凸でこ凹ぼこの石いし高だか路みち、その往還を右左から挾んだ低い茅葺屋根が、凡およそ六七十もあらう、何どの家も、何の家も、古びて、穢くて、壁が落ちて、柱が歪んで、隣々に倒のめり合つて辛やう々やう支へてる様に見える。家の中には、生木の薪を焚く煙が、物の置所も分さだ明かならぬ程に燻くすぶつて、それが、日一日、破は風ふから破風と誘ひ合つては、腐れた屋根に這つてゐる。両側の狭い浅い溝には、襤ぼろ縷き片れや葫にん蘿じ蔔んの切きれ端つぱしなどがユラユラした
泥ひどろに沈んで、黝どす黒ぐろい水に毒茸の様な濁つた泡が、プクプク浮んで流れた。
駐在所の髯面の巡査、隣村から応援に来た最もひ一と人りの背のヒヨロ高い巡査、三里許りの停車場所在地に開業してゐる古洋服の医いし師や、赤あか焦ちやけた黒繻子の袋袴を穿いた役場の助役、消毒器具を携へた二人の使こづ丁かひ、この人にん数ずは、今日も亦家毎に強行診断を行やつて歩いた。空は、仰げば目も眩む程無際限に澄み切つて、塵一ひと片つ飛ばぬ日和であるが、稀たまに室そ外とを歩いてるものは、何どれも何れも申合せた様に、心配気な、浮ばない顔色をして、跫あし音おとを偸ぬすんでる様だ。其そ家こにも、此こ家こにも、怖し気な面つら構がまへをした農ひや夫くしやうや、アイヌ系統によくある、鼻の低い、眼の濁つた、青あを脹ぶくれた女などが門口に出て、落着の無い不格好な腰付をして、往還の上かみ下しもを眺めてゐるが、一人として長く立つてるものは無い。小供等さへ高い声も立てない。時とき偶たま、胸に錐でも刺された様な赤あか児ごの悲なき鳴ごゑでも聞えると、隣近所では妙に顔を顰める。素知らぬ態さまをしてるのは、干からびた塩しほ鱒びきの頭を引擦つて行く地ぢだ種ねの痩犬、百年も千年も眠つてゐた様な張合のない顔をして、日ひな向たで呟あく呻びをしてゐる真黒な猫、往還の中まん央なかで媾つるんでゐる鶏くらゐなもの。村中湿りかへつて、巡査の沓音と佩はい剣けんの響が、日一日、人々の心に言ひ難き不安を伝へた。
鼻を刺す石炭酸の臭にほ気ひが、何処となく底そこ冷びえのする空気に混じて、家々の軒下には夥おびただしく石灰が撒きかけてある。――赤痢病の襲来を蒙かうむつた山やま間なかの荒あれ村むらの、重い恐怖と心そこ痛びえに充ち満ちた、目もあてられぬ、そして、不愉快な状あり態さまは、一度その境を実見したんで無ければ、迚とても想像も及ぶまい。平ひご常ろから、住民の衣、食、住――その生活全体を根ね本つから改めさせるか、でなくば、初発患者の出た時、時を移さず全村を焼いて了ふかするで無ければ、如何に力を尽したとて予防も糞も有つたものでない。三四年前、この村から十里許り隔つた或村に同じ疫やまひが猖しや獗うけつを極めた時、所轄警察署の当と時きの署長が、大英断を以て全村の交通遮断を行つた事がある。お蔭で他村には伝播しなかつたが、住民の約四分の一が一秋の中に死んだ。尤も、年々何どの村でも一人や二人、五人六人の患者の無い年はないが、巧に隠蔽して置いて※げん牛のし児ようこ﹇＃﹁特のへん＋尨﹂、U+727B、298-下-8﹈の煎薬でも服ませると、何時しか癒つて、格別伝染もしない。それが、万一医師にかゝつて隔離病舎に収容され、巡査が家毎に怒鳴つて歩くとなると、噂の拡ひろがると共に疫が忽ち村中に流行して来る――と、実際村の人は思つてるので、疫其者よりも巡査の方が忌きらはれる。初発患者が発みつ見かつてから、二月足らずの間うちに、隔離病舎は狭隘を告げて、更に一軒山蔭の孤ひと家つやを借り上げ、それも満員といふ形すが勢たで、総人口四百内外の中、初発以来の患者百二名、死亡者二十五名、全癒者四十一名、現患者三十六名、それに今日の診断の結果で復また二名増えた。戸数の七割五分は何どの家も患者を出し、或家では一家を挙げて隔離病舎に入つた。
秋も既もう末――十月下旬の短い日が、何時しかトツプリと暮れて了つて、霜も降るべく鋼はが鉄ねい色ろに冴えた空には白々と天の河が横よこたはつた。さらでだに虫の音も絶え果てた冬近い夜の寥さびしさに、まだ宵ながら家々の戸がピタリと閉しまつて、通と行ほる人もなく、話声さへ洩れぬ。重い重い不安と心痛が、火あか光りを蔽ひ、門かどを鎖し、人の喉を締めて、村は宛さな然がら幾十年前に人間の住み棄てた、廃すた郷れむらかの様に※ひつ乎そり﹇＃﹁門＜嗅のつくり﹂、U+28D91、298-下-8﹈としてゐる。今日は誰々が顔色が悪かつたと、何いづれ其そん
事のみが住ひと民びとの心に徂ゆき徠きしてるのであらう。
其重苦しい沈だん黙まりの中に、何か怖しい思かん慮がへが不意に閃く様に、北のトツ端ぱづれの倒のめりかかつた家から、時々パツと火花が往還に散る。それは鍛冶屋で、トンカン、トンカンと鉄かな砧しきを撃つ鏗かたい響が、地の底まで徹る様に、村の中程まで聞えた。
其隣がお由と呼ばれた寡やも婦めの家、入口の戸は鎖されたが、店の煤すすび果てた二枚の障子――その処々に、朱しゆ筆ふでで直した痕の見える平仮名の清書が横に逆様に貼られた――に、火あか光りが映つてゐる。凡そ、村で人気のあるらしく見えるのは、此家と鍛冶屋と、南端近い役場と、雑貨やら酒石油などを商あきなふ村長の家の四軒に過ぎない。
ガタリ、ガタリと重い輛くるまの音が石いし高だか路みちに鳴つて、今しも停車場通ひの空荷馬車が一台、北の方から此村に入つた。荷馬車の上には、スツポリと赤毛布を被つた馬ま子ごが胡あぐ坐らをかいてゐる。と、お由の家の障子に影法師が映つて、張のない声に高く低く節付けた歌が聞える。
﹃あしきをはらうて、救けたまへ、天理王のみこと。……この世の地ぢいと、天とをかたどりて、夫婦をこしらへきたるでな。これはこの世のはじめだし。……一列すまして甘露台。﹄
歌に伴つれて障子の影法師が踊る。妙な手付をして、腰を振り、足を動かす。或は大きく朦ぼん乎やりと映り、或は小く分はつ明きりと映る。
﹃チヨツ。﹄と馬子は舌した鼓うちした。﹃フム、また狐の真似演してらア！﹄
﹃オイ、お申さる婆ばあでねえか？﹄と、直ぐ再また大きい声を出した。恰度その時、一人の人影が草履の音を忍ばせて、此家に入らうとしたので。﹃アイサ。﹄と、人影は暗い軒下に立留つて、四あた辺りを憚る様に答へた。﹃隣の兄あに哥いか？ 早かつたなす。﹄
﹃早く帰けえつて寝る事こつた。恁こん時何処ウ徘うろ徊つくだべえ。天理様拝んで赤痢神が取とツ付つかねえだら、ハア、何で医いし者や薬くすりが要るものかよ。﹄
﹃何さ、ただ、お由嬶かかあに一寸用があるだで。﹄と、声を低めて対あひ手てを宥なだめる様に言ふ。
﹃フム。﹄と言つた限きりで荷馬車は行過ぎた。
お申さる婆ばばあは、軈やがて物静かに戸を開けて、お由の家に姿を隠して了つた。障子の影法師はまだ踊つてゐる。歌もまだ聞えてゐる。
時何処ウ徘うろ徊つくだべえ。天理様拝んで赤痢神が取とツ付つかねえだら、ハア、何で医いし者や薬くすりが要るものかよ。﹄
﹃何さ、ただ、お由嬶かかあに一寸用があるだで。﹄と、声を低めて対あひ手てを宥なだめる様に言ふ。
﹃フム。﹄と言つた限きりで荷馬車は行過ぎた。
お申さる婆ばばあは、軈やがて物静かに戸を開けて、お由の家に姿を隠して了つた。障子の影法師はまだ踊つてゐる。歌もまだ聞えてゐる。
﹃よろづよの、せかい一れつみはらせど、むねのはかりたものはない。
﹃そのはずや、といてきかしたものはない。しらぬが無理ではないわいな。
﹃このたびは、神がおもてへあらはれて、なにか委細をとききかす。﹄
横川松太郎は、同じ県下でも遙ずつと南の方の、田の多い、養蚕の盛んな、或村に生れた。生う家ちはその村でも五本の指に数へられる田地持で、父作松と母お安の間の一粒種、甘やかされて育つた故か、体も孱ひよ弱わく、気も因ぐ循づで、学校に入つても、励むでもなく、怠なまけるでもなく、十五の春になつて高等科を卒へたが、別段自ら進んで上の学校に行かうともしなかつた。それなりに十八の歳になつて、村の役場に見習の格で雇書記に入つたが、恰度その頃、暴あら風しの様な勢で以て、天理教が付近一帯の村々に入込んで来た。
或晩、気弱者のお安が平い生つになく真剣になつて、天理教の有難い事を父作松に説いたことを、松太郎は今でも記憶してゐる。新しいと名の付くものは何でも嫌ひな旧弊家の、剰おまけに名高い吝しみ嗇つた家れだつた作松は、仲々それに応じなかつたが、一月許り経つと、打つて変つた熱心な信者になつて、朝夕仏壇の前で誦あげた修しう証しよ義うぎが、﹁あしきを攘はらうて救けたまへ。﹂の御みか神ぐ楽ら歌うたと代り、大和の国の総本部に参詣して来てからは、自ら思立つてか、唆かされてか、家屋敷所も有ち地ち全すつ体かり売払つて、工事費総額二千九百何十円といふ、巍ぎぜ然んたる大会堂を、村の中まん央なかの小高い丘お陵かの上に建てた。神道天理教会○○支部といふのがそれで。
