十四、五になる大たい概がいの家いえの娘むすめがそうであるように、袖そで子こもその年とし頃ごろになってみたら、人にん形ぎょうのことなぞは次しだ第いに忘わすれたようになった。
人にん形ぎょうに着きせる着きも物のだ襦じゅ袢ばんだと言いって大おお騒さわぎした頃ころの袖そで子こは、いくつそのために小ちいさな着きも物のを造つくり、いくつ小ちいさな頭ずき巾んなぞを造つくって、それを幼おさない日ひの楽たのしみとしてきたか知しれない。町まちの玩おも具ちゃ屋やから安やす物ものを買かって来きてすぐに首くびのとれたもの、顔かおが汚よごれ鼻はなが欠かけするうちにオバケのように気きみ味わ悪るくなって捨すててしまったもの――袖そで子この古ふるい人にん形ぎょうにもいろいろあった。その中なかでも、父とうさんに連つれられて震しん災さい前まえの丸まる善ぜんへ行いった時ときに買かって貰もらって来きた人にん形ぎょうは、一いち番ばん長ながくあった。あれは独ドイ逸ツの方ほうから新しん荷にが着ついたばかりだという種いろ々いろな玩おも具ちゃと一いっ緒しょに、あの丸まる善ぜんの二階かいに並ならべてあったもので、異いこ国くの子こど供もの風な俗りながらに愛あいらしく、格かく安やすで、しかも丈じょ夫うぶに出で来きていた。茶ちゃ色いろな髪かみをかぶったような男おとこの児この人にん形ぎょうで、それを寝ねかせば眼めをつぶり、起おこせばぱっちりと可かわ愛いい眼めを見みひ開らいた。袖そで子こがあの人にん形ぎょうに話はなしかけるのは、生いきている子こど供もに話はなしかけるのとほとんど変かわりがないくらいであった。それほどに好すきで、抱だき、擁かかえ、撫なで、持もち歩あるき、毎まい日にちのように着きも物のを着きせ直なおしなどして、あの人にん形ぎょうのためには小ちいさな蒲ふと団んや小ちいさな枕まくらまでも造つくった。袖そで子こが風か邪ぜでも引ひいて学がっ校こうを休やすむような日ひには、彼かの女じょの枕まくらもとに足あしを投なげ出だし、いつでも笑わらったような顔かおをしながらお伽とぎ話ばなしの相あい手てになっていたのも、あの人にん形ぎょうだった。
﹁袖そで子こさん、お遊あそびなさいな。﹂
と言いって、一ひと頃ころはよく彼かの女じょのところへ遊あそびに通かよって来きた近きん所じょの小こむ娘すめもある。光みつ子こさんといって、幼よう稚ちえ園んへでもあがろうという年とし頃ごろの小こむ娘すめのように、額ひたいのところへ髪かみを切きりさげている児こだ。袖そで子この方ほうでもよくその光みつ子こさんを見みに行いって、暇ひまさえあれば一いっ緒しょに折おり紙がみを畳たたんだり、お手てだ玉まをついたりして遊あそんだものだ。そういう時ときの二ふた人りの相あい手ては、いつでもあの人にん形ぎょうだった。そんなに抱ほう愛あいの的まとであったものが、次しだ第いに袖そで子こから忘わすれられたようになっていった。そればかりでなく、袖そで子こが人にん形ぎょうのことなぞを以いぜ前んのように大おお騒さわぎしなくなった頃ころには、光みつ子こさんともそう遊あそばなくなった。
