三幕六場
人物
成ジン吉ギス思カ汗ン 二十七歳
合カッ撒サ児ル 成ジン吉ギス思カ汗ンの弟 二十四歳
木ム華カ里リ 四天王の一人、近この衛えた隊いち長ょう 三十歳
哲ジェ別ベ 長老、四天王の一人 六十歳
忽クビ必ラ来イ 参謀長、四天王の一人
速スブ不タ台イ 箭せん筒とう士しち長ょう、四天王の一人
者ジェ勒ル瑪メ 主しゅ馬めの頭かみ
巴パ剌ラ帖テ木ム 成ジン吉ギス思カ汗ンの小姓 十四歳
汪オン克グ児ル 傴せむ僂しの道化役、成ジン吉ギス思カ汗ンの愛ペッ玩ト 三十歳位
箭筒士、侍衛、番士、哨兵、その他軍卒多勢、軍楽隊など。
札ジャ木ム合カ 札ジャ荅ダラ蘭ンぞ族く藩はん公こう 三十歳
合カ爾ル合カ姫 札ジャ木ム合カの室 二十歳
台タイ察チャ児ル 札ジャ木ム合カの弟 二十八歳
札ジャ荅ダラ蘭ンぞ族くの参謀、合カ爾ル合カ姫の侍女、伝令、支那︵金の国︶の交易商、その従者、花ホ剌ラ子ズ模ム国の回ふい々ふい教伝道師、札ジャ荅ダラ蘭ン城下の避難民男女、その他城兵多勢。
時代
蒙古のいわゆる鼠ねの年。わが土つち御みか門どて天んの皇うの元久元年。
第一幕 第一場
斡オル児コ桓ン河に沿い、抗こう愛あい山さん脈みゃくに分け入らんとする麓。納ナ忽クの断崖と称する要害の地に築かれたる札ジャ荅ダラ蘭ン族の山さん寨さい。石を積みて、絶壁の上に張り出したる物見台。下手、一段高き石畳の縁には、銃眼のあいた低い堡ほう塁るい。堡塁の傍らに、旗竿を立て、黄色の地に、白の半月と赤い星を抱き合わせに染め抜いた、札ジャ荅ダラ蘭ン族の旗が掲げてある。上手に、城中へ通ずる鉄扉あり。
眼下はるかに塔タミ米イ児ル、斡オル児コ桓ン両河の三角洲。川向うの茫洋たる砂漠には、成ジン吉ギス思カ汗ン軍の天ユル幕タ、椀を伏せたように一面に櫛しっ比ぴし、白はく旄ぼう、軍旗等翩へん翻ぽんとして林立するのが小さく俯ふか瞰んされる。彼方は蜒えん々えん雲に溶け入る抗愛山脈。寄せ手の軍馬の蹄が砂漠の砂を捲き上げ、紅塵万丈として天日昏し。
真っ赤な空の下、揉み合う軍兵の呶号、軍馬の悲鳴、銅ハラ鑼ンガの音、鏑かぶ矢らやの響き、城寨より撥ね出す石いし釣つる瓶べなど、騒然たる合戦の物音にて幕あく。
しばらく舞台無人。城の他の部分で攻防戦の酣たけなわなる模様。下手は断崖につづける望もの楼みの端、一個処、わずかに石を伝わって昇降する口がある。上手の扉から金の国︵支那︶の商人が従者を伴れて、這うように出て来る。両人とも連日の空腹によろめき、今日の猛襲に恐怖昏迷している。
商人 おう、おう。ここは大丈夫らしいぞ。ここまではどうやら矢も飛んで来まい。いやどうも、こんな目に遭うくらいなら、死んだほうがましだ。
従者 まったくでございます。あの時、和林 から別の道をとって、まっすぐお故郷 へお帰りになればよかったものを。
商人 いや、お前にそれを言われると、面目次第もない。はるばるわが金の国から、織物、陶器などを持って来て、この蒙古の黒くろ貂てん、羊皮、砂金などと交易するのは、まるで赤子の手を捻るような掴み取りだ。馬鹿儲けに調子づいて、ついこの奥地まで踏み込んだところが――。
従者 ︵主人を助け歩かせて、こわごわ下手の堡塁のほうへ近づき︶思いがけなく和カラ林コルムの成ジン吉ギス思カ汗ン様が、あの、︵と、はるかなる抗愛山脈を指さし︶山の向うの乃ナイ蛮マン国をお攻めになることになって、その進路に当るこの札ジャ荅ダラ蘭ン域を併せ従えようと、いや、えらい戦争になりましたもので。
下の砂漠からこの望楼へも、一二本矢が飛んで来る。二人はあわてふためいて、石畳に身を伏せる。同じく上手の扉から、花ホ剌ラ子ズ模ム国より蒙古教化に派遣されている回ふい々ふい教僧侶、よろぼいいず。
僧侶 おお、ここも矢が来るのか。こうなってはいよいよこの城も、今日が落城に相違ない。おう、金の商人殿、お互いとんだ災難に捲き込まれたものですなあ。
雄叫びの音、弓矢の唸りいっそう迫る。
商人 ︵生きた心もなく︶今もそれを話し合っていたところです。成ジン吉ギス思カ汗ンさまが、乃ナイ蛮マン征伐の途中、この札ジャ荅ダラ蘭ン城を攻めて、札ジャ荅ダラ蘭ンの札ジャ木ム合カ様が此こ城こへ籠城してから、もうこれで、一と月あまりだ。私どもも、ここへ逃げ込んだばかりに、この傍杖を食ったのだ。よほど前から、城内には食い物ひとつありません。鹿の肉一きれ口にしなくなってから、はや何日かわからない。
従者 御主人様、食いものの話は止して下さい。私はこのごろ、夜も昼もうつらうつらとして、炒チャ米ウミイの夢を見るありさまです。
僧侶 城中の生き物は、すべて食ってしまった。犬も食った、猫も食った。鼠も食った。ああ、もう鼠一匹おらぬ。
商人 なにしろ、食糧の用意もないこの狭い城へ、部落中の札ジャ荅ダラ蘭ン人が一度にどっと逃げ込んで、ひと月あまりも立て籠っているのですからなあ――ああ、早く故郷の中都へ帰って、腹一ぱい粟の粥が食いたい。
従者 大きな声では言えませんが、兵隊どもは戦死した仲間の肉を食っておるそうでござりますな。
商人 あっ、また軍が激しくなった。
阿鼻叫喚の声、一時に起る。商人、従者は耳を掩うて突っ伏し、僧侶は天を仰ぎ、﹁アラ﹂を唱え、礼拝して無事を祈る。上手の鉄扉を蹴開き、城主札ジャ木ム合カの弟台タイ察チャ児ル、半弓を引っ提げて、出て来る。武士三四人つき従う。すべて城方の参謀、兵士らは、空腹と疲労に生色なく、軍衣は破れ、あるいは頭あた部まに、あるいは腕に繃帯し、血が滲んでいるなど、悪戦苦闘の跡著し。
台タイ察チャ児ル 何だ、成ジン吉ギス思カ汗ンの小童め! 乃ナイ蛮マンを攻める血祭りに、わが札ジャ荅ダラ蘭ン城を屠ろうとしても、札ジャ荅ダラ蘭ンに藩主札ジャ木ム合カ、その弟、この台タイ察チャ児ルのあるかぎりは、めったにこの城を渡しはしないぞ。︵頭上の種族旗を振り仰いで︶この名誉ある札ジャ荅ダラ蘭ン族の旗に対しても、誰が、誰が成ジン吉ギス思カ汗ンなどに降参するものか。おい、どうしたのだ、ここは備えが手薄ではないか。
下手、要塞の端れへ走り行く時、僧侶ら三人を認めて、
台タイ察チャ児ル こらっ、邪魔だっ! 一人でも口を減らしたい籠城に、何の役にも立たぬ他国の坊主や町人が逃げ込んで――うむ、そうだ、貴様らを殺して肉を食えば、もう二三日城を持ちこたえることができよう。愚民を騙たぶらかして坐食しておる坊主と商人、どっちも肉の柔いことだろう。臆病者め、そこ退けっ!
城寨に駈け寄り、堡塁の陰に身を潜めて、銃眼よりしきりに矢を射落す。武士三四人もそれぞれ銃眼から射る。合戦の物音寸時も止まず。僧侶ら三人城中へ逃げ込もうとすると、同じく城内から城下の避難民多勢、農夫、牧民、老若男女、雪崩を打って逃げ出て来る。赤子を抱いた女、孫の手を引く老人など。同時に、包囲軍からの矢、おびただしくこの望楼に飛来して、避難民ら口々に絶叫し、一隅に集かたまって顫え戦おののく。
台タイ察チャ児ル 畜生、集中射撃だな。︵振り返って︶またここまで騒ぎ立てて来たか。手兵は足らず、食糧は乏しい城に、城下の者まで逃げこんで、この上の足手纏いはない。
避難民中の女 (嬰児を庇いながら狂的に)御城主の弟様、軍はどうなるでございましょう。私どもはもう、好皮子 一つ口にせず、敵に殺されるより先に、飢え死にしそうでございます。
同じく老人 ︵半狂乱に手を合わせて︶台タイ察チャ児ルさま、どうか部落民を助けると思召して、城をお開き下さりませ。悪魔のような成ジン吉ギス思カ汗ンの軍勢とて、よもや老人子供に害は加えますまい。
台タイ察チャ児ル ええい、言うな! 穀潰しめ! 言うに事を欠いて、この台タイ察チャ児ルに向って降伏をすすめるとは何ごとだ。どうせ食い物の足らぬ折柄、貴様らを射殺して――。
と避難民の群れへ弓をさし向けて、威嚇のために空弦 を放つ。城中から軍卒一人走り出て叫ぶ。
軍卒 札木合 の殿様が、ただいまこれへおいでになります。
四五名の参謀を従え、長刀を抜き放った城主札木合 が、急ぎはいって来る。
札ジャ木ム合カ ︵部落民を射ようとしている弟を見て︶台タイ察チャ児ル! 長の籠城、しかも、今日明日という負け軍に、貴様、気でも狂ったのか。城下の民へ弓を向けるとは何事だ。
台タイ察チャ児ル だが、兄上。城を開いて、自分たちが助かりたいなどと、けしからんことを言う者がありますので。
札ジャ木ム合カ それも無理ではない。この籠城は、単なる合戦ではないことが、城下の者どもに解らんのは当り前ではないか。蒙古戦国の世だ。軍馬のいななき、弓矢の唸りはいつものことだが、この戦争には、裏に、根深い気持ちが罩こもっているのだ。
雨と降る矢の中を、台察児 は駈け寄って、兄札木合 の手を握る。
台タイ察チャ児ル 兄上! それを言って下さるな。それを言われると、私は、成ジン吉ギス思カ汗ンに対する憎悪が、火に油を注いだように燃え上がります。嫂上のことをまだ根に持って、この執念深い城攻めだ。私は、台タイ察チャ児ルは、あの、雲と群がる敵中へ斬り入って、き、斬り死にしたくなります。
札ジャ木ム合カ ︵独語のように︶攻める成ジン吉ギス思カ汗ンにも、深い意味があり、守るわしにも、深い意味があるのだ。おれは昔、あの成ジン吉ギス思カ汗ンと、一人の女を争った。それは、瑣ソル児カ肝ン失シ喇ラの娘で合カ爾ル合カ姫――その恋にはおれが勝って、合カ爾ル合カ姫は今、わしの妃となっているが、成ジン吉ギス思カ汗ンの身になってみれば、失恋の恨みが、そのままこのおれへの敵意となって、長い間、あの、狼のような胸の奥に燻くすぶっていたに相違ない。今度、抗愛山脈中の乃ナイ蛮マン国を攻略するに当たり、途中、この札ジャ荅ダラ蘭ン城を併せ従えようとしたのも、その恋のうらみがあればこそだ。だが、おれも蒙古の武士、古い恋を根に持って、大軍を率いて攻め来った成ジン吉ギス思カ汗ンに、おめおめこの城を渡されようか。おい、皆見ろ! この、飛んでくる矢の一本一本に、恋に敗れた成ジン吉ギス思カ汗ンの怨みがかかっているのだ。彼きゃ奴つの口惜しさが罩もっているのだ。ははははは、笑ってやれ。おい、皆、笑ってやれ! ははははは。︵ふとおのれの興奮に気づき、強しいて冷静に︶この札ジャ荅ダラ蘭ンの旗、星ほし月づきの旗は、祖先以来、抗愛山脈と高さを競って、城頭高く砂漠の風に吹かれて来たのだ。この星月の旗が下ろせるか。意地だよ台タイ察チャ児ル、意地ずくだ。合カ爾ル合カ姫を守って、城を枕に討死にするまで――恋に強い者は、軍に弱いというが、この札ジャ荅ダラ蘭ンの札ジャ木ム合カは、恋にも強く、軍にも強いことを見せてやるのだ。
台タイ察チャ児ル そうです、兄上! 嫂上合カ爾ル合カ姫のために、この星月の旗の下で、最後の一兵となるまで城を守りましょう。︵と涙を拭う︶
札ジャ木ム合カ ︵突然哄笑して︶ははははは、目下旭の昇る勢いの成ジン吉ギス思カ汗ンだ。人物才幹、この蒙古はおろか、東は遠く金の国、西は花ホ剌ラ子ズ模ムの果てまで、並ぶ者ない名将と聞いているが、古い恋の意趣遺恨を根に、この孤立無援の山寨を包囲して、あくまで陥さねば気が済まぬとは、噂ほどにもない成ジン吉ギス思カ汗ンだ。いや、箔の剥げた成ジン吉ギス思カ汗ンだ。小さな男だ、けちな男だ! おれはあいつの面へ、この罵りを浴びせながら、笑って死にたいのだよ、はっはっは。
刻々殖えた避難民の群集は、片隅に飢のために倒れ、呻きつつ聞き入る。一矢飛来するごとに、悲鳴を揚げる。
札ジャ木ム合カ 今日は一気に揉み落そうとかかっているらしいな。城兵はひっそりしている。もう戦う気力も失せたのか。
