の一端にありて、上り口は拭(ふ)き込みたる板敷なり。これに続ける六畳は、店と奥との中の間にて、土地の方言茶の室(ま)と呼べり。その茶の間の一方に長火鉢を据えて、背(うしろ)に竹細工の茶棚を控え、九谷焼、赤絵の茶碗、吸(きゅ)子(うす)など、体裁よく置きならべつ。うつむけにしたる二(ふた)個(つ)の湯(ゆの)呑(み)は、夫(めお)婦(と)別々の好みにて、対にあらず。
細君は名をお貞(てい)と謂(い)う、年(と)紀(し)は二十一なれど、二つばかり若やぎたるが、この長火鉢のむこうに坐(すわ)れり。細面にして鼻筋通り、遠山の眉余り濃からず。生(はえ)際(ぎわ)少しあがりて、髪はやや薄(うす)けれども、色白くして口(くち)許(もと)緊(しま)り、上(のぼ)気(せし)性(ょう)と見えて唇あれたり。ほの赤き瞼(まぶた)の重げに見ゆるが、泣(なき)はらしたるとは風情異り、たとえば炬(こた)燵(つ)に居眠りたるが、うっとりと覚めしもののごとく涼しき眼の中(うち)曇を帯びて、見るに俤(おもかげ)晴やかならず、暗雲一帯眉(び)宇(う)をかすめて、渠(かれ)は何をか物思える。
根上りに結いたる円(まる)髷(まげ)の鬢(びん)頬に乱れて、下(した)〆(じめ)ばかり帯も〆めず、田舎の夏の風俗とて、素肌に紺(こん)縮(ちぢみ)の浴衣を纏(まと)いつ。あながち身だしなみの悪きにあらず。
教育のある婦(おん)人(な)にあらねど、ものの本など好みて読めば、文(ふみ)書く術(すべ)も拙(つたな)からで、はた裁縫の業(わざ)に長(た)けたり。
他の遊芸は知らずと謂う、三(さみ)味(せ)線(ん)はその好きの道にて、時ありては爪(つめ)弾(びき)の、忍ぶ恋路の音(ね)を立つれど、夫は学校の教授たる、職務上の遠慮ありとて、公に弾(ひ)くことを禁じたれば、留守の間を見計らい、細(ほそ)棹(ざお)の塵(ちり)を払いて、慎ましげに音(ねじ)〆(め)をなすのみ。
お貞は今思出したらむがごとく煙(きせ)管(る)を取りて、覚(おぼ)束(つか)無(な)げに一服吸いつ。
渠(かれ)は煙(たば)草(こ)を嗜(たしな)むにあらねど、憂(うき)を忘れ草というに頼りて、飲習わんとぞ務むるなる、深く吸いたれば思わず咽(む)せて、落すがごとく煙管を棄(す)て、湯呑に煎茶をうつしけるが、余り沸(たぎ)れるままその冷(さ)むるを待てり。
時に履物の音高く家(うち)に入(いり)来(く)るものあるにぞ、お貞は少し慌(あわた)だしく、急に其(そな)方(た)を見向ける時、表の戸をがたりとあけて、濡(ぬれ)手(てぬ)拭(ぐい)をぶら提げつつ、衝(つ)と入りたる少年あり。
お貞は見るより、
﹁芳さんかえ。﹂
﹁奥(おく)様(さん)、ただいま。﹂
と下駄を脱ぐ。
﹁大層、おめかしだね。﹂
﹁ふむ。﹂
と笑い捨てて少年は乱暴に二階に上るを、お貞は秋(なが)波(しめ)もて追懸けつつ、
﹁芳ちゃん!﹂
﹁何?﹂
と顧みたり。
﹁まあ、ここへ来て、ちっとお話しなね。お祖(ばあ)母(さ)様(ん)はいま昼寝をしていらっしゃるよ。騒々しいねえ。﹂
﹁そうかい。﹂
と下りて来て、長火鉢の前に突(つっ)立(た)ち、
﹁ああ、喉(のど)が渇く。﹂
と呟(つぶや)きながら、湯呑に冷(さま)したりし茶を見るより、無遠慮に手に取りて、
﹁頂戴。﹂
とばかりぐっと飲みぬ。
﹁あら! 酷(ひど)いのね、この人は。折角冷しておいたものを。﹂
わざと怨(えん)ずれば少年は微(ほほ)笑(え)みて、
﹁余ってるよ、奥様はけちだねえ。﹂
と湯呑を返せり。お貞は手に取りて中を覗(のぞ)き、
﹁何だ、けも残しゃアしない。﹂
と底の方に残りたるを、薬のように仰ぎ飲みつ。
﹁まあ、芳(よッ)さんお坐ンな、そうしてなぜ人を、奥様々々ッて呼ぶの、嫌なこッた。﹂
﹁だって、円髷に結ってるもの、銀(いち)杏(ょう)返(がえし)の時は姉(ねえ)様(さん)だけれど、円髷の時ゃ奥様だ。﹂
お貞はハッとせし風情にて、少年の顔を瞻(みまも)りしが、腫(はれ)ぼったき眼に思いを籠(こ)め、
﹁堪忍おしよ、それはもう芳さんが言わないでも、私はこの通り髪も濃くないもんだから、自分でも束ねていたいと思うがね、旦那が不(いけ)可(ない)ッて言うから仕様がないのよ。﹂
﹁だからやっぱり奥(おく)様(さん)じゃあないか。﹂
と少年は平気なり。お貞はしおれて怨(うら)めしげに、
﹁だって、他(ほか)の者(もん)なら可(い)いけれど、芳さんにばかりは奥様ッて謂われると、何だか他人がましいので、頼(たの)母(も)しくなくなるわ。せめて﹁お貞さん﹂とでも謂っておくれだと嬉しいけれど。﹂
とためいきして、力なげなるものいいなり。少年は無雑作に、
﹁じゃあ、お貞さんか。﹂
と言懸けて、
﹁何だか友達のように聞えるねえ。﹂
﹁だからやっぱり、姉(ねえ)さんが可いじゃあないかえ。﹂
﹁でも円髷に結ってるもの、銀杏返だと亡(なく)なった姉(ねえ)様(さん)にそっくりだから、姉様だと思うけれど、円髷じゃあ僕は嫌だ。﹂
と少年は素(そっ)気(け)なし。
﹁じゃあまるであかの他人なの?﹂
﹁なにそうでもないけれど。……﹂
少年は言(いい)淀(よど)みぬ。お貞は襟を掻(かき)合(あわ)せ、浴衣の上前を引(ひっ)張(ぱ)りながら、
﹁それだから昨(きの)日(う)も髪を結わない前に、あんなに芳さんにあやまったものを。邪(じゃ)慳(けん)じゃあないかね。可(いい)よ、旦那が何といっても、叱られても大事ないよ。私ゃすぐ引(ひっ)毀(こわ)して、結直して見せようわね。﹂
お貞は顔の色尋(た)常(だ)ならざりき。少年は少し弱りて、
﹁それでなくッてさえ、先(こな)達(いだ)のような騒(さわぎ)がはじまるものを、そんなことをしようもんなら、それこそだ。僕アまた駈(かけ)出(だ)して行(ゆ)かにゃあならない。﹂
﹁ほんとうに、あの時は。ま、どうしようと思ったわ。
芳さんは駈出してしまって二晩もお帰りでないし、おばあさんはまた大変に御心配遊ばしてどうしたら可(よ)かろうとおっしゃるし、旦那は旦那でものも言わないで、黙って考え込んでばかりいるしね、私はもう、面目ないやら、恥かしいやら、申訳がないやらで、ぼうッとしてしまったよ。後で聞くと何だっさ、真(まっ)蒼(さお)になって寝ていたとさ。
芳様(さん)の跫(あし)音(おと)が聞えたので、はッと気が着いて駈出したが、それまでどうしていたんだか、まるで夢のようで﹇#﹁夢のようで﹂は底本では﹁夢のやうで﹂﹈、分らなかったよ。﹂
少年は頻(しき)りに頷(うなず)き、
﹁僕はまた髯(ひげ)がさ、︵水(みな)上(かみ)さん︶て呼ぶから、何だと思って二階から覗(のぞ)くと、姉(ねえ)様(さん)は突(つっ)伏(ぷ)して泣いてるし、髯は壇(だん)階(ばし)子(ご)の下(おり)口(ぐち)に突(つっ)立(た)ってて、憤(む)然(っ)とした顔(かお)色(つき)で、︵直ぐと明けてもらいたい。︶と失敬ことを謂うじゃあないか。だから僕は不愉快で堪(たま)らないから、それからそのまんまで、家(うち)を出て、どこか可い家があったらと思ったけれど、探す時は無いもんだ。それから友達の処(ところ)へ泊って、牛(ぎゅう)を奢(おご)ってね、トランプをして遊んでいたんだ。僕あ一番強いんだぜ。滅茶々々に負かして悪体を吐(つ)いてやると、大変に怒ってね、とうとう喧(けん)嘩(か)をしちまったもんだから、翌(あく)晩(るばん)はそこに泊ることも出来ないので、仕方が無いから帰って来たんだ。﹂
お貞は聞きつつ睨(にら)む真似して、
﹁憎らしいねえ。人の気も知らないで、お友達とトランプも無いもんだね。気が違やあしないかと、私ゃ自分でそう思った位だのにさ。﹂
﹁でも僕あ帰った時、︵芳さん!︶てって奥から出て来た、あの時の顔にゃ吃(びっ)驚(くり)したよ。暮(くれ)合(あい)ではあるし、亡(なく)なった姉さんの幽霊かと思った。﹂
﹁いやな! 芳さんだ。恐いことね。﹂
お貞は身震いして横を向きぬ。少年は微(ほほ)笑(え)みたり。
﹁何だ、臆(おく)病(びょう)な。昼じゃあないか。﹂
﹁でもそんなことをお言いだと、晩に手(ちょ)水(うず)に行(ゆ)かれやしないや。﹂
﹁そんなに臆病な癖にして、昨(ゆう)夜(べ)も髯と二人連(づれ)で、怪談を聞きに行ったじゃあないか。﹂
お貞はまじめに弁(いい)解(わけ)して、
﹁はい、ですから切(きり)前(まえ)に帰りました。切前は茶番だの、落語だの、そりゃどんなにかおもしろいよ。﹂
﹁それじゃもう髯の御機嫌は直ったんだね。﹂
﹁別に直ったというでもないけれど、まああんなものさ。あれでもね、おばあさんには大変気の毒がってね、︵お年寄がようよう落(おち)着(つき)なされたものを、またお転(ひっ)宅(こし)は大抵じゃアあるまいから、その内可い処があったら、御都合次第お引越しなさるが可し、また一月でも、二月でも、家(うち)においでになっても差支えはございませんから︶ッて、それッきりになってるのよ。そのかわりね、私にゃ、︵芳さんと談(はな)話(し)をすることは決してならない︶ッて、固くいいつけたわ。やっぱり疑ぐっているらしいよ。﹂
少年は火(ひば)箸(し)を手にして、ぐいぐい灰に突立てながら、不平なる顔(かお)色(つき)にて、