しかし、袖そで子こはまだ漸ようやく高こう等とう小しょ学うがくの一学がく年ねんを終おわるか終おわらないぐらいの年とし頃ごろであった。彼かの女じょとても何なにかなしにはいられなかった。子こど供もの好すきな袖そで子こは、いつの間まにか近きん所じょの家いえから別べつの子こど供もを抱だいて来きて、自じぶ分んの部へ屋やで遊あそばせるようになった。数かぞえ歳どしの二つにしかならない男おとこの児こであるが、あのきかない気きの光みつ子こさんに比くらべたら、これはまた何なんというおとなしいものだろう。金きん之のす助けさんという名なま前えからして男おとこの子こらしく、下しもぶくれのしたその顔かおに笑えみの浮うかぶ時ときは、小ちいさな靨えくぼがあらわれて、愛あいらしかった。それに、この子この好よいことには、袖そで子この言いうなりになった。どうしてあの少すこしもじっとしていないで、どうかすると袖そで子この手てにおえないことが多おおかった光みつ子こさんを遊あそばせるとは大おお違ちがいだ。袖そで子こは人にん形ぎょうを抱だくように金きん之のす助けさんを抱だいて、どこへでも好すきなところへ連つれて行ゆくことが出で来きた。自じぶ分んの側そばに置おいて遊あそばせたければ、それも出で来きた。
この金きん之のす助けさんは正しょ月うが生つうまれの二つでも、まだいくらも人ひとの言こと葉ばを知しらない。蕾つぼみのようなその脣くちびるからは﹁うまうま﹂ぐらいしか泄もれて来こない。母はは親おや以いが外いの親したしいものを呼よぶにも、﹁ちゃあちゃん﹂としかまだ言いい得えなかった。こんな幼おさない子こど供もが袖そで子この家いえへ連つれられて来きてみると、袖そで子この父とうさんがいる、二ふた人りある兄にいさん達たちもいる、しかし金きん之のす助けさんはそういう人ひと達たちまでも﹁ちゃあちゃん﹂と言いって呼よぶわけではなかった。やはりこの幼おさない子こど供もの呼よびかける言こと葉ばは親したしいものに限かぎられていた。もともと金きん之のす助けさんを袖そで子この家いえへ、初はじめて抱だいて来きて見みせたのは下げじ女ょのお初はつで、お初はつの子こぼ煩んの悩うときたら、袖そで子こに劣おとらなかった。
﹁ちゃあちゃん。﹂
それが茶ちゃの間まへ袖そで子こを探さがしに行ゆく時ときの子こど供もの声こえだ。
﹁ちゃあちゃん。﹂
それがまた台だい所どころで働はたらいているお初はつを探さがす時ときの子こど供もの声こえでもあるのだ。金きん之のす助けさんは、まだよちよちしたおぼつかない足あし許もとで、茶ちゃの間まと台だい所どころの間あいだを往いったり来きたりして、袖そで子こやお初はつの肩かたにつかまったり、二ふた人りの裾すそにまといついたりして戯たわむれた。
三月がつの雪ゆきが綿わたのように町まちへ来きて、一ひと晩ばんのうちに見みご事とに溶とけてゆく頃ころには、袖そで子この家いえではもう光みつ子こさんを呼よぶ声こえが起おこらなかった。それが﹁金きん之のす助けさん、金きん之のす助けさん﹂に変かわった。
﹁袖そで子こさん、どうしてお遊あそびにならないんですか。わたしをお忘わすれになったんですか。﹂
近きん所じょの家いえの二階かいの窓まどから、光みつ子こさんの声こえが聞きこえていた。そのませた、小こむ娘すめらしい声こえは、春はる先さきの町まちの空くう気きに高たかく響ひびけて聞きこえていた。ちょうど袖そで子こはある高こう等とう女じょ学がっ校こうへの受じゅ験けんの準じゅ備んびにいそがしい頃ころで、遅おそくなって今いままでの学がっ校こうから帰かえって来きた時ときに、その光みつ子こさんの声こえを聞きいた。彼かの女じょは別べつに悪わるい顔かおもせず、ただそれを聞きき流ながしたままで家いえへ戻もどってみると、茶ちゃの間まの障しょ子うじのわきにはお初はつが針はり仕しご事としながら金きん之のす助けさんを遊あそばせていた。
どうしたはずみからか、その日ひ、袖そで子こは金きん之のす助けさんを怒おこらしてしまった。子こど供もは袖そで子この方ほうへ来こないで、お初はつの方ほうへばかり行いった。
﹁ちゃあちゃん。﹂
﹁はあい――金きん之のす助けさん。﹂