暗然と城寨の端へ歩み寄って、堡塁から下を覗き、
参謀一 あれあれ、先陣はすでに、塔米児 の川岸まで進んでおります。
参謀二 あれこそは、成ジン吉ギス思カ汗ンの配下にその人ありと聞えた、砂漠の四匹の猛犬、哲ジェ別ベ、木ム華カ里リ、忽クビ必ラ来イ、速スブ不タ台イの四天王にござります。黒豚の胴を輪切りにして、その生血を啜り合い、生死を誓った四人組の将軍です。
参謀三 あれは、亦イル魯ガ該イ、蒙モン力リ克クの二将軍の率いる、進むを知って、退くを知らぬ荒鷲と称する騎兵軍団でござります。
参謀四 はっ。あれぞ総大将成ジン吉ギス思カ汗ンの弟、合カッ撒サ児ルでござります。武芸並ぶ者なく、ことに、強弓衆に優れ、矢面に立つもの必ず額を射抜かれると申すこと。人々彼を怖れて、蟒うわばみと綽あだ名ないたす強ごうの者です。
台タイ察チャ児ル ︵足摺りして︶ええい! 皆がみな敵を賞めくさりおって! 揃いも揃って臆病神に取り憑つかれたか。兄上! もはやこれまでです。城を出て、塔タミ米イ児ルの河畔に決戦いたしましょう。どうぞこの台タイ察チャ児ルに、三百でも五百でも、ありったけの城兵をお貸し下さい。
札ジャ木ム合カ ︵すっかり怖おじ毛け立って︶いや、貪る鷹のような成ジン吉ギス思カ汗ン軍のいきおいだ。成ジン吉ギス思カ汗ンは、総身銅あかがねのように鍛えられ、土踏まずや腋の下にさえ、針も通らぬというではないか。一睨みで、虎をさえ居いす竦くませると言うではないか。︵と恐怖に眼を覆い、たじろく︶
砦の下から伝令一人、石垣をつたわって上ってくる。
伝令 申し上げます。成ジン吉ギス思カ汗ンの包囲軍は、急遽行動を起しまして、一挙に城を陥れんとするもののごとく、挺身隊はすでに三本松の辻を過ぎ、銀砂の河原に現れました。
このころから、空に紺いろが流れ、暮色が漂ってくる。
伝令二 ︵あわただしく上って来て堡塁に顔を出し、下の戦場を指さして︶我軍の斥候は、すっかり城門へ追い込まれてしまいました。あれあれ! 一の堀、二の堀もすでに敵の手に――。
参謀一 もはやその暇もありませぬ。
一本の矢飛び来って、札ジャ木ム合カの鎧の袖を縫う。その矢には、白い馬の尾が結びつけてある。一同騒然と駈け寄る。
札ジャ木ム合カ ︵よろめきつつ矢を抜き取って︶いや、傷つきはせぬ、おお! この矢には、白い馬の尾が結んであるぞ。これは何の意味だ。
台タイ察チャ児ル 成ジン吉ギス思カ汗ンの旗印しは、あれ、あのとおり、白馬の尾を竿の先に結びつけたものを、九本立てております。九は、成ジン吉ギス思カ汗ンの陣中において、幸運の数とか。︵考えて︶ううむ、兄上! その矢は、降伏の勧告に相違ない。
と矢を二つに折り、足許に投げつけて粉々に踏み砕く。片側の避難民一同、﹁負け軍に頑張るのは無意味だ。﹂﹁早く城を開け渡して、城下の私どもをお助け下さりませ。﹂などと狂乱して口々に喚き立てる。
台タイ察チャ児ル ︵避難民を睥睨し︶騒ぐな、蛆うじ虫むしども! 兄上! 夜まで持ちこたえれば、なんとか計略も浮かびましょう。おい、誰か三の吊橋を落して来る者はないか。
これより先、伝令一は裸体になり、急ぎ軍服を引き裂き、その布切れで、肩、肘、手首、股のつけ根、膝、足首など、両の手足の関節を伝令二に緊縛してもらって、抜刀を口にくわえ、素早く砦を下りかける。
伝令一 私が行って来ます。
札ジャ木ム合カ うむ、勇ましいぞ。だがそち、身体のところどころを縛って行くのは、どうしたわけだ。
伝令一 はっ、血止めであります。こうして行けば、腕や足に矢が当り、または敵と引っ組んで斬られましたところで、血の出るのは、縛ってある布と布との間だけです。全身の血さえ流れ出ねば、どのような働きもできようと思いまして――。
伝令一は、城寨を伝わって断崖の下へ下りて行く。後は、飛来する矢いっそう繁く、札ジャ木ム合カ、台タイ察チャ児ルをはじめ一同無言のうちに弓を引き絞り、銃眼より射落して必死に戦う。避難民らは叫び声を揚げて逃げ惑う。しばらく物音のみ激しき防戦の場。
衛兵 (今下りて行った伝令の裸体を担いで、堡塁を上って来る)惜しい勇者でしたが、三の濠へ行き着かぬうちに、たちまち敵の矢を浴びてこの有様です。
裸かの全身に矢の突き刺さった死体を、札ジャ木ム合カの前に下ろす。みな暗然として屍骸に見入る。城兵一人、上手の扉より駈け入る。
城兵 城主様。ただいま、成ジン吉ギス思カ汗ンの軍使と称する大男が、ただひとり乗り込んでまいりましたが、いかが取り計らいましょう。
台タイ察チャ児ル ︵剣の柄つかを叩いて気負い︶なに、成ジン吉ギス思カ汗ンから使いが来た? 兄上、そいつの首を斬り落して、敵中へ投げ込んでやろうではありませんか。
札ジャ木ム合カ ︵はっとしたが︶まあ、待て! どんな条件を持ち込んで来たのかもしれぬ。よし、会おう。本丸の大広間へ通しておけ。危害を加えてはならぬぞ。
兵卒は一礼して駈け入る。札ジャ木ム合カは、台タイ察チャ児ル、参謀らを促して、上手の扉より城内へはいろうとする。避難民等、城主の一行に途をひらきながら、一斉に平れ伏して、﹁おお神様、どうぞ助かりますように。﹂と必死に祈る。その中の回ふい々ふい教の伝道師は、ひときわ声高く、﹁天に在ましますアラアの神よ! どうぞこの、罪なき部落の民を助け給え。﹂と、狂人のように天を礼拝し、泣くがごとく祈祷する。その陰惨な声々に、札ジャ木ム合カはつと立ち停まり、振り返って、不安と恐怖に駆られる思入れ――暗転。
第一幕 第二場
同じく城内、本丸の大広間。石で畳みたる荒廃した部屋。舞台正面に大きく露台を取り、断崖の下に、広く砂漠と川、および、夕色に煙る抗愛山脈が遠く望見される。露台の前に、太き石の円柱五六本立つ。その円柱の根に、高さ三尺ほどの石で築きたる囲いをめぐらし、室内より仕切りたる体てい。この中仕切りに、前場の望楼にありたると同じ、ただし、もっとずっと大きな札ジャ荅ダラ蘭ン族の旗、黄色地に白と赤の星月の旗が、壁掛けのごとく懸けてある。
舞台上手寄りに、そこだけ二三段高く、王座あり。かたわらの飾り台の上に、大いなる青銅の香こう炉ろありて、香煙立ち昇る。傍に、唐から獅じ子しの陶器の香こう盒ごうを置く。王座のうしろに、丈高き二枚折りの刺繍屏風。札ジャ木ム合カがその王座に掛け、左右に台タイ察チャ児ル、参謀、官人ら居並び、背後に軍卒多勢、抜剣を引っ提げて立つ。
露台より真赤な砂漠の夕陽がさしこみ、室内は明るく、人々の顔は血のごとく映える。上手と下手に、扉ドア一つずつ。
幕開くと同時に、下手の入口より、成ジン吉ギス思カ汗ンの軍使、近衛隊長木ム華カ里リ︵六尺余の巨漢、隆々たる筋骨︶が、城兵四五人に囲まれ、両手を後ろに縛されて出て来る。
木ム華カ里リ ︵札ジャ木ム合カの前に胡あぐ座らをかき︶これは札ジャ木ム合カ王ですか。私は成ジン吉ギス思カ汗ンの軍使、木ム華カ里リという者です。長の籠城、想像に絶する疲ひへ弊いこ困んぱ憊いの有様、お察し申し上げます。
台タイ察チャ児ル ︵剣を掴んで︶皮肉かそれは! 城中の物資いかに欠乏し、たとい石を噛み、土を囓ろうとも、わが札ジャ荅ダラ蘭ン族の士気は衰えぬぞ。余計な口を叩かずと、軍使なら、速かに使いの趣きを言え。
木ム華カ里リ ︵縛された手を振り、怒って︶いいや! 軍使を扱う途を知らぬから、肝心の使いの趣きがこの口から出ないのだ。まずこの縛いましめを解いて、相当の礼をもって対するがよい。
札ジャ木ム合カ ︵怯えて突っ立つ︶何を言う! こやつの繩をといてたまるものか。不敵な面魂、何をするかわからぬ。もっと高手小手に、がんじがらめに縛り上げてしまえ。
城兵二三人、木華里 の肩から腹へかけてぎりぎりに縛り上げる。
木ム華カ里リ ︵争わず。平然と縛るに任せながら︶ははははは、このおれ一人が、そんなに恐しいか。わが成ジン吉ギス思カ汗ン様の軍中には、おれくらいの大男はざらにいるのだ。では、このままで結構だ。︵ぐっと起ち上がって、王座を睨む︶札ジャ荅ダラ蘭ンの札ジャ木ム合カ王に申す。食糧もなき城中に、罪なき城下の民を取り込み、この苦しみを与えてどうするつもりだ。わが成ジン吉ギス思カ汗ン軍は、明朝砂漠の太陽が、塔タミ米イ児ルの川波を真っ赤に彩る前に、この札ジャ荅ダラ蘭ン城を一揉みに押し潰すは、それこそ、この両腕で仔羊の口を引き裂くよりも易々たることだ。失礼ながら城の運命は、すでに定まりましたぞ、札ジャ木ム合カ様。我軍は、三万の大軍をもって、今この粟粒のごとき山寨一つを、三重、いや、四重五重に取り囲んでいるのだ。もはやいたずらに大言を弄している場合ではござるまい。札ジャ木ム合カ殿、木ム華カ里リは、わが成ジン吉ギス思カ汗ン大王の命を含んで、降伏を勧告にまいったのです。
この以前より、避難民の群れがそっと露台へはいって来て、中仕切りの陰に蹲うずくまり、成往きを気遣っていたが、降伏勧告と聞いてざわめきはじめる。
木ム華カ里リ ︵その声のほうを見て︶あれなる城下の者どもをみなごろしにするのは、賢明なる札ジャ木ム合カ王の本意ではありますまい。だが、もしこの申出を拒絶なされば、遺憾ながら、暁を待たずに城内へ殺到し、嬰あか児ごの果てにいたるまで、一人残らず殺して廻るだけだ。札ジャ荅ダラ蘭ン族を種た子ね切ぎれにしてやるのだ。
中仕切りの陰に、避難民の悲鳴、子供を抱きすくめる気配などする。室内は薄暗くなり、正面露台の外の夕空に、星が瞬き、はるか下の成ジン吉ギス思カ汗ン軍の天テン幕トには灯が入り、砂漠一面に点々として明滅する焚火。戦いは一時中止されて、無気味な静寂。
札ジャ木ム合カ ︵黙考の後︶出世に焦って、血も涙もない成ジン吉ギス思カ汗ンだ。ことには、仔細あって、われに含むところのあるきゃつのことだ。いや、それくらいのことはするであろう。赤児まで敵の片割れとばかり斬り虐さいなんで、札ジャ荅ダラ蘭ン族は一人あまさず、かの砂漠の虎、成ジン吉ギス思カ汗ンめの餌食となるのか――。
避難民達、中仕切りの陰から口々に叫んで、札木合 に降伏をすすめる。兵士ら叱りつけて制する。
木ム華カ里リ 我軍の条件を入れて、即刻開城とあらば、あれなる七つの星の消えぬ先に、すぐさま囲みを解いて、眼ざす乃ナイ蛮マン国へと進軍を開始するであろう。その場合は、札ジャ木ム合カ一家をはじめ、札ジャ荅ダラ蘭ン族の一人にも刃を加えませぬ。この儀は、大王成ジン吉ギス思カ汗ン、真白き駱らく駝だにかけて誓います。
避難民ら歓声を揚げて喜ぶ。この時、札ジャ木ム合カの妃合カ爾ル合カ姫が、二三の侍女を従え、そっと出て来て、誰にも気づかれず露台の円柱の陰に隠れ、ひそかに立ち聴いている。
札ジャ木ム合カ ううむ、降参すれば城も助かり、罪なき部落の者どもも、これ以上の苦しみから救われ、成ジン吉ギス思カ汗ンはそのままこの城を後に、抗愛山脈へ向って進発する――︵独語のように︶ふうむ、降伏を拒絶すれば、わが札ジャ荅ダラ蘭ン族は根絶やし――だが、その降伏勧告にも、定めし条件があろう。条件を言え。
木ム華カ里リ ︵膝を進めて︶さらばです。降伏の貢物として、妃の合カ爾ル合カ姫を、今宵一夜、単身成ジン吉ギス思カ汗ンの陣屋へお遣しなさるよう。条件というのは、ただこの一つだ。
円柱の陰で合爾合 姫はひそかに驚く。
木ム華カ里リ さようです。合カ爾ル合カ姫が、日没と同時にただ一人、成ジン吉ギス思カ汗ンの陣営へ来ればよし、さもなければ、城も人も、木っ葉微塵に踏み躙るまでのことだ。札ジャ木ム合カ! 返答はどうだっ!
