女おん探なた偵んていの悒ゆう鬱うつ
﹁離りこ魂んの妻つま﹂事件で、検事六条子爵がさしのばしたあやしき情念燃ゆる手を、ともかくもきっぱりとふりきって帰京した風かざ間まみ光つ枝えだったけれど、さて元の孤独に立ちかえってみると、なんとはなく急に自分の身体が汗くさく感ぜられて、侘わびしかった。
﹁つよく生きることは、なんという苦しいことであろうか?﹂
彼女は、日頃のつよさに似ず、どういうものかあれ以来急に気が弱くなってしまった。たったあれくらいのことで、急に気が弱くなってしまうというのも、所しょ詮せんそれは女に生れついたゆえであろうが、さりとは口くち惜おしいことであると、深夜ひそかに鏡の前で、つやつやした吾れと吾が腕をぎゅっとつねってみる光枝だった。
彼女の急きゅ性うせ悒いゆ鬱うう症つしょうについては、彼女の属する星野私立探偵所内でも、敏びん感かんな一同の話題にのぼらないわけはなかった。だが、余計な口を光枝に対してきこうものなら、たいへんなことになることが予かねて分っていたから、誰も彼も、一応知らぬ半はん兵べ衛えを極きめこんでいたことである。
ところが、或る日――星野老所長は、風間光枝を自室へ呼んで、
﹁君はなにかい、帆ほむ村らそ荘うろ六くという青年探偵のことを聞いたことがないかね﹂
と、だしぬけの質問だった。
帆村荘六――といえば、理学士という妙な畑から出て来た人物だ。それくらいのことなら光枝も知っているが、他はあまり深く知らない。そのことをいうと、老所長は、
﹁あの帆村荘六という奴は、わしと同どう郷きょうでな、ちょっと或る縁えん故こでつながっている者だが、すこし変り者だ。その帆村から、若い女探偵の助じょ力りょくを得たいことがあるから、誰か融ゆう通ずうしてくれといってきたんだ。どうだ、君ひとつ、行ってくれんか﹂
﹁はあ。どんな事件でございましょうか﹂
﹁いや、どんな事件か、わしはなんにも知らん。ただはっきり言えるのは、彼あい奴つはなかなかのしっかり者で、婦人に対してもすこぶる潔けっ癖ぺきだから、その点は心配しないように﹂
老所長の言葉は、なんだか六条子爵のことを言げん外がいに含めていっているようにも響ひびいた。
とにかく風間光技は、日ひご毎とよ夜ご毎との悒鬱を払うには丁ちょ度うどいい機会だと思ったので、早さっ速そく老所長の命令に従したがって、自分の力を借りたいという帆村荘六の事務所へでかけたのだった。
帆村の探偵事務所は、丸まるの内うちにあったが、今いま時どき流は行やらぬ煉れん瓦がだ建ての陰いん気きくさい建物の中にあった。びしょびしょに濡ぬれたような階段を二階にのぼると、そこに彼の事務所の名なふ札だが下げてあった。彼女は、入口に立っていちょっと逡しゅ巡んじゅんしたが、意を決して扉を叩いた。すると中から、
﹁どうぞ、おはいりください。扉に錠じょうはかかっていませんから、あけておはいりください﹂
と、若々しいはっきりした声が聞えた。風間光枝は、吾れにもなく、身体がひきしまるように感じて、扉を押した。すると、室内には、入ったすぐのところに大きな衝つい立たてがあって、向うを遮さえぎっていた。その衝立の向うから、ふたたび声がかかった。
﹁さあどうぞ。どうぞ、その椅子に掛けて、ちょっとお待ちください。ちょっといま手が放せないことをやっていますから、掛けてお待ちください﹂
﹁はあ、どうも。では失礼いたします﹂
風間光枝は、挨あい拶さつをかえして、入口を入った左の隅すみのところにある応接椅子に腰を下ろした。その傍わきに、別な部屋へいくらしい扉があって、閉っていた。その扉のうえには、どこかの汽船会社のカレンダーが﹁九月﹂の面めんをこっちに見せて、下っていた。
光枝の腰を掛けているところからは、やはり衝立の奥が見えなかった。彼女はしばらくじっとしていた。衝立の向うで声をかけたのは帆村であろうが、彼は一体なにをしているのか、ことりとも物音をたてない。
彼女は、すこし待ちくたびれて、眠ねむ気けを催もよおした。欠あく伸びが出て来たので、あわてて手を口に持っていったとき、突然思いがけなくも、彼女が腰をかけているすぐ傍わきの扉が、カレンダーごと、ごとんと奥へ開いた。そして一人の長身の紳士が、ぬっと立ち現れた。その手には写真の印いん画が紙しらしいものを二三枚もっているが、いま水から上げたばかりと見えて水すい滴てきがぽたぽた床のうえに落ちた。
︵奥から出てきたこの人は、一体誰だろう?︶と、風間光枝は心の中に訝いぶかった。
﹁やあ、どうも。たいへん早く来てくだすってありがとう。星野先生は、ちかごろずっと元気ですか﹂
﹁はあ。さようでございます﹂
﹁それは結構です﹂といって、その長身の紳士は光枝の前の椅子に腰を下ろして、じろじろこっちを見た。まだ光枝が名乗りもしないのに、紳士の方では、彼女のことを先せん刻こく知っているといったような態度を示しているのだ。どことなく薄うす気き味みわるさが、彼女の背せす筋じに匐はいあがってくる。
