剃刀研 十九日 紅梅屋敷 作平物語 夕空 点灯頃
雪の門 二人使者 左の衣兜 化粧の名残
雪の門 二人使者 左の衣兜 化粧の名残
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剃刀研
一
﹁おう寒いや、寒いや、こりゃべらぼうだ。﹂
と天あた窓まをきちんと分けた風俗、その辺の若い者。双ふた子この着物に白ッぽい唐とう桟ざんの半はん纏てん、博はか多たの帯、黒八丈の前まえ垂だれ、白しろ綾りん子ずに菊唐草浮織の手ハン巾ケチを頸うなじに巻いたが、向むこ風うかぜに少々鼻下を赤うして、土手からたらたらと坂を下り、鉄おは漿ぐろ溝どぶというのについて揚あげ屋やま町ちの裏の田町の方へ、紺足袋に日ひよ和り下げ駄た、後の減ったる代しろ物もの、一体なら此こい奴つ豪勢に発は奮ずむのだけれども、一進が一いっ十し、二にっ八ぱちの二月で工面が悪し、霜しも枯がれから引続き我慢をしているが、とかく気になるという足あし取どり。
ここに金きん鍔つば屋、荒物屋、煙たば草こ屋、損料屋、場末の勧かん工こう場ば見るよう、狭い店のごたごたと並んだのを通越すと、一間けん口に看板をかけて、丁寧に絵にして剪はさ刀みと剃かみ刀そりとを打ぶっ違ちがえ、下に五すけと書いて、親おや仁じが大目めが金ねを懸けて磨とぎ桶おけを控え、剃刀の刃を合せている図、目金と玉と桶の水、切きれ物ものの刃を真まっ蒼さおに塗って、あとは薄墨でぼかした彩さい色しき、これならば高尾の二代目三代目時分の禿かむろが使つかいに来ても、一目して研とぎ屋やの五助である。
敷居の内は一坪ばかり凸凹のたたき土間。隣のおでん屋の屋台が、軒下から三分が一ばかり此こな方たの店みせ前さきを掠かすめた蔭に、古ふる布ぬの子こで平ひら胡あぐ坐ら、継つぎはぎの膝かけを深うして、あわれ泰山崩るるといえども一髪動かざるべき身の構え。砥とい石しを前に控えたは可いいが、怠なま惰けが通りものの、真しん鍮ちゅうの煙きせ管るを脂やに下さがりに啣くわえて、けろりと往来を視ながめている、つい目と鼻なる敷居際につかつかと入ったのは、件くだんの若い者、捨すてどんなり。
手を懐にしたまま胸を突出し、半纏の袖口を両方入いり山やま形がたという見得で、
﹁寒いじゃあねえか、﹂
﹁いやあ、お寒う。﹂
﹁やっぱりそれだけは感じますかい、﹂
親仁は大口を開あいて、啣えた煙管を吐出すばかりに、
﹁ははははは、﹂
﹁暢のん気きじゃあ困るぜ、ちっと精を出しねえな。﹂
﹁一言もござりませんね、ははははは。﹂
﹁見や、それだから困るてんじゃあねえか。ぼんやり往来を見ていたって、何も落して行ゆく奴やつアありやしねえよ。しかも今時分、よしんば落して行った処にしろ、お前何だ、拾って店へ並べておきゃ札をつけて軒下へぶら下げておくと同おん一なじで、たちまち鳶とんびトーローローだい。﹂
﹁こう、憚はばかりだが、そんな曰いわ附くつきの代物は一ツも置いちゃあねえ、出でど処この確たしかなものばッかりだ。﹂と件くだんののみさしを行あん火かの火入へぽんと払はたいた。真鍮のこの煙管さえ、その中に置いたら異彩を放ちそうな、がらくた沢山、根ねつ附け、緒おじ〆めの類たぐい。古庖丁、塵じん劫こう記きなどを取交ぜて、石炭箱を台に、雨戸を横よこたえ、赤あか毛げっ布とを敷いて並べてある。
﹁いずれそうよ、出処は確たしかなものだ。川尻権ごん守のかみ、溝どぶ中のなか長左衛門ね、掃はき溜だめ衛門之介などからお下さがり遊ばしたろう。﹂
﹁愚おろ哉か々々、これ黙らっせえ、平たいらの捨吉、汝なんじ今頃この処に来きたって、憎まれ口をきくようじゃあ、いかさま地じいろが無ねえものと見える。﹂と説せっ破ぱ一番して、五助はぐッとまた横よこ啣ぐわえ。
平の捨吉これを聞くと、壇の浦没落の顔がん色しょくで、
﹁ふむ、余り殺生が過ぎたから、ここん処精進よ。﹂と戸おも外ての方へ目を反そらす。狭い町を一杯に、昼ひる帰がえりを乗せてがらがらがら。
二
あとは往ゆき来きがばったり絶えて、魔が通る前あと後さきの寂たる路みちかな。如きさ月らぎ十九日の日がまともにさして、土には泥ぬか濘るみを踏んだ足跡も留とどめず、さりながら風は颯さつ々さつと冷く吹いて、遥はるかに高い処で払はたきをかける。
﹁串じょ戯うだんじゃあねえ、﹂と若い者は立直って、
﹁紺こう屋やじゃあねえから明あさ後っ日てとは謂いわせねえよ。楼うちの妓おい衆らんたちから三挺ちょうばかり来てる筈はずだ、もう疾とっくに出来てるだろう、大急ぎだ。﹂
﹁へいへい。いやまた家業の方は真ま面じ目めでございス、捨さん。﹂
﹁うむ、﹂
﹁出来てるにゃ出来てます、﹂と膝かけからすぽりと抜けて、行あん火かを突出しながらずいと立つ。
若いものは心付いたように、ハアトと銘のあるのを吸いつける。
五助は背うし後ろむ向きになって、押廻して三段に釣った棚に向い、右から左のへ三度ばかり目を通すと、無慮四五百挺の剃かみ刀そりの中から、箱を二挺、紙にくるんだのを一挺、目方を引くごとく掌てのひらに据えたが、捨吉に差向けて、
﹁これだ、﹂
﹁どれ、﹂
箱を押すとすッと開いて、研とぎ澄すましたのが素まっ直すぐに出る、裏書をちょいと視ながめ、
﹁こりゃ青あお柳やぎさんと、可よし、梅の香さんと、それから、や、こりゃ名がねえが間違やしないか。﹂
﹁大丈夫、﹂
﹁確たしかかね。﹂
﹁千本ごッたになったって私わっしが受取ったら安心だ、お持ちなせえ、したが捨さん、﹂
﹁なあに、間違ったって剃刀だあ。﹂
﹁これ、剃刀だあじゃあねえよ、お前めえさん。今日は十九日だぜ。﹂
﹁ええ、驚かしちゃあ不いけ可ねえ、張はり店みせの遊おい女らんに時刻を聞くのと、十五日過すぎに日をいうなあ、大の禁物だ。年代記にも野暮の骨頂としてございますな。しかも今年は閏うるうがねえ。﹂
﹁いえ、閏があろうとあるまいと、今日は全く十九日だろうな。﹂と目金越に覗のぞき込むようにして謂いったので、捨吉は変な顔。
﹁どうしたい。そうさ、﹂
﹁お前めえさん楼とこじゃあ構わなかったっけか。﹂
﹁何を、﹂
﹁剃刀をさ。﹂
謂うことはのみ込めないけれども、急に改まって五助が真面目だから、聞くのも気がさして、
﹁剃刀を? おかしいな。﹂
﹁おかしくはねえよ。この頃じゃあ大抵何ど楼こでも承知の筈だに、どうまた気が揃ったか知らねえが、三人が三人取りに寄よ越こしたのはちっと変だ、こりゃお気をつけなさらねえと危あぶねえよ。﹂
ますます怪けげ訝んな顔をしながら、
﹁何も変なこたアありやしないんだがね、別に遊おい女らんたちが気を揃えてというわけでもなしさ。しかしあたろうというのは三人や四人じゃあねえ、遣やれるもんなら楼うちに居るだけ残らずというのよ。﹂
﹁皆みんなかい、﹂
﹁ああ、﹂
﹁いよいよ悪かろう。﹂
﹁だってお前めえ、床屋が居続けをしていると思や、不思議はあるめえ。﹂
五助は苦にが笑わらいをして、
﹁洒しゃ落れじゃあないというに。﹂
﹁何、洒落じゃあねえ、まったくの話だよ。﹂と若いものは話に念が入いって、仕事場の前に腰を据えた。
十九日
三
﹁昨ゆう夜べひけ過すぎにお前めえ、威勢よく三人で飛込んで来た、本郷辺の職人徒てあいさ。今朝になって直すというから休やす業みは十七日だに変だと思うと、案の定なんだろうじゃあないか。
すったもんだと捏こねかえしたが、言いい種ぐさが気に入ったい、総勢二十一人というのが昨きの日うのこッた、竹の皮包の腰兵糧でもって巣すが鴨もの養育院というのに出かけて、施ほどこしのちょきちょきを遣やってさ、総がかりで日の暮れるまでに頭の数五百そくと六十が処片づけたという奇特な話。
その崩くずれが豊国へ入って、大廻りに舞台が交かわると上野の見みは晴らしで勢せい揃ぞろいというのだ、それから二人にん三人ずつ別れ別れに大門へ討うち入いりで、格子さきで胄かぶ首とと見ると名なの乗りを上げた。
もとよりひってんは知れている、ただは遁にげようたあ言わないから、出来るだけ仕事をさせろ。愚ぐ図ず々々吐ぬかすと、処々に伏ふせ勢ぜいは配ったり、朝鮮伝来の地雷火が仕懸けてあるから、合図の煙きせ管るを払はたくが最後、芳原は空くうへ飛ぶぜ、と威勢の好いい懸かけ合あいだから、一番景気だと帳場でも買ったのさね。
そこで切味の可いいのが入用というので、ちょうどお前めえん処とこへ頼んだのが間に合うだろうと、大急ぎで取りに来たんだが、何かね、十九日がどうかしたかね。﹂
﹁どうのこうのって、真面目なんだ。いけ年どしを仕つかまつって何も万八を極きめるにゃ当りません。﹂
﹁だからさ、﹂
﹁大てえ概げえ御存じだろうと思うが、じゃあ知らねえのかね。この十九日というのは厄日でさ。別に船せん頭どし衆ゅうが大おお晦みそ日かの船出をしねえというような極きまったんじゃアありません。他ほかの同商売にはそんなことは無ねえようだが、廓くるわ中のを、こうやって引受けてる、私う許ちばかりだから忌いやじゃあねえか。﹂
﹁はて――ふうむ。﹂
﹁見なさる通りこうやって、二百そく三百と預ってありましょう。殊にこれなんざあ御銘々使い込んだ手加減があろうというもんだから。そうでなくッたって粗末にゃあ扱いません。またその癖誰もこれを一挺ちょうどうしようと云うのも無ねえてッた勘定だけれど、数のあるこッたから、念にゃあ念を入れて毎日一度ずつは調べるがね。紛ふん失じつするなんてえ馬鹿げたことはない筈はずだが、聞きなせえ、今日だ、十九日というと不思議に一挺ずつ失なくなります。﹂
﹁何なんが、﹂と変な目をして、捨吉は解わかったようで呑のみ込こめない。
﹁何がッたって、預ってる中うちのさ。﹂
﹁おお、﹂
﹁ね、御覧なせえ、不思議じゃアありませんかい。私わっしもどうやらこうやら皆みな様さんで贔ひい屓きにして、五助のでなくッちゃあ歯はぎ切れがしねえと、持込んでくんなさるもんだから、長年居附いて、婆ばばどんもここで見送ったというもんだ。先せんの内もちょいちょい紛失したことがあるにゃあります。けれども何の気も着かねえから、そのたんびに申訳をして、事済みになり〳〵したんだが。
毎々のことでしょう、気をつけると毎月さ、はて変だわえ、とそれからいつでも寝際にゃあちゃんと、ちゅう、ちゅう、たこ、かいなのちゅ、と遣ります。
いつの間にか失くなるさ、怪けしからねえこッたと、大きに考え込んだ日が何でも四五年前だけれど、忘れもしねえ十九日。
聞きなせえ。
するとその前の月にも一おと昨と日い持って来たとッて、東あず屋まやの都みやこという人のを新しん造ぞし衆ゅうが取りに来て、﹂
五助は振向いて背うし後ろの棚、件くだんの屋台の蔭ではあり、間まぜ狭まなり、日は当らず、剃刀ばかりで陰気なのを、目金越に見て厭いやな顔。
四
