一
真中に一ひと棟むね、小さき屋根の、恰あたかも朝あさ凪なぎの海に難破船の俤おもかげのやう、且かつ破れ且つ傾いて見ゆるのは、此この広ひろ野のを、久しい以前汽車が横よこ切ぎつた、其その時じぶ分んの停ステ車エシ場ョンの名なご残りである。
路みちも纔わずかに通ずるばかり、枯れても未まだ葎むぐらの結むすぼれた上へ、煙の如く降りかゝる小こさ雨めを透かして、遠く其の寂さびしい状さまを視ながめながら、
﹁もし、お媼ばあさん、彼あす処こまでは何どのくらゐあります。﹂
と尋ねたのは効かい々がいしい猟かり装しょ束うぞく。顔かお容かたち勝すぐれて清らかな少年で、土ど間まへ草わら鞋じば穿きの脚あしを投げて、英国政府が王冠章の刻ごく印いん打つたる、ポネヒル二連発銃の、銃身は月の如く、銃じゅ孔うこうは星の如きを、斜ななめに古ふる畳だたみの上に差さし置おいたが、恁こう聞く中うちに、其の鳥とり打うち帽ぼうを掻かき取とると、雫しずくするほど額ひた髪いがみの黒く軟やわらかに濡ぬれたのを、幾いく度たびも払ひつゝ、太いたく野の路じの雨に悩んだ風ふぜ情い。
縁側もない破あば屋らやの、横に長いのを二ふた室まにした、古び曲ゆがんだ柱の根に、齢よわい七なな十そ路じに余る一人の媼おうな、糸を繰くつて車をぶう〳〵、静しずかにぶう〳〵。
﹁然そうぢやの、もの十七八町ちょうもござらうぞ、さし渡わたしにしては沢たん山ともござるまいが、人の歩あ行るく路みちは廻り廻り蜒うねつて居るで、半はん里りの余よもござりましよ。﹂と首を引込め、又揺ゆり出だすやうにして、旧停ステ車エシ場ョンの方かたを見ながら言つた、媼がしよぼ〳〵した目は、恁こうやつて遠方のものに摺こすりつけるまでにしなければ、見えぬのであらう。
それから顔を上げ下おろしをする度たびに、恒つねは何ど処こにか蔵かくして置くらしい、がツくり窪くぼんだ胸を、伸のばし且かつ竦すくめるのであつた。
素直に伸びたのを其のまゝ撫なでつけた白しら髪がの其それよりも、尚なお多いのは膚はだの皺しわで、就なか中んずく最も深く刻まれたのが、脊せを低く、丁ちょうど糸車を前に、枯かれ野のの末に、埴はに生ゅうの小屋など引ひっくるめた置物同然に媼を畳たたみ込んで置くのらしい。一度胸を伸のばして後うしろへ反そるやうにした今の様子で見れば、瘠やせさらぼうた脊せた丈け、此の齢よわいにしては些ちと高過ぎる位なもの、すツくと立つたら、五六本細ほそいのがある背せ戸どの榛はんの樹こだ立ちの他ほかに、珍しい枯かれ木きに見えよう。肉は干ひからび、皮萎しなびて見るかげもないが、手、胸などの巌がん乗じょうさ、渋しぶ色いろに亀ひ裂びが入つて下した塗ぬりの漆うるしで固めたやう、未まだ〳〵目立つのは鼻筋の判きっ然ぱりと通つて居る顔かお備ぞなえと。
黒ずんだが鬱うこ金んの裏の附いた、はぎ〳〵の、之これはまた美しい、褪あせては居るが色々、浅あさ葱ぎの麻あさの葉、鹿かの子この緋ひ、国の習ならいで百軒から切きれ一ひとツづゝ集めて継つぎ合す処ところがある、其のちやん〳〵を着て、前まえ帯おびで坐つた形で。
彼かの古戦場を過よぎつて、矢やさ叫けびの音を風に聞き、浅あさ茅じが原はらの月影に、古いにしえの都を忍ぶたぐひの、心ある人は、此の媼おうなが六十年の昔を推すいして、世にも希まれなる、容み色めよき上じょとしても差さし支つかえはないと思ふ、何となく犯おかし難がたき品位があつた。其の尖とんがつた顋あぎとのあたりを、すら〳〵と靡なびいて通る、綿わたの筋の幽かすかに白きさへ、やがて霜しもになりさうな冷つめたい雨。
少年は炉ろの上へ両手を真まっ直すぐに翳かざし、斜ななめに媼の胸のあたりを窺うかごうて、
﹁はあ其では、何か、他ほかに通るものがあるんですか。﹂
媼は見返りもしないで、真まっ向こう正面に渺びょ々うびょうたる荒あれ野のを控へ、
﹁他ほかに通るかとは、何がでござるの。﹂
﹁否いいえ、今謂いつたぢやないか、人の通る路みちは廻り〳〵蜒うねつて居るつて。だから聞くんですが、他ほかに何か歩あ行るきますか。﹂
﹁やれもう、こんな原ぢやもの、お客様、狐きつねも犬も通りませいで。霧きりがかゝりや、歩あるかうず、雲が下おりりや、走はしらうず、蜈むか蚣でも潜もぐれば蝗いなごも飛ぶわいの、﹂と孫にものいふやう、顧かえりみて打うち微ほほ笑えむ。
二
此の口からなら、譬たとひ鬼が通る、魔が、と言つても、疑ふ処ところもなし、又然そう信ずればとて驚くことはないのであつた。少年は姓桂かつ木らぎ氏し、東京なる某なにがし学校の秀才で、今年夏のはじめから一種憂ゆう鬱うつな病やまいにかゝり、日を経ふるに従うて、色も、心も死しか灰いの如く、やがて石いし碑ぶみの下に形なき祭まつりを享うけるばかりになつたが、其の病の原も因とはと、渠かれを能よく知る友だちが密ひそかに言ふ、仔細あつて世を早はようした恋なりし人の、其の姉あね君ぎみなる貴夫人より、一いっ挺ちょう最新式の猟銃を賜たまはつた。が、爰ここに差さし置おいた即すな是わちこれ。
武器を参らす、郊外に猟などして、自みずから励まし給たまへ、聞くが如き其の容よう体だいは、薬も看みと護りも効かいあらずと医師のいへば。但ただし御おん身みに恙つつがなきやう、わらはが手はいつも銃の口に、と心を籠こめた手紙を添へて、両三日にち以前に御ごし使し者ゃ到来。
凭よりかゝつた胸の離れなかつた、机の傍そばにこれを受取ると、額ひたいに手を加ふること頃けい刻こくにして、桂木は猛然として立つたのである。
扨さて今こん朝ちょう、此の辺からは煙も見えず、音も聞えぬ、新停ステ車エシ場ョンで唯ただ一人にん下おり立つて、朝あさ霧ぎりの濃こまやかな野のな中かを歩ほして、雨になつた午ごの時とき過ぎ、媼おうなの住すま居いに駈かけ込んだまで、未まだ嘗かつて一度も煙を銃身に絡からめなかつた。
桂木は其の病やまざる前ぜんの性質に復ふくしたれば、貴夫人が情なさけある贈物に酬むくいるため――函はこ嶺ねを越ゆる時汽車の中で逢あつた同窓の学友に、何どち処らへ、と問はれて、修しゅ善ぜん寺じの方へ蜜みつ月づきの旅と答へた――最愛なる新婚の婦ふ、ポネヒル姫の第一発は、仇あだに田たし鴫ぎ山やま鳩ばと如きを打たず、願はくは目めざ覚ましき獲物を提ひっさげて、土みや産げにしようと思つたので。
時ならぬ洪水、不思議の風ふう雨うに、隙ひまなく線路を損そこなはれて、官線ならぬ鉄道は其の停ステ車エシ場ョンを更かへた位、殊ことに桂木の一いっ家族に取つては、祖先、此の国を領した時分から、屡しば々しば易やすからぬ奇怪の歴史を有する、三里の荒あれ野のを跋ばっ渉しょうして、目に見ゆるもの、手に立つもの、対あい手てが人類の形でさへなかつたら、覚えの狙ねら撃いうちで射いて取らうと言ふのであるから。
