﹇表記について﹈ ●底本に従い、ルビは小学校1・2年の学習配当漢字を除き、すべての漢字につけた。ただし、本テキスト中では、初出のみにつける方法とした。 ●ルビは﹁ルビ﹂の形式で処理した。 ●ルビのない熟語︵漢字︶にルビのある熟語︵漢字︶が続く場合は、﹁|﹂の区切り線を入れた。 ●﹇※1〜6﹈は、入力者の補注を示す。注はファイルの末尾にまとめた。 ------------------------------------------------------------------ ハックニー馬﹇※1﹈のしっぽのような、巫ふ戯ざけた楊やなぎの並なみ木きと陶とう製せいの白い空との下を、みじめな旅たびのガドルフは、力いっぱい、朝からつづけて歩いておりました。 それにただ十六哩マイルだという次つぎの町が、まだ一いっ向こう見えても来なければ、けはいもしませんでした。 ︵楊がまっ青に光ったり、ブリキの葉はに変かわったり、どこまで人をばかにするのだ。殊ことにその青いときは、まるで砒ひ素そをつかった下かと等うの顔えの料ぐ﹇※2﹈のおもちゃじゃないか。︶ ガドルフはこんなことを考えながら、ぶりぶり憤おこって歩きました。 それに俄にわかに雲が重おもくなったのです。 ︵卑いやしいニッケルの粉こなだ。淫みだらな光だ。︶ その雲のどこからか、雷かみなりの一切れらしいものが、がたっと引きちぎったような音をたてました。 ︵街かい道どうのはずれが変へんに白くなる。あそこを人がやって来る。いややって来ない。あすこを犬がよこぎった。いやよこぎらない。畜ちく生しょう。︶ ガドルフは、力いっぱい足を延のばしながら思いました。 そして間もなく、雨と黄たそ昏がれとがいっしょに襲おそいかかったのです。 実じつにはげしい雷らい雨うになりました。いなびかりは、まるでこんな憐あわれな旅のものなどを漂ひょ白うはくしてしまいそう、並木の青い葉がむしゃくしゃにむしられて、雨のつぶと一いっ緒しょに堅かたいみちを叩たたき、枝えだまでがガリガリ引き裂さかれて降ふりかかりました。 ︵もうすっかり法ほう則そくがこわれた。何もかもめちゃくちゃだ。これで、も一いち度どきちんと空がみがかれて、星せい座ざがめぐることなどはまあ夢ゆめだ。夢でなけぁ霧きりだ。みずけむりさ。︶ ガドルフはあらんかぎりすねを延のばしてあるきながら、並木のずうっと向むこうの方のぼんやり白い水明りを見ました。 ︵あすこはさっき曖あい昧まいな犬の居いたとこだ。あすこが少ぅしおれのたよりになるだけだ。︶ けれども間もなく全まったくの夜になりました。空のあっちでもこっちでも、雷かなみりが素すて敵きに大きな咆ほう哮こうをやり、電光のせわしいことはまるで夜の大空の意いし識きの明めい滅めつのようでした。 道はまるっきりコンクリート製せいの小川のようになってしまって、もう二十分と続つづけて歩けそうにもありませんでした。 その稲いな光びかりのそらぞらしい明りの中で、ガドルフは巨おおきなまっ黒な家が、道の左ひだ側りがわに建たっているのを見ました。 ︵この屋や根ねは稜かどが五角で大きな黒電気石﹇※3﹈の頭のようだ。その黒いことは寒かん天てんだ。その寒天の中へ俺おれははいる。︶ ガドルフは大おお股またに跳はねて、その玄げん関かんにかけ込みました。 ﹁今こん晩ばんは。どなたかお出いでですか。今晩は。﹂ 家の中はまっ暗くらで、しんとして返へん事じをするものもなく、そこらには厚あつい敷しき物ものや着きも物のなどが、くしゃくしゃ散ちらばっているようでした。 ︵みんなどこかへ遁にげたかな。