林は夜の空気の底のすさまじい藻もの群落だ。みんなだまって急いでゐる。早く通り抜けようとしてゐる。
俄にはかに空がはっきり開け星がいっぱい耀きらめき出した。たゞその空のところどころ中風にでもかかったらしく変に淀よどんで暗いのは幾片か雲が浮んでゐるのにちがひない。
その静かな微光の下から烈はげしく犬が啼なき出した。
けれども家の前を通るときは犬は裏手の方へ逃げて微かすかにうなってゐるのだ。
一ちょ寸っと来ない間に社務所の向ひに立派な宿ができた。ラムプが黄いろにとぼってゐる。社務所ではもう戸を閉めた。
︵こんや、二時まで泊めて下さい。四人です。たいまつがありますか。わらぢがありますか。それから何かよるのたべものがありますか。ほう、火がよく燃えてるな。そいぢゃ、よござんすか。入りますよ。︶
︵さあ、二時までぐっすりやるんだぜ。ねむらないとあしたつかれるぞ。はてな、となりへ誰たれか来てゐるな。さうだ、土間に測量の器械なんかが置いてあった。︶
青いきらびやかなねむりのもやが早くもぼんやりかゝるのに誰かどしどし梯はし子ごをふんでやって来る。隣りの室へやをどんと明ける。
﹁やあ旦だん那なさん。ぶん萄どし酒ゅ一杯やりなさい。﹂
﹁葡ぶん萄どし酒ゅ? 葡ぶだ萄うし酒ゅかい。お前がつくった葡萄酒かい。熱あたためてあるのかい。﹂
﹁まあ一杯おあがりなさい。さうです。アルコールを入れたのです。﹂
﹁アルコールを入れたのか。あとで? 作ってから?﹂
﹁さうです。大丈夫ですよ。本当のアルコールです。見けん坊ばう獣医から分けて貰もらったのであります。﹂
﹁どうして拵こさへたんだい。野葡萄を絞ってそれから?﹂
﹁いゝえ、あとで絞るのです。まあ、おあがりなさい。大丈夫であります。﹂
﹁さうか。そんなら貰はうか。おっと、沢山だよ。ふん、随分入れたな、アルコールを。﹂
﹁ずゐぶん瓶びんを沢山はじけらせました。﹂
﹁ふん。﹂
﹁砂糖を入れないでもやっぱり醸わきます。﹂
﹁さうかい。砂糖を入れたら罰金だらう。おい、吉田、吉田。吉田を呼んで来て呉くれ、あ、いゝよ、来た来た。おい吉田。葡萄酒ださうだ。飲まないか。﹂
﹁さうですか。おや。熱くしてあるのか。どれ、おい沢山だ。渋いな。﹂
ねむけのもやがまた光る。
﹁あしたは騎兵が実弾射撃に来るさうぢゃないか。どこへ射うつのだらう。﹂
﹁笹ささ森もり山、地図を拝見、これです。なあに私等の方は危くありませんよ。﹂
﹁しかし弾た丸まが外それたら困るぜ。﹂
﹁なあに、旦那さん。そんたに来ません。そぃつさ騎兵だん﹇#﹁ん﹂は小書き﹈すぢゃぃ。﹂
ふん、あいつはあの首に鬱うこ金んを巻きつけた旭あさ川ひかはの兵隊上りだな、騎兵だから射的はまづい、それだから大丈夫外それ弾丸は来ない、といふのは変な理りく窟つだ。けれどもしんとしてゐる。みんな少し酔って感心したんだな。
﹁今日は君は楽だったらう。﹂
﹁えゝ、しかし昨日は鞍くら掛かけでまるで一面の篠しの笹ざさ、とても這はふもよぢるもできませんでした。﹂
﹁いや、おれの方だってさうだ。さあ寝るかな。あしたは天気は大丈夫だな。四つまでできるかな。﹂
﹁えゝ。﹂
﹁やっ、お邪魔しぁんした。まだ入って居をります。置いて行きます。﹂
﹁おい、持って行け、持って行け、もう飲まんぞ。﹂
さうだ。帝室林野局の人たちだ。
たしかにこれは夢のはじめの方の青ぐろい空だ。山の中腹から裾すそ野のに低く雲が垂れ、その星明りの雲の原の上でごろごろと雷が鳴ってゐる。実に静にうなってゐる。夢の中の雷がごろごろごろごろうなってゐる。雲の下の柏かしはの木立に時々冷たい雨の灌そそぐのが手に取るやうだ。それでもやはり夢らしい。
何時かな。もう二時半だ。少しおくれた。いや、丁度いゝ。寒い。
︵おい。もう二時半だ。二時半だ。行かう行かう。︶寒くてガタガタする。みんなうらうら仕度をしてゐる。ゆふべのつゞきの灰色ズックの鞄かばん、ラムプの光は青い孔くじ雀ゃくの羽。
︵いゝか。火がついたか。さあ出よう。たいまつはまん中だぞ。寒いな。︶
空の鋼は奇麗に拭ぬぐはれ気圏の淵ふちは青あを黝くろぐろと澄みわたり一つの微みぢ塵んも置いてない。
いっぱいの星がべつべつに瞬いてゐる。オリオンがもう高くのぼってゐる。
