永えい禄ろく四年の夏のことであった。夕陽の落ちたばかりの長なが良らが川わの磧かわらへ四人伴づれの鵜うか飼いが出て来たが、そのうちの二人は二羽ずつの鵜を左右の手てさ端きにとまらし、後あとの二人のうちの一人は艪ろを肩にして、それに徳とく利りや椀わんなどを入れた魚び籃くを掛け、一人は莚むし包ろづつみを右の小こわ脇きに抱え、左の小脇に焼たい明まつの束を抱えていた。皆同じように襤ぼろ褸じゅ襦ば袢んを一枚着て腰こし簔みのをつけていたが、どこか体のこなしにきりっとしたところがあって、ぬらくらした土地の漁師のようでなかった。 そこは長良川の西岸で、東岸には稲いな葉ばや山まが黄ゆう昏ぐれの暗い影を曳ひいてそそり立っていたが、その頂いただきの城しろ櫓やぐらの白壁には、夕陽の光がちらちらと動いていた。長良川の水はそのあたりで東岸に迫って流れ、西岸には広びろとした磧を見せていた。四人の鵜飼のうちで鵜を持ったほうの一人は、四十前後の痩やせぎすな男で、一人は三十五六の角かく顔がおの体のがっしりした男であった。そして、莚包と焼明を持っているのは、三十前後の背の高い鋭い眼まなこをした男で、艪ろを持っているのは、五十前後の背のずんぐりした白しら髪がの目だつ男であった。四人は昼の暑さのために葉を巻いていた川かわ柳やなぎがだらりと葉を延ばして、ひと呼い吸きつこうとでもしているように思われる処を通って、下しも手ての方へ往った。暑い陽ひを吸うていた磧かわらの沙すなは鬼き魅み悪くほかほかしていた。その時莚むし包ろづつみと焼たい明まつを持って背の高い男が、鵜うを持った角顔の男のほうを見て、 ﹁鮎あゆを獲とりたいものじゃが﹂ と云った。すると角顔の男は前ぜん岸がんの樹木の茂みの方をちらと見て、 ﹁獲れるとも、この鵜さえうまく使えば﹂ と、云って顔で笑った。その拍子に右の手にとまった鵜が飛びたつように羽ばたきをした。莚包と焼明を持った背の高い男も前岸の方へちらと眼をやって、 ﹁そうじゃ、鵜さえうまく使えば、鮎は獲れるに定きまっておる、鵜をうまく使うがかんじんじゃ﹂ と、これも顔で笑った。前岸の樹木の間には黒い大きな瓦屋根が微かすかに黒く見えていた。それは日蓮宗法ほう国こく寺じに属する法ほっ華け寺じの別院であった。他の二人の眼もちらとそれに往った。 本流から岐わかれた一ひと条すじの流れが斜ななめに来て磧かわらの裾すそで岸の竹たけ藪やぶに迫っていたが、そこには二三艘そうの小舟が飛とびとびに繋つないであった。四人はその小舟の方へ往った。莚包と焼明を持った背の高い男は、また鵜を持った角顔の男の方を見て、 ﹁寺へ入って和おし尚ょうのような真ま似ねをしておるが、あの痴しれ漢もののことじゃ、どんな用心をしておるかも判らん﹂ と云いかけたところで、艪ろを持っていた男が遮さえぎって、 ﹁鮎の用心なら知れたものじゃ、鮎の話は、まあ、舟へ乗ってからにしよう﹂ と云った。それを聞くと莚むし包ろづつみと焼たい明まつを持った背の高い男は、首を縮すくめるようにして口をつぐんでしまった。そして、一行は無言になって磧かわらの裾すそへ往った。 そこにはもう他に一組の鵜うか飼いがいて、がやがやと云いながら一艘そうの舟をだしているところであった。四あた方りはもうすっかりと暮れていた。 ﹁もう舟を出している者がある、後おくれないように出そう﹂ 艪ろを持っていた男がそう云い云い艪を舟の中へ入れた。すると莚包と焼明を持った男が、その手荷物を舟の中へ入れて、 ﹁それでは舟を出そう﹂ と、云って竹藪の竹の根本を縛ってある縄のほうへ往った。底の浅い川舟は、やがてその底をざらざらと小石に当てながら流れに浮んだ。 星がまばらに見えだした。