三宅坂の水揚ポンプのわきに、一本の日輪草が咲いていました。
﹁こんな所に日輪草が咲くとは、不思議じゃあありませんか﹂
そこを通る人達は、寺てら内うち将軍の銅像には気がつかない人でさえ、きっとこの花を見つけて、そう言合いました。
熊くま吉きちという水みず撒まき人夫がありました。お役所の紋のついた青い水撒車を引ひっ張ぱって、毎日半蔵門の方から永田町へかけて、水を撒いて歩くのが、熊さんの仕事でした。
熊さんがこうして、毎日水を撒いてくれるから、この街筋の家では安心して、風を入れるために、障子を明けることも出来るし、学校の生徒たちも、窓を明けておいてお弁当を食べることが出来るのでした。
熊くまさんは、情なさけ深い男でしたから、道の傍そばの草一本にも気をつけて、労いたわるたちでした。
熊さんはある時、自分の仕事場の三宅坂の水揚ポンプの傍に、一本の草の芽が生えたのを見つけました。熊さんは朝晩その草の芽に水をやることを忘れませんでした。可か愛あいい芽は一日一日と育ってゆきました。青い丸まる爪づめのような葉が、日光のなかへ手をひろげたのは、それから間もないことでした。風が吹いても、倒れないように、熊さんは、竹の棒をたててやりました。
だが、それがどんな植物なのか、熊さんにはてんで見当がつきませんでした。円い葉のつぎに三角の葉が出て、やがて茎の端に、触角のある蕾つぼみを持ちはじめました。
﹁や、おかしな花だぞ、これは、蕾に角が生えてら﹂
つぎの日、熊さんが、三回目の水を揚げたポンプのところへやってくるとその草は、素晴らしい黄いろい花を咲かせて、太陽の方へ晴はれ晴ばれと向いているのでした。熊さんは、感心してその見事な花を眺めました。熊さんは、電車道に立っている電車のポイントマンを連れてきて、その花を見せました。
﹁え、どうです﹂
﹁なるほどね﹂ポイントマンも感心しました。
﹁だが、なんという花だろうね、車掌さん﹂熊さんはききました。
﹁日ひま輪わり草そうさ﹂車掌さんが教えました。
﹁ほう、日輪草というだね﹂
﹁この花は、日盛りに咲いて、太陽が歩く方へついて廻まわるから日輪草って言うのさ﹂
熊さんはもう嬉うれしくてたまりませんでした。熊さんは、永田町の方へ水を運んでいっても、早く日輪草を見たいものだから、水みず撒まき車ぐるまの綱をぐんぐん引いて、早く水をあけて、三宅坂へ少しでも早く帰るようにしました。だから熊さんの水撒車の通ったあとは、いくら暑い日でも涼しくて、どんな風の強い日でも、塵ほこり一ツ立ちませんでした。
太陽が清しみ水ずだ谷に公園の森の向うへ沈んでしまうと、熊さんの日輪草も、つぼみました。
﹁さあ晩めしの水をやるぞい。おやお前さんはもう眠いんだね﹂
熊さんはそう言って、首をたれて寝ている花をしばらく眺めました。時によると、日が暮れてずっと暗くなるまで、じっと日輪草をながめていることがありました。
熊さんのお内か儀みさんは、馬ば鹿か正直なかわりに疑い深いたちでした。このごろ熊さんの帰りが晩おそいのに腹をたてていました。
﹁お前さんは今まで何ど処こをうろついていたんだよ。いま何時だと思っているんだい﹂
﹁見ねえな、ほら八時よ﹂
﹁なんだって、まああきれて物が言えないよ、この人は、いったいこんなに晩おそくまでどこにいたんだよ﹂
﹁三宅坂よ﹂
﹁三宅坂だって! 嘘うそを言ったら承知しないよ。さ、どこにいたんだよ、誰だれといたんだよ﹂
﹁ひめゆりよ﹂
﹁ひめゆり! ?﹂
熊くまさんは、日ひま輪わり草そうのことを、ひめゆりと覚えていたので、その通りお内か儀みさんに言いました。それがそもそも事の起りで、熊さんよりも、力の強いお内儀さんは、熊さんを腰の立たないまで擲なぐりつけました。
﹁草だよ、草だよ﹂
熊さんがいくら言訳をしても、お内儀さんは、許すことが出来ませんでした。
翌あく日るひは好いい天気で、太陽は忘れないで、三宅坂の日輪草にも、光と熱とをおくりました。日輪草は眼めをさましましたが、どうしたことか、今日は熊さんがやって来ません。十時になっても、十二時が過ぎても、朝の御ごち馳そ走うにありつけませんでした。日輪草は、太陽の方へ顔をあげている元気がなくなって、だんだん首をたれて、とうとうその晩のうちに枯れてしまいました。