三十年前の島田沼南

一

　島(しま)田(だし)沼(ょう)南(なん)は大政治家として葬られた。清廉潔白百年稀(まれ)に見る君子人として世を挙げて哀悼された。棺を蓋(おお)うて定まる批評は燦(さん)爛(らん)たる勲章よりもヨリ以上に沼南の一生の政治的功績を顕揚するに足るものがあった。
　沼南には最近十四、五年間会った事がない。それ以前とて会えば寒(かん)暄(けん)を叙する位の面識で、私邸を訪問したのも二、三度しかなかった。シカモその二、三度も、待たされるのがイツモ三十分以上で、漸(ようや)く対座して十分かソコラで用談を済ますと直(す)ぐ定(きま)って、﹁ドウゾ復(ま)たお閑(ひま)の時御ユックリとお遊びにいらしって下さい﹂と後日の再訪を求めて打切られるから、勢い即時に暇(いと)乞(まご)いせざるを得なくなった。随(したが)って会えば万(まん)更(ざら)路人のように扱われもしなかったが、親しく口を利(き)いた正味の時間は前後合して二、三十分ぐらいなもんだったろう。
　が、沼南の﹁復たドウゾ御ユックリ﹂で巧みに撃退されたのは我々通り一遍の面識者ばかりじゃなかった。沼南と仕事を侶(とも)にした提携者や門下生的関係ある昵(じっ)近(きん)者さえが﹁復たユックリ来給え﹂で碌(ろく)々(ろく)用談も済まない中(うち)に撃退されてブツクサいうのは珍らしくなかった。
　尤(もっと)も沼南は極めて多忙で、地方の有志者などが頻(ひん)繁(ぱん)に出入していたから、我々閑(ひま)人(じん)にユックリ坐(すわ)り込まれるのは迷惑だったに違いない。かつ天下国家の大問題で充満する頭の中には我々閑人のノンキな空談を容(い)れる余地はなかったろうが、応酬に巧みな政客の常で誰にでも共鳴するかのように調子を合わせるから、イイ気になって知己を得たツモリで愚談を聴いてもらおうとすると、忽(たちま)ち巧みに受流されて﹁復たおヒマの時に御ユックリ﹂で撃退されてしまう。
　由来我々筆舌の徒ほど始末の悪いものはない。談ずる処は多くは実務に縁の遠い無用の空想であって、シカモ発言したら々(びび)として尽きないから対(あい)手(て)になっていたら際限がない。沼南のような多忙な政治家が日に接(せっ)踵(しょう)する地方の有志家を撃退すると同じコツで我々閑人を遇するは決して無理はない。ブツクサいうものが誤っておる。
　が、沼南の応対は普通の社交家の上(うわ)ッ滑(すべ)りのした如才なさと違って如(い)何(か)にも真率に打解けて対手を育服さした。いつもニコニコ笑(えが)顔(お)を作って僅(わず)か二、三回の面識者をさえ百年の友であるかのように遇するから大抵なものはコロリと参って知遇を得たかのように感激する。政治家や実業家には得てこういう人を外(そ)らさない共通の如才なさがあるものだが、世事に馴(な)れない青年や先輩の恩顧に渇する不遇者は感激して忽ち腹心の門下や昵近の知友となったツモリに独(ひと)りで定(き)めてしまって同情や好意や推(すい)輓(ばん)や斡(あっ)旋(せん)を求めに行くと案外素(そっ)気(け)なく待(あし)遇(ら)われ、合力無心を乞う苦学生の如くに撃退されるので、昨の感激が消滅して幻滅を感じ、敵意を持たないまでも不満を抱き反感を持つようになる。沼南ばかりじゃない。

二

　沼南は終始一貫清廉を立(たて)通(とお)した。少くも利権割取を政治家の余得として一進一退を総(すべ)て金に換えて怪(あやし)まない今の政界にあっては沼南は実に鶏(けい)群(ぐん)の一(いっ)鶴(かく)であった。
　が、清廉を看板にし売物にする結果が貧乏をミエにする奇妙な虚飾があった。無論、沼南は金持ではなかった。が、その社会的位置に相応する堂々たる生活をしていたので、濁富でないまでも清貧を任ずるには余りブールジョア過ぎていた。それにもかかわらず、何かというと必要もないのに貧乏を揮(ふり)廻(まわ)していた。