﹁失礼でございますが、貴方さまが帆村――帆村先生でいらっしゃいますか﹂
﹁ははあ、僕が帆村です﹂と無むぞ造う作さに答えて、﹁風間さんの背丈は、皮かわ草ぞう履りをはいたままで一メートル五七、すると正しょ味うみは一メートル五四というところで、理想型だ﹂
﹁えっ、いつそんなことをお測はかりになりましたの﹂と、光枝は思わず愕おどろきの声をあげた。
科学探偵の腕
帆村探偵は、一向平気な顔で、
﹁これは内ない緒しょですが、貴女も探偵だからいいますが、僕のところでは、訪問者が入口のところに立ったとき、自動的に身長を測ることにしています。もちろん光フォ電ト・管セルをつかえば、わけのないことです。あの入口の上をごらんなさい。一・五七と、まるでレジスターのような数字が幻げん灯とう仕じか掛けで出ているでしょうが﹂
﹁えっ、まあそんなことが……﹂光枝がふりかえると、なるほど入口の上の壁かべ紙がみに、一・五七という数字がでている。
﹁こうすれば、消えます﹂なにをしたのか、帆村がそういうと、数字はぱっと消えた。まるで魔術を見ているような塩あん梅ばいだった。なるほど帆村探偵という人は変っていると、光枝は感心した。
﹁貴女は内うち輪わの人だから、もう一つこれも御なぐさみにごらんにいれるかな。さあ、この写真はどうです﹂そういって帆村は、手にしていた水のまだ切れない三枚の細長い写真の表をかえして、光枝の方に押しやった。
﹁あら、まあ!﹂光枝は、自分でも後あとで恥はずかしいと思ったほど、頓とん狂きょうな声を出した。なぜといって、帆村がさしだした三枚の細長い写真には、表情たっぷりな光枝の半はん身しん像ぞうが五六十個も連続的にうつっているのであった。それは正面と横とが同時にとれていた。よく見るとなんのこと、それは今しがたこの部屋に入って、この椅子に腰を下ろすときから始まって、終りのところは、すこし睡ねむくなって口をあいて欠あく伸びをするところまで、いやにはっきりととれていたのであった。
﹁あら、まあ。あたくし、どうしましょう﹂風間光枝は、もう一度愕きの声を発した。
﹁きょう試験的に、この写真機を取付けてみたんです。ちょっと貴あな女たを材料に使ってみましたが、なかなかうまく撮とれる。一分間に六十枚まで撮れます。一つのレンズは、正面にあって、あの厚い辞書の中にあります。黒い紗しゃのきれが前に貼ってあるから、こっちから見ても分りません。もう一つのレンズは、そのカレンダーの下の方に黒い波がありますが、そこに窓があいていて、扉の向うから撮るようになっている。いや案外簡単なものですよ﹂
そういっただけで、帆村は光枝の表情の変化などについても一言も批評らしい口をきかなかった。それだけ光枝の方では、間が悪かった。
﹁先生は、お人がわるいんですのね﹂
﹁いや、どういたしまして。これが商売ですからね、そうじゃありませんか﹂帆村は、そういった後で、光枝の姿をじっと眺めていたが、やがて、
﹁ときに貴女は、なかなかいい身体をしていますね。うまそうな女というのは貴女のことだ。ちょっとこっちへいらっしゃい。誰も居ないから、大丈夫です﹂帆村はそういって、腰をうかすと、いきなり風間光枝の手首を握って、ひきよせた。
﹁まあ、先生﹂光枝は、愕きのあまり呼吸が停りそうになった。ここへ来る前、星野社長はわざわざ、帆村の潔けっ癖ぺきを保証したが、その話とはちがって、彼はとんでもない痴ちか漢んであった。六条子爵の場合よりも、もっともっと露ろこ骨つで下げ卑びている。光枝は、帆村と抗こう争そうしながら、そのとき脳のう裏りに電光の如く閃ひらめいたものがあった。それは、傍わきの衝つい立たての向うに、なにか手の放せない仕事をしているといった男のことを思い出したのだ。あの男は、彼女がこの部屋に入ったときからあそこにいて、静かに仕事をつづけているらしい。なぜなら、彼はどこへ立った気けは配いもないから、やはりあそこにいるにちがいないのだ。
﹁あっ、先生。およし遊ばせ。あの衝立の向うに仕事をしていらっしゃる所員の方に対しても、恥はずかしいとお思いにならないんですの﹂といって、帆村に握られた腕を無理やりに払った。
﹁えっ、所員ですって。そんな者はいませんよ。きょうは僕一人なんです﹂
﹁でも、さっきあの衝つい立たての向うから……﹂
﹁あっはっはっ、あの声ですか。あれは所員がいて、声を出したわけではなく、録ろく音おんの発はっ声せい器きなんです。自動式に、訪問客に対して挨拶をする器械なんですよ。嘘だと思ったら、こっちへ来て衝立の蔭をごらんなさい﹂
﹁そんなこと、嘘ですわ﹂と光枝はいったが、衝立の後を見ないではいられなかった。帆村が後にさったのを幸さいわいに、素すば早やくそこを覗のぞいてみて、あっと愕いた。なるほど、衝立の後には、誰もいない。小さな卓テー子ブルのうえに、なるほど録音の発声器らしいものが載っているだけだ。その附近には、人間の出ていく扉もなければ、人間の身体が隠れる物蔭もない。するとやっぱり帆村のいったとおりなのである。