その為に、松太郎は両親と共に着のみ着の儘になつて、其会堂の中に布教師と共に住む事になつた。︵役場の方は四ヶ月許りで罷やめて了つた。︶最はじ初め、朝晩の礼拝に皆みんなと一緒になつて御神楽を踊らねばならなかつたのには、少からず弱つたもので、気羞しくて厭だと言つては甚どんに作松に叱られたか知れない。その父は、半歳程経つて、近所に火事のあつた時、人先に水桶を携もつて会堂の屋根に上つて、足を辷らして落ちて死んだ。天あつ晴ぱれな殉教者だと口を極めて布教師は作松の徳を讃へた。母のお安もそれから又半歳程経つて、脳貧血を起して死んだ。
両親の死んだ時、松太郎は無論涙を流したが、それは然し、悲しいよりも驚いたから泣いたのだ。他ひとから鄭重に悼くや辞みを言はれると、奈ど何うして俺は左程悲しくないだらうと、それが却つて悲しかつた事もある。其後も矢張その会堂に起おき臥ふしして、天理教の教理、祭式作法、伝道の心得などを学んだが、根が臆病者で、これといふ役にも立たない代り、悪い事はカラ能できない性たちなのだから、家を潰させ、父を殺し、母を死なしめた、その支部長が、平ふだ常ん可愛がつて使つたものだ。また渠かれは、一体甚どん人を見ても羨むといふことのない。――羨むには羨んでも、自分も然う成らうといふ奮は発げ心みの出ない性たちで、従つて、食ふに困るではなし、自分が無財産だといふことも左程苦に病まなかつた。時とき偶たま、雑誌の口絵で縹きり緻ようの好い芸妓の写真を見たり、地方新聞で富かね家もちの若旦那の艶聞などを読んだりした時だけは、妙に恁かう危険な――実際危険な、例へば、密こつ々そりとこの会堂や地面を自分の名儀に書変へて、裁判になつても敗けぬ様にして置いて、突然売飛ばして了はうとか、平ふだ常ん心から敬つてゐる支部長を殺さうとかいふ、全まる然で理わ由けの無い反抗心を抱いたものだが、それも独寝の床に人ひと間な並みの出来心を起した時だけの話、夜が明けると何時しか忘れた。
兎角する間に今年の春になると、支部長は、同じ会堂で育て上げた、松太郎初め六人の青年を大和の本部に送つた。其処で三ヶ月修行して、﹁教師﹂の資格を得て帰ると、今度は、県下に各々区域を定きめて、それぞれ布教に派遣されたのだ。
さらでだに元気の無い、色いろ沢つやの悪い顔を、土ほこ埃りと汗に汚なくして、小い竹行李二ふた箇つを前まへ後うしろに肩に掛け、紺こん絣がすりの単ひと衣への裾を高々と端折り、重い物でも曳擦る様な足あし調どりで、松太郎が初めて南の方からこの村に入つたのは、雲一つ無い暑あつ熱さ盛りの、恰度八月の十日、赤い赤い日が徐そろ々そろ西の山に辷りかけた頃であつた。松太郎は、二十四といふ齢こそ人並に喰つてはゐるが、生うま来れつきの気弱者、経おぼ験えのない一人旅に今朝から七里余の知らない路を辿つたので、心の膸しんまでも疲れ切つてゐた。三日、四日と少しは慣れたものの、腹に一物も無くなつては、﹁考へて見れば目めあ的ての無い旅だ！﹂と言つた様な、朦ぼん乎やりした悲かな哀しみが、粘ねば々ねばした唾と共に湧いた。それで、村の入口に入るや否や、吠えかかる痩犬を半分無意識に怕こはい顔をして睨み乍ら、脹ふやけた様な頭あた脳まを搾り、有らん限りの智慧と勇気を集あ中つめて、﹁兎も角も、宿を見付ける事こつた。﹂と決心した。そして、口が自おのづからポカンと開いたも心付かず、臆病らしい眼を怯きよ々ろき然よろと両側の家に配つて、到頭、村も端はづれ近くなつた辺あたりで、三さん国ごく屋やといふ木賃宿の招かん牌ばんを見付けた時は、渠かれには既もう、現この世よに何の希望も無かつた。
翌朝目を覚ました時は、合宿を頼まれた二人――六十位の、頭の禿げた、鼻の赤い、不安な眼付をした老おや爺ぢと其娘だといふ二十四五の、旅たび疲づか労れの故せゐか張合のない淋しい顔の、其癖何処か小意気に見える女。︵何処から来て何処へ行くのか知らないが、路銀の補た助しに売つて歩くといふ安筆を、松太郎も勧められて一本買つた。︶――その二人は既もう発つて了つて、穢きたない室へやの、補つ布ぎだらけな五六の蚊か帳やの隅すみつこに、脚を一本蚊帳の外に投出して、仰あふのけに臥てゐた。と、渠は、前夜同じ蚊帳に寝た女の寝息や寝返りの気けは勢いに酷く弱い頭脳を悩まされて、夜更まで寝付かれなかつた事も忘れて、慌てて枕の下の財布を取出して見た。変りが無い。すると又、突いき然なり褌ふんどし一ひと点つで蚊帳の外に跳とび出だしたが、自分の荷物は寝る時の儘まんまで壁側にある。ホツと安心したが、猶念の為に内な部かを調べて見ると、矢張変りが無い。﹁フフヽヽ﹂と笑つて見た。
﹁さて、奈ど何う為ようかな？﹂恁かう渠かれは、額に八の字を寄せ、夥しく蚊に喰はれた脚や、蚤のみに攻められて一面に紅らんだ横よこ腹つぱらを自や棄けに掻き乍ら、考へ出した。昨日着いた時から、火やけ傷どか何かで左ひだ手りの指が皆内側に屈まがつた宿の嬶かかあの待もて遇なし振ぶりが、案外親切だつたもんだから、松太郎は理わ由けもなく此村が気に入つて、一つ此こ地こで伝道して見ようかと思つてゐたのだ。﹁さて、奈ど何う為しようかな。﹂恁かう何回も何回も自分に問うて見て、仲々決心が付かない。﹁奈ど何う為よう。奈何為よう。﹂と、終ひには少し懊ぢれつたくなつて来て、愈々以て決心が付かなくなつた。と言つて、発たうといふ気は微塵もないのだ。﹁兎も角も。﹂この男の考へ事は何時でも此処に落つる。﹁兎も角も、村の状態を見て来る事に為よう。﹂と決めて、朝飯が済むと、宿の下駄を借りて戸外に出た。
前日通と行ほつた時は百二三十戸も有らうと思つたのが数へて見ると六十九戸しか無かつた。それが又穢きたない家許りだ。松太郎は心に喜んだ、何がなしに気強くなつて来た。渠かれには自信といふものが無い。自信は無くとも伝道は為なければならぬ。それには、可なる成べく狭い土地で、そして可成教育のある人の居ない方が可いのだ。宿に帰つて、早速亭主を呼んで訊いて見ると、案の如く天理教はまだ入込んでゐないと言ふ。そこで松太郎は、出来るだけ勿もつ体たいを付けて自分の計画を打ち明けて見た。
三さん国ごく屋やの亭主といふのは、長らく役場の使こづ丁かひをした男で、身せた長けが五尺に一寸も足らぬ不かた具はも者の、齢は四十を越してゐるが、髯一本あるでなし、額の小皺を見なければ、まだホンの小若者としか見えない。小鼻が両方から吸込まれて、物云ふ声が際立つて鼻にかかる。それが、﹃然うだなツす……﹄と、小こく苦め面いに首を傾げて聞いてゐたが、松太郎の話が終ると、﹃何しろハア。今年ア作が良くねえだハンテな。奈何だべなア！ 神様さア喜あ捨げる銭ぜに金かねが有つたら石あぶ油らでも買ふべえドラ。﹄
﹃それがな。﹄と、松太郎は臆病な眼付をして、
﹃何もその銭金の費かかる事こつで無えのだ。私わしは其そん者もので無え。自分で宿料を払つてゐて、一週間なり十日なり、無た料だで近所の人達に聞かして上げるのだツさ、今のその、有難いお話な。﹄
気乗りのしなかつた亭主も、一週間分の前金を出されて初めて納得して、それからは多少言葉使ひも改めた。兎も角も今夜から近所の人を集めて呉れるといふ事に相談が纏つた。日の暮れるのが待遠でもあり、心配でもあつた。集つたのは女小供が合せて十二三人、それに大工の弟子の三太といふ若者、鍛冶屋の重兵衛。松太郎は暑いに拘らず木綿の紋付羽織を着て、杉の葉の蚊遣の煙を渋団扇で追ひ乍ら、教祖島村美み支き子この一代記から、一ひと通とほりの教理まで、重々しい力の無い声に出来るだけ抑揚をつけて諄くど々くどと説いたものだ。
﹃ハハア、そのお人も矢張りお嫁様に行つたのだなツす？﹄と、乳ちの児みごを抱いて来た嬶かかあが訊いた。
﹃左様さ。﹄と松太郎は額の汗を手拭で拭いて、﹃お美み支き様が恰度十四歳に成られた時にな、庄屋敷村のお生う家ちから三さん昧まい田だむ村らの中山家へ御おこ入しい輿りに﹇＃﹁御おこ入しい輿りに﹂はママ﹈成つた。有難いお話でな。その時お持になつた色々の調度、箪笥、長持、総てで以て十四荷か――一荷は一ひと担かつぎで、畢つま竟り平ひらたく言へば十四担ぎ有つたと申す事ぢや。﹄﹃ハハア、有難い事だなツす。﹄と、意とん外だところに感心して、﹃ナントお前様、此こ地こ方らではハア、今の村長様の嬶かか様あさまでせえ、箪笥が唯たつた三みさ竿を――、否うんにや全みん体なで三竿でその中の一竿はハア、古い長持だつけがなツす。﹄
二日目の晩は嬶共は一人も見えず、前夜話半ばに居眠をして行つた小供連と、鍛冶屋の重兵衛、三太が二三人朋輩を伴れて来た。その若者が何なに彼かと冷ひや評かしかけるのを、眇めつ目かちの重兵衛が大きい眼玉を剥むいて叱り付けた。そして、自分一人夜更まで残つた。
三日目は、午ひる頃ごろ来からの雨、蚊が皆家の中に籠つた点ひと燈もし頃ごろに、重兵衛一人、麦煎餅を五銭代許り買つて遣つて来た。大体の話は為して了つたので、此夜は主に重兵衛の方から、種々の問を発した。それが、人間は死ねば奈ど何うなるとか、天理教を信ずるとお寺詣りが出来ないとか、天理王の命みことも魚籃観音の様に、仮に人間の形に現れて蒼ひ生とを済度する事があるかとか、概して教理に関する問題を、鹿爪らしい顔をして訊くのであつたが、松太郎の煮切らぬ答弁にも多少得る所があつたかして、
