一
白しら井いど道う也やは文学者である。 八年前まえ大学を卒業してから田いな舎かの中学を二三箇かし所ょ流して歩いた末、去年の春飄ひょ然うぜんと東京へ戻って来た。流すとは門かど附づけに用いる言葉で飄然とは徂そら徠いに拘かかわらぬ意味とも取れる。道也の進退をかく形容するの適否は作者といえども受合わぬ。縺もつれたる糸の片かた端はしも眼を着ちゃくすればただ一筋の末とあらわるるに過ぎぬ。ただ一筋の出しゅ処っしょの裏には十と重え二は十た重えの因いん縁ねんが絡からんでいるかも知れぬ。鴻こう雁がんの北に去りて乙いっ鳥ちょうの南に来きたるさえ、鳥の身になっては相当の弁解があるはずじゃ。 始めて赴ふに任んしたのは越えち後ごのどこかであった。越後は石油の名所である。学校の在ある町を四五町隔てて大きな石油会社があった。学校のある町の繁栄は三分ぶ二以上この会社の御おか蔭げで維持されている。町のものに取っては幾個の中学校よりもこの石油会社の方が遥はるかにありがたい。会社の役員は金のある点において紳しん士しである。中学の教師は貧乏なところが下等に見える。この下等な教師と金のある紳士が衝突すれば勝しょ敗うはいは誰が眼にも明あきらかである。道也はある時の演説会で、金きん力りょくと品ひん性せいと云いう題目のもとに、両者の必ずしも一致せざる理由を説明して、暗あんに会社の役員らの暴慢と、青年子弟の何らの定見もなくしていたずらに黄こう白はく万ばん能のう主しゅ義ぎを信奉するの弊へいとを戒いましめた。 役員らは生なま意い気きな奴やつだと云った。町の新聞は無能の教師が高慢な不平を吐はくと評した。彼の同僚すら余計な事をして学校の位地を危うくするのは愚ぐだと思った。校長は町と会社との関係を説いて、漫みだりに平地に風波を起すのは得策でないと説諭した。道也の最後に望を属しょくしていた生徒すらも、父兄の意見を聞いて、身のほどを知らぬ馬鹿教師と云い出した。道也は飄ひょ然うぜんとして越後を去った。 次に渡ったのは九州である。九州を中断してその北部から工業を除けば九州は白紙となる。炭たん礦こうの煙りを浴びて、黒い呼い吸きをせぬ者は人間の資格はない。垢あか光びかりのする背広の上へ蒼あおい顔を出して、世の中がこうの、社会がああの、未来の国民がなんのかのと白銅一個にさえ換算の出来ぬ不生産的な言説を弄ろうするものに存在の権利のあろうはずがない。権利のないものに存在を許すのは実業家の御お慈じ悲ひである。無駄口を叩たたく学者や、蓄音機の代理をする教師が露命をつなぐ月々幾いく片へんの紙幣は、どこから湧わいてくる。手の掌ひらをぽんと叩たたけば、自おのずから降る幾億の富の、塵ちりの塵の末を舐なめさして、生かして置くのが学者である、文士である、さては教師である。 金かねの力で活いきておりながら、金を誹そしるのは、生んで貰った親に悪あく体たいをつくと同じ事である。その金を作ってくれる実業家を軽んずるなら食わずに死んで見るがいい。死ねるか、死に切れずに降参をするか、試ためして見ようと云って抛ほうり出された時、道也はまた飄然と九州を去った。 第三に出現したのは中国辺へんの田いな舎かである。ここの気風はさほどに猛烈な現金主義ではなかった。ただ土着のものがむやみに幅を利きかして、他県のものを外国人と呼ぶ。外国人と呼ぶだけならそれまでであるが、いろいろに手を廻まわしてこの外国人を征服しようとする。宴会があれば宴会でひやかす。演説があれば演説であてこする。それから新聞で厭いや味みを並べる。生徒にからかわせる。そうしてそれが何のためでもない。ただ他県のものが自分と同化せぬのが気に懸かかるからである。同化は社会の要素に違ない。仏フラ蘭ン西スのタルドと云う学者は社会は模倣なりとさえ云うたくらいだ。同化は大切かも知れぬ。その大切さ加減は道也といえども心得ている。心得ているどころではない、高等な教育を受けて、広義な社会観を有している彼は、凡俗以上に同化の功くど徳くを認めている。ただ高いものに同化するか低いものに同化するかが問題である。この問題を解釈しないでいたずらに同化するのは世のためにならぬ。自分から云えば一いち分ぶんが立たぬ。 ある時旧藩主が学校を参観に来た。旧藩主は殿様で華族様である。所のものから云えば神様である。この神様が道也の教室へ這は入いって来た時、道也は別に意にも留めず授業を継続していた。神様の方では無論挨あい拶さつもしなかった。これから事が六むずかしくなった。教場は神聖である。教師が教壇に立って業を授けるのは侍さむらいが物ものの具ぐに身を固めて戦場に臨むようなものである。いくら華族でも旧藩主でも、授業を中絶させる権利はないとは道也の主張であった。この主張のために道也はまた飄ひょ然うぜんとして任地を去った。去る時に土地のものは彼を目もくして頑がん愚ぐだと評し合うたそうである。頑愚と云われたる道也はこの嘲ちょ罵うばを背に受けながら飄然として去った。 三みたび飄然と中学を去った道也は飄然と東京へ戻ったなり再び動く景けし色きがない。東京は日本で一番世せち地が辛らい所である。田舎にいるほどの俸給を受けてさえ楽には暮せない。まして教職を抛なげうって両手を袂たもとへ入れたままで遣やり切きるのは、立ちながらみいらとなる工くふ夫うと評するよりほかに賞ほめようのない方法である。 道也には妻さいがある。妻と名がつく以上は養うべき義務は附随してくる。自みずからみいらとなるのを甘んじても妻を干ひぼ乾しにする訳わけには行かぬ。干乾にならぬよほど前から妻君はすでに不平である。 始めて越えち後ごを去る時には妻君に一いち部ぶし始じゅ終うを話した。その時妻君はごもっともでござんすと云って、甲か斐い甲が斐いしく荷物の手てご拵しらえを始めた。九州を去る時にもその顛てん末まつを云って聞かせた。今度はまたですかと云ったぎり何にも口を開かなかった。中国を出る時の妻君の言葉は、あなたのように頑がん固こではどこへいらしっても落ちつけっこありませんわと云う訓戒的の挨あい拶さつに変化していた。七年の間に三たび漂泊して、三たび漂泊するうちに妻君はしだいと自分の傍を遠とお退のくようになった。 妻君が自分の傍を遠退くのは漂泊のためであろうか、俸ほう禄ろくを棄すてるためであろうか。何度漂泊しても、漂泊するたびに月給が上がったらどうだろう。妻君は依然として﹁あなたのように……﹂と不服がましい言葉を洩もらしたろうか。博士にでもなって、大学教授に転任してもやはり﹁あなたのように……﹂が繰り返されるであろうか。妻君の了りょ簡うけんは聞いて見なければ分らぬ。 博士になり、教授になり、空むなしき名を空しく世間に謳うたわるるがため、その反響が妻君の胸に轟とどろいて、急に夫おっとの待遇を変えるならばこの細君は夫の知ち己きとは云えぬ。世の中が夫を遇する朝ちょ夕うせきの模様で、夫の価値を朝夕に変える細君は、夫を評価する上において、世せけ間んな並みの一人である。嫁とつがぬ前、名を知らぬ前、の己おのれと異なるところがない。従って夫から見ればあかの他人である。夫を知る点において嫁ぐ前と嫁ぐ後のちとに変りがなければ、少なくともこの点において細君らしいところがないのである。世界はこの細君らしからぬ細君をもって充満している。道也は自分の妻さいをやはりこの同類と心得ているだろうか。至る所に容いれられぬ上に、至る所に起居を共にする細君さえ自分を解してくれないのだと悟ったら、定めて心細いだろう。 世の中はかかる細君をもって充満していると云った。かかる細君をもって充満しておりながら、皆円満にくらしている。順境にある者が細君の心事をここまでに解剖する必要がない。皮膚病に罹かかればこそ皮膚の研究が必要になる。病気も無いのに汚ないものを顕けん微びき鏡ょうで眺ながめるのは、事なきに苦しんで肥こえ柄びし杓ゃくを振り廻すと一般である。ただこの順境が一転して逆さか落おとしに運命の淵ふちへころがり込む時、いかな夫婦の間にも気まずい事が起る。親子の覊きず絆なもぽつりと切れる。美くしいのは血の上を薄く蔽おおう皮の事であったと気がつく。道也はどこまで気がついたか知らぬ。 道也の三たび去ったのは、好んで自から窮地に陥おちいるためではない。罪もない妻に苦労を掛けるためではなおさらない。世間が己おのれを容れぬから仕方がないのである。世が容れぬならなぜこちらから世に容れられようとはせぬ? 世に容れられようとする刹せつ那なに道也は奇きれ麗いに消滅してしまうからである。道也は人格において流りゅ俗うぞくより高いと自信している。流俗より高ければ高いほど、低いものの手を引いて、高い方へ導いてやるのが責任である。高いと知りながらも低きにつくのは、自から多年の教育を受けながら、この教育の結果がもたらした財宝を床ゆか下したに埋うずむるようなものである。自分の人格を他に及ぼさぬ以上は、せっかくに築き上げた人格は、築きあげぬ昔と同じく無功力で、築き上げた労力だけを徒費した訳になる。英語を教え、歴史を教え、ある時は倫理さえ教えたのは、人格の修養に附随して蓄たくわえられた、芸を教えたのである。単にこの芸を目的にして学問をしたならば、教場で書物を開いてさえいれば済む。書物を開いて飯を食って満足しているのは綱渡りが綱を渡って飯を食い、皿廻しが皿を廻わして飯を食うのと理論において異なるところはない。学問は綱渡りや皿廻しとは違う。芸を覚えるのは末の事である。人間が出来上るのが目的である。大小の区別のつく、軽けい重ちょうの等差を知る、好こう悪おの判然する、善悪の分界を呑のみ込んだ、賢愚、真偽、正邪の批判を謬あやまらざる大丈夫が出来上がるのが目的である。 道也はこう考えている。だから芸を售うって口を糊こするのを恥辱とせぬと同時に、学問の根底たる立脚地を離るるのを深く陋ろう劣れつと心得た。彼が至る所に容れられぬのは、学問の本体に根拠地を構えての上の去きょ就しゅうであるから、彼自身は内に顧かえりみて疚やましいところもなければ、意気地がないとも思いつかぬ。頑がん愚ぐなどと云う嘲ちょ罵うばは、掌てのひらへ載のせて、夏の日の南なん軒けんに、虫むし眼めが鏡ねで検査しても了解が出来ん。 三みた度び教師となって三度追い出された彼は、追い出されるたびに博士よりも偉大な手てが柄らを立てたつもりでいる。博士はえらかろう、しかしたかが芸で取る称号である。富豪が製艦費を献納して従じゅ五ご位いをちょうだいするのと大した変りはない。道也が追い出されたのは道也の人物が高いからである。正しき人は神の造れるすべてのうちにて最も尊きものなりとは西の国の詩人の言葉だ。道を守るものは神よりも貴たっとしとは道也が追わるるごとに心のうちで繰り返す文句である。ただし妻君はかつてこの文句を道也の口から聞いた事がない。聞いても分かるまい。 わからねばこそ餓うえ死じにもせぬ先から、夫に対して不平なのである。不平な妻さいを気の毒と思わぬほどの道也ではない。ただ妻の歓心を得るために吾わが行く道を曲げぬだけが普通の夫と違うのである。世は単に人と呼ぶ。娶めとれば夫である。交まじわれば友である。手を引けば兄、引かるれば弟である。社会に立てば先覚者にもなる。校舎に入れば教師に違いない。さるを単に人と呼ぶ。人と呼んで事足るほどの世間なら単純である。妻君は常にこの単純な世界に住んでいる。妻君の世界には夫としての道也のほかには学者としての道也もない、志士としての道也もない。道を守り俗に抗する道也はなおさらない。夫が行く先き先きで評判が悪くなるのは、夫の才が足らぬからで、到いたる所に職を辞するのは、自から求むる酔すい興きょうにほかならんとまで考えている。 酔興を三たび重ねて、東京へ出て来た道也は、もう田いな舎かへは行かぬと言い出した。教師ももうやらぬと妻君に打ち明けた。学校に愛想をつかした彼は、愛想をつかした社会状態を矯きょ正うせいするには筆の力によらねばならぬと悟ったのである。今まではいずこの果はてで、どんな職業をしようとも、己おのれさえ真直であれば曲がったものは苧おが殻らのように向うで折れべきものと心得ていた。盛名はわが望むところではない。威望もわが欲するところではない。ただわが人格の力で、未来の国民をかたちづくる青年に、向上の眼まなこを開かしむるため、取しゅ捨しゃ分ふん別べつの好例を自家身上に示せば足るとのみ思い込んで、思い込んだ通りを六年余り実行して、見事に失敗したのである。渡る世間に鬼はないと云うから、同情は正しき所、高き所、物の理りく窟つのよく分かる所に聚あつまると早はや合がて点んして、この年とし月つきを今度こそ、今度こそ、と経験の足らぬ吾わが身みに、待ち受けたのは生しょ涯うがいの誤りである。世はわが思うほどに高尚なものではない、鑑識のあるものでもない。同情とは強きもの、富めるものにのみ随したがう影にほかならぬ。 ここまで進んでおらぬ世を買い被かぶって、一いっ足そく飛とびに田舎へ行ったのは、地ならしをせぬ地面の上へ丈夫な家を建てようとあせるようなものだ。建てかけるが早いか、風と云い雨と云う曲くせ者ものが来て壊こわしてしまう。地ならしをするか、雨あめ風かぜを退たい治じるかせぬうちは、落ちついてこの世に住めぬ。落ちついて住めぬ世を住めるようにしてやるのが天下の士の仕事である。 金かねも勢いきおいもないものが天下の士に恥じぬ事業を成すには筆の力に頼らねばならぬ。舌の援たすけを藉からねばならぬ。脳のう味み噌そを圧あっ搾さくして利り他たの智ち慧えを絞しぼらねばならぬ。脳味噌は涸かれる、舌は爛ただれる、筆は何本でも折れる、それでも世の中が云う事を聞かなければそれまでである。 しかし天下の士といえども食わずには働けない。よし自分だけは食わんで済むとしても、妻は食わずに辛しん抱ぼうする気きづ遣かいはない。豊かに妻を養わぬ夫は、妻の眼から見れば大罪人である。今年の春、田舎から出て来て、芝しば琴こと平ひら町ちょうの安宿へ着いた時、道也と妻君の間にはこんな会話が起った。 ﹁教師をおやめなさるって、これから何をなさるおつもりですか﹂ ﹁別にこれと云うつもりもないがね、まあ、そのうち、どうかなるだろう﹂ ﹁その内うちどうかなるだろうって、それじゃまるで雲を攫つかむような話しじゃありませんか﹂ ﹁そうさな。あんまり判はん然ぜんとしちゃいない﹂ ﹁そう呑のん気きじゃ困りますわ。あなたは男だからそれでようござんしょうが、ちっとは私の身にもなって見て下さらなくっちゃあ……﹂ ﹁だからさ、もう田舎へは行かない、教師にもならない事にきめたんだよ﹂ ﹁きめるのは御勝手ですけれども、きめたって月給が取れなけりゃ仕方がないじゃありませんか﹂ ﹁月給がとれなくっても金がとれれば、よかろう﹂ ﹁金がとれれば……そりゃようござんすとも﹂ ﹁そんなら、いいさ﹂ ﹁いいさって、御金がとれるんですか、あなた﹂ ﹁そうさ、まあ取れるだろうと思うのさ﹂ ﹁どうして?﹂ ﹁そこは今考え中だ。そう着ちゃく、早そう々そう計画が立つものか﹂ ﹁だから心配になるんですわ。いくら東京にいるときめたって、きめただけの思しあ案んじゃ仕方がないじゃありませんか﹂ ﹁どうも御おま前えはむやみに心配性でいけない﹂ ﹁心配もしますわ、どこへいらしっても折おり合あいがわるくっちゃ、おやめになるんですもの。私が心配性なら、あなたはよっぽど癇かん癪しゃ持くもちですわ﹂ ﹁そうかも知れない。しかしおれの癇癪は……まあ、いいや。どうにか東京で食えるようにするから﹂ ﹁御おあ兄にいさんの所へいらしって御頼みなすったら、どうでしょう﹂ ﹁うん、それも好いがね。兄はいったい人の世話なんかする男じゃないよ﹂ ﹁あら、そう何でも一人できめて御おしまいになるから悪るいんですわ。昨きの日うもあんなに親切にいろいろ言って下さったじゃありませんか﹂ ﹁昨日か。昨日はいろいろ世話を焼くような事を言った。言ったがね……﹂ ﹁言ってもいけないんですか﹂ ﹁いけなかないよ。言うのは結構だが……あんまり当あてにならないからな﹂ ﹁なぜ?﹂ ﹁なぜって、その内だんだんわかるさ﹂ ﹁じゃ御友達の方にでも願って、あしたからでも運動をなすったらいいでしょう﹂ ﹁友達って別に友達なんかありゃしない。同級生はみんな散ってしまった﹂ ﹁だって毎年年始状を御お寄よこしになる足あだ立ちさんなんか東京で立派にしていらっしゃるじゃありませんか﹂ ﹁足立か、うん、大学教授だね﹂ ﹁そう、あなたのように高くばかり構えていらっしゃるから人に嫌きらわれるんですよ。大学教授だねって、大学の先生になりゃ結構じゃありませんか﹂ ﹁そうかね。じゃ足立の所へでも行って頼んで見ようよ。しかし金さえ取れれば必ず足立の所へ行く必要はなかろう﹂ ﹁あら、まだあんな事を云っていらっしゃる。あなたはよっぽど強情ね﹂ ﹁うん、おれはよっぽど強情だよ﹂二
午ごに逼せまる秋の日は、頂いただく帽を透とおして頭ずが蓋いこ骨つのなかさえ朗ほがらかならしめたかの感がある。公園のロハ台はそのロハ台たるの故ゆえをもってことごとくロハ的に占領されてしまった。高たか柳やな君ぎくんは、どこぞ空あいた所はあるまいかと、さっきからちょうど三度日比谷を巡回した。三度巡回して一脚の腰掛も思うように我を迎えないのを発見した時、重そうな足を正門のかたへ向けた。すると反対の方から同年輩の青年が早足に這は入いって来て、やあと声を掛けた。 ﹁やあ﹂と高柳君も同じような挨あい拶さつをした。 ﹁どこへ行ったんだい﹂と青年が聞く。 ﹁今ぐるぐる巡まわって、休もうと思ったが、どこも空あいていない。駄だ目めだ、ただで掛けられる所はみんな人が先へかけている。なかなか抜ぬけ目めはないもんだな﹂ ﹁天気がいいせいだよ。なるほど随分人が出ているね。――おい、あの孟もう宗そう藪やぶを回って噴水の方へ行く人を見たまえ﹂ ﹁どれ。あの女か。君の知ってる人かね﹂ ﹁知るものか﹂ ﹁それじゃ何で見る必要があるのだい﹂ ﹁あの着物の色さ﹂ ﹁何だか立派なものを着ているじゃないか﹂ ﹁あの色を竹藪の傍へ持って行くと非常にあざやかに見える。あれは、こう云う透明な秋の日に照らして見ないと引き立たないんだ﹂ ﹁そうかな﹂ ﹁そうかなって、君そう感じないか﹂ ﹁別に感じない。しかし奇きれ麗いは奇麗だ﹂ ﹁ただ奇麗だけじゃ可かわ哀いそ想うだ。君はこれから作家になるんだろう﹂ ﹁そうさ﹂ ﹁それじゃもう少し感じが鋭敏でなくっちゃ駄目だぜ﹂ ﹁なに、あんな方は鈍くってもいいんだ。ほかに鋭敏なところが沢山あるんだから﹂ ﹁ハハハハそう自信があれば結構だ。時に君せっかく逢あったものだから、もう一遍あるこうじゃないか﹂ ﹁あるくのは、真まっ平ぴらだ。これからすぐ電車へ乗って帰えらないと午ひる食めしを食い損そくなう﹂ ﹁その午食を奢おごろうじゃないか﹂ ﹁うん、また今度にしよう﹂ ﹁なぜ? いやかい﹂ ﹁厭いやじゃない――厭じゃないが、始終御ごち馳そ走うにばかりなるから﹂ ﹁ハハハ遠慮か。まあ来たまえ﹂と青年は否いや応おうなしに高柳君を公園の真中の西洋料理屋へ引っ張り込んで、眺ちょ望うぼうのいい二階へ陣を取る。 注文の来る間、高柳君は蒼あおい顔へ両手で突つっかい棒ぼうをして、さもつかれたと云う風に往来を見ている。青年は独ひとりで﹁ふんだいぶ広いな﹂﹁なかなか繁はん昌じょうすると見える﹂﹁なんだ、妙な所へ姿見の広告などを出して﹂などと半分口のうちで云うかと思ったら、やがて洋ズボ袴ンの隠かく袋しへ手を入れて﹁や、しまった。煙たば草こを買ってくるのを忘れた﹂と大きな声を出した。 ﹁煙草なら、ここにあるよ﹂と高柳君は﹁敷島﹂の袋を白い卓たく布ふの上へ抛ほうり出す。 ところへ下女が御おあ誂つらえを持ってくる。煙草に火を点つける間まはなかった。 ﹁これは樽たる麦ビー酒ルだね。おい君樽麦酒の祝杯を一つ挙あげようじゃないか﹂と青年は琥こは珀くい色ろの底から湧わき上がる泡あわをぐいと飲む。 ﹁何の祝杯を挙げるのだい﹂と高柳君は一口飲みながら青年に聞いた。 ﹁卒業祝いさ﹂ ﹁今頃卒業祝いか﹂と高柳君は手のついた洋コッ盃プを下へおろしてしまった。 ﹁卒業は生しょ涯うがいにたった一度しかないんだから、いつまで祝ってもいいさ﹂ ﹁たった一度しかないんだから祝わないでもいいくらいだ﹂ ﹁僕とまるで反対だね。――姉さん、このフライは何だい。え? 鮭さけか。ここん所とこへ君、このオレンジの露をかけて見たまえ﹂と青年は人ひと指さし指ゆびと親指の間からちゅうと黄色い汁を鮭の衣ころもの上へ落す。庭の面おもてにはらはらと降る時しぐ雨れのごとく、すぐ油の中へ吸い込まれてしまった。 ﹁なるほどそうして食うものか。僕は装飾についてるのかと思った﹂ 姿見の札さっ幌ぽろ麦ビー酒ルの広告の本もとに、大きくなって構えていた二人の男が、この時急に大きな破われるような声を出して笑い始めた。高柳君はオレンジをつまんだまま、厭な顔をして二人を見る。二人はいっこう構わない。 ﹁いや行くよ。いつでも行くよ。エヘヘヘヘ。今夜行こう。あんまり気が早い。ハハハハハ﹂ ﹁エヘヘヘヘ。いえね、実はね、今夜あたり君を誘って繰り出そうと思っていたんだ。え? ハハハハ。なにそれほどでもない。ハハハハ。そら例のが、あれでしょう。だから、どうにもこうにもやり切れないのさ。エヘヘヘヘ、アハハハハハハ﹂ 土どな鍋べの底のような赭あかい顔が広告の姿見に写って崩くずれたり、かたまったり、伸びたり縮んだり、傍ぼう若じゃ無くぶ人じんに動揺している。高柳君は一種異様な厭な眼つきを転じて、相手の青年を見た。 ﹁商人だよ﹂と青年が小声に云う。 ﹁実業家かな﹂と高柳君も小声に答えながら、とうとうオレンジを絞しぼるのをやめてしまった。 土鍋の底は、やがて勘定を払って、ついでに下女にからかって、二階を買い切ったような大きな声を出して、そうして出て行った。 ﹁おい中野君﹂ ﹁むむ?﹂と青年は鳥の肉を口いっぱい頬ほお張ばっている。 ﹁あの連れん中じゅうは世の中を何と思ってるだろう﹂ ﹁何とも思うものかね。ただああやって暮らしているのさ﹂ ﹁羨うらやましいな。どうかして――どうもいかんな﹂ ﹁あんなものが羨しくっちゃ大変だ。そんな考だから卒業祝に同意しないんだろう。さあもう一杯景気よく飲んだ﹂ ﹁あの人が羨ましいのじゃないが、ああ云う風に余裕があるような身分が羨ましい。いくら卒業したってこう奔ほん命めいに疲れちゃ、少しも卒業のありがた味はない﹂ ﹁そうかなあ、僕なんざ嬉うれしくってたまらないがなあ。我々の生命はこれからだぜ。今からそんな心細い事を云っちゃあしようがない﹂ ﹁我々の生命はこれからだのに、これから先が覚おぼ束つかないから厭いやになってしまうのさ﹂ ﹁なぜ? 何もそう悲観する必要はないじゃないか、大おおいにやるさ。僕もやる気だ、いっしょにやろう。大に西洋料理でも食って――そらビステキが来た。これでおしまいだよ。君ビステキの生なま焼やきは消化がいいって云うぜ。こいつはどうかな﹂と中野君は洋ナイ刀フを揮ふるって厚あつ切ぎりの一いっ片ぺんを中まん央なかから切断した。 ﹁なあるほど、赤い。赤いよ君、見たまえ。血が出るよ﹂ 高柳君は何にも答えずにむしゃむしゃ赤いビステキを食い始めた。いくら赤くてもけっして消化がよさそうには思えなかった。 人にわが不平を訴えんとするとき、わが不平が徹底せぬうち、先方から中ちゅ途うと半はん把ぱな慰いし藉ゃを与えらるるのは快こころよくないものだ。わが不平が通じたのか、通じないのか、本当に気の毒がるのか、御お世せ辞じに気の毒がるのか分らない。高柳君はビステキの赤さ加減を眺ながめながら、相手はなぜこう感情が粗そだ大いだろうと思った。もう少し切り込みたいと云う矢やさ先きへ持って来て、ざああと水を懸かけるのが中野君の例である。不親切な人、冷淡な人ならば始めからそれ相応の用意をしてかかるから、いくら冷たくても驚ろく気きづ遣かいはない。中野君がかような人であったなら、出鼻をはたかれてもさほどに口く惜やしくはなかったろう。しかし高柳君の眼に映ずる中なか野のき輝い一ちは美しい、賢こい、よく人情を解して事理を弁わきまえた秀才である。この秀才が折々この癖を出すのは解かいしにくい。 彼らは同じ高等学校の、同じ寄宿舎の、同じ窓に机を並べて生活して、同じ文科に同じ教授の講義を聴いて、同じ年のこの夏に同じく学校を卒業したのである。同じ年に卒業したものは両手の指を二三度屈するほどいる。しかしこの二人ぐらい親しいものはなかった。 高柳君は口数をきかぬ、人ひと交まじわりをせぬ、厭えん世せい家かの皮肉屋と云われた男である。中野君は鷹おう揚ような、円満な、趣味に富んだ秀才である。この両ふた人りが卒然と交まじわりを訂ていしてから、傍はた目めにも不審と思われるくらい昵じっ懇こんな間あい柄だがらとなった。運命は大おお島しまの表と秩ちち父ぶの裏とを縫い合せる。 天下に親しきものがただ一ひと人りあって、ただこの一人よりほかに親しきものを見出し得ぬとき、この一人は親でもある、兄弟でもある。さては愛人である。高柳君は単なる朋ほう友ゆうをもって中野君を目もくしてはおらぬ。その中野君がわが不平を残りなく聞いてくれぬのは残念である。途中で夕立に逢って思う所へ行かずに引き返したようなものである。残りなく聞いてくれぬ上に、呑のん気きな慰いし藉ゃをかぶせられるのはなおさら残念だ。膿うみを出してくれと頼んだ腫しゅ物もつを、いい加減の真まわ綿たで、撫なで廻わされたってむず痒がゆいばかりである。 しかしこう思うのは高柳君の無理である。御おひ雛なさ様まに芸者の立たて引ひきがないと云って攻撃するのは御雛様の恋を解かいせぬものの言いい草ぐさである。中野君は富ふゆ裕うな名門に生れて、暖かい家庭に育ったほか、浮世の雨風は、炬こた燵つへあたって、椽えん側がわの硝ガラ子スど戸ご越しに眺ながめたばかりである。友ゆう禅ぜんの模様はわかる、金きん屏びょうの冴さえも解せる、銀ぎん燭しょくの耀かがやきもまばゆく思う。生きた女の美しさはなおさらに眼に映る。親の恩、兄弟の情、朋友の信、これらを知らぬほどの木ぼっ強きょ漢うかんでは無論ない。ただ彼の住む半球には今までいつでも日が照っていた。日の照っている半球に住んでいるものが、片足をとんと地に突いて、この足の下に真暗な半球があると気がつくのは地理学を習った時ばかりである。たまには歩いていて、気がつかぬとも限らぬ。しかしさぞ暗い事だろうと身に沁しみてぞっとする事はあるまい。