はしがき
昔はベンジャミン・フランクリン、自序伝をものして、その子孫の戒いましめとなせり。操行に高潔にして、業務に勤勉なるこの人の如きは、真まことに尊き亀きか鑑んを後世に遺のこせしものとこそ言うべけれ。妾しょうの如き、如い何かに心の驕おごれることありとも、いかで得て企くわだつべしと言わんや。 世に罪深き人を問わば、妾は実にその随一ならん、世に愚おろ鈍かなる人を求めば、また妾ほどのものはあらざるべし。齢よわい人生の六ろく分ぶに達し、今にして過ぎ来こし方かたを顧かえりみれば、行いし事として罪悪ならぬはなく、謀おも慮んばかりし事として誤ごび謬ゅうならぬはなきぞかし。羞しゅ悪うお懺ざん悔げ、次ぐに苦くも悶ん懊おう悩のうを以もってす、妾しょうが、回顧を充みたすものはただただこれのみ、ああ実にただこれのみ也なり。 懺悔の苦悶、これを愈いやすの道はただ己おのれを改むるより他たにはあらじ。されど如い何かにしてかその己れを改むべきか、これ将はた一いつの苦悶なり。苦悶の上の苦悶なり、苦悶を愈すの苦悶なり。苦悶の上また苦悶あり、一の苦悶を愈さんとすれば、生あや憎にくに他の苦悶来り、妾しょうや今実に苦悶の合ごう囲いの内にあるなり。されば、この書を著あらわすは、素もとよりこの苦悶を忘れんとての業わざには非あらず、否いな筆を執とるその事もなかなか苦悶の種たねたるなり、一字は一字より、一行は一行より、苦悶は弥いよ勝まさるのみ。 苦くも悶んはいよいよ勝るのみ、されど、妾しょう強あながちにこれを忘れんことを願わず、否いな昔懐なつかしの想いは、その一字に一行に苦悩と共に弥いや増ますなり。懐かしや、わが苦悶の回顧。 顧おもえば女性の身の自みずから揣はからず、年少わかくして民権自由の声に狂きょうし、行こう途との蹉さて跌つ再三再四、漸ようやく後のちの半はん生せいを家庭に托たくするを得たりしかど、一家の計はかりごといまだ成らざるに、身は早く寡かとなりぬ。人の世のあじきなさ、しみじみと骨にも透とおるばかりなり。もし妾のために同情の一いっ掬きくを注そそがるるものあらば、そはまた世の不幸なる人ならずばあらじ。 妾しょうが過ぎ来こし方かたは蹉さて跌つの上の蹉跌なりき。されど妾は常に戦たたかえり、蹉跌のためにかつて一ひと度たびも怯ひるみし事なし。過去のみといわず、現在のみといわず、妾が血管に血の流るる限りは、未来においても妾はなお戦わん。妾が天職は戦いにあり、人道の罪悪と戦うにあり。この天職を自覚すればこそ、回顧の苦悶、苦悶の昔も懐なつかしくは思うなれ。 妾の懺ざん悔げ、懺悔の苦悶これを愈いやすの道は、ただただ苦悶にあり。妾が天職によりて、世と己おのれとの罪悪と戦うにあり。 先に政権の独占を憤いきどおれる民権自由の叫びに狂せし妾は、今は赤せき心しん資本の独占に抗して、不幸なる貧ひん者しゃの救済に傾かたむけるなり。妾が烏お滸この譏そしりを忘れて、敢あえて半生の経歴を極きわめて率直に少しく隠す所なく叙じょせんとするは、強あながちに罪滅ぼしの懺ざん悔げに代かえんとには非あらずして、新たに世と己れとに対して、妾のいわゆる戦いを宣言せんがためなり。 ﹇#改ページ﹈第一 家庭
一 贋まがいもの
妾しょうは八、九歳の時、屋やし敷きう内ちにて怜れい悧りなる娘と誉ほめそやされ、学校の先生たちには、活発なる無邪気なる子と可愛がられ、十一、二歳の時には、県令学務委員等の臨のぞめる試験場にて、特に撰抜せられて﹃十八史略﹄や、﹃日本外史﹄の講義をなし、これを無上の光栄と喜びつつ、世に妾ほど怜悧なる者はあるまじなど、心私ひそかに郷きょ党うとうに誇りたりき。 十五歳にして学校の助教諭を托せられ、三円の給料を受けて子弟を訓導するの任に当り、日々勤務の傍かたわら、復習を名として、数十人の生徒を自宅に集め、学校の余科を教授して、生徒をして一年の内二階級の試験を受くることを得せしめしかば、大いに父兄の信頼を得て、一時はおさおさ公立学校を凌しのがんばかりの隆盛を致せり。 学校に通う途中、妾は常に蛮わん貊ぱく小僧らのために﹁マガイ﹂が通る﹁マガイ﹂が通ると罵ののしられき。この評言の適切なる、今こそ思い当りたれ、当時妾しょうは実に﹁マガイ﹂なりしなり。﹁マガイ﹂とは馬ば爪づを鼈べっ甲こうに似たらしめたるにて、現今の護ゴ謨ムを象ぞう牙げに擬ぎせると同じく似て非なるものなれば、これを以て妾を呼びしことの如い何かばかり名言なりしかを知るべし。今更恥かしき事ながら妾はその頃、先生たちに活発の子といわれし如く、起きき居ょ振ふる舞まいのお転てん婆ばなりしは言うまでもなく、修業中は髪を結ゆう暇いとまだに惜おしき心ここ地ちせられて、一ひた向ぶるに書を読む事を好みければ、十六歳までは髪を剪きりて前部を左右に分け、衣服まで悉ことごとく男だん生せいの如くに装よそおい、加しかも学校へは女生と伴とものうて通いにき。近所の小こど供もらのこれを観みて異様の感を抱き、さてこそ男子とも女子ともつかぬ、いわゆる﹁マガイ﹂が通るよとは罵りしなるべし。これを懐おもうごとに、今も背に汗のにじむ心地す。ようよう世よご心ころの付き初そめて、男装せし事の恥かしく髪を延ばすに意を用いたるは翌年十七の春なりけり。この時よりぞ始めて束そく髪はつの仲間入りはしたりける。二 自由民権
十七歳の時は妾しょうに取りて一生忘れがたき年なり。わが郷里には自由民権の論ろん客かく多く集まり来て、日頃兄弟の如く親しみ合える、葉はい石し久く米め雄お氏︵変名︶またその説の主張者なりき。氏は国民の団結を造りて、これが総代となり、時の政府に国会開設の請願をなし、諸県に先だちて民衆の迷夢を破らんとはなしぬ。当時母上の戯たわむれに物せし大おお津つ絵えぶしあり。
すめらみの、おためとて、備びぜ前ん岡山を始めとし、数あま多たの国のますらおが、赤い心を墨で書き、国の重荷を背負いつつ、命は軽き旅たび衣ごろも、親や妻つま子こを振り捨てて。︵詩しい入り︶﹁国を去って京に登る愛国の士、心を痛ましむ国会開設の期﹂雲や霞かすみもほどなく消えて、民権自由に、春の時節がおっつけ来るわいな。﹂
尋常の大津絵ぶしと異なり、人々民権論に狂きょうせる時なりければ、妾しょうの月げっ琴きんに和してこれを唄うたうを喜び、その演奏を望まるる事しばしばなりき。これより先、十五歳の時より、妾は女の心得なかるべからずとて、茶の湯、生いけ花ばな、裁縫、諸礼、一式を教えられ、なお男子の如く挙ふる動まいし妾を女子らしからしむるには、音楽もて心を和やわらぐるに若しかずとて、八やく雲もご琴と、月琴などさえ日課の中に据えられぬ。されば妾は毎日の修業それよりそれと夜よに入るまでほとんど寸暇とてもあらざるなりき。
三 縁えん談だん
十六歳の暮に、ある家より結婚の申し込みありしかど、理想に適かなわずとて、謝絶しければ、父母も困こうじ果てて、ある日妾しょうに向かい、家の生計意の如くならずして、倒産の憂うき目さえやがて落ちかからん有様なるに、御おん身みとて何い時つまでか父母の家に留とどまり得べき、幸いの縁談まことに良縁と覚ゆるに、早く思い定めよかしと、いと切せめたる御おん言こと葉ばなり。その時妾は母に向かいこれまでの養育の恩を謝して、さてその御おん恵めぐみによりてもはや自活の道を得たれば、仮たと令い今よりこの家を逐おわるるとも、糊ここ口うに事を欠くべしとは覚えず。されど願うは、ただこのままに永ながく膝しっ下かに侍じせしめ給え、学校より得る収入は悉ことごとく食費として捧ささげ参まいらせ聊いささか困こん厄やくの万一を補わんと、心より申し出いでけるに、父母も動かしがたしと見てか、この縁談は沙さ汰た止やみとなりにき。 ああ世にはかくの如く、父兄に威いあ圧つせられて、ただ儀式的に機械的に、愛もなき男と結婚するものの多からんに、如い何かでこれら不幸の婦人をして、独立自営の道を得せしめてんとは、この時よりぞ妾が胸に深くも刻きざみ付けられたる願いなりける。 結婚沙ざ汰たの止やみてより、妾は一層学芸に心を籠こめ、学校の助教を辞して私塾を設立し、親切懇こん到とうに教授しければ、さらぬだに祖先より代よ々よ教導を以て任とし来きたれるわが家いえの名は、忽たちまち近きん郷ごうにまで伝えられ、入学の者日に増して、間もなく一家は尊敬の焼しょ点うてんとなりぬ。依よりてある寺を借り受けて教場を開き、夜よは更に昼間就学の暇いとまなき婦女、貧ひん家かの子弟に教え、母上は習字を兄上は算術を受け持ちて妾を助け、土曜日には討論会、演説会を開きて知識の交換を謀はかり、旧式の教授法に反対してひたすらに進歩主義を採りぬ。四 岸田女史来きたる
その歳とし有名なる岸きし田だと俊し子こ女史︵故中島信行氏夫人︶漫遊し来きたりて、三日間わが郷きょうに演説会を開きしに、聴衆雲の如く会場立りっ錐すいの地だも余あまさざりき。実げにや女史がその流りゅ暢うちょうの弁舌もて、滔とう々とう女権拡張の大義を唱道せられし時の如き妾しょうも奮慨おく能あたわず、女史の滞在中有志家を以て任ずる人の夫人令嬢等に議はかりて、女子懇親会を組織し、諸国に率そっ先せんして、婦人の団結を謀はかり、しばしば志士論ろん客かくを請しょうじては天てん賦ぷ人権自由平等の説を聴き、おさおさ女子古来の陋ろう習しゅうを破らん事を務めしに、風潮の向かう所入会者引きも切らず、会はいよいよ盛大に赴おもむきぬ。五 納涼会
同じ年の夏、自由党員の納涼会を朝日川に催すこととなり、女子懇親会にも同遊を交渉し来きたりければ、元老女史竹内、津つ下げの両女史と謀はかりてこれに応じ、同日夕刻より船を朝日川に泛うかぶ。会員楽器に和して、自由の歌を合奏す、悲壮の音おん水を渡りて、無限の感に打たれしことの今もなおこの記憶に残れるよ。折しも向かいの船に声こそあれ、白由党員の一いち人にん、甲かん板ぱんの上に立ち上りて演説をなせるなり。殺気凜りん烈れつ人をして慄りつ然ぜんたらしむ。市中ならんには警察官の中止解散を受くる際きわならんに、水上これ無政府の心易やすさは何なん人びとの妨害もなくて、興きょうに乗ずる演説の続々として試みられ、悲壮激越の感、今や朝日川を領せるこの時、突然として水中に人あり、海坊主の如く現われて、会に中止解散を命じぬ。図はからざりきこの船遊びを胡うろ乱んに思い、恐るべき警官が、水に潜ひそみてその挙動を伺うかがい居たらんとは。船中の人々は今を興闌たけなわの時なりければ、河かっ童ぱを殺せ、なぐり殺せと犇ひしめき合い、荒立ちしが、長ちょ者うじゃの言げんに従いて、皆々穏おだやかに解散し、大だい事じに至らざりしこそ幸いなれ。されど妾しょうの学校はその翌日、時の県令高たか崎さき某より、﹁詮せん議ぎの次しだ第い有これ之あり停てい止し候そう事ろうこと﹂、との命を蒙こうむりたり。詮議の次第とは何事ぞ、その筋に向かいて詰問する所ありしかど何なに故ゆえか答えなければ、妾の姉しせ婿い某が県会議員常置委員たりしに頼よりてその故を尋たずねしめけるに、理由は妾が自由党員と船遊びを共にしたりというにありて、姉婿さえ譴けん責せきを加えられ、暫しばらく謹きん慎しんを表する身の上とはなりぬ。 ﹇#改ページ﹈第二 上京
一 故郷を捨つ
政府が人権を蹂じゅ躙うりんし、抑圧を逞たくましうして憚はばからざるはこれにても明あきらけし。さては、平常先輩の説く処、洵まことにその所ゆ以えありけるよ。かかる私政に服従するの義務何いず処くにかあらん、この身は女子なれども、如い何かでこの弊へい制せい悪法を除かずして止やむべきやと、妾しょうは怒りに怒り、りにりて、一念また生徒の訓導に意なく、早く東都に出いでて有志の士に謀はからばやとて、その機の熟するを待てる折しも、妾の家を距さる三里ばかりなる親友山やま田だこ小たけ竹じ女ょの許もとより、明みょ日うにち村に祭礼あり、遊びに来まさずやと、切せつなる招待の状来きたれり。そのまま東都に奔はしらんにいと序ついでよしと思いければ、心には血を吐くばかり憂かりしを忍びつつ、姉上をも誘いざないて、祖先の墓を拝せんことを母上に勧め、親子三人引き連れて約一里ばかりの寺に詣もうで、暫しばらく黙もく祷とうして妾が志こころざしを祖先に告げぬ。初はつ秋あきのいと爽さわやかに晴れたる日なりき。生れて十七年の住みなれし家に背そむき、恩愛厚き父母の膝しっ下かを離れんとする苦しさは、偲しのぶとすれど胸に余りて、外おも貌てにや表われけん、帰るさの途みち上みちも、母上は妾の挙動を怪あやしみて、察する所今度の学校停止に不満を抱き、この機を幸いに遊学を試みんとには非ずや、父上の御おん許ゆるしこそなけれ母は御おん身みを片田舎の埋うも木れぎとなすを惜しむ者、如何で折せっ角かくの志を沮はばむべき、安やすんじて仔しさ細いを語れよと、さりとは慈愛深き御おん仰おおせかな。されど妾は答えざりき、そは母上より父上に語り給わば到底御おん許ゆる容しなきを知ればなり。かくて先まず志し士し仁じん人じんに謀りて学資の輔ほじ助ょを乞い、しかる上にて遊学の途とに上のぼらばやと思い定め、当時自由党中慈善の聞え高かりし大やま和との豪農土どく倉らし庄ょう三ざぶ郎ろう氏に懇願せんとて、先ずその地を志し窃ひそかに出しゅ立ったつの用意をなすほどに、自由党解党の議起り、板いた垣がき伯はくを始めとして、当時名を得たる人々ども、いずれも下げは阪んし、土倉庄三郎氏もまた大阪に出でしとの事に、好機逸いっすべからずとて、遂ついに母上までも欺あざむき参らせ、親友の招きに応ずと言い繕つくろいて、一週間ばかりの暇いとまを乞い、翌日家の軒のき端ばを立ち出いでぬ。実に明治十七年の初はつ秋あきなりき。二 板垣伯に謁えっす
友人の家に著つくより、翌日の大阪行きの船の時刻を問い合せ、午後七時頃とあるに、今更ながら胸騒がしぬ。されど兼かねての決心なり、明くれば友人の懇ねんごろに引き止むるをも聴かず、暇いと乞まごいして大阪に向かいぬ。しかるに妾しょうと室を同じうせる四十ばかりの男子ありて、頻しきりに妾の生地を尋ねつつ此こな方たの顔のみ注視する体ていなるに、妾は心安からず、あるいは両親よりの依托を受けて途中ここに妾を待てるには非あらざる乎かと、一いっ旦たんは少なからず危あやぶめるものから、もと妾の郷きょうを出づるは不ふつ束つかながら日頃の志望を遂とげんとてなり、かの墻かきを越えて奔はしるなどの猥みだりがましき類ならねば、将はた何をか包み秘かくさんとて、頓やがて東上の途中大阪の親戚に立ち寄らんとの意を洩もらしけるに、さらばその親戚は誰たれ町名番地は如い何かになど、執しゅ拗うねく問わるることの蒼うる蝿さくて、口に出づるまま、あらぬことをも答えけるに、その人大いに驚きたる様子にて、さては藤井氏の親戚なりし乎か、奇遇というも愚かなるべし、藤井氏は今しこの室にありしかど、事務員に用事ありとて、先刻出で行かれたり、いでや直ちに呼び来らんとて、倉そう皇こう起たって事務室に至り藤井をば呼べるなるべし。藤井は妾しょうの何なん人びとなるかを問い究きわむる暇もなく、その人に牽ひかれて来り見れば、何ぞ図はからん従じゅ妹うまいの妾なりけるに、更に思い寄らぬ体ていにて、何なに故ゆえの東上にや、両親には許可を得たりやなど、畳たたみかけて問い出でぬ。固もとより承諾を得たりとは、その場合われと心を欺あざむける答えなりしが、果ては質問の箭やの堪えがたなく、最いとど苦しき胸を押さえ額ひたいを擦さすりて、眩めま暈いに托こと言よせ、委くわしくはいずれ上陸のうえと、そのまま横になりて、翌朝九時漸ようよう大阪に着けば、藤井の宅の妻子および番頭小僧らまで、主人の帰宅を歓よろこび迎え、しかも妾の新来を訝いぶかしうも思えるなるべし。その夕ゆうべ妾は遂ついに藤井夫婦に打ち明けて東上の理由を語りぬ。妻さいは深く同情を寄せくれたり、藤井も共に尽じん力りょくせんと誓いぬ。 その翌日直ちに土倉氏を銀ぎん水すい楼ろうに訪れけるに、氏はいまだ出しゅ阪っぱんしおらざりき、妾の失望いかばかりぞや。されど別に詮せん様ようもなく、ひたすらその到着を待ちたりしに、葉石久米堆氏より招待状来り板垣伯に紹介せんとぞいうなる、いと嬉しくて、直ちにその寓ぐう所しょに訪れしに、葉石氏は妾しょうが出阪の理由を知らず、婦女の身として一時の感情に一身を誤り給うなと、懇ねんごろなる教訓を垂たれ給いき。されど妾の一念翻ひるがえすべくもあらずと見てか、強しいても言わず、とかくは板垣伯に会い東上の趣意を陳のべよとあるに、妾は諾うべないて遂に伯に謁えっし、東上の趣意さては将来の目的など申し聞えたるに、大いに同情を寄せられつつ、土倉氏出阪せばわれよりも頼みて御おん身みが東上の意思を貫徹せしめん、幸いに邦ほう家かのため、人道のために勉つとめよとの御おん言こと葉ばなり。世にも有あり難がたくて感かん涙るいに咽むせべるその日、図はからざりき土倉氏より招状の来らんとは。そは友人板垣伯より貴嬢の志望を聞きて感服せり、不ふし肖ょうながら学資を供せんとの意味を含みし書しょ翰かんにてありしかば、天にも昇る心地して従いと弟こにもこの喜びを分ち、かつは郷里の父母に遊学の許可を請わしめんとて急ぎその旨を申し送り、倉そう皇こう土倉氏の寓所に到りて、その恩恵に浴するの謝辞を陳のべ、旅費として五十金を贈られぬ。かくて用意も全く成りつ、一ひた向ぶるに東上の日を待つほどに郷里にては従弟よりの消息を得て、一度は大いに驚きしかど、かかる人々の厚意に依よりて学資をさえ給きゅうせらるるの幸福を無視するは勿もっ体たいなしとて、終ついに公然東上の希望を容いれたるは、誠に板垣伯と土倉氏との恩恵なりかし。三 書しょ窓そうの警報
それより数すじ日つを経て、板はん伯はくよりの来状あり、東京に帰る有志家のあるを幸い、御おん身みと同伴の事を頼み置きたり、直すぐに来こよ紹介せんとの事に、取り敢あえず行きて見れば、有志家とは当時自由党の幹事たりし佐さと藤うて貞いか幹ん氏にてありければ、妾しょうはいよいよ安心して、翌日神戸出しゅ帆っぱんの船に同乗し、船の初旅も恙つつがなく将はた横浜よりの汽車の初旅も障さわりなく東京に着ちゃくして、兼かねて板伯より依頼なし置くとの事なりし﹃自じゆ由うの燈ともしび新聞﹄記者坂さか崎ざき斌さかん氏の宅に至り、初対面の挨拶を述べて、将来の訓導を頼み聞え、やがて築つき地じなる新しん栄さかえ女学校に入学して十二、三歳の少女と肩を並べつつ、ひたすらに英学を修め、傍かたわら坂崎氏に就つきて心理学およびスペンサー氏社会哲学の講義を聴き、一念読書界の人とはなりぬ。かかりしほどに、一ある日ひ朝鮮変乱に引き続きて、日清の談判開始せられたりとの報、端はしなくも妾の書しょ窓そうを驚かしぬ。我が当局の軟弱無気力にして、内は民衆を抑圧するにもかかわらず、外ほかに対しては卑屈これ事とし、国家の恥ちじ辱ょくを賭として、偏ひとえに一時の栄華を衒てらい、百年の患うれいを遺のこして、ただ一身の苟こう安あんを冀こいねがうに汲きゅ々うきゅうたる有様を見ては、いとど感情にのみ奔はしるの癖くせある妾は、憤慨の念燃ゆるばかり、遂ついに巾きん幗こくの身をも打ち忘れて、いかでわれ奮い起ち、優柔なる当局および惰だみ民んの眠りを覚さましくれでは已やむまじの心となりしこそ端はしたなき限りなりしか。四 当時の所感
ああかくの如くにして妾しょうは断然書を擲なげうつの不幸を来きたせるなりけり。当時妾の感情を洩もらせる一いっ片ぺんの文ぶんあり、素もとより狂きょ者うしゃの言に近けれども、当時妾が国権主義に心酔し、忠君愛国ちょう事に熱中したりしその有様を知るに足るものあれば、叙事の順序として、左さに抜ばっ萃すいすることを許し給え。こは大阪未決監獄入監中に起草せるものなりき。妾はここに自白す、妾は今貴族豪商の驕きょ傲うごうを憂うると共に、また昔せき時じ死生を共にせし自由党有志者の堕落軽薄を厭いとえり。我ら女子の身なりとも、国のためちょう念は死に抵いたるまでも已やまざるべく、この一念は、やがて妾を導きて、頻しきりに社会主義者の説を聴くを喜ばしめ、漸ようやくかの私欲私利に汲きゅ々うきゅうたる帝国主義者の云うん為いを厭わしめぬ。
ああ学識なくして、徒いたずらに感情にのみ支配せられし当時の思想の誤れりしことよ。されどその頃の妾は憂ゆう世せい愛国の女じょ志し士しとして、人も容ゆるされき、妾も許しき。姑しばらく女志士として語らしめよ。
獄ごく中ちゅう述じゅ懐っかい︵明治十八年十二月十九日大阪未決監獄において、時に十九歳︶