﹁と、ここから出そうとすると無かろうね。探したが探したがさあ知れねえ。とうとう平あやまりのこっち凹へこみ、先さき方さ様まむくれとなったんだが、しかも何と、その前の晩気を着けて見ておいたんじゃアあるまいか。
持って来たのが十八日、取りに来たのが二十日の朝、検しらべたのが前の晩なら、何でも十九日の夜中だね、希代なのは。﹂
﹁へい、﹂と言って、若い者は巻まき煙たば草こを口から取る。
五助は前まえ屈かがみに目金を寄せ、
﹁ほら、日が合ってましょう。それから気を着けると、いつかも江戸町のお喜き乃のさんが、やっぱり例の紛失で、ブツブツいって帰けえったッけ、翌あく日るひの晩方、わざわざやって来て、
︵どうしたわけだか、鏡台の上に、︶とこうだ。私う許ちへ預って、取りに来て失うせたものが、鏡台の上にあるは、いかがでござい。
鏡台の上はまだしもさ、悪くすると十九日には障子の桟さんなんぞに乗っかってる内があるッさ。
浮舟さんが燗かん部べ屋やに下さがっていて、七なぬ日かばかり腰が立たねえでさ、夏のこッた、湯へ入へえっちゃあ不いけ可ねえと固く留められていたのを、悪わる汗あせが酷ひどいといって、中なか引びけ過ぎに密そッと這はい出だして行って湯殿口でざっくり膝を切って、それが許もとで亡くなったのも、お前めえ、剃刀がそこに落ッこちていたんだそうさ。これが十九日、去年の八月知ってるだろう。
その日も一挺紛失さ、しかしそりゃ浮舟さんの楼うちのじゃあねえ、確か喜きぬ怒が川わの緑さんのだ、どこへどう間違って行ゆくのだか知れねえけれども、厭いやじゃあねえか、恐しい。
引ひっくるめて謂いや、こっちも一挺なくなって、廓くる内わうちじゃあきっと何ど楼こかで一挺だけ多くなる勘定だね。御入用のお客様はどなただか早や知らねえけれど、何でも私わっしが研とぎ澄すましたのをお持ちなさると見えるて、御念の入った。
溌ぱっとしちゃあ、お客にまで気を悪くさせるから伏せてはあろうが、お前さんだ、今日は剃刀を扱つかわねえことを知っていそうなもんだと思うが、楼うちでも気がつかねえでいるのかしら。﹂
﹁ええ! ほんとうかい、お前めえとは妙に懇意だが、実は昨今だから、……へい?﹂と顔の筋を動かして、眉をしかめ、目をると、この地色の無い若い者は、思わず手に持った箱を、ばったり下に置く。
﹁ええ、もし、﹂
﹁はい。﹂と目金を向ける、気を打った捨吉も斉ひとしく振向くと、皺しゃ嗄がれた声で、
﹁お前さん、御免なさいまし。﹂
敷居際に蹲つくばった捨吉が、肩のあたりに千草色の古ふる股もも引ひき、垢あかじみた尻しり切きり半ばん纏てん、よれよれの三尺、胞え衣なかと怪あやしまれる帽を冠かぶって、手てぬ拭ぐいを首に巻き、引出し附のがたがた箱と、海なま鼠こな形りの小こだ盥らい、もう一ツ小盥を累かさねたのを両方振分にして天てん秤びんで担いだ、六十ばかりの親おや仁じ、瘠やせさらぼい、枯木に目と鼻とのついた姿で、さもさも寒そう。
捨吉は袖を交わして、ひやりとした風、つっけんどんなもの謂いいで、
﹁何だ、﹂
﹁はい、もしお寒いこッてござります。﹂
﹁北なら風いのせいだな、こちとらの知ったこッちゃあねえよ。﹂
﹁へへへへへ、﹂と鼻の尖さきで寂さみしげなる笑えみを洩もらし、
﹁もし、唯ただ今いまのお話は、たしか幾いく日かだとかおっしゃいましたね。﹂
五
五助は目金越に、親仁の顔を瞻みまもっていたが、
﹁やあ作さく平べいさんか、﹂といって、その太わくの面おも道てど具うぐを耳から捻ねじり取るよう、ぎはなして膝の上。口をこすって、またたいて、
﹁飛んだ、まあお珍しい、﹂と知った中。捨吉間が悪かったものと見え、
﹁作平さん、かね。﹂と低こご声えで口の裡うち。
折から、からからと後あと歯ばの跫あし音おと、裏口ではたと留やんで、
﹁おや、また寝そべってるよ、図々しい、﹂
叱こご言とは犬か、盗ぬす人っと猫ねこか、勝手口の戸をあけて、ぴッしゃりと蓮はす葉はにしめたが、浅間だから直じきにもう鉄瓶をかちりといわせて、障子の内に女の気けは勢い。
﹁唯今。﹂
﹁帰けえんなすったかい、﹂
﹁お勝さん?﹂と捨吉は中腰に伸上りながら、
﹁もうそんな時分かな。﹂
﹁いいえ、いつもより小一時間遅いんですよ、﹂
という時、二枚立だてのその障子の引手の破やぶ目れめから仇あだ々あだしい目が二ツ、頬のあたりがほの見えた。蓋けだし昼の間うち寐ねるだけに一間の半なかばを借り受けて、情いろ事ごとで工面の悪い、荷物なしの新しん造ぞが、京町あたりから路地づたいに今頃戻って来るとのこと。
﹁少し立込んだもんですからね、﹂
﹁いや、御苦労様、これから緩ゆっくりとおひけに相あい成なります?﹂
﹁ところが不い可けないの、手が足りなくッて二度の勤つとめと相成ります。﹂
﹁お出でか懸けか、﹂と五助。
﹁ええ、困るんですよ、昨ゆう夜べもまるッきり寐ないんですもの、身から体だ中ぞくぞくして、どうも寒いじゃアありませんか、お婆さん堪たまらないから、もう一枚下へ着込んで行ゆきましょうと思って、おお、寒い。﹂といってまた鉄瓶をがたりと遣やる。
さらぬだに震えそうな作平、
﹁何てえ寒いこッてございましょう、ついぞ覚えませぬ。﹂
﹁はッくしょい、ほう、﹂と呼い吸きを吹いて、堪たまりかねたらしい捨吉続けざまに、
﹁はッくしょい! ああ、﹂といって眉を顰ひそめ、
﹁噂うわさかな、恐しく手間が取れた、いや、何しろ三挺頂いて帰りましょう。薄気味は悪いけれど、名にし負う捨どんがお使者でさ、しかも身みが替わりを立てる間うち奥の一間で長ッ尻ちりと来ていらあ。手ぶらでも帰られまい。五助さん、ともかくも貰って行ゆくよ。途中で自おの然ずからこの蓋ふたが取れて手が切れるなんざ、おっと禁句、﹂とこの際、障子の内へ聞かせたさに、捨吉相方なしの台せり辞ふあり。
五助はまめだって、
﹁よくそう謂いいなせえよ、﹂
﹁十九日かね、﹂と内からいう。
﹁ええ、御存じ、﹂といいながら、捨吉腰を伸のばしてずいと立った。
﹁希代だわねえ。﹂
﹁やっぱり何でございますかい、﹂と作平はこれから話す気、振ふりかえて、荷を下おろし、屋台へ天秤を立てかける。
捨吉はぐいと三挺、懐へ突込みそうにしたが、じっと見て、
﹁おッと十九日。﹂
という処へ、荷車が二台、浴衣の洗濯を堆うずたかく積んで、小僧が三人寒い顔をしながら、日ひな向たをのッしりと曵ひいて通る。向うの路地の角なる、小さな薪まき屋の店みせ前さきに、炭たど団んを乾かした背うし後ろから、子守がひょいと出て、ばたばたと駆けて行ゆく。大音寺前あたりで飴あめ屋の囃はや子し。
紅梅屋敷
六
その荷車と子守の行ゆき違ちがったあとに、何にもない真まっ赤かな田町の細路へ、捨吉がぬいと出る。
途端にちりりんと鈴りんの音、袖に擦合うばかりの処へ、自転車一輛、またたきする間もあらせず、
﹁危い、﹂と声かけてまた一輛、あッと退すさると、耳みみ許もとへ再び、ちりちり!
土手の方から颯さっと来たが、都合三輛か、それ或あるいは三羽びきか、三疋びきか、燕つばめか、兎か、見分けもつかず、波の揺れるようにたちまち見えなくなった。
棒立ちになって、捨吉茫ぼう然ぜんと見送りながら、
﹁何だ、一文も無ねえ癖に、﹂
﹁汝てめえじゃアあるまいし。﹂
﹁や、﹂
﹁どうした。﹂
﹁へい、﹂
﹁近頃はどうだ、ちったあ当りでもついたか、汝てめえ、桐島のお消けしに大分執心だというじゃあないか。﹂
﹁どういたしまして、﹂
﹁少しも御遠慮には及ばぬよ。﹂
﹁いえ、先さ方きへでございます、旦だん那なにじゃあございません。﹂
﹁そうか、いや意い気く地じの無い奴やつだ。﹂と腹蔵の無い高たか笑わらい。少すこ禿はげ天あた窓まてらてらと、色づきの好いい顔かお容かたち、年配は五十五六、結ゆう城きの襲かさ衣ねに八反の平ひら絎ぐけ、棒ぼう縞じまの綿わた入いれ半ばん纏てんをぞろりと羽織って、白しろ縮ちり緬めんの襟巻をした、この旦那と呼ばれたのは、二ふた上かみ屋やと藤うさ三ぶろ郎うという遊女屋の亭主で、廓くるわ内の名望家、当時見番の取とり締しまりを勤めているのが、今向むこうの路地の奥からぶらぶらと出たのであった。
界かい隈わいの者が呼んで紅梅屋敷という、二上屋の寮は、新築して実にその路地の突つき当あたり、通とおりの長な屋ら並びの屋敷越に遠くちらちらとある紅くれないは、早や咲さき初そめた莟つぼみである。
捨吉は更あらためて、腰を屈かがめて揉もみ手でをし、
﹁旦那御一所に。﹂
﹁おお、これからの、﹂
という処へ、萌もえ黄ぎ裏の紺看板に二の字を抜いた、切きっ立たての半はっ被ぴ、そればかりは威勢が可いいが、かれこれ七十にもなろうという、十とす筋じう右え衛も門んが向むこ顱うは巻ちまき。
今一人にん、唐とう縮ちり緬めんの帯をお太鼓に結んで、人柄な高島田、風呂敷包を小脇に抱えて、後あと前さきに寮の方から路地口へ。
捨吉はこれを見て、
﹁や、爺とっさん、こりゃ姉さん、﹂
﹁ああ、今日はちっとの、内ない証しょに芝居者のお客があっての、実は寮の方で一杯と思って、下した拵ごしらえに来てみると、困るじゃあねえか、お前めえ。﹂
﹁へい、へい成程。﹂
﹁お若が例のやんちゃんをはじめての、騒々しいから厭いやだと謂いうわ。じゃあ一晩だけ店の方へ行っていろと謂ったけれど、それをうむという奴かい。また眩めま暈いをされたり、虫でも発おこされちゃあ叶かなわねえ。その上お前、ここいらの者に似合わねえ、俳やく優しゃというと目の敵かたきにして嫌うから、そこで何だ。客は向むこうへ廻すことにして、部屋の方の手伝に爺やとこのお辻をな、﹂
﹁へい、へい、へい、成程、そりゃお前めえさん方御苦労様。﹂
﹁はははは、別おし荘もやしきに穴あな籠ごもりの爺じじめが、土用干でございますてや。﹂
﹁お前さん、今日は。﹂とお辻というのが愛想の可いい。
藤三郎はそのまま土手の方へ行こうとして、フト研とぎ屋やの店を覗のぞ込きこんで、
﹁よくお精が出るな。﹂
﹁いや、﹂作平と共に四人の方かたを見ていたのが、天あた窓まをひたり、
﹁お天気で結構でございます。﹂
﹁しかし寒いの。﹂と藤三郎は懐手で空を仰ぎ、輪形なりにずッとして、
﹁筑波の方に雲が見えるぜ。﹂
七
﹁嘘あねえ。﹂
と五助はあとでまた額を撫なで、
﹁怠けちゃあ不いけ可ないと謂いわれた日にゃあ、これでちっとは文句のある処だけれど、お精が出ますとおっしゃられてみると、恐入るの門なりだ。
実際また我ながらお怠け遊ばす、婆ばばあどんの居た内はまだ稼ぐ気もあったもんだが、もう叶かなわねえ。
人間色気と食気が無くなっちゃあ働けねえ、飲のみけで稼ぐという奴やつあ、これが少ねえもんだよ、なあ、お勝さん、﹂と振向いて呼んでみたが、
﹁もうお出懸けだ、いや、よく老ま実めに廻ることだ。はははは作平さん、まあ、話しなせえ、誰も居ねえ、何ならこっちへ上って炬こた燵つに当ってよ、その障子を開けりゃ可いい、はらんばいになって休んで行ゆきねえ。﹂
