父上に献ぐ
父上、父上ははじめ望み給はざりしかども、児は遂にその生れたるところにあこがれて、わかき日をかくは歌ひつづけ候ひぬ。もはやもはや咎め給はざるべし。
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邪宗門扉銘
ここ過ぎて曲メロ節デアの悩みのむれに、
ここ過ぎて官能の愉楽のそのに、
ここ過ぎて神経のにがき魔睡に。
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詩の生命は暗示にして単なる事象の説明には非ず。かの筆にも言語にも言ひ尽し難き情趣の限なき振動のうちに幽かなる心霊の欷歔をたづね、縹渺たる音楽の愉楽に憧がれて自己観想の悲哀に誇る、これわが象徴の本旨に非ずや。されば我らは神秘を尚び、夢幻を歓び、そが腐爛したる頽唐の紅を慕ふ。哀れ、我ら近代邪宗門の徒が夢寝にも忘れ難きは青白き月光のもとに欷歔く大理石の嗟嘆也。暗紅にうち濁りたる埃及の濃霧に苦しめるスフィンクスの瞳也。あるはまた落日のなかに笑へるロマンチツシユの音楽と幼児磔殺の前後に起る心状の悲しき叫也。かの黄臘の腐れたる絶間なき痙攣と、オロンの三の絃を擦る嗅覚と、曇硝子にうち噎ぶウヰスキイの鋭き神経と、人間の脳髄の色したる毒艸の匂深きためいきと、官能の魔睡の中に疲れ歌ふ鶯の哀愁もさることながら、仄かなる角笛の音に逃れ入る緋の天鵞絨の手触の棄て難さよ。
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昔むかしよりいまに渡わたり来くる黒くろ船ふね縁えんがつくれば鱶ふかの餌ゑとなる。サンタマリヤ。
『長崎ぶり』
[#改丁]例言
一、本集に収めたる六章約百二十篇の詩は明治三十九年の四月より同四十一年の臘月に至る、即最近三年間の所作にして、集中の大半は殆昨一年の努力に成る。就中﹃古酒﹄中の﹁よひやみ﹂﹁柑子﹂﹁晩秋﹂の類最も旧くして﹃魔睡﹄中に載せたる﹁室内庭園﹂﹁曇日﹂の二篇はその最も新しきものなり。
一、予が真に詩を知り初めたるは僅に此の二三年の事に属す。されば此の間の前後に作られたる種々の傾向の詩は皆予が初期の試作たるを免れず。従て本集の編纂に際しては特に自信ある代表作物のみを精査し、少年時の長篇五六及その後の新旧作七十篇の余は遺憾なく割愛したり。この外百篇に近き﹃断章﹄と﹃思出﹄五十篇の著作あれども、紙数の制限上、これらは他の新しき機会を待ちて出版するの已むなきに到れり。
一、予が象徴詩は情緒の諧楽と感覚の印象とを主とす。故に、凡て予が拠る所は僅かなれども生れて享け得たる自己の感覚と刺戟苦き神経の悦楽とにして、かの初めより情感の妙なる震慄を無みし只冷かなる思想の概念を求めて強ひて詩を作為するが如きを嫌忌す。されば予が詩を読まむとする人にして、之に理知の闡明を尋ね幻想なき思想の骨格を求めむとするは謬れり。要するに予が最近の傾向はかの内部生活の幽かなる振動のリズムを感じその儘の調律に奏でいでんとする音楽的象徴を専とするが故に、そが表白の方法に於ても概ねかの新しき自由詩の形式を用ゐたり。
一、或人の如きは此の如き詩を嗤ひて甚しき跨張と云ひ、架空なる空想を歌ふものと做せども、予が幻覚には自ら真に感じたる官能の根抵あり。且、人の天分にはそれそれ自らなる相違あり、強ひて自己の感覚を尺度として他を律するは謬なるべし。
一、本来、詩は論ふべききはのものにはあらず。嘗て幾多の譏笑と非議と謂れなき誤解とを蒙りたるにも拘らず、予の単に創作にのみ執して、一語もこれに答ふる所なかりしは、些か自己の所信に安じたればなり。
一、終に、現時の予は文芸上の如何なる結社にも与らず、又、如何なる党派の力をも恃む所なき事を明にす。要は只これらの羈絆と掣肘とを放れて、予は予が独自なる個性の印象に奔放なる可く、自由ならんことを欲するものなり。
一、尚、本集を世に公にする事を得たる所以のものは、これ一に蒲原有明、鈴木皷村両氏の深厚なる同情に依る、ここに謹謝す。
著者識
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魔睡
余は内部の世界を熟視めて居る。陰鬱な死の節奏は絶えず快く響き渡る……と神経は一斉に不思議の舞踏をはじめる。すすりなく黒き薔薇、歌うたふ硝子のインキ壺、誘惑の色あざやかな猫眼石の腕環、笑ひつづける空眼の老女等はこまかくしなやかな舞踏をいつまでもつづける。余は一心に熟視めて居る……いつか余は朱の房のついた長い剣となつて渠等の内に舞踏つてゐる………
長田秀雄
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邪宗門秘曲
われは思ふ、末まつ世せの邪じや宗しゆう、切きり支した丹んでうすの魔まは法ふ。
黒くろ船ふねの加かひ比た丹んを、紅こう毛まうの不ふか可し思ぎ議こ国くを、
色いろ赤あかきびいどろを、匂にほひ鋭ときあんじやべいいる、
南なん蛮ばんの桟さん留とめ縞じまを、はた、阿あ刺ら吉き、珍ちんの酒を。
目ま見み青きドミニカびとは陀だ羅ら尼に誦ずし夢にも語る、
禁きん制せいの宗しゆ門うも神んしんを、あるはまた、血に染む聖くる磔す、
芥けし子つ粒ぶを林檎のごとく見すといふ欺けれ罔んの器うつは、
波は羅ら葦い僧その空そらをも覗のぞく伸のび縮ちゞむ奇きなる眼めが鏡ねを。
屋いへはまた石もて造り、大なめ理い石しの白き血ちし潮ほは、
ぎやまんの壺つぼに盛られて夜よとなれば火点ともるといふ。
かの美はしき越え歴れ機きの夢は天びろ鵝う絨どの薫くゆりにまじり、
珍めづらなる月の世界の鳥とり獣けもの映う像つすと聞けり。
あるは聞く、化けは粧ひの料しろは毒どく草さうの花よりしぼり、
腐くされたる石の油あぶらに画ゑがくてふ麻ま利り耶やの像ざうよ、
はた羅らて甸ん、波ほ爾る杜と瓦が爾るらの横よこつづり青なる仮か名なは
美うつくしき、さいへ悲しき歓くわ楽んらくの音ねにかも満つる。
いざさらばわれらに賜たまへ、幻げん惑わくの伴ばて天れ連ん尊そん者じや、
百もゝ年とせを刹せつ那なに縮ちゞめ、血の磔はりき脊せにし死すとも
惜をしからじ、願ふは極ごく秘ひ、かの奇くしき紅くれなゐの夢、
善ぜん主すま麿ろ、今け日ふを祈いのりに身みも霊たまも薫くゆりこがるる。
四十一年八月
室内庭園
晩おそ春はるの室むろの内うち、
暮れなやみ、暮れなやみ、噴ふき水あげの水はしたたる……
そのもとにあまりりす赤あかくほのめき、
やはらかにちらぼへるヘリオトロオブ。
わかき日のなまめきのそのほめき静しづこころなし。
尽つきせざる噴ふき水あげよ………
黄きなる実みの熟うるる草、奇き異ゐの香かう木ぼく、
その空にはるかなる硝がら子すの青み、
外ぐわ光いくわうのそのなごり、鳴ける鶯うぐひす、
わかき日の薄くれ暮がたのそのしらべ静しづこころなし。
いま、黒くろき天びろ鵝う絨どの
にほひ、ゆめ、その感さは触り………噴ふき水あげに縺もつれたゆたひ、
うち湿しめる革かはの函はこ、饐すゆる褐かち色いろ
その空に暮れもかかる空くう気きの吐とい息き……
わかき日のその夢の香かの腐ふし蝕よく静しづこころなし。
三さん層かいの隅すみか、さは
腐くされたる黄わう金ごんの縁ふちの中うち、自と鳴け鐘いの刻きざみ……
ものなべて悩なやましさ、盲しひし少をと女めの
あたたかに匂にほひふかき感かん覚かくのゆめ、
わかき日のその靄に音ねは響ひゞく、静しづこころなし。
晩おそ春はるの室むろの内うち、
暮れなやみ、暮れなやみ、噴ふき水あげの水はしたたる……
そのもとにあまりりす赤くほのめき、
甘く、またちらぼひぬ、ヘリオトロオブ。
わかき日は暮くるれども夢はなほ静しづこころなし。
四十一年十二月
陰影の瞳
夕ゆふべとなればかの思おもひ曇くも硝りが子らすをぬけいでて、
廃すたれし園そののなほ甘あまきときめきの香かに顫ふるへつつ、
はや饐すえ萎なゆる芙ふよ蓉うく花わの腐くされの紅あかきものかげと、
縺もつれてやまぬ秦とね皮りこの陰いん影えいにこそひそみしか。
如い何かに呼よべども静しづまらぬ瞳ひとみに絶たえず涙して、
帰かへるともせず、密ひそやかに、はた、果はてしなく見み入いりぬる。
そこともわかぬ森かげの鬱メラ憂ンコリアの薄うす闇やみに、
ほのかにのこる噴ふき水あげの青きひとすぢ……
四十一年十月
赤き僧正
邪じや宗しゆうの僧ぞ彷さま徨よへる……瞳据すゑつつ、
黄たそ昏がれの薬やく草さう園ゑんの外ぐわ光いくわうに浮きいでながら、
赤あか々〳〵と毒のほめきの恐おそ怖れして、顫ふるひ戦をのゝく
陰いん影えいのそこはかとなきおぼろめき
まへに、うしろに……さはあれど、月の光の
水みの面もなる葦あしのわか芽めに顫ふるふ時。
あるは、靄ふる遠をち方かたの窓の硝がら子すに
ほの青きソロのピアノの咽むせぶ時。
瞳据すゑつつ身みじ動ろかず、長き僧そう服ふく
爛らん壊ゑする暗あん紅こう色しよくのにほひしてただ暮れなやむ。
さて在るは、曩さきに吸すひたる
Hハaシcツhシiユsch の毒のめぐりを待てるにか、
あるは劇はげしき歓くわ楽んらくの後の魔ます睡ゐや忍ぶらむ。
手に持つは黒き梟ふくろう
爛らん々〳〵と眼めは光る……
……そのすそに蟋蟀 の啼く……
四十一年十二月
WHISKY.
夕ゆふ暮ぐれのものあかき空そら、
その空そらに百も舌ず啼なきしきる。
Wウhイiスsキkイyの罎びんの列れつ
冷ひややかに拭ふく少をと女め、
見よ、あかき夕ゆふ暮ぐれの空そら、
その空そらに百も舌ず啼なきしきる。
四十一年十一月
天鵝絨のにほひ
やはらかに腐れつつゆく暗やみの室むろ。
その片かた隅すみの薄うすあかり、背そびらにうけて
天びろ鵝う絨どの赤あかきふくらみうちかつぎ、
にほふともなく在あるとなく、蹲うづくみ居れば。
暮れてゆく夏の思と、日ひぐ向る葵まの
凋しをれの甘き香かもぞする。……ああ見まもれど
おもむろに悩なやみまじろふ色の陰か影げ
それともわかね……熱ねつ病びやうの闇のをののき……
Hハaシcツhシiユsch か、酢すか、茴アブ香サ酒ンか、くるほしく
溺おぼれしあとの日の疲つか労れ……縺もつれちらぼふ
Wワaグgネnルerの恋れん慕ぼの楽がくの音ねのゆらぎ
耳かたぶけてうち透すかし、在ありは在あれども。
それらみな素すあ足しのもとのくらがりに
爛らん壊ゑの光放はなつとき、そのかなしみの
腐くされたる曲きよくの緑みどりを如い何かにせむ。
君を思ふとのたまひしゆめの言こと葉ばも。
わかき日の赤あかきなやみに織りいでし
にほひ、いろ、ゆめ、おぼろかに嗅かぐとなけれど、
ものやはに暮れもかぬれば、わがこころ
天びろ鵝う絨ど深くひきかつぎ、今け日ふも涙す。
四十一年十二月
濃霧
濃のう霧むはそそぐ……腐くされたる大だい理りの石の
生なまくさく吐とい息きするかと蒸し暑く、
はた、冷ひややかに官くわ能んのうの疲つかれし光――
月はなほ夜よの氛ふん囲ゐ気きの朧おぼろなる恐おそ怖れに懸かゝる。
濃のう霧むはそそぐ……そこここに虫の神しん経けい
鋭とく、甘く、圧おしつぶさるる嗟なげ嘆きして
飛びもあへなく耽たん溺できのくるひにぞ入る。
薄ら闇、盲まう唖あの院ゐんの角かく硝がら子す暗くかがやく。
濃のう霧むはそそぐ……さながらに戦をのゝく窓は
亜ア刺ラ比ビ亜ヤの魔まは法ふの館たちの薄うす笑わらひ。
麻しび痺れぐ薬すりの酸すゆき香かに日ねもす噎むせて
聾ろうしたる、はた、盲めしひたる円まる頂や閣ねか、壁の中ちゆ風うふう。
濃のう霧むはそそぐ……甘く、また、重く、くるしく、
いづくにか凋しをれし花の息づまり、
苑そののあたりの泥ぬか濘るみに落ちし燕や、
月の色半はん死しの生しやうに悩なやむごとただかき曇る。
濃のう霧むはそそぐ……いつしかに虫も盲しひつつ
聾ろうしたる光のそこにうち痺しびれ、
唖おうしとぞなる。そのときにひとつの硝がら子す
幽いう魂こんの如ごとくに青くおぼろめき、ピアノ鳴りいづ。
濃のう霧むはそそぐ……数かずの、見よ、人かげうごき、
闌ふくる夜よの恐おそ怖れか、痛いたきわななきに
ただかいさぐる手のさばき――霊たまの弾だん奏そう、
盲めし目ひ弾き、唖おうしと聾ろう者じや円つぶら眼めに重かさなり覗のぞく。
濃のう霧むはそそぐ……声もなき声の密みつ語ごや。
官くわ能んのうの疲つかれにまじるすすりなき
霊たまの震おび慄えの音ねも甘く聾ろうしゆきつつ、
ちかき野に喉のど絞しめらるる淫たはれ女めのゆるき痙けい攣れん。
濃のう霧むはそそぐ……香かの腐ふし蝕よく、肉にくの衰すゐ頽たい、――
呼い吸き深く謨コロロホルムや吸ひ入るる
朧ろうたる暑き夜よの魔ます睡ゐ……重く、いみじく、
音おともなき盲まう唖あの院ゐんの氛ふん囲ゐ気きに月はしたたる。
四十一年十月
赤き花の魔睡
日ひは真まひ昼る、ものあたたかに光エエ素テルの
波はど動うは甘あまく、また、緩ゆるく、戸とに照りかへす、
その濁にごる硝がら子すのなかに音おともなく、
謨コロロホルムの香かぞ滴したたる……毒どくの言うはごと……
遠とほくきく、電でん車しやのきしり……
………棄すてられし水すゐ薬やくのゆめ……
やはらかき猫ねこの柔にこ毛げと、蹠あなうらの
ふくらのしろみ悩なやましく過すぎゆく時ときよ。
窓まどの下もと、生せいの痛つう苦くに只たゞ赤あかく戦そよぎえたてぬ草くさの花
亜とた鉛んの管くだの
湿しめりたる筧かけひのすそに……いまし魔ます睡ゐす……
四十一年十二月
麦の香
嬰あか児ご泣く……麦の香かの湿しめるあなたに、
続つゞけ泣く……やはらかに、なやましげにも、
香かに噎むせび、香かに噎むせび、あはれまた、嬰あか児ご泣きたつ……
夏の雨さと降ふり過すぎて
新あらたにもかをり蒸むす野の畑はたいくつ湿しめるあなたに、
赤き衣きぬ一ひときは若わかく、にほやかにけぶる揺ゆり籃ごや、
磨すり硝がら子す、あるは窓まど枠わく、濡ぬれ濡ぬれて夕ゆふ日ひさしそふ。
四十一年十二月
曇日
曇くも日りびの空くう気きのなかに、
狂くるひいづる樟くすの芽めの鬱メラ憂ンコリアよ……
そのもとに桐きりは咲く。
Wウhイiスsキkイyの香かのごときしぶき、かなしみ……
そこここにいぎたなき駱らく駝だの寝ねい息き、
見よ、鈍にぶき綿めん羊やうの色のよごれに
饐すえて病やむ藁わらのくさみ、
その湿しめる泥ぬか濘るみに花はこぼれて
紫むらさきの薄うすき色鋭するどになげく……
