雨が落おちたり日ひか影げがもれたり、降ふるとも降らぬとも定さだめのつかぬ、晩ばん秋しゅうの空そらもようである。いつのまにか風は、ばったりなげて、人も気づかぬさまに、小こさ雨めは足のろく降りだした。 もうかれこれ四時過すぎ五時にもなるか、しずかにおだやかな忌いも森りい忌も森りのおちこち、遠とおくの人声、ものの音、世よをへだてたるものの響ひびきにもにて、かすかにもやの底そこに聞こえる。近くあからさまな男女の話し声や子どもの泣なき騒さわぐ声、のこぎりの音まき割わる音など、すべてがいかにもまた、まのろくおぼろかな色をおんで聞こえる。 ゆったりとおちついたうちにも、村そん内ない戸こ々このけはいは、おのがじしものせわしきありさまに見える。あす二十二日がこの村の鎮ちん守じゅ祭さい礼れいの日で、今こん夕ゆうはその宵よい祭まつりであるからであろう。 源げん四しろ郎うの家では、屋やし敷きの掃そう除じもあらかたかたづいたらしい。長なが屋やも門んのまえにある、せんだんの木に二、三羽ばのシギが実みを食くいこぼしつつ、しきりにキイキイと鳴なく。その声はもの考えする人の神しん経けいをなやましそうな声であった。ほうきめのついてる根ねも元との砂すな地ちに、やや黄きばんだせんだんの実みが散ちり乱みだしてある。どういうものかこの光こう景けいは見る人にあわれな思いをおこさせた。 源げん四しろ郎うはなお屋やし敷きのすみずみの木こ立だちのなか垣かき根ねのもとから、朽くち葉ばやほこりのたぐいをはきだしては、物もの置おきのまえなる栗くりの木のもとでそれを燃もやしている。雨になったのでいっそうせいてやってるようすである。もとより湿しっけのある朽くち葉ばに、小こさ雨めながら降ってるのだから、火ひあ足しはすこしも立たない。ただプツプツとけむるばかり、煙けむりは茅ぼう屋おくのまわりにただようている。源四郎はそれにもかかわらず、どしどしといやがうえにごみをのせかける。火はときどき思いだしたように、パチパチと燃もえてはすぐ消きえてしまう。朽くち葉ばのくさみを持った煙けむりはいよいよ立ち迷まようのである。源四郎は二十二、三の色いろ黒ぐろい丸まる顔がおな男だ。豆まめしぼりの手ぬぐいをほおかむりにして、歌もうたわずただ黙もくもく掃そう除じしている。 源四郎のしゅうとごは六十以上と見える。背せた高かく顔の長いやさしそうな老ろう人じんだ。いま奥おくの間まの、一枚開いた障しょ子うじのこかげに、机つくえの上にそろばんをおいて、帳ちょ面うめんを見ながら、パチパチと玉たまをはじいてる。お台だい屋やのかたでは、源四郎の細さい君くんお政まさとまま母ははと若わかいやとい女おんなとの三人が、なにかまじめに話をしながら、まま母ははははすの皮かわをはぎ、お政と女はつと豆どう腐ふをこしらえてる。むろんあしたのごちそうを作ってるのである。 シギもいつしかせんだんを去さって、庭にわ先さきの栗くりの木、柿かきの木に音のするほど雨も降ふりだした。にわかにうす暗ぐらくなって、日も暮くれそうである。めがねをはずして机つくえを立った老ろう人じんは、 ﹁源四郎……源四郎……雨がひどくなったじゃねいか、もうやめにしたらどうだい﹂ ﹁ハッ﹂ ﹁源四郎や﹂ ﹁ハッ﹂ 源四郎は、ただハッハッと返へん事じをしながら、なおせっせと掃そう除じをやってる。老ろう人じんは表おも座てざ敷しきのいろりばたに正せい座ざして、たばこをくゆらしながら門のほうを見てる。おもざし父ににて、赤あか味みがちなお政まさは、かいがいしきたすきすがたにでてきて、いろりに火を移うつす。鉄てつびんを自じざ在いにかける。 ﹁どうもほん降ぶりになりましたね、おとっさん﹂ ﹁うむ、せっかくの祭まつりも雨だない。えいやい休みだから﹂ お政はそこをおりていったが、裏うらのほうからすぐ長女の七つになるのを連つれてきた。 ﹁おじいさん、どうぞ柿かきをむいてやってください。もう暗くらくなったからね、おじいさんのそばにいるのだよ﹂ ﹁おおまあや、この降るのにおまえどこに遊あそんでおった。さあおじいさんとこへきな。あしたあ祭まつりだからな、みんなのじゃまになっちゃいけねい。いまに甘あま酒ざけもできるぞ。うむ、柿かきのほうがえいか、よしよし﹂ 松まつ女じょはおじいの膝ひざにのって柿かきを食くってる。源げん四しろ郎うもようやく掃そう除じをやめたらしい。くまでやほうきやくわなどを長なが屋やのすみへかたづけている。そとは雨の降ふるのも見えぬほど暮くれてきた。そのほの暗ぐらい長なが屋やも門んをくぐって、見み知しらぬ男がふたりいそいそとはいってくる。羽はお織りはもめんらしいが縞しま地じか無む地じかもわからぬ。ももひきぞうりばきのいでたち、ふたりは二十五、六ぐらい、によったふうである。軒のきに近づくとふたりはひとしくかぶりものをとる。 ﹁ごめんください﹂ ﹁ごめんください﹂ ﹁ハイ﹂ 老ろう人じんは松女を膝ひざからおろしてちょっとむきなおる。はいったふたりはおなじように老人に会えし釈ゃくした。老人はたって敷しき物ものをふたりにすすめる。ふたりのものは腰こしもかけないで、おまえが口こう上じょうを申もうしてくれ、いやおまえがと、小こご声えに押おし合あってる。老人はもとより気きが軽るな人だから、 ﹁おまえさんがたはどちらからでございますか﹂ ﹁ハイ﹂ ﹁ハイ﹂ ようやくのこと、すこし年とし上うえらしいほうの男が、顔のようすをつくろうて、あらたまった口くち調ょうに口こう上じょうをのべる。 ﹁わたくしどもは、その大おお富とみ村むらからでましてございますが、ご親しん類るいの善ぜん右え衛も門んさんのおばさんが、けさそのなくなりましたものでございますから、告つげ人びとにでましたしだいでございます。ハイ一いっ統とうからよろしくとのことで……﹂ ﹁あ、さようでございましたか。それはそれは遠えん方ぽうのところをご苦くろ労うさまで……それはあのなくなったは気きち違がいのことでしょうな﹂ ﹁さようでございます。善ぜん右え衛も門んさんからよろしくと申もうしましてございます﹂ ﹁まことにはやご苦くろ労うさまに存ぞんじます。あの気きち違がいも長ながとご迷めい惑わくをかけましたが、それでわたしも安心いたしました。まずどうぞおかけくださいまし﹂ この老人は応おう対たいのうまいというのが評ひょ判うばんの人であったから、ふたりの使つかいがこの人にむかっての告つげ人びとの口こう上じょうはすこぶる大たい役やくであった。ふたりは道すがら話もせずに、腹はらのうちでねりにねってきたのである。どうやら見みぐ苦るしくもなくあいさつがすんだので、ふたりは重おも荷にをおろしたようである。気きし色ょくのはりもゆるみ、腰こしのはりもゆるんで、たばこ入れに手がでる。ようやく腰をかけて時じこ候うの話もでる。 平へい生ぜい多たべ弁んの老人はかえって顔に不ふあ安ん沈ちん鬱うつのくもりを宿やどし、あいさつもものういさまである。その気きち違がいというはこの老ろう人じんの前ぜん妻さいなのだ。長女お政まさが十二のときにまったくの精せい神しん病びょうとなったのである。いろいろ療りょ養うようをつくしたが、いかんともしようがなく、いささかの理りゆ由うをもって親おや里ざとへ帰した。