大久保相さが模みの守かみは板倉伊いが賀のか守みと床しょ几うぎを並べて、切きり支した丹んの宗徒の手てい入れを検視していた。四条派の絵画をそのままに青々とした岸の柳に対して、微うす藍あいの色を絡めて流れていた鴨かも河がわの水も、その日は毒々しく黒ずんで見えた。 それは慶長十七年三月のことであった。切支丹の邪じゃ宗しゅうを禁じて南なん蛮ばん寺じを毀こぼった豊臣秀吉の遺策を受け継いだ幕府では、オランダ人からポルトガル人に領土的野心があると云う密書を得てからその禁止に全力を傾けた。先まず残存している教会堂を毀つとともに、大久保忠ただ隣ちかを奉ぶぎ行ょうとして近畿に送り、所しょ司しだ代い板倉勝かつ重しげと協力して、切支丹の嫌疑のある者を残らず捕縛さし、それを一人一人菰こもに巻いて、四条から五条の磧かわらに三十石こく積づみ、五十石積と云うように積んで、それを片っ端から転ころがした。 ﹁転べ転べ﹂ 所司代の役人達は手にした鉄棒で、蓑みの虫むしのように頭ばかり出したその人ひと俵だわらの胴どう中なかをびしびしと叩たたいた。改宗に志のある者は不自由な体を無理に動かして転がった。転がった者は町役人に請うけ手形を入れさして、俵たわらを解いて赦ゆるしてやった。 俵の中から出ている顔には、色の白い人形のような顔もあった。赧あから顔の老人の顔もあった。髯ひげを剃そった青あおした顔もあった。老婆の顔もあった。賤いやしい醜い年とし増まお女んなの顔もあった。頭のぐるりを剃ってぼんのくぼの髪の毛ばかり残っている少年の顔もあった。僧侶らしい顔もあった。皆の顔は苦痛のために、眼は引ひき釣つり、口は歪ゆがみ、唇や頬には血が附いていた。そこからは嵐のような呻うめ吟きと叫さけ喚びが漏もれていた。洛らく中ちゅう洛らく外がいの人びとが集まって来て、見せ物か何かのようにそれを見物していた。 見物人の一人は、直すぐ眼の前の人ひと俵だわらのうめきの中に、かすれた男の声を聞いて、どの顔の主からそれが出ているかを確めにかかった。それは下積になった商人らしい男の口からであった。 ﹁ありがたいことじゃ、ないないかような大難に逢おうて、天でう主す様の御おた救すけに与あずかり、天はら国いそうへ生れて、安楽な活たつ計きに、ひもじい目にも逢あわず、瓔よう珞らくをさげていたいと願うていたところじゃ、早う打ち殺して、天はら国いそうへやってくだされ﹂ ﹁せんす、まる、まる﹂ ﹁天はら国いそう、天国﹂ ﹁後ごし生ょうは見て来んことじゃから、それはおってのこと、こうひもじゅうては、眼が舞いそうじゃ、そのうえ、この間あい中だじゅうの談議ごとに、大難に逢うときは、百ひゃ味くみの御おん食じきをくだされて、天の上へ引きあげてくだされるとのことじゃったが、この大難に煎せん餅べい一枚もくだされないとは何事じゃ﹂ ﹁上から押しっけられ、持ち重おもりがして、どうにも呼い吸きが切れてしかたがない、義理も外聞も云ってはおられん、早う転ばしてくだされ﹂ その声は侍さむらいらしい壮わかい男の口から出た。それを耳にした七八人の見物人はどっと笑った。 ﹁転べ、転べ﹂ 所司代の役人の怒ど鳴なる声がそこでもここでもしていた。 ﹁こら、転ばないか﹂ 役人の一人は鉄てつ杖じょうを持ち直して、脚あし下もとに転がった人ひと俵だわらの一つの胴どう中なかをびしゃりとやった。その人俵からは老人の白しら髪が頭が出ていた。 ﹁早う天でう主す様の御おそ傍ばへやってくだされ﹂ 役人の鉄杖は続けておろされた。 ﹁天はら国いそう、天国、天でう主す、天主﹂ 老人の詞ことばは切れ切れになって聞えた。 ﹁こやつも火あぶりじゃ﹂ 同役の一人はその人俵をずるずると引ひき摺ずって水みず際ぎわの方へ往った。そこにはたくさんの薪たきぎを下敷にした上に二三十の人俵が積んであった。老人の人俵もその上に引ひきあげられた。 そこの人俵から獣けだもののようなうめきが出ていた。 日ひあ脚しはもう未みの刻こくを過ぎていた。宗徒の手入にすこしの手落もないようにと、板倉伊賀守と共に鋭い眼を四方に配っている大久保忠隣の傍かたわらへ、役人に案内せられて貧相な一人の僧侶が来た。 ﹁この者が、訴そに人んがあると申しております﹂ 役人はその前に平へい伏ふくしながら己じぶんの背うし後ろにおる僧侶に指をさした。 ﹁なにか、宗門に係わる訴人か﹂ 忠隣は鼠ねずみ色の法衣を来た僧侶に眼をやった。 ﹁さようでございます、もと南蛮寺におりました入いる留ま満んが、九条の片かたほとりに隠れておることを、愚僧は仔しさ細いあってよう存じております、この入留満は、邪法を使う稀きだ代いの悪僧で、時ならぬに枯木に花を咲かせ、ある時は、客人を待たしおいて天の川へ往って魚を捕って来るなんぞ申し、竹たけ子のこ笠がさを着、腰に魚び籠くをつけて、縁えん端さきから虚空に姿を消すかと思えば、間もなく腰の魚籠に鯉こい鯰なまずの類をいっぱい持って帰るなど、奇怪至極の邪法を使いまする、これを召捕らんことには、仮たと令い在家の老ろう若にゃくを何千人何万人召捕らるるとも、邪法の種を絶やすことはできんと思います﹂ ﹁そうか、それは大儀であった、では、その悪僧を召捕る、その方、案あな内いをいたせ﹂ 忠隣はこう云って右傍がわをちらと見て、そこに立っている家臣に、 ﹁聞くとおりの曲くせ者ものじゃ、手落のないように召捕ってまいれ﹂ 忠隣の忠臣吉見太郎左衛門は、所司代庁の捕卒を五六人伴つれ、訴人の僧侶を案内にして九条のほうへ往った。そして、僧侶の教えるままに天てん神じんの裏手にある庵あん室しつへ往った。一室ましかない庵あんの中には、三十前後の小柄な男が書しょ見けんしていたが、人の跫あし音おとを聞いて顔をあげた。 ﹁悪僧の訴人によって、私わしを召捕りにまいったと見えるな、いかなこと、いかなこと、その方どもの手にかかる者ではない﹂ 小柄な男は柔和な顔に微笑を含んで、太郎左衛門の顔を見て、 ﹁まあ騒がずに聞くがよい、今日は天下に人も無いように宗門を迫害しておるが、明あ日すになれば、大久保忠隣をはじめ、伊賀守も、また、その方も地獄の苦しみを受けねばならぬぞよ﹂ ﹁それ、その売まい僧すを逃がすな﹂ 太郎左衛門は鉄てっ扇せんを揮ふってさしずした。捕卒は競うて庵あんの中へ躍おどり込んだ。 小柄な男はすっと立って右の指で十字を切った。その一文字に結んだ口元に冒おかされぬところがあるのを太郎左衛門は見た。 ﹁天はら国いそう、天国﹂ 小柄な男の姿は煙のように消えてしまった。 ﹁や、や﹂ ﹁や﹂ 捕卒は互たがいに声をかけ合いながら庵の中うちを駈け廻ったが、眼にとまる者もなかった。 太郎左衛門は妖僧をとり逃がしたことなどが原因となって、次第に主人の前が不首尾になったので、その秋生しょ国うごくの遠えん州しゅう浜松在に隠いん遁とんして、半士半農の生活を送ることとなったが、その翌年の正月になって主しゅ家かは改かい易えきになってしまった。 太郎左衛門はふと妖僧の云った、﹁今日は天下に人も無いように、宗門を迫害しておるが、明あ日すになれば、大久保忠隣をはじめ、伊賀守も、また、その方も地獄の苦しみを受けねばならぬぞよ﹂と、云った詞ことばを思いだして、厭いやな気がする時があった。 