　沼南が今の邸宅を新築した頃、偶然訪問して﹁大層立派な御普請が出来ました、﹂と挨(あい)拶(さつ)すると、沼南は苦笑いして、﹁この家も建築中から抵当に入ってるんです﹂といった。何の必要もないのにそういう世帯の繰(くり)廻(まわ)しを誰にでも吹(ふい)聴(ちょう)するのが沼南の一癖であった。その後沼南昵近のものに訊(き)くと、なるほど、抵当に入ってるのはホントウだが、これを抵当に取った債権者というは岳(がく)父(ふ)であったそうだ。
　これも或る時、ドウいう咄(はなし)の連続であったか忘れたが、例の通り清貧咄をして﹁黒くとも米の飯を食し、綿布でも綿の入った着物を着ていれば僕はそれで満足している﹂と得(とく)々(とく)としていった。沼南が平生綿服を着ているかドウかは知らぬが、その時の沼南はリュウとしたお召か何かでゾロッとしていたのだから挨拶に窮した。
　その後、沼南昵近の或る男に会った時、その話をして、﹁何だってアンナに貧乏ぶるんだろう、﹂というと、
﹁アレは沼南の癖だよ、﹂といった。﹁ツイこの頃も社︵毎日新聞社︶で沼南が、何かの話のついでに僕はマダ抱(かか)え俥(ぐるま)を置いた事がない、イツデモ辻俥で用を足すというンのだ。沼南の金紋護(ゴ)謨(ム)輪(わ)の抱え俥が社の前にチャンと待ってるんだからイイじゃないか。社の者が沼南の俥を知らないとはマサカに思ってもいまいが、他の者が貧乏咄をすると自分も釣られて負けない気になってウッカリいってしまうんだネ。お目出たい咄サ。こんな処はマア低能だネ。﹂
　沼南の清貧咄は強(あなが)ち貧乏を衒(てら)うためでもまた借金を申込まれる防(ぼう)禦(ぎょ)線を張るためでもなかったが、場合に由(よ)ると聴(きき)者(て)に悪感を抱かせた。その頃毎日新聞社に籍を置いたＧ・Ｙという男が或る時、来て話した。﹁僕は社の会計から煙草銭ぐらい融通する事はあるが、個人としての沼南には一銭だって借りた覚えがない。ところがこの頃退(のっ)引(ぴき)ならない事情があって沼南に相談すると、君の事情には同情するが金があればいいがネ、と袂(たもと)から蟇(がま)口(ぐち)を出して逆(さか)さに振って見せて、﹁ない、同情するには同情するが生(あい)憎(にく)僕にも金がない﹂という、こういう挨拶だ。貸す気がないなら貸さんでもいい、無理に借りようとはいわない。何も同情呼ばわりして逆さに蟇口を振って見せなくても宜(よ)かろう、﹂と、プンプン怒(おこ)って沼南を罵(ばと)倒(う)した事があった。
　その頃の新聞社はドコも貧乏していた。とりわけ毎日新聞社は最も逼(ひっ)迫(ぱく)して社員の給料が極めて少かった。妻子を抱えているものは勿(もち)論(ろん)だが、独身者すらも糊(ここ)口(う)がし兼ねて社長の沼南に増給を哀願すると、﹁僕だって社からは十五円しか貰(もら)わないよ﹂というのが定(きま)った挨拶であった。増給は魯(おろ)か、ドンナ苦しい事情を打明けられても逆さに蟇口を振って見せるだけだ。﹁十五円であの生活が出来るかい。十五円はウソじゃアあるまいが、沼南の収入は社の月給ばかりじゃなかろう。コッチは社から貰う外にドコからも金の入る道はないンだぜ、﹂と、沼南に逆さに蟇口を振って見せられた連中は沼南の口先きだけの同情をブツクサいっていた。

三

　それでも当時の毎日新聞社にはマダ嚶(おう)鳴(めい)社(しゃ)以来の沼(ぬ)間(ま)の気風が残っていたから、当時の国士的記者気(かた)質(ぎ)から月給なぞは問題としないで天下の木(ぼく)鐸(たく)の天職を楽(たのし)んでいた。が、新たに入社するものはこの伝統の社風に同感するものでも、また必ずしも沼南の人物に推服するものばかりでもなかったから、暫らくすると沼南の節度に慊(あきた)らないで社員は絶えず代謝して、解体前の数年間はシッキリなしにガタビシしていた。