札ジャ木ム合カ 言うな、汚らわしい! かの成ジン吉ギス思カ汗ンめ、数年前に失った恋を、いま力ずくで遂げようというのだな。あれ以来、胸の底に燃えておった、わが妃カ合ル爾カ合への妄念を、この機会に霽らそうと言うのだな。
台タイ察チャ児ル 成ジン吉ギス思カ汗ンのやつ、蒙古第一の英雄との評判は、真っ赤な嘘だ。降伏の引出物に、敵将の妻を一夜貸せなどと、見下げ果てた犬侍だ。いや、女の肉に飢えた野けだ獣ものだ! 兄上! もはやこの軍使と言葉を交す要はござりませぬ。札ジャ荅ダラ蘭ン族の運命は決まった。ひとり残らず、この地球の表おも面てから抹殺されるだけのことだ。
避難民ら号叫する。合爾合 は茫然と円柱のかげに立ったまま沈思する。
札ジャ木ム合カ 弟! よく言ってくれた。ほかのことで部落民が助かるなら、おれは、武士の誇りも捨てて、開城しようかとも思ったが、あまりと言えばあまりの条件だ。これは余のこととは違う。︵突然起ち上って、木ム華カ里リを白に眼らみつける︶こらっ! 妻の身を犠牲に、一命一族を助けようなどと思う札ジャ木ム合カではないぞ。この札ジャ荅ダラ蘭ンの城中、おのが命と妃の操を交換しようなどと、さような心掛けの者は一人もおらぬ。馬鹿者めが! ︵と手許の飾り台の上の、唐獅子の香盒を引っ掴み、王座の下の床に叩きつけて微塵に砕く︶
台タイ察チャ児ル 畜生! こ、この軍使の奴、どうしてくれよう! そうだ。この牛のような首を撥ねて、砦から投げ下ろしてやれ。身から体だは油あぶ炒らいりにしてやるのだ。おい! 皆来い。中庭へ釜を持ち出して、油を煮る支度をするのだ。
と軍卒らを促し、露台から上手へ駈け入る。札ジャ木ム合カ付きの参謀四五人と木ム華カ里リの看視兵二三を残して兵士一同、および官人ら続いて走り去る。避難民も驚いて、皆あとを追って露台から上手へはいる。
木ム華カ里リ ︵泰然と︶それならば、悪いことは言わぬ。早く油を沸かさぬと、今にも我軍この城中へ押し入って来るぞ、ははははは。あの砂漠の地平に、東の海の真珠のような月が昇るまでに、合カ爾ル合カ姫が城を抜け出ぬ場合には、条件を受け入れぬものと見て、一刻の猶予もなく攻め込む手筈になっているのだ。
札ジャ木ム合カ ︵静かに︶わしは成ジン吉ギス思カ汗ンのために惜しむ。あれほどの豪傑も、恋のためには、市しせ井いの匹夫のごとき手段をも辞せぬものか。憐れな迷執の虜だ。この合戦は、数年前の恋のたたかいの続きであったのだ。恋に勝って合カ爾ル合カを得たわしは、この戦いにも勝ち抜くのだ。なんの! 合カ爾ル合カを成ジン吉ギス思カ汗ンの自由にさせてたまるものか。︵木ム華カ里リへ︶飛んで火に入る夏の虫とは、貴様のことだ。地獄の迎えを待て!
言い捨てて、露台へ出ようとすると、合爾合 姫が侍女二三を従えて円柱の陰から現れる。
合カ爾ル合カ姫 はい。残らず聞きましてございます。憎いのは、あの成ジン吉ギス思カ汗ンです。大方あの時、あなた様と、妾を争いましてから、ずっとこの機会を狙っていたのでございましょう。偉い大将に出世したと聞きましたが、やっぱり、昔のがむしゃらな成ジン吉ギス思カ汗ン! ああ、妾はいったいどうしたら――。︵泣き入る︶
札ジャ木ム合カ ︵片手に抱いて︶これ、なにもそんなに悲しむことはない。わしは、全種族の潰滅を期しても、お前をきゃつの手に渡そうなどとは思わないのだ。
合カ爾ル合カ姫 はい。そのお言葉で、妾はもう、死んでも思い残りはございません。ついては。――
札ジャ木ム合カ ︵突然回顧的に︶なあ合カ爾ル合カ、お前がまだ瑣ソル児カ肝ン失シ喇ラ家の娘で、余も成ジン吉ギス思カ汗ンも、名もなき遊牧の若者だったころ、二人でお前の愛を争った。おれが勝ってお前を得たことが、成ジン吉ギス思カ汗ンの心にこの針を植え、きゃつを、かかる惨虐無道の悪魔にしてしまったのだ。たとい戦いには敗れ、星月の旗の名誉は失っても、おれにはまだお前があるぞ。ははははは、こ、これ、この合カ爾ル合カがあるぞ。
合カ爾ル合カ姫 そんなにおっしゃって下すって、ほんとうに、もったいのうございます。つきましては、妾の心一つで、この札ジャ荅ダラ蘭ン族の人たちが助かり、またあなた様もこのお城も、事無きを得ますならば、あなた、妾は決心いたしました。どうぞこの合カ爾ル合カを成ジン吉ギス思カ汗ンの陣営へお遣し下さいませ。
札ジャ木ム合カ ︵急き込んで︶な、なに? お前は何を言う。この上おれを、札ジャ荅ダラ蘭ンの札ジャ木ム合カは、妻の操で一身の安全を買った腰抜け武士だと、後世までの笑い草にしたいのか。軍には敗れたが恋には勝った、それがこの札ジャ木ム合カの、死際の唯一の慰めだということが、合カ爾ル合カ! お前には解らないのか。
合カ爾ル合カ姫 ︵必死に︶いいえ、ただ妾は、あなた様と、城下の人たちをお助けしたいばっかりに、あの蛇のような執念ぶかい成ジン吉ギス思カ汗ンに、この身を――。
札ジャ木ム合カ いや! 聞きたくない。お前、気でも違ったのか。そんなことを考えるだけで、このおれの胸は張り裂けんばかりだ。お前の身を守るためには、わしの命はおろか、城も惜しくはない。城下の民など、砂漠の鬼と消えるがいい。
合カ爾ル合カ姫 ︵追い縋って︶いえ、あの、わたくしにも考えがございますから、どうぞ、一人で城を出ることをお許し下さいまし。
札ジャ木ム合カ ええいっ、くどい! お前には、かほどまでに言うおれの心がわからないのか。︵参謀へ︶最後の一戦だ。みな来い!