﹁一体疑ぐるッて何だろう。僕のおばあさんにもね、姉(ねえ)様(さん)、髯(ひげ)が、︵お孫さんも出世前の身(から)体(だ)だから、云(うん)々(ぬん)が着いてはなりますまい。私は、私で、内の貞に気を着けますから、あなたもそこの処おぬかりなく。︶ッさ。内証で言ったそうだ。変じゃないか、え、姉様、何を疑ぐッているんだろう。何か僕と、姉様と、不道徳な関係があるとでもいうことなんかね、それだと失敬極まるじゃあないか、え、姉様。﹂
と詰(なじ)り問うに、お貞は、
﹁ああ。﹂
と生返事、胸に手を置き、差(さし)俯(うつ)向(む)く。
少年は安からぬ思いやしけむ。
﹁じゃあ何だね、こないだあの騒ぎのあった前に、二人で奥に談(はな)話(し)をしていた時、髯が戸(おも)外(て)から帰って来たので、姉様は、あわアくって駈(かけ)出(だ)したが、そのせいなの? 一体気が小さいから不(いけ)可(な)いよ。いつに限らずだ。人が、がらりと戸を開けると、何だか大変なことでも見付かったように、どぎまぎして、ものをいうにも呼(い)吸(き)をはずまして、可(おか)訝(し)いだろうじゃないか。先(さっ)刻(き)僕の帰った時も、戸をあけると、吃(びっ)驚(くり)して、何だかおどおどしておいでだったぜ。こないだの時だってもそうだ。髯に向って、︵いらっしゃいまし︶自分の亭主を迎えるとって、︵いらっしゃいまし︶なんて、言う奴があるものか。何だってそう気が小さくッて、物驚きをするんだなあ。それだから疑ぐられるんだ。不(いけ)可(ない)ねえ。﹂
お貞は淋しげなる微(え)笑(み)を含み、
﹁そういってながら芳さんもあの時はやっぱりそそッかしく、二階へ駈(か)け上ったじゃあないかね。﹂
少年は別に考うる体(てい)もなく、
﹁そりゃ何だ、僕は何も恐(こわ)いことはないけれど、あの髯が嫌だからだ。何だか虫が好かなくッて、見ると癪(しゃく)に障るっちゃあない、僕あもう大(だい)嫌(きらい)だ。﹂
と臆(おく)面(めん)もなく言うて退(の)けつ。渠(かれ)は少年の血気にまかせて、後(あと)前(さき)見ずにいいたるが、さすがにその妻の前なるに心着きけむ、お貞の色をうかがいたり。
お貞は気に懸けたる状(さま)もなく、かえって同意を表するごとく、勢(いきおい)なげに歎息して、
﹁誰が見てもちがいはないねえ。私だってやっぱり嫌だわ。だがね、芳ちゃんは、なぜ好かないの。﹂
少年はお貞の言(ことば)の吾が意を得たるに元気づきて、声の調子を高めたり。
﹁他(ほか)にね、こうといって、まだ此(こ)家(こ)へ来て、そんなに間もないこったから、どこにどうという取留めたこともないけれど、ただね、髯の様子がね、亡なった姉様の亭主に肖(に)ているからね、そのせいだろうと思うんだ。﹂
﹁そうして、不(いけ)可(な)いお方だったの。﹂
少年はそぞろに往時を追懐すらむ、慨(がい)然(ぜん)としたりけるが、
﹁不可いどころの騒(さわぎ)じゃない、姉様を殺した奴だもの。﹂
お貞は太(いた)く感ぜし状(さま)にて、
﹁まあ。﹂
とそのうるみたる眼をりぬ。
﹁酷(ひど)い人ね、何だッてまた姉様を殺したんだろうね。芳さんのお姉(あね)様(えさん)なら、どんなにか優しい、佳(い)い人だったろうにさ。﹂
﹁そりゃ、真(ほん)実(とう)に僕を可愛がってくれたッちゃあないよ。今着ている衣(きも)服(の)なんか、台なしになってるけれど、姉様がわざと縫って寄(よ)来(こ)したもんだから、大事にして着ているんだ。﹂
﹁そのせいで似合うのかねえ。﹂
とお貞は今更のごとく少年の可憐なる状(さま)ぞ瞻(みまも)られける。水上芳之助は年(と)紀(し)十六、そのいう処、行う処、無邪気なれどもあどけなからず。辛苦のうちに生(おい)たちて浮世を知れる状見えつ。もののいいぶりはきはきして、齢(よわい)のわりには大人びたり。
要なければここには省く。少年はお蓮(れん)といえりし渠(かれ)の姉が、少(わか)き時配偶を誤りたるため、放(ほう)蕩(とう)にして軽薄なる、その夫判事なにがしのために虐遇され、精神的に殺されて入水して果てたりし、一条の惨話を物語りつ。語(ことば)は簡に、意は深く、最もものに同情を表して、動かされ易きお貞をして、悲痛の涙に咽(むせ)ばしめたり。
語を継ぎて少年言う。
﹁姉(ねえ)様(さん)もやっぱり酷(ひど)いめにあわされるから、それで髯(ひげ)が嫌なんだろう。﹂
折からぶつぶつと湯の沸(にえ)返(かえ)りて、ぱっと立ちたる湯気に驚き、少年は慌(あわただ)しく鉄瓶の蓋(ふた)を外し、お貞は身を斜(ななめ)になりて、茶棚より銅(あかがね)の水差を取下して急がわしく水を注(さ)しつ。
﹁いいえ、違うよ。私のはまた全く芳さんの姉さんとは反(あち)対(こち)で、あんまり深切にされるから、もう嫌で、嫌で、ならないんだわ。﹂
少年は太(いた)く怪(あやし)み、
﹁そんな事っちゃアあるもんでない。何だって優しくされて、それで嫌だというがあるものか。﹂
﹁まあさ、お聞きなね。深切だといえば深切だが、どちらかといえば執(しつ)着(こ)いのだわ。かいつまんで話すがね、ちょいと聞賃をあげるから。﹂
と菓子皿を取(とり)出(いだ)して、盛りたる羊(よう)羹(かん)に楊(よう)枝(じ)を添え、
﹁一ツおあがり、いまお茶を入替えよう。﹂
と吸子の茶殻を、こぼしにあけ、
﹁芳ちゃんだから話すんだよ。誰にも言っちゃ不(いけ)可(な)いよ。実は私の父(おと)親(っさん)は、中年から少し気が違ったようになって、とうとうそれでおなくなりなすったがね、親のことをいうようだけれど、母(おっ)様(かさん)は少し了(りょ)簡(うけ)違(んちが)いをして、父(おと)親(っさん)が病気のあいだに、私には叔父さんだ、弟ごと関(くッ)着(つ)いたの。
するとお祖(じ)父(い)さんのお計らいで、私が乳(ち)放れをするとすぐに二人とも追出して、御自分で私を育てて、十三の時までお達者だったが、ああ、十四の春だった。中(ちゅ)風(うぶ)でお悩みなすってから、動くことも出来なくおなりで、家(うち)は広し、四方は明(あき)地(ち)で、穴のような処に住んでたもんだから、火事なんぞの心配はないのだけれど、盗(どろ)賊(ぼう)にでも入られたら、それこそどうすることもならないのよ。お金(か)子(ね)も少々あったそうだし。
雇いの婆さんは居たけれど、耳は遠いし、そんなことの助けにゃならず、祖(おじ)父(い)さんの看病も私一人では覚(おぼ)束(つか)なし、確(たしか)な後見をといった処で、また後見なんていうものは、あとでよく間違が出来るものだから、それよりか、いっそ私に……というので、親類中で相談を極(き)めて、とうとうあてがったのが今の旦那なの。
その頃ちょうど高等中学校を卒業したので、ま、宅(うち)へ来てから、東京へ出て、大学へ入ろうという相談でね、もともと内の緊(しま)りにもなってもらわなきゃあならないというんでさ、わざッと年の違ったのを貰ったもんだから、旦那は二十九で、私は十四。﹂
お貞は今吸子に湯をばささんとして、鉄瓶に手を懸けたる、片手を指折りて数えみつ。
﹁十五の違(ちがい)だね。もっとも晩学だとかいうので、大抵なら二十五六で、学士になるのが多いってね。﹂
﹁無論さ。﹂
と少年は傾聴しながら喙(くち)を容(い)れたり。
お貞は煎茶を汲(くみ)出(い)だして、まず少年に与えつつ、
﹁何だか知らないけれど、御婚礼をした時分は、嬉しくもなく、恐(こわ)くもなく、まるで夢中で、何とも思やしなかったが、実はおじいさんと二人ばかりで、他(よ)所(そ)の人の居ない方が、御(ごぜ)膳(ん)を頂く時やなんか、私ゃ気が置けなくて可(よ)かったわ。
変に気が詰まって、他(ひ)人(と)の内へ泊(とまり)にでも行ったようで、窮屈で、つまらなくッて、思ってみればその時分から旦那が嫌いだったかも知れないよ。でも大方甘やかされた癖で、我(わが)儘(まま)の方が勝ってたのであろうと思う。
そのうちお祖父さんも安心をなすったせいか、大層気分も好(よ)くなるし、いよいよ旦那が東京へたつというので、祝ってたたしたお酒の座で、ちっと飲(のみ)ようが多かったのがもとになってね、旦那が出発をしたそのおひるすぎに、お祖父様(さん)は果(は)敢(か)なくおなりなすったのよ。私ゃもうその時は……﹂
とお貞は声をうるましたり。
﹁それからというものは﹇#﹁いうものは﹂は底本では﹁いふものは﹂﹈、私はまるで気ぬけがしたようで、内の中でも一番薄暗い、三畳の室(ま)へ入っちゃあ、どういうものだかね、隅の方へちゃんと坐って、壁の方を向いて、しくしく泣くのが癖になってね、長い間治らなかったの。そうこうするうち児(こ)が出来たわ。
可(おか)笑(し)いじゃないかねえ。﹂
お貞は苦々しげに打笑みたり。
﹁妙なものがころがり出してしまってさ、翌(あく)年(るとし)の十月のことなのよ。﹂
と言懸けてお貞はもの案じ顔に見えたりしが、
﹁そうそう、芳ちゃん、まだその前(さき)にね、旦那がさ、東京へ行って三月めから、毎月々々一枚ずつ、月の朔(つい)日(たち)にはきっと写真を写してね、欠かさず私に送って寄(よ)来(こ)すんだよ。まあ、御深切様じゃないかね。そのたんびに手紙がついてて、︵いや今月は少し痩(や)せた︶の、︵今度は少し眼が悪い︶の、︵どうだ先月と合わしてみい、ちっとあ肥(ふと)って見えよう︶なんて、言(こと)書(ばがき)が着いてたわ。