また新たなその大きな愕きと、そしていよいよこの部屋の中に、自分は帆村と二人きりなんだと思うと、俄にぞくぞくとしてくる或る危険に対する戦せん慄りつ! 光枝は、とんでもないところへ来たものだと、胸がどきどきだ。はじめから安心しきって来ただけに、彼女はこの不ふい意う打ちに狼ろう狽ばいするしかなかった。あの入口には、きっともう、扉をしめるとがちゃんと閉る自動錠がかかっているのであろう。壁はこのとおり厚いし、第一窓というものがない。いくら喚わめいたって、もうどうにもなるまい。こうなるのも運命だ。彼女は、すっかり観念して、目を閉じた。
奇妙な任務
そのとき帆村の声が光枝の耳に入った。
﹁いや、どうも失礼しました。これからお願いする仕事に関して、予あらかじめ貴女の処しょ女じょ性せい反はん撥ぱつ力りょくといったようなものを験ためしておきたかったのです﹂帆村は、急に意外なことをいいだした。
﹁えっ、まあそんな……﹂
﹁でも、こいつばかりは話だけでも信用がなりません。やっぱり実験してみなくちゃね。さあ、そこへもう一度掛けてください﹂
光枝は、腹が立つというのか、それとも俄にわかに安心をしたというのか、妙な気持で、再び椅子に腰を下ろした。この年齢になるまで――といって彼女はお婆さんだという意味ではない、これはそっと読者に知らすわけだが、風間光枝の本当の年齢は、当とう年ねんとってやっとまだ二十歳なのである。――とにかく、こんなに愕きの連発をやったことがなかった。彼女は、改めて帆村の顔をぐっと睨みかえした。このまま部屋を出ていってやろうかと思ったほどだが、女探偵ともあろうものがと、どうにかこうにか自分の激げき情じょうをおし鎮め、帆村の次なる言葉を待った。
﹁うむ、僕は満足です。貴女なら、きっとうまくやるだろう﹂と、帆村はもとの冷い顔になって、しきりにひとりで肯うなずいて、
﹁――さて、貴女に頼みたい仕事のことなんですがね。或るお屋敷で、主人公が小こま間づか使いをさがしているのです。尤もっとも、前にいた小間使の娘さんは、僕が買収して、親の病気だと申立てて辞やめさせたんです。そこで後こう任にんの小間使が要いるわけだが、ぜひ貴女にいって貰いたいのです﹂いよいよ帆村は、こうまで彼女に手間どれた重大事件について語りだした。
﹁ねえ、ようがすか。そのお屋敷は、最近建てたばかりの洋館です。貴女は今もいったとおり小間使だが、こんど主人公の希望に従って、貴女は洋装をしてもらわねばならない。明めい朗ろうな娘になるのです。いま国こく策さくで問題になっているが、これも仕事のうえのことだから、ひとつ思い切って猛烈なパーマネントに髪を縮ちぢらせてください﹂
光枝は、最初はなにいってるかと思って聞いていたが、聞いているほどに、だんだん興味を覚おぼえてきた。これはなかなか念のいった冒険劇のようである。
﹁そこで、向うへいって貴女のする仕事だが、もちろん小間使なんだから、インテリくさい顔をしてはいけない。ほら、いまどき銀座通を歩けば、すぐぶつかるような時じき局ょく柄がらをわきまえない安い西洋菓子のような若い女! あの人たちの表情を見習うんですな。いや、これは女性の前で、ちと失しつ言げんをしたようだ﹂
光技は、またむらむらとしてきたものだから、何もいわずにいた。
﹁いいですか。向うへいったら、気をつけて、物を壊こわすんです。さかんに壊すんです﹂
﹁あらまあ、どうしてでしょう﹂向うへいったら、さかんに物を壊せ、気をつけて物を壊せといわれて、光枝はひどく愕おどろいた。どうも帆村のなすこと云うことは突とっ飛ぴすぎて、常識ではついていけない気がする。
﹁コーヒー茶ちゃ碗わんとか、花かび瓶んとか、灰皿とか、スタンドとか、そういったものを、あれっとか、あらっとかいいながら、じゃんじゃん下に墜おとして壊してください﹂
﹁そんなことをすれば、私はすぐ馘くびになってしまいますわ﹂
﹁なあに大丈夫。貴女なら馘の心配はないから、どしどし壊してください﹂
﹁弁べん償しょうしなくていいのですか﹂
﹁弁償なんか、心配無用です。ただ心懸けておいてもらいたいのは、行ってから二三日以内に、本棚のうえにおいてある青せい磁じい色ろの大おお花かび瓶んを必ず壊すこと、これはぜひやってください。そしてその翌朝、貴女は自分でハガキを入れにポストまで持って出るんです。いいですか﹂
﹁大花瓶を壊すことは分りましたが、翌朝ハガキを投とう函かんにいくといって、なんのハガキをもって出るのですか﹂
﹁誰あてのでもいいですよ。――それから大事なことは、けっして女探偵だと悟さとられないように振ふる舞まってください。ものを壊すにしても、良心にとがめるといったような菩ぼだ提いし心んを出さないで、こんな壊れ物を扱わせるから壊れるんじゃないの……ぐらいの太ふて々ぶてしさでやってください。なにしろすこしにぶい小間使らしく振舞ってください﹂と、帆村は自分の脳のう天てんに指をたてた。