霧も雲も歩あ行るくと語つた、仔細ありげな媼おうなの言ことばを物ともせず、暖めた手で、びツしよりの草わら鞋じの紐ひもを解ときかける。
油断はしないが俯うつ向むいたまゝ、
﹁私は又また不思議な物でも通るかと思つて悚ぞ然っとした、お媼ばあさん、此こ様んな処ところに一人で居て、昼間だつて怖おそろしくはないのですか。﹂
桂木は疾とく媼の口の、炎でも吐はけよかしと、然さり気げなく誘ひかける。
媼は額ひたいの上に綿わたを引いて、
﹁何が恐おそろしからうぞ、今時の若いお人にも似ぬことを言はつしやる、狼おおかみより雨あま漏もりが恐しいと言ふわいの。﹂
と又また背を屈かがめ、胸を張り、手でこするが如くにし、外との方かたを覗のぞいたが、
﹁むかうへむく〳〵と霧が出て、そつとして居る時は天気ぢやがの、此こち方らの方から雲が出て、そろ〳〵両方から歩あ行よびよつて、一ひと所つになる時が此の雨ぢや。びしよ〳〵降ると寒うござるで、老とし寄よりには何より恐しうござるわいの。﹂
﹁あゝ、私も雨には弱りました、じと〳〵其そこ処らじ等ゅ中うへ染しみ込こんで、この気味の悪さと云つたらない、お媼ばあさん。﹂
﹁はい、御ごな難ん儀ぎでござつたろ。﹂
﹁お邪じゃ魔まですが此こ処こを借ります。﹂
桂木は足た袋びを脱ぎ、足の爪つま尖さきを取つて見たが、泥にも塗まみれず、綺きれ麗いだから、其のまゝ筵むしろの上へ、ずいと腰を。
たとひ洗せん足そくを求めた処ところで、媼おうなは水を汲くんで呉くれたか何どうだか、根の生えた居ずまひで、例の仕事に余念のなさ、小おざ笹さを風が渡るかと……音につれて積る白しら糸いと。
三
桂木は濡ぬれた上うわ衣ぎを脱ぎ棄すてた、カラアも外はずしたが、炉のふちに尚なお油断なく、
﹁あゝ、腹が空すいた。最もう〳〵降るのと溜たまつたので濡れ徹とおつて、帽子から雫しずくが垂れた時は、色も慾も無くなつて、筵むしろが一枚ありや極楽、其そ処こで寝たいと思つたけれど、恁こうしてお世話になつて雨あめ露つゆが凌しのげると、今度は虫が合がっ点てんしない、何なんぞ食べるものはありませんか。﹂
﹁然さればなう、恐おそろし気げな音をさせて、汽車とやらが向うの草の中を走つた時こ分ろには、客も少々はござつたで、瓜うりなと剥むいて進ぜたけれど、見さつしやる通りぢやでなう。私わしが食たべる分ばかり、其も黍きびを焚たいたのぢやほどに、迚とてもお口には合ふまいぞ。﹂
﹁否いいえ、飯めしは持つてます、何どうせ、人ひと里ざとのないを承知だつたから、竹たけ包づつみにして兵ひょ糧うろうは持参ですが、お菜さいにするものがないんです、何か些ちっと分けて貰もらひたいと思ふんだがね。﹂
媼おうなは胸を折つてゆるやかに打うち頷うなずき、
﹁それならば待たしやませ、塩しょツぱいが味みそ噌づ漬けの香こうの物がござるわいなう。﹂
﹁待ちたまへ、味噌漬なら敢あえてお手てす数うに及ぶまいと思ひます。﹂
と手てば早やく笹ささの葉を解ほどくと、硬こわいのがしやつちこばる、包つつみの端を圧おさへて、草くた臥びれた両手をつき、畏かしこまつて熟じっと見て、
﹁それ、言はないこツちやない、果して此の菜さいも味噌漬だ。お媼ばあさん、大きな野だの、奥山へ入るには、梅うめ干ぼしを持たぬものだつて、宿の者が言つたつけ、然そうなのかね、﹂と顔を上げて又瞻みまもつたが、恁かかる相そう好ごうの媼おうなを見たのは、場末の寄よ席せの寂せきとして客が唯ただ二三の時、片かた隅すみに猫を抱いてしよんぼり坐つて居たのと、山の中で、薪たきぎを背し負ょつて歩あ行るいて居たのと、これで三人目だと桂木は思ひ出した。
媼は皺しわだらけの面つらの皺も動かさず、
﹁何どうござらうぞ、食べて悪いことはなからうがや、野山の人はの、一いっ層そのこと霧の毒を消すものぢやといふげにござる。﹂
﹁然そう、﹂とばかり見み詰つめて居た。
此この時とき気けだるさうにはじめて振ふり向むき、
﹁あのまた霧の毒といふものは恐おそろしいものでなう、お前様、今日は彼あれが雨になつたればこそ可ようござつた、ものの半日も冥よみ土じのやうな煙の中に包まれて居て見やしやれ、生いの命ちを取られいでから三みつ月き四よつ月き煩わずらうげな、此こ処この霧は又格かく別べつぢやと言ふわいなう。﹂
﹁あの、霧が、﹂
﹁お客様、お前さま、はじめて此こ処こを歩あ行るかつしやるや?﹂
桂木は大胆に、一口食べかけたのをぐツと呑のみ込こみ、
﹁はじめてだとも。聞いちや居たんだけれど。﹂
﹁然そうぢやろ、然うぢやろ。﹂と媼おうなはまた頷うなずいたが、単ただ然そうであらうではなく、正まさに然そうなくてはかなはぬと言つたやうな語気であつた。
﹁而そして何かの、お前様其その鉄砲を打つて歩あ行るかしやるでござるかの。﹂と糸を繰くる手を両方に開ひらいてじつと、此の媼の目は、怪しく光つた如くに思はれたから、桂木は箸はしを置き、心で身みが構まえをして、
﹁これかね。﹂と言ふをきツかけに、ずらして取つて引寄せた、空の模様、小こさ雨めの色、孤ひと家つやの裡うちも、媼の姿も、さては炉の中の火さへ淡く、凡すべて枯かれ野のに描かれた、幻の如き間あいだに、ポネヒル連発銃の銃身のみ、青く閃きらめくまで磨ける鏡かと壁を射いて、弾たま込ごめしたのがづツしり手てご応たえ。
我ながら頼たの母もしく、
﹁何、まあね、何どうぞこれを打つことのないやうにと、内ない々ない祈つて居るんだよ。﹂
﹁其はまた何といふわけでござらうの。﹂と澄すまして、例の糸を繰くる、五体は悉しっ皆かい、車の仕かけで、人形の動くやう、媼は少しば頃らくも手を休めず。
驚す破わといふ時、綿わたの条すじを射い切きつたら、胸に不およ及ばず、咽のん喉どに不およ及ばず、玉たまの緒おは絶たえて媼は唯ただ一いっ個こ、朽くち木きの像にならうも知れぬ。
と桂木は心の裡うち。
四
構はず兵ひょ糧うろうを使ひつゝ、
﹁だつてお媼ばあさん、此の野原は滅めっ多たに人の通らない処ところだつて聞いたからさ。﹂
﹁そりや最もう眺なが望めというても池一つあるぢやござらぬ、纔わずかばかりの違ちがいでなう、三島はお富ふじ士さ山まの名所ぢやに、此こ処こは恁こう一ひと目めせ千ん里りの原なれど、何が邪じゃ魔まをするか見えませぬ、其れぢやもの、ものずきに来る人は無いのぢやわいなう。﹂
﹁否いいえさ、景色がよくないから遊ゆさ山んに来こぬの、便利が悪いから旅の者が通行せぬのと、そんなつい通りのことぢやなくさ、私たちが聞いたのでは、此の野のな中かへ入ることを、俗に身を投げると言ひ伝へて、無事にや帰られないんださうではないか。﹂
