上
﹁こりゃどうも厄やっ介かいだねえ。﹂
観かん音のん丸まるの船員は累やつ々やつしき盲めく翁らおやじの手を執とりて、艀はしけより本船に扶たす乗けのする時、かくは呟つぶやきぬ。
この﹁厄やっ介かい﹂とともに送られたる五七人の乗客を載のせ了おわりて、観かん音のん丸まるは徐じょ々じょとして進行せり。
時に九月二日午前七時、伏ふし木きこ港うを発する観かん音のん丸まるは、乗客の便べんを謀はかりて、午後六時までに越えち後ごな直お江え津つに達し、同どう所しょを発する直江津鉄道の最終列車に間に合あわすべき予定なり。
この憐あわれむべき盲めし人いは肩身狭げに下等室に這はい込こみて、厄やっ介かいならざらんように片隅に踞うずくまりつ。人ありてその齢よわいを問いしに、渠かれは皺しわ嗄がれたる声して、七十八歳と答えき。
盲めくらにして七十八歳の翁おきなは、手てび引きをも伴つれざるなり。手引をも伴れざる七十八歳の盲めくらの翁は、親おや不しら知ずの沖を越ゆべき船に乗りたるなり。衆ひと人びとはその無法なるに愕おどろけり。
渠かれは手も足も肉落ちて、赭あか黒ぐろき皮のみぞ骸がい骨こつを裹つつみたる﹇#﹁裹つつみたる﹂は底本では﹁裏つつみたる﹂﹈。躯たけ低く、頭かしら禿はげて、式かたばかりの髷まげに結ゆいたる十とす筋じ右え衛も門んは、略りゃ画くがの鴉からすの翻ひるがえるに似たり。眉まゆも口も鼻も取立てて謂いうべき所ところあらず。頬は太いたく痩こけて、眼まなこは然がっくりと陥くぼみて盲しいたり。
木もめ綿んあ袷わせの條しま柄がらも分かぬまでに着古したるを後しりにして、継つぎ々つぎの股もも引ひき、泥どろ塗まぶれの脚きゃ絆はん、煮に染しめたるばかりの風ふろ呂しき敷づつ包みを斜めに背負い、手てな馴らしたる白しらの杖と一いっ蓋かいの菅すげ笠がさとを膝ひざの辺りに引寄せつ。産うまれは加かし州ゅうの在ざい、善光寺詣もうでの途みちなる由よし。
天気は西の方かた曇りて、東晴れたり。昨ゆう夜べの雨に甲デッ板キは流るるばかり濡れたれば、乗客の多おお分くは室内に籠こもりたりしが、やがて日光の雲間を漏れて、今は名なご残り無く乾きたるにぞ、蟄ちっ息そくしたりし乗客等らは、先を争いて甲デッ板キに顕あらわれたる。
観かん音のん丸まるは船体小しょうにして、下等室は僅わずかに三十余人を容いれて肩けん摩ますべく、甲デッ板キは百人を居おきて余あまりあるべし。されば船室よりは甲デッ板キこそ乗客を置くべき所にして、下等室は一個の溽むし熱あつき窖あな廩ぐらに過ぎざるなり。
この内うちに留とどまりて憂うき目めを見るは、三みた人りの婦おん女なと厄やっ介かいの盲めし人いとのみ。婦おん女なた等ちは船の動くと与ともに船せん暈うんを発おこして、かつ嘔はき、かつ呻うめき、正体無く領ひれ伏ふしたる髪の乱みだれに汚けが穢れものを塗まみらして、半死半生の間に苦悶せり。片隅なる盲めく翁らおやじは、毫いささかも悩める気色はあらざれども、話相手もあらで無ぶり聊ょうに堪たえざる身を同じ枕に倒して、時々南なむ無ぶ仏つ、南なむ無ぶ仏つと小声に唱しょ名うみょうせり。
抜ばつ錨びょう後二時間にして、船は魚津に着きぬ。こは富山県の良港にて、運輸の要地なれば、観かん音のん丸まるは貨物を積まむために立寄りたるなり。
来るか、来るかと浜に出て見れば、浜の松風音ばかり。
櫓ろせ声いに和かして高らかに唱うた連いつれて、越中米まいを満載したる五六艘そうの船は漕こぎ寄せたり。