﹁まあ、たいへん骨が折れますのねえ﹂
﹁まあ、そういわないで、やってください。主人公が何をいっても何をしても、例のすこしにぶい小間使の要領でいくんですよ﹂
﹁そんなことをして、どうしようというんですの。一体どんな事件なんですか。あたしにすこしぐらいお明あかしになったっていいでしょう﹂
﹁ううん、それがいけない﹂と帆村は大きく頭をふり、
﹁そのように貴女が探偵気どりでいちゃいかんです。あとのことは僕がうまくやるから、貴女はなにも愕かないで筋書どおりやってください。どこまでも、うぶな娘さんのつもりでいてください﹂
﹁そして低脳ぶりを発はっ揮きしろとおっしゃるんでしょう﹂そういって風間光枝は、横眼をつかって、さも憎にくらしげに帆村をじろりと見た。
破はか壊いさ作ぎょ業う
その日の夕方、風間光枝はすっかり仕度をととのえ、口くち入いれ屋やの番頭に化けた帆村に伴われて、問題のお屋敷の裏門をくぐった。
裏門から裏玄関へ。裏玄関といっても、なかなか堂々たるもので、家賃百円を出してもこれくらいの玄関はついていまいと思われる大たいした構かまえだ。
﹁ああ大木屋か。たいへん遅おそいもんだから、もう他へ頼んじまった。用はないから、帰れ、帰れ﹂この家の主人公にちがいない五十を二つ三つも越えた肥ひま満んか漢んが、白い麻のゆかたを着て、裏玄関までのこのこ出て来た。よほど暑がり屋と見える。
﹁へえ、どうも相あい済すみませんでございました。じつはこちらさまにきっとお気に入ること大うけあいという上じょ玉うだまがありましたもんで、それを迎えに行っておりましたような次しだ第いで――ところがこれが埼さい玉たまの在ざいでございまして、たいへん手間どれました。ここに控ひかえておりますのが、その一件でございまして、在には珍らしい近代的感覚をもちました娘でげして……﹂
﹁こら、大木屋。こんどだけは特に大目に見てやるが、この次から容よう赦しゃせんぞ。この次は絶対出でい入りさ差し止とめだ。特にこんどだけは――おい、なにをぐずぐずしとる。早くその――ええソノ阿あ魔まっ児こを上へあげろちゅうに﹂
旦那様は、たいへんな騒ぎ方であった。
帆村は、わざとなんにもこの旦那様について説明をしなかったが、玄関の段でもって、この旦那様のこれまでの半はん生せいがはっきり分ったような気がした。なにかぼろい大仕事をして成上った人物で、教育なんぞはないくせに、尖せん端たん的てき文化の乱らん食じき者しゃであることが、絵に描いてあるように、光枝にははっきり見えるのだった。
そこで光枝は、早さっ速そくその夜から、旦那様づきの小間使として、まめまめしく仕つかえることとなった。
﹁ふふふん﹂ときおり光枝のうしろで、そういう咳せきばらいとも呻うなり声ともつかないものが聞えた。そのようなとき、光枝がふりかえってみると、必ずそこに旦那様のきらきらした眼があって、とたんに旦那様は犬にとびこまれた鶏とりのようにばたばたと狼ろう狽ばいなされるのであった。
旦那様は、非常に無口の方であった。但しこれはあたらしい小間使の光枝に対してだけの話で、その他のお手伝いさんや使用人は、方言まじりの言葉で、こっぴどく叱しかりつけられていた。
その夜のうちに、光枝は廊下のうえにコーヒー茶碗をおとして、がちゃんと割った。それが開かい業ぎょ式うしきだった。早速その夜のうちにこの仕事を始めておかなければ、その次の日になってやりだすには、ちとやりにくいだろうと思い、ともかくも一発だけはその夜のうちにやっておくことに決心したからであった。
がちゃんと、たいへんな音がして、コーヒー茶碗の皿がたくさんの小こぎ片れに分れて、あたりに飛びちった。茶碗の方は、小こに憎くらしくも、把とっ手てが折れたばかりだった。
﹁な、な、な、なにをしおった?﹂と、居間から旦那様の叫きょ喚うかん! つづいて廊下をずしんずしんと旦那様の巨きょ躯くがこっちへ転がってくる気配がした。反対の方からは、雇やと人いにんの一隊が、それというので駆けつける。これは茶碗が破われた音に愕いたというよりも、旦那様の怒どせ声いに対応して駆けつけたのであった。
﹁うううう、なんだギンヤがやったのか﹂
ギンヤ――というのは、銀やと書くべきか銀ぎん弥やと書くべきか、よくわからないが、ともかくもこれがこの邸やしきにおける風間光枝の源げん氏じ名なであった。――旦那様は、呶ど鳴なりつけるつもりだったらしいが、新任の楚そ々そたるモダン小間使のやったことと分ると、くるしそうにえへんえへんと咳せきばらいをして、早そう々そう奥へひきあげていった。その代り、他の雇人隊が、口を揃えて光枝の不ふし始ま末つを叱りつけ、があがあぶつぶつはいつ果はつとも見えなかった。するとまた、奥の方からずしんずしんどんどんと、旦那様の豪快なる跫あし音おとが近づき、