元がん来らいは帰すべきでないものを帰したのであるから、もと悪あく人にんならぬ老人は長く良りょ心うしんの苦くつ痛うにせめられた。それのみならず気きち違がいはその後ご、里さとに帰っても里にいず、こじきとなって近村をふれ歩いた。たちがたき因いん縁ねんにつながる老人は、それがためまたあきらめてもあきらめられぬ羞しゅ恥うちの苦くつ痛うをおいつつあったのである。このごろ老人もようやく忘わすれんとしつつありしをきょうは耳新しく、その狂きょ婦うふもなくなったと告つげられ、苦くつ痛うの記きお憶くをことごとく胸むな先さきに呼よびおこして、口にいうことのできないいやな心持ちに胸がとざされたのである。 その凶きょ報うほうはおだやかなりし老人の胸を攪かく乱らんしたばかりでなく、宵よい祭まつりを祝いわうべき平和な家庭をもかきにごした。 大おお富とみからの告つげ人びとと聞いたお政まさは手のものを投なげだしてきた。懇こん切せつに使いの人の労ろうを感かん謝しゃしたうえに、こまごまと死者のうえについての話を聞こうとする。老人はお政がでたをさいわいに奥おくへはいったままでてこない。まま母もそれを聞いてちょっとあいさつにでたぎり寄よりつかない。源四郎は馬うま小ご屋やにわらなどいれている。 ひとりお政はたとえ気きち違がいでもこじきでも、正しき生うみの母である。あたたかき乳ちぶ房さに取りすがって十二のときまで保ほい育くを受けた母である。心がけのよいかしこい女といわれているお政は、 ﹁わたしはもうみえも外がい聞ぶんも考えませぬ。たとえあの気きち違がいがどのようなふうをしていようと、気違いですものしかたがありません。どんなになっていても、わたしはただこの世に一日も長く生かしておきたいと思うばかりであります。あの気違いの子がと人さまに笑われても、気違いの子にちがいないのですから、よんどころありません﹂ とお政まさが、ことにふれての母に対たいする述じゅ懐っかいはいつでもきまってるが、どうかすると、はじめは平へい気きに笑いながら、気違いのうわさをいうてても、いつのまにか過かび敏んに人のことばなどを気にかけ、涙なみだを目に一ぱいにしたかとみるまに、抱だいてたわが子を邪じゃ険けんにかきのけて、おいおい声を立てて泣なきだすようなことがあるのである。思いやりのないだれかれは、お政もすこしへんちきだ、子どものふたりもある女が大声たてて泣なくのはあたりまえではないなどという。心あるしんせつな人らは気違いになった母よりも、お政のほうがかえってかわいそうだと、とも涙なみだにくれて同情を寄よせてる。 お政は、きょう不ふ意いにその母がなくなったと聞かせられたのである。あしたは祭さい礼れいの日というので朝から家じゅう総そうがかりで内外の取とりかたづけやらふるまいの用意にたてきってる際さいに、告つげ人びとを受けたのである。お政はほとんど胸きょ中うちゅうが転てん倒とうしている。まずなにごとよりもさきに、お政が胸に浮かぶのは、気違いの母がどんなふうにしてなくなったかという点てんである。 もしや野のは原らか往おう来らいなどで、行ゆき倒だおれにでもなりやせまいか、人の知らぬまに死んでいたのではないかしら、それともすこしは早くようすがわかって家のものの世せ話わを受けてなくなったのか、いろいろな想そう像ぞうが一時じに胸むねにわきかえる。ひさしいあいだの気違いであるから、家の人たちとてきっと満足には世せ話わもしてくれなかったろう。 とかくにこうひがんだ考えばかり思いだされ、顔はほてり、手足はふるえ、お政はややとりのぼせの気き味みで、使いのものに始しじ終ゅうのことを問といつめるのである。