本郷区菊坂町
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九時過ぎたので、床屋の弟子の微かすかな疲れと睡ねむ気けとがふっと青白く鏡にかゝり、室へやは何だかがらんとしてゐる。
﹁俺おれは小さい時分何でも馬のバリカンで刈られたことがあるな。﹂
﹁えゝ、ございませう。あのバリカンは今でも中国の方ではみな使って居をります。﹂
﹁床屋で?﹂
﹁さうです。﹂
﹁それははじめて聞いたな。﹂
﹁大阪でも前は矢張りあれを使ひました。今でも普通のと半々位でせう。﹂
﹁さうかな。﹂
﹁お郷く国にはどちらで居らっしゃいますか。﹂
﹁岩手県だ。﹂
﹁はあ、やはり前はあいつを使ひましたんですか。﹂
﹁いゝや、床屋ぢゃ使はなかったよ。俺は大抵野原で頭を刈って貰もらったのだ。﹂
﹁はあ、なるほど。あれは原理は普通のと変って居りませんがね。一方の歯しか動かないので。﹂
﹁それはさうだらう。両方動いちゃだめだ。﹂
﹁えゝ、噛かじっちまひます。﹂
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鏡の睡気は払はれて青く明るくなり今度は香油の瓶びんがそれを受け取ってぼんやりなった。
﹁失礼ですがあなたはどちらに出ていらっしやいますか。﹂
﹁図書館だ。﹂
﹁事務員ですか。﹂
﹁いゝや、頼まれて調べてゐるんだ。﹂
﹁朝はお早いでせう。﹂
﹁朝は六時半にうちを出るよ。﹂
﹁ずゐぶんお早いですね。﹂
﹁どうせうちに居たっておんなじだ。﹂
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睡ねむ気けが忽たちまち香油の瓶びんを離れて瓦ガ斯スの光に溶けて了しまひ室へやが変に底無しの淵ふちのやうになった。
﹁丁度五分かゝりました。あなたの頭を刈り込むのに。﹂
﹁早いな。﹂
﹁いゝえ。競争の時なら早い人は三分かゝりません。﹂
﹁指が痛くなるだらう。そんなにしたら。﹂
﹁えゝ、指より手首が苦しくて堪たまらなくなります。﹂
﹁さうだらう。どうせそんなぢゃ永くは続かない。﹂床屋の弟子はバリカンを持ったまゝ手首をぶらぶらふってゐる。
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瓦斯の灯ひが急に明るくなった。
﹁僕のひげは物になるだらうか。﹂
﹁なりますとも。﹂
﹁さうかなぁ。﹂
﹁も少し濃いといゝひげになるんだがなぁ、かう云いふ工ぐあ合ひに。剃そらないで置きませうか。﹂
﹁いゝや、だめだよ。僕はね、きっと流は行やるやうな新らしい鬚ひげの型を知ってるんだよ。﹂
﹁どんなんですか。﹂
﹁それはね。実は昔の西域のやり方なんだよ。斯かう云ふ工合に途中で円い波を一つうねらしてね、それからはじを又円くピンとはねさすんだよ。こいつぁ流行るぜ。﹂
﹁今どこで流行ってゐますか。﹂
﹁イデア界だ。きっとこっちへもだんだん来るよ。﹂
﹁イデア界。プラトンのイデア界ですか。いや。アッハッハ。﹂
﹁アツハッハ。君。どうせ顔なんか大体でいゝよ。﹂
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