﹃然うするとな、先生、︵と、此時から松太郎を恁かう呼ぶ事にした、︶俺にも余よつ程ぽと天理教の有難え事が解つて来た様だな。耶蘇は西洋、仏様は天竺、皆みんな渡わた来りも物のだが、天理様は日本で出来た神様だなツす？﹄
﹃左様さ。兎角自国のもんでないと悪いでな。加それ之に何なのぢや、それ、国くに常とこ立たち尊のみこと、国くに狭のさ槌づち尊のみこと、豊とよ斟くむ渟ぬの尊みこと、大おほ苫とま辺べの尊みこと、面おも足だる尊のみこと、惶かし根こね尊のみこと、伊いざ弉なぎ諾のみ尊こと、伊いざ弉なみ冊のみ尊こと、それから大おほ日ひる霊めの尊みこと、月つき夜よみ見のみ尊こと、この十とは柱しらの神様はな、何れも皆立派な美徳を具へた神様達ぢやが、わが天理王の命と申すは、何と有難い事でな、この十柱の神様の美徳を悉しつ皆かい具へて御座る。﹄
﹃成程。それで何かな、先生、お前めえ様さまは一人でも此村に信者が出来ると、何処へも行かねえて言つたけが、真ほん箇とかな？ それ聞かねえと意とん外だブマ見るだ。﹄
﹃真箇ともさ。﹄
﹃真箇かな？﹄
﹃真箇ともさ。﹄
﹃愈々真箇かな？﹄
﹃ハテ、奈何して嘘なもんかなア。﹄と言ひは言つたが、松太郎、余り諄くどく訊かれるので何がなしに二の足を踏みたくなつた。
﹃先生、そンだらハア、﹄と、重兵衛は突いき然なり膝を乗出した。﹃俺おらが成つてやるだ。今夜から。﹄
﹃信者にか？﹄と、鈍い眼が俄かに輝く。
﹃然うせえ。外に何になるだア！﹄
﹃重兵衛さん、そら真箇かな？﹄と、松太郎は筒抜けた様な驚喜の声を放つた。三日目に信者が出来る、それは渠の全く予想しなかつた所、否、渠は何時、自分の伝道によつて信者が出来るといふ確信を持つた事があるか？
この鍛冶屋の重兵衛といふのは、針の様な髯を顔一面にモヂヤモヂヤさした、それはそれは逞しい六尺近の大男で、左の眼が潰れた、﹃眇めつ目こ鍛か冶ぢ﹄と小供等が呼ぶ。齢は今年五十二とやら、以も前と十里許り離れた某町に住つてゐたが、鉈、鎌、鉞まさかりなどの荒道具が得意な代り、此人の鍛うつた包丁は刃が脆いといふ評判、結局は其土地を喰詰めて、五年前にこの村に移つた。他たし所よも者のといふが第一、加それ之に、頑いつ固こくで、片意地で、お世辞一つ言はぬ性たちなもんだから、兎角村人に親したしみが薄い。重兵衛それが平ひご生ろの遺恨で、些ちよいとした手紙位は手づから書けるを自慢に、益々頭が高くなつた。規きま定り以外の村の費いり目めの割当などに、最まつ先さきに苦情を言出すのは此人に限る。其処へ以て松太郎が来た。聴いて見ると間違つた理屈でもなし、村寺の酒さけ飲のみ和おし尚やうよりは神々の名も沢山に知つてゐる。天理様の有難味も了のみ解こんで了のみ解こめぬことが無ささうだ。好よ矣し、俺おらが一番先に信者になつて、村の衆の鼻毛を抜いてやらうと、初めて松太郎の話を聴いた晩に寝床の中で度胸を決めて了つたのだ。尤も、重兵衛の遠縁の親戚が二軒、遙ずつと隔つた処にゐて、既とうから天理教に帰依してるといふ事は、予かねて手紙で知つてもゐ、一昨年の暮弟の家に不幸のあつた時、その親戚からも人が来て重兵衛も改宗を勧められた事があつた。但し此事は松太郎に対して噎おくびにも出さなかつた。
翌朝、松太郎は早速○○支部に宛てて手紙を出した。四五日経つて返書が来た。その返書は、松太郎が逸いち早はやく信者を得た事を祝して其伝道の前途を励まし、この村に寄留したいといふ希望を聴ゆ許るした上に、今後伝道費として毎月金五円宛送る旨を書き添へてあつた。松太郎はそれを重兵衛に示して喜ばした上で、恁かういふ相談を持掛けた。
﹃奈ど何うだらうな、重兵衛さん。三国屋に居ると何の彼ので日に十五銭宛貪とられるがな。そすると月に積つて四円五十銭で、私わしは五十銭しか小遣が残らなくなるでな。些すこし困るのぢや。私わしは神様に使はれる身分で、何も食物の事など構はんのぢやが、稗ひえ飯めしでも構はんによつて、モツト安く泊める家うちがあるまいかな。奈何だらうな、重兵衛さん、私わしは貴あん方た一人が手たよ頼りぢやが……﹄
﹃然うだなア！﹄と、重兵衛は重々しく首を傾かしげて、薪まき雑ざつ棒ぼうの様な両腕を拱こまねいだ。月四円五十銭は成程この村にしては高い。それより安くても泊めて呉れさうな家が、那あそ家こ、那あそ家こと二三軒心に無いではない。が、重兵衛は何事にまれ此方から頭を下げて他ひ人とに頼む事は嫌ひなのだ。
翌朝、家が見付かつたと言つて重兵衛が遣つて来た。それは鍛冶屋の隣りのお由よし寡やも婦めが家、月三円で、その代り粟八分の飯で忍がま耐んしろと言ふ。口に似合はぬ親切な野おや爺ぢだと、松太郎は心に感謝した。
﹃で、何かな、そのお由といふ寡やも婦めさんは全くの独ひと身りず住みかな？﹄
﹃然うせえ。﹄
﹃左様か。それで齢は老とつてるだらうな？﹄
﹃ワツハハ。心しん配ぺいする事ア無ねえ、先生。齢ア四十一だべえが、村一番の醜みた婦くなしの巨おほ女をなごだア、加それ之にハア、酒を飲めば一升も飲むし、甚どん男も手てや余ましにする位くれいの悪ごん酔ぼう語ほ堀りだで。﹄と、嚇かす様に言つたが、重兵衛は、眼を円くして驚く松太郎の顔を見ると俄かに気を変へて、
﹃そだどもな、根が正直者だおの、結句気楽な女をなごせえ喃なあ。﹄
善は急げと、其日すぐお由の家に移う転つつた。重兵衛の後に跟ついて怖おづ々おづ入つて来る松太郎を見ると、生なま柴しばを大おほ炉ろに折をり燻くべてフウフウ吹いてゐたお由は、突いき然なり、
﹃お前めえが、俺おら許どこさ泊めて呉けろづな？﹄と、無遠慮に叱る様に言ふ。
﹃左様さ。私わしはな……﹄と、松太郎は少すこ許し狼うろ狽たへて、諄くど々くど初対面の挨拶をすると、
﹃何なあ有にハア、月々三両せえ出せば、死くたばるまででも置いて遣やべえどら。﹄
移ひつ転こし祝いはひの積りで、重兵衛が酒を五合買つて来た。二人はお由にも天理教に入ることを勧めた。
﹃何なあ有にハア、俺おらみたいな悪あく党たう女をなごにや神様も仏様も死くたばる時で無ねえば用ア無えどもな。何だべえせえ、自分の居をツ家とこが然そでなかつたら具ぐあ合えが悪かんべえが？ 然そだらハア、俺おらア酒え飲むのさ邪魔さねえば、何どつ方ちでも可いいどら。﹄
と、お由は、黒おは漿ぐろの剥げた穢い歯を露むき出だしにして、ワツハヽヽと男の様に笑つたものだ。鍛冶屋の門かどと此の家の門に、﹃神道天理教会﹄と書いた、丈たけ五寸許りの、硝子を嵌はめた表札が掲げられた。
二三日経つてからの事、為しや様うこ事となしの松太郎はブラリと宿を出て、其処此処に赤い百合の花の咲いた畑はた径けみちを、唯一人東山へ登つて見た。何の風情もない、饅まん頭ぢう笠がさを伏せた様な芝山で、逶うね
した径みちが嶺いただきに尽きると、太い杉の樹が矗すく々すくと、八九本立つてゐて、二間四方の荒れ果てた愛宕神社の祠ほこら。
その祠の階だ段んに腰を掛けると、此処よりは少すこ許し低目の、同じ形の西山に真まと面もに対むか合ひあつた。間が浅い凹くぼ地ちになつて、浮世の廃道と謂つた様な、塵白く、石多い、通とほ行り少い往還が、其底を一まし直ぐ線らに貫いてゐる。両ふたつの丘お陵かは中腹から耕されて、夷なだらかな勾配を作つた畑が家々の裏口まで迫つた。村が一目に瞰みお下ろされる。
その往還にも、昔は、電信柱が行儀よく列んで、毎日午ひる近くなると、調子面白い喇ラツ叭パの音を澄んだ山さん国ごくの空気に響かせて、赤く黄く塗つた円太郎馬車が、南から北から、勇しくこの村に躍込んだものだ。その喇叭の音は、二十年来礑はたと聞こえずなつた。隣村に停車場が出来てから通とほ行りが絶えて、電信柱さへ何日しか取とり除のぞかれたので。
その時こ代ろは又、村に相応な旅はた籠ご屋やも三四軒あり、俥も十輛近くあつた。荷馬車と駄馬は家毎の様に置かれ、畑仕事は女の内職の様に閑却されて、旅人対あひ手ての渡世だけに収みい入りも多く人気も立つてゐた。夏になれば氷屋の店も張られた。――それもこれも今は纔わづかに、老とし人より達たちの追むか憶しば談なしに残つて、村は年毎に、宛さな然がら藁火の消えてゆく様に衰へた。生なり業はひは奪はれ、税金は高くなり、諸式は騰あがり、増えるのは小供許り。唯たつた一輛残つてゐた俥の持主は五年前に死んで曳く人なく、轅かじの折れた其俥は、遂この頃まで其そ家この裏井戸の側わきで見懸けられたものだ。旅籠屋であつた大きい二階建の、その二階の格子が、折れたり歪んだり、昼でも鼠が其処に遊んでゐる。今では三国屋といふ木賃が唯一軒。
松太郎は、其そん事は知らぬ。血の気の薄い、張合の無い、気きや病みの後の様な弛たるんだ顔に眩まぶしい午後の日を受けて、物珍らし相にこの村を瞰みお下ろしてゐると、不図、生うま村れむらの父おや親ぢの建てた会堂の丘から、その村を見渡した時の心地が胸に浮んだ。
取留のない空想が一図に湧いた。愚さの故でもあらう、汗ばんだ、生き甲斐のない顔か色ほが少許色ばんで、鈍い眼も輝いて来た。渠かれは、自おの己れ一人の力でこの村を教化し尽した勝利の暁の今迄遂ぞ夢にだに見なかつた大いなる歓よろ喜こびを心に描き出した。
﹁会堂が那あそ処こに建つ！﹂と、屹きつと西山の嶺いただきに瞳を据ゑる。