お初はつと子こど供もは、袖そで子この前まえで、こんな言こと葉ばをかわしていた。子こど供もから呼よびかけられるたびに、お初はつは﹁まあ、可かわ愛いい﹂という様よう子すをして、同おなじことを何なん度ども何なん度ども繰くり返かえした。
﹁ちゃあちゃん。﹂
﹁はあい――金きん之のす助けさん。﹂
﹁ちゃあちゃん。﹂
﹁はあい――金きん之のす助けさん。﹂
あまりお初はつの声こえが高たかかったので、そこへ袖そで子この父とうさんが笑えが顔おを見みせた。
﹁えらい騒さわぎだなあ。俺おれは自じぶ分んの部へ屋やで聞きいていたが、まるで、お前まえ達たちのは掛かけ合あいじゃないか。﹂
﹁旦だん那なさん。﹂とお初はつは自じぶ分んでもおかしいように笑わらって、やがて袖そで子こと金きん之のす助けさんの顔かおを見みくらべながら、﹁こんなに金きん之のす助けさんは私わたしにばかりついてしまって……袖そで子こさんと金きん之のす助けさんとは、今きょ日うは喧けん嘩かです。﹂
この﹁喧けん嘩か﹂が父とうさんを笑わらわせた。
袖そで子こは手て持もち無ぶ沙さ汰たで、お初はつの側そばを離はなれないでいる子こど供もの顔かおを見みまもった。女おんなにもしてみたいほどの色いろの白しろい児こで、優やさしい眉まゆ、すこし開ひらいた脣くちびる、短みじかいうぶ毛げのままの髪かみ、子こど供もらしいおでこ――すべて愛あいらしかった。何なんとなく袖そで子こにむかってすねているような無むじ邪ゃ気きさは、一いっ層そうその子こど供もらしい様よう子すを愛あいらしく見みせた。こんないじらしさは、あの生せい命めいのない人にん形ぎょうにはなかったものだ。
﹁何なんと言いっても、金きん之のす助けさんは袖そでちゃんのお人にん形ぎょうさんだね。﹂
と言いって父とうさんは笑わらった。
そういう袖そで子この父とうさんは鰥やもめで、中ちゅ年うねんで連つれ合あいに死しに別わかれた人ひとにあるように、男おとこの手て一つでどうにかこうにか袖そで子こたちを大おおきくしてきた。この父とうさんは、金きん之のす助けさんを人にん形ぎょ扱うあつかいにする袖そで子このことを笑わらえなかった。なぜかなら、そういう袖そで子こが、実じつは父とうさんの人にん形ぎょ娘うむすめであったからで。父とうさんは、袖そで子このために人にん形ぎょうまでも自じぶ分んで見み立たて、同おなじ丸まる善ぜんの二階かいにあった独ドイ逸ツ出で来きの人にん形ぎょうの中なかでも自じぶ分んの気きに入いったようなものを求もとめて、それを袖そで子こにあてがった。ちょうど袖そで子こがあの人にん形ぎょうのためにいくつかの小ちいさな着きも物のを造つくって着きせたように、父とうさんはまた袖そで子このために自じぶ分んの好このみによったものを選えらんで着きせていた。
﹁袖そで子こさんは可かわ哀いそうです。今いまのうちに紅あかい派は手でなものでも着きせなかったら、いつ着きせる時ときがあるんです。﹂
こんなことを言いって袖そで子こを庇か護ばうようにする婦ふじ人んの客きゃくなぞがないでもなかったが、しかし父とうさんは聞きき入いれなかった。娘むすめの風な俗りはなるべく清せい楚そに。その自じぶ分んの好このみから父とうさんは割わり出だして、袖そで子この着きる物ものでも、持もち物ものでも、すべて自じぶ分んで見み立たててやった。そして、いつまでも自じぶ分んの人にん形ぎょ娘うむすめにしておきたかった。いつまでも子こど供もで、自じぶ分んの言いうなりに、自じゆ由うになるもののように……
ある朝あさ、お初はつは台だい所どころの流ながしもとに働はたらいていた。そこへ袖そで子こが来きて立たった。袖そで子こは敷しき布ふをかかえたまま物ものも言いわないで、蒼あおざめた顔かおをしていた。
