一
ここは浅草の奥山である。そこに一軒の料理屋があった。その奥まった一室である。
四人の武士が話している。
夜である。初夏の宵だ。
﹁どうでも誘かど拐わかす必要がある﹂
こういったのは三十年輩の、いやらしいほどの美男の武士で、寺侍かとも思われる。俳優といってもよさそうである。衣裳も持ち物も立派である。が、寺侍でも俳優でもなく、どうやら裕福の浪人らしい。
﹁どうして誘拐いたしましょう?﹂
こうきいたのは三十二、三の武士で、これは貧しい浪人らしい。左の小指が一本ない。はたしあいにでもまけて切られたのだろう。全体が卑しく物ほしそうである。
﹁そこはお前達工夫をするさ﹂
美男の武士はそっけない。
﹁どうしたものかの?﹂
と小指のない武士は、一人の武士へ話しかけた。誘拐の相談をしたのである。
﹁さればさ﹂
といったのは、二十八、九の、これも貧しげで物ほしそうで、そうして卑しげな浪人であったが、頤にやけどのあとがあった。﹁姿をやつして立ち廻り、外へ出たところをさらうがよかろう﹂
﹁駄目だ、駄目﹂
と抑えたのは例の美男の武士であった。
﹁期限があるのだ、誘拐の期限が。それを過ごすと無駄になる。外へ出たところをさらうなどと、悠長なことはしていられない。今夜だ、今夜だ、今夜のうちにさらえ﹂
﹁では﹂
といったのはもう一人の武士で、四十がらみで薄あばたがあり、やはり同じく浪人と見え、衣裳も大小もみすぼらしい。
﹁ではともかくも姿をやつし、屋敷の門前を徘徊し、様子を計って忍び込み、何んとか玉を引き上げましょう﹂
﹁それがよかろう。ぜひに頼む﹂――美男の武士はうなずいた。﹁しかし一方潜入の方も、間違いないように手配りをな﹂
﹁この方がかえって楽でござる﹂こういったのはやけどのある武士で、﹁人殺し商売は慣れておりますからな﹂
﹁それにさ﹂と今度は薄あばたのある武士が、﹁敵には防備もないそうで﹂
﹁うん﹂といったは美男の武士である。﹁それに相手そのものが、一向腕ききではないのだからの﹂
﹁とはいえ聡明な人物とか、どんな素晴らしい用心を、いたしておるかもしれませんな﹂
やけどのあとのある武士である。
﹁そうだそうだ、それは判らぬ﹂美男の武士は合槌をうった。﹁で、十分いい含めてな﹂
﹁よろしゅうござる。大丈夫でござる。……島路、大里、矢田、小泉、これらの手合いへも申し含めましょう。……いや実際あの連中と来ては、飯より人殺しが好物なので﹂
﹁それはそうと花垣殿﹂ニヤニヤ笑いながら美男の武士へ、こういったのは薄あばたのある武士、﹁報酬に間違いはありますまいな﹂
すると花垣と呼ばれた武士は――その名は志津馬というのであったが、さも呑み込んだというように、ポンとばかりに胸を打った。﹁大丈夫だよ、安心するがいい﹂
﹁これはそうなくてはなりますまいて。濡れ手で粟のつかみ取り――という次第でございますからな﹂
﹁その代わりこいつが失敗すると﹂花垣志津馬不安そうである。﹁あべこべに相手にしてやられる﹂
﹁だからわれわれを鞭撻し、十分にお働かせなさるがよろしい﹂ちょっと凄味を見せたのは、指の欠けている武士であった。
﹁というのはどういう意味なのかな?﹂
ちゃアんと分っておりながら、知らないように志津馬がいう。
﹁いただきたいもので、前祝いを﹂
﹁酒はさっきから飲んでいるではないか﹂
こういいながら花垣志津馬は飲み散らした杯盤を眺めやった。
と、ハッハッという笑声が、三人の口から同時に出た。
﹁酒も黄金の色ではあるが、ちと、その、どうも水っぽくてな﹂
﹁チャリンチャリンと音のするやつを﹂
﹁なんだなんだ、金がほしいのか﹂
今気がついたというように、花垣志津馬は苦笑したが、
﹁持ってけ持ってけ。……分けろ分けろ﹂
﹁これは莫大……﹂
﹁十両ずつかな﹂
﹁後へ二十両残りそうだ﹂
﹁うん、しめて五十両か﹂
安浪人め、三人ながら、手を延ばすとあわててひっつかんだが、ちょうどこの頃一軒の屋敷の、一つの部屋で一人の武士が誰にともなく話しかけている。
二
﹁みんなお前が悪いのだ。俺は怨む、お前を怨む。またある意味では憐れんでもいる。……嫉妬! そうだ、その嫉妬が、一切お前を眩ませたのだ。そのくせどうだ、お前自身は? 好色そのもののような生活だったではないか! 俺は随分我慢した。最後まで我慢したといってもいい。そうしていまだに我慢している。……永い間の受難だった。いや、いまだに受難なのだ。俺ばかりではない。娘もだ! それをさえお前は餌にした。嫉妬の餌に! お前の嫉妬! ……だが俺は守って来た、お前の意志を守って来た! もちろん素晴らしい財産の、継承のためには相違ないが、それより一層俺としては、娘の幸福を願ったからだ。というとお前はいうかもしれない、﹃その娘が!﹄﹃その娘が!﹄と! ……が、俺はハッキリという、娘は要するに娘だと! それ以外には意味はない! それへ疑がいをかけるとは! それでも母か! それでも妻か! ……もちろん、彼女はよい娘だ。愛すべき娘には相違ない。で俺は愛したのだ。だがその愛は純なものだ。お前が﹃あいつ﹄を愛したそれと、どうして比較出来るものか! ﹃あいつ﹄は実に悪人だ。﹃あいつ﹄はその後手を変え、品を変え、我々二人を迫害した。そうして今でも迫害している。で、安穏はなかったのだ! しかしとうとう漕ぎ付けた。今日という日まで漕ぎ付けた。今夜さえ過ごせばもうよかろう。勝利はこっちのものになる。そうしたら俺達は自由になる。お前の意志から解放される。明るい日の目も見られるだろう。……それにしても俺は忘れない。俺達を縛った四ヵ条を! あれは普通の人間には考えも及ばぬ残酷なものだ。巧妙なものといってもいい。……破こ壊わせばいくらでも破壊される! 手間暇もいらず簡単に、しかも何らの非難も受けず――ところが俺には出来なかった。そういうことの出来ないように、いつか﹃慣らされ﹄てしまったからだ。それをお前は知っていた。そこでそいつへ付け込んだのだ。そうしてああいう条件を、俺の眼前へ出したのだ。……そこで、俺はハッキリという、お前は俺が良心のために、――俺の持っている良心のために――もがき苦しむのを見ようとして、ああいう条件を出したのだと! そうしてそれは成功した。で俺は苦しんだよ﹂
突然ここで武士の声は、悲しそうな呻くような調子となった。
﹁良心のない者は幸福だ。それは何物にもとらえられないから﹂
ここで一層武士の声は、悲しそうな調子を帯びて来た。
﹁ところが俺は持っていた。だから締め木にかけられたのだ! お前だお前だ、掛けたものは!﹂
武士の姿は解らない。部屋に燈火がないからである。
闇黒の中で誰にともなく、呼びかけ話しかけているのである。
独立をした建物である。
建物の周囲は庭園である。
樹木がすくすくと繁っている。
だが月光がさしている。
その月光に照らされて、その建物がぼんやりと見える。一所瓦屋根が水のように光り、一所白壁が水のように光り、その外は木蔭にぼかされている。
その中でしゃべっているのである。
広大な母屋が一方にある。そこから廻廊が渡されてある。
と、その廻廊の一所へ、ポッツリと人影が現われた。
