一
久しい間辺卑な田舎で暮した上句なので、斯うして東京に来て見ると僕は、何を見ても、何処を訪れても、面白く、刺戟が爽かで、愉快で〳〵、毎日々々天気さへ好ければピヨン〳〵と出歩いて寧日なき楽天家だ、金貨だつて? そいつはまあ無い日の方が多いけれど、無ければ無いで公園を散歩する、スポーツを見物する、友達のところからオートバイを借りて来て矢鱈に街中を駆け廻つて、気分を晴し、同時に見聞を広める……。 ﹁厭々々々! 公園の散歩なんては决してお供はしたくないわ――﹂ 芝居を観る、活動を見物する、銀座を歩く、酒ば場あを飛び廻る、議論を戦はせる――マメイドなんかに手紙を書く暇なんて決してなかつたのだ――。 ﹁いゝえ、そんなことは何うでも好いのよ、あたしが聞きたいのは――今日はお金持なのですか? といふ一事だけ……﹂ ﹁メイちやんは、何といふ馬鹿な、可憐な馬鹿者だらう。何うしてそんな事がそんなに気にかゝるのさ――公園の散歩が厭なら、銀座を歩かうよ、奇麗だぜ、店々の美しい飾り窓を見たり、見事に装ひを凝らした散歩の人々を振り返つたり……断然、そんな退屈な田舎とは違つて……﹂ ﹁聞きたくないわよ。――﹂ ﹁だけど今日は珍しく金貨を持つてゐるんだよ、今直ぐならば……﹂ ﹁ほんとう!﹂ と彼女は叫びました。﹁パラソルと水着位ひなら買つて貰へる?﹂ ﹁好い水着を見つけておいたよ。セイラア・パンツのついたやつでね、うちの細君もね、そいつをひと目見たらすつかり気に入り若返つて、あんなのを着てメイと一処に海辺で遊べる日が待ち遠しい! と云つてゐるところさ。﹂ ﹁買つて〳〵、それを!﹂ ﹁今日なら、その他に踵の高い靴も買つてやれるだらう。﹂ ﹁直ぐに、この次の汽車で行くわ――﹂ ﹁では東京駅で待つてゐてやらう。﹂ それで、その長距離電話は切れました。メイといふのは私達がつい此間まで住んでゐた寂しい海辺の村の﹁マメイド﹂と私達が称び慣れた貧しい酒屋の娘であります。私は村に住んでゐた日の限り、メイやメイの父親に少なからぬ厄介をかけたのでした。 私は屡々酒に酔ふて、メイを指差し、芝居フアウストの科白を口真似したりして、 ﹁体は離れても魂は離れませぬぞ、マーガレツトの口唇が――﹂ といふところを、わざと、このマメイドの――と云ひ換へて、 ﹁――神体に触れても嫉ましいわい。﹂ などゝ戯れたりしたことがある位ひ、美しい娘です。二
云ふまでもなく、そんなことを私が唸つたりしたとは云へ私が彼女に対して特別な関心を抱いた! とか、などといふ重苦しい話ではないことは、はつきりと断つて置きます、私はそんなことを云つてたゞ彼女の価値を吹聴したまでのことで、天晴れ私は私の妻と共々に常々彼女を私達の朗かな友達として推賞してゐるだけのことなのです。だから私達は、この時だつて、斯んなことを話合つてゐました。 ﹁メイちやんを――此方の友達に紹介しようぢやないか。﹂ ﹁屹度――此方の人達を紹介したら、メイちやんのとても好きな人が出来るわよ。あなた誰だと思ふ?﹂ 私は妻と共に、猛烈に速く、そして凄ぢく揺れる青バスに乗つて村のモダン娘﹁メイちやん﹂を迎へるべく東京駅へ出かけました。 ﹁まあ、奥さん、綺麗になつたわね、ちよつとの間に――﹂ メイ子は、私の妻の手をとつて、その顔色が田舎にゐた時に比べると見違へるほど白くなり、羨ましいわ! と云ひました。 ﹁ほんとう、メイちやん――。何処へ行かう? 何でも御馳走しよう。しばらく見ないうちに、あんたとても大きくなつたわね。……もう泳いだ?﹂ ﹁二三度――﹂ ﹁ね、そこに、モダン浴場といふのがあるんだけれど入つて見ないこと?﹂ ﹁でも、あたし、先に、踵の高い靴が欲しいのよ、奥さん――﹂ ﹁おゝ、さう〳〵。