告げ人というものにたいしてのあしらいかたには、通つう例れいの習しゅ慣うかんがある。お政はそれらのことにも気がつかずに、たすきを手にして立ったまま話を聞いてる。使いのふたりがかわりがわりに話すところをまとめると、こうである。 ﹁べつに病気というほどにも見えなかったけれど、この月はじまりのころから、たいへんおとなしくなって、家のもののいうことをよく聞きわけ、ほとんど外へでなかった。家のひとたちのあてがうものをこころよく食くい飲のみして、なんのこともなく昨さく夜やまで過すごしてきたところ、けさは何なん時じになっても起きないから、はじめて不ふし審んをおこし、いろいろたずねてみるとようすがわるい、きゅうに医いし者ゃにも見せたがまにあわなく、そのうちまもなく息いきを引ひき取とった。あなたにお知らせするまもなかったは残ざん念ねんながら、まことにいい終わりでありました﹂ こう聞かせられて、お政はひととおりならずよろこんだ。見る見る顔かお色いろがおだやかになった。いつ何なん時どきどんなところで無むざ残んななくなりようをすることやらと、つねづねそればかりを苦くに病やんでたのだから、まことにいい終わりようでありましたと告つげられて非ひじ常ょうによろこんだ。お政のそぶりはよく使いのふたりを動かした。 ﹁それはほんとうのことでしょうね。それはほんとうでしょうね。わたしもそれを聞いて安心しました﹂ ﹁人ひとりなくなったのを、けっこうというはずはないが、まあ、ああして終わりますれば、ハイ定じょ命うみょうはいたしかたないとして、まずけっこうでござります、ハイ﹂ ﹁まあ暗くらくなったこと。かってなことばかり申もうして、あかりもださずに、なんという無ぶち調ょう法ほうでしょう﹂ お政はきゅうにやとい女を呼よんで灯とう明みょうを命めいじ、自分は茶ちゃの用よう意いにかかった。しとしとと雨は降ふる、雨あま落おちの音が、ぽちゃりぽちゃりと落おちはじめた。使いの人らは、二里りの夜道を雨に降られては、と気づかうさまで、しきりに外そとをながめて、ささやいている。 老人はせきばらいする声が奥おくに聞こえるが、寝ねてしまったらしく、ついにでてこなかった。源四郎はへっついのまえに腰こしをおろして馬のものをにているらしい。祖そ父ふにつき離はなされた松まつ女じょは祖そ母ぼにまつわって祖そ母ぼにしかられ、しくしくべそをかいて母の腰こしにまつわるのである。祖母はなにか気に入らぬことでもあるか、平へい生ぜいの手まめ口まめににず、夜よみ道ちを遠く帰るべき告つげ人びとにいっこうとんちゃくせぬのである。やとい女もさしずがなければ手出しのしようもない。ただうろついている。源四郎はもとより悪わる気ぎのある男ではない。祖母の態たい度どに不ふへ平いがあるでもなく、お政の心しん中ちゅうを思いやる働きもない。 お政はただひとりで気をもんでるが、子どもには泣なきつかれる、どうしてよいかわからぬ。やっと茶をだしたけれど、ひととおり酒しゅ食しょくをさせねばならない告げ人を、まま母なる人がみょうによそよそしているのでどうすることもできない。使いの人も食事だけはやって帰りたいと思うても、このありさまにごうをにやし、雨が降るのに夜おそくなってはといいだして、いとまを告つげるのである。 ﹁一口さしあげないで、どうしてお帰し申すことができましょう。ご遠えん方ぽうのお帰りをまことに申しわけが……﹂ とお政は早や声をくもらして、四苦く八苦くに気もみする。夫おっとにすこし客の相あい手てをしていてくれと頼たのめば源四郎は﹁ウンウン﹂と返へん事じはしても、立ちそうにもせぬ。お政は泣く子をかげでしかりつけ、背せにおうて膳ぜん立だてをするのである。