若い娘の姿である。
建物に向かって声をかけた。
﹁お父様、お父様!﹂
肩の辺に月光がさしている。で、そこだけが生白く見える。
﹁お父様、お父様!﹂
――すると、建物の戸口から、ポッツリと人影が現われた。
戸口と廻廊とは続いている。
現われたのは武士であった。
しゃべっていた武士に相違ない。
ちょうど廻廊の真ん中どころで、二つの人影はいきあった。そこへは月光がさしていない。で、姿はわからない。
ただ、声ばかりが聞こえて来る。
﹁いよいよ今晩でございます。今晩限りでございます﹂
こういったのは娘らしい。
﹁ああそうだよ、今晩だよ。そうして今晩限りだよ﹂
こういったのは武士らしい。
と、しばらく無言であった。
三
ザワ、ザワ、ザワと音がする。木立へ宵の風が渡るらしい。
泉水の水が光っている。月が照らしているからだろう。
泉水の向こう側がもり上がっている。大きな築山でもあるのだろう。その頂きがぬれている。月光がこぼれているからだろう。パタ、パタ、パタ……パタ、パタ、パタ……水鳥の羽音が聞こえて来る。泉水に飼われているのだろう。
一団の真っ白の叢が見える。築山の裾に屯ろしている。ユラユラユラユラと揺れ動く。と、芳香が馨って来た。
牡丹が群れ咲いているのらしい。
と、娘の声がした。
﹁今夜も行かなければなりますまいか﹂悲しんでいるような声である。
﹁お行きお行き、行っておくれ﹂これは武士の声であった。
﹁それもお前のためなのだから﹂
﹁ああ﹂と娘の声がした。﹁どうでもよいのでございます。私のためなど、私のためなど﹂
咽び泣くような声であった。
﹁ただ私はお父様のために……﹂
﹁娘よ﹂と武士の声がした。﹁同時に私のためにもなるよ﹂
﹁参るどころではございません。お父様のおためになりますのなら﹂
ここでまたもや声が絶えた。
で、ひっそりと静かである。
ピシッ! と刎ねる音がした。
泉水で鯉でも刎ねたのだろう。
やっぱり静かだ。風も止んだ。
と、また娘の声がした。
﹁恋の囮おとり! 恋の囮!﹂
﹁いや﹂とすぐに武士の声がした。﹁幸福の囮! 幸福の囮!﹂
だが娘は反対らしい。﹁金の囮でございます!﹂
﹁仕方がないのだ、そういうことも。……この世に生きている以上はな﹂
﹁でもいつまでもお父様と、一緒に暮らすことが出来ましたら……﹂娘の声は思慕的であった。
﹁思うところはございません﹂
﹁それが……﹂と武士の声がした。たしなめるような声であった。﹁こういう受難を産んだのだよ﹂
﹁可哀そうな可哀そうなお母様!﹂
﹁だが私達も可哀そうだった﹂
﹁虐しいたげられたのでございますから﹂
﹁で、それから逃がれなければならない。そうしてその上へ出なければならない﹂
﹁逃がれなければなりません。その上へ出なければなりません﹂
﹁で、お前は行かなければならない﹂
﹁弁吉、右門次、左近を連れて……﹂
﹁そうだ、そうして、その上で、所作をしなければならないのだ﹂
﹁同じようなことを、長い間……﹂
﹁目っからないからだよ、適当な人が……﹂
﹁恐らく生涯目っかりますまい﹂
﹁目っけなければならないよ。……それも今夜! 今夜限りに!﹂武士の声には真剣さがあった。
﹁でも、お父様のある限りは……﹂こういった娘の声の中には、いよいよ思慕的の響きがある。
と、泣き声が聞こえて来た。
娘が泣いているのらしい。
まだ宵である。で静かだ。屋敷は郊外にあるらしい。
﹁行っておいで!﹂と武士の声がした。
﹁はい﹂と娘の声がした。
後は森閑と静かである。
間もなく門の開く音がして、それが遠々しく聞こえて来たが、すぐに閉じる音がした。
武士だけが一人立っている。じっとうなだれて考えている。肩の辺に月光がさしている。
と女の呼ぶ声がした。
﹁今夜はお遁がしいたしません﹂
﹁うむ、お前か、うむ、島子か﹂
﹁はい﹂
と女が現われた。中年者らしい女である。
廻廊を伝って寄って来た。
﹁はっきりご返辞してくださいまし﹂
四
ここに一人の武士があった。
微禄ではあったが直参であった。といったところでたかが御家人、しかし剣道は随分たっしゃで、度胸もあれば年も若かった。悪の分子もちょっとあり、侠気もあってゴロン棒肌でもあった。名は結城旗二郎、欠点といえば美男ということで、これで時々失敗をした。
﹁アレーッ……どなたか! ……助けてくださいよーッ﹂女の悲鳴が聞こえて来た。
お誂え通りわるが出て、若い女をいじめているらしい。
﹁よし、しめた、儲かるかもしれない﹂
で、旗二郎駈け付けた。
案の定というやつである、ならずものらしい三人の男が、一人の娘を取りまいていた。
﹁これ﹂といったが旗二郎、﹁てんごうはよせ、とんでもない奴らだ!﹂
﹁何を!﹂
と三人向かって来た。
﹁何をではない、てんごうは止めろ﹂
﹁何を!﹂
と一人飛び込んで来た。
﹁馬鹿め!﹂
と抜いた旗二郎、ピッシリ、平打ち、撲はり倒した。
﹁野郎!﹂
ともう一人飛び込んで来た。
﹁うふん﹂
ピッシリ、撲り倒した。
﹁逃げろーッ﹂
三人、逃げてしまった。
﹁あぶないところで、怪我はなかったかな?﹂こういう場合の紋切り型だ、旗二郎娘へ声を掛けた。
すると娘も紋切り型だ。﹁はい有難う存じました。お蔭をもちまして幸いどこも……﹂
﹁若い娘ごが一人歩き、しかもこのような深夜などに……﹂これもどうにも紋切り型である。
﹁送って進ぜよう、家はどこかな?﹂どこまでいうても紋切り型である。
ところがそれが破壊されてしまった。紋切り型が破壊されたのである。
﹁屋敷はここでございます﹂
二人の前に宏大な屋敷が、門構え厳いかめしく立っていたが、それを指差していったからである。
﹁ははあ﹂といったものの旗二郎、化かされたような気持ちがした。﹁それではご自分の屋敷の前で、かどわかされようとなされたので?﹂
﹁はいさようでございます﹂
﹁つまらない話で﹂と鼻白んだ。せっかくの武勇伝も駄目になったからだ。﹁が、それにしても迂うか濶つ千万! ……何さ何さあなたではござらぬ。あなたの家の人達のことで。……あれほど悲鳴を上げられたのに、出て来られぬとはどうしたもので﹂こうはいったものの馬鹿らしくなった。︵そんなことどうだっていいではないか。こっちにかかわりあることではない。先様のご都合に関することだ︶﹁では送るにも及びますまいな﹂︵あたりまえさ!︶とおかしくなった。︵十足もあるけば家の中へはいれる︶﹁ご免﹂といいすてるとあるき出した。︵どうもいけない、儲けそこなったよ︶
だがその時娘がとめた。﹁どうぞお立ち寄りくださいまし。お礼申しとう存じます。あの、父にも申しまして﹂それから門をトントンと打った。﹁爺や爺や、あけておくれ﹂
﹁ヘーイ﹂と門内から返辞があって、すぐ小門がギーと開いたが、﹁お侍様え、おはいりなすって。……さあお嬢様、あなたからお先へ﹂
﹁はい﹂と娘、内へはいった。﹁どうぞお立ち寄りくださいまし﹂これは門内からいったのである。
結城旗二郎いやになった。﹁﹃爺や爺やあけておくれ﹄﹃ヘーイ﹄ギー、門があいて、﹃お侍様えおはいりなすって﹄これではまるで待っていたようなものだ。おかしいなア、どうしたというのだ、薄っ気味の悪い屋敷じゃアないか﹂
