一
ひどい風だ。大川の流れが、闇や黒みに、白く泡立っていた。
本所、一つ目の橋を渡りきった右手に、墓地のような、角石の立ち並んだ空地が、半島状に、ほそ長く河に突き出ている。
柳が、枝を振り乱して、陰惨な夜景だった。三月もなかば過ぎだというのに、今夜は、ばかに寒い。それに、雨を持っているらしく、濡れた空気なのだ。
その、往来からずっと離れて、水のなかへ出張っている岸に二階建のささやかな一軒家が、暴風に踏みこたえて、戸障子が悲鳴を揚げていた。
腰高の油障子に、内な部かの灯がうつって、筆ふで太ぶとの一行が瞬いて読める――﹁御石場番所﹂
水戸様の石揚場なのである。
番所の階し下たは、半分が土間、はんぶんが、六畳のたたみ敷きで、炉が切ってある。大川の寄り木がとろとろ燃えて、三人の顔を、赤く、黒く、明滅させている。大きな影法師が、はらわたの覗いている壁に倒れて、けむりといっしょに、揺らいでいた。
番小屋のおやじ惣そう平へい次じと、ひとり息子の庄太郎とが、炉ばたで、将棋をさしているのだ。母親のおこうは、膝もと一ぱいに襤ぼ褸ろを散らかして、つづくり物をしながら、
﹁年と齢しはとりたくないね。針のめどが見えやしない。鳥とり目めかしら――。﹂
ひとりごとを言いいい、糸のさきを噛んだ。
いきなり惣平次が、白髪あたまを振った。癇かん癪しゃくを起したのだ。盤をにらんで、ぴしりと、大きな音で、駒を置いた。
﹁えれえ風だ。吹きゃあがる。吹きゃあがる。風のまにまに――とくらあ。どうでえ庄太、この手は。面つらああるめえ。﹂
﹁庄太、しょた、しょた、五人のなかで――。﹂
庄太郎は、﹁酔うた、酔た、酔た﹂をもじって、低こご声えに唄った。持ち駒を、四つ竹のように、掌の中で鳴らした。
そして、炭のように黒いであろう戸外の闇を、ちょっと聴くような眼つきになって、
﹁なあに――。﹂
﹁おっと! こりゃあ! いや、風にもいろいろあってな、吹けよ、川風、上れよ、すだれ、の風なんざあ粋だが――おい、庄太、手前、砂利舟は、しっかり舫もやったろうな。﹂
惣平次は、いま打った駒で、取り返しのつかなくなった盤ば面んを庄太郎に気づかれまいとして、何げなく、ほかの話をしかけて注意を外らすのにいそがしかった。
が、庄太郎は、二十三の青年らしい、ほがらかな微笑をひろげていた。
﹁うふっ! 父ちゃん、すまねえが、おらあ勝ってるぜ。﹂
ごろっと、後頭部へ両手をまくらに、引っくり返った。
﹁出直せ、出なおせ。﹂
﹁この風だ。今夜はお見えになるまいて。﹂
盤の駒をあつめながら、惣平次が、いった。
おこうが、
﹁久くず住みさんかい。﹂
針を休めて、訊くと、
﹁なんぼあの旦那が物好でも、こんな大風の晩に出歩くこたあねえからな。﹂惣平次は、将棋に負けたので、八つ当り気味に、﹁おらあ好かねえよ。稼業たあ言い条、こんな石場の突鼻に住んでるなんざあ、気の利かねえはなしだ。まるでお前、なんのこたあねえ。千川っぷちの渡守りみてえなもんじゃあねえか。御近所さまがあるじゃあなし、何があったって早速の間にゃあ合やしねえ。ああ嫌だ、嫌だ。この年齢になって石場の番人なんて、外げえ聞ぶんが悪くて、人に話もできやしねえ――。﹂
おこうは取り合わずに、
﹁また愚痴がはじまったね。まあ、いいじゃないか。もう一ぺん将棋をおさしよ。今度はお前さんが勝つだろうから、それで機嫌を直すんだね。﹂
息子の庄太郎が、むっくり起き上って、
﹁ほんとだ。父ちゃんもおふくろも、もうすこし辛抱していてもらえてえ。おいらが一人前の瓦職になるまであ、ま、隠居仕事だと思って、この石場の番人をつとめていてくんねえよ。なあに、おいらだって、いつまでもこのまんまじゃあいねえつもりだ。おっつけ親方の引き立てで、相当の人にん区くを取るようになる。そうすりゃあ、父にもおふくろにも、うんと旨うめえものを食わして、楽をさせてやらあ。﹂
急にしんみりと、おこうは、涙ぐんで老おっ夫とを見た。
﹁庄太が、まあ、あんなたのもしい口をきくじゃあないか。いい若い者で、悪遊びに一つ出るじゃあなし、――あたしゃなんだか、泣かされましたよ。﹂
﹁やい、庄公。﹂惣平次も気を取り直して、﹁こりゃあおやじが悪かった。てめえのような評判の孝行息子を持ちながら、不こ平ぼすなんてのは、有難冥利に尽きるこった。いや、おいらの子だが、庄公は感心者だ。どこへ出しても恥かしくねえ、なんと立派なもんじゃあねえか、なあ婆さん。﹂
