ある日、私は妻つまと二人で郊かう外ぐわいへ家を見み付つけに出て行つた。同おなじ見み付つけるからには、まだ一度ども行つたことのない方はう面めんが良いといふ相さう談だんになつた。 私わた達したちはその日一日にち歩き廻まはつた。夕ゆふ方がたには、自じぶ分んた達ちの歩いてゐる所は一体たいどこなのだらうと思ふほどもう三半はん器きく官わんが﹇#﹁三半器官が﹂はママ﹈疲つかれてゐた。 草くさに蔽おほはれた丘をかの坂スロープが交かう錯さくし合つて穏おだやかな幕まくのやうに流れてゐた。人じん家かはばう〳〵とした草くさのために見みえなかつた。 ﹁おい、こゝはどこだらう。﹂と私は妻つまにいつた。 ﹁私もこんな所知しらないわ。﹂ ﹁おれはもう、へとへとだ。﹂ ﹁私もよ。私、もう歩くのがいやになつた。﹂ ﹁ぢや、こゝで休やすまうか。陽が暮くれたつて、いゝぢやないか。﹂ ﹁さうね、暮くれたつて別にかまはないわね。﹂ ﹁休やすまう。﹂ 私は草くさの中へ腰こしを降ろすと煙たば草こを取り出した。妻つまも私の横よこへ座すわつて落ちついたらしく、暮くれて行く空の色いろを眺ながめてゐた。―― ︵こゝで、私と妻つまとが同おなじやうに疲つかれたといふことが、私わた達したち一家かの間に、大きな悲ひげ劇きをもたらした原げん因いんであつた。︶―― ○ しかし、私はたゞ何なにも知しらずに煙たば草こを吹かせてぼんやりとしてゐただけである。このぼんやりとしたゆるんだ心しん理りの続つゞいてゐる空くう虚きよな時じか間んに、黙もく々として私わた達したちの運うん命めいを動うごかせてゐた何なに物ものかがあつた。それは一体たい何なに物ものであつたのか。私はふと、私のぼんやりしたその空くう虚きよな心のなかから、急きふに、かうしてゐてもはじまらない、今日中ぢゆうに家を見みつけなければ、と思ふあわたゞしい気き持もちが、泡あわのやうにぽつかりと浮き上つて来た。 ﹁おい、もう一度ど家を捜さがさう。疲つかれついでだ。今日中ぢゆうに捜さがしてしまつて、それからゆつくり落ちつかうぢやないか。﹂ ﹁ええ、さうしませう。﹂と妻つまはいつた。 疲つかれてはいけない。疲つかれると判はん断だん力りよくがなくなるものだ。私わた達したちは疲つかれた心でまた家を捜さがしに出かけていつた。 ある草くさに包まれた丘をかの上に、私わた達したちは一軒けんの家を見みつけ出した。 ﹁あの家は貸家かな。戸が閉つてゐるね。あれは貸家だよ。﹂ 私と妻つまとはいきなりその家の周しう囲ゐをぐる〳〵廻まはつた。 ﹁こゝはいゝね。高たかいし、庭は広ひろいし、花はなはあるし、朝あさ起きても日にあたれるし。﹂ 私の言こと葉ばの速そく度どが疲つかれた妻つまの心を動うごかした。 ﹁ええ、いいわね、ここにしませうか。﹂ ﹁ここにしよう、ここがいい。﹂ そこで二人は大家へ行つて部へ屋やの様やう子すをきき正した。私わた達したちはもう家そのものはどうでも良かつた。たゞ自じぶ分んた達ちの疲つかれた身から体だに一時も早く得とく心しんを与あたへるために直ぐその家を借りようといふ気きになつた。 ○ その家へ越して来たのは、それから一週しう間かんもしてからだつた。私はその家が自じぶ分んの家になつてから、初めて良く家の中を見みま廻はした。すると、私は急きふに、﹁いやだ。﹂と思つた。どうしてこの明るい家の中に、こんな暗くらさがあるのだらうと考かんがへた。北きた側がはに一連れんの壁かべがあるこれだ。――しかし、私は間もなく周しう囲ゐの庭に咲さき乱みだれてゐるとりどりの花はなの色いろに迷まよひ出した。外の色いろが、内の暗くらさを征せい服ふくした。私は北に連つらなる頑ぐわ固んこな壁かべを知しらずしらずの間に頭の中から忘わすれ出した。 だが、秋あきが深ふかくなると、薔薇が散ちつた。菊きくが枯かれた。