元来儂のうは我が国民権の拡張せず、従って婦女が古来の陋ろう習しゅうに慣れ、卑ひひ々くつ屈く々つ男子の奴どれ隷いたるを甘あまんじ、天てん賦ぷ自由の権利あるを知らず己おのれがために如い何かなる弊制悪法あるも恬てんとして意に介せず、一身の小楽に安んじ錦きん衣い玉ぎょ食くしょくするを以て、人生最大の幸福名誉となす而の已み、豈あに事体の何物たるを知らんや、いわんや邦ほう家かの休きゅ戚うせきをや。いまだかつて念頭に懸かけざるは、滔とう々とうたる日本婦女皆これにして、あたかも度どが外いぶ物つの如く自ら卑屈し、政事に関する事は女子の知らざる事となし一いつも顧慮するの意なし。かく婦女の無気無力なるも、偏ひとえに女子教育の不完全、かつ民権の拡張せざるより自然女子にも関係を及ぼす故なれば、儂のうは同情同感の民権拡張家と相結托し、いよいよ自由民権を拡張する事に従事せんと決意せり、これ固もとより儂が希望目的にして、女権拡張し男女同等の地位に至れば、三千七百万の同胞姉妹皆競きそいて国政に参し、決して国の危急を余よ所そに見るなく、己おのれのために設けたる弊制悪法を除去し、男子と共に文化を誘いざない、能よく事体に通ずる時は、愛国の情も、いよいよ切せつなるに至らんと欲すればなり。しかるに現今我が国の状態たるや、人民皆不同等なる、専制の政体を厭えん忌きし、公平無私なる、立憲の政体を希望し、新紙上に掲載し、あるいは演説にあるいは政府に請願して、日々専制政治の不可にして、日本人民に適せざる事を注ちゅ告うこくし、早く立憲の政体を立て、人民をして政まつりごとに参せしめざる時は、憂国の余情溢あふれて、如い何かなる挙動なきにしも非ずと、種々当路者に向かって忠告するも、馬はじ耳とう東ふ風うたる而の已みならず憂国の志し士し仁じん人じんが、誤って法ほう網もうに触ふれしを、無情にも長く獄窓に坤しん吟ぎんせしむる等、現政府の人民に対し、抑圧なる挙動は、実に枚まい挙きょに遑いとまあらず。就なか中んずく儂の、最も感情を惹じゃ起っきせしは、新聞、集会、言論の条例を設け、天てん賦ぷの三大自由権を剥はく奪だつし、剰あまつさえ儂のうらの生せい来らいかつて聞かざる諸税を課せし事なり。しかしてまた布告書等に奉ほう勅ちょく云うん々ぬんの語を付し、畏おそれ多くも 天皇陛下に罪状を附せんとするは、そもまた何事ぞや。儂はこれを思うごとに苦悶懊おう悩のうの余り、暫しばし数すこ行うの血けつ涙るい滾こん々こんたるを覚え、寒からざるに、肌はだえに粟ぞく粒りゅうを覚ゆる事数しばなり。須しゅ臾ゆにして、惟おもえらくああかくの如くなる時は、無智無識の人民諸税収しゅ歛うれんの酷こくなるを怨うらみ、如いか何んの感を惹起せん、恐るべくも、積せき怨えんの余情溢れて終ついに惨ざん酷こく比類なき仏ふっ国こく革命の際の如く、あるいは露国虚きょ無むと党うの謀ぼう図とする如き、惨さん憺たん悲ひそ愴うの挙なきにしも非ずと。因って儂ら同感の志士は、これを未みほ萌うに削さく除じょせざるを得ずと、即すなわち曩さ日きに政府に向かって忠告したる所ゆえ以んなり。かく儂ら同感の志士より、現政府に向かって忠告するは、固もとより現当路者の旧きゅ蹟うせきあるを思えばなり。しかるに今や採用するなく、かえって儂らの真意に悖もとり、剰あまつさえ日清談判の如く、国こく辱じょくを受くる等の事ある上は、もはや当路者を顧かえりみるの遑いとまなし、我が国の危急を如いか何んせんと、益政府の改良に熱心したる所ゆえ以んなり。儂のう熟つら考うるに、今や外交日に開け、表おもてに相あい親しん睦ぼくするの状態なりといえども、腹ふく中ちゅう各おの針を蓄たくわえ、優勝劣敗、弱肉強食、日々に鷙しき強ょうの欲を逞たくましうし、頻しきりに東洋を蚕さん食しょくするの兆ちょうあり、しかして、内うち我が国外交の状態につき、近く儂のうの感ずる処を拳あぐれば、曩さ日きに朝鮮変乱よりして、日清の関係となり、その談判は果して、儂ら人民を満足せしむる結果を得しや。加しか之のみならず、この時に際し、外国の注目する所たるや、火を見るよりも明あきらけし。しかるにその結果たる不充分にして、外国人も私ひそかに日本政府の微弱無気力なるを嘆ぜしとか聞く。儂思うてここに至れば、血けつ涙るい淋りん漓り、鉄てっ腸ちょう寸すん断だん、石せき心しん分ぶん裂れつの思い、愛国の情、転うたた切なるを覚ゆ。ああ日本に義士なき乎か、ああこの国辱を雪そそがんと欲するの烈士、三千七百万中一いち人にんも非ざる乎、条約改正なき、また宜むべなる哉かなと、内を思い、外ほかを想うて、悲哀転てん輾てん、懊おう悩のうに堪たえず。ああ如いか何んして可ならん、仮たと令い女子たりといえども、固もとより日本人民なり、この国辱を雪がずんばあるべからずと、独ひとり愁しゅ然うぜん、苦悶に沈みたりき。何なんとなれば、他に謀はかるの女子なく、かつ小林等は、この際何か計画する様子なるも、儂は出京中他に志望する所ありて、暫しばらく一心に英学に従事し居たりしを以て、かつて小林とは互いに主義上、相敬愛せるにもかかわらず、儂のうは修業中なるを以て、小林の寓ぐう所しょを訪とう事も甚はなはだ稀まれなりしを以て、その計画する事件も、求めてその頃は聞かざりしが、儂は日清談判の時に至り、大いに感ずる所あり、奮然書を擲なげうちたり。また小林は予かねての持論に、仮たと令い如い何かに親密なる間あい柄だがらたるも、決して、人の意を枉まげしめて、己おのれの説に服従せしむるは、我の好まざる所、いわんやわれわれ計画する処の事は、皆身命に関する事なるにおいてをや、われは意気相投ずるを待って、初めて満まん腔こうの思想を、陳述する者なりと、何事においても、総すべてかくの如くなりし。しかるに、忽たちまち朝鮮一件より日清の関係となるや、儂のうは曩さ日きに述べし如く、我が国の安あん危き旦たん夕せきに迫れり、豈あに読書の時ならんやと、奮然書を擲なげうち、先ず小林の処に至り、この際如いか何んの計画あるやを問う。しかれども答えず。因って儂は、あるいは書にし、あるいは百方言げんを尽して、数しばその心事を陳述せしゆえ、やや感ずる所ありけん、漸ようやく、今回事件の計画中、その端たん緒ちょを聞くを得たり。その端緒とは他に非ず、即ち今回日清争端を開かば、この挙に乗じ、平常の素そ志しを果さん心意なり。しかして、その計画は既に成りたりといえども、一金額の乏しきを憂うる而の已みとの言に儂のうは大いに感奮する所あり、如い何かにもして、幾分の金きんを調ととのえ、彼らの意志を貫徹せしめんと、即ち不ふじ恤ゅつ緯い会社を設立するを名とし、相さが模み地方に遊説し、漸く少数の金を調えたり。しかりといえども、これを以て今回計画中の費用に充あつる能あたわず、ただ有ゆう志し士しの奔ほん走そう費ひ位に充つるほどなりしゆえ、儂は種々砕さい心しん粉ふん骨こつすといえども、悲しい哉かな、処女の身、如いか何んぞ大金を投ずる者あらんや。いわんやこの重要件は、少しも露発を恐れ告げざるをや、皆徒労に属せり。因って思うに、到底儂のうの如きは、金きん員いんを以て、男子の万分の一助たらんと欲するも難かたしと、金策の事は全く断念し、身を以て当らんものをと、種々その手段を謀はかれり。しかる処、偶たま日清も平和に談判調ととのいたりとの報あり。この報たる実に儂のうらのために頗すこぶる凶報なるを以て、やや失望すといえども、何なんぞ中途にして廃せん、なお一層の困難を来きたすも、精神一到何事か成らざらん。かつ当時の風潮、日々朝野を論ぜず、一般に開戦論を主張し、その勢力実に盛んなりしに、一朝平和にその局を結びしを以て、その脳裏に徹底する所の感情は大いに儂らのために奇き貨かなるなからん乎か、この期失うべからずと、即ち新たに策を立て、決死の壮士を択えらび、先ず朝鮮に至り事を挙げしむるに如しかずと、ここにおいて檄げき文ぶんを造り、これを飛ばして、国人中に同志を得、共に合ごう力りょくして、辮べん髪ぱつ奴どを国外に放ほう逐ちくし、朝鮮をして純然たる独立国とならしむる時は、諸外国の見る処も、曩さ日きに政府は卑屈無気力にして、かの辮髪奴のために辱はずかしめを受けしも、民間には義士烈婦ありて、国辱をそそぎたりとて、大いに外交政略に関する而の已みならず、一いつは以て内うち政せい府ふを改良するの好手段たり、一挙両得の策なり、いよいよ速すみやかにこの挙あらん事を渇かつ望ぼうし、かつ種々心胆を砕くだくといえども、同じく金額の乏しきを以て、その計画成るといえども、いまだ発する能あたわず。大井、小林らは、ひたすら金策にのみ、従事し居たりしが、当地においてはもはや目的なしとて、両人は地方を遊説なすとて出で行けり。暫しばらくして、大井は中途にして帰京し、小林独ひとり止とどまりしが、漸ようやくその尽力により、金額成じょ就うじゅせしを以て、いよいよ磯いそ山やまらは渡行の事に決定し、その発ほつ足そく前ぜんに当り、磯山儂のうに告ぐに、朝鮮に同行せん事を以てす。因って儂は、その必用のある処を問う。磯山告ぐるに、彼ひし是か間んの通信者に、最も必用なるを答う。儂熟慮これを諾だくす。もっとも儂は、曩さ日きに東京を出しゅ立ったつするの時、やはり、磯山の依頼により、火薬を運搬するの約ありて、長崎まで至るの都合なりしが、その義務終りなば、帰京して、第二の策、即ち内地にて、相当の運動をなさんと希き図としたりしが、当地︵大阪︶にてまた朝鮮へ通信のため同行せんとの事に、小林もこれに同意したれば、即ち渡航に決心せり。しかるに、磯山は、弥いよ出立というその前日逃とう奔ほんし、更にその潜せん所しょを知る能あたわず。故ゆえを以て已やむなく新あら井い代りてその任に当り、行く事に決せしかば、彼もまた同じく、儂のうに同行せん事を以てす。儂既に決心せし時なれば、直ちにこれを諾し、大井、小林と分ぶん袂べいし、新井と共に渡航の途とに就き、崎きよ陽うに至り、仁じん川せん行こうの出しゅ帆っぱんを待ち合わせ居たり。しかる所滞留中、磯山逃奔一件に就き、新井代るに及び、壮士間に紛ふん紜ぬんを生じ、渡航を拒こばむの壮士もある様子ゆえ、儂は憂慮に堪えず、彼らに向かい、間接に公私の区別を説きしも、悲しいかな、公私を顧みるの慮おもんばかりなく、許容せざるを以て、儂は大いに奮激する所あり、いまだ同志の人に語らざるも、断然決死の覚悟をなしたりけり。その際儂のうは新井に向かいいうよう、儂この地に到着するや否や壮士の心中を窺うかがうに、堂々たる男子にして、私情を挟さしはさみ、公事を抛なげうたんとするの意あり、しかして君きみの代だい任にんを忌いむの風ふうあり、誠に邦ほう家かのために歎たんずべき次第なり。しかれども、これらの壮士は、かえって内地に止とどまる方かた好手段ならんといいしに、新井これに答えて、なるほどしかる乎か、かくの如き人あらば、即ち帰らしむべし、何ぞ多たに人ん数ずを要せん。わが諸君に対するの義務は、畢ひっ竟きょう一身を抛ほう擲てきして、内地に止まる人に好手段を与うるの犠牲たるのみなれば、決死の壮士少数にて足れり、何ぞ公私を顧みざる如きの人を要せんやと。儂のうこの言に感じ、ああこの人国のために、一身の名誉を顧みず、内ない事じは総すべて大井、小林の任ずる所なれば、敢あえて関せず、我は啻ただその義務責任を尽すのみと、自ら奮って犠牲たらんと欲するは、真に志士の天職を、全まっとうする者と、暫しばし讃嘆の念に打たれしが、儂もまた、この行こう決死せざれば、到底充分平へい常ぜい希望する処の目的を達する能あたわず。かつ儂今回の同行、偏ひとえに通信員に止まるといえども、内事は大井、小林の両志士ありて、充分の運動をなさん。儂のう今仮たと令い異国の鬼となるも、事こと幸いに成じょ就うじゅせば、儂のう平常の素志も、彼ら同志の拡張する処ならん。まずこれについての手段に尽力し、彼らに好都合を得せしむるに如しかずと。即ち新井を助けて、この手段の好結果を得せしめん、かつそれにつきては、決死の覚悟なかるべからず、しかれども、儂、女子の身み腕力あらざれば、頼む所は万人に敵する良器、即ち爆発物のあるあり。仮たと令い身体は軟弱なりといえども、愛国の熱情を以て向かうときは、何ぞ壮士に譲ゆずらんや。かつ惟おもえらく、儂のうは固もとより無智無識なり、しかるに今回の行こうは、実に大任にして、内は政府の改良を図はかるの手段に当り、外は以て外交政略に関し、身命を抛ほう擲てきするの栄を受く、ああ何ぞ万ばん死しを惜しまんやと、決意する所あり。即ち崎きよ陽うにおいて、小林に贈るの書中にも、仮たと令い国土を異ことにするも、共に国のため、道のために尽し、輓ばん近きん東洋に、自由の新境域を勃ぼっ興こうせんと、暗あんに永別の書を贈りし所ゆえ以んなり。ああ儂や親愛なる慈父母あり、人間の深情親しん子しを棄すてて、また何かあらん。しかれどもこれ私事なり、儂一女子なりといえども豈あに公私を混同せんや。かく重んずべく貴ぶべき身命を抛擲して、敢えて犠牲たらんと欲せしや、他たなし、啻ただ愛国の一心あるのみ。しかれども、悲しいかな、中途にして発露し、儂が本意を達する能あたわず。空むなしく獄ごく裏りに呻しん吟ぎんするの不幸に遭遇し、国の安危を余よ所そに見る悲しさを、儂固もとより愛国の丹たん心しん万死を軽かろんず、永く牢獄にあるも、敢えて怨うらむの意なしといえども、啻ただ国恩に報ほう酬しゅうする能わずして、過ぐるに忍びざるをや。ああこれを思い、彼を想うて、転うたた潸さん然ぜんたるのみ。ああいずれの日か儂のうが素志を達するを得ん、ただ儂これを怨むのみ、これを悲しむのみ、ああ。
明治十八年十二月十九日大阪警察本署において
大阪府警部補 広ひろ沢さわ鉄てつ郎ろう 印
かく冗じょ長うちょうなる述懐書を獄ごく吏りに呈して、廻らぬ筆に仕したり顔したりける当時の振舞のはしたなさよ。理性なくして一片の感情に奔はしる青春の人々は、くれぐれも妾しょうに観みて、警いましむる所あれかし、と願うもまた端はしたなしや。さあれ当時の境遇の単純にして幼かりしは、あくまで浮世の浪なみに弄あそばれて、深く深く不遇の淵えん底ていに沈み、果ては運命の測はかるべからざる恨うらみに泣きて、煩はん悶もん遂ついに死の安慰を得べく覚悟したりしその後のちの妾に比して、人格の上の差異如い何かばかりぞや、思うてここに至るごとに、そぞろに懐旧の涙なんだの禁とどめがたきを奈いか何にせん。かく妙齢の身を以て、一念自由のため、愛国のために、一命を擲なげうたんとしたりしは、一いつは名誉の念に駆かられたる結果とはいえ、また心の底よりして、自由の大義を国民に知らしめんと願うてなりき。当時拙せっ作さくあり、
愛あい国こくの丹たん心しん万ばん死し軽かろし 剣けん華か弾だん雨う亦また何なんぞ驚おどろかん
誰たれか言いう巾きん幗こく不こと成をな事さずと 曾かつて記きす神じん功ごう赫かく々かくの名な
五 不ふじ恤ゅっ緯い会社
これより先妾しょうは坂崎氏の家にありて、一心勉学の傍かたわら、何なにとかして同志の婦女を養成せんものと志し、不恤緯会社なるものを起して、婦人に独立自営の道を教え、男子の奴隷たらしめずして、自由に婦女の天職を尽さしめ、この感化によりて、男子の暴横卑劣を救済せんと欲したりしかば、富とみ井い於お菟と女史と謀はかりて、地方有志の賛助を得、資金も現に募集の途みちつきて、ゆくゆくは一大団結を組織するの望みありき。しかるに事は志と齟そ齬ごして、富井女史は故郷に帰るの不幸に遇あえり。ついでに女史の履歴を述べて見ん。六 於お菟と女史
富井於菟女史は播ばん州しゅう竜たつ野のの人、醤しょ油うゆ屋に生れ、一いち人にんの兄と一いち人にんの妹とあり。幼おさなきより学問を好みしかば、商家には要なしと思いながらも、母なる人の丹たん精せいして同所の中学校に入れ、やがて業を卒おえて後のち、その地の碩せき儒じゅに就きて漢学を修め、また岸きし田だと俊し子こ女史の名を聞きて、一ひと度たびその家の学がく婢ひたりしかど、同女史より漢学の益を受くる能あたわざるを知ると共に、女史が中なか島じま信のぶ行ゆき氏と結婚の約成りし際なりしかば、暫ざん時じにしてその家を辞し坂崎氏の門に入りて、絵えい入り自じゆ由うの燈ともしび新聞社の校正を担当し、独立の歩調を取られき。我が国の女子にして新聞社員たりしは、実に於お菟と女史を以て嚆こう矢しとすべし。かくて女史は給料の余りを以て同志の婦女を助け、共に坂崎氏の家に同居して学事に勉つとめしめ、自ら訓導の任に当りぬ。妾の坂崎氏を訪うや、女史と相見て旧知の感あり、遂ついに姉妹の約をなし生涯相助けんことを誓いつつ、万よろず秘密を厭いとい善悪ともに互いに相語らうを常とせり。されば妾は朝鮮変乱よりして、東亜の風雲益ますます急なるよしを告げ、この時この際、婦人の身また如い何かで空むなしく過すべきやといいけるに、女史も我が当局者の優柔不断を慨なげき、心私ひそかに決する処あり、いざさらば地方に遊説して、国民の元気を興おこさんとて、坂崎氏には一いっ片ぺんの謝状を遺のこして、妾と共に神奈川地方に奔はしりぬ。実に明治十八年の春なり。両人神奈川県荻おぎ野の町に着ちゃくし、その地の有志荻野氏および天野氏の尽力によりて、同志を集め、結局醵きょ金きんして重おも井い︵変名︶、葉はい石し等志士の運動を助けんと企くわだてしかど、その額余りに少なかりしかば、女史は落胆して、この上は郷里の兄上を説き若じゃ干っかんを出金せしめんとて、ただ一人帰郷の途とに就きぬ、旅費は両人の衣類を典てんして調ととのえしなりけり。七 髪結洗濯
女史と相別れし後のち、妾しょうは土どく倉ら氏の学資を受くるの資格なきことを自覚し、職業に貴きせ賤んなし、均ひとしく皆神聖なり、身には襤らん褸るを纏まとうとも心に錦にしきの美を飾りつつ、姑しばらく自活の道を立て、やがて霹へき靂れき一いっ声せい、世を轟とどろかす事業を遂とげて見せばやと、ある時は髪かみ結ゆいとなり、ある時は洗濯屋、またある時は仕立物屋ともなりぬ。広き都みやこに知る人なき心易やすさは、なかなかに自活の業わざの苦しくもまた楽しかりしぞや。かくて三旬ばかりも過ぎぬれど、女史よりの消息なし。さては人の心の頼めなきことよなど案じ煩わずらいつつ、居いて待たんよりは、むしろ行きて見るに若しかずと、これを葉石氏に議はかりしに、心変りならば行くも詮せんなし、さなくばおるも消息のなからんやという。実げにさなりと思いければ、余儀なくもその言葉に従い、また幾日をか過ぎぬるある日、鉛筆もてそこはかと認したためたる一封の書は来きたりぬ。見れば怨うらめしくも恋しかりし女史よりの手紙なり。冒頭に﹁アアしくじったり誤りたり取とり餅もち桶おけに陥おちいりたり今こん日にちはもはや曩さ日きの富とみ井いにあらず妹まいは一死以て君きみに謝せずんばあらず今日の悲境は筆紙の能よく尽す処にあらずただただ二階の一隅に推おしこめられて日々なす事もなく恋しき東の空を眺ながめ悲哀に胸を焦こがすのみ余は記する能あたわず幸いに諒りょうせよ﹂とあり。言ことは簡なれども、事情の大方は推すいせられつ。さて何とか救済の道もがなと千ち々ぢに心を砕くだきけれども、その術なし。さらば己れ女史の代りをも兼ねて、二倍の働きをなし、この本意を貫かんのみとて、あたかも郷里より慕したい来りける門弟のありしを対あい手てとして日々髪結洗濯の業わざをいそしみ、僅わずかに糊ここ口うを凌しのぎつつ、有志の間に運動して大いにそが信用を得たりき。八 暁夢を破る
しかるにその年の九月初旬妾しょうが一室を借り受けたる家の主人は、朝あさ未まだ明きに二階下より妾を呼びて、景かげ山やまさん景山さんといと慌あわただし。暁あかつきの夢のいまだ覚さめやらぬほどなりければ、何事ぞと半ばは現うつつの中に問い反かえせしに、女のお客さんがありますという。何なんという方ぞと重ねて問えば富井さんと仰おっ有しゃいますと答う。なに富井さん! 妾は床とこを蹶けりて飛び起きたるなり。階段を奔はしり下おりるも夢ゆめ心ごこ地ちなりしが、庭に立てるはオオその人なり。富井さんかと、われを忘れて抱いだきつき、暫しばしは無言の涙なりき。懐なつかしき女史は、幾日の間をか着のみ着のままに過しけん、秋の初めの熱あつ苦くるしき空を、汗あせ臭くさく無む下げに汚よごれたる浴ゆか衣たを着して、妙齢の処女のさすがに人目羞はずかしげなる風ふぜ情いにて、茫ぼう然ぜんと庭に佇たたずめるなりけり。さてあるべきに非あらざれば、二階に扶たすけ上あげて先ず無事を祝し、別れし後のちの事ども何くれと尋たずねしに、女史は涙ながらに語り出づるよう、御おん身みに別れてより、無事郷里に着き、母上兄けい妹まいの恙つつがなきを喜びて、さて時ならぬ帰省の理由かくかくと述べけるに、兄は最いと感じ入りたる体ていにて始終耳を傾け居たり。その様子に胸先ず安く、遂ついに調金の事を申し出でしに、図はからざりき感嘆の体と見えしは妾しょうの胆きも太ふとさを呆あきれたる顔ならんとは。妾の再び三たび頼み聞えしには答えずして、徐しずかに沈みたる底そこ気味わるき調子もて、かかる大だいそれたる事に加担する上は、当地の警察署に告訴して大難を未みほ萌うに防ふせがずばなるまじという。妾は驚きつつまた腹立たしさの遣やる瀬せなく、骨肉の兄と思えばこそかく大事を打ち明けしなるに、卑ひき怯ょうにも警察﹇#﹁警察﹂は底本では﹁驚察﹂﹈に告訴して有志の士を傷きずつけんとは、何たる怖ろしき人にん非ぴに人んぞ、もはや人道の大義を説くの必要なし、ただ一死以て諸氏に謝する而の已みと覚悟しつつ、兄に向かいてかばかりの大事に与くみせしは全く妾の心得違いなりき、今こそ御おん諭さとしによりて悔かい悟ごしたれ、以後は仰おおせのままに従うべければ、何とぞ誓いし諸氏の面目を立てしめ給え、と種々に哀願して僅かにその承諾は得てしかど、妾はそれより二階の一室に閉とじ籠こめの身となり、妹は看守の役を仰せ付かりつ。筆も紙も与えられねば書を読むさえも許されず、その悲しさは死にも優まさりて、御おん身みのさぞや待ちつらんと思う心は、なかなか待つ身に幾倍の苦しさなりけん。漸ようよう妹を賺すかして、鉛筆と半紙を借り受け急ぎ消息はなしけるも、委くわしき有様を書き記しるすべき暇ひまもなかりき。定めて心変りよと爪つま弾はじきせらるるならんと口くち惜おしさ悲しさに胸は張り裂さくる思いにて、夜よもおちおち眠られず。何とぞして今一度東上し、この胸の苦痛を語りて徐おもむろに身の振り方を定めんものと今度漸く出しゅ奔っぽんの期を得たるなり。そは両三日前妹が中ちゅ元うげんの祝いにと、他たより四、五円の金をもらいしを無理に借り受け、そを路ろ費ひとして、夜やは半ん寝巻のままに家を脱ぬけ出いで、これより耶ヤ蘇ソ教に身を委ゆだね神に事つかえて妾しょうが志を貫つらぬかんとの手紙を残して、かくは上京したるなれば、妾はもはや同志の者にあらず、約に背そむくの不義を咎とがむることなく長く交こう誼ぎを許してよという。その情義の篤あつき志を知りては、妾も如い何かで感かん泣きゅうの涙を禁じ得べき。アア堂々たる男子にして黄金のためにその心身を売り恬てんとして顧みざるの時に当り、女史の高徳義心一身を犠牲として兄に秘密を守らしめ、自らは道を変えつつもなお人のため国のために尽さんとは、何たる清き心ここ地ちぞや。妾が敬けい慕ぼの念はいとど深くなりゆきたるなり。その日は終日女おん梁なり山ょう泊ざんぱくを以て任ずる妾の寓所にて種いろ々いろと話し話され、日の暮るるも覚ええざりしが、別れに臨のぞみてお互いに尽す道は異ことなれども、必ず初志を貫つらぬきて早晩自由の新天地に握手せんと言い交かわし、またの会合を約してさらばとばかり袂たもとを分わかちぬ。アアこれぞ永久の別れとならんとは神ならぬ身の知る由よしなかりき。 ﹇#改ページ﹈第三 渡韓の計画
一 妾の任務
ある日同志なる石いし塚づか重じゅ平うへい氏来きたり、渡韓の準備整ととのいたれば、御おん身みをも具するはずなりとて、その理由およびそれについての方法等を説き明かされぬ。固もとより信ずる所に捧ささげたる身の如い何かでかは躊ため躇らうべき、直ちにその用意に取りかかりけるに、かの友愛の心厚き中なか田だみ光つ子こは、妾しょうの常ならぬ挙動を察してその仔しさ細いを知りたげなる模様なりき。されど彼女に禍わざわいを及ぼさんは本意なしと思いければ、石塚重平氏に托たくして彼に勉学を勧すすめさせ、また於お菟と女史に書を送りて今回の渡航を告げ、後こう事じを托し、これにて思い残す事なしと、心静かに渡韓の途とに上のぼりけるは、明治十八年の十月なり。二 鞄かばんの爆発物