　就(なか)中(んずく)、社員が度々不平を鳴らし、かつ実際に困らせられたのは沼南の編輯方針が常にグラグラして朝令暮改少しも一定しない事だった。例えば甲の社員の提言を容れて直ぐ実行してくれと命じたものを乙の社員の意見でクルリと飜えして肝(かん)腎(じん)の提言者に通告もしないでやめてしまう。そんな事とは知らないから前に命ぜられた社員は着々進行して率(い)ざ実現しようとなると、﹁アレはやめにした、﹂とケロリと冷(す)ました顔をしている。自分ばかりが呆(あっ)気(け)に取られるだけなら我慢もなるが、社外の人に手数を掛けたり多少の骨(ほね)折(おり)をさせたりした事をお関(かま)いなしに破(は)毀(き)されてしまっては、中間に立つ社員は板(いた)挟(ばさ)みになって窮してしまう。あるいはまた、同じ仕事を甲にも乙にも丙にも一人々々に﹁君が適任だから骨を折ってくれ﹂と命ずる。自分だけが命ぜられたツモリで各(めい)々(めい)一生懸命になって骨を折ってると、イツカ互に同(どう)士(しう)討(ち)している事が解るから誰も皆厭(いや)気(き)がさして手を引いてしまう。手を引くばかりでなく反感を持つようになる。沼南統率下の毎日新聞社の末期が惰気満々として一人も本気に働くものがなかったのはこれがためであった。
　松隈内閣だか隈板内閣だかの組閣に方(あた)って沼南が入閣するという風説が立った時、毎日新聞社にかつて在籍して猫の目のようにクルクル変る沼南の朝令暮改に散(さん)三(ざ)ッ原(ぱら)苦しまされた或る男は曰(いわ)く、﹁沼南の大臣になるなら俺(おれ)が第一番に反対運動する、国家の政治が沼南のお天気模様で毎日グラグラ変られて堪(たま)るもんか、﹂と。
　毎日新聞社が他へ譲り渡された時、世間では十日も前から噂(うわさ)があったが、社員は燈(とう)台(だい)下(もと)暗(くら)しで、沼南の腹心はあるいは知っていたかも知らぬが、平(ひら)の社員は受渡しの済んだ当日になっても知らなかった。中には薄(うす)々(うす)感づいて沼南の口(くち)占(うら)を引いて見たものもあったが、その日になっても何とも沙(さ)汰(た)がないので、一日社務に服して家へ帰ると、留守宅に社は解散したから明日から出社に及ばないという葉書が届いているんだから呆(あっ)気(け)に取られてしまった。
　いやしくも沼南は信(しん)誼(ぎ)を重んずる天下の士である。毎日新聞社は南風競(きそ)わずして城を明渡さなくてはならなくなっても安い月給を甘んじて悪銭苦闘を続けて来た社員に一言の挨拶もなく解散するというは嚶鳴社以来の伝統の遺風からいっても許しがたい事だし、自分の物だからといって多年辛苦を侶(とも)にした社員をスッポかして、タダの奉公人でも追出すような了(りょ)簡(うけん)で葉書一枚で解職を通知したぎりで冷(す)ましているというは天下の国士を任ずる沼南にあるまじき不信であるというので、葉書一枚で馘(かく)首(しゅ)された社員は皆カンカンになって結束して沼南に迫った。その結果が沼南のイツモ逆さに振って見せる蟇口から社を売った身(みの)代(しろ)金(きん)の幾分を吐(はき)出(だ)して目出たく無事に落着したそうだ。そうかと思うと一方には、代がわりした﹃毎日新聞﹄の翌々日に載る沼南署名の訣(けつ)別(べつ)の辞のゲラ刷(ずり)を封入した自筆の手紙を友人に配っている。何人に配ったか知らぬが、僅(わずか)に数回の面識しかない浅い交際の私の許(もと)へまで遣(よこ)したのを見るとかなり多数の知人に配ったらしいが、新聞社を他へ譲(ゆず)渡(りわた)すの止むを得ない事情を縷(る)々(る)と訴えたかなり長い手紙を印刷もせず代筆でもなく一々自筆で認(したた)めて何十通︵あるいはそれ以上︶も配ったのは大抵じゃなかったろう。平生の知己に対して進退行(こう)蔵(ぞう)を公明にする態度は間(かん)然(ぜん)する処なく、我々後進は余り鄭(てい)重(ちょう)過ぎる通告に痛み入ったが、近い社員の解職は一片の葉書の通告で済まし、遠いタダの知人には頗(すこぶ)る慇(いん)懃(ぎん)な自筆の長(なが)手(てが)紙(み)を配るという処に沼南の政治家的面目が仄(ほの)見(み)える心地がする。
