先生が理性に勝れて居ったことは何人も承知しているところだが、また一方には非ひ度どく涙もろくて情的な気の弱いところのあった人である、それは長らく煩わずらって寝ていたせいでもあろうけれど、些ささ細いなことにも非常に腹立って、涙をこぼす果ては声を立てて泣くようなことが珍らしくない、その替わりタワイもないことにも悦ぶこともある。 一昨年の秋加藤恒忠氏が、ベルギー公使に赴任する前にちょっと来られた時なども、オイオイと泣かれた加藤氏から貴様にも似合わんじゃないかと叱しかられたような訳で少し烈しく感情を激すると、モウたまらなくて泣く人であった。内輪の人に対して腹立たり叱ったり泣たりするのも、皆一時の激情に過ぎないので、理屈もなにもなかったのである。 自分が少しのことにも感情を激するくらいであるから、人に対してはそれは随分周密に注意せられていたようであった、どこまでも理は正していられたけれど他の感情を害するようなことはまた決してなし得なかった、そういう訳であるから、理屈の上では非常に厳重で冷酷なことをいうても、その涙もろい情的の方面になるとすぐ以前と反対なことをやるようなことがしばしばあった。 同人諸君の内でも、虚子君、鼠骨君、秀真君、義郎君等は、いわゆる上口の方で酒をやらるる諸君のところ、先生はしきりに酒を飲んではいけぬといわれた、種々理由もあったようであるが、古来酒を飲んだ人にえらいことをやった人がないなどといわれていた、従したがって前数氏の人々などには随分冷酷な注告をせられたこともあったらしい、鼠骨君などからは、この断酒注告につきての不平を聞かせられたこともある、義郎君などは最も非ひ度どく痛つう罵ばせられた方である。 しかしこれが皆前にいう通り、理屈の上のことばかりで、先生の所で何かにつけ飯が出る、また飲食会がある、それに必ず欠かさず酒を出すのだ、一方では冷酷に意見をしながら、すぐその跡から酒を出すからいかにも矛盾している、ちょっとおかしく思われるが、ここが先生の涙もろいところだ。 一所に飯をくいながらも、好きな酒を飲せぬというはいかにも残酷なようで、とても堪られんというのである、一度先生と交際した人は皆何となく離れられない風があるのも、こんなところからであろう。 吾輩などは馬鹿に抹茶が好きであるから、先生の所へ往っても、どうかすると抹茶的議論などがでる、もっとも先生は絶対に抹茶を排した訳ではなかったが、世間普通の茶人という奴が、実に馬鹿らしく形式だった厭いや味みなものであるので、吾輩の抹茶についても時折嘲ちょ笑うしょう的痛罵を頂ちょ戴うだいしたことがあったのである、だがそれもやはり酒のような筆法で、吾輩が非常に茶を好むというところから、抹茶の器具が一通り備られてあった、吾輩が数年の間に幾百回と通った内に、ただの一回でもこの抹茶の設備と抹茶的菓子の用意とが欠けたことがないのである、 明治三十三年の夏、長塚君と日光まで滝見の旅行をやった時に、帰りは例の通り田端でおりて根岸へ寄った、いろいろ話し込でいる内に、やがて母堂には抹茶の小鑵を盆へ載せて出された、先生は笑いながら君が非常に茶に渇していると思って、大いそぎに神田まで人をやって買わしたのだマア一ぷくやりたまえとあった、予はそれは先生恐れ入ましたなア、実は私は一日の旅でも茶を持って出るのですから、二晩とまり三日の旅ですもの、チャンと用意して参りました、まだ少し残っていますどうも恐れ入りましたなアというと、さすがに茶人だ僕はまた君が三日も茶を飲まないではすこぶる茶に渇してることと思ってから買わしたがそうであったかと大おおいに笑った。 先生の情的方面のことは多くこんな調子であった、こういうことを思いつづけると今でも胸の塞ふさがるような心持になる。 