同伴者は新あら井いし章ょう吾ご、稲いな垣がき示しめすの両氏なりしが、壮士連の中には、三々五々赤あか毛げっ布とにくるまりつつ船中に寝転ぶ者あるを見たりき。同伴者は皆互いに見知らぬ風ふうを装よそおえるなり、その退屈さと心配さとはなかなか筆紙に尽しがたし。妾がこの行に加わりしは、爆発物の運搬に際し、婦人の携帯品として、他の注目を避くることに決したるより、乃すなわち妾しょうをして携帯の任に当らしめたるなり。かくて妾は爆発物の原料たる薬品悉しっ皆かいを磯山の手より受け取り、支しな那かば鞄んに入れて普通の手荷物の如くに装い、始終傍かたわらに置きて、ある時はこれを枕に、仮うた寝たねの夢を貪むさぼりたりしが、やがて大阪に着しければ、安あん藤どう久きゅ次うじ郎ろう氏の宅にて同志の人を呼び窃ひそかに包み替えんとするほどに、金きん硫いお黄うという薬の少し湿しめりたるを発見せしかば、鑵かんより取り出して、暫しばし乾ほさんとせしに、空気に触ふるるや否や、一面に青き火となり、今や大事に至らんとせしを、安藤氏来りて、直ちに消し止めたり、遉さすがは多年薬剤を研究し薬剤師の免状を得て、その当時薬やく舗ほを営み居たる甲か斐いありと人々皆氏を称讃したりき。さりながら今より思い合わすれば、如い何かに盲めく目ら蛇へび物に怖おじずとはいいながら、かかる危険極きわまれる薬品を枕にして能よくも安々と睡ねむり得しことよと、身の毛を逆さか竪だつばかりなり。殊ことに神こう戸べ停ステ車ーシ場ョンにて、この鞄かばんを秤はかりにかけし時の如き、中にてがらがらと音のしたるを駅員らの怪しみて、これは如い何かなる品物なりやと問われしに傷持つ足の、ハッと驚きしかど、さあらぬ体ていにて、田舎への土みや産げにとて、小供の玩おも具ちゃを入れ置きたるに、車の揺れの余りに烈はげしかりしため、かく壊こわされしことの口惜しさよと、わざわざ振り試みるに、駅夫も首うな肯ずきて、強しいては開き見んともせざりき。今にして当時を顧みれば、なお冷ひや汗あせの背を湿うるおすを覚ゆるぞかし、安藤氏は代よ々よ薬屋にて、当時熱心なる自由党員なりしが、今は内務省検けん疫えき官かんとして頗すこぶる精せい励れいの聞えあるよし。先年板いた垣がき伯はくの内務大臣たりし時、多年国事に奔ほん走そうせし功を愛めでられてか内務省の高等官となり、爾じら来い内閣の幾いく変へん遷せんを経へつつも、専門技術の素養ある甲か斐いには、他の無能の豪ごう傑けつ連とその撰せんを異ことにし、当局者のために頗すこぶる調法がられおるとなん。三 八軒屋
大阪なる安藤氏の宅に寓ぐう居きょすること数すじ日つにして、妾しょうは八軒屋という船ふな付つきの宿屋に居きょを移し、ひたすらに渡韓の日を待ちたりしに、一ある日ひ磯いそ山やまより葉はい石しの来らい阪はんを報じ来きたり急ぎその旅寓に来れよとの事に、何事かと訝いぶかりつつも行きて見れば、同志ら今や酒しゅ宴えんの半なかばにて、酌しゃくに侍じせる妓ひとのいと艶なまめかしうそうどき立ちたり。かかる会まど合いに加わりし事なき身みの如い何かにしてよからんかとただ恐縮の外ほかはなかりき。さるにても、同志は如いか何よ様うの余裕ありて、かくは豪ごう奢しゃを尽すにかあらん、ここぞ詰きつ問もんの試みどころと、葉石氏に向かい今こん日にちの宴会は妾ほとほとその心を得ず、磯山氏よりの急使を受けて、定めて重要事件の打ち合せなるべしと思い測ほかれるには似もやらず、痴たわ呆けの振舞、目にするだに汚けがらわし、アア日頃頼みをかけし人々さえかくの如し、他の血気の壮士らが、遊ゆう廓かく通がよいの外ほかに余念なきこそ道理なれ、さりとては歎なげかわしさの極きわみなるかな。かかる席に列つらなりては、口くち利きくだに慚はずかしきものを、いざさらば帰るべしとて、思うままに言い罵ののしり、やおら畳たたみを蹶け立たてて帰り去りぬ。こはかかる有様を見せしめなば妾の所感如いか何があらんとて、磯山が好もの奇ずきにも特ことに妾を呼びしなりしに、妾の怒り思いの外ほかなりしかば、同志はいうも更さらなり、絃げん妓ぎらまでも、衷ちゅ心うしん大いに愧はずる所あり、一座白しらけ渡りて、そこそこ宴を終りしとぞ。四 磯山の失しっ踪そう
それより数すじ日つにして爆発物も出来上りたり、いよいよ出立という前の日、磯山の所在分らずなりぬ。しかるにその甥おいなる田たざ崎きぼ某う妾に向かいて、ある遊廓に潜ひそめるよし告げければ、妾先ず行きて磯山の在否を問いしに、待まち合あいの女おか将み出いで来りて、あらずと弁ず。好よし他たの人にはさも答えよ、妾は磯山が股ここ肱うの者なり、この家に磯山のあるを知り、急用ありて来れるものを、磯山にして妾と知らば、必ず匿かくれざるべしと重かさねて述べしに、女将首うな肯ずきて、﹁それは誠にすみまへんが、何どな誰たがおいでやしても、おらんさかいにと、いやはれと、おいやしたさかい、おかくしもうし、たんだすさかい、ごめんやす、あんたはんは女おなごはんじゃ、さかい、おこりはりゃ、しまへんじゃろ﹂とて、妾を奥の奥のずーッと奥の愛あい妓ぎ八や重えと差し向かえる魔室に導みちびきぬ。彼は素もとより女おか将みに厳命せし事のかくも容た易やすく破れんとは知るよしもなく、人のけはいをばただ女将とのみ思いなせりしに、図はからずも妾の顔の顕あらわれしを見ては、如い何かで慌あわてふためかざらん。されど妾は先日の如き殺風景を繰り返すを好まず、かえって彼に同情を寄せ、ともかくもなだめ賺すかして新井、葉石に面会せしむるには如しかずとて、種いろ々いろと言こと辞ばを設け、ようよう魔室より誘さそい出して腕くる車まに載のせ、共に葉石の寓居に向かいしに、途中にて同志の家を尋たずね、その人をも伴ともなわんという。詐いつわりとは思いも寄らねば、その心に任せけるに、さても世には卑ひき怯ょうの男もあるものかな、彼はそのまま奔ほん竄ざんして、遂ついに行ゆく衛えを晦くらましたり。彼が持ち逃げせる金の内には大たい功こうは細さい瑾きんを顧みずちょう豪語を楯たてとなせる神奈川県の志士が、郡役所の徴税を掠かすめんとして失敗し、更に財産家に押し入りて大義のためにその良心を欺あざむきつつ、強しいて工くめ面んせる金も混じりしぞや。しかるに彼はこの志士が血の涙の金を私し費ひして淫いん楽らくに耽ふけり、公道正義を無な視みして、一遊妓の甘かん心しんを買う、何たる烏お滸この白しれ徒ものぞ。宜むべなる哉かな、縲るい絏せつの辱はずかしめを受けて獄中にあるや、同志よりは背徳者として擯ひん斥せきせられ、牢獄の役員にも嗤しし笑ょうせられて、やがて公判開廷の時ある壮士のために傷つけられぬ。因果応報の恐るべきをば、彼もその時思い知りたりしなるべし。五 隠かくれ家が
かくて磯山は奔ほん竄ざんしぬ、同志の軍用金は攫さらわれたり。差し当りて其そ処こ此こ処こに宿泊せしめ置きたる壮士の手当てを如い何かにせんとの先決問題起り、直ちに東都に打電したる上、石塚氏を使いとしてその状を具ぐち陳んせしめ、ひたすらに重おも井いの来らい阪はんを促うながしけるに、頓やがて来りて善後策を整ととのえ、また帰京して金策に従事したり。その間壮士らの宿料をば、無理算段して埋うめ合せ、辛かろうじて無銭宿泊の難を免まぬがれたれども、さて今後幾日を経へば調金の見込み立つべきや否や、将はた如い何かにしてその間を切り抜くべきや。むしろ一家を借り受けて二、三十人の壮士を一団となし置くこそ上策なれとの説も出でしが、かくては警察の目を免れ得じとて、妾しょうの発ほつ意いにて山やま本もと憲けん氏に議はかり、同氏の塾生として一家を借り受け、これをば梅ばい清せい処しょ塾じゅくの分室と称しぬ。それより妾は俄にわかに世話女房気取りとなり、一いち人にんの同志を伴いて、台所道具や種々の家具を求め来り、自じす炊いに慣れし壮士をして、代る代る炊事を執とらしめ、表面は読書に余念なきが如くに装よそおわせつつ、同志窃ひそかに此こ処こに集つどいては第二の計画を建て、磯山逃とう奔ほんすとも争いかで志士の志の屈すべきや、一日も早く渡韓費を調ととのえて出立の準備をなすに如しかずと、日夜肝かん胆たんを砕くだくこと十数日、血気の壮士らのやや倦けん厭えんの状あるを察しければ、ある時は珍しき肴さかなを携たずさえて、彼らを訪とい、ある時は妾炊事を自らして婦女の天職を味あじわい、あるいは味みそ噌こ漉しを提さげて豆とう腐ふ屋に通かよい、またある時は米屋の借金のいい訳わけは婦人に限るなど、唆そそのかされて詫わびに行き、存外口くち籠ごもりて赤面したる事もあり。凡およそ大阪にて無一文の時二、三十人の壮士をして無賃宿泊の訴えを免れしめ、梅ばい清せい処しょ塾じゅくの書生として事なく三週間ばかりを消過せしめしは男子よりはむしろ妾の力与あずかりて功ありしならんと信ず。今日に至るも妾はこの計画の能よくその当を得たるを自覚し、折々語り出でては友人間に誇る事ぞかし。もし妾にして富豪の家に生れ窮きゅ苦うくの何物たるを知らざらしめば、十つ九づや二は十た歳ちの身の、如い何かでかかる細さい事じに心留むべきぞ、幸いにして貧ひん窶るの中うちに成ひと長となり、なお遊学中独立の覚悟を定め居たればこそ、かかる苦策も咄とっ嗟さの間かんには出でたるなれ。己れ炊事を親みずからするの覚悟なくば彼かの豪壮なる壮士の輩はいのいかで賤せん業ぎょうを諾うべなわん、私利私欲を棄すててこそ、鬼きし神んをも服従せしむべきなりけれ。妾しょうをして常にこの心を失わざらしめば、不ふつ束つかながらも大きなる過失は、なかりしならんに、志こころざし薄く行い弱くして、竜りゅ頭うと蛇うだ尾びに終りたること、わが身ながら腑ふ甲が斐いなくて、口くち惜おしさの限り知られず。六 遣やる瀬せなき思い
右の如き、窮きゅ厄うやくにおりながら、いわゆる喉のど元もと過ぎて、熱さを忘るるの慣ならい、憂うたてや血気の壮士は言うも更さらなり、重おも井い、葉はい石し、新あら井い、稲いな垣がきの諸氏までも、この艱かん難なんを余よ所そにして金が調ととのえりといいては青せい楼ろうに登り絃げん妓ぎを擁ようしぬ。かかる時には、妾はいつも一人ぽっちにて、宿屋の一室に端たん座ざし、過去を思い、現在を慮おもんばかりて、深き憂いに沈み、婦女の身の最いとど果は敢かなきを感じて、つまらぬ愚ぐ痴ちに同志を恨うらむの念も起りたりしが、復また思いかえして、妾は彼らのために身を尽さんとには非あらず、国のため、同胞のためなれば、などか中途にして挫ざせ折つすべき、アア富井女史だにあらばなどと、またしても遣やる瀬せなき思いに悶もだえて、ある時詠よみ出でし腰こし折おれ一いっ首しゅ かくまでに濁にごるもうしや飛あす鳥かが川わ そも源みなもとをただせ汲くむ人七 女乞食
愁うれいの糸のいとど払いがたかりしある日の事なり、八軒屋の旅宿にありて、ただ一人二階なる居間の障しょ子うじを打ち開き、階下に集つどえる塵ちり取とり船ぶねを眺ながめたりしに、女乞食の二、三歳なる小供を負いたるが、頻しきりに塵ちりの中より紙かみ屑くずを拾い出し、これをば籠かごに入れ居たり。背なる小供は母の背に屈かがまりたるに、胸を押されて、その苦しさに堪えずやありけん、今にも窒ちっ息そくせんばかりなる声を出して、泣き叫びけれども、母は聞えぬ体ていにて、なお余念なく漁あさり尽し、果ては魚うおの腹はら腸わた、鳥の臓ぞう腑ふよ様うの物など拾い取りてこれを洗い、また料理する様さまのいじらしさに、妾は思わず歎息して、アアさても人の世はかばかり悲惨のものなりけるか、妾貧しけれども、なおこの乞食には優まさるべし、思えば気の毒の母よ子よと惻そく隠いんの心禁とどめがたくて、覚えず階上より声をかけつつ、妾には当時大金なりける五十銭紙幣に重おも錘りをつけて投げ与えけるに、彼女は何物が天より降ふり来りしとように驚きつつ、拾いとりてまた暫しばし躊ため躇らいたり。妾は重かさねて、それを小供に与えよと言いけるに、始めて安あん堵どしたるらしく、幾いく度たびか押し戴いただくさまの見るに堪えず、障子をしめて中うちに入り、暫しばらくして外出せんとしたるに、宿の主婦は訝いぶかりつつ、﹁あんたはんじゃおまへんか先さっ刻き女の乞食にお金をやりはったのは﹂という。さなりと妾は首うな肯ずきたるに、﹁いんまさき小供を負おぶって、涙を流しながら、ここの女のお客はんが裏の二階からおぜぜを投げてくだはったさかい、ちょっとお礼に出ました、お名前を聞かしてくれといいましたが、乞食にお名まえを聞かす事かいと思いましたさかいに、ただ伝えてやろと申してかえしました、まあとんだ御ごさ散んざ財いでおました﹂という。慈善は人のためならず、妾は近頃になく心の清すか々すがしさを感ぜしものから、譬たとえば眼まなこを過ぐる雲うん煙えんの、再び思いも浮べざりしに、図はからずも他たじ日つこの女乞食と、思い儲もうけぬ処に邂で逅あいて、小説らしき一いち場じょうの物語とは成りたるよ。ついでなれば記しるし付くべし。八 一いち場じょうの悲劇
その年の十二月大事発覚して、長崎の旅舎に捕われ、転じて大阪︵中の島︶の監獄に幽ゆうせらるるや、国事犯者として、普通の罪人よりも優待せられ、未決中は、伝でん告こく者しゃ即ち女監の頭領となりて、初犯者および未成年者を収容する監かん倉そうを司つかさどることとなりぬ。依よりて初犯者をば改化遷せん善ぜんの道に赴おもむかしむるよう誘導の労を執とり、また未成年者には読書習字を教えなどして、獄中ながらこれらの者より先生先生と敬うやまわれつつ、未決中無事に三年を打ち過ぎしほどなれば、その間あいだ随分種々の罪人に遇あいしが、その罪人の中にはまたかかる好人物もあるなり、かかる処にてかかる看かん板ばんを附けおらざりせば、誰たれかはこれをさるものと思うべき。世にはこれよりも更に大だいなる悪、大なる罪を犯しながら白昼大手を振りて、大だい道どうを濶かっ歩ぽする者も多かるに、大だいを遺わすれて小しょうを拾う、何たる片手落ちの処置ぞやなど感ぜし事も数しばなりき。穴あな賢かしこ、この感情は、一ひと度たび入獄の苦を嘗なめし人ならでは語るに足らず、語るも耳を掩おおわんのみ。かくて妾しょうは世の人より大罪人大悪人と呼ばるる無ぶら頼いの婦女子と室を同じうし、起き臥が飲食を共にして、ある時はその親ともなり、ある時はその友ともなりて互いに睦むつみ合うほどに、彼らの妾を敬慕すること、かのいわゆる娑しゃ婆ばにおける学校教師と子弟との情は物かは、倶ともにこの小天地に落ちぬるちょう同情同感の力もて、能よく相一致せる真情は、これを肉身に求めてなお得がたき思いなりき。かかるほどに、獄中常に自おのずからの春ありて、靄あい然ぜんたる和わ気きの立ち籠こめし翌年四、五月の頃と覚ゆ、ある日看守は例の如く監かん倉そうの鍵かぎを鳴らして来り、それ新しん入にゅうがあるぞといいつつ、一人の垢あか染じみたる二十五、六の婦人を引きて、今や監倉の戸を開かんとせし時、婦人は監外より妾の顔を一目見て、物をもいわず、わっとばかりに泣き出しけり。何なに故ゆえとは知るよしもなけれど、ただこの監獄の様さまの厳いかめしう、怖おそろしきに心怯おびえて、かつはこれよりの苦を偲しのび出でしにやあらんなど、大おお方かたに推おし測はかりて、心私ひそかに同情の涙を湛たたえしに、婦人はやがて妾に向かいて、あなた様には御おん覚おぼえなきか知らねど、私はかつて一日とてもあなた様を思い忘れしことなし。御おん顔かおも能よく覚えたり。あなた様は、先年八軒屋の宿屋にて、女乞食に金員を恵まれし事あるべし、その時の女乞食こそは私なれ、何の因いん縁ねんにてか、再びかかる処にて御おん目めにはかかりたるぞ、これも良おっ人とや小供の引き合せにて私の罪を悔くいさせ、あなた様に先年の御おん礼れいを申し上げよとの事ならん。あなた様が憐あわれみて五十銭を恵み給いし小供は、悪性の疱ほう瘡そうにかかり、一週間前に世を去りぬ、今こん日にちはその一ひと七なの日かなれば線香なりと手た向むけやらんと、その病やまいの伝染して顔もまだこの通りの様さまながら紙かみ屑くず拾いに出いでたるに、病後の身の遠くへは得えも行かれず、籠かごの物も殖ふえざれば、これでは線香どころか、一度の食事さえ覚おぼ束つかなしと、悶もだえ苦しみつつふと見れば、人ひと気けなき処に着物乾ほしたる家あり。背に腹は換かえられず、つい道ならぬ欲に迷いしために、忽たちまち覿てき面めんの天てん罰ばつ受けて、かくも見苦しき有様となり、御おん目めにかかりしことの恥かしさよと、生しょ体うたいなきまで泣き沈み、御おん恵めぐみに与あずかりし時は、病びょ床うしょうにありし良おっ人とへも委細を語りて、これも天の御お加か護ごならんと、薬も買いぬ、小供に菓子も買こうて遣やりぬ、親子三人久し振りにて笑い顔をも見せ合いしに、良人の病やまいはなお重おもり行きて、敢あえなき最さい期ご、弱る心を励はげまして、私は小供対あい手てにやはり紙屑拾いをばその日の業わざとなしたりしに、天てん道どうさまも聞えませぬ、貧乏こそすれ、露つゆいささか悪あしき道には踏み込まざりし私わたくし母おや子こに病を降くだして、遂ついに最愛の者を奪い、かかる始末に至らしむるとは、何たる無情のなされ方かたぞなど、果はてしもなき涙に掻かき暮れぬ。妾は既にその奇遇に驚き、またこの憐れなる人の身の上に泣きてありしが、かくてあるべきならねば、他たの囚徒と共にいろいろと慰めつつ、この上は一日も早く出獄して良おっ人とや子供の菩ぼだ提いを弔とむらい給えなど力を添えつ。一週間ばかりにして彼は既決に編入せられぬ。されどひたすらに妾との別れを悲しみ、娑しゃ婆ばに出でて再び餓うえに泣かんよりは、今少し重き罪を犯し、いつまでもあなた様のお側そばにてお世話になりたしなど、心も狂おしう打ち歎かこつなりき。 実げにや人の世の苦しさは、この心弱き者をして、なかなかに監倉の苦を甘んぜしめんとするなり、これをしも誰か悲惨ならずとはいうや。当局者は能よく罪を罰するを知れり、乞い問う、罪を贖あがない得たる者を救助するの法ありや、再び饑き餓がの前に晒さらして、むしろ監獄の楽しみを想わしむることなきを保ほし得るや。九 爆発物の検査
これより先、重おも井いらは、東京にての金策成じょ就うじゅし、渡韓の費用を得たるをもて、直ちに稲垣と共に下げは阪んしてそが準備を調ととのえ、梅ばい清せい処しょ塾じゅくにありし壮士は早や三々五々渡韓の途とに上のぼりぬ。妾は古井、稲垣両氏と長崎に至る約にてその用意を取り急ぎおりしに、出立の一両日前、重井、葉石、古井の三氏および今回出資せる越えっ中ちゅう富山の米相場師某ら稲垣と共に新町遊廓に豪遊を試み、妾も図はからずその席に招かれぬ。志し士し仁じん人じんもまたかかる醜態を演じて、しかも交こう誼ぎを厚うする方便なりというか、大事の前に小欲を捨つる能あたわず、前途近からざるの事業を控えて、嚢のう底てい多からざるの資金を濫らん費ぴす、妾の不満と心痛とは、妾を引いて早くも失望の淵ふちに立たしめんとはしたり。出立の日重おも井いの発言によりて大おお鯰なまずの料理を命じ、私ひそかに大官吏を暗殺して内外の福利を進めんことを祝しぬ。かくて午後七時頃神戸行きの船に搭とうぜしは古井、稲垣および妾の三人なりき。瀬戸内の波いと穏やかに馬ばか関んに着きしに、当時大阪に流行病あり、漸ようやく蔓まん延えんの兆ちょうありしかば、ここにも検けん疫えきの事行われ、一行の着物は愚おろか荷物も所持の品々も悉ことごとく消毒所に送られぬ。消毒の方法は硫いお黄うにて燻くすべるなりとぞ、さてはと三人顔を見合すべき処なれど、初めより他の注目を恐れてただ乗合の如くに装よそおいたれば、他たの雑ざっ沓とうに紛まぎれて咄とっ嗟さの間にそれとなく言葉を交え、爆発物は妾の所持品にせんといいたるに、否いな拙せっ者しゃの所持品となさん、もし発覚せばそれまでなり、潔いさぎよく縛ばくに就つかんのみ、構かまえて同伴者たることを看かん破ぱせらるる勿なかれと古井氏はいう。決心動かしがたしと見えたれば妾も否いなみ兼ねて終ついに同氏の手荷物となし、それより港に上あがりて、消毒の間唯とある料理店に登り、三人それぞれに晩ばん餐さんを命じけれども、心ここにあらざれば如い何かなる美味も喉のんどを下くだらず、今や捕ほ吏りの来らんか、今や爆発の響ひびき聞えん乎かと、三十分がほどを千せん日にちとも待ち詫わびつ、やがて一時間ばかりを経へて宿屋の若わか僕もの三人の荷物を肩に帰り来りぬ。再生の思いとはこの時の事なるべし。消毒終りて、衣類も己れの物と着換え、それより長崎行の船に乗りて名に高き玄げん海かい灘なだの波を破り、無事長崎に着きたるは十一月の下旬なり。十 絶縁の書
ここにて朝鮮行の出船を待つほどに、ある日無名氏より﹁荷物濡ぬれた東に帰れ﹂との電報あり。もし渡韓の際政府の注目甚はなはだしく、大事発露の恐れありと認むる時は、誰よりなりとも﹁荷物濡れた﹂の暗号電報を発して、互いに警告すべしとは、かつて磯山らと約しおきたる所なりき。さては磯山の潜伏中大事発覚してかくは警戒し来れるにや、あるいは磯山自ら卑ひき怯ょうにも逃とう奔ほんせし恥ちじ辱ょくを糊こ塗とせんために、かくは姑こそ息くの籌はかりごとを運めぐらして我らの行を妨さまたげ、あわよくば縛ばくに就かしめんと謀はかりしには非あらざる乎かと種々評議を凝こらせしかど、終ついに要領を得ず、東京に打電して重おも井いに質たださんか、出船の期の迫りし今日そもまた真意を知りがたからん、とかくは打ち棄てて顧みず、向かうべき方かたに進まんのみと、古井より他たの壮士にこの旨むねを伝えしに、彼らの中うちには古井が磯山に代りしを忌いむの風ふうありて議諧かなわず、やや不調和の気味ありければ、かかる人々は潔いさぎよく帰東せしむべし、何ぞ多たに人ん数ずを要せん、われは万人に敵する利器を有せり、敢えて男子に譲らんやと、古井に同意を表して稲垣をば東京に帰らしめ、決死の壮士十数名を率ひきいて渡韓する事に決しぬ。これにて妾も心安く、一日長崎の公園に遊びて有名なる丸山など見物し、帰途勧かん工こう場ばに入りて筆ひっ紙しぼ墨くを買い調ととのえ、薄はく暮ぼ旅宿に帰りけるに、稲垣はあらずして、古井独ひとり何か憂ゆう悶もんの体ていなりしが、妾の帰れるを見て、共に晩餐を喫きっしつつ、午ひ刻るのほどより丸山に赴おもむける稲垣の今に至りてなお帰らず、彼は一行の渡航費を持ちて行きたるなれば、その帰るまではわれら一ひと歩あしも他たに移す能あたわず、特ことに差し当りて佐賀に至り、江えと藤うし新んさ作く氏に面したき要件の出来たるに、早く帰宿してくれずやという。その夜十時頃までも稲垣は帰り来らず、もはや詮せん方かたなしとて、それぞれ臥ふし床どに入りしが、妾は渡韓の期も、既に今こん明みょ日うにちに迫りたり、いざさらば今回の拳につきて、決心の事情を葉はい石しに申し送り、遺いか憾んの念なき旨を表し置かんと、独り燈下に細さい書しょを認したため、ようよう十二時頃書き終りて、今や寝しんに就かんとするほど、稲垣は帰り来りぬ。十一 発覚拘こう引いん