﹁それはお客様、此こ処こといふ限かぎりはござるまいがなう、躓つまずけば転びもせず、転びやうが悪ければ怪け我がもせうず、打うち処どころが悪ければ死にもせうず、野でも山でも海でも川でも同じことでござるわなう、其につけても、然そう又また人のいふ処ところへ、お前様は何をしに来さつしやつた。﹂
じろりと流しり盻めに見ていつた。
桂木はぎよつとしたが、
﹁理りく窟つを聞くんぢやありません、私はね、実はお前さんのやうな人に逢あつて、何か変つた話をして貰もらはう、見られるものなら見ようと思つて、遙はる々ばる出向いて来たんだもの。人間の他ほかに歩あ行るくものがあるといふから、扨さてこそと乗つかゝりや、霧や雲の動くことになつて了しまふし、活いかしちや返さぬやうな者が住んででも居るやうに聞いたから、其を尋ねりや、怪け我が過あや失まちは所を定めないといふし、それぢや些ちっとも張はり合あいがありやしない、何か珍しいことを話してくれませんか、私はね。﹂
膝ひざを進めて、瞳ひとみを据すゑ、
﹁私はね、お媼ばあさん、風うわ説さを知りつゝ恁こうやつて一人で来た位だから、打明けて云ひます、見受けた処ところ、君は何だ、様子が宛まる然で野の主ぬしとでもいふべきぢやないか、何の馬ば鹿か々ば々かしいと思ふだらうが、好もの事ずきです、何どうぞ一ひと番つ構はず云つて聞かしてくれ給たまへな。
恁こういふと何かお妖ばけの催促をするやうでをかしいけれど、焦じれツたくツて堪たまらない。
素もとより其のつもりぢや来たけれど、私だつて、これ当世の若い者、はじめから何、人の命を取るたつて、野に居る毒虫か、函はこ嶺ねを追はれた狼おおかみだらう、今いま時どき詰つまらない妖ばけ者ものが居てなりますか、それとも野のぶ伏せり山やま賊だちの類たぐいででもあらうかと思つて来たんです。霧が毒だつたり、怪け我が過あや失まちだつたり、心の迷まよいぐらゐなことは実は此こっ方ちから言ひたかつた。其をあつちこつちに、お前さんの口から聞かうとは思はなかつた。其の癖、此こっ方ちはお媼ばあさん、お前さんの姿を見てから、却かえつて些ちと自分の意見が違つて来て、成なる程ほどこれぢや怪しいことのないとも限らぬか、と考へてる位なんだ。
お聞きなさい、私が縁続きの人はね、商あき人うどで此の節せつは立派に暮して居るけれど、若いうち一ひと時しきり困つたことがあつて、瀬せ戸とのしけものを背し負ょつて、方々国々を売つて歩あ行るいて、此の野に行ゆき暮くれて、其の時草くさ茫ぼう々ぼうとした中に、五六本樹こだ立ちのあるのを目当に、一軒家へ辿たどり着いて、台所口から、用を聞きながら、旅に難なん渋じゅうの次第を話して、一晩泊めて貰もらふとね、快く宿をしてくれて、何どうして何どうして行暮れた旅たび商あき人うど如きを、待もて遇なすやうなものではない、銚ちょ子うし杯さかずきが出る始末、少わかい女中が二人まで給仕について、寝るにも紅べに裏うらの絹けん布ぷの夜や具ぐ、枕まく頭らもとで佳いい薫かおりの香こうを焚たく。容易ならぬ訳さ、せめて一生に一晩は、恁こういふ身の上にと、其の時分は思つた、其の通とおつたもんだから、夢なら覚めるなと一ひと夜や明かした迄は可よかつたさうだが。
翌あく日るひになると帰さない、其その晩ばん女中が云ふには、お奥で館やかたが召しますつさ。
其の人は今でも話すがね、館といつたのは、其は何どうも何とも気高い美しい婦おん人なださうだ。しかし何なに分ぶん生いき胆ぎもを取られるか、薬の中へ錬ねり込こまれさうで、恐こわさが先に立つて、片時も目を瞑ねむるわけには行ゆかなかつた。
私が縁続きの其の人はね、親類うちでも評判の美男だつたのです。﹂
五
桂木は伸びて手首を蔽おおはんとする、襯しゃ衣つの袖そでを捲まき上げたが、手も白く、戦たたかいを挑いどむやうではない優おとなしやかなものであつた、けれども、世に力あるは、却かえつて恁かかる少年の意を決した時であらう。
﹁さあ、館やかたの心に従ふまでは、村へも里へも帰さぬといつたが、別に座敷牢へ入れるでもなし、木戸の扉も葎むぐらを分けて、ぎいと開あけ、障子も雨戸も開かい放ほうして、真まっ昼ぴる間ま、此の野を抜けて帰らるゝものなら、勝手に帰つて御覧なさいと、然さも軽蔑をしたやうに、あは、あは笑ふと両方の縁えんへふたつに別れて、二人の其の侍こし女もとが、廊下づたひに引込むと、あとはがらんとして畳たた数みかず十五畳じょうも敷けようといふ、広い座敷に唯たった一ひと人り。﹂
折から炉の底にしよんぼりとする、掬すくふやうにして手づから燻いぶした落葉の中に二ふた枚ひらばかり荊いばらの葉の太いたく湿つたのがいぶり出した、胸のあたりへ煙が弱く、いつも勢いきおいよくは焚たかぬさうで冷つめたい灰を、舐なめるやうにして、一ひとツ蜒うねつて這はひ上あがるのを、肩で乱して払ひながら、
﹁煙けむい。其までは宛まる然で恁こう、身から体だへ絡まつわつて、肩を包むやうにして、侍こし女もとの手だの、袖だの、裾すそだの、屏びょ風うぶだの、襖ふすまだの、蒲ふと団んだの、膳ぜんだの、枕だのが、あの、所とこ狭ろせまきまでといふ風であつたのが、不のこ残らずずツと引込んで、座敷の隅すみ々ずみへ片かた着づいて、右も左も見通しに、開あけ放はなしの野原も急に広くなつたやうに思はれたと言ひます。
然そうすると、急に秋風が身に染しみて、其の男はぶる〳〵と震へ出したさうだがね、寂しん閑かんとして人ひとツ児こ一ひと人り居さうにもない。
夢か現うつつかと思う位。﹂
桂木は語りながら、自みずから其の境遇に在ある如く、
﹁目を瞑ねむつて耳を澄すまして居ると、二重、三重、四重ぐらゐ、壁かべ越ごしに、琴ことの糸に風が渡つて揺れるやうな音で、細ほそく、ひゆう〳〵と、お媼ばあさん、今お前さんが言つてる其の糸車だ。
此の炉を一ひとツ、恁こうして爰ここで聞いて居てさへ遠い処ところに聞えるが、其その音が、幽かすかにしたとね。
其その時とき茫ぼん乎やりと思ひ出したのは、昨ゆう夜べの其の、奥方だか、姫ひい様さまだか、それとも御ごし新ん姐ぞだか、魔だか、鬼だか、お閨ねやへ召しました一件のお館やかただが、当座は唯ただ赫かっと取とり逆のぼ上せて、四あた辺りのものは唯ただ曇つた硝ビイ子ドロを透かして、目に映つたまでの事だつたさうだけれど。
緋の袴はかまを穿はいても居なけりや、掻かい取どりを着ても届ない、たゞ、輝きら々きらした蒔まき絵えものが揃そろつて、あたりは神こう々ごうしかつた。狭い一ひと室まに、束たば髪ねがみの引ひっかけ帯おびで、ふつくりした美いい女が、糸車を廻して居たが、燭台につけた蝋ろう燭そくの灯ほか影げに、横顔で、旅たび商あき人うど、私の其の縁続きの美男を見み向むいて、
︵主ぬしのあるものですが、一いっ所しょに死んで下さいませんか。︶――と唯ただ一ひと言こといつたのださうだ。