これは少し事柄が違うけれど、先生は仔しさ細いなことにもよく注意が届いて居って、すべて物事おろそかにするということのなかった人である、病室のいつでも取りととのえられて、少しも乱雑不潔などいうことのなかったは、誰れも知っているが、ごく些ささ細いなたとえは手紙一本出すにつけても、いかに親しい友達の処でも、屹きっ度と町名番地を記明して出される、名前ばかり記してやるようなことは決してない、これにつきある時のお話に、世間には手紙をやっても返事もこないなどと不平をいう人が随分あるが自分の手紙に宿所を明記しない人は非常に多い、中には姓ばかり書したり、雅号ばかり書したりして手紙を出す人が少くない、これらは人に対して敬意を失うばかりでなく、相手方では返事をしようとしても宿所が判らないで、困ることがあるなどといわれた、それであるから、一ヶ年百回近く通っている人の所へよこす手紙にもちゃんと町名番地が明記してある、何十通の手紙の中にも、この法則に欠けてるのはただの一つもない、それから﹃日本﹄新聞社へやる原稿も俳句一枚のでも必ず三銭切手をはって封書にして出していられた、開封でやるということはついに見たことがなかった、これは意味があってかなくてかそれは知らないが、先生の平生が、こんな細事にも察せられるかと思うままに記して世人に示すのである。 ︹﹃馬酔木﹄明治三十六年十一月十三日︺ 明治三十五年七月初旬の頃である、看護当番として午後二時少し過すぎたと思う時分に予は根岸庵に参った、今日はどんな様子か知らんと思う念が胸に満みちているから、まず母堂や律様の挨あい拶さつ振りでも、その日の先生の様子が良かったか悪かったかということがすぐに知れる。 今日は良くないなということが座敷へ通らぬ内に解った、予は例の通り病室と八畳の座敷の間の唐紙に添うて呉くれ椽えんに寄った障子の内へ座した、しかもソウッと無言で座したのである、むろん先生いかがですかなどと挨拶する訳ではない、モウこの頃はお極りの挨拶などは無造作に出来なかった、お話の相手にゆくのであるけれど、先生の様子を見てからでなければ、漫みだりに挨拶することははなはだ危険を感じたのである、予は黙然と座して先生の様子を窺うかがっている、先生は南向に寝ていて顔は東の方戸棚の襖の方へ向けていられる、予は先生の後を見ている体たい度どであった、やがて母堂が茶を持ってこられ、次にお定りの抹茶の器具を出される、予はかかる際にどうかこんなことはおよしなされてといえど、物固い母堂はこの頃までも決してこの設備を欠かいたことはなかった、まことに忘れんとして忘れられないことである。 昨日は秉へい︵河東︶さんの番でありまして、少し悪く御座いました、昨晩はサッパリと寝ませんで、今日も良くありませんゆえ、また朝から秉さんにきてお貰もらいしたでしたが、少し眠りましたから十二時頃に帰られましたなどと、母堂からお話しがあった。 この間がまだ一時間ともたたない内に、先生は右の手でくくし枕を直しながら顔だけちょっと予の方へ向けて目礼された、よほど苦しそうな様子で口もきかないですぐ元の通り顔を背そむけてしまったが、しばらくたってから今度は体を少し直して半仰向けになられ、わずかにこちらへ顔を向ける姿勢をとった、
きょうはねイ、
一語しばらく眼をつぶっていられ、息を休めるようにしてから、
きょうはお昼前碧梧桐が独ドイ逸ツの小説を読んで聞かせてくれた。もちろん翻訳ではあるが、僕は小説というものは、吾々の感じを満足させるようなものはとても出来ないものとキメてしまった、
今までは小説についていくらか迷っていたが、とても吾々を満足させる小説は出来得ないものとキメてしまった。
それは先生文学上の大問題ですなア。
予は先生に次なる語を促すような語気でもってそういうたのであるが、先生ははなはだ息苦いかのごとく、容易にその次を語らない、この時予はむしろ次なる先生の説を
ただ今の先生のお話はちょっと考えましたところでも、実に文学上の大問題ではありませんか、西洋なぞの話では文学といえば何より先に小説であって、小説は文学というより文学は小説という有様で、いうまでもなく小説は文学の最高位にあるものだそうじゃありませんか、そういう小説が今先生の申さるるごとく、文学趣味の上から満足な感を得られないということは、実に一大議論のように考えられます、かりそめのお話でなくて、真に思い定めた確信かのように伺いますが、私も先生の今のお話には非常に心が動いた訳であります、それほどの先生の確信、たとい少しなりとも何かへお書きになって公表されてはいかがですか、私は是ぜ非ひそう願ねが度いたく思いますが。
それはそうだが、このざまではとてもそんなことは出来んじゃないか。
予は強い近視であるからよくは知れなかったが、この時の先生の眼にはたしかに涙があったと思われた、それきり先生は黙してしまい、予も胸塞ふさがる心持で、語を続けることは出来なかった。いかにも先生のいわるる通とおりで、この時分の先生の容体は、人々各番に毎日看護に来るという有様であるから、以上のごとき複雑な問題に意見を述べるなどいうこと出来るはずがないのである。