私ゃお祖父さんのことばかり考えて、別に何にも良(さ)人(き)の事は思わないもんだから、ちょいと見たばかりで、ずんずん葛(つづ)籠(ら)の裡(なか)へしまいこんで打(うっ)棄(ちゃ)っといたわ。すると、いつのことだッけか、何かの拍子、お友達にめっかってね、
︵まあ! お貞さん、旦那様は飛んだ御深切なお方だねえ。︶サ酷(ひど)く擽(くすぐ)ったもんだろうじゃあないかえ。
それもそのはずだね。写真の裏に一(ひと)葉(つ)々々、お墨附があってよ。年、月、日、西岡時彦写(これ)之(をうつす)、お貞殿へさ。
私もつい口(くや)惜(し)紛れに、︵写真の儀はお見合せ下されたく、あまりあまり人につけても︶ッさ。何があまりあまりだろう、可(おか)笑(し)いね。そういってやると、それッきりおやめになったが、十四五枚もあった写真を、また見られちゃあ困ると思ったがね、人にも遣(や)られず、焼くことも出来ずさ、仕方がないから、一纏(まと)めにして、お持仏様の奥ン処へ容(い)れておいてよ。毎日拝んだから可いではないかね。﹂
先(さ)刻(き)に干したる湯呑の中へ、吸子の茶の濃くなれるを、細く長くうつしこみて、ぐっと一口飲みたるが、あまり苦かりしにや湯をさしたり。
少年はただ黙して聞きぬ。
お貞は口をうるおして、
﹁児(こ)が出来る、もうそのしくしく泣いてばかりいる癖はなくなッて、小(こど)児(も)にばかり気を取られて、他(ほか)に何にも考えることも、思うこともなくッて、ま、五(いつ)歳(つ)六(むッ)歳(つ)の時は知らず、そのしばらくの間ほど、苦労のなかった時はないよ。
すると、その夏の初(はじめ)の頃、戸(おも)外(て)にがらがらと腕(くる)車(ま)が留(とま)って、入って来た男があったの。沓(くつ)脱(ぬぎ)に突(つっ)立(た)ってて、案内もしないから、寝かし着けていた坊やを置いて、私が上り口に出て行って、
︵誰(どな)方(た)、︶といって、ふいと見ると驚いたが、よくよく見ると旦那なのよ。旦那は旦那だが、見違えるほど瘠(や)せていて、ま、それも可いが妙な恰(かっ)好(こう)さ。
大きな眼鏡のね、黒(くろ)磨(ずり)でもって、眉毛から眼へかけて、頬ッペたが半分隠れようという黒眼鏡を懸けて、希代さね、何のためだろう。それにあのそれ呼吸器とかいうものを口へ押(おッ)着(つ)けてさ、おまけに鬚(ひげ)を生やしてるじゃあないか。それで高(たか)帽(じゃ)子(っぽ)で、羽織がというと、縞(しま)の透(すき)綾(や)を黒に染返したのに、五三の何か縫(ぬい)着(つけ)紋(もん)で、少し丈(たけ)不(たら)足(ず)というのを着て、お召が、阿(あわ)波(ちぢ)縮(み)で、浅(あさ)葱(ぎ)の唐(とう)縮(ちり)緬(めん)の兵(へこ)児(お)帯(び)を〆(し)めてたわ。
どうだい、芳さん、私も思わず知らず莞(にっ)爾(こり)したよ、これは帰って﹇#﹁帰って﹂は底本では﹁帰つて﹂﹈来たのが嬉しいのより、いっそその恰好が可(おか)笑(し)かったせいなのよ。
病気で帰ったというこッたから、私も心配をして、看病をしたがね、胃病だというので、ちょいとは快(よ)くならない。一月も二月も、そうさ﹇#﹁そうさ﹂は底本では﹁さうさ﹂﹈、かれこれ三月ばかりもぶらぶらして、段々瘠せるもんだから、坊やは居るし、私もつい心細くなッて、そっと夜出掛けちゃあお百度を踏んだのよ。するとね、その事が分ったかして、
︵お貞、そんなに吾(おれ)を治したいか︶ッて、私の顔を瞻(みつ)めるからね。何の気なしで、︵はい、あなたがよくなって下さいませねば、どうしましょう、私どもは路頭に立たなければなりません。︶と真(ほん)実(とう)の処をいったのよ。
さあ怒ったの、怒らないのじゃあない。︵それでは手前、活(くら)計(し)のために夫婦になったか。そんな水臭い奴とは知らなんだ。︶と顔の色まで変えるから、私は弱ったの、何のじゃない、どうしようかと思ったわ。﹂
﹁︵なぜ一所に死ぬとは言ってくれない。愛情というものは、そんな淡(あわ)々(あわ)しいものではない。︶ッていうのさ。向うからそう出られちゃあ、こっちで何とも言いようが無いわ。
女郎や芸(げい)妓(しゃ)じゃあるまいしさ、そんな殺文句が謂(い)われるものかね。でも、旦那の怒りようがひどいので、まあ、さんざあやまってさ。坊やがかすがいで、まずそれッきりで治まったがね、私ゃその時、ああ、執念深い人だと思って、ぞッとして、それからというものは、何だか重荷を背(し)負(ょ)ったようで、今でも肩身が狭いようなの。
あとでね、あのそら先(さっ)刻(き)いった黒眼鏡ね、︵烏(から)蜻(すと)蛉(んぼ)見たように、おかしいじゃアありませんか。︶と、病気が治ってから聞いたことがあったよ。そうするとね、東京はからッ風で塵(ほこ)埃(り)が酷(ひど)いから、眼を悪くせまいための砂(すな)除(よけ)だっていうの、勉強盛(ざかり)なら洋(ラン)燈(プ)をカッカと、ともして寝ない人さえあるんだのに、そう身(から)体(だ)ばかり庇(かば)ってちゃあ、何にも出来やしないと思ったけれど、まさかそんなことをいえたものでもなし、呼吸器も肺病の薬というので懸けるんだッて。それからね、その髯(ひげ)がまた妙なのさ。﹂
とお貞は少年の面(かお)を見て、
﹁衛生髯だとさ、おほほ。分るかえ? 芳さん。﹂
﹁何のこッた、衛生髯ッたって分らないよ。﹂
﹁それはね。﹂
となお微(ほほ)笑(え)みながら、
﹁こうなのよ。何でも人間の身(から)体(だ)に附属したものは、爪(つめ)であろうが、垢(あか)であろうが、要らないものは一つもないとね、その中でも往来の塵(ほこ)埃(り)なんぞに、肺病の虫がまざって、鼻ンなかへ飛込むのを、髯がね、つまり玄関番見たようなもので、喰留めて入れないンだッさ。見得でも何でもないけれど、身(から)体(だ)のために生(はや)したと、そういったよ。だから衛生髯だわね。おほほほほ。﹂
お貞は片手を口にあてつ。少年も噴(ふき)出(い)だしぬ。
﹁いくら衛生のためだって、あの髯だけは廃(よ)止(せ)ば可いなあ。まるで︵ちょいとこさ︶に肖(に)てるものを、髯があるからなおそっくりだ。﹂
お貞は眉を打(うち)顰(ひそ)めて、
﹁嫌だよ、芳さんは。︵ちょいとこさ︶はあんまりだわ。でも︵ちょいとこさ︶と言えばこないだ、小橋の上で、あの︵ちょいとこさ︶の飴(あめ)屋(や)に逢ったの。ちょうどその時だ。桜に中(ちゅう)の字の徽(きし)章(ょう)の着いた学校の生徒が三人連(づれ)で、向うから行(ゆ)き違って、一件を見ると声を揃えて、︵やあ、西岡先生。︶と大(おお)笑(わらい)をして行き過ぎたが、何のこった知らんと、当座は気が着かずに居たっけがね。何だとさ、学校じゃあ、皆(みんな)がもう良(うち)人(の)に、︵ちょいとこさ︶と謂う渾(あだ)名(な)を附けて、蔭じゃあ、そうとほか言わないそうだよ。﹂
少年は頭(こうべ)を掉(ふ)れり。
﹁何の、蔭でいうくらいなら優しいけれど、髯がね、あの学校の雇(やとい)になって、はじめて教場へ出た時に、誰だっけか、︵先生、先生の御姓名は?︶と聞いたんだって。するとね、ちょうど、後(おく)れて溜(たまり)から入って来た、遠藤ッて、そら知ってるだろう。僕の処(とこ)へもよく遊びに来る、肩のあがった、武者修行のような男。﹂
﹁ああ、ああ、鉄扇でものをいう人かえ。﹂
﹁うむ、彼(あい)奴(つ)さ、彼奴がさ。髯の傍(そば)へずいと出て、席から名を尋ねた学生に向って、︵おい、君、この先生か。この先生ならそうだ、名はチョイトコサだ。︶と謂ったので、組(クラス)一統がわッといって笑ッたって、里見がいつか話したっけ。﹂
お貞は溜(ため)いきをもらしたり。
﹁嫌になっちまう! じゃ、まるでのっけから安く踏まれて、馬鹿にされ切っていたんだね。﹂
﹁でもなかにゃああ見えても、なかなか学問が出来るんだって、そういってる者もあるんだ。何(なん)しろ、教場へ出て来ると、礼式もないで、突(いき)然(なり)、ボウルドに問題を書出して、
︵何番、これを。︶
といったきり椅子にかかッて、こう、少しうつむいて、肱(ひじ)をついて、黙っているッて。呼ばれた番号の奴は災難だ。大きに下(した)稽(げい)古(こ)なんかして行かなかろうものなら、面くらって、︵先生私には出来ません。︶といってみても返事をしない。そのままうっちゃっておくもんだから、しまいにゃあ泣声で、︵私には出来ません、先生々々。︶と呼ぶと、顔も動(うごか)さなけりゃ、見向きもしないで、︵遣ってみるです。︶というッきりで、取(とり)附(つく)島も何にもないと。それでも遣ってみても出来そうもない奴は、立ったり、居たり、ボウルドの前へ出ようとして中(ちゅ)戻(うもどり)をしたり、愚(ぐ)図(ず)々々迷(まご)ついてる間に、柝(たく)が鳴って、時間が済むと、先生はそのまんまでフイと行ってしまうんだッて。そんな時あ問題を一つ見たばかりで、一時間まる遊び。﹂
﹁だから、西岡は何でも一方に超然として、考えていることがあるんだろう。えらい! という者もあるよ。﹂
お貞は﹁何の。﹂という顔(かお)色(つき)。