で改めて屋敷を見た。一町四方もあるだろうか、豪勢を極めた大伽藍、土塀がグルリと取り廻してある。塀越しに繁った植え込みが見える。林といってもよいほどである。
﹁この屋敷へノコノコはいって行くには、俺のみなりは悪過ぎるなあ﹂
中身は銘なある長おさ船ふねだが、剥げチョロケた鞘の拵えなどが、旗二郎を気恥ずかしくさせたのである。
とまた娘の声がした。﹁お礼申しとう存じます、どうぞお立ち寄りくださいまし﹂
﹁度胸で乗り込め、構うものか﹂
で旗二郎入り込んだが、これから大変なことになった。
五
ここは屋敷の一室である。
三十五、六の武士が、旗二郎を相手に話している。
﹁ようこそお助けくださいました。千万お礼を申します。あれは娘でございましてな、名は葉末、年は二十歳、陰気な性質ではございますが、その本性はしっかりものでござる。……迂濶と申せば迂濶の至りで、自分自身の屋敷の前で、かどわかされようとしましたので。とはいえどうもこの屋敷、ご承知の通り甚だ手広く、たとえ門前で悲鳴いたしても、母屋へまでは容易に聞こえず、困ったものでございます。……おおおおこれは申し遅れました、拙者ことは当屋敷の主人、三みく蔵ら琢磨にございます。本年取って三十五歳、自分は侍ではございますが、仕官もいたさず浪人者で、それに性来書籍が好きで、終日終夜紙し魚みのように、文字ばかりに食いついております次第、隠居ぐらし、隠遁生活、それこそ庭下駄を穿かないこと、二十日間にもわたろうかという、そんな生活をいたしております。……ははあ、あなた様でございましたか、なるほどなるほどご浪人で、ほほうお名前は結城旗二郎殿で、で、お年は? 二十三歳? それはそれは、ちょうどよろしい。二十歳と二十三歳、全く頃加減でございますからな。……ほほうさようで、御家人の御身で、天下の直参、まことに結構、何んの申し分がありましょう。……ははあご家計はご不如意とか? なんのなんのそのようなこと、問題になることではございません。……家計と申せば当家などは、それこそ人の羨むほど、豊かなものではございますが、そのためかえって煩い多く、敵さえあるのでございますよ。……が、まずそれはそれとして、もはや深夜でございますので、なにとぞ別室でお休みあって、明朝ゆるゆるお話をな。……いやはやこれはとんでもない、ご内室の有無も承わらず、おとめしようとは失礼いたしてござる。しかしどうやら拝見しましたところ、ご独身のように存ぜられますが。……あッ、さようで、それは幸い、やはりご独身でございましたかな。何から何までよい具合で。……それに大変武芸にも勝れ人品もよく骨柄もよく、お立派なものでございますよ。……ええとところで今夜でござるが、ひょっとかすると当屋敷へ、襲って来る人間があるやも知れず、ええその際にはご武勇をな、ぜひともお揮い願いたいもので。……ええとそれからもう一つ、ひょっとかすると当屋敷に、ちょっと変わった事件が起こり、お驚かせするかも知れませぬが、決して決してご介意なく、安心してお泊まりくださるよう﹂
三蔵琢磨というこの家の主人、こんな具合に話すのであった。
その琢磨の風貌だが、まことに立派なものであった。
艶々しい髪を総髪に結び、バラ毛一筋こぼしていない。広い額、秀でた眉、――それがノンビリと一文字である。軟らか味を持ち冴え返り、人情と智恵とを兼有したような、非常に美しい穏かな眼。鼻の高さ形のよさ、高尚という言葉さながらである。どこか女性的の小さな口。唇は刻薄に薄くもなく、さりとて卑しく厚くもない。で、やっぱり立派なのである。豊かな垂れ頬、ひきしまった頤、厚い耳たぶ、長目の首、総体が華きゃ奢しゃで上品で、そうして何んとなく学者らしい。体格は中肉中身ぜ長いである。顔に負けない品位がある。着流しの黒紋付き、それで端然と坐っている様子は、安く踏んでも大旗本である。品位と貫禄と有福と、智恵と人情とを円満に備えた、立派な武士ということが出来る。
だが一つだけ不思議なのは、そのいうことやいう態度に、おちつきのないことであった。どことなく何んとなくオドオドしている。何物をか恐れているようである。いっている言葉にも矛盾がある。そうしていわないでもよいようなことまで、いっているようなところがある。といってもそれが悪い心から、発しているものとは思われない。で、もちろん、加工的でもない。自然とそんなようになるのらしい。だからいよいよ変なのである。
何かに脅えているのらしい。何かに縋ろうとしているのらしい。助けられたがっているのらしい。――つまりそんなように見えるのであった。
﹁どうも不思議な人物だな。……変なところへ入り込んでしまった﹂
結城旗二郎は気味悪くなった。
﹁俺の意志など勘定にも入れず、勝手に決めてしまうのだからな。……俺が泊まろうともいわない先に、勝手に泊まることに決めてしまった。……が、どっちみちこの人物、悪党でないことは確からしい。で、この点は安心だ。いやいや悪党どころではない、非常に勝れた人物らしい。……だがそれにしても変だなあ、娘の親だとはいうけれど、ちっとも二人とも似ていないではないか。それにさ少し若過ぎる。娘の親としては若過ぎる。二十歳の娘に三十五歳の親。とすると十五で出来た子だ。女が十五で子を産むはいいが、男親の方が十五歳で子を産ませるとは早過ぎる。……といって、もちろん世の中に、全然ないことではないけれどな。……それにしても娘はどうしたんだろう? ちっとも姿を見せないではないか。……それにさこんなに途方もない、立派な広い屋敷だのに、一向召使いがいないらしい。考えてみれば、これも変だ。……何物か襲って来るという、その時には武勇を揮ってくれという、どう考えても変な屋敷だ。……が、まあまあそれもよかろう、よろしいよろしい乞われるままに、今夜この屋敷へ泊まってやろう。何か秘密があるのだろう、ひとつそいつをあばいてやろう﹂
で、旗二郎泊まることにしたが、はたしていろいろ気味の悪いことが、陸続として起こって来た。
六
通された部屋は寝所であった。
豪勢な夜具がしいてあった。
一通りの物が揃っていた。というのは結構な酒肴が、タラリと並べられてあるのであった。蒔絵の杯盤、蒔絵の銚子、九谷の盃、九谷の小皿、九谷の小鉢、九谷の大皿、それへ盛られた馳走なども、凝りに凝ったものである。金屏風が一双立て廻してある。それに描かれた孔雀の絵は、どうやら応挙の筆らしい。朱塗りの行燈が置いてある。その燈火に映じて金屏風が、眼を射るばかりに輝いている。片寄せて茶道具が置いてあり、茶釜がシンシン音立てている。
茶も飲めれば酒も飲める。寝たければ勝手に寝るがよい、寝ながら飲もうと随意である――といったように万事万端、自由に出来ているのであった。
が、一つだけ不足のものがあった。
酌をしてくれるものがないことである。
上かけ蒲団を刎ねた旗二郎、見ている者もないところから、敷蒲団の上へあぐらを組み、手酌でグイグイ飲み出したが、考え込まざるを得なかった。
﹁どう考えたって変な屋敷だ、どう思ったって変な連中だ、からきし俺には見当がつかない。……それにさ、さっきの主人の言葉に、妙に気になる節があった﹂