﹁そうもしてはいられぬがの、通りがかりにあれじゃ、お前さんの話が耳に入いって、少し附かぬことを聞くようじゃけれど、今のその剃かみ刀そりの失うせるという日は、確か十九日とかいわしった、﹂
﹁むむ、十九日十九日、﹂と、気きの乗りがしたように重ね返事、ふと心付いた事あって、
﹁そうだ、待ちなせえ、今日は十九日と、﹂
五助は身を捻ひねって、心ここ覚ろおぼえ、後うしろざまに棚なる小箱の上から、取とり下おろした分厚な一綴てつの註文帳。
膝の上で、びたりと二つに割って開け、ばらばらと小口を返して、指の尖さきでずッと一わたり、目金で見通すと、
﹁そうそうそう、﹂といって仰あお向むいて、掌たなそこで帳面をたたくこと二三度す。
作平もしょぼしょぼとある目で覗のぞきながら、
﹁日ひぎ切れの仕事かい。﹂
﹁何、急ぐのじゃあねえけれど、今日中に一挺ちょう私わしが気で研いで進ぜたいのがあったのよ、つい話にかまけて忘りょうとしたい、まあ、﹂
﹁それは邪魔をして気の毒な。﹂
﹁飛んでもねえ、緩ゆっくりしてくんねえ。何さ、実はお前めえ、聞いていなすったか、その今日だ。この十九日にゃあ一日仕事を休むんだが、休むについてよ、こう水を更あらためて、砥とい石しを洗って、ここで一挺念ねん入いりというのがあるのさ、﹂
﹁気に入ったあつらえかの。﹂
﹁むむ、今そこへ行ゆきなすった、あの二上屋の寮が、﹂
と向うの路地を指ゆびさした。
﹁あ、あ、あれだ、紅梅が見えるだろう、あすこにそのお若さんてって十八になるのが居て、何だ、旦那の大の秘ひぞ蔵うっ女こさ。
そりゃ見せたいような容きり色ょうだぜ、寮は近頃出来たんで、やっぱり女郎屋の内ない証しょで育ったもんだが、人は氏よりというけれど、作平さん、そうばかりじゃあねえね。
お蔭で命を助かった位な施ほどこしを受けてるのがいくらもあら。
藤三郎父ちゃ親んがまた夢中になって可愛がるだ。
少ねえ姐さんの袖に縋すがりゃ、抱えられてる妓こど衆もしゅうの証文も、その場で煙けむになりかねない勢いきおいだけれど、そこが方便、内に居るお勝なんざ、よく知ってていうけれど、女郎衆なんという者は、ハテ凡人にゃあ分らねえわ。お若さんの容きり色ょうが佳いいから天あた窓まを下げるのが口くや惜しいとよ。
私あっしあ鐚びた一いち文もん世話になったんじゃあねえけれど、そんなこんなでお前めえ、その少ねえ姐さんが大の贔ひい屓き。
どうだい、こう聞きゃあお前めえだって贔屓にしざあなるめえ。死んだ田之助そッくりだあな。﹂
八
﹁ところで御註文を格別の扱あつかいだ。今日だけは他ほかの剃刀を研がねえからね、仕事と謂いや、内じゃあ商売人のものばかりというもんだに因って、一番不浄除よけの別べつ火びにして、お若さんのを研ごうと思って。
うっかりしていたが、一挺来ていたというもんだ、いつでもこうさ。
一体十九日の紛失一件は、どうも廓くるわにこだわってるに違ちげえねえ。祟たたるのは妓こど衆もしなんだからね、少ねえ姐さんなんざ、遊おい女らんじゃあなし、しかも廓くる内わうちに居るんじゃあねえから構うめえと思ってよ。
まあ何にしろ変な訳さ。今に見ねえ、今日もきっと誰どな方たか取りにござる。いや作平さん、狐千年を経ふれば怪をなす、私わっしが剃かみ刀そり研とぎなんざ、商売往来にも目立たねえ古こぶ物つだからね、こんな場所がらじゃアあるし、魔がさすと見えます。
そういやあ作平さん、お前さんの鏡かが研みとぎも時代なものさ、お互たげえに久しいものだが、どうだ、御無事かね。二階から白井権八の顔でもうつりませんかい。﹂
その箱と盥たらいとを荷になった、痩やせさらぼいたる作平は、蓋けだし江戸市中世よわ渡たりぐさに俤おもかげを残した、鏡を研いで活なり業わいとする爺じじいであった。
淋しげに頷うなずいて、
﹁ところがもし御同様じゃで、﹂
﹁御同様﹂と五助は日脚を見て仕事に懸かかる気、寮の美人の剃刀を研ぐ気であろう。桶おけの中で砥とい石しを洗いながら、慌てたように謂いい返した。
﹁御同様は気がねえぜ、お前めえの方にも曰いわくがあるかい。﹂
﹁ある段か、お前さん。こういうては何じゃけれど、田町の剃刀研、私わしは広徳寺前を右へ寄って、稲いな荷りち町ょうの鏡研、自分達が早や変へん化げの類たぐいじゃ、へへへへへ。﹂と薄うす笑わらい。
﹁おやおや、汝てめえから名乗る奴やつもねえもんだ。﹂と、かっちり、つらつらと石を合せる。
﹁じゃがお前、東京と代が替って、こちとらはまるで死んだ江戸のお位いは牌いの姿じゃわ、羅ら宇お屋の方はまだ開あけたのが出来たけれど、もう貍まみ穴あなの狸、梅暮里の鰌どじょうなどと同ひと一つじゃて。その癖職人絵合せの一枚刷ずりにゃ、烏えぼ帽し子す素お袍うを着て出ようというのじゃ。﹂
﹁それだけになお罪が重いわ。﹂
﹁まんざらその祟たたりに因縁のないことも無いのじゃ、時に十九日の。﹂
﹁何か剃刀の失うせるに就いてか、﹂
﹁つい四五日前、町内の差お配お人やさんが、前の溝川の橋を渡って、蔀しとみを下おろした薄暗い店さきへ、顔を出さしったわ。はて、店たな賃ちんの御催促。万年町の縁の下へ引ひっ越こすにも、尨むく犬いぬに渡わたりをつけんことにゃあなりませぬ。それが早や出来ませぬ仕し誼ぎ、一刻も猶予ならぬ立たち退のけでござりましょう。その儀ならば後のちとは申しませぬ、たった今川ン中へ引越しますと謂いうたらば。
差おお配やさん苦にが笑わらいをして、狸爺め、濁どぶ酒ろくに喰くらい酔って、千鳥足で帰って来たとて、桟さん橋ばしを踏外そうという風かい。溝どぶ店だなのお祖師様と兄弟分だ、少わかい内から泥ぬか濘ぬみへ踏込んだ験ためしのない己おれだ、と、手てめ前え太平楽を並べる癖に。
御意でござります。
どこまで始末に了おえねえか数すうが知れねえ。可いいや、地尻の番太と手てめ前えとは、己おらが芥けし子ぼ坊う主ずの時分から居てつきの厄介者だ。当あてもねえのに、毎日研物の荷を担いで、廓内をぶらついて、帰りにゃあ箕みの輪わの浄閑寺へ廻って、以前御ごひ贔い屓きになりましたと、遊おい女らんの無縁の塔婆に挨あい拶さつをして来やあがる。そんな奴も差さは配い内になくッちゃあお祭の時幅が利かねえ。忰せがれは稼いでるし、稲荷町の差配は店賃の取り立てにやあ歩あ行るかねえッての、むむ。﹂と大得意。この時五助はお若の剃刀をぴったりと砥とにあてたが、哄こう然ぜんとして、
﹁気に入った気に入った、それも贔屓の仁左衛門だい。﹂
作平物語
九
﹁ところで聞かっしゃい、差おお配やさまの謂いうのには、作平、一ひと番つ念ねん入いりに遣やってくれ、その代り儲かるぜ、十二分のお手当だと、膨らんだ懐ふと中ころから、朱しゅ総ぶさつき、錦にしきの袋入というのを一面の。
何でも差おお配やさんがお出でい入りの、麹こう町じまち辺の御大家の鏡じゃそうな。
さあここじゃよ。十九日に因縁づきは。憚はばかってお名前は出さぬが、と差おお配やさんが謂わっしゃる。
その御大家は今寡ごけ婦さ様まじゃ、まず御後室というのかい。ところでその旦那様というのはしかるべきお侍、もうその頃は金モオルの軍人というのじゃ。
鹿児島戦争の時に大したお手柄があって、馬車に乗らっしゃるほどな御身分になんなされたとの。その方が少わかい時よ。
誰もこの迷まよいばかりは免れぬわ。やっぱりそれこちとらがお花とく主いの方に深いのが一人出来て、雨の夜よ、雪の夜もじゃ。とどの詰つまりがの、床の山で行倒れ、そのまんまずッと引取られたいより他ほかに、何の望のぞみもなくなったというものかい。居続けの朝のことだとの。
遊おい女らんは自分が薄着なことも、髪のこわれたのも気がつかずに、しみじみと情い人ろの顔じゃ。窶やつれりゃ窶れるほど、嬉しいような男おと振こぶりじゃが、大層髭ひげが伸びていた。
鏡台の前に坐らせて、嗽うがい茶碗で濡ぬらした手を、男の顔へこう懸けながら、背うし後ろへ廻った、とまあ思わっせえ。
遊おい女らんは、胸にものがあってしたことか。わざと八寸の延のべ鏡かがみが鏡立たてに据えてあったが、男は映る顔に目も放さず。
うしろから肩越に気高い顔を一所にうつして、遊おい女らんが死のうという気じゃ。
あなた、私の心が見えましょう、と覗のぞ込きこんだ時に、ああ、堪忍しておくんなさい、とその鏡を取って俯うつ向むけにして、男がぴったりと自分の胸へ押おッ着つけたと。
何を他人がましい、あなた、と肩につかまった女の手を、背うし後ろざまに弾はねたので、うんにゃ、愚痴なようだがお前には怨うらみがある。母おっ様かさんによく肖にた顔を、ここで見るのは申訳がないといって、がっくり俯向いて男おと泣こなき。
遊おい女らんはこれを聞くと、何と思ったか、それだけのものさえ持てようかという痩やせた指で、剃かみ刀そりを握ったまま、顔の色をかえて、ぶるぶると震えたそうじゃが、突いき然なり逆さか手てに持直して、何と、背うし後ろからものもいわずに、男の咽の喉どへ突つっ込こんだ。﹂
五助は剃刀の平ひらを指で圧おさえたまま、ひょいと手を留めた。
﹁おお、危あぶねえ。﹂
﹁それにの、刃物を刺すといや、針さしへ針をさすことより心得ておらぬような婦おん人なじゃあなかった。俺おらあ遊おい女らんの名と坂の名はついぞ覚えたことは無ねえッて、差おお配やさんは忘れたと謂いわッしたっけ。その遊女は本名お縫さんと謂っての、御大身じゃあなかったそうじゃが、歴れっきとした旗本のお嬢さんで、お邸やしきは番町辺。
何でも徳川様瓦がか解いの時分に、父おと様っさんの方は上野へ入へえんなすって、お前、お嬢さんが可かわ哀いそうにお邸の前へ茣ご蓙ざを敷いて、蒔まき絵えの重箱だの、お雛ひな様さまだの、錦にし絵きえだのを売ってござった、そこへ通りかかって両方で見初めたという悪縁じゃ。男の方は長州藩の若侍。
それが物変り星移りの、講釈のいいぐさじゃあないが、有為転変、芳原でめぐり合あい、という深い交な情かであったげな。
牛込見附で、仲ちゅ間うげんの乱暴者を一人にん、内職を届けた帰りがけに、もんどりを打たせたという手てき利きなお嬢さんじや、廓くるわでも一ひと時しきり四あた辺りを払ったというのが、思い込んで剃刀で突いた奴やつ。﹂
﹁ほい。﹂
十
﹁男はまるで油断なり、万に一つも助かる生いの命ちじゃあなかったろうに、御運かの。遊おい女らんは気がせいたか、少し狙ねらいがはずれた処へ、その胸に伏せて、うつむいていなすった、鏡で、かちりとその、剃刀の刃が留まったとの。
私わしはどちらがどうとも謂いわぬ。遊おい女らんの贔ひい屓きをするのじゃあないけれど、思詰めたほどの事なら、遂げさしてやりたかったわ、それだけ心得のある婦おん人なが、仕損じは、まあ、どうじゃ。﹂
﹁されば、﹂
﹁その代り返す手で、我が咽の喉どを刎はね切った遊おい女らんの姿の見事さ!