噴ふん火かがあるのか。噴火じゃない。ペストか。ペストじゃない。またおれはひとりで問もん答どうをやっている。あの曖昧な犬だ。とにかく廊ろう下かのはじででも、ぬれた着物をぬぎたいもんだ。︶ ガドルフは斯こう頭の中でつぶやきまた唇くちびるで考えるようにしました。そのガドルフの頭と来たら、旧きゅ教うき会ょうかいの朝の鐘かねのようにガンガン鳴っておりました。 長なが靴ぐつを抱だくようにして急いそいで脱とって、少しびっこを引きながら、そのまっ暗なちらばった家にはね上って行きました。すぐ突つきあたりの大きな室は、たしか階かい段だん室らしく、射さし込こむ稲光りが見せたのでした。 その室の闇やみの中で、ガドルフは眼めをつぶりながら、まず重い外がい套とうを脱ぬぎました。そのぬれた外套の袖そでを引っぱるとき、ガドルフは白い貝かい殻がらでこしらえあげた、昼の楊の木をありありと見ました。ガドルフは眼をあきました。 ︵うるさい。ブリキになったり貝殻になったり。しかしまたこんな桔きき梗ょういろの背はい景けいに、楊の舎しゃ利り﹇※4﹈がりんと立つのは悪わるくない。︶ それは眼をあいてもしばらく消きえてしまいませんでした。 ガドルフはそれからぬれた頭や、顔をさっぱりと拭ぬぐって、はじめてほっと息いきをつきました。 電光がすばやく射し込んで、床ゆかにおろされて蟹かにのかたちになっている自分の背はい嚢のうをくっきり照てらしまっ黒な影かげさえ落 おとして行きました。 ガドルフはしゃがんでくらやみの背嚢をつかみ、手てさ探ぐりで開ひらいて、小さな器きか械いの類たぐいにさわってみました。 それから少ししずかな心ここ持ろもちになって、足音をたてないように、そっと次の室にはいってみました。交かわる交がわるさまざまの色の電光が射し込んで、床に置おかれた石せっ膏こう像ぞうや黒い寝しん台だいや引っくり返かえった卓テー子ブルやらを照らしました。 ︵ここは何かの寄きし宿ゅく舎しゃか。そうでなければ避ひび病ょう院いんか。とにかく二階にどうもまだ誰だれか残のこっているようだ。一ぺん見て来ないと安あん心しんができない。︶ ガドルフはしきいをまたいで、もとの階段室に帰り、それから一ぺん自分の背嚢につまずいてから、二階に行こうと段だんに一つ足をかけた時、紫むらさきいろの電光が、ぐるぐるするほど明るくさし込んで来ましたので、ガドルフはぎくっと立ちどまり、階段に落ちたまっ黒な自分の影とそれから窓まどの方を一いっ緒しょに見ました。 その稲光りの硝ガラ子ス窓から、たしかに何か白いものが五つか六つ、だまってこっちをのぞいていました。 ︵丈たけがよほど低ひくかったようだ。どこかの子こど供もが俺おれのように、俄かの雷雨で遁げ込んだのかも知れない。それともやっぱりこの家の人たちが帰って来たのだろうか。どうだかさっぱりわからないのが本ほん統とうだ。とにかく窓を開いて挨あい拶さつしよう。︶ ガドルフはそっちへ進すすんで行ってガタピシの壊こわれかかった窓を開きました。たちまち冷たい雨と風とが、ぱっとガドルフの顔をうちました。その風に半分声をとられながら、ガドルフは叮てい寧ねいに云いいました。 ﹁どなたですか。今こん晩ばんは。どなたですか。今晩は。﹂ 向むこうのぼんやり白いものは、かすかにうごいて返事もしませんでした。却かえって注ちゅ文うもん通どおりの電光が、そこら一いち面めんひる間のようにしてくれたのです。 ﹁ははは、百ゆ合りの花だ。なるほど。ご返事のないのも尤もっともだ。﹂ ガドルフの笑わらい声は、風といっしょに陰いん気きに階段をころげて昇のぼって行きました。 