︵どうだ。たいまつは立派だらう。松の木に映るとすごいだらう。そして、そうら、裾野と山が開けたぞ。はてな、山のてっぺんが何だか白光するやうだ。何か非常にもの凄すごい。雲かもしれない。おい、たいまつを一ちょ寸っとうしろへかくして見ろ。ホウ、雪だ、雪だ。雪だよ。雪が降ったのだ。やっぱりさっき雨が来たのだ。夢で見たのだ。雪だよ。︶
空気はいまはすきとほり小さな鋭いかけらでできてゐる。その小さな小さなかけらが互にひどくぶっつかり合ひ、この燐りん光くゎうをつくるのだ。
オリオンその他の星座が送るほのあかり、中にすっくと雪をいたゞく山せん王わうが立ち黒い大地をひきゐながら今涯はてもない空間を静にめぐり過ぎるのだ。さあみんな、祈るのだぞ、まっすぐに立て。
(無上甚深微妙 法 百千万劫 難遭遇
我今見聞得受持 願解如来 第一義)
我今見聞得受持 願解
力いっぱい声かぎり、夜風はいのりを運び去りはるかにはるかにオホツクの黒い波間を越えて行く。草はもうみんな枯れたらしい。たいまつの火の粉は赤く散り、大おほ熊ぐま星ぼしは見えません。
︵ここのところでよく間違ふぞ。左を行くと山みちなんだ。鳥居があるので悪くするとそっちへ行くぜ。︶みちは俄にはかに細くなったり何本にもわかれたり。黒い火くわ山ざん礫れきと草のしづく。
︵いつもなら火を見て馬がかけて来るんだが今はもうみんな居ないんだ。すっかり曇ったな。︶
みちが消えたり又ひょいと出て来て何本にも岐わかれたり。
柏かしはの枯れ葉がざらざら鳴ってゐる。
なんだか路みちが少しをかしい。もう大分来てゐるのだが。
︵向ふにどてがあるかどうか一ちょ寸っと見て来よう。おい。ついて来るな。そこに居ろ。何だ。たいまつが消えたな。そこに居ろよ。はなれるな。ずゐぶん丈の高い草だ。胸きりある。︶
︵どてが無いよ。この路に沿ってゐる筈はずなんだ。事によったら間違ったぞ。もう少し行って見よう。けれども駄だ目めだ。やっぱり駄目だ。こんな変な坂路がなかった筈だ。少し北側へ廻ったのかな。すっかり曇ったし、困ったな。仕方ない夜明け迄までに一ぺん宿へ引っ返し日が出てから改めて出掛けよう。︶
︵けれども一寸路をさがして来よう。何とか抜けられるかも知れない。曇ってさへ居なかったら見当だけつけてぐんぐん本当のみちの方へ草をこいで行けばいゝんだが。仕方ない。ますます変な所へ来てしまった。やっぱり駄目だ。さあ引っ返しだぞ、戻りだぞ。やあ、降って来た降って来た。マントのあるのは誰々だ。さあ馳かけるんだぜ。いゝか。そら。大きな岩だ。つまづくな。︶
︵ふん、あれがさっきの柳沢の杉だ。
何だ沼森の坊主め。ケロリとして睡ねむってやがる。︶
所々雲が切れて星が新らしく瞬く。
︵ははあ。こゝだ。こゝで間違ったんだ。仕方ない。まあ行って火をたかう。︶
山だけまだ雲をかぶってゐる。
︵おい。上等のお菓子だぜ。一つづつ分けるぞ。もうぢきだ。もう十五分。︶しかし宿でも迷惑だな。
︵路を間違へて帰って来ました。火をたきますよ。みんなきものを乾かせ。辛いな。けむりが。︶辛い。けむり。それにきものが乾かない。烟けむりがみんなそっちへばかり行く。ぱっと燃えろ。さあ、ぱっと燃えろ。
︵ああ、もう明るくなって来た。空が明るくなって来た。きれいだなあ。おい。︶
深い鋼青から柔らかな桔きき梗ゃう、それからうるはしい天の瑠る璃り、それからけむりに目を瞑つぶるとな、やはりはがねの空が眼めの前一面にこめてその中にるりいろのくの字が沢山沢山光ってうごいてゐるよ。くの字が光ってうご……。
もうすっかり暁だ。
︵お握りを焼かう。はあ、ゆふべはどうも。途中で迷って。雨は降るし。︶
︵さあ日が出たやうだ。行かう行かう。さあ飛び出すんだよ。おゝ、立派、この立派。ふう。︶
日の光は琥こは珀くの波。新らしく置かれたみねの雪。赤々燃える谷のいろ。黄葉をふるはす白しら樺かばの木。苔モッ瑪スア瑙ゲート。
︵おゝい。あんまり馳かけるな。とまれ。とまれぇ。おゝい。止れったら。待てったら。︶
うん。朝の怒りは新鮮だ。炭酸水だ。
鈴すず蘭らんの葉は熟して黄色に枯れその実は兎うさぎの赤めだま。そしてこれは今朝あけ方の菓子の錫すず紙がみ。光ってゐる。