モオリス・ド・ゲランの作品は、その製作過程においてその效果を考へたやうなところの少しも感ぜられない、稀有なる作品の一つである。彼はその生前には、ただ、ニコラス・ド・フリエに就いての小論文を發表したにすぎない。そしてその﹁サントオル﹂は彼の死後一年ほどして、ジョルジュ・サンドのかなり野心のあつた紹介によつて﹁兩世界評論﹂︵一八四〇年五月十五日︶にはじめて公にせられたのであつた。 その當時モオリスに就いてジョルジュ・サンドの手に委ねられた簡單な記録のうちに、いまもなほ、此の詩人の一生は盡きてゐるといつていい。ただ、その一定の限界をもつた空間がいよいよ充實して來てをり、かつまた、いくらか躊躇しながら引き延ばされた各の線が、互に相會して、挑いどみあひ、絡からまりあつて、そこにいかにも詩人らしい運命のアラベスクを織り出しはじめてはゐる。 おそらく詩人といふものを誤りなく見ようとするならば一切の運命の外に立たせなければならない。詩人となるや、彼は曖昧模糊な、不安定な存在となつてしまふ。英雄が運命によつてはじめて眞實なものとなるがごとく、詩人は運命によつて虚妄なものとなる。一方は人から人へと語り繼つがれて不朽なものとなり、一方は何んのわきまへもなしに言ひ傳へられるのである。モオリス・ド・ゲランの場合においても、我々はさまざまな探索の困難な仕事をなすべきかどうか、いささか疑問である。彼の小を止やみなき生のかたはらには、右側にも左側にも、有力な證人が控へて居つたとは云へ。といふのは、その友人と姉とがモオリスのために︵そして彼ひとりのために︶一種の﹁日記﹂を書いたのである。そしてその美しい青年は、この二つのかなり性質のちがつた證言の間に、幾分、ワトオの﹁うアンつデイけフエもラのン﹂と題せられた繪に見るごとき均衡のうちに立つてゐるのである。 もしもケエラの小さな館のいつも同じ部屋にゐるユゥジェニイと、あの虚榮の權化のやうなジュウル・バルベイ・ドオルヴィリとの二人が、共に彼のために日記を書いてゐたといふことを思つてみると、おほよそゲランの内部の擴がりの見當はつくはずだ。それからまた、バルベイの死後公にせられた﹁メモランダ﹂は、彼の初期の詩﹁アマイイド﹂とすこしも矛盾はしてゐないのである。ゲランは、ここでは、サムゴッドといふ名のもとに、その素ばらしさをかなり誇張せられて、姿をあらはしてゐる。そしてその友人は、いはば、かういふ詩人の出現を目のあたりにして、いかにも大業な驚きかたをしてゐるのだ。 たとひその年代の推定とか新解釋とかが一層しつかりしたものとなり、遂に我々を納得せしめるやうにならうとも、やはり依然として此の﹁サントオル﹂の詩人の周圍には一種異樣な傳説めいたものがまつはりついてゐるだらう。年若くして逝つたものの傳説が、夭折者のまはりをとりかこむ人ひと言ごとが、彼等を覆ひかくすほどの長い歎きが、彼等を呼びかへさうとする聲、自然のなかにまで彼等を求めてやまない古代的な叫びが、――その歌のなかに彼等は一しよに入れられながら、互の姿を見ることのないあのリノス挽歌が。 註。これはライナア・マリア・リルケがモオリス・ド・ゲランの﹁サントオル﹂を譯したとき︵一九一一年︶その卷末に附せられた註︵Anmerkung︶である。