泣いて取りすがる合カ爾ル合カ姫を振り解いて、札ジャ木ム合カは決然と露台から奥へ駈け去る。参謀ら続いて走り入る。長い間。
侍女一 ︵良人の後を見送ったのち、首垂れて考え込んでいる合カ爾ル合カ姫に近づき︶奥方様、あれほどまでにおっしゃる殿様のお胸の中、女子として、奥方さまもさぞ本望でございましょう。もはやわたくしども一同、奥方様のお供をして、戦死の覚悟ができましてございます。
侍女二 ︵正面の露台へ駈け出て︶あれ! どうやら砂漠の地平線が、ぽうっと青白くなってまいりました。月が昇るのではございますまいか。月の出を合図に、あの恐しい成ジン吉ギス思カ汗ン軍の荒武者どもが、乗り込んで来るとのこと。ああ、どうしたらよいか――。
侍女三 あれあれ! ほんとうにあの砂丘の果てに、ほのかに青い月の光がさし初めました。ああ、もう何なん刻ときの生いの命ちやら――おお! 中庭で、この軍使を煮る油を沸かしはじめました。ああ、何という恐しい! ︵と眼を覆う︶
露台の向うから、紫いろの油の煙りが濛々と立ち昇る。合爾合 姫と侍女らは、凝然と露台の外を見守る。
侍女二 お察し申し上げます。
侍女一 でも、殿様のあのお言葉、ほんとうに女冥利、嬉し涙が溢 れてなりませぬ。
この時、血染れの将校一人、露台上手から走り込んで来て、叫ぶ。
将校 ︵妃に敬礼して、木ム華カ里リの看視兵へ︶おい! 表門に石を積んで、かなわぬまでも備えをするのだ。猫の手も借りたい場合だ。その軍使は縛ってあるのだろう。そいつをそのままにして、お前たち、皆来い。
看視兵ら、声に応じて将校とともに、露台上手へ駈け去る。舞台ほの暗く、正面の露台から星明りが差し入る。砂漠の外れがかすかに青み、月の出は刻々近い。
合カ爾ル合カ姫 ︵ぐっと胸に決して︶今の話では、城門へ石を運ぶとのこと、女だとて働かねばなりませぬ。お前たちも、二人で石の一つぐらいは持てるであろう。ここは構わぬから、お手伝いに行くがよい。
侍女一二 でも、この恐しげな男と、奥方様を置きざりにして――。
侍女たちは心を残しつつ、合点 き合って兵士らの後を追い、露台上手へ馳せ入る。
合カ爾ル合カ姫 ︵長い間。じっと木ム華カ里リを凝み視つめて︶あれ、もう月の出に間がありません。今にも一気に攻め入って来たら――︵じっと考え、うむと決心して、懐剣を取り出してきらりと抜く。足早やに木ム華カ里リに近づき、一突き、と見えたが、意外にも、ぱらりと縛めを切って落す︶さ、この隙に早く逃げて、追っつけ後から合カ爾ル合カがまいりますと、成ジン吉ギス思カ汗ンさまにお伝え下さい。
合カ爾ル合カ姫 わたしは決心いたしました。いかに殿様がああおっしゃって下さればとて、あの泣き叫ぶ城下の人々、先の短い老人や愛あどけない女子供を、どうして、城とともに見殺しにすることができましょうか。憎んでもあまりある成ジン吉ギス思カ汗ンですけれど、女の身で役に立つのは、せめてそれくらいのこと――言うなりに後からすぐ城を脱け出て、はい、まいります。あの人の陣屋へ、まいります! あなたは一足先に駈け帰って、どうぞ、そう復命して下さい。そして、総攻撃をお止め下さい。︵身も世もなく泣きつつ急き立てる︶
木ム華カ里リ それでは、合カ爾ル合カ姫、たしかにわが大将の陣営へ、一人でおいでになるのですな。うむ、お待ち申しておりますぞ。
合カ爾ル合カ姫 念には及びませぬ。わたしはもう覚悟を――そう言う間も気が急きます。あの台タイ察チャ児ルさまが上って来ないうちに、早く! 早くお逃げ下さい。
と薄暗い中に木華里 をさし招き、下手の小さな戸口 から出しやる。
合カ爾ル合カ姫 この石段をまっすぐ下りて、突き当りの廊下を左へ出れば、城の横手の草原へ抜けられます。そこらは城兵も尠いはず、さ、一刻も早く――。
木ム華カ里リは一礼して走り下りる。合カ爾ル合カ姫は独り頷首いて、おのが居間に通ずる上手の扉へ駈け入る。しばらく舞台空く。油の煮える煙り一度に上がる。群集の悲鳴凄まじく響く。すぐにその同じ上手の戸口から、妃の盛装の上に大きな鹿の皮を被った合カ爾ル合カ姫が、そっと一人忍び出て来る。舞台中央に立ち停まり、ひそかにふところから懐剣を取り出して引き抜き、じっと見入る。
合カ爾ル合カ姫 ︵独語︶この札ジャ荅ダラ蘭ン族へ輿入れする時、父の瑣ソル児カ肝ン失シ喇ラから渡されたこの守り刀が、こんな役に立とうとは思わなかった。もし成ジン吉ギス思カ汗ンが無礼を働いたら、いっそ一思いにこの胸を――。︵と自分の胸へ突き刺す仕しぐ草さ︶
うなずきながら、鹿の皮を頭からかぶり、木ム華カ里リの去った下手の石段を駈け下りる。とたんに、露台上手より侍女二人、あわただしく走り出て、
侍女一 おや! 奥方様はどこに? あら、あの軍使もいない――奥方さま、奥方様!
侍女二 ああ、奥方様のお身に、変り事がなければよいが――。
二人そそくさと室内を捜し廻る。舞台刻々暗くなり、露台の外、月の出はいよいよ迫る。
札ジャ木ム合カの声 ︵近づいて来る︶合カ爾ル合カ、合カ爾ル合カ! 合カ爾ル合カはおらぬか。︵幕︶
第二幕 第一場
城外。塔タミ米イ児ル、斡オル児コ桓ンの両河の合する三角洲に設けられた、成ジン吉ギス思カ汗ンの大天テン幕トの前。砂漠の広場。前の場と同じ時刻。
正面すこしく上手寄りに、成ジン吉ギス思カ汗ンの天ユル幕タ、垂れを掛けたる出入口あり。哨兵二名、その左右に立ち、一人はたえずその前を往復して警護す。下手奥は、夜眼にも白き大河、彼岸は模も糊ことして砂漠につづき、果ては遠く連山につながる。その砂漠に、軍兵の天幕の灯、かがり火など、閃せん々せんとしてはるかに散らばる。降るような星空の下。月はまだ上らない。
舞台上手に、立樹五六本、その一つに、真白な成ジン吉ギス思カ汗ンの乗馬を継ぐ。下手にも立樹二三、その前に駱らく駝だ一二頭、置き物のごとく坐る。この下手の立樹の間より、軍団の大屯営へ通ずるこころ。正面成ジン吉ギス思カ汗ンの天ユル幕タの外に、竿頭に白馬の尾を結びつけたる旗印を九本立て、その他三角形の小旗、槍、鼓、銅ど鑼ら、楯などを飾る。上手下手、及び中央と、舞台三個処におおいなる篝火を焚く。燃料として、牛糞を乾し固めたる物を、傍らにほどよく積む。この篝火の映うつろいにて、舞台全面に物凄き明暗交錯する。
おびただしき軍馬のいななき断続して、幕あく。
四天王の三人、長老哲ジェ別ベ、参謀長忽クビ必ラ来イ、箭筒士長速スブ不タ台イ、及び主馬頭者ジェ勒ル瑪メほか参謀侍衛ら多勢、それぞれ焚火のまわりに陣取り、弓、矢、鎗、長刀、太刀など、思い思いに武器の手入れをしている。傴せむ僂しの道化者汪オン克グ児ルは、葉のついた木の枝を剣に見立てて、身振りおかしく独りで戯ふざけ廻っている。
汪オン克グ児ル 敵にお尻を見せたことのない、成ジン吉ギス思カ汗ン様のお馬さま、ちょいとこの汪オン克グ児ル様に、お尻を拝ませては下さらぬか。︵と抜き足さし足、滑稽な様子で成ジン吉ギス思カ汗ンの白馬のうしろに廻り︶ても見事な眺めじゃなあ。アラアの神さま、アラアの神様――。
馬は後脚を上げて汪克児 を蹴る。
汪オン克グ児ル ︵大袈裟に仰天し、引っくり返って︶うわあっ! あ痛たたた! 兄弟分の汪オン克グ児ルめをお蹴りなさるとは、ちぇいっ、はてさて情ないお心じゃなあ。聞えませぬ、聞えませぬわいのう。︵泣き声を装つくる︶
一同はどっと笑う。
哲ジェ別ベ うるさいっ! 殿はお眠みなのに、止め度もなく戯けおって。控えろ、汪オン克グ児ル!
汪オン克グ児ル と、叱りつければ、汪オン克グ児ルは――。︵と辷るように下手へ走って、坐っている駱駝の背へちょこんと股がり、走らせる真似︶はいはい、どうどう! 進めや進め、成ジン吉ギス思カ汗ン! やあやあ、遠からん者は音にも聞け。近くは寄って眼にも見よ。われこそは、大王成ジン吉ギス思カ汗ンの陣中にその人ありと知られたる、滑稽ちゃらっぽこの一手販売、山椒は粒でもぴりりと辛い、汪オン克グ児ル大公爵さまだ。成ジン吉ギス思カ汗ン様第一のお気に入り――ねえ、君、駱らく駝だ君。
合カッ撒サ児ル ︵成ジン吉ギス思カ汗ンの弟、下手よりつかつかと現る。通りすがりに、駱駝の背から汪オン克グ児ルを突き落して︶お! これは大公爵閣下、とんだ失礼を。︵天幕の垂れをはぐり、はいろうとする︶
合カッ撒サ児ル うう、︵振り返る︶まだ寝てる? 相変らず呑気な兄貴だなあ。︵ふと下手を見やり︶おお、月が出た、月が出た! あれ見ろ、砂漠の上に、大きな月が出たぞ。
明るい月が地平を離れ、河の漣さざなみを銀に彩っている。一同は口々に、﹁月だ、月だ、月が出た。﹂﹁さあ、出陣だ! 進軍だ!﹂と勢い込んでざわざわと起ち上り、月に向って立ち並ぶ。忽クビ必ラ来イは長靴を穿き直し、武装を凝らして、速スブ不タ台イとともにしゃがみ、剣の先で地面に地図を描き、しきりに軍議を練りはじめる。
合カッ撒サ児ル 木ム華カ里リはまだ帰らぬな。者ジェ勒ル瑪メ、軍馬の様子はどうだ。これからただちに札ジャ荅ダラ蘭ン城を屠り、長駆、抗愛山脈を衝くのだから、稗ひえでも藁でも、充分に食わせておくがよいぞ。
者ジェ勒ル瑪メ ︵主しゅ馬めの頭かみ︶仰せまでもございません。馬という馬は、栗毛も葦毛も、気負い立って、あれ、あのように、早く矢を浴びたいと催促しております。
遠く近く、屯ろする軍馬のいななき。
忽クビ必ラ来イ は。もうすむころです。今にも報告がまいりましょう。
哲ジェ別ベ もうとうに月が上ったに、まだ木ム華カ里リが帰らんところを見ると、降伏を拒絶したにきまっておる。合カッ撒サ児ル様、殿に、進発の御催促を申し上げては。
速スブ不タ台イ そうだろうと思った。無駄だろうと思った。あの札ジャ木ム合カの奴が、女房を一晩こっちの陣営へよこすなどと、そんな条件を承知するはずはないのだ。
合カッ撒サ児ル そうだとも。兄貴ともあろうものが、この小っぽけな城一つを長々と囲んで、今まで思いきって揉み潰してしまわなかったのは、ただ、合カ爾ル合カ姫の身を案じたればこそだ。
汪オン克グ児ル ︵したり顔に腕組みして、合カッ撒サ児ルの仮こわ声いろで︶するてえと、兄貴の野郎、まだ、合カ爾ル合カ姫のことを想っているのだなあ。
下手の立樹の間から、侍衛長馳せ来る。
侍衛長 報告! 点呼を終りました。一同、弓に新しき矢を番つがえ、馬背に鞍を締め直して、一時も早く総攻撃の命を待っています。
侍衛長 はっ。今日までの攻城戦に、ただ八十人の戦死者あるのみでございます。
侍衛長 はっ、今日の死者は、わずかに六人。傷つくもの十七名。
侍衛長 はっ、死者はございません。
侍衛長走り去る。この間も汪オン克グ児ルは、ところ狭しと独りでふざけ廻って、馬の尻っ尾を引っ張ったり、駱駝と白に眼らめくらをしたり、自分の鼻の孔へ指を入れて嚏くさめをするやら、もんどりを打つやら、しばらくもじっとしていない。一同は慣れているので誰も注意を払わない。
江オン克グ児ル ︵皆の真ん中に立って、おどけた様子で首を傾げ︶ふうむ。そういうものかなあ。いや、そうだろうなあ。
汪オン克グ児ル 英雄、色を好む。︵ちょいと天幕を指さしてウインクする︶いかな大王も恋には弱い。意いば馬しん心え猿ん追えども去らず、あわわわわわ。︵あわてて口を押さえる。誰も相手にせず︶
者ジェ勒ル瑪メ ︵じりじりして、しきりに下手奥へ駈けて行っては、月に霞む遠くの砂漠へ小手をかざす︶ちぇっ! 木ム華カ里リめ! 何をしているのだ。早く降参の献上品を引っ担いで来ればよいに。
哲ジェ別ベ まだそんなことを言っておるのか。木ム華カ里リは今ごろ、首になっているに決まっておる。木ム華カ里リの葬い合戦じゃ。おお、月はもうあんなに高く上りましたぞ。合カッ撒サ児ル様、もはや一刻の猶予もならぬ。さ、殿に申し上げて、出陣のお許しを得て下され。
合カッ撒サ児ル ︵じっと考え込んで、ひとり言︶おれはよく知っている。兄の心には、女といっては、あの合カ爾ル合カ姫があるだけだ。だから、ほかの女には眼もくれずに、誰が何とすすめても結婚せず、いまだにずっと独身でいるのだ。それを思うと、畜生――! ︵一同暗然として、長い間︶
汪オン克グ児ル ︵突然、節をつけて︶無理もない、無理もない。札ジャ荅ダラ蘭ンの合カ爾ル合カ姫は、蒙古一の美人、いや、砂漠の女神。その瞳は翁オン吉ギラ喇ア土トの湖のごとく、口くち唇びるは土ト耳ル古コ石、吐く息は麝じゃ香こう猫ねこのそれにも似て――。
合カッ撒サ児ル やかましい! ああ、止むを得ない。兄貴を喜ばせようとしたお前たち一同の苦心も、とうとう水の泡か。︵決然と天幕へはいって行こうとするが、ためらって︶弱ったなあ。また雷か。機嫌の悪い時の兄貴は、苦手だからなあ。おい、者ジェ勒ル瑪メ、お前行って起して来い。
者ジェ勒ル瑪メ と、とんでもない! あんなに合カ爾ル合カ姫を待っておられる殿様のところへ、姫が来ないので総攻撃だとは、とても――こればっかりはお許し下さい。︵手を合わせる︶おい速スブ不タ台イ、貴公行け。
速スブ不タ台イ 獅子の檻へならはいって行くが、殿の御ごふ不きょ興うだけは――それに、おれは、先刻から、急に腹が痛み出して、ううむ、これはやりきれん。あ痛たたた、忽クビ必ラ来イ君、頼む。君行って、お起し申してくれ。
忽クビ必ラ来イ いや、その、実は足が痛いので――おお痛い。こいつはたまらん。哲ジェ別ベどの、これはどう考えても年寄り役だ。長老、一つ――。
哲ジェ別ベ それが、その、なんだ、私の行きたいのは山々だが、年と齢しのせいか鳥とり眼めの気味でな、夜になると何も見えん――。
合カッ撒サ児ル はっはっは、大切な乃ナイ蛮マン征伐を前にして、軍の大幹部がみんな急病とは大変だな。よし、じゃ、みんなではいって行こう。
汪オン克グ児ル ︵しゃしゃり出て︶お待ちを。しばらくお待ちを。その役目は、どうぞ拙者めにお任せ下さい。たとえ成ジン吉ギス思カ汗ン様が辛から子しをお舐めになった時でも、かく言うそれがしさえお傍にいれば、ああ辛いとおっしゃるかわりに、わっはっはと笑わせてお眼にかける。えへん、大王さま第一のお気に入りの汪オン克グ児ル様々じゃ。万事、な、万事この胸に――者ども騒ぐな。おほん! ︵そっくり返って天幕へはいってく︶
一同は天幕の入口に集まり、心配そうに聞き耳を立てる。
成ジン吉ギス思カ汗ンの声 ︵天幕の中から、睡そうに︶ううう、うるさい芋虫だな。なに、木ム華カ里リがまだ帰らないから、もう総攻撃開始だと? ︵叱咤する︶ええい、やかましい! 勝手にしろ!