ぢや、丸ビルで買つて――それから、モダン浴場を見て――と、洋服も斯んなのを買ふと好いわ、レデイメイドでとても安いのよ、パラソルと、それから、水着はあとで銀座へ行つてつから――と、その前に、そんなのを買つて、お湯に入つて、其処の美容院へ伴れてつてやるわ、あたしは未だ一度も行つた事はないんだけれど――あんたゞけを……﹂ ﹁嬉しい〳〵!﹂ メイ子は手を叩く格構をしました。妻は何故か大変に調子づいて時々私が、洋服を買ふのは少々無理だよ――とか、俺は今夜は何某と共に酒場へ行く約束があるのだが――などゝ呟いたにも拘はらず、決して聞えぬ風で、浮々と買物の話ばかりをすゝめてゐました。 ﹁早くしなければ飲まれてしまふ位ゐのものなんだから、出来るだけ手ツ取りばやくしなければつまらないわよ、メイちやん!﹂ ﹁帽子、――これぢや変でせう、奥さん?﹂ ﹁変でもないけれど――ベレイを買ひませうよ、おそろひの――﹂ ﹁あら、あたしの靴下、踵に斯んな穴があいてゐるわ、あんまり慌てゝ飛び出して来たもので――。尤も、慌てないだつて、これ一足しかなかつたには違ひないけれどさ……﹂ ﹁靴下なんて安いわよ――何うしても、これは、一先づ、彼方へ出かけて行つて、それから、浴場に引き返して、身仕度をとゝのへなければならないわね。﹂三
私はあまりのけ者にされ過ぎてゐるのと、酒の酔がないと何事も意々諾々である自分とに幾分業を煮やして、
﹁フン!﹂
とつまらなさうに呟きました。
﹁一体俺は、その間何処で待つてゐるんだい。そつちの仕度が終つて見ると、俺はもう酒場へ行つてハイボール一杯も飲めなくなるといふやうな勘定になるのでは、メイの訪れなんて有りがたくなくなるよ……﹂
﹁何か云つてゐらつしやるわよマキノさんが――奥さん。﹂
﹁何か考へ事に耽つてゐるんでせう。関はないのよ。独り言は癖だし、放つておかないと、返つて不気嫌になる位ゐのものなんだから――メイちやん、行つて来ませう。﹂
メイ子が私に細長い箱を渡しました。何か? と訊ねると、私がメイ子の家に置き忘れて来たフエンシング・スオルドだといふのです。村に居た間私は憂鬱の時に、運動と称して常々それを打ち振つてゐましたが、此方に来ても、そんなに公園や街ばかりを漫然と散歩してゐても始まるまい、金のない日は村住ひの時と同様にこれを振つてゐたら好からう、折角のポーズのためにも――といふメイの父親の気遣ひであつた! さうです。
私は、細長い、厄介な箱を寄ん所なく受けとりながら、
﹁だつて、今居る下宿の部屋は四畳半だぜ、メイちやん!﹂
と云ひましたが、二人は私を待合室に残し、手を携へて出て行かうとしてゐるところでした。
﹁困つたな、俺は――!﹂
﹁ぢや、そのまゝ鉄道便で送り返したら何うなの?﹂
﹁でも、折角メイちやんが持つて来たものを……?﹂
﹁煩いのが、始まつた! ――あたし達行つて来るから、ゆつくり考へていらつしやい。﹂
﹁このまゝ?﹂
﹁だつて、そんなものを担いで伴いて来られたつて、あなたゞつて此方だつて困るぢやないの?﹂
﹁一体何分位ひかゝる――﹂
﹁お湯に入つたり何かして来るんだから、二時間位ひはかゝるでせうね。――充分考へる暇があるぢやありませんか。﹂
﹁あれ――あたしだつて、仲々厄介だつたわよ、持つて来るのに――。折角持つて来てあげて、あんな顔なんてされてゐるんぢやつまらなかつたわ。﹂
﹁ほんとうにね――メイちやん。﹂
﹁ぢや、二時間だね。大丈夫二時間だね、二時間目に此処で出会ふことにしよう――よしツ、行つて来給へ。﹂
と私は気分を取り直して、二人のレデイを快よく見送り、
﹁では、その間俺は、何処かの地下室で時を消して来よう。﹂
と呟きながら、妙に細長い箱を抱へて、すた〳〵と大股で待合所を出て行きました。