高柳君はこの暗い所に淋しく住んでいる人間である。中野君とはただ大地を踏まえる足の裏が向き合っているというほかに何らの交渉もない。縫い合わされた大島の表と秩父の裏とは覚おぼ束つかなき針の目を忍んで繋つなぐ、細い糸の御おか蔭げである。この細いものを、するすると抜けば鹿児島県と埼玉県の間には依然として何百里の山さん河がが横よこたわっている。歯を病やんだ事のないものに、歯の痛みを持って行くよりも、早く歯医者に馳かけつけるのが近道だ。そう痛がらんでもいいさと云われる病人は、けっして慰藉を受けたとは思うまい。 ﹁君などは悲観する必要がないから結構だ﹂と、ビステキを半分で断念した高柳君は敷島をふかしながら、相手の顔を眺めた。相手は口をもがもがさせながら、右の手を首と共に左右に振ったのは、高柳君に同意を表しないのと見える。 ﹁僕が悲観する必要がない? 悲観する必要がないとすると、つまりおめでたい人間と云う意味になるね﹂ 高柳君は覚えず、薄い唇くちびるを動かしかけたが、微かすかな漣さざなみは頬ほおまで広がらぬ先に消えた。相手はなお言葉をつづける。 ﹁僕だって三年も大学にいて多少の哲学書や文学書を読んでるじゃないか。こう見えても世の中が、どれほど悲観すべきものであるかぐらいは知ってるつもりだ﹂ ﹁書物の上でだろう﹂と高柳君は高い山から谷底を見下ろしたように云う。 ﹁書物の上――書物の上では無論だが、実際だって、これでなかなか苦痛もあり煩はん悶もんもあるんだよ﹂ ﹁だって、生活には困らないし、時間は充分あるし、勉強はしたいだけ出来るし、述作は思う通りにやれるし。僕に較くらべると君は実に幸福だ﹂と高柳君今度はさも羨うらやましそうに嘆息する。 ﹁ところが裏面はなかなかそんな気楽なんじゃないさ。これでもいろいろ心配があって、いやになるのだよ﹂と中野君は強しいて心配の所有権を主張している。 ﹁そうかなあ﹂と相手は、なかなか信じない。 ﹁そう君まで茶かしちゃ、いよいよつまらなくなる。実は今日あたり、君の所へでも出掛けて、大おおいに同情してもらおうかと思っていたところさ﹂ ﹁訳わけをきかせなくっちゃ同情も出来ないね﹂ ﹁訳はだんだん話すよ。あんまり、くさくさするから、こうやって散歩に来たくらいなものさ。ちっとは察しるがいい﹂ 高柳君は今度は公然とにやにやと笑った。ちっとは察しるつもりでも、察しようがないのである。 ﹁そうして、君はまたなんで今頃公園なんか散歩しているんだね﹂と中野君は正面から高柳君の顔を見たが、 ﹁や、君の顔は妙だ。日の射さしている右側の方は大変血色がいいが、影になってる方は非常に色いろ沢つやが悪い。奇妙だな。鼻を境に矛むじ盾ゅんが睨にらめこをしている。悲劇と喜劇の仮め面んを半々につぎ合せたようだ﹂と息もつがず、述べ立てた。 この無心の評を聞いた、高柳君は心の秘密を顔の上で読まれたように、はっと思うと、右の手で額の方から顋あごのあたりまで、ぐるりと撫なで廻わした。こうして顔の上の矛盾をかき混まぜるつもりなのかも知れない。 ﹁いくら天気がよくっても、散歩なんかする暇ひまはない。今日は新橋の先まで遺失品を探さがしに行ってその帰りがけにちょっとついでだから、ここで休んで行こうと思って来たのさ﹂と顔を攪かき廻した手を顎あごの下へかって依然として浮かぬ様子をする。悲劇の面めんと喜劇の面をまぜ返えしたから通例の顔になるはずであるのに、妙に濁ったものが出来上ってしまった。 ﹁遺失品て、何を落したんだい﹂ ﹁昨きの日う電車の中で草そう稿こうを失って――﹂ ﹁草稿? そりゃ大変だ。僕は書き上げた原稿が雑誌へ出るまでは心配でたまらない。実際草稿なんてものは、吾われ々われに取って、命より大切なものだからね﹂ ﹁なに、そんな大切な草稿でも書ける暇があるようだといいんだけれども――駄目だ﹂と自分を軽けい蔑べつしたような口くち調ょうで云う。 ﹁じゃ何の草稿だい﹂ ﹁地理教授法の訳やくだ。あしたまでに届けるはずにしてあるのだから、今なくなっちゃ原稿料も貰えず、またやり直さなくっちゃならず、実に厭いやになっちまう﹂ ﹁それで、探さがしに行っても出て来こないのかい﹂ ﹁来ない﹂ ﹁どうしたんだろう﹂ ﹁おおかた車掌が、うちへ持って行って、はたきでも拵こしらえたんだろう﹂ ﹁まさか、しかし出なくっちゃ困るね﹂ ﹁困るなあ自分の不注意と我慢するが、その遺失品係りの厭いやな奴やつだ事って――実に不親切で、形式的で――まるで版はん行こうにおしたような事をぺらぺらと一通り述べたが以上、何を聞いても知りません知りませんで持ち切っている。あいつは廿世紀の日本人を代表している模範的人物だ。あすこの社長もきっとあんな奴に違ちがいない﹂ ﹁ひどく癪しゃくに障さわったものだね。しかし世の中はその遺失品係りのようなのばかりじゃないからいいじゃないか﹂ ﹁もう少し人間らしいのがいるかい﹂ ﹁皮肉な事を云う﹂ ﹁なに世の中が皮肉なのさ。今の世のなかは冷酷の競きょ進うし会んかい見たようなものだ﹂と云いながら呑みかけの﹁敷島﹂を二階の欄てす干りから、下へ抛なげる途とた端んに、ありがとうと云う声がして、ぬっと門かど口ぐちを出た二ふた人りづ連れの中折帽の上へ、うまい具合に燃もえ殻がらが乗っかった。男は帽子から煙を吐いて得意になって行く。 ﹁おい、ひどい事をするぜ﹂と中野君が云う。 ﹁なに過あやまちだ。――ありゃ、さっきの実業家だ。構うもんか抛ほうって置け﹂ ﹁なるほどさっきの男だ。何で今までぐずぐずしていたんだろう。下で球たまでも突いていたのか知らん﹂ ﹁どうせ遺失品係りの同類だから何でもするだろう﹂ ﹁そら気がついた――帽子を取ってはたいている﹂ ﹁ハハハハ滑こっ稽けいだ﹂と高柳君は愉快そうに笑った。 ﹁随分人が悪いなあ﹂と中野君が云う。 ﹁なるほど善くないね。偶然とは申しながら、あんな事で仇かたきを打つのは下等だ。こんな真似をして嬉しがるようでは文学士の価ねう値ちもめちゃめちゃだ﹂と高柳君は瞬時にしてまた元もとの浮かぬ顔にかえる。 ﹁そうさ﹂と中野君は非難するような賛成するような返事をする。 ﹁しかし文学士は名前だけで、その実は筆ひっ耕こうだからな。文学士にもなって、地理教授法の翻訳の下した働ばたらきをやってるようじゃ、心細い訳わけだ。これでも僕が卒業したら、卒業したらって待っててくれた親もあるんだからな。考えると気の毒なものだ。この様子じゃいつまで待っててくれたって仕方がない﹂ ﹁まだ卒業したばかりだから、そう急に有名にはなれないさ。そのうち立派な作さく物ぶつを出して、大おおいに本領を発揮する時に天下は我々のものとなるんだよ﹂ ﹁いつの事やら﹂ ﹁そう急せいたって、いけない。追々新陳代謝してくるんだから、何でも気を永くして尻を据すえてかからなくっちゃ、駄目だ。なに、世間じゃ追々我々の真価を認めて来るんだからね。僕なんぞでも、こうやって始しじ終ゅう書いていると少しは人の口に乗るからね﹂ ﹁君はいいさ。自分の好きな事を書く余裕があるんだから。僕なんか書きたい事はいくらでもあるんだけれども落ちついて述作なぞをする暇はとてもない。実に残念でたまらない。保護者でもあって、気楽に勉強が出来ると名作も出して見せるがな。せめて、何でもいいから、月々きまって六十円ばかり取れる口があるといいのだけれども、卒業前から自活はしていたのだが、卒業してもやっぱりこんなに困難するだろうとは思わなかった﹂ ﹁そう困難じゃ仕方がない。僕のうちの財産が僕の自由になると、保護者になってやるんだがな﹂ ﹁どうか願います。――実に厭いやになってしまう。君、今考えると田舎の中学の教師の口だって、容易にあるもんじゃないな﹂ ﹁そうだろうな﹂ ﹁僕の友人の哲学科を出たものなんか、卒業してから三年になるが、まだ遊あすんでるぜ﹂ ﹁そうかな﹂ ﹁それを考えると、子供の時なんか、訳もわからずに悪い事をしたもんだね。もっとも今とその頃とは時勢が違うから、教師の口も今ほど払ふっ底ていでなかったかも知れないが﹂ ﹁何をしたんだい﹂ ﹁僕の国の中学校に白しら井いど道う也やと云う英語の教師がいたんだがね﹂ ﹁道也た妙な名だね。釜かまの銘めいにありそうじゃないか﹂ ﹁道どう也やと読むんだか、何だか知らないが、僕らは道也、道也って呼んだものだ。その道也先生がね――やっぱり君、文学士だぜ。その先生をとうとうみんなして追い出してしまった﹂ ﹁どうして﹂ ﹁どうしてって、ただいじめて追い出しちまったのさ。なに良いい先生なんだよ。人物や何かは、子供だからまるでわからなかったが、どうも悪るい人じゃなかったらしい……﹂ ﹁それで、なぜ追い出したんだい﹂ ﹁それがさ、中学校の教師なんて、あれでなかなか悪るい奴がいるもんだぜ。僕らあ煽せん動どうされたんだね、つまり。今でも覚えているが、夜よる十五六人で隊を組んで道也先生の家うちの前へ行ってワーって吶とっ喊かんして二つ三つ石を投げ込んで来るんだ﹂ ﹁乱暴だね。何だって、そんな馬鹿な真ま似ねをするんだい﹂ ﹁なぜだかわからない。ただ面白いからやるのさ。おそらく吾々の仲間でなぜやるんだか知ってたものは誰もあるまい﹂ ﹁気楽だね﹂ ﹁実に気楽さ。知ってるのは僕らを煽せん動どうした教師ばかりだろう。何でも生なま意い気きだからやれって云うのさ﹂ ﹁ひどい奴だな。そんな奴が教師にいるかい﹂ ﹁いるとも。相手が子供だから、どうでも云う事を聞くからかも知れないが、いるよ﹂ ﹁それで道也先生どうしたい﹂ ﹁辞職しちまった﹂ ﹁可かわ哀いそ想うに﹂ ﹁実に気の毒な事をしたもんだ。定めし転任先をさがす間活かっ計けいに困ったろうと思ってね。今度逢ったら大おおいに謝罪の意を表するつもりだ﹂ ﹁今どこにいるんだい﹂ ﹁どこにいるか知らない﹂ ﹁じゃいつ逢うか知れないじゃないか﹂ ﹁しかしいつ逢うかわからない。ことによると教師の口がなくって死んでしまったかも知れないね。――何でも先生辞職する前に教場へ出て来て云った事がある﹂ ﹁何て﹂ ﹁諸君、吾々は教師のために生きべきものではない。道のために生きべきものである。道は尊たっといものである。この理りく窟つがわからないうちは、まだ一人前になったのではない。諸君も精出してわかるようにおなり﹂ ﹁へえ﹂ ﹁僕らは不あい相かわ変らず教場内でワーっと笑ったあね。生意気だ、生意気だって笑ったあね。――どっちが生意気か分りゃしない﹂ ﹁随分田舎の学校などにゃ妙な事があるものだね﹂ ﹁なに東京だって、あるんだよ。学校ばかりじゃない。世の中はみんなこれなんだ。つまらない﹂ ﹁時にだいぶ長話しをした。どうだ君。これから品川の妙みょ花うか園えんまで行かないか﹂ ﹁何しに﹂ ﹁花を見にさ﹂ ﹁これから帰って地理教授法を訳さなくっちゃならない﹂ ﹁一いち日んちぐらい遊んだってよかろう。ああ云う美くしい所へ行くと、好い心持ちになって、翻訳もはかが行くぜ﹂ ﹁そうかな。君は遊びに行くのかい﹂ ﹁遊あそびかたがたさ。あすこへ行って、ちょっと写生して来て、材料にしようと思ってるんだがね﹂ ﹁何の材料に﹂ ﹁出来たら見せるよ。小説をかいているんだ。そのうちの一章に女が花はな園ぞののなかに立って、小さな赤い花を余よね念んなく見み詰つめていると、その赤い花がだんだん薄くなってしまいに真白になってしまうと云うところを書いて見たいと思うんだがね﹂ ﹁空想小説かい﹂ ﹁空想的で神秘的で、それで遠い昔しが何だかなつかしいような気持のするものが書きたい。うまく感じが出ればいいが。まあ出来たら読んでくれたまえ﹂ ﹁妙花園なんざ、そんな参考にゃならないよ。それよりかうちへ帰ってホルマン・ハントの画えでも見る方がいい。ああ、僕も書きたい事があるんだがな。どうしても時がない﹂ ﹁君は全体自然がきらいだから、いけない﹂ ﹁自然なんて、どうでもいいじゃないか。この痛切な二十世紀にそんな気楽な事が云っていられるものか。僕のは書けば、そんな夢見たようなものじゃないんだからな。奇きれ麗いでなくっても、痛くっても、苦しくっても、僕の内面の消息にどこか、触れていればそれで満足するんだ。詩的でも詩的でなくっても、そんな事は構わない。たとい飛び立つほど痛くっても、自分で自分の身から体だを切って見て、なるほど痛いなと云うところを充分書いて、人に知らせてやりたい。呑のん気きなものや気楽なものはとうてい夢にも想像し得られぬ奥の方にこんな事実がある、人間の本体はここにあるのを知らないかと、世の道楽ものに教えて、おやそうか、おれは、まさか、こんなものとは思っていなかったが、云われて見るとなるほど一いち言ごんもない、恐れ入ったと頭を下げさせるのが僕の願なんだ。君とはだいぶ方角が違う﹂ ﹁しかしそんな文学は何だか心持ちがわるい。――そりゃ御随意だが、どうだい妙みょ花うか園えんに行く気はないかい﹂ ﹁妙花園へ行くひまがあれば一頁ページでも僕の主張をかくがなあ。何だか考えると身体がむずむずするようだ。実際こんなに呑のん気きにして、生なま焼やきのビステッキなどを食っちゃいられないんだ﹂ ﹁ハハハハまたあせる。いいじゃないか、さっきの商人見たような連れん中じゅうもいるんだから﹂ ﹁あんなのがいるから、こっちはなお仕事がしたくなる。せめて、あの連中の十分ぶ一の金と時があれば、書いて見せるがな﹂ ﹁じゃ、どうしても妙花園は不賛成かね﹂ ﹁遅くなるもの。君は冬服を着ているが、僕はいまだに夏服だから帰りに寒くなって風でも引くといけない﹂ ﹁ハハハハ妙な逃げ路を発見したね。もう冬服の時節だあね。着換えればいい事を。君は万事無ぶし精ょうだよ﹂ ﹁無精で着換えないんじゃない。ないから着換えないんだ。この夏服だって、まだ一文も払っていやしない﹂ ﹁そうなのか﹂と中野君は気の毒な顔をした。 午ひる飯めしの客は皆去り尽して、二人が椅い子すを離れた頃はところどころの卓たく布ふの上に麺パン麭く屑ずが淋しく散らばっていた。公園の中は最前よりも一層賑にぎやかである。ロハ台は依然として、どこの何なに某がしか知らぬ男と知らぬ女で占領されている。秋の日は赫かっとして夏服の背中を通す。三
檜ひのきの扉とびらに銀のような瓦かわらを載のせた門を這は入いると、御みか影げの敷石に水を打って、斜ななめに十歩ばかり歩あゆませる。敷石の尽きた所に擦すり硝ガラ子スの開き戸が左右から寂じゃ然くねんと鎖とざされて、秋の更ふくるに任すがごとく邸内は物静かである。 磨みがき上げた、柾まさの柱に象ぞう牙げの臍へそをちょっと押すと、しばらくして奥の方から足音が近づいてくる。がちゃと鍵かぎをひねる。玄関の扉は左右に開かれて、下は鏡のようなたたきとなる。右の方に周まわ囲り一尺しゃ余くよの朱しゅ泥でいまがいの鉢はちがあって、鉢のなかには棕しゅ梠ろち竹くが二三本靡なびくべき風も受けずに、ひそやかに控えている。正面には高さ四尺の金きん屏びょうに、三さん条じょうの小こ鍛か冶じが、異いぎ形ょうのものを相あい槌づちに、霊れい夢むに叶かなう、御みか門どの太た刀ちを丁ちょうと打ち、丁と打っている。 取次に出たのは十八九のしとやかな下女である。白しら井いど道う也やと云いう名刺を受取ったまま、あの若旦那様で? と聞く。道也先生は首を傾かたむけてちょっと考えた。若旦那にも大旦那にも中野と云う人に逢うのは今が始めてである。ことによるとまるで逢えないで帰るかも計はかられん。若旦那か大旦那かは逢って始めてわかるのである。あるいは分らないで生しょ涯うがいそれぎりになるかも知れない。今まで訪問に出で懸かけて、年寄か、小供か、跛ちんばか、眼っかちか、要領を得る前に門前から追い還かえされた事は何遍もある。追い還されさえしなければ大旦那か若旦那かは問うところでない。しかし聞かれた以上はどっちか片づけなければならん。どうでもいい事を、どうでもよくないように決断しろと逼せまらるる事は賢けん者じゃが愚ぐぶ物つに対して払う租税である。 ﹁大学を御卒業になった方ほうの……﹂とまで云ったが、ことによると、おやじも大学を卒業しているかも知れんと心づいたから ﹁あの文学をおやりになる﹂と訂正した。下女は何とも云わずに御お辞じ儀ぎをして立って行く。白しろ足た袋びの裏だけが目立ってよごれて見える。道也先生の頭の上には丸く鉄を鋳い抜ぬいた、かな灯どう籠ろうがぶら下がっている。波に千鳥をすかして、すかした所に紙が張ってある。このなかへ、どうしたら灯ひがつけられるのかと、先生は仰あお向むいて長い鎖くさりを眺ながめながら考えた。 下女がまた出てくる。どうぞこちらへと云う。道也先生は親指の凹くぼんで、前まえ緒おのゆるんだ下駄を立派な沓くつ脱ぬぎへ残して、ひょろ長い糸へち瓜まのようなからだを下女の後ろから運んで行く。 応接間は西洋式に出来ている。丸い卓テーブルには、薔ば薇らの花を模様に崩くずした五六輪を、淡い色で織り出したテーブル掛かけを、雑ぞう作さもなく引き被かぶせて、末は同じ色合の絨じゅ毯うたんと、続つづくがごとく、切れたるがごとく、波を描えがいて床ゆかの上に落ちている。暖だん炉ろは塞ふさいだままの一尺前に、二にま枚いお折りの小こび屏ょう風ぶを穴隠しに立ててある。窓掛は緞どん子すの海えび老ちゃ茶い色ろだから少々全体の装飾上調和を破るようだが、そんな事は道也先生の眼には入いらない。先生は生れてからいまだかつてこんな奇きれ麗いな室へやへ這は入いった事はないのである。 先生は仰いで壁へき間かんの額を見た。京の舞子が友ゆう禅ぜんの振ふり袖そでに鼓つづみを調べている。今打って、鼓から、白い指が弾はじき返されたばかりの姿が、小指の先までよくあらわれている。しかし、そんな事に気のつく道也先生ではない。先生はただ気品のない画えを掛けたものだと思ったばかりである。向むこうの隅すみにヌーボー式の書棚があって、美しい洋書の一部が、窓掛の隙すき間まから洩もれて射さす光線に、金文字の甲こう羅らを干ほしている。なかなか立派である。しかし道也先生これには毫ごうも辟へき易えきしなかった。 ところへ中野君が出てくる。紬つむぎの綿入に縮ちり緬めんの兵へこ子お帯びをぐるぐる巻きつけて、金きん縁ぶちの眼めが鏡ねご越しに、道也先生をまぼしそうに見て、﹁や、御待たせ申しまして﹂と椅子へ腰をおろす。 道也先生は、あやしげな、銘めい仙せんの上を蔽おおうに黒くろ木もめ綿んの紋付をもってして、嘉かへ平いじ次ひ平らの下へ両手を入れたまま、 ﹁どうも御邪魔をします﹂と挨あい拶さつをする。泰たい然ぜんたるものだ。 中野君は挨拶が済んでからも、依然としてまぼしそうにしていたが、やがて思い切った調子で ﹁あなたが、白井道也とおっしゃるんで﹂と大おおいなる好奇心をもって聞いた。聞かんでも名刺を見ればわかるはずだ。それをかように聞くのは世よ馴なれぬ文学士だからである。 ﹁はい﹂と道也先生は落ちついている。中野君のあては外はずれた。中野君は名刺を見た時はっと思って、頭のなかは追い出された中学校の教師だけになっている。可かわ哀いそ想うだと云う念頭に尾お羽はうち枯らした姿を目前に見て、あなたが、あの中学校で生徒からいじめられた白井さんですかと聞き糺ただしたくてならない。いくら気の毒でも白井違いで気の毒がったのでは役に立たない。気の毒がるためには、聞き糺すためには﹁あなたが白井道也とおっしゃるんで﹂と切り出さなくってはならなかった。しかしせっかくの切り出しようも泰然たる﹁はい﹂のために無むだ駄じ死にをしてしまった。初しょ心しんなる文学士は二の句をつぐ元気も作さり略ゃくもないのである。人に同情を寄せたいと思うとき、向むこうが泰然の具足で身を固めていては芝居にはならん。器用なものはこの泰然の一いっ角かくを針で突き透とおしても思おもいを遂とげる。中野君は好人物ながらそれほどに人を取り扱い得るほど世の中を知らない。 ﹁実は今日御邪魔に上がったのは、少々御願があって参ったのですが﹂と今度は道也先生の方から打って出る。御願は同情の好敵手である。御願を持たない人には同情する張り合がない。 ﹁はあ、何でも出来ます事なら﹂と中野君は快く承知した。 ﹁実は今度江こう湖こざ雑っ誌しで現代青年の煩はん悶もんに対する解決と云う題で諸先生方の御高説を発表する計画がありまして、それで普通の大家ばかりでは面白くないと云うので、なるべく新しい方もそれぞれ訪問する訳になりましたので――そこで実はちょっと往って来てくれと頼まれて来たのですが、御おさ差しつ支かえがなければ、御話を筆記して参りたいと思います﹂ 道也先生は静かに懐ふところから手帳と鉛筆を取り出した。取り出しはしたものの別に筆記したい様子もなければ強しいて話させたい景けし色きも見えない。彼はかかる愚ぐな問題を、かかる青年の口から解決して貰いたいとは考えていない。 ﹁なるほど﹂と青年は、耀かがやく眼を挙あげて、道也先生を見たが、先生は宵よい越ごしの麦ビー酒ルのごとく気の抜けた顔をしているので、今度は﹁さよう﹂と長く引っ張って下を向いてしまった。 ﹁どうでしょう、何か御説はありますまいか﹂と催促を義理ずくめにする。ありませんと云ったら、すぐ帰る気かも知れない。 ﹁そうですね。あったって、僕のようなものの云う事は雑誌へ載のせる価値はありませんよ﹂ ﹁いえ結構です﹂ ﹁全体どこから、聞いていらしったんです。あまり突然じゃ纏まとまった話の出来るはずがないですから﹂ ﹁御名前は社主が折々雑誌の上で拝見するそうで﹂ ﹁いえ、どうしまして﹂と中野君は横を向いた。 ﹁何でもよいですから、少し御話し下さい﹂ ﹁そうですね﹂と青年は窓の外を見て躊ちゅ躇うちょしている。 ﹁せっかく来たものですから﹂ ﹁じゃ何か話しましょう﹂ ﹁はあ、どうぞ﹂と道也先生鉛筆を取り上げた。 ﹁いったい煩悶と云う言葉は近頃だいぶはやるようだが、大抵は当座のもので、いわゆる三みっ日かぼ坊う主ずのものが多い。そんな種類の煩悶は世の中が始まってから、世の中がなくなるまで続くので、ちっとも問題にはならないでしょう﹂ ﹁ふん﹂と道也先生は下を向いたなり、鉛筆を動かしている。紙の上を滑すべらす音が耳立って聞える。 ﹁しかし多くの青年が一度は必ず陥おちいる、また必ず陥るべく自然から要求せられている深刻な煩悶が一つある。……﹂ 鉛筆の音がする。 ﹁それは何だと云うと――恋である……﹂ 道也先生はぴたりと筆記をやめて、妙な顔をして、相手を見た。中野君は、今さら気がついたようにちょっとしょげ返ったが、すぐ気を取り直して、あとをつづけた。 ﹁ただ恋と云うと妙に御聞きになるかも知れない。また近頃はあまり恋愛呼ばりをするのを人が遠慮するようであるが、この種の煩はん悶もんは大おおいなる事実であって、事実の前にはいかなるものも頭を下げねばならぬ訳だからどうする事も出来ないのである﹂ 道也先生はまた顔をあげた。しかし彼の長い蒼あお白じろい相そう貌ぼうの一いち微みじ塵んだも動いておらんから、彼の心のうちは無論わからない。 ﹁我々が生しょ涯うがいを通じて受ける煩はん悶もんのうちで、もっとも痛切なもっとも深刻な、またもっとも劇烈な煩悶は恋よりほかにないだろうと思うのです。それでですね、こう云う強大な威力のあるものだから、我々が一ひと度たびこの煩悶の炎えん火かのうちに入ると非常な変形をうけるのです﹂ ﹁変形? ですか﹂ ﹁ええ形を変ずるのです。今まではただふわふわ浮いていた。世の中と自分の関係がよくわからないで、のんべんぐらりんに暮らしていたのが、急に自分が明めい瞭りょうになるんです﹂ ﹁自分が明瞭とは?﹂ ﹁自分の存在がです。自分が生きているような心持ちが確然と出てくるのです。だから恋は一方から云えば煩悶に相違ないが、しかしこの煩悶を経過しないと自分の存在を生涯悟さとる事が出来ないのです。この浄罪界に足を入れたものでなければけっして天国へは登れまいと思うのです。ただ楽天だってしようがない。恋の苦くるしみを甞なめて人生の意義を確かめた上の楽天でなくっちゃ、うそです。それだから恋の煩悶はけっして他の方法によって解決されない。恋を解決するものは恋よりほかにないです。恋は吾ごじ人んをして煩悶せしめて、また吾人をして解げだ脱つせしむるのである。……﹂ ﹁そのくらいなところで﹂と道也先生は三度目に顔を挙あげた。 ﹁まだ少しあるんですが……﹂ ﹁承うけたまわるのはいいですが、だいぶ多人数の意見を載せるつもりですから、かえってあとから削さく除じょすると失礼になりますから﹂ ﹁そうですか、それじゃそのくらいにして置きましょう。何だかこんな話をするのは始めてですから、さぞ筆記しにくかったでしょう﹂ ﹁いいえ﹂と道也先生は手帳を懐ふところへ入れた。 青年は筆記者が自分の説を聴いて、感心の余り少しは賛辞でも呈するかと思ったが、相手は例のごとく泰然としてただいいえと云ったのみである。 ﹁いやこれは御邪魔をしました﹂と客は立ちかける。 ﹁まあいいでしょう﹂と中野君はとめた。せめて自分の説を少々でも批評して行って貰いたいのである。それでなくても、せんだって日比谷で聞いた高柳君の事をちょっと好奇心から、あたって見たいのである。一いち言ごんにして云えば中野君はひまなのである。 ﹁いえ、せっかくですが少々急ぎますから﹂と客はもう椅い子すを離れて、一歩テーブルを退しりぞいた。いかにひまな中野君も﹁それでは﹂とついに降参して御お辞じ儀ぎをする。玄関まで送って出た時思い切って ﹁あなたは、もしや高たか柳やな周ぎし作ゅうさくと云う男を御存じじゃないですか﹂と念ねん晴ばらしのため聞いて見る。 ﹁高柳? どうも知らんようです﹂と沓くつ脱ぬぎから片足をタタキへおろして、高い背を半分後ろへ捩ねじ向けた。 ﹁ことし大学を卒業した……﹂ ﹁それじゃ知らん訳だ﹂と両足ともタタキの上へ運んだ。 中野君はまだ何か云おうとした時、敷石をがらがらと車の軋きしる音がして梶かじ棒ぼうは硝ガラ子スの扉とびらの前にとまった。道也先生が扉を開く途とた端んに車上の人はひらり厚い雪せっ駄たを御みか影げの上に落した。五色の雲がわが眼を掠かすめて過ぎた心持ちで往来へ出る。 時計はもう四時過ぎである。深い碧みどりの上へ薄いセピヤを流した空のなかに、はっきりせぬ鳶とびが一羽舞っている。雁かりはまだ渡って来ぬ。向むこうから袴はかまの股もも立だちを取った小供が唱歌を謡うたいながら愉快そうにあるいて来た。肩に担かついだ笹ささの枝には草の穂で作った梟ふくろうが踊りながらぶら下がって行く。おおかた雑ぞう子しヶや谷へでも行ったのだろう。軒の深い菓くだ物もの屋やの奥の方に柿ばかりがあかるく見える。夕暮に近づくと何となくうそ寒い。 薬やく王おう寺じま前えに来たのは、帽子の庇ひさしの下から往ゆき来きの人の顔がしかと見分けのつかぬ頃である。三十三所じょと彫ほってある石せき標ひょうを右に見て、紺こん屋やの横町を半丁ほど西へ這は入いるとわが家やの門かど口ぐちへ出る、家いえのなかは暗い。 ﹁おや御帰り﹂と細君が台所で云う。台所も玄関も大した相違のないほど小さな家である。 ﹁下女はどっかへ行ったのか﹂と二畳の玄関から、六畳の座敷へ通る。 ﹁ちょっと、柳町まで使に行きました﹂と細君はまた台所へ引き返す。 道也先生は正面の床とこの片隅に寄せてあった、洋ラン灯プを取って、椽えん側がわへ出て、手ずから掃そう除じを始めた。何か原稿用紙のようなもので、油あぶ壺らつぼを拭ふき、ほやを拭き、最後に心しんの黒い所を好い加減になすくって、丸めた紙は庭へ棄すてた。庭は暗くなって様子が頓とんとわからない。 机の前へ坐った先生は燐マッ寸チを擦すって、しゅっと云う間まに火をランプに移した。室へやはたちまち明あきらかになる。道也先生のために云えばむしろ明かるくならぬ方が増しである。床はあるが、言いい訳わけばかりで、現げんに幅ふくも何も懸かかっておらん。その代り累るい々るいと書物やら、原稿紙やら、手帳やらが積んである。机は白しら木きの三さん宝ぼうを大きくしたくらいな単たん簡かんなもので、インキ壺つぼと粗末な筆ひっ硯けんのほかには何物をも載のせておらぬ。装飾は道也先生にとって不必要であるのか、または必要でもこれに耽ふける余裕がないのかは疑問である。ただ道也先生がこの一点の温おん気きなき陋ろう室しつに、晏あん如じょとして筆硯を呵かするの勇気あるは、外部より見て争うべからざる事実である。ことによると先生は装飾以外のあるものを目的にして、生活しているのかも知れない。ただこの争うべからざる事実を確めれば、確かめるほど細君は不愉快である。女は装飾をもって生れ、装飾をもって死ぬ。多数の女はわが運命を支配する恋さえも装飾視して憚はばからぬものだ。恋が装飾ならば恋の本尊たる愛人は無論装飾品である。否いな、自己自身すら装飾品をもって甘んずるのみならず、装飾品をもって自己を目もくしてくれぬ人を評して馬鹿と云う。しかし多数の女はしかく人世を観かんずるにもかかわらず、しかく観ずるとはけっして思わない。ただ自己の周囲を纏てん綿めんする事物や人間がこの装飾用の目的に叶かなわぬを発見するとき、何となく不愉快を受ける。不愉快を受けると云うのに周囲の事物人間が依然として旧態をあらためぬ時、わが眼に映ずる不愉快を左右前後に反射して、これでも改めぬかと云う。ついにはこれでもか、これでもかと念入りの不愉快を反射する。道也の細君がここまで進歩しているかは疑問である。しかし普通一般の女性であるからには装飾気なきこの空気のうちに生せい息そくする結果として、自然この方向に進行するのが順当であろう。現に進行しつつあるかも知れぬ。 道也先生はやがて懐ふところから例の筆記帳を出して、原稿紙の上へ写し始めた。袴はかまを着けたままである。かしこまったままである。袴を着けたまま、かしこまったままで、中なか野のき輝い一ちの恋愛論を筆記している。恋とこの室へや、恋とこの道也とはとうてい調和しない。道也は何と思って浄書しているかしらん。人は様々である、世も様々である。様々の世に、様々の人が動くのもまた自然の理である。ただ大きく動くものが勝ち、深く動くものが勝たねばならぬ。道也は、あの金きん縁ぶちの眼めが鏡ねを掛けた恋愛論よりも、小さくかつ浅いと自覚して、かく慎重に筆記を写し直しているのであろうか。床とこの後うしろで![※(「虫+車」、第3水準1-91-55)](../../../gaiji/1-91/1-91-55.png)
