かげろふ断章

原民喜




昨日の雨






散歩


誰も居てはいけない
そして樹がなけらねば
さうでなけらねば
どうして私がこの寂しい心を
愛でられようか



遠くの路を人が時時通る
影は蟻のやうに小さい
私は蟻だと思つて眺める
幼い児が泣いた眼で見るやうに
それをぼんやり考へてゐる



何もしない
日は過ぎてゐる
あの山は
いつも遠いい


四月


起きもしない
外はまばゆい
何だか静かに
失はれてゆく


眺望


それは眺めるために
山にかかつてゐたが
はるか向うに家があるなど
考へてゐると
もう消えてしまつたまつ白のうす雲だ


遅春


まどろんでゐると
屋根に葉が揺れてゐた
その音は微けく
もう考へるすべもなかつた



みなぎれる空に
小鳥飛ぶ
さえざえと昼は明るく
鳥のみ動きて影はなし



愛でようとして
ためいきの交はる
ここの川辺は
茫としてゐる



川の水は流れてゐる
なんといふこともない
来てみれば
やがて
ひそかに帰りたくなる


小春日


樹はみどりだつた
坂の上は橙色だ
ほかに何があつたか
もう思ひ出さぬ
ただ いい気持で歩いてゐた


秋空


一すぢの坂は遙けく
その果てに見る空の青さ
坂の上に空が
秋空が遠いい


遠景


幼いのか
山はひらたい
ぼつちりと
陽が紅らんだ



こはれた景色に
夕ぐれはよい
色のない場末を
そよそよと歩けば


波紋


すべてはぼんやりとした
ぼんやりとして空も青い
水の上に波紋はかすか
すなほなる想ひに耽ける


愛憐


ひつそりと 枝にはじけつ
はじけつ
空に映れる
青める雪は


月夜


雲や霧が白い
ほの白い
路やそして家も
ところどころにある


淡景


淡い色の
たのしみか
そのままに
樹樹は並んだ


疲れ


雪のなかを歩いて来た
まつ白な路を見て
すやすやしながら
大そう うつかりしてゐた


京にて

 ――悼詩


眺めさせや
甍の霜
夢のごとおもひつつ
この霜のかくもしき


春望


つれづれに流れる雲は
美しさをまして行く
春陽の野山に
今日は来て遊んだ


旅懐


山水の後には
空がある
空は春のいたるところに
浅浅と残されてゐる



影こそ薄く
思ひは重し
霞のなかの山なれば
山に隠るる山なれば



ふと見し梢の
優しかる
みどり煙りぬ
ささやかに



私の一つ身がいとしい
雲もいとしい
時は過ぎず
うつうつと空にある


川の断章



川に似て
音もない
川のほとり
川のほとりの



空の色
寂び異なるか
水を映して
水にも映り



思ひは凍けて
川のひとすぢとなる



遠かれば
川は潜むか
流るるか
悠久として



現世うつしよの川に
つながるるもの
現世の川に
ながれゆくもの



ねむれるにあらずや

仄かにしたはしき海
たまきはる命をさなく
我はまことになべてを知り得ず


五月


遠いい朝が来た
ああ 緑はそよいでゐる
晴れ渡つた空を渡る風
なにしに今日はやつて来たのだ


白帆


あれはゆるい船だが
春風が麦をゆらがし
子供の目にはみんな眩しい
まつ白な帆が浮んでゐる


偶作


旅に来て
日輪の赤らむのを見た
朝は田家の霜に明けそめて
磯松原が澄んでゐる
一色につづく海が寒さうだ


春雨


雨は宵に入つてから
一層 静かであつた
床についてからは
降るさまがよく描かれた


冬晴


冬晴の昼の
青空の大きさ
電車通りを
疲れて歩く


春の昼


日向ぼこにあきて
家に帰らうとすると
庭石の冷たさがほろりとふれた
ひつそりとして障子が見える


四月


昼は浅いねむりのなかに
身を微かなものと思ひつつ
しばらくは鳥の音も聴かぬ
そよ風の吹く心地して


花見


桜の花のすきまに
青空を見る
すると ひんやりしてゐるのだ
花がこの世のものと思はれない


青葉


朝露はいま
滴り落ちてくる
いたづらに樹を眺めたとて
空の青葉は深深としてゐる


ねそびれて

 ――熊平武二に


障子がぼうと明るんでゐる
廊下に出て見給へ
あんな優しい光だが
どこか鋭い


昨日の雨


青くさはらはかぎりもない
空にきく雲雀の声は
やがて淋しい

うらうらと燃えいでる
昨日の雨よりもえいでる
陽炎が濃ゆく燃えいでる


卓上


牡丹の花
まさにその花
力なき眼に
うつりて居る


旅の雨


雨にぬれて霞んでゐる山の
山には山がつづいてゐる
真昼ではあるし
雨は一日降るだらう


青空


うつろにふかき
ながまなこ
ただきはみなくひろがりて
かなしむものをかなしくす


小曲


人に送る想ひにあらず
蓮の花浮べし池は
なみなみと水をたたへつ
小波と風のまにまに


冬の山なみ


けふ汽車に乗つて
山を見る
中国の山脈のさびしさ
都を離れて山を見る
山が山にかさなり
冬空はやさしきものなり
[#改ページ]