　沼南の五十年の政治家生活が終(つい)に台閣の椅子を酬(むく)いられなかったのは沼南の志が世俗の権勢でなかったからばかりではない。アレだけの長い閲歴と、相当の識見を擁しながら次第に政友と離れて孤立し、頼みになる腹心も門下生もなく、末路寂(せき)寞(ばく)として僅(わずか)に廓(かく)清(せい)会長として最後の幕を閉じたのは啻(ただ)に清廉や狷(けん)介(かい)が累(わざわ)いしたばかりでもなかったろう。

四

　沼南は廃(はい)娼(しょう)を最後の使命として闘(たたか)った。が、若い時には相応に折(せっ)花(かは)攀(んり)柳(ゅう)の風流に遊んだものだ。その時代の沼南の消息は易(えき)簀(さく)当時多くの新聞に伝えられた。十年前だった、塚(つか)原(はら)靖(しずむ)島田三郎合訳と署した代数学だか幾何学だかを偶然或る古本屋で見附けた。余り畑(はた)違(けちが)いの著述であるのを不思議に思って、それから間もなく塚原老人に会った時に訊(き)くと、﹁大変なものを見附けられた。アレはネ……﹂と渋(じゅ)柿(うし)園(えん)老人は例の磊(らい)落(らく)な調子で、﹁島田の奴が馬を引(ひっ)張(ぱ)って来たので、仕方がないから有(あり)合(あ)いのものを典じて始末をつけたが、その穴(あな)埋(うめ)をしなけりゃならん。そこで島田が或る本屋を口(く)説(ど)いたところが、数学の本を書いてくれるなら金を出そうというので、それから島田がドコからか原書を借出して来て、二人して一週間ばかりで書上げたのがアノ本サ。早速金に換えて懐(ふとこ)ろが温(あった)まったので、サア繰出せと二人して大豪遊を極めたところが、島田の奴はイツマデもブン流して帰ろうといわんもんだから、とうとう遣い果して復た馬を伴(つ)れて戻るというわけサ。その時分の島田はソリャアでれでれして尻(しり)が腐ってしまうンだからカラ始末に行かなかった﹂と昔を憶(おも)出(いだ)して塚原老人はカラカラと笑った。この頃の或る新聞に、沼南が流連して馴(なじ)染(み)の女が病気で臥(ね)ている枕(ちん)頭(とう)にイツマデも附添って手厚く看護したという逸事が載っているが、沼南は心(しん)中(じゅう)の仕(しそ)損(こな)いまでした遊(ゆう)蕩(とう)児(じ)であった。が、それほど情が濃(こま)やかだったので、同じ遊蕩児でも東家西家と花を摘んで転々する浮薄漢ではなかったようだ。
　沼南は本姓鈴木で、島田家の養子であった。先夫人は養家の家(いえ)附(つき)娘だともいうし養女だともいうが、ドチラにしても若い沼南が島田家に寄食していた時、懐(おも)われて縁組した恋婿であったそうだ。沼南が大(おお)隈(くま)参議と進退を侶(とも)にし、今の次官よりも重く見られた文部権(ごん)大書記官の栄位を弊履の如く一(いっ)蹴(しゅう)して野に下り、矢(やの)野(ふ)文(み)雄(お)や小(おの)野(あず)梓(さ)と並んで改進党の三領(りょ)袖(うしゅう)として声望隆々とした頃の先夫人は才(さい)貌(ぼう)双絶の艶(えん)名(めい)を鳴らしたもんだった。