﹁こりゃ、いつまでも騒々しいじゃないか。壊れたものはしようがない。早く片づけて、しずかにしろ。このバルシャガルどもめ!﹂なにがバルシャガルどもめか、なにしろこの旦那様のいう言葉の中には、時として訳の分らない言葉がとびだす。
とにかく、ギンヤこと風間光枝の什じゅ器うき破はか壊いぎ業ょうの店開きは、こうして行われた。
そのとき光枝が感じたことは、物を壊すことは、案外気持のいいことである。もちろん物ぶっ資しあ愛い護ごの叫ばれる現げん下かの国策に背はい馳ちする行為ではあったが、しかし光枝の場合は、壊すための理由があった。つまりそれは、帆村探偵から頼まれて、なにかの事件解決のためやっていることゆえ、国策に背馳するものだとはいえない安心があった。すなわち、がちゃーんの音を聞く瞬間、光枝の胸の中に鬱うっ積せきした不満感といったようなものが、一時的ではあったが、たちまち雲うん散さん霧むし消ょうしてしまうのを感じたことであった。
だが、なにゆえに、什器破壊作業をやらなければならないか、その理由の本ほん体たいについては光枝は何にも知らなかったし、なんにも思い当ることがなかった。
犠ぎせ牲いの大おお花かび瓶ん
小間使ギンヤの什じゅ器うき破はか壊いさ作ぎょ業うは、その第二日にいたって、俄がぜ然ん猖しょ獗うけつを極きわめた。まず起きぬけに、電灯の笠をがちゃーんとやったのを手始めに、勝手元ではうがいのコップを割り、それから旦那様の部屋にいって灰皿を卓テー子ブルのうえから取り落し︵たことにして実は指先でちょいとついたのだった︶、たちまち旦那様をベッドの上から下へ顛てん落らくさせたのだった。
﹁わーあ、な、な、なにごとじゃ﹂
﹁どうもすみませんでございます﹂
﹁おお、ギンヤか。なに、灰皿を壊した。朝っぱら大きな音をたてちゃ困るね。わしはこの節せつ、心臓がすこし弱っとるんで、物を壊してもなるべくしずかにやってくれ﹂そういって、旦那様はまたベッドにもぐりこんでしまった。光枝が見ると、旦那様は、壁の方に向き伏して、その大きな肉にく塊かいが、早いピッチでうごめいているのを認めた。
﹁あんた、なんか業ごう病びょうがあるんじゃない。だって指先に一向力がはいらないじゃないの﹂責任者のお紋もんというのに、光枝はたっぷり皮ひに肉くをいわれた。
﹁病気なんてありませんけれど、あたし、そそっかしいのですわ。これから気をつけます﹂
﹁そそっかしいのも、病気の一つだよ。子供じゃあるまいし、十六七にもなって――ちょいとお前さん、年と齢しはいくつだっけね、わたしゃ洋装の女の子の年齢がさっぱり分らなくってね﹂
﹁あら、いやですわ。あたし、もっと上ですわ﹂
﹁じゃあ十八てえとこ?﹂
﹁ほほほほ、ほんとはもう一つ上の十九ですけれど﹂と、光枝は嘘をついた。
﹁へえー、お前さん、十九かい。まああきれたわね。わたしゃ十六七とばかり思っていたよ。じゃあもう色いろ気けもたっぷりあって――旦那様もなかなか作戦がしっかりしていらっしゃるわね。へえ、そうかい、十九とは……﹂お紋は、ひとりで感心していた。
﹁あのう、うちの旦那様の御商売は、なんでいらっしゃいますの﹂
﹁ああら、あんたそれを知らないで来たの﹂
﹁ええ﹂
﹁ずいぶん呑のん気きな娘ね。知らなきゃ、いってきかせるが、うちの旦那様はやまを持っていらっしゃるのよ﹂
﹁え、やま? 鉱こう山ざんのことですの﹂
﹁そうそうその鉱山よ。金銀銅鉄鉛なまり石炭、なんでも出るんですって。これは内ない緒しょだけれどね、うちの旦那様は、お若いときダイナマイトと鶴つる嘴はしとをもって、日本中の山という山を、あっちへいったりこっちへきたり、真黒になって働いておいでなすったんですとさ。つまり、鉱夫をなすっていらっしゃったのよ。そんなこと、わたしが話したといっちゃいやーよ。わたしゃお前さんが好きだからおしえてあげたんだがね﹂お紋は、ふふふふと鼻のうえに皺しわをよせて気味のわるい笑い方をした。
︵鉱山成なり金きんだったのか?︶帆村探偵ときたら、仕事を自分に頼んでおきながら、これから働かせる家の主人公がなにを商売にしているかも教えなかったんだ。お紋がこれだけ喋しゃべれば、もういい。帆村探偵なんか、間抜けの標本みたいなもんだと、光枝はひそかに鼻を高くしたことだった。
だが一体、鉱山業のこの家の主人公と、そして帆村が苦心しつつある探偵事件と、どういう事柄によって繋つながっているのであろうか。それについて光枝はすこしの手懸りも持ち合わせていなかったが、彼女も女探偵のことであるから、この興味ある事実をそのうちにきっと探し当ててみせるぞと、心の中で宣言したことだった。
こうなれば、早い方がよかろうと思って、光枝は帆村から頼まれた大花瓶を、その日の午後、見事にがちゃーんと壊してしまった。なにしろ旦那様の居間は、床が煉瓦で敷いてあったから、下におとせば必ず失敗の虞おそれなく完全に壊れてしまうのだった。もっともその煉瓦のうえには、立派な絨じゅ緞うたんが敷しいてあったが、それは小さくて、本棚の下は煉れん瓦がだけがむき出しになっていた。