俵の数は約二百俵、五十石こく内外の米べい穀こくなれば、機関室も甲デッ板キの空あ処きも、隙すき間まなきまでに積みたる重量のために、船体はやや傾斜を来きたして、吃きっ水すいは著しく深くなりぬ。
俵はほとんど船室の出入口をも密封したれば、さらぬだに鬱うつ燠いくたる室内は、空気の流通を礙さまたげられて、窖あな廩ぐらはついに蒸むし風ぶ呂ろとなりぬ。婦おん女なた等ちは苦くも悶んに苦くも悶んを重ねて、人ひと心ごこ地ちを覚えざるもありき。
睡りたるか、覚めたるか、身動きもせで臥ふしたりし盲めし人いはやにわに起上りて、
﹁はてな、はてな。﹂と首こうべを傾けつつ、物を索もとむる気けし色きなりき。側かたわらに在あるは、さばかり打うち悩なやめる婦おん女なのみなりければ、渠かれの壁かべ訴そし訟ょうはついに取とり挙あげられざりき。盲めし人いは本ほ意い無げに呟つぶやけり。
﹁はてな、小こよ用う場ばはどこかなあ。﹂
なお応ずる者のあらざりければ、渠かれは困こうじ果てたる面おも色もちにてしばらく黙もくせしが、やがて臆おくしたる声こわ音ねにて、
﹁はい、もし、誠まことに申もう兼しかねましたが、小こよ用う場ばはどこでございましょうかなあ。﹂
渠かれは頸くびを延のべ、耳を欹そばだてて誨おしえを俟まてり。答うる者はあらで、婦おん女なの呻うめく声のみ微ほそ々ぼそと聞えつ。
渠かれは居い去ざりつつ捜さぐ寄りよれば、袂たもとありて手てさ頭きに触れぬ。
﹁どうも、はや御面倒でございますが、小こよ用う場ばをお教えなすって下さいまし。はい誠まことに不自由な老おや夫じでございます。﹂
渠かれは路ろと頭うの乞こつ食じきの如ごとく、腰を屈かがめ、頭を下げて、憐あわれみを乞えり。されどもなお応ずる者はあらざりしなり。盲めし人いはいよいよ途とほ方うに暮れて、
﹁もし、どうぞ御願でございます。はいどうぞ。﹂
おずおずその袂を曳ひきて、惻そく隠いんの情こころを動かさむとせり。打うち俯ふしたりし婦おん人なは蒼あお白じろき顔をわずかに擡もたげて、
﹁ええ、もう知りませんよう!﹂
酷むごくも袂たもとを振払いて、再び自おの家れの苦悩に悶もだえつ。盲めし人いはこの一いっ喝かつに挫ひしがれて、頸くびを竦すくめ、肩を窄すぼめて、
﹁はい、はい、はい。﹂
中
甲デッ板キより帰かえ来りきたれる一個の学生は、室しつに入いるよりその溽むし熱あつさに辟へき易えきして、
﹁こりゃ劇ひどい!﹂と眉を顰ひそめて四あた辺りをせり。
狼ろう藉ぜきに遭あえりし死むく骸ろの棄すてられたらむように、婦おん女なた等ちは算さんを乱して手荷物の間に横よこたわれり。
﹁やあ、やあ! 惨さん憺たんたるものだ。﹂
渠かれはこの惨みじ憺めさと溽むし熱あつさとに面おもてを皺しわめつつ、手荷物の鞄かばんの中うちより何やらん取とり出いだして、忙いそ々がわしく立去らむとしたりしが、たちまち左右を顧かえりみて、
﹁皆みな様さん、これじゃ耐たまらん。ちと甲かん板ぱんへお出いでなさい。涼しくッてどんなに心ここ地ろもちが快いいか知れん。﹂
これ空くう谷こくの跫きょ音うおんなり。盲めい人しは急いそ遽いそ声する方かたに這はい寄よりぬ。
﹁もし旦那様、何ともはや誠まことに申もう兼しかねましてございますが、はい、小こよ用う場ばへはどちらへ参りますでございますか、どうぞ、はい。……﹂
盲めし人いは数あま多たたび渠かれの足下に叩ぬか頭づきたり。
学生は渠かれが余りに礼の厚きを訝いぶかりて、
﹁うむ、便所かい。﹂とその風ふう体ていを眺めたりしが、
﹁ああ、お前様さん不自由なんだね。﹂