その春のある夜、太郎左衛門は浜松の城下へ往っての帰りに、遅く村の入口の庚こう申しん塚づかの傍まで来たところで、行ゆく手てに当惑しているらしい、二人伴づれの女の立ち止っているのを見た。朦もう朧ろうとした月の光に一方の壮わかい方の女の艶なまめかしい衣きものの端はしが光った。 ﹁遠くから来た旅の人らしいぞ﹂ 太郎左衛門はそう思うとともに、女に心が寄って往った。 ﹁貴あな女た方は、どちらへ往かれる﹂ 女伴づれは驚いたように黙って太郎左衛門の方を透すかすようにした。 ﹁お見受け申せば、御女中二人の旅のようでござるが、どちらへ往かれる、拙せっ者しゃはこの村に住居いたす者で、怪しい者でござらぬ﹂ と、太郎左衛門が云った。女はそれを聞くと安心したもののようであった。 ﹁私は母方の親類を尋ねて往くところでございまするが、土地不案内のうえに、夜になりまして、難儀をしております﹂ ﹁それは、さぞお困りであろう、何はともあれ、今晩は拙者の許もとに一泊して、明あ日すゆっくりと尋ねて往くがよろしかろう﹂ ﹁それはどうも、御親切にありがとうございますが、見ず知らずの方に、それでは余り不ぶし躾つけにございますから﹂ ﹁なに、そのような遠慮はいらぬ、さあ、拙者といっしょに来なさるが宜よい﹂ 太郎左衛門は二人の女を伴つれて、己じぶんの家へ帰り女房や婢じょちゅうに云いつけて二人の世話をさした。二人は江ごう州しゅうから来た者で壮わかい方の女は色の白いな顔をしていた。一方の女はその乳う母ばで髪の毛が赤く縮れていた。太郎左衛門の家では二人に食事をさして、一室へ入れて眠らした。 翌朝になって婢じょちゅうが気をつけて見ると、女客の室へやには病人ができたのか、頻しきりにうめく声がする。障しょ子うじの隙間から容よう子すを伺うかがうと壮い女がおろおろしながら、俯うつ向むきになって寝ている乳母の背を撫なでていた。 太郎左衛門は女房からそのことを聞いたので、女客の室へ往った。 ﹁明け方から、持病の下した腹はらの痛みが起りまして﹂ 壮い女は太郎左衛門を見て、当惑したらしい容さまを見せた。 ﹁持病とあれば左さほ程ど案じることもなかろう、癒なおるまで逗とう留りゅうして、それから出発せらるるが宜よい﹂ ﹁お詞ことばにあまえるようで、心苦しゅうございますが、どうぞ乳母の病気が癒りまするまで、お助けに預かりとうございます﹂ 壮い女は涙を流した。太郎左衛門はそれがいじらしかった。 ﹁そんな遠慮は入いらない、十日でも二十日でも、お乳母さんの体が好くなるまでいなさるが宜い﹂ ﹁お助けにあずかります﹂ 壮い女は江州坂本の者であった。父が都の戦乱に死んで家が傾きかけたところで、母がまた亡くなり、家財は悪人の家の子に奪われてしまったので、しかたなく母の妹の縁づいている処を尋ねて往くところであると云った。先方はそこからまた十里もある土地であった。 乳母の持病は思いのほかに長引いて、十日ばかりしてやっと収まることは収まったが、体が衰弱しているので寝床を離れることができなかった。太郎左衛門はその室へやへ出入して、二人の者を労いたわっていたが、その目めの前まえには壮わかい白い顔が浮ぶようになっていた。太郎左衛門は四十を後にした分ふん別べつ盛ざかりの男であったが、彼はその幻をどうすることもできなかった。 ぼたぼたと降る雨が朝早くから降りだして、それが夜に入っても降っている暖かな晩であった。太郎左衛門は寝床からそっと起きあがって、枕まく頭らもとに点ともした有あり明あけの行あん燈どんを吹き消し、次の室に眠っている女房に知れないようにと、そろそろと室を出て暗い縁側を通って往った。 