いや、最もう六十になるが忘れないとさ、此の人は又然そういふよ、其れから此こっ方ち、都にも鄙ひなにも、其れだけの美女を見ないツて。
さあ、其の糸車のまはる音を聞くと、白い柔かな手を動かすまで目に見えるやうで、其のまゝ気の遠くなる、其が、やがて死ぬ心ここ持ろもちに違ひがなければ、鬼でも構はないと思つたけれども、何どうも未まだ浮うき世よに未練があつたから、這はふやうにして、跫あし音おとを盗んで出て、脚きゃ絆はんを附けて草わら鞋じを穿はくまで、誰も遮さえぎる者はなかつたさうだけれど、それが又、敵の囲かこいを蹴け散ちらして遁にげるより、工ぐあ合いが悪い。
帰らるゝなら帰つて見ろと、女どもが云つた呪まじ詛ないのやうな言ことばも凄すごし、一ひと足あし棟むねを離れるが最後、岸が破ばと野が落ちて地じの底へ沈まうも知れずと、爪つま立だて足あしで、びく〳〵しながら、それから一生懸命に、野のみ路ちにかゝつて遁にげ出した、伊豆の伊東へ出る間かん道どうで、此こ処こを放れたまで何の障さわりもなかつたさうで。
たゞ、些ちと時節が早かつたと見えて、三島の山々から一ひとなだれの茅ちが萱やが丈たけより高い中から、ごそごそと彼あっ処ちこ此っ処ち、野のう馬まが顔を出して人珍しげに瞶みつめては、何ど処こへか隠れて了しまふのと、蒼あお空ぞらだつたが、ちぎれ〳〵に雲の脚あしの疾はやいのが、何どんな変事でも起らうかと思はれて、活いきた心地はなかつたと言ふ話ぢやないか。
それだもの、お媼ばあさん。﹂
六
﹁もし、そんなことが、真ほん個とうにある処ところなら、生いの命ちがけだつてねえ、一度来て見ずには居られないとは思ひませんか。
何しに来たつて、お前さんが咎とがめるやうに聞くから言ふんだが、何も其の何どうしよう、恁こうしようといふ悪わる気ぎはない。
好もの事ずきさ、好もの事ずきで、変つた話でもあつたら聞かう、不思議なことでもあるなら見ようと思ふばかり、しかしね、其を見み聞きくにつけては、どんな又対あい手てに不心得があつて、危けん険のんでないとも限らぬから、其そ処こで恁こう、用心の銃をかついで、食べる物も用意した。
台だい場ばの停ステ車エシ場ョンから半はん道みちばかり、今け朝さ此この原へかゝつた時は、脚きゃ絆はんの紐ひもも緊しっ乎かりと、草わら鞋じもさツ〳〵と新しい踏ふみ心ごこ地ち、一面に霧のかゝつたのも、味方の狼のろ煙しのやうに勇いさましく踏ふみ込こむと、さあ、一ひとツ一ひとツ、萱かやにも尾花にも心を置いて、葉はず末えに目をつけ、根を窺うかがひ、まるで、美しい蕈きのこでも捜す形。
葉ずれの音がざわ〳〵と、風が吹く度たびに、遠くの方で、
︵主ぬしあるものですが、︶とでも囁ささやいて居るやうで、頼たの母もしいにつけても、髑しゃ髏れこうべの形をした石いし塊ころでもないか、今にも馬の顔つらが出はしないかと、宝の蔓つるでも手た繰ぐる気で、茅ちが萱やの中の細ほそ路みちを、胸むな騒さわぎがしながら歩あ行るいたけれども、不思議なものは樹きの根にも出でっ会くわさない、唯ただ、彼あのこはれ〴〵の停ステ車エシ場ョンのあとへ来た時、雨あめ露つゆに曝さらされた十字の里りて程いひ標ょうが、枯かれ草くさの中に、横になつて居るのを見て、何となく荒あれ野のの中の磔はり柱つけばしらででもあるやうに思つた。
おゝ、然そういへば沢たん山と古い昔ではない、此の国の歴れき々れきが、此こ処こに鷹たか狩がりをして帰りがけ、秋あき草ぐさの中に立つて居た媚なまめかしい婦おん人なの、あまりの美しさに、予かねての色いろ好ごのみ、うつかり見み惚とれるはずみに鞍くらを外はずして落馬した、打うち処どころが病やまいのもとで、あの婦おん人なともを為させろ、と言いひ死じにに亡くなられた。
あとでは魔法づかひだ、主しゅ殺ころしと、可哀相に、此の原で磔はりつけにしたとかいふ。
日にっ本ぽん一いちの無法な奴やつ等ら、かた〴〵殿様のお伽とぎなればと言つて、綾あや錦にしきの粧よそおいをさせ、白しろ足た袋びまで穿はかせた上、犠いけ牲にえに上げたとやら。
南なむ無さん三ぼ宝う、此の柱へ血が垂れるのが序じょ開びらきかと、其その十字の里程標の白はっ骨こつのやうなのを見て居る中うちに、凭よっかゝつて居た停ステ車エシ場ョンの朽くちた柱が、風もないに、身から体だの圧おしで動くから、鉄砲を取とり直なおしながら後あと退じさりに其そ処こを出た。
雨は其の時から降り出して、それからの難儀さ。小こぬ糠かあ雨めの細こまかいのが、衣きも服のの上から毛穴を徹とおして、骨に染しむやうで、天あた窓まは重くなる、草わら鞋じは切れる、疲つか労れは出る、雫しずくは垂たる、あゝ、新しい筵むしろがあつたら、棺かんの中へでも寝たいと思つた、其で此の家を見つけたんだもの、何の考へもなしに駈かけ込んだが、一ひと呼い吸きして見ると、何どうだらう。﹂
炉の火はパツと炎ほさ尖きを立てて、赤く媼おうなの額ひたいを射いた、瞻みまもらるゝは白しら髪がである、其その皺しわである、目めは鼻なだ立ちである、手の動くのである、糸車の廻るのである。
恁かくても依然として胸を折つて、唯ただ糸に操あやつらるゝ如き、媼の状さまを見るにつけても、桂木は膝ひざを立てて屹きっとなつた。
﹁失礼だが、お媼ばあさん、場所は場所だし、末うら枯がれだし、雨は降る、普た通だものとは思へないぢやないか。霧が雲がと押おし問もん答どう、謎なぞのかけツこ見たやうなことをして居るのは、最もう焦じれつたくつて我慢が出来ぬ。そんなまだるつこい、気の滅め入いる、糸車なんざ横倒しにして、面白いことを聞かしておくれ。
それとも人が来たのが煩うるさくツて、癪しゃくに障さわつたら、さあ、手取り早く何どうにかするんだ、牙きばにかけるなり、炎を吐はくなり、然そうすりや叶かなはないまでも抵てむ抗かいしよう、善にも悪にも恁こうして居ちや、じり〳〵して胸が苦しい、じみ〳〵雨で弱らせるのは、第一何なににしろ卑怯の到いたりだ、さあ、さあ、人間でさいなくなりや、其を合図で勝負にしよう、﹂と微笑を泛うかべて串じょ戯うだんらしく、身みも悶だえをして迫りながら、桂木の瞳ひとみは据すわつた。
血けっ気きに逸はやる少年の、其の無邪気さを愛する如く、離れては居るが顔と顔、媼は嘗なめるやうにして、しよぼ〳〵と目をき、
﹁お客様もう降つて居いはせぬがなう。﹂
桂木一いっ驚きょうを喫きっして、
﹁や何い時つの間まに、﹂
七
﹁炉の中の荊いばらの葉が、かち〳〵と鳴つて燃えると、雨は上るわいなう。﹂