お互にしばらく黙している内にも、予は我に返って考えるとなく考えた、この問題については最も少すこし聞いておかねばならぬ、こう思おもいついたので様子を測って、
ただ今のお話について最 少し伺っておきたいと思いますが、話をしても宜 しゅうございますか。
といって先生の許しをえてから、
私もと申しては少しおこがましい訳ですが、演劇も小説も熱心に見たというではありませんけれど、ともに面白く思って居りまして、小説なぞは読みかけると夜の明けるも知ずに読んだこともありますが、実を申すとごく浅薄な趣味で面白いので、いわばただ筋書許 りを面白く感じますのです、つまりお伽 的に面白みを感ずるのでありました、それで少し文学的とか詩的とか真面目な意味から視ると、いつでも不自然殊更 作りものというような感がすぐ起ってくるのです、今の大家という人々の小説でも文章は甘 いが、趣味という点にはどうしても、不自然な殊更な感じを起さぬことはありません、演劇は見たほど見ませんが、古いことですが明治座で左団次の曾我 を見た時などは実に馬鹿らしくて堪りませんでした、団十郎は未だ見ないくらいですから演劇の話などは無理でありますけれど、左団次の五郎といっては名高いのだそうでありますのに、その曾我五郎の左団次が捕縛されるところなどは、まるで人形の転がるようでとても真面目な趣味感が起るものでありゃしません、人を斬 るとか自殺するとか、捕縛されるとか、人間の激情無上なるきわどいところなどが、どうして不自然な殊更なママ事 らしき感の起らぬように演ずることが出来ましょう、小説でも演劇でも平凡な事実をやればつまらぬ価値のないものになってしまう、少し際立った奇なことをやれば、とても自然を得ることが出来ぬとすれば、到底詩的趣味の感懐を満足させることは六 つかしい、普通一般的浅薄な娯楽としてはもちろんこの上なきものであろうが、文学の素養深き人の詩的興快を動すことはなはだ覚束ないものではあるまいか、それは天才的大手腕家が出てきて技倆 を振われたら知らぬこと、今日の演劇や(能楽の演技は別)小説では要するに普通人の娯楽程度であってママごとやお伽話の進歩した物としか思われない。
私はこんな風な考えを持っていたこともあったのでありますが、何しろ小説熱の盛な時代、そんなこというたとて誰あって相手にするものありません、そういう私でありますから今先生のお話を伺って私は非常に心が動いた訳ですが、ただ今の先生のお話は今私が申上たような意味で解釈して宜 しいのでありましょうか、私は大手腕家が出てきたらと申しましたが、先生のはそれが一歩進んで手腕に係らず、小説というものは素養ある詩人の感懐を満足させることは到底出来ぬものとお極めになったというように承知致しましたが、そう心得てよいのでありますか。
私はこんな風な考えを持っていたこともあったのでありますが、何しろ小説熱の盛な時代、そんなこというたとて誰あって相手にするものありません、そういう私でありますから今先生のお話を伺って私は非常に心が動いた訳ですが、ただ今の先生のお話は今私が申上たような意味で解釈して
予はかく長々しく自分の考かんがえの有あり丈たケを述べて先生に判断を乞うたのである、先生はその間一語も挿まれず、瞑めい目もくして聞かれた様子で、予が話をきるとすぐに大体そんな訳であるといわれた、なお話を進められて。
自分の親しく経歴したことを綴つづったら、人によったらあるいは一生涯に一つ二つ、吾々の想うようなものが出来るかも知れぬけれど、そういうことは小説というよりかむしろその人の伝記というのが適当であろう、また自分が一年か二年前に実験した事実を種として作るというようなことがあっても、それは駄目であろう、どうしても想像や推測が出てきて新あらたに考えたものと大差がなくなる。
かく話を添えられた、先生はよほど労つかれていらるる様子であるのに、こんな複雑な問題について長話をするのよくないことは知れきっているのであるから、予はここでこの問題についての話は止めてしまった、跡は母堂を相手に世間話を始めたような次第でその夜は常のごとく十時まで居って帰宅したのである。