とたんに、天幕のなかで、主人の怒りに刺激された物凄い虎の咆哮が、一声大きく聞える。同時に、天幕の入口から汪オン克グ児ルが、俵を投げ出すように、ごろごろと勢いよく転げ出して来る。それを追っかけて、巨大な猛虎が一頭、唸りながら躍り出る。続いて成ジン吉ギス思カ汗ンが、少年のような快活さで、出入口の垂れをはぐって現れる。何の屈託もなさそう、にこにこして大股に駈け出て来る。小姓巴パ剌ラ帖テ木ム、朱の袱紗の上に金の兜を捧持して、急いで後に従う。一同、威儀を正して最敬礼。
武将達の間を昂奮してのそのそ歩き廻っていた虎は、猫のごとく従順に、成吉思汗 の側へ帰ってぴたりと坐る。
成ジン吉ギス思カ汗ン ︵その虎の頭を撫でて、大笑する︶ははははは、お前たちに話したかな。おれは、此こい虎つに、太タヤ陽ンカ汗ンという名を命つけたよ。太タヤ陽ンカ汗ンというのは、これからおれたちが攻めて行こうとしている、あの乃ナイ蛮マン国王の名さ。虎のような乃ナイ蛮マン王太タヤ陽ンカ汗ンも、こら、見ろ、この成ジン吉ギス思カ汗ンにかかっては、もうすっかり奴隷になって傍に仕えているというわけさ。はっはっは、愉快じゃねえか。なあおい!
皆笑い崩れる。
汪オン克グ児ル ︵虎へ︶太タヤ陽ンカ汗ンさま、あなた様は私を見るとすぐ、眼の仇かた敵きにして跳びかかってくる。この︵と自分の背中を指して︶瘤を進上しやすから、それで一つ仲直りを、へへへへへへへへへ。
皆心苦しそうに眼を外らす。
成ジン吉ギス思カ汗ン ︵ふっと沈鬱に︶お前たちの心尽しをいいことに、おれは、女一匹にこだわって――。︵急に朗かに︶あははははは、何を言ってるんだ。おれの女房は戦争だ。おれは戦争と結婚しているんだ。この成ジン吉ギス思カ汗ンの恋人は、軍馬だ、弓矢だ、此こい剣つだ! 敵の血だ! 砂漠の風だあ――! あははははは。
成ジン吉ギス思カ汗ン 相手にして面白いのは、乃ナイ蛮マンの太タヤ陽ンカ汗ンだ。合カッ撒サ児ル! あれを見ろあれを! 抗愛山脈の上で、月が招いているじゃあねえか。哲ジェ別ベ、忽クビ必ラ来イ、進軍だ、進軍だ! ああ愉快愉快! 者ジェ勒ル瑪メ、馬を引いて来いっ!
一同はいろめき立って出陣の支度にかかる。
汪オン克グ児ル ︵成ジン吉ギス思カ汗ンの口真似︶おれの女房は、この背中の瘤だ。おれは瘤と結婚しているんだ。この汪オン克グ児ルの恋人は、瘤だ、踊りだ、踊りだ、瘤だ――あっはっはっは! ︵成ジン吉ギス思カ汗ンの気を引き立てようと、滑稽に踊り廻る︶
成ジン吉ギス思カ汗ン ︵夢みるように︶恋の花は、まだまだ固い蕾つぼみだな。だが、初恋の女ができたら、すぐおれに言うんだぞ。必ず一緒にしてやるからなあ。初恋に敗れると、生涯砂漠の風が身に沁しみるぞ。︵突然、叱りつける︶馬鹿っ! 貴様、何を聞いているんだ!
みな歓声を揚げる。
成ジン吉ギス思カ汗ン ︵嬉しさと悲しさが交錯して︶そうか。合カ爾ル合カが来る。そうか、合カ爾ル合カが来るのか。︵せせら笑って︶手てめ前えが助かりたいばっかりに、大事な女房を捧げて命乞いする。ふふん、可哀そうに合カ爾ル合カも、下らねえ男と一しょになったものだ。︵哄笑︶おい、皆聞いたか。数年越しのおれの恋を叶えに、いま合カ爾ル合カが独りでここへやって来るそうだ。進発は見合せだ。どうでえ! 喧嘩に強い奴あ恋にも強いぞ。長の思いの霽はれる夕べだ。哲ジェ別ベ、速スブ不タ台イ、酒さか宴もりの支度をしろ。花嫁花婿のために、祝しゅ言うげんの席を設けろ、あっはっはっは。
一同は右往左往して準備にかかる。篝火 は一度に燃え盛る。
汪オン克グ児ル ︵成ジン吉ギス思カ汗ンの前に進んで、妙な手つきをして月を仰ぐ︶曇り、後晴れ。ああ、好い月じゃなあ。︵自分へ︶これ、外道、口が軽いぞ。︵おのが口を抓つねって、蜻とん蛉ぼが返えりを打つ︶
成ジン吉ギス思カ汗ン ︵独り言のように︶長年想いを懸かけた女が来る晩に、軍いくさなどと、そ、そんな殺風景なことができるか。こんな、鎗だの、楯だの、︵とそこらに組み合わせて立ててある武器、馬具などを蹴散らす︶今夜あ、こんな物あ眼めざ触わりだ。婚礼の席には邪魔ものだ。早く片づけてしまえ。
皆浮きうきしながら、焚火のまわりに獣皮を敷き、酒宴 の座を設ける。
歩哨 ただいま、かような怪しの者が、御陣屋近く忍び寄るところを、発見いたしました。こいつ! ︵と鹿の皮を引き剥ぎ、姫を前へ押しやる︶
合カ爾ル合カと成ジン吉ギス思カ汗ンは、凝ぎょ然うぜんと眼を見詰め合う。長い間。一同無言。
成ジン吉ギス思カ汗ン ︵侮蔑を罩こめた合カ爾ル合カ姫の視線に負けて、眼を外らしつつ︶よく、よく来られた。しばらくぶりだねえ、合カ爾ル合カ。
速スブ不タ台イ やあ、来た、来た。合カ爾ル合カ様、成ジン吉ギス思カ汗ンさまは、今夜という今夜をどんなにかお待ちなされたことか。
汪オン克グ児ル ︵合カ爾ル合カ姫の手を取る︶さ、さ、花嫁さまは、こちらへ、こちらへ――。
合カ爾ル合カ姫 ︵その手を振り放って、成ジン吉ギス思カ汗ンの前へ進む。憎悪に顫えて︶お久しぶりでございます、成ジン吉ギス思カ汗ン様。今あなたさまのお名前は、砂漠よりも広く、抗こう愛あい山脈よりも高い勢い、砂漠を徘はい徊かいする虎と申せば、あなた様のことと伺いましたが、偉い大将におなり遊ばしたものでございます。︵皮肉を罩めて︶昔の合カ爾ル合カは、こうして今、敗軍の将の妻として、軍門に引かれてまいりました。︵感きわまって膝を突き、心を絞って︶その代り、どうぞ良人をはじめ、札ジャ荅ダラ蘭ン族一同をお助け下さいますよう。
成ジン吉ギス思カ汗ンは打たれて、黙して頷うな首ずく。一同席に就く。兵卒ら、酒肴など運び来きたる。
汪オン克グ児ル ︵姫を押しやって成ジン吉ギス思カ汗ンの隣りへ坐らせる︶さ、花嫁さまはここへ。なにもそう恥かしがることはない。ようよう、似合いの御夫婦、内だい裏りび雛な! ︵手を拍つ︶
みな笑い崩れる。成ジン吉ギス思カ汗ンと合カ爾ル合カ姫は中央の篝火の正面に、並んで床しょ几うぎに掛ける。猛虎太タヤ陽ンカ汗ンは悠然と成ジン吉ギス思カ汗ンの傍に坐る。汪オン克グ児ルは独りで戯ふざけまわる。
成ジン吉ギス思カ汗ン ︵上機嫌に︶今日第一の殊勲者は、木ム華カ里リだ。それ、木ム華カ里リ、盃さかずきを与やるぞ。
成ジン吉ギス思カ汗ン うむ、そうだったな。花嫁にささんでは、この場の固めがつかない。合カ爾ル合カ、あれ以来あなたを慕いつづけてきた成ジン吉ギス思カ汗ンの盃です。快く受けて下さい。
小姓巴剌帖木 が酌しようとする。
一同爆笑する中に、姫は、止むなく涙とともに盃を受けて、返す。
成ジン吉ギス思カ汗ン おれはどんなにこの宵を待ち望んでいたことか。皆も笑ってくれるな。砂漠の虎だって、情を解しないものではない――天てん幕とに照る月、兜に置く露、この長の年月、ただの一日もあなたを忘れたことはなかった。
合カ爾ル合カ姫は黙然と顔を外そ向むけている。四天王ら、口々に、﹁おめでとうございます。﹂﹁お喜び申し上げます。﹂などと祝いを述べて、いっせいに乾杯する。
成ジン吉ギス思カ汗ン うむ、お前たちも飲め。これ、者ジェ勒ル瑪メ、合カ爾ル合カ姫は長の籠城で、さぞ不自由をしたことだろう。痛々しいかぎりだ。羊を屠ほふれ。馬カン乳メ酪ズを取り出せ。好メイ豆ドウ腐フも持って来い。ありったけの馳走を姫の前に並べろ。
声に応じて、種いろ々いろな料理が運び込まれ、酒宴は酣たけなわになる。姫は暗然と俯向いたまま、なにひとつ口にしない。
銅製の長大な喇ビウ叭レ、太ケン鼓ゲルゲ、銅ハラ鑼ンガ、法ビシ螺ズン貝ガル、笛ビシダル、その他、ツァン、デンシク、ホレホ、ツェリニン等、珍奇な楽器を抱かかえた盛装の軍楽隊の一団が練り込んで来て、耳を聾する音楽が始まる。同時に、兵士ら五六人、赤、黄、紫などの小旗のついた、抜身の槍を振るって、成ジン吉ギス思カ汗ン陣中の名物、槍躍りを踊る。成ジン吉ギス思カ汗ンはその間、たえず淋しそうな微笑を浮かべ、ともすれば考え込むが、そのようすを人に覚られまいと、気がついたように合カ爾ル合カ姫へ笑いかける。姫は終始首うな垂だれて、一語も発しない。
成ジン吉ギス思カ汗ン もっと何かやれ。もっと酒を持って来い。誰か合カ爾ル合カ姫を笑わせる者はないか。︵単純に、そして懸命に︶さあ、合カ爾ル合カ、札ジャ荅ダラ蘭ンの城と違って、この成ジン吉ギス思カ汗ンの陣中には、何でもあります。ほら、この鹿の腿肉を味わっては下さらぬか。これは狼汁です。いや、この好ナイ皮ビイ子ズは、成ジン吉ギス思カ汗ン陣中の自慢のものだ。いくらでも召上って下さい。
と蒙古鍋を持ち込み、焚火の上に羊肉を焙あぶる。一同は剣の尖に突き差して立食する。月いよいよ冴える。
汪オン克グ児ル あっしが一つ、姫を笑わせて御覧にいれよう。︵と滑稽な身振りで、唄う︶怖いものづくしを申そうなら、蒙古名物砂漠の竜巻、駱駝の喧嘩に暗夜の狼、嚊かかあの悋りん気き、いや、いっち怖いは成ジン吉ギス思カ汗ン様の一睨み――おや! これでもお笑いにならない。︵さまざまの物真似やお道ど化けた踊りで、必死に狂いまわる︶
成ジン吉ギス思カ汗ン 駄目だ、駄目だ! 姫はまだ笑わないぞ。こんなことでは、まだ饗応がたらぬ。誰か合カ爾ル合カ姫を笑わせるものはないか。笑わせた者は、大名に取りたててやる。︵だんだん興奮して︶ほら、この剣をやる! いや、この兜も与やる。あの、おれの馬もくれてやるぞ。笑わせろ、笑わせろ! なんとかして合カ爾ル合カを笑わせろ!