いかにも拭ぬぐつたやうに野のづ面ら一面。媼おうなの頭つむりは白さを増したが、桂木の膝ひざのあたりに薄うす日びが射さした、但ただ件くだんの停ステ車エシ場ョンに磁石を向けると、一直線の北に当る、日ひが金ねや山ま、鶴つる巻まき山やま、十じっ国こく峠とうげを頂いた、三島の連山の裾すそが直ただちに枯かれ草くさに交まじわるあたり、一帯の霧が細せせ流らぎのやうに靉たな靆びいて、空も野も幻の中に、一ひと際きわ濃こまやかに残るのである。
あはれ座ざ右うのポネヒル一ひと度たび声を発するを、彼かし処こに人ありて遙はるかに見よ、此こ処こに恰あたかも其の霧の如く、怪しき煙が立たうもの、
と、桂木は心も勇いさんで、
﹁むゝ、雨は歇やんだ、けれどもお媼ばあさんの姿は未まだ矢やっ張ぱり人間だよ。﹂と物もの狂くるはしく固かた唾ずを飲んだ。
此の時媼、呵から々からと達たっ者しゃに笑ひ、
﹁はゝはゝ、お客様も余程のお方ぢやなう、しつかりさつしやれ、気分が悪いのでござろ。なるほど石ころ一つ、草の葉にまで、心を置いたと謂いはつしやるにつけ、何どうかしてござらうに、まづまづ、横にでもなつて気を落着けるが可よいわいなう、それぢやが、私わしを早はや矢やっ張ぱり怪しいものぢやと思うてござつては、何とも安あん堵ど出来悪にくかろ、可よいわいの。
もつともぢや、お主ぬしさへ命がけで入つてござつたといふ処ところ、私わしがやうな起たち居いも不自由な老とし寄よりが一人居ては、怪しうないことはなからうわいの、それぢやけど、聞かつしやれ、姨おば捨すて山やまというて、年とし寄よりを棄すてた名所さへある世の中ぢや、私わたしが世を棄すてて一人住んで居おつたというて、何で怪しう思はしやる。少わかい世よす捨てび人とな、これ、坊さまも沢たん山とあるではないかいの、まだ〳〵、死んだ者に信しん女にょや、大だい姉し居こ士じなぞいうて、名をつける習ならいでござらうが、何で又、其の旅たび商あき人うどに婦おん人なが懸けそ想うしたことを、不思議ぢやと謂はつしやる、やあ!﹂と胸を伸のばして、皺しわだらけの大おおきな手を、薄いよれ〳〵の膝の上。はじめて片手を休めたが、それさへ輪を廻す一方のみ、左ゆん手では尚なお細長い綿わたから糸を吐はかせたまゝ、乳ちちのあたりに捧げて居た。
﹁第一まあ、先さっ刻きから恁こうやつて鉄砲を持つた者が入つて来たのに、糸を繰くる手を下にも置かない、茶を一つ汲くんで呉くれず、焚たき火びだつて私の方でして居るもの、変にも思はうぢやないか、えゝ、お媼ばあさん。﹂
﹁これは〳〵、お前様は、何と、働きもの、愛あい想そのないものを、変へん化げぢやと思はつしやるか。﹂
﹁むゝ。﹂
﹁それも愛想がないのぢやないわいなう、お前様は可かわ愛いらしいお方ぢやでの、私わしも内うち端わのもてなしぢや、茶も汲くんで飲あがらうぞ、火も焚たいて当らつしやらうぞ。何とそれでも怪しいかいなう﹂
﹁…………﹂桂木は返す言ことばは出なかつたが、恁こう謂いはるれば謂はれるほど、却かえつて怪しさが増すのであつたが。
爰ここにいたりて自然の勢いきおい、最早与くみし易やすからぬやうに覚おぼゆると同時に、肩も竦すくみ、膝ひざもしまるばかり、烈はげしく恐怖の念が起つて、単ひとえに頼むポネヒルの銃口に宿つた星の影も、消えたかと怯おくれが生じて、迚とても敵てきし難がたしと、断念をするとともに、張はり詰つめた気も弛ゆるみ、心も挫くじけて、一いっ斉ときにがつくりと疲つか労れが出た。初うい陣じんの此の若わか武むし者ゃ、霧に打たれ、雨に悩み、妖よう婆ばのために取つて伏せられ、忍しのびの緒おをプツツリ切つて、
﹁最もう何どうでも可ようございます、私はふら〳〵して堪たまらない、殺されても可いいから少しば時らく爰ここで横になりたい、構はないかね、御免なさいよ。﹂
﹁おう〳〵可いいともなう、安心して一休み休まつしやれ、ちツとも憂きづ慮かいをさつしやることはないに、私わしが山猫の化けたのでも。﹂
﹁え。﹂
﹁はて魔の者にした処ところが、鬼きじ神んに横おう道どうはないといふ、さあ〳〵かたげて寝やすまつしやれいの〳〵。﹂
桂木はいふがまゝに、兎とも角かくも横になつた、引寄せもせず、ポネヒル銃のある処ところへ転げざまに、倒れて寝ようとすると、
﹁や、しばらく待たつしやれ。﹂
八
﹁お前様一枚脱いでなり、濡ぬれたあとで寒うござろ。﹂
﹁震へるやうです、全く。﹂
﹁掛けるものを貸して進ぜましよ、矢やっ張ぱり内うち端わぢや、お前様立つて取らつしやれ、何なになう、私わしがなう、ありやうは此の糸の手を放すと事ぢや、一ちょ寸っとでも此の糸を切るが最後、お前様の身が危あぶないで、いゝや、いゝや、案じさつしやるないの。又また不思議がらつしやるが、目に見えぬで、どないな事があらうも知れぬが世間の習ならいぢや。よりもかゝらず、蜘く蛛もの糸より弱うても、私わしが居るから可よいわいの、さあ〳〵立つて取らつしやれ、被かけるものはの、他ほかにない、あつても気味が悪からうず、少わかい人には丁ちょ度うど持つて来い、枯かれ野のに似合ぬ美しい色のあるものを貸しませうず。
あゝ、いや、其の蓑みのではないぞの、屏びょ風うぶを退のけて、其の蓑を取つて見やしやれいなう。﹂と糸車の前をずりもせず、顔ばかり振ふり向むく方かた。
桂木は、古びた雨あま漏もりだらけの壁に向つて、衝つと立つた、唯と見れば一いち領りょう、古ふる蓑みのが描ける墨すみ絵えの滝の如く、梁うつばりに掛かかつて居たが、見てはじめ、人の身から体だに着るのではなく、雨あめ露つゆを凌しのぐため、破あば家らやに絡まとうて置くのかと思つた。
蜂はちの巣のやう穴だらけで、炉の煙は幾いく条すじにもなつて此こ処こからも潜もぐつて壁の外へ染にじみ出す、破やれ屏びょ風うぶを取とりのけて、さら〳〵と手に触れると、蓑はすつぽりと梁はりを放はなれる。
下に、絶壁の磽こうたる如く、壁に雨漏の線が入つた処ところに、すらりとかゝつた、目めざ覚めるばかり色いろ好よき衣きぬ、恁かかる住すま居いに似合ない余りの思ひがけなさに、媼おうなの通つう力りき、枯かれ野の忽たちまち深みや山まに変じて、こゝに蓑の滝、壁の巌いわお、もみぢの錦にしきかと思つたので。
桂木は目をつて、
﹁お媼ばあさん。﹂
﹁おゝ、其ぢや、何と丁ちょうどよからうがの、取つて掻かい巻まきにさつしやれいなう。﹂
裳もすそは畳たたみにつくばかり、細く褄つまを引ひき合あわせた、両りょ袖うそでをだらりと、固もとより空うつ蝉せみの殻なれば、咽の喉どもなく肩もない、襟えりを掛けて裏返しに下げてある、衣えも紋んは梁うつばりの上に日の通さぬ、薄暗い中うちに振ふり仰あおいで見るばかりの、丈たけ長ながき女の衣きぬ、低い天井から桂木の背せなを覗のぞいて、薄うす煙けむりの立たち迷まよふ中に、一ひと本もとの女おみ郎なえ花し、枯かれ野のに彳たたずんで淋さみしさう、然しかも何なんとなく活いき々いきして、扱しご帯き一ひと筋すじ纏まとうたら、裾すそも捌さばかず、手足もなく、俤おもかげのみがすら〳〵と、炉の縁ふちを伝ふであらう、と桂木は思はず退すさつた。