﹁考えてるッて、大方内のことばかり考えてて、何をしても手が附かないでいるんだろう。聞いて御覧、芳さんが来てからは、また考えようがいっそきびしいに相(ちが)違(い)ないから。何だって、またあの位、嫉(しっ)妬(と)深い人もないもんだね。
前にも談(はな)した通り、旦那はね、病気で帰省をしてから、それなり大学へは行(ゆ)かないで、ただぶらぶらしていたもんだから、沢(たん)山(と)ないお金(か)子(ね)も坐(いぐ)食(い)の体(てい)でなくなるし、とうとう先(せん)に居た家(うち)を売って、去(おと)々(と)年(し)ここの家へ引越したの。
それでもまあ方々から口があって、みんな相当で、悪くもなくって、中でも新潟県だった、師範学校のね芳さん、校長にされたのよ。校長は可(い)いけれど、私は何だか一所に居るのが嫌だから、金沢に残ることにして、旦那ばかり、任(あっ)地(ち)へ行くようにという相談をしたが不(い)可(け)なくって、とうとう新潟くんだりまで、引(ひっ)張(ぱ)り出されたがね。どういうものか、嫌で、嫌で、片時も居たたまらなくッてよ。金沢へ帰りたい帰りたいで、例の持病で、気が滅(め)入(い)っちゃあ泣いてばかり。
旦那が学校から帰って来ても、出(でむ)迎(かえ)もせず俯(うつ)向(む)いちゃあ泣いてるもんだから、
︵ああ、またか。︶となさけなそうに言っちゃあ、しおれて書斎へ入って行ったの。別につらあてというンじゃあ決してなかったんだけれど、ほんとうに帰りたかったんだもの。
旦那もとうとう我(が)を折って︵それじゃあ帰るが可い、︶というお許しが出ると、直ぐに元気づいて、はきはきして、五日ばかり御膳も頂かれなかったものが、急に下(げじ)婢(ょ)を呼んで、︵直ぐ腕(くる)車(ま)夫(や)を見ておいで。︶さ、それが夜の十時すぎだから恐しいじゃあないかえ。何だか狂(きち)人(がい)じみてるねえ。
旦那を残し、坊やはその時分五(いつ)歳(つ)でね、それを連れて金(こっ)沢(ち)へ帰ると、さっぱりしてその居心の可(よ)かったっちゃあない。坊もまた大変に喜んだのさ。
それがというと、坊やも乳(ちの)児(み)の時から父(おと)親(っさん)にゃあちっとも馴(な)染(じ)まないで、少しものごころが着いて来ると、顔を見ちゃ泣出してね。草履を穿(は)いて、ちょこちょこ戸(おも)外(て)へ遊びに出るようになると、情(なさけ)ないじゃあないかえ。家(うち)へ入ろうとしちゃあ、いつでもさ。外(おも)戸(てど)の隙からそッと透(すき)見(み)をして、小さな口で、︵母(かあ)様(ちゃん)、父(おと)様(っちゃん)家に居るの?︶と聞くんだよ。
︵ああ。︶と返事をすると、そのまま家へ入らないで、ものの欲(ほし)くなった時分でも、また遊びに行ってしまって、父様居ない、というと、いそいそ入って来ちゃあ、私が針仕事をしている肩へつかまって。﹂
と声に力を籠(こ)めたりけるが、追愛の情の堪え難かりけむ、ぶるぶると身を震わし、見る見る面の色激して、突然長火鉢の上に蔽(おお)われかかり、真白き雪の腕(かいな)もて、少年の頸(うなじ)を掻(かい)抱(いだ)き、
﹁こんな風に。﹂
とものぐるわしく、真(ま)面(じ)目(め)になりたる少年を、惚(ほれ)々(ぼれ)と打(うち)まもり、
﹁私の顔を覗(のぞ)き込んじゃあ、︵母(おっ)様(かさん)︶ッて、︵母様︶ッて呼んでよ。﹂
お貞は太(いた)く激しおれり。
﹁そうしてね、︵父(おと)様(っちゃん)が居ないと可(い)いねえ。︶ッて、いつでも、そう言ったわ。﹂
言懸けてうつむく時、弛(ゆる)き前髪の垂れけるにぞ、うるさげに掻(かき)上(あ)ぐるとて、ようやく少年にからみたる、その腕(かいな)を解(ほど)きけるが、なお渠(かれ)が手を握りつつ、
﹁そんな時ばかりじゃあないの。私が何かくさくさすると、可哀相に児(こども)にあたって、叱(ひッ)咤(ちか)ッて、押入へ入れておく。あとで旦那が留守になると、自分でそッと押入から出て来てね、そッと抜足かなんかで、私のそばへ寄って来ちゃあ、肩越に顔を覗(のぞ)いて、︵母(おっ)様(かちゃん)、父様が居ないと可いねえ︶ッさ。五(いつ)歳(つ)や六(むッ)歳(つ)で死んで行く児(こ)は、ほんとうに賢いのね。女の児(こ)はまた格別情愛があるものだよ。だからもう世の中がつまらなくッて、つまらなくッて、仕様がなかったのを、児(こども)のせいで紛れていたがね、去年︵じふてりや︶で亡くなってからは、私ゃもう死んでしまいたくッて堪(たま)らなかったけれど、旦那が馬鹿におとなしくッて、かッと喧嘩することがないものだから、身投げに駈(かけ)出(だ)す機(おり)がなくッて、ついぐずぐずで活(い)きてたが、芳ちゃん、お前に逢ってから、私ゃ死にたくなくなったよ。﹂
と、じっとその手をしめたるトタンに靴音高く戸を開けたり。
お貞はいかに驚きしぞ、戸のあくともろともに器械のごとく刎(は)ね上りて、夢中に上り口に出(いで)迎(むか)えつ。蒼(あお)くなりて瞳を据えたる、沓(くつ)脱(ぬぎ)の処に立ちたるは、洋服扮(でた)装(ち)の紳士なり。頤(おとがい)細く、顔円(まろ)く、大きさ過ぎたる鼻の下に、賤(いや)しげなる八(はち)字(じひ)髭(げ)の上唇を蔽(おお)わんばかり、濃く茂れるを貯えたるが、面(かお)との配合を過(あやま)れり。眼(まなこ)はいと小さく、眦(まなじり)垂れて、あるかなきかを怪(あやし)むばかり、殊に眉毛の形乱れて、墨をなすりたるごとくなるに、額には幾条の深く刻める皺(しわ)あれば、実際よりは老けて見ゆべき、年(と)紀(し)は五十の前後ならむ、その顔に眼鏡を懸け、黒の高帽子を被(かぶ)りたるは、これぞ︵ちょいとこさ︶という動物にて、うわさせし人の影なりける。
良(おっ)夫(と)と誤り、良夫と見て、胸は早鐘を撞(つ)くごとき、お貞はその良人ならざるに腹立ちけむ、面(おもて)を赤め、瞳を据えて、屹(き)とその面を瞻(みまも)りたる、来客は帽を脱して、恭(うやうや)しく一礼し、左(ゆん)手(で)に提(ひさ)げたる革(かば)鞄(ん)の中(うち)より、小(ちいさ)き旗を取(とり)出(いだ)して、臆面もなくお貞の前に差出しつ。
﹁日本大勝利、万歳。﹂
と謂いたるのみ、顔の筋をも動かさで、︵ちょいとこさ︶は反(そり)身(み)になり、澄し返りて控えたり。
渠がかくのごとくなす時は、二厘三厘思い思いに、その掌(たなそこ)に投げ遣るべき金沢市中の通(とお)者(りもの)となりおれる僥(ぎょ)倖(うこう)なる漢(おのこ)なりき。
﹁ちょいとこ、ちょいとこ、ちょいとこさ。﹂
と渠は、もと異様なる節を附し両手を掉(ふ)りて躍りながら、数年来金沢市内三百余町に飴を売りつつ往来して、十万の人一般に、よくその面を認(みし)られたるが、征(せい)清(しん)のことありしより、渠は活(たつ)計(き)の趣向を変えつ。すなわち先のごとくにして軒ごとを見舞いあるき、怜(れい)悧(り)に米(べい)塩(えん)の料を稼ぐなりけり。
渠は常にものいわず、極めて生(き)真(ま)面(じ)目(め)にして、人のその笑えるをだに見しものもあらざれども、式(かた)のごとき白痴者なれば、侮(ぶま)慢(ん)は常に嘲(ちょ)笑(うしょう)となる、世に最も賤(いやし)まるる者は時としては滑(こっ)稽(けい)の材となりて、金沢の人(ひ)士(と)は一分時の笑(わらい)の代(しろ)にとて、渠に二三厘を払うなり。
お貞はようやく胸を撫(な)でて、冷(ひやや)かに旧(もと)の座に直りつ。代価は見てのお戻りなる、この滑稽劇を見物しながら、いまだ木戸銭を払わざるにぞ、︵ちょいとこさ︶は身動きだもせで、そのままそこに突(つっ)立(た)ちおれり。
ややありてお貞は心着きけむ、長火鉢の引(ひき)出(だし)を明けて、渠に与うべき小銭を探すに、少年は傍(かたわら)より、
﹁姉さん、湯銭のつりがあるよ、おい。﹂
と板敷に投出せば、︵ちょいとこさ︶は手に取りて、高帽子を冠(かぶ)ると斉(ひと)しく、威儀を正して出(いで)行(ゆ)きたり。
出行く︵ちょいとこさ︶を見送りて、二人は思わず眼を合しつ。
﹁なるほど肖(に)ているねえ。﹂
とお貞は推(おし)出(だ)すがごとくに言う。少年はそれには関せず。
﹁まあ、それからどうしたの?﹂
渠は聞くことに実の入(い)りけむ、語る人を促(うなが)せり。
﹁さあその新潟から帰った当座は、坊やも――名は環(たまき)といったよ――環も元気づいて、いそいそして、嬉しそうだし、私も日(にっ)本(ぽん)晴(ばれ)がしたような心持で、病気も何にもあったもんじゃあないわ。野へ行(ゆ)く、山へ行くで、方々外(そと)出(で)をしてね、大層気が浮いて可い心持。
出来るもんならいつまでも旦那が居ないで、環と二人ッきり暮したかったわ。
だがねえ、芳さん、浮世はままにならないものとは詮じ詰めたことを言ったんだね。二三度旦那から手紙を寄(よ)越(こ)して、︵奉公人ばかりじゃ、緊(しまり)が出来ない、病気が快(よ)くなったら直ぐ来てくれ。︶と頼むようにいって来ても、何(なん)の、彼(か)のッて、行かないもんだから、お聞きよ、まあ、どうだろうね。行ってから三月も経(た)たない内に、辞職をして帰って来て、︵なるほどお前なんざ、とても住めない、新潟は水が悪い︶ッさ。まあ!
