蘭学事始の原稿は素もとより杉田家に存して一本を秘蔵せしに、安政二年江戸大地震の火災に焼失して、医友又門下生の中にも曾かつて之これを謄とう写しゃせし者なく、千載の遺憾として唯ただ不幸を嘆ずるのみなりしが、旧幕府の末年に神田孝平氏が府下本郷通を散歩の折おり節ふし、偶たまたま聖堂裏の露店に最いと古びたる写本のあるを認め、手に取りて見れば紛まぎれもなき蘭学事始にして、然しかも斎いさい先生の親筆に係り、門人大おお槻つき磐ばん水すい先生に贈りたるものなり。神田氏の雀躍想おも見いみる可べし。直ただちに事の次第を学友同志輩に語り、孰いずれも皆先を争ふて写取り、俄にわかに数本の蘭学事始を得たる其その趣は、既に世に亡き人と思ひし朋友の再生に遭あふたるが如し。而しかして之を再生せしめたる恩人は神田氏にして、我わが輩はいの共に永く忘れざる所なり。書中の紀事は字々皆辛苦、就なか中んずく明和八年三月五日蘭化先生の宅にて始めてターフルアナトミアの書に打向ひ、艫ろか舵じなき船の大海に乗出せしが如く茫ぼう洋ようとして寄る可きなく唯あきれにあきれて居たる迄なり云々以下の一段に至りては、我々は之を読む毎に、先人の苦心を察し、其剛勇に驚き、其誠意誠心に感じ、感極きわまりて泣かざるはなし。迂うろ老うは故箕みつ作くり秋しゅ坪うへい氏と交際最も深かりしが、当時彼かの写本を得て両人対坐、毎度繰返しては之を読み、右の一段に至れば共に感涙に※むせ﹇#﹁口+憂﹂、U+5698、157-5﹈びて無むご言んに終るの常なりき。斯かくて一両年を過ぎ、世は王政維新の変乱と為なり、都下の学友輩も諸方に散じて、東西南北唯兵馬の沙汰を聞くのみ。此この時に当り迂老は江戸に住居し、独り目下の有様を見聞して、我国文運の命めい脈みゃく甚だ覚おぼ束つかなしと思ひ、明治元年のことなり、月日は忘れたり、小川町なる杉すぎ田たれ廉んけ卿い氏の宅を訪ひ、天下騒然復また文を語る者なし、然るに君が家の蘭学事始は我輩学者社会の宝書なり、今是これを失ふては後世子孫我洋学の歴史を知るに由よしなく、且かつは先人の千せん辛しん万ばん苦くして我々後進の為めにせられたる其偉業鴻こう恩おんを空むなしふするものなり、就ては方今の騒乱中に此書を出版したりとて見る者もなかる可しと雖いえども、一ひと度たび木に上するときは保存の道これより安全なるなし、実に心細き時勢なれば売うり弘ひろめなどは出来ざるものと覚悟して出版然る可し、其費用の如きは迂老が斯しど道うの為め又先人へ報恩の為めに資たすく可しとて、持参したる数円金を出し懇談に及びしかば、主人も迂老の志を悦よろこびいよ〳〵上木と決し、其頃は固もとより活版とてはなく、先づ草稿を校正して版はん下したに廻はし、桜の版に彫刻することなれば、彼れ是れ手間取り、発はつ兌だは翌明治二年正月のことなりき。即ち今の版本蘭学事始上下二巻、是れなり。爾じ後ご不幸にして廉卿氏は世を早ふせられ、版本も世間に多からず。然るに今回は全国医学会に於て或は其再版ある可しと云ふ。迂老の喜び喩たとへんに物なし。数千部の再版書を普あまねく天下の有志者に分布するは即ち蘭学事始の万歳にして、啻ただに先人の功労を日本国中に発揚するのみならず、東洋の一国たる大日本の百数十年前、学者社会には既に西洋文明の胚はい胎たいするものあり、今日の進歩偶然に非ずとの事実を、世界万国の人に示すに足る可し。内外の士人この書を読で単に医学上の一小紀事とする勿なかれ。明治二十三年四月一日、後学福沢諭吉謹誌。