口く惜やしい、口惜しい、可愛いこの人の顔を余よ所その婦おん人なに見せるのは口惜しい! との、唇を噛かんだまま、それなりけり。
全く鏡を見なすった時に、はッと我に返って、もう悪所には来まいという、吃きっとした心になったのじゃげな。
容よう子すで悟った遊おい女らんも目が高かった。男は煩悩の雲晴れて、はじめて拝む真しん如にょの月かい。生いの命ちの親なり智識なり、とそのまま頂かしった、鏡がそれじゃ。はて総ふさつき錦の袋入はその筈はずじゃて、お家に取っては、宝じゃものを。
念を入れて仕上げてくれ、近々にその後室様が、実の児こよりも可愛がっておいでなさる、甥おい御ごが一ひと方かた。悪い茶も飲まずに、さる立派な学校を卒業なされた。そのお祝に、御教訓をかねてお遣つか物いものになさるつもり、まずまあ早くいってみりゃ、油断が起って女おん狂なぐるい、つまり悪あく所しょ入ばいりなどをしなさらぬようにというのじゃ。
作平頼む、と差おお配やさんが置いて行ゆかれた。畏かしこまり奉るで、昨きの日うそれが出来て、差配さんまで差出すと、直すぐに麹町のお邸やしきとやらへ行ゆかしった。
点ひと火もし頃ごろに帰って来て、作、喜べと大枚三両。これはこれはと心しんから辞退をしたけれども、いや先さき方さ様までも大喜び、実は鏡についてその話のあったのは、御ごい維っし新んになって八年、霜月の十九日じゃ。月こそ違うが、日は同おん一なじ、ちょうど昨日の話で今日、更あらためてその甥御様に送る間にあった、ということで、研とぎ賃ちんには多かろうが、一杯飲んでくれと、こういうのじゃ。
頂きます頂きます、飲のみ代しろになら百両でも御辞退仕つかまつりまする儀ではござりませぬと、さあ飲んだ、飲んだ、昨ゆう夜べ一晩。
ウイか何かでなあ五助さん、考えて見ると成程な、その大家の旦那がすっかり改心をなされた、こりゃ至極じゃて。
お連つれ合あいの今の後室が、忘れずに、大事にかけてござらっしゃる、お心ここ懸ろがけも天あっ晴ぱれなり、来歴づきでお宝物にされた鏡はまた錦の袋入。こいつも可いいわい。その研とぎ手てに私わしをつかまえた差配さんも気に入ったり、研いだ作平もまず可いわ。立派な身分になんなすった甥御も可よし。戒いましめのためと謂いうて、遣物にさっしゃる趣向も受けた。手間じゃない飲代にせいという文句も可しか、酒も可いが、五助さん。
その発端になった、旗本のお嬢さん、剃刀で死んだ遊おい女らんの身になって御ごろ覧うじろ、またこのくらいよくない話はあるまい。
迷まよいじゃ、迷は迷じゃが、自分の可愛い男の顔を、他ほかの婦おん人なに見せるのが厭いやさに、とてもとあきらめた処で、殺して死のうとまで思い詰めた、心はどうじゃい。
それを考えれば酒も咽の喉どへは通らぬのを、いやそうでない。魂こん魄ぱくこの土どに留とどまって、浄閑寺にお参まい詣りをする私わしへの礼心、無縁の信女達の総代に麹町の宝物を稲荷町までお遣わしで、私わしに一杯振舞うてくれる気、と、早や、手前勝手。飲みたいばかりの理窟をつけて、さて、煽あおるほどに、けるほどに、五助さん、どうだ。
私わしの顔色の悪いのは、お憚はばかりだけれど今日ばかりは貧乏のせいでない。三年目に一度という二日酔の上機嫌じゃ、ははは。﹂とさも快げに見えた。
夕空
十一
時に五助は反ほご故が紙みを扱しごいて研とぎ澄すました剃かみ刀そりに拭ぬぐいをかけたが、持直して掌てのひらへ。
折から夕暮の天そら暗く、筑波から出た雲が、早や屋根の上から大おお鷲わしの嘴くちばしのごとく田町の空を差さし覗のぞいて、一しきり烈はげしくなった往ゆき来きの人の姿は、ただ黒い影が行ゆき違ちがい、入乱るるばかりになった。
この際一ひと際きわ色の濃く、鮮あざやかに見えたのは、屋根越に遠く見ゆる紅梅の花で、二上屋の寮の西向の硝がら子す窓へ、たらたらと流るるごとく、横雲の切きれ目めからとばかりの間、夕陽が映じたのである。
剃刀の刃は手ても許との暗い中に、青光三寸、颯さつ々さつと音をなして、骨をも切るよう皮を辷すべった。
﹁これだからな、自慢じゃあねえが悪くすると人ごろしの得物にならあ。ふむ、それが十九日か。﹂といって少し鬱ふさぐ。
﹁そこで久しぶりじゃ、私わしもちっと冷える気味でこちらへ無ぶ沙さ汰たをしたで、また心ゆかしに廓くるわを一廻まわり、それから例の箕みの輪わへ行って、どうせ苔こけの下じゃあろうけれど、ぶッつかり放題、そのお嬢さんの墓と思って挨拶をして来ようと、ぶらぶら内を出て来たが。
お極きまりでお前まいン許とこへお邪魔をすると、不思議な話じゃ。あと前さきはよく分らいでも、十九日とばかりで聞く耳が立ったての。
何じゃ知らぬが、日が違わぬから、こりゃものじゃ。
五助さん、お前まいの許にもそういうかかり合あいがあるのなら、悪いことは謂いわぬ、お題目を唱えて進ぜなせえ。
つい話で遅くなった。やっとこさと、今日はもう箕の輪へだけ廻るとしよう。﹂と謂うだけのことを謂って、作平は早や腰を延のそうとする。
トタンにがらがらと腕くる車まが一台、目の前へ顕あらわれて、人ひと通どおりの中を曵ひいて通る時、地じひ響びきがして土間ぐるみ五助の体たいはぶるぶると胴どう震ぶるい。
﹁ほう、﹂といって、俯うつ向むいていたぼんやりの顔を上げると、目金をはずして、
﹁作平さん、お前は怨うらみだぜ、そうでなくッてさえ、今日はお極きまりのお客様が無けりゃ可いいが、と朝から父おや親じの精進日ぐらいな気がしているから、有あり体ていの処腹の中うちじゃお題目だ。
唱えて進ぜなせえは聞えたけれど、お前めえ、言いい種ぐさに事を欠いて、私わしが許とこをかかり合あいは、大おおきに打てらあ。いや、もうてっきり疑いなし、毛頭違いなし、お旗本のお嬢さん、どうして堪たまるものか。話のようじゃあ念が残らねえでよ、七代までは祟たたります、むむ祟るとも。
串じょ戯うだんじゃあねえ、どの道何か怨うらみのある遊おい女らんの幽霊とは思ったけれど、何ど楼この何だか捕つかまえどこのねえ内はまだしも気休め。そう日が合って剃刀があって、当りがついちゃあ叶かなわねえ。
そうしてお前めえ、咽の喉どを突いたんだっていったじゃあねえか。﹂
﹁これから、これへ、﹂と作平は垢あかじみた細い皺しわだらけの咽のど喉ぼと仏けを露むき出だして、握にぎ拳りこぶしで仕方を見せる。
五助も我知らず、ばくりと口を開あいて、
﹁ああ、ああ、さぞ、血が出たろうな、血が、﹂
﹁そりゃ出たろうとも、たらたらたら、﹂と胸へ真まっ直すぐに棒を引く。
﹁うう、そして真まっ赤かか。﹂
﹁黒味がちじゃ、鮪まぐろの腸わたのようなのが、たらたらたら。﹂
﹁止よしねえ、何だなお前めえ、それから口くや惜しいッて歯を噛かんで、﹂
﹁怨うら死みじにじゃの。こう髪を啣くわえての、凄すごいような美しい遊おい女らんじゃとの、恐こわいほど品の好いいのが、それが、お前こう。﹂と口を歪ゆがめる。
﹁おお、おお、苦しいから白しら魚おのような手を掴つかみ、足をぶるぶる。﹂と五助は自分で身みも悶だえして、
﹁そしてお前めえ、死しが骸いを見たのか。﹂
﹁何を謂わっしゃる、私わしは話を聞いただけじゃ。遊おい女らんの名も知りはせぬが。﹂
五助は目をってホッと呼い吸き、
﹁何の事だ、まあ、おどかしなさんない。﹂
十二
作平も苦笑い、
﹁だってお前が、おかしくもない、血が赤いかの、指をぶるぶるだの、と謂うからじゃ。﹂
﹁目に見えるようだ。﹂
﹁私わしもやっぱり。﹂
﹁見えるか、ええ?﹂
﹁まずの。﹂
﹁何もそう幽霊に親類があるように落着いていてくれるこたあねえ、これが同おな一じでも、おばさんに雪責にされて死んだとでもいう脆かよ弱わい遊おい女らんのなら、五助も男だ。こうまでは驚かねえが、旗本のお嬢さんで、手が利いて、中ちゅ間うげんを一人もんどり打たせたと聞いちゃあ身動きがならねえ。
作平さん、こうなりゃお前めえが対あい手てだ、放しッこはねえぜ。
一升買うから、後生だからお前今夜は泊り込こみで、炬こた燵つで附合ってくんねえ。一体ならお勝さんが休もうという日なんだけれど、限って出てしまったのも容易でねえ。
そうかといって、宿場で厄介になろうという年と紀しじゃあなし、無茶に廓くるわへ入るかい、かえって敵に生いけ捉どられるも同然だ。夜が更けてみな、油に燈心だから堪たまるめえじゃねえか、恐しい。名みょ代うだい部屋の天井から忽こつ然ねんとして剃刀が天あま降くだります、生いの命ちにかかわるからの。よ、隣のは筋が可いいぜ、はんぺんの煮込を御厄介になって、別に厚切な鮪まぐろを取っておかあ、船頭、馬うま士かただ、お前とまた昔話でもはじめるから、﹂と目金に恥じず悄しょげたりけり。
作平が悦えっ喜き斜ななめならず、嬉うれ涙しなみだより真まっ先さきに水鼻を啜すすって、
﹁話せるな、酒と聞いては足腰が立たぬけれども、このままお輿みこしを据えては例のお花とく主いに相済まぬて。﹂
﹁それを言うなというに。無縁塚をお花とく主いだなぞと、とかく魔の物を知ちか己づきにするから悪いや、で、どうする。﹂
﹁もう遅いから廓廻まわりは見合せて直ぐに箕の輪へ行って来ます。﹂
﹁むむ、それもそうさの。私わっしも信心をすみが、お前めえもよく拝んで御免蒙こうむって来ねえ。廓どころか、浄閑寺の方も一走はしりが可いいぜ。とても独ひとりじゃ遣やり切きれねえ、荷物は確たしかに預ったい。﹂
﹁何か私わしも旨うめえ乾ひも物のなど見付けて提げて来よう、待っていさっせえ。﹂と作平はてくてく出かけて、
﹁こんなに人ひと通どおりがあるじゃないかい。﹂
﹁うんや、ここいらを歩あ行るくのに怨おん霊りょうを得とく脱だつさせそうな頼たの母もしい道徳は一人も居ねえ。それに一しきり一しきりひッそりすらあ、またその時の寂しさというものは、まるで時雨が留やむようだ。﹂
作平は空を仰いで、
﹁すっかり曇って暗くなったが、この陽気はずれの寒さでは、﹂
五助慌あわただしく。
﹁白いものか、禁物々々。﹂
点灯頃
十三
﹁はい、はい、はい、誰どな方ただい。﹂
作平のよぼけた後姿を見失った五助は、目の行ゆくさきも薄暗いが、さて見廻すと居いま廻わりはなおのことで、もう点ひと灯もし頃ごろ。
物の色は分るが、思いなしか陰気でならず、いつもより疾はやく洋ラン燈プをと思う処へ、大音寺前の方から盛さかんに曳ひき込こんで来る乗込客、今度は五六台、引続いて三台、四台、しばらくは引きも切らず、がッがッ、轟ごう々ごうという音に、地じな鳴りを交まじえて、慣れたことながら腹にこたえ、大儀そうに、と眺めていたが、やがて途絶えると裏口に気けは勢いがあった。
五助はわざと大声で、
﹁お勝さんかね、……何だ、隣か、﹂と投げるように呟つぶやいたが、
﹁あれ、お上んなせえ、構わずずいと入るべし、誰方だね。﹂
耳を澄すまして、
﹁畜生、この間もあの術てで驚かしゃあがった、尨むく犬いぬめ、しかも真夜中だろうじゃあねえか、トントントンさ、誰方だと聞きゃあ黙だん然まりで、蒲ふと団んを引ひっ被かぶるとトントンだ、誰方だね、黙だんまりか、またトンか、びッくりか、トンと来るか。とうとう戸おも外てから廻ってお隣で御迷惑。どのくらいか臆おく病びょうづらを下げて、極きまりの悪い思おもいをしたか知れやしねえ、畜生め、己ひとが臆病だと思いやあがって、﹂と中ちゅうッ腹ぱらでずいと立つと、不意に膝かけの口が足へからんだので、亀かめの子こ這ばい。
じただらを踏むばかりに蹴はづして、一段膝をついて躙にじり上あがると、件くだんの障子を密そっと開けたが、早や次の間は真まっ暗くらがり。足をずらしてつかつかと出ても、馴なれて畳の破やぶれにも突つっかからず、台所は横づけで、長火鉢の前から手を伸のばすとそのまま取れる柄ひし杓ゃくだから、並々と一杯、突いき然なり天あた窓まから打ぶっかぶせる気、お勝がそんな家業でも、さすがに婦おん人な、びったりしめて行った水口の戸を、がらりと開けて、
﹁畜生!﹂といったが拍子抜け、犬も何にも居ないのであった。
首を出してわすと、がさともせぬ裏の塵ちり塚づか、そこへ潜って遁にげたのでもない。彼あな方たは黒塀がひしひしと、遥はるかに一並ならび、一ツ折れてまた一並、三階の部屋々々、棟の数は多いけれど、まだいずくにも灯が入らず、森しんとして三さみ味せ線んの音ねもしない。ただ遥に空くうを衝ついて、雲のその夜よは真まっ黒くろな中に、暗緑色の燈ともしびの陰惨たる光を放って、大屋根に一眼一角の鬼の突つっ立たったようなのは、二上屋の常燈である。