するとまた環がね、どういうものか、はきはきしない、嫌にいじけッちまって、悪く人の顔色を見て、私の十四五の時見たように、隅の方へ引(ひっ)込(こ)んじゃあ、うじうじするから、私もつい気が滅(め)入(い)って、癇(かん)癪(しゃく)が起るたんびに、罪もないものを……﹂
と涙を浮(うか)め、お貞はがッくり俯(うつ)向(む)きたり。
﹁その癖、旦那は、環々ッて、まあ、どんなに可愛がったろう。頭へ手なんざ思いも寄らない、睨(にら)める真似をしたこともなかったのに、かえって私の方が癇癪を起しちゃ、︵母(おっ)様(かちゃん)︶と傍(そば)へ来るのを、
︵ええ、も、うるさいねえ、︶といって突飛ばしてやると、旦那が、︵咎(とが)もないものをなぜそんなことをする︶てッて、私を叱るとね、︵母様を叱っては嫌よ、御免なさい御免なさい︶と庇(かば)ってくれるの。そうして、︵あんな母(おっ)様(かさん)は不(いけ)可(ない)のう、ここへ来い︶と旦那が手でも引こうもんなら、それこそ大変、わッといって泣出したの。
︵あ、あ、︶と旦那が大息をして、ふいと戸(おも)外(て)へ出てしまうと、後で、そっと私の顔を見ちゃあ、さもさもどうも懐しそうに、莞(にっ)爾(こり)と笑う。そのまた愛くるしさッちゃあない。私も思わず莞爾して、引ッたくるように膝へのせて、しっかり抱(だき)しめて頬をおッつけると、嬉しそうに笑ッちゃあ、︵父(おと)様(っちゃん)が居ないと可い︶と、それまたお株を言うじゃあないかえ。
だもんだから、つい私もね、何だか旦那が嫌になったわ。でも或(いつ)時(か)、
︵お貞、吾(おれ)も環にゃ血を分けたもんだがなあ。︶とさも情(なさけ)なそうに言ったのには、私も堪(たま)らなく気の毒だったよ。
前世の敵(かたき)同士ででもあったものか、芳さん、環がじふてりやでなくなる時も、私がやる水は、かぶりつくようにして飲みながら、旦那が薬を飲ませようとすると、ついと横を向いて、頭(かぶり)を掉(ふ)って、私にしがみついて、懐へ顔をかくして、いやいやをしたもんだから、ついぞ荒い言(こと)をいったこともない旦那が、何と思ったか血相を変えて、
︵不孝者!︶といって、握(にぎ)拳(りこぶし)で突(いき)然(なり)環をぶとうとしたから、私も屹(きっ)となって、片膝立てて、
︵何をするんです!︶と摺(すり)寄(よ)ったわ。その時の形相の凄(すさま)じさは、ま、どの位であったろうと、自分でも思い遣られるよ。言(いい)憎(にく)いことだけれど、真(ほん)実(とう)にもう旦那を喰殺してやりたかったわね。今でも旦那を環の敵(かたき)だと思うもの。あの父親さえ居なけりゃ、何だって環が死ぬものかね、死にゃあしないわ、私ばかりの児(こ)だったら。﹂
お貞はしばらく黙したりき。ややあり思出したらんかのごとく、
﹁旦那はそのまま崩(くず)折(お)れて、男泣きに泣いたわね。
私ゃもう泣くことも忘れたようだった。ええ、芳さん、環がなくなってから、また二三度も方々へいい役に着いたけれども、金沢なら可いが、みんな遠(とお)所(く)なので、私はどういうものか遠所へ行くとしきりに金沢が恋しくなッて、帰りたい帰りたい一心でね、済まないことだとは思ってみても、我慢がし切れないのを、無理に堪(こた)えると、持病が起って、わけもないことに泣きたくなったり、飛んだことに腹が立ったりして、まるで夢中になるもんだから、仕方なしに帰って来ると、旦那も後からまた帰る、何でも私をば一人で手放しておく訳にゃゆかないと見えて、始終一所に居たがるわ。
だもんだからどこも良(い)い処には行かれないで、金沢じゃ、あんなつまらない学校へ、腰弁当というしがない役よ。﹂
と一人冷かに笑うたり。
﹁何もそんなに気を揉(も)まなくッても、よさそうなものを。旦那はね、まるで留守のことが気に懸(かか)るために出世が出来ないのだ、といっても可いわ。
そんなに私を思ってくれるもんだから、夜(よあ)遊(そび)はせず、ほんのこッたよ、夫婦になってから以(この)来(かた)、一晩も宅(うち)を明けたことなしさ。学校がひければ、ちゃんともう、道寄もしないで帰って来る。もっとも無口の人だから、口じゃ何ともいわないけれど、いつもむずかしい顔を見せたことはなし、地体がくすぶった何(なん)しろ、︵ちょいとこさ︶というのだもの。それだが、眼が小さいからちったああれでも愛(あい)嬌(きょう)があるよ。荒い口をきいたことなし、すりゃ私だって、嫌だ、嫌だとはいうものの、どこがといっちゃあ返事が出来ない。けれども嫌だから仕様がないわ。
それだから私も、なに言うことに逆らわず、良人はやっぱり良人だから、嫌だっても良人だから、良人のように謹んで事(つか)えているもの。そう疑ぐるには及ばないじゃあないかね。芳さん、芳さんの姉(ねえ)様(さん)がひどくされたようでも困るけれど、男はちったあ男らしく、たまには出(であ)歩(る)行(き)でもしないとね、男に意(い)気(く)地(じ)がないようで、女房の方でも頼(たの)母(も)しくなくなるのよ。
それを旦那と来た日にゃあ、ちょいとの間でも家(うち)に居て、私の番をしていたがるんだわ。それも私が行届かないせいだろうと、気を着けちゃあいるし、それにもう私は旦那の犠(いけ)牲(にえ)だとあきらめてる。分らないながらも女の道なんてことも聞いてるから、浮気らしい真似もしないけれど、芳さん、あの人の弱(よわ)点(み)だね。それがために出世も出来ないなんといった日にゃ、私ゃいっそ可哀相だよ。あわれだよ。
何の密(まお)夫(とこ)の七人ぐらい、疾(とっ)くに出来ないじゃあなかったが……﹂
といいかけしがお貞はみずからその言過しを恥じたる色あり。
﹁これは話さ。﹂
と口軽に言消して、
﹁何も見張っていたからって、しようのあるもんじゃあないわね。﹂
お貞は面(おもて)晴々しく、しおれし姿きりりとなりて、その音調も気(き)競(お)いたり。
﹁しかしね、芳さん、世の中は何という無理なものだろう。ただ式(おさ)三(かず)献(き)をしたばかりで、夫だの、妻だのッて、妙なものが出来上ってさ。女の身(から)体(だ)はまるで男のものになって、何をいわれてもはいはいッて、従わないと、イヤ、不(ふて)貞(くさ)腐(れ)だの、女の道を知らないのと、世間でいろんなことをいうよ。
折角お祖父さんが御丹精で、人並に育ったものを、ただで我ものにしてしまって、誰も難(あり)有(がた)がりもしないじゃないか。
それでいて婦(おん)人(な)はいつも下(した)手(で)に就いて、無理も御(ごも)道(っと)理(も)にして通さねばならないという、そんな勘定に合わないことッちゃあ、あるもんじゃない。どこかへ行こうといったって、良人がならないといえば、はい、起(た)てといえば、はい、寝ろといわれりゃそれも、はい、だわ。
人間一人(にん)を縦にしようが、横にしようが、自分の好(すき)なままにしておきながら、まだ不足で、たとえば芳さんと談(はな)話(し)をすることはならぬといわれりゃ、やっぱり快く落着いて談話も出来ないだろうじゃないかね。
一体操を守れだの、良人に従えだのという、捉(おきて)かなんか知らないが、そういったようなことを極(き)めたのは、誰だと、まあ、お思いだえ。
一遍婚礼をすりゃ疵(きず)者(もの)だの、離(さら)縁(れ)るのは女の恥だのッて、人の身(から)体(だ)を自由にさせないで、死ぬよりつらい思いをしても、一生嫌な者の傍(そば)についてなくッちゃあならないというのは、どういう理窟だろう、わからないじゃないかね。
まさか神様や、仏様のおつげがあったという訳でもあるまいがね。もともと人間がそういうことを拵(こしら)えたのなら、誰だって同(おん)一(なじ)人間だもの、何密(まお)夫(とこ)をしても可い、駈(かけ)落(おち)をしても可いと、言出した処で、それが通って、世間がみんなそうなれば、かえって貞女だの、節婦だの、というものが、爪(つま)はじきをされようも知れないわ。
旦那は、また、何の徳があって、私を自由にするんだろう。すっかり自分のものにしてしまって、私の身(から)体(だ)を縛ったろうね。食べさしておくせいだといえば、私ゃ一人で針仕事をしても、くらしかねることもないわ。ねえ、芳さん、芳さんてばさ。﹂
少年は太(いた)くこの答に窮して、一言もなく聞きたりけり。
お貞はなおも語勢強く、
﹁ほんとに虫のいい談(はな)話(し)じゃないかね、それとも私の方から、良人になッて下さいって、頼んで良人にしたものなら、そりゃどんなことでも我慢が出来るし、ちっとも不足のあるもんじゃあないが、私と旦那なんざ、え、芳さん、夫にした妻ではなくッて、妻にした良人だものを。何も私が小さくなッて、いうことを肯(き)いて縮んでいる義理もなし、操を立てるにも及ばないじゃあないか。
芳さんとだってそうだわ。何もなかをよくしたからとッて、不思議なことはないじゃあないかね。こないだ騒ぎが持上って、芳さんがソレ駈(かけ)出(だ)した、あの時でも、旦那がいろいろむずかしくいうからね、︵はい、芳さんとは姉(きょ)弟(うだ)分(いぶん)になりました。どういう縁だか知らないけれど、私が銀(いち)杏(ょう)返(がえし)に結っていますと、亡なった姉(ねえ)様(さん)に肖(に)てるッて、あの児も大層姉おもいだと見えまして、姉様々々ッて慕ってくれますもんですから、私もつい可愛くなります。︶と無理だとは言われないつもりで言ったけれど、︵他人で、姉弟というがあるものか︶ッて、真底から了(りょ)簡(うけん)しないの。傍(そば)に居た伯父さんも、伯母さんも、やっぱりおんなじようなことを言って、︵ふむ、そんなことで世の中が通るものか。言ようもあろうのに、ナニ姉弟分だ。︶とこうさ。口(く)惜(や)しいじゃあないかねえ。芳さん、たとい芳さんを抱いて寝たからたッて、二人さえ潔白なら、それで可いじゃあないか、旦那が何と言ったって、私ゃちっとも構やしないわ。﹂
お貞はかく謂えりしまで、血色勝れて、元気よく、いと心強く見えたりしが、急に語調の打沈みて、
﹁しかしこうはいうものの、芳さん世の中というものがね、それじゃあ合(がっ)点(てん)しないとさ。たとい芳さんと私とが、どんなに潔白であッたからっても、世間じゃそうとは思ってくれず、︵へん、腹合せの姉弟だ。︶と一万石に極(きめ)っちまう! 旦那が悪いというでもなく、私と芳さんが悪いのでもなく、ただ悪いのは世間だよ。
どんなに二人が潔白で、心は雪のように清くッてもね、泥足で踏みにじって、世間で汚くしてしまうんだわ。
雪といえば御覧な、冬になって雪が降ると、ここの家(うち)なんざ、裏の地面が畠(はたけ)だからね、木戸があかなくッて困るんだよ。理窟を言えば同(おん)一(なじ)で、垣根にあるだけの雪ならば、無理に推せば開(あ)くけれど、ずッとむこうの畠から一面に降りつづいて、その力が同(ひと)一(つ)になって、表からおすのだもの。どうして、何といわれても、世間にゃあ口が開(あ)かないのよ。