四
﹁どこへ行く﹂と中野君が高柳君をつらまえた。所は動物園の前である。太い桜の幹みきが黒ずんだ色のなかから、銀のような光りを秋の日に射返して、梢こずえを離れる病わく葉らばは風なき折こ々う行じ人んの肩にかかる。足元には、ここかしこに枝を辞したる古い奴やつががさついている。 色は様々である。鮮血を日に曝さらして、七なぬ日かの間日ひごとにその変化を葉裏に印して、注意なく一枚のなかに畳み込めたら、こんな色になるだろうと高柳君はさっきから眺ながめていた。血を連想した時高柳君は腋わきの下から何か冷たいものが襯シャ衣ツに伝わるような気分がした。ごほんと取り締りのない咳せきを一つする。 形も様々である。火にあぶったかき餅もちの状なりは千差万別であるが、我も我もとみんな反そり返かえる。桜の落葉もがさがさに反そり返って、反り返ったまま吹く風に誘われて行く。水みず気けのないものには未練も執着もない。飄ひょ々うひょうとしてわが行末を覚おぼ束つかない風に任せて平気なのは、死んだ後あとの祭りに、から騒ぎにはしゃぐ了りょ簡うけんかも知れぬ。風にめぐる落葉と攫さらわれて行くかんな屑くずとは一種の気きち狂がいである。ただ死したるものの気狂である。高柳君は死と気狂とを自然界に点てん綴てつした時、瘠やせた両肩を聳そびやかして、またごほんと云ううつろな咳せきを一つした。 高柳君はこの瞬間に中野君からつらまえられたのである。ふと気がついて見ると世は太平である。空は朗らかである。美しい着物をきた人が続々行く。相手は薄うす羅らし紗ゃの外がい套とうに恰かっ好こうのいい姿を包んで、顋あごの下に真珠の留とめ針ばりを輝かしている。――高柳君は相手の姿を見守ったなり黙っていた。 ﹁どこへ行く﹂と青年は再び問うた。 ﹁今図書館へ行った帰りだ﹂と相手はようやく答えた。 ﹁また地理学教授法じゃないか。ハハハハ。何だか不景気な顔をしているね。どうかしたかい﹂ ﹁近頃は喜劇の面めんをどこかへ遺お失としてしまった﹂ ﹁また新橋の先まで探さがしに行って、拳けん突つくを喰ったんじゃないか。つまらない﹂ ﹁新橋どころか、世界中探がしてあるいても落ちていそうもない。もう、御やめだ﹂ ﹁何を﹂ ﹁何でも御やめだ﹂ ﹁万事御やめか。当分御やめがよかろう。万事御やめにして僕といっしょに来たまえ﹂ ﹁どこへ﹂ ﹁今日はそこに慈善音楽会があるんで、切符を二枚買わされたんだが、ほかに誰も行いき手てがないから、ちょうどいい。君行きたまえ﹂ ﹁いらない切符などを買うのかい。もったいない事をするんだな﹂ ﹁なに義理だから仕方がない。おやじが買ったんだが、おやじは西洋音楽なんかわからないからね﹂ ﹁それじゃ余った方を送ってやればいいのに﹂ ﹁実は君の所へ送ろうと思ったんだが……﹂ ﹁いいえ。あすこへさ﹂ ﹁あすことは。――うん。あすこか。何、ありゃ、いいんだ。自分でも買ったんだ﹂ 高柳君は何とも返事をしないで、相手を真正面から見ている。中野君は少々恐縮の微笑を洩もらして、右の手に握ったままの、山や羊ぎの手袋で外がい套とうの胸をぴしゃぴしゃ敲たたき始めた。 ﹁穿はめもしない手袋を握ってあるいてるのは何のためだい﹂ ﹁なに、今ちょっと隠ポッ袋ケットから出したんだ﹂と云いながら中野君は、すぐ手袋をかくしの裏うちに収めた。高柳君の癇かん癪しゃくはこれで少お々さ治まったようである。 ところへ後ろからエーイと云う掛声がして蹄ひづめの音が風を動かしてくる。両ふた人りは足早に道みち傍ばたへ立ち退のいた。黒くろ塗ぬりのランドーの蓋おおいを、秋の日の暖かきに、払い退けた、中には絹シル帽クハットが一つ、美しい紅くれないの日ひが傘さが一つ見えながら、両人の前を通り過ぎる。 ﹁ああ云う連中が行くのかい﹂と高柳君が顋あごで馬車の後ろ影を指さす。 ﹁あれは徳川侯爵だよ﹂と中野君は教えた。 ﹁よく、知ってるね。君はあの人の家来かい﹂ ﹁家来じゃない﹂と中野君は真ま面じ目めに弁解した。高柳君は腹のなかでまたちょっと愉快を覚えた。 ﹁どうだい行こうじゃないか。時間がおくれるよ﹂ ﹁おくれると逢えないと云うのかね﹂ 中野君は、すこし赤くなった。怒ったのか、弱点をつかれたためか、恥ずかしかったのか、わかるのは高柳君だけである。 ﹁とにかく行こう。君はなんでも人の集まる所やなにかを嫌ってばかりいるから、一ひと人り坊ぼっちになってしまうんだよ﹂ 打つものは打たれる。参るのは今度こそ高柳君の番である。一人坊っちと云う言葉を聞いた彼は、耳がしいんと鳴って、非常に淋しい気持がした。 ﹁いやかい。いやなら仕方がない。僕は失敬する﹂ 相手は同情の笑を湛たたえながら半歩踵くびすをめぐらしかけた。高柳君はまた打たれた。 ﹁いこう﹂と単たん簡かんに降参する。彼が音楽会へ臨むのは生れてから、これが始めてである。 玄関にかかった時は受付が右へ左りへの案内で忙ぼう殺さつされて、接待掛りの胸につけた、青いリボンを見失うほど込み合っていた。突き当りを右へ折れるのが上等で、左りへ曲がるのが並等である。下等はないそうだ。中野君は無論上等である。高柳君を顧みながら、こっちだよと、さも物もの馴なれたさまに云う。今日に限って、特別に下等席を設けて貰って、そこへ自分だけ這は入いって聴きいて見たいと一人坊っちの青年は、中野君のあとをつきながら階段を上ぼりつつ考えた。己おのれの右を上のぼる人も、左りを上る人も、またあとからぞろぞろついて来るものも、皆異種類の動物で、わざと自分を包囲して、のっぴきさせず二階の大広間へ押し上げた上、あとから、慰み半分に手を拍うって笑う策さく略りゃくのように思われた。後ろを振り向くと、下から緑みどりの滴したたる束そく髪はつの脳のう巓てんが見える。コスメチックで奇きれ麗いな一直線を七分三分の割合に錬ねり出した頭ずが蓋いこ骨つが見える。これらの頭が十も二十も重なり合って、もう高柳周作は一歩でも退く事はならぬとせり上がってくる。 楽堂の入口を這は入いると、霞かすみに酔うた人のようにぽうっとした。空を隠す茂みのなかを通り抜けて頂いただきに攀よじ登った時、思いも寄らぬ、眼の下に百里の眺ながめが展開する時の感じはこれである。演奏台は遥はるかの谷底にある。近づくためには、登り詰めた頂から、規則正しく排列された人間の間を一直線に縫うがごとくに下りて、自然と逼せまる擂すり鉢ばちの底に近寄らねばならぬ。擂すり鉢ばちの底は半円形を劃して空に向って広がる内側面には人間の塀へいが段々に横輪をえがいている。七八段を下りた高柳君は念のために振り返って擂鉢の側面を天てん井じょうまで見上げた時、目がちらちらしてちょっと留った。excuse me と云って、大きな異人が、高柳君を蔽おおいかぶせるようにして、一段下へ通り抜けた。駝だち鳥ょうの白い毛が鼻の先にふらついて、品のいい香りがぷんとする。あとから、脳のう巓てんの禿はげた大男が絹シル帽クハットを大事そうに抱えて身を横にして女につきながら、二人を擦すり抜ける。 ﹁おい、あすこに椅子が二つ空あいている﹂と物もの馴なれた中野君は階段を横へ切れる。並んでいる人は席を立って二人を通す。自分だけであったら、誰も席を立ってくれるものはあるまいと高柳君は思った。 ﹁大変な人だね﹂と椅子に腰をおろしながら中野君は満場を見廻わす。やがて相手の服装に気がついた時、急に小声になって、 ﹁おい、帽子をとらなくっちゃ、いけないよ﹂と云う。 高柳君は卒然として帽子を取って、左右をちょっと見た。三四人の眼が自分の頭の上に注そそがれていたのを発見した時、やっぱり包囲攻撃だなと思った。なるほど帽子を被かぶっていたものはこの広い演奏場に自分一人である。 ﹁外がい套とうは着ていてもいいのか﹂と中野君に聞いて見る。 ﹁外套は構わないんだ。しかしあつ過ぎるから脱ごうか﹂と中野君はちょっと立ち上がって、外套の襟えりを三寸ばかり颯さと返したら、左の袖そでがするりと抜けた、右の袖を抜くとき、領えりのあたりをつまんだと思ったら、裏を表おもてに、外套ははや畳まれて、椅い子すの背せな中かを早くも隠した。下は仕し立たておろしのフロックに、近頃流は行やる白いスリップが胴チョ衣ッキの胸むね開あきを沿うて細い筋を奇きれ麗いにあらわしている。高柳君はなるほどいい手てぎ際わだと羨うらやましく眺めていた。中野君はどう云いうものか容易に坐らない。片手を椅子の背に凭もたせて、立ちながら後ろから、左右へかけて眺めている。多くの人の視線は彼の上に落ちた。中野君は平気である。高柳君はこの平気をまた羨うらやましく感じた。 しばらくすると、中野君は千以上陳列せられたる顔のなかで、ようやくあるものを物色し得たごとく、豊かなる双そう頬きょうに愛あい嬌きょうの渦うずを浮かして、軽かろく何なん人びとにか会えし釈ゃくした。高柳君は振り向かざるを得ない。友の挨あい拶さつはどの辺へんに落ちたのだろうと、こそばゆくも首を捩ねじ向けて、斜ななめに三段ばかり上を見ると、たちまち目つかった。黒い髪のただ中に黄の勝った大きなリボンの蝶ちょうを颯さっとひらめかして、細くうねる頸くび筋すじを今真直に立て直す女の姿が目つかった。紅くれないは眼の縁ふちを薄く染めて、潤うるおった眼まつ睫げの奥から、人の世を夢の底に吸い込むような光りを中野君の方に注いでいる。高柳君はすわやと思った。 わが穿はく袴はかまは小こく倉らである。羽織は染めが剥はげて、濁った色の上に垢あかが容よう赦しゃなく日光を反射する。湯には五日前に這は入いったぎりだ。襯シャ衣ツを洗わざる事は久しい。音楽会と自分とはとうてい両立するものでない。わが友と自分とは?――やはり両立しない。友のハイカラ姿とこの魔力ある眼の所有者とは、千里を隔てても無線の電気がかかるべく作られている。この一堂の裡うちに綺き羅らの香かおりを嗅かぎ、和楽の温あたたかみを吸うて、落ち合うからは、二人の魂は無論の事、溶とけて流れて、かき鳴らす箏ことの線いとの細きうちにも、めぐり合わねばならぬ。演奏会は数千の人を集めて、数千の人はことごとく双そう手しゅを挙あげながらこの二人を歓迎している。同じ数千の人はことごとく五指しを弾はじいて、われ一人を排斥している。高柳君はこんな所へ来なければよかったと思った。友はそんな事を知りようがない。 ﹁もう時間だ、始まるよ﹂と活版に刷った曲目を見ながら云う。 ﹁そうか﹂と高柳君は器械的に眼を活版の上に落した。 一、バイオリン、セロ、ピヤノ合奏とある。高柳君はセロの何物たるを知らぬ。二、ソナタ……ベートーベン作とある。名前だけは心得ている。三、アダジョ……パァージャル作とある。これも知らぬ。四、と読みかけた時拍はく手しゅの音が急に梁はりを動かして起った。演奏者はすでに台上に現われている。 やがて三部合奏曲は始まった。満場は化石したかのごとく静かである。右手の窓の外に、高い樅もみの木が半分見えて後ろは遐はるかの空の国に入る。左手の碧みどりの窓掛けを洩もれて、澄み切った秋の日が斜ななめに白い壁を明らかに照らす。 曲は静かなる自然と、静かなる人間のうちに、快よく進行する。中野は絢けん爛らんたる空気の振動を鼓こま膜くに聞いた。声にも色があると嬉うれしく感じている。高柳は樅の枝を離るる鳶とびの舞う様さまを眺めている。鳶が音楽に調子を合せて飛んでいる妙だなと思った。 拍手がまた盛さかんに起る。高柳君ははっと気がついた。自分はやはり異種類の動物のなかに一ひと人り坊ぼっちでおったのである。隣りを見ると中野君は一生懸命に敲たたいている。高い高い鳶の空から、己おのれをこの窮きゅ屈うくつな谷底に呼び返したものの一人は、われを無理矢理にここへ連れ込んだ友達である。 演奏は第二に移る。千余人の呼吸は一度にやむ。高柳君の心はまた豊かになった。窓の外を見ると鳶はもう舞っておらぬ。眼を移して天てん井じょうを見る。周囲一尺もあろうと思われる梁の六角形に削けずられたのが三本ほど、楽堂を竪たてに貫つらぬいている、後ろはどこまで通っているか、頭かしらを回めぐらさないから分らぬ。所々に模様に崩くずした草花が、長い蔓つると共に六角を絡からんでいる。仰あお向むいて見ていると広い御寺のなかへでも這は入いった心持になる。そうして黄色い声や青い声が、梁を纏まとう唐から草くさのように、縺もつれ合って、天井から降ふってくる。高柳君は無むに人んの境きょうに一人坊っちで佇たたずんでいる。 三度目の拍手が、断わりもなくまた起る。隣りの友達は人一倍けたたましい敲き方をする。無人の境におった一人坊っちが急に、霰あられのごとき拍手のなかに包囲された一人坊っちとなる。包囲はなかなか已やまぬ。演奏者が闥たつを排はいしてわが室しつに入らんとする間まぎ際わになおなお烈はげしくなった。ヴァイオリンを温かに右の腋えき下かに護まもりたる演奏者は、ぐるりと戸とぎ側わに体たいを回めぐらして、薄うす紅もみ葉じを点じたる裾すそ模もよ様うを台上に動かして来る。狂うばかりに咲き乱れたる白菊の花束を、飄ひるがえる袖そでの影に受けとって、なよやかなる上じょ躯うくを聴衆の前に、少しくかがめたる時、高柳は感じた。――この女の楽を聴きいたのは、聴かされたのではない。聴かさぬと云うを、ひそかに忍び寄りて、偸ぬすみ聴いたのである。 演奏は喝かっ采さいのどよめきの静まらぬうちにまた始まる。聴衆はとっさの際にことごとく死んでしまう。高柳君はまた自由になった。何だか広い原にただ一人立って、遥はるかの向うから熟じゅ柿くしのような色の暖かい太陽が、のっと上のぼってくる心持ちがする。小供のうちはこんな感じがよくあった。今はなぜこう窮屈になったろう。右を見ても左を見ても人は我を擯ひん斥せきしているように見える。たった一人の友達さえ肝かん心じんのところで無むざ残んの手をぱちぱち敲たたく。たよる所がなければ親の所へ逃げ帰れと云う話もある。その親があれば始からこんなにはならなかったろう。七つの時おやじは、どこかへ行ったなり帰って来ない。友達はそれから自分と遊ばなくなった。母に聞くと、おとっさんは今に帰る今に帰ると云った。母は帰らぬ父を、帰ると云ってだましたのである。その母は今でもいる。住み古ふるした家を引き払って、生れた町から三里の山奥に一人佗わびしく暮らしている。卒業をすれば立派になって、東京へでも引き取るのが子の義務である。逃げて帰れば親子共餓うえて死ななければならん。――たちまち拍手の声が一面に湧わき返る。 ﹁今のは面白かった。今までのうち一番よく出来た。非常に感じをよく出す人だ。――どうだい君﹂と中野君が聞く。 ﹁うん﹂ ﹁君面白くないか﹂ ﹁そうさな﹂ ﹁そうさなじゃ困ったな。――おいあすこの西洋人の隣りにいる、細こまかい友ゆう禅ぜんの着物を着ている女があるだろう。――あんな模様が近頃流はや行るんだ。派は出でだろう﹂ ﹁そうかなあ﹂ ﹁君はカラー・センスのない男だね。ああ云う派出な着物は、集会の時や何かにはごくいいのだね。遠くから見て、見み醒ざめがしない。うつくしくっていい﹂ ﹁君のあれも、同じようなのを着ているね﹂ ﹁え、そうかしら、何、ありゃ、いい加かげ減んに着ているんだろう﹂ ﹁いい加減に着ていれば弁解になるのかい﹂ 中野君はちょっと会話をやめた。左の方に鼻はな眼めが鏡ねをかけて揉もみ上あげを容よう赦しゃなく、耳の上で剃そり落した男が帳面を出してしきりに何か書いている。 ﹁ありゃ、音楽の批評でもする男かな﹂と今度は高柳君が聞いた。 ﹁どれ、――あの男か、あの黒服を着た。なあに、あれはね。画えか工きだよ。いつでも来る男だがね、来るたんびに写生帖を持って来て、人の顔を写している﹂ ﹁断わりなしにか﹂ ﹁まあ、そうだろう﹂ ﹁泥棒だね。顔泥棒だ﹂ 中野君は小さい声でくくと笑った。休憩時間は十分ぷんである。廊下へ出るもの、喫煙に行くもの、用を足たして帰るもの、が高柳君の眼に写る。女は小供の時見た、豊とよ国くにの田いな舎かげ源ん氏じを一枚一枚はぐって行く時の心持である。男は芳よし年としの書いた討ち入り当夜の義士が動いてるようだ。ただ自分が彼らの眼にどう写るであろうかと思うと、早く帰りたくなる。自分の左右前後は活動している。うつくしく活動している。しかし衣食のために活動しているのではない。娯楽のために活動している。胡こち蝶ょうの花に戯たわむるるがごとく、浮うき藻もの漣さざなみに靡なびくがごとく、実用以上の活動を示している。この堂に入るものは実用以上に余裕のある人でなくてはならぬ。 自分の活動は食うか食わぬかの活動である。和わ煦くの作用ではない粛しゅ殺くさつの運行である。儼げんたる天命に制せられて、無条件に生を享うけたる罪ざい業ごうを償つぐなわんがために働らくのである。頭から云えば胡蝶のごとく、かく翩へん々ぺんたる公衆のいずれを捕とらえ来きたって比較されても、少しも恥はずかしいとは思わぬ。云いたき事、云うて人が点うな頭ずく事、云うて人が尊たっとぶ事はないから云わぬのではない。生活の競争にすべての時間を捧ささげて、云うべき機会を与えてくれぬからである。吾われが云いたくて云われぬ事は、世が聞きたくても聞かれぬ事は、天がわが手を縛ばくするからである。人がわが口を箝かんするからである。巨万の富をわれに与えて、一銭も使うなかれと命ぜられたる時は富なき昔むかしの心安きに帰る能あたわずして、命めいを下せる人を逆さかしまに詛のろわんとす。われは呪のろい死にに死なねばならぬか。――たちまち咽の喉どが塞ふさがって、ごほんごほんと咳せき入いる。袂たもとからハンケチを出して痰たんを取る。買った時の白いのが、妙な茶色に変っている。顔を挙あげると、肩から観かん世ぜよりのように細い金きん鎖ぐさりを懸かけて、朱に黄を交まじえた厚板の帯の間に時計を隠した女が、列のはずれに立って、中野君に挨あい拶さつしている。 ﹁よう、いらっしゃいました﹂と可愛らしい二ふた重えま瞼ぶたを細めに云う。 ﹁いや、だいぶ盛会ですね。冬田さんは非常な出来でしたな﹂と中野君は半身を、女の方へ向けながら云う。 ﹁ええ、大喜びで……﹂と云い捨てて下りて行く。 ﹁あの女を知ってるかい﹂ ﹁知るものかね﹂と高柳君は拳けん突つくを喰わす。 相手は驚ろいて黙ってしまった。途とた端んに休憩後の演奏は始まる。﹁四よつ葉ばの苜うま蓿ごや花し﹂とか云うものである。曲の続く間は高柳君はうつらうつらと聴いている。ぱちぱちと手が鳴ると熱病の人が夢から醒さめたように我に帰る。この過程を二三度繰り返して、最後の幻覚から喚よび醒まされた時は、タンホイゼルのマーチで銅ど鑼らを敲たたき大おお喇らっ叭ぱを吹くところであった。 やがて、千余人の影は一度に動き出した。二人の青年は揉もまれながらに門を出た。 日はようやく暮れかかる。図書館の横手に聳そびえる松の林が緑りの色を微かすかに残して、しだいに黒い影に変って行く。 ﹁寒くなったね﹂ 高柳君の答は力の抜けた咳せき二つであった。 ﹁君さっきから、咳をするね。妙な咳だぜ。医者にでも見て貰ったら、どうだい﹂ ﹁何、大丈夫だ﹂と云いながら高柳君は尖とがった肩を二三度ゆすぶった。松林を横切って、博物館の前に出る。大きな銀いち杏ょうに墨ぼく汁じゅうを点てんじたような滴てき々てきの烏からすが乱れている。暮れて行く空に輝くは無数の落葉である。今は風さえ出た。 ﹁君二にさ三んち日ま前えに白しら井いど道う也やと云う人が来たぜ﹂ ﹁道也先生?﹂ ﹁だろうと思うのさ。余り沢山ある名じゃないから﹂ ﹁聞いて見たかい﹂ ﹁聞こうと思ったが、何だかきまりが悪るかったからやめた﹂ ﹁なぜ﹂ ﹁だって、あなたは中学校で生徒から追い出された事はありませんかとも聞けまいじゃないか﹂ ﹁追い出されましたかと聞かなくってもいいさ﹂ ﹁しかし容易に聞きにくい男だよ。ありゃ、困る人だ。用事よりほかに云わない人だ﹂ ﹁そんなになったかも知れない。元来何の用で君の所へなんぞ来たのだい﹂ ﹁なあに、江こう湖こざ雑っ誌しの記者だって、僕の所へ談話の筆記に来たのさ﹂ ﹁君の談話をかい。――世の中も妙な事になるものだ。やっぱり金が勝つんだね﹂ ﹁なぜ﹂ ﹁なぜって。――可かわ哀いそ想うに、そんなに零れい落らくしたかなあ。――君道也先生、どんな、服な装りをしていた﹂ ﹁そうさ、あんまり立派じゃないね﹂ ﹁立派でなくっても、まあどのくらいな服装をしていた﹂ ﹁そうさ。どのくらいとも云い悪にくいが、そうさ、まあ君ぐらいなところだろう﹂ ﹁え、このくらいか、この羽織ぐらいなところか﹂ ﹁羽織はもう少し色が好いいよ﹂ ﹁袴はかまは﹂ ﹁袴は木もめ綿んじゃないが、その代りもっと皺しわ苦くち茶ゃだ﹂ ﹁要するに僕と伯はく仲ちゅうの間か﹂ ﹁要するに君と伯仲の間だ﹂ ﹁そうかなあ。――君、背せいの高い、ひょろ長い人だぜ﹂ ﹁背の高い、顔の細長い人だ﹂ ﹁じゃ道也先生に違ない。――世の中は随分無む慈じ悲ひなものだなあ。――君番地を知ってるだろう﹂ ﹁番地は聞かなかった﹂ ﹁聞かなかった?﹂ ﹁うん。しかし江こう湖こざ雑っ誌しで聞けばすぐわかるさ。何でもほかの雑誌や新聞にも関係しているかも知れないよ。どこかで白井道也と云う名を見たようだ﹂ 音楽会の帰りの馬車や車は最さい前ぜんから絡らく繹えきとして二人を後ろから追い越して夕暮を吾わが家やへ急ぐ。勇ましく馳かけて来た二梃ちょうの人じん力りきがまた追い越すのかと思ったら、大仏を横に見て、西洋軒のなかに掛声ながら引き込んだ。黄たそ昏がれの白き靄もやのなかに、逼せまり来る暮色を弾はじき返すほどの目めざ覚ましき衣きぬは由よしある女に相違ない。中野君はぴたりと留まった。 ﹁僕はこれで失敬する。少し待ち合せている人があるから﹂ ﹁西洋軒で会食すると云う約束か﹂ ﹁うんまあ、そうさ。じゃ失敬﹂と中野君は向むこうへ歩き出す。高柳君は往来の真中へたった一人残された。 淋しい世の中を池いけの端はたへ下くだる。その時一人坊っちの周作はこう思った。﹁恋をする時間があれば、この自分の苦痛をかいて、一篇の創作を天下に伝える事が出来るだろうに﹂ 見上げたら西洋軒の二階に奇きれ麗いな花はな瓦ガ斯スがついていた。五