古井は直ちに起きて佐賀へ出立の用意を急ぎ、真夜中宿を立ち出でたり。残るは稲垣と妾とのみ、稲垣は遊び疲れの出でたればにや、横になるより快こころよく睡ねむりけるが、妾は一ひと度たび渡とか韓んせば、生きて再び故ここ国くの土を踏むべきに非あらず、彼ら同志にして、果して遊廓に遊ばんほどの余よ資しあらば、これをば借りて、途みちすがら郷里に立ち寄り、切せめては父母兄けい弟ていに余よ所そながらの暇いと乞まごいもなすべかりしになど、様々の思いに耽ふけりて、睡るとにはあらぬ現うつ心つごころに、何か騒がしき物音を感じぬ。何なに気げなく閉とじたる目を見開けば、こはそも如い何かに警部巡査ら十数名手に手に警察の提ちょ燈うちん振り照らしつつ、われらが城壁と恃たのめる室内に闖ちん入にゅうしたるなりけり。アナヤと驚き起たたんとすれば、宿屋の主人来りて、旅客検しらべなりという。さてこそ大事去りたれと、覚悟はしたれど、これ妾一いち人にんの身の上ならねば、出来得る限りは言いぬけんと、巡査の問いに答えて、更に何事をも解せざる様さまを装い、ただ稲垣と同伴せる旨むねをいいしに、警部は首うな肯ずきて、稲垣には縄なわをかけ、妾をば別に咎とがめざるべき模様なりしに、宵よいのほど認したため置きし葉石への手てが書みの、寝床の内より現われしこそ口惜しかりしか。警部の温おん顔がん俄にわかに厳いかめしうなりて、この者をも拘こう引いんせよと犇ひしめくに、巡査は承りてともかくも警察に来るべし、寒くなきよう支した度くせよなどなお情けらしう注意するなりき。抗あらがうべき術すべもなくて、言わるるままに持ち合せの衣類取り出し、あるほどの者を巻きつくれば、身はごろごろと芋いも虫むしの如くになりて、頓やがて巡査に伴ともなわれ行く途み上ちの歩みの息苦しかりしよ。警察署に着くや否や、先ず国事探たん偵ていより種々の質問を受けしが、その口振りによりて昼のほど公園に遊び帰途勧かん工こう場ばに立ち寄りて筆ひっ紙しぼ墨くを買いたりし事まで既に残りのう探り尽されたるを知り、従ってわれらがなお安全と夢みたりしその前々日より大事は早くも破れ居たりしことを覚さとりぬ。 ﹇#改ページ﹈第四 未決監
一 ほとんど窒ちっ息そく
訊じん問もん卒おえて後のち、拘留所に留置せられしが、その監かん倉そうこそは、実に演劇にて見たりし牢ろう屋やの体ていにて、妾しょうの入牢せしはあたかも午前三時頃なりけり。世の物音の沈み果てたる真夜中に、牢の入口なる閂かんぬきの取り外はずさるる響ひびきいとど怪あやしう凄すさまじさは、さすがに覚悟せる妾をして身の毛の逆よ竪だつまでに怖れしめ、生せい来らい心臓の力弱き妾は忽たちまち心しん悸きの昂こう進しんを支え得ず、鼓動乱れて、今にも窒ちっ息そくせんず思いなるを、警官は容よう赦しゃなく窃せっ盗とう同様に待あ遇しらいつつ、この内に這は入いれとばかり妾を真まっ暗くら闇やみの室内に突き入れて、また閂かんぬきを鎖さし固めたり。何たる無情ぞ、好よしこのままに死なば死ね、争いかでかかる無法の制裁に甘んじ得んや。となかなかに涙も出でず、素もとより女ながら一死を賭として、暴ぼう虐ぎゃくなる政府に抗せんと志したる妾わらわ、勝てば官軍敗まくれば賊ぞくと昔より相場の極きまれるを、虐待の、無情のと、今更の如く愚ぐ痴ちをこぼせしことの恥かしさよと、それよりは心を静め思いを転じて、生いきながら死せる気になり、万まん感かんを排除する事に勉つとめしかば宿屋よりも獄中の夢安く、翌朝目め覚ざめしは他の監房にて既に食事の済すみし頃なりき。二 同志の顔
先にここに入りし際は、穴のように思いしに、夜明けて見れば天てん井じょう高く、なかなか首をつるべきかかりもなし。窓はほんの光あか線り取とりにして、鉄の棒を廻めぐらし如い何かなる剛ごう力りきの者来ればとて、破はろ牢うなど思いも寄らぬ体てい、いと堅牢なり。水を乞うて、手ちょ水うずをつかえば、やがて小ちさき窓より朝の物を差し入れられぬ。到底喉のんどを下くだるまじと思いしに、案外にも味あじわい旨よくて瞬間に喫たべ尽しつ、われながら胆きも太ふときに呆あきれたり。食事終りて牢内を歩むに、ふと厚き板の間の隙すきより、床ゆか下したの見ゆるに心付き、試みに眸ひとみを凝こらせば、アア其そ処こに我が同志の赤あか毛げっ布とを纏まといつつ、同じく散歩するが見えたり。妾と相隣りて入牢せるは、内ない藤とう六ろく四しろ郎う氏の声なり。稲垣、古井はいずれの獄に拘留せられしにやあらん。地獄の裡うちに堕おちながら、慣るるにつれて、身の苦くげ艱んの薄らぐままに、ひたすら想い出でらるるは、故郷の父母さては東京、大阪の有志が上なり、一念ここに及ぶごとに熱涙の迸ほとばしるを覚ゆるなりき。 翌朝食事終りて後のち、訊問所に引き出いだされて、住所、職業、身分、年齢、出しゅ生っしょうの地の事ども訊問せられ、遂ついにこの度たび当地に来りし理由を質ただされて、ただ漫遊なりと答えけるに、かく汝なんじらを拘こう引いんするは、確かっ乎こたる見みこ込みありての事なり、未練らしう包み隠さずして、有あり休ていに申し立ててこそ汝らが平へい生ぜいの振舞にも似合わしけれとありければ、尤もっともの事と思い、終ついに述懐書にあるが如き意見にて大事に与くみせる事を申し立てぬ。三 大阪護送
警察署にての訊じん問もん果てし後のち、大阪に護送せらるることとなり、夜よの八、九時頃にやありけん、珠ずず数つ繋なぎにて警察の門を出でたり。迅はやきようにても女の足の後おくれがちにて、途中は左右の腰こし縄なわに引き摺ずられつつ、辛かろうじて波は止と場ばに到り、それより船に移し入れらる。巡査の護衛せるを見て、乗客は胆きもをつぶしたらんが如く、眼まなこを円つぶらにして、殊ことに女の身の妾しょうを視みる。良心に恥ずる所なしとはいいながら、何とやら、面おも伏ぶせにて同志とすら言葉を交かわすべき勇気も失うせ、穴へも入りたかりし一昼夜を過ぎて、漸ようやく神戸に着く。例の如く諸所の旅舎より番頭小僧ども乗り込み来りて、﹁ヘイ蓬ほう莱らい屋やで御ご座ざい、ヘイ西村で御座い﹂と呼びつつ、手に手に屋号の提ちょ燈うちんをひらめかし、われらに向かいて頻しきりに宿泊を勧めたるが、ふと巡査の護衛するを見、また腰縄のつけるに一いっ驚きょうを喫きっして、あきれ顔に口を噤つぐめるも可お笑かしく、かつは世の人の心の様さまも見え透すきて、言うばかりなく浅まし。 その夜は大阪府警察署の拘こう留りゅ場うばに入りたるに、船中の疲労やら、心痛やらにて心ここ地ち悪あしく、最いとど苦悶を感じおりしに、妾を護衛せる巡査は両人にて、一人は五十未満、他は二十五、六歳ばかりなるが、いと気の毒がり、女なればとて特ことに拘留所を設け、其そ処こに入れて懇ねんごろに介かい抱ほうしくれたり。当所に来りてよりは、長崎なる拘留所の、いと凄すさまじかりしに引き換え、総すべてわが家の座敷牢などに入れられしほどの待遇にて、この両人の内、代る代る護衛しながら常に妾と雑話をなし、また食事の折々は暖かき料理をこしらえては妾に侑すすめる抔など、万よろずに親切なりけるが、約二週間を経て中の島監獄へ送られし後のちも国事犯者を以て遇せられ、その待遇長崎の厳げん酷こくなりし比に非ず。長崎警察署の不ふじ仁んなる、人を視みる事宛さな然がら犬猫なりしかば、一時は非常に憤慨せしも昔むかし徳川幕府が維新の鴻こう業ぎょうに与あずかりて力ある志士を虐ぎゃ待くたいせし例を思い浮べ、深く思い諦あきらめたりしが、今大阪にては、有さす繋がに通常罪人を以て遇せず言葉も丁てい寧ねいに監守長の如きも時々見廻りて、特ことに談話をなすを喜び、中には用もなきに話しかけては、ひたすら妾の意を迎えんとせし看守もありけり。四 眉み目めよき一婦人
ここにおかしきは妾と室を共にせる眉目麗うるわしき一いっ婦ぷじ人んあり、天性賤いやしからずして、頻しきりに読書習字の教えを求むるままに、妾もその志に愛めでて何なに角かと教え導きけるに、彼はいよいよ妾を敬うやまい、妾はまた彼を愛して、果はては互いに思い思われ、妾の入浴するごとに彼は来りて垢あかを流しくれ、また夜に入いれば床とこを同じうして寒さむ天ぞらに凍こおるばかりの蒲ふと団んをば体温にて暖め、なお妾と互い違いに臥ふして妾の両りょ足うそくをば自分の両腋えき下かに夾はさみ、如い何かなる寒かん気きもこの隙すきに入ることなからしめたる、その真心の有りがたさ。この婦人は大阪の生れにて先祖は相当に暮したる人なりしが、親の代よに至りて家かど道う俄にわかに衰おとろえ、婦人は当地の慣習とて、ある紳士の外妾となりしに、その紳士は太く短こう世を渡らんと心掛くる強盗の兇きょ漢うかんなりしかば、その外妾となれるこの婦人も定めてこの情を知りつらんとの嫌疑を受けつ、既に一年有余の永ながき日をば徒いたずらに未決監に送り来れる者なりとよ。この事情を聞きて、妾は同情の念とどめがたく、典獄の巡回あるごとに、その状を具陳して、婦人のために寃えん枉おうを訴えけるに、その効しるしなりしや否いなやは知らねど、妾が三重県に移りける後のち、婦人は果して無罪の宣告を受けたりとの吉きっ報ぽうを耳にしき。しかるにかくこの婦人と相親しめりし事の、意外にも奇怪千せん万ばんなる寃えん罪ざいの因となりて、一時妾と彼女と引き離されし滑こっ稽けい談だんあり、当時の監獄の真相を審つまびらかにするの一例ともなるべければ、今その大概を記して、大たい方ほうの参考に供せん。五 不思議の濡ぬれ衣ぎぬ
妾しょうが彼女を愛し、彼女が妾を敬けい慕ぼせるは上かみに述べたるが如き事情なり。世には淫いん猥わい無ぶら頼いの婦人多かるに、独ひとり彼女の境遇のいと悲惨なるを憐あわれむの余り、妾の同情も自然彼女に集中して、宛さな然がら親の子に対するが如き有様なりしかど、あたかも同じ年頃の、親子といいがたきは勿もち論ろん、また兄弟姉妹の間柄とも異なりて、他よ所そ目めには如い何かに見えけん、当時妾はひたすらに虚栄心功名心にあくがれつつ、﹁ジャンダーク﹂を理想の人とし露ロ西シ亜アの虚無党をば無む二にの味方と心得たる頃なれば、両ふた人りの交あい情だの如何に他よ所そ目めには見ゆるとも、妾の与あずかり知らざる所、将はた、知らんとも思わざりし所なりき。妾はただ彼女の親切に感じ自分も出来得る限り彼に教えて彼の親切に報むくいんことを勉つとめけるに、ある日看守来りて、突然彼女に向かい所持品を持ち監外に出いでよという。さては無罪の宣告ありて、今日こそ放免せらるるならめ、何にもせよ嬉しきことよと、喜ぶにつけて別れの悲しく、互いに暗あん涙るいに咽むせびけるに、さはなくて彼女は妾らの室を隔へだつる、二け間んばかりの室に移されしなりき。彼女の驚きは妾と同じく余りの事に涙も出でず、当局者の無法もほどこそあれと、腹立たしきよりは先ず呆あきれられて、更に何なに故ゆえとも解ときかねたる折から、他たの看守来りて妾に向かい、﹁景かげ山やまさん今夜からさぞ淋さびしかろう﹂と冷あざ笑わらう。妾は何の意味とも知らず、今夜どころか、只ただ今いまより淋しくて悲しくて心細さの遣やる瀬せなき旨むねを答え、何故なればかく無情の処置をなし改化遷せん善ぜんの道を遮さえぎり給うぞ、監獄署の処置余りといえば奇怪なるに、署長の巡回あらん時、徐おもむろに質問すべき事こそあれと、予あらかじめその願意を通じ置きしに、看守は莞にこ然にこ笑いながら、細さい君くんを離したら、困るであろう悲しいだろうと、またしても揶から揄かうなりき。その語ご気きの人もなげなるが口惜しくて、われにもあらず怫ふつ然ぜんとして憤いきどおりしが、なお彼らが想像せる寃えん罪ざいには心付くべくもあらずして、実に監獄は罪人を改心せしむるとよりは、罪人を一層悪に導く処なりと罵ののしりしに、彼は僅わずかに苦笑して、とかくは自分の胸に問うべしと答えぬ。妾は益気けあ昂がりて自分の胸に問えとは、妾に何か失策のありしにや、罪あらば聞かまほし、親しみ深き彼女を遠ざけられし理由聞かまほし、と迫りけれども、平へい生ぜい悪人をのみ取り扱うに慣れたる看守どもの、一いち図ずに何か誤解せる有様にて、妾の言葉には耳だも仮かさず、いよいよ嘲あざけり気ぎ味みに打ち笑いつつ立ち去りたれば、妾は署長の巡廻を待って、具つぶさにこの状を語り妾の罪を確かめんと思いおりしに、彼女も他たの監房に転じたる悲しさに、慎つつしみ深き日頃のたしなみをも忘れて、看守の影の遠ざかれるごとに、先生先生何なに故ゆえにかく離りか隔くせられしにや、何とぞ早くその故を質ただして始めの如く同室に入らしめよと、打ち喞かこつに、素もとより署長の巡廻だにあらば、直ちに愁しゅ訴うそして、互いの志を達すべし、暫しばらく忍びがたきを忍べかしなど慰めたることの幾いく度たびなりしか。六 直訴
囚人より署長に直訴するは、ほとんど破格の事として許しがたき無礼の振舞に算かぞえらるる由よしなるも、妾しょうは少しもその事を知らず、ある日巡廻し来れる署長を呼び止めしに、署長も意外の感ありしものの如くなりしが、他たの罪人と同一ならぬ理由を以て妾の直訴を聞き取り、更に意外の感ありし様子にて、彼女をも訊問の上、黙して帰署したりと思うやがての事、彼女は願いの如く、妾の室に帰り来りぬ。あとにて聞けばこの事の真相こそ実げに筆にするだに汚けがらわしき限りなれ。今こん日にちは知らずその当時は長き年月の無むり聊ょうの余りにやあらん、男だん囚しゅうの間には男だん色しょく盛んに行われ、女囚もまた互いに同どう気きを求めて夫婦の如き関係を生じ、両女の中の割合に心雄お々おしきは夫おっとの如き気風となり、優やさしき方は妻らしく、かくて不ふり倫んの愛に楽しみ耽ふけりて、永えい年ねんの束縛を忘れ、一朝変心する者あれば、男女間における嫉しっ妬との心を生じて、人を傷そこない自ら殺すなどの椿ちん事じを惹ひき起すを常としたりき。現に厠かわやに入りて、職業用の鋏はさ刀みもて自殺を企くわだてし女囚をば妾も目まの当りに見て親しく知れりき。されば無むち智もう蒙ま昧いの監守どもが、妾の品性を認め得ず、純潔なる慈いつくしみの振舞を以て、直ちに破はり倫ん非道の罪悪と速断しけるもまた強あながちに無理ならねど、さりとては余りに可お笑かしく、腹立たしくて、今もなお忘れがたき記念の一つぞこれなる。 ﹇#改ページ﹈第五 既決監
一 監房清潔
中の島未決監獄にある事一年有余にして、堀川監獄の既決監に移されぬ。なお未決ながら公判開廷の期の近づきしままに、護送の便宜上客きゃ分くぶんとしてかくは取り斗はからわれしなりけり。退のっ引ぴきならぬ彼女との別離は来りぬ、事件の進行して罪否いずれにか決する時の近づきしをば、切せめてもの心やりにして。堀川にてはある一室の全部を開放して、妾しょうを待てり。中の島未決監よりは、監房また更さらに清潔にして、部屋というも恥かしからぬほどなり、ここに移れる妾は、ようよう娑しゃ婆ばに近づきたらん心ここ地ちもしつ。此こ処こにても親しき友は間もなく妾の前に現われぬ、彼らは若き永年囚なりけり。いずれも妾の歓心を得べく、夜ごとに妾の足を撫なでさすり、また肩など揉もみて及ぶ限りの親切を尽しぬ。妾は親の膝しっ下かにありて厳重なる教育を受けし事とて、かかる親しみと愛とを以て遇せらるるごとに、親よりもなお懐なつかしとの念を禁ぜざるなりき。二 お政まさ
ここにお政とて大阪監獄きって評判の終身囚ありけり。容よう姿し優すぐれて美しく才気あり万事に敏さとき性せいなりければ、誘ゆう工こうの事総すべてお政ならでは目が開あかぬとまでに称たたえられ、永年の誘工者、伝告者として衆囚より敬うやまい冊かしずかれけるが、彼女もまた妾のここに移りてより、何くれと親しみ寄りつ、読とく書しょに疲れたる頃を見みは斗からいては、己おのが買い入れたる菓子その他の食しょ物くもつを持ち来り、算術を教え給え、算用数字は如い何かに書くにやなど、暇ひまさえあればその事の外ほかに余念もなく、ある時は運動がてら、水みず撒まきなども気きさ散んじなるべしとて、自ら水を荷にない来りて、切せつに運動を勧めしこともありき。彼女は西さい京きょうの生れにて、相当の家に成長せしかど、如い何かなる因いん縁ねんにや、女性にして数しば芸者狂いをなし、その望みを達せんとて、数すま万んの金を盗みし酬むくいは忽たちまちここに憂うき年月を送る身となりつ。当時は今日の刑法と異なり、盗みし金の高によりて刑期に長短を付けし時なりければ、彼は単の窃せっ盗とうにしてしかも終身刑を受けけるなり。その才さい物ぶつなるは一いち目もく瞭りょ然うぜんたることにて、実に目より鼻へ抜ける人とはかかる人をやいうならん、惜しい哉かな、人道以外に堕だら落くして、同じく人じん倫りん破壊者の一いち人にんなりしよし聞きし時は、妾も覚えず慄りつ然ぜんたりしが、さりながら、素もと鋭敏の性なりければ、能よく獄則を遵じゅ守んしゅして勤勉怠おこたらざりし功により、数等を減刑せられ、無事出獄して、大いに悔かい悟ごする処あり、遂ついに円えん頂ちょ黒うこ衣くいに赤せき心しんを表わし、一、二度は妾が東京の寓所にも来りし事あり、また演劇にも﹁島しま津ずま政さざ懺んげ悔ろ録く﹂と題して仕組まれ、自ら舞台に現われしこともありしが、その後のちは如い何かになりけん、消息を聞かず。三 空想に耽ふける
かく妾しょうは入獄中毎日読書に耽りしとはいえ、自由の身ならば新著の書籍を差し入れもらいて、大いに学術の研究も出来たるならんに、漢籍は﹃論語﹄﹃大学﹄位その他は﹃原げん人じん論ろん﹄とか、﹃聖書﹄とかの宗教の書を許可せられしのみなりければ、ある時は英学を独習せんことを思い立ち、少しく西洋人に学びしことあるを基もととして、日々勉べん励れいしたりしかど、やはり堂に昇のぼらずして止やみたるは恥かしき次第なり。在獄中に出獄せば如い何かにせん志こころざしを達せばかくなさんと、種々の空想に耽りしも、出獄間まもなくその空想は全く仇あだとなり、失望の極きょくわれとはなしに堕だら落くして、半はん生せいを夢と過ごしたることの口惜しさよ。せめては今後を人間らしう送らんとの念はかく懺ざん悔げの隙ひまもいと切せつなり。四 獄吏の真相
妾が在獄中別に悲しと思いし事もなく浮うかと日を明かし暮らせしも無理ならず。功名心に熱したる当時の事なれば、毎日署長看守長、さては看守らの来りては種々の事どもを話しかけられ慰められ、また信書を認したたむる時などには、若き看守の好もの奇ずきにも監督を名として監房に来りては、楽らく書がきなどして、妾の赤面するを面白がり、なお本気の沙さ汰たとも覚えぬ振舞に渡りて、妾を弄もてあそばんとするものもあり、中には真実籠こめし艶えん書しょを贈りて好よき返事をと促すもあり、また﹁君徐じょ世せい賓ひんたらばわれ奈ナポ翁レオンたらん﹂などと遠廻しに諷ふうするもありて、諸役人皆妾しょうの一いっ顰ぴん一いっ笑しょうを窺うかがえるの観ありしも可お笑かしからずや。されば女監取締りの如きすら、妾の眷けん顧こを得んとて、私ひそかに食物菓子などを贈るという有様なれば、獄中の生活はなかなか不自由がちの娑しゃ婆ばに優まさる事数等にて、裁判の事など少しも心に懸かからず、覚えずまたも一年ばかりを暮せしが、十九年の十一月頃、ふと風ふう邪じゃに冒おかされ、漸ぜん次じ熱はつ発ねつ甚はなはだしく、さては腸窒チ扶ブ斯ス病との診断にて、病監に移され、治療怠おこたりなかりしかど、熱気いよいよ強く頗すこぶる危きと篤くに陥おちいりしかば、典獄署長らの心配一ひと方かたならず、弁護士よりは、保釈を願い出で、なお岡山の両親に病気危篤の旨むねを打電したりければ、岡山にてはもはや妾を亡なきものと覚悟し、電報到着の夜よより、親しん戚せき故こき旧ゅう打ち寄りて、妾の不運を悲しみ、遺い屍し引き取りの相談までなせしとの事なりしも、幸いにして幾ほどもなく快方に向かい、数すじ十ゅう日にちを経て漸ようやく本監に帰りたる嬉うれしさは、今に得えも忘られぬ所ぞかし。他の囚人らも妾のために、日夜全快を祈りおりたりしとの事にて、妾の帰監するを見るより、宛さな然がら父母の再生を迎うるが如くに喜びくれぬ。これも妾が今も感謝に堪えぬ所なり。不自由なる牢獄にて大患に罹かかりし事とて、一時全快はなしたるものから、衰弱の度甚だしく、病気よりは疲労にて斃たおるることもやと心配せしに、これすら漸ようやく回復して、遂ついには病前よりも一層の肥満を来し、その当時の写真を見ては、一驚を喫きっするほどなり。五 女史の訃ふお音ん
それより数すじ日つを経て翌二十年五月二十五日公判開廷の際には、あたかも健康回復の期にありて、頭髪悉ことごとく抜け落ち、薬やか罐んあ頭たまの醜みにくさは人に見らるるも恥かしき思いなりしが、後あとにて聞けば妾しょうの親愛なる富とみ井い於お菟と女史は、この時娑しゃ婆ばにありて妾と同病に罹かかり、薬やく石せき効こうなく遂ついに冥めい府ふの人となりけるなり。さても頼みがたきは人の生いの命ちかな、女史は妾らの入獄せしより、ひたすら謹きん慎しんの意を表し、耶ヤ蘇ソ教に入りて、伝道師たるべく、大いに聖書を研究し居たりしなるに、迷心執着の妾は活いきて、信念堅固の女史は逝ゆきぬ。逝ける女史を不幸とすべきか、生ける妾を幸こうというべきか、この報を聞きたる時、妾は実に無限の感に打たれにき。六 生理上の一変象
ここにまた一つ記しるし付くべき事あり。かかる事は仮たと令え真実なりとも、忌いむべく憚はばかるべきこととして、大方の人の黙して止やむべき所なるべけれど、一つは生理学および生理と心理との関係を究きわむる人々のために、一つは当時の妾が、女とよりはむしろ男らしかりしことの証あかしにもならんかとて、敢あえて身の羞は恥じをば打ち明くるなり。読む者強あながちに、はしたなき業わざとのみ落しめ給うことなくば幸いなり。さて記きすべき事とは何なにぞ、そは妾の身体の普通ならずして、牢獄にありし二十二歳の当時まで、女にはあるべき月のものを知らざりし事なり。普通の女子は、大抵十五歳前後より、その物のあるものぞと聞くに、妾は常に母上の心配し給える如く、生れ付き男子の如く、殺風景にて、婦人のしおらしき風ふぜ情いとては露ほどもなく、男子と漢籍の講こう莚えんに列してなお少しも羞はずかしと思いし事なし。さるからに、母上は妾の将来を気遣う余り、時々﹁恋せずば人の心はなからまし、物の哀れはこれよりぞ知る﹂という古歌を読み聞かせては、妾の所しょ為いを誡いましめ給いしほどなれば、幼おさ友なと達もだちの皆人ひとに嫁かして、子を挙あぐる頃となりても、妾のみは、いまだあるべきものをだに見ざるを知りて、母上はいよいよ安からず、もしくば世にいう石いし女めの類たぐいにやなど思い悩み給いにき。しかるに今獄中にありて或る日突然その事あり、その時の驚きは今更に言うの要なかるべし。妾の容よう子すの常になく包つつましげなるに、顔色さえ悪あしかりしを、親したしめる女囚に怪あやしまれて、しばしば問われて、秘めおくによしなく、遂ついに事云しか々じかと告げけるに、彼女の驚きはなかなか妾にも勝まさりたりき。七 理想の夫
