大キュロスとカッサンダネとの息むす子こ、波ぺる斯しゃ王カンビュセスが埃えじ及ぷとに侵しん入にゅうした時のこと、その麾き下かの部将にパリスカスなる者があった。父祖は、ずっと東方のバクトリヤ辺から来たものらしく、いつまでたっても都の風ふうになじまぬすこぶる陰いん鬱うつな田いな舎かも者のである。どこか夢むそ想うて的きな所があり、そのため、相当な位置にいたにもかかわらず、いつも人々の嘲ちょ笑うしょうを買っていた。 波斯軍がアラビヤを過ぎ、いよいよ埃及の地に入った頃ころから、このパリスカスの様子の異常さが朋ほう輩ばいや部下の注意を惹ひきはじめた。パリスカスは見慣れぬ周囲の風物を特別不思議そうな眼めつ付きで眺ながめては、何か落おち著つかぬ不安げな表情で考え込こんでいる。何か思出そうとしながら、どうしても思出せないらしく、いらいらしている様子がはっきり見える。埃及軍の捕ほり虜ょ共が陣じん中ちゅうに引張られて来た時、その中のある者の話している言葉が彼かれの耳に入った。しばらく妙みょうな顔をして、それに聞入っていた後、彼は、何だか彼等らの言葉の意味が分わかるような気がする、と、傍の者に言った。自分でその言葉を話すことは出来ないが、彼等の話す言葉だけは、どうやら理解できるようだ、というのである。パリスカスは部下をやって、その捕虜が埃及人か、どうか︵というのは、埃及軍の大部分は希ぎり臘しゃ人その他の傭よう兵へいだったから︶を尋たずねさせた。たしかに埃及人だという返辞である。彼はまた不安な表情をして考えに沈しずんだ。彼は今までに一度も埃及に足を踏ふみ入いれたこともなく、埃及人と交際をもったこともなかったのである。激はげしい戦の最もな中かにあっても、彼は、なお、ぼんやりと考えこんでいた。 敗れた埃及軍を追うて、古いにしえの白しら壁かべの都メムフィスに入城した時、パリスカスの沈ちん鬱うつな興奮は更さらに著しくなった。癲てん癇かん病者の発ほっ作さ直前の様子を思わせることもしばしばである。以前は嗤わらっていた朋輩達たちも少々気味が悪くなって来た。メムフィスの市まちはずれに建っている方オベ尖リス塔クの前で、彼はその表に彫ほられた絵画風な文字を低い声で読んだ。そして、同どう僚りょう達に、その碑ひを建てた王の名と、その功業とを、やはり、低い声で説明した。同僚の諸将は、皆みな、へんな気持になって顔を見合せた。パリスカス自身もすこぶるへんな顔をしていた。誰だれも︵パリスカス自身も︶、今までパリスカスが埃及の歴史に通じているとも、埃及文字が読めるとも、聞いたことがなかったのである。 その頃から、パリスカスの主人、カンビュセス王も次第に狂きょ暴うぼうな瘋ふう癲てんの気に犯され始めたようである。彼は埃及王プサメニトスに牛の血を飲ませて、これを殺した。それだけでは慊あ焉きたらず、今度は、半年前に崩ほうじた先王アメシスの屍しかばねを辱はずかしめようと考えた。カンビュセスが含む所のあったのは、むしろアメシス王の方だったからである。彼は自ら一軍を率いて、アメシス王の廟びょ所うしょのあるサイスの市まちに向った。サイスに着くと、彼は、故アメシス王の墓所を探出し、その屍を掘ほり出だして、己おのれの前に持って来るよう、一同に命令した。 かねてかかる事のあるべきを期していたものとみえ、アメシス王の墓所の所在は巧たくみに晦くらまされていた。波斯軍の将士はサイス市内外の多数の墓地を一つ一つ発あばいて検あらためて歩かねばならなかった。 さて、パリスカスも、この墓所捜そう索さく隊たいの中に加わっていた。他の連中は、埃及貴族の木乃伊と共に墓に納められた無数の宝石、装そう身しん具ぐ、調度類の掠りゃ奪くだつに夢中になっていたが、パリスカスだけは、そんなものには目もくれず、相変らず沈鬱な面持で、墓から墓へと歩き廻まわっていた。