莚包と焼明を持っていた背の高い男の点つけた焼明の火が舳へさきにとろとろと燃えだした。小舟は本流へ入って法華寺の別院の前を上流の方へ向っていた。 焼明の火は川のそこここに燃えだした。もう鵜飼がはじまったのであった。彼かの鵜飼の一行も鵜を水に入れた。角顔の体のがっしりした男が舳へさきの鵜うじ匠ょうになり、痩やせぎすな男が中の鵜匠になり、背の高い眼の鋭い男が工さおとりとなり、背のずんぐりした白しら髪がの眼立っていた男が舟ふな乗のりとなって艪ろを漕こいでいた。二人の鵜匠にあやつられている鵜は、水の中に潜もぐっては浮きあがり、浮きあがっては潜って魚うおを獲とった。鵜の口を逃れた魚はきらきらと腹をかえして、中には飛ぶのもあった。そして、鵜が四五尾ひきの魚を喉のどに入れたと思う比ころを見はからって、鵜匠は手てな縄わを曳ひいて舟に曳き寄せ、ぐいとその喉を絞って魚うおを執とるのであった。魚を吐かされてまた魚を覘ねらって往く鵜うの眼は青く澄んでいた。 五六艘そうの鵜飼舟が云いあわしたように一列になった。舟乗りとなっている男は大きな声で云った。 ﹁もうよかろう、それ位ありゃ、肴さかなにゃ十分じゃ、いいかげんに、無むえ益きな殺せっ生しょうはやめようじゃないか﹂ すると工さおとりとなっていた背の高い男が云った。 ﹁そうじゃ、そうじゃ、無益な殺生はやめよう、やめて早う一杯やろう﹂ 舳へさきの鵜うじ匠ょうはちょとふり返って中の鵜匠の顔を見て、 ﹁そうじゃなあ、これ位ありゃ、肴は十分ある﹂ と云った。中の鵜匠はすぐ応じた。 ﹁やめてもよかろう、やめて別院の下の涼すずしいところへ往って、一杯やるとしょうか﹂ 舳の鵜匠はまた云った。 ﹁よかろう、別院の下なら涼しかろう﹂ 二人の鵜匠は手縄を曳ひいて鵜を舟にあげた。労ろう役えきを終った鵜は嬉しそうにそれぞれ羽ばたきをして、大きな喉のどを川風にふくらました。 ﹁それでは別院の下へ往くとしょうか﹂ 舟乗りとなっている男はそう云って舟の方向をぐるりとかえ、別院の方へ向けた。 ﹁この世せち智が辛らい世の中に、皆、いい気なものじゃ﹂ 右隣の舟から笑う声が舟乗りとなっている男の耳にはいった。 ﹁隣の舟で笑っている﹂ 流れに随したがって下る舟は早かった。舟はみるみる別院の下へ往った。そこは断崖になって樹木の根が処どころに垂れていた。舟はその断崖の下へ流れかかるように寄って往った。 ﹁磧かわらなら焼やき鮎あゆができるが、ここじゃ、膾なますより他にはできない、膾でやろう﹂ ﹁それでは料理をしようか﹂ 舟の火は何い時つの間にか消えてしまった。それと共に舟の中もしんとなったが、しばらくして小さな声が起った。 ﹁これで門かど出での杯さかずきはすんだ、出かけよう、油断して痴しれ漢ものを討うちもらすな﹂ それは舟乗りとなっていた男の声であった。舟の中ではもそもそと物の気配がしはじめたが、やがてひっそりとなった。 稲葉山の城主斎さい藤とう義よし竜たつは、法華寺の別院で涼りょうをとっていた。小こぶ肥と満りのした体を脇きょ息うそくにもたして、わざと燈ひを遠くの方へ置きながら、二人の少女に後うしろから煽あおがし、庭の樹木の間から見える鵜うか飼いの火を見るともなしに見ているところであった。 義竜は弘こう治じ二年の春、庶しょ腹ふくの兄弟喜きへ平い次じ、孫まご四しろ郎うの二人を殺し、続いて父道どう三さんと鷺さぎ山やまに戦たたこうて父を滅ほろぼしてからは、美み濃のの守護として得意の絶頂に立っていたが、夏の間は水浴を一日も欠かすことができないので、この数年来、夏が来ると密ひそかにこの別院に隠れて、冷たい清水の湧わく庭てい前ぜんの池に水浴するのであった。 ﹁小こは萩ぎは来て肩を打て﹂ 義竜がちょと体をずらして云ったので、左の後にいた少女が団うち扇わを置いて、 ﹁は﹂ と、云って起たちながら、そのまま傍へ寄って小さな拳こぶしを右の肩かた端さきへ持って往った。と、そのとき微かすかな物の気配がした。義竜が不思議に思って顔をあげた時、庭てい前ぜんにちらちらと人影が動いた。 ﹁何者だ﹂ 同時に縁側にどかどかとあがった者があった。それはかの鵜うか飼いの四人であった。皆さっきのままのなりで、手に手に白はく刃じんを持っていた。 ﹁悪あく逆ぎゃ無くむ道どうの親おや殺ごろしを討ちとりにまいった者じゃ、道どう家けま孫ごは八ちろ郎うの伜せがれ孫まご太たろ郎うでござる﹂ それは背の高い眼の鋭い男であった。 ﹁拙せっ者しゃは長なが井い与よ右え衛も門んでござる﹂ それは痩やせぎすな男であった。 ﹁篠しの山やま七しち五ごろ郎う﹂ それは角顔の男であった。 ﹁拙者は竹たけ腰のこ藤しと九うく郎ろうでござる、お首しるしを頂ちょ戴うだいして、先せん君くん道三入にゅ道うど殿うどのの修しゅ羅らの妄もう執しゅうを晴らす存念でござる﹂ それは背のずんぐりした白しら髪がの眼だった男であった。皆道三の臣しんで悪逆無道の義竜を殺しに来たところであった。皆きっさきを集めて躍おどりかかろうとした。二人の少女は叫んで逃げて往った。と、義竜の姿が忽こつ然ぜんと消えて、怪しい白はく刃じんが室へやの中に電光のようにきらきらと閃ひらめくと共に、長井と篠山がばたばたと斃たおれた。竹腰は驚いて横に刀を払ったが、払った拍子に己じぶんの刀が眼に見えない金属に触れてかちりと鳴った。それと同時に室の中に銀色の眼をきろきろと光らした一疋ぴきの大きな蟇がまが見えて、それがぴょんぴょんと飛んで縁側から飛びおり、暗い庭てい前ぜんの池の中へどぼんと云う重い音をさして飛び込んだ。 ﹁や﹂ 竹腰が怪しい蟇に注意の眼を向けた時、次の室に詰めていた義竜の近きん侍じが十人ばかり、ばらばらと飛び込んで来た。道家と竹腰は近侍の中にとり込められそうになった。 ﹁道家、時節を待とう﹂ 竹腰はそう云い云い己に向って来た壮わかい近侍の一人を斬きり斃たおして、ひらりと庭に飛びおり、池の傍から崖の木立の方へ逃げて姿を消した。 ﹁それ逃すな﹂ 道家も二人の近侍と斬り結んでいた刀を不意に引いて庭に逃げおり、崖の端はしに往くやいなや、 ﹁えい﹂ と、云う懸声と共に暗い川の中へ身を躍おどらした。 藪やぶだたみの中にある小さな祠ほこらの前に竹腰と道家が姿をあらわした。竹腰は木の根に縋すがって舟をおり、河の中に飛び込んだ道家を救いあげて、二人で舟を下流にやり、それからあがってきたところであった。 ﹁これからどこへ身を隠そう﹂ ﹁尾びし州ゅうへ往いって、織田殿に身を寄せてもよいが﹂ 二人は身のふり方に就ついて相談しはじめた。竹たけの葉はご越しには二つ三つの星が淋しそうにまたたいていた。 ﹁は、は、は、は、は﹂ 腹の底をさらけだしたような笑い声が鼻の前さきで起った。二人はびっくりして眼をった。そこにはよぼよぼした老人の姿があった。老人は己じぶんの背たけよりも長い杖つえにすがっていた。 ﹁魔者を討うちもらしたか、あれは、お前さん達の手にはちょと合わないよ、眼に見えない電いな光ずまが閃ひらめいて、二人は殺されてしまったな、かあいそうに、だが、銀色の眼のきろきろ光る蟇がまは見たろうな﹂ と、云って老人はまた笑って、 ﹁しかし、魔者は何い時つまでも増長することはできない、月に暈かさがかかって、北ほく斗との七しち星せいに白はく蛇じゃのような光がかかったのを見たら、翌朝、陽ひの出ないうちにここへ来るがよい、きっと思いをとげさしてやる﹂ 道家と竹腰は思わず地べたにつッぷした。 ﹁は﹂ ﹁は﹂ ﹁しかし、竹腰には縁がない、道家一人が来るがよかろう﹂ ﹁は﹂ ﹁は﹂ 二人は暫しばらくつッぷしていたが、それっきり老人の声がしないので、顔をあげてみるともうその姿はなかった。 竹腰と道家はそこから己じぶんの隠かくれ家がに帰って、不思議な老人に教えられた時機の来るのを待っていた。二人はその間の生たつ計きに野へ出て獣けものを狩かっていた。 その日も二人は弓を持って朝から出て、広い野の中をあちらこちらとあさっていたが、夕方、一匹の鹿を見つけたので、それを追っかけて往ったが、そのうちに鹿は逃げてしまって、どこへ往ったのか判らなくなった。 気が注ついてみると道家は己一人になっていて、竹腰の姿は見えなかった。彼はもと来た径みちと思われる林の下を引返して、 ﹁竹腰殿、竹腰殿﹂ と、声をあげて呼んでみたが、林の枝えだ葉はを吹く風の音ばかりで人ひと声ごえはしなかった。そして、幾いく等ら呼んでも返事がないので、隠れ家へ帰ろうと思って呼ぶことをよして歩いた。 林の下は暗かった。道家は早く林の下を出ようと思って歩いたが、朽くち落ちた下した枝えだが重なっていて足をとるので早くは歩けなかった。そして、やっとの思いで林を出てみると、広い草くさ原はらのむこうに円い真まっ紅かな月が出ていた。 月を見ると道家は、すぐ老人の詞ことばを思いだして暈かさに注意したが、うっすらした靄もやはあったが暈はなかった。道家はまたその草くさ原はらの中を歩いた。草原には荊いば棘らが閉じ、雑ぞう木きの枝が横よこたわっていて歩けなかった。 道家はひどく疲労を感じて来た。腰の皮かわ籠かごには用意の獣けだものの乾ほし肉にくがあるので空腹は気にしなかった。道家はどこか祠ほこらでもあれば一と眠りして帰ろうと思いだした。彼は眠れるような場所はないかと思って注意しいしい歩いた。 草の中から流れ出た小さな清水の流れがあった。喉のどのかわいている道家はいきなり蹲しゃがんで流れに口をつけた。そして、思うさま飲んで顔をあげたところで、すぐ眼のまえの樹木の陰に一軒の小こ家やがあって、そこから焚たき火びの光がもれていた。道家はひどく懐なつかしいのでそのほうへ歩いて往った。彼はべつにその家の中へ泊めてもらおうとは思わなかったが。 一人の老婆が炉いろりの側そばへ坐って炉にかけた鍋の下を焚たいていた。そして、その老婆の後うしろの方には顔の白い一人の女が坐っていた。 ﹁そつじながらお尋ねする、拙せっ者しゃは猟に往って路みちに迷った者じゃが、ここは何と云う処じゃ﹂ 道家が声をかけると老婆は顔をあげた。 ﹁それはさぞ、御ごな難ん儀ぎでございましょう、ここはかがみと云う処でございます、むさくろしい処でおかまいなければ、野の中の一軒家で、夜は涼しゅうございます、お泊りになってくださいませ﹂ ﹁それでは休ましてもらいたい、食たべ物ものは持参しておる﹂ ﹁どうぞお入りくださいませ﹂ ﹁しからば、一時とき休ましてもらおう﹂ 道家は土間へ入って草わら鞋じを脱ぎ、弓と矢やづ筒つを持って脊せをかがめるようにして、老婆の傍の莚むしろの上に坐った。 ﹁それでは、今、お粥かゆをさしあげますから、次の室へやでお休みくださいませ、お道みち、お伴つれ申せ﹂ 老婆は後うしろにいた女に云った。 ﹁いや、食たべ物ものは持っておる、どうか一と休みさしてもらいたい﹂ 道家は立ったままで女の案内を待っていた。女は起たって恥かしそうにして、 ﹁それでは﹂ と云って、見つけに垂れた莚をまくった。そこにはほっかりした燈あかりのある室へやがあった。道家はやはり脊をかがめるようにしてその室へ入った。 ﹁そこに枕もございますから、御ごゆっくりお休みなさいませ﹂ と、云って女は莚をおろした。ほんのりした匂においが室の中にただようた。 ﹁はからずご厄やっ介かいに……﹂ 道家は先ず矢と矢筒を壁に立てかけ、それから腰の刀をとって坐った。その室の一方は窓になって月が射さしていた。燈ひと思ったのはその月の光であった。道家はそこで腰から皮籠かごを解といて、その中の乾ほし肉にくを執とって喫くい、それが終ると傍かたわらの木の根の枕を引寄せて寝たが、疲労しているのですぐ眠ってしまった。 そして、眠っているうちに何か枕まく頭らもとで物の気配がするので、ふと気が注ついて眼をうすめに開けてみた。道家は右みぎ枕まくらになって寝ていた。大きな蟇がまのようなものがこちら向きに坐って、口をぱくりと開けて眼をぎろぎろとさしているところであった。道家ははっとした。彼は枕まく頭らもとにおいてある刀に手をかけるなり、飛び起きざまに切りつけた。と、大きな地響のような音がした。彼はそのまま一方の窓から飛び出て走った。 雑ぞう木きに突きあたり草の根に足を執とられたりして、しばらく走ったが、べつに追って来る者もないようであるから、立ちどまって後うしろをふりかえった。そこは見覚えのある村の径こみちであった。道家はほっとしてやるともなしに眼を月にやった。西に落ちかけた月の周まわ囲りにぼうとした暈かさがかかっていた。 ﹁や﹂ 道家は気が注つくと共に北の空に眼をやった。雲の間になった北斗の七星に白はっ気きのようなものがうねうねとかかっていた。道家は刀を鞘さやに収めて立った。 道家は隠れ家に帰らずにそのまま川の堤つつみの竹たけ藪やぶの中へ往って、彼かの祠ほこらの前で夜よの明けるのを待った。髯ひげの白いよぼよぼした老人がどこから来るともなしに来て道家の前に立った。 ﹁来たか、昨ゆう夜べお前が魔者の呪のろいを斬きり払ったから、もう通つう力りきを失うしのうた、これを持って往って、見つけたなら、蓋ふたを開けろ、それまでは蓋を開けてはならんぞ﹂ 老人の左の手には小さな赤い土の壺があった。 ﹁今日の丑うしの刻こく、あの寺の正門からずかずか入って往け、それにはここの祠の中を開けると、お前の着て往く物がある、それ、これを持って往け﹂ 老人は壺をさしだした。道家はうやうやしくそれを受けた。 そして、眼をやると老人はもういなかった。そこで祠ほこらの扉を開けた。中には袈け裟さ、頭ずだ陀ぶく袋ろ、笠かさ、手てこ甲う、脚きゃ絆はんの一切が入っていた。道家は老人の詞ことばに従ってそれを着て旅たび僧そうの姿になり、丑うしの刻こくになって法華寺の別院へ往った。 別院の門のうちには十人ばかりの護衛の武士がいたが咎とがめなかった。彼はずんずん左の厨くりの方へ往って、書院と厨の間になった植込の中へ入り、そこから裏庭の方へ往くと二人の武士が床しょ几うぎに眠っていた。庭には彼かの池があって何い時つか見た蟇がまが一疋ぴき浮んでいた。道家はここぞと思って手にしていた壺の蓋ふたをとった。と、壺の口から煙のようにひらひらと閃ひらめいて出た白い蛇が、みるみる池の上に浮んで彼かの蟇に迫り、蟇が水の中に潜もぐらない中うちに巻いてしまった。 ﹁殿様が大変じゃ﹂ 書院の方では口ぐちに騒ぎだした。二三日熱病をわずらっていた義よし竜たつは、その時急にもがきだしてそのまま死んで往った。﹁織田軍記﹂には義竜のことを記しるして、﹁今はあらそふ者もなければ、義竜自ら濃のう州しゅうの守護となつて、悪人ながら威勢ありしに、ためしすくなき大だい罪ざい人にんのむくいにや、幾程なく永禄四年に義竜たちまち悪病を煩わずらひ、死去しけり﹂と、云ってある。