師を失いたる吾々
伊藤左千夫
貴(きぼ)墨(く)拝見仕(つかまつり)候、新(あらた)に師を失いたる吾々が今日に処するの心得いかんとの御(おた)尋(ずね)、御念入の御問同(どう)憾(かん)の至(いたり)に候、それにつき野生も深く考慮を費したる際なれば、腹臓なく愚(ぐぞ)存(ん)陳(ちん)じ申(もうす)べく候
正岡先生の御逝去が吾々のために悲哀の極みなることは申(もうす)までもなく候えども、その実先生の御命が明治三十五年の九月まで長延び候はほとんど天の賜(たまもの)とも申すべきほどにて、一年か一年半は全く人の予想よりも御長生ありしことと存じ候、しかるを先生御生存中に充分研究すべきことも、多くは怠慢に付し去り、先生の御命もはや長いことはないと口にいいつつ、なおうかうかと千載逢(あ)いがたき光陰をいたずらに空(くう)過(か)しながら、先生の御逝去を今更のごとく御驚きとは、はなはだ酷なる申(もう)条(しじょう)ながらあまり感服致しがたく候、
もちろん先生が十年御長生あり候とて偉人ならざる吾々は、もうこれで先生に捨てられても大丈夫安心じゃと申すようなことは有(ある)間(まじ)敷(く)と存(ぞんじ)候、いつになっても先生に逝かれた時は必ず狼(ろう)狽(ばい)して驚くことは知れて居ることに候、されば今日俄(にわか)に心細がって狼狽したまう君を咎(とが)むるは少々無理かとも存候、驚もせず狼狽もせず平気で、そして先生が晩年いかなる標準をもって﹃日本﹄週報の歌を御選みありしかを、あえて考究して居るような風もなく漫然歌を詠みつつあるというごとき、人があるならば吾々のもっとも軽(けい)侮(ぶ)すべきことと存じ候、貴兄のごときは大(おおい)に先生御生前中の怠慢を悔い、今にして覚然眼ざめ御奮励との仰せ同感至極に存じ候、野生等とて先生御生前中決して勉強したとは申(もう)難(しがた)く顧(かえりみ)て追考すれば赤面のことのみ多く候、しかしそれは今更後悔致し候とて何の詮(せん)も無(これ)之(なく)候えば、貴兄と同様今後いかに処すべきかを定め、それによって奮励するのほかなく候、
何と申(もうし)ても先生御存生中は、真先に松(たい)明(まつ)を振りつつ御進みありて、御同様を警戒し指導し、少しく遠ざかりたる時は高所にありて差招きくれ候ことゆえ、自然に先生に依頼するの念のみ強く、知らず知らず安心して暢(のん)気(き)に不勉強致し候次第今更後悔先に立たざる恨(うら)有(みこ)之(れあり)候、松明の光常(とこし)えに消えて寸前暗黒の感に打たれ停立黙考手探りして道をたずぬるというようなる趣(おもむき)に候、うかと致し候わば元(もと)来た道へ戻るようなことなしとも極らずまことに何とも不安心の至りに候、
永遠のことは分り申さず候えども、差当り思(おも)就(いつき)たるは左の二ヶ条に候、これによって将来の針路を定め、自働的松明を得(えた)度(く)と存じ候、他の指導に依頼して暢気な行路をたどりし吾々、にわかに自動的に道を求めねばならぬ境涯、なまけては居られ申さず候、自動的と自由行動とは違(ちが)申(いもうし)候
︵一︶ 先生が数年に渡れる製作及び選評の跡に見て、前後を比較し進歩変化の様を充分に考量し、就(なか)中(んずく)晩年変化の跡は最も細心に研究して、先生が微細とする所をも探求せざるべからず、
︵二︶ 美術文学に関する書籍はもちろん哲学宗教に渡り、大(おおい)に古今の書籍を読究せざるべからず、自ら松明を作る、必ずこの方法に拠らざるべからず、
一人にして製作と批評とをかねたる大偉人を師とせる吾々がいかに幸福なりしか、この偉人を失いたる吾々がただ悲嘆して止むべきか、落胆失望して止むべきか、大偉人の門下たる名を汚すようのことあらば何の面目あって世に立たるべきか、僕不敏といえども貴兄の奮励に従い吾(わが)生のあらん限り事に従わんことを神かけて誓約可(いた)致(すべく)候、末文に今一語申(もう)添(しそえ)たきは、以上の二ヶ条より辛じて松明を得て針路を探り候ともいかにして吾々の満足する批評者を得(えも)申(う)すべき、このことについては失望の嘆声を発するのほか何らの考(かんがえ)も浮び申さず、嗚(あ)呼(あ)、吾々は常(とこし)えに批評者を得ることあたわざるか、貴兄の意願(ねがわ)くは聞くことを得ん、妄言多罪
明治三十五年十月二十二日
︹﹃心の花﹄明治三十五年十一月一日︺
底本‥﹁子規選集 第十二巻 子規の思い出﹂増進会出版社
2002︵平成14︶年11月5日初版第1刷発行
底本の親本‥﹁子規全集 別卷二 回想の子規一﹂講談社
1975︵昭和50︶年9月18日第1刷発行
初出‥﹁心の花 第五卷第十一號﹂大日本歌學會
1902︵明治35︶年11月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる﹁ヶ﹂︵区点番号5-86︶を、大振りにつくっています。
入力‥高瀬竜一
校正‥きりんの手紙
2019年8月30日作成
青空文庫作成ファイル‥
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫︵https://www.aozora.gr.jp/︶で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
●表記について
●このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
●図書カード