五助は半身水口から突出して立っていたが、頻しきりに後うしろ見らるるような気がして堪たまらず、柄杓をぴっしゃり。
﹁ちょッ、﹂と舌打、振返って、暗がりを透すかすと、明けたままの障子の中から仕切ったように戸おも外ての人どおり。
やがて旧もとの仕事場の座に返って、フト心着いてはッと思った。
﹁おや、変だぜ。﹂
五助は片膝立て、中腰になり、四ツに這はいなどして掻かい探さぐり、膝かけをふるって見て、きょときょとしながら、
﹁はてな、先さっ刻きああだに因ってと、手に持ったまま、待てよ、作平は行ったと、はてな。﹂
正に今日の日をもって、先刻研上げた、紅梅屋敷、すなわち寮の女むすめお若の剃かみ刀そりを、どこへか置忘れてしまったのであった。
﹁懐ふと中ころへは入れず、﹂といいながら、慌てて懐中へ入れた手を、それなり胸に置いて、顔の色を変えたのである。
しばらくして、
﹁まさか棚へ、﹂と思わず声を放って、フト顔を上げると、一枚あけた障子の際なる敷居の処を裾すそにして、扱しご帯きの上あたりで褄つまを取って、鼠地に雪ぢらしの模様のある部屋着姿、眉の鮮あざやかな鼻筋の通った、真まっ白しろな頬に鬢びんの毛の乱れたのまで、判はっ然きりと見えて、脊がすらりとして、結上げた髪が鴨かも居いにも支つかえそうなのが、じっと此こな方たを見詰めていたので、五助は小さくなって氷りついた。
﹁五助さん、﹂と得も言われぬやや太い声して、左の手で襟をあけると、褄を持っていた手を、ふらふらとある袖口に入れた時、裾がはらりと落ちて、脊が二三寸伸びたと思うと、肉ししつき豊かなぬくもりもまだありそうな、乳房も見える懐から、まともに五助に向けた蒼あおざめた掌てのひらに、毒蛇の鱗うろこの輝くような一挺ちょうの剃刀を挟んでいて、
﹁これでしょう、﹂
五助はがッと耳が鳴なった、頭に響く声も幽かすかに、山あり川あり野の末に、糸より細く聞ゆるごとく、
﹁不浄除よけの別火だとさ、ほほほほほ、﹂
わずかに解いた唇に、艶つや々つやと鉄か漿ねを含んでいる、幻はかえって目まの前あたり。
﹁わッ﹂というと真まう俯つむ向き、五助は人心地あることか。
﹁横町に一ツずつある芝の海さ、見や、長屋の中を突通しに廓くるわが見えるぜ。﹂
とこの際戸おも外てを暢のん気きなもの。
﹁や! 雪だ、雪だ。﹂と呼よばわったが、どやどやとして、学生あり、大へべれけ、雪の進軍氷を踏んで、と哄どッとばかりになだれて通る。
雪の門
十四
宵に一いっ旦たんちらちらと降ったのは、垣の結ゆい目め、板戸の端、廂ひさし、往ゆき来きの人の頬、鬢びんの毛、帽子の鍔つばなどに、さらさらと音ずれたが、やがて声はせず、さるものの降るとも見えないで、木の梢こずえも、屋の棟も、敷石も、溝板も、何よりはじまるともなしに白くなって、煙たば草こ屋の店の灯ともしび、おでんの行あん燈どう、車夫の提かん灯ばん、いやしくもあかりのあるものに、一しきり一しきり、綿のちぎれが群むらがって、真まっ白しろな灯ひと取りむ虫しがばたばた羽をあてる風情であった。
やがて、初夜すぐるまでは、縦横に乱れ合った足駄駒こま下げ駄たの痕あとも、次第に二ツとなり、三ツとなり、わずかに凹くぼみを残すのみ、車の轍わだちも遥はる々ばると長き一条の名なご残りとなった。
おうおうと遠おち近こちに呼よび交かわす人声も早や聞えず、辻に彳たたずんで半身に雪を被かぶりながら、揺り落すごとに上衣のひだの黒く顕あらわれた巡査の姿、研とぎ屋やの店から八九間さきなる軒下に引ひっ込こんで、三島神社の辺あたりから大音寺前の通とおり、田町にかけてただ一白。
折から颯さっと渡った風は、はじめ最も低く地上をすって、雪の上うわ面づらを撫なでてあたかも篩ふるいをかけたよう、一様に平たいらにならして、人の歩あ行るいた路ともなく、夜の色さえ埋うずみ消したが、見る見る垣を亙わたり、軒を吹き、廂を掠かすめ、梢を鳴らし、一陣たちまち虚あそ蒼ぞらに拡がって、ざっという音烈はげしく、丸雪は小雪を誘って、八方十面降り乱れて、静しず々しずと落ちて来た。
紅梅の咲く頃なれば、かくまでの雪の状さまも、旭あさひとともに霜より果は敢かなく消えるのであろうけれど、丑うし満みつ頃おいは都みやこのしかも如きさ月らぎの末にあるべき現象とも覚えぬまでなり。何物かこれ、この大都会を襲って、紛々皚がい々がいの陣を敷くとあやまたるる。
さればこそ、高く竜燈の露あらわれたよう二上屋の棟に蒼あおき光の流るるあたり、よし原の電燈の幽かすかに映ずる空を籠こめて、きれぎれに冴さゆる三絃の糸につれて、高たか笑わらいをする女の声の、倒さかしまに田町へ崩るるのも、あたかもこの土の色の変った機に乗じて、空くうを行ゆく外げど道うへ変ん化げの囁ささやきかと物もの凄すごい。
十二時疾とくに過ぎて、一時前後、雪も風も最も烈しい頃であった。
吹雪の下に沈める声して、お若が寮なる紅梅の門かどを静しずかに音おと信ずれた者がある。
トン、トン、トン、トン。
﹁はい、今開けます、唯ただ今いま、々々、﹂と内では、うつらうつらとでもしていたらしい、眠け交まじりのやや周あ章わてた声して、上あが框りがまちから手を伸のばした様子で、掛金をがッちり。
その時戸おも外てに立ったのが、
﹁お待ちなさい、貴あな方たはお宅うちの方なんですか。﹂と、ものありげに言ったのであるが、何の気もつかない風で、
﹁はい、あの、杉でございます。﹂と、あたかもその眠っていたのを、詫びるがごとき口くち吻ぶりである。
その間まになお声をかけて、
﹁宜いんですか、開けても、夜がふけております。﹂
﹁へい、……、﹂ちと変った言いいぐさをこの時はじめて気にしたらしく、杉というのは、そのままじっとして手を控えた。
小おや留みのない雪は、軒の下ともいわず浴びせかけて降ふりしきれば、男の姿はありとも見えずに、風はますます吹きすさぶ。
十五
﹁杉、爺じいやかい。﹂とこの時に奥の方かたから、風こそ荒すさべ、雪の夜よは天地を沈めて静しずかに更け行ゆく、畳にはらはらと媚なまめく跫あし音おと。
端はし近ぢかになったがいと少わかく清すずしき声で、
﹁辻が帰っておいでかい。﹂
﹁あれ、﹂と低こご声えに年とし増まが制して、門かどなる方かたを憚はばかる気けは勢い。
﹁可よかったら開けて下さい、こっちにお知ちか己づきの者じゃあないんです、﹂
﹁…………﹂
﹁この突つき当あたりの家うちで聞いて来たんですが、紅梅屋敷とかいうのでしょう。﹂
﹁はい、あの誰どな方た様で、﹂
﹁いえ、御存じの者じゃアありませんが、すこし頼まれて来たんです、構いません、ここで言いますから、あのね。﹂
﹁お開けよ。﹂
﹁…………﹂
﹁こっちへさあ。可いいわ、﹂
ここにおいて、
﹁まあ、お入りなさいまし。﹂と半ば圧おさえていた格子戸をがらりと開けた。框かまちにさし置いた洋ラン燈プの光は、ほのぼのと一筋、戸口から雪の中。
同時に身を開いて一足あとへ、体を斜めにする外がい套とうを被きた人の姿を映して、余あまりの明あかりは、左ゆん手でなる前庭を仕切った袖垣を白く描き、枝を交まじえた紅梅にうつッて、間近なるはその紅くれないの莟つぼみを照てらした。
けれども、その最もよく明かに且つ美しく照したのは、雪の風情でなく、花の色でなく、お杉がさした本ほん斑ばら布ふの櫛くしでもない。濃いお納戸地に柳やな立ぎた枠てわくの、小こも紋んち縮りめ緬んの羽織を着て、下着は知らず、黒くろ繻じゅ子すの襟をかけた縞しま縮緬の着物という、寮のお若が派手姿と、障子に片手をかけながら、身をそむけて立った脇あけをこぼるる襦じゅ袢ばんと、指に輝く指ゆび環わとであった。
部屋働ばたらきのお杉は円まる髷まげの頭かしらを下げ、
﹁どうぞ、貴あな下た、﹂
﹁それでは、﹂と身を進めて、さすがに堪え難うしてか、飛込む勢いきおい。中なか折おれの帽子を目まぶ深かに、洋服の上へ着込んだ外套の色の、黒いがちらちらとするばかり、しッくい叩きの土間も、研とぎ出だしたような沓くつ脱ぬぎ石いしも、一面に雪紛々。
﹁大変でございますこと、﹂とお杉が思わず、さもいたわるように言ったのを聞くと、吻ほっとする呼い吸きをついて、
﹁ああ、乱暴だ。失礼。﹂と身みぶ震るいして、とんとんと軽く靴を踏み、中折を取ると柔かに乱れかかる額髪を払って、色の白い耳のあたりを拭ぬぐったが、年と紀しのころ二十三四、眉の鮮あざやかな目附に品のある美少年。殊にものいいの判はっ然きりとして訛なまりのないのは明あきらかにその品性を語り得た。お杉は一目見ると、直ちにかねて信心の成田様の御おん左ひだり、矜こん羯がら羅ど童う子じを夢枕に見るような心になり、
﹁さぞまあ、ねえ、どうもまあ、﹂とばかり見み惚とれていたのが、慌あわただしく心付いて、庭下駄を引ひっかけると客の背うし後ろへ入いれ交かわって、吹雪込む門かどの戸を二ふた重えながら手早くさした。
﹁直ぐにお暇いとまを。﹂
﹁それでも吹込みまして大変でございますもの。﹂
と見るとお若が、手を障子にかけて先さっ刻きから立ったままぼんやり身みう動ごきもしないでいる。
﹁お若さん、御挨拶をなさいましなね、﹂
お若は莞にっ爾こりして何にも言わず、突いき然なり手を支つかえて、ばッたり悄しおれ伏すがごとく坐ったが、透通るような耳みみ許もとに颯さっと紅くれない。
髷の根がゆらゆらと、身を揉もむばかりさも他愛なさそうに笑ったと思うと、フイと立ってばたばたと見えなくなった。
客は手ても持ち無ぶ沙さ汰た、お杉も為せん術すべを心得ず。とばかりありて、次の室まの襖ふす越まごしに、勿体らしい澄すましたものいい。
﹁杉や、長火鉢の処じゃあ失礼かい。﹂
十六
﹁いいえ、貴あな下た失礼でございますが、別にお座敷へ何いたしますと、寒うございますから。そしてこれをお羽織んなさいまし、気味が悪いことはございません、仕した立てましたばかりでございます。﹂と裏返しか、新調か、知らず筋糸のついたままなる、結ゆう城きの棒ぼう縞じまの寝ねんね子こ半ばん纏てん。被きせられるのを、
﹁何、そんな、﹂とかえって剪おい賊はぎに出逢ったように、肩を捻ねじるほどなおすべりの可いい花色裏。雪まぶれの外套を脱いだ寒そうで傷いた々いたしい、背うしろから苦もなくすらりと被かぶせたので、洋服の上にこの広どて袖らで、長火鉢の前に胡あぐ坐らしたが、大黒屋惣そう六ろくに肖にて否ひなるもの、S. DAIKOKUYA という風情である。
﹁どうしてこんな晩に、遊おい女らんがお帰しなすったんですねえ、酷ひどいッたらないじゃアありませんか、ねえお若さん。あら、どうも飛とんでもない、火をお吹きなすっちゃあ不い可けません、飛でもない。﹂
と什そも麼さんこうすりゃ何とまあ? 花の唇がたちまち変じて、鳥の嘴くちばしにでも化けるような、部屋働の驚き方。お若は美しい眉を顰ひそめて、澄すまして、雪のような頬を火鉢のふちに押おしつけながら、
﹁消炭を取っておいで、﹂
﹁唯ただ今いま何します、どうも、貴下御免なさいましよ。主人が留守だもんですから、少ね姐えさんのお部屋でついお心ここ易ろや立すだてにお炬こ燵たを拝借して、続物を読んで頂いておりました処が、﹂
﹁つい眠くなったじゃあないか、﹂とお若は莞にっ爾こりする。
﹁それでも今夜のように、ふらふら睡ねむ気けのさすったらないのでございますもの。﹂
﹁お極きまりだわ。﹂
﹁可かわ哀いそ相うに、いいえ、それでも、全く、貴下が戸をお叩き遊ばしたのは、現うつつでございましたの。﹂
﹁私もうとうとしていたから、どんなにお待ちなすったか知れないねえ。ほんとうに貴下、こんな晩に帰しますような処へは、もういらっしゃらない方が可ようございますわ。構やしません、そんな遊おい女らんは一晩の内に凍こお砂りざ糖とうになってしまいます。﹂と真顔でさも思い入ったように言った。お若はこの人を廓くるわなる母屋の客と思込んだものであろう。
﹁私は、そんな処へ行ったんじゃあないんです。﹂
﹁お隠し遊ばすだけ罪が深うございますわ、﹂
﹁別に隠しなんぞするものか。
しかし飛んだ御厄介になりました、見ず知らずの者が夜中に起して、何だか気が咎とがめたから入りにくくッていたんだけれど、深切にいっておくんなさるから、白状すりや渡わたりに舟なんで、どうも凍えそうで堪たまらなかった。﹂
と語るに、ものもいいにくそうな初心な風ふう采さい、お杉はさらぬだに信心な処、しみじみと本尊の顔を瞻みまもりながら、
﹁そう言えばお顔の色も悪いようでございます、あのちょうど取ったのがございますから、熱くお澗かんをつけましょうか。﹂