時々その暗い表情のどこかに、曇どん天てんの薄うすれ陽びのような明るみが射さしかけることもあるが、それはすぐに消えて、また、元の落おち著つきのない暗さに戻もどってしまう。心の中に、何か、ある、解けそうで解けないものが引ひっ掛かかっているような風である。 捜索を始めてから何日目かのある午後、パリスカスは、たった一人で、ある非常に古そうな地下の墓室の中に立っていた。いつ、同僚や部下と、はぐれてしまったものか、この墓は市まちのどの方角に当るものか、それらは、まるで判わからない。とにかく、いつもの夢想から醒さめて、ひょいと気が付いてみたら、たった一人で古い墓室の薄暗がりの中にいた、というより外ほかはない。 眼が暗さに慣れるにつれ、中に散乱した彫ちょ像うぞう、器具の類や、周囲の浮うき彫ぼり、壁へき画がなどが、ぼうっと眼前に浮うき上あがって来た。棺かんは蓋ふたを取られたまま投出され、埴ウシ輪ャ人ブ形チの首が二つ三つ、傍にころがっている。既すでに他の波斯兵の掠奪にあった後であることは、一見して明らかである。古い埃ほこりのにおいが冷たく鼻を襲おそう。闇やみの奥おくから、大きな鷹頭神の立像が、硬かたい表情でこちらを覗のぞいている。近くの壁画を見れば、豺やまいぬや鰐わにや青あお鷺さぎなどの奇きか怪いな動物の頭をつけた神々の憂ゆう鬱うつな行列である。顔も胴どうもない巨おおきな眼ウチャトが一つ、細長い足と手とを生はやして、その行列に加わっている。 パリスカスはほとんど無意識に足を運ばせて奥へ進んだ。五六歩行くと、彼は躓つまずいた。見ると、足あし許もとに木乃伊がころがっている。彼は、またほとんど何の考えもなしにその木乃伊を抱だき起おこして、神像の台に立たて掛かけた。数日来見み飽あきるほど見て来た平へい凡ぼんな木乃伊である。彼は、そのまま、行過ぎようとして、ふとその木乃伊の顔を見た。途とた端んに、冷熱いずれともつかぬものが、彼の脊せす筋じを走った。木乃伊の顔に注いだ視線を、もはや外そらすことが出来なくなった。彼は、磁じし石ゃくに吸寄せられたように、凝じ乎っと身動きもせず、その顔に見入った。 どれほどの長い間、彼はそこに、そうしていたろう。 その間に、彼の中に非常な変化が起ったような気がした。彼の身から体だを作上げている、あらゆる元素どもが、彼の皮ひ膚ふの下で、物もの凄すごく︵ちょうど、後世の化学者が、試験管の中で試みる実験のように︶泡あわ立だち、煮にえかえり、その沸ふっ騰とうがしばらくして静まった後は、すっかり以も前との性質と変ってしまったように思われた。 彼は大変やすらかな気持になった。気がつくと、埃及入国以来、気になって仕方のなかったこと――朝になって思出そうとする昨夜の夢ゆめのように、解わかりそうでいて、どうしても思出せなかったことが、今は実に、はっきり判るのである。なんだ。こんな事だったのか。彼は思わず声に出して言った。﹁俺おれは、もと、この木乃伊だったんだよ。たしかに。﹂ パリスカスがこの言葉を口にした時、木乃伊が、心持、脣くちびるの隅すみをゆがめたように思われた。どこから光が落ちて来るのか、木乃伊の顔の所だけ仄ほの明るく浮上っていて、はっきり見えるのである。 今や、闇を劈つんざく電光の一いっ閃せんの中に、遠い過去の世の記きお憶くが、一いちどきに蘇よみがえって来た。彼の魂たましいがかつて、この木乃伊に宿っていた時の様々な記憶が。砂地の灼やけつくような陽ひの直射や、木こか蔭げの微びふ風うのそよぎや、氾はん濫らんのあとの泥どろのにおいや、繁はん華かな大おお通どおりを行交う白衣の人々の姿や、沐もく浴よくのあとの香こう油ゆの匂においや、薄暗い神しん殿でんの奥に跪ひざまずいた時の冷やかな石の感かん触しょくや、そうした生々しい感覚の記憶の群が忘ぼう却きゃくの淵ふちから一時に蘇って、殺さっ到とうして来た。 その頃、彼はプターの神殿の祭司ででもあったのだろうか。だろうか、と云いうのは、彼のかつて見、触ふれ、経験した事物が今彼の眼前に蘇って来るだけで、その頃の彼自身の姿は一向に浮うかんでこないからである。 