ミルクホールに這は入いる。上うえ下したを擦すり硝ガラ子スにして中一枚を透すき通とおしにした腰こし障しょ子うじに近く据すえた一脚の椅い子すに腰をおろす。焼やき麺パ麭ンを噛かじって、牛乳を飲む。懐中には二十円五十銭ある。ただ今地理学教授法の原稿を四十一頁渡して金に換かえて来たばかりである。一頁五十銭の割合になる。一頁五十銭を超こゆべからず、一ヵ月五十頁を超ゆべからずと申し渡されてある。 これで今月はどうか、こうか食える。ほかからくれる十円近くの金は故ふる里さとの母に送らなければならない。故ふる里さとはもう落おち鮎あゆの時節である。ことによると崩くずれかかった藁わら屋や根ねに初はつ霜しもが降ったかも知れない。鶏にわとりが菊の根方を暴あらしている事だろう。母は丈夫かしら。 向うの机を占領している学生が二人、西洋菓子を食いながら、団だん子ござ坂かの菊人形の収入について大おおいに論じている。左に蜜みか柑んをむきながら、その汁しるを牛乳の中へたらしている書生がある。一ひと房ふさ絞しぼっては、文ぶん芸げい倶く楽ら部ぶの芸者の写真を一枚はぐり、一房絞しぼっては一枚はぐる。芸者の絵が尽きた時、彼はコップの中を匙さじで攪かき廻して妙な顔をしている。酸さんで牛乳が固まったので驚ろいているのだろう。 高柳君はそこに重ねてある新聞の下から雑誌を引きずり出して、あれこれと見る。目的の江こう湖こざ雑っ誌しは朝日新聞の下に折れていた。折れてはいるがまだ新らしい。四五日前に出たばかりのである。折れた所は六号活字で何だか色鉛筆の赤い圏けん点てんが一面についている。僕の恋愛観と云う表題の下に中なか野のし春ゅん台たいとある。春台は無論輝きい一ちの号である。高柳君は食い欠いた焼やき麺パ麭ンを皿の上へ置いたなり﹁僕の恋愛観﹂を見ていたがやがて、にやりと笑った。恋愛観の結末に同じく色鉛筆で色情狂※﹇#感嘆符三つ、320-13﹈ と書いてある。高柳君は頁をはぐった。六号活字はだいぶ長い。もっともいろいろの人の名前が出ている。一番始めには現代青年の煩はん悶もんに対する諸家の解決とある。高柳君は急に読んで見る気になった。――第一は静せい心しんの工くふ夫うを積めと云う注意だ。積めとはどう積むのかちっともわからない。第二は運動をして冷れい水すい摩まさ擦つをやれと云う。簡単なものである。第三は読書もせず、世間も知らぬ青年が煩はん悶もんする法がないと論じている。無いと云っても有れば仕方がない。第四は休暇ごとに必ず旅行せよと勧告している。しかし旅費の出処は明記してない。――高柳君はあとを読むのが厭いやになった。颯さっと引っくりかえして、第一頁をあける。﹁解げだ脱つと拘こう泥でい……憂ゆう世せい子し﹂と云うのがある。標題が面白いのでちょっと目を通す。 ﹁身から体だの局部がどこぞ悪いと気にかかる。何をしていても、それがコダワって来る。ところが非常に健康な人は行ぎょ住うじ坐ゅう臥ざがともにわが身体の存在を忘れている。一点の局部だにわが注意を集注すべき患かん所しょがないから、かく安々と胖ゆたかなのである。瘠やせて蒼あおい顔をしている人に、君は胃が悪いだろうと尋ねて見た事がある。するとその男が答えて、胃は少しも故障がない、その証拠には僕はこの年になるが、いまだに胃がどこにあるか知らないと云うた。その時は笑って済んだが、後あとで考えて見ると大おおいに悟さとった言葉である。この人は全く胃が健康だから胃に拘こう泥でいする必要がない、必要がないから胃がどこにあっても構わないのと見える。自じざ在いい飲ん、自じざ在いし食ょく、いっこう平気である。この男は胃において悟さとりを開いたものである。……﹂ 高柳君はこれは少し妙だよと口のなかで云った。胃の悟りは妙だと云った。 ﹁胃について道いい得べき事は、惣そう身しんについても道い得べき事である。惣身について道い得べき事は、精神についても道いい得べき事である。ただ精神生活においては得失の両面において等しく拘こう泥でいを免まぬかれぬところが、身から体だより煩わずらいになる。 ﹁一いち能のうの士しは一能に拘こう泥でいし、一いち芸げいの人は一芸に拘泥して己おのれを苦しめている。芸能は気の持ちようではすぐ忘れる事も出来る。わが欠点に至っては容易に解げだ脱つは出来ぬ。 ﹁百円や二百円もする帯をしめて女が音楽会へ行くとこの帯が妙に気になって音楽が耳に入らぬ事がある。これは帯に拘こう泥でいするからである。しかしこれは自慢の例じゃ。得意の方は前云う通り祟たたりを避け易やすい。しかし不ふめ面んぼ目くの側はなかなか強情に祟たたる。昔しさる所で一人の客に紹介された時、御互に椅子の上で礼をして双方共頭かしらを下げた。下げながら、向うの足を見るとその男の靴くつ足た袋びの片かた々かたが破れて親指の爪が出ている。こちらが頭を下げると同時に彼は満足な足をあげて、破やれ足た袋びの上に加えた。この人は足袋の穴に拘泥していたのである。……﹂ おれも拘泥している。おれのからだは穴だらけだと高柳君は思いながら先へ進む。 ﹁拘泥は苦痛である。避けなければならぬ。苦痛そのものは避けがたい世であろう。しかし拘泥の苦痛は一日で済む苦痛を五いつ日か、七なぬ日かに延長する苦痛である。いらざる苦痛である。避けなければならぬ。 ﹁自己が拘泥するのは他人が自己に注意を集注すると思うからで、つまりは他人が拘泥するからである。……﹂ 高柳君は音楽会の事を思いだした。 ﹁したがって拘泥を解脱するには二つの方法がある。他人がいくら拘泥しても自分は拘泥せぬのが一つの解脱法である。人が目を峙そばだてても、耳を聳そびやかしても、冷評しても罵ば詈りしても自分だけは拘泥せずにさっさと事を運んで行く。大おお久くぼ保ひこ彦ざ左え衛も門んは盥たらいで登とじ城ょうした事がある。……﹂ 高柳君は彦左衛門が羨うらやましくなった。 ﹁立派な衣いし装ょうを馬ま士ごに着せると馬士はすぐ拘泥してしまう。華族や大名はこの点において解脱の方を得ている。華族や大名に馬士の腹はら掛がけをかけさすと、すぐ拘泥してしまう。釈しゃ迦かや孔こう子しはこの点において解脱を心得ている。物質界に重おもきを置かぬものは物質界に拘泥する必要がないからである。……﹂ 高柳君は冷さめかかった牛乳をぐっと飲んで、ううと云った。 ﹁第二の解脱法は常じょ人うじんの解脱法である。常人の解脱法は拘泥を免まぬかるるのではない、拘泥せねばならぬような苦しい地位に身を置くのを避けるのである。人の視聴を惹ひくの結果、われより苦痛が反射せぬようにと始めから用心するのである。したがって始めより流りゅ俗うぞくに媚こびて一世に附ふ和わする心しん底ていがなければ成功せぬ。江戸風な町人はこの解脱法を心得ている。芸げい妓ぎつ通うか客くはこの解脱法を心得ている。西洋のいわゆる紳ゼン士トルマンはもっともよくこの解脱法を心得たものである。……﹂ 芸者と紳ゼン士トルマンがいっしょになってるのは、面白いと、青年はまた焼やき麺パ麭ンの一片ぺんを、横合から半円形に食い欠いた。親指についた牛バ酪タをそのまま袴はかまの膝ひざへなすりつけた。 ﹁芸妓、紳士、通つう人じんから耶ヤ蘇ソ孔こう子し釈しゃ迦かを見れば全然たる狂人である。耶蘇、孔子、釈迦から芸妓、紳士、通人を見れば依然として拘こう泥でいしている。拘泥のうちに拘泥を脱し得たりと得意なるものは彼らである。両者の解げだ脱つは根本義において一致すべからざるものである。……﹂ 高柳君は今まで解脱の二字においてかつて考えた事はなかった。ただ文界に立って、ある物になりたい、なりたいがなれない、なれんのではない、金がない、時がない、世間が寄ってたかって己おのれを苦しめる、残念だ無念だとばかり思っていた。あとを読む気になる。 ﹁解脱は便べん法ぽうに過ぎぬ。下くだれる世に立って、わが真を貫徹し、わが善を標ひょ榜うぼうし、わが美を提唱するの際、![※(「てへん+施のつくり」、第3水準1-84-74)](../../../gaiji/1-84/1-84-74.png)
六
﹁私は高たか柳やな周ぎし作ゅうさくと申すもので……﹂と丁寧に頭を下げた。高柳君が丁寧に頭を下げた事は今まで何度もある。しかしこの時のように快よく頭を下げた事はない。教授の家を訪問しても、翻訳を頼まれる人に面会しても、その他の先輩に対しても皆丁寧に頭をさげる。せんだって中野のおやじに紹介された時などはいよいよもって丁寧に頭をさげた。しかし頭を下げるうちにいつでも圧迫を感じている。位地、年輩、服装、住居が睥へい睨げいして、頭を下げぬか、下げぬかと催促されてやむを得ず頓とん首しゅするのである。道どう也や先生に対しては全く趣おもむきが違う。先生の服装は中野君の説明したごとく、自分と伯はく仲ちゅうの間にある。先生の書斎は座敷をかねる点において自分の室へやと同様である。先生の机は白木なるの点において、丸裸なるの点において、またもっとも無趣味に四角張ったる点において自分の机と同様である。先生の顔は蒼あおい点において瘠やせた点において自分と同様である。すべてこれらの諸点において、先生と弟ていたりがたく兄けいたりがたき間あい柄だがらにありながら、しかも丁寧に頭を下げるのは、逼せまられて仕方なしに下げるのではない。仕方あるにもかかわらず、こっちの好意をもって下げるのである。同類に対する愛あい憐れんの念より生ずる真正の御お辞じ儀ぎである。世間に対する御辞儀はこの野郎がと心中に思いながらも、公然には反比例に丁寧を極きわめたる虚きょ偽ぎの御辞儀でありますと断わりたいくらいに思って、高柳君は頭を下げた。道也先生はそれと覚さとったかどうか知らぬ。 ﹁ああ、そうですか、私わたしが白井道也で……﹂とつくろった景けし色きもなく云う。高柳君にはこの挨あい拶さつ振ぶりが気に入った。両人はしばらくの間黙って控えている。道也は相手の来意がわからぬから、先方の切り出すのを待つのが当然と考える。高柳君は昔しの関係を残りなく打ち開あけて、一刻も早く同類相あい憐あわれむの間柄になりたい。しかしあまり突然であるから、ちょっと言い出しかねる。のみならず、一ひと昔むかし前の事とは申しながら、自分達がいじめて追い出した先生が、そのためにかく零れい落らくしたのではあるまいかと思うと、何となく気がひけて云い切れない。高柳君はこんなところになるとすこぶる勇気に乏とぼしい。謝罪かたがた尋ねはしたが、いよいよと云う段になると少こ々わ怖くて罪つみ滅ほろぼしが出来かねる。心にいろいろな冒頭を作って見たが、どれもこれもきまりがわるい。 ﹁だんだん寒くなりますね﹂と道也先生は、こっちの了りょ簡うけんを知らないから、超然たる時候の挨拶をする。 ﹁ええ、だいぶ寒くなったようで……﹂ 高柳君の脳中の冒頭はこれでまるで打ち壊されてしまった。いっその事自白はこの次にしようという気になる。しかし何だか話して行きたい気がする。 ﹁先生御おい忙そがしいですか……﹂ ﹁ええ、なかなか忙がしいんで弱ります。貧乏閑ひまなしで﹂ 高柳君はやり損そくなったと思う。再び出直さねばならん。 ﹁少し御話を承うけたまわりたいと思って上がったんですが……﹂ ﹁はあ、何か雑誌へでも御お載のせになるんですか﹂ あてはまたはずれる。おれの態度がどうしても向むこうには酌くみ取れないと見えると青年は心中少しく残念に思った。 ﹁いえ、そうじゃないので――ただ――ただっちゃ失礼ですが。――御邪魔ならまた上がってもよろしゅうございますが……﹂ ﹁いえ邪魔じゃありません。談話と云うからちょっと聞いて見たのです。――わたしのうちへ話なんか聞きにくるものはありませんよ﹂ ﹁いいえ﹂と青年は妙な言葉をもって先生の辞ことばを否定した。 ﹁あなたは何の学問をなさるですか﹂ ﹁文学の方を――今年大学を出たばかりです﹂ ﹁はあそうですか。ではこれから何かおやりになるんですね﹂ ﹁やれれば、やりたいのですが、暇ひまがなくって……﹂ ﹁暇はないですね。わたしなども暇がなくって困っています。しかし暇はかえってない方がいいかも知れない。何ですね。暇のあるものはだいぶいるようだが、余り誰も何もやっていないようじゃありませんか﹂ ﹁それは人に依よりはしませんか﹂と高柳君はおれが暇さえあればと云うところを暗あんにほのめかした。 ﹁人にも依るでしょう。しかし今の金持ちと云うものは……﹂と道也は句を半分で切って、机の上を見た。机の上には二寸ほどの厚さの原稿がのっている。障子には洗濯した足た袋びの影がさす。 ﹁金持ちは駄目です。金がなくって困ってるものが……﹂ ﹁金がなくって困ってるものは、困りなりにやればいいのです﹂と道也先生困ってる癖に太平な事を云う。高柳君は少々不満である。 ﹁しかし衣食のために勢力をとられてしまって……﹂ ﹁それでいいのですよ。勢力をとられてしまったら、ほかに何にもしないで構わないのです﹂ 青年は唖あぜ然んとして、道也を見た。道也は孔子様のように真ま面じ目めである。馬鹿にされてるんじゃたまらないと高柳君は思う。高柳君は大抵の事を馬鹿にされたように聞き取る男である。 ﹁先生ならいいかも知れません﹂とつるつると口を滑すべらして、はっと言い過ぎたと下を向いた。道也は何とも思わない。 ﹁わたしは無論いい。あなただって好いですよ﹂と相手までも平気に捲まき込もうとする。 ﹁なぜですか﹂と二三歩逃げて、振り向きながら佇たたずむ狐のように探さぐりを入れた。 ﹁だって、あなたは文学をやったと云われたじゃありませんか。そうですか﹂ ﹁ええやりました﹂と力を入れる。すべて他の点に関しては断だん乎こたる返事をする資格のない高柳君は自己の本領においては何なん人びとの前に出てもひるまぬつもりである。 ﹁それならいい訳だ。それならそれでいい訳だ﹂と道也先生は繰り返して云った。高柳君には何の事か少しも分らない。また、なぜですと突き込むのも、何だか伏ふく兵へいに罹かかる気持がして厭いやである。ちょっと手のつけようがないので、黙って相手の顔を見た。顔を見ているうちに、先方でどうか解決してくれるだろうと、暗あんに催促の意を籠こめて見たのである。 ﹁分りましたか﹂と道也先生が云う。顔を見たのはやっぱり何の役にも立たなかった。 ﹁どうも﹂と折れざるを得ない。 ﹁だってそうじゃありませんか。――文学はほかの学問とは違うのです﹂と道也先生は凜りん然ぜんと云い放った。 ﹁はあ﹂と高柳君は覚えず応答をした。 ﹁ほかの学問はですね。その学問や、その学問の研究を阻そが害いするものが敵である。たとえば貧ひんとか、多忙とか、圧迫とか、不幸とか、悲ひさ酸んな事情とか、不和とか、喧けん嘩かとかですね。これがあると学問が出来ない。だからなるべくこれを避けて時と心の余裕を得ようとする。文学者も今まではやはりそう云う了りょ簡うけんでいたのです。そう云う了簡どころではない。あらゆる学問のうちで、文学者が一番呑のん気きな閑かん日じつ月げつがなくてはならんように思われていた。おかしいのは当人自身までがその気でいた。しかしそれは間違です。文学は人生そのものである。苦痛にあれ、困窮にあれ、窮きゅ愁うしゅうにあれ、凡およそ人生の行路にあたるものはすなわち文学で、それらを甞なめ得たものが文学者である。文学者と云うのは原稿紙を前に置いて、熟語字典を参考して、首をひねっているような閑ひま人じんじゃありません。円熟して深厚な趣味を体して、人間の万事を臆おく面めんなく取り捌さばいたり、感得したりする普通以上の吾々を指さすのであります。その取り捌き方や感得し具合を紙に写したのが文学書になるのです、だから書物は読まないでも実際その事にあたれば立派な文学者です。したがってほかの学問ができ得る限り研究を妨害する事物を避けて、しだいに人世に遠とおざかるに引き易かえて文学者は進んでこの障害のなかに飛び込むのであります﹂ ﹁なるほど﹂と高柳君は妙な顔をして云った。 ﹁あなたは、そうは考えませんか﹂ そう考えるにも、考えぬにも生れて始めて聞いた説である。批評的の返事が出るときは大抵用意のある場合に限る。不ふい意う撃ちに応ずる事が出来れば不意撃ではない。 ﹁ふうん﹂と云って高柳君は首を低たれた。文学は自己の本領である。自己の本領について、他人が答弁さえ出来ぬほどの説を吐はくならばその本領はあまり鞏きょ固うこなものではない。道也先生さえ、こんな見すぼらしい家に住んで、こんな、きたならしい着物をきているならば、おれは当然二十円五十銭の月給で沢山だと思った。何だか急に広い世界へ引き出されたような感じがする。 ﹁先生はだいぶ御おい忙そがしいようですが……﹂ ﹁ええ。進んで忙しい中へ飛び込んで、人から見ると酔すい興きょうな苦労をします。ハハハハ﹂と笑う。これなら苦労が苦労にたたない。 ﹁失礼ながら今はどんな事をやっておいでで……﹂ ﹁今ですか、ええいろいろな事をやりますよ。飯を食う方と本領の方と両方やろうとするからなかなか骨が折れます。近頃は頼まれてよく方々へ談話の筆記に行きますがね﹂ ﹁随分御面倒でしょう﹂ ﹁面倒と云いや、面倒ですがね。そう面倒と云うよりむしろ馬ば鹿か気げています。まあいい加減に書いては来ますが﹂ ﹁なかなか面白い事を云うのがおりましょう﹂と暗あんに中なか野のし春ゅん台たいの事を釣り出そうとする。 ﹁面白いの何のって、この間はうま、うまの講釈を聞かされました﹂ ﹁うま、うまですか?﹂ ﹁ええ、あの小こど供もが食たべ物ものの事をうまうまと云いましょう。あれの来歴ですね。その人の説によると小供が舌が回り出してから一番早く出る発音がうまうまだそうです。それでその時分は何を見てもうまうま、何を見なくってもうまうまだからつまりは何なににもつけなくてもいいのだそうだが、そこが小供に取って一番大切なものは食物だから、とうとう食物の方で、うまうまを専有してしまったのだそうです。そこで大おと人なもその癖がのこって、美味なものをうまいと云うようになった。だから人生の煩はん悶もんは要するに元へ還かえってうまうまの二字に帰着すると云うのです。何だか寄よ席せへでも行ったようじゃないですか﹂ ﹁馬鹿にしていますね﹂ ﹁ええ、大抵は馬鹿にされに行くんですよ﹂ ﹁しかしそんなつまらない事を云うって失敬ですね﹂ ﹁なに、失敬だっていいでさあ、どうせ、分らないんだから。そうかと思うとね。非常に真ま面じ目めだけれどもなかなか突とっ飛ぴなのがあってね。この間は猛烈な恋愛論を聞かされました。もっとも若い人ですがね﹂ ﹁中野じゃありませんか﹂ ﹁君、知ってますか。ありゃ熱心なものだった﹂ ﹁私の同級生です﹂ ﹁ああ、そうですか。中野春台とか云う人ですね。よっぽど暇があるんでしょう。あんな事を真面目に考えているくらいだから﹂ ﹁金持ちです﹂ ﹁うん立派な家うちにいますね。君はあの男と親密なのですか﹂ ﹁ええ、もとはごく親密でした。しかしどうもいかんです。近頃は――何だか――未来の細君か何か出来たんで、あんまり交際してくれないのです﹂ ﹁いいでしょう。交際しなくっても。損にもなりそうもない。ハハハハハ﹂ ﹁何だかしかし、こう、一ひと人り坊ぼっちのような気がして淋しくっていけません﹂ ﹁一人坊っちで、いいでさあ﹂と道也先生またいいでさあを担かつぎ出した。高柳君はもう﹁先生ならいいでしょう﹂と突き込む勇気が出なかった。 ﹁昔から何かしようと思えば大概は一人坊っちになるものです。そんな一人の友達をたよりにするようじゃ何も出来ません。ことによると親類とも仲なか違たがいになる事が出来て来ます。妻さいにまで馬鹿にされる事があります。しまいに下女までからかいます﹂ ﹁私はそんなになったら、不愉快で生きていられないだろうと思います﹂ ﹁それじゃ、文学者にはなれないです﹂ 高柳君はだまって下を向いた。 ﹁わたしも、あなたぐらいの時には、ここまでとは考えていなかった。しかし世の中の事実は実際ここまでやって来るんです。うそじゃない。苦しんだのは耶ヤ蘇ソや孔こう子しばかりで、吾々文学者はその苦しんだ耶蘇や孔子を筆の先でほめて、自分だけは呑のん気きに暮して行けばいいのだなどと考えてるのは偽にせ文ぶん学がく者しゃですよ。そんなものは耶蘇や孔子をほめる権利はないのです﹂ 高柳君は今こそ苦しいが、もう少し立てば喬きょ木うぼくにうつる時節があるだろうと、苦しいうちに絹糸ほどな細い望みを繋つないでいた。その絹糸が半分ばかり切れて、暗い谷から上へ出るたよりは、生きているうちは容易に来そうに思われなくなった。 ﹁高柳さん﹂ ﹁はい﹂ ﹁世の中は苦しいものですよ﹂ ﹁苦しいです﹂ ﹁知ってますか﹂と道也先生は淋さびし気げに笑った。 ﹁知ってるつもりですけれど、いつまでもこう苦しくっちゃ……﹂ ﹁やり切れませんか。あなたは御両親が御お在ありか﹂ ﹁母だけ田いな舎かにいます﹂ ﹁おっかさんだけ?﹂ ﹁ええ﹂ ﹁御おっ母かさんだけでもあれば結構だ﹂ ﹁なかなか結構でないです。――早くどうかしてやらないと、もう年を取っていますから。私が卒業したら、どうか出来るだろうと思ってたのですが……﹂ ﹁さよう、近頃のように卒業生が殖ふえちゃ、ちょっと、口を得うるのが困難ですね。――どうです、田舎の学校へ行く気はないですか﹂ ﹁時々は田舎へ行こうとも思うんですが……﹂ ﹁またいやになるかね。――そうさ、あまり勧められもしない。私も田舎の学校はだいぶ経験があるが﹂ ﹁先生は……﹂と言いかけたが、また昔の事を云い出しにくくなった。 ﹁ええ?﹂と道也は何も知らぬ気げである。 ﹁先生は――あの――江こう湖こざ雑っ誌しを御ごへ編んし輯ゅうになると云う事ですが、本当にそうなんで﹂ ﹁ええ、この間から引き受けてやっています﹂ ﹁今月の論説に解げだ脱つと拘こう泥でいと云うのがありましたが、あの憂ゆう世せい子しと云うのは……﹂ ﹁あれは、わたしです。読みましたか﹂ ﹁ええ、大変面白く拝見しました。そう申しちゃ失礼ですが、あれは私の云いたい事を五六段高くして、表ひょ出うしゅつしたようなもので、利益を享うけた上に痛快に感じました﹂ ﹁それはありがたい。それじゃ君は僕の知己ですね。恐らく天下唯ゆい一いつの知己かも知れない。ハハハハ﹂ ﹁そんな事はないでしょう﹂と高柳君はやや真ま面じ目めに云った。 ﹁そうですか、それじゃなお結構だ。しかし今まで僕の文章を見てほめてくれたものは一人もない。君だけですよ﹂ ﹁これから皆んな賞ほめるつもりです﹂ ﹁ハハハハそう云う人がせめて百人もいてくれると、わたしも本ほん望もうだが――随分頓とん珍ちん漢かんな事がありますよ。この間なんか妙な男が尋ねて来てね。……﹂ ﹁何ですか﹂ ﹁なあに商人ですがね。どこから聞いて来たか、わたしに、あなたは雑誌をやっておいでだそうだが文章を御書きなさるだろうと云うのです﹂ ﹁へえ﹂ ﹁書く事は書くとまあ云ったんです。するとねその男がどうぞ一つ、眼薬の広告をかいてもらいたいと云うんです﹂ ﹁馬鹿な奴やつですね﹂ ﹁その代り雑誌へ眼薬の広告を出すから是非一つ願いたいって――何でも点てん明めい水すいとか云う名ですがね……﹂ ﹁妙な名をつけて――。御書きになったんですか﹂ ﹁いえ、とうとう断わりましたがね。それでまだおかしい事があるのですよ。その薬屋で売出しの日に大きな風船を揚げるんだと云うのです﹂ ﹁御祝いのためですか﹂ ﹁いえ、やはり広告のために。ところが風船は声も出さずに高い空を飛んでいるのだから、仰あお向むけば誰にでも見えるが、仰向かせなくっちゃいけないでしょう﹂ ﹁へえ、なるほど﹂ ﹁それでわたしにその、仰向かせの役をやってくれって云うのです﹂ ﹁どうするのです﹂ ﹁何、往来をあるいていても、電車へ乗っていてもいいから、風船を見たら、おや風船だ風船だ、何でもありゃ点明水の広告に違いないって何遍も何遍も云うのだそうです﹂ ﹁ハハハ随分思い切って人を馬鹿にした依頼ですね﹂ ﹁おかしくもあり馬鹿馬鹿しくもあるが、何もそれだけの事をするにはわたしでなくてもよかろう。車引でも雇えば訳ないじゃないかと聞いて見たのです。するとその男がね。いえ、車引なんぞばかりでは信用がなくっていけません。やっぱり髭ひげでも生はやしてもっともらしい顔をした人に頼まないと、人がだまされませんからと云うのです﹂ ﹁実に失敬な奴ですね。全体何なに物ものでしょう﹂ ﹁何物ってやはり普通の人間ですよ。世の中をだますために人を雇いに来たのです。呑のん気きなものさハハハハ﹂ ﹁どうも驚ろいちまう。私なら撲なぐってやる﹂ ﹁そんなのを撲った日にゃ片かたっ端ぱしから撲らなくっちゃあならない。君そう怒るが、今の世の中はそんな男ばかりで出来てるんですよ﹂ 高柳君はまさかと思った。障子にさした足た袋びの影はいつしか消えて、開あけ放はなった一枚の間から、靴くつ刷は毛けの端はじが見える。椽えんは泥だらけである。手ての平ひらほどな庭の隅に一株の菊が、清らかに先生の貧ひんを照らしている。自然をどうでもいいと思っている高柳君もこの菊だけは美くしいと感じた。杉すぎ垣がきの遥はるか向むこうに大きな柿の木が見えて、空のなかへ五ごぶ分だ珠まの珊さん瑚ごをかためて嵌はめ込んだように奇麗に赤く映る。鳴なる子この音がして烏からすがぱっと飛んだ。 ﹁閑静な御おす住ま居いですね﹂ ﹁ええ。蛸たこ寺でらの和おし尚ょうが烏を追っているんです。毎日がらんがらん云わして、烏ばかり追っている。ああ云う生しょ涯うがいも閑静でいいな﹂ ﹁大変たくさん柿が生なっていますね﹂ ﹁渋柿ですよ。あの和尚は何が惜しくて、ああ渋柿の番ばかりするのかな。――君妙な咳せきを時々するが、身から体だは丈夫ですか。だいぶ瘠やせてるようじゃありませんか。そう瘠せてちゃいかん。身体が資本だから﹂ ﹁しかし先生だって随分瘠せていらっしゃるじゃありませんか﹂ ﹁わたし? わたしは瘠せている。瘠せてはいるが大丈夫﹂七
白き蝶ちょうの、白き花に、
小ちさき蝶の、小き花に、
みだるるよ、みだるるよ。
長き憂うれいは、長き髪に、
暗き憂は、暗き髪に、
みだるるよ、みだるるよ。
いたずらに、吹くは野のわ分きの、
いたずらに、住むか浮世に、
白き蝶も、黒き髪も、
みだるるよ、みだるるよ。
と女はうたい了おわる。銀ぎん椀わんに珠たまを盛りて、白しら魚うおの指に揺うごかしたらば、こんな声がでようと、男は聴ききとれていた。
﹁うまく、唱うたえました。もう少し稽けい古こして音量が充分に出ると大きな場所で聴いても、立派に聴けるに違いない。今度演奏会でためしにやって見ませんか﹂
﹁厭いやだわ、ためしだなんて﹂
﹁それじゃ本式に﹂
﹁本式にゃなおできませんわ﹂
﹁それじゃ、つまりおやめと云う訳わけですか﹂
﹁だってたくさん人のいる前なんかで、――恥ずかしくって、声なんか出やしませんわ﹂
﹁その新体詩はいいでしょう﹂
﹁ええ、わたし大好き﹂