﹁召めしあがるかしら、﹂とお若は部屋ばたらきを顧みて、これはかえってその下戸であることを知り得たるがごとき口ぶりである。
﹁どうして、酒と聞くと身みぶ震るいがするんだ、どうも、﹂
と言いながら顔を上げて、座右のお杉と、彼かな方たに目の覚めるようなお若の姿とを屹きっと見ながら、明あかるい洋ラン燈プと、今青い炎ひを上げた炭とを、嬉しそうに打眺めて、またほッといきをついて、
﹁私を変だと思うでしょう。﹂
十七
﹁自分でも何だか夢を見てるようだ。いいえ薬にも及ばない、もう可いいんです。何だね、ここは二上屋という吉原の寮で、お前さんは、女中、ああ、そうして姉さんはお若さん?﹂
﹁はい、さようでございます。﹂とお若はあでやかに打うち微ほほ笑えむ。
﹁ええと、ここを出て突当りに家うちがありますね、そこを通って左へ行ゆくと、こう坂になっていましょうか、そう、そこから直じきに大門ですか、そう、じゃあ分った、姉さん、﹂とお若の方に向直った。
﹁姉さんに届けるものがあるんです、﹂といいながらお杉に向い、
﹁確か廓くるわへ入ろうという土手の手前に、こっちから行ゆくと坂が一ツ。﹂
打うち頷うなずけば頷いて、
﹁もう分った、そこです、その坂を上ろうとして、雪にがっくり、腕くる車まが支つかえたのでやっと目が覚めたんだ。﹂
この日脇わさ屋やき欽んの之す助けが独ドイ逸ツゆ行きを送る宴会があった。
﹁実は今日友達と大勢で伊予紋に会があったんです、私がちっと遠方へ出懸けるために出来た会だったもんだから、方々の杯の目めあ的てにされたんで、大変に酔っちまってね。横になって寝てでもいたろうか、帰りがけにどこで腕車に乗ったんだか、まるで夢中。
もっとも待たしておく筈はずの腕車はあったんだけれども、一体内は四よツ谷やの方、あれから下した谷やへ駆けて来た途中、お茶の水から外神田へ曲ろうという、角の時計台の見える処で、鉄道馬車の線路を横に切れようとする発はず奮みに、荷車へ突当って、片一方の輪をこわしてしまって、投出されさ。﹂
﹁まあ、お危うございます、﹂
﹁ちっと擦すり剥むいた位、怪け我がも何もしないけれども。
それだもんだから、辻車に飛とび乗のりをして、ふらふら眠りながら来たものと見えます。
お話のその土手へ上あがろうという坂だ。しっくり支つかえたから、はじめて気がついてね、見ると驚いたろうじゃあないか。いつの間にか四あた辺りは真まっ白しろだし、まるで野原。右手の方の空にゃあ半月のように雪空を劃くぎって電燈が映ってるし、今度行ゆこうという、その遠方の都の冬の処を、夢にでも見ているのじゃあるまいかと思った。
それで、御本人はまさしく日本の腕くる車まに乗ってさ、笑っちゃあ不いけ可ない車夫が日本人だろうじゃあないか。雪の積った泥どろ除よけをおさえて、どこだ、若い衆、どこだ、ここはツて、聞くと、御ごじ串ょう戯だんもんだ、と言うんです。
四ツ谷へ帰るんだッてね、少し焦じれ込むと、まあ宜ようがすッさ、お聞きよ。
馬鹿にしちゃ可いかん、と言って、間まち違がいの原も因とを尋ねたら、何も朋とも友だちが引ひっ張ぱって来たという訳じゃあなかった。腕車に乗った時は私一人雪の降る中をよろけて来たから、ちょうど伊藤松坂屋の前の処で、旦那召しまし、と言ったら、ああ遣やってくれ、といって乗ったそうだ。
遣ってくれと言うから、廓なかへ曳ひいて来たのに不思議はありますまいと澄すましたもんです。議論をしたっておッつかない。吹雪じゃアあるし、何でも可いから宅うちまで曳いてッておくれ、お礼はするからと、私も困ってね。
頼むようにしたけれど、ここまで参ったのさえ大汗なんで、とても坂を上あがって四ツ谷くんだりまでこの雪に行ゆかれるもんじゃあない。
箱根八里は馬でも越すがと、茶にしていやがる。それに今夜ちっと河か岸しの方とかで泊り込こみという寸法があります、何ならおつき合なさいましと、傍若無人、じれッたくなったから、突いき然なり靴だから飛び下りたさ。﹂
二人使者
十八
欽之助は茶一碗、霊かた水ちみずのごとくぐっと干して、
﹁お恥かしいわけだけれど、実は上野の方へ出る方角さえ分らない。芳原はそこに見えるというのに、車一台なし、人ッ子も通らない。聞くものはなし、一体何時頃か知らんと、時計を出そうとすると、おかしい、掏すられたのか、落したのか、鎖ぐるみなくなっている。時間さえ分らなくなって、しばらくあの坂の下り口にぼんやりして立っていた。
心細いッたらないのだもの、おまけに目もあてられない吹雪と来て、酔えい覚ざめじゃあり、寒さは寒し、四ツ谷までは百里ばかりもあるように思ったねえ。そうすると何だかまた夢のような心持になってさ。生れてはじめて迷まい児ごになったんだから、こりゃ自分の身から体だはどうかいうわけで、こんなことになったのじゃあなかろうかと、馬鹿々々しいけれども、恐こわくなったんです。
ただ車くる夫まやに間違えられたばかりなら、雪だっても今帷かた子びらを着る時分じゃあなし、ちっとも不思議なことは無いんだけれども。
気になるのは、昼間腕くる車まが壊れていましょう、それに、伊予紋で座が定きまって、杯の遣やり取とりが二ツ三ツ、私は五酌上戸だからもうふらついて来た時分、女中が耳打をして、玄関までちょっとお顔を、是非お目にかかりたい、という方があるッてね。つまり呼出したものがあるんだ。
灯あかりがついた時分、玄関はまだ暗かった、宅で用でも出来たのかと、何心なく女中について、中庭の歩あゆみを越して玄関へ出て見ると、叔母の宅うちに世話になって、従いと妹この書ほ物んなんか教えている婦人が来て立っていました。
先さっ刻き奥さんが、という、叔母のことです。四ツ谷のお宅へいらっしゃると、もうお出かけになりましたあとだそうです。お約束のものが昨きの日う出来上って参りましたものですから、それを貴あな下たにお贈り申したいとおっしゃって、お持ちなすったのでございますが、お留守だというのでそのまま持ってお帰りなすって、あの児このことだから、大丈夫だろうとは思うけれど、そうでもない、お朋とも達だちにおつき合で、他ほかならば可いいが、芳原へでも行ゆくと危い。お出かけさきへ行ってお渡し申せ、とこれを私にお預けなさいましたから、腕車で大急ぎで参りました。
何でも広徳寺前辺あたりに居る、名人の研とぎ屋やが研ぎましたそうでございますからッてね、紫の袱ふく紗さづ包つみから、錦にしきの袋に入った、八寸の鏡を出して、何と料理屋の玄関で渡すだろうじゃありませんか。﹂と少年は一呼い吸きついた。お若と女中は、耳も放さず目も放さず。
﹁鏡の来歴は叔母が口癖のように話すから知っています。何でも叔父がこの廓くるわで道楽をして、命にも障る処を、そのお庇かげで人らしくなったッてね。
私も決して良い処とは思わないけれども、大抵様子は分ってるが、叔母さんと来た日にゃあ、若い者が芳原へ入れば、そこで生いの命ちがなくなるとばかり信じてるんだ。
その人に甘やかされて、子のようにして可愛がられて育った私だから、失礼だが、様子は知っていても廓は恐しい処とばかり思ってるし、叔母の気象も知ってるんだけれども、どうです、いやしくも飲もうといって、少わかい豪傑が手てば放なしで揃ってる、しかも艶えんなのが、まわりをちらちらする処で、御意見の鏡とは何事だ。
そうして懐へ入れて持って帰れと来た日にゃあ、私は人ひと魂だまを押おッつけられたように気が滅め入いった。
しかもお使番が女教師の、おまけに大の基キリ督スト教きょう信者と来ては助からんねえ。﹂
打うち微ほほ笑えみ、
﹁相済まんがどうぞ宅うちの方へお届けを、といって平にあやまると、使つかいの婦人が、私も主義は違っております。かようなものは信じませんが、貴あな君たを心しんから思召していらっしゃる方の志は通すもんです。私もその御深切を感じて、喜んで参りました位です、こういうお使は生れてからはじめてです、と謂いった。こりゃ誰だって、全くそう。﹂
十九
﹁しかし土手下で雪に道を遮られて帰る途みちさえ分らなくなった時思出して、ああ、あれを頂いて持っていたら、こんな出来事が無かったのかも知れない。考えて見ればいくら叔母だって、わざわざ伊予紋まで鏡を持もたして寄よ越こすってことは容易でない。それを持して寄越したのも何かの前兆、私が受取らないで女の先生を帰したのも、腕くる車まの破こわれたのも、車夫に間違えられたのも、来よう筈はずのない、芳原近くへ来る約束になっていたのかも知れないと、くだらないことだが、悚ぞっとしたんだね。
もっとも、その時だって、天あた窓まからけなして受けなかったのじゃあない、懐へでも入れば受取ったんだけれども、﹂
我が胸のあたりをさしのぞくがごとくにして、
﹁こんな扮いで装たちだから困ったろうじゃありませんか。
叔母には受取ったということに繕って、密そっと貴あな女たから四ツ谷の方へ届けておいて下さいッて、頼んだもんだから、少わかい夜やか会いむ結すびのその先生は、不心服なようだッけ、それでは、腕車で直ぐ、お宅の方へ、と謂って帰っちまったんですよ。
あとは大おお飲のみ。
何しろ土手下で目が覚めたという始末なんですから。
それからね。
何でも来た方へさえ引ひっ返かえせば芳原へ入るだけの憂きづ慮かいは無いと思って、とぼとぼ遣やって来ると向い風で。
右手に大おお溝どぶがあって、雪を被かついで小こい家えが並んで、そして三階造づくりの大建物の裏と見えて、ぼんやり明あかりのついてるのが見えてね、刎はね橋ばしが幾つも幾つも、まるで卯うの花縅おどしの鎧よろいの袖を、こう、﹂
借着の半はん纏てんの袂たもとを引いて。
﹁裏返したように溝どぶを前にして家の屋根より高く引上げてあったんだ。﹂
それも物珍しいから、むやむやの胸の中にも、傍わき見みがてら、二ツ三ツ四ツ五足に一ツくらいを数えながら、靴も沈むばかり積った路を、一足々々踏分けて、欽之助が田町の方へ向って来ると、鉄おは漿ぐろ溝どぶが折曲って、切れようという処に、一ツだけ、その溝の色を白く裁たち切きって刎橋の架かかったままのがあった。
﹁そこの処に婦おん人なが一人にん立ってました、や、路を聞こう、声を懸けようと思う時、
近づく人に白しら鷺さぎの驚き立つよう。
前ゆく途てへすたすたと歩あ行るき出したので、何だか気がさしてこっちでも立たち停どまると、劇はげしく雪の降り来る中へ、その姿が隠れたが、見ると刎橋の際へ引ひっ返かえして来て、またするすると向うへ走る。
続いて歩あ行るき出すと、向直ってこっちへ帰って来るから、私もまた立停るという工合、それが三度目には擦違って、婦おん人なは刎橋の処で。
私は歩あ行るき越して入違いに、今度は振返って見るようになったんだ。
そうするとその婦おん人ながこう彳たたずんだきり、うつむいて、さも思案に暮れたという風、しょんぼりとして哀あわれさったらなかったから。
私は二足ばかり引ひっ返かえした。
何か一人では仕兼ねるようなことがあるのであろう、そんな時には差支えのない人に、力になって欲しかろう。自分を見て遁にげないものなら、どんな秘密を持っていようと、声をかけて、構うまいと思ってね。
実は何、こっちだって味方が欲ほしい。またどんな都合で腕車の相談が出来ないものでも無いとも考えたから。
お前さんどうしたんですッて。﹂
﹁まあ、御深切に、﹂と、話に聞きき惚とれたお若は、不意に口へ出した、心の声。
﹁傍そばへ寄って見ると、案の定、跣はだ足しで居る、実に乱しど次けない風で、長なが襦じゅ袢ばんに扱しご帯きをしめたッきり、鼠色の上着を合せて、兵庫という髪が判はっ然きり見えた、それもばさばさして今寝床から出たという姿だから、私は知らないけれども疑う処はない、勤つと人めにんだ。
脊の高いね、恐しいほど品の好いい遊おい女らんだったッけ。﹂
二十
﹁その婦おん人なに頼まれたんです。姉さん、﹂と謂いかけて、美しい顔をまともに屹きっと女むすめに向けた。
お若は晴々しそうに、ちょいと背けて、大おお呼い吸きをつきながら、黙って聞いているお杉と目を合せたのである。
﹁誰?﹂
﹁へい。﹂と、ただまじまじする。
﹁姉さんに、その遊おい女らんが今夜中にお届け申す約束のものがあるが、寮にいらっしゃるお若さん、同おな一じ御主人だけれども、旦那とかには謂われぬこと、朋とも友だちにも知れてはならず、新しん造ぞなどにさとられては大変なので、昼から間まを見て、と思っても、つい人目があって出られなかった。