﹁だからさ、庄太ひとりを柱と頼んで、末をたのしみにこつこつやって行けばいいんだよ。なにもぐずぐず言うことはないじゃないか――ほんとに、よく飽きずに吹くねえ。屋根を持ってかれやしないかしら。﹂
庄太郎が、小さく叫んで、腰を浮かした。
﹁あ、来たようだぜ、誰か――久住さんに違えねえ。﹂
石のあいだを縫って、跫音が、近づいて来ていた。建付けのわるい土間の戸が、外部から軋きしんで開いた。
﹁皆さん、御在宿かな?﹂
番小屋を訪れるにしては、しかつめらしい声だ。しかも、武家の語こと調ばつきなのである。
﹁久住さんだ――。﹂
惣平次が、そそくさと起って、迎えに出た。おこうは手早く縫いものを片付けて、庄太郎が、炉の火に、焚たき木ぎを加えているうちに、風といっしょに久住希き十郎がはいってきて、戸口で、惣平次と挨拶を済ますと、色の変った黒羽二重の裾を鳴らして六畳へ上って来ながら、
﹁いや、吹くわ。吹くわ。それに、墨を流したような闇黒じゃ――こんな晩にお邪魔に上らんでも、と、大分これでも二の足を踏みましたが、またしばらく江戸を明けるでな、思いきって、出かけて来ましたわい。おう、おう燃えとる。ありがたい。戸外は、寒うての。﹂
久住は、大小を脱とって傍へ置くと、きちんと炉ばたにすわって、手をかざした。
そして、激しく咳き入った。
二
この、水戸様の石揚場で、﹁お石場番所﹂を預かっているおやじ、惣平次夫婦は、若いころ江戸へ出て来たが、九州豊ぶん後ごの国、笹の関港の生れである。
笹の関は、中川修理太夫の領内で、したがって、藩士の久住希十郎とは、故くに郷も許とからの相みし識りだった。もっとも、しりあいといったところで、身分が違う。惣平次は漁師上りで、久住は侍――が、しかし、これも、怪しいさむらいだった。笹の関からすこし離れた焼やい津づの浜に、中川藩のお舟蔵があって、久住はそこのお荷方下見廻りという役の木っ葉武士なのだ。しじゅう船に乗って、豊後水道を上ったり下ったり、時には遠く朝鮮、琉球まで押し渡ったりする。これは、名は貿易だが、体のいい官許の海賊で、希十郎は、まず、その海賊船隊の小頭格だ。からだが明あくと、休養かたがた江戸見物に呼ばれて来て、何カ月もぶらぶらしている。そうかと思うと、ふっと、帰か国えされて、また焼津の浜から船へ乗り込んで、どこへとも知らず錨を上げる。
海で育った惣平次とは、話が合うのだった。
今度は、わりに長く江戸にとどまっていて、神田筋すじ違かい御ごも門んぎわの修理太夫の下屋敷から、こうして三日に上げず、この惣平次の番所へ遊びに来るのである。
いつも親子三人を前に、いろいろ話しこんで行く。海の冒険談、そういったものが主で、江戸育ちの庄太郎には、珍しかった。
それが、急に、もうじき豊後へ帰か郷えることになったというので、庄太郎は、名残り惜しそうに、
﹁また海へお出になるのでございましょうね。このたびは、どちらへ? 唐から天てん竺じくでございますか。それとも、南なん蛮ばんとやら――。﹂
﹁いや、﹂久住は、首を傾げて、﹁南蛮まで伸のすことはござらぬが、しかし、それもわからぬ。どこへ参るのやら、船出した後までも、われわれ下役には、御沙汰のないのが常でな、とんと見当がつき申さぬよ。﹂
木の瘤こぶのような肩と、油気のない髪をゆすぶって、いつまでも哄笑がひびいた。
潮焼けしたとでもいうのか、恐ろしい赤毛である。身せ長いが高くて、板のような胸だ。そして、茶色の顔に、眼がまた、不思議に赤い。交つき際あっていて、見慣れているから、惣平次一家の者は平気だが、誰でもはじめて会う人をちょっとぎょっとさせる、うす気味のわるい人間だった。が、気は、至極いい。穏おと和なしいのである。
風が、いきおいを増した。
おこうが、あり合わせの物に、燗をつけて出すと、久住は、惣平次と酒さか盃ずきをかわしながら、その、風のうなりに耳を傾けて、暗夜の海上――帆音を思い出すような眼つきをした。
例によって座はな談しが弾んで、久住の口から、遠い国々の港みなとの風景、荒くれた男たち、略奪、疫病、変った人々の生活ぶり、などが物語られる。
尽きない。
﹁なにしろ、二十年も、焼津船にお乗りになっていなさるのだからな。﹂惣平次が、おこうをかえり見た。
﹁はじめてお舟蔵へ上られたころから、存じあげているのだが、いまの庄公より年下の二十歳の少こど年も衆だったよ。﹂
﹁まあ、それにしても、よく御無事でおっとめなすって――。﹂
母親のことばを、庄太は、そばから奪うように、
﹁おいらも、琉球へ行ってみてえな。ぶらっと見物して来るんだ。﹂
﹁話に聞けば、面白い土地のように思われるかもしれんが、なに、江戸に勝るところはござらぬよ。﹂