ふと、自分が神前に捧ささげた犠ぎせ牲いの牡おう牛しの、もの悲しい眼が、浮かんで来た。誰か、自分のよく知っている人間の眼に似ているなと思う。そうだ。確かに、あの女だ。たちまち、一人の女の眼が、孔くじ雀ゃく石いしの粉を薄くつけた顔が、ほっそりした身体つきが、彼に馴なじ染みのしぐさと共に懐なつかしい体たい臭しゅうまで伴ともなって眼前に現れて来た。ああ懐かしい、と思う。それにしても夕ゆう暮ぐれの湖の紅べに鶴づるのような、何と寂さびしい女だろう。それは疑うたがいもなく、彼の妻だった女である。 不思議なことに、名前は、何一つ、人の名も所の名も物の名も、全然憶おも出いだせない。名の無い形と色と匂と動作とが、距きょ離りや時間の観念の奇妙に倒とう錯さくした異常な静けさの中で、彼の前にたちまち現れ、たちまち消えて行く。 彼はもはや木乃伊を見ない。魂が彼の身体を抜ぬけ出だして、木乃伊に入ってしまったのであろうか。 また、一つの情景が現れる。自分は酷ひどい熱で床とこの上に寐ねているらしい。傍には妻の心配そうな顔が覗いている。その後うしろには、まだ誰やら老人らしいのや子供らしいのがいる様子である。ひどく咽の喉どが渇かわく。手を動かすと、すぐに妻が来て、水を飲ませてくれる。それからしばらく、うとうとする。眼が覚めた時は、もうすっかり熱がひいている。うす眼をあけて見ると、傍で妻が泣いている。後うしろで老人達も泣いているようだ。急に、雨雲の陰かげが湖の上をみるみる暗く染めて行くように、蒼あおい大きな翳かげが自分の上にかぶさって来る。目の眩くらむような下降感に思わず眼を閉じる。―――― そこで彼の過去の世の記憶はぷっつり切れている。さて、それから幾いく百年間の意識の闇が続いたものか、再び気が付いた時は、︵すなわち、それは今のことだが︶一人の波ぺる斯しゃの軍人として、︵波斯人としての生活を数十年送った後︶己おのれのかつての身体の木乃伊の前に立っていたのである。 奇怪な神秘の顕けん現げんに慄りつ然ぜんとしながら、今、彼の魂は、北国の冬の湖の氷のように極度に澄ちょ明うめいに、極度に張りつめている。それはなおも、埋まい没ぼつした前世の記憶の底を凝ぎょ視うしし続ける。そこには、深海の闇に自ら光を放つ盲魚共のように、彼の過去の世の経験の数々が音もなく眠ねむっているのである。 その時、闇の底から、彼の魂の眼は、一つの奇怪な前世の己の姿を見付け出した。 前世の自分が、ある薄暗い小室の中で、一つの木乃伊と向い合って立っている。おののきつつ、前世の自分は、その木乃伊が前々世の己の身体であることを確認せねばならない。今と同じような薄暗さ、うすら冷たさ、埃っぽいにおいの中で、前世の己は、忽こつ然ぜんと、前々世の己の生活を思出す…… 彼はぞっとした。一体どうしたことだ。この恐おそろしい一いっ致ちは。怯おそれずになお仔しさ細いに観みるならば、前世に喚かん起きした、その前々世の記憶の中に、恐らくは、前々々世の己の同じ姿を見るのではなかろうか。合せ鏡のように、無限に内に畳たたまれて行く不気味な記憶の連続が、無限に――目くるめくばかり無限に続いているのではないか？ パリスカスは、全身の膚はだに粟あわを生じて、逃にげ出だそうとする。しかし、彼の足は、すくんでしまう。彼は、まだ木乃伊の顔から眼を離はなすことが出来ない。凍こおったような姿勢で、琥こは珀くい色ろの干ひ涸からびた身体に向いあって立っている。 翌日、他の部隊の波斯兵がパリスカスを発見した時、彼は固く木乃伊を抱いだいたまま、古こふ墳んの地下室に倒たおれていた。介かい抱ほうされてようやく息をふき返しはしたが、もはや、明らかな狂気の徴ちょ候うこうを見せて、あらぬ譫うわ言ごとをしゃべり出した。その言葉も、波斯語ではなくて、みんな埃及語だったということである。 ︵昭和十七年七月︶