かくと聞くより、盲めし人いは飛立つばかりに懽よろこびぬ。
﹁はい、はい。不自由で、もう難儀をいたします。﹂
﹁いや、そりゃ困るだろう。どれ僕が案内してあげよう。さあ、さあ、手を出した。﹂
﹁はい、はい。それはどうも、何ともはや、勿もっ体たいもない、お難あり有がとう存じます。ああ、南なむ無あ阿み弥だ陀ぶ仏つ、南なむ無あ阿み弥だ陀ぶ仏つ。﹂
優やさしくも学生は盲めし人いを扶たすけて船室を出いでぬ。
﹁どッこい、これから階はし子ごだ段んだ。気を着けなよ、それ危い。﹂
かくて甲デッ板キに伴ともないて、渠かれの痛いた入みいるまでに介かい抱ほうせし後のち、
﹁爺じい様さん、まあここにお坐り。下じゃ耐たまらない、まるで釜かま烹うでだ。どうだい、涼しかろ。﹂
﹁はい、はい、難あり有がとうございます。これは結構で。﹂
学生はその側かたわらに寝転びたる友に向いて言えり。
﹁おい、君、最もす少こしそっちへ寄ッた。この爺じい様さんに半はん座ざを分けるのだ。﹂
渠かれは快くその席を譲りて、
﹁そもそも半はん座ざを分けるなどとは、こういう敵あい手てに用つかう易やすい文句じゃないのだ。﹂
かく言いてその友は投出したる膝ひざを拊うてり。学生は天を仰ぎて笑えり。
﹁こんな時にでも用つかわなくッちゃ、君なんざ生涯用つかう時は有りゃしない。﹂
﹁と先まず言ッて置おくさ。﹂
盲めし人いはおそるおそるその席に割わり入こみて、
﹁はい真まっ平ぴら御ごめ免ん下さいまし。はい、はい、これはどうも、お蔭様で助かりまする。いや、これは気持の快よい、とんと極楽でございます。﹂
渠かれは涼風の来きたるごとに念仏して、心窃ひそかに学生の好意を謝しゃしたりき。
船室に在ありて憂うき目めに遭あいし盲めく翁らおやじの、この極ごく楽らく浄じょ土うどに仏ほと性けしょうの恩人と半はん座ざを分つ歓よろ喜こびのほどは、著しるくもその面おも貌もちと挙動とに露あらわれたり。
﹁はい、もうお蔭様で老おや夫じめ助かりまする。こうして眼も見えません癖くせに、大胆な、単ひと独りで船なんぞに乗りまして、他はた様さまに御迷惑を掛けまする。﹂
﹁まったくだよ、爺じい様さん。﹂
と学生の友は打うち笑わらいぬ。盲めし人いは面めん目ぼくなげに頭かしらを撫なでつ。
﹁はい、はい、御ごも尤っともで。実は陸おかを参ろうと存じましてございましたが、ついこの年とし者よりと申すものは、無むや闇みと気ばかり急せきたがるもので、一いっ時ときも早く如にょ来らい様さまが拝みたさに、こんな不ふり了ょう簡けんを起しまして。……﹂
﹁うむ、無理はないさ。﹂と学生は頷うなずきて、
﹁何も目が見えんからといって、船に乗られんという理りく窟つはすこしもない。盲めく人らが船に乗るくらいは別に驚くことはないよ。僕は盲めく目らの船頭に邂でッ逅くわしたことがある。﹂
その友は渠かれの背そびらに一いち撃げきを吃くらわして、
﹁吹くぜ、お株かぶだ!﹂
学生は躍やっ起きとなりて、
﹁君の吹くぜもお株かぶだ。実際ださ、実際僕の見た話だ。﹂
﹁へん、躄いざりの人じん力りき挽ひき、唖おしの演説家に雀とり盲めの巡査、いずれも御採用にはならんから、そう思い給え。﹂
﹁失敬な! うそだと思うなら聞き給うな。僕は単ひと独りで話をする。﹂
﹁単ひと独りで話をするとは、覚悟を極きめたね。その志に免じて一ひと條くさり聞いてやろう。その代り莨たばこを一本。……﹂
眼鏡越ごしに学生は渠かれを悪にくさげに見み遣やりて、
﹁その口が憎いよ。何もその代りと言わんでも、与くれなら与くれと。……﹂