かくの如く男らしき妾しょうの発達は早かりしかど、女としての妾は、極めて晩おそき方かたなりき。但ただし女としては早そう晩ばん夫おっとを持つべきはずの者なれば、もし妾にして、夫を撰えらぶの時機来らば、威名赫かく々かくの英えい傑けつに配すべしとは、これより先、既に妾の胸に抱いだかれし理想なりしかど、素もとより世間見ずの小天地に棲せい息そくしては、鳥なき里の蝙かわ蝠ほりとは知らんようなく、これこそ天下の豪傑なれと信じ込みて、最初は師としてその人より自由民権の説を聴き、敬慕の念漸ようやく長じて、卒然夫婦の契約をなしたりしは葉はい石しなり。されどいまだ﹁ホーム﹂を形かた造ちづくるべき境遇ならねば、父母兄けい弟ていにその意志を語りて、他日の参考に供し、自分らはひたすら国家のために尽じん瘁すいせん事を誓いおりしに、図はからずも妾が自活の途みちたる学舎は停止せられて、東上するの不幸に陥おちいり、なお右の如き種々の計画に与あずかりて、ほとんど一いっ身しんを犠牲となし、果はては身の置き所なき有様とさえなりてよりは、朝ちょ夕うせきの糊ここ口うの途みちに苦しみつつ、他の壮士らが重おも井い、葉石らの助力を仰ぎしにも似ず、妾は髪かみ結ゆい洗濯を業として、とにもかくにも露の生いの命ちを繋つなぐほどに、朝鮮の事件始まりて、長崎に至る途みちすがら、妾と夫婦の契約をなしたる葉石は、いうまでもなく、妻さい子し眷けん属ぞくを国くに許もとに遺のこし置きたる人々さえ、様々の口実を設けては賤せん妓ぎを弄もてあそぶを恥はじとせず、終ついには磯山の如き、破はれ廉ん恥ちの所しょ為いを敢あえてするに至りしを思い、かかる私欲の充みちたる人にして、如い何かで大事を成し得んと大いに反省する所あり、さてこそ長崎において永別の書をば葉石に贈りしなれ。しかるに今公判開廷の報に接しては、さきに一いっ旦たんの感情に駆られて、葉石に宛あてたりし永別の書が、端はしなくも世に発表せられしことを思いてわれながら面目なく、また葉石に対し何となく気の毒なる情も起り、葉石にしてもしこの書を見ば、定めて良心に恥じ入りたらん、妾の軽率を憤いきどおりもしたらん、妾は余りに一徹なりき、彼が皎こう潔けつの愛を汚けがし、神聖なる恋を蹂じゅ躙うりんせしをば、如い何かにしても黙もく止ししがたく、もはや一週間内にて、死する身なれば、この胸中に思うだけをば、遺いか憾んなく言い遺のこし置かんとの覚悟にて、かの書しょ翰かんは認したためしなれば、義ぎ気きある人、涙なんだある人もしこれを読まば、必ず一いっ掬きく同情の涙に咽むせぶべきなれど、葉石はそもこれを何とか見るらん、思えば法廷にて彼に面会することの気の毒さよ。彼はこの書翰のために、有志の面目をも損ずるなるべし、威厳をも傷そこなうなるべし、さても気の毒の至りなるかな。妾とても再び彼ら同志に逢あわざるべきを、予想したればこそ、かく夫婦の契約あることを発表せしなれ、今こん日にちの境遇あるを予知せば、もはや愛の冷却せる者に向かいて、強しいて旧事を発表し、相互の不利益を醸かもすが如き、愚をばなさざりしならんに。さりながら妾は実に、同志の無情を嘆ぜしなり、特ことに葉石の無情を怨うらみしなり、生きて再び恋愛の奴やっことなり、人の手にて無理に作れる運命に甘んじ順したがうよりは、むしろ潔いさぎよく、自由民権の犠牲たれと決心して、かくも彼の反省を求めしなるに、同志の手には落ちずして、かえって警察官の手に入らんとは、かえすがえすも面おも伏ぶせなる業わざなりけり。いでや公判開廷の日には、病やまいと称して、出廷を避くべきかなど、種々に心を苦しめしかど、その甲か斐い遂ついにあらざりき。 ﹇#改ページ﹈第六 公判
一 護送の途上
いよいよその日ともなれば、また三年振りにて、娑しゃ婆ばの空気に触るる事の嬉しく、かつは郷里より、親戚知ち己きの来り会して懐なつかしき両親の消息を齎もたらすこともやと、これを楽しみに看守に護まもられ、腕わん車しゃに乗りて、監獄の門を出づれば、署の門前より、江えど戸ぼ堀り公判廷に至るの間はあたかも人をもて塀へいを築きたらんが如く、その雑ざっ沓とう名めい状じょうすべくもあらず。聞く大阪市民は由ゆら来い政治の何物たるを解せざりしに、この事件ありてより、漸ようやく政治思想を開発するに至れりとか、また以て妾しょうらの公判が如い何かに市民の耳じも目くを動かしたるかを知るに足るべし。二 公廷の椿ちん事じ
明治十八年十二月頃には、嫌疑者それよりそれと増し加わりて、総数二百名との事なりしが、多くは予審の笊ざるの目に漉こし去られて、公判開廷の当時残る被告は六十三名となりたり。されどなお近来未み曾ぞ有うの大たい獄ごくにて、一度に総数を入るる法廷なければ、仮に六十三名を九ここ組のくみに分ちて各組に三名ずつの弁護士を附し、さていよいよ廷は開かれぬ。先ず公訴状朗読の事ありしに、﹁これより先、磯いそ山やま清せい兵べ衛えは︵中略︶重おも井い、葉はい石しらの冷淡なる、共に事をなすに足る者に非あらず﹂云うん々ねんの所に至るや第三列に控えたる被告人氏うじ家いえ直なお国くに氏は、憤然として怒気満面に潮ちょうし、肩を聳そびやかして、挙動穏やかならずと見えしが、果して十五ページ上段七行目の﹁右議決の旨むねを長崎滞在の先発者田たし代ろす季えき吉ち云々﹂の処に至り、突然第一列にある、磯山清兵衛氏に飛びかかり、一いっ喝かつして首筋を掴つかみたる様子にて、場じょうの内外一ひと方かたならず騒そう擾じょうし、表門警護の看守巡査は、いずれも抜ばっ剣けんにて非常を戒いましめしほどなりき。とかくする内看かん守しゅ、押おう丁ていら打ち寄りて、漸く氏家を磯山より引き離したり。この時氏家は何か申し立てんとせしも、裁判長は看守押丁らに命じて、氏家を退廷せしめ、裁判長もまたこの事柄につき、相談すべき事ありとて一ひと先まず廷を閉じ、午後に至りて更に開廷せり。爾じら来い公判は引き続きて開かれしかど、最初の日の如く六十三名打ち揃そろいたる事はなく、大抵一組とこれに添いたる看守とのみ出廷したり。しかもなお傍聴者は毎日午前三時頃より正門に詰めかけ、三、四日も通い来りて漸く傍聴席に入る事を得たる有様にて、われわれの通路は常に人の山を築けるなりき。三 重井の情書
かかる中にも葉石は、時々看守の目を偸ぬすみて、紙しば盤んにその意思を書き付け、これを妾に送り来りて妾に冷淡の挙動あるを詰なじるを例とせり。︵紙製石盤は公判所より許されて被告人一同に差し入れられこれに意志を認めて公判廷に持参しかくて弁論の材料となせるなり︶さりながら妾は長崎にて決心せし以来再び同志の言を信ぜず、御おん身みは愛を二、三にも四、五にもする偽ぎく君ん子しなり、ここに如いか何んぞ純潔の愛を玩もてあそばしめんやと、いつも冷淡に回答しやりたりき。意外なりしは重井より心情を籠こめし書状を送り来りし事なり。東京在住中、妾しょうは数しばその邸ていに行きて、富井女史救い出しの件につき、旅費補助の事まで頼みし事ありしが、当時氏は女のさし出がましきを厭いとい将はた妾らが国事に奔走するを忌いむの風ふうありしに、思いきや今その真心に妾を思うこと切せつなるよしを言い越されんとは。妾は更に合がて点ん行かず、ただ女珍しの好奇心に出でたるものと大方に見過して、いつも返事をなさざりしに、終ついには挙動にまで、その思いの表われて、如い何かにも怪あやしう思わるるに、かくまでの心入れを、如い何かでこのままにやはあるべきと、聊いささか慰いし藉ゃの文を草して答えけるに、爾じら来い両人の間の応答いよいよ繁く、果ては妾をして葉石に懲こりし男心をさえ打ち忘れしめたるも浅まし。これぞ実げに妾が半生を不幸不運の淵ふちに沈めたる導火線なりけると、今より思えばただ恐ろしく口惜しかれど、その当時は素もとよりかかる成なり行ゆきを予知すべくもあらず、一ひた向ぶるに名声赫かく々かくの豪傑を良おっ人とに持ちし思いにて、その以後は毎日公判廷に出いづるを楽しみ、かの人を待ち焦こがれしぞかつは怪しき。かくて妾は宛さな然がら甘酒に酔いたる如くに興奮し、結ばれがちの精神も引き立ちて、互いに尊敬の念も起り、時には氤いんたる口こう気きに接して自おのずから野や鄙ひの情も失うせ、心ざま俄にわかに高く品性も勝すぐれたるよう覚えつつ、公判も楽しき夢の間まに閉じられ、妾は一年有余の軽けい禁きん錮こを申し渡されたり。重井、葉石らの重おもだちたる人々は、有期流刑とか無期とかの重罪なりければ、いずれも上告の申し立てをなしたれども、妾のみは既決に編入せられつ。なお同志の人々と同じ大阪にあるを頼みにて、時にはかの人の消息を聞く事もあらんなど、それをのみ楽しみに思いしに、やがて三重県津市に転監せらるると聞きし時の失望は、木より落ちたる猿ましらのそれにも似たらんかし。 ﹇#改ページ﹈第七 就役
一 典獄の訓くん誨かい
伊勢へは我々一年半の刑を受けし人のみにて、十数人の同行者あり。常ならば東海道の五十三駅つき詩にもなるべき景色ならんに、柿色の筒つつ袖そでに腰縄さえ付きて、巡査に護送せらるる身は、われながら興さめて、駄だ句くだに出いでず、剰あまつさえ大阪より附き添い来りし巡査は皆草くさ津つにて交代となりければ、切せめてもの顔馴なじ染みもなくなりて、憂うきが中に三重県津市の監獄に着く。到着せしは黄こう昏こんの頃なりしが、典獄は兼かねて報知に接し居たりと見え、特に出勤して、一同を控所に呼び集め、今も忘れやらざる大声にて、﹁拙者は当典獄平ひら松まつ宜ぎと棟うである、おまえさん方は、今回大阪監獄署より当所に伝でん逓ていに相成りたる被告人らである、当典獄の配下の許もとに来りし上は申すまでもなく能よく獄則を遵守し、一日も早く恩典に浴して、自由の身となるよう致せ、ついてはその方ほうらの身分職業姓名を申し立てよ﹂と、一同をして名乗らしめ、さて妾しょうの番になりし時、﹁お前はいわんでも分る、景かげ山やま英ひでであろう、妙齢の身にしてかかる大事を企て、今拙せっ者しゃの前にこうしていようとは、お前の両親も知らぬであろう、アア今頃は何ど処こにどうしているだろうと、暑いにつけ、寒いにつけお前の事を心配しているに相違ない、お前も親を思わぬではなかろう、一いっ朝ちょう国のためと思い誤ったが身の不幸、さぞや両親を思うであろう、国に忠なる者は親にも孝でなくてはならんはずじゃ﹂と同情の涙を籠こめての訓くん誨かいに、悲哀の念急に迫りて、同志の手前これまで堪こらえに堪え来りたる望郷の涙は、宛さな然がらに堰せきを破りたらんが如く、われながら暫しばしは顔も得上げざりき。典獄は沈ちん思ししてそうあろうそうあろう、察し申す、ただこの上は獄則を謹守し、なお無ぶら頼いの女囚を改化遷善の道に赴おもむかしむるよう導き教え、同胞の暗愚を訓誨し、御おん身みが素そ志したる忠君愛国の実を挙げ給え、仮たと令い刑期は一年半たりとも減刑の恩典なきにしもあらねば一日も早く出獄すべき方法を講じ、父母の膝しっ下かにありて孝を尽せかしなど、その後も巡回の折々種々に劬いたわりくれられたれば、遂ついには身の軽禁錮たることをも忘れて、ひたすら他の女囚の善導に力を致しぬ。二 女監の工役
朝も五時に起きて仕した度くをなし、女監取締りの監房を開きに来るごとに、他の者と共に静坐して礼義を施し、次いで井いど戸ば端たに至りて順次顔を洗い、終りて役えき場じょうにて食事をなし、それよりいよいよその日の役えきにつきて、あるいは赤き着物を縫ぬい、あるいは機はたを織り糸を紡つむぐ。先ず着物の定てい役えきを記しるさんに赤き筒袖の着物は単ひと衣えものならば三枚、袷あわせならば二枚、綿入れならば一枚半、また股もも引ひきは四しそ足く縫い上ぐるを定めとし、古き直し物も修繕の大小によりて予あらかじめ定数あり、女監取締り一々これを割り渡すなり。妾しょうは固もとより定役なき身の仮たと令い終日書しょを伴ともとすればとて、敢あえて拒む者はあらざるも、せめては、婦女の職分をも尽して、世間の誤ごび謬ゅうを解とかん者と、進んで定役ある女囚と伍し、毎日定役とせる物を仕上げてさて二時間位は罷ひえ役きより前にわが監房に帰り、読書をなすを例とせり。されば妾出獄の時は相応の工賃を払い渡され、小遣い余りの分のみにてもなお十円以上に上のぼりぬ。これは重じゅ禁うき錮んこの者は、官に七分を収めて三分を自分の所有とするが例なるに、妾はこれに反して三分を官に収め七分を自分の有ゆうとなしければ、在監もし長からんには相応の貯蓄も出来て、出獄の上はひとかどの用に立ちしならん。三 藤とう堂どう家の老女
妾の幸さい福わいは、何ど処この獄にありても必ず両三人の同情者を得て陰いんに陽ように庇ひ護ごせられしことなり。中にも青木女監取締りの如きは妾の倦けん労ろうを気遣いて毎度菓子を紙に包みて持ち来り、妾の独ひとり読書に耽ふけるをいと羨うらやましげに見み惚とれ居たりき。されば妾もこの人をば母とも思いて万事隔へだてなく交わりければ、出獄の後のちも忘るる能あたわず、同女が藤とう堂どう伯はく爵しゃ邸くていの老女となりて、東京に来りし時、妾は直ちに訪れて旧時を語り合い、何とか報恩の道もがなと、千ち々ぢに心を砕くだきし後のち、同女の次女を養い取りて聊いささか学芸を授さずけやりぬ。四 少女
妾しょうの在監中、十六歳と十八歳の二少女ありけり、年下なるはお花、年上なるはお菊きくと呼べり。この二にに人んを特ことに典獄より預けられて、読み書き算そろ盤ばんの技は更なり、人の道ということをも、説き聞かせて、及ぶ限りの世話をなすほどに、頓やがて両女がここに来れる仔しさ細いを知りぬ。お花は心の様さまさして悪しからず、ただ貧しき家に生れて、一ひと年とせ村の祭礼の折とかや、兄弟多くして晴はれ衣ぎの用意なく、遊び友達の良き着物着るを見るにつけても、わが纏まとえる襤つづ褸れの恨うらめしく、少おと女めご心ころの浅あさ墓はかにも、近所の家に掛かけありし着物を盗みたるなりとぞ。またお菊は幼少の時孤みな児しごとなり叔お父じの家に養われたりしが、生れ付きか、あるいは虐遇せられし結果にや、しばしば邪よこしまの径みちに走りて、既に七回も監獄に来り、出獄の日ただ一日を青天の下もとに暮せし事もありしよし。打ち見たる処、両女とも、十人並なみの容貌を具えたるにいとど可ふび憫ん﹇#﹁可ふび憫ん﹂はママ﹈の加わりて、如い何かで無事出獄の日には、わが郷里の家に養い取りて、一いっ身しんの方向を授けやらばやと、両女を左右に置きて、同じく読書習字を教え、露つゆ些いささかも偏へん頗ぱなく扱いやりしに、両女もいつか妾に懐なつきて、互いに競うて妾を劬いたわり、あるいは肩を揉もみ脚を按さすり、あるいは妾の嗜たしなむ物をば、己おのれの欲を節して妾に侑すすむるなど、いじらしきほどの親切に、かかる美徳を備えながら、何なに故ゆえ盗みの罪は犯したりしぞと、いとど深き哀れを催し、彼らにしてもし妾より先に自由の身とならば、妾の出獄を当署にて聞き合せ、必ず迎えに来るようにと言い含め置きたりしも、両女は終ついに来らざりき。妾出獄の後のち監獄より聞きし所によれば、両女ともその後再び来らず、お花は当市近在の者にて、出獄後間もなく名古屋へ娼しょ妓うぎに売られたり、またお菊きくは叔お父じの家にも来らず、その所在を知るに由よしなしとの事なりき。ともかくも妾の到る処何いず処この監獄にてもかかる事の起りしは、知らず如い何かなる因いん縁ねんにや。あるいはこの不自由なる小天地に長く跼きょ蹐くせきせる反響として、かく人心の一致集注を見るならんも、その集中点の必ず妾に存せるは、妾に一種の魔力あるがためならずや。もし果してさるものありとせば、好よしこの身自由となりし時、所あら有ゆる不幸不遇の人をも吸収して、彼らに一いち縷るの光明を授けんこと、強あながちに難かたからざるべしとは、当時の妾が感想なりき。五 看守の無学無識
当市の監獄には、大阪のそれと異ことなりて、女囚中無学無識の者多く、女監取締りの如きも大概は看守の寡か婦ふなどが糊ここ口うの勤めとなせるなりき。されば何事も自己の愛あい憎ぞうに走りて囚しゅ徒うとを取り扱うの道を知らず。偏ひとえに定てい役えきの多た寡かを以て賞罰の目めや安すとなせし風ふうなれば、囚徒は何い日つまで入獄せしとて改化遷せん善ぜんの道に赴おもむかんこと思いもよらず、悪しき者は益悪に陥りて、専心取締りの甘かん心しんを迎え、漸ようやく狡こう獪かい陰険の風を助長するのみ。故ゆえに監獄の改良を計らんとせば、相当の給料を仕払いて、品性高き人物をば、女監取締りとなすに勉つとむべし。もしなおかかる者をして囚徒を取り締らしめんには、囚徒は常に軽蔑を以て取締りを迎え、表おもてに謹慎を表して陰いんに舌を吐かんとす、これをしも、改化遷善を勧諭する良法となすべきやは。独ひとり青木氏の如きは、天性慈善の心に富とみたるにや、別に学識ありとも見えざりしにかかわらず、かかる悲惨の境涯を見るに忍びずして、常に早くこの職を退しりぞきたしと語りたりしが妾の出獄後、果して間もなく辞職して、藤とう堂どう氏の老女となりぬ。今なお健在なりや否や。六 憲法発布と大たい赦しゃ
それはさて置き妾しょうは苦役一年にして賞しょ標うひょう四し個こを与えられ、今一個を得て仮出獄の恩典あらんとせる、ある日の事、小こづ塚かぎ義た太ろ郎う氏大阪より来りて面会を求めらる。大阪よりと聞きて、かつは喜びかつは動と悸きめきながら、看守に伴われて面接所に行き見れば、小塚氏は微笑を以て妾を迎え、久ひさ々びさの疎そい音んを謝して、さていうよう、自分は今回有志者の依頼を受けて、入獄者一同を見廻りおり、今度の紀元節を以て、憲法を発布あらせらるべき詔しょ勅うちょく下り、かつ辱かたじけなくも入獄者一同に恩典……といいかけしに、看守は遮さえぎりてその筋よりいまだ何らの達たっしなし、めったな事を言うべからずと注意したり。小塚氏はなお語を継ぎて、貴あな女たは何にも御存知なき様子、しかし早晩御通知あらん、いずれ明みょ日うにちにも面会に出頭せん、衣類等は如い何かになりおるや、早速にも間に合うよう相成りおるや否やなど、種々厚き注意をなして、その日はそのまま引き取りたり。妾は寝耳に水の感にて、何か今こん明みょ日うにちに喜ばしき御ご沙さ汰たあるに相違なし、とにかくその用意をなし置かんと、髪を梳くしけずり置きしに、果して夕刻書物など持ちて典獄の処に出いで来るようにと看守の命あり。さてこそと天にも昇る心ここ地ちにて、控所に伴われ行きしに、典獄署長ら居いな並らびて、謹つつしんで大たい赦しゃ文ぶんを読み聞かされたり。なお典獄は威儀厳おごそかに、御おん身みの罪は大赦令によりて全く消除せられたれば、今日より自由の身たるべし。今後は益国家のために励はげまれよとの訓言あり。聞くや否や奇怪の感はふと妾の胸に浮び出でぬ。昨日までも今日までも、国賊として使しえ役きせられたる身の、一時間内に忠君愛国の人となりて、大赦令の恩典に浴せんとは、さても不思議の有様かな、人生幻まぼろしの如しとは、そもや誰たがいいそめけんと一いち時じはただ茫ぼう然ぜんたりしが、小塚氏の厚き注意にて、衣類も新調せられたるを着換え、同志六名と共に三重県監獄の表門より、ふり返りがちに旅館に着きぬ。 ﹇#改ページ﹈第八 出獄
一 令嬢の手前
旅館には既にそれぞれの用意ありし事とて、実に涙がこぼれるほどの待遇なり。夜よはまた当地有志者の慰労会ありとて、その地の有名なる料理亭に招待せられ、翌日は釜かまをかけるとてある人より特に招かれたれば、午後より其そ処こに至りしに、令嬢の手前にて、薄うす茶ちゃのもてなしあり。更に自分にも一服との所しょ望もうありしかば、妾しょうは覚おぼ束つかなき平ひら手てまえを立ておわりぬ。貧ひん家かにこそ生い立ちたれ、母上の慈悲にて、聊いささかながらかかる業わざをも習い覚えしなりき。さなくば面目を失わんになど、今更の如く親の恩を思えるもおかし。爾じら来いかかる事に思わぬ日を経て、遂ついに同地の有志者長なが井いう氏じか克つ氏らに送られつつ、鈴すず鹿かと峠うげに至り、それより徒歩あるいは汽車にて大阪に出いづるの途中、植うえ木きえ枝も盛り氏の出迎えあり、妾に美しき薔ば薇ら花の花束を贈らる、一同へもそれぞれの贈り物あり。二 大阪の大歓迎
大阪梅田停ステ車ーシ場ョンに着きけるに、出迎えの人々実に狂するばかり、我々同志の無事出獄を祝して万歳の声天地も震ふるうばかりなり。停ステ車ーシ場ョンに着くや否や、諸有志のわれも花束を贈らんとて互いに先を争う中に、なつかしや、七年前別れ参らせし父上が、病後衰弱の身をも厭いとわせられず、親類の者に扶たすけられつつ、ここに来り居まさんとは。オオ父上かと、人前をも恥じず涙に濡しめる声を振り絞しぼりしに、皆々さこそあらめとて、これも同情の涙に咽むせばれぬ。かくてあるべきならねば、同志の士に伴われ、父上と手を別わかちて用意の整えるある場所に至り、更に志士の出獄を祝すとか、志士の出獄を歓迎すとか、種々の文字を記せる紅白の大たい旗きに護られ、大阪市中を腕わん車しゃに乗りて引き廻されけるに、当地まで迎えに来りし父上は、妾の無事出獄の喜びと、当地市民の狂するばかりなる歓迎の有様を目撃したる無限の感とに打たれ、今日までの心配もこれにて全く忘れたり、このまま死すも残り惜しき事なし、かくまで諸氏の厚遇に預かり、市民に款かん待たいせられんことは、思い設けぬ所なりしといいつつも、故中なか江えち兆ょう民みん先生、栗くり原はら亮りょ一ういち氏らの厚遇を受け給いぬ。夜に入りて旅館に帰り、ようよう一ひと息いき入れんとせしに、来訪者引きも切らず、拠よんどころなく一々面会して来訪の厚意を謝するなど、その忙しさ目も廻らんばかりなり。翌日は、重おも井い、葉はい石し、古ふる井いらの諸氏が名古屋より到着のはずなりければ、さきに着ちゃ阪くはんせる同志と共に停ステ車ーシ場ョンまで出迎えしに、間もなく到着して妾らより贈れる花束を受け、それより徒歩して東しの雲のめ新聞社に至らんとせるに、数すま万んの見物人および出迎人にて、さしもに広き梅田停ステ車ーシ場ョンもほとんど立りっ錐すいの地を余さず、妾らも重井、葉石らと共に一団となりて人々に擁ようせられ、足も地に着かずして中天にぶらさがりながら、辛かろうじて東しの雲のめ新聞社に入る。新聞社の前にも見物人山の如くなれば、戸を閉じて所要ある人のみを通す事としたるに、門外には重井万歳出獄者万歳の声引きも切らず、花火は上る剣舞は始まる、中江先生は今日は女尊男卑なり、君をば満まん緑りょく叢そう中ちゅう紅こう一いっ点てんともいいつべく、男子に交りての抜群の働きは、この事件中特筆大書すべき価値ありとて、妾をして卓テー子ブルの上に座せしめ、其そ処こにて種々の饗きょ応うおうあり。終りて各おの旅宿に帰りしは早や黄たそ昏がれの頃なりけり。 ﹇#改ページ﹈第九 重井との関係