﹁あなたが、そうやって、唱ってるところを写真に一つ取りましょうか﹂
﹁写真に?﹂
﹁ええ、厭ですか﹂
﹁厭じゃないわ。だけれども、取って人に御見せなさるでしょう﹂
﹁見せてわるければ、わたし一人で見ています﹂
女は何なにも云わずに眼を横に向けた。こぼれ梅を一枚の半はん襟えりの表おもてに掃き集めた真まん中なかに、明みょ星うじょうと見まがうほどの留とめ針ばりが的てき
と耀かがやいて、男の眼を射る。
女の振り向いた方には三尺の台を二段に仕切って、下には長方形の交こう趾ちの鉢はちに細き蘭らんが揺ゆるがんとして、香こうの煙りのたなびくを待っている。上段にはメロスの愛ヴィ神ーナスの模像を、ほの暗き室へやの隅に夢かとばかり据すえてある。女の眼は端はしなくもこの裸体像の上に落ちた。
﹁あの像は﹂と聞く。
﹁無論模造です。本物は巴パ理リのルーヴルにあるそうです。しかし模造でもみごとですね。腰から上の少し曲ったところと両足の方向とが非常に釣合がよく取れている。――これが全身完全だと非常なものですが、惜しい事に手が欠けてます﹂
﹁本物も欠けてるんですか﹂
﹁ええ、本物が欠けてるから模造もかけてるんです﹂
﹁何の像でしょう﹂
﹁ヴィーナス。愛の神です﹂と男はことさらに愛と云う字を強く云った。
﹁ヴィーナス!﹂
深い眼まつ睫げの奥から、ヴィーナスは溶とけるばかりに見詰められている。冷ひややかなる石せっ膏こうの暖まるほど、丸まろき乳ちく首びの、呼吸につれて、かすかに動くかと疑あやしまるるほど、女は瞳ひとみを凝こらしている。女自身も艶えんなるヴィーナスである。
﹁そう﹂と女はやがて、かすかな声で云う。
﹁あんまり見ているとヴィーナスが動き出しますよ﹂
﹁これで愛の神でしょうか﹂と女はようやく頭かしらを回めぐらした。
あなたの方が愛の神らしいと云おうとしたが、女と顔を見合した時、男は急に躊ちゅ躇うちょした。云えば女の表情が崩くずれる。この、訝いぶかるがごとく、訴うるがごとく、深い眼のうちに我を頼るがごとき女の表情を一瞬たりとも、我から働きかけて打うち壊こわすのは、メロスのヴィーナスの腕かいなを折ると同じく大おおいなる罪ざい科かである。
﹁気けだ高か過ぎて……﹂と男の我を援たすけぬをもどかしがって女は首を傾けながら、我からと顔の上なる姿を変えた。男はしまったと思う。
﹁そう、すこし堅過ぎます。愛と云う感じがあまり現われていない﹂
﹁何だか冷つめたいような心持がしますわ﹂
﹁その通りだ。冷めたいと云うのが適評だ。何だか妙だと思っていたが、どうも、いい言葉が出て来なかったんです。冷めたい――冷めたい、と云うのが一番いい﹂
﹁なぜこんなに、拵こしらえたんでしょう﹂
﹁やっぱりフ
ジアス式だから厳格なんでしょう﹂
﹁あなたは、こう云うのが御好き﹂
女は石像をさえ、自分と比較して愛人の心を窺うかがって見る。ヴィーナスを愛するものは、自分を愛してはくれまいと云う掛けね念んがある。女はヴィーナスの、神である事を忘れている。
﹁好きって、いいじゃありませんか、古ここ今んの傑作ですよ﹂
女の批判は直覚的である。男の好こう尚しょうは半なかば伝説的である。なまじいに美学などを聴いた因いん果がで、男はすぐ女に同意するだけの勇気を失っている。学問は己おのれを欺あざむくとは心づかぬと見える。自から学問に欺かれながら、欺かれぬ女の判断を、いたずらに誤まれりとのみ見る。
﹁古今の傑作ですよ﹂と再び繰り返したのは、半ば女の趣味を教育するためであった。
﹁そう﹂と女は云ったばかりである。石せっ火かを交まじえざる刹せつ那なに、はっと受けた印象は、学者の一言のために打ち消されるものではない。
﹁元来ヴィーナスは、どう云うものか僕にはいやな聯れん想そうがある﹂
﹁どんな聯想なの﹂と女はおとなしく聞きつつ、双そうの手を立ちながら膝ひざの上に重ねる。手てく頸びからさきが二寸ほど白く見えて、あとは、しなやかなる衣きぬのうちに隠れる。衣は薄うす紅くれないに銀の雨を濃く淡く、所まだらに降らしたような縞しま柄がらである。
上になった手の甲の、五つに岐わかれた先の、しだいに細まりてかつ丸く、つやある爪に蔽おおわれたのが好いい感じである。指は細く長く、すらりとした姿を崩くずさぬほどに、柔らかな肉を持たねばならぬ。この調ととのえる姿が五本ごとに異ならねばならぬ。異なる五本が一つにかたまって、纏まとまる調子をつくらねばならぬ。美くしき手を持つ人は、美くしき顔を持つ人よりも少ない。美くしき手を持つ人には貴たっとき飾りが必要である。
女は燦さんたるものを、細き肉に戴いただいている。
﹁その指輪は見み馴なれませんね﹂
﹁これ?﹂と重ねた手は解とけて、右の指に耀かがやくものをなぶる。
﹁この間父様に買っていただいたの﹂
﹁金ダイ剛ヤモ石ンドですか﹂
﹁そうでしょう。天賞堂から取ったんですから﹂
﹁あんまり御父さんを苛いじめちゃいけませんよ﹂
﹁あら、そうじゃないのよ。父様の方から買って下さったのよ﹂
﹁そりゃ珍らしい現象ですね﹂
﹁ホホホホ本当ね。あなたその訳わけを知ってて﹂
﹁知るものですか、探たん偵ていじゃあるまいし﹂
﹁だから御存じないでしょうと云うのですよ﹂
﹁だから知りませんよ﹂
﹁教えて上げましょうか﹂
﹁ええ教えて下さい﹂
﹁教えて上げるから笑っちゃいけませんよ﹂
﹁笑やしません。この通り真ま面じ目めでさあ﹂
﹁この間ね、池いけ上がみに競馬があったでしょう。あの時父様があすこへいらしってね。そうして……﹂
﹁そうして、どうしたんです。――拾って来たんですか﹂
﹁あら、いやだ。あなたは失敬ね﹂
﹁だって、待っててもあとをおっしゃらないですもの﹂
﹁今云うところなのよ。そうして賭かけをなすったんですって﹂
﹁こいつは驚ろいた。あなたの御父さんもやるんですか﹂
﹁いえ、やらないんだけれども、試ためしにやって見たんだって﹂
﹁やっぱりやったんじゃありませんか﹂
﹁やった事はやったの。それで御金を五百円ばかり御取りになったんだって﹂
﹁へえ。それで買って頂いたのですか﹂
﹁まあ、そうよ﹂
﹁ちょっと拝見﹂と手を出す。男は耀かがやくものを軽かろく抑おさえた。
指輪は魔物である。沙さお翁うは指輪を種に幾多の波はら瀾んを描いた。若い男と若い女を目に見えぬ空くう裏りに繋つなぐものは恋である。恋をそのまま手にとらすものは指輪である。
三み重えにうねる細き金の波の、環わと合うて膨ふくれ上るただ中を穿うがちて、動くなよと、安らかに据すえたる宝石の、眩まばゆさは天あめが下したを射れど、毀こぼたねば波の中より奪いがたき運命は、君ありての妾われ、妾われ故ゆえにの君である。男は白き指もろ共に指輪を見詰めている。
﹁こんな指輪だったのか知らん﹂と男が云う。女は寄り添うて同じ長ソー椅フ子ァを二人の間に分わかつ。
﹁昔しさる好こう事ず家かがヴィーナスの銅像を掘り出して、吾わが庭の眺ながめにと橄かん欖らんの香かの濃く吹くあたりに据すえたそうです﹂
﹁それは御話? 突然なのね﹂
﹁それから或ある日テニスをしていたら……﹂
﹁あら、ちっとも分らないわ。誰がテニスをするの。銅像を掘り出した人なの?﹂
﹁銅像を掘り出したのは人にん足そくで、テニスをしたのは銅像を掘り出さした主人の方です﹂
﹁どっちだって同じじゃありませんか﹂
﹁主人と人足と同じじゃ少し困る﹂
﹁いいえさ、やっぱり掘り出した人がテニスをしたんでしょう﹂
﹁そう強情を御張りになるなら、それでよろしい。――では掘り出した人がテニスをする……﹂
﹁強情じゃない事よ。じゃ銅像を掘り出さした方ほうがテニスをするの、ね。いいでしょう﹂
﹁どっちでも同じでさあ﹂
﹁あら、あなた、御おお怒こりなすったの。だから掘り出さした方だって、あやまっているじゃありませんか﹂
﹁ハハハハあやまらなくってもいいです。それでテニスをしているとね。指輪が邪魔になって、ラケットが思うように使えないんです。そこで、それをはずしてね、どこかへ置こうと思ったが小さいものだから置きなくすといけない。――大事な指輪ですよ。結ゆい納のうの指輪なんです﹂
﹁誰と結婚をなさるの?﹂
﹁誰とって、そいつは少し――やっぱりさる令嬢とです﹂
﹁あら、お話しになってもいじゃありませんか﹂
﹁隠す訳じゃないが……﹂
﹁じゃ話してちょうだい。ね、いいでしょう。相手はどなたなの?﹂
﹁そいつは弱りましたね。実は忘れちまった﹂
﹁それじゃ、ずるいわ﹂
﹁だって、メリメの本を貸しちまってちょっと調べられないですもの﹂
﹁どうせ、御貸しになったんでしょうよ。ようございます﹂
﹁困ったな。せっかくのところで名前を忘れたもんだから進行する事が出来なくなった。――じゃ今日は御やめにして今度その令嬢の名を調べてから御話をしましょう﹂
﹁いやだわ。せっかくのところでよしたり、なんかして﹂
﹁だって名前を知らないんですもの﹂
﹁だからその先を話してちょうだいな﹂
﹁名前はなくってもいいのですか﹂
﹁ええ﹂
﹁そうか、そんなら早くすればよかった。――それでいろいろ考えた末、ようやく考えついて、ヴィーナスの小指へちょっとはめたんです﹂
﹁うまいところへ気がついたのね。詩的じゃありませんか﹂
﹁ところがテニスが済んでから、すっかりそれを忘れてしまって、しかも例の令嬢を連れに田いな舎かへ旅行してから気がついたのです。しかしいまさらどうもする事が出来ないから、それなりにして、未来の細君にはちょっとしたでき合あいの指ゆび環わを買って結ゆい納のうにしたのです﹂
﹁厭いやな方ね。不人情だわ﹂
﹁だって忘れたんだから仕方がない﹂
﹁忘れるなんて、不人情だわ﹂
﹁僕なら忘れないんだが、異いじ人んだから忘れちまったんです﹂
﹁ホホホホ異人だって﹂
﹁そこで結納も滞とどこおりなく済んでから、うちへ帰っていよいよ結婚の晩に――﹂でわざと句を切る。
﹁結婚の晩にどうしたの﹂
﹁結婚の晩にね。庭のヴィーナスがどたりどたりと玄関を上がって……﹂
﹁おおいやだ﹂
﹁どたりどたりと二階を上がって﹂
﹁怖こわいわ﹂
﹁寝室の戸をあけて﹂
﹁気味がわるいわ﹂
﹁気味がわるければ、そこいらで、やめて置きましょう﹂
﹁だけれど、しまいにどうなるの﹂
﹁だから、どたり、どたりと寝室の戸をあけて﹂
﹁そこは、よしてちょうだい。ただしまいにどうなるの﹂
﹁では間を抜きましょう。――あした見たら男は冷つめたくなって死んでたそうです。ヴィーナスに抱きつかれたところだけ紫色に変ってたと云います﹂
﹁おお、厭いやだ﹂と眉まゆをあつめる。艶えんなる人の眉をあつめたるは愛あい嬌きょうに醋すをかけたようなものである。甘き恋に酔えい過ぎたる男は折々のこの酸さん味みに舌を打つ。
濃くひける新月の寄り合いて、互に頭かしらを擡もたげたる、うねりの下に、朧おぼろに見ゆる情けの波のかがやきを男はひたすらに打ち守る。
﹁奥さんはどうしたでしょう﹂女を憐むものは女である。
﹁奥さんは病気になって、病院に這は入いるのです﹂
﹁癒なおるのですか﹂
﹁そうさ。そこまでは覚えていない。どうしたっけかな﹂
﹁癒らない法はないでしょう。罪も何もないのに﹂
薄きにもかかわらず豊ゆたかなる下した唇くちびるはぷりぷりと動いた。男は女の不平を愚かなりとは思わず、情け深しと興がる。二人の世界は愛の世界である。愛はもっとも真ま面じ目めなる遊戯である。遊戯なるが故に絶体絶命の時には必ず姿を隠す。愛に戯たわむるる余裕のある人は至幸である。
愛は真面目である。真面目であるから深い。同時に愛は遊戯である。遊戯であるから浮いている。深くして浮いているものは水底の藻もと青年の愛である。
﹁ハハハハ心配なさらんでもいいです。奥さんはきっと癒ります﹂と男はメリメに相談もせず受合った。
愛は迷まよいである。また悟さとりである。愛は天地万ばん有ゆうをその中うちに吸収して刻こっ下かに異様の生命を与える。故ゆえに迷である。愛の眼まなこを放つとき、大だい千せん世せか界いはことごとく黄おう金ごんである。愛の心に映る宇宙は深き情なさけの宇宙である。故に愛は悟りである。しかして愛の空気を呼吸するものは迷とも悟とも知らぬ。ただおのずから人を引きまた人に引かるる。自然は真空を忌いみ愛は孤こり立つを嫌きらう。
﹁わたし、本当に御気の毒だと思いますわ。わたしが、そんなになったら、どうしようと思うと﹂
愛は己おのれに対して深刻なる同情を有している。ただあまりに深刻なるが故に、享楽の満足ある場合に限りて、自己を貫つらぬき出でて、人の身の上にもまた普通以上の同情を寄せる事ができる。あまりに深刻なるが故に失恋の場合において、自己を貫き出でて、人の身の上にもまた普通以上の怨えん恨こんを寄せる事が出来る。愛に成功するものは必ず自己を善人と思う。愛に失敗するものもまた必ず自己を善人と思う。成せい敗ばいに論なく、愛は一直線である。ただ愛の尺度をもって万事を律する。成功せる愛は同情を乗せて走る馬ばし車ゃう馬まである。失敗せる愛は怨恨を乗せて走る馬ばし車ゃう馬まである。愛はもっともわがままなるものである。
もっともわがままなる善人が二人、美くしく飾りたる室しつに、深刻なる遊戯を演じている。室外の天下は蕭しょ寥うりょうたる秋である。天下の秋は幾多の道どう也や先生を苦しめつつある。幾多の高柳君を淋しがらせつつある。しかして二人はあくまでも善人である。
﹁この間の音楽会には高柳さんとごいっしょでしたね﹂
﹁ええ、別に約束した訳わけでもないんですが、途中で逢ったものですから誘ったのです。何だか動物園の前で悲しそうに立って、桜の落葉を眺ながめているんです。気の毒になってね﹂
﹁よく誘さそって御お上あげになったのね。御病気じゃなくって﹂
﹁少し咳せきをしていたようです。たいした事じゃないでしょう﹂
﹁顔の色が大変御おわるかったわ﹂
﹁あの男はあんまり神経質だもんだから、自分で病気をこしらえるんです。そうして慰めてやると、かえって皮肉を云うのです。何だか近来はますます変になるようです﹂
﹁御気の毒ね。どうなすったんでしょう﹂
﹁どうしたって、好このんで一ひと人り坊ぼっちになって、世の中をみんな敵かたきのように思うんだから、手のつけようがないです﹂
﹁失恋なの﹂
﹁そんな話もきいた事もないですがね。いっそ細君でも世話をしたらいいかも知れない﹂
﹁御世話をして上げたらいいでしょう﹂
﹁世話をするって、ああ気き六むずかしくっちゃ、駄目ですよ。細君が可かわ哀いそ想うだ﹂
﹁でも。御持ちになったら癒なおるでしょう﹂
﹁少しは癒るかも知れないが、元がん来らいが性しょ分うぶんなんですからね。悲観する癖があるんです。悲観病に罹かかってるんです﹂
﹁ホホホホどうして、そんな病気が出たんでしょう﹂
﹁どうしてですかね。遺伝かも知れません。それでなければ小供のうち何かあったんでしょう﹂
﹁何か御おき聞きになった事はなくって﹂
﹁いいえ、僕ああまりそんな事を聞くのが嫌きらいだから、それに、あの男はいっこう何なんにも打ち明けない男でね。あれがもっと淡たん泊ぱくに思った事を云う風だと慰めようもあるんだけれども﹂
﹁困っていらっしゃるんじゃなくって﹂
﹁生活にですか、ええ、そりゃ困ってるんです。しかし無むや暗みに金をやろうなんていったら擲たたきつけますよ﹂
﹁だって御自分で御金がとれそうなものじゃありませんか、文学士だから﹂
﹁取れるですとも。だからもう少し待ってるといいですが、どうも性せっ急かちで卒業したあくる日からして、立派な創作家になって、有名になって、そうして楽に暮らそうって云うのだから六むずかしい﹂
﹁御国は一体どこなの﹂
﹁国は新潟県です﹂
﹁遠い所なのね。新潟県は御米の出来る所でしょう。やっぱり御百姓なの﹂
﹁農のう、なんでしょう。――ああ新潟県で思い出した。この間あなたが御おい出でのとき行ゆき違ちがいに出て行った男があるでしょう﹂
﹁ええ、あの長い顔の髭ひげを生はやした。あれはなに、わたしあの人の下駄を見て吃びっ驚くりしたわ。随分薄っぺらなのね。まるで草ぞう履りよ﹂
﹁あれで泰然たるものですよ。そうしてちっとも愛あい嬌きょうのない男でね。こっちから何か話しかけても、何なんにも応答をしない﹂
﹁それで何しに来たの﹂
﹁江こう湖こざ雑っ誌しの記者と云うんで、談話の筆記に来たんです﹂
﹁あなたの? 何か話しておやりになって?﹂
﹁ええ、あの雑誌を送って来ているからあとで見せましょう。――それであの男について妙な話しがあるんです。高柳が国の中学にいた時分あの人に習ったんです――あれで文学士ですよ﹂
﹁あれで? まあ﹂
﹁ところが高柳なんぞが、いろいろな、いたずらをして、苛いじめて追い出してしまったんです﹂
﹁あの人を? ひどい事をするのね﹂
﹁それで高柳は今となって自分が生活に困難しているものだから、後悔して、さぞ先生も追い出されたために難義をしたろう、逢あったら謝罪するって云ってましたよ﹂
﹁全く追い出されたために、あんなに零れい落らくしたんでしょうか。そうすると気の毒ね﹂
﹁それからせんだって江湖雑誌の記者と云う事が分ったでしょう。だから音楽会の帰りに教えてやったんです﹂
﹁高柳さんはいらしったでしょうか﹂
﹁行ったかも知れませんよ﹂
﹁追い出したんなら、本当に早く御おわ詫びをなさる方がいいわね﹂
善人の会話はこれで一段落を告げる。
﹁どうです、あっちへ行って、少しみんなと遊あすぼうじゃありませんか。いやですか﹂
﹁写真は御やめなの﹂
﹁あ、すっかり忘れていた。写真は是非取らして下さい。僕はこれでなかなか美術的な奴を取るんです。うん、商売人の取るのは下等ですよ。――写真も五六年この方かた大変進歩してね。今じゃ立派な美術です。普通の写真はだれが取ったって同じでしょう。近頃のは個人個人の趣味で調子がまるで違ってくるんです。いらないものを抜いたり、いったいの調子を和やわらげたり、際きわどい光線の作用を全景にあらわしたり、いろいろな事をやるんです。早いものでもう景けい色しょく専門家や人物専門家が出来てるんですからね﹂
﹁あなたは人物の専門家なの﹂
﹁僕? 僕は――そうさ、――あなただけの専門家になろうと思うのです﹂
﹁厭いやなかたね﹂
金ダイ剛ヤモ石ンドがきらりとひらめいて、薄うす紅くれないの袖そでのゆるる中から細い腕かいなが男の膝ひざの方に落ちて来た。軽かろくあたったのは指先ばかりである。
善人の会話は写真撮影に終る。
![※(「白+樂」、第3水準1-88-69)](../../../gaiji/1-88/1-88-69.png)
![※(小書き片仮名ヒ、1-6-84)](../../../gaiji/1-06/1-06-84.png)
八
秋は次第に行く。虫の音ねはようやく細ほそる。 筆ひっ硯けんに命を籠こむる道どう也や先生は、ただ人生の一いち大だい事じ因いん縁ねんに着ちゃくして、他たを顧かえりみるの暇いとまなきが故ゆえに、暮るる秋の寒きを知らず、虫の音の細るを知らず、世の人のわれにつれなきを知らず、爪の先に垢あかのたまるを知らず、蛸たこ寺でらの柿の落ちた事は無論知らぬ。動くべき社会をわが力にて動かすが道也先生の天職である。高く、偉おおいなる、公おおやけなる、あるものの方かたに一歩なりとも動かすが道也先生の使命である。道也先生はその他を知らぬ。 高柳君はそうは行ゆかぬ。道也先生の何事をも知らざるに反して、彼は何事をも知る。往来の人の眼つきも知る。肌はだ寒さむく吹く風の鋭どきも知る。かすれて渡る雁かりの数も知る。美くしき女も知る。黄おう金ごんの貴たっときも知る。木きく屑ずのごとく取り扱わるる吾わが身みのはかなくて、浮世の苦しみの骨に食い入る夕ゆう々べゆうべを知る。下宿の菜さいの憐れにして芋いもばかりなるはもとより知る。知り過ぎたるが君の癖にして、この癖を増長せしめたるが君の病である。天下に、人間は殺しても殺し切れぬほどある。しかしこの病を癒なおしてくれるものは一人もない。この病を癒してくれぬ以上は何千万人いるも、おらぬと同様である。彼は一ひと人り坊ぼっちになった。己おのれに足りて人に待つ事なき呑のん気きな一人坊っちではない。同情に餓うえ、人間に渇かつしてやるせなき一人坊っちである。中野君は病気と云う、われも病気と思う。しかし自分を一人坊っちの病気にしたものは世間である。自分を一人坊っちの病気にした世間は危きと篤くなる病人を眼前に控えて嘯うそぶいている。世間は自分を病気にしたばかりでは満足せぬ。半死の病人を殺さねばやまぬ。高柳君は世間を呪のろわざるを得ぬ。 道也先生から見た天地は人のためにする天地である。高柳君から見た天地は己れのためにする天地である。人のためにする天地であるから、世話をしてくれ手がなくても恨うらみとは思わぬ。己れのためにする天地であるから、己れをかまってくれぬ世を残酷と思う。 世話をするために生れた人と、世話をされに生れた人とはこれほど違う。人を指導するものと、人にたよるものとはこれほど違う。同じく一人坊っちでありながらこれほど違う。高柳君にはこの違いがわからぬ。 垢あか染じみた布ふと団んを冷ひややかに敷いて、五ご分ぶ刈がりが七分ほどに延びた頭を薄ぎたない枕の上に横よこたえていた高柳君はふと眼を挙あげて庭てい前ぜんの梧ごと桐うを見た。高柳君は述作をして眼がつかれると必ずこの梧桐を見る。地理学教授法を訳して、くさくさすると必ずこの梧桐を見る。手紙を書いてさえ行き詰まるときっとこの梧桐を見る。見るはずである。三坪ほどの荒あれ庭にわに見るべきものは一本の梧桐を除いてはほかに何にもない。 ことにこの間から、気分がわるくて、仕事をする元気がないので、あやしげな机に頬ほお杖づえを突いては朝な夕なに梧ごと桐うを眺ながめくらして、うつらうつらとしていた。 一いち葉よう落ちてと云う句は古い。悲しき秋は必ず梧桐から手を下くだす。ばっさりと垣にかかる袷あわせの頃は、さまでに心を動かす縁よすがともならぬと油断する翌よく朝あさまたばさりと落ちる。うそ寒いからと早く繰る雨戸の外にまたばさりと音がする。葉はようやく黄ばんで来る。 青いものがしだいに衰える裏から、浮き上がるのは薄く流した脂やにの色である。脂は夜ごとを寒く明けて、濃く変って行く。婆娑たる命は旦たん夕せきに逼せまる。 風が吹く。どこから来るか知らぬ風がすうと吹く。黄ばんだ梢こずえは動ゆるぐとも見えぬ先に一ひと葉は二ふた葉はがはらはら落ちる。あとはようやく助かる。 脂は夜ごとの秋の霜しもにだんだん濃こくなる。脂のなかに黒い筋が立つ。箒ほうきで敲たたけば煎せん餅べいを折るような音がする。黒い筋は左右へ焼けひろがる。もう危うい。 風がくる。垣の隙すきから、椽えんの下から吹いてくる。危ういものは落ちる。しきりに落ちる。危ういと思う心さえなくなるほど梢こずえを離れる。明らさまなる月がさすと枝の数が読まれるくらいあらわに骨が出る。 わずかに残る葉を虫が食う。渋しぶ色いろの濃いなかにぽつりと穴があく。隣りにもあく、その隣りにもぽつりぽつりとあく。一面が穴だらけになる。心細いと枯れた葉が云う。心細かろうと見ている人が云う。ところへ風が吹いて来る。葉はみんな飛んでしまう。 高柳君がふと眼を挙げた時、梧桐はすべてこれらの径けい路ろを通り越して、から坊ぼう主ずになっていた。窓に近く斜ななめに張った枝の先にただ一枚の虫むし食くい葉ばがかぶりついている。 ﹁一ひと人り坊ぼっちだ﹂と高柳君は口のなかで云った。 高柳君は先月あたりから、妙な咳せきをする。始めは気にもしなかった。だんだん腹に答えのない咳が出る。咳だけではない。熱も出る。出るかと思うとやむ。やんだから仕事をしようかと思うとまた出る。高柳君は首を傾けた。 医者に行って見てもらおうかと思ったが、見てもらうと決心すれば、自分で自分を病気だと認定した事になる。自分で自分の病気を認定するのは、自分で自分の罪悪を認定するようなものである。自分の罪悪は判決を受けるまでは腹のなかで弁護するのが人情である。高柳君は自分の身から体だを医師の宣告にかからぬ先に弁護した。神経であると弁護した。神経と事実とは兄弟であると云う事を高柳君は知らない。 夜になると時ね々あ寝せ汗をかく。汗で眼がさめる事がある。真まっ暗くらななかで眼がさめる。この真暗さが永久続いてくれればいいと思う。夜があけて、人の声がして、世間が存在していると云う事がわかると苦痛である。 暗いなかをなお暗くするために眼を眠ねむって、夜よ着ぎのなかへ頭をつき込んで、もうこれぎり世の中へ顔が出したくない。このまま眠りに入って、眠りから醒さめぬ間まに、あの世に行ったら結構だろうと考えながら寝る。あくる日になると太陽は無慈悲にも赫かく奕えきとして窓を照らしている。 時計を出しては一日に脈みゃくを何遍となく験けんして見る。何遍験しても平へい脈みゃくではない。早く打ち過ぎる。不規則に打ち過ぎる。どうしても尋常には打たない。痰たんを吐はくたびに眼を皿のようにして眺ながめる。赤いものの見えないのが、せめてもの慰安である。 痰たんに血の交まじらぬのを慰安とするものは、血の交る時にはただ生きているのを慰安とせねばならぬ。生きているだけを慰安とする運命に近づくかも知れぬ高柳君は、生きているだけを厭いとう人である。人は多くの場合においてこの矛盾を冒おかす。彼らは幸福に生きるのを目的とする。幸福に生きんがためには、幸福を享きょ受うじゅすべき生そのものの必要を認めぬ訳には行かぬ。単なる生命は彼らの目的にあらずとするも、幸福を享うけ得る必ひっ須すじ条ょう件けんとして、あらゆる苦痛のもとに維持せねばならぬ。彼らがこの矛盾を冒おかして塵じん界かいに流るて転んするとき死なんとして死ぬ能あたわず、しかも日ごとに死に引き入れらるる事を自覚する。負債を償つぐなうの目的をもって月々に負債を新たにしつつあると変りはない。これを悲ひさ酸んなる煩はん悶もんと云う。 高柳君は床とこのなかから這はい出した。瓦ガス斯い糸との蚊かが絣すりの綿入の上から黒くろ木もめ綿んの羽織を着る。机に向う。やっぱり翻訳をする了りょ簡うけんである。四しご五ん日ちそのままにして置いた机の上には、障子の破れから吹き込んだ砂が一面に軽かろくたまっている。硯すずりのなかは白く見える。高柳君は面倒だと見えて、塵ちりも吹かずに、上から水をさした。水みず入いれに在ある水ではない。五六輪の豆まめ菊ぎくを挿さした硝ガラ子スの小こび瓶んを花ながら傾けて、どっと硯の池に落した水である。