以上の問題は考えれば考えるほど大問題であるという感がましてくる、とても吾々ごとき凡骨の頭で容たや易すくよいの悪いのといわれる問題ではない、しかし予はどうしても、先生の一語しかも心籠こめて繰返された一語は、心の底まで染み込んだのである、その後先生歿後、これを碧梧桐に話したら、碧梧桐は首肯しない、それはそんな訳のものでないという、虚子に話せば虚子も首肯しない、鼠骨ももちろん首肯しないのである、四方太には未だ話さない、従したがって四方太の考は知らぬのである、予の如きもの未いまだかくのごとき問題について論議するの資格なきことを自任しているが、予が正しく先生より聞取った談話は、前記のごとくで、先生の話より予の話が多いが、当時の談話事況は記述の通りである、これを世間に紹介しておくは予の責任であると思う、
世の中の進歩趨すう勢せいはその停止する所を知らずという有様で、従したがってすべての思想界にも、頻ひん々ぴん新主義を産出してくる今日であるのに、ことに文学美術の上に写実主義の大潮流は、蕩とう々とうとして洋の東西に湧わき返って居る今こん世せのことなれば、あるいは欧米の文士間などより、前記先生の所説のごとき議論が、何時湧ゆう出しゅつしてくるかも知れぬ、こんなこと思うと予はますます予の聞いただけのことを公表しておくの義務あることを信ぜざるを得ぬのである、
日本帝国の偉文士正岡氏は、その現世を去りし二個月以前において、
小説というものはとても吾々の感じを満足させるように出来ぬものときめてしまった、
この一語は正しく正岡先生の口より出でて左千夫の耳に入りしもの、すなわち明治三十七年一月発刊の『馬酔木』巻頭に掲げ広く世界の識者に問うのである。
︹﹃馬酔木﹄明治三十七年二月二日︺
大詩人の言行としては、さもあるべきはずではあるが、何事につけても、人並よりは多くの興味を感じつつ居たらしかった、多くの人の何でもなく思っていることやごくツマラぬことで一向顧みもしないようなことでも、先生はしきりと面白がって一人興懐に耽ふけるというようなことが常に珍らしくなかった、従したがってたわいもないことにも児こど供もらしく興に乗って浮かれるようなことがあった、それは趣味の広い人であるから、面白味を感ずる区域が、人よりも広いは当あた前りまえではあれど、随分意外に思うことも多かった。
鍬くわ形がた
斎けいさいや上うえ田だこ公うち長ょうの略画の版本など吾々は児供の玩がん弄ろう品と思っていたくらいであるに、ここの趣向が面白い、ここがうまいなどとしきりと面白がっていた、ある時などは、一枚五厘ずつのオモチャ絵紙の、唐紅かなにかでひた赤く染そめたやつを二、三枚、唐紙の鴨かも居いに張つけて眺めていられ、しきりと面白い理由を説明して聞かせられた、先生はオモチャがすきだなどと人々みやげに買うてゆくようになったのも、何でも面白がったところから起ったのである、オモチャがことにすきであった訳ではない。
絵画についての嗜しこ好うは次第に強烈になって、絵であればどんなものでも面白がって見るようで、ある時陸くが翁の娘の六ツばかりになる児が、書いた絵をこんなに面白いがどうだと見せられたこともあった、晩年自分で絵を画くようになってからは、一層嗜好の熱度を高めた、渡わた辺なべ南なん岳がく草花の巻物に狂気じみたことをやったに見てもその熱度が判る、もう長くは生きていぬと承知しながら、是ぜ非ひその草花の絵をわが物にしたいという執念、何という強烈な嗜好であろう、趣味の興快に乗じては自個の命を忘れるのである、自分の字がいやになったから、少し仮名文字を習ってみたいが、善よい手本はあるまいかと問われたのも、逝去二月ばかり前のことであった、
おかしく気取って死際を飾ろうとするような手合とはまるで違っているかと思われる。
趣味を貪むさぼっては飽くことを知らぬという調子であったから、日夕の飲食にも始終趣向趣向といって居った、まして二、三人の会食でもやるとなれば、趣向問題が湧わき返ったものである、振ふるったの振わぬのと翌日の談話にまで興を残したくらいであった、予は随分度数多く参勤した方であるが、文章や歌俳についてこれは得意だなどという話はついに聞かなかったけれど、根岸へ西洋料理屋が出来て、客に西洋料理を御ごち馳そ走うすることが出来また一品でも取寄せて食うことが出来るといっては、そんなことをしきりと得意がって居られたり、また骨ほね抜ぬき鰌どじょうは根岸のが甘いなといえば、これは近頃得意さなどと悦ばれたり、こんな調子で些ささ細いなことにもすぐ興に乗って面白がられる、何事によらず三、四の人が集って興に入る時といったら、真に愉快な風に見えるので、集った人も深く愉快を感ずるのが常であった、ある時などよほど可笑かったことがある。