というのは他でもない、﹁二十歳と二十三歳、ちょうど頃加減でございますからな﹂こういった主人の言葉である。
﹁これでは、まるでこの家の娘――そうそう葉末とかいったようだが、それと、この俺とを一緒にして、婚礼させようとしているように聞こえる。そういえば、さっき俺の身分を、それとなく尋ねたようでもあった。いよいよ合点がいかないなあ﹂
グイグイ手酌で飲んで行く。
だが酔いは少しも廻ろうともしない。心気がさえるばかりである。
﹁家の構え、諸道具や諸調度、これから推してもこの家は、大変もない財産家らしい。いや主人もそういった筈だ、人もうらやむほどの財産家だと。……その上娘はあの通り綺麗だ。婿にでもなれたら幸福者さ﹂
グイグイ手酌で飲んで行く。
葉末という娘の風采が、ボッと眼の前へ浮かんで来た。月の光で見たのだから、門前ではハッキリ判らなかったが、燈火の明るい家の中へはいり、旗二郎を父親へひきあわせ、スルリと奥へひっ込んだまでに、見て取った彼女の顔形は、全く美しいものであった。キッパリとした富士額、生え際の濃さは珍らしいほどで、鬘を冠っているのかもしれない、そんなように思われたほどである。眉毛はむしろ上がり気持ちで、描いたそれのように鮮やかであった。鼻は高く肉薄く、神経質的の点があり、それがかえって彼女の顔を、気高いものに見せていた。唇は薄く、やや大きく、その左右がキュッと緊まり、意志の強さを示していた。だが何より特色的なのは、情熱そのもののような眼であった。どっちかといえば細くはあったが、そうして何んとなく三白眼式で、上眼を使う癖はあったが、その清らかさは類たぐ稀いまれで、近づきがたくさえ思われた。女としては高い身せ長いで、発育盛りの娘としては、少し痩せすぎていることが、一方欠点とは思われたが、一方反対にそのために、姿が非常に美しく見えた。全体の様子が濃艶というより、清楚という方に近かったが、また内心に燃え上がっている、情熱の火を押し殺し、無理に冷静に構えているような、そんな様子も感ぜられた。
﹁あの娘と夫婦になる。どう考えたって有難いことだ﹂
旗二郎はこんなことを思いながら、グイグイ手酌で飲んで行った。
依然として酔いが廻らない。いよいよ眼が冴え心が冴え、とても眠気など射さそうともしない。夜がだんだん更けて行く。更けるに従って屋敷内が、いよいよ静けさを呈して来る。
それにもかかわらず不思議なことには、訳のわからぬ不安の気が、旗二郎の心に感じられた。﹁よし﹂と突然どうしたのか、旗二郎は呟くと立ち上がった。取り上げたのは大小である。﹁どっちみち怪しい屋敷らしい。思い切って様子を探ってみよう。一室に籠もって酒を飲んで、事件の起こって来るやつを、待っているのは消極的だ。こっちからあべこべに出かけて行き、屋敷の秘密を探ってやろう﹂
で、部屋から出て行ったが、はたして結城旗二郎、どんな怪異にぶつかったろう?
七
いつか旗二郎裏庭へ出た。
素晴らしく宏大な庭である。山の中へでもはいったようだ。
木立がか黒く繁っている。築山が高く盛り上がっている。広い泉水がたたえられてある。いたる所に花木がある。泉水には石橋がかかっている。
ずっと遙かの前方で、月光を刎ねているものがある。風にそよいでいる大竹藪だ。その奥に燈火がともっている。神の祠でもあるらしい。燈明の火がともっているらしい。
地面は苔でおおわれている。で、気味悪く足がすべる。
一所に小滝が落ちている。それに反射して月光が、水銀のようにチラチラする。
と、ほととぎすのなき声がした。
﹁まるで大名の下屋敷のようだ。その下屋敷の庭のようだ﹂
呟きながら旗二郎、築山のうしろまで行った時である。
築山の裾に岩組があり、それの蔭から黒々と、一個の人影が現われた。
﹁おや﹂
と思った時、掛け声もなく、スーッと何物か突き出した。キラキラと光る! 槍の穂だ! 黒影、槍を突き出したのである。
﹁あぶない!﹂
と思わず叫んだが、﹁何者!﹂と再度声を掛けた。とその時には旗二郎、槍のケラ首をひっ掴んでいた。
と、黒影、声をかけた。
﹁先刻はご苦労、まさしく平打ち、ピッシリ肩先へ頂戴してござる。……で、お礼じゃ、槍進上! ……そこで拙者はこれでご免! ただしもう一人現われましょう﹂
スポリとどこかへ消えてしまった。
団々と揺れるものがある。雪のように真っ白い。白牡丹の叢があるのであった。黒い人影の消えた時、恐らく花を揺すったのであろう。プーンと芳香が馨って来た。
﹁驚いたなあ、何んということだ。物騒千万、注意が肝腎。……槍進上とは胆が潰れる。……待てよ待てよ、何んとかいったっけ﹃先刻はご苦労、まさしく平打ち、ピッシリ肩先へ頂戴してござる﹄――ははあそうするとさっき方、この家の娘を門前で、かどわかそうとした奴だな? ……ふうむ、それではあいつらが、潜入をしているものと見える。いよいよ物騒、うっちゃっては置けない。葉末とかいう娘のため、ここの庭から駆り出してやろう﹂
ソロソロと進むと滝の前へ出た。
そこをよぎると林である。蘇そて鉄つが十数本立っている。
と、その蔭から声がした。﹁これは結城氏結城氏、さっきは平打ち、いただいてござる。で、お礼! まずこうだ!﹂
ポンと人影飛び出して来た。キラリと夜空へ円が描かれ、続いて鏘しょ然うぜんと音がした。パッと散ったは火花である。切り込んで来た敵の太刀を、抜き合わせた結城旗二郎、受けて火花を散らしたのである。
二人前後へ飛び退いた。
﹁お見事﹂と敵の声がした。﹁が、もう一人ご用心! ご免﹂
というと消えてしまった。
蘇鉄の頂きが光っている。月があたっているかららしい。
﹁ふざけた奴らだ﹂と旗二郎、気を悪くしたが仕方なかった。庭は宏大、地の理は不明、木立や築山が聳えている。どこへ逃げたか解らない。追っかけようにも追っかけようがない。
﹁よし﹂と旗二郎決心した。﹁もう一人出るということだ。今度こそ遁がさぬ、料理してくれよう﹂
だがその企ても駄目であった。
というのは旗二郎抜き身を下げ、用心しながら先へ進み、竹藪の前まで来た時である、竹藪の中から声がした。
﹁お手並拝見してござる。なかなかもって拙者など、お相手すること出来ませぬ。先刻の平打ちも見事のもの、十分武道ご鍛練と見受けた。ついてはお願い、お聞き届けくだされ。……ずっと進むと裏門になります。そこから参るでございましょう、十数人の武士どもが。……今回こそはご用捨なく、手練でお打取りくださいますよう。……それこそ葉末殿のおためでござる。また、ご主人のおためでござる。ご免﹂と一声! それっきりであった。いや、ガサガサと音がした。竹藪を分けてどこともなく、どうやら立ち去ってしまったらしい。
﹁何んということだ﹂と旗二郎、本当に驚いて突っ立った。
﹁きゃつら敵ではなかったのか。葉末殿のため、ご主人のため、こういったからには敵ではなく、味方であるとしか思われない……。ではなぜ切り込んで来たのであろう? ではなぜ葉末というあの娘を、かどわかそうとしたのだろう? 何が何んだか解らない。解っていることはただ一つだ、怪しい館だということだけだ。どうでもこの屋敷、どうでも怪しい﹂