﹁与くれ!﹂と渠かれはその掌てのひらを学生の鼻はな頭さきに突つき出いだせり。学生は直ただちにパイレットの函はこを投付けたり。渠かれはその一本を抽ぬき出いだして、燐マッ枝チを袂たもとに捜さぐりつつ、
﹁うむ、それから。﹂
﹁うむ、それからもないもんだ。﹂
﹁まあそう言わずに折せっ角かく話したまえ。謹きん聴ちょ々うき々んちょう。﹂
﹁その謹きん聴ちょうのきんの字は現金のきんの字だろう。﹂
﹁未いまだ詳つまびらかならず。﹂とその友は頭かしらを掉ふりぬ。
﹁それじゃその莨たばこを喫のんで謹きん聴ちょうし給え。
去年の夏だ、八はっ田たが潟たね、あすこから宇うの木きむ村らへ渡ッて、能の登との海かい浜ひんの勝しょうを探さぐろうと思って、家うちを出たのが六月の、あれは十日……だったかな。
渡わた場しばに着くと、ちょうど乗のり合あいが揃そろッていたので、すぐに乗のり込こんだ。船頭は未だ到いなかッたが、所ところの壮わか者いものだの、娘だの、女かみ房さん達が大勢で働いて、乗のり合あいに一ひと箇つずつ折おりをくれたと思い給え。見ると赤こわ飯めしだ。﹂
﹁塩しお釜がまよりはいい。﹂とその友は容まぜ喙かえせり。
﹁謹きん聴ちょうの約束じゃないか。まあ聴き給えよ。見ると赤こわ飯めしだ。﹂
﹁おや。二ふた個つ貰もらッたのか。だから近ちか来ごろはどこでも切符を出すのだ。﹂
この饒じょ舌うぜつを懲こらさんとて、学生は物をも言わで拳こぶしを挙あげぬ。
﹁謝あやまッた謝ッた。これから真ま面じ目めに聴く。よし、見ると赤こわ飯めしだ。それは解わかッた。﹂
﹁そこで……﹂
﹁食ったのか。﹂
﹁何を?﹂
﹁いや、よし、それから。﹂
﹁これはどういう事実だと聞くと、長年この渡わたしをやッていた船頭が、もう年を取ッたから、今度息むす子こに艪ろを譲ッて、いよいよ隠いん居きょをしようという、この日ひが老船頭、一いっ世せい一ちだ代いの漕こぎ納おさめだというんだ。面おも白しろかろう。﹂
渠かれの友は嗤せせ笑らわらいぬ。
﹁赤こわ飯めしを貰もらッたと思ってひどく面白がるぜ。﹂
﹁こりゃ怪けしからん! 僕が﹇#﹁怪けしからん! 僕が﹂は底本では﹁怪けしからん!僕が﹂﹈赤こわ飯めしのために面白がるなら、君なんぞは難あり有がたがッていいのだ。﹂
﹁なぜなぜ。﹂と渠かれは起おき回かえれり。
﹁その葉はま巻きはどうした。﹂
﹁うむ、なるほど。面白い、面白い、面白い話だ。﹂
渠かれは再び横になりて謹きん聴ちょうせり。学生は一いっ笑しょうして後のち件くだんの譚はなしを続けたり。
﹁その祝いわいの赤こわ飯めしだ。その上に船ふな賃ちんを取らんのだ。乗のり合あいもそれは目めで出た度いと言うので、いくらか包んで与やる者もあり、即そく吟ぎんで無理に一句浮べる者もありさ。まあ思おもい思いに祝いわッてやったと思おもいたまえ。﹂
例の饒舌先生はまた呶ど々ゝせり。
﹁君は何を祝った。﹂
﹁僕か、僕は例の敷しき島しまの道さ。﹂
﹁ふふふ、むしろ一つの癖くせだろう。﹂
﹁何か知らんが、名歌だッたよ。﹂
﹁しかし伺うかがおう。何と言うのだ。﹂
学生はしばらく沈ちん思しせり。その間に﹁年とし波なみ﹂、﹁八重の潮しお路じ﹂、﹁渡わた守しもり﹂、﹁心なるらん﹂などの歌うた詞ことばはきれぎれに打うち誦ずんぜられき。渠かれはおのれの名歌を忘ぼう却きゃくしたるなり。