﹁大事ない〳〵、袷あわせぢやけれどの、濡ぬれた上うわ衣ぎよりは増ましでござろわいの、主ぬしも分つてある、麗あでやかな娘のぢやで、お前様に殆ちょうど可よいわ、其その主ぬしもまたの、お前様のやうな、少わかい綺きれ麗いな人と寝たら本ほん望もうぢやろ、はゝはゝはゝ。﹂
腹ふく蔵ぞうなく大おお笑わらいをするので、桂木は気を取とり直なおして、密そっと先まづ其の袂たもとの端に手を触れた。
途端に指の尖さきを氷のやうな針で鋭く刺さうと、天あた窓まから冷ひやりとしたが、小こそ袖ではしつとりと手にこたへた、取り外はずし、小脇に抱く、裏が上になり、膝ひざのあたり和やわらかに、褄つましとやかに袷の裾なよ〳〵と畳に敷いて、襟は仰あお向むけに、譬たとえば胸を反そらすやうにして、桂木の腕にかゝつたのである。
さて見れば、鼠ねず縮みち緬りめんの裾すそ廻まわし、二にま枚いあ袷わせの下着と覚おぼしく、薄うす兼けん房ぼうよろけ縞じまのお召めし縮ちり緬めん、胴どう抜ぬきは絞つたやうな緋の竜巻、霜しもに夕日の色染そめたる、胴どう裏うらの紅くれない冷つめたく飜かえつて、引けば切れさうに振ふりが開あいて、媼おうなが若き時の名なご残りとは見えず、当世の色あざやかに、今脱いだかと媚なまめかしい。
熟じっと見るうちに我にもあらず、懐しく、床ゆかしく、いとしらしく、殊ことにあはれさが身に染しみて、まゝよ、ころりと寝て襟のあたりまで、銃を枕に引ひっかぶる気になつた、ものの情なさけを知るものの、恁かくて妖魔の術中に陥おちいらうとは、いつとはなしに思ひ思はず。
九
﹁はゝはゝ、見れば見るほど良い孫ぢやわいなう、何どうぢや、少しは落おち着つかしやつたか、安あん堵どして休まつしやれ。したがの、長いことはならぬぞや、疲くた労びれが治つたら、早く帰らつしやれ。
お前さま先さ刻きのほど、血けっ相そうをかへて謂いはしつた、何か珍しいことでもあらうかと、生いの命ちがけでござつたとの。良いにつけ、悪いにつけ、此こ処こ等ら人の来こぬ土とこ地ろへ、珍しいお客様ぢや。
私わしがの、然そうやつてござるあひだ、お伽とぎに土みや産げば話なしを聞かせましよ。﹂
と下にも置かず両の手で、静しずかに糸を繰くりながら、
﹁他ほかの事ではないがの、今かけてござる其の下着ぢや。﹂
桂木は何い時つかうつら〳〵して居たが、ぱつちりと涼すずしい目を開あけた。
﹁其は恁こうぢやよ、一ひと月つきの余よも前ぢやわいの、何ともつひぞ見たことのない、都みやこ風ふう俗ぞくの、少わかい美しい嬢様が、唯たった一ひと人り景色を見い〳〵、此の野へござつて私わしが処とこへ休ましやつたが、此の奥にの、何なにとも名の知れぬ古い社やしろがござるわいの、其そ処こへお参まい詣りに行くといはつしやる。
はて此の野は其のお宮の主ぬしの持物で、何をさつしやるも其の御みこ心ころぢや、聞かつしやれ。
どんな願ねが事いごとでもかなふけれど、其かはり生いの命ちを犠にえにせねばならぬ掟おきてぢやわいなう、何と又また世の中に、生いの命ちが要いらぬといふ願ねがいがあろか、措おかつしやれ、お嬢様、御存じないか、というたれば。
いえ〳〵大事ござんせぬ、其を承知で参りました、といはつしやるわいの。
いや最もう、何なにも彼かも御存じで、婆ばばなぞが兎とや角こういふも恐おそ多れおおいやうな御ごじ人んぴ品んぢや、さやうならば行つてござらつせえまし。お出かけなさる時に、歩あ行るいたせゐか暑うてならぬ、これを脱いで行きますと、其そ処こで帯を解とかつしやつて、お脱ぎなされた。支度を直して、長なが襦じゅ袢ばんの上へ袷あわせ一ひとツ、身軽になつて、すら〳〵草の中を行かつしやる、艶つや々つやとしたおつむりが、薄すすきの中へ隠れたまで送つてなう。
それからは茅ちが萱やの音にも、最もうお帰かえりかと、待てど暮らせど、大方例いつものにへにならつしやつたのでござらうわいなう。私わしがやうな年とし寄よりにかけかまひはなけれどもの、何なんにつけても思ひ詰めた、若い人たちの入つて来る処ところではないほどに、お前様も二度と来ようとは思はつしやるな。可いいかの、可いいかの。﹂と間あいを措おいて、緩ゆるく引張つてくゝめるが如くにいふ、媼おうなの言ことばが断たえ々だえに幽かすかに聞えて、其の声の遠くなるまで、桂木は留と南め木ぎの薫かおりに又恍うっ惚とり。
優しい暖かさが、身に染しみて、心から、草くた臥びれた肌を包むやうな、掻かい巻まきの情なさけに半なかば眼まなこを閉ぢた。
驚す破わといへば、射いて落おとさんず心も失うせ、はじめの一いち念ねんも疾とく忘れて、野のにありといふ古ふる社やしろ、其の怪あやしみを聞かうともせず、目まのあたりに車を廻すあからさまな媼おうなの形も、其のまゝ舁かき移すやうに席むしろを彼あな方たへ、小さく遠くなつたやうな思ひがして、其の娘も犠にえの仔細も、媼の素すじ性ょうも、野の状さまも、我が身のことさへ、夢を見たら夢に一切知れようと、ねむさに投げ出した心の裡うち。
却かえつて爰ここに人あるが如く、横に寝た肩に袖そでがかゝつて、胸にひつたりとついた胴どう抜ぬきの、媚なまめかしい下着の襟えりを、口を結んで熟じっと見て、噫ああ、我が恋人は他たに嫁かして、今は世に亡なき人となりぬ。
我も生いの命ちも惜おしまねばこそ、恁かかる野にも来きたりしなれ、何どうなりとも成るやうになつて止やめ! 之これも犠にえになつたといふ、あはれな記かた念みの衣ころも哉かな、としきりに果はか敢なさに胸がせまつて、思はず涙ぐむ襟えり許もとへ、颯さっと冷つめたい風。
枯かれ野のの冷ひえが一ひと幅はばに細く肩の隙すきへ入つたので、しつかと引寄せた下着の背せな、綿わたもないのに暖あたたかく二にの腕うでへ触れたと思ふと、足を包んだ裳もすそが揺れて、絵の婦おん人なの、片かた膝ひざ立てたやうな皺しわが、袷あわせの縞しまなりに出来て、しなやかに美しくなつた。
呀あなやと見ると、女の俤おもかげ。
十
眉まゆ長く、瞳ひとみ黒く、色雪の如きに、黒髪の鬢びん乱れ、前髪の根も分わかるゝばかり鼻はな筋すじの通つたのが、寝ながら桂木の顔を仰ぐ、白しら歯はも見えた涙の顔に、得えも謂いはれぬ笑えみを含んで、ハツとする胸に、媼おうなが糸を繰くる音とともに幽かすかに響いて、
﹁主ぬしのあるものですが、一いっ所しょに死んで下さいませんか。﹂と声あるにあらず、無きにあらず、嘗かつて我が心に覚えある言ことを引出すやうに確たしかに聞えた。
耳がぐわツと。
小屋が土台から一ひと揺ゆれ揺れたかと覚えて、物もの凄すさまじい音がした。