一 結婚を諾だくす
それより重井、葉石、古井の諸氏は松まつ卯う、妾しょうは原はら平へいに宿泊し、その他の諸氏も各おの旅宿を定め、数日間は此こ処この招待、彼かし処この宴会と日夜を分たざりしが、郷里の歓迎上都合もある事とて、それぞれ好よきほどにて引き別るることとなり、妾も弥いよ明日岡山へ向け出立というその夜なりき、重井より、是非相談あれば松卯に来りくれよと申し来りぬ。何事かと行きて見れば、重井も葉石もあらず、詮せん方かたなく帰宿せんとする折しも、重井独ひとり帰りて、妾の訪れしを喜び、さて入獄以来の厚情は得えも忘られず、今回互いに無事出獄せるこそ幸いなれ、ここに決心して結婚の約を履ふまんという。こは予かねてよりの覚悟なりけれど、大阪に到着の夜、父上の寝物語りに、両三日来中なか江え先生、栗くり原はら亮りょ一ういち氏ら頻しきりにわれに説きて、汝おんみと葉はい石しと結婚せしむべきことを勧められぬ、依っていずれ帰国の上、義兄らにも相談して、いよいよ挙行すべしと答えおきたりとあり。妾がこれを聞きたる時の驚きは、青せい天てんの霹へき靂れきにも喩たとうべくや、所しょ詮せんは中江先生も栗原氏も深き事情を知り給わずして、一いち図ずに妾と葉石との交情を旧の如しと誤られ、この機を幸いに結婚せしめんとの厚意なるべし。さあれ覆ふく水すい争いかでか盆に復かえるべき、父上にはいずれ帰国の上、申し上ぐることあるべしと答え置き、それより中江、栗原両氏に会いて事情を具し、妾しょうにその意なきことを謝ことわりしかば、両氏も始めて己おのれらの誤解なることを覚さとり、その後さることは再び口にせざるに至りき。かくて妾の決心は堅かりしかど、さすがに幼おさ馴なな染じみの葉石の、今は昔互いに睦むつみ親しみつつ旦あけ暮くれ訪といつ訪われつ教えを受けし事さえ多かりしを懐おもい、また今の葉石とて妾に対して露つゆ悪意のあるに非あらざるを察しやりては、この際重井と結婚を約するは情において忍びざる所なきに非ず、情じょ緒うちょ乱れて糸の如しといいけん、妾もそれの、思い定めがたくて、いずれ帰国の上父母とも相談してと答えけるに、素もとより葉石との関係を知れる彼は、容易に諾うべなわず、もし葉石と共に帰国せば、他の斡あっ旋せんに余儀なくせられて、強しいて握手することともならんずらん、今の時を失いてはとて、なお妾を催うながして止やまず、遂ついに軽率とは思いながらに、ともかくも承知の旨を答えたりしぞ妾が終生の誤りなりける。二 一家の出迎い
それより葉石および親戚の者五、六名と共に船にて帰郷の途とにつきしが、頓やがて三さん番ばん港みなとに到着するや、某地の有志家わが学校の生徒およびその父兄ら約数百名の出迎いありて、雑ざっ沓とう言わん方かたもなく、上陸して船ふな宿やどに抵いたれば、其そ処こにはなつかしき母上の飛び出で給いて、やれ無事に帰りしか、大病を悩わずらいしというに、かく健すこやかなる顔を見ることの嬉しさよと涙片手に取り縋すがられ、アア今日は芽め出でたき日ゆえ泣くまじと思いしに、覚えず嬉し涙がこぼれしとて、兄弟甥おい姪めいを呼びて、それぞれに喜びを分ち給う。挨あい拶さつ終りて、ふと傍かたわらに一青年のあるに心付き、この人よ、船中にても種いろ々いろ親切に世話しくれたり、彼はそも何なん人ぴとなりやと尋たずねしに、そは何なにをいう、弟淳じゅ造んぞうを忘れしかといわれて一いっ驚きょうを喫きっし、さても変れば変る者かな、妾しょうの郷を出でしは七年の昔、彼が十三、四の蛮わん貊ぱく盛ざかりなりし頃なり、しかるに今は妻をさえ迎えて、遠からず父と呼ばるる身の上なりとか。実げに人の最も変化するは十三歳頃より十七、八歳の頃にぞある、見違えしも宜むべならずやなど笑い興じて、共に腕わん車しゃに打ち乗り、岡山有志家の催しにかかる慰労の宴に臨のぞまんため、岡山公園なる観かん楓ぷう閣かく指して出いで立たつ。 この公園は旧三十五万石を領せる池田侯爵の後こう園えんにして、四時の眺ながめ尽せぬ日本三公園の一なり。宴の発ほっ企き者は岡山屈指の富豪野崎氏その他知名の諸氏にしてわれわれおよび父母親戚を招待せられ、席上諸氏の演説あり、また有名の楽師を招きて、﹁自由の歌﹂と題せる慷こう慨がい悲壮の新体詩をば、二面の洋よう琴きんに和して歌わしむ。これを聴ける時、妾は思わず手を扼やくして、アアこの自由のためならば、死するもなどか惜しまんなど、無量の感に撃うたれたり。唱歌終りて葉石の答礼あり、それより酒宴は開かれ、各おの歓を尽して帰路につきたるは、頓やがて点ひと燈もし頃ごろなりき。三 久し振りの帰郷
かくて妾しょうは母、兄弟らに護られつつ、絶えて久しき故郷の家に帰る。想えばここを去りし時の淋さびしく悲しかりしに引き換えて、今は多くの人々に附き纏まとわれ、賑にぎ々にぎしくも帰れることよ。今こん昔じゃくの感坐そぞろに湧わきて、幼児の時や、友達の事など夢の如く幻まぼろしの如く、はては走まわ馬りあ燈んどんの如くにぞ胸に往ゆき来こう。我が家に近き町はずれよりは、軒のきごとに紅こう燈とうの影美しく飾られて宛さな然がら敷地祭礼の如くなり。これはた誰たれがための催しぞと思うに、穴にも入りたき心地ぞする、死したらんにはなかなか心易かるべしとも思いぬ。アアかかる款かん待たいを受けながら、妾が将来は如い何かに、重おも井いと私ひそかに結婚を約せるならずや、そも妾は如何にしてこの厚意に報いんとはすらんなど、人知れず悶もだえ苦しみしぞかし。四 大評判
我が家にては親戚故旧を招きて一大盛宴を張りぬ。絃げん妓ぎも来り、舞子も来りて、一家狂するばかりなり。宴終りて後のち、種々しめやかなる話しも出で、暁あかつきに至りて興はなお尽きざりき。七年の来こし方かたを、一夜に語り一夜に聴かんとれるなるべし。 明あくれば郷里の有志者および新聞記者諸氏の発ほっ起きにかかる慰労会あり、魚うお久きゅうという料理店に招かれて、朝鮮鶴の料理あり、妾らの関係せしかの事件に因ちなめるなりとかや。かくて数すじ日つの間は此こ処この宴会彼かし処この招待に日も足らず、平へい生ぜい疎遠なりし親族さえ、妾を見んとてわれがちに集つどい寄るほどに、妾の評判は遠近に伝わりて、三歳の童子すらも、なお景かげ山やま英ひでの名を口にせざるはなかりしぞ憂き。五 内縁
それより一、二カ月を経て、東京より重井ら大同団結遊説のため阪はん地ちを経て中国を遊説するとの報あり。しかして妾には大阪なる重井の親しん戚せき某ぼう方かたに来りくるるようとの特信ありければ、今は躊ちゅ躇うちょの場合に非ずと、始めて重井との関係を両親に打ち明け、かつ今仮に内縁を結ぶとも、公然の批ひろ露うは、ある時機を待たざるべからず、そは重井には現に妻女のあるあり、明治十七年以来発狂して人事を弁わきまえず、余儀なく生家に帰さんとの内意あれども、仮かり初そめならぬ人のために終身の謀はかりごとだになしやらずして今急に離縁せん事思いも寄らず。されば重井もその職業とする弁護事務の好成績を積み、その内大事件の勝訴となりて数すま万んの金きんを得ん時、彼に贈りて一生を安からしめ、さて後に縁を絶たんといえり。さもあるべき事と思いければ、姑しばらく内縁を結ぶの約をなしたるなり、御意見如い何かがあるべきやと尋たずねけるに、両親ともにあたかも妾の虚名に酔える時なりしかば、ともかくも御おん身みの意見に任すべしと諾うべなわれなお重井にして当地に来りなば、宅に招待して親戚にも面会させ、その他の兄弟とも余よ所そながらの杯さかずきさせん抔など、なかなかに勇み立たれければ、妾も安心して、大阪なる友人を訪とうを名とし重井に面して両親の意向を告げしに、その喜び一ひと方かたならず、この上は直ちに御両親に見まみえんとて、相あい挈たずさえて岡山に来り、我が家の招待に応じて両親らとも妾の身の上を語り定めたる後のち、貴重なる指ゆび環わをば親しく妾の指に嵌はめて立ち帰りしこそ、残る方かたなき扱いなれとて、妾は素もとより両親も頗すこぶる満足の体ていに見受けられき。爾じら来い東京に大阪に将はた神戸に、妾は表面同志として重井と相伴い、演説会に懇親会に姿を並べつ、その交情日と共にいよいよ重かさなり行きぬ。 ﹇#改ページ﹈第十 閑話三則
一 一女生
その頃妾しょうの召し連れし一女生あり。越後の生れにて、あたかも妙齢十七の処女なるにも似ず、何故か髪を断きりて男の姿を学び、白しろ金かな巾きんの兵へこ児お帯び太く巻きつけて、一いっ見けん田舎の百姓息子の如く扮いで装たちたるが、重井を頼りて上京し、是非とも景かげ山やまの弟子にならんとの願いなれば、書生として使いくれよとの重井の頼み辞いなみがたく、先ずその旨むねを承諾して、さて何故にかかる変へん性しょ男うだ子んしの真似をなすにやと詰なじりたるに、貴あな女たは男の如き気きし性ょうなりと聞く、さらばかくの如き姿にて行かざらんには、必ずお気に入るまじと確信し、ことさらに長き黒髪を切り捨て、男の着る着物に換かえたりという。さては世間の妾を視みること、かくまでに誤れるにや、それとも心付かずしてあくまでも男子を凌しのがんとする驕きょ慢うまん疎そ野やの女よと指つま弾はじきせらるることの面目なさよ。有あり体ていにいえば、妾は幼時の男装を恥じて以来、天の女性に賜わりし特色をもて些いささかなりとも世に尽さん考えなりしに、図はからずも殺風景の事件に与くみしたればこそ、かかる誤認をも招きたるならめ。さきに男のすなる事にも関かかずらいしは事こと国家の休きゅ戚うせきに関し、女子たりとも袖しゅ手うしゅ傍観すべきに非あらず、もし幸いにして、妾にも女の通性とする優しき情と愛とあらば、これを以て有為の士を奨すすめ励はげまし、及ばずながら常に男子に後援たらんとせしに外ほかならず、かの男子と共に力を争い、将はた功を闘わさんなどは妾の思いも寄らぬ所なり。女は何ど処こまでも女たれ男は何処までも男たれ、かくて両性互いに相あい輔たすけ相補うてこそ始めて男女の要はあれと確信せるものなるに、図はからずもかかる錯さく誤ごを招きたるは、妾の甚はなはだ悲しむ所、はた甚だ快しとせざる所なるをもて、妾は女生に向かいて諄じゅ々んじゅんその非を諭さとし、やがて髪を延ばさせ、着物をも女の物に換えしめけるに、あわれ眉びも目く艶えん麗れいの一美人と生れ変りて、ほどなく郷里に帰り、他に嫁かして美しき細君とはなりき。当時送り来りし新夫婦の写真今なおあり、これに対するごとにわれながら坐そぞろに微笑の浮ぶを覚えつ。二 大奇談
その頃なお一層の奇談あり。妾が東京に家を卜ぼくせしある日の事、福岡県人菊池某とて当時耶ヤ蘇ソ教伝道師となり、普教に勉つとめつつありたるが、時の衆議院議員、嘉かえ悦つう氏じふ房さ氏の紹介状を携たずさえ来りて、妾に面会せん事を求めぬ。固もとより如い何かなる人にても、かつて面会を拒こばみし事のなき妾は、直ちに書生をして客かく室しつに請しょうぜしめ、頓やがて出でて面せしに、何思いけん氏は妾の顔を凝ぎょ視うししつつ、口の内にてこれは意外これは意外といい、頗すこぶる狼ろう狽ばいの体ていにて妾の挨あい拶さつに答礼だも施ほどこさず、茫ぼう然ぜんとしていよいよ妾を凝視するのみ。妾は初め怪あやしみ、遂ついには恐れて、こは狂人なるべし、狂人を紹介せる嘉悦氏もまた無礼ならずやと、心に七分の憤いきどおりを含みながら、なお忍びに忍びて狂人のせんようを見てありしに、客は忽たちまち慚ざん愧きの体にて容かたちを改め、貴嬢願わくはこの書を一覧あれとの事に、何なに心ごころなく披ひらき見れば、思いもよらぬ結婚申し込みの書なりけり。その文に曰いわく︵中略︶貴嬢の朝鮮事件に与くみして一死を擲なげうたんとせるの心意を察するに、葉石との交情旧の如くならず、他に婚を求むるも容よう貌ぼう醜しゅ矮うわい突とつ額がく短たん鼻び一いち目もく鬼きじ女ょ怪かい物ぶつと異ことならねば、この際身を棄すつる方優まさるらんと覚悟し、かくも決死の壮挙を企てたるなり。可かれ憐んの嬢が成行きかな。我不幸にして先妻は姦かん夫ぷと奔はしり、孤独の身なり、かかる醜婦と結婚せば、かかる悲哀に沈む事なく、家庭も睦むつまじく神に仕えらるるならんと云うん々ぬん。かく読み終れる妾の顔に包むとすれど不快の色や見えたりけん、客はいとど面目なき体にて、アア誤あやまてり疎そこ忽つ千せん万ばんなりき。ただ貴嬢の振舞を聞きて、直ちに醜婦と思い取れる事の恥かしさよ。わが想像の仇あだとなれるを思うに、凡およそ貴嬢を知るほどの者は必ず貴嬢を娶めとらんと希ねがう者なるべし。さあれ貴嬢にしてもしわが志こころざしを酌くみ給わずば、われは遂ついに悲哀の淵ふちに沈み果てなん。アア口惜しの有様やとて、ほとんど自失せし様子なりしが、忽たちまち小ナイ刀フをポッケットに探さぐりて、妾に投げつけ、また卓テー子ブルに突き立てて妾を脅迫し、強しいて結婚を承諾せしめんとは試みつ。さてこそ遂に狂したれと、妾は急ぎ書生を呼び、好よきほどに待あし遇らわしめつつ、座を退しりぞきてその後の成行きを窺うかがう中うち、書生は客を賺すかし宥なだめて屋外に誘いざない、自みずから築つき地じなる某教会に送り届けたりき。三 川かわ上かみ音おと二じろ郎う
これより先、大阪滞在中和歌山市有志の招待を得て、重おも井いと同行する事に決し、畝はた下した熊ゆ野や︵現代議士山口熊野︶、小こい池けへ平いい一ちろ郎う、前まえ川かわ虎とら造ぞうの諸氏と共に同地に至り同所有志の発ほっ起きに係かかる懇親会に臨のぞみて、重井その他の演説あり。妾にも一いち場じょうの演説をとの勧め否いなみがたく、ともかくもして責せめを塞ふさぎ、更に婦人の設立にかかる婦人矯きょ風うふ会うかいに臨みて再び拙つたなき談話を試み、一同と共に撮影しおわりて、前川虎造氏の誘ゆう引いんにより和わ歌かの浦うらを見物し、翌日は田たな辺べという所にて、またも演説会の催しあり、有志者の歓迎と厚き待遇とを受けて大いに面目を施ほどこしたりき。かく重井と共に諸所に遊説しおる内に、わが郷里附近よりも数しば招待を受けたり。この時世間にては、妾と葉石との間に結婚の約の継続しおることを信じ居たれば、葉石との同行誠に心苦しかりけれど、既に重井と諸所を遊説せし身の特ことに葉石との同行を辞いなまんようなく、かつは旧きゅ誼うぎ上じょう何となく不人情のように思われければ、重井の東京に帰るを機として妾も一いっ旦たん帰郷し、暫しばし当所の慰労会懇親会に臨みたり。とかくして滞在中川かわ上かみ音おと二じろ郎うの一いっ行こう、岡山市柳やな川がわ座ざに乗り込み、大阪事件を芝居に仕組みて開場のはずなれば、是非見物し給われとの事に、厚こう意い黙もだ止しがたく、一日両親を伴いて行き見るに、その技芸素もとより今こん日にちの如く発達しおらぬ時の事とて、科しぐさといい、白せりふといい、ほとんど滑稽に近く、全然一いっ見けんの価あたいなきものなりき。しかも当時大阪事件が如い何かに世の耳じも目くを惹ひきたりしかは、市しの子女をしてこの芝居を見ざれば、人に非あらずとまでに思わしめ、場内毎日立りっ錐すいの余地なき盛況を現げんぜしにても知らるべし、不思議というも愚おろかならずや。その興業中川上は数しばわが学校に来りて、その一座の重なる者と共に、生徒に講談を聴かせ、あるいは菓子を贈るなど頗すこぶる親切叮てい嚀ねいなりしが、ある日特ことに小こも介のをして大きなる新調の引ひき幕まくを持ち来らしめ、こは自分が自由民権の大義を講演する時に限りて用うべき幕なれば、何とぞわが敬慕する尊そん姉しの名を記入されたく、即ち表面上尊姉より贈られたるものとして、聊いささか自分の面目を施ほどこしたしという。妾は当時の川上が性せい行こうを諒りょ知うちし居たるを以て、まさかに新しん駒こまや家かき橘つの輩はいに引幕を贈ると同一には視みらるることもあるまじとて、その事を諾うべないしに、この事を聞きたる同地の有志家連は、身み自由平等を主張なしながら、いまだ階級思想を打破し得ざりしと見え、忽たちまち妾に反対して頗すこぶる穏やかならぬ形勢ありければ、余儀なくその意を川上に洩もらして署名を謝絶しけるに、彼は激げっ昂こうして穏やかならぬ書しょ翰かんを残し、即日岡山を立ち去りぬ。しかるにその翌二十三年かあるいは四年の頃と覚ゆ、妾も東上して本ほん郷ごう切きり通どおしを通行の際、ふと川上一座と襟えりに染そめぬきたる印しる半しば天んてんを着せる者に逢い、思わずその人を熟視せしに、これぞ外ほかならぬ川上にして、彼も大いに驚きたるものの如く、一いち別べつ以来の挨あい拶さつ振ぶりも、前年の悪感情を抱きたる様子なく、今度浅あさ草くさ鳥とり越ごえにおいて興業することに決し、御覧の如く一座の者と共に広告に奔ほん走そうせるなり、前年と違いよほど苦くし辛んを重ねたれば少しは技術も進歩せりと思う、江えと藤うし新んぺ平いを演ずるはずなれば、是非御家族を伴ともない御来観ありたしという。数すじ日つを経て果して案内状を送り来りければ、両親および学生友人を誘いざないて見物せしに、なるほど一座の進歩驚くばかりなり、前年半ばは有志半ばは俳優なりし彼は終ついに爾しかく純然たる新俳優となりすませるなりき。彼はいえり、昔は拝顔さえ叶かなわざりし宮様方の、勿もっ体たいなくも御観劇ありし際特ことに優ゆう旨しを以て御おん膝ひざ下もと近くまで御おん招まねきに預かり、御おん言こと葉ばを賜たまわるさえ勿体なきに、なお親しく握手せさせ給えりと、語り来りて彼は随ずい喜きの涙なんだに咽むせび、これも俳優となりたるお蔭かげなりと誇り顔なり。アア彼もしわれらに親善ならんには彼の成功はなかりしならん、彼の成功は、全く自分の主義を棄すて、意気を失いしより得たる賜たまものなりけり。さるにても人の心の頼めがたきは実げに翻ほん覆ぷく手しゅにも似たるかな、昨日の壮士は今日の俳優、妾また何をか言わん。聞く彼は近年細君のお蔭にて大勲位侯爵の幇ほう間かんとなり、上流紳士と称するある一部の歓心を求むる外ほかにまた余念あらずとか。彼もなかなか世渡りの上手なる漢おとこと見えたり。この流の軟腸者豈あに独ひとり川上のみならんや。 ﹇#改ページ﹈第十一 母となる
一 妊娠
これより先、妾のなお郷地に滞在せし時、葉はい石しとの関係につき他たより正式の申し込みあり、葉石よりも直接に旧情を温めたき旨むね申し来るなど、心も心ならざるより、東京なる重おも井いに柬かんしてその承諾を受け、父母にも告げて再び上京の途とに就つきしは二十二年七月下旬なり。この頃より妾の容よう体だい尋た常だならず、日を経るに従い胸悪く頻しきりに嘔おう吐どを催しければ、さてはと心に悟さとる所あり、出京後重井に打ち明けて、郷里なる両親に謀はからんとせしに彼は許さず、暫しばらく秘して人に知らしむる勿なかれとの事に、妾は不快の念に堪たえざりしかど、かかる不自由の身となりては、今更に詮せん方かたもなく、彼の言うがままに従うに如しかずと閑静なる処に寓ぐう居きょを構かまえ、下か婢ひと書生の三人暮しにていよいよ世間婦人の常道を歩み始めんとの心ここ構ろがまえなりしに、事実はこれに反して、重井は最初妾に誓い、将はた両親に誓いしことをも忘れし如く、妾を遇することかの口にするだも忌いまわしき外妾同様の姿なるは何事ぞや。如い何かなる事情あるかは知らざれども、妾をかかる悲境に沈ましめ、殊ことに胎児にまで世の謗そしりを受けしむるを慮おもんばからずとは、これをしも親の情というべきかと、会合の都つ度ど切せつに言い聞えけるに、彼もさすがに憂慮の体ていにて、今暫く発表を見みあ合わしくれよ、今郷里の両親に御おん身み懐かい胎たいの事を報ぜんには、両親とても直ちに結婚発表を迫らるべし、発表は容易なれども、自分の位地として、また御身の位地として相当の準備なくては叶かなわず、第一病婦の始末だに、なお付きがたき今日の場合、如いか何んともせんようなきを察し給え。目下弁護事務にて頗すこぶる有望の事件を担当しおり、この事件にして成じょ就うじゅせば、数すま万んの報ほう酬しゅうを得んこと容易なれば、その上にて総すべて花々しく処断すべし、何とぞ暫しの苦悶を忍びて、胎児を大切に注意しくれよと他た事じもなき頼みなり。素もとより彼を信ずればこそこの百年の生命をも任したるなれ、かくまで事を分けられて、なおしもそは偽りならん、一時遁のがれの間まに合あわせならんなど、疑うべき妾にはあらず、他日両親の憤いきどおりを受くるとも、言い解とく術すべのなからんやと、事に托たくして叔お母ばなる人の上京を乞い、事情を打ち明けて一いっ身しんの始末を托し、ひたすら胎児の健全を祈り、自ら堅く外出を戒いましめしほどに、景かげ山やまは今何いず処くにいるぞ、一時を驚動せし彼女の所在こそ聞かまほしけれなど、新聞紙上にさえ謳うたわるるに至りぬ。二 分ぶん娩べん、奇夢