成ジン吉ギス思カ汗ン 面白くもない。姫を笑わすどころか、こら、見ろ、ますます沈んでしまったじゃないか。見苦しい奴だ。あっちへ行けっ!
顔色を変えて突っ起つ。長老哲ジェ別ベ、その雲往きを察して、追い立てるように将卒一同を引き取らせる。そして手早く合カ爾ル合カ姫を案内して、成ジン吉ギス思カ汗ンの天てん幕とへ伴れ去る。成ジン吉ギス思カ汗ンは辺りを睨ねめ廻したのち、つと天幕へはいる。虎がのそりと立って後を追う。小姓巴パ剌ラ帖テ木ムが続こうとすると、
と眼めく配ばせして止める。そして、不審顔の巴パ剌ラ帖テ木ムの手を引き、道行きのおかし味よろしく、下手へ引っ込む。舞台無人。篝りは消えかかって、正面天幕の内部に、明るく灯が映り、大きな虎の影が揺れる。長い間。幕。
第二幕 第二場
成ジン吉ギス思カ汗ン私用の大天幕内。舞台上手寄りに、大いなる木の寝台を置き、白い羊の皮で堆うず高たかきまでに覆う。楯、鎧など、ほどよきところに飾る。正面の壁には、幼稚なる豪古地図の大いなるを掲げたり。
下手奥に出入口が開き、青い月光の漲みなぎる砂漠、および大河の一部がくっきり見える。寝台の傍に、獣油の燭台を一つ置く。その下に虎が寝そべっている。下手出入口よりの月光が一ぱいに射し込んで、舞台はほの明るい。幕開くと、合カ爾ル合カ姫が舞台中央に上手を向き、うな垂れて立っている。
成ジン吉ギス思カ汗ン ︵その背後にぴたりと立っている。長い間。別人のように静かに︶合カ爾ル合カ、ほんとに久しぶりだったねえ。君はちっとも変らない。
姫の首筋をじっと見つめて、うしろから抱き竦 めようとするが、はっと自らを制する。
合カ爾ル合カ姫 ︵突如憤然と︶あなたも、ちっともお変りになりませんわ。昔のとおりの、乱暴者の成ジン吉ギス思カ汗ン――。︵きっと振り返って︶あなたは鬼です! 悪魔です! なぜその力自慢の腕で、いまここで妾わたしを、打って打って打ち殺してしまわないのです! ︵泣く︶
成ジン吉ギス思カ汗ン ︵苦しそうに︶もう夜が更ける。あそこの寝台へ行って、ゆっくり休むがいい。不自由な籠城が続いて、さぞ苦しかったことでしょう。そう言えば、すこし瘠せたようだが――。
合カ爾ル合カ姫は、顔を掩って寝台に進み、静かに羊の皮の上に身を横たえ、近寄って来たら一突きと、それとなくふところの懐剣を握り締めて身構える。憎悪に満ちた眼で、成ジン吉ギス思カ汗ンを凝み視つめる。
成ジン吉ギス思カ汗ン ︵皮肉に︶御主人はいかがです。最愛の妻を、こうして一人敵の陣中へ寄越して、みずから助かろうとする札ジャ木ム合カ、おれは、あなたのためにあいつを憎む。あいつを呪う。
合カ爾ル合カ姫 ︵冷やかに︶なにを仰せられます。妾はあなたのことなど、思い出したこともございません。︵と嘘を言う。淋しく笑って︶降伏の条件に、敵将の妻を所望なさるなどとは、きょうという今日こそは、あなたという人間に愛想がつきました。妾は、良人と、城下の人々を助けるために、来たのです。︵強く寝台に起き上り、きっと成ジン吉ギス思カ汗ンを睨み据えて、物体のように身を固くする。もう観念して、自暴自棄的にすべてを投げだしたこころ。鋭く︶成ジン吉ギス思カ汗ン! 勝ち誇った成ジン吉ギス思カ汗ン! 何百人、何千人の犠いけ牲にえになってきたこの身から体だを、さ、思う存分にして下さい! さ、なぜ早く自分の有ものにしないのです。︵と眼を瞑つぶる︶
と、つかつかと寝台へ歩み寄る。が、姫の覚悟に気け圧おされて、ぴたりとそこへ釘づけになる。凄まじい間。姫は堅く眼を閉じ、身動きもせずに、成ジン吉ギス思カ汗ンの襲って来るのを待つ。
成ジン吉ギス思カ汗ン ︵窒息的な間。激しい独り語︶おれの気持を察して、部下がこの計らいをしてくれたのだ。おれはそれを利用して、この、一度はと狙っていた機会を掴もうとした。が、おれにはできない。そんなことは、おれにはできない。︵沈思。突如、自分に呼びかけて︶おい! 成ジン吉ギス思カ汗ン! 貴様、どうかしてるぞ。貴様の恋人は、戦争じゃなかったのか。貴様は、若い血のすべてを、軍馬の蹴散らす砂漠の砂へ、投げ与えたはずではないのか。︵壁の大地図へ眼が行き、駈け寄る︶おお! ︵剣を抜いて地図を辿たどる︶この、阿オノ納ン、客ケル魯レ漣ン、宇ウ児ル土ト砂サの三つの河の流れる奥蒙古の地は、貴様の父おや親じ、也エス該ガ速イ巴パ阿ア禿ト児ルの志を起した平野じゃないのか。これが貴様の恋だ。これが貴様の全部だ。しっかりしろよ、成ジン吉ギス思カ汗ン! ︵急に朗かに︶あははははは、戦争だ、戦争だ、おれは、戦争のほか何ものもない。戦争さえしていればいい人間なんだ。合カ爾ル合カ、戦争の話をしてあげよう。ねえ、勇ましい合戦の話を――この成ジン吉ギス思カ汗ンは、鉄の額をしているぞ。剣の嘴くちばしを持っているぞ。まだある、槍の舌を備えている。巌いわおのような心なんだ。いいか、そうれ! こうして、環刀の鞭を揮い、露を飲んで、敵へ向って風のように飛んで行くのだ――。
と己 が気を紛らせようと、全身の力を罩 めて、剣舞のように合戦の仕草をして見せる。合爾合 姫は呆然と見守っている。
成ジン吉ギス思カ汗ン ああ、気が散って駄目だ。なに糞っ! ︵再び力を入れて、大きく身振りをする︶われ成ジン吉ギス思カ汗ンの赴おもむくところ、青草の一つ、仔羊の皮だに残さず。われ怒りて、五百尋ひろのところより矢を射らば、五百人の人を倒し、九百尋のところより矢を射らば、九百人の人を斃たおすべし――。︵ふと気づいて、苦笑する︶と、まあ、世間では噂しているよ。やあ、お寝み。
子供のように快活に、下手、天幕の出口に坐り、膝を抱く。
成ジン吉ギス思カ汗ン このおれの心は、誰も知らない。誰も知らない。銀の鱗と騒ぐ斡オル児コ桓ンと塔タミ米イ児ルの川波が、知っているばかりだ。うむ? ︵合カ爾ル合カの問いに気づき︶何のために、あなたをここへ呼んだ? ははははは、それは、朝になればわかるだろう。僕はここで、一晩中あなたをお守りする。成ジン吉ギス思カ汗ンを信じて、ゆるゆるお眠みになるがいい。
寝台の傍の猛虎が、いきなり凄い唸り声を発する。
合カ爾ル合カ姫 おお怖こわい! この虎をあっちへ連れて行って下さい。でも、砂漠の虎成ジン吉ギス思カ汗ンよりも、妾にはこの虎のほうが、まだ安全かも知れませんわね。
成ジン吉ギス思カ汗ン 月が照ると、こいつは故郷の山を思いだして、吠えるのです。木ム華カ里リ! 木ム華カ里リはいないか。
天幕の入口に、巨漢木華里 が現れる。
成ジン吉ギス思カ汗ン あはははは、木ム華カ里リ、われわれの結婚の夜の邪魔をするのは、この心ない太タヤ陽ンカ汗ンだよ。連れて行ってくれ。
木ム華カ里リ さあ、出て失せろ。乃ナイ蛮マンの太タヤ陽ンカ汗ンめ! ︵鞭の音唸る。猛虎は怒って、跳びかかりそうな敵意を示す︶
成ジン吉ギス思カ汗ン ︵元の天幕の出入口に帰り、床に坐る︶ははははは、この成ジン吉ギス思カ汗ンには、あなたに対する私の心中の虎のほうが、あの太タヤ陽ンカ汗ンよりどんなに恐しいかしれない。いや、合カ爾ル合カ、なにも怖がることはないよ。
と膝を抱いて、月に見入る。どこからか兵士の奏かなでる胡こき弓ゅうの音が漂ってくる。姫は寝台に身を起して、じっと不思議そうに成ジン吉ギス思カ汗ンを見詰めている。長い沈黙がつづく。咽ぶような胡弓の調べ。舞台一面の青白い月光、やや傾きそめる。
成ジン吉ギス思カ汗ン ︵ひとり言のように︶あれから何年になるかなあ。君あ記お憶ぼえているかしら。まだ、僕のおやじ、也エス速ガ該イ巴パ阿ア禿ト児ルが生きているころ、僕の家と君の家は、森ひとつ隔てていたねえ。
姫は意外な面持ちで聞き入っている。
成ジン吉ギス思カ汗ン あの、ほら、真ん中辺に、こんな大きな樹が三本立ってる森さ。忘れた?