はた、空そらのわか葉ばの威ゐあ圧つ。
いづこにか、またもきけかし。
餌ゑに饑うゑしベリガンのけうとき叫さけび、
山やま猫ねこのものさやぎ、なげく鶯うぐひす、
腐くされゆく沼ぬまの水蒸むすがごとくに。
そのなかに桐は散ちる…… ウWイhスiキsイkyの強きかなしみ……
もの甘あまき風のまた生なまあたたかさ、
猥みだらなる獣けものらの囲かこ内ひのあゆみ、
のろのろと枝えに下さがるなまけもの、あるは、貧まづしく
眼めを据すゑて毛けむ虫し啄つむ嗟なげ歎かひのほろほろ鳥てうよ。
そのもとに花はちる……桐のむらさき……
かくしてや日は暮くれむ、ああひと日。
病びや院うゐんを逃のがれ来こし患くわ者んじやの恐おそ怖れ、
赤あか子ごらの眼めのなやみ、笑わらふ黒くろ奴んぼ
酔ゑひ痴しれし遊たは蕩れ児をの縦みま覧はりのとりとめもなく。
その空そらに桐きりはちる……新あたらしきしぶき、かなしみ……
はたや、また、園そのの外そとゆく
軍ぐん楽がくの黒くろき不ふあ安んの壊なだれ落ち、夜よに入る時ときよ、
やるせなく騒さやぎいでぬる鳥とり獣けもの。
また、その中なかに、
狂くるひいづる北ほつ極きよ熊くぐまの氷なす戦をの慄のきの声こゑ。
その闇やみに花はちる…… ウWイhスiキsイkyの香かの頻しぶ吹き……桐の紫むらさき……
四十一年十二月
秋の瞳
晩おそ秋あきの濡ぬれにたる鉄てす柵りのうへに、
黄きなる葉の河やなぎほつれてなげく
やはらかに葬はう送むりのうれひかなでて、
過ぎゆきし トTロrムoボmオbンone いづちいにけむ。
はやも見よ、暮れはてし吊つり橋ばしのすそ、
瓦が斯す点ともる……いぎたなき馬の吐とい息きや、
騒さわぎやみし曲チヤ馬リネ師しの楽がく屋やなる幕の青みを
ほのかにも掲かゝげつつ、水みの面も見る女をんなの瞳ひとみ。
四十一年十二月
空に真赤な
空そらに真まつ赤かな雲くものいろ。
玻は璃りに真まつ赤かな酒さけの色いろ。
なんでこの身みが悲かなしかろ。
空そらに真まつ赤かな雲くものいろ。
四十一年五月
秋のをはり
腐くされたる林りん檎ごのいろに
なほ青あをきにほひちらぼひ、
水すゐ薬やくの汚しみし卓つくゑに
瓦が斯す焜こん炉ろほのかに燃もゆる。
病やま人うどは肌はだををさめて
愁うれはしくさしぐむごとし。
何なぞ湿しめる、医いき局よくのゆふべ、
見みよ、ほめく劇げき薬やくもあり。
色いろ冴さえぬ室むろにはあれど、
声こゑたててほのかに燃もゆる
瓦が斯す焜こん炉ろ………空そらと、こころと、
硝がら子す戸どに鈍にばむさびしさ。
しかはあれど、寒さむきほのほに
黄きの入いり日ひさしそふみぎり、
朽くちはてし秋あきのオロン
ほそぼそとうめきたてぬる。
四十一年十二月
十月の顔
顔なほ赤あかし……うち曇り黄きばめる夕ゆふべ、
﹃十じふ月ぐわつ﹄は熱ねつを病やみしか、疲つかれしか、
濁にごれる河か岸しの磨すり硝がら子す脊せに凭りかかり、
霧の中うち、入いり日ひのあとの河かはの面もをただうち眺ながむ。
そことなき櫂かいのうれひの音ねの刻きざみ……
涙のしづく……頬にもまたゆるきなげきや……
ややありて麪パ包ンの破かけ片らを手にも取り、
さは冷ひややかに噛かみしめて、来きたるべき日の
味あぢもなき悲しきゆめをおもふとき……
なほもまた廉やすき石せき油ゆの香かに噎むせび、
腐くされちらぼふ骸コオ炭クスに足も汚よごれて、
小こじ蒸やう汽きの灰はひばみ過すぎし船ふな腹ばらに
一ひときは赤あかく輝かがやきしかの枠まどわくを忍ぶとき……
月つき光かげははやもさめざめ……涙さめざめ……
十じふ月ぐわつの暮れし片かた頬ほを
ほのかにもうつしいだしぬ。
四十一年十二月
接吻の時
薄くれ暮がたか、
日のあさあけか、
昼か、はた、
ゆめの夜よ半はにか。
そはえもわかね、燃もえわたる若き命いのちの眩めく暈るめき、
赤き震おび慄えの接くち吻つけにひたと身み顫ふるふ一いつ刹せつ那な。
あな、見よ、青き大たい月げつは西よりのぼり、
あなや、また瘧ぎやく病やむ終はての顫ふるひして
東へ落つる日の光、
大おほぞらに星はなげかひ、
青く盲めしひし水みの面もにほ薬くす香りがにほふ。
あはれ、また、わが立つ野の辺べの草は皆色も干ひか乾らび、
折り伏せる人の骸かばねの夜よのうめき、
人ひと霊だま色いろの
木きの列れつは、あなや、わが挽ひき歌うたうたふ。
かくて、はや落おち穂ぼひろひの農のう人にんが寒き瞳よ。
歓よろ楽こびの穂のひとつだに残のこさじと、
はた、刈り入るる鎌の刃はの痛いたき光よ。
野のすゑに獣けものらわらひ、
血に饐すえて汽きし車や鳴き過すぐる。
あなあはれ、あなあはれ、
二ふた人りがほかの霊たましひのありとあらゆるその呪のろ咀ひ。
朝あさ明あけか、
死しの薄くれ暮がたか、
昼か、なほ生あれもせぬ日か、
はた、いづれともあらばあれ。
われら知る赤き唇くちびる。
四十一年六月
濁江の空
腐くされたる林りん檎ごの如き日のにほひ
円まろらに、さあれ、光なく甘あまげに沈む
晩おそ春はるの濁にごり重おもたき靄の内うち、
ふと、カキ色いろの軽けい気きき球うくだるけはひす。
遠をち方かたの曇くもれる都と市しの屋や根ねの色
たゆげに仰あふぐ人はいま鈍にぶくもきかむ、
濁にご江りえのねぶたき、あるは、やや赤あかき
にほひの空のいづこにか洩もるる鉄てつの音ね。
なやましき、さは江えの泥どろの沈おど澱みより
あかるともなき灰くわ紅いこうの帆のふくらみに
伝つたへくる潜もぐ水りの夫ひとが作さげ業ふにか、
饐すえたる吐とい息きそこはかと水みの面もに黄きばむ。
河か岸しになほ物もの見みる子らはうづくまり、
はや倦うましげに人にん形ぎやうをそが手に泣かす。
日ひく暮れどき、入いり日ひに濁る靄もやの内うち、
また、ふくらかに軽けい気きき球うくだるけはひす。
四十一年八月
魔国のたそがれ
うち曇くもる暗あん紅こう色しよくの大おほき日の
魔まは法ふの国に病やましげの笑ゑみして入れば、
もの甘あまき驢ろ馬ばの鳴く音ねにもよほされ、
このもかのもに悩なやましき吐とい息きぞおこる。
そのかみの激はげしき夢や忍しのぶらむ。
鬱うこ黄んの百ゆ合りは血ちににじむ眸ひとみをつぶり、
人にん間げんの声こゑして挑いどみ、飛びかはし
鸚あう鵡むの鳥はかなしげに翅つばさふるはす。
草も木もかの誘いざ惑なひに化なされつる
旅のわかうど、暮れ行けば心ひまなく
えもわかぬ毒どくの怨かご言とになやまされ、
われと悲しき歓くわ楽んらくに怕おそれて顫ふるふ。
日は沈み、たそがれどきの空そらの色
青き魔まや薬くの薫かをりして古ふりつつゆけば、
ほのかにも誘さそはれ来きたる隊カラ商バンの
鈴すず鳴る……あはれ、今け日ふもまた恐おそ怖れの予しら報せ。
はとばかり黙つぐみ戦をののくものの息いき。
色いろ天びろ鵝う絨どを擦するごとき裳もす裾そのほかは
声もなく甘く重おもたき靄もやの闇やみ、
はやも王わう女ぢよの領しらすべき夜よとこそなりぬ。
四十一年八月
蜜の室
薄くれ暮がたの潤うるみにごれる室むろの内うち、
甘くも腐くさる百ゆ合りの蜜みつ、はた、靄もやぼかし
色赤きいんくの罎びんのかたちして
ひそかに点ともる豆らんぷ息いきづみ曇る。
﹃豊とよ国くに﹄のぼやけし似にが顔ほ生なまぬるく、
曇くも硝りが子らすののそと外ぐわ光いくわうなやむ。
ものの本ほん、あるはちらぼふ日のなげき、
暮れもなやめる霊たましひの金きん字じのにほひ。
接くち吻つけの長ながき甘さに倦あきぬらむ。
そと手をほどき靄の内うちさぐる心こゝ地ちに、
色しき盲まうの瞳ひとみの女をんなうらまどひ、
病やめるペリガンいま遠き湿しめ地ぢになげく。
かかるとき、おぼめき摩なする オVロiンolon の
なやみの絃いとの手てさ触はりのにほひの重おもさ。
鈍にぶき毛けの絨じゆ氈うたんに甘き蜜みつの闇やみ
澱おどみ饐すえつつ……血のごともらんぷは消ゆる。
四十一年八月
酒と煙草に
酒さけと煙たば草こにうつとりと、
倦うめるこころを見まもれば、
それとしもなき霊たまのいろ
曇くもりながらに泣きいづる。
なにか嘆なげかむ、うきうきと、
三しや味みに燥はしやぐわがこころ。
なにか嘆なげかむ、さいへ、また
霊たまはしくしく泣きいづる。
四十一年五月
鈴の音
日は赤し、窓まどの上へに恐おそ怖れの烏からす
ひた黙つぐみ暮れかかる砂さば漠くを熟み視つむ。
今け日ふもまたもの鈍にぶき駱らく駝だをつらね、
一ひと群むれのわがやから消きえさりゆきぬ。
もの甘き鈴の音おと、ああそを聴きけよ。
からら、からら、ら、ら、ら……
暮くれのこるピラミドの暗あん紅こう色しよくよ。
そが空のうち濁にごる重き空くう気きよ。
いづこにか月の色ほのめくごとし。
からら、からら、ら、ら、ら……
かの群むれよ、靄もやふかく、いまかひろぐる
色鈍にぶき、幽いう鬱うつの毛けお織りの天てん幕と。
駱らく駝だらのためいきもそこはかとなく。
からら、からら、ら、ら、ら……
もの青く暮れてみな蒸しも見わかね。
饐すえ温ぬるむ空そらのをち、薄うすらあかりに、
ほのかにも此こな方た見るスフィンクスの瞳。
からら、からら、ら、ら、ら……
あはれ、その静しづかなるスフィンクスの瞳。
ああ暗あん示じ……えもわかぬ夢の象シム徴ボル。
またくいま埃えじ及ぷとの夜よとやなるらむ。
からら、からら、ら、ら、ら……
烏いまはたはたと遠く飛び去り、
窓まどにただ色あかき燈とも火しび点ともる。
四十一年八月
夢の奥
ほのかにもやはらかきにほひの園その生ふ。
あはれ、そのゆめの奥おく。日ひと夜よのあはひ。
薄うすあかる空の色ひそかに顫ふるひ
暮れもゆくそのしばし、声なく立てる
真まし白ろなる大なめ理い石しの男をとこの像すがた、
微い妙みじくもまた貴あてに瞑めつ目ぶりながら
清きよらなる面おもの色かすかにゆめむ。
ものなべてさは妙たへに女をみなの眼めざし
あはれそが夢ふかき空そら色いろしつつ、
にほやかになやましの思おもひはうるむ。
そがなかに埋うもれたる素そけ馨いのなげき、
蒸むし甘き沈ぢん丁てうのあるは刺させども
なにほどの香かの痛いたみ身にしおぼえむ。
わかうどは声もなし、清きよく、かなしく。
薄たそ暮がれにせきもあへぬ女をんなの吐とい息き
あはれその愁うれひ如なし、しぶく噴ふき水あげ
そことなう節ふしゆるうゆらゆるなべに、
いつしかとほのめきぬ月の光も。
その空に、その苑そのに、ほのの青みに
静かなる欷すす歔りなき泣きもいでつつ、
いづくにか、さまだるる愛あい慕ぼのなげき。
やはらかきほの熱ほてる女の足あの音と
あはれそのほめき如なし、燃もえも生あれゆく
ゆめにほふ心しん音のんのうつつなきかな。
大なめ理い石しの身の白しろみ、面おももほのかに、
ひらきゆくその眼めざし、なかば閉ぢつつ、
ゆめのごと空仰あふぎ、いまぞ見み惚ほるる。
色わかき夜よるの星、うるむ紅くれなゐ。
四十一年七月
窓
かかる窓ありとも知らず、昨きの日ふまで過すぎし河かは岸きし。
今け日ふは見よ、
色赤き花に日の照り、かなしくも依ええ依て児る匂ふ。
あはれまた病やめる ピPアiノano も……
四十一年九月
昨日と今日と
わかうどのせはしさよ。
さは昨きの日ふ世をも厭ひて重ぢゆ格うク魯ロ密ヲ母ム求とめも泣きしか、
今け朝さははや林檎吸ひつつ霧深き河か岸し路ぢを辿る。
歌楽し、鳴らす木きぐ履つに……
四十一年十一月
わかき日
﹃かくまでも、かくまでも、
わかうどは悲しかるにや。﹄
﹃さなり、女をみな、
わかき日には、
ましてまた才さいある身には。﹄
四十一年十一月
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朱の伴奏
凡て情緒也。静かなる精舎の庭にほのめきいでて紅の戦慄に盲ひたるオロンの響はわが内心の旋律にして、赤き絶叫のなかにほのかに啼けるこほろぎの音はこれ亦わが情緒の一絃によりて密かに奏でらるる愁也。なげかひ也。その他おほむね之に倣ふ。
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謀坂
ひと日、わが精しや舎うじやの庭にはに、
晩おそ秋あきの静かなる落いり日ひのなかに、
あはれ、また、薄うす黄ぎなる噴ふき水あげの吐とい息きのなかに、
いとほのにオロンの、その絃いとの、
その夢の、哀かな愁しみの、いとほのにうれひ泣なく。
蝋らふの火と懺ざん悔げのくゆり
ほのぼのと、廊らういづる白き衣ころもは
夕ゆふ暮ぐれに言ものもなき修しう道だう女めの長き一ひと列つら。
さあれ、いま、オロンの、くるしみの、
刺さすがごと火の酒の、その絃いとのいたみ泣く。
またあれば落いり日ひの色いろに、
夢燃もゆる、噴ふき水あげの吐とい息きのなかに、
さらになほ歌もなき白しら鳥とりの愁うれひのもとに、
いと強き硝せう薬やくの、黒き火の、
地の底の導みち火び燬やき、オロンぞ狂ひ泣く。
跳をどり来くる車しや輌りやうの響ひびき、
毒どくの弾た丸ま、血ちの烟けむり、閃ひらめく刃やいば、
あはれ、驚す破は、火とならむ、噴ふき水あげも、精しや舎うじやも、空も。
紅くれなゐの、戦わな慄なきの、その極はての
瞬たま間ゆらの叫さけ喚び燬やき、オロンぞ盲めしひたる。
四十年十二月
こほろぎ
微ほのにいまこほろぎ啼なける。
日か落つる――眼めをみひらけば
朱しゆの畏おそ怖れくわと照てりひびく。
内ない心しんの苦にがきおびえか、
めくるめく痛いたき日の色
眼めつぶれど、はた、照りひびく。
そのなかにこほろぎ啼ける。
とどろめく銃つゝ音おとしばし、
痍きずつける悪あくのうごめき
そこここに、あるは疲つかれて
轢しきなやむ砲はう車しやのあへぎ、
逃げまどふ赤きもろごゑ。
そのなかにこほろぎ啼ける。
盲めしひ、ゆく恋のまぼろし――
その底に疼うずきくるしむ
肉ししむらの鋭するどき絶さけ叫び、
はた、暗くらき曲きよくの死しの楽がく
霊たましひぞ弾きも連つれぬる。
そのなかにこほろぎ啼ける。
あなや、また呻うめ吟きは洩もるる。
鉛なまりめく首のあたりゆ
幽いう界かいの呪のろ咀ひか洩るる。
寝ねがへれば血に染み顫ふるふ
わが敵かたき面おもぞ死にたる。
そのなかにこほろぎ啼ける。
はた、裂さくる赤き火の弾た丸ま
たと笑ふ、と見る、我われ燬やき
我ならぬ獣けもののつらね
真まく黒ろなる楽がくして奔はしる。
執しふ念ねんの闇曳き奔はしる。
そのなかにこほろぎ啼ける。