女客のいる室の障子をそっと開けて入った。有明の行燈の傍に寝床を並べて二人の女が眠っていた。乳母の方は歯を鳴らしていた。 太郎左衛門は右側へ寝ている壮い女の傍へ寄って往った。壮い女は左枕に隻かた手てを持ち添えて惚ほれ々ぼれするような顔をして眠っていた。太郎左衛門は呼い吸きを殺してその寝顔を見ていたが、やがて、隻手を出して女の右の肩端さきにかけ、静しずかに揺り起そうとしたところで、その手が不意にしびれて動かなくなった。驚いて声を立てようとしたが、舌がこわばって口が利きけない。と、女はぱっちりと眼を見開いて莞にっと笑った。 太郎左衛門は夢を見ているような気になっていた。そして、ふと気が注ついて見ると、己じぶんは己の寝床の上に坐っていた。 ﹁夢であったか、夢にしては﹂ と、太郎左衛門は考えて見た。夢にしてはあまりに事実が明はっ瞭きりしている。 ﹁では、どうしてここへ戻って来た﹂ それはすこしも記憶がなかった。 ﹁それでは夢であったのか、しかし、どうも夢でない、夢でないとすると……﹂ 夢でないとすれば……奇怪千万である。行あん燈どんを消して室へやを出たこと、ひやひやする縁側を歩いたこと、女の室の障子をそっと開けたこと、乳母に気を配りながら足を爪つま立だてて忍び寄ったこと、手のしびれ、舌のこわばり、女の笑い、皆生なま々なました感触のあることばかりではないか。 ﹁実に奇怪千万じゃ﹂ 太郎左衛門は腕組をして考えた。 翌日、太郎左衛門は病気と云って、己じぶんの室から出なかった。と、午ひる近くなって壮わかい女が来た。 ﹁御病気と承うけたまわりましたが、如いか何がでございますか﹂ 女は無邪気な顔をしていた。 ﹁女は知らないらしいぞ、そうすると昨ゆう夜べのは夢であったかな﹂ と、太郎左衛門は思った。夢とすると非常に無理を感ずるところがあったが、そのかわり女に対する羞しゅ恥うちの情は薄らいだ。 ﹁なに、病気と云う程でもないが、すこし気分がすぐれないから、こうしておるところじゃ、私わしよりゃ、お乳母さんの方は、どうじゃ﹂ ﹁やっぱり体の疲れが癒なおらないで困ります、持病はすっかり癒っておりますに、どうしたと云うのでございましょう。ほんとうに旦那様や奥様に対して、なんとも申訳がございません﹂ ﹁なに、何い時つも云うとおり、そんな遠慮は入らない、私わしの家はべつに小供はなし、浪人暮しで窮屈な思いをするところもないし、遠慮せずにゆっくり養よう生じょうをさして、それから出発せらるるが宜よい、それともお前さんの都合で、一生ここにおりたいと云うなら、世話をしてあげても宜い﹂ ﹁ありがとうございます、まだ一度も逢あったことのない叔お母ばを便たよって往くよりは、御当家のような処で、婢じょちゅう端はし女ためのかわりに使われて、一生を送りとうございますが、まさかそんなお願いもできませず﹂ ﹁なに、お前さんが、こんなところにいても宜いと云う気なら、何い時つでも世話をしてあげる﹂ ﹁ほんとうにそんなお願いをしてもよろしゅうございましょうか﹂ ﹁よいとも、武士の詞ことばに二にご言んはない﹂ ﹁ありがとうございます﹂ 壮わかい女は燃えるような眼をして太郎左衛門を見て、 ﹁乳母にも話しまして、二人で相談しましたうえで、お願いいたします﹂ ﹁宜よいとも﹂ その夜太郎左衛門は壮い女のことが頭に一ぱいになって、どうしても眠れないので、またそっと寝床を出て女の室へやへ忍んで往った。二人の女は昨ゆう夜べと同じような容さまで眠っていた。