久住は、さかずきを置いて、にわかに酒が苦くなったように、ちょっと眉を寄せた。
何か思い出して、惣平次が、膝を進めた。
﹁お? そう言えば、いつかちょっとお話しなすった竜の手――竜りん手じゅ様さまとか、あれはいったいどういうことでござります。﹂
﹁竜の手、か。いや、何でもござらぬ。﹂
顔の前で手を振って、炉のけむりを避けながら、
﹁何でもござらぬ。﹂
繰り返した。
おこうが、好もの奇ず気きに、
﹁竜の手――? 何でございます。﹂
﹁まあ、いわば手品――手品でもないが、切きり支した丹んの魔術とでも呼ぶべきものでござろうな。しかし、切支丹ではない。﹂
聞手の三人は、乗り出して、久住の顔を見た。黙って、久住は、杯を取り上げた。空からなのを気がつかずに、口へ持って行って、また、黙って下へ置いた。
惣平次が、銚子を取り上げて、満たした。
﹁見たところは――。﹂
と、言って、久住は、ふところへ手を入れた。
﹁ただの、細長い、魚の鰭ひれのようなものでな、ま、こんな、こちこちの乾ひも物のじゃ。﹂
何か取り出して、親子の眼の前へさし出した。おこうは、ぎょっとして、気味悪そうに反ったが、庄太郎が受け取って、掌の上で転がして凝み視つめた。
﹁これがその竜の手――竜手さまですかい。﹂
惣平次が、息子の手から取って、
﹁何の変哲もねえように見えるが、どういうんでございますね。﹂
とみこうみして、火から遠い畳の上へ、置いた。
久住の、すこし嗄かれた太い声が、言っていた。
﹁琉あち球らの、古い昔の聖ひじ人りの息が、この竜の手にかかっておりますんじゃ。先ざきのことまで、ずんと見通しのきく、世にも偉い御仁であったと申す。そのお方は、人の生命を司る運さだ命めと、宿縁をないがしろにする者のかなしみとを、後代のものに示さんとおぼし召されて、これなる竜の手をお遺しなされた。三人の別べつの人間が、それぞれ三つの願望を祈って、それを、この竜手様が即座にかなえて下さるようになっておる。﹂
久住の様子が、いかにも真面目なので、三人は、笑えなかった。
口のまわりを硬張らせて、くすぐったそうな表情をした。
真剣を装って、庄太郎が訊いた。
﹁竜の手って、ほんとに、あの、竜の手なんですかい。﹂
﹁さよう。竜手様は、竜の手でござる。﹂
﹁竜に、手があるかなあ――。﹂
久住は、答えなかった。
庄太郎は、露骨に、冷ひ笑やかすような口調を帯びて、
﹁一人につき三つだけ、何でも願いごとをかなえて下さる。ふん、どうです。旦那は、何か三つ、お願いにならねえんですかい。﹂
三
たしなめるような眼で、庄太郎を見据えた久住は、
﹁いかにもわしは、わしの分を、三つだけお願い申した――そして、かなえられました。﹂
重々しく答えて、白い額ひた部いになった。
﹁ほんとに、三つお願いになって、三つとも、聞き入れられたのでござりますか。﹂
﹁さよう。﹂
﹁ほかに誰か、願った人は――。﹂
﹁拙者の以ま前えに持っておった者が、やはり三つの願をかけて、それも三つとも応かなったとか聞き及んでおるが――。﹂
風が、渡って、沈黙のあいだをつないだ。大川の水音が、壁のすぐ向うに、聞えていた。
﹁ふうむ。﹂惣平次は腕を組んで、﹁三つしか願えぬなら、旦那には、もう用のない品でござりますな。いかがでございましょう。わたくしめに、お譲り下さりませんでしょうか。﹂
久住は、その、不思議な形をした、牛ごぼ蒡うとも見える、魚の乾物のようなものを、しばらく、指で挾んでぶら下げて、何かしきりに考えていたが、いきなり、ぽいと、火の中へ抛ほうり込んで、
﹁焼いたがいい。﹂
あわてた惣平次が、
﹁お捨てになるなら、いただいておきましょう。﹂
手で、素早く掴んで、じぶんの膝へ投げ取ると、久住は、じっと深い眼をして、その惣平次と竜手様を見較べながら、
﹁わしは、もういらぬ。が、あんたも、お取りなさらぬがいい。悪いことは、言わぬ。お焼きなされ。﹂
﹁願いごとをするには、どうすればよろしいので――。﹂
惣平次が、訊いた。
﹁竜手様を、右手に、高く捧げて、大声に願を唱となえるのじゃ――が、言うておきますぞ。どんなことがあっても、拙者は、知らん。﹂
もう一度、調べるように、手の竜手様を眺めている惣平次へ、久住は、つづけて、
﹁願うなら、何か尋常な、分ぶん相そう応おうのことを願いなさるがいい。くれぐれも、滅茶を願うてはなりませぬぞ。﹂
﹁お大名になりたいなどと――。﹂
親子三人は、声を合わせて笑ったが、久住は、苦渋な顔で、自じざ在いか鉤ぎの鉄瓶から、徳利を掴み出して、じぶんで注いだ。