日や暮るる。我はや死ぬる。
野をあげて末まつ期ごのあらび――
暗くらき血の海に溺おぼるる
赤き悲ひ苦く、赤きくるめき、
ああ、今し、くわとこそ狂へ。
微ほのになほこほろぎ啼なける。
四十年十二月
序楽
ひと日、わが想おもひの室むろの日もゆふべ、
光、もののね、色、にほひ――声なき沈しじ黙ま
徐おもむろにとりあつめたる室むろの内うち、いとおもむろに、
薄くれ暮がたのタンホイゼルの譜ふのしるし
ながめて人はゆめのごとほのかにならぶ。
壁はみな鈍にぶき愁うれひゆなりいでし
象ざうの香かの色まろらかに想おもひ鎖さしぬれ、
その隅に瞳の色の窓ひとつ、玻は璃りの遠とほ見みに
冷ひえはてしこの世のほかの夢の空
かはたれどきの薄うす明あかりほのかにうつる。
あはれ、見よ、そのかみの苦なや悩みむなしく
壁はいたみ、円まろ柱はしら熔とろけくづれて
朽くちはてし熔ラヴ岩アに埋うもるるポンペイを、わが幻まぼろしを。
ひとびとはいましゆるかに絃いとの弓、
はた、もろもろの調てう楽がくの器うつはをぞ執る。
暗みゆく室むろ内ぬちよ、暗みゆきつつ
想おもひの沈しじ黙ま重たげに音おとなく沈み、
そことなき月かげのほの淡あはくさし入るなべに、
はじめまづオロンのひとすすりなき、
鈍にび色いろ長き衣ころもみな瞳をつぶる。
燃えそむるヴヱスアス、空のあなたに
色新あたらしき紅くれなゐの火ぞ噴ふきのぼる。
廃すたれたる夢の古ふる墟つか、さとあかる我わが室むろの内、
ひとときに渦うづ巻まきかへす序じよのしらべ
管オオ絃ケス楽ト部ラのうめきより夜よには入りぬる。
四十一年二月
納曾利
入日のしばし、空はいま雲の震おび慄えのあかあかと
鋭するどにわかく、はた、苦にがく狂ひただるる楽がくの色。
また、高の鬱うこ金んか香う。かげに斃たふるる白しろ牛うしの
眉みけ間んのいたみ、憤いき怒どほり。血に笑ゑむ人がさけびごゑ。
さあれ、いま納な曾そ利りのなげき……
鈍にぶき思おもひの灰はひ色いろの壁の家やぬ内ちに、
吹ふき鳴らす古き舞ぶが楽くの笙せうの節ふし、
納な曾そ利りのなげき……
納な曾そ利りのなげき、ひとしなみ
おほらににほふ雅うた楽れ寮うの古きいみじき日の愁うれひ、
納な曾そ利りの舞まひの
人のゆめ、鈍にぶくものうき足どりの裾ゆるらかに、
おもむろの振ふりのみやびの舞まひあそび、
納な曾そ利りのなげき……
くりかへし、さはくりかへし、
ゆめのごと後しりへに連つるる笙せうの節ふし、
笛ふえのねとりもすずろかに、広ひろき家やぬ内ちに、
おなじことおなじ嫋なよびにくりかへし、
舞まへる思おもひの
倦うめる思おもひのにほやかさ、
ゆるき鞨かつ皷この
音ねもにぶく、
古ふるき納な曾そ利りの舞まひをさめ……
今いましも街まちの空そら高たかく消きゆる光ひかりのわななきに、
ほのかに青あをく、なほ苦にがく顫ふるひくづるる雲くもの色いろ。
また、浮うきのこる鬱うこ金んか香う。暮くれて果はてたる白しろ牛うしの
声こえなき骸むくろ。人ひとだかり、血ちを見みて黙もだす冷ひや笑わらひ。
四十一年七月
ほのかにひとつ
罌け粟しひらく、ほのかにひとつ、
また、ひとつ……
やはらかき麦むぎ生ふのなかに、
軟なよ風かぜのゆらゆるそのに。
薄うすき日の暮るとしもなく、
月つきしろの顫ふるふゆめぢを、
縺もつれ入るピアノの吐とい息き
ゆふぐれになぞも泣かるる。
さあれ、またほのに生あれゆく
色あかきなやみのほめき。
やはらかき麦むぎ生ふの靄に、
軟なよ風かぜのゆらゆる胸に、
罌け粟しひらく、ほのかにひとつ、
また、ひとつ……
四十一年二月
耽溺
あな悲かなし、紅あかき帆ほきたる。
聴きけよ、今いま、紅あかき帆ほきたる。
白はく日じつの光の水み脈をに、
わが恋の器きが楽くの海に。
あはれ、聴け、光は噎むせび、
海顫ひ、清すが掻がき焦こがれ
眩めく暈るめく悲かな愁しみの極はて、
苦もだ悶えそふ歓よろ楽こびのせて
キユラソオの紅あかき帆ほひびく。
弾ひけよ、弾ひけ、毒どくのオロン
吹けよ、また媚びや薬くの嵐。
あはれ歌、あはれ幻まぼろし、
その海に紅あかき帆ほ光る。
海の歌きこゆ、このとき、
﹃噫あゝ、かなし、炎ほのほよ、慾よくよ、
接くち吻つけよ。﹄
聴けよ、また苦にがき愛あい着ぢやく、
肉しゝむらのおびえと恐おそ怖れ、
﹃死ねよ、死ね﹄、紅あかき帆ほ響ひゞく、
﹃恋よ、汝なよ。﹄
弾ひけよ、弾ひけ、毒のオロン
吹けよ、また媚びや薬くの嵐。
一ひと瞬ときよ、――光よ、水み脈をよ、
楽がくの音ねよ――酒のキユラソオ、
接くち吻つけの非ひめ命いの快けら楽く、
毒どく水すゐの火のわななきよ。
狂くるへ、狂くるへ、破ほろ滅びの渚なぎさ、
聴くははや楽がくの大たい極きよく、
狂きや乱うらんの日の光吸すふ
紅あかき帆の終つひのはためき。
死なむ、死なむ、二ふた人りは死なむ。
紅あかき帆ほきゆる。
紅あかき帆ほきゆる。
四十年十二月
といき
大おほ空そらに落いり日ひただよひ、
旅しつつ燃えゆく黄きぐ雲も。
そのしたの伽がら藍んの甍いらか
半なかば黄きになかばほのかに、
薄うす闇やみに蝋らふの火にほひ、
円まろ柱はしらまたく暮れたる。
ほのめくは鳩の白しら羽はか、
敷しき石いしの闇にはひとり
盲めしひの子ひたと膝つけ、
ほのかにも尺しや八くはち吹ふける、
あはれ、その追おひ分わけのふし。
四十年十二月
黒船
黒くろ煙けぶりほのにひとすぢ。――
あはれ、日は血を吐く悶もだえあかあかと
濡れつつ淀よどむ悪あくの雲そのとどろきに
燃え狂ふ恋れん慕ぼの楽がくの断だん末まつ魔ま。
遠とほ目めに濁る蒼わだ海つみの色こそあかれ、
黒くろ潮しほの水み脈をのはたての水けぶり、
はた、とどろ撃うつ毒の砲た弾ま、清すずしき喇らつ叭ぱ、
薄くれ暮がたの朱あけのおびえの戦たゝかひに
疲れくるめく衰おとろへぞああ音ねを搾しぼる。
黒くろ煙けぶりまたもふたすぢ。――
序じよのしらべ絶たえつ続きつ、いつしかに
黒くろき悩なやみの旋せん律りつぞ渦うづ巻まき起る。
逃にげ来くるは密みつ猟れう船せんの旗じるし、
痍きずつき噎むせぶ血と汚けが穢れ、はた憤いき怒どほり
おしなべて黄ばみ騒さわ立だつ楽がくの色。
空には苦にがき嘲あざ笑けりに雲かき乱れ、
重おもりゆく煩もだ悶えのあらびはやもまた
黒き恐おそ怖れのはたためき海より煙る。
黒煙三すぢ、五すぢ。――
幻げん法ぱふのこれや苦くるしき脅おび迫やかし
いと淫みだらかに蒸し挑いどむ疾はや風ちのもとに、
現れて真まく黒ろに歎なげく楽がくの船、
生なまあをじろき鱶ふかの腹ただほのぼのと、
暮れがての赤きくるしみ、うめきごゑ、
血の甲かふ板はんのうへにまた爛たゞれて叫ぶ
楽げう慾よくの破はへ片んの砲た弾まぞ慄わなゝける。
ああその空にはたためく黒き帆のかげ。
黒煙終に七すぢ。――
吹きかはす銀ぎんの喇叭もたえだえに、
渦巻き猛たける楽がくの極はて、蒼わだ海つみけぶり、
悪あくの雲とどろとどろの乱らん擾ぜうに
急あわ忙たゞしくも呪のろはしき夜よのたたずまひ。
濡れ焙いぶる水無月ぞらの日の名なご残り
はた掻き濁し、暗あん澹たんと、あはれ黒くろ船ふね、
真黒なる管オオ絃ケス楽トラの帆の響ひゞき
死しと悔くわ恨いこんの闇擾みだし壊くづれくづるる。
四十一年二月
地平
あな哀あはれ、今け日ふもまた銅あかがねの雲をぞ生める。
あな哀あはれ、明あ日すも亦鈍にぶき血の毒どくをや吐かむ。
見るからにただ熱あつし、心は重し。
察はかるだにいや苦くるし、愁うれひはおもし。
かの青き国くにのあこがれ、
つねに見る地ちへ平いのはてに、
大おほ空ぞらの真まひ昼るの色と、
連つれて弾ひく緑みどりひとつら。
その緑みどり琴こと柱ぢにはして、
弾きなづむ鳩の羽の夢、
幌ほろの星ほし、剣つるぎのなげき、
清すが掻がきはほのかに薫くゆる。
さては、日の白き恐おそ怖れに
静かなる太たい鼓このとろぎ、
昼ひる領しらす神か拊うたせる、
ころころとまたゆるやかに。
また絶えず、吐とい息きのつらね
かなたより笛してうかび、
こなたより絃いとして消ゆる、――
ほのかなる夢のおきふし。
しかはあれ、ものなべて圧おす
南なん国ごくの熱ねつ病やみ雲ぐもぞ
猥みだらなる毒どくの言うはごと
とどろかに歌かき濁にごす。
おもふ、いま水に華はなさき、
野のに赤き駒こまは斃たふれむ。
うらうへに病やましき現きざ象し
今け日ふもまたどよみわづらふ。
あな哀あはれ、昨きその日も銅あかがねのなやみかかりき。
あな哀あはれ、明あ日すもまた鈍にぶき血の濁にごりかからむ。
聴くからにただ熱あつし、心は重し。
思ふだにいやくるし、愁は重し。
四十年十二月
ふえのね
ほのかに見ゆる青き頬ほ、
あな、あな、玻は璃りのおびゆる。
かなたにひびく笛のね、……
青き頬ほほのに消えゆく。
室むろにもつのるふえのね、……
ふたつのにほひ盲しひゆく。
きこえずなりぬふえのね、……
内うちと外そととのなげかひ。
またしも見ゆる青き頬ほ。
あな、また玻は璃りのおびゆる。
四十一年二月
下枝のゆらぎ
日はさしぬ、白はく楊やうの梢こずゑに赤く、
さはあれど、暮れ惑まどふ下しづ枝えのゆらぎ……
水みづの面ものやはらかきにほひの嘆なげき
波もなき病やましさに、瀞とろみうつれる
晩おそ春はるの閉とざす片かた側かは街まちよ、
暮れなやむ靄の内うち皷つづみをうてる。
いづこにか、もの甘き蜂の巣すのこゑ。
幼をさ子なごのむれはまた吹フル笛ウト鳴らし、
白はく楊やうの岸きしにそひ曇り黄きばめる
教けう会くわいの硝がら子すまながめてくだる。
日はのこる両もろ側がはの梢こずゑにあかく、
さはあれど、暮れ惑まどふ下しづ枝えのゆらぎ……
またあれば、公こう園ゑんの長ベ椅ン子チにもたれ、
かなたには恋れん慕ぼびと苦なや悩みに抱く。
そのかげをのどやかに嬰あか児ご匍はひいで
鵞がの鳥とりを捕とらむとて岸きしゆ落ちぬる。
水みの面もなるひと騒さや擾ぎ、さあれ、このとき、
驀まし然ぐらに急ぎくる一ひと列つらの郵いう便びん馬ばし車やよ、
薄うす闇やみににほひゆく赤き曇くもりの
快こころよさ、人はただ街まちをばながむ。
灯あかり点ともる、さあれなほ梢こずゑはにほひ、
全またくいま暮れはてし下しづ枝えのゆらぎ……
四十一年八月
雨の日ぐらし
ち、ち、ち、ち、と、もののせはしく
刻きざむ音おと……
河か岸しのそば、
黴かびの香かのしめりも暗し、
かくてあな暮れてもゆくか、
駅えき逓ていの局きよくの長なが壁かべ
灰はひ色いろに、暗きうれひに、
おとつひも、昨きの日ふも、今け日ふも。
さあれ、なほ薫くゆりのこれる
一ひと列つらの紅あかき花はな罌け粟し
かたかげの草に濡れつつ、
うちしめり浮きもいでぬる。
雨はまたくらく、あかるく、
やはらかきゆめの曲めろ節でい……
ち、ち、ち、ち、と絶えずせはしく
刻きざむ音……
角の玻は璃りのくらみを
死しの報しら知せひまなく打う電てる。
さてあればそこはかとなく
出でもゆく
薄ぐらき思おもひのやから
その歩ある行き夜よにか入るらむ。
しばらくは
事もなし。
かかる日の雨の日ぐらし。
ち、ち、ち、ち、ともののせはしく
刻きざむ音おと……
さもあれや、
雨はまたゆるにしとしと
暮れもゆくゆめの曲めろ節でい……
いづこにか鈴すゞの音ねしつつ、
近く、
はた、速のく軋きしり、
待ちあぐむ郵いう便びん馬ばし車やの
旗の色いろ見えも来なくに、
うち曇る馬の遠とほ嘶なき。
さあれ、ふと
夕日さしそふ。
瞬たま間ゆらの夕日さしそふ。
あなあはれ、
あなあはれ、
泣き入りぬ罌け粟しのひとつら、
最いや終はてに燃もえてもちりぬ。
日の光かすかに消ゆる。
ち、ち、ち、ち、ともののせはしく
刻きざむ音おと……
雨の曲めろ節でい……
ものなべて、
ものなべて、
さは入らむ、暗き愁に。
あはれ、また、出でゆきし思のやから
帰り来なくに。
ち、ち、ち、ち、ともののせはしく
刻きざむ音おと……
雨の曲めろ節でい……
灰はひ色いろの局きよくは夜よに入る。
四十一年五月
狂人の音楽
空くう気きは甘し……また赤し……黄きに……はた、緑みどり……
晩おそ夏なつの午後五時半の日につ光くわうはを見せて、
蒸し暑く噴ふき水ゐに濡ぬれて照りかへす。
瘋ふう癲てん院ゐんの陰いん鬱うつに硝がら子すは光り、
草くさ場ばには青き飛しぶ沫きの茴アブ香サン酒ト冷ひえたちわたる。
いま狂きや人うじんのひと群むれは空うち仰ふぎ――
饗きや宴うえんの楽がく器きとりどりかき抱いだき、自や棄けに、しみらに、
傷きずつける獣けもののごとき雲の面おも
ひたに怖れて色しき盲まうの幻まぼ覚ろしを見る。
空くう気きは重し……また赤し……共に……はた緑みどり……
* * * *
* * * *
オボイ鳴る……また、トロムボオン……
狂くるほしきオラの唸うなり……
一ひと人りの酸すゆき音ねは飛びて怜かも羊しかとなり、
ひとつは赤き顔ゑがき、笑わらひわななく
音ねの恐おそ怖れ……はた、ほのしろき髑どく髏ろま舞ひ……
弾ひけ弾ひけ……鳴らせ……また舞を踏どれ……
セロの、喇らつ叭ぱの蛇へびの香かよ、
はた、爛たゞれ泣くオロンの空には赤子飛びみだれ、
妄まう想さう狂きやうのめぐりにはバツソの盲めし目ひ
小さなる骸しか色ばねいろの呪のろ咀ひして逃のがれふためく。
弾け弾け……鳴らせ……また舞を踏どれ……
クラリネッ卜の槍やり尖さきよ、
曲メロ節ヂアのひらめき緩ゆるく、また急はやく、
アルト歌うた者ひのなげかひを暈くらましながら、
一ひと列つらね、血しほしたたる神しん経けいの
壁の煉れん瓦ぐわのもとを行ゆく……
弾け弾け……鳴らせ……また舞を踏どれ……、
かなしみの蛇へび、緑みどりの眼め
槍やりに貫ぬかれてまた歎なげく……
弾け弾け……鳴らせ……また舞を踏どれ……
はた、吹フル笛ウトの香かのしぶき、
青じろき花どくだみの鋭するどさに、
濁りて光る山さん椒しよ魚うを、沼ぬまの調しらべに音ねは瀞とろむ。
弾け弾け……鳴らせ……また舞を踏どれ……
傷きずつきめぐる観くわ覧んら車んしや、
はたや、太たい皷この悶もん絶ぜつに列つらなり走はしる槍やり尖さきよ、
の硝がら子すに火は叫さけび、
月げつ琴きんの雨ふりそそぐ……
弾ひけ弾ひけ……鳴らせ……また舞を踏どれ……
赤き神しん経けい……盲めしひし血……
聾ろうせる脳の鑢やすりの音ね……
弾け弾け……鳴らせ……また舞を踏どれ……
* * * *
* * * *