さうして、枯かれ葉はの積つもつた間から、漸やうやく淋さびしげな山さざ茶んく花わがのぞき出すと、北に連つらなつた一連れんの暗くらい壁かべが、俄がぜ然んとして勢せい力りよくをもたげ出した。私はかぜを引き続つゞけた。母が、﹁アツ﹂といつたまゝ死しんでしまつた。すると、妻つまが母に代つて床とこについた。私の誇ほこつてゐた門もんから登る花はなの小路は、氷を買ひに走はしる道みちとなつた。 ﹁どうも、この家は空くう気きが悪い。古臭くさい空くう気きがたまるのだ。家を変かはらう。家を。﹂ しかし、もうそのときには、妻つまの身から体だは絶ぜつ対たいに動うごかすことが出来なかつた。さうして、再ふたゝび﹇#ルビの﹁ふたゝ﹂は底本では﹁ふゝた﹂﹈夏なつが私わた達したちの家にめぐつて来た。いちごは庭一面めんに新しん鮮せんな色いろを浮べ出した。桜あう桃たうが軒のきの垣かき根ねに連つらなつた。ぶだうは棚たなの上に房ふさ々と実り出した。だが、妻つまは日日﹇#﹁日日﹂はママ﹈床とこの中から私にいつた。 ﹁私、こゝの家を変かはりたい。ね、家をさがしてよ。私、もうこゝは嫌きらひ。﹂ ﹁よしよし、だが、もう少し待て、お前の身体が動うごけるやうにならなけりや。﹂ ﹁いやよ。私、もうこれ以いじ上やうここにゐれば、死しんでしまふに定つてゐるわ。﹂ ﹁しかし、動うごいたなら、なほ死しぬに定つてゐるんだ。だから、﹂ ﹁いやいや、私、他で死しぬのならかまはないわ。ここで死しぬのはいや。﹂ その中に大きな百合が家の周しう囲ゐで馥ふく郁いくとにほひ出した。 ﹁そら、今日は百合が咲さいた。﹂ ﹁どらどら。﹂ 二人が百合の花はなの大きさに驚おどろいてゐる中に、また、ばらの大たい輪りんが咲さき初めた。 ﹁おい、今日はばらだ。これは美みご事とだ。﹂ ﹁まアまア、クリーム色いろね、白いのはまだかしら。﹂ 私は百合の花はなを手折つて来て妻つまの枕まくら元に差さしてやつた。すると、妻つまは激はげしい香ひのためにせき続つゞけた。 ﹁これやいけない、百合はお前を殺ころすんだ。薔ば薇らがいゝ、薔ば薇らが。﹂ 百合と薔ば薇らとを取りかへて部へ屋やの暗くらさを忘わすれてゐると、次ぎにはおいらん草さうが白と桃もゝ色いろの雲くものやうに、庭の全ぜん面めんに咲さき乱みだれた。 ○ 妻つまの青あをざめた顔かほ色いろは漸やうやく花はなのためにやはらぎ出した。しかし、やがて、秋あき風かぜが立ち出した。花はな々は葉はを落す前に、その花はなを散ちらすであらう。 ある日、私は、私わた達したちをこの家へ導みちびき入れた丘をかの上へ行つてみた。私は二人で休やすんだ草くさの中へ座すわつてみた。そこで私は、かつて前に、疲つかれた心をぼんやりとさせたやうに、今また不ふか幸うに疲つかれた心をぼんやりと休やすめてみた。私は私の心の中から、何なにか得がたい感かん想さうが浮び出しはしないかと待ちながら。だが、私の胸むねの中からは、何なに物もわき上つては来なかつた。私は私の心に詮つてゐるものをふるひ落とすやうに、私の心をたゝいてみた。 ﹁生せい活くわつとは何なにか。﹂ 苦くるしむことだ。―― ﹁苦くるしみとは何なにか。﹂ 喜よろこぶためだ。―― ﹁喜よろこびとは何なにか。﹂ 生せい活くわつすることだ。―― ﹁それなら、生せい活くわつとは。﹂ 私は白い草くさの根ねをかみながら立ち上つた。ふと、私はその草くさの根ねが、去きよ年ねんの秋あき、私わた達したちが座すわつて踏ふみつけたときの草くさの根ねに相さう違ゐないと考かんがへた。それが一度ど葉はを落してまた芽めを出した。私わた達したちも廻るであらう。今に、不ふか幸うが亡くなるだらう。―― 私は家へ帰かへつて来た。家の小路の両りや側うがはは桃もゝ色いろの﹇#ルビの﹁もゝいろ﹂は底本では﹁ももいろ﹂﹈花はなで埋まつてゐた。この棚たなびく花はなの中に病びや人うにんがゐようとは、何と新しん鮮せんな美しさではないか。と私はつぶやいた。