﹁然うだ、那処に建つ！﹂恁かう思つただけで、松太郎の目には、その、純まつ白しろな、絵に見る城の様な、数知れぬ窓のある、巍ぎぜ然んたる大殿堂が鮮かに浮んで来た。その高い、高い天や蓋ねの尖とん端がり、それに、朝日が最初の光を投げ、夕日が最後の光を懸ける……。
渠は又、近所の誰彼、見みし知りご越しの少年共を、自分が生村の会堂で育てられた如く、育てて、教へて……と考へて来て、周あた囲りに人無きを幸ひ、其等に対する時の厳おごそかな態度をして見た。
﹃抑そも々そも天理教といふものはな――﹄
と、自分の教へられた支部長の声色を使つて、眼前の石いし塊ころを睨んだ。
﹃すべて、私わた念くしといふ陋さも劣しい心があればこそ、人ひ間とは種いろ々いろの悪あしき企たく画らみを起すものぢや。罪あし悪きの源は私わた念くし、私念あつての此世の乱れぢや。可いいかな？ その陋さも劣しい心を人ひ間との胸から攘はらひ浄めて、富めるも賤きも、真に四民平等の楽天地を作る。それが此教の第一の目的ぢや。解つたぞな？﹄
恁う言ひ乍ら、渠はその目を移して西山の巓いただきを見、また、凹くぼ地ちの底の村を瞰下した。古いに昔しへの尊き使徒が異教人の国を望んだ時の心地だ。圧おし潰つぶした様に二ふた列ならびに列んだ茅葺の屋根、其処からは鶏の声が間を置いて聞えて来る。
習そよとの風も無い。最さな中かす過ぎの八月の日ひか光げが躍るが如く溢れ渡つた。気が付くと、畑々には人影が見えぬ。恰度、盆の十四日であつた。
松太郎は、何がなしに生甲斐がある様な気がして、深く深く、杉の樹や脂にの香る空気を吸つた。が、霎しば時らく経つと眩まぶしい光に眼が疲れてか、気が少し、焦立つて来た。
﹃今に見ろ！ 今に見ろ！﹄
這こん事を出任せに口走つて見て、渠はヒヨクリと立上り、杉の根方を彼あち方らこ此ち方ら、態わざと興奮した様な足あし調どりで歩き出した。と、地じべ面たに匐のたくつた太い木根に躓つまづいて、其機はず会みにまだ新しい下駄の鼻緒が、フツリと断きれた。チヨツと舌した鼓うちして蹲しや踞がんだが、幻まぼ想ろしは迹あともなし。渠は腰に下げてゐた手拭を裂いて、長い事掛つて漸やう々やうそれをすげた。そしてトボトボと山を下つた。
穂の出で初そめた粟畑がある。ガサ〳〵と葉が鳴つて、
﹃先生様ア！﹄
と、若々しい娘の声が、突いき然なり、調から戯かふ様な調子で耳近く聞えた。松太郎は礑はたと足を留めて、キヨロキヨロ周あた囲りを見巡した。誰も見えない。粟の穂がフイと飛んで来て、胸に当つた。
﹃誰だい？﹄
と、渠は少すこ許し気味の悪い様に呼んで見た。カサとの音もせぬ。
﹃誰だい？﹄
二度呼んでも返こた答へが無いので、苦笑ひをして歩き出さうとすると、
﹃ホホヽヽ。﹄
と澄んだ笑声がして、白手拭を被つた小娘の顔が、二三間隔へだたつた粟の上に現れた。
﹃何ぞ、お常ツ子かい！﹄
﹃ホホヽヽ。﹄と再また笑つて、﹃先生様ア、お前めえ様さま狐踊踊るづア、今こん夜にや俺おらと一緒に踊らねえすか？ 今こん夜にやから盆だず。﹄
﹃フフヽヽ。﹄と松太郎は笑つた。そして急しく周囲を見廻した。
﹃なツす、先生様ア。﹄とお常は厭あく迄まで曇りのないクリクリした眼で調から戯かつてゐる。十五六の、色の黒い、晴やかな邪あど気け無ない小娘で、近所の駄菓子屋の二番目だ。松太郎の通と行ほる度、店先にゐさへすれば、屹度この眼で調から戯かふ。落なん花きん生まめの殻を投げることもある。
渠は不図、別な、全く別な、或る新しい生甲斐のある世界を、お常のクリクリした眼の中に発見した。そして、ツイと自分も粟畑の中に入つた。お常は笑つて立つてゐる。松太郎も、口元に痙ひき攣つつた様な笑ひを浮べて胸に動悸をさせ乍ら近づいた。
この事あつて以来、松太郎は妙に気がソワついて来て、暇さへあれば、ブラリと懐ふと手ころでをして畑はた径けみちを歩く様になつた。わが歩いてる径の彼方から白手拭が見える、と、渠かれは既もうホクホク嬉しくてならぬ。知らんか振りをして行くと、娘共は屹度何か調から戯かつて行き過ぎる。
﹃フフヽヽ。﹄
と恁かうマア、自分の威厳を傷けぬ程度で笑つたものだ。そして、家に帰ると例いつになく食慾が進む。
近所の人々とも親みがついた。渠の仕事は、その人々に手紙の代筆をして呉れる事である。日が暮れると鍛冶屋の店へ遊びに行く。でなければ、お常と約束の場所で逢ふ。お由が何ど家こかへ振舞酒にでも招よばれると、密こつ乎そりと娘を連れ込む事もある。娘の帰つた後、一人ニヤニヤと可い厭やな笑方をして、炉端に胡あぐ坐らをかいてると、屹度、お由がグデングデンに酔払つて、対手なしに悪あく言たいを吐つき乍ら帰つて来る。
﹃何だ此こん畜ちき生しやう奴め、汝うぬア何なん故しや此こ家こに居る？ ウン此狐きつ奴ねめ、何だ？ 寝ろ？ カラ小癪な！ 黙れ、この野郎。黙れ黙れ、黙らねえか？ 此畜生奴、乞ほい食ど、癩ど病す、天理坊主！ 早しら速からと出て行け、此畜生奴！﹄
突いき然なり、這こん事を口汚く罵つて、お由はドタリと上あが框りかまちの板敷に倒れる。
﹃マア、マア。﹄
と言つた調子で、松太郎は、継まま母ははでも遇あしらふ様に、寝床の中に引擦り込んで、布団をかけてやる。渠は何い日つしか此女を扱ふ呼こ吸つを知つた。悪あく口たいは幾いく何ら吐ついても、別に抗てむ争かふ事はしないのだ。お由は寝床に入つてからも、五分か十分、勝手放題に怒鳴り散らして、それが息やむと、太たい平へいな鼾いびきをかく。翌朝になれば平けろ然りとしたもの。前夜の詫を言ふ事もあれば言はぬ事もある。
此家の門と鍛冶屋の門の外には、﹃神道天理教会﹄の表札が掲げられなかつた。松太郎は別段それを苦に病むでもない。時とき偶たま近所へ夜話に招ばれる事があれば、役目の説はな教しもする。それが又、奈ど何うでも可いと言つた調子だ。或時、痩やせ馬ばく喰らうの嬶かかあが、小供が腹を病んでるからと言つて、御おそ供なへ水みづを貰ひに来た。三四日経つと、麦煎餅を買つて御礼に来た。後で聞けばそれは赤痢だつたといふ。
二百十日が来ると、馬のある家では、泊とま懸りがけで馬ばれ糧うの萩を刈りに山へ行く。その若者が一人、山で病やみ付ついて来て医いし師やにかかると、赤痢だと言ふので、隔離病舎に収容された。さらでだに、岩手県の山中に数ある痩村の中でも、珍しい程の貧乏村、今年は作が思はしくないと弱つてゐた所へ、この出来事は村中の顔を曇らせた。又一人、又一人、遂に忌いまはしき疫やまひが全村に蔓延した。恐しい不安は、常でさへ巫いた女こを信じ狐を信ずる住ひと民びとの迷信を煽あふり立てた。御おそ供なへ水みづは酒屋の酒の様に需要が多くなつた。一月余の間うちに、新しい信者が十一軒も増えた。松太郎は世の中が面白くなつて来た。
が、漸だん々だん病勢が猖さか獗んになるに従つれて、渠自身も余り丈夫な体ではなし、流石に不安を感ぜぬ訳に行かなくなつた。其時思出したのは、五六年前――或は渠が生うま村れむらの役場に出てゐた頃かも知れぬ――或新聞で香かう竄ざん葡ぶど萄うし酒ゆの広告の中に、伝染病予防の効能があると書いてあつたのを読んだ事だ。渠は恁ういふ事を云出した。﹃天理様は葡萄酒がお好きぢや。お好きな物を上げてお頼みするに病気なんかするものぢやないがな。﹄
流石に巡査の目を憚はばかつて、日が暮れるのを待つて御おそ供なへ水みづを貰ひに来る嬶かか共あどもは、有な乎け無な乎しの小袋を引ひつ敝ぱたいて葡萄酒を買つて来る様になつた。松太郎はそれを犠にへ卓づくゑに供へて、祈祷をし、御神楽を踊つて、その幾滴を勿体らしく御供水に割つて、持たして帰す。残つたのは自分が飲むのだ。お由の家の台所の棚には、葡萄酒の空瓶が十八九本も並んだ。
奈ど何うしたのか、鍛冶屋の音ひび響きも今夜は例いつになく早く止んだ。高く流るる天の河の下に、村は死骸の様に黙してゐる。今し方、提灯が一つ、フラフラと人魂の様に、役場と覚しき門から迷ひ出て、半町許りで見えなくなつた。
お由の家の大炉には、チロリチロリと焚火が燃えて、居並ぶ種々の顔を赤く黒く隈取つた。近所の嬶共が三四人、中には一番遅れて来たお申さる婆ばばあも居た。
祈祷も御神楽も済んだ。松太郎はトロリと酔つて了つて、だらしなく横よこ座ざに胡あぐ坐らをかいてゐる。髪の毛の延びた頭がグラリと前に垂れた。葡萄酒の瓶がその後に倒れ、漬物の皿、破かけ茶ぢや碗わんなどが四あた辺りに散ちら乱ばつてゐる。﹃其そんに痛えがす？ お由よし殿どな、寝だら可えがべす。﹄
と、一人の顔のしやくんだ嬶が言つた。
﹃何なあ有に！﹄
恁かう言つて、お由は腰に支かつた右手を延べて、燃え去つた炉の柴を燻くべる。髪のおどろに乱れかかつた、その赤黒い大きい顔には、痛みを怺こらへる苦くる痛しみが刻まれてゐる。四十一までに持つた四人の夫、それを皆追おん出だして遣つた悪党女ながら、養子の金作が肺病で死んで以来、口は減らないが、何処となく衰へが見える。乱れた髪には白いのさへ幾筋か交つた。
﹃真ほん箇とだぞえ。寝れば癒るだあに。﹄とお申婆も口を添へる。