﹁いや、名めい歌かはしばらく預ッておいて、本ほん文もんに懸かかろう。そうこうしているうちに船頭が出て来た。見ると疲よぼ曳よぼの爺じい様さんさ。どうで隠いん居きょをするというのだから、老とし者よりは覚かく悟ごの前だッたが、その疲よぼ曳よぼが盲めくらなのには驚いたね。
それがまた勘かんが悪いと見えて、船ふな着つきまで手を牽ひかれて来る始末だ。無むて途っぽ方うも極きわまれりというべしじゃないか。これで波の上を漕こぐ気だ。皆みんな呆あきれたね。険けん難のん千せん方ばんな話さ。けれども潟かたの事だから川よりは平穏だから、万まさ一かの事もあるまい、と好もの事ずきな連れん中じゅうは乗ッていたが、遁にげた者も四五人は有あッたよ。僕も好こう奇きし心んでね、話の種たねだと思ッたから、そのまま乗って出るとまた驚いた。
実に見せたかッたね、その疲よぼ曳よぼの盲めく者らがいざと言いッて櫓ろづ柄かを取ると、然しゃっきりとしたものだ、まるで別人さね。なるほどこれはその道みちに達したものだ、と僕は想おもッた。もとよりあのくらいの潟かただから、誰だッて漕こげるさ、けれどもね、その体たい度どだ、その気きあ力いだ、猛もう将しょうの戦たたかいに臨のぞんで馬上に槊さくを横よこたえたと謂ッたような、凛りん然ぜんとして奪うばうべからざる、いや実にその立派さ、未だに僕は忘れんね。人が難わけのない事を︵眠っていても出来る︶と言うが、その船頭は全くそれなのだ。よく聞いて見ると、その理はずさ。この疲よぼ曳よぼの盲めく者らを誰たれとか為なす! 若い時には銭ぜに屋や五ご兵へ衛えの抱かかえで、年中千五百石こく積づみを家として、荒海を漕こぎ廻まわしていた曲くせ者ものなのだ。新潟から直江津ね、佐渡辺あたりは持もち場ばであッたそうだ。中ちゅ年うねんから風ふう眼がんを病わずらッて、盲つぶれたんだそうだが、別に貧乏というほどでもないのに、舟を漕こがんと飯めしが旨うまくないという変へん物ぶつで、疲よぼ曳よぼの盲めく目らで在いながら、つまり洒しゃ落れ半分に渡わたしをやッていたのさ。
乗のり合あいに話はな好しずきの爺じい様さんが居いて、それが言ッたよ。上手な船頭は手先で漕こぐ。巧こう者しゃなのは眼で漕こぐ。それが名人となると、肚はらで漕こぐッ。これは大おおいにそうだろう。沖で暴はや風てでも吃くッた時には、一寸先は闇だ。そういう場合には名人は肚はらで漕こぐから確たしかさ。
生あい憎にくこの近眼だから、顔は瞭はっ然きり見えなかッたが、咥くわ煙えぎ管せるで艪を押すその持おち重つき加かげ減ん! 遖あっぱれ見みも物のだッたよ。﹂
饒じょ舌うぜつ先生も遂に口を噤つぐみて、そぞろに興きょうを催もよおしたりき。
下
魚うお津づより三みっ日かい市ち、浦うら山やま、船ふな見み、泊とまりなど、沿岸の諸しょ駅えきを過ぎて、越中越後の境なる関せきという村を望むまで、陰いん晴せいすこぶる常ならず。日光の隠いん顕けんするごとに、天そらの色はあるいは黒く、あるいは蒼あおく、濃こみ緑どりに、浅あさ葱ぎに、朱しゅのごとく、雪のごとく、激しく異状を示したり。
邇ちかく水陸を画かぎれる一帯の連山中に崛くっ起きせる、御おか神ぐら楽がた嶽けい飯いと豊よさ山んの腰を十と重え二は十た重えにれる灰あ汁くのごとき靄もやは、揺よう曳えいして巓いただきに騰のぼり、見みる見る天上に蔓はびこりて、怪物などの今や時を得んずるにはあらざるかと、いと凄すさまじき気けし色きなりき。
