私はあなたが家事の暇を偸ぬすんで﹃傳説の時代﹄をとう〳〵仕しま舞ひ迄まで譯し上げた忍耐と努力に少からず感服して居ります。書物になつて出ると餘よほ程どの頁數になるさうですが嘸さぞ骨の折れた事でせう。原書は私の手元にもあるから承知してゐますが、一ちよ寸つと見ると四六版の小形の册子に過ぎませんけれども、活字は細こまかし、上下は詰つてゐるし、讀むのにさへ隨ずい分ぶんの時間は懸かかります。況まして一行毎ごとに譯して行くとなつたら、それを專業にする男の手でもさう容たや易すくは出來ません。況まして夫の世話をしたり子供の面倒を見たり弟の出入に氣を配つたりする間に遣やる家庭的な婦人の仕しわ業ざとしては全くの重荷に相違ありません。あなたは前後八ヶ月の日につ子しを費つひやして思ひ立つた翻譯を成じや就うじゆしたと云いつて寧むしろ其その長きに驚ろかれるやうだが、私は却かへつて其その迅じん速そくなのに感服したいのです。
出版に就ついて私の序文が御入用だとの仰おほせは謹んで承りましたが、私はあらゆるミスに就ついて何事もいふ權利を有もたない無學者なのだから少からず困却します。私は希ギリ臘シアの神話に就ついて、あそこを少し、こゝを少し、と云つた風にうろ覺えに覺えてはゐますが、系統的には研究もせず、批判もせず、漫然と今日迄まで經過して來た事を、今日あなたの前に自白しなければならなくなりました。あなたの御譯しになつた原書は、今でもちやんと私の書しよ架かの中に飾かざつてあります。それを買つたのは何い時つの頃の事か覺えてゐない位くらゐですから定さだめし古い昔だらうと思ひます。けれども其その昔に買つた本を、今日迄までまだ一度も眼を通した記憶がないのも慥たしかな事實ですから、私は希ギリ臘シアの神話にかけては、あなたよりも遙はるかに無知識なのです。立派な序文の書けやう筈はずがありません。
御存じの通り私は英文學出身のものですから、高等學校在學の頃から歐洲文學の根こん柢ていに横よこたはる二つの寶庫︵聖書と希ギリ臘シア神話︶をいつか機會を見て思ふまゝ熟覽して置きたいといふ希望を抱いてゐましたが、御恥づかしい事に、此この機會は永久に多忙な自分の眼前に遂に出現せずに濟すんで仕し舞まひました。
私が高等學校にゐる頃同級生に松本亦太郎︵今の文學博士︶といふ人がゐました。此この人は其その頃熱心な基キリ督スト信者でしたが、ある時私に、聖書を日に何頁づゝとか讀むと、丁ちや度うど三年目に新舊兩約全書を通讀する事になるといつて、それを日課として毎日怠おこたらず繰くり返かへしてゐるやうでした。私は其その話を聞いた時、たとひ私が耶や蘇そ教徒でないにせよ、バイブルは文學上必要の書物だから、さういふ課程をこしらへて、長い間に通讀したら嘸さぞ有益だらうと思つて、既に遣やり始めようと迄まで決心した事があります。然しかし好きな事にばかり夢中になり易い、又厭いやな事に始しじ終ゆう追ひ懸かけられてゐた其その頃の私には、ついに夫それすら果さずじまひに終りました。夫それだから、私のバイブルに於ける知識は非常に貧弱なものです。さうして私の希ギリ臘シア神話に於おける知識も亦またこれに劣らぬ程憐あはれなものなのに過ぎません。
それがため學校を出て教師をしてゐる時じぶ分んには、よく雙方の故事故典で惱まされました。仕しか方たなしにバイブルのコンコーダンスを左右に置いたりクラシカル字じ彙ゐといふやうなものを机上に具そなへたりして、何どうか斯こうか御茶を濁にごして通りました。甚だ切せつない事でした。切せつない許ばかりならまだしも、時によると、馬鹿々々しくて腹の立つ事さへありました。
あなたが何どんな動機から神話を譯して御覽になつたかはまだ解らないが、恐らく文學を研究する人の手てび引きぐ草さとして許ばかりではないでせう。今の人の手にする文學書にはーナスとかバツカスとかいふ呑のん氣きな名前は餘あまり出て來ないやうです。希ギリ臘シアのミソロジーを知らなくても、イブセンを讀むには殆ほとんど差さし支つかへないでせう。もつと皮肉にいふと、人生に切實な文學には遠い昔しの故事や故典は何どうでも構かまはないといふ所に詰つまりは落ちて來さうです。あなたもそれは御承知でせう。それでゐてこんな夢のやうなものを八ヶ月もかゝつて譯したのは、恐らく餘あまりに切實な人生に堪へられないで、古い昔の、有つたやうな又無いやうな物語に、疲れ過ぎた現代的の心を遊ばせる積つもりではなかつたでせうか、もし左さ右うならば私も全く御同感です。其意味を面倒に述べ立てるのは大おほ袈げ裟さだから止よしますが、私は自分で小説を書くと其そのあとが心持ちが惡い。それで呑のん氣きな支し那なの詩などを讀んで埋め合せを付けてゐます。夫それから大病中徒つれ然づれを慰なぐさめるため繪︵繪といふ名はちと分ぶんに過ぎるから、繪のやうなものと云つた方が適切ですが︶其その繪を描いて遊んでゐると、矢や張はり仙人だの坊主だの山水だのが天然自然題目になります。是これもある意味に於おいてあなたの神話に丹たん精せいを盡したと同じ動機になるのではありますまいか。弱い神經衰弱症の人間が無むや暗みに他の心を忖そん度たくして好い加かげ減んな事を申して濟みません。もし間違つたら御勘辨を願ひます。
最後に神樣の名前の發音に就ついて一ちよ寸つと申上げます。あなたの發音法は大部分大陸讀よみ方かた︵コンチネンタル・メソツド︶を用ゐられた樣やうですが、日本で云ひ慣ならされたバツカスとかーナスとか云ふのは英イギ吉リ利ス讀よみにされたと見えますから其その邊へんは一ちよ寸つと讀者に注意して置いて遣やらないと惡いだらうと思ひます。夫それから又羅ラテ甸ン讀よみにしてもクオンチチイを付けて發音しないで、のべつに羅ロー馬マ字綴りの讀み方見みたやうに遣やつたのがあるなら、夫それも序ついでに斷ことわつて置いて御お遣やんなさい。
序を書きたいのは山やま々やまですが序らしい序が書けないので此この手紙を書きました。若もし序の代りにでも御用ひが出來るなら何どうぞ御使ひ下さいまし。以上。
六月十日
夏目金之助
野上八重子樣(大正二年)