空くう気きは酸すゆし……いま青し……黄きに……なほ赤く……
はやも見よ、日の入りがたの雲の色
狂きや気うきの楽がくの音ねにつれて波だちわたり、
悪獣の蹠あなうらのごと血を滴たらす。
そがもとに噴ふき水ゐのむせび
濡れ濡れて薄うす闇やみに入る……
空くう気きは重し……なほ赤し……黄きに……また緑みどり……
いつしかに蒸じよ汽うきの鈍にぶき船ふな腹ばらの
ごとくに光りかぎろひし瘋ふう癲てん院ゐんも暮れゆけば、
ただ冷ひえしぶく茴アブ香サン酒ト、鋭するどき玻は璃りのすすりなき。
草くさ場ばの赤き一ひと群むれよ、眼めををののかし、
躍をどり泣き弾ひきただらかす歓くわ楽んらくの
はてしもあらぬ色しき盲まうのまぼろしのゆめ……
午後の七時の印いん象しやうはかくて夜よに入る。
空気は苦にがし……はや暗くらし……黄きに……なほ青く……
四十一年九月
風のあと
夕ゆふ日ひはなやかに、
こほろぎ啼なく。
あはれ、ひと日、木の葉ちらし吹き荒すさみたる風も落ちて、
夕ゆふ日ひはなやかに、
こほろぎ啼く。
四十一年八月
月の出
ほのかにほのかに音ねい色ろぞ揺ゆる。
かすかにひそかににほひぞ鳴る。
しみらに列なみ立たつわかき白ぽぴ楊ゆら、
その葉のくらみにこころ顫ふるふ。
ほのかにほのかに吐とい息きぞ揺る。
かすかにひそかに雫しづくぞ鳴る。
あふげばほのめくゆめの白ぽぴ楊ゆら、
愁うれひの水みの面もを櫂かいはすべる。
吐とい息きのをののき、君が眼めざし
やはらに縺もつれてたゆたふとき、
光のひとすぢ――顫ふるふ白ぽぴ楊ゆら
文ふづ月きの香かう炉ろに濡れてけぶる。
さてしもゆるけくにほふ夢ゆめ路ぢ、
したたりしたたる櫂かいのしづく、
薄らに沁しみゆく月のでしほ
ほのかにわれらが小をふ舟ねぞゆく。
ほのめく接くち吻つけ、からむ頸うなじ、
いづれか恋れん慕ぼの吐とい息きならぬ。
夢見てよりそふわれら、白ぽぴ楊ゆら、
水みな上かみ透すかしてこころ顫ふるふ。
四十一年二月
﹇#改丁﹈
外光と印象
近世仏国絵画の鑑賞者をわかき旅人にたとへばや。もとより Watteau の羅曼底、Corot の叙情詩は唯微かにそのおぼろげなる記憶に残れるのみ。やや暗き Fontainebleau の森より曇れる道を巴里の市街に出づれば Seine の河、そが上の船、河に臨める Caf の、皆﹁刹那﹂の如くしるく明かなる Manet の陽光に輝きわたれるに驚くならむ。そは Velazquez の灰色より俄に現れいでたる午后の日なりき。あはれ日はやうやう暮れてぞゆく。金緑に紅薔薇を覆輪にしたりけむ Monet の波の面も青みゆき、青みゆき、ほのかになつかしくはた悲しき Cafin の夕は来る。燈の薄黄は Whistler の好みの色とぞ。月出づ。Pissarro のあをき衢を Verlaine の白月の賦など口荒みつつ過ぎゆくは誰が家の子ぞや。
太田正雄
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冷めがたの印象
あわただし、旗ひるがへし、
朱しゆの色の駅えき逓てい馬ぐる車ま跳をどりゆく。
曇くも日りびの色なき街まちは
清しみ水づさす石せき油ゆの噎むせび、
轢しかれ泣く停てい車しや場ばの鈴すゞ、溝みぞの毒どく、
昼の三しや味み、鑢やすり磨する歌、
茴アブ香サ酒ンの青み泡だつ火の叫さけび、
絶えず眩くるめく白やま楊ならし、遂に疲れて
マンドリン奏かなでわづらふ風の群むれ、
あなあはれ、そのかげに乞かた食ゐゆきかふ。
くわと来り、燃もえゆく旗は
死に堕おつる、夏の光のうしろかげ。
灰色の亜とた鉛んの屋根に、
青せい銅どうの擬ぎぼ宝し珠ゆの錆さびに、
また寒き万もの象みなの愁うれひのうへに、
爛たゞれ弾ひく猩しや紅うこ熱うねつの火の調しらべ、
狂きや気うきの色と冷さめがたの疲つか労れに、今は
ひた嘆なげく、悔くいと、悩なやみと、戦をの慄ゝきと。
あかあかとひらめく旗は
猥みだらなるその最いや終はての夏の曲きよく。
あなあはれ、あなあはれ、
あなあはれ、光消えさる。
四十年十一月
赤子
赤子啼く、
急はやき瀬せの中うち。
壁重き女ぢよ囚しうの牢ひと獄や、
鉄てつの門もん、
淫いん慾よくの蛇の紋もん章しやう
くわとおびえ、
水に、落いり日ひに
照りかへし、
黄ばむひととき。
四十一年六月
暮春
ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……
なやまし、河か岸しの日のゆふべ、
日の光。
ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……
眼がん科くわの窓まどの磨すり硝がら子す、しどろもどろの
白はく楊やうの温ぬるき吐とい息きにくわとばかり、
ものあたたかに、くるほしく、やはく、まぶしく、
蒸し淀よどむ夕ゆふ日ひの光。
黄きのほめき。
ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……
なやまし、またも
いづこにか、
なやまし、あはれ、
音ねも妙たへに
紅あかき嘴はしある小鳥らのゆるきさへづり。
ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……
はた、大おほ河かはの饐すえ濁にごる、河か岸しのまぢかを
ぎちぎちと病やましげにとろろぎめぐる
灰はい色いろ黄きばむ小こじ蒸よう汽きの温ぬるく、まぶしく、
またゆるくとろぎ噴ふく湯ゆ気げ
いま懈たゆく、
また絶えず。
ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……
いま病びや院うゐんの裏うら庭にはに、煉瓦のもとに、
白はく楊やうのしどろもどろの香かのかげに、
窓の硝がら子すに、
まじまじと日ひな向た求もとむる病やま人うどは目めも悩なやましく
見ぞ夢む、暮ぼし春ゆんの空と、もののねと、
水と、にほひと。
ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……
なやまし、ただにやはらかに、くらく、まぶしく、
また懈たゆく。
ひりあ、ひすりあ。
しゆツ、しゆツ……
四十一年三月
噴水の印象
噴ふき水あげのゆるきしたたり。――
霧しぶく苑そのの奥、夕ゆふ日ひの光、
水すゐ盤ばんの黄きなるさざめき、
なべて、いま
ものあまき嗟なげ嘆かひの色。
噴ふき水あげの病やめるしたたり。――
いづこにか病びや児うじ啼なき、ゆめはしたたる。
そこここに接くち吻つけの音おと。
空は、はた、
暮れかかる夏のわななき。
噴ふき水あげの甘きしたたり。――
そがもとに痍きずつける女ぢよ神じんの瞳。
はた、赤き眩くる暈めきの中うち、
冷ひやみ入る
銀ぎんの節ふし、雲のとどろき。
噴ふき水あげの暮るるしたたり。――
くわとぞ蒸むす日のおびえ、晩ばん夏かのさけび、
濡れ黄ばむ憂ヒス鬱テリ症イのゆめ
青む、あな
しとしとと夢はしたたる。
四十一年七月
顔の印象 六篇
A 精舎
うち沈む広ひろ額びたひ、夜よのごとも凹くぼめる眼まなこ――
いや深く、いや重く、泣きしづむ霊たましの精しや舎うじや。
それか、実げに声もなき秦とね皮りこの森のひまより
熟み視つむるは暗くらき池、谷そこの水のをののき。
いづこにか薄うす日ひさし、きしりこきり斑いか鳩るがなげく
寂さみ寥しらや、空の色なほ紅あけににほひのこれど、
静かなる、はた孤ひと独り、山やま間あひの霧にうもれて
悔くいと夜よのなげかひを懇ねもごろに通つ夜やし見まもる。
かかる間まも、底ふかく青あをの魚盲めしひあぎとひ、
口そそぐ夢の豹へう水の面もに血ちの音とたてつつ、
みな冷ひやき石の世よと化なりぞゆく、あな恐おそ怖れより。
かくてなほ声もなき秦とね皮りこよ、秘ひそに火ともり、
精しや舎うじやまた水晶と凝こごる時とき愁うれひやぶれて
響きいづ、響きいづ、最いや終はての霊たまの梵ぼん鐘しよう。
以下五篇――四十一年三月
B 狂へる街
赭あからめる暗くらき鼻、なめらかに禿はげたる額ひたひ、
痙ひき攣つれる唇くちの端はし、光なくなやめる眼まなこ
なにか見る、夕ゆふ栄ばえのひとみぎり噎むせぶ落いり日ひに、
熱ねつ病びやうの響ひびきする煉れん瓦ぐわ家やか、狂へる街まちか。
見るがまに焼せう酎ちうの泡あわしぶきひたぶる歎なげく
そが街まちよ、立てつづく尖とが屋りや根ね血ばみ疲つかれて
雲赤くもだゆる日、悩なやましく馬ばし車や駆かるやから
霊たましひのありかをぞうち惑まどひ窓まどふりあふぐ。
その窓まどに盲めしひたる爺をぢひとり鈍にぶき刃は研とげる。
はた、唖おふし朱しゆに笑ひ痺しびれつつ女をみなを説とける。
次つぎなるは聾ろうしぬる清き尼あま三しや味みせ線ん弾ひける。
しかはあれ、照り狂ふ街まちはまた酒と歌とに
しどろなる舞まひの列れつあかあかと淫たはれくるめき、
馬ばし車やのあと見もやらず、意い味みもなく歌ひ倒たふるる。
C 醋の甕
蒼あをざめし汝なが面おもて饐すえよどむ瞳ひとみのにごり、
薄くれ暮がたに熟み視つめつつ撓たわみちる髪の香かきけば――
醋すの甕かめのふたならび人もなき室むろに沈みて、
ほの暗くらき玻は璃りの窓ひややかに愁うれひわななく。
外との面もなる嗟なげ嘆かひよ、波もなきいんくの河に
旗青き独うつ木ろぶ舟ねそこはかと巡めぐり漕ぎたみ、
見えわかぬ悩なやみより錨いかり曳ひき鎖くさり巻かれて、
伽きや羅らまじり消え失うする黒くろ蒸じよ汽うき笛ふえぞ呻うめける。
吊つり橋ばしの灰はひ白じろよ、疲つかれたる煉れん瓦ぐわの壁かべよ、
たまたまに整ととのはぬ夜よのピアノ淫みだれさやげど、
ひとびとは声もなし、河の面おもをただに熟み視つむる。
はた、甕かめのふたならび、さこそあれ夢はたゆたひ、
内と外そとかぎりなき懸へだ隔たりに帷とばり堕おつれば、
あな悲し、あな暗くらし、醋すの沈しじ黙ま長くひびかふ。
D 沈丁花
なまめけるわが女をみな、汝なは弾ひきぬ夏の日の曲きよく、
悩なやましき眼めの色に、髪かう際ぎはの紛こなおしろひに、
緘つぐみたる色あかき唇くちびるに、あるはいやしく
肉ししむらの香かに倦うめる猥みだらなる頬ほのほほゑみに。
響ひびかふは呪のろはしき執しふと欲よく、ゆめもふくらに
頸うなじ巻く毛のぬくみ、真まし白ろなるほだしの環たまき
そがうへに我ぞ聴きく、沈ぢん丁てう花げたぎる畑はたけを、
堪たへがたき夏の日を、狂くるはしき甘あまきひびきを。
しかはあれ、またも聴く、そが畑はたに隣となる河か岸し側きは、
色ざめし浅あさ葱ぎま幕くしどけなく張りもつらねて、
調しらぶるは下げ司すのうた、はしやげる曲チヤ馬リネの囃はや子し。
その幕の羅らう馬ま字じよ、くるしげに馬は嘶いななき、
大おほ喇らつ叭ぱ鄙ひなびたる笑わらひしてまたも挑いどめば
生なまあつき色と香かとひとさやぎ歎なげきもつるる。
E 不調子
われは見る汝なが不ふて調う、――萎しなびたる瞳の光つ沢やに、
衰おとろへの頬ほににほふおしろひの厚き化けは粧ひに、
あはれまた褪あせはてし髪の髷まげ強つよきくゆりに、
肉ししむらの戦わな慄なきを、いや甘き欲よくの疲つか労れを。
はた思ふ、晩おそ夏なつの生なまあつきにほひのなかに、
倦うみしごと縺もつれ入るいと冷ひやき風の吐とい息きを。
新しん開かいの街まちはびて、色赤く猥みだるる屋根を、
濁りたる看かん板ばんを、入り残る窓の落いり日ひを。
なべてみな整ととのはぬ色の曲ふし……ただに鋭するどき
最ソプ高ラ音ノの入り雑まじり、埃ほこりたつ家やなみのうへに、
色にぶき土どざ蔵う家やの江えど戸し芝ば居ゐひとり古りたる。
露あらはなる日の光、そがもとに三しや味みはなまめき、
拍へう子し木ぎの歎なげきまたいと痛いたし古き痍いたでに、
かくてあな衰おとろへのもののいろ空そらは暮れ初む。
F 赤き恐怖
わかうどよ、汝なはくるし、尋とめあぐむ苦くも悶んの瞳ひとみ、
秀でたる眉のゆめ、ひたかわく赤き唇くちびる
みな恋の響なり、熟み視つむれば――調しらべかなでて
火のごとき馬ぐるま燃もえ過ぐる窓のかなたを。
はた、辻の真まひ昼るどき、白はこ楊やなぎにほひわななき、
雲浮かぶ空そらの色生なまあつく蒸しも汗あせばむ
街まちよ、あな音もなし、鐘はなほ鳴りもわたらね、
炎えん上じやうの光また眼めにうつり、壁ぞ狂くるへる。
人もなき路のべよ、しとしとと血を滴したたらし
胆きも抜ぬきて走る鬼、そがあとにただに餞うゑつつ
色赤き郵ポ便ス函トのみくるしげにひとり立ちたる。
かくてなほ窓の内うちすずしげに室むろは濡ぬるれど、
戸との外もにぞ火は熾さかる、………哀あはれ、哀あはれ、棚たなの上へに見よ、
水もなき消せう火くわ器きのうつろなる赤き戦をの慄のき。
盲ひし沼
午ごご後ろ六く時じ、血けつ紅こう色しよくの日の光
盲めしひし沼にふりそそぎ、濁にごりの水の
声もなく傷きずつき眩くらむ生なまおびえ。
鉄てつの匂にほひのひと冷ひやみ沁しみは入れども、
影うつす煙たば草こ工こう場ばの煉れん瓦ぐわ壁かべ。
眼めも痛いたましき香かのけぶり、機きか械いとどろく。
鳴ききたる鵝がて島うのうから
しらしらと水に飛び入る。
午後六時、また噴ふきなやむ管くだの湯ゆ気げ、
壁に凭よりたる素すは裸だかの若わか者ものひとり
腕かいな拭ふき鉄てつの匂にうち噎むせぶ。
はた、あかあかと蒸じよ気うき鑵がま音おとなく叫び、
そこここに咲きこぼれたる芹せりの花、
あなや、しとどにおしなべて日ぞ照りそそぐ。
声もなき鵞がて鳥うのうから
色みだし水に消え入る
午後六時、鵞がて鳥うの見たる水みな底ぞこは
血潮したたる沼ぬまの面もの負てき傷ずの光
かき濁る泥どろの臭くさみに疲つかれつつ、
水すゐ死しの人の骨のごとちらぼふなかに
もの鈍にぶき鉛の魚のめくるめき、
はた浮うかびくる妄まう念ねんの赤きわななき。
逃にげいづる鵞がて鳥うのうから
鳴きさやぎ汀みぎはを走はしる。
午後六時、あな水みそ底こより浮びくる
赤きわななき――妄念の猛たけると見れば、
強き煙草に、鉄てつの香かに、わかき男に、
顔いだす硝がら子すの窓の少をと女めらに血潮したたり、
歓くわ楽んらくの極はての恐おそ怖れの日のおびえ、
顫ふるひ高まる苦くる痛しみぞ朱あけにくづるる。
刹那、ふと太 く湯気 吐き
吼 えいづる休息 の笛。
四十一年七月
青き光
哀あはれ、みな悩なやみ入る、夏の夜よのいと青き光のなかに、