男の腕なら知らないこと、女なんざそれを無理にこじあけようとすると、呼(いき)吸(ぎ)切(れ)がしてしまうの。でも芳さんは士官になるというから、今に大将にでもおなりの時は、その力でいくらも世間を負かしてしまって、何にも言わさないように出来もしようけれど、今といっちゃあたッた二人で、どうすることもならないのよ。
それとも神様や仏様が、私だちの手伝をして、力を添えて下さりゃ可いけれど、そんな願(ねがい)はかなわないわね。
婆(ばば)々(あ)じみるッて芳さんはお笑いだが、芳さんなぞはその思(おも)遣(いやり)があるまいけれど、可(かわ)愛(ゆ)い児でも亡くして御覧、そりゃおのずと後(ごし)生(ょう)のことも思われるよ。
あれは、えらい僧正だって、旦那の勧める説教を聞きはじめてから、方々へ参(ま)詣(い)ったり、教(おしえ)を聞いたりするんだがね。なるほどと思うことばかり、それでも世の中に逆らッて、それで、御利益があるッてことは、ちっとも聞かしちゃあくれないものを。
戸を推(お)ッつけてる雪のような、力の強い世の中に逆らって行(ゆ)こうとすると、そりゃ弱い方が殺されッちまうわ。そうすりゃもう死ぬより他(ほか)はないじゃないかね。
私ももうもう死んでしまいたいと思うけれど、それがまたそうも行(ゆ)かないものだし、このごろじゃ芳さんという可愛いものが出来たからね、私ゃ死ぬことは嫌になったわ。ほんとうさ! 自分の児が可愛いとか、芳さんとこうやって談(はな)話(し)をするのが嬉しいとか、何でも楽(たのし)みなことさえありゃ、たとい辛くッても、我慢が出来るよ。どうせ、私は意気地なしで、世間に負けているからね、そりゃ旦那は大事にもする、病(やま)気(い)が出るほど嫌な人でも、世(よの)間(なか)にゃ勝たれないから、たとい旦那が思い切って、縁を切ろうといってもね、どんな腹いせでも旦那にさせて、私ゃ、あやまって出て行(ゆ)かない。﹂
と歯をくいしめてすすり泣きつ。
お貞は幾年来独り思い、独り悩みて、鬱(うっ)積(せき)せる胸中の煩(はん)悶(もん)の、その一片をだにかつて洩(もら)せしことあらざりしを、いま打明くることなれば、順序も、次第も前後して、乱れ且つ整わざるにも心着かで、再び語り続けたり。
﹁いっちゃ女の愚痴だがね。私はさっきいったように、世の中というものがあって、自分ばかりじゃないからと、断(あき)念(ら)めて、旦那に事(つか)えてはいるけれど、一日に幾度となく、もうふツふツ嫌になることがあるわ。
芳さんも知っておいでだ。ついこないだのことだっけ、晩方旦那の友達が来たので、私もその日は朝ッから、塩(あん)梅(ばい)が悪くッて、奥の室(ま)に寝ていた処へ、推(おし)懸(か)けたもんだから、外に別に部屋はなし、ここへ出て坐っていたの。
お客がまた私の大(だい)嫌(きらい)な人で、旦那とは合(あい)口(くち)だもんだから、愉(おも)快(しろ)そうに﹇#﹁愉(おも)快(しろ)そうに﹂は底本では﹁愉(おも)快(しろ)さうに﹂﹈話してたッけが、私は頭痛がしていた処へ、その声を聞くとなお塩梅が悪くなって、胸は痛む、横(よこ)腹(ッぱら)は筋張るね、おいおい薄暗くはなって来る。暑いというので燈(あか)火(り)はつけずさ。陰気になって、いろんなことを考え出して、つい堪(たま)らなくなったから、横になろうと思っても、直ぐ背(うし)後(ろ)に居るんだもの、立(たて)膝(ひざ)も出来ないから、台所へ行って板の間にでもと思ったが、あすこにゃ蚊(か)が酷(ひど)いし、仕方がないから戸(おも)外(て)へ出て、軒下にしゃがんで泣いてた処へ、ちょうどお前さんが来ておくれで、二階へ来いとおいいだから、そっと上ると、まあ、おとしよりが御深切に、胸を押して下すったので、私ゃもう難(あり)有(がた)くッて、嬉しくッて、心じゃ手を合せて拝んだわ。
おかげでやっと胸が開きそうになって、ほっと呼(い)吸(き)をついた処へ、
︵貞はそこに参っておりましょうな。︶と、壇(だん)階(ばし)子(ご)の下へ来て、わざわざ旦那が呼んだじゃあないかね。
私ゃあんまりくさくさしたから、返事もしないで黙っていると、おばあさんがお聞きつけなすッて、
︵階(し)下(た)へおいで、ね、ね、そうしないと悪い︶ッて、みんなもうちゃんと推量して、やさしく言って下さるんだもの。
︵ここに居とうございます!︶と、おばあ様(さん)の膝に縋(すが)りついたの。
下ではなお呼ぶもんだから、おばあさんが私のかわりに返事をなすって、
︵可いから、可いから。︶と、低(こご)声(え)でおっしゃってね、背(せなか)を撫でて下さるもんだから、仕方なしに下りて行くと、お客はもう帰っていてね、嫌な眼で睨(にら)まれたよ。
空いてる室(ま)がないもんだから、そういう時には困っちまう。アレ悪く取っちゃあ困るわね。
何も芳さんに二階を貸しておいて、こういっちゃあわるいけれど、はじめッからこの家(うち)は嫌いなの。
水は悪いし、流(なが)元(しもと)なんざ湿地で、いつでもじくじくして、心持が悪いっちゃあない。雪どけの時(こ)分(ろ)になると、庭が一杯水になるわ。それから春から夏へかけては李(すもも)の樹が、毛虫で一杯。
それに宅(うち)中(じゅう)陰気でね、明けておくと往来から奥の室(ま)まで見(みと)透(お)しだし、ここいら場末だもんだから、いや、あすこの宅はどうしたの、こうしたのと、近所中で眼を着けて、晩のお菜まで知ってるじゃあないかね。大嫌な猫がまた五六疋、野良猫が多いので、のそのそ入って、ずうずうしく上り込んで、追ってもにげるような優しいんじゃない。
隣の小猫はまた小猫で、それ井戸は隣と二軒で使うもんだから、あすこの隔(へだて)から入って来ちゃあ、畳でも、板の間でも、ニャアニャア鳴いて歩(あ)行(る)くわ。
隣の猫のこッたから、あのまた女(おか)房(み)が大抵じゃないのだからね、︵家(うち)の猫を︶なんて言われるが嫌さに、打(ぶ)つわけにはもとよりゆかず、二三度干物でも遣ったものなら、可いことにして、まつわって、からむも可いけれど、芳さん、ありゃ猫の疱(ほう)瘡(そう)とでもいうのかしら。からだじゅう一杯のできもので、一々膿(うみ)をもって、まるで、毛が抜けて、肉があらわれてね、汚なくって手もつけられないよ。それがさ、昨(ゆう)夜(べ)も蚊(か)帳(や)の中へ入込んで、寝ていた足をなめたのよ。何の因果だか、もうもう猫にまで取(とッ)着(つ)かれる。﹂
と投ぐるがごとく言いすてつ。苦(にが)笑(わらい)して呟(つぶや)きたり。
﹁ほんとうに泣(なく)より笑(わらい)だねえ。﹂
お貞の言(ことば)途絶えたる時、先(さっ)刻(き)より一(ひと)言(こと)も、ものいわで渠(かれ)が物語を味いつつ、是非の分別にさまよえりしごとき芳之助の、何思いけん呵(から)々(から)と笑い出して、
﹁ははは、姉(ねえ)様(さん)は陰弁慶だ。﹂
お貞は意外なる顔(かお)色(つき)にて、
﹁芳さん、何が陰弁慶だね。﹂
﹁だってそんなに決心をしていながら、一体僕の分らないというのはね、人ががらりと戸を明けると、眼に着くほどびっくりして、どきり! する様子が確(たしか)に見えるのは、どういうものだろう。髯(ひげ)の留守に僕と談(はな)話(し)でもしている処へ唐(だし)突(ぬけ)に戸(おも)外(て)があけば、いま姉様がいった世(よの)間(なか)の何とかで、吃(びっ)驚(くり)しないにも限らないが、こうしてみるに、なにもその時にゃ限らないようだ。いつでもそうだから可(おか)笑(し)いじゃないか。それに姉様のは口でいうと反対で、髯の前じゃおどおどして、何だか無(むや)暗(み)に小さくなって、一言ものをいわれても、はッと呼(い)吸(き)のつまるように、おびえ切っている癖に。今僕に話すようじゃ、酸いも、甘いも、知っていて、旦那を三(さん)銭(もん)とも思ってやしない。僕が二厘の湯銭の剰(つ)銭(り)で、︵ちょいとこさ︶を追返したよりは、なお酷(ひど)く安くしてるんだ。その癖、世間じゃ、︵西村の奥様は感心だ。今時の人のようでない。まるで嫁にきたてのように、旦那様を大事にする。婦(おん)人(な)はああ行(ゆ)かなければ嘘だ。貞女の鑑(かがみ)だ。しかし西村には惜(おし)いものだ。︶なんとそう言ってるぞ。そうすりゃ世間も恐しくはなかろうに、何だって、あんなにびくびくするのかなあ。だから姉様は陰弁慶だ。﹂
と罪もなくけなしたるを、お貞は聞きつつ微(ほほ)笑(え)みたりしが、ふと立ちて店に出(い)で行(ゆ)き、往来の左右を視(なが)め、旧(もと)の座に帰りて四(あた)辺(り)をし、また板敷に伸上りて、裏庭より勝手などを、巨(こさ)細(い)に見て座に就きつ。
﹁それはね、芳さん、こうなのよ。﹂
という声もハヤふるえたり。
﹁芳さんだと思って話すのだから、そう思ッて聞いておくれ。
私はね、可いかい。そのつもりで聞いておくれ。私はね、いつごろからという確(たしか)なことは知らないけれど、いろんな事が重(かさな)り重りしてね、旦那が、旦那が、どうにかして。
死んでくれりゃいい。死んでくれりゃいい。死ねばいい。死ねばいい。
とそう思うようになったんだよ。ああ、罪の深い、呪(の)詛(ろ)うのも同(おん)一(なじ)だ。親の敵(かたき)ででもあることか、人並より私を思ってくれるものを、︵死んでくれりゃいい︶と思うのは、どうした心得違いだろうと、自分で自分を叱ってみても、やっぱりどうしてもそう思うの。
その念(おもい)が段々嵩(こう)じて、朝から晩まで、寝てからも同(おん)一(なじ)ことを考えてて、どうしてもその了(りょ)簡(うけん)がなおらないで、後暗いことはないけれど、何(なん)に着け、彼(か)に着け、ちょっとの間もその念(おもい)が離れやしない。始終そればかりが気にかかって、何をしても手に着かないしね、じっと考えこんでいる時なんざ、なおのこと、何にも思わないでその事ばかり。ああ、人の妻の身で、何たる恐しい了簡だろうと、心の鬼に責められちゃあ、片時も気がやすまらないで、始終胸がどきどきする。
それがというと、私の胸にあることを、人に見付かりやしまいかと、そう思うから恐(こわ)怖(い)んだよ。
わけても、旦那に顔を見られるたびに、あの眼が、何だか腹の中まで見(みす)透(か)すようで、おどおどしずにゃいられない。︵貞︶ッて一声呼ばれると、直ぐその、あとの句が、︵お前、吾(おれ)の死ぬのが待遠いだろう。︶とこう来るだろうと思うから、はッとしないじゃいられないわね。それで何ぞ外のことを言われると、ほッと気が休まって、その嬉しさっちゃないもんだから、用でも、何でも、いそいそする。
それにこうやって、ここへ坐って、一人でものを考えてる時は、頭の中で、ぐるぐるぐるぐる、︵死ねば可い︶という、鬼か、蛇(じゃ)か、何ともいわれない可(こわ)恐(い)ものが、私の眼にも見えるように、眼(めさ)前(き)に駈(かけ)まわっているもんだから、自分ながら恐しくッて、観音様を念じているの。そこへがらりと戸を開けられちゃあ、どうして慌てずにいられよう。︵ああ、めッかった。︶と、もう死んだ気になっちまう!