その間の苦悶そもいくばくなりしぞや。面白からぬ月日を重ねて翌二十三年三月上旬一男子を挙あぐ。名はいわざるべし、悔くいある堕落の化けし身んを母として、明あからさまに世の耳じも目くを惹ひかせんは、子の行ゆく末すえのため、決して好よき事にはあらざるべきを思うてなり。ただその命名につきて一いち場じょうの奇談あり、迷信の謗そしり免まぬかれずとも、事実なれば記しるしおくべし。その子の身に宿りしより常に殺気を帯べる夢のみ多く、ある時は深しん山ざんに迷い込みて数すせ千んの狼おおかみに囲かこまれ、一生懸命の勇を鼓ならして、その首領なる老ろう狼ろうを引き倒し、上うわ顎あごと下した顎あごに手をかけて、口より身体までを両断せしに、他たの狼児は狼ろう狽ばいして悉ことごとく遁にげ失うせ、またある時は幼時かつて講読したりし、﹃十八史略﹄中の事実、即ち﹁禹う江こうを渡る時、蛟こう竜りょう船を追う、舟しゅ中うちゅうの人皆慴おそる、禹う天を仰いで、嘆じて曰いわく、我命めいを天に享うく、力を尽して、万民を労す、生は寄なり、死は帰なりと、竜りょうを見る事、蜿えんの如く、眼がん色しょく変ぜず、竜首こうべを俯ふし尾を垂たれて、遁のがる。﹂といえる有様の歴あり々ありと目前に現われ、しかも妾は禹の位置に立ちて、禹の言葉を口に誦しょうし、竜をして遂ついに辟へき易えきせしめぬ。しかるに分ぶん娩べんの際は非常なる難産にして苦悶二昼夜にわたり、医師の手術によらずば、分娩覚おぼ束つかなしなど人々立ち騒げる折しも、あたかも陣痛起りて、それと同時に大たい雨う篠しのを乱しかけ、鳴なる神かみおどろおどろしく、はためき渡りたるその刹せつ那なに、児じの初うぶ声こえは挙あがりて、さしも盆ぼんを覆くつがえさんばかりの大雨も忽たちまちにして霽はれ上あがりぬ。後あとにて書生の語る所によれば、その日雨の降りしきれる時、世にいう竜たつまきなるものありて、その蛇へびの如き細き長き物の天上するを見たりきという。妾は児の重かさね重がさね竜に縁あるを奇として、それに因ちなめる名をば命つけつ、生おい先の幸さち多かれと祷いのれるなりき。三 児じの入籍
児を分娩すると同時に、またも一いつの苦悶は出で来りぬ。そは重井と公然の夫婦ならねば、児の籍をば如い何かにせんとの事なりき。幸いなるかな、妾の妊娠中しばしば診察を頼みし医師は重井と同郷の人にして、日頃重井の名声を敬慕し、彼と交こう誼ぎを結ばん事を望み居たれば、この人によりて双方の秘密を保たんとて、親戚の者より同医に謀はかる所ありしに、義ぎき侠ょうに富める人なりければ直ちに承諾し、己れいまだ一いっ子しだになきを幸い、嫡ちゃ男くなんとして役所に届け出でられぬ。かくて両人とも辛かろうじて世の耳じも目くを免かれ、死よりもつらしと思える難関を打ち越えて、ヤレ嬉しやと思う間もなく、郷里より母上危きと篤くの電報は来りぬ。四 愛着
分娩後いまだ三十日とは過ぎざりしほどなりければ、遠路の旅行危険なりと医師は切せつに忠告したり。されど今回の分娩は両親に報じやらざりし事なれば今更にそれぞとも言い分けがたく、殊ことには母上の病気とあるに、争いかで余よ所そにやは見過ごすべき、仮よし途中にて死なば死ね、思い止とまるべくもあらずとて、人々の諌いさむるを聞かず、叔お母ばと乳う母ばとに小児を托して引かるる後ろ髪を切り払い、書生と下女とに送られて新橋に至り、発車を待つ間にも児は如い何かになしおるやらんと、心は千ち々ぢに砕けて、血を吐く思いとはこれなるべし。実げに人生の悲しみは頑がん是ぜなき愛児を手離すより悲しきはなきものを、それをすら強しいて堪えねばならぬとは、これも偏ひとえに秘密を契ちぎりし罪悪の罰ならんと、われと心を取り直して、ただ一人心細き旅路に上のぼりけるに、車中片かた岡おか直なお温はる氏が嫂あによめ某女と同行せられしに逢い、同女が嬰えい児じを懐ふところに抱きて愛あい撫ぶ一ひと方かたならざる有様を目撃するにつけても、他人の手に愛児を残す母親の浅ましさ、愛児の不ふび憫んさ、探りなれたる母の乳房に離れて、俄にわかに牛乳を与えらるるさえあるに、哺乳器の哺ふくみがたくて、今頃は如い何かに泣き悲しみてやあらん、汝なれが恋うる乳房はここにあるものを、そも一秒時ごとに、汝と遠ざかりまさるなりなど、われながら日頃の雄お々おしき心は失うせて、児を産みてよりは、世の常の婦人よりも一ひと層しお女め々めしうなりしぞかし。さしも気きづ遣かいたりし身体には障さわりもなくて、神戸直行と聞きたる汽車の、俄に静岡に停車する事となりしかば、その夜は片岡氏の家族と共に、停ステ車ーシ場ョン近き旅宿に投じぬ。宿泊帳には故わ意ざと偽名を書しょしたれば、片岡氏も妾をば景かげ山やま英ひでとは気付かざりしならん。五 一大事
翌日岡山に到着して、なつかしき母上を見舞いしに、危きと篤くなりし病気の、ようよう怠おこたりたりと聞くぞ嬉しき。久し振りの妾が帰郷を聞きて、親しん戚せきども打ち寄りしが、母上よりはかえって妾の顔色の常ならぬに驚きて、何なに様さま尋じん常じょうにてはあらぬらし、医師を迎えよと口々に勧めくれぬ。さては一大事、医師の診察によりて、分娩の事発覚せば、妾はともかく、折せっ角かく怠りたる母上の病気の、またはそれがために募つのり行きて、悔くゆとも及ばざる事ともならん。死するも診察は受けじとて、堅く心に決しければ、人々には少しも気分に障りなき旨を答え、胸の苦痛を忍び忍びて、ひたすら母上の全快を祈るほどに、追々薄はく紙しを剥はぐが如くに癒いえ行きて、はては、床とこの上に起き上られ、妾の月げっ琴きんと兄上の八やく雲もご琴とに和して、健すこやかに今いま様ようを歌い出で給う。
春のなかばに病み臥 して、花の盛りもしら雲の、消ゆるに近き老 の身を、うからやからのあつまりて、日々にみとりし甲斐 ありて、病 はいつか怠りぬ、実 に子宝の尊きは、医薬の効にも優 るらん、
滞在一週間ばかりにて、母上の病気全く癒えければ、児を見たき心の矢やた竹けにはやり来て、今は思い止まるべくもあらねば、われにもあらず、能よきほどの口実を設けて帰京の旨むねを告げ、かつ妾も思う仔しさ細いあれば、遠からず父上母上を迎え取り、膝しっ下かに奉ほう仕じすることとなすべきなど語り聞えて東京に帰り、先まず愛児の健やかなる顔を見て、始めて十数日来の憂うさを霽はらしぬ。
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第十二 重井の変心
一 再び約束履りこ行うを迫る
妾しょうの留守中、重おも井いは数しば来りて小児を見舞いしよし、いまだ実子とてはなき境涯なれば、今かく健全の男子を得たるを見ては、如い何かで楽しくも思わざらん、ただ世間を憚はばかればこそ、その愛情を押し包みつつ、朝夕に見たき心を忍ぶなるべし。いざや今一応約束の決行を促うながさばやと、ある日面会せしを幸いかく何い日つまでも世間を欺あざむき小供にまで恥辱を与うるは親として余り冷酷に過ぎたり、早く発表して妾の面目を立て給え。もしこのままにて自然この秘密の発覚することもあらば、妾は生きて再び両親にも見まみえがたかるべしなど、涙と共に掻かき口く説どき、その後のちまた文ふみして訴えけるに、彼も内心穏やかならず頗すこぶる苦慮の体ていなりしが、ある時は何思いけん児じを抱いだき上げて、その容貌を熟視しつつハラハラと熱あつき涙を濺そそぎたりき。されど少しもその意中を語らず、かつその日よりして、児を見に来る事もやや疎うとくなり行きて、何事か不満の事情あるように見受けられければ、妾も事の破れんことを恐れ、一日説とくに女学校設立の意を以てし、彼をして五百金を支出せしめたる後、郷里の父母兄弟に柬かんして挙きょ家か上京の事に決せしめぬ。二 挙家上京
アア妾しょうはただ自分の都合によりて、先祖代々師と仰がれし旧家をば一朝その郷関より立ち退のかしめ住すみも慣れざる東の空にさまよわしめたるなり。その罪の恐ろしさは、なかなか贖あがなうべき術すべのあるべきに非あらず、今もなお亡き父上や兄上に向かいて、心に謝わびぬ日とてはなし。されどその当時にありては、両親の喜び一ひと方かたならず、東京にて日を暮し得るとは何たる果かほ報うの身の上ぞや、これも全く英ひで子こが朝鮮事件に与あずかりたる余光なりとて、進まぬ兄上を因いん循じゅんなりと叱りつつ、一家打ち連れて東京に永住することとなりしは明治二十四年の十月なりき。上京の途中は大阪の知人を尋たずね、西さい京きょう見物に日を費ついやし、神戸よりは船に打ち乗りて、両親および兄弟両夫婦および東京より迎えに行きたる妾と弟の子の乳う母ばと都合八人いずれも打ち興じつつ、長き海うみ路じも恙つつがなく無事横浜に着、直ちに汽車にて上京し、神かん田だ錦にし町きちょうの寓ぐう居きょに入りけるに、一年余りも先に来り居たる叔母は大いに喜び、一同を労いたわり慰めて、絶えて久しき物語に余念とてはなかりけり。三 変心の理由
家族の東京に集まりてより、重井の挙動全く一変し、非常に不満の体ていにて訪とい来る事も稀まれ々まれなりしが、妾はなおそれとは気付かず、ただただ両親兄弟に対し前約を履りこ行うせざるを恥ずるが故とのみ思い取りしかば、しばしば彼に告ぐるに両親の悪意なきことを以てしけれども、なお言ことばを左右に托して来らず、ようよう疎遠の姿となりて、果はてはその消息さえ絶えなんとはしたり。こは大いに理由ある事にて、彼は全く変心せしなり、彼は妾しょうの帰国中妾の親友たりし泉いず富みと子みこと情を通じ、妾を疎そか隔くせんと謀はかりしなり。四 泉富子︵変名︶
ここに泉富子︵目下農学博士某の妻なり︶の来歴を述べんに、彼女は素もと備前の産うまれなり。父なる人ある府庁に勤務中看かん守しゅ盗とうの罪を犯して入獄せしかば、弁護士岡崎某の妻となり、その縁によりて父の弁護を頼みぬ。されば岡崎氏は彼女に取りて忘るべからざる恩人にて、妾が出獄せし際の如きも岡崎氏と相あい挈たずさえ、特ことに妾を迎えて郷里に同行するなど、妾との間柄もほとんど姉妹の如くなりしに、岡崎氏の家計不ふに如ょ意いとなるに及びて、彼女はこれを厭いとい、当時全盛に全盛を極めたる重井の虚名に恋れん々れんして、遂ついに良りょ人うじんたり恩人たる岡崎氏を棄て、心強くも東京に奔はしりて重井と交際し、果はその愛を偸ぬすみ得たりしなり。かかる野心のありとも知らず、妾はなお昔の如く相親しみ相あい睦むつみ合いしに、ある日重井よりの書しょ翰かんあり、読みもて行くに更に何なに事ごととも解し得ざりしこそ道理なれ、富子は何い日つか懐かい胎たいしてある病院に入院し子を分娩したるなり。さればその書翰は、入院中の彼女に送るべきものなりしに、重井の軽率にも、妾への書面と取り違ちがえたるなりとは、天罰とこそいうべけれ。かくと知りたる妾の胸中は、今ここに記しるすまでもなきことなり、直ちに重井と泉に向かってその不徳を詰きっ責せきせしに、重井は益その不徳の本ほん性しょうを現わしたりけれど、泉は女だけにさすがに後こう悔かいせしにやあらん、その後久しく消息を聞かざりしが、またも例の幻げん術じゅつをもて首しゅ尾びよく農学博士の令れい室しつとなりすまし、いと安らかに、楽しく清き家庭を整ととのえおらるるとか。聞くが如きは、重井と彼女との間に生れたる男子は、彼女の実兄泉某の手に育てられしが、その兄発狂して頼みがたくなれるをもて、重井を尋たずねて、身を托せんと思い立ちしに、その妾お柳りゅうのために一いち言ごんにして跳はね付つけられ、已やむなく博士某の邸ていに生みの母なる富子夫人を尋ぬれば、これまた面会すらも断わられて、爾じら来い行く処を知らずとぞ。年齢はなお十三、四歳なるべし。しかも辛しん苦くの内に成長したればか、非常にませし容貌なりとの事を耳にしたれば、アア何たる無情ぞ何たる罪悪ぞ、父母共に人に優すぐれし教育を受けながら、己れの虚名心に駆られて、将来有為の男児をば無む残ざ々む々ざ浮世の風に晒さらし、なお一片可かれ憐んなりとの情こころも浮ばず、ようよう尋ね寄りたる子を追い返すとは、何たる邪じゃ慳けん非ひど道うの鬼ぞやと、妾は同情の念已やみがたく、如い何かにもしてその所在を知り、及ばずながら、世話して見んと心掛くるものから、いまだその生死をだに知るの道なきこそ遺いか憾んなれ。五 驚くべき相談対あい手て
ここにおいて妾しょうは全く重井のために弄もてあそばれ、果はては全く欺あざむかれしを知りて、わが憤ふん怨えんの情は何ともあれ、差し当りて両親兄弟への申し訳を如い何かにすべきと、ほとほと狂すべき思いなりしをわれを励はげまし、かつて生死をさえ共にせんと誓いたりし同志中、特ことに徳義深しと聞えたるある人に面会し、一部始終を語りて、その斡あっ旋せんを求めけるに、さても人の心の頼めがたさよ、彼曰いわく既に心変りのしたる者を、如何に説けばとて、責せむればとて、詮せんもなからん。むしろ早く思い棄てて更さらに良縁を求むるこそ良よけれ、世間自おのずから有為の男子に乏しからざるを、彼一人のために齷あく齪せくする事の愚おろかしさよと、思いも寄らぬ勧告の腹立たしく、さては君も今代議士の栄職を荷にないたれば、最初の志望は棄てて、かつて政敵たりし政府の権けん門もん家かに屈従するにこそ、世間自おのずから栄達の道に乏しからざるを、大たい義ぎのために齷齪することの愚かしさよとや悟さとり給うらん。アア堂々たる男子も一いっ旦たん志こころざしを得れば、その難あり有がた味みの忘れがたくて如何なる屈辱をも甘んぜんとす、さりとては褻けがらわしの人の心やと、当まの面あたりに言い罵ののしり、その醜悪を極めけれども、彼重おも井いの変心を機として妾を誑たぶ惑らかさんの下心あるが如くなお落ち着き払いて、この熱ねつ罵ばをば微笑もて受け流しつつ、その後のちも数しば訪とい寄りては、かにかくと甘き辞ことばを弄ろうし、また家人にも取り入りてそが歓心を得んと勉つとめたる心の内、よく見え透すきて、憫あわれにもまた可お笑かしかりし。否いな彼がためにその細君より疑い受けて、そのまま今日に及べるこそ思えば口くち惜おしく腹立たしき限りなれ。かくわが朝鮮事件に関せし有志者は、出獄後郷里の有志者より数すね年んの辛苦を徳とせられ、大たい抵てい代議士に撰抜せられて、一時に得意の世となりたるなり。復また当年の苦くか艱んを顧かえりみる者なく、そが細君すらも悉ことごとく虚名虚位に恋れん々れんして、昔せき年ねん唱えたりし主義も本領も失い果し、一念その身の栄えい耀ように汲きゅ々うきゅうとして借金賄わい賂ろこれ本職たるの有様となりたれば、かの時代の志士ほど、世に堕落したる者はなしなど世の人にも謡うたわるるなり。さる薄志弱行の人なればこそ、妾しょうが重井のために無上の恥辱を蒙こうむりたるをば、なかなかに乗ずべき機なりとなし、厭いやになったら、また善よいのを求むべし、これが当世なりとは、さても横に裂さけたる口かな。何たる教訓ぞや。六 重井と絶たつ
見よ彼らが家庭の紊びん乱らんせる有様を、数すね年んか間ん苦節を守りし最愛の妻をして、良りょ人うじんの出獄、やれ嬉しやと思う間もなく、かえって入獄中の心配よりも一層の苦くも悶んを覚えしめ、淫いん酒しゅに耽ふけり公徳を害して、わがままの振舞いやが上に増長すると共に、細君もまた失望の余り、自暴自棄の心となりて、良人と同じく色に溺おぼれ、果はてはその子にまで無限の苦痛を嘗なめしむるもの比ひ々ひとして皆しかりとかや、アアかかるものを頼めるこそ過あやまちなりけれ。この上は自みずから重井との関係を断ち翻ほん然ぜん悔かい悟ごしてこの一身をば愛児のために捧ささぐべし。妾不ふし肖ょうなりといえどもわが子はわが手にて養育せん、誓って一いち文もんたりとも彼が保護をば仰がじと発ほっ心しんし、その旨むね言い送りてここに全く彼と絶ち、家計の保護をも謝して全く独立の歩調を執とり、さて両親にもこの事情を語りて、その承諾を求めしに、非常に激げっ昂こうせられて、人を以て厳しく談判せんなど言い罵ののしられけるを、かかる不徳不義の者と知らざりしは全く妾の過ちなり、今更如い何かに責せめたりともその効かいあらんようなく、かえって恥をひけらかすに止とどまるべしと、かつ諌いさめかつ宥なだめけるに、ようように得とく心しんし給う。七 災厄頻しきりに至る
それより妾しょうは女子実業学校なる者を設立して、幸いに諸方の賛助を得たれば、家族一同これに従事し、母上は習字科を兄上は読書算術科を父上は会計を嫂あによめは刺しし繍ゅう科裁さい縫ほう科を弟は図画科を弟の妻は英学科をそれぞれに分担し親切に教授しけるに、東京市内は勿論近きん郷きょうよりも続々入学者ありて、一時は満員の姿となり、ありし昔の家風を復して、再び純潔なる生活を送りたりしにさても人の世の憂うたてさよ、明治二十五年の冬父上風ふう邪じゃの心ここ地ちにて仮りの床とこに臥ふし給えるに、心臓の病やまいさえ併発して医薬の効なく遂ついに遠えん逝せいせられ、涙ながらに野のべ辺お送くりを済ましてよりいまだ四十日を出でざるに、叔母上またもその跡あとを追われぬ。この叔母上は妾が妊娠の当時より非常の心配をかけたるにその恩義に報ゆるの間ひまもなくて早くも世を去り給えるは、今に遺憾遣やる方かたもなし。その翌年四月には大切なる兄上さえ世を捨てられ、僅わずかの月日の内に三度まで葬儀を営める事とて、本来貧ひん窮きゅうの家計は、ほとほと詮せん術すべもなき悲惨の淵ふちに沈みたりしを、有志者諸氏の好意によりて、辛からくも持ち支え再び開校の準備は成りけれども、杖つえ柱はしらとも頼みたる父上兄上には別れ、嫂あによめは子供を残して実家に帰れるなどの事情によりて、容易に授業を始むべくもあらず、一家再び倒産の憐あわれを告げければ、妾は身の不幸不運を悔くやむより外ほかの涙もなく、この上は海外にも赴おもむきてこの志こころざしを貫つらぬかんと思い立ち、徐おもむろに不在中の家族に対する方法を講じつつありし時よ、天いまだ妾を捨て給わざりけん端はしなくも後こじ日つ妾の敬愛せる福ふく田だと友もさ作くと邂かい逅こうの機を与え給えり。 ﹇#改ページ﹈第十三 良人
一 同情相憐れむ
これより先、明治二十三年の春、新あら井いし章ょう吾ご氏の宅にて、一度福田と面会せし事はありしが、当時妾しょうは重井との関係ありし頃にて、福田の事は別に記憶にも存せざりしが、彼は妾の身の上を知り、一ひと度たび交こう誼ぎを結ばんとの念はありしなるべし。ある日関かん東とう倶く楽ら部ぶに一友人を尋たずねし時、一いつ紳しん士しの微笑しつつ、好よい処ところにてお目にかかれり、是非お宅へ御尋ね申したき事ありというを冒頭に、妾の方ほうに近づき来りて、慇いん懃ぎんに挨拶せるは福田なり。そは如い何かなる御用にやと問い反かえせしに、彼は妾の学校の当時なお存しおる者と思い居たるが如く、今回郷里なる親戚の小供の出京するにつきては、是非とも御依頼せんと思うなりという。依って妾は目下都合ありて閉校せることを告げ、尤もっとも表面学校生活はなしおらざるも、両三人自宅に同居して読書習字の手ほどきをなしおれり、それにて差し支えなくば御おん越こしなさるるも宜よろしけれど、実の処、一ひと方かたならぬ困窮に陥おちいりて学校らしき体面をすら装う能あたわずと話しけるに、彼は何事にか大いに感じたる体ていなりしも道理、その際彼も米国より帰朝以来、小こい石しか川わ竹たけ早はや町ちょうなる同どう人にん社しゃの講師として頗すこぶる尽じん瘁すいする所ありしに、不幸にして校主敬けい宇う先生の遠えん逝せいに遭あい閉校の止やむなき有様となりたるなり。その境遇あたかも妾と同じかりければ、彼は同情の念に堪えざるが如く、頻しきりに妾の不運を慰めしが、その後のち両親との意見相あい和わせずして、益不幸の境に沈むと同時に、同情相憐れむの念いよいよ深く、果はては妾に向かい再び海外に渡航して、かの国にて世を終らんかなどの事をさえ打ち明くるに至りければ、妾もまたその情に撃たれつつ、御おん身みは妾と異なりて、財産家の嫡ちゃ男くなんに生れ給い、一ひと度たび洋行してミシガン大学の業を卒おえ、今は法学士の免状を得て、芽め出でたく帰朝せられし身ならずや、何なに故ゆえなればかかる悲痛の言をなし給うぞ。妾の如く貧家に生れ今こん日にち重ねてこの不運に遇あいて、あわや活路を失わんずるものとは、同どう日じつの談にあらざるべしと詰なじりしに、実に彼は貧ひんよりもなおなおつらき境遇に彷さま徨よえるにてありき。彼は忽たちまち眼中に涙を浮べて、財産家に生るるが幸福なりとか、御おん身みの言葉違たがえり、仮たと令えばその日ひぐ暮らしのいと便びんなきものなりとも、一家団だん欒らんの楽しみあらば、人の世に取りて如い何かばかりか幸福ならん。素もと自分の洋行せしは、親より強しいて従妹なる者と結婚せしめられ、初めより一いち毫ごうの愛とてもなきものを、さりとは押し付けの至りなるが腹立たしく、自や暴けより思い付ける遊学なりき。されば両親も自ら覚さとる所ありてか遊学中も学資を送り来りて、七年の修業を積むことを得え、先に帰朝の後は自分の理想を家庭に施す事を得んと楽しみたりしに、志こころざしはまた事と違いて、昔に優まさる両親の処置の情なさけなさ、かかる家庭にあるも心苦しくて他たし出ゅつすることの数しばなりしにつれて、覚えずも魔の道に踏み迷い、借財山の如くになりて遂ついに父上の怒りに触れ、かかる放ほう蕩とう者の行ゆく末すえぞ覚おぼ束つかなき、勘当せんと敦いき圉まき給えるよし聞きたれば、心ならずも再びかの国に渡航して身を終らんと覚悟せるなりと物語る。アア妾もまた不幸落らく魄はくの身なり、不徳不義なる日本紳士の中うちに立ち交らんよりは、知らぬ他郷こそ恋しけれといいけるに、彼は忽たちまち活いき々いきしく、さらば自分と同行するの意はなきや、幸い十年足らずかの地に遊学せし身なれば、かの地の事情に精通せりなど、真まご心ころより打ち出いだされて、遠き沙さば漠くの旅路に清き泉を得たらんが如く、嬉しさ慕したわしさの余りより、その後数しば相会しては、身にしみじみと世の果は敢かなさを語り語らるる交なか情らいとなりぬ。ある日彼は改めて御おん身みにさえ異存なくば、この際結婚してさて渡航の準備に着手せんといい出でぬ。妾も心中この人ならばと思い定めたる折おり柄からとて、直ちに承諾の旨むねを答え、いよいよ結婚の約を結びて、母上にも事情を告げ、彼も公然その友人らに披ひろ露うして、それより同どう棲せいすることとなり、一時睦むつまじき家庭を造りぬ。二 貧ひん書しょ生せい