成ジン吉ギス思カ汗ン そうかなあ。あの森を忘れたのかなあ。僕あよく覚えてるがなあ。
寝台に突っ伏して、姫は無言。
成ジン吉ギス思カ汗ン 忘れっぽいんだなあ。あの、そら、僕がよく羊の群れを追って、水を飲ませに行った川さ。岸に水草が一ぱい生えて、春さきなんか、ぞっとするほど冷い水だった――月夜の晩は、あの小川が銀の帯のように光って家の窓からよく見えたことを思い出すよ。懐しいなあ。
成ジン吉ギス思カ汗ン ︵突然笑いこける︶ははははは、そうそう、君は手桶を抱えて、よくあの川へ水を汲みに来たものだねえ。そうしたら、いつか、ほら、その桶を川に流してさ――。
成ジン吉ギス思カ汗ン そうだったかしら。なんでもそいつを流れに取られて、君は岸に立ってしくしく泣いていたっけ。あの時、君は十と歳おぐらいだったかしら。そうだ、僕はたしか十七の春だったからなあ――あの森も、小川も、きっとまだあのままだろうよ。帰ってみたいなあ。
姫はかすかに涕泣 きを洩らす。長い間。
成ジン吉ギス思カ汗ン そう! そうしたら、君ったら、ずぶ濡れになった僕が、川から這い上った恰好がおかしいと言って、泪の一ぱい溜まった眼で笑ったよ。いま泣いた烏からすが、もう笑った、ははははは。
合カ爾ル合カ姫 あら嫌だ。烏ですわ。あなたったら、烏を追っ払うんだっておっしゃって、お父様の弓を持ち出して――。
成ジン吉ギス思カ汗ン あ、そうだった。烏、烏――あん時あ、父親のやつにひどく怒られちゃってねえ。烏は、蒙古では神聖な鳥だからな。
成ジン吉ギス思カ汗ン うむ、可カダ荅ア安ンの砂漠に、珍しい蜃気楼が見えるといって、遠くから見物人が押し寄せた、あの翌年だったね。
成ジン吉ギス思カ汗ン そうそう! 覚えている、おぼえている。夏の暑い日でねえ。いや、猛烈な暑さだったな。合カッ撒サ児ルのやつの肩車に乗って、高いところの枝を折ろうとする拍子に、手に棘を刺してねえ。
成ジン吉ギス思カ汗ン ︵じっと自分の指を凝視める︶覚えてるとも。誰が忘れるもんか。あの時、砂漠の向うに沈もうとしていた夕陽の色まで、いま眼の前に見るようだ。
断続する胡弓の音。間。
成ジン吉ギス思カ汗ン それから、僕が忘れようとしても忘れることのできないのは、父の也エス速ガ該イ巴パ阿ア禿ト児ルが泰タイ赤チュ宇ウ徒ト人に攻められた時、あの危急存亡の場合に僕を助けてくれたのは、君だった。羊毛を積んだ車の中に、三日三晩僕を匿って、君がその番をしてくれた――。
合カ爾ル合カ姫 泰タイ赤チュ宇ウ徒トの兵隊が、あなたの隠れていらっしゃる羊毛のなかへ、何度も剣を突き刺すので、妾、はらはらしましたわ。
成ジン吉ギス思カ汗ン それより、滑稽だったのは、いくら捜してもいないもんだから、泰タイ赤チュ宇ウ徒トの奴らが君の瑣ソル児カ肝ン失シ喇ラの荘園を出て行ってからさ。やっと車から這い出して、いや、食べた、食べた。なにしろ、三日目に食い物にありついたんだからねえ。まったく、あの時の羊の肉は美う味まかったなあ。今でも忘れないよ。
合カ爾ル合カ姫 ええ、そうそう。あなたったら、いくらでも召し上るんですもの。妾、お腹なかがどうかなりはしないかと思って、ずいぶん心配しましたわ、ほほほほほ。
成ジン吉ギス思カ汗ン あ、笑った! あ、笑った! 合カ爾ル合カが笑った。とうとう合カ爾ル合カを笑わせたぞ、あははははは。︵ふと心づいて冷静に月を仰ぐ︶ふむ、おれはいったい何を言っているんだ。ああ、向うの山の端が、かすかに白みかけて来たぞ。今日はあの峠を越えて、乃ナイ蛮マン国へ攻め入るのだ。都の和カラ林コルムを出てから、もう二月あまりの旅だ。人も馬も、すこしの疲れも知らない。ありがたいことだ――うむ、そうだ。陣中日記でもつけるとしよう。
と呟きつつ、軍装の内懐から一冊の帳面を出し、月の光りで、いつまでも黙って読み耽っている。追憶で感傷的になった合カ爾ル合カ姫の涕すす泣りなきが高まる。成ジン吉ギス思カ汗ンは何も耳に入らないように、一心に読みつづける。長い長い間。合カ爾ル合カ姫は、懼おそれていたこともなく夜が明けたので、ようやく成ジン吉ギス思カ汗ンの意を悟り、静かな泣き声を放って寝台に伏す。月はすっかり落ち、もう砂漠の彼方に、早い蒙古の朝ぼらけが動き初める。今まで一望の砂原と見えたあたりに、斡オル児コ桓ンの川水が光って見えはじめる。
成ジン吉ギス思カ汗ン ︵ふと暁の色に気づくが、振り返りもせずに︶ああ、夜が明ける。乃ナイ蛮マン征伐第一の朝だ。ああ愉快だ。合カ爾ル合カ、おれは昔の羊飼いに返って、羊の群れを番するように、一晩君の身体を守り通したのだ。
合カ爾ル合カ姫 ︵寝台に起き上り︶成ジン吉ギス思カ汗ンさま! あなたの真意は、よく解りました。それほどの深いお心とも知らず、妾はあなたを刺すつもりで――。︵と懐中の匕首を抜き放ち、己が胸に突き立てようとする︶
成ジン吉ギス思カ汗ン ︵駈け寄ってそれを叩き落す︶何をする! 君が死んでは、僕の志は無になる。さあ、朝になった。いま木ム華カ里リに送らせますから、どうぞ、城中へお引き取り下さい。
合カ爾ル合カ姫 ︵じっと成ジン吉ギス思カ汗ンを凝み視つめて︶妾の心が、恥かしゅうございます。いえ、良人札ジャ木ム合カのあなたに対する気持ちも、恥かしゅうございます。
成ジン吉ギス思カ汗ン いや、そう言われると、こっちが弱る。おれこそ恥かしい。白状するが、おれは初めは、決して君を清く帰すつもりではなかったのだ。が、この天幕で二人きりになってみると、おれは、自分がもっと大きくならなければならないことを知った。いや、このおれは、もっと大きな人間であることを発見したのだ。おれにそれを教えてくれたのは、合カ爾ル合カ、あなただ。僕はその点で、あなたに感謝する。木ム華カ里リ! 木ム華カ里リ! ︵戸口に木ム華カ里リがあらわれる︶合カ爾ル合カ姫を城へお送り申せ。
合カ爾ル合カ姫 ︵今さらのように、懐かしそうに心を残し、別離を惜しむ︶それでは、どうぞ御無事で乃ナイ蛮マンを御征伐下さいませ。もう二度とお眼にかかることもございますまい。陰ながら御成功をお祈り申しております。
と会釈し、悄然と木華里 に伴われて去る。
成ジン吉ギス思カ汗ン ︵追おうとするのをぐっと堪こらえているが、必らず戸口まで走って︶合カ爾ル合カ! 達者で暮らせ。札ジャ木ム合カによろしくとな。︵じっと見送る。長い間。やがて快活な独り語︶ああ、これでよかった。これでさっぱりとした。これで、おれの胸は晴れた。さあ、阿オノ納ン、客ケル魯レ漣ン、宇ウ児ル土ト砂サの三つの河の流域をわが手に収めて、和カラ林コルムへ凱旋するだけだ。今日はその覇業の第一日だぞ。おい! 乃ナイ蛮マンの太タヤ陽ンカ汗ン先生! 出て来い! ︵虎を呼ぶ︶
舞台一ぱいに、眼の眩むような金色の朝日。美しい朝だ。声に応じて猛虎が走り込んでくる。成ジン吉ギス思カ汗ンは嬉しくてたまらなさそうに、その虎の耳を掴んで、頬を平手打ちにする。
成ジン吉ギス思カ汗ン ︵虎へ︶どうだ、えらいだろう、おれは! はははははは、いい気持ちだなあ。さっぱりしたなあ。どうでえ、恐れ入ったろう、はっはっは。
と虎の口へ拳固を押し込んだりなどする。巨大な虎が猫のごとく成ジン吉ギス思カ汗ンに跳びつく。成ジン吉ギス思カ汗ンは絶えず呵々大笑しながら、上になり下になり、虎と一しょに天幕狭しと転げ廻る。幼児のように猛虎とじゃれる。長老哲ジェ別ベが駈けこんで来る。
成ジン吉ギス思カ汗ン ︵虎の下になって戯れつつ、仰向けに寝たまま︶おい、親おやじ! いい天気だなあ。でかけようじゃねえか。すこしは気持ちのいい戦争もさせてくれよ。
と一隅から銅鑼を持ち出し、天幕の入口に立ってとうとうと打ち鳴らす。天幕の外、にわかに騒然とし、武器の音、軍馬のいななき、蹄の響き、蒙古犬の吠え声。弟合カッ撒サ児ルを先頭に、忽クビ必ラ来イ、速スブ不タ台イ、小姓巴パ剌ラ帖テ木ム、その他参謀等多勢、厳いかめしき武装にて馳せ入り、成ジン吉ギス思カ汗ンの前に整列する。同時に、兵卒ら多勢走り廻って、ばたばたと天幕を畳めば、斡オル児コ桓ン河の向うに、抗愛山脈が旭に光り、舞台一面の広場となる。
成ジン吉ギス思カ汗ン ︵小姓のすすめる兜を被り、鎧の胴を締め、手早く軍装を凝らしつつ︶さあ、今日は抗愛山脈だぞ。貴様たち、腕が鳴るだろう。︵一種の点呼︶合カッ撒サ児ルの手は、十本の指がみな毒蛇、哲ジェ別ベの白髪は針鼠、忽クビ必ラ来イの胸は鉄の楯だ。速スブ不タ台イの脚は、千里を往く牡鹿のそれと、敵の陣中で評判しているぞ。今日こそは、ちっとは軍らしい軍が出来そうだ。
成ジン吉ギス思カ汗ン うむ、芋虫がいたな。ははははは、貴様の瘤は、駱駝も顔負けだ。
一同爆笑。成ジン吉ギス思カ汗ンの白馬が者ジェ勒ル瑪メに引かれて来る。成ジン吉ギス思カ汗ンは無造作に飛び乗る。喨りょ々うりょうたる喇叭の音起る。舞台全面の軍勢、勇み立つ。
騒然たる物音の中に、猛虎の長ちょ嘯うしょう。汪オン克グ児ルが何度も馬から転げ落ちている。幕。
第三幕 第一場
札ジャ荅ダラ蘭ン城、城門の景。砂漠のなかに濠をめぐらし、高い石垣を築き、石を積み上げたる厳重な城門の前。同じ時刻。
序幕第一場の避難民多勢、首を伸ばしてはるか彼方の成ジン吉ギス思カ汗ン軍の屯営のほうを見守っている。
男一 とうとう昨夜 、合爾合 さまはお帰りにならなかったようだな。
男二 おれたち部落の者の身代りになって下すったのだ。お痛わしいことだ。
女一 あのお優しい奥方様が、恐しい成吉思汗 の陣屋で、どんな目にお遭いなされたかと思うと――。
男三 札ジャ木ム合カの殿様は、もう気違いのようになっている。おお、ここまで、殿様のどなり叫ぶ声が聞えて来るようだ。
男四 しかし、殿様の御心中を察すると、それも無理がないなあ。
男五 軍には負ける。奥方まで奪られるじゃあ、まったく、浮かぶ瀬がないよ。
女二 (遠くを指さして)あれあれ! 成吉思汗 軍では、にわかに天幕を取り毀しましたわ。急に出発するんでしょうか。
男六 おお、ほんとだ! いよいよこの城の囲みを解いて、乃蛮 へ攻め入るものとみえる。
男一 おう! するとわれわれは助かった!
女三 え? ほんとに助かりましたのでございますか。ああありがたい! ありがたい――!