﹃何なあ有に！﹄とお由は又言つた。そして、先さつ刻きから三度目の同じ弁いひ疏わけを、同じ様な詰らな相な口調で付加へた、﹃晩方に庭の台ど木ぎさ打ぶん倒のめつて撲ぶつたつけア、腰ア痛くてせえ。﹄
﹃少し揉んで遣べえが﹄とお申さる。
﹃何なあ有に！﹄
﹃ワツハハ。﹄懶けだるい笑方をして、松太郎は顔を上げた。
﹃ハツハハ。酔へエばアア寝たくなアるウ、︵と唄ひさして、︶寝れば、それから何だつけ？ 
、何だつけ？ ハツハハ。あしきを攘はらうて救けたまへだ。ハツハハ。﹄と、再またグラリとする。
﹃先生様ア酔つたなツす。﹄と、……皺くちやの一人が隣へ囁いた。
﹃真ほん箇とにせえ。帰けえるべえが？﹄と、その又隣りのお申おさ婆るばあへ。
﹃まだ可えがべえどら。﹄と、お由が呟く様に口を入れた。
﹃こら、家うちの嬶、お前は何故、今夜は酒を飲まないのだ。﹄と松太郎は再また顔を上げた。舌もよくは廻らぬ。
﹃フム。﹄
﹃ハツハハ。さ、私わしが踊ろか。否いいや、酔つた、すつかり酔つた。ハハ。神がこの世へ現はれて、か。ハツハハ。﹄と、坐つた儘で妙な手付。
ドヤドヤと四五人の跫音が戸そ外とに近いて来る。顔のしやくつたのが逸早く聞耳を立てた。
﹃また隔離所さ誰か遣られるな。﹄
﹃誰だべえ？﹄
﹃お常ツ子だべえな。﹄と、お申婆が声を潜めた。﹃先さき刻た、俺ア来る時どき、巡査ア彼あす家こへ行つたけどら。今日検査の時ア裏の小屋さ隠れたつけア、誰か知らせたべえな。昨きの日なから顔つら色いろア悪くてらけもの。﹄
﹃そんでヤハアお常ツ子も罹かかつたアな。﹄と囁いて、一みん同なは密そつと松太郎を見た。お由の眼玉はギロリと光つた。
松太郎は、首を垂れて、涎よだれを流して、何か﹃ウウ﹄と唸つてゐる。
跫音は遠く消えた。
﹃帰けえるべえどら。﹄と、顔のしやくつたのが先づ立つた。松太郎は、ゴロリ、崩れる如く横になつて了つた。
それから一時間許り経つた。
松太郎はポカリと眼を覚ました。寒い。炉の火が消えかかつてゐる。ブルツと身みぶ顫るひして体を半分擡もたげかけると、目の前にお由の大きな体が横たはつてゐる。眠つたのか、小こゆ動るぎもせぬ。右の頬ほつ片ぺたを板敷にベタリと付けて、其顔を炉に向けた。幽かすかな火あか光りが怖しくもチラチラとそれを照らした。
別の寒さが松太郎の体中に伝はつた。見よ、お由の顔！ 歯を喰絞つて、眼を堅く閉ぢて、ピリピリと眼尻の筋に肉くが痙ひき攣つけてゐる。髪は乱れたまま、衣きも服のも披はだかつたまま……。
氷の様な恐怖が、松太郎の胸に斧の如く打込んだ。渠は今、生れて初めて、何の虚飾なき人生の醜みに悪くさに面相接した。酒に荒んだ、生殖作用を失つた、四十女の浅あさ猿ましさ！
松太郎はお由の病苦を知らぬ。
﹃ウ、ウ、ウ。﹄
とお由は唸つた。眼が開き相だ。松太郎は何と思つたか、再またゴロリと横になつて、眼を瞑つぶつて、呼い吸きを殺した。
お由は二三度唸つて、立上つた気けは勢ひ。下腹が疼しびれて、便気の塞そく逼はくに堪へぬのだ。眤じつと松太郎の寝姿を見乍ら、大儀相に枕まく頭らを廻つて、下駄を穿いたが、その寝姿の哀れに小さく見すぼらしいのがお由の心に憐あは愍れみの情こころを起させた。俺が居なくなつたら奈ど何うして飯を食ふだらう？ と思ふと、何がなしに理由のない憤いか怒りが心を突く。
﹃ええ此嘘うそ吐つ者き、天理も糞も……﹄
これだけを、お由は苦し気に怒鳴つた。そして裏口から出て行つた。
渠は、ガバと跳び起きた。そして後をも見ずに次の間に駆け込んで、布団を引出すより早く、其中に潜もぐり込んだ。
間もなくお由は帰つて来た。眠つてゐた筈の松太郎が其処に見えない。両手を腹に支かつて、顔を強く顰しかめて、お由は棒の様に突立つたが、出でが掛けに言つた事を松太郎に聞かれたと思ふと、言ふ許りなき怒気が肉体の苦くる痛しみと共に発した。
﹃畜生奴！﹄と先づ胴間声が突走つた。﹃畜生奴！ 狐！ 嘘うそ吐つ者き！ 天理坊主！ よく聴け、コレア、俺ア赤痢に取付かれたぞ。畜生奴！ 嘘吐者！ 畜生奴！ ウン……﹄
ドタリとお由が倒のめつた音。
寝床の中の松太郎は、手足を動かすことを忘れでもした様に、ビクとも動かぬ。あらゆる手たよ頼りの綱が一度に切れて了つた様で、暗い暗い、深い深い、底の知れぬ穴の中へ、独ぼつちの魂が石いし塊ころの如く落ちてゆく、落ちてゆく。そして、堅く瞑つぶつた両眼からは、涙が滝の如く溢れた。滝の如くとは這こん時に形容する言葉だらう。抑へても溢れる。抑へようともせぬ。噛りついた布団の裏も、枕も、濡れる、濡れる、濡れる。…………
︵明治四十一年十二月四日脱稿︶
︹生前未発表・明治四十一年十一月〜十二月稿︺
に作松に叱られたか知れない。その父は、半歳程経つて、近所に火事のあつた時、人先に水桶を携もつて会堂の屋根に上つて、足を辷らして落ちて死んだ。天あつ晴ぱれな殉教者だと口を極めて布教師は作松の徳を讃へた。母のお安もそれから又半歳程経つて、脳貧血を起して死んだ。
両親の死んだ時、松太郎は無論涙を流したが、それは然し、悲しいよりも驚いたから泣いたのだ。他ひとから鄭重に悼くや辞みを言はれると、奈ど何うして俺は左程悲しくないだらうと、それが却つて悲しかつた事もある。其後も矢張その会堂に起おき臥ふしして、天理教の教理、祭式作法、伝道の心得などを学んだが、根が臆病者で、これといふ役にも立たない代り、悪い事はカラ能できない性たちなのだから、家を潰させ、父を殺し、母を死なしめた、その支部長が、平ふだ常ん可愛がつて使つたものだ。また渠かれは、一体甚どん人を見ても羨むといふことのない。――羨むには羨んでも、自分も然う成らうといふ奮は発げ心みの出ない性たちで、従つて、食ふに困るではなし、自分が無財産だといふことも左程苦に病まなかつた。時とき偶たま、雑誌の口絵で縹きり緻ようの好い芸妓の写真を見たり、地方新聞で富かね家もちの若旦那の艶聞などを読んだりした時だけは、妙に恁かう危険な――実際危険な、例へば、密こつ々そりとこの会堂や地面を自分の名儀に書変へて、裁判になつても敗けぬ様にして置いて、突然売飛ばして了はうとか、平ふだ常ん心から敬つてゐる支部長を殺さうとかいふ、全まる然で理わ由けの無い反抗心を抱いたものだが、それも独寝の床に人ひと間な並みの出来心を起した時だけの話、夜が明けると何時しか忘れた。
兎角する間に今年の春になると、支部長は、同じ会堂で育て上げた、松太郎初め六人の青年を大和の本部に送つた。其処で三ヶ月修行して、﹁教師﹂の資格を得て帰ると、今度は、県下に各々区域を定きめて、それぞれ布教に派遣されたのだ。
さらでだに元気の無い、色いろ沢つやの悪い顔を、土ほこ埃りと汗に汚なくして、小い竹行李二ふた箇つを前まへ後うしろに肩に掛け、紺こん絣がすりの単ひと衣への裾を高々と端折り、重い物でも曳擦る様な足あし調どりで、松太郎が初めて南の方からこの村に入つたのは、雲一つ無い暑あつ熱さ盛りの、恰度八月の十日、赤い赤い日が徐そろ々そろ西の山に辷りかけた頃であつた。松太郎は、二十四といふ齢こそ人並に喰つてはゐるが、生うま来れつきの気弱者、経おぼ験えのない一人旅に今朝から七里余の知らない路を辿つたので、心の膸しんまでも疲れ切つてゐた。三日、四日と少しは慣れたものの、腹に一物も無くなつては、﹁考へて見れば目めあ的ての無い旅だ！﹂と言つた様な、朦ぼん乎やりした悲かな哀しみが、粘ねば々ねばした唾と共に湧いた。それで、村の入口に入るや否や、吠えかかる痩犬を半分無意識に怕こはい顔をして睨み乍ら、脹ふやけた様な頭あた脳まを搾り、有らん限りの智慧と勇気を集あ中つめて、﹁兎も角も、宿を見付ける事こつた。﹂と決心した。そして、口が自おのづからポカンと開いたも心付かず、臆病らしい眼を怯きよ々ろき然よろと両側の家に配つて、到頭、村も端はづれ近くなつた辺あたりで、三さん国ごく屋やといふ木賃宿の招かん牌ばんを見付けた時は、渠かれには既もう、現この世よに何の希望も無かつた。
翌朝目を覚ました時は、合宿を頼まれた二人――六十位の、頭の禿げた、鼻の赤い、不安な眼付をした老おや爺ぢと其娘だといふ二十四五の、旅たび疲づか労れの故せゐか張合のない淋しい顔の、其癖何処か小意気に見える女。︵何処から来て何処へ行くのか知らないが、路銀の補た助しに売つて歩くといふ安筆を、松太郎も勧められて一本買つた。︶――その二人は既もう発つて了つて、穢きたない室へやの、補つ布ぎだらけな五六の蚊か帳やの隅すみつこに、脚を一本蚊帳の外に投出して、仰あふのけに臥てゐた。と、渠は、前夜同じ蚊帳に寝た女の寝息や寝返りの気けは勢いに酷く弱い頭脳を悩まされて、夜更まで寝付かれなかつた事も忘れて、慌てて枕の下の財布を取出して見た。変りが無い。すると又、突いき然なり褌ふんどし一ひと点つで蚊帳の外に跳とび出だしたが、自分の荷物は寝る時の儘まんまで壁側にある。ホツと安心したが、猶念の為に内な部かを調べて見ると、矢張変りが無い。﹁フフヽヽ﹂と笑つて見た。