それが心配で、心配で、どうぞして忘れたいと思うから、けもないことにわあわあ騒いだり、笑ったり、他(よ)所(そ)めには、さも面白そうに見えようけれど、自分じゃ泣きたいよ。あとではなおさら気がめいッて、ただしょんぼりと考え込むと、また、いつもの︵死ねばいい︶が見えるようなの。
恐しくッてたまらないから、どうぞこの念がなくなりますようにと、観音様に願っても、罪が深いせいなのか、段々強くなるばかり。
気のせいか知らないけれど、旦那は日に日に血色が悪くなって、次第に弱って行く様子、こりゃ思いが届くのかと考えると、私ゃもう居ても起(た)っても堪(たま)らない。
だから旦那が煩いでもすると、ハッと思って、こりゃどうでも治さないと、私が呪(のろ)詛(い)殺すのだと、もうもうさほどでもない病気でも、夜(よ)の目も寝ないで介抱するが、お医者様のお薬でも、私の手から飲ませると、かえって毒になるようで、何でも半日ばかりの間は、今にも薬の毒がまわって、血でも吐きやしないかしらと、どうしてその間の心配というものは! でもそれでもやっぱり考えることといったら、ちっとも違(ちがい)はない、︵死ねば可い。︶で、早くなおって欲しいのは、実は︵死ねば可い。︶と思うからだよ。
ねえ、芳さん分ったろう。もう胸が一杯で、口も利かれやしないから、後生だ、推量しておくれ。も、私ゃ、私はもう芳さんどうしたら可いんだねえ。﹂
と身を震わしたるいじらしさ!
お貞がこの衷(ちゅ)情(うじょう)に、少年は太(いた)く動かされつ。思わず暗(なみ)涙(だ)を催したり。
﹁ああ姉様は可哀そうだねえ。僕が、僕が、僕が、どうかしてあげようから、姉さん死んじゃあ不(いけ)可(な)いよ。﹂
お貞は聞きて嬉しげに少年の手をじっと取りて、
﹁嬉しいねえ。何の自害なんかするもんかね、世間と、旦那として私をこんなにいじめるもの。いじめ殺されて負けちゃ卑(ひき)怯(ょう)よ。意気地が無いわ。可いよ、そんな心配は要らないよ。私ゃ面(つら)あてにでも、活(い)きている。たといこの上幾十倍のつらい悲しいことがあっても、きっと堪(こら)えて死にゃあしないわ。と心強くはいってみても、死なれないのが因果なのだねえ。﹂
ほろりとして見る少年の眼にも涙を湛(たた)えたり。時に二階より老女の声。
﹁芳や、帰ったの。﹂
﹁あれ、おばあさんが。﹂
﹁はい、唯(ただ)今(いま)。﹂
二段ばかり少年は壇(だん)階(ばし)子(ご)を昇り懸けて、と顧みて驚きぬ。時彦は帰宅して、はや上(あが)口(りぐち)の処に立てり。
我が座を立ちしと同時ならむ。と思うも見るもまたたくま、さそくの機転、下を覗(のぞ)きて、
﹁もう、奥(おく)様(さん)、何(なん)時(どき)です。﹂
﹁は。﹂
とお貞は起(た)ちたるが、不意に顛(てん)倒(どう)して、起ちつ、居つ。うろうろ四(あた)辺(り)を見廻す間(ひま)に、時彦は土間に立ちたるまま、粛然として帯の間より、懐中時計を取(とり)出(いだ)し、丁寧に打(うち)視(なが)めて、少年を仰ぎ見んともせず、
﹁五十九分前六時です。﹂
﹁憚(はば)様(かりさま)。﹂
と少年は跫(あし)音(おと)高く二階に上れり。
時彦は時計を納めつ。立ちも上らず、坐りも果てざる、妻に向(むか)いて、沈める音調、
﹁貞、床を取ってくれ、気分が悪いじゃ。貞、床をとってくれ、気分が悪いじゃ。﹂
面(おもて)は死灰のごとくなりき。
時彦はその時よりまた起(た)たず、肺結核の患者は夏を過ぎて病勢募り、秋の末つ方に到りては、恢(かい)復(ふく)の望(のぞみ)絶果てぬ。その間お貞が尽したる看護の深切は、実際隣人を動かすに足るものなりき。
渠(かれ)は良人の容体の危篤に陥りしより、ほとんど一月ばかりの間帯を解きて寝しことあらず、分けてこのごろに到りては、一(いち)七(しち)日(にち)いまだかつて瞼(まぶた)を合さず、渠は茶を断ちて神に祈れり。塩を断ちて仏に請えり。しかれども時彦を嫌悪の極、その死の速(すみや)かならんことを欲する念は、良人に薬を勧むる時も、その疼(とう)痛(つう)の局部を擦(さす)る隙(ひま)も、須(しゅ)臾(ゆ)も念頭を去りやらず。甚しいかなその念の深く刻めるや、おのが幾年の寿命を縮め、身をもて神仏の贄(にえ)に供えて、合掌し、瞑(めい)目(もく)して、良人の本復を祈る時も、その死を欲するの念は依然として信仰の霊を妨げたり。
良人の衰弱は日に著(しる)けきに、こは皆おのが一念よりぞと、深更四隣静まりて、天地沈々、病者のために洋(ラン)燈(プ)を廃して行(あん)燈(どん)にかえたる影暗く、隙(すき)間(ま)もる風もあらざるにぞ、そよとも動かぬ灯(ほか)影(げ)にすかして、その寂(じゃく)たること死せるがごとき、病者の面をそと視(なが)めて、お貞は顔を背けつつ、頤(おとがい)深く襟に埋(うず)めば、時彦の死を欲する念、ここぞと熾(さかん)に燃立ちて、ほとんど我を制するあたわず。そがなすままに委(まか)しおけば、奇異なる幻影眼(めさ)前(き)にちらつき、※(ぱっ)﹇#﹁火+發﹂、U+243CB、153-7﹈と火花の散るごとく、良人の膚(はだ)を犯すごとに、太く絶え、細く続き、長く幽(かす)けき呻(うめ)吟(きご)声(え)の、お貞の耳を貫くにぞ、あれよあれよとばかりに自ら恐れ、自ら悼(いた)み、且つ泣き、且つ怒(いか)り、且つ悔いて、ほとんどその身を忘るる時、
﹁お貞。﹂
と一(ひと)声(こえ)、時彦は、鬱(うつ)し沈める音調もて、枕も上げで名を呼びぬ。
この一声を聞くとともに、一(ひと)桶(おけ)の氷を浴びたるごとく、全身の血は冷却して、お貞は、
﹁はい。﹂
と戦(おのの)きたり。
時彦はいともの静(しずか)に、
﹁お前、このごろから茶を断ッたな。﹂
﹁いえ、何も貴(あな)下(た)、そんなことを。﹂
と幽かにいいて胸を圧(おさ)えぬ。
時彦は頤(おとがい)のあたりまで、夜着の襟深く、仰(あお)向(むけ)に枕して、眼(まぼ)細(そ)く天井を仰ぎながら、
﹁塩(しお)断(だち)もしてるようだ。一(おと)昨(と)日(い)あたりから飯も食べないが、一体どういう了(りょ)簡(うけん)じゃ。﹂
︵貴下を直したいために︶といわんは、渠の良心の許さざりけむ、差(さし)俯(うつ)向(む)きてお貞は黙しぬ。
﹁あかりが暗い、掻(かき)立(た)てるが可い。お前が酷(ひど)く瘠(や)せッこけて、そうしょんぼりとしてる処は、どう見ても幽霊のようじゃ、行燈が暗いせいだろう。な。﹂
﹁はい。﹂
お貞は、深夜幽霊の名を聞きて、ちりけもとより寒さを感じつ。身震いしながら、少しく居寄りて、燈心の火を掻立てたり。
﹁そんなに身(から)体(だ)を弱らせてどうしようという了簡なんか。うむ、お貞。﹂
根深く問うに包みおおせず、お貞はいとも小さき声にて、
﹁よく御存じでございます。﹂
﹁むむ、お前のすることは一々吾(おり)ゃ知っとるぞ。﹂
﹁え。﹂
とお貞はずり退(さが)りぬ。
﹁茶(ちゃ)断(だち)、塩(しお)断(だち)までしてくれるのに、吾(おれ)はなぜ早く死なんのかな。﹂
お貞は聞きて興(きょ)覚(うざ)顔(めがお)なり。
時彦の語気は落着けり。
﹁疾(はや)く死ねば可いと思うておって、なぜそんな真似をするんだな。﹂
と声に笑いを含めて謂(い)えり。お貞はほとんど狂せんとせり。
病者はなおも和(やわら)かに、
﹁何、そう驚くにゃ及ばない。昨日今日にはじまったことではないが、お貞、お前は思ったより遥(はるか)に恐しい女だな。あれは憎い、憎い奴だから殺したいということなら、吾(おれ)も了簡のしようがあるが、︵死んでくれりゃ可い。︶は実に残酷だ。人を殺せば自分も死なねばならぬというまず世の中に定(さだ)規(め)があるから、我(わが)身(み)を投出して、つまり自分が死んでかかって、そうしてその憎い奴を殺すのじゃ。誰一人生(いの)命(ち)を惜(おし)まぬものはない、活きていたいというのが人間第一の目的じゃから、その生(いの)命(ち)を打棄ててかかるものは、もう望(のぞみ)を絶ったもので、こりゃ、隣(あわれ)むべきものである。
お前のはそうじゃあない。︵死んでくれりゃ可い︶と思うので、つまり精神的に人を殺して、何の報(むくい)も受けないで、白日青天、嫌な者が自分の思いで死んでしまった後(あと)は、それこそ自由自在の身じゃでの、仕たい三(ざん)昧(まい)、一人で勝手に栄(えよ)耀(う)をして、世を愉(おも)快(しろ)く送ろうとか、好(すき)な芳之助と好(い)いことをしようとか、怪(け)しからんことを思うている、つまり希望というものがお前にあるのだ。
人の死ぬのを祈りながら、あとあとの楽(たのし)みを思うている、そんな太い奴があるもんか。
吾(おれ)はきっと許さんぞ。
そうそう好(すき)なまねをお前にされて、吾も男だ、指を啣(くわ)えて死にはしない。
といつも思っていたんだが、もうこの肺病には勝たれない、いや、つまり、お前に負けたのだ。
してみれば、お貞、お前が呪(のろ)詛(い)殺すんだと、吾がそう思っても、仕方があるまい。
吾はどのみち助からないと、初手ッから断(あき)念(ら)めてるが、お貞、お前の望が叶(かの)うて、後で天下晴(ばれ)に楽(たのし)まれるのは、吾はどうしても断念められない。