旗二郎怒りを催して来た。翻弄されたと思ったからである。
﹁主人のためでなかろうと、娘のためでなかろうと、俺は俺のために叩っ切る。来やがれ! 誰でも! 叩っ切る!﹂
で、スルスルと足音を忍ばせ、先へ進むと木立があり、それを抜けた時行く手にあたり、取り廻した厳重の土塀が見え、ガッシリとした裏門が、その一所に立っていた。
﹁うむ、あいつが裏門だな﹂
小走ろうとした時、トン、トン、トン、と、その裏門を外の方から、忍びやかに叩く音がした。
と、一つの人影が、母屋の方から現われた。意外にも女の姿である。裏門の方へ小走って行く。で、旗二郎地へひれ伏し、じっと様子をうかがったが、またも意外の光景を見た。
八
というのは他でもない、小走って来たその女と、門外にいるらしい男との間に、こんな話が交わされたのである。
﹁首尾はどうだ?﹂と男の声がした。
﹁今夜十二時……﹂と女の声が答えた。
﹁ハッキリした返辞をするそうだよ﹂
﹁ナニ十二時?﹂と怒ったように、﹁それでは少し遅いではないか﹂
﹁遅くはないよ﹂と女の声も、何んとなく怒っているようである。﹁十二時キッチリにまとまったら、何んのちっとも遅いものか﹂ぞんざいな伝法な口調である。
﹁が、一分でも遅れては駄目だ﹂不安そうな男の声である。
﹁九仭の功を一簣きに欠くよ﹂
﹁百も承知さ﹂と嘲笑うように、﹁お前さんにいわれるまでもない﹂
﹁で、どうだい?﹂とあやぶむように、﹁まとまりそうかな、その話は?﹂
﹁そうだねえ﹂と女の声、ここでいくらか不安らしくなった。﹁はっきり、どっちともいわれないよ﹂
﹁腕がないの﹂と憎々しく、男の声は笑ったらしい。﹁それでもお前といわれるか﹂
﹁お互いッこさ﹂と負けてはいない。﹁そういうお前さんにしてからが、大して腕はないではないか﹂女の声も憎々しくなった。﹁こんな土壇場へ迫せり詰まるまでいったい、何をしていたんだい﹂
﹁止せ!﹂といったものの男の声は、どうやら鼻白んだ様子である。﹁争いさかいは止めよう、つまらない﹂
ここでしばらく沈黙した。
茂みに隠れ、地にへばりつき、聞き耳を立てていた旗二郎、﹁解らないなあ﹂と呟いた。﹁何をいったいいっているのだろう?﹂
しかしどっちみち男も女も、善人であろうとは思われなかった。ここの屋敷の人達に対し、よくないことを企んでいる――そういう人間どもであることは疑がいないように思われた。
﹁事件は複雑になって来た。いよいよもって怪しい屋敷だ。……門外の男は何者だろう? 眼の前にいる女は何者だろう?﹂
で、旗二郎微動もせず、なおも様子を窺うかがった。
﹁とにかく﹂と男の声がした。門の外にいる男の声だ。﹁是が非でも成功させるがいい﹂
﹁お前さんもさ﹂といい返した。門内の女がいい返したのである。﹁万全の策をとるがいいよ﹂
﹁いうまでもないよ﹂と笑止らしく、﹁武士を入れるよ、切り込みのな。……備えはどうだ、屋敷内の備えは?﹂
﹁宵の間に一人若い武士が、屋敷へはいって泊まり込んでいるよ﹂
﹁え?﹂といったが驚いたらしい。﹁どんな人品だ? 立派かな?﹂
﹁ああ人品は立派だが、御家人らしいよ。安御家人らしい﹂
﹁ふうん﹂といったまま黙ってしまった。
門内の女も黙っている。で、森閑と静かである。ピシッ、ピシッと音がする。泉水で鯉が跳ねたのらしい。
﹁俺の噂をしているわい﹂ニヤリと笑った旗二郎、﹁立派な人品とは有難いが、安御家人とは正直すぎる﹂――で、なお様子をうかがった。
と、男の声がした。﹁どっちみち油断は出来ないの。うかうかしていてその御家人に、玉を取られては一大事だ。……よしよしすぐに手配りをしよう﹂
﹁それがいいよ﹂と女がいった。﹁それでは私は帰るとしよう﹂
そこで女は木立をくぐり、母屋の方へ帰ったが、間もなくポッツリと土塀の上へ、一つの人影が現われた。覆面をした武士である。とまたポッツリともう一つ、同じく覆面姿の武士が土塀の上へ現われた。
隠れ窺っていた旗二郎、﹁ははあ切り込みの武士達だな。よしよし端から叩っ切ってやろう﹂
――で、ソロソロと身を起こし、片膝を立てると居合い腰、大刀の柄へ手を掛けたが、プッツリと切ったは鯉口である。上半身を前のめりに、肘をワングリと鈎に曲げ、左の足を地面へ敷き、腰を浮かめたは飛び出す構え……頤を上向け額を反らし、上眼を使って睨んだは、土塀の上の人影が、飛び下りるのを狙ったのである。
﹁来やがれ、悪人、一人も残さぬ! 生れて初めての人殺しだ。片っ端から退治てみせる﹂
心の中で呟いた時、一つの人影土塀から、スーッと庭へ飛び下りた。
とたんに、抜き打ち、旗二郎、いざったままにスルリと出、右腕を延ばすと一揮した。月光の射さない木影の中、そこへ全身は隠していた。が、一揮した太刀先だけは、月光の中へ出たと見える。ピカリと燐のように閃めいたが、閃めいた時にはその太刀先、木影の中へ引っ込められていた。
グッ! といったような変な呻き、飛び下りた武士の口から出て、息詰まるような様子であったが、まず両手を宙へ上げ泳ぐような格好をしたかと思うと、ドッと前倒れにぶっ倒れた。腰から上の半身が、月光の中に晒らされている。背がムクムクと波を打つ。それにつれて肩がS形にうねる。左の胴から黒いものが、ズルズルズルズル引き出されている。昼間見たら真っ赤に見えただろう、傷口から流れ出る血なのだから。と、まったく動かなくなった。
﹁どうした島路﹂という声がした。土塀の上のもう一人である。と、ヒラリと飛び下りた。﹁不覚だの、転んだのか?﹂
腰をかがめて覗き込んだ。
そこを目掛けて旗二郎、またもスルスルといざり出たが、今度は瞬間にスッと伸ばし、背高々と爪立ったが、こんな場合だ、卑怯ではない。声も掛けずに背後から、後脳を目掛けてただ一刀! ザックリ割って飛びしさった。
すぐに木影へ隠れたのである。
九
ガッ! といったような気味の悪い悲鳴、一声立てたが切られた武士だ。枯れ木仆しにそのままに、前方へドッと仆れたので、前に仆れていた死骸の上へ、蔽うようにして転がった。
月光それを照らしている。
急所を一刀に割られたのである。躰に痙攣を起こしもせず、静まり返って死んだらしい。
﹁二人仕止めた、これだけかな﹂
木影に立った旗二郎、決して決して油断はしない、血刀を下段に付けながら、眼で塀の上を見上げながら、さすがに少しばかり切迫する、胸の呼吸を静めながら、こう口の中で呟いた。
すると呟きの終えないうちに、土塀の上へ黒々と、五つの人影が現われた。同じである、覆面姿、武士であることはいうまでもない。じっと地面を見下ろしたが、どうやら不思議に思ったらしい、五人ヒソヒソ囁き出した。
と、キラキラと光り物がした。
五人ながら刀を抜いたのである。
それが月光を刎ねたのである。
﹁オイ﹂と一人の声がした。
﹁うむ﹂と答える声がした。
﹁やられたらしい﹂ともう一人の声。
﹁島路と、そうして大里だ﹂
﹁そうらしいの﹂ともう一人。
﹁敵に防そな備えがあるらしい﹂さらにもう一人の声がした。
と、一人が振り返った。﹁味方両人してやられてござる。……いかがしましょうな、花垣殿?﹂
