青ざめた薄明穹の水底に少しばかりの星がまたたき出し、胡桃や桑の木は薄くらがりにそっと手をあげごく曖昧に祈ってゐる。
杜の杉にはふくろふの滑らかさ、昆布の黒びかり、しづかにしづかに溶け込んで行く。
どうだ。空一杯の星。けれども西にはまだたそがれが殘ってゐてまるで沼の水あかりだ。
﹁やっぱり袴をはいて行くのかな。﹂
﹁袴どころぢゃないさ。紋付を着てキチンとやって出て行くのがあたりまへだ。﹂
それご覽なさい。かすかな心の安らかさと親しさとが夜の底から昇るでせう。
西の山脈が非常に低く見える。その山脈はしづかな家におもはれる。中へ行って座りたい。
﹁全體お前さんの借といふのは今どれ位あるんだい。﹂
﹁さあ、どれくらゐになってるかな。高等學校が十圓づつか。いまは十五圓。それ程でもないな。﹂
﹁うん。それ程でもないな。﹂
この路は昔温泉へ通ったのだ。
いまは何條かの草が生え星あかりの下をしづかに煙草のけむりのやうに流れる。杜が右手の崖の下から立ってゐる。いつかぐるっとまはって來たな。
﹁うんさうだ。だましてそっと毒を呑ませて女だけ殺したのだ。﹂
この邊に天神さんの碑があった。あの石の龜が碑の下から顏を出してゐるやつだ。もう通りこしたかもしれない。
ふう、すばるがずうっと西に落ちた。ラジュウムの雁、化石させられた燐光の雁。
停車場の灯が明滅する。ならんで光って何かの寄宿舍の窓のやうだ。あすこの舍監にならうかな。
﹁あしたの朝は早いだらう。﹂
﹁七時だよ。﹂
まるっきり秋のきもちだ。