元来伏ふし木き直江津間の航路の三分の一は、遙はるかに能登半島の庇ひ護ごによりて、辛からくも内うち海うみを形かた成ちつくれども、泊とまり以東は全く洋々たる外そと海うみにて、快晴の日は、佐渡島の糢も糊こたるを見るのみなれば、四しめ面ん茫びょうぼうとして、荒あら波なみ山やまの崩くずるるごとく、心ここ易ろやすかる航行は一年中半日も有あり難がたきなり。
さるほどに汽船の出発は大事を取りて、十分に天気を信ずるにあらざれば、解かい纜らんを見みあ合わすをもて、却かえりて危険の虞おそれ寡すくなしと謂いえり。されどもこの日の空そら合あいは不幸にして見みあ謬やまられたりしにあらざるなきか。異状の天てん色しょくはますます不ふお穏んの徴ちょうを表せり。
一ひと時しきり魔まち鳥ょうの翼つばさと翔かけりし黒雲は全く凝ぎょ結うけつして、一いっ髪ぱつを動かすべき風だにあらず、気圧は低落して、呼吸の自由を礙さまたげ、あわれ肩をも抑おさうるばかりに覚えたりき。
疑うべき静せい穏おん! 異あやしむべき安あん恬てん! 名だたる親おや不しら知ずの荒磯に差さし懸かかりたるに、船体は微動だにせずして、畳たたみの上を行くがごとくなりき。これあるいはやがて起らんずる天変の大だい頓とん挫ざにあらざるなきか。
船は十一分の重おも量みあれば、進行極めて遅ちか緩んにして、糸いと魚いが川わに着きしは午後四時半、予定に後おくるること約およそ二時間なり。
陰いん※えい﹇#﹁日+︵士/冖/一/一/口/一︶﹂、38-9﹈たる空に覆おおわれたる万ばん象しょうはことごとく愁うれいを含みて、海辺の砂山に著いちじるき一点の紅くれないは、早くも掲げられたる暴風警けい戒かいの球きゅ標うひょうなり。さればや一艘そうの伝てん馬まも来きたらざりければ、五分間も泊とどまらで、船は急進直江津に向えり。
すわや海上の危機は逼せまると覚おぼしく、あなたこなたに散在したりし数十の漁船は、北にぐるがごとく漕こぎ戻もどしつ。観かん音のん丸まるにちかづくものは櫓ろづ綱なを弛ゆるめて、この異いふ腹くの兄弟の前途を危きづかわしげに目もく送そうせり。
やがて遙はるかに能の生うを認めたる辺あたりにて、天そ色らは俄にわかに一変せり。――陸おかは甚はなはだ黒く、沖は真白に。と見る間に血のごとき色は颯さと流れたり。日はまさに入らんとせるなり。
ここ一時間を無事に保たば、安あん危きの間を駛はする観かん音のん丸まるは、恙つつがなく直江津に着ちゃくすべきなり。渠かれはその全力を尽して浪を截きりぬ。団だん々だんとして渦巻く煤ばい烟えんは、右うげ舷んを掠かすめて、陸おかの方かたに頽なだれつつ、長く水面に横よこたわりて、遠く暮ぼし色ょくに雑まじわりつ。
天は昏こんとして睡ねむり、海は寂じゃ寞くまくとして声無し。
甲デッ板キの上は一時頗すこぶる喧けん擾じょうを極きわめたりき。乗客は各おの々おの生命を気きづ遣かいしなり。されども渠かれ等らは未いまだ風も荒すさまず、波も暴あれざる当とう座ざに慰められて、坐ざが臥ぎょ行うじ住ゅう思い思いに、雲を観みるもあり、水を眺むるもあり、遐とおくを望むもありて、その心には各々無限の憂うれいを懐いだきつつ、息てきそくして面おもてをぞ見合せたる。
まさにこの時とき、衝つと舳ともの方かたに顕あらわれたる船せん長ちょうは、矗しゅ立くりつして水先を打うち瞶まもりぬ。俄がぜ然ん汽笛の声は死しも黙くを劈つんざきて轟とどろけり。万事休す! と乗客は割るるがごとくに響どよ動めきぬ。
観かん音のん丸まるは直江津に安あん着ちゃくせるなり。乗客は狂喜の声を揚あげて、甲デッ板キの上に躍おどれり。拍手は夥おびただしく、観かん音のん丸まる万歳! 船長万歳! 乗のり合あい万歳!