すると門外から返辞がした。
﹁防備あるのがむしろ当然。……よろしい拙者も参るとしよう。……六人同時に切り込むといたそう﹂
すぐにもう一つの人影が、土塀の上へ現われた。
同一の覆面である。
﹁では﹂
というと飛び下りた。
六人一緒に集まったが、二つの死骸を調べ出した。
木影で見ていた旗二郎、﹁これはいけない﹂と考えた。﹁六人と一人では勝負にならぬ。引っ返して屋敷の人達に、このありさまを知らせてやろう﹂
そこで物音を立てぬよう、彼らに姿を見せぬよう、背うし後ろ下がりに退いた。数間来た所でクルリと振り向き、抜き身を袖で蔽ったが、腰をかがめると木蔭づたい、母屋の方へ小走った。
築山裾まで来た時である。
﹁ご苦労でござった、結城氏﹂
こういう声が聞こえて来た。
と、すぐ別の声がした。
﹁我らこちらを守りましょう。願わくば貴殿、石橋を渡られ、向こうに立っている離れ座敷、それをお守りくださるよう﹂
とまた別の声がした。
﹁そちらに主人おりますのでな﹂
どこにいるのか解らない。どこかに隠れているのだろう。そうして悉しっ皆かいを見たのだろう。
十
﹁ははあ、さっきの奴らだな﹂
結城旗二郎察したが、問答をしている時ではない、頼まれて人を切った以上、乗りかかった船だ、最後まで、手助けをしてやろうと決心した。
﹁承知﹂
と一声簡単にいったが、築山を巡ると泉水へ出、石橋を向こうへ渡り越した。
行く手に建物が立っている。廻廊で母屋とつながっている。独立をした建物である。木立がその辺を暗めている。雨戸がピッシリ閉ざされてある。
そこまでやって来た旗二郎、グルリと周囲を見廻したが、建物のはずれの一角の、暗い所へ身をひそめた。
で、向こうをすかして見た。
が、庭木が繁っている。土塀のあり場所など解らない。したがって土塀から飛び下りた、六人の姿なども解らない。
深夜の裏庭は静かである。とはいえ殺気が漲みなぎっている。
ピシッ! 鯉が飛んだのである。
パタパタ! 水みず禽とりが羽搏いたのである。
後は森然と風さえない。
だが殺気は漲っている。
﹁妙な運命にぶつかったものさ﹂旗二郎こんな場合にも、こんなことを考える余裕があった。
﹁ゆくりなく女を助けたのが、偶然人を殺す運命となった﹂
おかしいようにも思われた。
﹁どんな儲けにありつくかしらん?﹂
期待されるような気持ちもした。
﹁美人の葉末、手にはいるかな?﹂
ふと思ったので嬉しくもなった。
﹁養子にでもなれたら大したものだ。素晴らしい屋敷、宏大な宅地、手にはいろうというものさ、うまうま養子になれるとな﹂
ニコツキたいような気持ちもした。
﹁とにかくウンと働くのだ。見せつけてやろうぜ、冴えた腕を。だが﹂と母屋の方を見た。﹁肝腎の娘はどうしているんだ。肝腎の主人はどうしているんだ。いやに静まっているではないか……オッ、足音!﹂
と耳を立てた。
シトシトと足音が聞こえて来る。だが姿はわからない。木立を縫って来るからだろう。
不意に足音が消えてしまった。
と思った時また聞こえた。
﹁はてな?﹂と呟いたのはその足音が、二手に別れたからである。
三人ずつ二手に別れたらしい。こちらの方へ三人が来、母屋の方へ三人が、築山を巡って行くようである。
﹁いよいよ来るか﹂
と旗二郎、建物の角へ背中をつけ、太刀を中段、堅固に構え、奥歯を噛みしめ呼吸をととのえ、一心に前方をすかして見た。
だんだん足音が近づいて来る。だがまだ敵の姿は見えぬ。
すると忽然、太刀打ちの音! 築山の方から聞こえて来た。
チャリーンと一合! つづいて数合! それに続いて数声の悲鳴! 向こうへ向かった敵を相手に、味方の三人が切り合ったらしい。
﹁ウム、やったな! どうだ勝負は? やっつけたかな? やられたかな?﹂
旗二郎の全身はひきしまった。﹁出ろ出ろ出ろ! こっちへも出ろ!﹂
ブルッと武むし者ゃぶ顫るいをした時である。前方の繁った木立を抜き、颯さっと走り出た人影があった。
三人の覆面の武士である。
﹁来い!﹂
と勇躍、旗二郎、建物の角から走り出た。
﹁悪漢!﹂
と一声、胆を奪い、真っ先に進んで来た一人を、サーッと右の袈裟に掛けた。
が、それは駄目であった。十分用心をしていたのだろう、旗二郎の太刀を横に払い、翻然斜めに飛びのいた。
﹁方々!﹂
﹁うむ﹂
﹁ご用心!﹂
三人声をかけ合ったが、抜き身を構えると三方へ開き、旗二郎を中へ取り込めようとした。
﹁これはいけない﹂
と旗二郎、ポンと飛び返ると闇の中――以前隠れていた建物の角へ、ピッタリ背中を食っつけたが、﹁さあて、これからどうしたものだ﹂
突嗟の間に思案した。
見れば三人の敵の勢、大事を取るのか早速にはかからず、且つは秘密を保とうとしてか、無駄な掛け声をかけようともせず、タラタラと三本の太刀を揃え、ジリジリ……ジリジリ……と寄せて来る。
いずれも相当の手利きらしい。が、その中では真ん中にいる、体付きのきゃしゃな一人の武士が、どうやら一番未熟らしい。そのくせどうやらその人物が、彼らの仲間での首領らしい。花垣と呼ばれた人物らしい。
﹁よし﹂
と旗二郎うなずいた。﹁真ん中の奴を打ち取ってやろう﹂
で、闇中に構えながら、その男の隙を窺った。ところがそれが自ら、その人物に感じられたらしい。卑怯にもスルスルと退いた。
﹁こやつ﹂
と思った旗二郎、卑怯な態度に気を悪くしたか、二人の敵のいるのを忘れ不覚にもツツーと進み出た。
と、月光がぶっかけて来た。で、全身が露出した。
そこを狙った二人の武士、あたかも﹁しめた!﹂といわんばかりに、呼吸を合わせて左右同時、毬のように弾はずんで切り込んで来た。
﹁おっ﹂と叫んだ旗二郎、一瞬ヒヤリと胆を冷やしたが、そこは手練だ、切られなかった。
チャリーンと一刀、右手の太刀、それを抑えると首を返し、左手の一人を一喝した。すなわち鋭く甲の声で﹁カーッ﹂とばかりにくらわせたのである。声をかけられた左手の武士、ピリッとしたらしかったが太刀を引き躊躇するところを旗二郎、パッとばかりに足踏み違え、太刀を返すとサーッと切った。
﹁ワッ﹂という悲鳴! カチンという音! すなわち切られた左手の一人、得物を落とすとヒョロヒョロヒョロヒョロと、背後の方へよろめいたが、左肩を両手で押えると、二本の足を宙に刎ね、ドンと背後へぶっ倒れた。
もうその頃には旗二郎、モロにうしろへ飛び返り、以前の場所だ、建物の角、闇の中へ体を没していた。
そうしてそこから呼んだものである。﹁さあ来い、さあ来い! ……さあ来い、さあ来い!﹂ここでゆっくりと、﹁来やアがれエーッ﹂
グッと引きつけた太刀の柄、丹田にあてたは中段の序、そこでもう一度、
﹁来やアがれーッ﹂
だがこんな場合にも、旗二郎心中で考えていた。﹁随分切った、働いた。儲からなければやりきれない、娘の婿になれるかな。ここの養子になれるかな?﹂
――それだけの余裕があったのである。
十一
太刀音、悲鳴、﹁来やアがれーッ﹂の喚き、十分けたたましいといわなければならない。で建っている離れ座敷の中に、一人でも人がいたのなら、出て来なければならないだろう。
ところが人は出て来ない。静まり返って音もしない。それでは誰もいないのだろうか?
