去年の十二月のはぢめ頃だつた。 あたゝかく、風のない朝、十時時分、僕は蜜柑山の芝のスロウプに腰かけて、海を眺めてゐると、絵かきの朝居閑太郎が、僕の妻に案内されて、僕の前に立ち、情熱のこもつた息苦し気な調子で、そして対者に遠慮する微笑を浮べて﹁エカキが――﹂と云つた。続く言葉は解つてゐるのだが、息せき切つて駆けつけた伝令兵のやうに声が出ないといふ風なのである。そして、漸く発言した。……﹁エカキが長い間絵具を持たぬと、キチガヒになるとかと……﹂ 僕は閑太郎の眼を見て点頭き﹁閑太郎――﹂と唸り……そして妻に、吾々を得意とする町の文房具店に命じて閑太郎が望むがまゝの上等絵具をとつて呉れ――と云ふと、妻は、僕の肩からガウンを脱ぎとり、それにくるまり、何時も僕がするやうに、下のキヤベツ畑まで、﹁橇滑り﹂で滑り降り、村長の家へ電話をかけに行つた。 ﹁それは好いね。﹂ 閑太郎は僕の姿を眺めて云つた。僕は、無性から、ドテラの代りに使つてゐるアメリカ、インヂアンのガウンを、村だから関はず内でも外でも着続け、帽子はあの鳥の羽根のついた冠りなのだが、 ﹁僕も欲しい――﹂ ﹁未だ、あるからやらう。﹂ ﹁青森から着いたのだ、今朝――﹂ ﹁いつかの夏、君を海で知つた時の……﹂ ﹁うむ、あれから、今迄これツきりの格構で……﹂ ﹁三年前の夏だつたかね。﹂ ﹁あの時新しかつたこの洋服は斯んなボロになり、靴は、斯んなになり――﹂ ﹁ずつと勉強してゐたんだね、僕もずつと勉強を続け……﹂ ﹁皆は読み――知つてゐる、でもそんな着物があれば寒くはなからう?﹂ ﹁寒くはない、その上、いろ〳〵とこれは便利だよ。こちらに居る間、これを着て、折角やりかけた画を続け給へ。﹂ 閑太郎はポケツトからホワイト絵具を二本つかみ出し、弄んでゐる。﹁ポケツトにはこれ以外に……﹂ ﹁ベリイ・ブライトだ。閑太郎、君は純粋な絵かきだ。……ピユア・イン・ホワイトネス! ピユア・イン・ホワイトネス!﹂と僕が歓喜の声をあげると、閑太郎は、蜜柑の樹の方へ駆けて、実をもぎとり、僕に投げ、僕が次々にうまく受けとり、持ちきれなくなつて、ストツプと合図すると、閑太郎は再び僕の傍らに来て立ち、陽の渦巻のなかで果物を食べながら﹁シユウル・レアリズム﹂﹁文明と原始生活﹂の話をしたり、君は今何を読んでゐると訊くから僕は﹁プラトン学校からアリストテレスの建築部に入り、スヰフト教授の航空学をきいてゐる――﹂などゝ答へ、 ﹁君は?﹂と訊ね返すと、閑太郎は足許のホワイト絵具を眺めながら、 ﹁絵、絵、絵、絵、絵、絵、絵、絵!﹂と口ごもつてゐる。震へた。鬼のやうな眼をした。化物のやうに口をあいた。舌を現し、ヨダレを出し、笑ひ、自分の拳で、自分の頭をコキンと殴り、妙な踊りををどり、空を蹴る︵破れ靴が虹のやうに飛んで、眼の下の川に落ちた。︶上着を脱ぎズボンを棄て、それを振り回す︵凄く振りまはすので裸形の男と服の人物が格闘してゐるみたいに見える。︶……えいツ! ……と叫ぶと、裸形男が強く、閑太郎は――閑太郎の着物は――丘の頂きから突き落されて、鳥のやうに落ちて行く、そして、泣いて、笑つて、はしやぎまはつて、昏倒して、﹁死ぬ。﹂と、丘の下から、妻が﹁駄目よ、イヤな文房具の爺。﹂ そんな声が聞へた。その声で閑太郎は蘇生すると、慌てゝ、木蔭に逃げ込み、何か着るものを――と僕にさゝやいた、僕は滑り降りて畑に妻が棄てゝ行つたガウンをとり、彼に渡し妻が僕の絵具箱をもつて来たが、験べると中味が危しいので、これも止め、 ﹁画乱洞といふペンキ画家が町にゐる。何だつて色でさへあれば。﹂ ﹁勿論だ、何だつて絵具であり、いくつかの色があり、揮身の腕さへ揮へるんなら――﹂ ﹁街へ行つてガランドウを探してやらう、たしか彼は町角の鐘つき堂の屋根に掲げる登山自動車の案内図を作つてゐたと思ふ、大きな足場をかけて……﹂ ﹁嬉しい、手伝ひたい。わたくしは――﹂と閑太郎は隊長に物言ふ兵士のやうに厳然と云ひ放つた。 * 青年画家朝居閑太郎――何処の産で、何んな経歴を持ち、何処に育ち、今年何歳か――何も知らない僕は――。彼の絵熱心だけしか知らない。――そしてそれ以来彼は寝食を忘れて作画に没頭し勿論僕の方が不親切で彼の方が親切で従順であるばかりでなしに、どんな不愉快も僕に与へない。芸術家の聖らかさを僕は見た! と僕は思つてゐる。 三枚、五枚、八枚――と彼の画は出来て、春になり、近く都へ出て、個人展覧会を開きたい! と云つてゐる。その前に頒布会といふものをやりたいと云ひ、それは何んなことをするのか? と僕が訊ねたら苦笑して他のことは何うでも好いから、印刷物をつくりそれに載せる、﹁わたしの絵に就いてあなたの感想を書いて……﹂︵時々彼は丁寧な言葉になつたりする。︶と云ふのである。 ﹁何んなことを書いたら好いの。﹂ ﹁何んなことでも――﹂ ﹁朝居閑太郎の生活は、優しく颯爽として内に熱情をはらみ、原始性に従順であるから、そして面白い男だから、画も屹度面白いに違ひない。六ヶ敷いことは知らないが、あいつは兎も角氷を飲みながらでも、芸術家としての繊細な喜びに恵まれてゐるから幸福だ、ほんとうに――。……書ける、よしツ、何れ、もつと君の画を見てから――﹂ ﹁個人展覧会を先にしようかな。﹂ ﹁よからう、賛成だ。﹂ 若し彼の計画通りに事が運び、会が開けたら都の僕の友達よ、観に来て呉れ。彼の不思議な生活振りに就いて聞きたい友には、その時僕が語らう。