さかに磨すり減らした古こば梅いえ園んをしきりに動かすと、じゃりじゃり云う。高柳君は不愉快の眉まゆをあつめた。不愉快の起る前に、不愉快を取り除く面倒をあえてせずして、不愉快の起った時に唇くちびるを噛かむのはかかる人の例である。彼は不愉快を忍ぶべく余り鋭敏である。しかしてあらかじめこれに備うべくあまり自じ棄きである。 机上に原稿紙を展のべた彼は、一時間ほど呻しん吟ぎんしてようやく二三枚黒くしたが、やがて打ちやるように筆を擱おいた。窓の外には落ち損そくなった一枚の桐きりの葉が淋しく残っている。 ﹁一ひと人り坊ぼっちだ﹂と高柳君は口のうちでまた繰り返した。 見るうちに、葉は少しく上に揺れてまた下に揺れた。いよいよ落ちる。と思う間に風ははたとやんだ。 高柳君は巻紙を出して、今度は故ふる里さとの御おっ母かさんの所へ手紙を書き始めた。﹁寒かん気き相加わり候そろ処ところ如いか何が御暮し被あそ遊ばさ候れそろや。不あい相かわ変らず御丈夫の事と奉よう遥さつ察たて候まつりそろ。私事も無事﹂とまでかいて、しばらく考えていたが、やがてこの五六行を裂いてしまった。裂いた反ほ古ごを口へ入れてくちゃくちゃ噛かんでいると思ったら、ぽっと黒いものを庭へ吐き出した。 一人坊っちの葉がまた揺れる。今度は右へ左へ二三度首を振る。その振りがようやく収おさまったと思う頃、颯さっと音がして、病わく葉らばはぽたりと落ちた。 ﹁落ちた。落ちた﹂と高柳君はさも落ちたらしく云った。 やがて三尺の押入を開あけて茶色の中なか折おれを取り出す。門かど口ぐちへ出て空を仰ぐと、行く秋を重いものが上から囲んでいる。 ﹁御婆さん、御婆さん﹂ はいと婆さんが雑ぞう巾きんを刺す手をやめて出て来る。 ﹁傘かさをとって下さい。わたしの室へやの椽えん側がわにある﹂ 降れば傘をさすまでも歩く考である。どこと云う目あ的てもないがただ歩くつもりなのである。電車の走るのは電車が走るのだが、なぜ走るのだかは電車にもわかるまい。高柳君は自分があるくだけは承知している。しかしなぜあるくのだかは電車のごとく無意識である。用もなく、あてもなく、またあるきたくもないものを無理にあるかせるのは残酷である。残酷があるかせるのだから敵かたきは取れない。敵が取りたければ、残酷を製造した発ほっ頭とう人にんに向うよりほかに仕方がない。残酷を製造した発頭人は世間である。高柳君はひとり敵の中をあるいている。いくら、あるいてもやっぱり一ひと人り坊ぼっちである。 ぽつりぽつりと折々降ってくる。初はつ時しぐ雨れと云うのだろう。豆とう腐ふ屋やの軒下に豆を絞しぼった殻が、山のように桶おけにもってある。山の頂いただきがぽくりと欠けて四面から煙が出る。風に連れて煙は往来へ靡なびく。塩しお物もの屋やに鮭さけの切身が、渋さびた赤い色を見せて、並んでいる。隣りに、しらす干がかたまって白く反そり返る。鰹かつ節ぶし屋やの小僧が一生懸命に土とさ佐ぶ節しをささらで磨みがいている。ぴかりぴかりと光る。奥に婚礼用の松が真まっ青さおに景気を添える。葉はぢ茶ゃ屋やでは丁でっ稚ちが抹まっ茶ちゃをゆっくりゆっくり臼うすで挽ひいている。番頭は往来を睨にらめながら茶を飲んでいる。――﹁えっ、あぶねえ﹂と高柳君は突き飛ばされた。 黒紋付の羽織に山高帽を被かぶった立派な紳士が綱つな曳ひきで飛んで行く。車へ乗るものは勢いきおいがいい。あるくものは突き飛ばされても仕方がない。﹁えっ、あぶねえ﹂と拳けん突つくを喰くわされても黙っておらねばならん。高柳君は幽霊のようにあるいている。 青から銅かねの鳥居をくぐる。敷石の上に鳩が五六羽、時しぐ雨れの中を遠おち近こちしている。唐とう人じん髷まげに結いった半はん玉ぎょくが渋しぶ蛇じゃの目めをさして鳩を見ている。あらい八はち丈じょうの羽織を長く着て、素すあ足しを爪つま皮かわのなかへさし込んで立った姿を、下宿の二階窓から書生が顔を二つ出して評している。柏かし手わでを打って鈴を鳴らして御おさ賽いせ銭んをなげ込んだ後姿が、見ている間まにこっちへ逆ぎゃ戻くもどりをする。黒くろ縮ちり緬めんへ三みつ柏がしわの紋をつけた意気な芸者がすれ違うときに、高柳君の方に一いち瞥べつの秋しゅ波うはを送った。高柳君は鉛を背し負ょったような重い心持ちになる。 石段を三十六おりる。電車がごうっごうっと通る。岩いわ崎さきの塀へいが冷酷に聳そびえている。あの塀へ頭をぶつけて壊こわしてやろうかと思う。時しぐ雨れはいつか休やんで電車の停留所に五六人待っている。背せの高い黒紋付が蝙こう蝠も傘りを畳んで空を仰いでいた。 ﹁先生﹂と一ひと人り坊ぼっちの高柳君は呼びかけた。 ﹁やあ妙な所で逢あいましたね。散歩かね﹂ ﹁ええ﹂と高柳君は答えた。 ﹁天気のわるいのによく散歩するですね。――岩崎の塀を三度周まわるといい散歩になる。ハハハハ﹂ 高柳君はちょっといい心持ちになった。 ﹁先生は?﹂ ﹁僕ですか、僕はなかなか散歩する暇なんかないです。不あい相かわ変らず多忙でね。今日はちょっと上野の図書館まで調べ物に行ったです﹂ 高柳君は道也先生に逢あうと何だか元気が出る。一人坊っちでありながら、こう平気にしている先生が現在世のなかにあると思うと、多少は心丈夫になると見える。 ﹁先生もう少し散歩をなさいませんか﹂ ﹁そう、少しなら、してもいい。どっちの方へ。上野はもうよそう。今通って来たばかりだから﹂ ﹁私はどっちでもいいのです﹂ ﹁じゃ坂を上あがって、本郷の方へ行きましょう。僕はあっちへ帰るんだから﹂ 二人は電車の路を沿うてあるき出した。高柳君は一人坊っちが急に二人坊っちになったような気がする。そう思うと空も広く見える。もう綱つな曳ひきから突き飛ばされる気きづ遣かいはあるまいとまで思う。 ﹁先生﹂ ﹁何ですか﹂ ﹁さっき、車屋から突き飛ばされました﹂ ﹁そりゃ、あぶなかった。怪け我がをしやしませんか﹂ ﹁いいえ、怪我はしませんが、腹は立ちました﹂ ﹁そう。しかし腹を立てても仕方がないでしょう。――しかし腹も立てようによるですな。昔し渡わた辺なべ崋かざ山んが松平侯の供とも先さきに粗そこ忽つで突き当ってひどい目に逢あった事がある。崋山がその時の事を書いてね。――松平侯御横行――と云ってるですが。この御横行の三字が非常に面白いじゃないですか。尊たっとんで御おんの字をつけてるがその裏に立派な反抗心がある。気概がある。君も綱引御横行と日記にかくさ﹂ ﹁松平侯って、だれですか﹂ ﹁だれだか知れやしない。それが知れるくらいなら御横行はしないですよ。その時発憤した崋山はいまだに生きてるが、松平某なるものは誰も知りゃしない﹂ ﹁そう思うと愉快ですが、岩崎の塀へいなどを見ると頭をぶつけて、壊こわしてやりたくなります﹂ ﹁頭をぶつけて、壊せりゃ、君より先に壊してるものがあるかも知れない。そんな愚ぐな事を云わずに正々堂々と創作なら、創作をなされば、それで君の寿命は岩崎などよりも長く伝わるのです﹂ ﹁その創作をさせてくれないのです﹂ ﹁誰が﹂ ﹁誰がって訳じゃないですが、出来ないのです﹂ ﹁からだでも悪いですか﹂と道也先生横から覗のぞき込む。高柳君の頬ほおは熱を帯びて、蒼あおい中から、ほてっている。道也は首を傾けた。 ﹁君きみ坂を上がると呼い吸きが切れるようだが、どこか悪いじゃないですか﹂ 強しいて自分にさえ隠そうとする事を言いあてられると、言いあてられるほど、明白な事実であったかと落がっ胆かりする。言いあてられた高柳君は暗い穴の中へ落ちた。人は知らず、かかる冷酷なる同情を加えて憚はばからぬが多い。 ﹁先生﹂と高柳君は往来に立たち留どまった。 ﹁何ですか﹂ ﹁私は病人に見えるでしょうか﹂ ﹁ええ、まあ、――少し顔色は悪いです﹂ ﹁どうしても肺病でしょうか﹂ ﹁肺病? そんな事はないです﹂ ﹁いいえ、遠慮なく云って下さい﹂ ﹁肺の気けでもあるんですか﹂ ﹁遺伝です。おやじは肺病で死にました﹂ ﹁それは……﹂と云ったが先生返答に窮した。 膀ぼう胱こうにはち切れるばかり水を詰めたのを針ほどの穴に洩もらせば、針ほどの穴はすぐ白銅ほどになる。高柳君は道也の返答をきかぬがごとくに、しゃべってしまう。 ﹁先生、私の歴史を聞いて下さいますか﹂ ﹁ええ、聞きますとも﹂ ﹁おやじは町で郵便局の役人でした。私が七つの年に拘こう引いんされてしまいました﹂ 道也先生は、だまったまま、話し手といっしょにゆるく歩ほを運ばして行く。 ﹁あとで聞くと官金を消費したんだそうで――その時はなんにも知りませんでした。母にきくと、おとっさんは今に帰る、今に帰ると云ってました。――しかしとうとう帰って来ません。帰らないはずです。肺病になって、牢ろう屋やのなかで死んでしまったんです。それもずっとあとで聞きました。母は家を畳んで村へ引き込みました。……﹂ 向むこうから威勢のいい車が二にち梃ょう束そく髪はつの女を乗せてくる。二人はちょっとよける。話はとぎれる。 ﹁先生﹂ ﹁何ですか﹂ ﹁だから私には肺病の遺伝があるんです。駄目です﹂ ﹁医者に見せたですか﹂ ﹁医者には――見せません。見せたって見せなくったって同じ事です﹂ ﹁そりゃ、いけない。肺病だって癒なおらんとは限らない﹂ 高柳君は気味の悪い笑いを洩もらした。時しぐ雨れがはらはらと降って来る。からたち寺でらの門の扉に碧へき巌がん録ろく提てい唱しょうと貼はりつけた紙が際きわ立だって白く見える。女学校から生徒がぞろぞろ出てくる。赤や、紫や、海えび老ち茶ゃの色が往来へちらばる。 ﹁先生、罪悪も遺伝するものでしょうか﹂と女学生の間を縫いながら歩ほを移しつつ高柳君が聞く。 ﹁そんな事があるものですか﹂ ﹁遺伝はしないでも、私は罪人の子です。切せつないです﹂ ﹁それは切ないに違いない。しかし忘れなくっちゃいけない﹂ 警察署から手てじ錠ょうをはめた囚人が二人、巡査に護送されて出てくる。時しぐ雨れが囚人の髪にかかる。 ﹁忘れても、すぐ思い出します﹂ 道也先生は少し大きな声を出した。 ﹁しかしあなたの生しょ涯うがいは過去にあるんですか未来にあるんですか。君はこれから花が咲く身ですよ﹂ ﹁花が咲く前に枯れるんです﹂ ﹁枯れる前に仕事をするんです﹂ 高柳君はだまっている。過去を顧かえりみれば罪である。未来を望めば病気である。現在は麺パ麭ンのためにする写字である。 道也先生は高柳君の耳の傍そばへ口を持って来て云った。 ﹁君は自分だけが一ひと人り坊ぼっちだと思うかも知れないが、僕も一人坊っちですよ。一人坊っちは崇高なものです﹂ 高柳君にはこの言葉の意味がわからなかった。 ﹁わかったですか﹂と道也先生がきく。 ﹁崇高――なぜ……﹂ ﹁それが、わからなければ、とうてい一人坊っちでは生きていられません。――君は人より高い平面にいると自信しながら、人がその平面を認めてくれないために一人坊っちなのでしょう。しかし人が認めてくれるような平面ならば人も上あがってくる平面です。芸者や車くる引まひきに理会されるような人格なら低いにきまってます。それを芸者や車引も自分と同等なものと思い込んでしまうから、先方から見くびられた時腹が立ったり、煩はん悶もんするのです。もしあんなものと同等なら創作をしたって、やっぱり同等の創作しか出来ない訳だ。同等でなければこそ、立派な人格を発揮する作さく物ぶつも出来る。立派な人格を発揮する作物が出来なければ、彼らからは見くびられるのはもっともでしょう﹂ ﹁芸者や車引はどうでもいいですが……﹂ ﹁例はだれだって同じ事です。同じ学校を同じに卒業した者だって変りはありません。同じ卒業生だから似たものだろうと思うのは教育の形式が似ているのを教育の実体が似ているものと考え違ちがいした議論です。同じ大学の卒業生が同じ程度のものであったら、大学の卒業生はことごとく後世に名を残すか、またはことごとく消えてしまわなくってはならない。自分こそ後世に名を残そうと力りきむならば、たとい同じ学校の卒業生にもせよ、ほかのものは残らないのだと云う事を仮定してかからなければなりますまい。すでにその仮定があるなら自分と、ほかの人とは同様の学士であるにもかかわらずすでに大差別があると自認した訳じゃありませんか。大差別があると自任しながら他ひとが自分を解してくれんと云って煩悶するのは矛盾です﹂ ﹁それで先生は後世に名を残すおつもりでやっていらっしゃるんですか﹂ ﹁わたしのは少し、違います。今の議論はあなたを本位にして立てた議論です。立派な作物を出して後世に伝えたいと云うのが、あなたの御希望のようだから御話しをしたのです﹂ ﹁先生のが承うけたまわる事が出来るなら、教えて頂けますまいか﹂ ﹁わたしは名前なんてあてにならないものはどうでもいい。ただ自分の満足を得うるために世のために働くのです。結果は悪名になろうと、臭しゅ名うめいになろうと気きち狂がいになろうと仕方がない。ただこう働かなくっては満足が出来ないから働くまでの事です。こう働かなくって満足が出来ないところをもって見ると、これが、わたしの道に相違ない。人間は道に従うよりほかにやりようのないものだ。人間は道の動物であるから、道に従うのが一番貴たっといのだろうと思っています。道に従う人は神も避けねばならんのです。岩崎の塀へいなんか何でもない。ハハハハ﹂ 剥はげかかった山高帽を阿あ弥み陀だに被かぶって毛けじ繻ゅ子す張ばりの蝙こう蝠も傘りをさした、一ひと人り坊ぼっちの腰弁当の細長い顔から後ごこ光うがさした。高柳君ははっと思う。 往来のものは右へ左へ行く。往来の店は客を迎え客を送る。電車は出来るだけ人を載のせて東西に走る。織るがごとき街ちまたの中に喪そう家かの犬のごとく歩む二人は、免職になりたての属官と、堕落した青書生と見えるだろう。見えても仕方がない。道也はそれでたくさんだと思う。周作はそれではならぬと思う。二人は四丁目の角でわかれた。九
小春の日に温ぬくめ返された別荘の小天地を開いて結婚の披ひろ露うをする。 愛は偏へん狭きょうを嫌きらう、また専有をにくむ。愛したる二人の間に有り余る情じょうを挙あげて、博ひろく衆しゅ生じょうを潤うるおす。有りあまる財を抛なげうって多くの賓ひん格かくを会かいす。来らざるものは和わら楽くの扇に麾さしまねく風を厭いとうて、寒き雪空に赴おもむく鳧ふが雁んの類るいである。 円満なる愛は触るるところのすべてを円満にす。二人の愛は曇り勝ちなる時しぐ雨れの空さえも円満にした。――太陽の真上に照る日である。照る事は誰でも知るが、だれも手を翳かざして仰ぎ見る事のならぬくらい明あきらかに照る日である。得意なるものに明かなる日の嫌なものはない。客は車を駆って東西南北より来る。 杉の葉の青きを択えらんで、丸柱の太きを装よそおい、頭かしらの上一丈にて二本を左右より平たいらに曲げて続つぎ合せたるをアーチと云う。杉の葉の青きはあまりに厳おごそかに過ぐ。愛の郷に入るものは、ただおごそかなる門を潜くぐるべからず。青きものは暖かき色に和やわらげられねばならぬ。 裂けば煙けぶる蜜みか柑んの味はしらず、色こそ暖かい。小こは春るの色は黄である。点々と珠たまを綴つづる杉の葉影に、ゆたかなる南海の風は通う。紫に明け渡る夜を待ちかねて、ぬっと出る旭あさ日ひが、岡おかより岡を射いて、万ばん顆かの黄こう玉ぎょくは一時に耀かがやく紀の国から、偸ぬすみ来た香かおりと思われる。この下を通るものは酔わねば出る事を許されぬ掟おきてである。 緑アー門チの下には新しき夫婦が立っている。すべての夫婦は新らしくなければならぬ。新しき夫婦は美しくなければならぬ。新しく美しき夫婦は幸福でなければならぬ。彼らはこの緑門の下に立って、迎えたる賓客にわが幸福の一いち分ぶを与え、送り出す朋ほう友ゆうにわが幸福の一分を与えて、残る幸福に共とも白しら髪がの長き末までを耽ふけるべく、新らしいのである、また美くしいのである。 男は黒き上着に縞しまの洋ズボ袴ンを穿はく。折々は雪を欺あざむく白き手ハン拭ケチが黒き胸のあたりに漂ただよう。女は紋つきである。裾すそを色どる模様の華はなやかなるなかから浮き上がるがごとく調子よくすらりと腰から上が抜け出でている。ヴィーナスは浪なみのなかから生れた。この女は裾模様のなかから生れている。 日は明かに女の頸くび筋すじに落ちて、角かどだたぬ咽の喉どの方はほの白き影となる。横から見るときその影が消えるがごとく薄くなって、判はっ然きとしたやさしき輪りん廓かくに終る。その上に紫むらさきのうずまくは一いち朶だの暗き髪を束つかねながらも額ひた際いぎわに浮かせたのである。金台に深しん紅くの七しっ宝ぽうを鏤ちりばめたヌーボー式の簪かんざしが紫の影から顔だけ出している。 愛は堅きものを忌いむ。すべての硬性を溶よう化かせねばやまぬ。女の眼に耀かがやく光りは、光りそれ自みずからの溶とけた姿である。不可思議なる神境から双そう眸ぼうの底に漂ただようて、視界に入る万有を恍こう惚こつの境に逍しょ遥うようせしむる。迎えられたる賓客は陶とう然ぜんとして園内に入る。 ﹁高柳さんはいらっしゃるでしょうか﹂と女が小さな声で聞く。 ﹁え?﹂と男は耳を持ってくる。園内では楽隊が越えち後ご獅じ子しを奏している。客は半分以上集まった。夫婦はなかへ這は入いって接待をせねばならん。 ﹁そうさね。忘れていた﹂と男が云う。 ﹁もうだいぶ御客さまがいらしったから、向むこうへ行かないじゃわるいでしょう﹂ ﹁そうさね。もう行く方がいいだろう。しかし高柳がくると可かわ哀いそ想うだからね﹂ ﹁ここにいらっしゃらないとですか﹂ ﹁うん。あの男は、わたしが、ここに見えないと門まで来て引き返すよ﹂ ﹁なぜ?﹂ ﹁なぜって、こんな所へ来た事はないんだから――一人で一ひと人り坊ぼっちになる男なんだから――、ともかくもアーチを潜くぐらせてしまわないと安心が出来ない﹂ ﹁いらっしゃるんでしょうね﹂ ﹁来るよ、わざわざ行って頼んだんだから、いやでも来ると約束すると来ずにいられない男だからきっとくるよ﹂ ﹁御おい厭やなんですか﹂ ﹁厭って、なに別に厭な事もないんだが、つまりきまりがわるいのさ﹂ ﹁ホホホホ妙ですわね﹂ きまりのわるいのは自信がないからである。自信がないのは、人が馬鹿にすると思うからである。中野君はただきまりが悪いからだと云う。細君はただ妙ですわねと思う。この夫婦は自分達のきまりを悪わるがる事は忘れている。この夫婦の境きょ界うがいにある人は、いくらきまりを悪るがる性しょ分うぶんでも、きまりをわるがらずに生しょ涯うがいを済ませる事が出来る。 ﹁いらっしゃるなら、ここにいて上げる方がいいでしょう﹂ ﹁来る事は受け合うよ。――いいさ、奥はおやじや何かだいぶいるから﹂ 愛は善人である。善人はその友のために自家の不都合を犠牲にするを憚はばからぬ。夫婦は高柳君のためにアーチの下に待っている。高柳君は来ねばならぬ。 馬車の客、車の客の間に、ただ一人高柳君は蹌そう踉ろうとして敵地に乗り込んで来る。この海のごとく和気の漲みなぎりたる園遊会――新夫婦の面おもてに湛たたえたる笑の波に酔うて、われ知らず幸福の同化を享うくる園遊会――行く年をしばらくは春に戻して、のどかなる日影に、窮きゅ陰ういんの面まのあたりなるを忘るべき園遊会は高柳君にとって敵地である。 富と勢いきおいと得意と満足の跋ばっ扈こする所は東西球きゅうを極きわめて高柳君には敵地である。高柳君はアーチの下に立つ新しき夫婦を十歩の遠きに見て、これがわが友であるとはたしかに思わなかった。多少の不都合を犠牲にしてまで、高柳君を待ち受けたる夫婦の眼に高柳君の姿がちらと映じた時、待ち受けたにもかかわらず、待ち受け甲が斐いのある御客とは夫婦共に思わなかった。友ゆう誼ぎの三分ぶ一は服装が引き受ける者である。頭のなかで考えた友達と眼の前へ出て来た友達とはだいぶ違う。高柳君の服装はこの日の来客中でもっとも憐あわれなる服装である。愛は贅ぜい沢たくである。美なるもののほかには価値を認めぬ。女はなおさらに価値を認めぬ。 夫婦が高柳君と顔を見合せた時、夫婦共﹁これは﹂と思った。高柳君が夫婦と顔を見合せた時、同じく﹁これは﹂と思った。 世の中は﹁これは﹂と思った時、引き返せぬものである。高柳君は蹌そう踉ろうとして進んでくる。夫婦の胸にはっときざした﹁これは﹂は、すぐと愛の光りに姿をかくす。 ﹁やあ、よく来てくれた。あまり遅いから、どうしたかと思って心配していたところだった﹂偽いつわりもない事実である。ただ﹁これは﹂と思った事だけを略したまでである。 ﹁早く来こようと思ったが、つい用があって……﹂これも事実である。けれどもやはり﹁これは﹂が略されている。人間の交際にはいつでも﹁これは﹂が略される。略された﹁これは﹂が重なると、喧けん嘩かなしの絶交となる。親しき夫婦、親しき朋ほう友ゆうが、腹のなかの﹁これは、これは﹂でなし崩くずしに愛あい想そをつかし合っている。 ﹁これが妻さいだ﹂と引き合わせる。一ひと人り坊ぼっちに美しい妻君を引き合わせるのは好意より出た罪悪である。愛の光りを浴びたものは、嬉うれしさがはびこって、そんな事に頓とん着じゃくはない。 何にも云わぬ細君はただしとやかに頭を下げた。高柳君はぼんやりしている。 ﹁さあ、あちらへ――僕もいっしょに行こう﹂と歩を運めぐらす。十間ばかりあるくと、夫婦はすぐ胡ごま麻し塩おおやじにつらまった。 ﹁や、どうもみごとな御庭ですね。こう広くはあるまいと思ってたが――いえ始めてで。おとっさんから時々御招きはあったが、いつでも折悪しく用事があって――どうも、よく御手入れが届いて、実に結構ですね……﹂ と胡麻塩はのべつに述べたてて容易に動かない。ところへまた二三人がやってくる。 ﹁結構だ﹂﹁何坪ですかな﹂﹁私も年来この辺へんを心掛けておりますが﹂などと新夫婦を取り捲まいてしまう。高柳君は憮ぶぜ然んとして中心をはずれて立っている。 すると向うから、襷たすきがけの女が駈けて来て、いきなり塩しお瀬ぜの五いつつ紋もんをつらまえた。 ﹁さあ、いらっしゃい﹂ ﹁いらっしゃいたって、もうほかで御ごち馳そ走うになっちまったよ﹂ ﹁ずるいわ、あなたは、他ひとにこれほど馳かけずり廻らせて﹂ ﹁旨うまいものも、ない癖に﹂ ﹁あるわよ、あなた。まあいいからいらっしゃいてえのに﹂とぐいぐい引っ張る。塩しお瀬ぜは羽織が大事だから引かれながら行く、途とた端んに高柳君に突き当った。塩瀬はちょっと驚ろいて振り向いたまでは、粗そこ忽つをして恐れ入ったと云う面めん相そうをしていたが、高柳君の顔から服装を見るや否や、急に表情を変えた。 ﹁やあ、こりゃ﹂と上からさげすむように云って、しかも立って見ている。 ﹁いらっしゃいよ。いいからいらっしゃいよ。構わないでも、いいからいらっしゃいよ﹂と女は高柳君を後しり目めにかけたなり塩瀬を引っ張って行く。 高柳君はぽつぽつ歩き出した。若夫婦は遥はるかあなたに遮さえぎられていっしょにはなれぬ。芝しば生ふの真中に長い天テン幕トを張る。中を覗のぞいて見たら、暗い所に大きな菊の鉢はちがならべてある。今頃こんな菊がまだあるかと思う。白い長い花弁が中心から四方へ数百片延び尽して、延び尽した端はじからまた随意に反そり返りつつ、あらん限りの狂態を演じているのがある。背せす筋じの通った黄な片ひらが中へ中へと抱き合って、真中に大切なものを守護するごとく、こんもりと丸くなったのもある。松の鉢も見える。玻はり璃ば盤んに堆うずたかく林りん檎ごを盛ったのが、白い卓たく布ふの上に鮮あざやかに映る。林檎の頬が、暗きうちにも光っている。蜜柑を盛った大皿もある。傍そばでけらけらと笑う声がする。驚ろいて振り向くと、しるくはっとを被かぶった二人の若い男が、二人共相そう好ごうを崩くずしている。 ﹁妙だよ。実に﹂と一人が云う。 ﹁珍だね。全く田いな舎かも者のなんだよ﹂と一人が云う。 高柳君はじっと二人を見た。一人は胸むね開あきの狭い。模様のある胴チョ衣ッキを着て、右手の親指を胴衣のぽっけっとへ突き込んだまま肘ひじを張っている。一人は細い杖つえに言いい訳わけほどに身をもたせて、護ゴ謨ムびき靴の右の爪つま先さきを、竪たてに地に突いて、左足一本で細長いからだの中心を支ささえている。 ﹁まるで給ウェ仕ータ人ーだ﹂と一本足が云う。 高柳君は自分の事を云うのかと思った。すると色胴衣が ﹁本当にさ。園遊会に燕えん尾びふ服くを着てくるなんて――洋行しないだってそのくらいな事はわかりそうなものだ﹂と相あい鎚づちを打っている。向うを見るとなるほど燕尾服がいる。しかも二人かたまって、何か話をしている。同類相集まると云う訳だろう。高柳君はようやくあれを笑ってるのだなと気がついた。しかしなぜ燕尾服が園遊会に適しないかはとうてい想像がつかなかった。 芝生の行き当りに葭よし簀ず掛がけの踊おど舞りぶ台たいがあって、何かしきりにやっている。正面は紅白の幕で庇ひさしをかこって、奥には赤い毛もう氈せんを敷いた長い台がある。その上に三味線を抱えた女が三人、抱えないのが二人並んでいる。弾ひくものと唄うたうものと分業にしたのである。舞台の真中に金きん紙がみの烏え帽ぼ子しを被かぶって、真白に顔を塗りたてた女が、棹さおのようなものを持ったり、落したり、舞まい扇おうぎを開いたり、つぼめたり、長い赤い袖そでを翳かざしたり、翳さなかったり、何でもしきりに身し振なをしている。半紙に墨黒々と朝あさ妻づま船ぶねとかいて貼はり出してあるから、おおかた朝妻船と云うものだろうと高柳君はしばらく後うしろの方から小さくなって眺ながめていた。 舞台を左へ切れると、御みか影げの橋がある。橋の向むこうの築つき山やまの傍わき手てには松が沢山ある。松の間から暖のれ簾んのようなものがちらちら見える。中で女がききと笑っている。橋を渡りかけた高柳君はまた引き返した。楽隊が一度に満庭の空気を動かして起る。 そろそろと天テン幕トの所まで帰って来る。今度は中を覗のぞくのをやめにした。中は大勢でがやがやしている。入口へ回って見ると人で埋うずまって皿の音がしきりにする。若夫婦はどこにいるか見えぬ。 しばらく様子を窺うかがっていると突然万歳と云う声がした。楽隊の音は消されてしまう。石橋の向うで万歳と云う返事がある。これは迷まい子ごの万歳である。高柳君はのそりと疳かん違ちがいをした客のように天幕のうちに這は入いった。 皿だけ高く差し上げて人と人の間を抜けて来たものがある。 ﹁さあ、御おあ上がんなさい。まだあるんだが人が込んでて容易に手が届かない﹂と云う。