けれども窓の外では、いっぱいに咲いた白しら百ゆ合りが、十本ばかり息もつけない嵐あらしの中に、その稲いな妻ずまの八び分ょ一う秒を、まるでかがやいてじっと立っていたのです。 それからたちまち闇が戻もどされて眩まぶしい花の姿すがたは消えましたので、ガドルフはせっかく一枚まいぬれずに残ったフラン﹇※5﹈のシャツも、つめたい雨にあらわせながら、窓からそとにからだを出して、ほのかに揺ゆらぐ花の影を、じっとみつめて次の電光を待まっていました。 間もなく次の電光は、明るくサッサッと閃ひらめいて、庭にわは幻げん燈とうのように青く浮うかび、雨の粒つぶは美うつくしい楕だえ円んけ形いの粒になって宙ちゅうに停とどまり、そしてガドルフのいとしい花は、まっ白にかっと瞋いかって立ちました。 ︵おれの恋こいは、いまあの百合の花なのだ。いまあの百合の花なのだ。砕くだけるなよ。︶ それもほんの一いっ瞬しゅんのこと、すぐに闇は青びかりを押おし戻もどし、花の像はぼんやりと白く大きくなり、みだれてゆらいで、時々は地じめ面んまでも屈かがんでいました。 そしてガドルフは自分の熱ほてって痛いたむ頭の奥おくの、青あお黝ぐろい斜しゃ面めんの上に、すこしも動うごかずかがやいて立つ、もう一むれの貝かい細ざい工くの百合を、もっとはっきり見ておりました。たしかにガドルフはこの二むれの百合を、一緒に息をこらして見つめていました。 それもまた、ただしばらくのひまでした。 たちまち次の電光は、マグネシアの焔ほのおよりももっと明るく、菫きん外がい線せん﹇※6﹈の誘ゆう惑わくを、力いっぱい含ふくみながら、まっすぐに地面に落ちて来ました。 美しい百合の憤いきどおりは頂ちょ点うてんに達たっし、灼しゃ熱くねつの花かべ弁んは雪よりも厳いかめしく、ガドルフはその凛りんと張はる音さえ聴きいたと思いました。 暗やみが来たと思う間もなく、また稲妻が向うのぎざぎざの雲から、北ほく斎さいの山下白雨のように赤く這はって来て、触ふれない光の手をもって、百合を擦かすめて過ぎました。 雨はますます烈はげしくなり、かみなりはまるで空の爆ばく破はを企くわだて出したよう、空がよくこんな暴あばれものを、じっと構かまわないでおくものだと、不ふ思し議ぎなようにさえガドルフは思いました。 その次の電光は、実に微かすかにあるかないかに閃ひらめきました。けれどもガドルフは、その風の微びこ光うの中で、一本の百合が、多分とうとう華きゃ奢しゃなその幹みきを折おられて、花が鋭するどく地面に曲まがってとどいてしまったことを察さっしました。 そして全くその通り稲光りがまた新あたらしく落ちて来たときその気の毒どくないちばん丈の高い花が、あまりの白い興こう奮ふんに、とうとう自分を傷きずつけて、きらきら顫ふるうしのぶぐさの上に、だまって横よこたわるのを見たのです。 ガドルフはまなこを庭から室の闇にそむけ、丁てい寧ねいにがたがたの窓をしめて、背嚢のところに戻って来ました。 そして背嚢から小さな敷しき布ふをとり出してからだにまとい、寒さむさにぶるぶるしながら階段にこしかげ、手を膝ひざに組み眼をつむりました。 それからたまらずまたたちあがって、手さぐりで床ゆかをさがし、一枚の敷しき物ものを見つけて敷布の上にそれを着きました。 そして睡ねむろうと思ったのです。けれども電光があんまりせわしくガドルフのまぶたをかすめて過ぎ、飢うえとつかれとが一しょにがたがた湧わきあがり、さっきからの熱った頭はまるで舞ぶと踏うのようでした。 ︵おれはいま何をとりたてて考える力もない。