﹁さて、奈ど何う為ようかな？﹂恁かう渠かれは、額に八の字を寄せ、夥しく蚊に喰はれた脚や、蚤のみに攻められて一面に紅らんだ横よこ腹つぱらを自や棄けに掻き乍ら、考へ出した。昨日着いた時から、火やけ傷どか何かで左ひだ手りの指が皆内側に屈まがつた宿の嬶かかあの待もて遇なし振ぶりが、案外親切だつたもんだから、松太郎は理わ由けもなく此村が気に入つて、一つ此こ地こで伝道して見ようかと思つてゐたのだ。﹁さて、奈ど何う為しようかな。﹂恁かう何回も何回も自分に問うて見て、仲々決心が付かない。﹁奈ど何う為よう。奈何為よう。﹂と、終ひには少し懊ぢれつたくなつて来て、愈々以て決心が付かなくなつた。と言つて、発たうといふ気は微塵もないのだ。﹁兎も角も。﹂この男の考へ事は何時でも此処に落つる。﹁兎も角も、村の状態を見て来る事に為よう。﹂と決めて、朝飯が済むと、宿の下駄を借りて戸外に出た。
前日通と行ほつた時は百二三十戸も有らうと思つたのが数へて見ると六十九戸しか無かつた。それが又穢きたない家許りだ。松太郎は心に喜んだ、何がなしに気強くなつて来た。渠かれには自信といふものが無い。自信は無くとも伝道は為なければならぬ。それには、可なる成べく狭い土地で、そして可成教育のある人の居ない方が可いのだ。宿に帰つて、早速亭主を呼んで訊いて見ると、案の如く天理教はまだ入込んでゐないと言ふ。そこで松太郎は、出来るだけ勿もつ体たいを付けて自分の計画を打ち明けて見た。
三さん国ごく屋やの亭主といふのは、長らく役場の使こづ丁かひをした男で、身せた長けが五尺に一寸も足らぬ不かた具はも者の、齢は四十を越してゐるが、髯一本あるでなし、額の小皺を見なければ、まだホンの小若者としか見えない。小鼻が両方から吸込まれて、物云ふ声が際立つて鼻にかかる。それが、﹃然うだなツす……﹄と、小こく苦め面いに首を傾げて聞いてゐたが、松太郎の話が終ると、﹃何しろハア。今年ア作が良くねえだハンテな。奈何だべなア！ 神様さア喜あ捨げる銭ぜに金かねが有つたら石あぶ油らでも買ふべえドラ。﹄
﹃それがな。﹄と、松太郎は臆病な眼付をして、
﹃何もその銭金の費かかる事こつで無えのだ。私わしは其そん者もので無え。自分で宿料を払つてゐて、一週間なり十日なり、無た料だで近所の人達に聞かして上げるのだツさ、今のその、有難いお話な。﹄
気乗りのしなかつた亭主も、一週間分の前金を出されて初めて納得して、それからは多少言葉使ひも改めた。兎も角も今夜から近所の人を集めて呉れるといふ事に相談が纏つた。日の暮れるのが待遠でもあり、心配でもあつた。集つたのは女小供が合せて十二三人、それに大工の弟子の三太といふ若者、鍛冶屋の重兵衛。松太郎は暑いに拘らず木綿の紋付羽織を着て、杉の葉の蚊遣の煙を渋団扇で追ひ乍ら、教祖島村美み支き子この一代記から、一ひと通とほりの教理まで、重々しい力の無い声に出来るだけ抑揚をつけて諄くど々くどと説いたものだ。
﹃ハハア、そのお人も矢張りお嫁様に行つたのだなツす？﹄と、乳ちの児みごを抱いて来た嬶かかあが訊いた。
﹃左様さ。﹄と松太郎は額の汗を手拭で拭いて、﹃お美み支き様が恰度十四歳に成られた時にな、庄屋敷村のお生う家ちから三さん昧まい田だむ村らの中山家へ御おこ入しい輿りに﹇＃﹁御おこ入しい輿りに﹂はママ﹈成つた。有難いお話でな。その時お持になつた色々の調度、箪笥、長持、総てで以て十四荷か――一荷は一ひと担かつぎで、畢つま竟り平ひらたく言へば十四担ぎ有つたと申す事ぢや。﹄﹃ハハア、有難い事だなツす。﹄と、意とん外だところに感心して、﹃ナントお前様、此こ地こ方らではハア、今の村長様の嬶かか様あさまでせえ、箪笥が唯たつた三みさ竿を――、否うんにや全みん体なで三竿でその中の一竿はハア、古い長持だつけがなツす。﹄
二日目の晩は嬶共は一人も見えず、前夜話半ばに居眠をして行つた小供連と、鍛冶屋の重兵衛、三太が二三人朋輩を伴れて来た。その若者が何なに彼かと冷ひや評かしかけるのを、眇めつ目かちの重兵衛が大きい眼玉を剥むいて叱り付けた。そして、自分一人夜更まで残つた。
三日目は、午ひる頃ごろ来からの雨、蚊が皆家の中に籠つた点ひと燈もし頃ごろに、重兵衛一人、麦煎餅を五銭代許り買つて遣つて来た。大体の話は為して了つたので、此夜は主に重兵衛の方から、種々の問を発した。それが、人間は死ねば奈ど何うなるとか、天理教を信ずるとお寺詣りが出来ないとか、天理王の命みことも魚籃観音の様に、仮に人間の形に現れて蒼ひ生とを済度する事があるかとか、概して教理に関する問題を、鹿爪らしい顔をして訊くのであつたが、松太郎の煮切らぬ答弁にも多少得る所があつたかして、
﹃然うするとな、先生、︵と、此時から松太郎を恁かう呼ぶ事にした、︶俺にも余よつ程ぽと天理教の有難え事が解つて来た様だな。耶蘇は西洋、仏様は天竺、皆みんな渡わた来りも物のだが、天理様は日本で出来た神様だなツす？﹄
﹃左様さ。兎角自国のもんでないと悪いでな。加それ之に何なのぢや、それ、国くに常とこ立たち尊のみこと、国くに狭のさ槌づち尊のみこと、豊とよ斟くむ渟ぬの尊みこと、大おほ苫とま辺べの尊みこと、面おも足だる尊のみこと、惶かし根こね尊のみこと、伊いざ弉なぎ諾のみ尊こと、伊いざ弉なみ冊のみ尊こと、それから大おほ日ひる霊めの尊みこと、月つき夜よみ見のみ尊こと、この十とは柱しらの神様はな、何れも皆立派な美徳を具へた神様達ぢやが、わが天理王の命と申すは、何と有難い事でな、この十柱の神様の美徳を悉しつ皆かい具へて御座る。﹄
﹃成程。それで何かな、先生、お前めえ様さまは一人でも此村に信者が出来ると、何処へも行かねえて言つたけが、真ほん箇とかな？ それ聞かねえと意とん外だブマ見るだ。﹄
﹃真箇ともさ。﹄
﹃真箇かな？﹄
﹃真箇ともさ。﹄
﹃愈々真箇かな？﹄
﹃ハテ、奈何して嘘なもんかなア。﹄と言ひは言つたが、松太郎、余り諄くどく訊かれるので何がなしに二の足を踏みたくなつた。
﹃先生、そンだらハア、﹄と、重兵衛は突いき然なり膝を乗出した。﹃俺おらが成つてやるだ。今夜から。﹄
﹃信者にか？﹄と、鈍い眼が俄かに輝く。
﹃然うせえ。外に何になるだア！﹄
﹃重兵衛さん、そら真箇かな？﹄と、松太郎は筒抜けた様な驚喜の声を放つた。三日目に信者が出来る、それは渠の全く予想しなかつた所、否、渠は何時、自分の伝道によつて信者が出来るといふ確信を持つた事があるか？
この鍛冶屋の重兵衛といふのは、針の様な髯を顔一面にモヂヤモヂヤさした、それはそれは逞しい六尺近の大男で、左の眼が潰れた、﹃眇めつ目こ鍛か冶ぢ﹄と小供等が呼ぶ。齢は今年五十二とやら、以も前と十里許り離れた某町に住つてゐたが、鉈、鎌、鉞まさかりなどの荒道具が得意な代り、此人の鍛うつた包丁は刃が脆いといふ評判、結局は其土地を喰詰めて、五年前にこの村に移つた。他たし所よも者のといふが第一、加それ之に、頑いつ固こくで、片意地で、お世辞一つ言はぬ性たちなもんだから、兎角村人に親したしみが薄い。重兵衛それが平ひご生ろの遺恨で、些ちよいとした手紙位は手づから書けるを自慢に、益々頭が高くなつた。規きま定り以外の村の費いり目めの割当などに、最まつ先さきに苦情を言出すのは此人に限る。其処へ以て松太郎が来た。聴いて見ると間違つた理屈でもなし、村寺の酒さけ飲のみ和おし尚やうよりは神々の名も沢山に知つてゐる。天理様の有難味も了のみ解こんで了のみ解こめぬことが無ささうだ。好よ矣し、俺おらが一番先に信者になつて、村の衆の鼻毛を抜いてやらうと、初めて松太郎の話を聴いた晩に寝床の中で度胸を決めて了つたのだ。尤も、重兵衛の遠縁の親戚が二軒、遙ずつと隔つた処にゐて、既とうから天理教に帰依してるといふ事は、予かねて手紙で知つてもゐ、一昨年の暮弟の家に不幸のあつた時、その親戚からも人が来て重兵衛も改宗を勧められた事があつた。但し此事は松太郎に対して噎おくびにも出さなかつた。
翌朝、松太郎は早速○○支部に宛てて手紙を出した。四五日経つて返書が来た。その返書は、松太郎が逸いち早はやく信者を得た事を祝して其伝道の前途を励まし、この村に寄留したいといふ希望を聴ゆ許るした上に、今後伝道費として毎月金五円宛送る旨を書き添へてあつた。松太郎はそれを重兵衛に示して喜ばした上で、恁かういふ相談を持掛けた。
﹃奈ど何うだらうな、重兵衛さん。三国屋に居ると何の彼ので日に十五銭宛貪とられるがな。そすると月に積つて四円五十銭で、私わしは五十銭しか小遣が残らなくなるでな。些すこし困るのぢや。私わしは神様に使はれる身分で、何も食物の事など構はんのぢやが、稗ひえ飯めしでも構はんによつて、モツト安く泊める家うちがあるまいかな。奈何だらうな、重兵衛さん、私わしは貴あん方た一人が手たよ頼りぢやが……﹄
﹃然うだなア！﹄と、重兵衛は重々しく首を傾かしげて、薪まき雑ざつ棒ぼうの様な両腕を拱こまねいだ。月四円五十銭は成程この村にしては高い。それより安くても泊めて呉れさうな家が、那あそ家こ、那あそ家こと二三軒心に無いではない。が、重兵衛は何事にまれ此方から頭を下げて他ひ人とに頼む事は嫌ひなのだ。
翌朝、家が見付かつたと言つて重兵衛が遣つて来た。それは鍛冶屋の隣りのお由よし寡やも婦めが家、月三円で、その代り粟八分の飯で忍がま耐んしろと言ふ。口に似合はぬ親切な野おや爺ぢだと、松太郎は心に感謝した。