ほの白き鉄てつの橋、洞ほら円まろき穹ああ窿ちの煉れん瓦ぐわ、
かげに来て米炊かしぐ泥どろ舟ぶねの鉢はちの撫なで子しこ、
そを見ると見みお下ろせる人ひと々びとが倦うみし面おもても。
はた絶えず、悩なやましの角つの光り電車すぎゆく
河か岸しなみの白き壁あはあはと瓦斯も点ともれど、
うち向ふ暗き葉はや柳なぎ震わな慄なきつ、さは震わな慄なきつ、
後うしろよりはた泣くは青白き屋いへの幽いう霊れい。
いと青きソプラノの沈みゆく光のなかに、
饐すえて病むわかき日の薄くれ暮がたのゆめ。――
幽霊の屋いへよりか洩れきたる呪のろはしの音ねの
交ジム響フオ体ニのくるしみのややありて交まじりおびゆる。
いづこにかうち囃はやす幻げん燈とうの伴あは奏せの進マ行ア曲チ、
かげのごと往ゆき来きする白しろの衣きぬうかびつれつつ、
映うつりゆく絵ゑのなかのいそがしさ、さは繰りかへす。――
そのかげに苦くる痛しみの暗くらきこゑまじりもだゆる。
なべてみな悩なやみ入る、夏の夜よのいと青き光のなかに。――
蒸し暑あつき軟なよら風かぜもの甘あまき汗あせに揺ゆれつつ、
ほつほつと点ともれゆく水みづの面ものなやみの燈ともし、
鹹しほからき執しふの譜ふよ………み空には星ぞうまるる。
かくてなほ悩み顫ふるふわかき日の薄くれ暮がたのゆめ。――
見よ、苦にがき闇やみの滓をり街ちま衢たには淀よどみとろげど、
新あらたにもしぶきいづる星の華はな――泡あわのなげきに
色青き酒のごと空そらは、はた、なべて澄みゆく。
四十一年七月
樅のふたもと
うちけぶる樅もみのふたもと。
薄くれ暮がたの山の半なか腹らのすすき原はら、
若わか草くさ色いろの夕ゆふあかり濡れにぞ濡るる
雨の日のもののしらべの微いみ妙じさに、
なやみ幽かすけき シCオhパoンpin の楽がくのしたたり
やはらかに絶えず霧するにほやかさ。
ああ、さはあかれ、嗟なげ嘆かひの樅もみのふたもと。
はやにほふ樅もみのふたもと。
いつしかに色にほひゆく靄のすそ、
しみらに燃もゆる日の薄うす黄ぎ、映うつらふみどり、
ひそやかに暗くらき夢弾ひく列つら並なみの
遠とほの山やま々やまおしなべてものやはらかに、
近ちかほとりほのめきそむる歌うたの曲ふし。
ああ、はやにほへ、嗟なげ嘆かひの樅もみのふたもと。
燃えいづる樅もみのふたもと。
濡れ滴したる柑かう子じの色のひとつらね、
深き青みの重かさなりにまじらひけぶる
山の端はの縺もつれのなやみ、あるはまた
かすかに覗のぞく空のゆめ、雲のあからみ、
晩おそ夏なつの入いり日ひに噎むせぶ夕ゆふながめ。
ああ、また燃もゆれ、嗟なげ嘆かひの樅もみのふたもと。
色うつる樅もみのふたもと。
しめやげる葬はふりの曲ふしのかなしみの
幽かすかにもののなまめきに揺ゆら曳ひくなべに、
沈しづみゆく雲の青みの階シム調フオニヤ、
はた、さまざまのあこがれの吐とい息きの薫くゆり、
薄れつつうつらふきはの日のおびえ。
ああ、はた、響け、嵯なげ嘆かひの樅もみのふたもと。
饐すえ暗くらむ樅のふたもと。
燃えのこる想おもひのうるみひえびえと、
はや夜よの沈しじ黙ましのびねに弾きも絶え入る
列つら並なみの山のくるしみ、ひと叢むらの
柑かう子じの靄のおぼめきも音ねにこそ呻うめけ、
おしなべて御みづ龕しの空そらぞ饐すえよどむ。
ああ、見よ、悩なやむ、嗟なげ嘆かひの樅もみのふたもと。
暮れて立つ樅もみのふたもと。
声もなき悲ひぐ願わんの通つ夜やのすすりなき
薄らの闇に深みゆく、あはれ、法ほふ悦えつ、
いつしかに篳ひち篥りきあかる谷のそら、
ほのめき顫ふるふ月つき魄しろのうれひ沁みつつ
夢青む忘われ我かの原の靄の色。
ああ、さは顫ふるへ嗟なげ嘆かひの樅もみのふたもと。
四十一年二月
夕日のにほひ
晩おそ春はるの夕ゆふ日ひの中なかに、
順じゆ礼んれいの子はひとり頬ほをふくらませ、
濁にごりたる眼めをあげて管くだうち吹ける。
腐くされゆく襤つづ褸れのにほひ、
酢すと石せき油ゆ……にじむ素すあ足しに
落ちちれる果くだ実ものの皮、赤くうすく、あるは汚きたなく……
片かた手てには噛かぢりのこせし
林りん檎ごをばかたく握にぎりぬ。
かくてなほ頬ほをふくらませ
怖おづおづと吹きいづる………珠たまの石しや鹸ぼんよ。
さはあれど、珠たまのいくつは
なやましき夕ゆふ暮ぐれのにほひのなかに
ゆらゆらと円まろみつつ、ほつと消きえたる。
ゆめ、にほひ、その吐とい息き……
彼かれはまた、
怖おづ々おづと、怖おづ々おづと、……眩まぶしげに頬ほをふくらませ
蒸むし淀よどむ空くう気きにぞ吹きもいでたる。
あはれ、見よ、
いろいろのかがやきに濡ぬれもしめりて
円まろらにものぼりゆく大おほきなるひとつの珠たまよ。
そをいまし見あげたる無むし心んの瞳ひとみ。
背そび後らには、血しほしたたる
拳こぶしあげ、
霞かすめる街まちの大おほ時どけ計い睨にらみつめたる
山さん門もんの仁にわ王うの赤あかき幻イリ想ユウジヨン……
その裏うらを
ちやるめらのゆく……
四十一年十二月
浴室
水落つ、たたと………浴よく室しつの真白き湯ゆつ壺ぼ
大なめ理い石しの苦なや悩みに湯ゆ気げぞたちのぼる。
硝がら子すの外そとの濁にご川りがは、日にあかあかと
小こじ蒸よう汽きの船ふな腹ばら光るひとみぎり、太鼓ぞ鳴れる。
水落つ、たたと………‥灰はひ色いろの亜とた鉛んの屋根の
繋けい留りう所じよ、わが窓近き陰いん鬱うつに
行ぎや徳うとくゆきの人はいま見つつ声なし、
川むかひ、黄わう褐かつ色しよくの雲のもと、太皷ぞ鳴れる。
水落つ、たたと…………両りや国うごくの大おほ吊つり橋ばしは
うち煤すすけ、上かみ手て斜ななめに日を浴あびて、
色薄黄きばみ、はた重く、ちやるめらまじり
忙せはしげに夜よに入る子らが身の運はこび、太皷ぞ鳴れる。
水落つ、たたと…………もの甘く、あるひは赤く、
うらわかきわれの素すは肌だに沁しみきたる
鉄てつのにほひと、腐くされゆく石しや鹸ぼんのしぶき。
水みの面もには荷にた足りの暮れて呼ぶ声す、太皷ぞ鳴れる。
水落つ、たたと…………たたとあな音ねい色ろ柔やはらに、
大なめ理い石しの苦なや悩みに湯ゆ気げは濃こく、温ぬるく、
鈍にぶきどよみと外ぐわ光いくわうのなまめく靄に
疲つかれゆく赤き都とく会わいのらうたげさ、太皷ぞ鳴れる。
四十一年八月
入日の壁
黄きに潤しめる港の入いり日ひ、
切きり支した丹ん邪じや宗しゆうの寺の入いり口ぐちの
暗くらめるほとり、色古りし煉れん瓦ぐわの壁に射かへせば、
静かに起る日の祈いの祷り、
﹃ハレルヤ﹄と、奥にはにほふ讃さん頌しようの幽かすけき夢ゆめ路ぢ。
あかあかと精しや舎うじやの入日。――
ややあれば大おほ風オル琴ガンの音ねの吐とい息き
たゆらに嘆なげき、白はく蝋らふの盲しひゆく涙。――
壁のなかには埋うづもれて
眩めく暈るめき、素すは肌だに立てるわかうどが赤き幻まぼろし。
ただ赤き精しや舎うじやの壁に、
妄まう念ねんは熔とろくるばかりおびえつつ
全ぜん身しん落つる日を浴あびて真まな夏つの海をうち睨にらむ。
﹃聖サンタマリヤ、イエスの御みは母は。﹄
一いつ斉せいに礼をろ拝がみ終をはる老らう若にやくの消え入るさけび。
はた、白しらむ入日の色に
しづしづと白はく衣えの人らうちつれて
湿しめ潤りも暗き戸とぐ口ちより浮びいでつつ、
眩まぶしげに数じゆ珠ずふりかざし急いそげども、
など知らむ、素すは肌だに汗あせし熔とろけゆく苦くな悩うの思おもひ。
暮れのこる邪じや宗しゆうの御みて寺ら
いつしかに薄うすらに青くひらめけば
ほのかに薫くゆる沈ぢんの香かう、波ハ羅ラ葦イ増ソのゆめ。
さしもまた埋うもれて顫ふるふ妄まう念ねんの
血に染みし踵かがとのあたり、蟋きり蟀ぎりす啼きもすずろぐ。
四十一年八月
狂へる椿
ああ、暮ぼし春ゆん。
なべて悩なやまし。
溶とろけゆく雲のまろがり、
大おほぞらのにほひも、ゆめも。
ああ、暮春。
大なめ理い石しのまぶしきにほひ――
幾いく基もとの墓の日ひな向たに
照りかへし、
くわと入る光。
ものやはき眩くる暈めきの甘き恐おそ怖れよ。
あかあかと狂ひいでぬる薮やぶ椿つばき、
自や棄けに熱ねつ病やむ霊たまか、見よ、枝もたわわに
狂ひ咲き、
狂ひいでぬる赤き花、
赤き言うはごと。
そがかたへなる崖がけの上うへ、
うち湿しめり、熱ほてり、まぶしく、また、ねぶく
大おほ路ぢに淀よどむもののおと。
人じん力りき車しや夫ふは
ひとつらね青あを白じろの幌ほろをならべぬ。
客を待つこころごころに。
ああ、暮春。
さあれ、また、うちも向へる
いと高く暗き崖がけには、
窓まどもなき牢ひと獄やの壁の
長き列つら、はては閉とざせる
灰はひ黒ぐろの重き裏うら門もん。
はたやいま落つる日ひびき、
照りあかる窪くぼ地ちのそらの
いづこにか、
さはひとり、
湿しめり吹きゆく
幼をさなごころの日のうれひ、
そのちやるめらの
笛の曲ふし。
笛の曲ふし…………
かくて、はた、病やみぬる椿つばき、
赤く、赤く、狂くるへる椿つばき。
四十一年六月
吊橋のにほひ
夏の日の激はげしき光
噴ふきいづる銀ぎんの濃こぐ雲もに照りうかび、
雲は熔とろけてひたおもて大おほ河かは筋すぢに射かへせば、
見よ、眩めく暈るめく水の面おも、波も真白に
声もなき潮のさしひき。
そがうへに懸かかる吊橋。
煤すすけたる黝ねずみの鉄てつの桁けた構がまへ、
半はん月げつ形けいの幾いく円まろみ絶えつつ続くかげに、見よ、
薄うすらに青む水の色、あるは煉れん瓦ぐわの
円まろ柱はしら映うつろひ、あかみ、たゆたひぬ。
銀ぎん色いろの光のなかに、
そろひゆく櫂オオルのなげきしらしらと、
或あるひは仄ほのの水みづ鳥とりのそことしもなき音ねのうれひ、
河か岸しの氷ひむ室ろの壁も、はた、ただに真昼の
白はく蝋らふの冷ひやみの沈しじ黙ま。
かくてただ悩なやむ吊つり橋はし、
なべてみな真白き水みの面も、はた、光、
ただにたゆたふ眩くる暈めきの、恐おそ怖れの、仄ほのの哀かな愁しみの
銀ぎんの真まひ昼るに、色重き鉄てつのにほひぞ
鬱うつ憂いうに吊られ圧おさるる。
鋼かう鉄てつのにほひに噎むせび、
絶えずまた直ひた裸はだかなる男の子
真まし白ろに光り、ひとならび、力ちからあふるる面おもてして
柵さくの上より躍をどり入る、水の飛しぶ沫きや、
白はつ金きんに濡ぬれてかがやく。
真まし白ろなる真まな夏つの真まひ昼る。
汗あせ滴したるしとどの熱ねつに薄うす曇くもり、
暈くらみて歎なげく吊橋のにほひ目めあ当てにたぎち来る
小こじ蒸よう汽きせ船んの灰はひばめる鈍にぶき唸うなりや、
日は光り、煙うづまく。
四十一年八月
硝子切るひと
君は切る、
色あかき硝がら子すの板いたを。
落いり日ひさす暮ぼし春ゆんの窓に、
いそがしく撰えらびいでつつ。
君は切る、
金こん剛がうの石のわかさに。
茴アブ香サ酒ンのごときひとすぢ
つと引きつ、切りつ、忘れつ。
君は切る、
色あかき硝がら子すの板を。
君は切る、君は切る。
四十年十二月
悪の窓 断篇七種
一 狂念
あはれ、あはれ、
青あを白じろき日の光西よりのぼり、
薄くれ暮がたの灯のにほひ昼もまた点ともりかなしむ。
わが街まちよ、わが窓よ、なにしかも焼せう酎ちう叫さけび、
鶴つる嘴はしのひとつらね日に光り悶もだえひらめく。
汽きし車やぞ来くる、汽きし車やぞ来くる、真まく黒ろげに夢とどろかし、
窓もなき灰はひ色いろの貨くわ物もつ輌ばこ豹へうぞ積みたる。
あはれ、はや、焼せう酎ちうは醋すとかはり、人は轢しかれて、
盲めしひつつ血に叫ぶ豹へうの声遠とほに泡あわ立つ。
二 疲れ
あはれ、いま暴あらびゆく接くち吻つけよ、肉ししむらの曲きよく。……
かくてはや青白く疲つかれたる獣けものの面おもて
今け日ふもまた我われ見み据すゑ、果は敢かなげに、いと果は敢かなげに、
色濁にごる窓まど硝がら子す外との面もより呪のろひためらふ。
いづこにかうち狂くるふオロンよ、わが唇くちびるよ、
身をも燬やくべき砒ひ素その壁かべ夕日さしそふ。
三 薄暮の負傷
血潮したたる。
薄くれ暮がたの負てき傷ずなやまし、かげ暗くらき溝みぞのにほひに、
はた、胸に、床ゆかの鉛なまりに……
さあれ、夢には列つらなめて駱らく駝だぞ過すぐる。
埃えじ及ぷとのカイロの街まちの古ふる煉れん瓦が
壁のひまには砂さば漠くなるオアシスうかぶ。
その空にしたたる紅あかきわが星よ。……
血潮したたる。
四 象のにほひ
日をひと日。
日をひと日。
日をひと日、光なし、色も盲めしひて
ふくだめる、はた、病やめるなやましきもの
ふたぎふたぎ気け倦だるげに唸うなりもぞする。
あはれ、わが幽いう鬱うつの象ざう
亜あ弗ふ利り加かの鈍にぶきにほひに。
日をひと日。
日をひと日。
五 悪のそびら
おどろなす髪の亜あさ麻い色ろ
背そびら向け、今け日ふもうごかず、
さあれ、また、絶えずほつほつ
息しぼり﹃死﹄にぞ吹くめる、
血のごとき石しや鹸ぼんの珠たまを。
六 薄暮の印象
うまし接くち吻つけ……歓さざ語めごと……
さあれ、空には眼めに見えぬ血ちし潮ほしたたり、
なにものか負て傷おひくるしむ叫さけびごゑ、
など痛いたむ、あな薄くれ暮がたの曲きよくの色、――光の沈しじ黙ま。
うまし接くち吻つけ……歓さざ語めごと……
七 うめき
暮くれゆく日、血に濁る床ゆかの上にひとりやすらふ。
街まちしづみ、しづみ、わが心もの音おともなし。
載のせきたる板いた硝がら子す過すぐるとき車燬やきつつ
落つる日の照りかへし、そが面おもて噎びあかれば
室むろ内ぬちの汚けが穢れ、はた、古壁に朽ちし鉞まさかり
一ひと斉ときに屠はふらるる牛の夢くわとばかり呻うめき悶もだゆる。
街まちの子は戯たはむれに空うつ虚ろなる乳ちの鑵くわんたたき、
よぼよぼの飴あめ売うりは、あなしばし、ちやるめらを吹く。
くわとばかり、くわとばかり、
黄きに光る向むかひの煉れん瓦ぐわ
くわとばかり、あなしばし。――
悪の 畢――四十一年二月
蟻
おほらかに、
いとおほらかに、
大おほきなる鬱うこ金んの色の花の面おも。
日は真まひ昼る、
時は極ごく熱ねつ、
ひたおもて日ひざ射しにくわつと照りかへる。
時に、われ
世よの蜜みつもとめ
雄ゆう蕋ずゐの林の底をさまよひぬ。
光の斑ふ
燬やけつ、断ちぎれつ、
豹へうのごと燃もえつつ湿しめる径みちの隈くま。
風吹かず。
仰ふげば空そらは
烈れつ々れつと鬱うこ金んを篩ふるふ蕋ずゐの花。
さらに、聞く、
爛ただれ、饐すえばみ、
ふつふつと苦くつ痛うをかもす蜜の息。