﹁あれえ――﹂光枝は、大花瓶を手から離すときに、もっともらしい声をかけておいた。それから手を離したのであるが、なにしろ大きな花瓶のことであったから、かなり派手な音がして破片はあたりに飛び散り、その一つが彼女の脚に当った。とたんにびりびりと灼やきつくような痛いた味みである。
﹁あっ、怪我をした!﹂チョコレート色の絹の靴下は、見るも無むざ慙んに斜に斬れ、その下からあらわに出た白い脛すねから、すーっと鮮せん血けつが流れだした。
︵あ、困った︶そのとき、厠かわやの扉が、はげしく鳴りひびき、中から旦那様が、茹ゆで蛸だこのような頭をふりたてて出てきた。
﹁なんじゃ、なんじゃ。やっ、またギンヤか。なにを壊した。えっ、その棚のうえにあった大花瓶か。うーむ、それは……﹂とたんに旦那様の顔から血がさっと引いた。
﹁ううむ。――﹂と、旦那様は急にそわそわして、壊れた花瓶には目もくれず室内をぐるっと見まわした――が、そこで胸を拳こぶしでとんとん叩きながら、
﹁ああ、おどろいた﹂と呻うめくようにいった。
そこへ責任者のお紋をはじめ、お手伝いさんの一隊がばらばらと駆けつけた。
﹁あらまあ、またオギンさんが壊したの。きょうはこれで七つ目よ﹂
光枝は光枝で、傷口をおさえて、その場に坐りこみ、
﹁あいたたた﹂と叫ぶ。旦那様は、光枝の負傷にやっと気がついた。
﹁おう、えらい怪我をやったな。そりゃ早く手当をせんといかん。ほら、この莨たばこをもんで傷口につけろ。このハンカチでおさえて、そして医者を呼べ﹂
﹁あらまあ、オギンさん、怪我をしたの。天てん罰ばつ覿てき面めんよ﹂
﹁こら、なにをいっとるか。早くハンカチで結ゆわえてやれ、それからこの壊れ物を早く片づけて――﹂と、旦那様はいったが、どうしたわけか急にまた周あ章わてて、
﹁おい、皆、早く向うへいけ。片づけるのはあとでいいから、早く向うへいけ﹂
﹁はい、はい﹂といいながら、お紋は光枝の怪け我がした脚にハンカチを結きつけようとしているのを見て、旦那様はさらに大きな声で、
﹁こら、ここで結えなくともいい。ギンヤを早く向うへ担かついでいけ。こら、早くせんか﹂
旦那様が目に入れても痛くない筈はずのギンヤまで、矢やに庭わに退場を命ぜられるとは、このとき旦那様の胸に往来するよほどの不安があったものらしい。その不安とは?
中間報告
光枝は、かねて帆村との約束で、大花瓶破壊事件の騒ぎが一通りかたづくと、その足でハガキを出しに屋敷を出た。彼女がポストに近づいたとき、ポストの向うから、
﹁やあ、だいぶん涼すずしくなりましたねえ﹂と声をかけたものがある。もちろんそれは帆村荘六だった。光技は、どぎまぎして、
﹁あら、まあ先生﹂と叫んだ。
﹁さあ早いところ伺いましょう。もう大花瓶を壊したんですか﹂
﹁あら、早すぎたかしら﹂
﹁そんなことはありません。大いに結構です。ところで貴女は探偵だから分るでしょうが、あの大花瓶を壊されてから主人公は、なにか室内の什じゅ器うきの配置をかえたということはありませんか﹂
﹁あーら、先生は都合のいいときばかり、あたくしを探偵扱いなさるのですね。そんな勝手なことってありませんわ﹂と、やりかえしたが、心の中ではいよいよ事件の核心にふれてきたんだわと光枝はひそかに胸をどきどきさせた。
﹁そんなことはどうでもいい。あとで皆一つに固め貴女の抗議をうけることにしましょう。――で、いまの返事は、どうなんですか。まさか貴女は、それについてなんにも気がつかないというわけではありますまい﹂帆村は、日頃の彼にも似合わず、妙に焦あせり気味になっていた。
﹁そうですわねえ﹂と光枝はわざと間のびのした返事をして、帆村がじれるのを楽しみながら、﹁旦那様のお居間の什じゅ器うきで、位置の変ったものといえば――﹂
﹁なんです、その位置の変ったものは?﹂
﹁木きぼ彫りの日にっ光こうの陽よう明めい門もんの額がくが、心持ち曲っていただけです﹂
﹁ふむ、やっぱりそうか。その外に変ったものがもう一つあるでしょう﹂
﹁いいえ、他にはなんにもありませんわ﹂
﹁いや、そんなことはない。きっと有る筈ですよ。それとも貴女の鈍にぶい探たん偵てい眼がんには映らないのかもしれない﹂
﹁まあ、――﹂と光枝は、むかむかとしたが、
﹁なんとでもおっしゃい。ですけれど、他にはなんにも変ったものはありませんのよ﹂
﹁そんな筈はないんだ。そこが一番大切なところなんだが――ちぇっ、仕方がない﹂と帆村は無念そうに唇を噛んで、﹁とにかく壊れた什器は、至急補充します。それから大花瓶は、ちゃんと元のところに置くようにしてくださいね﹂
﹁だって大花瓶は、きょう壊してしまったんじゃありませんか﹂
﹁だから、至急あとの品を補充するといっているじゃありませんか﹂
﹁ああ、また新しい花瓶がくるのですか﹂
﹁貴女も案外噂ほどじゃないなあ﹂
光枝は、それが聞えないふりをして、
﹁そして先生が持っていらっしゃるの﹂