その頃の新聞紙上には、豪農の息子景かげ山やま英ひでと結婚すなどの記事も見えけるが、その実福ふく田だと友もさ作くは着のみ着のままの貧書生たりしなり。彼は帰朝以来、今のいわゆるハイカラーなりしかば、有志といえる偽にせ豪ごう傑けつ連れんよりは、酒しゅ色しょくを以て誘いざなわれ、その高利の借金に対する証人または連れん借しゃ人くにんたる事を承諾せしめられ、果はては数すま万んの借財を負おいて両親に譴けん責せきせられ、今は家に帰るを厭いといおる時なりき。彼は亜ア米メ利リ加カより法学士の免状を持ち帰りし名誉を顧かえりみるの遑いとまだになく、貴重の免状も反ほ古ご同様となりて、戸棚の隅に鼠ねずみの巣とはなれるなりき。可かわ哀いさの余りにか将はた憎にくさにか、困らせなば帰国するならん、東京にて役人などになって貰もらわんとて、学問はさせしに非あらずと、実げに親の身としては、忍びざるほどの恥辱苦悶を子に嘗なめさせ、なお帰らねば廃はい嫡ちゃくせんなど、種々の難題を持ち出せしかど、財産のために我が抱ほう負ふ理想を枉まぐべきに非あらずとて、彼は諾うべなう気けし色きだになければ、さしもの両親も倦あぐみ果てて、そがなすままに打ち任せつつ居たるなりき。かくて彼は差し当り独立の計はかりごとをなさん者と友人にも謀はかりて英語教師となり、自宅にて教きょ鞭うべんを執とりしに、肩書きのある甲か斐いには、生徒の数かずようように殖ふえまさり、生計の営みに事を欠かぬに至りけるに、さては彼、東京に永住せんとするにやあらん、棄て置きなば、いよいよ帰国の念を減ぜしむべしとて、国くに許もとより父の病気に托して帰国を促うながし来ることいと頻しきりなり。已やむなく帰省して見れば、両親は交こも々ごも身の老衰を打ち喞かこち、家事を監督する気力も失うせたれば何とぞ家かき居ょして万事を処理しくれよという。素もとより情には脆もろき彼なれば、非道なる圧制にこそ反抗もすれ、事ことを分けたる親の言葉の前には我慢の角も折れ尽し、そのまま家におらんかとも考えしかど、多額の借財を負える身の、今家に帰らんか、父さては家に累わずらいを及ぼさんは眼の前なりと思い返し、財産は弟に譲るも遺憾なし、自分は思う仔しさ細いあれば、多年の苦学を空むなしうせず、東京にて相当の活路を求めんといい出でけるに、両親の機きげ嫌ん見る見る変りて、不孝者よ、恩知らずよと叱しっ責せきしたり。已やむなく前言を取り消して、永く膝しっ下かにあるべき旨むねを答えしものから、七年の苦学を無にして田でん夫ぷや野じ人んと共に耒らい鋤じょを執とり、貴重の光こう陰いんを徒と費ひせんこと、如い何かにしても口惜しく、また妾の将来とても、到底農家に来りて馴なれぬ養蚕機はた織おりの業わざを執り得べき身ならねば、一日も早く資金を造りて、各おの長ずる道により、世に立つこそよけれと悟さとりければ、再び両親に向かいて、財産は弟に譲り自分は独立の生計を求めんと決心せるよしを述べ、さて少しょ許うきょの資本の分ぶん与よを乞いしに、思いも寄らぬ有様にて、家を思わぬ人でなしと罵ののしられ、忽たちまち出で行けがしに遇せられければ、大いに覚悟する所あり、遂ついに再び流るろ浪うの客かくとなりて東京に来り、友人の斡あっ旋せんによりて万よろ朝ずち報ょう社ほうしゃの社員となりぬ。彼が月給を受けたるは、これが始めての終りなりき。三 夫婦相愛
これより漸ようやく米べい塩えんの資を得たれども、彼が出京せし当時はほとんど着のみ着のままにて、諸道具は一切屑くず屋やに売り払い、遂ついには火鉢の五ごと徳くまでに手を附けて、僅わずかに餓が死しを免がるるなど、その境遇の悲惨なるなかなか筆ひっ紙しの尽し得る所にあらざりしかど、富豪の家に人となりし彼の、別に苦情を訴うることもなく、むしろ清貧に安んじたりし有様は、妾しょうをして、坐そぞろ気の毒の感に堪えざらしめき。妾はこれに引き換えて、素もとより貧ひん窶るに馴なれたる身なり、そのかつて得んと望める相愛の情を得てよりは、むしろ心の富を覚えつつ、あわれ世に時めける権けん門もんの令夫人よ、御おん身みが偽善的儀式の愛に欺あざむかれて、終生浮ぶ瀬せのなき凌りょ辱うじょくを蒙こうむりながら、なお儒教的教訓の圧制に余儀なくせられて、窃ひそかに愛の欠乏に泣きつつあるは、妾の境遇に比して、その幸不幸如い何かなりやなど、少なからぬ快感を楽しむなりき。妾は愛に貴きせ賤んの別なきを知る、智ち愚ぐの分ふん別べつなきを知る。さればその夫にして他に愛を分ち我を恥かしむる行為あらば、我は男子が姦かん婦ぷに対するの処置を以てまた姦かん夫ぷに臨まんことを望むものなり。東洋の女子特ことに独立自営の力なき婦人に取りて、この主義は余り極端なるが如くなれども、そもそも女子はその愛を一方にのみ直進せしむべき者、男子は時と場合とによりて、いわゆる都合によりてその愛を四方八方に立ち寄らしむるを得る者といわば、誰かその片手落ちなるに驚かざらんや。人道を重んずる人にして、なおこの不公平なる所置を怪しまず、衆口同音婦人を責むるの惨ざん酷こくなる事、古来習慣のしからしむる所といわばいえ、二十世紀の今日、この悪風習の存在を許すべき余地なきなり。さりながら、こは独ひとり男子の罪のみに非あらず、婦人の卑屈なる依頼心、また最も与あずかりて悪風習の因となれるなるべし。彼らは常にその良人に見捨てられては、忽たちまち路頭に迷わんとの鬼おそ胎れを懐いだき、何でも噛かじり付きて離れまじとは勉つとむるなり。故にその愛は良人に非ずして、我が身にあり、我が身の饑きか渇つを恐るるにあり、浅ましいかな彼らの愛や、男子の狼ろう藉ぜきに遭あいて、黙従の外ほかなきはかえすがえすも口惜しからずや。思うに夫婦は両者相愛の情一致して、ここに始めて成立すべき関係なるが故に、人と人との手にて結び合わせたる形式の結婚は妾しょうの首しゅ肯こうする能あたわざる所、されば妾の福田と結婚の約を結ぶや、翌日より衣食の途みちなきを知らざるに非ざりしかど、結婚の要求は相愛にありて、衣服に非ざることもまた知れり、衣服の顧かえりみるに足らざることもまた知れり、常識なき痴ちじ情ょうに溺おぼれたりという莫なかれ、妾が良人の深しん厚こうなる愛は、かつて少しも衰えざりし、彼は妾と同棲せるがために数すま万んの財を棄つること、あたかも敝へい履りの如くなりき。結婚の一条件たりし洋行の事は、夫婦の一日も忘れざる所なりしも、調金の道いまだ成らざるに、妾は尋た常だならぬ身となり、事皆志こころざしと差ちがいて、貧しき内に男子を挙げ、名を哲てつ郎ろうとは命じぬ。四 神頼み
しかるに生れて二ふた月つきとはたたざる内に、小児は毛もう細さい気きか管んし支え炎んという難病にかかり、とかくする中、危篤の有様に陥りければ、苦しき時の神頼みとやら、夫婦は愚にかえりて、風の日も雨の日も厭いとうことなく、住居を離さる十町ばかりの築つく土どは八ちま幡んぐ宮うに参さん詣けいして、愛児の病気を救わせ給えと祷いのり、平へい生ぜい嗜たしなめる食物娯楽をさえに断たちたるに、それがためとにはあらざるべけれど、それよりは漸ぜん次じ快方に赴おもむきければ、単ひとえに神の賜たま物ものなりとて、夫婦とも感謝の意を表し、その後のち久しく参詣を怠らざりき。五 有形無形
妾幼ようより芝居寄よ席せに至るを好このみ、また最も浄じょ瑠うる璃りを嗜たしなめり。されどこの病児を産みてよりは、全くその楽しみを捨てたるに、福田は気の毒がりて、機おりに触れては勧め誘いざないたれど、既に無形の娯楽を得たり、復また形けい骸がいを要せずと辞いなみて応ぜず。ただわが家庭を如い何かにして安あん穏おんに経過せしめんかと心はそれのみに奔はしりて、苦悶の中うちに日を送りつつも、福田の苦心を思いやりて共に力を協あわせ、僅わずかに職を得たりと喜べば、忽たちまち郷里に帰るの事情起る等にて、彼が身心の過労一ひと方かたならず、彼やこれやの間に、可あた借ら壮健の身を屈托せしめて、なすこともなく日を送ることの心許もとなさ。六 渡韓の計画
かくては前途のため善よからじと思案して、ある日将ゆく来すえの事ども相談し、かついろいろと運動する所ありしに、機おりよくも朝鮮政府の法律顧問なる資格にて、かの地へ渡航するの便びんを得たるを以て、これ幸いと郷里にも告げず、旅費等は半なかば友人より、その他は非常の手だてにて調ととのえ、渡韓の準備全く整ととのいぬ。当時朝鮮政府に大改革ありて、一時日本に亡命の客かくたりし朴ぼく泳えい孝こう氏らも大たい政せいに参与し、威権赫かく々かくたる時なりければ、日本よりも星ほし亨とおる、岡おか本もと柳りゅ之うの助すけ氏ら、その聘へいに応じて朝廷の顧問となり、既にして更に西さい園おん寺じ侯こう爵しゃくもまた勅ちょくを帯びて渡韓したりき。故に福田はこれらの人によりてかの国有志の重おも立だちたる人々に交わりを求むるも難かたからず、またかの国法務大臣徐じょ洪こう範はんは、かつて米国遊学中の同窓の友なれば重ね重ね便宜ありと勇みすすみて、いよいよ出しゅ立ったつの日妾に向かい、内地にては常に郷里のために目的を妨さまたげられ、万事に失敗して御おん身みにまで非常の心痛をかけたりしが、今回の行こうによりて、聊いささかそを償つぐない得べし。御身に病児を托す、願わくは珍ちん重ちょうにせよかしとて、決然袂たもとを分わかちしに、その後のち二週間ばかりにして、またもや彼が頭上に一大災厄の起らんとは、実げにも悲しき運命なるかな。七 妨害運動
これより先、郷里の両親らは福田が渡韓の事を聞きて彼を郷里に呼び返すことのいよいよ難かたきを憂うれい、その極高こう利りか貸しをして、福田が家かし資ぶん分さ産んの訴えを起さしめ、かくして彼の一いっ身しんを縛しばり、また公権をさえ褫ちだ奪つして彼をして官途に就つく能あたわざらしめ、結局落らく魄はくして郷里に帰るの外ほかに途みちなからしめんと企てたり。されば彼の仁じん川せん港に着するや、右の宣告書は忽たちまち領事館より彼が頭上に投げ出いだされぬ。彼はその両親の慈愛が、かくまで極端なるべしとは、夢にも知らず、ただ一筋に将来の幸福を思えばこそ、血の出るほどの苦しき金かねをも調達して最愛の妻や病児をも跡あとに残して、あかぬ別れを敢あえてしたるなるに、慈愛はなかなか仇あだとなりて、他に語るも恥かしと、帰京後男泣きに泣かれし時の悲哀そもいくばくなりしぞ。実に彼は死よりもつらき不面目を担にないつつ、折せっ角かく新調したりし寒防具その他の手荷物を売り払いて旅費を調ととのえ、漸ようやく帰京の途とにはつき得たるなりき。八 血を吐く思い
横浜に着すると同時に、妾しょうにちょっと当地まで来れよとの通信ありければ、病児をば人に托して直ちに旅館に至りしに、彼が顔がん色しょく常ならず、身に附くものとては、ただ一着の洋服のみとなりて、いとど帰国の本ほ意いなき事を語り出でられぬ。妻の手前ながら定めて断だん腸ちょうの思いなりしならんに、日頃耐たい忍にん強き人なりければ、この上はもはや詮せん方かたなし、自分は死せる心しん算さんにて郷里に帰り、田でん夫ぷや野じ人んと伍ごして一生を終うるの覚悟をなさん。かく志こころざしを貫つらぬく能あたわずして、再び帰郷するの止やむなきに至れるは、卿おんみに対しまた朋ほう友ゆうに対して面目なき次第なるも、如いか何んせん両親の慈愛その度に過ぎ、われをして遂ついに膝しっ下かに仕つかえしめずんば止まざるべし。病児を抱えて座食する事は、到底至難の事なれば、自分は甘んじて児じのために犠牲とならん、何とぞこの切せつなる心を察して、姑しばらく時機を待ちくれよという。今は妾も否いなみがたくて、終ついに別居の策を講ぜしに、かの子こぼ煩んの悩うなる性は愛児と分れ住む事のつらければ、折しも妾の再び懐胎せるを幸い、病身の長男哲郎を連れ帰りて、母に代りて介抱せん、一時の悲痛苦悶はさることながら、自分にも一いっ子しを分ちて、家庭の冷ひややかさを忘れしめよとあるに、これ将はた辞いなみがたくして、われと血を吐く思いを忍び、彼が在郷中の苦痛を和やわらげんよすがにもと、遂ついに哲郎をば彼の手に委ゆだねつ。その当時の悲痛を思うに、今も坐そぞろに熱ねつ涙るいの湧わくを覚ゆるぞかし。九 新生活
かくて彼は再び鉄面を被かぶり愛児までを伴ともないて帰宅せしに、両親はその心情をも察せずして結局彼が窮困の極帰き家かせしを喜び、何なにとかして家に閉じ込め置かん者と思いおりしに、彼の愛児に対する、毫ごうも慈母の撫ぶい育くに異ことなることなく、終日その傍かたわらに絆ほだされて、更に他意とてはなき模様なりしにぞ、両親はかえって安心の体ていにて親みずから愛孫の世話をなしくるるようになり、またその愛孫の母なればとて、妾しょうに対してさえ、毎月若じゃ干っかんの手当てを送るに至りけるが、夫婦相そう思しの情は日一日に弥いや増して、彼がしばしば出京することのあればにや、次男侠きょ太うたの誕たん生じょう間もなく、親族の者より、妾に来らい郷きょうの事を促うながし来りぬ、されば彼はこれに反して、私ひそかに来らぬこそ好よけれと言い送れり。そは妾にして仮よし彼の家の如き冷酷の家庭に入いるとも到底長く留とどまる能あたわざるを予知すればなりき。妾とてもまた衣裳や金の持参なくして、遥はるかに身から体だ一つを投ずるは、他の家ならば知らず、この場合においては、徒いたずらに彼を悩ますの具となるに過ぎざることを知りければ、始めは固く辞いなみて行かざりしに、親族は躍やっ気きになりて来郷を促し、子供のために、枉まげて来り給えなどいと切せめて勧めけるに、良りょ人うじんと児じとの愛に引かれて、覚おぼ束つかなくも、舅きゅ姑うこの機きげ嫌んを取り、裁縫やら子供の世話やらに齷あく齪せくすることとなりたるぞ、思えば変る人の身の上なりける。十 ああ死別
されど妾の如き異分子の、争いかでか長くかかる家庭に留まり得べき。特ことに舅きゅ姑うこの福田に対する挙動の、如い何かに冷ひややかにかつ無むざ残んなるかを見聞くにつけて、自ら浅ましくも牛馬同様の取り扱いを受くるを覚さとりては、針の筵むしろのそれよりも心苦しく、仮たとい一いっ旦たんの憤いきどおりを招かば招け、かえって互いのためなるべしとて、ある日幼児を背負いて、窃ひそかに帰京せんと謀はかりけるに、中途にして親族の人に支えられ、その目的を達する能あたわざりしが、彼も妾の意を察して、一家の和合望みなきを覚りしと見え、今回は断然廃はい嫡ちゃくの事を親族間に請求し、自分は別居して前途の方針を定めんとの事に、妾もこれに賛して、十万の資産何かあらんと、相談の上、妾先まず帰京して彼の決行果して成じょ就うじゅするや否やを気遣いしに、一カ月を経て親族会議の結果嫡男哲郎を祖父母の膝しっ下かに留め、彼は出京して夫婦始めて、愁しゅ眉うびを開き、暖かき家庭を造り得たるを喜びつつ、いでや結婚当時の約束を履りこ行うせん下心なりしに、悲しい哉かな、彼は百事の失敗に撃たれて脳の病やまいを惹ひき起し、最後に出京せし頃には病既に膏こう肓こうに入りて、ほとんど治じすべからざるに至り、時じ々じ狂気じみたる挙動さえ著いちじるしかりければ、知友にも勧誘を乞いて、鎌倉、平ひら塚つか辺に静養せしむべしと、その用意おさおさ怠おこたりなかりしに、積年の病終ついに医する能あたわず、末ばっ子し千ちあ秋きの出しゅ生っしょうと同時に、人事不省に陥おちいりて終に起たたず、三十六歳を一いち期ごとして、そのまま永ながの別れとなりぬ。 ﹇#改ページ﹈第十四 大覚悟
アア人生の悲しみは最愛の良人に先立たるるより甚はなはだしきはなかるべし。妾しょうも一いっ旦たんは悲痛の余り墨すみ染ぞめの衣ころもをも着けんかと思いしかど、福田実家の冷酷なる、亡夫の存生中より、既にその意の得ざる処置多く、病中の費用を調ととのうるを名として、別べっ家けの際、分ぶん与よしたる田畑をば親族の名に書き換え、即ちこれに売り渡したる体ていに持て做なして、その実は再び本ほん家けの有ゆうとなしたるなど、少しも油断なりがたく、彼の死後は殊こと更さら遺族の饑き餓がをも顧かえりみず、一いっ列さい投げやりの有様なれば、今は子らに対して独ひとり重任を負える身の、自ら世を捨て、呑のん気きの生涯を送るべきに非あらずと思い返し、亡夫の家を守りて、その日の糊ここ口うに苦しみ居たるを、友人知己は見るに忍びず、わざわざ実家に舅きゅ姑うこを訪といて遺族の手当てを請求しけるに、彼らは少しの同情もなく、漸ようやく若干の小遣い銭せんを送らんと約しぬ。かかる有様なれば、妾は嬰えい児じを哺ほい育くするの外ほか、なお二児の教育の忽ゆるがせになしがたきさえありて、苦くも悶ん懊おう悩のうの裡うちに日を送る中うち、神経衰弱にかかりて、臥がじ褥ょくの日多く、医師より心を転ぜよ、しからざれば、健全に復しがたからんなどの注意さえ受くるに至りぬ。死はむしろ幸いならん、ただ子らのなお幼くして、妾しょうもしあらずば、如い何かになり行くらん。さらば今一度元気を鼓舞して、三児を健全に養育してこそ、妾の責任も全く、良人の愛に酬むくゆるの道も立てと、自ら大いに悔かい悟ごして、女め々めしかりし心恥かしく、ひたすらに身の健康を祈りて、療養怠りなかりしに、やがて元気も旧に復し、浮世の荒浪に泳ぎ出づるとも、決して溺おばれざるべしとの覚悟さえ生じければ、亡夫が一週年の忌き明あけを以て、自他相あい輔たすくるの策を講じ、ここに再び活動を開始せり。そは婦女子に実業的の修養をなすの要用ありと確信し、その所しょ思しを有志に謀はかりしに、大いに賛同せられければ、即ち亡夫の命日を以て、角つの筈はず女子工芸学校なるものを起し、またこの校の維持を助くべく、日にほ本んじ女ょし子こう恒さん産か会いを起して、特志家の賛助を乞い、貸たい費ひせ生いの製作品を買い上げもらうことに定めたるなり。恒産会の趣旨は左の如し。
日本女子恒産会設立趣旨書
恒つねの産さんなければ恒の心なく、貧ひんすれば乱らんすちょう事は人の常じょ情うじょうにして、勢いきおい已やむを得ざるものなり。この故に人をしてその任務のある所を尽さしめんとせば、先ずこれに恒つねの産を与うるの道を講ぜざるべからず。しからずして、ただその品位を保ち、その本ほん生せいを全まっとうせしめんとするは譬たとえば車なくして陸を行き、舟なくして水を渡らんとするが如く、永くその目的を達する能あたわざるなり。
今や我が国都と鄙ひ到いたる処として庠しょ序うじょの設けあらざるはなく、寒かん村そん僻へき地ちといえどもなお唔いごの声を聴くことを得う、特ことに女子教育の如きも近来長ちょ足うそくの進歩をなし、女子の品位を高め、婦人の本性を発揮するに至れるは、妾らの大いに欣よろこぶ所なり。されど現げん時じ一般女学校の有様を見るに、その学科は徒いたずらに高尚に走り、そのいわゆる工芸科なる者もまた優美を旨むねとし以て奢しゃ侈し贅ぜい沢たくの用に供せらるるも、実際生計の助けとなる者あらず、以て権けん門もん勢せい家かの令れい閨けいとなる者を養うべきも、中流以下の家政を取るの賢婦人を出いだすに足らず。これ実に昭しょ代うだいの一いつ欠けつ事じにして、しかして妾らの窃ひそかに憂慮措おく能あたわざる所ゆえ以んなり。
それ世の婦女たるもの、人の妻となりて家庭を組織し、能よくその所おっ天とを援たすけて後こう顧この憂うれいなからしめ、あるいは一朝不幸にして、その所おっ天とに訣わかるることあるも、独立の生計を営みて、毅きぜ然んその操節を清きようするもの、その平へい生ぜい涵かん養よう停てい蓄ちくする所の智識と精神とに因よるべきは勿もち論ろんなれども、妾らを以てこれを考うれば、むしろ飢きか寒ん困こん窮きゅうのその身を襲おそうなく、艱かん難なん辛しん苦くのその心を痛むるなく、泰たい然ぜんとしてその境に安んずることを得るがためならずんばあらざるなり。
しかりといえども女子に適切なる職業に至りてはその数極めて少なし、やや望みを嘱しょくすべきものは絹きぬ手はん巾けちの刺しし繍ゅうこれなり。絹手巾はその輸出かつて隆盛を極め、その年額百万打ダースその原価ほとんど三百余万円に上のぼり我が国産中実に重要の地位を占めたる者なりき。しかるにその後のちの趨すう勢せいは頓とみに一変して貿易市場における信用全く地に落ち、輸出高益ます減退するの悲況を呈するに至れり。これ固もと種々なる原因の存するものなるべしといえども、製作品の不ふせ斉いい一つなると、品質の粗悪なるとは、けだしその主なるものなるべきなり。しかしてその不斉一その粗悪なるは、その製出者と営業者とに徳義心を欠くが故なりというも可かなり、鑑かんがみざるべけんや。
そもそも文明の進み分業の行わるるに従い、機械的大おお仕じか掛けの製造盛んに行われ、低てい廉れんなる価格を以て、能よく人々の要に応じ得べきに至るといえども、元来機械製造のものたる、千せん篇ぺん一いち律りつ風ふう致ちなく神しん韻いんを欠くを以て、単ひとえに実用に供するに止とどまり、美術品として愛あい翫がん措おく能あたわざらしむる事なし。しかるに経済社会の進しん捗ちょくし富ふざ財いの饒じょ多うたとなるに従って、昨日の贅ぜい沢たく品ひんも今こん日にちは実用品と化し去り、贅沢品として愛翫せらるるものは、勢い手しゅ工こうの妙技を逞たくましうせる天てん真しん爛らん漫まんたるものに外ほかならざるに至るなり、故を以て衣食住の程度低き我が国において、我が国産たる絹布を用い、これに加うるに手工細さい技ぎに天てん稟りんの妙を有する我が国女工を以てす、あたかも竜りょうに翼つばさを添うが如し、以て精巧にこれを製出し、世界の市場に雄飛す、天下如いか何んぞこれに抗争するの敵あるを得んや。しかるに事実のこれと反したるは、妾らの悲しみに堪えざる処なり、故にもし今大資本家に依りて製品の斉せい一いつを計り、かつ姑こそ息くの利を貪むさぼらずして品質の精良を致さば、その成功は期して待つべきなり。
妾らここに見るあり曩さ日きに女子工芸学校を創立して妙齢の女子を貧ひん窶るの中うちに救い、これに授さずくるに生計の方法を以てし、恒つねの産さんを得て恒の心あらしめ、小にしては一いっ身しんの謀はかりごとをなし、大にしては日本婦人たるの任務を尽さしめんとす、しかして事ややその緒ちょに就つけり。
乃すなわちここに本会を組織し、その製作品の輸出に付いて特別なる便利を与えんと欲す。顧みるに妾ら学浅く、才拙せつなり、加うるに微力なすあるに足らず、しかしてなおこの大事を企つるは、誠に一片の衷ちゅ情うじょう禁ぜんとして禁ずる能あたわざるものあればなり。希こいねがわくは世の兄弟姉妹よ、血あり涙なんだあらば、来りてこれを賛助せられん事を。
明治三十四年十一月三日
設立者謹きん述じゅつ
この事業はいまだ半はん途とにして如い何かになり行くべきや、常なき人の世のことは予あらかじめいいがたし、ただこの趣意を貫つらぬかんこそ、妾わらわが将来の務めなれ。
* * *
三十余年の半生涯、顧みればただ夢の如きかな。アア妾は今覚さめたるか、覚めてまた新しき夢に入るか、妾はこの世を棄てん乎か、この世妾を棄つる乎。進まん乎、妾に資と才とあらず。退しりぞかん乎、襲おそうて寒かんと饑きとは来らん。生しょ死うしの岸がん頭とうに立って人の執とるべき道はただ一いつ、誠を尽して天命を待つのみ。