断章






藤の花


ひそかに藤の花が咲いて居り
あさ風に揺れて居り
露しとしとと
うすぐらいところに



山の上の空が
まつ青だ
雲が一つ浮んで
まつ青だ



菜の花のあたりに
蝶がひらひらして居る
菜の花は沢山ある
蝶はひらひらして居る



朝はとつくに来てゐた
雀ばかりが啼いてゐた
桜の花がにほつてゐた
空は青く晴れてゐた


夜の秋


きりきり虫が啼いてゐる
厨の土間で啼いてゐる
あまり間近くで啼いてゐる
きりきりきりと響くその声


朝の闇


目にただよひて朝の闇
しろがねいろの朝の闇
静かに聴けば から
からからからと 空車


虚愁


みどり輝く坂の上に
傷ましきかな 空の青
輝くものをいとはねど
空に消え入る鳥を見よ


菜花


川の流れのかたはらに
自らなる菜畑は
ひねもす青き空の下
明るき花を開きけり


波の音


今 新しく打ちかへす
はじめてききし波の音
打ちかへしては波の音
潮の香暗き枕辺に


冬苑


動けるものは凍らねど
凍らぬ水の光はや
石を滑りて流れゆく
かぐろき水の光はや


二月


叫びをあげよ 蕗の薹
囁きかはし降る雨の
闇を潤すいとなみに
叫びをあげよ蕗の薹


車窓


桃の花が満開で
小学生が二三人
朝の路にゐるんだ
けれども汽車はとまらない


師走


寒ざらしの空に
おころりおころりと軽気球が
たつた一つ浮んでゐる
そこから何が見えるのですか


六月


まだ半身は睡つてゐるのに
朝はからきし梅雨晴れだ
いいお天気になりました
ほんとにそれはさうである


不眠歌

夜耿耿而不寝兮
魂営営而至曙

(1)


眩しきものの照るなべに
夜のすがたぞおそろしき
青ざめはてし魂は
曙にして死ぬるべし


(2)


罪咎なれば堪へ得べし
こんこんこんこん あさぼらけ
米をとぐ音 きこえ来る
いかでか我は 睡らざる



五月の朝にこだまして
青物市に声はあり
並ぶ車はことごとく
山と積みたる青きもの
青物市に声はあり


晩春


うつつけものが鳥ならば
すういすういと泳ぐべし
けふやきのふやまたあすや
春惜しむ人や榎にかくれけり


五月


流るるごとき心地して
ひなげしの花を持ちてゐる
電車のなかの をみなごよ
朝目よく吹く微風に


冬の日


紅き焔の日輪の
けふはさびしや鼠色
葱買ふて
枯木のなかを帰りけり


夜想


(1)


昼を知つてゐて夜を知らぬか
見給へ 三田の午前一時は
何といふ鈴懸のすがすがしさだ
はきだめの上に露が明るし


(2)


雨を吸つて生きてゆく屋根
屋根は夜なかの舌である
その舌はかはききつて
一滴一滴と雨をのむ



窓を開けてくれたのは誰だ
空か お前であつたのか
崖のすすきはさうさうと
雲の流れに揺れてゐる


月夜


(1)


川の向ふは川か
向ふには何があるのか
空に月は高いし
水も岸も今は遙かだ


(2)


月の夜の水の面は
呼吸するたびに変る
たとへば霧となり
闇となり光となる


反歌


うつつより出づるものなるに
なぜにかげろひきらめける
春の夕べに目ざむれば
梢を渡る風さむし


回想


(1)


春風にただよつて来る
よもぎぐさのにほひにうたれて
紅茶のなかにミルク注げば
みだれみだれて溶けゆくおもひ


(2)


春の陽のバケツに映りて
天井に照りかへしてゆらゆら
ゆらゆらと床にゐて眺め
幼な児の想ふことを想ふ


 






1

 



2

 



3

 



4

 



5

 気違ひや不具などは見ただけで私を憎んで居るのがわかります。あんなへんてこな手つきで殺されると大変だから私は逃げるのです。


*編注――大正十五年九月、家庭内同人誌『沈丁花』一号掲載
[#改ページ]









 姿
 
 
 




 




 



漿


 




 






 




 




 




 辿辿
 





 
 
 



 
 
 
 





 



 



 
 




 

   

 湿宿

   

 






   2015277161
※(ローマ数字3、1-13-23)
   1978531130
 
   19241311
    
   192615
    
   192615
    
   1926151
    
   1926151
    
   1926151
   
   1951268
    
   1926153
    
   1926153
    
   1926155
    
   1926155
    
   1926159
    
   192726
    
   1926159
   稿
   1937121
   稿
   1937121
   
   1947227
   
   1936113
   
   1936115
   
   1956318

 


2021226

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