躍り上る群集。皆みな抱き合って狂喜する。感極まって嬉し泣きに泣く者もある。
男七 あ! 合カ爾ル合カ姫がやって来られる。おお、あすこに、あの大男に伴れられて帰って来るのは、合カ爾ル合カ姫ではないか。
男二 そうだ。奥方だ。おや! 大男はあそこで別れて、一人で引っ返して行くぞ。うむ、お城の近くまで送って来たのだな。
避難民ら口々に、﹁合カ爾ル合カ姫だ!﹂﹁われわれの命の恩人だ。﹂﹁札ジャ荅ダラ蘭ン族の根絶やしを救って下すったお方だ!﹂と叫ぶ時、城門より、城主の弟台タイ察チャ児ルが血相を変えて出て来る。
台タイ察チャ児ル なに、嫂上がお帰りになったと? 兄上の気持ちも察せずに、賢さかしら立てに勝手なことをして、一夜を敵将の陣営に送り、ちぇっ! どんな顔をして戻って来るか。いや、その面がみたいものだ。
合カ爾ル合カ姫が下手より、夢遊病者のように現れ、群集をも意識しないふうで、そのまま城門へはいろうとする。その、憑きものでもしたような様子に、一同唖然として、無言で道を開く。
台タイ察チャ児ル ︵いきなり合カ爾ル合カの腕を掴んで︶嫂上! よくも思いきって、こんな汚らわしいことをなされましたな。どの面下げて帰って来られた。さ、兄上がお待ちかねだ。
と遮二無二引きずって城中へ拉し去る。避難民の群れは、感謝の心を現すべく、われがちに、手に手に合カ爾ル合カ姫の袖、裳裾などを押し戴きながら続く。入れ違いに城門より、従者に荷物を担がせた金の商人、および、花ホ剌ラ子ズ模ムの﹇#﹁花ホ剌ラ子ズ模ムの﹂は底本では﹁花ハ剌ラ子ズ模ムの﹂﹈回ふい々ふい教伝道師、転がるように走り出て来る。
商人 ︵城内を振り返って︶お痛わしいことだ。あの方のお陰で、われわれ一同命拾いをしたのだが、さて、奥方様のお身は、どうなることやら――。
従者 人のことなど構ってはいられませぬ。一月振りに城を出ることができた。早く隣り村まで行って、何か食い物にありつかねばならぬ。ああひどい目に遭った。もう蒙古の旅はこりごりだ。
僧侶 戦いの捲き添いを食って、悪夢のような一月を送りましたなあ。いや、荒し天けをくらった乗合い舟、これも、後で思えば、一生の語り草です。またお眼にかかることがあるかどうか、お達者に――。
と商人主従に挨拶し、城を振り返りつつ立ち退く。商人主従は会釈をかえすのも忘れ、促し合って、ほうほうの体で逃げ去る。幕。
第三幕 第二場
序幕第二場と同じ、城中本丸の広間。すべて前出の通り。一夜寝もやらず、室内を歩き廻って明かした城主札ジャ木ム合カが、髪を掻きむしり、腰の大刀を揺すぶって、物凄い顔で往きつ戻りつしている。侍女二三、隅に集かたまって恐怖に震えている。
台タイ察チャ児ルの声 ︵正面露台の上手より、近づく︶こらっ! 貴様らは何しに後について来るのだ。乞食ども! ぶった斬るぞ。
と避難民を追い散らしつつ、合カ爾ル合カ姫を引っ立てて入って来る。合カ爾ル合カ姫は昂然と面を上げて、良人札ジャ木ム合カの前に立つ。侍女ら、﹁ああ、奥方様!﹂と走り寄ろうとするが、﹁彼方へ行け﹂との台タイ察チャ児ルの険しい眼くばせに驚き怖れ、そそくさと室外に去る。
台タイ察チャ児ルは露台上手へはいる。合カ爾ル合カは首垂れている。間。
札ジャ木ム合カ ︵後退りしつつ狂的に︶何しに帰って来た、合カ爾ル合カ、何しに帰って来たのだ。貴様、よくそうやっておれの前に立てるな。もう貴様は、昨日までの貴様ではない。敵将成ジン吉ギス思カ汗ンに――。︵蒼白に顫えつつ︶これ、合カ爾ル合カ、おれの心も知らずに、よくもこんな差出がましいことをしてくれたな。貴様は、城の身替りに立ったという喜び、城下の百姓町人どもの犠牲になったという心の慰めがあるだろうが、おれは、こ、このおれは――えいっ! 何とか言え! 何とか言わぬかっ!
合カ爾ル合カ姫 ︵冷やかに︶誤解でございます。いかにも、妾は成ジン吉ギス思カ汗ンの陣屋に一夜を明かしはいたしましたけれど、あの人は妾に、指一本触れませんでした。
札ジャ木ム合カ なに、指一本触れなかった? 指一本ふれなかった? ははははは、だ、誰がそんなことを信じるものか。これ、合カ爾ル合カ! 城も民も何もかも失っても、わしにはお前があると思っていたのに、軍には負け、お前まで辱しめられて――ああ、おれはどうすればいいのだ!
合カ爾ル合カ姫 ︵必死に︶どうぞお聞き下さいまし。妾の申し上げることを、お信じ下さいまし。成ジン吉ギス思カ汗ンは妾を、敵将の妻として、厚く礼もて遇なしてくれましただけで、ほんとうに何事もございませんでした。
合カ爾ル合カ姫 ︵冷笑︶まあ、何をおっしゃいます。たかが女一人のことで、一城の主ともあろう方が、そんなに取り乱されるとは、ちと見苦しくはございませんか。
札ジャ木ム合カ ええい、言うな、姦婦! おれは貴様に、死に勝る苦しみを味わされたのだぞ。うぬ、そこ動くなっ!
発作的に、長剣を抜き放つ。
合カ爾ル合カ姫 あれ、あなた、狂気されましたか。そのようなお心では、こうして成ジン吉ギス思カ汗ンのために打ち負かされるのも当り前、ああ情ない――。
札ジャ木ム合カ ええい、乱心でもよい。狂気でもよい。なに? なに? うむ、わかった! 貴様なんだな、成ジン吉ギス思カ汗ンを想っていたな。いや、きゃつを慕っているな。あっ、そうだ! 貴様、前から、昨夜のような機会を待っていたのだろう。︵嫉妬に狂って︶さあ、言え。成ジン吉ギス思カ汗ンを思っているか、成ジン吉ギス思カ汗ンを恋しているか、言え! 言え! 言わぬか。おのれ、これでもかっ! ︵やにわにばっさり斬りつける︶
また一刀を浴びせる。合カ爾ル合カはにっこり笑って落入る。札ジャ木ム合カは呆然と妻の屍を見下ろして立つ時、遠く進軍喇らっ叭ぱの音が起り、開城を喜ぶ部落民のどよめきが湧く。露台のはるか向うの山間に、白い旗が小さく揺れながら、長くつづいて登って行くのが望見される。札ジャ木ム合カは魂を落したように、ふらふらと立っている。台タイ察チャ児ル駈け入って来る。
台タイ察チャ児ル 兄上! ただいま成ジン吉ギス思カ汗ンが、不敵にも、単身城へ乗り込んでまいりました。︵合カ爾ル合カの死骸に気づき︶おお! 兄上! 嫂上をお手討ちに――!
と台タイ察チャ児ル、露台の上手へ向って剣を振り、合図する。槍、抜刀を携えたる城兵五、六人、そっと出て来て、露台の中仕切りの陰に潜み、伏兵となる。札ジャ木ム合カと台タイ察チャ児ルは、あわただしく眼で相談し合い、その中仕切りに懸けてある旗を取って、合カ爾ル合カの死体を覆い、またその上に王座の後ろの丈高き二枚折りの刺繍屏風を持ち来って横ざまに被せ、屍骸を隠す。そうして、両人気を配って待つところへ、下手の扉より、総大将の武装美々しき成ジン吉ギス思カ汗ン、微笑を含んで足早やにはいって来る。
成ジン吉ギス思カ汗ン ︵快活に︶やあ、札ジャ木ム合カ。長い間虐いじめてすまなかったな、ははははは。おれは君に、どうしても告白しなければならないことがあって、途中から単騎、馬を飛ばして引き返して来たのだ。
札ジャ木ム合カ ううむ、こんなにおれを踏み潰しても、なお飽きたらず、まだこの上に、おれの顔へ唾を吐きかけようというのか。面と向って嗤おうというのか。さ、嗤え! さ、笑ってくれ! ︵詰め寄る︶
成ジン吉ギス思カ汗ン ︵平然と︶おれこそ君に、嗤ってもらおうと思って来たのだ。この顔に、唾を吐きかけてもらおうと思って来たのだ。おれの話を一通り聞いてから、どんなにでも笑ってくれ――まあ、聞け。この一と月の間、守る君も苦しかったろうが、攻めるおれも辛かったぞ。城中の窮乏ぶりが伝わってくるにつけて、おれは、身を切られるような思いをした。この城を囲むのは、初めから、おれの真意ではなかったのだ。まっすぐ乃ナイ蛮マンへ攻め入りたかったのだが、四天王をはじめ部下のやつらは、きっとこのおれが、昔の合カ爾ル合カ姫のことを根に持って、君に恨みを懐いているだろうと思い、まず、この札ジャ荅ダラ蘭ン城を屠ろうと言って肯きかないのだ。おれも神様じゃあなかった。その家来たちの忠義立てを利用して、何年かの長い間、おれの胸の底に灼きついていた合カ爾ル合カへの恋を果そうとした。それが昨夜の、あの降伏の勧告だ。︵自分を責め、蔑むように、強く︶敵将の妻を、一夜貸せという――。︵ぴたりと札ジャ木ム合カの前に坐って、男らしく両手を突く︶札ジャ木ム合カっ! 悪かった! 許してくれ! おれは昨夜、月の洩る天幕の中で、良人のため、民のため、身を捨てて氷のように冷たくなっている、あの合カ爾ル合カの――あの合カ爾ル合カの眼を見た時、おれという人間が、この成ジン吉ギス思カ汗ンという男が、泥どろ草わら鞋じのように汚く見えたのだ。毛虫のように醜く見えたのだ。︵心からの声︶神のように崇けだ高かい合カ爾ル合カの心と身体に、どうしてこのおれが、指一本さすことができようか――。︵間︶あの抗愛山脈の肩に、ぽうっと暁の色が動き初めると同時に、おれの心にも、夜が明けた。おれは合カ爾ル合カに負けた。札ジャ木ム合カ! 君は幸福な男だ。合カ爾ル合カのような立派な女を妻に持っているとは、︵こころの底から︶おれはほんとうに羨ましいぞ。
成ジン吉ギス思カ汗ン 札ジャ木ム合カ! このまま行ってしまうことは、おれにはどうしてもできなかった。おれは、君の前に、こうして、手を突いて、心の底から謝あや罪まりに来たのだ。どうか、許してくれ。な、どうか許してくれ。
成ジン吉ギス思カ汗ン ︵朗かに起ち上って︶ああ、これでさっぱりした。身体中の汚れを洗い流したような気がする。︵友達に対するように、無邪気に︶では、札ジャ木ム合カ、乃ナイ蛮マンをやっつけて、帰りにはきっと寄るよ。その時は、合カ爾ル合カと二人揃って、おれをうんと御馳走してくれよ。きっとだよ。じゃ、さいならっ!
少年のように、気軽に行こうとする。札木合 の手から、ばたんと抜刀 が落ちる。
札ジャ木ム合カはたまらず駈け寄り、成ジン吉ギス思カ汗ンの腕を握り、涙の無言で屍骸の傍へ引っ張ってくる。そして、手早く、死体を隠してある屏風を除とる。旗で覆った合カ爾ル合カ姫の屍が現れる。
札ジャ木ム合カ ︵崩折れて、断腸の思い入れ︶おれは、おれは、なんという愚か者だ! おれは、おれの手で、掛け換えのない珠玉を壊してしまったのだ――。︵と突っ伏す︶
成ジン吉ギス思カ汗ン ︵ぐっと起つ。悵然と屍骸を見下ろして、長い間︶合カ爾ル合カは死んだ。合カ爾ル合カを殺したのは――成ジン吉ギス思カ汗ンの向うところ、砂漠の風さえ避よけて通るに、この一輪の散る花を、人間の力では止め得なかったか――夢だ、砂漠の夢だ――。
台タイ察チャ児ルは居崩れて、嫂あねに弔意を表する。喇らっ叭ぱの音は刻々遠のき、消えんとしている。露台の外、遙かなる抗愛山脈の山峡に、成ジン吉ギス思カ汗ン軍の白い旗印が九本、ひらひら靡なびいて登って行くのが小さく見える。幕。