﹃で、何かな、そのお由といふ寡やも婦めさんは全くの独ひと身りず住みかな？﹄
﹃然うせえ。﹄
﹃左様か。それで齢は老とつてるだらうな？﹄
﹃ワツハハ。心しん配ぺいする事ア無ねえ、先生。齢ア四十一だべえが、村一番の醜みた婦くなしの巨おほ女をなごだア、加それ之にハア、酒を飲めば一升も飲むし、甚どん男も手てや余ましにする位くれいの悪ごん酔ぼう語ほ堀りだで。﹄と、嚇かす様に言つたが、重兵衛は、眼を円くして驚く松太郎の顔を見ると俄かに気を変へて、
﹃そだどもな、根が正直者だおの、結句気楽な女をなごせえ喃なあ。﹄
善は急げと、其日すぐお由の家に移う転つつた。重兵衛の後に跟ついて怖おづ々おづ入つて来る松太郎を見ると、生なま柴しばを大おほ炉ろに折をり燻くべてフウフウ吹いてゐたお由は、突いき然なり、
﹃お前めえが、俺おら許どこさ泊めて呉けろづな？﹄と、無遠慮に叱る様に言ふ。
﹃左様さ。私わしはな……﹄と、松太郎は少すこ許し狼うろ狽たへて、諄くど々くど初対面の挨拶をすると、
﹃何なあ有にハア、月々三両せえ出せば、死くたばるまででも置いて遣やべえどら。﹄
移ひつ転こし祝いはひの積りで、重兵衛が酒を五合買つて来た。二人はお由にも天理教に入ることを勧めた。
﹃何なあ有にハア、俺おらみたいな悪あく党たう女をなごにや神様も仏様も死くたばる時で無ねえば用ア無えどもな。何だべえせえ、自分の居をツ家とこが然そでなかつたら具ぐあ合えが悪かんべえが？ 然そだらハア、俺おらア酒え飲むのさ邪魔さねえば、何どつ方ちでも可いいどら。﹄
と、お由は、黒おは漿ぐろの剥げた穢い歯を露むき出だしにして、ワツハヽヽと男の様に笑つたものだ。鍛冶屋の門かどと此の家の門に、﹃神道天理教会﹄と書いた、丈たけ五寸許りの、硝子を嵌はめた表札が掲げられた。
二三日経つてからの事、為しや様うこ事となしの松太郎はブラリと宿を出て、其処此処に赤い百合の花の咲いた畑はた径けみちを、唯一人東山へ登つて見た。何の風情もない、饅まん頭ぢう笠がさを伏せた様な芝山で、逶うねした径みちが嶺いただきに尽きると、太い杉の樹が矗すく々すくと、八九本立つてゐて、二間四方の荒れ果てた愛宕神社の祠ほこら。
その祠の階だ段んに腰を掛けると、此処よりは少すこ許し低目の、同じ形の西山に真まと面もに対むか合ひあつた。間が浅い凹くぼ地ちになつて、浮世の廃道と謂つた様な、塵白く、石多い、通とほ行り少い往還が、其底を一まし直ぐ線らに貫いてゐる。両ふたつの丘お陵かは中腹から耕されて、夷なだらかな勾配を作つた畑が家々の裏口まで迫つた。村が一目に瞰みお下ろされる。
その往還にも、昔は、電信柱が行儀よく列んで、毎日午ひる近くなると、調子面白い喇ラツ叭パの音を澄んだ山さん国ごくの空気に響かせて、赤く黄く塗つた円太郎馬車が、南から北から、勇しくこの村に躍込んだものだ。その喇叭の音は、二十年来礑はたと聞こえずなつた。隣村に停車場が出来てから通とほ行りが絶えて、電信柱さへ何日しか取とり除のぞかれたので。
その時こ代ろは又、村に相応な旅はた籠ご屋やも三四軒あり、俥も十輛近くあつた。荷馬車と駄馬は家毎の様に置かれ、畑仕事は女の内職の様に閑却されて、旅人対あひ手ての渡世だけに収みい入りも多く人気も立つてゐた。夏になれば氷屋の店も張られた。――それもこれも今は纔わづかに、老とし人より達たちの追むか憶しば談なしに残つて、村は年毎に、宛さな然がら藁火の消えてゆく様に衰へた。生なり業はひは奪はれ、税金は高くなり、諸式は騰あがり、増えるのは小供許り。唯たつた一輛残つてゐた俥の持主は五年前に死んで曳く人なく、轅かじの折れた其俥は、遂この頃まで其そ家この裏井戸の側わきで見懸けられたものだ。旅籠屋であつた大きい二階建の、その二階の格子が、折れたり歪んだり、昼でも鼠が其処に遊んでゐる。今では三国屋といふ木賃が唯一軒。
松太郎は、其そん事は知らぬ。血の気の薄い、張合の無い、気きや病みの後の様な弛たるんだ顔に眩まぶしい午後の日を受けて、物珍らし相にこの村を瞰みお下ろしてゐると、不図、生うま村れむらの父おや親ぢの建てた会堂の丘から、その村を見渡した時の心地が胸に浮んだ。
取留のない空想が一図に湧いた。愚さの故でもあらう、汗ばんだ、生き甲斐のない顔か色ほが少許色ばんで、鈍い眼も輝いて来た。渠かれは、自おの己れ一人の力でこの村を教化し尽した勝利の暁の今迄遂ぞ夢にだに見なかつた大いなる歓よろ喜こびを心に描き出した。
﹁会堂が那あそ処こに建つ！﹂と、屹きつと西山の嶺いただきに瞳を据ゑる。
﹁然うだ、那処に建つ！﹂恁かう思つただけで、松太郎の目には、その、純まつ白しろな、絵に見る城の様な、数知れぬ窓のある、巍ぎぜ然んたる大殿堂が鮮かに浮んで来た。その高い、高い天や蓋ねの尖とん端がり、それに、朝日が最初の光を投げ、夕日が最後の光を懸ける……。
渠は又、近所の誰彼、見みし知りご越しの少年共を、自分が生村の会堂で育てられた如く、育てて、教へて……と考へて来て、周あた囲りに人無きを幸ひ、其等に対する時の厳おごそかな態度をして見た。
﹃抑そも々そも天理教といふものはな――﹄
と、自分の教へられた支部長の声色を使つて、眼前の石いし塊ころを睨んだ。
﹃すべて、私わた念くしといふ陋さも劣しい心があればこそ、人ひ間とは種いろ々いろの悪あしき企たく画らみを起すものぢや。罪あし悪きの源は私わた念くし、私念あつての此世の乱れぢや。可いいかな？ その陋さも劣しい心を人ひ間との胸から攘はらひ浄めて、富めるも賤きも、真に四民平等の楽天地を作る。それが此教の第一の目的ぢや。解つたぞな？﹄
恁う言ひ乍ら、渠はその目を移して西山の巓いただきを見、また、凹くぼ地ちの底の村を瞰下した。古いに昔しへの尊き使徒が異教人の国を望んだ時の心地だ。圧おし潰つぶした様に二ふた列ならびに列んだ茅葺の屋根、其処からは鶏の声が間を置いて聞えて来る。
習そよとの風も無い。最さな中かす過ぎの八月の日ひか光げが躍るが如く溢れ渡つた。気が付くと、畑々には人影が見えぬ。恰度、盆の十四日であつた。
松太郎は、何がなしに生甲斐がある様な気がして、深く深く、杉の樹や脂にの香る空気を吸つた。が、霎しば時らく経つと眩まぶしい光に眼が疲れてか、気が少し、焦立つて来た。
﹃今に見ろ！ 今に見ろ！﹄
這こん事を出任せに口走つて見て、渠はヒヨクリと立上り、杉の根方を彼あち方らこ此ち方ら、態わざと興奮した様な足あし調どりで歩き出した。と、地じべ面たに匐のたくつた太い木根に躓つまづいて、其機はず会みにまだ新しい下駄の鼻緒が、フツリと断きれた。チヨツと舌した鼓うちして蹲しや踞がんだが、幻まぼ想ろしは迹あともなし。渠は腰に下げてゐた手拭を裂いて、長い事掛つて漸やう々やうそれをすげた。そしてトボトボと山を下つた。
穂の出で初そめた粟畑がある。ガサ〳〵と葉が鳴つて、
﹃先生様ア！﹄
と、若々しい娘の声が、突いき然なり、調から戯かふ様な調子で耳近く聞えた。松太郎は礑はたと足を留めて、キヨロキヨロ周あた囲りを見巡した。誰も見えない。粟の穂がフイと飛んで来て、胸に当つた。
﹃誰だい？﹄
と、渠は少すこ許し気味の悪い様に呼んで見た。カサとの音もせぬ。
﹃誰だい？﹄
二度呼んでも返こた答へが無いので、苦笑ひをして歩き出さうとすると、
﹃ホホヽヽ。﹄
と澄んだ笑声がして、白手拭を被つた小娘の顔が、二三間隔へだたつた粟の上に現れた。
﹃何ぞ、お常ツ子かい！﹄
﹃ホホヽヽ。﹄と再また笑つて、﹃先生様ア、お前めえ様さま狐踊踊るづア、今こん夜にや俺おらと一緒に踊らねえすか？ 今こん夜にやから盆だず。﹄
﹃フフヽヽ。﹄と松太郎は笑つた。そして急しく周囲を見廻した。
﹃なツす、先生様ア。﹄とお常は厭あく迄まで曇りのないクリクリした眼で調から戯かつてゐる。十五六の、色の黒い、晴やかな邪あど気け無ない小娘で、近所の駄菓子屋の二番目だ。松太郎の通と行ほる度、店先にゐさへすれば、屹度この眼で調から戯かふ。落なん花きん生まめの殻を投げることもある。
渠は不図、別な、全く別な、或る新しい生甲斐のある世界を、お常のクリクリした眼の中に発見した。そして、ツイと自分も粟畑の中に入つた。お常は笑つて立つてゐる。松太郎も、口元に痙ひき攣つつた様な笑ひを浮べて胸に動悸をさせ乍ら近づいた。
この事あつて以来、松太郎は妙に気がソワついて来て、暇さへあれば、ブラリと懐ふと手ころでをして畑はた径けみちを歩く様になつた。わが歩いてる径の彼方から白手拭が見える、と、渠かれは既もうホクホク嬉しくてならぬ。知らんか振りをして行くと、娘共は屹度何か調から戯かつて行き過ぎる。
﹃フフヽヽ。﹄
と恁かうマア、自分の威厳を傷けぬ程度で笑つたものだ。そして、家に帰ると例いつになく食慾が進む。
近所の人々とも親みがついた。渠の仕事は、その人々に手紙の代筆をして呉れる事である。日が暮れると鍛冶屋の店へ遊びに行く。でなければ、お常と約束の場所で逢ふ。お由が何ど家こかへ振舞酒にでも招よばれると、密こつ乎そりと娘を連れ込む事もある。娘の帰つた後、一人ニヤニヤと可い厭やな笑方をして、炉端に胡あぐ坐らをかいてると、屹度、お由がグデングデンに酔払つて、対手なしに悪あく言たいを吐つき乍ら帰つて来る。