ちょうど今夜は、内ない証しょに大一座の客があって、雪はふる、部屋々々でも寐ね込こんだのを機しおにぬけて出て、ここまでは来ましたが、土を踏むのにさえ遠とお退のいた、足がすくんで震える上に、今時こういう処へ出られる身分の者ではないから、どんな目に逢おうも知れない。
寮はもうそこに見えます。一町とは間のない処、紅梅屋敷といえば直じきに知れますが、あれ、あんなに犬が吠ほえて、どうすることもならないから、生いの命ちを助けると思って、これを届けて下さいッて、拝むようにして言ったんだ。成程今考えるとここいらで大層犬が吠えたっけ。
何、頼まれる方では造作のないこと、本人に取っては何かしら、様子の分らぬ廓くるわのこと、一大事ででもあるようだから、直じかにことづかった品物があるんです。
ただ渡せば可いいか、というとね、名も何にもおっしゃらないでも、寮の姉さんはよく御存じ、とこういうから、承知した。
その寮はッて聞くと、ここを一町ばかり、左の路地へ入った処、ちょうど可い、帰かえ路りみちもそこだというもの。そのまま別れて遣やって来ると、先さっ刻き尋ねました、路地の突当りになる通とおりの内に、一軒灯あかりの見える長屋の前まで来て、振向いて見ると、その婦おん人ながまだ立っていて、こっちへ指ゆびさしをしたように見えたけれども、朧おぼ気ろげでよくは分らないから、一ひと番つ、その灯あかりを幸さいわい。
路地をお入んなさいッて、酒にでも酔ったらしい、爺じじいの声で教えてくれた。
何、一々委くわしいことをお話しするにも当らなかったんだけれど、こっちへ入って、はじめて、この明あかるい灯あかりを見ると、何だか雪ゆき路みちのことが夢のように思われたから、自分でもしっかり気を落着けるため、それから、筋道を謂わないでは、夜中に婦おん人なばかりの処へ、たとえ頼まれたッても変だから。
そういう訳です、ともかくもその頼まれたものを上げましょう、﹂といって、無造作に肱ひじを張って、左の胸に高く取った衣かく兜しの中へ手を入れた。――
固くなって聞いていた、二人とも身動きして、お若は愛くるしい頬を支えて白い肱に襦袢の袖口を搦からめながら、少し仰向いて、考えるらしく銀すずのような目を細め、
﹁何だろうねえ、杉や。﹂
﹁さようでございます、﹂とばかり一大事の、生いの命ちがけの、約束の、助けるのと、ちっとも心あたりは無かったが、あえて客の言ことばを疑う色は無かったのである。
﹁待って下さい、﹂とこの時、また右の方の衣かく兜しを探って、小首を傾け、
﹁はてな、じゃあ外がい套とうの方だった、﹂と片膝立てたので。
杉、
﹁私が。﹂
﹁確か左の衣兜へ、﹂
と差さし俯うつむいた処へ、玄関から、この人のと思うから、濡れたのを厭いとわず、大切に抱くようにして持って来た。
敷居の上へ斜ななめに拡げて、またその衣兜へ手を入れたが、冷たかったか、慄ぞっとしたよう。
二十一
﹁可ようございますよ、お落しなさいましても、あなたちっとも御心配なことはないの。﹂
探しあぐんで、外套を押おし遣やって、ちと慌てたように広どて袖らを脱ぎながら、上衣の衣兜へまた手を入れて、顔色をかえて悄しおれてじっと考えた時、お若は鷹おう揚ように些さも意に介する処のないような、しかも情の籠こもった調子で、かえって慰めるように謂いった。
お杉は心も心ならず、憂きづ慮かわしげに少年の状さまを瞻みまもりながら、さすがにこの際喙くちを容いれかねていたのであった。
此こな方たはますます当惑の色おも面てに顕あらわれ、
﹁可いいじゃアありません、可よかあない、可かあない、﹂
と自ら我身を詈ののしるごとく、
﹁落すなんて、そんな間のあるわけはないんだからねえ、頼んだ人は生いの命ちにもかかわる。﹂と、早口にいってまた四あた辺りをした。
﹁一体どんなものでございます。﹂とお杉は少年に引添うて、渠かれを庇かばうようにして言う。
﹁私も更あらためちゃ見なかった、いいえ、実は見ようとも思わなかったような次第なんです。何でもこう紙につつんだ、細長いもので、受取った時少し重みがあったんだがね。﹂
お若はちょいと頷うなずいて、
﹁杉、﹂
﹁ええ、﹂
﹁瀬川さんの……ね、あれさ、﹂と呑のみ込こませる。
﹁ええ、成程、貴あな下た、それじゃあ、何でございますよ、抱えの瀬川さんという方にお貸しなすったんですよ、あの、お頼まれなすった遊おい女らんは、脊の高い、品の可い、そして淋しい顔かお色つきの、ああ煩っているもんだからてっきり、そう!﹂
と勢いきおいよくそれにした。
﹁今夜までに返すからと言ったにゃあ言いましたけれども、何、少ね姐えさんは返してもらうおつもりじゃございませんのに、やっと今こっちじゃあ思い出しました位ですもの。﹂
﹁何です、それは、﹂とやや顔の色を直して言った。口うらを聞けば金か子ねらしい、それならばと思う今も衣兜の中なる、手てさ尖きに触るるは袂たも落とおとし。修学のためにやがて独ドイ逸ツに赴かんとする脇屋欽之助は、叔母に今は世になき陸軍少将松まつ島しま主ちか税らの令夫人を持って、ここに擲なげうって差支えのない金員あり。もって、余りに頼たの効みがいなき虚うつ気けの罪を、この佳人の前に購あがない得て余りあるものとしたのである。
問われてお杉は引取って、
﹁ちっとばかりお金子です。﹂
欽之助は嬉しそうに、
﹁じゃあ私が償おう。いいえ、どうぞそうさしておくんなさい、大したことならば帰るまで待ってもらおうし、そんなでも無いなら遣つかって可いのを持っているから。﹂と思込んで言った。
﹁飛んでもない、貴あな下た、﹂と杉。
お若は知らぬ顔をして莞にっ爾こりしている。
此こな方たは熱心に、
﹁お願いだから、可いんだから、それでないと実に面目を失する。こうやって顔を合していても冷汗が出るほど、何だか極きまりが悪いんだ、夜よる々よな中か見ず知らずが入込んで、どうも変だ。﹂
﹁あなた、可いんですよ、私お金子を持っています、何にも遣わないお小こづ遣かいが沢たん山とあるわ、銀のだの、貴下、紙さ幣つのだの、﹂といいながら、窮屈そうに坐って畏かしこまっていた勝かち色いろうらの褄つまを崩して、膝を横、投げ出したように玉の腕かいなを火鉢にかけて、斜ななめに欽之助の面おもてを見た。姿も容かたちも、世にまたかほどまでに打解けた、ものを隠さぬ人を信じた、美しい、しかも蟠わだかまりのない言葉はあるまい。
左の衣兜
二十二
意外な言葉に、少年は呆あきれたような目をしながら、今更顔が瞻みまもられた、時に言うべからざる綺きれ麗いな思おもいが此こな方たの胸にも通じたので。
しかも遠慮のない調子で、
﹁いずれお詫わびをする、更あらためてお礼に来ましょうから、相済まんがどうぞ一ひと番つ、腕くる車まの世話をしておくんなさい。こういうお宅だから帳場にお馴なじ染みがあるでしょう、御近所ならば私が一所に跟ついて行ゆくから、お前さん。﹂
杉は女むすめの方をちょいと見たが、
﹁あなた何なん時どきだとお思いなさいます。私わたくしどもでは何でもありやしませんけれども、世間じゃ夜の二時過ぎでしょう。
あれあの通とおり、まだ戸おも外てはあんなでございますよ。﹂
少年は降りしきる雪の気けは勢いを身に感じて、途中を思い出したかまた悚ぞっとした様子。座に言ことばが途絶えると漂ひょ渺うびょうたる雪の広ひろ野のを隔てて、里ある方かたに鳴くように、胸には描かれて、遥はるかに鶏の声が聞えるのである。
﹁お若さん、お泊め申しましょう、そして気を休めてからお帰りなさいまし。
私わたくしどもの分際でこう申しちゃあ失礼でございますけれども、何だかあなたはお厄日ででもいらっしゃいますように存じますわ。
お顔色もまだお悪うございますし、御気分がどうかでございますが、雪におあたりなすったのかも知れません。何だか、御大病の前ででもあるように、どこか御様子がお寂しくッて、それにしょんぼりしておいでなさいますよ。
御自分じゃちゃんとしてお在いで遊ばすのでございましょうけれども、どうやらお心が確たしかじゃないようにお見受申します。
お聞き申しますと悪いことばかり、お宅から召したお腕車は破こわれたでしょう、松坂屋の前からのは、間違えて飛んだ処へお連れ申しますし、お時計はなくなります。またお気にお懸け遊ばすには及びませんが、お託ことづかり下さいましたものも失うせますね。それも二度、これも二度、重ね重ね御災難、二度のことは三度とか申します。これから四ツ谷下くんだりまで、そりゃ十年お傭やといつけのような確たしかな若いものを二人でも三人でもお跟つけ申さないでもございませんが、雪や雨の難渋なら、皆みんなが御迷惑を少しずつ分けて頂いて、貴あな下たのお身から体だに恙つつがのないようにされますけれども、どうも御様子が変でございます。お怪我でもあってはなりません。内へお通いつけのお客様で、お若さんとどんなに御懇意な方でも、ついぞこちらへはいらっしった験ためしのございませんのに、しかもあなた、こういう晩、更けてからおいで遊ばしたのも御介抱を申せという、成田様のおいいつけででもございましょう。
悪いことは申しませんから、お泊んなさいまし、ね、そうなさいまし。
そしてお若さんもお炬こ燵たへ、まあ、いらっしゃいまし、何ぞお暖あったかなもので縁起直しに貴下一口差上げましょうから、
あれさ、何は差置きましてもこの雪じゃありませんかねえ。﹂
﹁実はどういうんだか、今夜の雪は一ひと片つでも身から体だへ当るたびに、毒虫に螫さされるような気がするんです。﹂
と好個の男児何の事ぞ、あやかしの糸に纏まとわれて、備わった身の品を失うまで、かかる寒さに弱ったのであった。
﹁ですからそうなさいまし、さあ御安心。お若さん宜ようございましょう? 旦那はあちらで十二時までは受合お休み、夜が明けて爺やとお辻さんが帰って参りましたら、それは杉が心得ますから、ねえ、お若さん。﹂
お杉大明神様と震えつく相談と思おもいの外、お若は空吹く風のよう、耳にもかけない風情で、恍うっ惚とりして眠そうである。
はッと思うと少年よりは、お杉がぎッくり、呆あっ気けに取られながら安からぬ顔を、お若はちょいと見て笑って、うつむいて、
﹁夜が明けると直すぐお帰んなさるんなら厭!﹂
﹁そうすりゃ、﹂と杉は勢込み、突いき然なり上着の衣かく兜しの口を、しっかりとつかまえて、
﹁こうして、お引留めなさいましな。﹂
二十三
寝ねま衣きに着換えさしたのであろう、その上衣と短チョ胴ッ服キ、などを一かかえに、少し衣えも紋んの乱れた咽の喉どのあたりへ押おッつけて、胸に抱いだいて、時の間まに窶やつれの見える頤おとがいを深く、俯うつ向むいた姿なりで、奥の方六畳の襖ふすまを開けて、お若はしょんぼりして出て来た。
襖の内には炬こた燵つの裾すそ、屏びょ風うぶの端。
背うしろ片手で密そとあとをしめて、三畳ばかり暗い処で姿が消えたが、静々と、十畳の広ひろ室まに顕あらわれると、二ふた室ま越二ふた重えの襖、いずれも一枚開けたままで、玄関の傍わきなるそれも六畳、長火鉢にかんかんと、大形の台だい洋ラン燈プがついてるので、あかりは青畳の上を辷すべって、お若の冷たそうな、爪つま先さきが、そこにもちらちらと雪の散るよう、足袋は脱いでいた。
この灯あかりがさしたので、お若は半身を暗がりに、少し伸上るようにして透すかして見ると、火鉢には真しん鍮ちゅうの大おお薬やか鑵んが懸かかって、も一ツ小こな鍋べをかけたまま、お杉は行儀よく坐って、艶つや々つやしく結った円まる髷まげの、その斑ばら布ふの櫛くしをまともに見せて、身動きもせずに仮いね睡むりをしている。
差さし覗のぞいてすっと身を引き、しばらく物音もさせなかったが、やがてばったり、抱えてたものを畳に落して、陰々として忍しの泣びなきの声がした。
しばらくすると、密そっとまたその着物を取り上げて、一ツずつ壁の際なる衣いこ桁うの亙わたし。
お若は力なげに洋ずぼ袴んをかけ、短チョ胴ッ服キをかけて、それから上衣を引ひっかけたが、持ったまま手を放さず、じっと立って、再び密そっと爪つま立だつようにして、間まを隔ってあたかも草双紙の挿絵を見るよう、衣きぬの縞しまも見えて森閑と眠っている姿を覗くがごとくにして、立戻って、再三衣桁にかけた上衣の衣かく兜し。
しかもその左の方を、しっかと取ってお若は思わず、
﹁ああ、厭いやだっていうんだもの、﹂と絶入るように独ひと言りごとをした。あわれこうして、幾久しく契ちぎりを籠こめよと、杉が、こうして幾久しく契を籠めよと!