　その頃私は番町の島田邸近く住(すま)っていたので、度々島田夫人と途中で行(ゆき)逢(あ)った。今なら女優というような眩(まぶ)しい粉(ふん)黛(たい)を凝らした島田夫人の美装は行人の眼を集中し、番町女王としての艶名は隠れなかった。良(おっ)人(と)沼南と同伴でない時はイツデモ小(こま)間(づか)使(い)をお伴(とも)につれていたが、その頃流行した前(まえ)髪(がみ)を切って前(ひた)額(い)に垂(た)らした束(そく)髪(はつ)で、嬌(し)態(な)を作って桃色の小さいハンケチを揮(ふ)り揮り香水の香(にお)いを四(あた)辺(り)に薫(くん)じていた。知らないものは芸者でもなし、娘さんでもなし、官員さんの奥様らしくもなしと眼をって美貌と美装に看(み)惚(と)れたもんだ。その時分はマダ今ほど夫婦連れ立って歩く習慣が流(は)行(や)らなかったが、沼南はこの艶色滴(した)たる夫人を出来るだけ極彩色させて、近所の寄(よ)席(せ)へ連れてったり縁日を冷かしたりした。孔(くじ)雀(ゃく)のような夫人のこの盛粧はドコへ行っても目に着くので沼南の顔も自然に知られ、沼南夫人と解って益(ます)々(ます)夫人の艶名が騒がれた。
　九(くだ)段(ん)の坂下の近(ちか)角(ずみ)常(じょ)観(うかん)の説教所は本(も)とは藤本というこの辺での落語席であった。或る晩、誰だかの落語を聴きに行くと、背(うし)後(ろ)で割れるような笑い声がした。ドコの百姓が下らぬ低級の落語に見っともない大声を出して笑うのかと、顧(ふり)盻(かえ)って見ると諸方の演説会で見覚えの島田沼南であった。例の通りに白(しら)壁(かべ)のように塗り立てた夫人とクッつき合って、傍若無人に大きな口を開いてノベツに笑っていたが、その間夫人は沼南の肩を叩(たた)いたり膝(ひざ)を揺(ゆす)ったりして不行儀を極めているので、衆人の視線は自然と沼南夫妻に集中して高(こう)座(ざ)よりは沼南夫妻のイチャツキの方に気を取られた。沼南の傍若無人の高笑いや夫人のヒッヒッと擽(くす)ぐられるような笑いが余り耳(みみ)触(ざわ)りになるので、﹁百姓、静かにしろ﹂と罵(ばせ)声(い)を浴びせ掛けられた。
　数年前物(ぶっ)故(こ)した細川風谷の親父の統計院幹事の細川広世が死んだ時、九段の坂上で偶然その葬列に邂(でっ)逅(く)わした。その頃はマダ合(あい)乗(のり)俥(ぐるま)というものがあったが、沼南は夫人と共に一つ俥に同乗して葬列に加わっていた。一体合乗俥というはその頃の川柳や都(どど)々(い)逸(つ)の無二の材料となったもので、狭い俥に両性がピッタリ粘(くっ)着(つ)き合って一つ膝掛に纏(くる)まった容子は余り見っともイイものではなかった。搗(か)てて加えて沼南夫人の極彩色にお化粧した顔はお葬い向きでなかった。その上に間断なくニタニタ笑いながら沼南と喃(なん)々(なん)私語して行く体(てい)たらくは柩(ひつぎ)を見送るものを顰(ひん)蹙(しゅく)せしめずには措(お)かなかった。政界の名士沼南とも知らない行人の中には目に余って、あるいは岡(おか)焼(やき)半分に無礼な罵声を浴びせ掛けるものもあった。
　その頃は既に鹿(ろく)鳴(めい)館(かん)の欧化時代を過ぎていたが、欧化の余波は当時の新らしい女の運動を惹(じゃ)起(っき)した。沼南は当時の政界の新人の領(りょ)袖(うしゅう)として名声藉(せき)甚(じん)し、キリスト教界の名士としてもまた儕(せい)輩(はい)に推(お)されていたゆえ、主としてキリスト教側から起された目(め)覚(ざ)めた女の運動には沼南夫人も加わって、夫君を背景としての勢力はオサオサ婦人界を圧していた。
　丁度巌(いわ)本(もと)善(よし)治(はる)の明治女学校が創立された時代で、教会の奥に隠れたキリスト教婦人が街頭に出でて活動し初めた。九十の老齢で今なお病を養いつつ女の頭領として仰がれる矢(やじ)島(まか)楫(じ)子(こ)刀(と)自(じ)を初め今は疾(とっ)くに鬼籍に入った木村鐙(とう)子(こ)夫人や中(なか)島(じま)湘(しょ)烟(うえん)夫人は皆当時に崛(くっ)起(き)した。国(くに)木(きだ)田(ど)独(っ)歩(ぽ)を恋に泣かせ、有(あり)島(しま)武(たけ)郎(お)の小説に描かれた佐々木のぶ子の母の豊(とよ)寿(じゅ)夫人はその頃のチャキチャキであった。沼南夫人はまた実にその頃の若い新らしい側を代表する花形であった。