﹁袖そで子こさん、どうしたの。﹂
最さい初しょのうちこそお初はつも不ふ思し議ぎそうにしていたが、袖そで子こから敷しき布ふを受うけ取とってみて、すぐにその意い味みを読よんだ。お初はつは体たい格かくも大おおきく、力ちからもある女おんなであったから、袖そで子この震ふるえるからだへうしろから手てをかけて、半はん分ぶん抱だきかかえるように茶ちゃの間まの方ほうへ連つれて行いった。その部へ屋やの片かた隅すみに袖そで子こを寝ねかした。
﹁そんなに心しん配ぱいしないでもいいんですよ。私わたしが好よいようにしてあげるから――誰だれでもあることなんだから――今きょ日うは学がっ校こうをお休やすみなさいね。﹂
とお初はつは袖そで子この枕まくらもとで言いった。
祖おば母あさんもなく、母かあさんもなく、誰だれも言いって聞きかせるもののないような家かて庭いで、生うまれて初はじめて袖そで子この経けい験けんするようなことが、思おもいがけない時ときにやって来きた。めったに学がっ校こうを休やすんだことのない娘むすめが、しかも受じゅ験けん前まえでいそがしがっている時ときであった。三月がつらしい春はるの朝あさ日ひが茶ちゃの間まの障しょ子うじに射さしてくる頃ころには、父とうさんは袖そで子こを見みに来きた。その様よう子すをお初はつに問といたずねた。
﹁ええ、すこし……﹂
とお初はつは曖あい昧まいな返へん事じばかりした。
袖そで子こは物ものも言いわずに寝ねぐ苦るしがっていた。そこへ父とうさんが心しん配ぱいして覗のぞきに来くる度たびに、しまいにはお初はつの方ほうでも隠かくしきれなかった。
﹁旦だん那なさん、袖そで子こさんのは病びょ気うきではありません。﹂
それを聞きくと、父とうさんは半はん信しん半はん疑ぎのままで、娘むすめの側そばを離はなれた。日ひご頃ろ母かあさんの役やくまで兼かねて着きも物のの世せ話わから何なにから一いっ切さいを引ひき受うけている父とうさんでも、その日ひばかりは全まったく父とうさんの畠はたけにないことであった。男おと親こおやの悲かなしさには、父とうさんはそれ以いじ上ょうのことをお初はつに尋たずねることも出で来きなかった。
﹁もう何なん時じだろう。﹂
と言いって父とうさんが茶ちゃの間まに掛かかっている柱はし時らど計けいを見みに来きた頃ころは、その時とけ計いの針はりが十時じを指さしていた。
﹁お昼ひるには兄にいさん達たちも帰かえって来くるな。﹂と父とうさんは茶ちゃの間まのなかを見みま
して言いった。﹁お初はつ、お前まえに頼たのんでおくがね、みんな学がっ校こうから帰かえって来きて聞きいたら、そう言いっておくれ――きょうは父とうさんが袖そでちゃんを休やすませたからッて――もしかしたら、すこし頭あたまが痛いたいからッて。﹂
父とうさんは袖そで子この兄にいさん達たちが学がっ校こうから帰かえって来くる場ばあ合いを予よそ想うして、娘むすめのためにいろいろ口こう実じつを考かんがえた。
昼ひるすこし前まえにはもう二ふた人りの兄にいさんが前ぜん後ごして威いせ勢いよく帰かえって来きた。一ひと人りの兄にいさんの方ほうは袖そで子この寝ねているのを見みると黙だまっていなかった。
﹁オイ、どうしたんだい。﹂
その権けん幕まくに恐おそれて、袖そで子こは泣なき出だしたいばかりになった。そこへお初はつが飛とんで来きて、いろいろ言いい訳わけをしたが、何なにも知しらない兄にいさんは訳わけの分わからないという顔かお付つきで、しきりに袖そで子こを責せめた。
﹁頭あたまが痛いたいぐらいで学がっ校こうを休やすむなんて、そんな奴やつがあるかい。弱よわ虫むしめ。﹂