謂うと何だか、女々しいようだが、報のない罪をし遂げて、あとで楽(たのしみ)をしようという、虫の可いことは決して無い。またそうさせるような吾でもない。
お貞、謝(わ)罪(び)をしちゃあ可(い)かんぞ。お前は何も謝罪をすることもなし、吾も別に謝罪を聞く必要も認めんじゃ。悪かったというて謝罪をすればそれで済む、謝罪を聞けば了簡すると、そんな気楽なことを思うと、吾のいうことが分るまいでな。何でもしたことには、それ相当の報(むく)酬(い)というものが、多くもなく、少なくもなく、ちょうど可いほどあるものだと、そう思ってろ! 可いか、お貞、……お貞。﹂
と少し急(せ)き込みて、絶え入るばかりに咽(むせ)びつつ、しばらく苦痛を忍びしが、がらがらと血を吐きたり。
いつもかかることのある際には、一(ひと)刀(かたな)浴びたるごとく、蒼(あお)くなりて縋(すが)り寄りし、お貞は身(みう)動(ごき)だもなし得ざりき。
病者は自ら胸を抱(いだ)きて、眼(まなこ)を瞑(ねむ)ること良(ひ)久(さ)しかりし、一(ひと)際(きわ)声の嗄(から)びつつ、
﹁こう謂えばな、親を蹴(けこ)殺(ろ)した罪人でも、一応は言訳をすることが出来るものをと、お前は無念に思うであろうが、法廷で論ずる罪は、囚徒が責任を負ってるのだ。
今お前が言訳をして、今日からどんな優しい気になろうとも、とても助からない吾に取っては、何の利益も無いことで、死んでしまえば、それ、お前は日本晴で、可いことをして楽(たのし)むんじゃ。そううまくはきっとさせない。言訳がましいことを謂うな。聞くような吾でもなし。またお前だってそうだ。人(ひと)殺(ごろし)よりなおひどい、︵死んでくれれば可い︶と思うほどの度胸のある婦(おん)人(な)でないか。しっかりとしろ! うむ、お貞。﹂
お貞は屹(きっ)と顔を上げて、
﹁はい、決して申訳はいたしません。﹂
といと潔よく言放てる、両の瞳の曇は晴れつ。旭(きょ)光(っこう)一射霜を払いて、水仙たちまち凜(りん)とせり。
病者は心地好(よ)げに頷(うなず)きぬ。
﹁可(よ)し、よく聞け、お貞。人の死ぬのを一日待に待ち殺して、あとでよい眼を見ようというはずるいことだ。考えてみろ。お前は今までに人情の上から吾に数え切れない借があろう。それをな、その負債をな。今吾に返すんだ。吾はどうしても取ろうというのだ。﹂
いと恐しき声にもおじず、お貞は一膝乗(のり)出(いだ)して、看病疲れに繕わざる、乱れし衣(えも)紋(ん)を繕いながら、胸を張りて、面(おもて)を差向け、
﹁旦那、どうして返すんです。﹂
﹁離縁しよう。いまここで、この場から離縁しよう。死にかかっている吾を見棄てて、芳之助と手を曳(ひ)いて、温泉へでも湯治に行(ゆ)け。だがな、お前は家附の娘だから、出て行(ゆ)くことが出来ぬと謂えば、ナニ出て行くには及ばんから、床ずれがして寝返りも出来ない、この吾を、芳之助と二人で負(おぶ)って行って、姨(おば)捨(すて)山(やま)へ捨てるんだ。さ、どちらでも構わない。ただ、︵人の妻たる者が、死にかかってる良人を見棄てた。︶とこういうことが世間へ知れて、世の中の者がみんなその気でお前に附合えば、それで可い、それで可い。ちっとは負債が返せるのだ。
しかし、これはお前には出来ぬこッた。お前は世間体というものを知ってるから、平生、吾が健(たっ)全(しゃ)な時でも、そんな事はにも出さないほどだ。それが出来るくらいなら、もう疾(とっ)くに離(わか)別(れ)てしまったに違いない。うむ、お貞、どうだ、それとも見棄てて、離縁が出来るか。﹂
お貞は一思案にも及ばずして、
﹁はい、そんなことは出来ません。﹂
病者はさもこそと思える状(さま)なり。
﹁それではお貞、お前の念(おも)いで死なないうちに、……吾(おれ)を殺せ。﹂
と静(しずか)にいう。
﹁え、貴(あな)下(た)を!﹂
﹁うむ、吾(おれ)を。お貞、ずるい根性を出さないで、表(おも)向(てむき)に吾を殺して、公然、良人殺しの罪人になるのだ。お貞、良人殺(ころし)の罪人になるのだ。うむお貞。
吾を見棄てるか、吾を殺すか、うむ、どちらにするな。何でも負債を返さないでは、あんまり冥(みょ)利(うり)が悪いでないか。いや、ないかどころでない! そうしなけりゃ許さんのだ。うむ、お貞、どっちにする、殺さないと、離縁にする!﹂
といと厳(おごそ)かに命じける。お貞は決する色ありて、
﹁貴(あな)下(た)、そ、そんなことを、私にいってもいいほどのことがあるんですか。﹂
声ふるわして屹(きっ)と問いぬ。
﹁うむ、ある。﹂
と確(かっ)乎(こ)として、謂う時病者は傲(ごう)然(ぜん)たりき。
お貞はかの女が時々神経に異変を来(きた)して、頭(かしら)あたかも破(わ)るるがごとく、足はわななき、手はふるえ、満面蒼(あお)くなりながら、身(しん)火(か)烈々身(から)体(だ)を焼きて、恍(こう)として、茫(ぼう)として、ほとんど無意識に、されど深長なる意味ありて存するごとく、満身の気を眼(まなこ)にこめて、その瞳をも動かさで、じっと人を目(み)詰(つ)むれば他をして身の毛をよだたすことある、その時と同(おな)一(じ)容(あり)体(さま)にて、目まじろぎもせで、死せるがごとき時彦の顔を瞻(みまも)りしが、俄(がぜ)然(ん)、崩(くず)折(お)れて、ぶるぶると身震いして、飛着くごとく良人に縋(すが)りて、血を吐く一声夜陰を貫き、
﹁殺します、旦那、私はもう……﹂
とわッとばかりに泣出しざま、擲(なげう)たれたらんかのごとく、障子とともに僵(たお)れ出でて、衝(つ)と行(ゆ)き、勝手許(もと)の暗(やみ)を探りて、渠(かれ)は得物を手にしたり。
時彦ははじめのごとく顔の半ばに夜具を被(かつ)ぎ、仰(あお)向(むけ)に寝て天井を眺めたるまま、此(こな)方(た)を見向かんともなさずして、いとも静(しずか)に、冷(ひやや)かに、着物の袖も動かさざりき。
諸君、他日もし北陸に旅行して、ついでありて金沢を過(よぎ)りたまわん時、好(こう)事(ず)の方々心あらば、通りがかりの市人に就きて、化(ばけ)銀(いち)杏(ょう)の旅店? と問われよ。老となく、少となく、皆直ちに首肯して、その道筋を教え申さむ。すなわち行きて一泊して、就(しゅ)褥(うじょく)の後(のち)に御注意あれ。
間(ま)広き旅店の客少なく、夜半の鐘声森(しん)として、凄(せい)風(ふう)一陣身に染む時、長き廊下の最端に、跫(きょ)然(うぜん)たる足音あり寂(せき)寞(ばく)を破り近着き来(きた)りて、黒きもの颯(さ)とうつる障子の外なる幻影の、諸君の寝息を覗(うかが)うあらむ。その時声を立てられな。もし咳(しわぶき)をだにしたまわば、怪しき幻影は直ちに去るべし。忍びて様子をうかがいたまわば、すッと障子をあくると共に、銀(いち)杏(ょう)返(がえし)の背(うし)向(ろむき)に、あとあし下りに入(い)り来りて、諸君の枕(まく)辺(らべ)に近づくべし。その瞬時真白なる細き面影を一見して、思わず悚(しょ)然(うぜん)としたまわんか。トタンに件(くだん)の幽霊は行(あん)燈(どん)の火を吹(ふっ)消(け)して、暗中を走る跫(あし)音(おと)、遠く、遠く、遠くなりつつ、長き廊下の尽(はず)頭(れ)に至りて、そのままハタと留(や)むべきなり。
夜(よ)はいよいよ更けて、風寒きに、怪者の再来を慮(おもんばか)りて、諸君は一夜を待明かさむ。
明くるを待ちて主(ある)翁(じ)に会し、就きて昨夜の奇怪を問われよ。主翁は黙して語らざるべし。再び聞かれよ、強いられよ、なお強いられよ。主翁は拒むことあたわずして、愁(しゅ)然(うぜん)としてその実を語るべきなり。
聞くのみにてはあき足らざらんか、主翁に請いて一(ひと)室(ま)に行(ゆ)け。密閉したる暗室内に俯(うつ)向(む)き伏したる銀杏返の、その背と、裳(もすそ)の動かずして、あたかもなきがらのごとくなるを、ソト戸の透(すき)より見るを得(う)べし。これ蓋(けだ)し狂者の挙動なればとて、公判廷より許されし、良人を殺せし貞婦にして、旅店の主翁はその伯父なり。
されど室内に立入りて、その面(おもて)を見んとせらるるとも、主翁は頑として肯(がえん)ぜざるべし。諸君涙あらば強うるなかれ。いかんとなれば、狂せるお貞は爾(じら)来(い)世の人に良人殺しの面を見られんを恥じて、長くこの暗室内に自らその身を封じたるものなればなり。渠(かれ)は恐(おそ)懼(れ)て日光を見ず、もし強いて戸を開きて光明その膚(はだえ)に一注せば、渠は立(たち)処(どころ)に絶して万事休(や)まむ。
光を厭(いと)うことかくのごとし。されば深更一(いち)縷(る)の燈(とも)火(しび)をもお貞は恐れて吹(ふっ)消(け)し去るなり。
渠はしかく活(い)きながら暗中に葬り去られつ。良人を殺せし妻ながら、諸君請う恕(じょ)せられよ。あえて日光をあびせてもてこの憐むべき貞婦を射(いこ)殺(ろ)すなかれ。しかれどもその姿をのみ見て面を見ざる、諸君はさぞ本(ほ)意(い)なからむ。さりながら、諸君より十層二十層、なお幾十層、ここに本意なき少年あり。渠は活きたるお貞よりもむしろその姉の幽霊を見んと欲して、なお且つしかするを得ざるものをや。
明治二十九︵一八九六︶年二月
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