﹁姦かん婦ぷ﹂と一いっ喝かつ、雷らいの如く鬱うつし怒いかれる声して、外との方かたに呼ばはるものあり。此の声柱はしらを動かして、黒くろ燻くすぶりの壁、其の蓑みのの下、袷あわせをかけてあつた処ところ、件くだんの巌いわ形おがたの破やれ目めより、岸が破ばと倒どうだおしに裡うちへ倒れて、炉の上へ屏びょ風うぶぐるみ崩れ込むと、黄に赤に煙が交まじつて※ぱっ﹇#﹁火+發﹂、93-9﹈と砂すな煙けむりが上あがつた。
ために、媼の姿が一いち時じ消えるやうに見えなくなつた時である。
桂木は弾はじき飛ばされたやうに一間けんばかり、筵むしろを彼あな方たへ飛び起きたが、片手に緊しっ乎かりと美人を抱いたから、寝るうちも放さなかつた銃を取るに遑いとまあらず。
兎とか角くの分ふん別べつも未まだ出ぬ前、恐おそろしい地震だと思つて、真まっ蒼さおになつて、棟むねを離れて遁のがれようとする。
門かど口ぐちを塞ふさいだやうに、眼を遮さえぎつたのは毒どく霧ぎりで。
彼かの野のず末えに一ひと流ながれ白しら旗はたのやうに靡なびいて居たのが、横に長く、縦に広く、ちらと動いたかと思ふと、三里の曠こう野や、真白な綿わたで包まれたのは、いま遁にげようとすると殆ほとんど咄とっ嗟さの間かんの事こと。
然しかも此の霧の中に、野のづ面らを蹴けかへす蹄ひづめの音、九ここのツならず十とおならず、沈んで、どうと、恰あたかも激流地ちの下より寄せ来くる気けは勢い。
﹁遁にがすな。﹂
﹁女!﹂
﹁男!﹂
と声々、ハヤ耳のあたりに聞えたので、又引ひっ返かえして唯と壁の崩くずれを見ると、一ひと団かたまりの大おおいなる炎の形に破れた中は、おなじ枯かれ野のの目も遙はるかに彼かな方たに幾いく百ひゃ里くりといふことを知らず、犇ひし々ひしと羽は目めを圧して、一体こゝにも五六十、神か、鬼か、怪しき人物。
朽くち葉ばい色ろ、灰、鼠ねずみ、焦こげ茶ちゃ、たゞこれ黄たそ昏がれの野の如き、霧の衣ころもを纏まとうたる、いづれも抜群の巨人である。中に一いち人にん真まっ先さきかけて、壁の穴を塞ふさいで居たのが、此の時、掻かい潜くぐるやうにして、恐おそろしい顔を出した、面めんの大おおきさ、梁はりの半なかばを蔽おおうて、血の筋すじ走る金きんの眼まなこにハタと桂木を睨ねめつけた。
思はず後しり居いに腰を突く、膝ひざの上に真まう俯つ伏ぶせ、真白な両手を重ねて、わなゝく髷まげの根、頸うなじさへ、あざやかに見ゆる美人の襟えりを、誰たが手ともなく無むん手ずと取つて一ひと拉ひしぎ。
﹁あれ。﹂
と叫んだ声ばかり、引ひっ断ちぎれたやうに残つて、袷あわせはのけざまにずる〳〵と畳たたみの上を引ひき摺ずらるゝ、腋わきあけのあたり、ちら〳〵と、残のこンの雪も消え、目も消えて、裾すその端が飜ひるがへつたと思ふと、倒さかしまに裏庭へ引ひき落おとされた。
﹁男は、﹂
﹁男は、﹂
と七ななツ八やつツ入いり乱みだれてけたゝましい跫あし音おとが駈かけめぐる。
﹁叱しっ!﹂とばかり、此の時覚悟して立たうとした桂木の傍かたわらに引ひき添そうたのは、再び目に見えた破あば家らやの媼おうなであつた、果はたせるかな、糸は其の手に無かつたのである。恁かかる時桂木の身は危あやふしとこそ予言したれ、幸さいわいに怪しき敵の見みい出だし得えぬは、由よしありげな媼が、身を以て桂木を庇かばふ所せ為いであらう。桂木はほツと一ひと息いき。
﹁何ど処こへ遁にげた。﹂
﹁今此こ処こに、﹂
﹁其そ処こで見た。﹂
と魂たま消ぎゆる哉かな、詈ののしり交かわすわ。
十一
恁かくてしばらくの間あいだといふものは、轡くつわを鳴らす音、蹄ひづめの音、ものを呼ぶ声、叫ぶ声、雑ざつ々ざつとして物もの騒さわがしく、此の破あば家らやの庭の如き、唯ただ其そ処こばかりを劃くぎつて四五本の樹こだ立ちあり、恁かかる広ひろ野のに停ステ車エシ場ョンの屋根と此の梢こずえの他ほかには、草より高く空を遮さえぎるもののない、其の辺あたりの混雑さ、多たに人ん数ずの踏ふみしだくと見えて、敷しき満みちたる枯かれ草くさ、伏ふし、且かつ立ち、窪くぼみ、又倒れ、しばらくも休やまぬ間あい々だあいだ、目まぐるしきばかり、靴、草わら鞋んじの、樺かばの踵かかと、灰あ汁くの裏、爪つま尖さきを上に動かすさへ見えて、異類異いぎ形ょうの蝗いなごども、葉はず末えを飛ぶかとあやまたるゝが、一ひと個つも姿は見えなかつたが、やがて、叱しっ!叱しっ!と相あい伝つたふる。
しばらくして、
﹁静まれ。﹂といふのが聞えると、ひツそりした。
枯かれ草くさも真まっ直すぐになつて、風死しし、そよとも靡なびかぬ上に、あはれにかゝつたのは彼かの胴どう抜ぬきの下着である。
﹁其そい奴つ縛くくせ。﹂
﹁縛しばれ、縛れ。﹂と二三度ばかり言ことばをかはしたと思ふと、早はや引上げられ、袖そでを背そびらへ、肩が尖とがつて、振ふりの半なかばを前へ折つて伏せたと思ふと、膝ひざのあたりから下へ曲げて掻かい込んだ、後うしろに立つた一ひと本もとの榛はんの樹きに、荊いばらの実の赤き上に、犇ひし々ひしと縛いましめられたのである。
﹁さあ、言へ、言へ。﹂
﹁殿様の御ぎょ意いだ、男を何ど処こへ秘かくした。﹂
﹁さあ、言つちまへ。﹂
縛くくされながら戦わななくばかり。
﹁そこ退のけ、踏んでくれう。﹂と苛いらてる音調、草が飛とび々とび大おお跨またに寝ねつ起おきつしたと見ると、縞しまの下着は横ざまに寝た。
艶えんなる褄つまがばらりと乱れて、たふれて肩を動かしたが、
﹁あゝれ。﹂
﹁業ごう畜ちく、心に従はぬは許して置く、鉄くろがねの室むろに入れられながら、毛けす筋じほどの隙すき間まから、言語道断の不ふら埒ちを働く、憎い女、さあ、男をいつて一いっ所しょに死ね……えゝ、言はぬか何どうだ。﹂踏ふみ躙にじる気けは勢いがすると、袖の縺もつれ、衣えも紋んの乱れ、波に揺ゆらるゝかと震ふにつれて、霰あられの如く火花に肖にて、から〳〵と飛ぶは、可いた傷むべし、引ひっ敷しかれ居いる棘とげを落ちて、血ちし汐おのしぶく荊の実。
桂木は拳こぶしを握つて石になつた、媼おうなの袖は柔かに渠かれを蔽おおうて引ひき添そひ居る。
﹁殿、殿。﹂
と呼んで、
﹁其では謂いはうとても謂はれませぬ、些ちと寛くつろげて遣つかはさりまし。﹂
﹁可よし、さあ、何どうだ、言へ。何、知らぬ、知らぬ 黙れ。
男を慕したふ女の心はいつも男の居いど所ころぢや哩わ、疾はやく、口をあけて、さあ、吐はかぬか、えゝ、業ごう畜ちく。﹂
﹁あツ、﹂とまた烈はげしい婦おん人なの悲鳴、此の際ときには、其の掻もがくにつれて、榛はんの木の梢こずえの絶えず動いたのさへ留やんだので。
桂木は塞ふさがうと思ふ目も、鈴で撃つたやうになつて瞬またたきも出来ぬのであつた。
