女人藝げい術じゆつは、美びじ人ん揃ぞろひである。︵私わたしが、獨どく身しんであつたなら!︶中なかでも、時しぐ雨れさんは、美びじ人んである︵多たぶ分ん、女ぢよ性せいは美びじ人んであるといはれることを喜よろこぶにちがひない、と私わたしは信しんじてゐるのだが――︶それからまた、生きつ粹すゐの江え戸どつ子こは、ただの江え戸どつ子こであるよりも生きつ粹すゐとつけた方はうを喜よろこぶらしい︶それから、その――︵夫をつとといつていゝか、燕つばめ?――少すこし、禿はげすぎてゐるが︶愛あいする於おと莵き吉ちは十一も齡とし下したで、女ぢよ性せいの持もちうる幸かう福ふくを一ひと人りでもつてゐる人ひとである。
その上うへに趣しゆ味みが廣ひろく――例たとへば最さい近きん、その三みか上みを對あひ手てとして、いい齡としをしながら︵失しつ言げん?︶將しや棋うぎを稽けい古こしかけたりしてゐる。そして、一ひとかど、考かんがへ込こんで、眞ま面じ目めな顏かほをして、一ちよ寸つと、待まつて頂ちや戴うだい、待まつて頂ちや戴うだいつたら、と喧けん嘩くわしてゐる。また、その趣しゆ味みの澁しぶい例れいを擧あげると、三みか上みがその著ちよ名めいなる東とう京きや市うし内ない出しゆ沒つぼ行つあ脚んぎやをやつて、二は十つ日かも歸かへつて來こないと時しぐ雨れさんは、薄うす暗ぐらい部へ屋やの中なかで端たん座ざして、たゞ一ひと人り双もろ手てに香かう爐ろを捧さゝげて、香かうを聞きいてゐる。何なんのためだと思おもふと、氣きを靜しづめる妙めう法はふで――露ろこ骨つに、これを説せつ明めいすると、やきもち靜しづめ――その澁しぶさ、床ゆかしさ、到たう底てい女人藝げい術じゆつ同どう人じんなどの、考かんがへつく所ところのものではない。
︵尤もつとも、これは昔むか話しばなしである︶
それからまた、料れう理り屋やを經けい營えいしたり、子こど供も芝しば居ゐに手てを出だしたり、大たい衆しう物ものもかくし、現げん代だい物ものもいゝし、戲ぎき曲よく、將しや棋うぎ、香かう合がふ、女によ人じん藝げい術じゆつ、左さけ傾い、等とう々〳〵、三みか上みの神しん出しゆ鬼つき沒ぼつが、辟へき易えきする位くらゐに――世せけ間ん語ごからいへば、氣きが若わかく、哲てつ學がく的てきに解かい釋しやくすれば、進しん歩ぽて的きづ頭な腦うであり、藝げい者しやにいはせると、女をん文なぶ士んしつて道だう樂らく氣きの多おほいものね、であり、醫いが學くて的きに考かう察さつすれば、夫をつとの年ねん齡れいの若わかさによる生せい理りて的きげ現んし象ようであり、又またこれを、社しや會くわ的いてきに觀くわ察んさつすれば、嫁よめにもらひ手てのない女をん文なぶ士んしの救きう濟さい家か︵この一句く、失しつ言げん、取とり消けし。こんな事こともあらうかと、初はじめに、皆みな美びじ人んだと、御お世せ辭じをいつておいたのだが︶。
とにかく、メンスの上あがつた女ぢよ性せいで︵どうもこれも失しつ言げんらしいが︶老おいてます〳〵旺さかん︵これもまた失しつ言げんらしいが︶なのは、關くわ西んさいでは林はや歌しう子たこ、關くわ東んとうでは長はせ谷がは川し時ぐ雨れだけである。田たむ村らと俊し子こ、岡をか田だ八や千ち代よ、與よさ謝の野あ晶き子こ、等とう々〳〵、皆みな振ふるはない中うちに、たゞ一ひと人り、時しぐ雨れぢ女よ史しが、三みや宅けやす子こ、宇う野の千ち代よ、平ひら林ばやしたい子こなどの若わかい人ひと以いじ上やうに、お河かつ童ぱの女をんなの中なかに餓がき鬼だい大しや將うとして、女ぢよ性せい行かう進しん曲きよくを吹すゐ奏そうしてゐる事ことは、早はや呆ぼけする日につ本ぽんの女をんなとしては、珍めづらしい人ひとである。
同おなじ女をんなに取とり卷まかれてゐても、三みか上みは︵説せつ明めい中ちう止し︶――時しぐ雨れさんは、社しや會くわ的いてきに、文ぶん學がく的てきに、とにかく最もは早や、三四よに人んの女をん文なぶ子んしを送おく出りだしてゐる、この賢けん明めいにして美うつくしい人ひとが、もう卅歳さい若わかかつたなら?――日につ本ほんの文ぶん壇だんは、何どう動どう搖えうし、私わたしは――私わたしは、數かぞへると、九こゝ歳のつだつ!