　今日の女の運動は社交の一つであって、貴婦人階級は勿論だが、中産以下、プロ階級の女の集まりでもとかくに着物やおつくりの競争場になりがちであるが、その頃のキリスト教婦人は今の普通の婦人は勿論、教会婦人と比べても数段ピューリタニックであって、若い婦人の集りでも喪に包まれたようで色彩に乏しかった。その中で沼南夫人は百(も)舌(ず)や鴉(からす)の中のインコのように美しく飾り立てて脂粉と色彩の空気を漂わしていた。
　この五色で満身を飾り立ったインコ夫人が後に沼南の外遊不在中、沼南の名誉に泥を塗ったのは当時の新聞の三面種ともなったので誰も知ってる。今日これを繰返しても決して沼南の徳を累する事はあるまい。徳を累するどころか、この家庭の破(はた)綻(ん)を処理した沼南の善後策は恐らく沼南の一生を通ずる美徳の最高発現であったろう。

五

　沼南のインコ夫人の極彩色は番町界隈や基(キリ)督(スト)教界で誰知らぬものはなかった。羽(はご)子(い)板(た)の押絵が抜け出したようで余り目に立ち過ぎたので、鈍(にぶ)色(いろ)を女徳の看板とする教徒の間には顰蹙するものもあった。欧化気分がマダ残っていたとはいえ、沼南がこの極彩色の夫人と衆人環視の中でさえも綢(ちゅ)繆(うびゅう)纏(てん)綿(めん)するのを苦笑して窃(ひそ)かに沼南の名誉のため危(あやぶ)むものもあった。果然、沼南が外遊の途に上ってマダ半年と経たない中に余り面白くない噂がポツポツ聞えて来た。アアいう人(ひと)目(め)に着く粧(よそお)いの婦人に対してはとかくにあらぬ評判をしたがるもんだから、我々は沼南夫人に顰蹙しながらも余りに耳を傾けなかった。が、沼南の帰朝が近くなるに従って次第に風評が露骨になって、二、三の新聞の三面に臭わされるようになった。
　その頃沼南の玄関にＹという書生がいた。文学志望で夙(はや)くから私の家に出入していた。沼南が外遊してからは書生の雑用が閑(ひま)になったからといって、殊にシゲシゲと遊びに来た。写字をしたり口授を筆記したりして私の仕事の手伝いをしていた。面(にき)胞(び)だらけの小(こぎ)汚(た)ない醜(ぶお)男(とこ)で、口は重く気は利かず、文学志望だけに能書というほどではないが筆札だけは上(じょ)手(うず)であったが、その外には才も働きもない朴(ぼく)念(ねん)人(じん)であった。
　沼南が帰朝してから間もなくだった。Ｙは私の仕事の手伝いをしに大抵毎日、朝から来ては晩まで殆(ほと)んど一日を私の家で過ごしたが、或る時、﹁ちょっと故(く)郷(に)へ帰りますから今日ぎり暫らくお暇を戴(いただ)きたい﹂といった。
　余り突然だったので、故(く)郷(に)に急な用事でも出来たかと訊(き)くと、脚(かっ)気(け)だといった。ソンナ気(けぶ)振(り)はそれまでなかったのだから嘘(うそ)とは思ったが、その日ぎりで来なくなってしまった。
　それから二、三日過ぎて、偶然沼南夫妻の在籍する教会の牧師のＵ氏を尋ねると、Ｕ氏はちょっとした咄(はなし)の途切れに、﹁Ｙはこの頃君のとこへ行くかい？﹂といった。
﹁二、三日前に来て近々故(く)郷(に)へ帰るといってました。﹂
﹁その他(ほか)に一身上の咄は何もしなかったかい？﹂
﹁イイヤ、何にも。﹂
﹁困ったよ、﹂Ｕ氏は首を掉(ふ)って一(ひ)と言(こと)いったぎり顔を顰(しか)めて固く唇(くちびる)を結んでしまった。
﹁Ｙがドウかしましたか？﹂
﹁困ったよ、﹂と、Ｕ氏は両手で頭を抱(かか)えて首を掉り掉り苦しそうに髪の毛を掻き揉(むし)った。﹁君はＹから何も聞かなかったかい？﹂
﹁何にも聞きません。﹂