八人の船ふな子こを備えたる艀はしけは直ただちに漕こぎ寄せたり。乗客は前後を争いて飛移れり。学生とその友とはやや有ありて出入口に顕あらわれたり。その友は二人分の手荷物を抱かかえて、学生は例の厄やっ介かい者ものを世話して、艀はしけに移りぬ。
艀はしけは鎖くさりを解ときて本船と別るる時、乗客は再び観かん音のん丸まると船長との万歳を唱となえぬ。甲デッ板キに立てる船長は帽ぼうを脱だっして、満面に微え笑みを湛たたえつつ答礼せり。艀はしけは漕こぎ出いだしたり。陸りくを去る僅わずかに三町ちょう、十分間にして達すべきなり。
折から一いっ天てん俄にわかに掻かき曇くもりて、と吹下す風は海原を揉もみ立たつれば、船は一ひと支ささえも支ささえず矢を射るばかりに突進して、無むに二む無さ三んに沖合へ流されたり。
舳とも櫓ろを押せる船ふな子こは慌あわてず、躁さわがず、舞まい上あげ、舞まい下さぐる浪なみの呼吸を量はかりて、浮きつ沈みつ、秘術を尽して漕こぎたりしが、また一ひと時きり暴あれ増まさる風の下に、瞻みあぐるばかりの高たか浪なみ立ちて、ただ一ひと呑のみと屏びょ風うぶ倒だおしに頽くずれんずる凄すさまじさに、剛ごう気きの船ふな子こも呀あなやと驚き、腕かいなの力を失う隙ひまに、艫へさきはくるりと波に曳ひかれて、船は危あやうく傾かたぶきぬ。
しなしたり! と渠かれはますます慌あわてて、この危急に処すべき手段を失えり。得たりやと、波と風とはますます暴あれて、この艀はしけをば弄もてあそばんと企くわだてたり。
乗のり合あいは悲鳴して打うち騒ぎぬ。八人の船ふな子こは効かい無き櫓ろづ柄かに縋すがりて、
﹁南なむ無こん金ぴら毘だい羅ご大ん権げ現ん!﹂と同どう音おんに念ずる時、胴どうの間まの辺あたりに雷らいのごとき声ありて、
﹁取とり舵かじ!﹂
舳とも櫓ろの船ふな子こは海上鎮ちん護ごの神の御みこ声えに気を奮ふるい、やにわに艪ろをば立直して、曳えい々えい声を揚あげて盪おしければ、船は難なん無なく風ふう波はを凌しのぎて、今は我物なり、大だい権ごん現げんの冥みょ護うごはあるぞ、と船ふな子こはたちまち力を得て、ここを先せん途どと漕こげども、盪おせども、ますます暴あるる浪なみの勢いきおいに、人の力は限かぎり有ありて、渠かれは身しん神しん全く疲労して、将まさに昏こん倒とうせんとしたりければ、船は再び危あやうく見えたり。
﹁取とり舵かじ!﹂と雷らいのごとき声はさらに一いっ喝かつせり。半死の船ふな子こは最もは早や神しん明めいの威いれ令いをも奉ほうずる能あたわざりき。
学生の隣に竦すくみたりし厄やっ介かい者ものの盲めく翁らおやじは、この時とき屹きつ然ぜんと立ちて、諸もろ肌はだ寛くつろげつつ、
﹁取とり舵かじだい﹂と叫ぶと見えしが、早くも舳ともの方かたへ転ころ行げゆき、疲れたる船ふな子この握れる艪ろを奪いて、金こん輪りん際ざいより生えたるごとくに突つっ立たちたり。
﹁若い衆しゅ、爺おやじが引受けた!﹂
この声とともに、船ふな子こは礑はたと僵たおれぬ。
一艘そうの厄やっ介かい船ぶねと、八人の厄やっ介かい船頭と、二十余人の厄やっ介かい客とは、この一個の厄やっ介かい物ものの手に因よりて扶たすけられつつ、半時間の後のちその命を拾いしなり。この老おいて盲めしいなる活かつ大だい権ごん現げんは何者ぞ。渠かれはその壮そう時じにおいて加か賀がの銭ぜに屋やな内いか閣くが海軍の雄ゆう将しょうとして、北ほっ海かいの全権を掌しょ握うあくしたりし磁じし石ゃくの又また五ごろ郎うなりけり。