明朝早く出発して、豊後への帰国の途につく――そういって、大小をうしろ気味に差した久住は、いつもよりすこし早めに、風に抗さからってかえって行った。
送り出して、三人が炉ばたへ帰ると、
﹁父ちゃん!﹂庄太郎が、にやにやして、﹁いいものが手に入ったぜ。さあ、これからおいらの家は、金持ちになる。おいらなんか、お絹かいこぐるみで、あっはっはっは――。﹂
大の字に引っくり返って、爆わ笑らった。
﹁竜手様さまと来らあ! 竜の手だとよ、うふっ、利いた風なことを言っても、田舎ざむれえなんて、下らねえ物を持ち廻りやがって白こ痴けなもんだなあ。﹂
惣平次は、懐中の竜手さまを取り出して、しげしげと見てみたが、
﹁こうっ、と。おいらは、何を願うべえかな。﹂
ふざけ半分の、わざと真面目な顔で、おこうを見た。
庄太郎﹇#﹁庄太郎﹂は底本では﹁床太郎﹂﹈が、代って、
﹁百両!――父、百両の現げん金なまを祈りねえ。﹂
惣平次は、照れたように微笑って、その、竜の手という、汚ない乾物のようなものを、右手に高くさし上げた。
そして、おこうと庄太郎が、急に、謹んだような顔を並べている前で、大声に、呶鳴った。
﹁竜手様へ、なにとぞわしに、百両の金を下せえまし。お願え申しやす――。﹂
言い終らぬうちに、惣平次は、竜手様を投げ捨てて、躍り上って叫んだ。
﹁わあっ! 動いた! うごいた! 竜手様が動いた!﹂
びっくり駈け寄った妻と息子へ、蒼くなった顔を向けて、
﹁おい、動いたぜ、おれの手の中で。﹂
と、不気味げに、自分の手から、畳に転がっている竜手様へ、眼を落した。
﹁おれが願え事を唱えると、蛇みてえに曲って、手に巻きつこうとしたんだ。﹂
﹁だが、父、百両の金は、まだ湧いて来ねえじゃねえか。﹂庄太郎は、どこまでも嘲笑的に、﹁へん、こんなこって百両儲かりゃあ、世の中に貧乏するやつあねえや。畳の隙からでも、小判がぞろぞろ這い出すところを、見てえもんだ。竜の手などと、人を喰ってるにもほどがあらあ。﹂
﹁気のせいですよ、お爺さん。そんなからからの乾ものが、ひとりで動くわけがないじゃありませんか。﹂
﹁まま、いいや。﹂惣平次は、口びるまで白くしていた。﹁動くわけのねえ物がうごいたんで、ちょいとびっくりしたんだ。おいらの気のせいってことにしておくべえ。﹂
夜が更けて、狭い家のなかに、斬るような寒気が、迫って来ていた。烈風は、いっそう速度をあつめて、戸外に積み上げた石を撫でる柳やな枝ぎの音が、遠浪の崩れるように、おどろおどろしく聞えていた。
三人は、消えかかった炉の火を囲んで、しばらく黙りこくっていたが、やがて、日常の家事のはなしになって竜りん手じゅ様さまのことは、忘れるともなく、忘れた。
要するに、一時の座興である。
寝につくことになって、老夫婦は、二階へ上る。庄太郎は、階下の炉ばたに、自分の床を敷き出す。
竜手様は、部屋の隅の、茶箪笥の上へ置いて。
野やえ猿んば梯し子ごを上って行く惣平次へ、庄太郎﹇#﹁庄太郎﹂は底本では﹁床太郎﹂﹈が、またからかい半分に、
﹁父よ、おめえの床ん中に、百両の金が温まってるだろうぜ、ははははは。﹂
惣平次は、妙にむっつりして、にこりともせず二階へ消えた。
四
日光が、風を払って、翌朝は、けろりとした快晴だった。
藍あい甕がめをぶちまけたような大川の水が、とろっと淀んで、羽は毛ねのような微風と、櫓音と、人を呼ぶ声とが、川面を刷いていた。
お石場にも、朝から、陽がかんかん照りつけて、捨て置きの切り石の影は、むらさきだった。
雑草が、土のにおいに噎むせんで、春のあし音は、江戸のどこにでもあった。
そんな日だった。
前夜の、理由のない恐怖と妖異感は、陽光が溶かし去っていた。階下の茶箪笥の上の竜手様は、金いろの朝日のなかで、むしろ滑稽に見えた。
手垢と埃ご塵みによごれて、小さく固まっている竜の手――忘れられて、馬鹿ばかしく、ごろっと転がっていた。
朝飯の食卓だった。
庄太郎は、この一つ目からすぐ傍の、弥みろ勒く寺じまえ、五間堀の逸へん見み若狭守様のお上屋敷へ、屋根の葺きかえに雇われていて、きょうは、仕上げの日だ。急ぐので、中腰に、飯をかっこんでいた。
おこうが、味噌汁をよそいながら、
﹁つぎの仕事は、もう当りがおつきかえ。﹂
﹁親方のほうに、話して来ているようだ。﹂
惣平次も、口いっぱいの飯の中から、
﹁庄公はまだ、瓦職とは言っても、下から瓦を運ぶ組だろう。なかなか屋根へは上げてくれめえ。もっとも、高えところへ上って、瓦を置くようになりゃあ一人前だが――。﹂