﹁そんなことは、貴女が心配しなくてもいいです﹂
﹁先生、それから……﹂
﹁頼んだことだけはやってください。もっと気をつけているんですよ。失敬﹂帆村は、はなはだ不機嫌で、ろくに光枝の言葉を聞こうともせず、向うへいってしまった。
光枝は、妙にさびしい気持をいだいて、お屋敷へかえった。そのさびしい気持は、やがて一種の劣等感と変った。
︵果して自分は、帆村のいったように探偵眼が鈍くて、当然旦那様の居間に起っているはずの什器の位置変化に気がつかないのだろうか︶
光枝は、旦那様の居間へはいっていった。旦那様は、そこにいらっしゃらなかった。どこにいかれたのであろうか。来らい客きゃくかもしれない。機会は今だと思った彼女は、あたりを見まわして、誰もいないことを確たしかめると、つと木彫の日光陽明門の額の前に近よった。そもそも、この額一枚が、あの大花瓶の破壊以後に位置の変化をやった唯一の品物なのである。この額に、なにか重大なる意味がひそんでいるのだ。それは一体なんであろうか。
伸びあがって光枝が見ていると、その額はずいぶん大した彫ほり物もの細ざい工くであった。額の奥から、一番前に出ている陽明門の廂ひさしまで、奥おく行ゆきが二寸あまりもあって、極めて繊細な彫ほりがなされてあった。これはよくある一枚彫なのであろうが、このように精せい巧こう緻ちみ密つなものにはじめてお目にかかった。
だが、彫を感心しているばかりでは仕方がない。なにかこの額に関して秘密があるのである。それはなんの秘密であろうか。
﹁ああ、もしかすると……﹂そのとき光枝の頭に閃ひらめいたのは、この部ぶあ厚つい一枚彫の陽明門が、じつは一枚彫ではなくて、陽明門のあたりだけが、ぽっくり嵌はめこみになっているのではあるまいか。そしてそれを外すと、この額が実は一つの箱になっている。つまり秘密の隠し箱である。
﹁きっと、そうかもしれないわ﹂光枝はそれをたしかめるために、つと手を額の方に伸ばした。そのとたんであった。彼女の背後にえへんと大きな咳払いが聞えた。
︵失し敗まった!︶と思ったが、もう遅い。あの咳払いは、旦那様だ。
意外なる収しゅ穫うかく
﹁ギンヤ、そこでなにをしているのじゃ﹂
﹁はい。この額がすこし曲って居りますので﹂
﹁なに、曲っていたか。はっはっはっ、曲っていてもいい。そのままにしておけ﹂
﹁でも、すぐでございますから﹂
﹁いや、手をふれることならん。すこしの曲りを直すつもりで、とたんに下に落されて、額がめちゃめちゃに壊れてしまっては大損じゃからな。わしはもういい加かげ減ん懲こりとるでな﹂
﹁どうもすみません﹂
﹁なあに、謝まらんでもいい、壊されるのには懲りていながら、あんたに居てもらうというは、そこにソノ……﹂といっているとき、廊下の向うから、呼ぶ声がしたので、光枝は毒どく蛇じゃの顎あぎとをのがれる心ここ地ちして、旦那様の前を退さがった。
それから暫しばらくして、光枝は、菊の花を一杯生けこんだ大花瓶をもって現れた。そしてそれを本棚の上にそっと置いた。そして電気をつけた。
旦那様は、安楽椅子に寄懸って、もう居いね睡むりをしてござった。だがそれは狸たぬ寝きね入いりらしく、ときどき瞼まぶたがぴくぴくと慄ふるえて、薄眼があく。もちろん旦那様の視線は、光枝の着物のうえから身体をつきさしている。
﹁旦那様、御ごに入ゅう浴よくをどうぞ﹂
﹁いや、きょうはわしは、はいらんぞ﹂
眠っている筈の旦那様が、はっきり返事をした。あの入浴好きの旦那様が、いつになくはいらないとおっしゃる。
光枝は、ははあと思った。
︵ああそうだったのか。帆村先生が、もう一ヶ所、位置の変ったものがある筈だとおっしゃったのは、この意味だったか︶
――というのは、外でもない。たしかに、或る一つの重要物件が、あの陽よう明めい門もんの額から取出されたのだ。そしてこの居間の、他のいずれかの場所に移されたのだ。帆村はその移された場所を光枝に質問したのだ。ところが光枝は、知らないと答えたので、帆村が悲観したのであるが、まさかその重要物件が、陽明門の額から出て、旦那様の懐かい中ちゅうに移されたとは、さすがの帆村も気がつかなかったのであろう。しかるに光枝は一歩お先に、そのことに気がついた。
まだ帆村探偵の知らない事実を、風間女探偵は知っているのだ。彼女はちょっと得意であった。
だが、その重要物件というのがなんであるか、光枝には分っていなかった。帆村は大体知っているのであろう。知っていればこそ光枝などをこんなところへ住込ませて、大おお袈げ裟さな捜そう査さじ陣んを張っているのだ。
︵いいわ、こっちで先生よりもお先へ、その重要物件を失敬してしまおう︶。そう決心した光枝は、その夜よ更ふけて、朋ほう輩ばいの寝息を窺うかがい、ひそかに旦那様のベッドに近づこうとした。だがそれは失敗だった。ベッドの置かれてある主人公の居間は、錠がちゃんと下りていて、明あける術すべがなかった。