﹁こんな弱った事はない、﹂と、Ｕ氏は復(ま)た暫らく黙してしまった。やがて、﹁君は島田のワイフの咄を何(ど)処(こ)かで聞いたろう？﹂
﹁どんな話をです？﹂と、氏の問(とい)が能(よ)く呑(のみ)込(こ)めないので訊き返したが、その時偶(ふ)っと胸に浮んだのは沼南外遊中からの夫人の芳(かん)ばしからぬ噂であった。ツイその数日前の或る新聞にも、﹁開国始末﹂で冤(えん)を雪(そそ)がれた井(いい)伊(なお)直(す)弼(け)の亡霊がお礼心に沼南夫人の孤(こけ)閨(い)の無(ぶり)聊(ょう)を慰めに夜な夜な通うというような擽(くす)ぐったい記事が載っていた。今なら女優を想(おも)わしめるジャラクラした沼南夫人が長い留守中の孤独に堪えられなかったというは、さもありそうな気もするが、マサカに世間で評判するようなソンナ不(ふし)品(だ)行(ら)もあるまいと、Ｕ氏の島田のワイフの咄というのが何とも計りかねてＵ氏の口の開くのを待ってると、
﹁君も薄々知ってるだろうが、島田のワイフが飛んでもない不品行をやってネ……﹂
　私はハッとした。予期した事が実現されたようでもあるし、自分の疑心で迎えてＵ氏の言葉を聞違えたようにも思って、﹁ホントウですか、﹂と反問すると、
﹁ホントウとも、ホントウとも、﹂とＵ氏は早口に点(うな)頭(ず)いて、﹁ホントウだから困ってしまった。﹂
　Ｕ氏が最初からの口(くち)吻(ぶり)ではＹがこの事件に関係があるらしいので、Ｙが夫人の道に外(はず)れた恋の取持ちでもした乎(か)、あるいは逢(あい)曳(びき)の使いか手紙の取次でもしたかと早(はや)合(がて)点(ん)して、
﹁それじゃアＹが夫人の逢曳のお使いでもしたんですか？﹂というと、
﹁そんな幇(ほう)助(じょ)罪(ざい)ならマダ軽いが、不品行の対(あい)手(て)の本人なんだ。﹂
﹁えッ？﹂と私はまるで狐に魅(つま)まれたような気がした。
　沼南夫人のジャラクラした姿(なり)態(ふり)や極彩色の化粧を一度でも見た人は貞操が足(あし)駄(だ)を穿(は)いて玉(たま)乗(のり)をするよりも危(あぶ)なッかしいのを誰でも感ずるだろう。が、世界の美人を一人で背(せ)負(お)って立ったツモリの美貌自慢の夫人が択(よ)りに択って面(にき)胞(び)だらけの不(ぶお)男(とこ)のＹを対手に恋の綱渡りをしようとは誰が想像しよう。孔(くじ)雀(ゃく)が豚を道連れにするエソップにでもありそうな図が憶(おも)出(いだ)された。
﹁あの奥さんがＹと？﹂と私は何度も何度も一つ事を繰返して﹁そうだよ、ホントウだよ﹂とＵ氏に何度もいわれても自分の耳を疑わずにはいられなかった。

六

　駿(しゅ)馬(んめ)痴漢を乗せて走るというが、それにしてもアノ美貌を誇る孔雀夫人が択りに択って面(にき)胞(びづ)面(ら)の不男を対手にするとは余り物好き過ぎる。尤も一と頃倫(ロン)敦(ドン)の社交夫人間にカメレオンを鍾(しょ)愛(うあい)する流行があったというが、カメレオンの名(みょ)代(うだい)ならＹにも勤まる。
　そういえばＹの衣(みな)服(り)が近来著るしく贅(ぜい)沢(たく)になって来た。新(した)裁(てお)下(ろ)しのセルの単(ひと)衣(え)に大(おお)巾(はば)縮(ちり)緬(めん)の兵(へこ)児(お)帯(び)をグルグル巻きつけたこの頃のＹの服装は玄関番の書生としては分に過ぎていた。奥さんから貰(もら)ったと自慢そうに見せた繍(ぬ)いつぶしの紙(かみ)入(いれ)も書生にくれる品じゃない。疑えば疑われる事もまるきりないじゃなかったが、あのモズモズした無愛想な男、シカモ女に縁のなさそうな薄(うす)汚(ぎた)ない面(つら)をした男が沼南夫人の若い燕(つばめ)になろうとは夢にも思わなかったから、夫人の芳ばしくない噂を薄々小(こみ)耳(み)に入れてもＹなぞはテンから問題としなかった。