﹁まあ、そんなひどいことを言いって、﹂とお初はつは兄にいさんをなだめるようにした。﹁袖そで子こさんは私わたしが休やすませたんですよ――きょうは私わたしが休やすませたんですよ。﹂
不ふ思し議ぎな沈ちん黙もくが続つづいた。父とうさんでさえそれを説とき明あかすことが出で来きなかった。ただただ父とうさんは黙だまって、袖そで子この寝ねている部へ屋やの外そとの廊ろう下かを往いったり来きたりした。あだかも袖そで子この子こど供もの日ひが最もは早や終おわりを告つげたかのように――いつまでもそう父とうさんの人にん形ぎょ娘うむすめではいないような、ある待まち受うけた日ひが、とうとう父とうさんの眼めの前まえへやって来きたかのように。
﹁お初はつ、袖そでちゃんのことはお前まえによく頼たのんだぜ。﹂
父とうさんはそれだけのことを言いいにくそうに言いって、また自じぶ分んの部へ屋やの方ほうへ戻もどって行いった。こんな悩なやましい、言いうに言いわれぬ一日にちを袖そで子こは床とこの上うえに送おくった。夕ゆう方がたには多おお勢ぜいのちいさな子こど供もの声こえにまじって例れいの光みつ子こさんの甲かん高だかい声こえも家いえの外そとに響ひびいたが、袖そで子こはそれを寝ねながら聞きいていた。庭にわの若わか草くさの芽めも一ひと晩ばんのうちに伸のびるような暖あたたかい春はるの宵よいながらに悲かなしい思おもいは、ちょうどそのままのように袖そで子この小ちいさな胸むねをなやましくした。
翌よく日じつから袖そで子こはお初はつに教おしえられたとおりにして、例れいのように学がっ校こうへ出で掛かけようとした。その年としの三月がつに受うけ損そこなったらまた一年ねん待またねばならないような、大だい事じな受じゅ験けんの準じゅ備んびが彼かの女じょを待まっていた。その時とき、お初はつは自じぶ分んが女おんなになった時ときのことを言いい出だして、
﹁私わたしは十七の時ときでしたよ。そんなに自じぶ分んが遅おそかったものですからね。もっと早はやくあなたに話はなしてあげると好よかった。そのくせ私わたしは話はなそう話はなそうと思おもいながら、まだ袖そで子こさんには早はやかろうと思おもって、今いままで言いわずにあったんですよ……つい、自じぶ分んが遅おそかったものですからね……学がっ校こうの体たい操そうやなんかは、その間あいだ、休やすんだ方ほうがいいんですよ。﹂
こんな話はなしを袖そで子こにして聞きかせた。
不ふあ安んやら、心しん配ぱいやら、思おもい出だしたばかりでもきまりのわるく、顔かおの紅あかくなるような思おもいで、袖そで子こは学がっ校こうへの道みちを辿たどった。この急きゅ激うげきな変へん化か――それを知しってしまえば、心しん配ぱいもなにもなく、ありふれたことだというこの変へん化かを、何なんの故ゆえであるのか、何なんの為ためであるのか、それを袖そで子こは知しりたかった。事じじ実つじ上ょうの細こまかい注ちゅ意ういを残のこりなくお初はつから教おしえられたにしても、こんな時ときに母かあさんでも生いきていて、その膝ひざに抱だかれたら、としきりに恋こいしく思おもった。いつものように学がっ校こうへ行いってみると、袖そで子こはもう以いぜ前んの自じぶ分んではなかった。ことごとに自じゆ由うを失うしなったようで、あたりが狭せまかった。昨きの日うまでの遊あそびの友とも達だちからは遽にわかに遠とおのいて、多おお勢ぜいの友とも達だちが先せん生せい達たちと縄なわ飛とびに鞠まり投なげに嬉き戯ぎするさまを運うん動どう場じょうの隅すみにさびしく眺ながめつくした。