その翌朝のこと、光枝は旦那様の居間へはいっていった。旦那様は、起きて莨たばこを喫すっていた。彼女は挨拶をして、朝刊新聞をベッドのところへ持っていった。
旦那様は、きょうは不機嫌と見えて、常に似ず一言も冗じょ談うだんさえいわない。そして蒼い顔をして、眼が血走っていた。その間にも光枝は、この室内を一応隅から隅までぐるっと見廻すことを忘れなかった。
︵あっ、あそこだわ!︶炯けい眼がんなる彼女の小さな眼に映えいじた一つの異変! それは高い天井の隅にある空気抜きの網あみ格ごう子しが、ほんのちょっと曲っていたことである。それに気がついて、大だい理りせ石きの洗面器の傍にかかっているタオルを見ると、これが真黒になってよごれていた。
︵たしかにそうだわ。例の重要物件は、旦那様の懐中を出て、あの空気抜きの網あみ格ごう子しをあげて、天てん井じょ裏ううらに隠されたのにちがいない!︶
光枝の胸は、またどきどきしてきた。じつに大発見である。
光枝は、じっとしていられない気持になって、ハガキを握ると、ポストのところへいってみた。まさかこの早朝から、そこに帆村が来ているとは思わなかったけれど、家にじっとしていることには耐えられなかったのだ。
﹁やあ、とうとう突つき留とめたかね﹂ポストのかげから、帆村がぬっと顔を出して、いきなりそういったものだから、光枝はびっくりした。
光枝の報告は、帆村を躍りあがって悦よろこばせた。そして二人は、連立ってお屋敷の方へ引返した。その途中、帆村が早口にいった話によると、
﹁もう隠す必要はないだろうが、あの大将は、じつはもう一人の仲間と協力して探しあてた或る重要資材の鉱こう脈みゃくのことを、内緒にしているんだ。その仲間というのは、山の中で縊いし死じ自さ殺つの形で白はっ骨こつになっているのを発見されたが、遺書もなんにもない。ただその生せい前ぜん一枚のハガキが、その遺族の許に送られていたが、それによると、あの大将と最近大発見をしたから、やがて大金持になって、これまでお前たちにかけた苦労を一ぺんで取返すということが書いてあった。だが、何を発見し、どこで発見したのか、それについては一いち言ごんも触ふれてなかった。そこで仕方なく、あの大将の身しん辺ぺんから秘密を探しだす必要が生じたのだ。何を発見し、それをどこから発見したか。これからいって、のっぴきならぬ証拠をつきつけて、あの大将の口から聞くんだ。さあ、君はさきへ帰りたまえ。僕は表門から案内を乞うから﹂と、帆村ははじめて事件の内容を語ったのだった。
光枝がお屋敷へ戻ってみると、ただならぬ様子である。なにごとが起ったのか。
﹁いや、お前さん。たいへんなんだよ。旦那様のお居間で、大きな音がしたんだけれど、皆で入っていこうとしても、扉に錠がかかっていて明あかないんだよ。窓にもカーテンが下りていて、中は見えないしさ、困っちまうね。それに中には旦那様がいらっしゃる筈なのが、しーんとしているんだよ。気味がわるいじゃないかねえ﹂
お紋はぶるぶる慄ふるえていた。でも、男たちが窓を外から破って、室内へはいった。
﹁おい、たいへんだ。旦那様が縡こと切きれておいでだ﹂扉を内側から開けて、下男たちがいった。
旦那様は、たしかに居間の絨じゅ緞うたんのうえに大だいの字じにのびて死んでいた。
その傍には、小卓テー子ブルや椅子などが倒れており、大きな桐きりの箱なども転がっている。
そのとき室内へ組立て梯はし子ごを担かつぎこんできたものがあったが、それは別人ならぬ帆村だった。彼はするすると身軽にそのうえにのぼって、天井裏の網格子を外して、そこから小袋をとりだした。
﹁うむ、これだ﹂
小袋の口を明けて逆にしてみると、黄色っぽい鼠がかった鉱石が転がり出た。
﹁ふん、これは水すい鉛えん鉱こうだ。珍らしくなかなか良質のものだ。光枝さん、大手柄だぞ﹂
さてここに隠されていた鉱石は現れたが、その鉱脈の所在を書いた地図も書類も、ついに見当らなかったので、光枝はがっかりした。だが帆村は、光枝の耳にそっと口をよせて、
﹁まだ悲観するのは早い。もう一つ、取って置きのタネがあるんだ﹂
﹁まあ、それはほんとですの。そのタネは、なあに﹂
﹁それはあの新しい大花瓶の中にあるんだ﹂
﹁えっ﹂
﹁つまりあの大花瓶の中に、君をいつか愕おどろかせた録音の集しゅ音うお器んきが入っているんだ。昨さく夜やひ一とば晩ん、あの集音器はこの居間にいて、主人公の寝ねご言とを喰べていたんだ。僕はその寝言の録音に期待をもっているんだよ﹂
﹁まあ、そんなことをなすったの﹂
光枝の愕きはのちに帆村が大花瓶の中に仕掛けた録ろく音おん線せんから、主人公の寝言を摘てき出しゅつしたときに絶頂に達した。例の不正な鉱脈の秘密が知られるかと気がかりの主人公は、ついに寝ねご言とのうちに、いくたびかその鉱山の位置を喋っていたのであった。ここに事件は解決した。
光枝は、この事件で立たて役やく者しゃではなかったけれど、科学探偵帆村の活躍ぶりに刺しげ戟きされて、元のように朗ほがらかな気分の女性に返った。