ただあの百合は折おれたのだ。おれの恋は砕けたのだ。︶ガドルフは思いました。 それから遠い幾いく山やま河かわの人たちを、燈とう籠ろうのように思い浮うかべたり、また雷の声をいつかそのなつかしい人たちの語ことばに聞いたり、また昼の楊がだんだん延びて白い空までとどいたり、いろいろなことをしているうちに、いつかとろとろ睡ろうとしました。そしてまた睡っていたのでしょう。 ガドルフは、俄かにどんどんどんという音をききました。ばたんばたんという足あし踏ぶみの音、怒どご号うや潮ちょ罵うばが烈はげしく起おこりました。 そんな語はとても判わかりもしませんでした。ただその音は、たちまち格かく闘とうらしくなり、やがてずんずんガドルフの頭の上にやって来て、二人の大きな男が、組み合ったりほぐれたり、けり合ったり撲なぐり合ったり、烈しく烈しく叫さけんで現あらわれました。 それは丁ちょ度うど奇きれ麗いに光る青い坂さかの上のように見えました。一人は闇の中に、ありありうかぶ豹ひょうの毛けが皮わのだぶだぶの着物をつけ、一人は烏からすの王のように、まっ黒くなめらかによそおっていました。そしてガドルフはその青く光る坂の下に、小さくなってそれを見上げてる自分のかたちも見たのです。 見る間に黒い方は咽の喉どをしめつけられて倒たおされました。けれどもすぐに跳ね返して立ちあがり、今こん度どはしたたかに豹の男のあごをけあげました。 二人はも一度組みついて、やがてぐるぐる廻まわって上になったり下になったり、どっちがどっちかわからず暴れてわめいて戦たたかううちに、とうとうすてきに大きな音を立てて、引っ組んだまま坂をころげて落ちて来ました。 ガドルフは急いでとび退のきました。それでもひどくつきあたられて倒れました。 そしてガドルフは眼を開いたのです。がたがた寒さにふるえながら立ちあがりました。 雷はちょうどいま落ちたらしく、ずうっと遠くで少しの音が思い出したように鳴なっているだけ、雨もやみ電光ばかりが空を亘わたって、雲の濃のう淡たん、空の地形図をはっきりと示し、また只ただ一本を除のぞいて、嵐に勝かちほこった百合の群むれを、まっ白に照てらしました。 ガドルフは手を強く延ばしたり、またちぢめたりしながら、いそがしく足ぶみをしました。 窓の外の一本の木から、一つの雫しずくが見えていました。それは不思議にかすかな薔ば薇らいろをうつしていたのです。 ︵これは暁あけ方がたの薔ばら薇い色ろではない。南の蝎さそりの赤い光がうつったのだ。その証しょ拠うこにはまだ夜中にもならないのだ。雨さえ晴れたら出て行こう。街道の星あかりの中だ。次の町だってじきだろう。けれどもぬれた着物をまた引っかけて歩き出すのはずいぶんいやだ。いやだけれども仕しか方たない。おれの百合は勝ったのだ。︶ ガドルフはしばらくの間、しんとして斯う考えました。 ------------------------------------------------------------------ ●入力者注 ※1 ハックニー=馬の種類。イギリス原産で、主に馬車用に使われた。 ※2 顔料=亜砒酸を使った、毒性の強いパリグリーン︵エメラルドグリーン︶を指す。 ※3 黒電気石=鉱石の1つ、﹁鉄電気石﹂を指す。ただし、角は六角。 ※4 舎利=本来は釈迦の骨。ここでは仏舎利塔を指す。 ※5 フラン=織物の1つ、フランネル。 ※6 菫外線=紫外線。 ------------------------------------------------------------------