たしか明治三十五年の春であったと思う、追々と病体衰てくるので、人々種々と慰いし藉ゃの道を苦心して居る時であった、予も夕刻かけて訪問すると、河東、寒川の両君が居られて、きょうは高浜が、女おん義なぎ太だゆ夫うを連れてくるから聞いてゆけとのことであった、先生もやや興に乗ってきているので、おひるからはすこぶる工合がよいとのことで、しきりと談笑していられた。
やがて高浜君が来る、妻君も児供をつれてくる、河東の妻君もくる、陸翁の令嬢達が六人ずらりと這は入いってきて並ぶ、いつのまにか日も暮れて明あかしがついた、三、四台の車が門前へ留った、小声の話声がする、提ちょ灯うちんがちらつく、家の人達は皆立っている、門の扉がカタンカタンしてどうっと人が這入ってくる、根岸庵空前の賑にぎわいである、予が先生、僕の方であるとほとんど婚礼という感じですナアというと、先生は、
松山辺でいえば葬式の感じさ、といって松山の葬式の話などしている内に、太夫連は上り鼻の隣座敷で用意をやっていたらしく、床の正面に蒔まき絵えの見台の紫半染の重々しい房を両端に飾ってあるやつが運出された、跡から師匠の老婆次に鳩はと羽ば色か何かの肩衣つけた美人の太夫が出てきて席に就いた、この時予は先生の頭の後方に座して居ったので、先生が思わず拍手しているのが見えた、それがよほど滑稽で今でも思い出すたびに独笑するのであるが、寐返りもよく出来ぬという時であるもの、拍手したとて、どうして音がするものか、かさりとも音がしないじゃないか、予は可おか笑しくてたまらなかったが、先生はなかなか本気でいるので放笑する訳にもゆかず、ようやく口を掩おおうてこらえたのであった。
先生が物に興ずること、いつでもこんな調子である、二人の太夫の内一人はすこぶる美児であったといえば、先生はランプの影に遮られて見えなく、それは残念であったなどと大おおいに笑った、とてもこれが半死の病人と思えようか、烈しく興味を感じてはほとんど病を忘れて了しまうのである、
かくのごとく些ささ細いなことの内に、先生の大詩人たる性格が躍如として顕われている、われ自ら深く興に入って製作これに従うという順序になっている、先生の文章歌俳が一見平凡なるごとくであってかえって常に人を動すの力があるというも全く以上のような理由に基づくのであろう、事実の上に興味を感じた訳でなく、筆の先に文字の巧たくみを弄もてあそんだところで、到底読者の感興を促し得るものでない。
正岡を宗とする人は、どうかその名を宗とせずにその実を宗として貰もらいたいものだ、歌俳以外文章以外のことは、よしそれが文学と密接の関係あることでも、大抵は冷淡に他人視しているものが多い、そういう人は少しくらい歌が出来俳句が出来ても、それは決して正岡宗の人ではない、前にもいうた通りで正岡の絵画に対する嗜しこ好うの強烈なことついに自分で書くまでになった一事でも知れる、正岡を宗とせる歌人俳人中にも、絵画に対し時間と銭とを惜おしまぬだけの嗜好を持って居る人が幾人あろうか、先生の趣味嗜好が多くの歌人俳人と何ほどその厚薄を異にして居ったか、はなはだしいのは歌人俳句に冷淡に俳人歌に冷淡な人さえあると聞くは情ないといわねばならぬ。そんな人は断じて正岡宗の人ではない。
人には誰にも数す寄き不ぶ数す奇きがある、正岡は一体画が最もすきであったのだ、正岡が好んだからとて人にも好めと強いるは無理だというかも知れぬ、しかし文学と美術との関係が少しでも解っていれば、歌や俳句は面白いが絵はあまり面白くないなどいうことのあるべきはずがない、絵画の嗜好を欠いているとすれば、歌や俳句も未だ解っていないことを自白すると同じである。先生の詩人たる所ゆえ以んを知り先生の作物の価値を知らんとするならば、まず先生の趣味嗜好を研究してみるが、最も根本的で、そして近道であろう。
︹﹃馬酔木﹄明治三十七年五月五日︺
![※(「くさかんむり/惠」、第3水準1-91-24)](../../../gaiji/1-91/1-91-24.png)
「病牀六尺」六月二日