楽げう欲よくの
極みか、甘き
寂じや寞くまくの大だい光くわ明うみやう、に喘あへぐ時。
人にん界がいの
七なな谷たに隔へだて、
丁とう々とうと白びや檀くだんを伐うつ斧をのの音おと。
四十年三月
華のかげ
時ときは夏、血のごと濁にごる毒どく水すゐの
鰐わに住む沼ぬまの真まひ昼るど時き、夢ともわかず、
日に嘆なげく無むり量やうの広ひろ葉はかきわけて
ほのかに青き青せい蓮れんの白しら華はな咲けり。
ここ過よぎり街まちにゆく者、――
婆ばら羅も門んの苦くぎ行やうの沙しや門もん、あるはまた
生なま皮かわ漁あさる旃せん陀だ羅らが鈍にぶき刃はの色、
たまたまに火の布きれ巻ける奴しも隷べども
石せき油ゆの鑵くわんを地に投なげて鋭するどに泣けど、
この旱ひでり何い時つかは止やまむ。これやこれ、
饑うゑに堕おちたる天てん竺ぢくの末まつ期ごの苦くげ患ん。
見るからに気きこ候うふ風う吹く空そらの果はて
銅あか色がねいろのうろこ雲湿しめ潤りに燃りもえて
恒ガン河ヂスの鰐わにの脊せのごとはらばへど、
日は爛ただれ、大たい地ちはあはれ柚ゆず色いろの
熱ねつ黄わう疸だんの苦くる痛しみに吐とい息きも得せず。
この恐おそ怖れ何に類たぐへむ。ひとみぎり
地ちへ平いのはてを大たい象ざうの群むれ御ぎよしながら
槍やり揮ふるふ土どじ人んが昼の水かひも
終をへしか、消ゆる後うし姿ろでに代かはれる列れつは
こは如い何かに殖しよ民くみ兵んへいの黒ニグ奴ロらが
喘あへぎ曳き来る真まく黒ろなる火くわ薬やくの車くる輌ま
掲かかぐるは危きけ嶮んの旗の朱しゆの光
絶えず饑うゑたる心しん臓ざうの呻うめくに似たり。
さはあれど、ここなる華はなと、円まろき葉の
あはひにうつる色、匂にほひ、青みの光、
ほのほのと沼ぬまの水みの面もの毒の香も
薄うすらに交まじり、昼はなほかすかに顫ふるふ。
四十年十二月
幽閉
色濁にごるぐらすの戸ともて
封ふうじたる、白まひ日るびの日のさすひと間ま、
そのなかに蝋らふのあかりのすすりなき。
いましがた、蓋ふた閉とざしたる風オル琴ガンの忍しのびのうめき。
そがうへに瞳ひとみ盲しひたる嬰みど児りごぞ戯れあそぶ。
あはれ、さは赤あか裸はだかなる、盲めしひなる、ひとり笑ゑみつつ、
声たてて小さく愛めぐしき生うまれの臍ほぞをまさぐりぬ。
物病やましさのかぎりなる室むろのといきに、
をりをりは忍び入るらむ戯おどけたる街ちま衢たの囃はや子し、
あはれ、また、嬰みど児りご笑ふ。
ことことと、ひそかなる母のおとなひ
幾いく度たびとなく戸を押せど、はては敲たたけど、
色濁る扉とびらはあかず。
室むろの内うち暑く悒いぶ鬱せく、またさらに嬰みど児りご笑ふ。
かくて、はた、硝がら子すのなかのすすりなき
蝋らふのあかりの夜よを待たず尽きなむ時よ。
あはれ、また母の愁うれひの恐おそ怖れとならむそのみぎり。
あはれ、子はひたに聴き入る、
珍めづらなるいとも可を笑かしきちやるめらの外そとの一ひと節ふし。
四十一年六月
鉛の室
いんきは赤し。――さいへ、見よ、室むろの腐ふし蝕よくに
うちにじみ倦うんじつつゆくわがおもひ、
暮ぼし春ゆんの午ご後ごをそこはかと朱しゆをば引ひけども。
油じむ末すぐ黒ろの文も字じのいくつらね
悲しともなく誦ずしゆけど、響ひびらぐ声こゑは
びてゆく鉛なまりの悔くやみ、しかすがに、
強つよき薫くゆりのなやましさ、鉛なまりの室むろは
くわとばかり火ウオ酒ツカのごとき噎むせびして
壁の湿しめ潤りを玻は璃りに蒸す光の痛いたさ。
力ちからなき活くわ字つじひろひの淫たはれ歌うた、
病やめる機きか械いの羽はたたきにあるは沁み来こし
新あたらしき紙の刷すられの香かも消きゆる。
いんきや尽きむ。――はやもわがこころのそこに
聴くはただ饐すえに饐すえゆく匂にほひのみ、――
はた、滓をりよどむ壺つぼを見よ。つとこそ一ひと人り、
手を棚たなへ延のすより早く、とくとくと、
赤き硝がら子すのいんき罎びん傾かたむけそそぐ
一いつ刹せつ那な、壺つぼにあふるる火のゆらぎ。
さと燃もえあがる間まこそあれ、飜かへると見れば
手に平ひらむ吸すひ取とり紙がみの骸かば色ねいろ
爛ただれぬ――あなや、血はしと、と卓しよくに滴したたる。
四十年九月
真昼
日は真まひ昼る――野づかさの、寂せき寥れうの心しんの臓ざうにか、
ただひとつ声もなく照りかへす硝がら子すの破くだ片け。
そのほとり ウWヰHスIキSイKYの匂にほひ蒸むす銀ぎん色いろの内うち、
声するは、密ひそかにも露吸ひあぐる、
色赤き、色赤き花の吐とい息き……
四十一年十二月
[#改丁]
このさんたくるすは三百年まへより大江村の切支丹のうちに忍びかくして守りつたへたるたつときみくるすなり。これは野中に見いでたり。
天草島大江村天主堂秘蔵
天草雅歌
四十年八月、新詩社の諸友とともに遠く天草島に遊ぶ。こはその紀念作なり。
「四十年十月作」
﹇#改ページ﹈
天艸雅歌
角を吹け
わが佳とよ、いざともに野にいでて
歌はまし、水すゐ牛ぎうの角つのを吹け。
視よ、すでに美みく果だも実のあからみて
田にはまた足たり穂ほ垂れ、風のまに
山鳩のこゑきこゆ、角つのを吹け。
いざさらば馬ばれ鈴いし薯よの畑はたを越え
瓜ジヤ哇ワびとが園に入り、かの岡に
鐘やみて蝋らふの火の消ゆるまで
無いち花じゆ果くの乳ちをすすり、ほのぼのと
歌はまし、汝なが頸くびの角つのを吹け。
わが佳とよ、鐘きこゆ、野に下りて
葡萄樹じゆの汁つゆ滴したる邑むらを過ぎ、
いざさらば、パアテルの黒き袈け裟さ
はや朝の看つと経めはて、しづしづと
見えがくれ棕しゆ櫚ろの葉に消ゆるまで、
無いち花じゆ果くの乳ちをすすり、ほのぼのと
歌はまし、いざともに角つのを吹け、
わが佳とよ、起き来れ、野にいでて
歌はまし、水すゐ牛ぎうの角つのを吹け。
ほのかなる蝋の火に
いでや子ら、日は高し、風たちて
棕しゆ櫚ろの葉のうち戦そよぎ冷ひゆるまで、
ほのかなる蝋らふの火に羽はをそろへ
鴿はとのごと歌はまし、汝なが母も。
好よき日なり、媼おうなたち、さらばまづ
祷いのらまし賛さん美び歌かの十じふ五ごば番ん、
いざさらば風オル琴ガンを子らは弾け、
あはれ、またわが爺おぢよ、なにすとか、
老おい眼めが鏡ねここにこそ、座ざはあきぬ、
いざともに祷いのらまし、ひとびとよ、
さんた・まりや。さんた・まりや。さんた・まりや。
拝をろがめば香かう炉ろの火身に燃えて
百合のごとわが霊たまのうちふるふ。
あなかしこ、鴿はとの子ら羽はをあげて
御みづ龕しなる蝋らふの火をあらためよ。
黒くろ船ふねの笛きこゆいざさらば
ほどもなくパアテルは見えまさむ、
さらにまた他たの燭そくをたてまつれ。
あなゆかし、ロレンゾか、鐘鳴らし、
まめやかに安あん息そくの日を祝ほぐは、
あな楽し、真まし白ろなる羽をそろへ
鴿はとのごと歌はまし、わが子らよ。
あはれなほ日は高し、風たちて
棕しゆ櫚ろの葉のうち戦そよぎ冷ひゆるまで、
ほのかなる蝋らふの火に羽をそろへ
鴿はとのごと歌はまし、はらからよ。
を抜けよ
はやも聴け、鐘鳴りぬ、わが子らよ、
御みだ堂うにははや夕よべの歌きこえ、
蝋らふの火もともるらし、を抜ぬけよ。
もろもろの美みく果だも実の籠こに盛りて、
汝なが鴿はとら畑はたに下り、しらしらと
帰るらし夕ゆふづつのかげを見よ。
われらいま、空そら色いろの帆ほのやみに
新あらたなる大おほ海うみの香かう炉ろ採とり
籠こにきぬ、ひるがへる魚を見よ。
さるほどに、跪き、ひとびとは
目ま見み青き上しや人うにんと夜に祷いのり、
捧げます御みくるすの香かにや酔ふ、
うらうらと咽ぶらし、歌をきけ。
われらまた祖みお先やらが血によりて
洗そ礼そがれし仮かな名ぶ文みの御みき経やうにぞ
主しゆうよ永と久はに恵みあれ、われらも、と
鴿はと率ゐつつ祷らまし、帆をしぼれ。
はやも聴け、鐘鳴りぬ、わが子らよ、
御みだ堂うにははや夕よべの歌きこえ、
蝋らふの火もくゆるらし、を抜けよ、
汝にささぐ
女をみ子なごよ、
汝なに捧ささぐ、
ただひとつ。
然しかはあれ、汝なも知らむ。
このさんた・くるすは、かなた
檳びろ榔うじ樹ゆの実みの落つる国、
夕ゆふ日ひさす白はく琺はふ瑯らうの石の階はし
そのそこの心の心、――
えめらるど、あるは紅こう玉ぎよく、
褐くりの埴はに八やち千さ層か敷ける真まそ底こより、
汝なが愛を讃たたへむがため、
また、清き接くち吻つけのため、
水晶の柄えをすげし白しろ銀かねの鍬をもて、
七つほど先さきの世よゆ世を継つぎて
ひたぶるに、われとわが
採とりいでし型かた、
その型かたを
汝なに捧ささぐ、
女をみ子なごよ。
ただ秘めよ
曰いひけるは、
あな、わが少をと女め、
天あま艸くさの蜜みつの少をと女めよ。
汝なが髪は烏からすのごとく、
汝なが唇くちは木この実みの紅あけに没もつ薬やくの汁しゆ滴したたらす。
わが鴿はとよ、わが友よ、いざともに擁いだかまし。
薫くゆり濃こき葡萄の酒は
玻ぎや璃まんの壺つぼに盛もるべく、
もたらしし麝じや香かうの臍ほぞは
汝なが肌の百合に染めてむ。
よし、さあれ、汝なが父に、
よし、さあれ、汝なが母に、
ただ秘ひめよ、ただ守れ、斎いつき死ぬまで、
虐しひたげの罪の鞭しもとはさもあらばあれ、
ああただ秘ひめよ、御みくるすの愛あいの徴しるしを。
さならずば
わが家いへの
わが家いへの可か愛あゆき鴿はとを
その雛ひなを
汝なれせちに恋ふとしならば、
いでや子よ、
逃のがれよ、早も邪じや宗しゆ門うもん外げだ道うの教をしへ
かくてまた遠き祖おやより伝つたヘこし秘ひみ密つの聖くる磔す
とく柱より取りいでよ。もし、さならずば
もろもろの麝じや香かうのふくろ、
桂けい枝し、はた、没もつ薬やく、蘆ろく薈わい
および乳ちち、島の無いち花じゆ果く、
如何に世のにほひを積むも、――
さならずば、
もしさならずば――
汝なれいかに陳ちんじ泣くとも、あるは、また
護ご摩まき修し、伴ばて天れ連んの救すくひよぶとも、
ああ遂に詮せん業すべなけむ。いざさらば
接くち吻つけの妙たへなる蜜みつに、
女をみ子なごの葡萄の息いきに、
いで﹃ころべ﹄いざ歌へ、わかうどよ。
嗅煙艸
﹃あはれ、あはれ、深ふか江えの媼おばよ。
髪も頬ほも煙たば艸こい色ろなる、
棕しゆ櫚ろの根に蹲うづくむ媼おばよ。
汝なが持てる象ざう牙げの壺つぼは
また薫くゆる褐くりなる粉こなは
何ぞ。また、せちに鼻つけ
涙垂れ、あかき眼め擦するは。﹄
このときに渡わたりの媼おうな
呻によぶらく。﹃わが葡ほる萄とが牙る、
こを嗅かぎてわかきは思ふ。﹄
﹃さらば、汝なは。﹄﹃責せめそ、さな、さな、
養やし生なひを骸からはただ欲ほれ。
さればこそ、この嗅かぎ煙たば艸こ。﹄
鵠
わかうどなゆめ近よりそ、
かのゆくは邪じや宗しゆうの鵠くぐひ、
日のうちに七なな度たび八やた度び
潮うしほあび化けは粧ひすといふ
伴ばて天れ連んの秘ひその少をと女めぞ。
地になびく髪には蘆ろく薈わい、
嘴はしにまたあかき実みを塗ぬる
淫みだらなる鳥にしあれば、
絶えず、その真まし白ろ羽はひろげ
乳にふ香かうの水したたらす。
されば、子なゆめ近よりそ。
視よ、持つは炎ほのほか、華はなか、
さならずば実みの無いち花じゆ果くか、
兎とにもあれ、かれこそ邪じや法はふ。
わかうどなゆめ近よりそ。
日ごとに
日ごとにわかき姿すがたして
日ごとに歌ふわが族ぞうよ、
日ごとに紅あかき実みの乳ちぶ房さ
日ごとにすてて漁あさりゆく。
黄金向日葵
あはれ、あはれ、黄こが金ね向ひぐ日る葵ま
汝みましまた太ひ陽にも倦あきしか、
南なん国ごくの空の真まひ昼るを
かなしげに疲つかれて見ゆる。
一
香かう炉ろいま
一いつのかをり。
あはれ、火はこころのそこに。
さあれ、その
一いつのけむり、
かの空そらの青き龕みづしに。
﹇#改丁﹈
青き花
南紀旅行の紀念として且はわが羅曼底時代のあえかなる思出のために、この幼き一章を過ぎし日の友にささぐ。
「四十年二、三両月中作」
﹇#改ページ﹈
青き花
そは暗くらきみどりの空に
むかし見し幻まぼろしなりき。
青き花
かくてたづねて、
日も知らず、また、夜よも知らず、
国あまた巡めぐりありきし
そのかみの
われや、わかうど。
そののちも人とうまれて、
微いみ妙じくも奇くしき幻まぼろし
ゆめ、うつつ、
香かこそ忘れね、
かの青き花をたづねて、
ああ、またもわれはあえかに
人ひとの世よの
旅たび路ぢに迷ふ。
君
かかる野に
何い時つかありけむ。
仏ぶし手ゆか柑んの青む南なん国ごく
薫かをる日の光なよらに
身をめぐりほめく物の香か、
鳥うたひ、
天そらもゆめみぬ。
何い時つの世か
君と識しりけむ。
黄こが金ねなす髪もたわたわ、
みかへるか、あはれ、つかのま
ちらと見ぬ、わかき瞳ひとみに
にほひぬる
かの青き花。
桑名
夜よとなりぬ、神かみ世よに通ふやすらひに
早や門かど鎖とざす古ふる伊い勢せの桑くわ名なの街まちは
路みちも狭せに高き屋やづくり音おともなく、
陰いん森しんとして物の隈くまひろごるにほひ。
おほらかに零れい落らくの戸を瞰みお下ろして
愁ふるがごと月げつ光くわうは青に照せり。
参さん宮ぐうの衆しゆうにかあらむ、旅たびびとの
二ふた人り三みた人りはさきのほどひそかに過すぎぬ。
貸かし旅はた籠ご札ふだのみ白き壁つづき
ほとほと遠く、物ごゑの夜よか風ぜに消えて、
今ははた数かず添そはりゆく星くづの
天そらなる調しらべやはらかに、地は闌ふけまさる。
時になほ街まちはづれなる老しに舗せの戸
少し明あかりて火は路みちへひとすぢ射さしぬ。
行あん燈どうのかげには清き女めの童わらは物もの縫ぬふけはひ、
そがなかにたわやの一ひと人り髪あげて
戸との外もすかしぬ。――事もなき夜よのしづけさに。
朝
――汽車のなかにて――
わが友よ、はや眼めをさませ。
玻は璃りの戸にのこる灯ひゆらぎ、
夜よはわかきうれひに明けぬ。
順礼はつとにめざめて
あえかなる友をかおもふ。
清すずしげの髪のそよぎに
笈おひづるのいろもほのぼの。
わが友よ、はや眼めをさませ。
かなた、いま白しらむ野のそら、
薔さう薇びにはほのかに薄うすく
菫よりやや濃こきあはひ、
かのわかき瞳ひとみさながら
あけぼのの夢より醒さめて
わだつみはかすかに顫ふるふ。
紅玉
かかるとき、
海ゆく船に
まどはしの人にん魚ぎよか蹤つける。
美くしき術じゆつの夕ゆふべに、
まどろみの香かう油ゆしたたり、
こころまた
けぶるともなく、
幻まぼろしの黒髪きたり、
夜よのごとも