それから一週しゅ間うかんばかり後あとになって、漸ようやく袖そで子こはあたりまえのからだに帰かえることが出で来きた。溢あふれて来くるものは、すべて清きよい。あだかも春はるの雪ゆきに濡ぬれて反かえって伸のびる力ちからを増ます若わか草くさのように、生しと長なりざかりの袖そで子こは一いっ層そういきいきとした健けん康こうを恢かい復ふくした。
﹁まあ、よかった。﹂
と言いって、あたりを見みました時ときの袖そで子こは何なにがなしに悲かなしい思おもいに打うたれた。その悲かなしみは幼おさない日ひに別わかれを告つげて行ゆく悲かなしみであった。彼かの女じょは最もは早や今いままでのような眼めでもって、近きん所じょの子こど供もた達ちを見みることも出で来きなかった。あの光みつ子こさんなぞが黒くろいふさふさした髪かみの毛けを振ふって、さも無むじ邪ゃ気きに、家いえのまわりを駆かけっているのを見みると、袖そで子こは自分でも、もう一いち度ど何なにも知しらずに眠ねむってみたいと思おもった。
男おとこと女おんなの相そう違いが、今いまは明あきらかに袖そで子こに見みえてきた。さものんきそうな兄にいさん達たちとちがって、彼かの女じょは自じぶ分んを護まもらねばならなかった。大おと人なの世せか界いのことはすっかり分わかってしまったとは言いえないまでも、すくなくもそれを覗のぞいて見みた。その心こころから、袖そで子こは言いいあらわしがたい驚おどろきをも誘さそわれた。
袖そで子この母かあさんは、彼かの女じょが生うまれると間まもなく激はげしい産さん後ごの出しゅ血っけつで亡なくなった人ひとだ。その母かあさんが亡なくなる時ときには、人ひとのからだに差さしたり引ひいたりする潮しおが三枚まいも四枚まいもの母かあさんの単ひと衣えを雫しずくのようにした。それほど恐おそろしい勢いきおいで母かあさんから引ひいて行いった潮しおが――十五年ねんの後のちになって――あの母かあさんと生せい命めいの取とりかえっこをしたような人にん形ぎょ娘うむすめに差さして来きた。空そらにある月つきが満みちたり欠かけたりする度たびに、それと呼こき吸ゅうを合あわせるような、奇きせ蹟きでない奇きせ蹟きは、まだ袖そで子こにはよく呑のみこめなかった。それが人ひとの言いうように規きそ則くて的きに溢あふれて来こようとは、信しんじられもしなかった。故ゆえもない不ふあ安んはまだ続つづいていて、絶たえず彼かの女じょを脅おびやかした。袖そで子こは、その心しん配ぱいから、子こど供もと大おと人なの二つの世せか界いの途とち中ゅうの道みち端ばたに息いきづき震ふるえていた。
子こど供もの好すきなお初はつは相あい変かわらず近きん所じょの家いえから金きん之のす助けさんを抱だいて来きた。頑がん是ぜない子こど供もは、以いぜ前んにもまさる可かわ愛いげな表ひょ情うじょうを見みせて、袖そで子この肩かたにすがったり、その後あとを追おったりした。
﹁ちゃあちゃん。﹂
親したしげに呼よぶ金きん之のす助けさんの声こえに変かわりはなかった。しかし袖そで子こはもう以いぜ前んと同おなじようにはこの男おとこの児こを抱だけなかった。
して言いった。﹁お初はつ、お前まえに頼たのんでおくがね、みんな学がっ校こうから帰かえって来きて聞きいたら、そう言いっておくれ――きょうは父とうさんが袖そでちゃんを休やすませたからッて――もしかしたら、すこし頭あたまが痛いたいからッて。﹂
父とうさんは袖そで子この兄にいさん達たちが学がっ校こうから帰かえって来くる場ばあ合いを予よそ想うして、娘むすめのためにいろいろ口こう実じつを考かんがえた。