余は今まで禅宗のいわゆる悟りということを誤解して居た。悟りということはいかなる場合にも平気で死ぬることかと思って居たのは間違 いで、悟りということはいかなる場合にも平気で生きて居ることであった。
この文については先生もやや得意であったらしかった、平生先生は自分に対し世間から称誉的の批評などがあっても、ついぞ悦ばれたようなことはなかった、ただこの文について当時真宗派の雑誌、﹃精神界﹄というのが大おおいに先生の言に注意した賛同的の批評をされた時に、折おり柄から訪問した予にその﹃精神界﹄のことを話され、半解の人間に盲目的の賛詞をいわるるくらいいやなことはないが、また﹃精神界﹄などのように充分にこちらの精神意義を解して居ての賛評は、知己を得たような心地で
しい云々、
これを話頭としてこの日は、その悟りということにつきすこぶる愉快な話をした、その時のこと今日充分には記憶して居ないが、大要こうであった。
予はまず、私は彼かの先生の文について非常な興味を感じました、悟りということとは少し見当が違うかも知れませんが、自分にも多少の実験がありますので一層愉快に拝見しました、私は彼の文を読んで先生は実に大剛の士であると思ったのです、大おお槻つき磐ばん渓けいの﹃近古史談﹄というのに、美み濃のの戦いくさに敵大敗して、織お田だ氏の士池田勝三郎、敵の一将を追うことはなはだ急なりしが竟ついに及ばずして還る、信長勝三にいう、曰いわく、今の逃将は必ず神子田長門である、およそ追兵のはなはだ急なる時に方あたっては、怯きょ懦うだの士必ず反撃して死す、死せずして遠く遁のがる、大剛者にあらざればあたわず、既にしてはたして神子田であったと、あります、
平気で生きて居ると平気で逃るとは趣おもむきがやや同じで﹇#﹁同じで﹂は底本では﹁同しで﹂﹈あって、平気で生きている方が、よほど難事であるように思われます、敵に追われたとてその敵がもし自分より弱い奴でもあれば、更に遁のがるることが出来るまた充分に逃げおおせる見込があるとすれば、恐怖心に襲われないで、平気で逃げることも出来る訳であるが、死という奴に追って来られたばかりは、遁るる見込みが立たないから、どうしても恐れずに居られない訳である、その死という奴が一歩の背後にまでやって来ている際にも、一向その死ということを苦にせず、なお平気で吾わがしたいことをなして生くるまで生きていることは、単に勇気ばかりでは出来ない、勇気以上の悟りがなければ出来ないのであろう、単に悟ったというばかりでもどうかしら、死ということを一向苦にせないだけの覚悟と精神修養とがなければ出来ないことかと思います、してみると神子田長門の剛勇は未だ悟りには遠い訳でありますが、信長も面白い観察をやるじゃありませんか予も一笑したのであるが。
先生もすこぶる話興に入って、そんなことがあったか、そりゃ面白い話だ、信長もうまいことをいうているなアちょっと悟ったところがある、さすがに英雄だ話せるなどいって笑われ、それから君の実験談というのはとあった、
さよう私の実験というは、犬に対する悟りで、私は児供の時分に、犬くらい恐しいものはなかったです、はは先生もそうでありましたか、外村へ使つかいなどにゆく犬の奴が意地悪く森の蔭かげなどからいつでも出てくるもうそれが恐おそろしくてたまらなかった、十五、六歳の頃までも犬を恐れました、それでいつの間にかこの犬に対する悟さとりを開いたのです、犬が吠ほえる彼れ始めは熱心でなく吠ほえている、その機先を掣せいして、こちらから突然襲撃するのです、何空くう手しゅでもかまわないです、彼の咽いん喉こう部に向って突貫をやるです、この手しゅ断だんをやればどんな犬でも驚鳴敗走再び近寄っては来ません、この手断を覚てから犬に対する恐怖心全くなくなりました、さあこうなってくると時に犬を撃打して興味を弄もてあそぶようになりました、
犬が吠る見ぬふりをして居て、成なる丈たけ犬の己れに近づくを待って突然反撃、杖で撃つか下駄で蹴けるのです、たとい殺さぬまででも吠られた腹いせがすぐ出来てすこぶる愉快なものであります、それが今一歩進すすんできては、犬の吠えるなどを気にすることが馬鹿らしくなってきたのです、犬が何ほど吠ほえても人に噛かみつくものでない、よし噛みついたところで何でもないということになって、その後はいくら犬が吠えてきても平気で跡も見ないで歩くようになりました、犬が飛びつくかと思うように跡から吠えてきても、一向平気でそれを苦にもせずに歩き得る人はちょっと少くないでしょう私はこれも一つの悟りかと思います、先生が死に追われて平気で生きているのと、私が犬に吠えられながら平気で歩いてるのと、いささか不倫な比較でありますが、趣きがちょっと似ているじゃありますまいか、