﹁女が悪いんだ。女の方から持(もち)掛(か)けたんだ、﹂とＵ氏は渋(じゅ)面(うめん)を作って苦(にが)々(にが)しい微笑を唇(くち)辺(もと)に寄せつつ、﹁あの女は先天的に堕落の要素を持ってる。僕は裁判をしてこっちが羞(しゅ)恥(うち)を感じて赤面したが、女はシャアシャアしたもんで、平気でベラベラ白状した。職業的堕落婦人よりは一層厚顔だ。口の先では済まない事をした、申訳がありませんといったが、腹の底では何を思ってるか知れたもんじゃない。良心がまるで曇ってる。﹂
﹁Ｙも平気でしたか？﹂
﹁イヤ、Ｙは小さくなって悄(しお)れ返っていた。アレは誘惑されたんだ、オモチャにされたんだ。﹂
と、Ｕ氏はＹの悔(かい)悛(しゅん)に多少の同情を寄せていたが、それには違いなくても主人なり恩師なりの眼を掠(かす)めてその最愛の夫人の道ならぬ遊戯のオモチャになったＹの破廉恥を私は憤らずにはいられなかった。Ｙは私の門生でも何でもなかった。が、日(にっ)夕(せき)親しく出入していただけに私までが馬鹿にされたような不快を感じた。
﹁Ｙはマダ人間が出来ておらんから直(す)ぐ誘惑される。チンコロのようにオモチャにされたんで罪を犯す了(りょ)簡(うけん)があったんじゃない。島田の許へ連れてって詫(あや)まらせたが、オイオイ声を揚げて泣き出した。﹂
　Ｕ氏がコンナ事でＹを免(ゆる)すような口(くち)吻(ぶり)があるのが私には歯(はが)痒(ゆ)かった。Ｙは果してＵ氏の思うように腹の底から悔(くい)悛(あらた)めたであろう乎。この騒ぎが持(もち)上(あが)ってる最中でもＹは平気な顔をして私の家へ来て仕事の手伝いをしていた。沼南と私とは親しい知り合いでなかったにしろ、沼南夫妻の属するＵ氏の教会と私とは何の交渉がなかったにしろ、良心が働いたなら神の名を以てする罪の裁きを受ける日にノメノメ恥を包んで私の前へは出て来られないはずであるのを、サモ天地に恥じない公明正大の人であるかのような平気な顔をして私の前に現れた。これが神を畏(おそ)れ罪を恥じて悔悛めた人であろう乎。
　Ｕ氏もＹの罪を免しつつもその態度にはマダ慊(あきた)らないものがあったのであろう。﹁君には何にも話さなかったかい？　変った素(そぶ)振(り)は見えなかったかい？﹂といった。
﹁そんな不名誉な話は無論する気遣いはありませんが、シカシ妙だと思いましたよ、二、三日前に来た時急に国へ帰るってましたから。﹂
﹁それは君、島田が帰らせるんだよ。島田には実に感服したよ。Ｙがオイオイ声を出して泣いて詫まった時にダネ。人間てものは誰でも誤って邪路に踏(ふみ)迷(まよ)う事があるが、心から悔悛めれば罪は奇麗に拭(ぬぐ)い去られると懇々説諭して、俺(おれ)はお前に顔へ泥を塗られたからって一端の過失のために前途にドンナ光明が待ってるかも解らないお前の一生を葬ってしまいたくない。なお更これから先きも手許に置いて面倒を見てやりたいが、それでは世間が承知しない。俺は決してお前を憎むのではないが暫らく余(ほと)焔(ぼり)の冷(さ)めるまで故(く)郷(に)へ帰って謹慎していてもらいたいといって、旅費その他の纏(まと)まった手当をくれた。その外に、修養のための書籍を二、三十冊わざわざ自分で買って来てＹの退(のき)先(さ)きへ届けてくれたそうだ。普通の常識では豪(えら)いか馬鹿かちょっと判断が出来ないが、左(と)に右(か)く島田は普通の人間の出来ない事をするよ――﹂
﹁それにはＹも心から感謝して、その話を僕にした時ポロポロ涙を澪(こぼ)して島田の恩を一生忘れないと泣いていた、﹂とＵ氏は暫らくしてから再び言葉を続け、﹁が、Ｙはマダ人間が出来ておらんから、恩に感ずる事も早いが恩を忘れる事も早い。君ももしＹに会ったら能(よ)く訓(くん)誡(かい)してやってくれ給え。二度と再び島田に裏切るような不品行をしたなら、最(も)う世の中へ出て来られない。一生の廃(すた)れ者になってしまう。﹂

七