﹃何だ此こん畜ちき生しやう奴め、汝うぬア何なん故しや此こ家こに居る？ ウン此狐きつ奴ねめ、何だ？ 寝ろ？ カラ小癪な！ 黙れ、この野郎。黙れ黙れ、黙らねえか？ 此畜生奴、乞ほい食ど、癩ど病す、天理坊主！ 早しら速からと出て行け、此畜生奴！﹄
突いき然なり、這こん事を口汚く罵つて、お由はドタリと上あが框りかまちの板敷に倒れる。
﹃マア、マア。﹄
と言つた調子で、松太郎は、継まま母ははでも遇あしらふ様に、寝床の中に引擦り込んで、布団をかけてやる。渠は何い日つしか此女を扱ふ呼こ吸つを知つた。悪あく口たいは幾いく何ら吐ついても、別に抗てむ争かふ事はしないのだ。お由は寝床に入つてからも、五分か十分、勝手放題に怒鳴り散らして、それが息やむと、太たい平へいな鼾いびきをかく。翌朝になれば平けろ然りとしたもの。前夜の詫を言ふ事もあれば言はぬ事もある。
此家の門と鍛冶屋の門の外には、﹃神道天理教会﹄の表札が掲げられなかつた。松太郎は別段それを苦に病むでもない。時とき偶たま近所へ夜話に招ばれる事があれば、役目の説はな教しもする。それが又、奈ど何うでも可いと言つた調子だ。或時、痩やせ馬ばく喰らうの嬶かかあが、小供が腹を病んでるからと言つて、御おそ供なへ水みづを貰ひに来た。三四日経つと、麦煎餅を買つて御礼に来た。後で聞けばそれは赤痢だつたといふ。
二百十日が来ると、馬のある家では、泊とま懸りがけで馬ばれ糧うの萩を刈りに山へ行く。その若者が一人、山で病やみ付ついて来て医いし師やにかかると、赤痢だと言ふので、隔離病舎に収容された。さらでだに、岩手県の山中に数ある痩村の中でも、珍しい程の貧乏村、今年は作が思はしくないと弱つてゐた所へ、この出来事は村中の顔を曇らせた。又一人、又一人、遂に忌いまはしき疫やまひが全村に蔓延した。恐しい不安は、常でさへ巫いた女こを信じ狐を信ずる住ひと民びとの迷信を煽あふり立てた。御おそ供なへ水みづは酒屋の酒の様に需要が多くなつた。一月余の間うちに、新しい信者が十一軒も増えた。松太郎は世の中が面白くなつて来た。
が、漸だん々だん病勢が猖さか獗んになるに従つれて、渠自身も余り丈夫な体ではなし、流石に不安を感ぜぬ訳に行かなくなつた。其時思出したのは、五六年前――或は渠が生うま村れむらの役場に出てゐた頃かも知れぬ――或新聞で香かう竄ざん葡ぶど萄うし酒ゆの広告の中に、伝染病予防の効能があると書いてあつたのを読んだ事だ。渠は恁ういふ事を云出した。﹃天理様は葡萄酒がお好きぢや。お好きな物を上げてお頼みするに病気なんかするものぢやないがな。﹄
流石に巡査の目を憚はばかつて、日が暮れるのを待つて御おそ供なへ水みづを貰ひに来る嬶かか共あどもは、有な乎け無な乎しの小袋を引ひつ敝ぱたいて葡萄酒を買つて来る様になつた。松太郎はそれを犠にへ卓づくゑに供へて、祈祷をし、御神楽を踊つて、その幾滴を勿体らしく御供水に割つて、持たして帰す。残つたのは自分が飲むのだ。お由の家の台所の棚には、葡萄酒の空瓶が十八九本も並んだ。
奈ど何うしたのか、鍛冶屋の音ひび響きも今夜は例いつになく早く止んだ。高く流るる天の河の下に、村は死骸の様に黙してゐる。今し方、提灯が一つ、フラフラと人魂の様に、役場と覚しき門から迷ひ出て、半町許りで見えなくなつた。
お由の家の大炉には、チロリチロリと焚火が燃えて、居並ぶ種々の顔を赤く黒く隈取つた。近所の嬶共が三四人、中には一番遅れて来たお申さる婆ばばあも居た。
祈祷も御神楽も済んだ。松太郎はトロリと酔つて了つて、だらしなく横よこ座ざに胡あぐ坐らをかいてゐる。髪の毛の延びた頭がグラリと前に垂れた。葡萄酒の瓶がその後に倒れ、漬物の皿、破かけ茶ぢや碗わんなどが四あた辺りに散ちら乱ばつてゐる。﹃其そんに痛えがす？ お由よし殿どな、寝だら可えがべす。﹄
と、一人の顔のしやくんだ嬶が言つた。
﹃何なあ有に！﹄
恁かう言つて、お由は腰に支かつた右手を延べて、燃え去つた炉の柴を燻くべる。髪のおどろに乱れかかつた、その赤黒い大きい顔には、痛みを怺こらへる苦くる痛しみが刻まれてゐる。四十一までに持つた四人の夫、それを皆追おん出だして遣つた悪党女ながら、養子の金作が肺病で死んで以来、口は減らないが、何処となく衰へが見える。乱れた髪には白いのさへ幾筋か交つた。
﹃真ほん箇とだぞえ。寝れば癒るだあに。﹄とお申婆も口を添へる。
﹃何なあ有に！﹄とお由は又言つた。そして、先さつ刻きから三度目の同じ弁いひ疏わけを、同じ様な詰らな相な口調で付加へた、﹃晩方に庭の台ど木ぎさ打ぶん倒のめつて撲ぶつたつけア、腰ア痛くてせえ。﹄
﹃少し揉んで遣べえが﹄とお申さる。
﹃何なあ有に！﹄
﹃ワツハハ。﹄懶けだるい笑方をして、松太郎は顔を上げた。
﹃ハツハハ。酔へエばアア寝たくなアるウ、︵と唄ひさして、︶寝れば、それから何だつけ？ 、何だつけ？ ハツハハ。あしきを攘はらうて救けたまへだ。ハツハハ。﹄と、再またグラリとする。
﹃先生様ア酔つたなツす。﹄と、……皺くちやの一人が隣へ囁いた。
﹃真ほん箇とにせえ。帰けえるべえが？﹄と、その又隣りのお申おさ婆るばあへ。
﹃まだ可えがべえどら。﹄と、お由が呟く様に口を入れた。
﹃こら、家うちの嬶、お前は何故、今夜は酒を飲まないのだ。﹄と松太郎は再また顔を上げた。舌もよくは廻らぬ。
﹃フム。﹄
﹃ハツハハ。さ、私わしが踊ろか。否いいや、酔つた、すつかり酔つた。ハハ。神がこの世へ現はれて、か。ハツハハ。﹄と、坐つた儘で妙な手付。
ドヤドヤと四五人の跫音が戸そ外とに近いて来る。顔のしやくつたのが逸早く聞耳を立てた。
﹃また隔離所さ誰か遣られるな。﹄
﹃誰だべえ？﹄
﹃お常ツ子だべえな。﹄と、お申婆が声を潜めた。﹃先さき刻た、俺ア来る時どき、巡査ア彼あす家こへ行つたけどら。今日検査の時ア裏の小屋さ隠れたつけア、誰か知らせたべえな。昨きの日なから顔つら色いろア悪くてらけもの。﹄
﹃そんでヤハアお常ツ子も罹かかつたアな。﹄と囁いて、一みん同なは密そつと松太郎を見た。お由の眼玉はギロリと光つた。
松太郎は、首を垂れて、涎よだれを流して、何か﹃ウウ﹄と唸つてゐる。
跫音は遠く消えた。
﹃帰けえるべえどら。﹄と、顔のしやくつたのが先づ立つた。松太郎は、ゴロリ、崩れる如く横になつて了つた。
それから一時間許り経つた。
松太郎はポカリと眼を覚ました。寒い。炉の火が消えかかつてゐる。ブルツと身みぶ顫るひして体を半分擡もたげかけると、目の前にお由の大きな体が横たはつてゐる。眠つたのか、小こゆ動るぎもせぬ。右の頬ほつ片ぺたを板敷にベタリと付けて、其顔を炉に向けた。幽かすかな火あか光りが怖しくもチラチラとそれを照らした。
別の寒さが松太郎の体中に伝はつた。見よ、お由の顔！ 歯を喰絞つて、眼を堅く閉ぢて、ピリピリと眼尻の筋に肉くが痙ひき攣つけてゐる。髪は乱れたまま、衣きも服のも披はだかつたまま……。
氷の様な恐怖が、松太郎の胸に斧の如く打込んだ。渠は今、生れて初めて、何の虚飾なき人生の醜みに悪くさに面相接した。酒に荒んだ、生殖作用を失つた、四十女の浅あさ猿ましさ！
松太郎はお由の病苦を知らぬ。
﹃ウ、ウ、ウ。﹄
とお由は唸つた。眼が開き相だ。松太郎は何と思つたか、再またゴロリと横になつて、眼を瞑つぶつて、呼い吸きを殺した。
お由は二三度唸つて、立上つた気けは勢ひ。下腹が疼しびれて、便気の塞そく逼はくに堪へぬのだ。眤じつと松太郎の寝姿を見乍ら、大儀相に枕まく頭らを廻つて、下駄を穿いたが、その寝姿の哀れに小さく見すぼらしいのがお由の心に憐あは愍れみの情こころを起させた。俺が居なくなつたら奈ど何うして飯を食ふだらう？ と思ふと、何がなしに理由のない憤いか怒りが心を突く。
﹃ええ此嘘うそ吐つ者き、天理も糞も……﹄
これだけを、お由は苦し気に怒鳴つた。そして裏口から出て行つた。
渠は、ガバと跳び起きた。そして後をも見ずに次の間に駆け込んで、布団を引出すより早く、其中に潜もぐり込んだ。
間もなくお由は帰つて来た。眠つてゐた筈の松太郎が其処に見えない。両手を腹に支かつて、顔を強く顰しかめて、お由は棒の様に突立つたが、出でが掛けに言つた事を松太郎に聞かれたと思ふと、言ふ許りなき怒気が肉体の苦くる痛しみと共に発した。
﹃畜生奴！﹄と先づ胴間声が突走つた。﹃畜生奴！ 狐！ 嘘うそ吐つ者き！ 天理坊主！ よく聴け、コレア、俺ア赤痢に取付かれたぞ。畜生奴！ 嘘吐者！ 畜生奴！ ウン……﹄
ドタリとお由が倒のめつた音。
寝床の中の松太郎は、手足を動かすことを忘れでもした様に、ビクとも動かぬ。あらゆる手たよ頼りの綱が一度に切れて了つた様で、暗い暗い、深い深い、底の知れぬ穴の中へ、独ぼつちの魂が石いし塊ころの如く落ちてゆく、落ちてゆく。そして、堅く瞑つぶつた両眼からは、涙が滝の如く溢れた。滝の如くとは這こん時に形容する言葉だらう。抑へても溢れる。抑へようともせぬ。噛りついた布団の裏も、枕も、濡れる、濡れる、濡れる。…………
︵明治四十一年十二月四日脱稿︶
︹生前未発表・明治四十一年十一月〜十二月稿︺