わが眼め蔽おほへり。
そことなく
おほくのひとの
あえかなるかたらひおぼえ、
われはただひしと凝み視つめぬ。
夢ふかき黒髪の奥おく
朱しゆに喘ぐ
紅こう玉ぎよくひとつ、
これや、わが胸より落つる
わかき血の
燃もゆる滴したたり。
海辺の墓
われは見き、
いつとは知らね、
薄うすあかるにほひのなかに
夢ならずわかれし一ひと人り、
ものみなは涙のいろに
消えぬとも。
ああ、えや忘る。
かのわかき黒髪のなか、
星のごと濡れてにほひし
天そら色いろの勾まが玉たま七つ。
われは見ぬ、
漂さす浪らひながら、
見もなれぬ海辺の墓に
うつつにも眠れる一ひと人り
そことなき髪のにほひの
ほのめきも、
ああ、えや忘る。
いま寒き夕ゆふ闇やみのそこ、
星のごと濡れてにほへる
天そら色いろの露つゆ草くさ七つ。
渚の薔薇
紀きの南みなみ、白しら良らの渚なぎさ、
荒き灘なだ高く砕くだけて
天そら暗くらう轟とどろくほとり、
ひとならび夕ゆふ陽ひをうけて
面おもほてり、むらがり咲ける
色紅あかき薔さう薇びの族ぞうよ。
火のごとき
寄せ返し、遠く消えゆく
塩 暗き音 を聴け。
ああ薔さう薇び、汝なれにむかへば
わかき日のほこりぞ躍る。
薔さう薇び、薔さう微び、あてなる薔さう薇び。
紐
海の霧にほやかなるに
灯ひも見ゆる夕暮のほど、
ほのかなる旅はた籠ごの窓に
在あるとなく暮くれもなやめば、
やはらかき私ささ語やきまじり
咽むせびきぬ、そこはかとなく、
火に焼くる薔さう薇びのにほひ。
ああ、薔さう薇び、暮れゆく今け日ふを
そぞろなり、わかき喘あへぎに
図はからずも思ひぞいづる。
そは熱あつき夏の渚なぎ辺さべ、
濡ぬれ髪がみのなまめかしさに、
女をみなつと寝ねがへりながら、
みだらなる手して結びし
色紅あかき韈くつしたの紐ひも。
昼
蜜みか柑んぶ船ね凪なぎにうかびて
壁白き浜のかなたは
あたたかに物売る声す。
波もなき港の真まひ昼る、
白しろ銀がねの挿さし櫛ぐし撓たはみ
いま遠く二つら三つら
水の上へをすべると見つれ。
波もなき港の真昼、
また近く、二つら三つら
飛とびの魚すべりて安やすし。
夕
あたたかに海は笑わらひぬ。
花あかき夕日の窓に、
手をのべて聴くとしもなく
薔さう薇び摘つみ、ほのかに愁うれふ。
いま聴くは市いちの遠とほ音ねか、
波の音ねか、過ぎし昨きの日ふか、
はた、淡あはき今け日ふのうれひか。
あたたかに海は笑ひぬ。
ふと思ふ、かかる夕ゆふ日ひに
白しろ銀がねの絹すず衣しゆるがせ、
いまあてに花摘つみながら
かく愁うれひ、かくや聴きくらむ、
紅くれなゐの南なん極きよ星くせ下いか
われを思ふ人のひとりも。
羅曼底の瞳
この少女はわが稚きロマンチツクの幻象也、仮にソフィヤと呼びまゐらす。
美うつくしきソフィヤの君きみ。
悲かなしくも恋こひしくも見え給ふわがわかきソフィヤの君きみ。
なになれば日もすがら今け日ふはかく瞑めつ目ぶり給ふ。
美うつくしきソフィヤの君きみ、
われ泣けば、朝な夕ゆふなに、
悲かなしくも静しづかにも見ひらき給ふ青き華はな――少をと女めの瞳ひとみ。
ソフィヤの君きみ。
﹇#改丁﹈
古酒
こは邪宗門の古酒なり。近代白耳義の所謂フアンドシエクルの神経には柑桂酒の酸味に竪笛の音色を思ひ浮かべ梅酒に喇叭を嗅ぎ、甘くして辛き茴香酒にフルウトの鋭さをたづね、あるはまたウヰスキイをトロムボオンに、キユムメル、ブランデイを嚠喨として鼻音を交へたるオボイの響に配して、それそれ匂強き味覚の合奏に耽溺すと云へど、こはさる驕りたる類にもあらず。黴くさき穴倉の隅、曇りたる色硝子のより洩れきたる外光の不可思議におぼめきながら煤びたるフラスコのひとつに湛ゆるは火酒か、阿刺吉か、又はかの紅毛の※﹇#﹁酉+珍のつくり﹂、169-8﹈の酒か、えもわかねど、われはただ和蘭わたりのびいどろの深き古色をゆかしみて、かのわかき日のはじめに秘め置きにたる様々の夢と匂とに執するのみ。
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恋慕ながし
春ゆく市いちのゆふぐれ、
角かくなる地セ下ラ室の玻は璃り透き
うつらふ色とにほひと
見み惚ほれぬ。――潤うるむ笛の音ね。
しばしは雲の縹はなだと、
灯ひうつる路みちの濡ぬれ色いろ、
また行く素すあ足ししらしら、――
あかりぬ、笛の音ねい色ろも。
古き醋すが甕めと街ちま衢たの
物焼く薫くゆりいつしか
薄らひ饐すゆれ。――澄みゆく
紅あかき音ねい色ろの揺ゆら曳びき
このとき、玻は璃りも真まく黒ろに
四しり輪んし車や軋きしるはためき、
獣けものの温ぬるき肌はだの香か
過よぎりぬ。――濁にごる夜よの色。
ああ眼めにまどふ音ねい色ろの
はやも見わかぬかなしさ。
れんほ、れれつれ、消えぬる
恋れん慕ぼながしの一ひと曲ふし。
四十年二月
煙草
黄きのほてり、夢のすががき、
さはあまきうれひの華はなよ。
ほのに汝なを嗅かぎゆくここち、
QキUユRラAソCオIOの酒もおよばじ。
いつはあれ、ものうき胸に
痛いたみ知るささやきながら、
わかき火のにほひにむせて
はばたきぬ、快けら楽くのうたは。
そのうたを誰かは解とかむ。
あえかなる罪のまぼろし、――
濃こき華の褐くりに沁みゆく
愛あい欲よくの千ち々ぢのうれひを。
向ひぐ日る葵まの日に蒸すにほひ、
かはたれのかなしき怨かご言と
ゆるやかにくゆりぬ、いまも
絶たえ間まなき火のささやきに。
かくてわがこころひねもす
傷いたむともなくてくゆりぬ、
あな、あはれ、汝なが香かの小鳥
そらいろのもやのつばさに。
四十年九月
舗石
夏の夜よあけのすずしさ、
氷載せゆく車の
いづちともなき軋きしりに、
潤うるみて消ゆる瓦が斯すの火。
海へか、路ろ次じゆみだれて
大おほ族うからなす鵞がの鳥
鳴きつれ、霧のまがひに
わたりぬ――しらむ舗しき石いし。
人みえそめぬ。煙たば草この
ただよひ湿しめるたまゆら、
辻なるの絵ゑが硝ら子す
あがりぬ――ひびく舗しき石いし。
見よ、女めが髪のたわめき
濡れこそかかれ、このとき
つと寄より、男、みだらの
接くち吻つけ――にほふ舗しき石いし。
ほど経てを閑さす音おと。
枝しだ垂れや柳なぎのしげみを、
赤き港の自じど働うし車や
けたたましくも過すぎぬる。
ややあり、ほのに緋ひの帯、
水色うつり過すぐれば、
縺もつれぬ、はやも、からころ、
かろき木きぐ履つのすががき。
四十年九月
驟雨前
長なが月つきの鎮ちん守じゆの祭まつり
からうじてどよもしながら、
雨あめもよひ、夜よもふけゆけば、
蒸しなやむ濃こき雲のあし
をりをりに赤あかくただれて、
月あかり、稲いな妻づますなる。
このあたり、だらだらの坂さか、
赤は楊ん高き小学校の
柵さく尽きて、下したは黍きび畑ばた
こほろぎぞ闇に鳴くなる。
いづこぞや女をみ声なごゑして
重たげに雨あま戸ど繰くる音おと。
わかれ路みち、辻つじの濃こぎ霧りは
馬やどののこるあかりに
幻げん燈とうのぼかしのごとも
蒸し青あをみ、破やれし土つち馬ばし車や
ふたつみつ泥どろにまみれて
ひそやかに影を落おとしぬ。
泥ぬか濘るみの物の汗あせばみ
生なまぬるく、重き空くう気きに
新しき木もく犀せいまじり、
馬うま槽ぶねの臭くさ気みふけつつ、
懶ものうげのさやぎはたはた
暑あつき夜よのなやみを刻きざむ。
足あし音おとす、生なま血ちの滴したり
しとしととまへを人かげ、
おちうどか、ほたや、六ろく部ぶか、
背せに高き龕みづしをになひ、
青き火の消えゆくごとく
呻うめきつつ闇にまぎれぬ。
生なま騒さやぎ野をひとわたり。
とある枝えに蝉は寝ねおびれ、
ぢと嘆なげき、鳴きも落つれば
洞ほら円まろき橋はし台だいのをち、
はつかにも断きれし雲くも間まに
月黄きばみ、病める笑わらひす。
夜よの汽車の重きとどろき。
凄まじき驟しゆ雨ううのまへを、
黒くろ烟けぶり深ふかき峡はざまは
一いち面めんに血潮ながれて、
いま赤く人轢しくけしき。
稲妻す。――嗚呼夜よは一いち時じ。
三十九年九月
解纜
解かい纜らんす、大たい船せんあまた。――
ここ肥ひぜ前ん長なが崎さき港かうのただなかは
長なが雨あめぞらの幽いう闇あんに海うなづら鈍にぶみ、
悶もん々もんと檣ほばしらけぶるたたずまひ、
鎖くさりのむせび、帆のうなり、伝てん馬まのさけび、
あるはまた阿おら蘭んせ船んなる黒くろ奴んぼが
気きも狂くるほしき諸ごゑに、硝がら子す切る音おと、
うち湿しめり――嗚あ呼あ午ご後ご七時――ひとしきり、落おち居ゐぬ騒さや擾ぎ。
解かい纜らんす、大船あまた。
あかあかと日にち暮ぼの街まちに吐とけ血つして
落らく日じつ喘あへぐ寂せき寥れうに鐘鳴りわたり、
陰いん々いんと、灰はい色いろ重き曇くも日りびを
死を告つげ知らすせはしさに、響は絶たえず
天てん主しゆより。――闇あん澹たんとして二ふた列ならび、
海かい波はの鳴おえ咽つ、赤あかの浮う標き、なかに黄きばめる
帆は瘧ぎやくに――嗚あ呼あ午後七時――わなわなとはためく恐おそ怖れ。
解かい纜らんす、大たい船せんあまた。――
黄わう髪はつの伴ばて天れ連ん信しん徒と蹌さう踉らうと
闇あん穴けつ道だうを磔はりき負ひ駆かられゆくごと
生なまぬるき悔くやみの唸うなり順つぎ々つぎに、
流るる血しほ黒くろ煙けぶり動どう揺えうしつつ、
印度、はた、南なん蛮ばん、羅馬、目め的どはあれ、
ただ生しや涯うがいの船がかり、いづれは黄よ泉みへ
消えゆくや、――嗚あ呼あ午後七時――鬱うつ憂いうの心の海に。
三十九年七月
日ざかり
嗚あ呼あ、今いまし午ごは砲うのひびき
おほどかにとどろきわたり、
遠をち近こちの汽きて笛きしばらく
饑ううるごと呻うめきをはれば、
柳やな原ぎはら熱あつき街ちま衢たは
また、もとの沈しじ黙まにかへる。
河か岸しなみは赤き煉れん瓦ぐわ家や。
牢ひと獄やめく工こう場ばの奥ゆ
印いん刷さつの響ひびきたまたま
薄ブ鉄リ葉キ切る鋏はさみの音おとと、
柩ひつぎうつ槌と、鑢やすりと、
懶ものうげにまじりきこえぬ。
片かた側かはの古ふる衣ぎ屋やつづき、
衣えも紋んか掛け重き恐おそ怖れに
肺はひやみの咳しはぶき洩もれて、
饐すえてゆく物のいきれに、
陰いん湿しつのにほひつめたく
照り白しらみ、人は黙もく坐ざす。
ゆきかへり、やをら、電でん気きし車や
鉛なまりだつ体たいをとどめて
ぐどぐどとかたみに語り、
鬱うつ憂いうの唸うなり重げに
また軋きしる、熱あつく垂れたる
ひた赤あかき満まん員ゐんの札ふだ。
恐ろしき沈しじ黙まふたたび
酷こく熱ねつの日ざしにただれ、
ぺんき塗ぬり褪さめし看かん板ばん
毒どく滴たらし、河か岸しのあちこち
ちぢれ毛げの痩やせ犬いぬ見えて
苦くるしげに肉にくを求あ食さりぬ。
油あぶらうく線レエ路ルの正まと面も、
鉄てつ重おもき橋の構かまへに
雲ひとつまろがりいでて
くらくらとかがやく真まひ昼る、
汗あせながし、車曳ひきつつ
匍は匐ふがごと撒みづ水ま夫ききたる。
三十九年九月
軟風
ゆるびぬ、潤うるむ罌け粟しの火は
わかき瞳の濡ぬれ色いろに。
熟み視つめよ、ゆるる麦の穂の
たゆらの色のつぶやきを。
たわやになびく黒髪の
君の水み脈をこそ身に翻あふれ。――
うかびぬ、消えぬ、火の雫しづく
匂の海のたゆたひに。
ふとしも歎なげく蝶のむれ
ころりんころと……頬ほのほめき、
触ふるる吐とい息きに縺もつるれば、
色も、にほひも、つぶやきも、
同じ音ねい色ろの揺ゆら曳びきに
倦うんじぬ、かくて君が目も。――
あはれ、皐さつ月きの軟なよ風かぜに
ゆられてゆめむわがおもひ。
四十年六月
大寺
大おほ寺てらの庫く裏りのうしろは、
枇杷あまた黄こが金ねたわわに、
六月の天そらいろ洩るる
路ろ次じの隅、竿さをかけわたし
皮交り、襁むつ褓きを乾ほせり。
そのかげに穢むさき姿なりして
面めん子こうち、子らはたはぶれ、
裏うら店だなの洗なが流しの日かげ、
顔青き野や師しの女房ら
首いだし、煙草吸ひつつ、
鈍にぶき目に甍いらかあふぎて、
はてもなう罵りかはす。
凋しをれたるもののにほひは
溝どぶ板いたの臭くさ気みまじりに
蒸し暑あつく、いづこともなく。
赤黒き肉屋の旗は
屋根越に垂れて動かず。
はや十時、街まちの沈しじ黙まを
しめやかに沈ぢんの香しづみ、
しらじらと日は高まりぬ。
三十九年八月
ひらめき
十じふ月ぐわつのとある夜よの空。
北ほつ国こくの郊かう野やの林檎
実みは赤く梢こずゑにのこれ、
はや、里の果くだ物もの採とりは
影絶えぬ、遠く灯ひつけて
ただ軋きしる耕かう作さくぐるま。
鬱うつ憂いうに海は鈍にばみて
闇あん澹たんと氷ひさ雨めやすらし。
灰はひ濁だめる暮ぼう雲んのかなた
血けつ紅こうの火ひば花なひらめき
燦さんとして音おとなく消えぬ。
沈ちん痛つうの呻うめ吟きこの時、
闇重き夜やし色よくのなかに
蓬ほう髪はつの男蹌よろ踉めき
落らく涙るゐす、蒼あを白じろき頬ほに。
三十九年八月
立秋
憂いう愁しうのこれや野の国、
柑かう子じだつ灰色のすゑ
夕ゆふ汽ぎし車やの遠とほ音ねもしづみ、
信シグ号ナ柱ルのちさき燈ともしび
淡あは々あはとみどりにうるむ。
ひとしきり、小を野のに細ほそ雲ぐも。
南かぼ瓜ちや畑ばた北へ練ねりゆく
旗赤き異ゐぎ形やうの列れつは
戯おどけたる広ひろ告めの囃はや子し
賑にぎやかに遠くまぎれぬ。
うらがなし、落いり日ひの黄こが金ね
片かた岡おかの槐ゑんじゆにあかり、
鳴きしきる蜩かなかな、あはれ
誰たれ葬はふるゆふべなるらむ。
三十九年八月
玻璃罎
うすぐらき窖あなぐらのなか、
瓢ひさ状ごなり、なにか湛たたへて、
十とをあまり円まろうならべる
夢ゆめいろの薄うすら玻はり璃び罎ん。
静しづけさや、靄もやの古ふるびを
黄わう蝋らふは燻くゆりまどかに
照りあかる。吐とい息きそこ、ここ、
哀あい楽らくのつめたきにほひ。
今いましこそ、ゆめの歓くわ楽んらく
降ふりそそげ。生いの命ちの脈なみは
ゆらぎ、かつ、壁にちらほら
玻は璃り透すきぬ、赤き火の色。
三十九年八月
微笑
朧ろう月げつか、眩まばゆきばかり
髪むすび紅あかき帯して
あらはれぬ、春しゆ夜んやの納な屋やに
いそいそと、あはれ、女をみ子なご。
あかあかと据すゑし蝋らふ燭そく
薔さう薇び潮さす片かた頬ほにほてり、
すずろけば夜よぎ霧り火のごと、
いづこにか林りん檎ごのあへぎ。
嗚あ呼あ愉ゆら楽く、朱しゆ塗ぬりの樽たるの
差だぶ口す抜き、酒つぐわかさ、
玻ぎや璃ま器んに古こし酒ゆの薫かを香りか
なみなみと……遠く人ごゑ。