昼ひるすこし前まえにはもう二ふた人りの兄にいさんが前ぜん後ごして威いせ勢いよく帰かえって来きた。一ひと人りの兄にいさんの方ほうは袖そで子この寝ねているのを見みると黙だまっていなかった。
﹁オイ、どうしたんだい。﹂
その権けん幕まくに恐おそれて、袖そで子こは泣なき出だしたいばかりになった。そこへお初はつが飛とんで来きて、いろいろ言いい訳わけをしたが、何なにも知しらない兄にいさんは訳わけの分わからないという顔かお付つきで、しきりに袖そで子こを責せめた。
﹁頭あたまが痛いたいぐらいで学がっ校こうを休やすむなんて、そんな奴やつがあるかい。弱よわ虫むしめ。﹂
﹁まあ、そんなひどいことを言いって、﹂とお初はつは兄にいさんをなだめるようにした。﹁袖そで子こさんは私わたしが休やすませたんですよ――きょうは私わたしが休やすませたんですよ。﹂
不ふ思し議ぎな沈ちん黙もくが続つづいた。父とうさんでさえそれを説とき明あかすことが出で来きなかった。ただただ父とうさんは黙だまって、袖そで子この寝ねている部へ屋やの外そとの廊ろう下かを往いったり来きたりした。あだかも袖そで子この子こど供もの日ひが最もは早や終おわりを告つげたかのように――いつまでもそう父とうさんの人にん形ぎょ娘うむすめではいないような、ある待まち受うけた日ひが、とうとう父とうさんの眼めの前まえへやって来きたかのように。
﹁お初はつ、袖そでちゃんのことはお前まえによく頼たのんだぜ。﹂
父とうさんはそれだけのことを言いいにくそうに言いって、また自じぶ分んの部へ屋やの方ほうへ戻もどって行いった。こんな悩なやましい、言いうに言いわれぬ一日にちを袖そで子こは床とこの上うえに送おくった。夕ゆう方がたには多おお勢ぜいのちいさな子こど供もの声こえにまじって例れいの光みつ子こさんの甲かん高だかい声こえも家いえの外そとに響ひびいたが、袖そで子こはそれを寝ねながら聞きいていた。庭にわの若わか草くさの芽めも一ひと晩ばんのうちに伸のびるような暖あたたかい春はるの宵よいながらに悲かなしい思おもいは、ちょうどそのままのように袖そで子この小ちいさな胸むねをなやましくした。
翌よく日じつから袖そで子こはお初はつに教おしえられたとおりにして、例れいのように学がっ校こうへ出で掛かけようとした。その年としの三月がつに受うけ損そこなったらまた一年ねん待またねばならないような、大だい事じな受じゅ験けんの準じゅ備んびが彼かの女じょを待まっていた。その時とき、お初はつは自じぶ分んが女おんなになった時ときのことを言いい出だして、
﹁私わたしは十七の時ときでしたよ。そんなに自じぶ分んが遅おそかったものですからね。もっと早はやくあなたに話はなしてあげると好よかった。そのくせ私わたしは話はなそう話はなそうと思おもいながら、まだ袖そで子こさんには早はやかろうと思おもって、今いままで言いわずにあったんですよ……つい、自じぶ分んが遅おそかったものですからね……学がっ校こうの体たい操そうやなんかは、その間あいだ、休やすんだ方ほうがいいんですよ。﹂
こんな話はなしを袖そで子こにして聞きかせた。
不ふあ安んやら、心しん配ぱいやら、思おもい出だしたばかりでもきまりのわるく、顔かおの紅あかくなるような思おもいで、袖そで子こは学がっ校こうへの道みちを辿たどった。この急きゅ激うげきな変へん化か――それを知しってしまえば、心しん配ぱいもなにもなく、ありふれたことだというこの変へん化かを、何なんの故ゆえであるのか、何なんの為ためであるのか、それを袖そで子こは知しりたかった。事じじ実つじ上ょうの細こまかい注ちゅ意ういを残のこりなくお初はつから教おしえられたにしても、こんな時ときに母かあさんでも生いきていて、その膝ひざに抱だかれたら、としきりに恋こいしく思おもった。いつものように学がっ校こうへ行いってみると、袖そで子こはもう以いぜ前んの自じぶ分んではなかった。ことごとに自じゆ由うを失うしなったようで、あたりが狭せまかった。昨きの日うまでの遊あそびの友とも達だちからは遽にわかに遠とおのいて、多おお勢ぜいの友とも達だちが先せん生せい達たちと縄なわ飛とびに鞠まり投なげに嬉き戯ぎするさまを運うん動どう場じょうの隅すみにさびしく眺ながめつくした。