﹁冗談いっちゃあいけねえ。今度の仕事から、どんどん上へあがって、瓦を並べていらあ。おらあ何だとよ、手筋がいいとよ。親方が、そ言ってた。﹂
﹁そうか。この野郎、そいつあ鼻が高えぞ。しかし職人の中で、この瓦職なんざあ豪気なもんよな。殿様が下をお通りになっても、こう、上から見おろして――まったく、家のてっぺんの仕事だからな。床柱を削る大でえ工くといっしょに、昔から、まず、諸職の上座に置かれてらあ。﹂
惣平次が、おこうを見ると、おこうは、誇らし気な眼を、庄太郎へやった。
﹁うんにゃ、おいらなんざあ、駈け出しだから――。﹂
庄太郎は、得意に、微笑して、丈夫な音を立てて沢庵を噛んでいた。
おこうが、惣平次に、
﹁十日ばかり、ぱっとしない日が続いたねえ。お洗濯がたまって、大おお事ごとだよ。﹂
﹁手隙を見て、おれが乾してやろう。﹂
もう起ち上って、庄太郎は、法はっ被ぴに袖を通した。突っかけ草履で、土間を戸口へ、
﹁父ちゃんは、今日は、暇かえ。﹂
﹁ひまでもねえが、この二、三日、お石舟のお触れもねえから、揚げ石もあるめえと思うのだよ。﹂
﹁まあ、石場で、日向ぼっこでもしていなせえ。晩、帰りに、安あ房わ屋やの煮豆でもぶら提げて来らあ。﹂
思い出して、おこうが言った。
﹁ゆうべのように風の強い晩などは、なんでもないようでも、やっぱり、心持ちがどうかしているとみえるねえ。馬鹿らしいことを、ちょっと真に受けたりして――。﹂
惣平次が、訊いた。
﹁何だ。﹂
﹁竜の手さ。竜手さま、とか――。﹂
﹁あはははは、おらあ、すっかり忘れていた。﹂茶箪笥を振り返って、﹁百両、百両――。﹂
﹁そうだ。﹂庄太郎も、半分戸ぐちを出ながら、﹁昨よん夜べの百両は、まだ授からねえじゃねえか。今にも、ばらばらっ! と、こう、天から降って来るかもしれねえぜ。﹂
妻と息子と、二人にひやかされて、惣平次は、人のよさそうな微わら笑いを笑った。
﹁だが、この天気だ、久住さんも、およろこびで早はや発だ足ちなすったろう――百両か。なあに、おらあその内に、ひょっこり浮いて出ると思ってる。なるほどというような廻り合わせで、手に入るんだ。それに違えねえ。﹂
と、また、竜手様へ視線を向けると、庄太郎は、
﹁ははははは、そのことよ。気長に待ちねえ。じゃ、行って来るぜ。﹂
踊るように弾む若いからだが、石場を通り抜けて、一つ目橋の袂から、往来へ出て行った。
おこうは食事のあと片付け、それから、家の中のこまごました女の仕事に、取りかかる。ひとまわりお石場を掃いて来て、惣平次は、陽の射し込む土間に足を投げ出して、手網の繕つくろいだ。
白まひ昼るの一刻一ときが、寂しい然んと沈んで、経ってゆく。
もうあの、竜手様のことなど、老夫婦のあたまのどこにもなかった。
庄太郎は、弁当を持って行って、午ひ飯るには帰らない。
正午だ。惣平次とおこうが、さし向かいで、茶漬けを流し込む。
食休みに、雑談になって、おこうが、
﹁お前さんどう考えているか知らないけれど、庄太郎に、もうそろそろねえ――。﹂
﹁嫁の心配かえ。﹂
﹁早すぎるってことはありませんよ。心掛けておかなければ、ほかのことと違って、こればかりは、急に、おいそれとは、ねえ。﹂
﹁そうだ――しかし、早えもんだなあ。昨日蜻とん蛉ぼを釣っていたように思う庄公が、もう嫁のなんのと、そのうちに初孫だ。婆さん、めでてえが、おれたちも、年齢を取ったなあ。﹂
﹁ほんとにねえ。それにつけても、庄太郎は働き者だけに、いっそう早く身を固めてやったほうがよくはないかと、わたしゃ思いますよ――おや! なんでしょう?﹂
突然、石場を飛んで来る二、三人の乱れた跫音が、耳を打った。
ふり向く間もなかった。
開け放しの土間ぐちを、人影が埋めて、走りつづけて来たらしく、迫った呼吸が、家じゅうにひびいた。
庄太郎の親方の、瓦長、瓦師長五郎と、二、三人の弟子だ。うしろから、用人らしい老人の侍が割り込んで来ようとしていた。
呑みかけの茶碗をほうり出して、惣平次は、突っ立った。おこうも、上り框がまちへいざり出て、
﹁何でござります、何事が起りました。﹂
長五郎は、鉢巻を脱って、ぐいと額の汗を拭いながら、やっと、声を調ととのえた。
﹁何とも、誰の粗そそ相うでもねえんで――運でごわす。﹂
惣平次夫婦は、唾を飲んで、奇妙に無関心に、黙っていた。
弟子の一人が、興奮した声だ。
﹁おらあ見ていたんだが、足が辷って、真っ逆さまに落ちたもんだ。下にまた、間の悪いことにゃあ、こんなでっけえ飛石が――。﹂