おちついてやるならばなんでもないことながら、心中惑わく乱らんしているお政の手には、ことがすこしも運ばない。 老人はなぜ寝ねてしまったか、源四郎はどう思ってるのか。使いの人らは帰るにも帰れず、ぼんやりたばこを吸すうている。老人のせきする声と源四郎がときどきへっついに燃もやす火の音のほか、声立てる人もない。かくていまこの一家は陰いん悪あくな空気にとざされているのである。 お政は長いあいだ苦くに思っていた狂きょ母うぼが、きょう人なみに終わったと聞いて、一どは胸むねなでおろして安心したものの、さすがに忘わすれがたき母の死を感じては、心こころさびしくもあり悲かなしくもある。二十年あまりのあいだじゃまにされ、やっかいにされ、あらゆる醜しゅ状うじょうを世せけ間んにさらした生いきがいなき不ふこ幸うな母と思いつめると、ありし世の狂きょ母うぼの惨さん状じょうやわが身みの過か去この悲ひつ痛うやが、いちいち記きお憶くから呼よび起こされるのである。 手に用をせねばならぬお政は、わきたぎつ涙なみだをぬぐうてもいられぬ。ひややかなまま母、思いやりのない夫、家の人びとのあまりにすげなきしぶりを気づいては、お政は心しん中ちゅう惑わく乱らんしてほとんど昏こん倒とうせんばかりに悲かなしい。ただ雨の夜道を遠く帰らねばならない使いの人らに、気を配くばるはりあいで、お政はわずかに自分を失うしなわずにいるのである。 お政は夢ゆめの心ここ地ちに心ばかりの酒しゅ食しょくをととのえてふたりを饗きょうした。つねはけっして人をそらさぬ人ながら、ただ﹁どうぞ﹂といったままほとんど座にたえないさまである。家かじ人んのようすにいくばくか不ふか快いを抱いだいた使いの人らも、お政の苦くち衷ゅうには同どう情じょうしたものか、こころよく飲いん食しょくして早そうに立たち去さった。 源四郎が、のろいからだとにぶい顔をだしたときには、使いの人らは庭まででてしまった。 お政はずいぶん神しん経けい過かび敏んに感かん情じょ的うてきな女であるけれど、またそうとうに意い志しの力を持っている。たいていのことは胸むねのうちに処しょ理りして外に圭けい角かくをあらわさない美びし質つを持っている。今こん夜やはじつにこみいった感かん情じょうが、せまい女の胸むねににえくり返ったけれど、ともかくもじっと堪かん忍にんして、狂きょ母うぼの死を告つげにきてくれた人たちに、それほどに礼れい儀ぎを失わなかった。 しかしながら、波はら瀾んを表ひょ面うめんに見せないだけ、お政が内心の苦くつ痛うは容よう易いなわけのものでなかった。告つげ人びとを帰したお政は、いささか気もおちついたものの、おちついた思しり慮ょが働くと、さらに別べっ種しゅの波はら瀾んが胸にわく。叫きょ哭うこくしたくてたまらなかったときに叫きょ哭うこくしえないで、叫哭すべき時じ期きを経けい過かしたいまは、かなしい思いよりは、なさけなく腹はら立だたしさにのぼせてしまった。 ﹁あんまりだ﹂ こう一言叫さけんだお政は、客きゃくの飲のみ残のこした徳とく利りを右手にとって、ちゃわんを左手に、二はい飲み三ばい飲み、なお四はいをついだ。お政の顔は皮ひ膚ふがひきつって目がすわった。かたわらにいた松女は、子どもながら母のただならぬようすを見て、火がついたように泣なきだした。 ﹁おじいさんとこへいくんだ。おじいさんとこへいくんだ﹂ お政はわが子の泣くのも知らぬさまに、四はいを飲みつくし、なお五はいをつごうとする。源四郎も老人も松女のさけび泣なきにおどろいてでてきた。源四郎はお政の手から酒をうばって、 ﹁こら、なにをするんだ﹂ ﹁なにもしやしません。