それから一週しゅ間うかんばかり後あとになって、漸ようやく袖そで子こはあたりまえのからだに帰かえることが出で来きた。溢あふれて来くるものは、すべて清きよい。あだかも春はるの雪ゆきに濡ぬれて反かえって伸のびる力ちからを増ます若わか草くさのように、生しと長なりざかりの袖そで子こは一いっ層そういきいきとした健けん康こうを恢かい復ふくした。
﹁まあ、よかった。﹂
と言いって、あたりを見みました時ときの袖そで子こは何なにがなしに悲かなしい思おもいに打うたれた。その悲かなしみは幼おさない日ひに別わかれを告つげて行ゆく悲かなしみであった。彼かの女じょは最もは早や今いままでのような眼めでもって、近きん所じょの子こど供もた達ちを見みることも出で来きなかった。あの光みつ子こさんなぞが黒くろいふさふさした髪かみの毛けを振ふって、さも無むじ邪ゃ気きに、家いえのまわりを駆かけっているのを見みると、袖そで子こは自分でも、もう一いち度ど何なにも知しらずに眠ねむってみたいと思おもった。
男おとこと女おんなの相そう違いが、今いまは明あきらかに袖そで子こに見みえてきた。さものんきそうな兄にいさん達たちとちがって、彼かの女じょは自じぶ分んを護まもらねばならなかった。大おと人なの世せか界いのことはすっかり分わかってしまったとは言いえないまでも、すくなくもそれを覗のぞいて見みた。その心こころから、袖そで子こは言いいあらわしがたい驚おどろきをも誘さそわれた。
袖そで子この母かあさんは、彼かの女じょが生うまれると間まもなく激はげしい産さん後ごの出しゅ血っけつで亡なくなった人ひとだ。その母かあさんが亡なくなる時ときには、人ひとのからだに差さしたり引ひいたりする潮しおが三枚まいも四枚まいもの母かあさんの単ひと衣えを雫しずくのようにした。それほど恐おそろしい勢いきおいで母かあさんから引ひいて行いった潮しおが――十五年ねんの後のちになって――あの母かあさんと生せい命めいの取とりかえっこをしたような人にん形ぎょ娘うむすめに差さして来きた。空そらにある月つきが満みちたり欠かけたりする度たびに、それと呼こき吸ゅうを合あわせるような、奇きせ蹟きでない奇きせ蹟きは、まだ袖そで子こにはよく呑のみこめなかった。それが人ひとの言いうように規きそ則くて的きに溢あふれて来こようとは、信しんじられもしなかった。故ゆえもない不ふあ安んはまだ続つづいていて、絶たえず彼かの女じょを脅おびやかした。袖そで子こは、その心しん配ぱいから、子こど供もと大おと人なの二つの世せか界いの途とち中ゅうの道みち端ばたに息いきづき震ふるえていた。
子こど供もの好すきなお初はつは相あい変かわらず近きん所じょの家いえから金きん之のす助けさんを抱だいて来きた。頑がん是ぜない子こど供もは、以いぜ前んにもまさる可かわ愛いげな表ひょ情うじょうを見みせて、袖そで子この肩かたにすがったり、その後あとを追おったりした。
﹁ちゃあちゃん。﹂
親したしげに呼よぶ金きん之のす助けさんの声こえに変かわりはなかった。しかし袖そで子こはもう以いぜ前んと同おなじようにはこの男おとこの児こを抱だけなかった。