おこうの眼が、一時に上うわ吊づった。
﹁あの、庄公が――庄太が――!﹂
﹁お気の毒で――、﹂長五郎は、ぴょこりと頭を下げた。﹁何と言ったらいいか、挨拶が出ねえ――。﹂
膝が折れて、惣平次は、がたがたと、そこの履物を掴んだ。
押し退けて、駈け出そうとした。
長五郎の背後から出て来た侍が、前に立った。
﹁察する、が、取り乱してはならぬ。これ、取り乱してはならぬ!﹂
﹁大怪我、大怪我、でござりますか、庄公は。﹂
﹁うむ。まず、怪我は大きい。﹂
惣平次の両手が、侍の袴を掻いた。
﹁苦しんで、おりますか、苦しんで。﹂
﹁苦しんでは、おらぬ。﹂
﹁ああよかった。それでは、たいしたことはないので――。﹂
﹁もう、苦しんではおらぬ。﹂静かに、﹁極楽――。﹂
﹁ははあ――。﹂と、意味が、はっきり頭へ来ると、惣平次は、上り口に腰をおろした。宙を見詰めたまま、そっと、老妻の手を取った。
ふと、長いしずけさが落ちた。
﹁ひとり息子でした。﹂惣平次の口唇が、動いた。﹁孝行者で――。﹂
誰も、何とも言わなかった。
侍が、咳をして、
﹁わしは、逸見家の用人だが、屋敷の仕事中に亡くなったのじゃからと、上かみより、特別の思召しをもって、破格の葬とむ金らいきんを下し置かれる。その使いにまいった。﹂
おこうと惣平次は、ぽかんと顔を見合っていた。
﹁一職人に対して、前例のないことじゃが、﹂用人は、つづけて、﹁百両の香こう奠でん、ありがたくお受けしまするように。﹂
﹁え?﹂
惣平次が、訊き返した。
﹁爺とっつぁん、百両だ。百両――。﹂
長五郎が口を添えると、
﹁百両! ううむ、百両、か。﹂
と、呻いて、突如、真っ黒な恐怖が、むずと惣平次を掴んだ。
咽喉の裂けるようなおこうの叫びが、惣平次には、聞えなかった。かれは、気を失って、ぐったりと円く、土間へ崩れた。
五
水戸様お石場番所の番人の倅で、瓦職の庄太郎というのが、仕事先の、逸見若狭守お屋敷の屋根から、誤って滑り落ちて、飛び石で頭あた蓋まを砕いて死んだ――それはそれとして、その陰に、こんな面めん妖ような話がある。
――と、風のように聞き込んだ八丁堀合点長屋の岡っ引釘抜藤吉が、乾児の勘弁勘次にも葬式彦兵衛にも告げずに、たった一人で、その、本所一つ目の、岬のようになっているお石揚場の一軒家へ出かけて行ったのは、ちょうど、庄太郎の初七日の晩だった。
いかにも、奇体な話だ。
ただ、直接老夫婦の口から、詳しく聴いておきたいと、そう思ってやって来た藤吉だったが、
﹁御免なさい。あっしは、八丁堀の者ですが――。﹂
戸を開けるとすぐ、異妖に悲痛な気持ちに打たれて、藤吉は、声を呑んでしまった。
あの晩と同じに、炉に火が燃えて、煙の向うから、別人のように窶やつれた惣平次が、
﹁八丁堀のお方が、何しにお見えなすった。﹂
虚うつろな、咎めるような口調だ。
﹁じつあ、ちょいと、見せてもらいてえ物がありやしてね。その――。﹂
竜の手、とは言わなかったが、老人は、すぐそれと感づいたに違いない。嫌な顔をして、黙った。
藤吉は、構わず、上り込んで、部屋の隅の壁に凭もたれて、坐った。
仏壇に、新しい白木の位牌が飾ってある。燈明の灯が、隙間風に、横に長かった。
惣平次とおこうは、炉を挾んで対坐したまま、黙して、石のように動かない。勝手に上り込んで、影のように壁ぎわに腕を組んでいる、見慣れない、不思議な客――いや、その藤吉親分を、ふしぎな客と感ずるよりも、藤吉の存在それ自身が、二人の意識に入っていないらしいのだ。
﹁あの部屋で、三人じっと無だん言まりでいた時ほど、凄いと思ったことはねえよ。﹂
後で藤吉が、述懐した。
本所の南、五本松の浄じょ巌うが寺んじに、庄太郎の遺なき骸がらを埋めて、今は陰か影げと静寂の深い家に、老夫婦は、こうして、ぼんやりすわって来たのだった。
あんまり急な出来事なので、庄太郎の死を、現実に受け取ることは、なかなかできなかった。いまにも、あの元気な顔で、最後の朝、出がけに言ったように、安房屋の煮豆でも提げて、ぶらぶら帰か宅えって来そうな気がしてならない。
とにかく、これでお終しまいという法はない。これで、すべてがおわったのでは、自分たちの老いた心に、あまりにも残酷すぎる。こんなはずはないのだ――ふたりは、そう信じきっているようだった。今に、何かきっと、いいことが起る。なにもかも、とど笑いばなしになるような、素晴らしい突発事が、近く待っていなければならない。
そして、庄公は帰か宅えってくる。必ず、にこにこ笑って、かえってくる!