稍ややあつて、大おお跨またの足あとは、衝つと逆ぎゃくに退しさつたが、すツくと立たち向むかつた様子があつて、切つて放したやうに、
﹁打て!﹂
﹁殺して、殺して下さいよ、殺して下さいよ。﹂
﹁いづれ殺す、活いけては置かぬが、男の居いど所ころを謂ふまでは、活いかさぬ、殺さぬ。やあ、手ぬるい、打て。笞しもとの音が長く続いて在あり所かを語る声になるまで。﹂
﹁はツ。﹂
四五人で答へたらしい、荊いばらの実は又頻しきりに飛ぶ、記かた念みの衣きぬは左右より、衣えも紋んがはら〳〵と寄つては解とけ、解ほぐれては結むすぼれ、恰あたかも糸の乱るゝやう、翼裂けて天てん女にょの衣ころも、紛ふん々ふんとして大空より降ふり来くるばかり、其の胸の反そる時や、紅こう裏うら颯さっと飜ひるがえり、地に襟えりのうつむき伏ふす時、縞しまはよれ〳〵に背せなを絞つて、上に下に七しっ転てん八ばっ倒とう。
俤おもかげは近く桂木の目の前に、瞳ひとみを据すゑた目も塞ふさがず、薄うす紫むらさきに変じながら、言はじと誓ふ口を結んで、然しかも惚ほれ々ぼれと、男の顔を見みつ詰むるのがちらついたが、今は恁こうと、一度踏みこたへてずり外はずした、裳もすそは長く草に煽あおつて、あはれ、口くち許もとの笑えみも消えんとするに、桂木は最もうあるにもあられず、片かた膝ひざ屹きっと立てて、銃を掻かい取とる、袖そでを圧おさへて、
﹁密そっと、密と、密と。﹂
低こご声えに畳たたみかけて媼おうなが制した。
譬たとひ此の弾丸山を砕いて粉こにするまでも、四しへ辺んの光景単みひ身とつで敵てきし難がたきを知らぬでないから、桂木は呼い吸きを引いて、力なく媼の胸に潜ひそんだが。
其その時とき最後の痛苦の絶叫、と見ると、苛さいなまるゝ婦おん人なの下着、樹の枝に届くまで、すツくりと立つたので、我を忘れて突つっ立たち上あがると、彼かな方たはハタと又僵たおれた、今は皮かわや破れけん、枯かれ草くさの白き上へ、垂たら々たらと血が流れた。
﹁此こ処こに居る。﹂と半狂乱、桂木はつゝと出た。
﹁や、﹂﹁や、﹂と声をかけ合せると、早はや、我が身から体だは宙に釣つられて、庭の土に沈むまで、とばかり。
桂木は投なげ落おとされて横になつたが、死を極きわめて起おき返かえるより先に、これを見たか婦人の念力、袖そでの折おり目の正しきまで、下着は起きて、何となく、我を見み詰つむる風ふぜ情いである。
﹁静まれ、無むた体いなことを為し申もうす勿な。﹂
姿は見えぬが巨人の声にて、
﹁客きゃ人くじん何も謂いはぬ。
唯ただ御おみ身た達ちのやうなものは、活いけて置かぬが夥なか間まの掟おきてだ。﹂
桂木は舌しゞまりて、
﹁…………﹂ものも言はれず。
﹁斬きつ了ちまへ! 眷けん属ぞく等ども。﹂
きらり〳〵と四よふ振りの太た刀ち、二ふた刀ふりづゝを斜ななめに組んで、彼かな方たの顋あぎとと、此こな方たの胸、カチリと鳴つて、ぴたりと合せた。
桂木は切きっ尖さきを咽の喉どに、剣つるぎの峰からあはれなる顔を出して、うろ〳〵媼おうなを求めたが、其の言ことばに従はず、故ことさらに死し地ちに就ついたを憎んだか、最もう影も形も見えず、推量と多く違たがはず、家も床ゆかも疾とくに消えて、唯ただ枯かれ野のの霧の黄たそ昏がれに、露つゆの命の男ふた女り也なり。目を瞑ねむると、声を掛け、
﹁しかし客人、死を惜おしむ者は殺さぬが又掟おきてだ、予あらかじめ聞かう、主ぬしある者と恋を為し遂とげるため、死を覚悟か。﹂
稍やや激しく。
﹁婦おん人なは?﹂
﹁はい。﹂と呼い吸きの下で答へたが、頷うなずくやうにして頭つむりを垂れた。
﹁可よし。﹂
改めて、
﹁御おん身みは。﹂
諾だくと答へようとした、謂いふまでもない、此この美人は譬たとひ今は世に亡なき人にもせよ、正まさに自分の恋人に似て居るから。
けれども、譬たとひ今は世に亡き人にもせよ、正に自分の恋人であればだけれども、可おか怪し、枯かれ野のの妖魔が振ふる舞まい、我とともに死なんといふもの、恐らく案か山か子しを剥はいだ古ふる蓑みのの、徒いたずらに風に煽あおるに過ぎぬも知れないと思つたから、おもはゆげに頭かしらを掉ふつた。
﹁殿、不実な男であります、婦おん人なは覚悟をしましたに、生いの命ちを助かりたいとは、あきれ果てた未みれ練んも者の、目の前でずた〳〵に婦おん人なを殺して見せつけてくれませう。﹂
﹁待て。﹂
﹁は。﹂
﹁客人が、世を果はか敢なんで居るうちは、我々の自由であるが、一ひと度たび心を入いれ交かへて、恁かかる処ところへ来るなどといふ、無むふ分んべ別つさへ出さぬに於ては、神しん仏ぶつおはします、父ちち君ぎみ、母はは君ぎみおはします洛らく陽ようの貴公子、むざとしては却かえつて冥みょ罰うばつが恐おそろしい。婦おん人なは斬きれ! 然しかし客人は丁寧にお帰し申せ。﹂
﹁は。﹂と再び答へると、何か知らず、桂木の両手を取つて、優しく扶たすけ起したものがある、其が身に接した時、湿つた木この葉はの薫かおりがした。
腰のあたり、膝ひざのあたり、跪ひざまずいて塵ちりを払ひくれる者もあつた。
銃をも、引上げて身に立てかけてよこしたのを、弱よわ々よわと取つて提ひっさげて、胸を抱いて見返ると、縞しまの膝を此こな方たにずらして、紅くれないの衣きぬの裏、ほのかに男を見送つて、分わかれを惜おしむやうであつた。
桂木は倒れようとしたが、踵くびすをめぐらし、衝つと背うし後ろむ向きになつた、霧の中から大きな顔を出したのは、逞たくましい馬で。
これを片手で、かい退のけて、それから足を早めたが、霧が包んで、蹄ひづめの音、とゞろ〳〵と、送るか、追ふか、彼かの停ステ車エシ場ョンのあたりまで、四間けんばかり間あわいを置いてついて来た。
来た時のやうに立たち停どまつて又、噫ああ、妖魔にもせよ、と身を棄すてて一いっ所しょに殺されようかと思つた。途端に騎馬が引ひき返かえした。其の間あわい遠ざかるほど、人にん数ずを増まして、次第に百騎、三百騎、果はては空吹く風にも聞え、沖を大おお浪なみの渡るにも紛まごうて、ど、ど、ど、ど、どツと野のず末えへ引いて、やがて山々へ、木こだ精まに響いたと思ふと止やんだ。
最早、天地、処ところを隔へだつたやうだから、其のまゝ、銃じゅ孔うこうを高くキラリと揺ゆり上げた、星一ひとツ寒く輝く下に、路みちも迷はず、夜よるになり行く狭さぎ霧りの中を、台だい場ばに抜けると点ひと燈もし頃ごろ。
山やま家がの茶屋の店さきへ倒れたが、火の赫かっと起つた、囲い炉ろ裡りに鉄てつ網あみをかけて、亭主、女房、小こど児もまじりに、餅もちを焼いて居る、此の匂においをかぐと、何どういふものか桂木は人間界へ蘇よみ生がえつたやうな心ここ持ろもちがしたのである。
汽車がついたと見えて、此こ処こまで聞ゆるは、のんきな声、お弁当は宜よろし、お鮨すしはいかゞ。……