やや暫しば時し、瞳かがやき、
髪かしげ、微ほほ笑ゑみながら
なに紅あかむ、わかき女をみ子なご。
母も屋やにまた、おこる歓さざ語めき……
三十九年八月
砂道
日の真まひ昼る、ひとり、懶ものうく
真白なる砂さだ道うを歩む。
市いち遠く赤き旗見ゆ、
風もなし。荒かう蕪ぶ地ちつづき、
廃すたれ立つ礎いしずゑ燃もえて
烈れつ々れつと煉れん瓦ぐわの火くわ気きに
爛ただれたる果くわ実じつのにほひ
そことなく漂ただよ湿しめる。
数百歩、娑しや婆ばに音なし。
ふと、空に苦くね熱つのうなり、
見あぐれば、名しらぬ大たい樹じゆ
千ちよ万ろづの羽はお音とに糜しらけ、
鈴すず状なりに熟うるる火の粒
潤しめやかに甘き乳ちしぶく。
楽げう欲よくの渇かわきたちまち
かのわかき接くち吻つけ思ひ、
目ぞ暈くらむ。
真夏の原に
また続く
三十九年八月
凋落
寂じや光くく土わうど、はたや、墳おく塋つき、
夕ゆふ暮ぐれの古き牧まき場ばは
なごやかに光黄ばみて
うつらちる楡にれの落らく葉えふ、
そこ、かしこ。――暮ぼし秋うの大おほ日ひ
あかあかと海に沈めば、
凋てう落らくの市いちに鐘鳴り、
絡らく繹えきと寺じも門んをいづる
老らう若にやくの力ちからなき顔、
あるはみな青き旗垂れ
灰はひ濁だめる水すゐ路ろの靄に
寂じや寞くまくと繋かかる猪ちよ木きぶ舟ね、
店々の装かざ飾りまばらに、
甃いし石だたみちらほら軋る
空からぐるま、寒き石橋。――
鈍にぶき眼めに頭かしらもたげて
黄あめ牛うしよ、汝なはなにおもふ。
三十九年八月
晩秋
神無月、下す浣ゑの七しち日にち、
病やましげに落いり日ひ黄ばみて
晩ばん秋しうの乾から風かぜ光り、
百も舌ず啼かず、木の葉沈まず、
空高き柿の上ほづ枝えを
実はひとつ赤く落ちたり。
刹せつ那な、野を北へ人ひと霊だま、
鉦かねうちぬ、遠く死の歌。
君死にき、かかる夕ゆふべに。
三十九年五月
あかき木の実
暗くらきこころのあさあけに、
あかき木この実みぞほの見ゆる。
しかはあれども、昼はまた
君といふ日にわすれしか。
暗くらきこころのゆふぐれに、
あかき木この実みぞほの見ゆる。
四十年十月
かへりみ
みかへりぬ、ふたたび、みたび、
暮れてゆく幼をさなの歩あゆみ
なに惜をしみさしもたゆたふ。
あはれ、また、野の辺べの番さふ紅ら花ん
はやあかきにほひに満つを。
四十年十二月
なわすれぐさ
面ぎのにほひに洩もれて、
その眸ひとみすすり泣くとも、――
空そらいろに透すきて、葉かげに
今け日ふも咲く、なわすれの花。
四十一年五月
わかき日の夢
水みづ透すける玻は璃りのうつはに、
果みのひとつみづけるごとく、
わが夢は燃もえてひそみぬ。
ひややかに、きよく、かなしく。
四十一年五月
よひやみ
うらわかきうたびとのきみ、
よひやみのうれひきみにも
ほの沁むや、青みやつれて
木のもとに、みればをみなも。
な怨みそ。われはもくせい、
ほのかなる花のさだめに、
目ま見みしらみ、うすらなやめば
あまき香かもつゆにしめりぬ。
さあれ、きみ、こひのうれひは
よひのくち、それもひととき、
かなしみてあらばありなむ、
われもまた。――月はのぼれり。
三十九年四月
一瞥
大たい月げつは赤くのぼれり。
あら、青む最さい愛あいびとよ。
へだてなき恋の怨かご言とは
見るが間まに朽ちてくだけぬ。
こは人か、
何らの色いろぞ、
凋てう落らくの鵠くぐひか、鷭ばんか。
後しりへより、
冷れい笑せうす、あはれ、一いち瞥べつ。
我われ、こころ君を殺ころしき。
三十九年七月
旅情
――さすらへるミラノひとのうた。
零れい落らくの宿やど泊りはやすし。
海ちかき下し層たの小こ部べ屋やは、
ものとなき鹹しほの汚よごれに、
煤すすけつつ匂にほふ壁かべ紙がみ。
広ひろ重しげの名をも思おもひ出づ。
ほどちかき庖くリ厨やのほてり、
絵ゑざ草う子しの匂にほひにまじり
物ものあぶる騒さやぎこもごも、
焼せう酎ちうのするどき吐とい息き
針はりのごと肌はだ刺さす夕ゆふべ。
ながむれば葉はや柳なぎつづき、
色いろ硝がら子す濡ぬるる巷こうぢを、
横は浜まの子が智ち慧ゑのはやさよ、
支しな那れ料う理り、よひの灯ほか影げに
みだらうたあはれに歌うたふ。
ややありて月はのぼりぬ。
清らなる出でま窓どのしたを
からころと軋きしむ櫓ろの音おと。
鉄てつ格かう子しひしとすがりて
黄こが金ねが髪みわかきをおもふ。
数かずおほき罪に古ふりぬる
初はつ恋こひのうらはかなさは
かかる夜よの黒くろき波なみ間まを
舟ふなかせぎ、わたりさすらふ
わかうどが歌うたにこそきけ。
色いろふかき、ミラノのそらは
日ひの本もとのそれと似にたれど、
ここにして摘つむによしなき
素ジエ馨ルソミノ、海のあなたに
接くち吻つけのかなしきもあり。
国を去り、昨きそにわかれて
逃のがれ来し身にはあれども、
なほ遠く君をしぬべば、
ほうほう……と笛はうるみて、
いづらへか、黒くろ船ふねきゆる。
廊らう下かゆく重き足あし音おと。
みかへれば暗くらきひと間まに
残のこる火は血のごと赤く、
腐くされたる林りん檎ごのにほひ、
そことなく涙をさそふ。
三十九年九月
柑子
蕭しめやかにこの日も暮くれぬ、北きた国ぐにの古き旅はた籠ご屋や。
物もの焙あぶる炉ゐろりのほとり頸うなじ垂れ愁うれひしづめば
漂さす浪らひの暗くらき山やま川かはそこはかと。――さあれ、密ひそかに
物ゆかし、わかき匂にほひのいづこにか濡れてすずろぐ。
女めあるじは柴しば折り燻くすべ、自じざ在いか鍵ぎ低ひくくすべらし、
鍋かけぬ。赤ら顔して旅たび語る商あき人うどふたり。
傍かたへより、笑ゑみて静かに籠かたみなる木の実撰えりつつ、
家いへの子は卓しよくにならべぬ。そのなかに柑かう子じの匂にほひ。
ああ、柑かう子じ、黄こが金ねの熱ほて味り嗅かぎつつも思ひぞいづる。
晩おそ秋あきの空ゆく黄きぐ雲も、畑はたのいろ、見る眼めのどかに
夕ゆふ凪なぎの沖に帆あぐる蜜みか柑んぶね、暮れて入る汽ふ笛え。
温かき南の島の幼をさ子なごが夢のかずかず。
また思ふ、柑かう子じの店たなの愛あい想そよき肥こ満えたる主ある婦じ、
あるはまた顔もかなしき亭つれ主あひの流ながす新しん内ない、
暮くれゆけば紅あかき夜よの灯ひに蒸むし薫くゆる物の香かのなか、
夕ゆふ餉げど時き、街まちに入り来くる旅人がわかき歩みを。
さては、われ、岡の木こかげに夢ゆめ心ここ地ち、在ありし静けさ
忍ばれぬ。目めが籠たみ擁かかへ、黄こが金ね摘つみ、袖もちらほら
鳥のごと歌ひさまよふ君ききて泣きにし日をも。――
ああ、耳に鈴すずの清すずしき、鳴りひびく沈しじ黙まの声いろ音ね。
柴しばはまた音おとして爆はぜぬ、燃もえあがる炎ほのほのわかさ。
ふと見れば、鍋の湯けぶり照り白らむ薫かをりのなかに、
箸とりて笑ゑらぐ赤ら頬ほ、夕ゆふ餉げ盛もる主ある婦じ、家の子、
皆、古き喜きげ劇きのなかの姿すがたなり。涙ながるる。
三十九年五月
内陣
ほのかなる香かう炉ろのくゆり、
日のにほひ、燈みあ明かしのかげ、――
文ふづ月きのゆふべ、蒸し薫くゆる三さん十じふ三さん間げん堂だうの奥おく
空そら色いろしづむ内ない陣ぢんの闇ほのぐらき静せい寂じやくに、
千せん一いつ体たいの観くわ世んぜ音おんかさなり立たす香かの古ふるび
いと蕭しめやかに後こう背はいのにぶき列つらねぞ白しらみたる。
いづちとも、いつとも知らに、
かすかなる素すあ足しのしめり。
そと軋きしむゆめのゆかいた
なよらかに、はた、うすらかに。
ほのめくは髪のなよびか、
衣きぬの香かか、えこそわかたね。
女をみ子なごの片かた頬ほのしらみ
忍びかの息いきの香かぞする。
舞ごろも近づくなべに、
うつらかにあかる薄うす闇やみ。
初恋の燃もゆるためいき、
帯の色、身みう内ちのほてり。
だらりの
ほのかに
甍いらかより鴿はとか立ちけむ、
はたはたとゆくりなき音ねに。
ふとゆれぬ、長たけの振ふり袖そで
かろき緋ひのひるがへりにぞ、
ほのかなる香かう炉ろのくゆり、
日のにほひ、燈みあ明かしのかげ、――
もろもろの光はもつれ、
あな、しばし、闇にちらぼふ。
四十年七月
懶き島
明けぬれどものうし。温ぬるき土つちの香を
軟なよ風かぜゆたにただ懈たゆく揺ゆり吹くなべに、
あかがねの淫たはれの夢ゆのろのろと
寝ね恍ほれて醒さむるさざめ言ごと、起たつもものうし。
眺むれどものうし、のぼる日のかげも、
大おお海うな原ばらの空燃もえて、今け日ふも緩ゆるゆる
縦たてにのみ湧わくなる雲の火のはしら
重おもげに色もかはらねば見るもものうし。
行きぬれどものうし、波ののたくりも、
懈たゆたき砂もわが悩なやみものうければぞ、
信あは天うど翁りもそろもそろの吐とい息きして
終ひね日もすうたふ挽もが歌りうたきくもものうし。
寝ねそべれどものうし、円まろに屯たむろして
正しや覚うが坊くばうの痴しれごこち、日を嗅かぎながら
女らとなすこともなきたはれごと、
かくて抱けど、飽あきぬれば吸ふもものうし。
貪むさぼれどものうし、椰や子しの実みの酒も、
あか裸はだかなる身の倦たるさ、酌くめども、あほれ、
懶をこ怠たりの心の欲よくのものうげさ。
遠とほ雷いかづちのとどろきも昼はものうし。
暮れぬれどものうし、甘き髪の香も、
益えうなし、あるは木を擦すりて火ともすわざも。
空ひだ腹るげの心は暗くらきあなぐらに
蝮はみのうねりのにほひなし、入れどものうし。
ああ、なべてものうし、夜よるはくらやみの
濁れる空に、熟うみつはり落つる実のごと
流すば星るぼし血を引き消ゆるなやましさ。
一ひと人りならねど、とろにとろ、寝ねれどものうし。
四十年十二月
灰色の壁
灰はい色いろの暗くらき壁、見るはただ
恐ろしき一いち面めんの壁の色いろ。
臘らふ月げつの十じふ九くに日ち、
丑うし満みつの夜よの館やかた。
龕みづしめく唐から銅かねの櫃ひつの上うへ、
燭しよく青うまじろがずひとつ照てる。
時にわれ、朦もう朧ろうと黒こく衣えして
天びろ鵝う絨どのもの鈍にぶき床ゆかに立ち、
ひたと身は鉄てつの屑くず
磁じし石やくにか吸はれよる。
足はいま釘くぎつけに痺しびれ、かの
黄よ泉みの扉とはまのあたり額ぬかを圧おす。
灰はひ色いろの暗くらき壁、見るはただ
恐ろしき一いち面めんの壁の色いろ。
暗あん澹たんと燐りんの火し
奈なら落くへか虚うつろする。
表うは面べただ古ふる地ち図づに似て煤すすけ、
縦たて横よこにかず知れず走る罅ひび
青やかに火あか光り吸ひ、じめじめと
陰いん湿しつの汗あせうるみ冷ひゆる時、
鉄てつの気きはうしろより
さかしまに髪を梳すく。
はと竦すくむ節ふし々ふしの凍こほる音おと。
生きたるは黒こく漆しつの瞳のみ。
灰はひ色いろの暗くらき壁、見るはただ
恐ろしき一いち面めんの壁の色いろ。
熟み視つむ、いま、あるかなき
一いつ点てんの血の雫しづく。
朱しゆの鈍にばみ星のごと潤うる味み帯おび
光る。聞く、この暗き壁ぶかに
くれなゐの皷つづみうつ心しんの臓ざう
刻こく々こくにあきらかに熱ほてり来くれ。
血けぶり。刹せつ那なほと
かすかなる人の息いき。
みるがまに罅ひびはみなつやつやと
金きん髪ぱつの千ちす筋ぢなし、さと乱みだる。
灰色の暗き壁、見るはただ
恐ろしき一いち面めんの壁の色。
なほ熟み視つむ。……髣はう髴ふつと
浮びいづ、女の頬ほ
大なめ理い石しのごと腐くされ、仰あふ向のくや
鼻はな冷ひえてほの笑わらふちひさき歯
しらしらと薄うす玻は璃りの音ねを立つる。
眼めをひらく。絶ぜつ望まうのくるしみに
手はかたく十じふ字じ拱くみ、
みだらなる媚こびの色
きとばかり。燭しよくの火の青み射さし、
銀ぎん色いろの夜よの絹すず衣しひるがへる。
灰はひ色いろの暗くらき壁、見るはただ
恐おそろしき一いち面めんの壁かべの色いろ。
﹃彼。﹄とわが憎ぞう悪をし心ん
むらむらとうちふるふ。
一いつ斉せいに冷れい血けつのわななきは
釘くぎつけの身を逆さかにゑぐり刺さす。
ぎくと手は音おと刻きざみ、節ふしごとに
機から械くりのごと動うごく。いま怪あやし、
おぼえあるくらがりに
落ちちれる埴はにと鏝こて。
つと取るや、ひとつ当あて、左ひだりより
額ぬかをまづひしひしと塗ぬりつぶす。
灰はひ色いろの暗き壁、見るはただ
恐ろしき一いち面めんの壁の色。
朱しゆのごとき怨をん念ねんは
燃もえ、われを凍こほらしむ。
刹せつ那な、かの驕おごりたる眼めは鼻なども
胸かけて、生なまぬるき埴はにの色
ひと息に鏝こての手に葬はうむられ
生いきながら苦くるしむか、ひくひくと
うち皺む壁の罅ひび、
今、暗き他たか界いより
凄きまで面おも変かはり、人と世を
呪のろふにか、すすりなき、うめきごゑ。
灰はひ色いろの暗くらき壁、見るはただ
恐ろしき一いち面めんの壁の色。
悪あく業ごふの終をはりたる
時に、ふとわれの手は
物握にぎるかたちして見みい出ださる。
ながむれば埴はにあらず、鏝こてもなし。
ただ暗き壁の面おも冷ひえ々びえと、
うは湿しめり、一いつ点てんの血ぞ光る。
前さきの世の恋か、なほ
骨こつ髄ずゐに沁みわたる
この怨うら恨み、この呪のろ咀ひ、まざまざと
人ひとり幻まぼ影ろしに殺したる。
灰はひ色いろの暗くらき壁、見るはただ
恐ろしき一いち面めんの壁の色いろ。
臘らふ月げつの十じふ九くに日ち、
丑うし満みつの夜よの館やかた。
龕みづしめく唐から銅かねの櫃ひつの上うへ
燭しよく青あをうまじろがずひとつ照る。
時になほ、朦もう朧ろうと黒こく衣えして
天びろ鵝う絨どのものにぶき床ゆかに立ち、
わなわなと壁熟み視つめ、
ひとり、また戦せん慄りつす。
掌てひらけば汗あせはあな生なまなまと
さながらに人にん間げんの血のにほひ。
三十九年十二月
失くしつる
失なくしつる。
さはあるべくもおもはれね。
またある日には、
探さがしなば、なほあるごともおもはるる。
色青き真しん珠じゆのたまよ。
四十一年七月
[#改ページ]装幀………………………………………………………………石井柏亭
「エツキスリプリス」及「幼児磔殺」………………………石井柏亭
挿画『澆季』……………………………………………………石井柏亭
挿画『真昼』……………………………………………………山本 鼎
私信『四十一年七月廿一日便』………………………………太田正雄
挿画『硝子吹く家』………………………………………………石井柏亭
扉絵及欄画十葉………………………………………………石井柏亭
彫版………………………………………………………………山本 鼎