いやいや人はいたのである。
しかも男女二人いた。
ここは建物の内部である。
﹁さあご返辞なさりませ﹂
こういったのは女である。寝椅子の上に腹這っている。両肘で顎をささえている。乳のように白い肘である。ムッチリとして肉づきがよい。顔は妖婦! 妖バン婦プ型である。髪をグタグタに崩している。黒い焔を思わせる。その髪に包まれて顔がある。目ばかりの顔ではあるまいか? といったような形容詞をどうにもこの際用いなければ、到底形容出来ないような、そんな印象的な目をしていた。二重まぶたに相違ない。が、思うさま見開いているので、それがまるっきり一重まぶたに見える。目の中が黒く見えるのは、黒目が余りにも多いからだろう。白眼が縞をなしている。濃い睫まつ毛げの陰影が、そういう作用をしているのだろう。その目が一所を見詰めている。で黒目が二つながら、目頭の方へ寄っている。で、一種の斜視に見える。斜視には斜視としての美しさがある。いや斜視そのものは美しいものだ。で、その女――島子なのであるが――その島子の人工的斜視は、妖精的に美しい。また蠱こわ惑く的といってもいい。また誘惑的といってもいい。いやいや明きらかに彼女の目は、露骨に誘惑をしているのであった。紅を塗られた唇は尋常よりもグッと小さい。
島子は襲した衣ぎ一枚である。一枚だけをひっかけている。真紅の色というものは、誘惑的ではあるけれど、あまりに刺戟があくどいため、教養ある人には好かれない。肉色こそはより一層、男の情慾をそそるものである。それを島子は着ているのである。裾と胴とに鱗型をつけた、肉色絹の襲衣なるものを! よい体格だ! 肥えている。腰のあたりがクリクリとくくれ、臀部がワングリと盛り上がっている。二本の足が少し開かれ、襲衣に包まれているのだろう、臀部から踵までの足の形が、襲衣を透かして窺われる。襲衣が溝を作っている。ひらかれた足のひらき目である。襲衣の襟が寛くつろいでいる。で胸もとが一杯に見える。肋骨などあるのだろうか? そんなようにも感じられるほど、脂肪づいた丸い厚い胸が、呼吸のために相違ない、ゆるやかに顫え動いている。
﹁味のよい果物がここにあります﹂
島子歌うようにいい出した。
﹁めしあがりませ、琢磨様!﹂
頤を支えていた左の腕を、こういいながらダラリと落とし、寝台の上へ長々と延ばした。と、襲衣の襟が捲くれ円々とした肩が現われた。連れて一方左の乳房が、タップリと全量を現わした。さも重たそうな乳房である。
﹁さあご返辞をなさりませ﹂
こういうと島子は眼を閉じた。いや半眼に閉じたのである。と大きな眼が急に細まり、下のまぶたへ濃いかげが出来た。睫毛がかげを作ったのである。何んとひときわその眼付き、誘惑的になったことか! 陶酔的の眼であった。恍惚とした眼であった。
と、その眼をすっかり閉じ、支えていた右手を頤から取ると、島子はガックリ首を垂れた。寝椅子へ額を押しあてて、ベッタリ臥うつ伏ぶせに寝たのである。襲衣の襟が楔くさ形びがたに、深く背の方へひかれたためか、背筋まで見せて頸足が、ろくろっ首のように長くなった。そこへ髪の毛がもつれている。髪の毛の間からヌラヌラと、白い艶のよい肉が見える。海草の中から、白珊瑚が、チラチラ光っているようである。
﹁味のよいお酒がここにあります﹂
眠くて眠くてたまらないような、ぼっとした声で、うっとりとこう島子は呼びかけた。
﹁お飲みなさりませ、琢磨様﹂
そろそろと全身をうねらせた。寝返りを打とうとするらしい。仰あお向むけになろうとするらしい。
武士が一人立っている。
寝椅子の傍に立っている。
ほかならぬ三蔵琢磨である。
冷然として立っている。島子の嬌態など見ようともしない。顔など決して充血していない。といって決して青ざめてもいない。眼を正しく向けている。口を普通に結んでいる。足も決してふるえていない。こぶしなども決して握っていない。あくまでも冷静沈着である。
だが額の一所に、汗の玉のあるのはどうしたのだろう?
木彫のように黙っている。だがもし彼が物をいったら、ふるえないということがどうしていえよう。
ふるえ声を女に聞かれるのを、恐れて物をいわないのかもしれない。
なぜ彼は島子を見ないのだろう? そういう女の嬌態などに、感興をひかないたちだからだろうか? そういうようにも解される。だがその反対にも解される。そういう嬌態の誘惑を恐れ、それで島子を見ないのだと。
だが彼はある物を見てはいた。
彼の正面に壁がある。そこにある物がかかっていた。文政時代に似つかわしくない、外国製の柱時計であった。
黒檀の枠、真鍮の振子! 振子は枠から長く垂れ、規則正しく揺れている。で、そこから音が聞こえる。カチ、カチ、カチ、……カチ、カチ、カチ! ――セコンドを刻む音である。
長針と短針とが矢のように、白い平盤の表面に、矩形をなして突き出ている。その周囲を真円に囲み、アラビア文字が描かれてある。短針は十二時を指そうとしている。しかし長針は十時にあった。
カチ、カチ、カチ、……カチ、カチ、カチ、……時は刻々に移って行く。
﹁十分前だ!﹂
呻くような声! 琢磨の口から出たのである。冷静な顔や態度にも似ず、息詰まるような声であることよ!
カチ、カチ、カチ……カチ、カチ、カチ!
時は刻々に移って行く。
二人の男女を包んでいるところの、部屋の様子というものも、まことに異様なものであった。
十二
とはいえ今日の眼から見れば、洋風の書斎に過ぎないのではあるが。
壁の一方にドアがあり、壁の一方に窓があり、巨大な書棚が並んでおり、書物がギッシリ詰まっており、数脚の椅子と卓とがあり、洋燈が卓の上に燃えており、それに照らされて青磁色をした、床の氈かもが明るんでおり、同じ色をした窓掛けが、そのひだにかげをつけており、高い白堊の天井の、油絵の図案を輝かせている。――というまでに過ぎなかった。
とはいえ時代は文政である。所は江戸の郊外である。そういう時代のそういう所に、こういう部屋のあるということは、かなり驚いてもよいことであった。
さらに驚くべきものがあった。
とはいえそれとて一口にいえば、一枚の張り紙に過ぎないのではあるが――だがその張り紙に書かれてある、四ツの箇条書きを見た人は、非常に驚くに相違ない。
時計の真下、振子の下に、張り紙は張ってあるのであった。
﹁八分前だ!﹂
呻くような声! 琢磨の口から出たのである。
と、島子の声がした。
﹁こちらをお向きなさいまし﹂
だが琢磨はまたいった。
﹁四分前だ! もうすぐだ!﹂
﹁こちらをご覧なさいまし。きっと見ることが出来ましょう! 私の肌を!﹂
やっぱり琢磨呻くようにいう。
﹁三分前だ! もうすぐだ! そうしたら解放されるだろう!﹂
あせった島子の声がした。
﹁あなたは見ることが出来ましょう! 私の肌を!﹂
だがまた呻くように琢磨がいった。
﹁後二分だ! 後二分だ﹂
同じく呻くように島子がいう。
﹁ご覧なさりませ! ご覧なさりませ! 白い私を! 真っ白い私を!﹂
﹁後一分!﹂
﹁素すは裸だ体かの私!﹂
だが、その時音がした。
十二時を報ずる時計の音!