お若は我を忘れたように、じっとおさえたまま身を震わして、しがみつくようにするトタンに、かちりと音して、爪先へ冷ひやりと中あたり、総身に針を刺されたように慄ぞっと寒気を覚えたのを、と見ると一挺ちょうの剃かみ刀そりであった。
﹁まあ、恐こわいことねえ。﹂
なお且つびっしょり濡れながら袂たもとの端に触れたのは、包んで五助が方かたへあつらえた時のままなる、見覚えのある反ほ故ごである。
お若はわなわなと身を震わしたが、左ゆん手でに取ってじっと見る間に、面おもての色が颯さっと変った。
﹁わッ。﹂
というと研とぎ屋やの五助、喚わめいて、むッくと弾はね起きる。炬燵の向うにころりとせ、貧乏徳利を枕にして寝そべっていた鏡かが研みとぎの作平、もやい蒲ぶと団んを弾はね反かえされて寝ねぼ惚げご声えで、
﹁何じゃい、騒々しい。﹂
五助は服きものはだけに大の字形なりの名なご残りを見せて、蟇ひきがえるのような及およ腰びごし、顔を突出して目をって、障子越に紅梅屋敷の方かたを瞻みつめながら、がたがたがたがた、
﹁大変だ、作平さん、大変だ、ひ、ひ、人殺し!﹂
﹁貧乏神が抜け出す前しら兆せか、恐しく怯おどされるの、しっかりさっししっかりさっし。﹂といいながら、余り血相のけたたましさに、捨ておかれずこれも起きる。枕まく頭らもとには大皿に刺身のつま、猪ちょ口くやら箸はしやら乱暴で。
﹁いや、お前めえしっかりしてくれ、大変だ、どうも恐しい祟たたりだぜ、一ひと方かたならねえ執念だ。﹂
化粧の名残
二十四
﹁とうとうお前めえ、旗本の遊おい女らんが惚ほれた男の血筋を、一人紅梅屋敷へ引込んだ、同おな一じ理窟で、お若さんが、さ、さ、先さっ刻き取り上げられた剃かみ刀そりでやっぱり、お前、とても身分違いで思おもいが叶かなわぬとッて、そ、その男を殺すというのだい。今行水を遣つかってら、﹂
﹁何をいわっしゃる、ははははは、風邪を引くぞ、うむ、夢じゃわ夢じゃわ。﹂
﹁はて、しかし夢か、﹂とぼんやりして腕を組んだが、
﹁待てよ、こうだによってと、誰か先さっ刻きここの前へ来て二上屋の寮を聞いたものはねえか。﹂
﹁おお、﹂
作平も膝を叩いた。
﹁そういやあある。お前めえは酔っぱらってぐうぐうじゃ、何かまじまじとして私わしあ寐ねられん、一いっ時とき半ばかり前に、恐しく風が吹いた中で、確たしかに聞いた、しかも少わかい男の声よ。﹂
﹁それだそれだ、まさしくそれだ、や、飛んだこッた。
お前めえ、何でも遊おい女らんに剃刀を授かって、お若さんが、殺してしまうと、身だしなみのためか、行水を、お前、行水ッて湯殿でお前、小こお桶けに沸わきざましの薬やか鑵んの湯を打ぶちまけて、お前、惜気もなく、肌を脱ぐと、懐にあった剃刀を啣くわえたと思いねえ。硝がら子す戸どの外から覗のぞいてた、私わしが方を仰あお向むいての、仰向くとその拍子に、がッくり抜けた島田の根を、邪じゃ慳けんに引ひっつかんだ、顔かお色つきッたら、先さっ刻き見た幽霊にそッくりだあ、きゃあッともいおうじゃあねえか、だからお前、疾はやく行って留めねえと。﹂
﹁そして男を殺すとでもいうたかい、﹂
﹁いや、私わしが夢はお前めえの夢、ええ、小じれッてえ。何でもお前が紅梅屋敷を教えたからだ。今思やうつつだろうか、晩方しかも今日研とぎ立たての、お若さんの剃刀を取られたから、気になって、気になって堪たまるめえ。
処へ夜が更けて、尋ねて行ゆくものがあるから、おかしいぜ、此こい奴つ、贔ひい屓きの田之助に怪我でもあっちゃあならねえと、直ぐにあとをつけて行ゆくつもりだっけ、例の臆おく病びょうだから叶わねえ、不ぶし性ょうをいうお前を、引ひっ張ぱり出だして、夢にも二人づれよ。﹂
﹁やれやれ御苦労千万。﹂
﹁それから戸おも外てへ出ると雪はもう留やんでいた、寮の前へ行ゆくとひっそりかんよ。人騒せなと、思ったけれど、あやまる分と、声をかけて、戸を叩いたけれど返事がねえ。
いよいよ変だと思うから大声で喚わめいてドンドンやったが、成るほど夢か。叩くと音がしねえ、思うように声が出ねえ。我ながら向う河岸の渡わた船しぶねを呼んでるようだから、構わず開けて入ろうとしたが掛金がっちりだ。
どこか開あく処があるめえかと、ぐるぐる寮の周まわ囲りを廻る内に、湯殿の窓へあかりがさすわ。
はて変だわえ、今時分と、そこへ行って覗のぞいた時、お若さんが寝乱れ姿で薬鑵を提げて出て来たあ。とまず安心をして凄すごいように美しい顔を見ると、目を泣なき腫はらしています、ね。どうしたかと思う内に、鹿かの子の見覚えある扱しごき一ツ、背うし後ろへ縮ちり緬めんの羽織を引ひっ振ぷるって脱いでな、褄つまを取って流ながしへ出て、その薬鑵の湯を打ぶちまけると、むっとこう霧のように湯気が立ったい、小棚から石鹸を出して手てぬ拭ぐいを突つっ込こんで、うつむけになって顔を洗うのだ。ぐらぐらとお前その時から島田の根がぬけていたろうじゃねえか。
それですっぱりと顔を拭ふいてよ、そこでまた一安心をさせながら、何と、それから丸々ッちい両肌を脱いだんだ、それだけでも悚ぞっとするのに、考えて見りゃちっと変だけれど、胸の処に剃刀が、それがお前めえ、
︵五助さん、これでしょう、︶と晩方遊おい女らんが遣やった図にそっくりだ。はっと思うトタンに背うし向ろむきになって仰向けに、そうよ、上あが口りぐちの方にかかった、姿見を見た。すると髪がざらざらと崩れたというもんだ、姿見に映った顔だぜ、その顔がまた遊おい女らんそのままだから、キャッといったい。﹂
二十五
されば五助が夢に見たのは、欽之助が不思議の因縁で、雪の夜よに、お若が紅梅の寮に宿ったについての、委くわしい順序ではなく、遊女の霊が、見棄てられたその恋人の血筋の者を、二上屋の女むすめに殺させると叫んだのも、覚さめ際ぎわにフト刺戟された想像に留とどまったのであるが、しかしそれは不幸にも事実であった。宵におびやかされた名なご残りとばかり、さまでには思わなかった作平も、まさしく少わかい声の男に、寮の道を教えたので、すてもおかず、ともかくもと大急ぎで、出掛ける拍子に、棒を小こわ腋きに引きそばめた臆おく病びょうものの可おか笑しさよ。
戸おも外てへ出ると、もう先さっ刻きから雪の降る底に雲の行ゆき交かう中に、薄く隠れ、鮮かに顕あらわれていたのがすっかり月の夜よに変った。火の番の最後の鉄かな棒ぼう遠く響いて廓くるわの春の有明なり。
出であ合いが頭しらに人が一人通ったので、やにわに棒を突立てたけれども、何、それは怪しいものにあらず、
﹁お早うがすな。﹂と澄すまして土手の方へ行った。
積んだ薪たきぎの小口さえ、雪まじりに見える角の炭屋の路地を入ると、幽かすかにそれかと思う足あとが、心ばかり飛とび々とびに凹くぼんでいるので、まず顔を見合せながら進んで門かど口ぐちへ行ゆくと、内は寂しんとしていた。
これさえ夢のごときに、胸を轟とどろかせながら、試みに叩いたが、小こつ塚かッ原ぱらあたりでは狐の声とや怪しまんと思わるるまで、如きさ月らぎの雪の残月に、カンカンと響いたけれども、返事がない。
猶予ならず、庭の袖垣を左に見て、勝手口を過ぎて大廻りに植込の中を潜くぐると、向うにきらきら水銀の流るるばかり、湯殿の窓が雪の中に見えると思うと、前の溝と覚しきに、むらむらと薄くおよそ人の脊丈ばかり湯気が立っていた。
これにぎょッとして五助、作平、湯殿の下へ駆けつけた時はもう喘あえいでいた。逡しり巡ごみをする五助に入いれ交かわって作平、突いき然なり手を懸けると、誰たが忘れたか戸とじ締まりがないので、硝がら子すま窓どをあけて跨またいで入ると、雪あかりの上、月がさすので、明かに見えた真しん鍮ちゆうの大薬鑵。蓋ふたと別々になって、うつむけに引ひっくりかえって、濡ぬれ手てぬ拭ぐいを桶おけの中、湯は沢山にはなかったと思われ、乾き切って霜のような流ながしが、網を投げた形にびっしょりであった。
上口から躍込むと、あしのあとが、板の間の濡れたのを踏んで、肝を冷しながら、明あかりを目めあ的てに駆けつけると、洋ラン燈プは少し暗くしてあったが、お杉は端ちゃ然んと坐ったまま、その髷まげ、その櫛くし、その姿で、小鍋をかけたまま凍ったもののごとし。
ただいつの間にか、先さっ刻き欽之助が脱いだままで置いて寝に行った、結ゆう城きの半はん纏てんを被きせかけてあった。とお杉はこれをいって今もさめざめと泣くのである。
五助、作平は左右より、焦いらって二ツ三ツ背中をくらわすと、杉はアッといって、我に返ると同時に、
﹁おいらんが、遊おい女らんが、﹂と切なそうにいった。
半纏はお若が心優しく、いまわの際にも勦いたわってその時かけて行ったのであろう。
後にお杉はうつつながら、お若が目まの前あたりに湯を取りに来たことも、しかもまくり手して重そうに持って湯殿の方かたへ行ったことも、知っていたが、これよりさき朦もう朧ろうとして雪ぢらしの部屋着を被きた、品の可いい、脊の高い、見み馴なれぬ遊おい女らんが、寮の内を、あっちこっち、幾たびとなくお若の身に前後して、お杉が自分で立とうとすると、屹きっと睨にらまれて身動きが出来ないのであったと謂いう。
とこういうべき暇いとまあらず、我に復かえるとお杉も太いたくお若の身を憂きづ慮かっていたので、飛立つようにして三人奥の室まへ飛込んだが、噫ああ。
既に遅おそ矣し、雪の姿も、紅梅も、狼ろう藉ぜきとして韓から紅くれない。
狂気のごとくお杉が抱き上げた時、お若はまだ呼い吸きがあったが、血の滴る剃刀を握ったまま、
﹁済みませんね、済みませんね。﹂と二声いったばかり、これはただ皮を切った位であったけれども暁を待たず。
男は深ふか疵でだったけれども気が確たしかで、いま駆かけつけた者を見ると、
﹁お前方、助けておくれ、大事な体だ。﹂
といったので、五助作平、腰を抜いた。
この事実は、翌早朝、金杉の方から裏へ廻って、寮の木戸へつけて、同おな一じ枕に死骸を引取って行った馬車と共によく秘密が守られた。
しかし馬車で乗のりつけたのは、昨ゆう夜べ伊予紋へ、少将の夫人の使つかいをした、橘たちばなという女教師と、一名の医学士であった。
その診察に因って救うべからずと決した時、次の室まに畏かしこまっていた、二上屋藤三郎すなわちお若の養父から捧げられたお若の遺かき書おきがある。
橘は取って披見した後に、枕まく頭らもとに進んで、声を曇らせながら判はっ然きりと読んで聞かせた。
この意味は、人の想像とちっとも違たがわぬ。
その時まで残念だ、と呼い吸きの下でいって、いい続けて、時々歯はが噛みをしていた少年は、耳を澄すまして、聞き果てると、しばらくうっとりして、早や死の色の宿ったる蒼そう白はくな面おもてを和やわらげながら、手て真ま似ねをすること三度ばかり。
医学士が頷うなずいたので、橘が筆をあてがうと、わずかに枕を擡もたげ、天地紅べにの半切きれに、薄墨のあわれ水茎の蹟あと、にじり書がきの端に、わか※まいらせそろ﹇#﹁参らせ候﹂のくずし字、519-15﹈とある上へ、少し大きく、佳いい手で脇屋欽之助つま、と記して安かに目を瞑ねむった。
一座粛然。
作平は啜すす泣りなきをしながら、
﹁おめでてえな。﹂
五助が握にぎ拳りこぶしを膝に置いて、
﹁お若さん、喜びねえ。﹂
明治三十四︵一九〇一︶年一月