壮い女の顔は太郎左衛門を見て莞にっと笑った。 太郎左衛門はうとうとと眠って眼を覚して見ると、己じぶんの傍に女房の寝姿があった。太郎左衛門は呆あきれて眼をった。 ある日、碁ごう打ちと朋もだ友ちの医者坊主が遊びに来た。彼は最近江戸へ往って来た者であった。 ﹁江戸でもその噂が高うございましたが﹂ 医者坊主は切支丹の噂をはじめた。 ﹁石ころに向って印いんを結ぶと、それが黄こが金ねになったり、杖つえを立てると、それに枝が出、葉ができて、みるみる大木になると云うし、恐ろしい妖術ではありませんか﹂ ﹁この間は浜松で、その伴ばて天れ連んの一人が来て、傍に遊んでいる小供の頭を撫なでると、それが犬になったと云いますよ﹂ ﹁昨きの日う小田原から戻った人の話に、天てん狗ぐのように鼻の高い異人が、御ごし所ょぐ車るまのような車に乗って、空をふうわりふうわりと東から西に向って通っていたと云いますが、それもやはり伴天連でしょう﹂ ﹁何い時つ、どんな風をして、その伴天連が来ないとも限りませんから、お互に油断がなりませんよ﹂ 医者坊主は口から出まかせに面白おかしく伴天連の話をして聞かせた。その話のうちに太郎左衛門は壮わかい女の正体を掴つかんだように思った。 ﹁確にそうじゃ﹂ ﹁なにか思い当ることがありますか﹂ 医者坊主は太郎左衛門の顔を見た。 ﹁いや、別に思い当ると云うこともないが﹂ 太郎左衛門は詞ことばを濁したが、心では二人の女客に対してとるべき手段を考えていた。 夜になって医者坊主が帰って往った。太郎左衛門は床とこの刀かた架なかけにかけた刀をおろして、それを半ば抜いてちょと眼を通し、それが済むと目めく釘ぎに注意して寝床に就ついた。 その夜は風があった。太郎左衛門は時刻を計はかって寝床を抜け、宵に調べてあった刀かた架なかけの刀を腰にして、そっと女客の室へやへ往った。行あん燈どんの光はぼんやりと二人の枕まく頭らもとを照らしていた。壮わかい女は仰あお向むきになり乳母は右枕になっていた。 太郎左衛門は突然刀を抜いて壮い女の顔を目がけて切りつけた。刀は額の真中から鼻の上にかけて真まっ向こうに入ったが、すこしも血が出なかった。女は両りょ眼うがんを静しずかに開けて太郎左衛門を見た。彼はその顔を見定める間もなく、二の刀で乳母の首に切りつけた。その刀も深くずぶりと手答えがしたが、それもすこしも血が流れなかった。と、乳母は寝返りして太郎左衛門の顔を見た。 ﹁お前さんは、なんで己じぶんの奥方の生いの命ちを縮めなさる、その女はお前さんの奥方の魂だよ﹂ そう云うかと思うと乳母はすっくと起たった。縮れ毛の醜い女ではなくて三十前後の小柄な男であった。それは京の九条の天神裏の草そう庵あんでとり逃がした入留満であった。入留満は揮ふり返って、 ﹁邪じゃ見けんなお前さんの心にも天はら国いそうが近づいて来た﹂ と、云って莞にっと笑ったが、そのまま室の外へ出て往った。太郎左衛門の手から刀が落ちた。太郎左衛門はあっけにとられてそれを見送っていたが、ふと気が注ついたので壮い女の方へ眼をやった。そこには何なん人ぴとの影もなかった。その時であった、太郎左衛門の室の方で慌しい人声がした。 太郎左衛門の室の次の室で寝ていた女房は、ふいに叫ぶとともにそのまま絶命した。それを婢じょちゅうが知って大声を立てたところであった。太郎左衛門は女房の枕頭に坐って夢を見ている人のようにしていた。 後のち十年位して、江戸の芝口で火刑に処せられた切支丹の宗徒の中に、駿する河がの浪人で吉見太郎左衛門と云う者がいたと云うことが某記録に残っている。