同時に庭から声がした。声というより悲鳴であった。しかも断末魔の悲鳴であった。しかも二人の悲鳴であった。
同時に寝台からも声がした。これもやっぱり悲鳴であった。やはり断末魔の悲鳴であった。
ギーッ! 音だ! ドアが開いた。
﹁あなた!﹂
﹁娘か!﹂
﹁いいえ葉末!﹂
﹁葉末というのか?﹂
﹁あなたの花嫁!﹂
ひらかれたドアから現われたのは、花嫁姿の葉末であった。
﹁おいで!﹂
と琢磨、手をひろげた。
で、葉末と三蔵琢磨、はじめてやさしく抱擁した。
その時壁からヒラヒラと、床の上へ落ちたものがある。
四ヵ条を記した張り紙である。
風かないしは幽霊の手か? どっちかがその紙を壁から放し、床の上へ落としたに相違ない。
十三
﹁何んでもなかったのでございますよ。つまり私の役目といえば、用心棒に過ぎなかったので。原因は四ヵ条を書き記した、張り紙なのでございますよ。で、それからいうことにしましょう。︵一︶養女と良人と結婚すれば、財産は官へ寄附する事︵二︶養女が二十歳になるまでに、養女が死ぬか良人が死ぬか、ないしは二人死去するか、そういう場合には財産は、全部情人が取るべき事︵三︶養女満二十歳になった瞬間、その養女が誰かと結婚すれば、財産は養女と良人とが、半分ずつ分けて取るべき事︵四︶養女が二十歳になるまでに、良人が他の女と結婚すれば、財産は情人と養女とが、半分ずつ分けて取るべき事。――というのが四ヵ条の箇条書きなので。そうしてこれを書いたのは、養女――すなわち葉末さんですが、その葉末さんの養母であり、そうして三蔵琢磨氏の家内、陸女という女だということで。情人というのは他でもない、花垣志津馬という武士なのだそうで。遺言状だったのでございますよ。陸女の死ぬ時の遺言状だったので。その陸女という女ですが、ある札差しの家内でしてな、大変な財産を持っていたそうで。そうして後家さんになってから、琢磨氏と同棲したのだそうで。しかし自分の財産だけは、自分で持っていたそうです。そうして非常な漁色家で、花垣という美男の浪人と、関係していたということです。で、子が一人もないところから、葉末さんという娘を養女にしたところ、どうやら養女の葉末さんと、良人の琢磨氏とが愛し合っているらしい。で、嫉妬をしたのですね。そのうち死病にとっつかれ――業病だったということですが――死んでしまったのでございますよ。ところが死んで行く前までも、養女と良人との関係が、どうにも心にかかってならない。そこでそんなような遺言を――とても意地の悪い遺言を、残して行ったのだということです。ナーニ本人は死んでいるんだ、そんなつまらない遺言なんか、履行しなくたっていいのですが、その琢磨氏という人が、西洋の学が大すきで、こっそり研究しているうちに、死者の遺言というようなものを、尊重するようになったので、こだわってしまったのでございますね。だがやり口がひどいというので、時々夜など遺言状の前で、生きてる女房に話しかけるように、大きな声で口説いたそうです。つまり非難をしたという訳で。……ところが遺言の中身ですが、よめばお解りになる通り、琢磨氏は葉末さんと結婚は出来ない。結婚すれば財産は、官へ没収されてしまう。葉末さんが二十歳になる前に、葉末さんも琢磨氏も死ぬことは出来ない。一人死んでも二人死んでも、財産は情人の花垣志津馬に、みんな取られることになる。で二人ながら注意して死なないようにしなければならない。葉末さんが二十歳になる前に、琢磨氏は誰とも結婚出来ない。もし琢磨氏が結婚すれば、財産は葉末さんと花垣とで、折半をして取ってしまう。ところで一方葉末さんとしては、満二十歳になった瞬と間き、ぜひ誰かと結婚しなければならない。もしその時結婚すれば、財産は葉末さんと琢磨氏とで、折半をして取ることが出来る。……しかるに一方花垣としては、葉末さんが二十歳になる前に、葉末さんを殺すか琢磨氏を殺すか、ないしは二人を一緒に殺すか、とにかくなきものにしなければならない。そうしてそれに成功すれば、財産はすっかり手にはいる。が、もしそれが出来なければ、何者か美人を差し向けて、三蔵琢磨氏を誘惑し、ぜひとも結婚させなければならない。そうしてそれに成功すれば、全財産の半分だけを、自分の手中に入れることが出来る。そこで花垣志津馬ですが、一方島子という自分の情婦を、琢磨氏の家へ入り込ませ、琢磨氏を誘惑させたそうです。大変もない美人だったので、琢磨氏も随分そそのかされ、あぶない時などもあったそうですが、とうとう誘惑に勝ったそうです。負けた島子はくやしがって、舌を噛んで死んだということですが、いってみれば天罰覿てき面めんでしょう。さらに一方花垣志津馬は、無頼の浪人を手下とし、葉末さん誘拐を企てたり、琢磨氏殺害を巧たくんだり、いろいろ奸策をしたそうです。そうして養女の葉末さんが、満二十歳になる晩には、衆を率いて自分から、琢磨氏の屋敷へ切り込んだそうで。で、そいつを退治たのが、私だったのでございますよ。もっとも私以外にも、弁吉、右門次、左近などという、三人の忠義の家来があって、花垣部下の浪人を、三人がところ叩っ切り、災いを根絶しましたがね。……その三人で思い出しました。今考えてもおかしな話で、私はそれら三人へ、ピシピシ平打ちをくれたもので。ごろつきだと思いましたので。つまり葉末さんをかどわかそうとした、ならずものだと思いましたので。いやまた事実そうでもあったのです。というのは外でもありません、そんなような狂言をすることによって、手のきく武士を味方につけ、花垣一派の切り込みに、備えようとしたのでございますよ。……そうして娘の葉末さんさえ、もし承知をするようなら、私と夫婦にさせようと、事実琢磨氏は考えていたそうで。ところがどうもこの拙者、葉末さんの御ぎょ意いにかなわなかったと見え、真似事の結婚をしたばかりで――さようさようその晩に、私とそうして葉末さんとは、結婚をしたのでございますよ、さようさよう真似事のな。それをしないと大財産が、琢磨氏と葉末さんに行きませんので。……話といえばまずザッと、こんな次第でございます。――さあその後あのお二人、琢磨氏と葉末さんとは、どんなくらしをしているやら、参ったこともありませんので、とんと一向存じませんが、琢磨氏は学者で人格者、恐らく独身で書斎に籠もり、その西洋の学問なるものを、勉強していることでございましょう。ええとそうして葉末さんは、事実琢磨氏を愛していたので、西洋の言葉でいいますと――これは琢磨氏に聞いたのですが、何んとかいったっけ、プラトニック・ラヴか――心ばかりの恋をささげ、肉体は依然として処女のままで、奉仕していることでございましょう。……いや、何んにしてもあの晩は、私にとって面白かった晩で、剣侠になったのでございますからな。アッハッハッ、思い出になります﹂