高柳君は自分にくれるにしては目の見当が少し違うと思ったら、後うしろの方で﹁ありがとう﹂と云う涼しい声がした。十七八の桃もも色いろ縮ちり緬めんの紋付をきた令嬢が皿をもらったまま立っている。 傍にいた紳士が、天幕の隅すみから一脚の椅い子すを持って来て、 ﹁さあこの上へ御乗せなさい﹂と令嬢の前に据すえた。高柳君は一間ばかり左へ進む。天幕の柱に倚よりかかって洋服と和服が煙たば草こをふかしている。 ﹁葉巻はやめたのかい﹂ ﹁うん、頭にわるいそうだから――しかしあれを呑のみつけると、何だね、紙巻はとうてい呑めないね。どんな好いい奴やつでも駄目だ﹂ ﹁そりゃ、価ねだ段んだけだから――一本三十銭と三銭とは比較にならないからな﹂ ﹁君は何を呑むのだい﹂ ﹁これを一つやって見たまえ﹂と洋服が鰐わに皮がわの煙草入から太い紙巻を出す。 ﹁なるほどエジプシアンか。これは百本五六円するだろう﹂ ﹁安い割にはうまく呑めるよ﹂ ﹁そうか――僕も紙巻でも始めようか。これなら日に二十本ずつにしても二十円ぐらいであがるからね﹂ 二十円は高柳君の全収入である。この紳士は高柳君の全収入を煙けむにするつもりである。 高柳君はまた左へ四尺ほど進んだ。二三人話をしている。 ﹁この間ね、野のぞ添えが例の人造肥料会社を起すので……﹂と頭の禿はげた鼻の低い金歯を入れた男が云う。 ﹁うん。ありゃ当ったね。旨うまくやったよ﹂と真四角な色の黒い、煙草入の金具のような顔が云う。 ﹁君も賛成者のうちに名が見えたじゃないか﹂と胡ごま麻しお塩あた頭まの最さい前ぜん中野君を中途で強ごう奪だつしたおやじが云う。 ﹁それさ﹂と今度は禿げの番である。﹁野添が、どうです少し持ってくれませんかと云うから、さようさ、わたしは今回はまあよしましょうと断わったのさ。ところが、まあ、そう云わずと、せめて五百株でも、実はもう貴あな所たの名前にしてあるんだからと云うのさ、面倒だからいい加減に挨あい拶さつをして置いたら先生すぐ九州へ立って行った。それから二週間ほどして社へ出ると書記が野添さんの株が大変上あがりました。五十円株が六十五円になりました。合計三万二千五百円になりましたと云うのさ﹂ ﹁そりゃ豪勢だ、実は僕も少し持とうと思ってたんだが﹂と四角が云うと ﹁ありゃ実際意外だった。あんなに、とんとん拍びょ子うしにあがろうとは思わなかった﹂と胡ごま麻し塩おがしきりに胡麻塩頭を掻かく。 ﹁もう少し踏み込んで沢山僕の名にして置けばよかった﹂と禿はげは三万二千五百円以外に残念がっている。 高柳君は恐る恐る三人の傍そばを通り抜けた。若夫婦に逢あって挨拶して早く帰りたいと思って、見廻わすと一番奥の方に二人は黒いフロックと五色の袖そでに取り巻かれて、なかなか寄りつけそうもない。食卓はようやく人数が減った。しかし残っている食品はほとんどない。 ﹁近頃は出掛けるかね﹂と云う声がする。仙せん台だい平ひらをずるずる地びたへ引きずって白しろ足た袋びに鼠ねず緒おの雪せっ駄たをかすかに出した三十恰がっ好こうの男だ。 ﹁昨日須すさ崎きの種たね田だ家けの別荘へ招待されて鴨かも猟りょうをやった﹂と五ごぶ分が刈りの浅黒いのが答えた。 ﹁鴨にはまだ早いだろう﹂ ﹁もういいね。十羽ばかり取ったがね。僕が十羽、大おお谷たにが七羽、加か瀬せと山やま内のうちが八羽ずつ﹂ ﹁じゃ君が一番か﹂ ﹁いいや、斎藤は十五羽だ﹂ ﹁へえ﹂と仙台平は感心している。 同期の卒業生は多いなかに、たった五六人しか見えん。しかもあまり親しくないものばかりである。高柳君は挨拶だけして別段話もしなかったが、今となって見ると何だか恋しい心持ちがする。どこぞにおりはせぬかと見廻したが影も見えぬ。ことによると帰ったかも知れぬ。自分も帰ろう。 主しゅ客かくは一である。主しゅを離れて客かくなく、客を離れて主はない。吾々が主客の別を立てて物ぶつ我がの境きょうを判然と分ぶん劃かくするのは生存上の便べん宜ぎである。形を離れて色なく、色を離れて形なき強しいて個別するの便宜、着想を離れて技巧なく技巧を離れて着想なきをしばらく両体となすの便宜と同様である。一たびこの差別を立りっしたる時吾ごじ人んは一の迷路に入る。ただ生存は人生の目的なるが故ゆえに、生存に便宜なるこの迷路は入る事いよいよ深くして出ずる事いよいよかたきを感ず。独ひとり生存の欲を一刻たりとも擺はい脱だつしたるときにこの迷まよいは破る事が出来る。高柳君はこの欲を刹せつ那なも除去し得ざる男である。したがって主客を方寸に一致せしむる事のできがたき男である。主は主、客は客としてどこまでも膠こう着ちゃくするが故に、一たび優勢なる客に逢うとき、八方より無形の太た刀ちを揮ふるって、打ちのめさるるがごとき心地がする。高柳君はこの園遊会において孤軍重囲のうちに陥ったのである。 蹌そう踉ろうとしてアーチを潜くぐった高柳君はまた蹌踉としてアーチを出いでざるを得ぬ。遠くから振り返って見ると青い杉の環わの奥の方に天テン幕トが小さく映って、幕のなかから、奇きれ麗いな着物がかたまってあらわれて来た。あのなかに若い夫婦も交ってるのであろう。 夫婦の方では高柳をさがしている。 ﹁時に高柳はどうしたろう。御おま前えあれから逢あったかい﹂ ﹁いいえ。あなたは﹂ ﹁おれは逢わない﹂ ﹁もう御帰りになったんでしょうか﹂ ﹁そうさ、――しかし帰るなら、ちっとは帰る前に傍そばへ来て話でもしそうなものだ﹂ ﹁なぜ皆さんのいらっしゃる所へ出ていらっしゃらないのでしょう﹂ ﹁損だね、ああ云う人は。あれで一人じゃやっぱり不愉快なんだ。不愉快なら出てくればいいのになおなお引き込んでしまう。気の毒な男だ﹂ ﹁せっかく愉快にしてあげようと思って、御招きするのにね﹂ ﹁今日は格別色がわるかったようだ﹂ ﹁きっと御病気ですよ﹂ ﹁やっぱり一ひと人り坊ぼっちだから、色が悪いのだよ﹂ 高柳君は往来をあるきながら、ぞっと悪おか寒んを催もよおした。十
道どう也や先生長い顔を長くして煤すす竹だけで囲った丸まる火ひお桶けを擁ようしている。外を木こが枯らしが吹いて行く。 ﹁あなた﹂と次の間まから妻君が出てくる。紬つむぎの羽織の襟えりが折れていない。 ﹁何だ﹂とこっちを向く。机の前におりながら、終しゅ日うじつ木こが枯らしに吹ふき曝さらされたかのごとくに見える。 ﹁本は売れたのですか﹂ ﹁まだ売れないよ﹂ ﹁もう一ヵ月も立てば百や弐百の金は這は入いる都合だとおっしゃったじゃありませんか﹂ ﹁うん言った。言ったには相違ないが、売れない﹂ ﹁困るじゃござんせんか﹂ ﹁困るよ。御おま前えよりおれの方が困る。困るから今考えてるんだ﹂ ﹁だって、あんなに骨を折って、三百枚も出来てるものを――﹂ ﹁三百枚どころか四百三十五頁ある﹂ ﹁それで、どうして売れないんでしょう﹂ ﹁やっぱり不景気なんだろうよ﹂ ﹁だろうよじゃ困りますわ。どうか出来ないでしょうか﹂ ﹁南なん溟めい堂どうへ持って行った時には、有名な人の御序文があればと云うから、それから足あだ立ちなら大学教授だから、よかろうと思って、足立にたのんだのさ。本も借金と同じ事で保証人がないと駄目だぜ﹂ ﹁借金は借りるんだから保証人もいるでしょうが――﹂と妻君頭のなかへ人ひと指さしゆびを入れてぐいぐい掻かく。束そく髪はつが揺れる。道也はその頭を見ている。 ﹁近頃の本は借金同様だ。信用のないものは連帯責任でないと出版が出来ない﹂ ﹁本当につまらないわね。あんなに夜遅くまでかかって﹂ ﹁そんな事は本屋の知らん事だ﹂ ﹁本屋は知らないでしょうさ。しかしあなたは御存じでしょう﹂ ﹁ハハハハ当人は知ってるよ。御前も知ってるだろう﹂ ﹁知ってるから云うのでさあね﹂ ﹁言ってくれても信用がないんだから仕方がない﹂ ﹁それでどうなさるの﹂ ﹁だから足立の所へ持って行ったんだよ﹂ ﹁足立さんが書いてやるとおっしゃって﹂ ﹁うん、書くような事を云うから置いて来たら、またあとから書けないって断わって来た﹂ ﹁なぜでしょう﹂ ﹁なぜだか知らない。厭いやなのだろう﹂ ﹁それであなたはそのままにして御置きになるんですか﹂ ﹁うん、書かんのを無理に頼む必要はないさ﹂ ﹁でもそれじゃ、うちの方が困りますわ。この間御おあ兄にいさんに判を押して借りて頂いた御金ももう期限が切れるんですから﹂ ﹁おれもその方を埋うめるつもりでいたんだが――売れないから仕方がない﹂ ﹁馬鹿馬鹿しいのね。何のために骨を折ったんだか、分りゃしない﹂ 道也先生は火ひお桶けのなかの炭たど団んを火ひば箸しの先で突つっつきながら﹁御前から見れば馬鹿馬鹿しいのさ﹂と云った。妻君はだまってしまう。ひゅうひゅうと木こが枯らしが吹く。玄関の障しょ子うじの破れが紙た鳶このうなりのように鳴る。 ﹁あなた、いつまでこうしていらっしゃるの﹂と細君は術じゅつなげに聞いた。 ﹁いつまでとも考はない。食えればいつまでこうしていたっていいじゃないか﹂ ﹁二ふた言こと目めには食えれば食えればとおっしゃるが、今こそ、どうにかこうにかして行きますけれども、このぶんで押して行けば今に食べられなくなりますよ﹂ ﹁そんなに心配するのかい﹂ 細君はむっとした様子である。 ﹁だって、あなたも、あんまり無むか考んがえじゃござんせんか。楽に暮せる教師の口はみんな断ことわっておしまいなすって、そうして何でも筆で食うと頑がん固こを御張りになるんですもの﹂ ﹁その通りだよ。筆で食うつもりなんだよ。御前もそのつもりにするがいい﹂ ﹁食べるものが食べられれば私だってそのつもりになりますわ。私も女房ですもの、あなたの御好きでおやりになる事をとやかく云うような差し出口はききゃあしません﹂ ﹁それじゃ、それでいいじゃないか﹂ ﹁だって食べられないんですもの﹂ ﹁たべられるよ﹂ ﹁随分ね、あなたも。現に教師をしていた方が楽で、今の方がよっぽど苦しいじゃありませんか。あなたはやっぱり教師の方が御上手なんですよ。書く方は性しょうに合わないんですよ﹂ ﹁よくそんな事がわかるな﹂ 細君は俯うつ向むいて、袂たもとから鼻紙を出してちいんと鼻をかんだ。 ﹁私ばかりじゃ、ありませんわ。御おあ兄にいさんだって、そうおっしゃるじゃありませんか﹂ ﹁御前は兄の云う事をそう信用しているのか﹂ ﹁信用したっていいじゃありませんか、御兄さんですもの、そうして、あんなに立派にしていらっしゃるんですもの﹂ ﹁そうか﹂と云ったなり道也先生は火ひば鉢ちの灰を丁寧に掻かきならす。中から二寸釘くぎが灰だらけになって出る。道也先生は、曲った真しん鍮ちゅうの火ひば箸しで二寸釘をつまみながら、片手に障子をあけて、ほいと庭先へ抛ほうり出した。 庭には何にもない。芭ばし蕉ょうがずたずたに切れて、茶色ながら立往生をしている。地面は皮が剥むけて、蓆むしろを捲まきかけたように反そっくり返っている。道也先生は庭の面おもてを眺ながめながら ﹁だいぶ吹いてるな﹂と独ひと語りごとのように云った。 ﹁もう一遍足立さんに願って御覧になったらどうでしょう﹂ ﹁厭いやなものに頼んだって仕方がないさ﹂ ﹁あなたは、それだから困るのね。どうせ、あんな、豪えらい方かたになれば、すぐ、おいそれと書いて下さる事はないでしょうから……﹂ ﹁あんな豪い方って――足立がかい﹂ ﹁そりゃ、あなたも豪いでしょうさ――しかし向むこうはともかくも大学校の先生ですから頭を下げたって損はないでしょう﹂ ﹁そうか、それじゃおおせに従って、もう一いっ返ぺん頼んで見ようよ。――時に何時かな。や、大変だ、ちょっと社まで行って、校正をしてこなければならない。袴はかまを出してくれ﹂ 道也先生は例のごとく茶の千せん筋すじの嘉かへ平い治じを木こが枯らしにぺらつかすべく一着して飄ひょ然うぜんと出て行った。居間の柱時計がぼんぼんと二時を打つ。 思う事積んでは崩くずす炭すみ火びかなと云う句があるが、細君は恐らく知るまい。細君は道也先生の丸まる火ひお桶けの前へ来て、火桶の中を、丸るく掻きならしている。丸い火桶だから丸く掻きならす。角な火桶なら角に掻きならすだろう。女は与えられたものを正しいものと考える。そのなかで差し当りのないように暮らすのを至しぜ善んと心得ている。女は六角の火桶を与えられても、八角の火鉢を与えられても、六角にまた八角に灰を掻きならす。それより以上の見識は持たぬ。 立ってもおらぬ、坐ってもおらぬ、細君の腰は宙に浮いて、膝ひざ頭がしらは火桶の縁ふちにつきつけられている。坐すわるには所を得ない、立っては考えられない。細君の姿勢は中ちゅ途うと半はん把ぱで、細君の心も中途半把である。 考えると嫁に来たのは間違っている。娘のうちの方が、いくら気楽で面白かったか知れぬ。人の女房はこんなものと、誰か教えてくれたら、来ぬ前によすはずであった。親でさえ、あれほどに親切を尽してくれたのだから、二に世せの契ちぎりと掟おきてにさえ出ている夫は、二重にも三重にも可愛がってくれるだろう、また可愛がって下さるよと受合われて、住み馴れた家いえを今日限りと出た。今日限りと出た家うちへ二度とは帰られない。帰ろうと思ってもおとっさんもお母っかさんも亡くなってしまった。可愛がられる目あ的てははずれて、可愛がってくれる人はもうこの世にいない。 細君は赤い炭たど団んの、灰の皮を剥むいて、火ひば箸しの先で突つつき始めた。炭火なら崩くずしても積む事が出来る。突つっついた炭団は壊こわれたぎり、丸い元の姿には帰らぬ。細君はこの理を心得ているだろうか。しきりに突ついている。 今から考えて見ると嫁に来た時の覚悟が間違っている。自分が嫁に来たのは自分のために来たのである。夫のためと云う考はすこしも持たなかった。吾わが身が幸福になりたいばかりに祝しゅ言うげんの盃さかずきもした。父、母もそのつもりで高たか砂さごを聴いていたに違ない。思う事はみんなはずれた。この頃の模様を父、母に話したら定めし道也はけしからぬと怒おこるであろう。自分も腹の中では怒っている。 道也は夫の世話をするのが女房の役だと済ましているらしい。それはこっちで云いたい事である。女は弱いもの、年の足らぬもの、したがって夫の世話を受くべきものである。夫を世話する以上に、夫から世話されるべきものである。だから夫に自分の云う通りになれと云う。夫はけっして聞き入れた事がない。家庭の生しょ涯うがいはむしろ女房の生涯である。道也は夫の生涯と心得ているらしい。それだから治おさまらない。世間の夫は皆道也のようなものかしらん。みんな道也のようだとすれば、この先結婚をする女はだんだん減るだろう。減らないところで見るとほかの旦那様は旦那様らしくしているに違ない。広い世界に自分一人がこんな思おもいをしているかと気がつくと生涯の不幸である。どうせ嫁に来たからには出る訳わけには行かぬ。しかし連れ添う夫がこんなでは、臨終まで本当の妻と云う心持ちが起らぬ。これはどうかせねばならぬ。どうにかして夫を自分の考え通りの夫にしなくては生きている甲か斐いがない。――細君はこう思案しながら、火鉢をいじくっている。風が枯かれ芭ばし蕉ょうを吹き倒すほど鳴る。 表に案内がある。寒そうな顔を玄関の障子から出すと、道也の兄が立っている。細君は﹁おや﹂と云った。 道也の兄は会社の役員である。その会社の社長は中野君のおやじである。長い二重廻しを玄関へ脱いで座敷へ這は入いってくる。 ﹁だいぶ吹きますね﹂と薄い更さら紗さの上へ坐って抜け上がった額ひたいを逆さかに撫なでる。 ﹁御寒いのによく﹂ ﹁ええ、今日は社の方が早く引けたものだから……﹂ ﹁今御帰り掛けですか﹂ ﹁いえ、いったんうちへ帰ってね。それから出直して来ました。どうも洋服だと坐ってるのが窮屈で……﹂ 兄は糸織の小こそ袖でに鉄てつ御おな納ん戸どの博はか多たの羽織を着ている。 ﹁今日は――留守ですか﹂ ﹁はあ、たった今しがた出ました。おっつけ帰りましょう。どうぞ御ごゆ緩っくり﹂と例の火鉢を出す。 ﹁もう御おか構まいなさるな。――どうもなかなか寒い﹂と手を翳かざす。 ﹁だんだん押し詰りましてさぞ御おい忙そがしゅう、いらっしゃいましょう﹂ ﹁へ、ありがとう。毎年暮になると大頭痛、ハハハハ﹂と笑った。世の中の人はおかしい時ばかり笑うものではない。 ﹁でも御忙がしいのは結構で……﹂ ﹁え、まあ、どうか、こうかやってるんです。――時に道也はやはり不あい相かわ変らずですか﹂ ﹁ありがとう。この方はただ忙がしいばかりで……﹂ ﹁結構でないかね。ハハハハ。どうも困った男ですねえ、御おま政ささん。あれほど訳わけがわからないとまでは思わなかったが﹂ ﹁どうも御心配ばかり懸かけまして、私もいろいろ申しますが、女の云う事だと思ってちっとも取り上げませんので、まことに困り切ります﹂ ﹁そうでしょう、私わたしの云う事だって聞かないんだから。――わたしも傍そばにいるとつい気になるから、ついとやかく云いたくなってね﹂ ﹁ごもっともでございますとも。みんな当人のためにおっしゃって下さる事ですから……﹂ ﹁田いな舎かにいりゃ、それまでですが、こっちにこうしていると、当人の気にいっても、いらなくっても、やっぱり兄の義務でね。つい云いたくなるんです。――するとちっとも寄りつかない。全く変人だね。おとなしくして教師をしていりゃそれまでの事を、どこへ行っても衝突して……﹂ ﹁あれが全く心配で、私もあのためには、どんなに苦労したか分りません﹂ ﹁そうでしょうとも。わたしも、そりゃよく御察し申しているんです﹂ ﹁ありがとうございます。いろいろ御ごや厄っか介いにばかりなりまして﹂ ﹁東京へ来てからでも、こんなくだらん事をしないでも、どうにでも成るんでさあ。それをせっかく云ってやると、まるで取り合わない。取り合わないでもいいから、自分だけ立派にやって行けばいい﹂ ﹁それを私も申すのでござんすけれども﹂ ﹁いざとなると、やっぱりどうかしてくれと云うんでしょう﹂ ﹁まことに御気の毒さまで……﹂ ﹁いえ、あなたに何も云うつもりはない。当人がさ。まるで無鉄砲ですからね。大学を卒業して七八年にもなって筆ひっ耕こうの真ま似ねをしているものが、どこの国にいるものですか。あれの友達の足立なんて人は大学の先生になって立派にしているじゃありませんか﹂ ﹁自分だけはあれでなかなかえらいつもりでおりますから﹂ ﹁ハハハハえらいつもりだって。いくら一人でえらがったって、人が相手にしなくっちゃしようがない﹂ ﹁近頃は少しどうかしているんじゃないかと思います﹂ ﹁何とも云えませんね。――何でもしきりに金持やなにかを攻撃するそうじゃありませんか。馬鹿ですねえ。そんな事をしたってどこが面白い。一文にゃならず、人からは擯ひん斥せきされる。つまり自分の錆さびになるばかりでさあ﹂ ﹁少しは人の云う事でも聞いてくれるといいんですけれども﹂ ﹁しまいにゃ人にまで迷惑をかける。――実はね、きょう社でもって赤面しちまったんですがね。課長が私わたしを呼んで聞けば君の弟だそうだが、あの白井道也とか云う男は無むや暗みに不穏な言論をして富豪などを攻撃する。よくない事だ。ちっと君から注意したらよかろうって、さんざん叱られたんです﹂ ﹁まあどうも。どうしてそんな事が知れましたんでしょう﹂ ﹁そりゃ、会社なんてものは、それぞれ探偵が届きますからね﹂ ﹁へえ﹂ ﹁なに道也なんぞが、何をかいたって、あんな地位のないものに世間が取り合う気きづ遣かいはないが、課長からそう云われて見ると、放ほうって置けませんからね﹂ ﹁ごもっともで﹂ ﹁それで実は今日は相談に来たんですがね﹂ ﹁生あい憎にく出まして﹂ ﹁なに当人はいない方がかえっていい。あなたと相談さえすればいい。――で、わたしも今途中でだんだん考えて来たんだが、どうしたものでしょう﹂ ﹁あなたから、とくと異いけ見んでもしていただいて、また教師にでも奉職したら、どんなものでございましょう﹂ ﹁そうなればいいですとも。あなたも仕しあ合わせだし、わたしも安心だ。――しかし異いけ見んでおいそれと、云う通りになる男じゃありませんよ﹂ ﹁そうでござんすね。あの様子じゃ、とても駄目でございましょうか﹂ ﹁わたしの鑑定じゃ、とうてい駄目だ。――それでここに一つの策があるんだが、どうでしょう当人の方から雑誌や新聞をやめて、教師になりたいと云う気を起させるようにするのは﹂ ﹁そうなれば私は実にありがたいのですが、どうしたら、そう旨うまい具合に参りましょう﹂ ﹁あのこの間あい中だじゅう当人がしきりに書いていた本はどうなりました﹂ ﹁まだそのままになっております﹂ ﹁まだ売れないですか﹂ ﹁売れるどころじゃございません。どの本屋もみんな断わりますそうで﹂ ﹁そう。それが売れなけりゃかえって結構だ﹂ ﹁え?﹂ ﹁売れない方がいいんですよ。――で、せんだってわたしが周旋した百円の期限はもうじきでしょう﹂ ﹁たしかこの月の十五日だと思います﹂ ﹁今日が十一日だから。十二、十三、十四、十五、ともう四よっ日かですね﹂ ﹁ええ﹂ ﹁あの方を手てき厳びしく催促させるのです。――実はあなただから、今打ち明けて御話しするが、あれは、わたしが印を押している体たいにはなっているが本当はわたしが融通したのです。――そうしないと当人が安心していけないから。――それであの方を今云う通り責める――何かほかに工くめ面んの出来る所がありますか﹂ ﹁いいえ、ちっともございません﹂ ﹁じゃ大丈夫、その方でだんだん責めて行く。――いえ、わたしは黙って見ている。証文の上の貸手が催促に来るのです。あなたも済すましていなくっちゃいけません。――何を云っても冷淡に済ましていなくっちゃいけません。けっしてこちらから、一ひと言ことも云わないのです。――それで当人いくら頑がん固こだって苦しいから、また、わたしの方へ頭を下げて来る。いえ来なけりゃならないです。その、頭を下げて来た時に、取って抑おさえるのです。いいですか。そうたよって来るなら、おれの云う事を聞くがいい。聞かなければおれは構わん。と云いやあ、向むこうでも否いやとは云われんです。そこでわたしが、御おま政ささんだって、あんなに苦労してやっている。雑誌なんかで法ほ螺らばかり吹き立てていたって始まらない、これから性しょ根うねを入いれかえて、もっと着実な世間に害のないような職業をやれ、教師になる気なら心当りを奔ほん走そうしてやろう、と持もち懸かけるのですね。――そうすればきっと我々の思わく通りになると思うが、どうでしょう﹂ ﹁そうなれば私はどんなに安心が出来るか知れません﹂ ﹁やって見ましょうか﹂ ﹁何なに分ぶん宜よろしく願います﹂ ﹁じゃ、それはきまったと。そこでもう一つあるんですがね。今日社の帰りがけに、神田を通ったら清せい輝きか館んの前に、大きな広告があって、わたしは吃びっ驚くりさせられましたよ﹂ ﹁何の広告でござんす﹂ ﹁演説の広告なんです。――演説の広告はいいが道也が演説をやるんですぜ﹂ ﹁へえ、ちっとも存じませんでした﹂ ﹁それで題が大きいから面白い、現代の青年に告ぐと云うんです。まあ何の事やら、あんなものの云う事を聞きにくる青年もなさそうじゃありませんか。しかし剣けん呑のんですよ。やけになって何を云うか分らないから。わたしも課長から忠告された矢先だから、すぐ社へ電話をかけて置いたから、まあ好いいですが、何なら、やらせたくないものですね﹂ ﹁何の演説をやるつもりでござんしょう。そんな事をやるとまた人ひと様さまに御迷惑がかかりましょうね﹂ ﹁どうせまた過激な事でも云うのですよ。無事に済めばいいが、つまらない事を云おうものなら取って返しがつかないからね。――どうしてもやめさせなくっちゃ、いけないね﹂ ﹁どうしたらやめるでござんしょう﹂ ﹁これもよせったって、頑がん固こだから、よす気きづ遣かいはない。やっぱり欺だますより仕方がないでしょう﹂ ﹁どうして欺したらいいでしょう﹂ ﹁そうさ。あした時刻にわたしが急用で逢あいたいからって使をよこして見ましょうか﹂ ﹁そうでござんすね。それで、あなたの方へ参るようだと宜よろしゅうございますが……﹂ ﹁聞かないかも知れませんね。聞かなければそれまでさ﹂ 初はつ冬ふゆの日はもう暗くなりかけた。道也先生は風のなかを帰ってくる。十一