予の言の終るを待って先生は、
ナポレオンの兵法は、敵国が未だ兵力を集中せない即すなわち戦闘準備の整ととのわない虚に乗じて、急きゅ馳うち電撃これを潰かい乱らんせしめるのである、ネルソンの兵法はそうでない、敵をなるたけ手近に引寄せておいて掩えん撃げき殺闘敵を粉ふん韲さいするにあるのだ、君の犬に対する手段は、始めはナポレオンの兵法で後にネルソンの兵法に進んだのだ、どちらかといえば、ナポレオンは未だ敵を恐れているが、ネルソンはまるで敵を呑のんでいる、君の犬に対する悟非常に面白い、孫子の兵法は戦わずして敵を屈するを最上の策としてある、君の悟りは大勢を観取して敵を相手にせぬところまで進んだのだ面白い、ナポレオン、ネルソン以上だアハハハハハ、戦争は知の至らざる結果である、藤原の保昌が袴はか垂まだれに追われて笛を吹いていたのも、君が犬に吠られて平気で歩いていたのも全く同意義である、禅宗の悟りというのは少しそれとは違うのであろう、神子田や保昌などの行為は共に知勇の範囲を脱しないのだ、真の悟りというは知勇以上でなければならぬ、事の大小はとにかく、何事も悟るところがあってなすことは興味があって面白い、先から先と話のつくる期を知らずという有様で実に愉快であった。
︹﹃馬酔木﹄明治三十七年七月十五日︺
﹃竹の里人選歌﹄に対して、﹃ほととぎす﹄や﹃帝国文学﹄の批評中に、子規子の標準も年とともに進歩したのであろうに前年の選歌をそのまま輯あつめて本にされては、かえって子規子も迷惑じゃあるまいか、とか、そんなことをしては子規子に叱しかられはせまいか、などというような詞が見えるが、予が生前に子規子から聞いた話などに比べて考えてみると、そんなことをいうは、あまり穿うがち過ぎた考え過すごしでいわば余計な心配というものじゃあるまいかと思う、全体﹃竹の里人選歌﹄というは、題詞にも断ってある通り、歌壇においての子規子の事業の半面を世に伝うるが同書発刊の目的である、そうでない、新聞によって伝ってはいるけれど、新聞では散逸するから版本にして後に遺そうというのが目的である、
なるほど半なかば以上の辺には随分拙ない作品も雑まじっている、しかしながら佳作もまた決して少くはない、世の中にいかなる事業でも、第一期の成績を二期もしくは三期の程度から顧みてみれば、意に充たないところの出てくるは、普通のことで当あた前りまえの理屈である、どんな偉人の事業でも決して免るることの出来ないものであろう、独り子規子の事業に、それがあることを怪あやしむに及ばぬことじゃないか、世間普通のことをありのままに後世に伝えたとて何にも子規子が迷惑に思う訳はない、吾々の考かんがえではなまじ手をつけて余計なことをするよりは、ありのままを伝て世人の判断を自由にするがかえって子規子に忠なる所ゆえ以ん、文壇に忠なる所以であると信ずるのである。いわんや、第三回の募集の時にすら先生は既に左のごとくに云うているのである、
![※(「口+喜」、第3水準1-15-18)](../../../gaiji/1-15/1-15-18.png)
前略、古来小区域に跼きょ蹐くせきして陳ちん套とうを脱するあたわざりし桜花がいかに新鮮の空気に触れて絢けん爛らんの美を現したるかは連日掲載の短歌を見し人の熟知するところなるべし。かつその語法句法の工夫は一段の巧を加え文字の斡あっ旋せんはよくいいがたき新意匠を最も容易に言い得るに至れり。特にその中の傑作と称すべきもの幾首は優に古人を凌ぎて不朽に垂るるに足る。以下略
﹃帝国文学﹄の記者はしばらく置く、わが虚子君はなおこれらの文章をも子規子のために抹却するをよしと思わるるであろうか、﹁優に古人を凌ぎて不朽に垂るるに足る﹂と子規子がいうても新聞の散逸に任しておいたならば、どうして不朽に垂るることが出来ようか、虚子君が子規子の精神を推測する資格がありとすれば、予といえども幾分その資格があるはずだ、予は一夜夢に先生に見まみえてこのことを問うた、先生はいう、虚子が何をいう、余計な手入などせぬがかえって
しいのだ。