と、固く、思いこんでいるようすなのだ。
が、日を経るにつれて、この、考えてみると根より拠どころのない期待は、薄らぐ一方だった。万もし一やの儚はかない希望が、しんしんと心を刻む痛さ、寒さに、置き代えられて来た。
おこうも惣平次も、言葉を交さなかった。口をきかなかった。何も、いうことを有たないのだった。日が、長かった。夜は、もっと長かった。
やがて、初七日の今夜だった。
通夜をするような心持ちで、壁を背に、じっと坐している藤吉に、細い、低い、押し潰れた声が、聞えて来た。
また、おこうが、涕すすり泣いているのだった。
﹁寒い。二階へ上って、寝ろよ。﹂
惣平次が、言った。
﹁つめたい石の下で、庄坊こそ、どんなに寒いことか――。﹂
おこうは、こう言って、泣き声を新たにした。が、すぐに止んで、藤吉の見ているまえで、おこうの小さなからだが、すうっと伸びて起った。
﹁手じゃ!﹂人間の声らしくない声なのだ。﹁竜の手じゃ! ほれ、ほれ、竜手様――。﹂
藤吉よりも、惣平次が、慄ぞ然っとしたらしかった。
﹁どこに、どこに竜りん手じゅさまが――おこう、どうした。﹂
炉を廻って、老おっ夫との前へ進んで、
﹁貸して下さいよ、竜手様を。﹂おこうは、もう平静にかえっていた。﹁棄てやしますまいね。﹂
﹁押入れの奥に、投げ込んである。なぜだ。どうするんだ。﹂
泣き笑いが、おこうの全身を走り過ぎると、ふっと彼女は、不自然な、真面目な顔だった。
﹁思いついたことが、あるんですよ。なぜ早く、気がつかなかったろう――お前さんも、ぼんやりしてるじゃないか。嫌だよ、ちょいと!﹂
急に、若やいだ態度で、おこうは、娘のように、甘えた手を振り上げて、打つ真似をした。ぎょっとして、惣平次が、一歩退った。
﹁何を、なにを思いついたと――。﹂
﹁あれ、もう二つの願いさ。三つ叶えてもらえるんだろう? あと二つ残ってるじゃあないか。﹂
﹁竜手様のことか。馬鹿な! 止せ! あの一つで、おれは、おれは――もうたくさんだ。﹂
﹁そうじゃないんだよ。わからない人だねえ。﹂
おこうは、奇怪に、少女めいた声音になって、しなだれかかるように、
﹁もう一つだけ、願ってみようよ。よう、もう一つだけさ。はやく、竜手様をお出し! さ、庄公が、今すぐ立派に生き返りますようにって、ね、願うんですよ。﹂
暗い隅から、藤吉は、光った眼を上げて、固かた唾ずを呑んだ。
ひっそりと、沈黙がつづいた。
﹁何をいう――気でも違ったのか。﹂
﹁お出し! 竜手様をお出しってば! しっかり、お願いするんだよ。たった今、庄太郎が生きかえって来ますように――。﹂
惣平次は、手を、妻の肩へやって、優しく、
﹁寝な。な、寝なよ、二階へ上って、よ。﹂
おこうが、激しく振り切って、老夫婦は、二人でよろめいた。
﹁おこう、お前は、どうかしているな。﹂
﹁どうもしてやしませんよ。初めの願いが叶ったのだから、二番目の願いも、聞き届けられるにきまってるじゃないか。竜手さまを持っておいでというのに、どうして持って来ない。ようし! どうあっても、願わないか。﹂
眼が、血走って来た。白髪が、顫ふるえて、顔へかかった。
はじめて気がついたように、ちらと藤吉を見て、惣平次は、平らな声を出そうとつとめた。
﹁いいか。死んでから、何日経ったと思う――。﹂
﹁お願いするんだよ。竜手様へお願いするんだよ。なぜ願わないか。﹂
おこうは、惣平次へ武者振りついて、異常な力で、押入れのほうへ引きずった。
二人の影が、もつれて、天井に、壁に、大きく拡がって、揺れた。
老いた人々の、痩やせ脛ずねも、肋あば骨らも、露わにしての抗あら争そいは、見ている藤吉に、地獄――という言葉を想わせた。
﹁惣平! 出せ! 出して、願うんだ。﹂
思わず出た、藤吉の声だった。
六
偶然ではあろう。竜手様という、竜の手が、海蛇の乾物か、とにかく、伝説的な品ものを手に入れて、それに、いたずら半分の試しごころから、百両の金を祈った翌日、ちょっとした自分の不注意で、庄太郎があんなことになったのは、つまり、そういう巡り合わせだったのだろう。
その逸見家の香奠が、百両だったばっかりに、ちょうど、この願いが届くために、百両のかたに庄太郎の生命を奪られたようなことになって、そこに、言いようのない怪異が生じるものの、所詮は、偶然――すべてが、再び、そういう廻りあわせだったのだ、と、藤吉は、信じたかった。
不可思議――どうしても、人間の力で説明がつかないなどということは、この人間の世の中に、あり得ない。
一見、まことに不可思議な事件であっても、それはみな、一言の下に明かにすることができる――﹁偶然事﹂という簡単な言語で。
否、不可思議な出来事であれば、あるほど、その連鎖に、偶然の力が色濃く働いていて、いっそう解決は容易なのである。
釘抜藤吉は、漠ぼん然やりとだが、いつも、こんなようなことを考えていた。岡っ引藤吉の、岡っ引らしい、これが、唯一の持論だったと言っていい。