お酒をいただいてるんです﹂ ﹁酒を飲むんだって、そんな乱らん暴ぼうに飲んでどうする﹂ ﹁あんまりです、あんまりです﹂ お政は泣き声にこうさけんでうつふしてしまった。松女は祖そ父ふにすがりついて、 ﹁おかあさんをだましておくれよ、おかあさんをだましておくれよ﹂ 老人は松女をすかして引き寄せながら、 ﹁政やおまえの胸むねをおれはよく知っている。おまえの腹はら立だちにすこしも無む理りはないのだから、おまえの胸はおれがよく知しってるから、となりの家へでもいってな、となりのおかあさんにおまえの胸をよく聞いてもらえよ。そうすりゃ気もおちついてくるだろう。なにもかもすんでしまったことじゃないか。おまえがこれまで、ようく堪かん忍にんしていてくれたことはおれがちゃんと知しってるのだから、なあ政まさ……えいかわかったろう。源げん四しろ郎う、おまえ、となりへつれていって頼たのんでくれ﹂ 老ろう人じんは、なにごとものみこんでいるから、お政の心しん中ちゅうを察さっし、涙なみだを浮うかべてむすめをさとすのである。 源四郎はわが妻つまながら、お政の悲ひた嘆んをどうすることもできなかった。 ﹁おとうさんもああいうのだから、黙だまってくれ。おまえの心はおれだって知ってるよ。さあ、おとうさんがいうのだから、となりの家へすこしいっておれよ。おれがいっしょにいくから、えい、お政……﹂ お政は源四郎のことばには答えもせず、わずかに頭を起こし、 ﹁おとうさん、もう心配しないでください。となりへいかんでもようございます。わたし、しばらく休ませてもらえばようございます﹂ ﹁そうか、そんならおまえのすきにしてくれや。それじゃ松まつや、おかあさんはね、すこし休むちから、さあ甘あま甘あまにしようよ﹂ 老人はそのままお台だい屋やへはいる。源四郎は妻つまをうながして納なん戸どへ送りやった。 まま母ははじめから口もださず手もださず、きわめて冷れい然ぜんたるものであった。老人は老ろう妻さいの冷れい淡たんなるそぶりにつき、二言こと三言ことなじるような小こご言とをいうたに対たいし、 ﹁わたしゃなにもかまいやしません。お政がひとりで腹はらをたってるのは、わたしにもしようがありませんもの﹂ まま母のものいいは、歯はにもののはさまってるような心持ちに聞こえるけれど、やさしい老人はそのうえ追つい及きゅうもしなかった。源四郎はもちろん妻のしぶりに同どう情じょうしているが、さりとてまま母の冷れい淡たんに憤ふん慨がいするでもない。黙だまって酒を飲み、ものを食っている。雨はいよいよ降りが強くなってきたらしい。 翌よく日じつは意いが外いな好こう天てん気きで、シギが朝早くから例れいのせんだんの木に鳴ないている。 二十年まえに離りべ別つした人でこの家の人ではないけれど、現げん在ざいお政の母である以上は、祭まつりは遠えん慮りょしたほうがよかろうと老ろう人じんのさしずで、忌きち中ゅうの札ふだを門にはった。ものざといお政は早くも昨夜のことは自分の胸ひとつにおさめてしまえばなにごともなくすむことと悟さとって、朝起きる早そうそう色をやわらげて、両りょ親うしんにあいさつし昨夜の無ぶち調ょう法ほうをわび、そのまま母の喪もにおもむいた。そうして思うさまにその狂きょ母うぼを泣ないた。泣いて泣きぬいた。 親しん戚せきのものは、みな気違いが死んでくれてやれよかったといってるなかで、お政がひとり泣いておった。お政が心しん底そこをしんに解かいした人は、お政の父ひとりくらいであったろうけれど、それでもだれいうとなく、お政さんはかしこい女だという評ひょ判うばんが立った。