今日もまた風が吹く。汁しる気けのあるものをことごとく乾から鮭さけにするつもりで吹く。 ﹁御おあ兄にいさんの所から御使です﹂と細君が封書を出す。道也は坐ったまま、体たいをそらして受け取った。 ﹁待ってるかい﹂ ﹁ええ﹂ 道也は封を切って手紙を読み下す。やがて、終りから巻き返して、再び状袋のなかへ収めた。何にも云わない。 ﹁何か急用ででもござんすか﹂ 道也は﹁うん﹂と云いながら、墨を磨すって、何かさらさらと返事を認したためている。 ﹁何の御用ですか﹂ ﹁ええ? ちょっと待った。書いてしまうから﹂ 返事はわずか五六行である。宛あて名なをかいて、﹁これを﹂と出す。細君は下女を呼んで渡してやる。自分は動かない。 ﹁何の御用なんですか﹂ ﹁何の用かわからない。ただ、用があるから、すぐ来てくれとかいてある﹂ ﹁いらっしゃるでしょう﹂ ﹁おれは行かれない。なんならお前行って見てくれ﹂ ﹁私が? 私は駄目ですわ﹂ ﹁なぜ﹂ ﹁だって女ですもの﹂ ﹁女でも行かないよりいいだろう﹂ ﹁だって。あなたに来いと書いてあるんでしょう﹂ ﹁おれは行かれないもの﹂ ﹁どうして?﹂ ﹁これから出掛けなくっちゃならん﹂ ﹁雑誌の方なら、一日ぐらい御休みになってもいいでしょう﹂ ﹁編へん輯しゅうならいいが、今日は演説をやらなくっちゃならん﹂ ﹁演説を? あなたがですか?﹂ ﹁そうよ、おれがやるのさ。そんなに驚ろく事はなかろう﹂ ﹁こんなに風が吹くのに、よしになさればいいのに﹂ ﹁ハハハハ風が吹いてやめるような演説なら始めからやりゃしない﹂ ﹁ですけれども滅めっ多たな事はなさらない方がよござんすよ﹂ ﹁滅多な事とは。何がさ﹂ ﹁いいえね。あんまり演説なんかなさらない方が、あなたの得とくだと云うんです﹂ ﹁なに得な事があるものか﹂ ﹁あとが困るかも知れないと申すのです﹂ ﹁妙な事を云うね御前は。――演説をしちゃいけないと誰か云ったのかね﹂ ﹁誰がそんな事を云うものですか。――云いやしませんが、御おあ兄にいさんからこうやって、急用だって、御使が来ているんですから行って上げなくっては義理がわるいじゃありませんか﹂ ﹁それじゃ演説をやめなくっちゃならない﹂ ﹁急に差さし支つかえが出来たって断わったらいいでしょう﹂ ﹁今さらそんな不義理が出来るものか﹂ ﹁では御兄さんの方へは不義理をなすっても、いいとおっしゃるんですか﹂ ﹁いいとは云わない。しかし演説会の方は前からの約束で――それに今日の演説はただの演説ではない。人を救うための演説だよ﹂ ﹁人を救うって、誰を救うのです﹂ ﹁社のもので、この間の電車事件を煽せん動どうしたと云う嫌けん疑ぎで引っ張られたものがある。――ところがその家族が非常な惨状に陥おちいって見るに忍びないから、演説会をしてその収入をそちらへ廻してやる計画なんだよ﹂ ﹁そんな人の家族を救うのは結構な事に相違ないでしょうが、社会主義だなんて間違えられるとあとが困りますから……﹂ ﹁間違えたって構わないさ。国家主義も社会主義もあるものか、ただ正しい道がいいのさ﹂ ﹁だって、もしあなたが、その人のようになったとして御覧なさい。私はやっぱり、その人の奥さん同様な、ひどい目に逢わなけりゃならないでしょう。人を御救いなさるのも結構ですが、ちっとは私の事も考えて、やって下さらなくっちゃ、あんまりですわ﹂ 道也先生はしばらく沈ちん吟ぎんしていたが、やがて、机の前を立ちながら﹁そんな事はないよ。そんな馬鹿な事はないよ。徳川政府の時代じゃあるまいし﹂と云った。 例の袴はかまを突っかけると支した度くは一分たたぬうちに出来上った。玄関へ出る。外はいまだに強く吹いている。道也先生の姿は風の中に消えた。 清せい輝きか館んの演説会はこの風の中に開かれる。 講演者は四名、聴衆は三百名足らずである。書生が多い。その中に文学士高柳周作がいる。彼はこの風の中を襟えり巻まきに顔を包んで咳せきをしながらやって来た。十銭の入場料を払って、二階に上あがった時は、広い会場はまばらに席をあましてむしろ寂せき寞ばくの感があった。彼は南側のなるべく暖かそうな所に席をとった。演説はすでに始まっている。 ﹁……文士保護は独立しがたき文士の言う事である。保護とは貴族的時代に云うべき言葉で、個人平等の世にこれを云うん々ぬんするのは恥辱の極きょくである。退いて保護を受くるより進んで自己に適当なる租税を天下から払わしむべきである﹂と云ったと思ったら、引き込んだ。聴衆は喝かっ采さいする。隣りに薩さつ摩まが絣すりの羽織を着た書生がいて話している。 ﹁今のが、黒くろ田だと東うよ陽うか﹂ ﹁うん﹂ ﹁妙な顔だな。もっと話せる顔かと思った﹂ ﹁保護を受けたら、もう少し顔らしくなるだろう﹂ 高柳君は二人を見た。二人も高柳君を見た。 ﹁おい﹂ ﹁何だ﹂ ﹁いやに睨にらめるじゃねえか﹂ ﹁おっかねえ﹂ ﹁こんだ誰の番だ。――見ろ見ろ出て来た﹂ ﹁いやに、ひょろ長いな。この風にどうして出て来たろう﹂ ひょろながい道也先生は綿めん服ぷくのまま壇上にあらわれた。かれはこの風の中を金かな釘くぎのごとく直立して来たのである。から風に吹き曝さらされたる彼は、からからの古ふる瓢びょ箪うたんのごとくに見える。聴衆は一度に手をたたく。手をたたくのは必ずしも喝采の意と解すべからざる場合がある。独ひとり高柳君のみは粛しゅ然くぜんとして襟えりを正した。 ﹁自己は過去と未来の連れん鎖さである﹂ 道也先生の冒頭は突如として来た。聴衆はちょっと不ふい意う撃ちを食った。こんな演説の始め方はない。 ﹁過去を未来に送り込むものを旧派と云い、未来を過去より救うものを新派と云うのであります﹂ 聴衆はいよいよ惑まどった。三百の聴衆のうちには、道也先生をひやかす目的をもって入場しているものがある。彼らに一寸すんの隙すきでも与えれば道也先生は壇上に嘲ちょ殺うさつされねばならぬ。角すも力うは呼こき吸ゅうである。呼吸を計らんでひやかせばかえって自分が放ほうり出されるばかりである。彼らは蛇のごとく鎌かま首くびを持ち上げて待構えている。道也先生の眼中には道の一字がある。 ﹁自己のうちに過去なしと云うものは、われに父ふ母ぼなしと云うがごとく、自己のうちに未来なしと云うものは、われに子を生む能力なしというと一般である。わが立脚地はここにおいて明めい瞭りょうである。われは父ふ母ぼのために存在するか、われは子のために存在するか、あるいはわれそのものを樹立せんがために存在するか、吾ごじ人ん生存の意義はこの三者の一を離るる事が出来んのである﹂ 聴衆は依然として、だまっている。あるいは煙けむに捲まかれたのかも知れない。高柳君はなるほどと聴いている。 ﹁文芸復興は大だいなる意味において父母のために存在したる大時期である。十八世紀末のゴシック復活もまた大なる意味において父母のために存在したる小時期である。同時にスコット一派の浪ろう漫まん派はを生まんがために存在した時期である。すなわち子孫のために存在したる時期である。自己を樹立せんがために存在したる時期の好例はエリザベス朝の文学である。個人について云えばイブセンである。メレジスである。ニイチェである。ブラウニングである。耶ヤソ蘇きょ教う徒とは基キリ督ストのために存在している。基督は古いにしえの人である。だから耶蘇教徒は父のために存在している。儒じゅ者しゃは孔こう子しのために生きている。孔子も昔いにしえの人である。だから儒者は父のために生きている。……﹂ ﹁もうわかった﹂と叫ぶものがある。 ﹁なかなかわかりません﹂と道也先生が云う。聴衆はどっと笑った。 ﹁袷あわせは単ひと衣えもののために存在するですか、綿入のために存在するですか。または袷自身のために存在するですか﹂と云って、一応聴衆を見廻した。笑うにはあまり、奇警である。慎つつしむにはあまり飄ひょうきんである。聴衆は迷うた。 ﹁六むずかしい問題じゃ、わたしにもわからん﹂と済ました顔で云ってしまう。聴衆はまた笑った。 ﹁それはわからんでも差さし支つかえない。しかし吾われ々われは何のために存在しているか? これは知らなくてはならん。明治は四十年立った。四十年は短かくはない。明治の事業はこれで一段落を告げた……﹂ ﹁ノー、ノー﹂と云うものがある。 ﹁どこかでノー、ノーと云う声がする。わたしはその人に賛成である。そう云う人があるだろうと思うて待っていたのである﹂ 聴衆はまた笑った。 ﹁いや本当に待っていたのである﹂ 聴衆は三たび鬨ときを揚あげた。 ﹁私わたしは四十年の歳月を短かくはないと申した。なるほど住んで見れば長い。しかし明治以外の人から見たらやはり長いだろうか。望遠鏡の眼めが鏡ねは一寸の直径である。しかし愛あた宕ごや山まから見ると品川の沖がこの一寸のなかに這は入いってしまう。明治の四十年を長いと云うものは明治のなかに齷あく齪せくしているものの云う事である。後世から見ればずっと縮まってしまう。ずっと遠くから見ると一いち弾だん指しの間かんに過ぎん。――一弾指の間に何が出来る﹂と道也はテーブルの上をとんと敲たたいた。聴衆はちょっと驚ろいた。 ﹁政治家は一大事業をしたつもりでいる。学者も一大事業をしたつもりでいる。実業家も軍人もみんな一大事業をしたつもりでいる。したつもりでいるがそれは自分のつもりである。明治四十年の天地に首を突き込んでいるから、したつもりになるのである。――一弾指の間に何が出来る﹂ 今度は誰も笑わなかった。 ﹁世の中の人は云うている。明治も四十年になる、まだ沙さお翁うが出ない、まだゲーテが出ない。四十年を長いと思えばこそ、そんな愚ぐ痴ちが出る。一弾指の間に何が出る﹂ ﹁もうでるぞ﹂と叫んだものがある。 ﹁もうでるかも知れん。しかし今までに出ておらん事は確かである。――一言にして云えば﹂と句を切った。満場はしんとしている。 ﹁明治四十年の日じつ月げつは、明治開化の初期である。さらに語ごを換かえてこれを説明すれば今日の吾ごじ人んは過去を有もたぬ開化のうちに生息している。したがって吾人は過去を伝うべきために生れたのではない。――時は昼ちゅ夜うやを舎すてず流れる。過去のない時代はない。――諸君誤解してはなりません。吾人は無論過去を有している。しかしその過去は老ろう耄もうした過去か、幼稚な過去である。則のっとるに足るべき過去は何にもない。明治の四十年は先例のない四十年である﹂ 聴衆のうちにそうかなあと云う顔をしている者がある。 ﹁先例のない社会に生れたものほど自由なものはない。余は諸君がこの先例のない社会に生れたのを深く賀するものである﹂ ﹁ひや、ひや﹂と云う声が所しょ々しょに起る。 ﹁そう早はや合がて点んに賛成されては困る。先例のない社会に生れたものは、自から先例を作らねばならぬ。束縛のない自由を享うけるものは、すでに自由のために束縛されている。この自由をいかに使いこなすかは諸君の権利であると同時に大だいなる責任である。諸君。偉大なる理想を有せざる人の自由は堕落であります﹂ 言い切った道也先生は、両手を机の上に置いて満場を見廻した。雷らいが落ちたような気けあ合いである。 ﹁個人について論じてもわかる。過去を顧かえりみる人は半はん白ぱくの老人である。少壮の人に顧みるべき過去はないはずである。前途に大だいなる希望を抱くものは過去を顧みて恋れん々れんたる必要がないのである。――吾ごじ人んが今日生きている時代は少壮の時代である。過去を顧みるほどに老い込んだ時代ではない。政治に伊藤侯や山県侯を顧みる時代ではない。実業に渋沢男だんや岩崎男を顧みる時代ではない。……﹂ ﹁大だい気きえ![※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)](../../../gaiji/1-87/1-87-64.png)
十二
﹁ちっとは、好いい方かね﹂と枕元へ坐る。
六畳の座敷は、畳がほけて、とんと打ったら夜でも埃ほこりが見えそうだ。宮島産の丸盆に薬くす瓶りびんと験けん温おん器きがいっしょに乗っている。高柳君は演説を聞いて帰ってから、とうとう喀かっ血けつしてしまった。
﹁今日はだいぶいい﹂と床の上に起き返って後うしろから掻かい巻まきを背せの半分までかけている。
中野君は大おお島しま紬つむぎの袂たもとから魯ロシ西ア亜が皮わの巻まき莨たば入こいれを出しかけたが、
﹁うん、煙たば草こを飲んじゃ、わるかったね﹂とまた袂のなかへ落す。
﹁なに構わない。どうせ煙草ぐらいで癒なおりゃしないんだから﹂と憮ぶぜ然んとしている。
﹁そうでないよ。初はじめが肝かん心じんだ。今のうち養生しないといけない。昨きの日う医者へ行って聞いて見たが、なに心配するほどの事もない。来たかい医者は﹂
﹁今朝来た。暖あったかにしていろと云った﹂
﹁うん。暖かにしているがいい。この室へやは少し寒いねえ﹂と中野君は侘わびし気げに四あた方りを見廻した。
﹁あの障しょ子うじなんか、宿の下女にでも張らしたらよかろう。風が這は入いって寒いだろう﹂
﹁障子だけ張ったって……﹂
﹁転地でもしたらどうだい﹂
﹁医者もそう云うんだが﹂
﹁それじゃ、行くがいい。今朝そう云ったのかね﹂
﹁うん﹂
﹁それから君は何と答えた﹂
﹁何と答えるったって、別に答えようもないから……﹂
﹁行けばいいじゃないか﹂
﹁行けばいいだろうが、ただはいかれない﹂
高柳君は元気のない顔をして、自分の膝ひざ頭がしらへ眼を落した。瓦ガス斯ふ双た子この端はじから鼠ねず色みいろのフラネルが二寸ばかり食はみ出だしている。寸法も取らず別々に仕立てたものだろう。
﹁それは心配する事はない。僕がどうかする﹂
高柳君は潤うるおいのない眼を膝から移して、中野君の幸福な顔を見た。この顔しだいで返答はきまる。
﹁僕がどうかするよ。何なんだって、そんな眼をして見るんだ﹂
高柳君は自分の心が自分の両りょ眼うがんから、外を覗のぞいていたのだなと急に気がついた。
﹁君に金を借りるのか﹂
﹁借りないでもいいさ……﹂
﹁貰うのか﹂
﹁どうでもいいさ。そんな事を気に掛ける必要はない﹂
﹁借りるのはいやだ﹂
﹁じゃ借りなくってもいいさ﹂
﹁しかし貰う訳には行かない﹂
﹁六むずかしい男だね。何だってそんなにやかましくいうのだい。学校にいる時分は、よく君の方から金を借せの、西洋料理を奢おごれのとせびったじゃないか﹂
﹁学校にいた時分は病気なんぞありゃしなかったよ﹂
﹁平ふだ生んですら、そうなら病気の時はなおさらだ。病気の時に友達が世話をするのは、誰から云ったっておかしくはないはずだ﹂
﹁そりゃ世話をする方から云えばそうだろう﹂
﹁じゃ君は何か僕に対して不平な事でもあるのかい﹂
﹁不平はないさありがたいと思ってるくらいだ﹂
﹁それじゃ心ここ快ろよく僕の云う事を聞いてくれてもよかろう。自分で不愉快の眼鏡を掛けて世の中を見て、見られる僕らまでを不愉快にする必要はないじゃないか﹂
高柳君はしばらく返事をしない。なるほど自分は世の中を不愉快にするために生きてるのかも知れない。どこへ出ても好かれた事がない。どうせ死ぬのだから、なまじい人の情なさけを恩に着るのはかえって心苦しい。世の中を不愉快にするくらいな人間ならば、中野一人を愉快にしてやったって五十歩百歩だ。世の中を不愉快にするくらいな人間なら、また一日も早く死ぬ方がましである。
﹁君の親切を無むにしては気の毒だが僕は転地なんか、したくないんだから勘かん弁べんしてくれ﹂
﹁またそんなわからずやを云う。こう云う病気は初期が大切だよ。時期を失しっすると取り返しがつかないぜ﹂
﹁もう、とうに取り返しがつかないんだ﹂と山の上から飛び下りたような事を云う。
﹁それが病気だよ。病気のせいでそう悲観するんだ﹂
﹁悲観するって希望のないものは悲観するのは当り前だ。君は必要がないから悲観しないのだ﹂
﹁困った男だなあ﹂としばらく匙さじを投げて、すいと起たって障子をあける。例の梧ごと桐うが坊ぼう主ずの枝を真まっ直すぐに空に向って曝さらしている。
﹁淋さびしい庭だなあ。桐きりが裸で立っている﹂
﹁この間まで葉が着いてたんだが、早いものだ。裸の桐に月がさすのを見た事があるかい。凄すごい景けし色きだ﹂
﹁そうだろう。――しかし寒いのに夜る起きるのはよくないぜ。僕は冬の月は嫌きらいだ。月は夏がいい。夏のいい月夜に屋根舟に乗って、隅田川から綾あや瀬せの方へ漕こがして行って銀ぎん扇せんを水に流して遊んだら面白いだろう﹂
﹁気楽云ってらあ。銀扇を流すたどうするんだい﹂
﹁銀ぎん泥でいを置いた扇を何本も舟へ乗せて、月に向って投げるのさ。きらきらして奇きれ麗いだろう﹂
﹁君の発明かい﹂
﹁昔むかしの通つう人じんはそんな風流をして遊んだそうだ﹂
﹁贅ぜい沢たくな奴らだ﹂
﹁君の机の上に原稿があるね。やっぱり地理学教授法か﹂
﹁地理学教授法はやめたさ。病気になって、あんなつまらんものがやれるものか﹂
﹁じゃ何だい﹂
﹁久しく書きかけて、それなりにして置いたものだ﹂
﹁あの小説か。君の一代の傑作か。いよいよ完成するつもりなのかい﹂
﹁病気になると、なおやりたくなる。今まではひまになったらと思っていたが、もうそれまで待っちゃいられない。死ぬ前に是非書き上げないと気が済まない﹂
﹁死ぬ前は過激な言葉だ。書くのは賛成だが、あまり凝こるとかえって身から体だがわるくなる﹂
﹁わるくなっても書けりゃいいが、書けないから残念でたまらない。昨ゆう夜べは続きを三十枚かいた夢を見た﹂
﹁よっぽど書きたいのだと見えるね﹂
﹁書きたいさ。これでも書かなくっちゃ何のために生れて来たのかわからない。それが書けないときまった以上は穀ごく潰つぶし同然ださ。だから君の厄やっ介かいにまでなって、転地するがものはないんだ﹂
﹁それで転地するのがいやなのか﹂
﹁まあ、そうさ﹂
﹁そうか、それじゃ分った。うん、そう云うつもりなのか﹂と中野君はしばらく考えていたが、やがて
﹁それじゃ、君は無意味に人の世話になるのが厭いやなんだろうから、そこのところを有意味にしようじゃないか﹂と云う。
﹁どうするんだ﹂
﹁君の目もっ下かの目的は、かねて腹案のある述作を完成しようと云うのだろう。だからそれを条件にして僕が転地の費用を担任しようじゃないか。逗ず子しでも鎌かま倉くらでも、熱あた海みでも君の好すきな所へ往いって、呑のん気きに養生する。ただ人の金を使って呑気に養生するだけでは心が済まない。だから療養かたがた気が向いた時に続きをかくさ。そうして身から体だがよくなって、作さくが出来上ったら帰ってくる。僕は費用を担任した代り君に一大傑作を世間へ出して貰う。どうだい。それなら僕の主意も立ち、君の望のぞみも叶かなう。一挙両得じゃないか﹂
高柳君は膝ひざ頭がしらを見詰めて考えていた。
﹁僕が君の所へ、僕の作を持って行けば、僕の君に対する責任は済む訳なんだね﹂
﹁そうさ。同時に君が天下に対する責任の一いち分ぶが済むようになるのさ﹂
﹁じゃ、金を貰おう。貰いっ放しに死んでしまうかも知れないが――いいや、まあ、死ぬまで書いて見よう――死ぬまで書いたら書けない事もなかろう﹂
﹁死ぬまでかいちゃ大変だ。暖かい相そう州しゅ辺うへんへ行って気を楽らくにして、時々一頁二頁ずつ書く――僕の条件に期限はないんだぜ、君﹂
﹁うん、よしきっと書いて持って行く。君の金を使って茫ぼう然ぜんとしていちゃ済まない﹂
﹁そんな済むの済まないのと考えてちゃいけない﹂
﹁うん、よし分った。ともかくも転地しよう。明あし日たから行こう﹂
﹁だいぶ早いな。早い方がいいだろう。いくら早くっても構わない。用意はちゃんと出来てるんだから﹂と懐中から七なな子この三みつ折おれの紙入を出して、中から一束の紙しへ幣いをつかみ出す。
﹁ここに百円ある。あとはまた送る。これだけあったら当分はいいだろう﹂
﹁そんなにいるものか﹂
﹁なにこれだけ持って行くがいい。実はこれは妻さいの発ほつ議ぎだよ。妻の好意だと思って持って行ってくれたまえ﹂
﹁それじゃ、百円だけ持って行くか﹂
﹁持って行くがいいとも。せっかく包んで来たんだから﹂
﹁じゃ、置いて行ってくれたまえ﹂
﹁そこでと、じゃ明あ日す立つね。場所か? 場所はどこでもいいさ。君の気の向いた所がよかろう。向むこうへ着いてからちょっと手紙を出してくれればいいよ。――護送するほどの大病人でもないから僕は停車場へも行かないよ。――ほかに用はなかったかな。――なに少し急ぐんだ。実は今日は妻を連れて親類へ行く約束があるんで、待ってるから、僕は失敬しなくっちゃならない﹂
﹁そうか、もう帰るか。それじゃ奥さんによろしく﹂
中野君は欣きん然ぜんとして帰って行く。高柳君は立って、着物を着換えた。
百円の金は聞いた事がある。が見たのはこれが始めてである。使うのはもちろんの事始めてである。かねてから自分を代表するほどの作さく物ぶつを何か書いて見たいと思うていた。生活難の合あい間ま合間に一頁二頁と筆を執とった事はあるが、興きょうが催もよおすと、すぐやめねばならぬほど、饑うえは寒さむさは容赦なくわれを追うてくる。この容よう子すでは当分仕事らしい仕事は出来そうもない。ただ地理学教授法を訳して露命を繋つないでいるようでは馬車馬が秣まぐさを食って終しゅ日うじつ馳かけあるくと変りはなさそうだ。おれにはおれがある。このおれを出さないでぶらぶらと死んでしまうのはもったいない。のみならず親の手前世間の手前面目ない。人から土で偶くのようにうとまれるのも、このおれを出す機会がなくて、鈍どん根こんにさえ立派に出来る翻訳の下働きなどで日を暮らしているからである。どうしても無念だ。石に噛かみついてもと思う矢先に道どう也やの演説を聞いて床についた。医者は大胆にも結核の初期だと云う。いよいよ結核なら、とても助からない。命のあるうちにとまた旧稿に向って見たが、綯よる縄なわは遅く、逃げる泥棒は早い。何一つ見やげも置かないで、消えて行くかと思うと、熱さえ余計に出る。これ一つ纏まとめれば死んでも言いい訳わけは立つ。立つ言訳を作るには手当もしなければならん。今の百円は他日の万金よりも貴たっとい。
百円を懐ふところにして室へやのなかを二度三度廻る。気分も爽さわやかに胸も涼しい。たちまち思い切ったように帽を取って師しわ走すの市いちに飛び出した。黄たそ昏がれの神かぐ楽らざ坂かを上あがると、もう五時に近い。気の早い店では、はや瓦ガ斯スを点じている。
毘びし沙ゃも門んの提ちょ灯うちんは年内に張りかえぬつもりか、色が褪さめて暗いなかで揺れている。門前の屋台で職人が手てぬ拭ぐいを半はん襷だすきにとって、しきりに寿す司しを握っている。露店の三さん馬まは光るほどに色が寒い。黒くろ足た袋びを往来へ並べて、頬ほお被かぶりに懐ふと手ころでをしたのがある。あれでも足袋は売れるかしらん。今川焼は一銭に三つで婆さんの自製にかかる。六銭五厘の万まん年ねん筆ふでは安過ぎると思う。
世は様々だ、今ここを通っているおれは、翌あすの朝になると、もう五六十里先へ飛んで行く。とは寿す司し屋やの職人も今川焼の婆さんも夢にも知るまい。それから、この百円を使い切ると金の代りに金より貴いあるものを懐にしてまた東京へ帰って来る。とも誰も思うものはあるまい。世は様々である。
道也先生に逢あって、実はこれこれだと云ったら先生はそうかと微笑するだろう。あす立ちますと云ったらあるいは驚ろくだろう。一世一代の作を仕上げてかえるつもりだと云ったらさぞ喜ぶであろう。――空想は空想の子である。もっとも繁殖力に富むものを脳のう裏りに植えつけた高柳君は、病の身にある事を忘れて、いつの間にか先生の門かど口ぐちに立った。
誰か来客のようであるが、せっかく来たのをとわざと遠慮を抜いて﹁頼む﹂と声をかけて見た。﹁どなた﹂と奥から云うのは先生自身である。
﹁私です。高柳……﹂
﹁はあ、御お這は入いり﹂と云ったなり、出てくる景けし色きもない。
高柳君は玄関から客間へ通る。推察の通り先客がいた。市いち楽らくの羽織に、くすんだ縞しまものを着て、帯の紋もん博はか多ただけがいちじるしく眼立つ。額の狭い頬骨の高い、鈍どん栗ぐり眼まなこである。高柳君は先生に挨あい拶さつを済ました、あとで鈍栗に黙礼をした。
﹁どうしました。だいぶ遅く来ましたね。何か用でも……﹂
﹁いいえ、ちょっと――実は御おい暇とま乞ごいに上がりました﹂
﹁御暇乞? 田いな舎かの中学へでも赴ふに任んするんですか﹂
間あいの襖ふすまをあけて、細君が茶を持って出る。高柳君と御お辞じ儀ぎの交換をして居間へ退しりぞく。
﹁いえ、少し転地しようかと思いまして﹂
﹁それじゃ身から体だでも悪いんですね﹂
﹁大した事もなかろうと思いますが、だんだん勧める人もありますから﹂
﹁うん。わるけりゃ、行くがいいですとも。いつ? あした? そうですか。それじゃまあ緩ゆっくり話したまえ。――今ちょっと用談を済ましてしまうから﹂と道也先生は鈍栗の方へ向いた。
﹁それで、どうも御気の毒だが――今申す通りの事情だから、少し待ってくれませんか﹂
﹁それは待って上げたいのです。しかし私の方の都合もありまして﹂
﹁だから利子を上げればいいでしょう。利子だけ取って元金は春まで猶ゆう予よしてくれませんか﹂
﹁利子は今まででも滞とどこおりなくちょうだいしておりますから、利子さえ取れれば好いい金なら、いつまででも御用立てて置きたいのですが……﹂
﹁そうはいかんでしょうか﹂
﹁せっかくの御おた頼のみだから、出来れば、そうしたいのですが……﹂
﹁いけませんか﹂
﹁どうもまことに御気の毒で……﹂
﹁どうしても、いかんですか﹂
﹁どうあっても百円だけ拵こしらえていただかなくっちゃならんので﹂
﹁今夜中にですか﹂
﹁ええ、まあ、そうですな。昨きの日うが期限でしたね﹂
﹁期限の切れたのは知ってるです。それを忘れるような僕じゃない。だからいろいろ奔走して見たんだが、どうも出来ないから、わざわざ君の所へ使をあげたのです﹂
﹁ええ、御手紙はたしかに拝見しました。何か御著述があるそうで、それを本屋の方へ御売渡しになるまで延期の御申込でした﹂
﹁さよう﹂
﹁ところがですて、この金の性質がですて――ただ利子を生ませる目的でないものですから――実は年末には是非入用だがと念を押して御おあ兄にいさんに伺ったくらいなのです。ところが御兄さんが、いやそりゃ大丈夫、ほかのものなら知らないが、弟に限ってけっして、そんな不都合はない。受合う。とおっしゃるものですから、それで私も安心して御用立て申したので――今になって御違約でははなはだ迷惑します﹂
道也先生は黙もく然ねんとしている。鈍どん栗ぐりは煙たば草こをすぱすぱ呑のむ。
﹁先生﹂と高柳君が突然横合から口を出した。
﹁ええ﹂と道也先生は、こっちを向く。別段赤面した様子も見えない。赤面するくらいなら用談中と云って面会を謝絶するはずである。
﹁御話し中はなはだ失礼ですが。ちょっと伺っても、ようございましょうか﹂
﹁ええ、いいです。何ですか﹂
﹁先生は今御著作をなさったと承うけたまわりましたが、失礼ですが、その原稿を見せていただく訳には行きますまいか﹂
﹁見るなら御覧、待ってるうち、読むのですか﹂
高柳君は黙っている。道也先生は立って、床の間に積みかさねた書籍の間から、厚さ三寸ほどの原稿を取り出して、青年に渡しながら
﹁見て御覧﹂という。表紙には人格論と楷かい書しょでかいてある。
﹁ありがとう﹂と両手に受けた青年は、しばしこの人格論の三字をしけじけと眺ながめていたが、やがて眼を挙あげて鈍栗の方を見た。
﹁君、この原稿を百円に買って上げませんか﹂
﹁エヘヘヘヘ。私は本屋じゃありません﹂
﹁じゃ買わないですね﹂
﹁エヘヘヘ御ごじ冗ょう談だんを﹂
﹁先生﹂
﹁何ですか﹂
﹁この原稿を百円で私に譲って下さい﹂
﹁その原稿?……﹂
﹁安過ぎるでしょう。何万円だって安過ぎるのは知っています。しかし私は先生の弟子だから百円に負けて譲って下さい﹂
道也先生は茫ぼう然ぜんとして青年の顔を見守っている。
﹁是非譲って下さい。――金はあるんです。――ちゃんとここに持っています。――百円ちゃんとあります﹂
高柳君は懐ふところから受取ったままの金包を取り出して、二人の間に置いた。
﹁君、そんな金を僕が君から……﹂と道也先生は押し返そうとする。
﹁いいえ、いいんです。好いいから取って下さい。――いや間違ったんです。是非この原稿を譲って下さい。――先生私はあなたの、弟子です。――越後の高田で先生をいじめて追い出した弟子の一人です。――だから譲って下さい﹂
愕がく然ぜんたる道也先生を残して、高柳君は暗き夜の中に紛まぎれ去った。彼は自己を代表すべき作さく物ぶつを転地先よりもたらし帰る代りに、より偉大なる人格論を懐ふところにして、これをわが友中野君に致いたし、中野君とその細君の好意に酬むくいんとするのである。