が、この竜手様の一件だけは、その最後まで考え合わせると、ただ単なる偶然として、片づけ去ることのできないものがあるように、思われてならない。
﹁薄っ気味の悪い不思議だて――。﹂後あとまで、藤吉はよくこう呟いて、首を捻ったと言う。不思議ということばを、釘抜藤吉は、はじめて口にしたのだった。
偶然を、藤吉親分は、巡り合わせと呼んでいたが、そのめぐりあわせだけでは説き得ない、割りきれないものが、藤か吉れの心に残ったに相違なかった。
惣平次は、しなだれて、押入れを開けた。奥へ這い込むようにして、しばらく押入れ中ごそごそ言わせていたが、やがて、発み見つけ出した竜手様を、汚なそうに、怖ろしそうに、指さきに挾んで、腰を伸ばした。
額部が、汗に冷たく、盲目のように、空に両手を泳がせて、部屋の真ん中に立った。
おこうの顔も、米のように、白く変っていた。いま何よりも惣平次の恐れている、いつものおこうのようでない表情が、眉から眼の間に漂って、すっかり、相違いがしていた。
﹁願いなさい!﹂
強い声だ。おこうが、命令したのだ。藤吉もわれ知らず起って、炉の火の投げる光ひか野りのなかへ、はいって来ていた。
﹁ばかばかしい――。﹂
惣平次が、呻くと、おこうは、蒼白く笑って、
﹁お前さんこそ、そのばかばかしいことで、庄太郎を殺したんじゃないか。お前さんが、百両の代に殺した庄吉を、生き返らせるんですよ。さ、願いなさい!﹂
竜手様を持った惣平次の右め手てが、高く上がった。
﹁どうぞ、庄太郎が生きかえって来ますように――。﹂
﹁今すぐ!﹂
﹁今すぐ!﹂
竜手様は、畳へ落ちて、小さくもんどりを打った。それを見つめながら、惣平次も、気が抜けたように、べたんと坐っていた。
おこうは、異様に燃える眼を、土間の戸口へ据えて、男のように、立ちはだかったままだった。
三人を包んで、深夜の静しじ寂まが、ひしめいた。
つと、おこうが、しっかりした足取りで、部屋を横切った。そして、石場に面した連れん子じま窓どの雨戸を開けて、戸そ外とに見入った。
湿った闇黒が、音を立てて流れ込んで来て、藤吉は、屋棟を過ぎる風の音を、聞いた。
いつの間にか、黒い風が出ていた。
七日前の晩と同じ、ひどい烈か風ぜだ。大川の水が、石場の岸に白く泡立っていた。柳が、枝を振り乱して、陰惨な夜景である。この番所の一軒家は、突風に踏みこたえて、戸障子が、悲鳴を揚げているのだ。斬られるような、寒気だ。それが、河風に乗って迫って来た。積み石を撫でる柳枝の音が、遠浪のように、おどろおどろしく耳を噛んだ。おこうは窓のまえを動かない。
冷えた肩を硬張らせた惣平次は、その、老つ妻まの背うし後ろすがたに眼を凝らして、ちょこなんと、坐ったきりだ。
諦めたらしく、おこうが窓を締めて、炉ばたへ引っ返そうとした時である。
野猿梯子が、ぎしと軋きしんで、つづいて、壁の中を掠めて、鼠が騒いだ。行燈の油が足りなくなったのか、圧迫的なうす暗がりが、四隅から、絞ってきていた。
戸を、そとから叩く音がするのだ。三人の顔が、合った。いっしょに、戸のほうを向いて、おこうが、
﹁何でしょう――。﹂
惣平次は、ちら、ちらと、藤吉へ眼を走らせて、
﹁鼠だ。﹂
戸を叩く音が、高くなった。
﹁庄太郎です! 庄公が来た、おう! 庄公が来た。﹂
おこうが、叫んで、跣はだ足しで、土間へ駈け下りた。
﹁おうお、庄太かい。いま開けるよ。今あけるよ。﹂
割れるように戸を叩く音が、家じゅうに響いた。すると、惣平次は、その怪しい場面が、たまらなくなって来たのだ。頭部を砕いた庄太郎が、墓へ埋めたままの姿で、いまここへはいって来ようとしている、竜手様に呼ばれて――。惣平次は、わが子ながら、その妖怪庄太郎の帰宅が、恨めしかった。厭わしかった。入れてはならない。そんな気がして、また、藤吉を見やると、藤吉の視線も、いつになく戦おののいて、同じ意味を返か事えして来た。
おこうの手が、戸にかかって、がたぴし開こうとしている。そとに立って、戸を叩いている﹁物﹂の、白い着衣――経きょ帷うか子たびらが風にひらひらして、見えるのだ。惣平次は、一直線に土間へ跳んで、おこうを押し退けようとした。が、おこうが、﹁何をするの! 寒いお墓から来たんじゃないか。五本松の浄巌寺から――庄太郎なんだよ! 庄太が来てるんですよ!﹂
戸にしがみついて、また、一、二寸引き開けた。同時に、どんと一つ、戸外から、大きく戸が叩かれた。
戸は、開こうとしている。惣平次は、六畳を這い廻って、手探りに、竜手様を捜しているのだ。戸が開くまでに、右手に握りさえすれば――あった! 戸が、あいた。
﹁さあさ、庄太郎や、おはいり、寒かったろうねえ。﹂
このおこうの声を消して、惣平次が、竜手様をかざして、三つめの、最後の願いを呶鳴った。
﹁庄太が元の墓場へ帰りますようにッ!﹂
藤吉は戸へ走って覗いたが、重い風が飛び込んで来て、炉の火を煽あおっただけで、そとには、誰もいなかった。