予は自ら慰めてこんなことをいうものの、子規子没後は虚子、碧梧桐と歌われているその虚子君の口から、子規子が迷惑なるべくやに思わるといわるることを予ははなはだ口惜しく思うのである、親友に敬意を欠くの恐れがあるからあまり理屈はいうまい、ただ生前先生から聞いた二、三の話を紹介して、世人の判断に任せておく。ある日話のついでに、
先生私は二、三年前に作った歌は皆反古にしてしまおうかと思います、実に自分ながらいやになって遺しておくのが気になりますからというと、
いやそうでないやはり遺しておく方がよい、僕などはことごとく記して取ってある、どんな人でも始めから上手ということはない、段々と進歩してくるのが当前だ、古いのを出して見ると自分にも非常に変ってきたことが判って面白い、また人に見せるようなことがあっても決してこれが恥になるものでない、初期のものであるもの拙なさを怪しむことはない、それはまた自選などして公にする場合はもちろん別であるけれど、自然に自分の初期の作物が後世に伝ったとて少しも苦にすることはない、芭蕉の句などには見れば駄句が多い、佳句といったら二百句はあるまい、しかし芭蕉の重みがその駄句のために減ずる訳でない、かえって多方面に大きいところが見える、﹃金きん槐かい集しゅう﹄などでもそうである、佳作といったらば二十首か三十首恐くは三十首を越えまい、それでも右大臣は勝れた歌人というに妨げないのだ、初めの内の作物が後に伝わるを恥辱を遺すように思うは狭い考である、
それからまた別の時であるがこんな話も聞いた。
杜と子し美びと云えば云うまでもなく、盛唐一、二の大詩人であるから、その詩集は金玉の佳かじ什ゅうで埋っているかのように思う人もあろうが、その実駄作も随分あるというは苦労人間の定説であるとの話だ、それで杜子美ともあるものが、どうしてそんな駄作を書いておいたかとの疑いもあるけれど、杜子美先生一向平気で出来たまま書いておいたのが、伝つたわった訳で、一方より見るとそれがかえって杜子美の大きいところであるとのことだ、駄作の混じているために、杜子美の詩集の価値が少しも減じないのみか、かえってそれがために杜子美の杜子美たる所ゆえ以んが顕われて居るというは妙でないか、宋詩人︵名を忘れた︶に非常な杜子美崇拝家があって、杜子美の長所を極力学んだ、その詩集を見るとほとんど杜子美に迫っている、それで子美の好いところばかりを学んだのであるから、かえって杜子美集のごとき駄作が一首もない、さあそんならこの人の詩集は子美詩集に勝っているかというに、とてもそんな訳にはゆかぬ、よいところばかりを学んだのだから、疵きずもないかわりに極めて狭い、子美集のごとく変化がなく、多方面でなく奥がなく従したがって重みがないという話だ、それであるから歌の選などをするにはなるたけは趣味多方面に渡らねばならぬ。
これらの談話を一々至言と感じた予は四、五年を経過した今日になってもなお明あきらかに記きお臆くしているのである、﹃竹の里人選歌﹄なども、先生存生中に自ら選び直さるるならばとにかく、先生歿後において吾々が漫みだりに取捨をなすごときはもってのほかであると信じ、またこれが万々先生に背くのでないと固く信じているのである。
もう一つ言い添そえておきたいのは、当時の先生の病体についてである、明治三十三年の夏から歌の会、俳句の会も出来なくなった、三十四年の春になっては寝返りも出来なく顔を自分で拭くことも出来なかった、体を少しでも動うごかすたびにウンイウンイと呻うめきの声を漏らされた、この時分にどんな風にして歌を選ばれたか、
先生は頭を枕にぴったりと就つけて横になっていられる、母堂や令妹が枕許に坐していて、投稿の紙を一枚一枚先生の顔の前へ出す、先生はねながら見て居って筆を右の手に持ち抜きの歌に点をつけるのである、もちろん抜いた歌は令妹が写すのだ、一枚見ては呻き二枚見ては呻き、筆を措おいて中途に止めてしまうことも幾度あるか知れぬ、読者諸君、﹃竹の里人選歌﹄の三分の一というものは以上のごとき状況によって選ばれたものである、先生なお長らえておられたらば、言うまでもなく標準は進歩したであろう、しかしながらかの選歌は先生の手の動くまでやった事業であるから致方がないのである。
︹﹃馬酔木﹄明治三十七年八月二十五日︺
![※(「口+喜」、第3水準1-15-18)](../../../gaiji/1-15/1-15-18.png)