錠をこじあけて屋な内かへ入ると、彼はその扉とを要心ぶかく締めきって、じっと耳を澄ました。 この家が空あき家やであることは前から知っていたが、今入ってみると、寂ひっ然そりしていてカタとの物音もないのと、あやめも分かぬ真の闇に、一種異様な気味わるさを感じた。一体、今夜のように、人がいてくれなければいいという願ねが望いと、そうした静寂の不気味さを同時に感じたということは、彼としてはこれまでに曾かつてない経験であった。 やがて手探りで扉との閂かんぬきをおろすと、少し安心して、衣かく嚢しから小さな懐中電燈を出して四あた辺りを照らしたが、闇を貫くその燈ほか影げは、胸の動悸に震えてちらちらした。 彼は強いて勇気を出して、 ﹁なアに、自分の家にいる心持さ﹂ 独りごとをいってにっと笑いながら、抜き足さし足で食堂の方へ入って行った。 其そ室こは、すべてのものが几帳面に整頓されていた。食テー卓ブルにぴたりとつけて四脚の椅子が置かれ、更にもう一脚の椅子が、少し離れて、沢つや々つやしい箝はめ木きの床に影を落し、そして何処ともなく煙草と果くだ実ものの匂いが仄ほのかに残っていた。 側わき棚だなの抽斗をあけると、銀の食器が順序よく置き並べてあった。 ﹁こんなものでも無いよりは優ましだ﹂ そう思って、それらの銀器を衣かく嚢しへねじこんだが、動くとそのフォークやナイフががちゃがちゃ鳴るものだから、空家で聞き手がないと知りつつも、その音のする度たんびにどぎまぎした。そして今度は、琺ほう瑯ろうや、銀製の果くだ実もの庖丁などの入っている函には手も触れずに、 ﹁こんなものは、おれの目的じゃないんだ﹂ 自分の気きお怯くれを弁護でもするように、ぶつぶついって、つま立ちをしてその棚を離れた。 しかし相変らず躊ため躇らいがちに、衣かく嚢しの中で重い銀器を手探りながら、食卓のところに立ちどまって戸口から隣りの小こべ室やの方を覗きこんだが、厚い窓掛がおろしてあって真暗で何も見えなかった。彼は満身の勇気を奮いおこして、柄にもないこの気きお怯くれに打うち克かとうとした。そして結局夜遊びから自う宅ちへ帰って来た男のような、気安い歩調でつかつかと隣室へ入って行った。 と、不思議にも今までの恐怖心が忽然消えてしまった。 古い櫃ひつの上に枝付燭台が一つ載っているのを見ると、すぐにマッチを摺って蝋燭に火をつけてから、改めて室内の様子を見廻わした。壁には油絵や、金縁の写真などが懸けられ、床には家具やピヤノが置いてあって、暖炉棚の下からは、燃え滓かすや煤すすの臭においがぷんと来た。彼は卓上の書類を摘つまんでみたり、銀の置き物をちょっと持ちあげて重さを量ったりした。そしてもう一度室内を見廻わしてから、枝付燭台を卓テー子ブルの上へおいてふっと吹き消すと、奥の寝室の方の戸をあけた。 彼は少しもまごついた風がなかった。というのは、四、五日前に、貸家になっていた此こ家この間取りを見るふりをして、家具調度や、それらの置かれた位置をすっかり見とどけておいたのである。 職業的に慣れた彼の目で一ト目見ると、屋主の老人が重要書類を入れてある用箪笥や、金が蔵しまってあるに相違ない櫃の在りどころや、その他寝台が凹くぼ間みの中にあること、硝子戸のついた抽斗沢山の大きな衣裳戸棚にも、相当金目のものが入っているらしいということまで、残らず見極わめることが出来たのだ。 暗がりをば手探りで、椅子に躓つまずきもしずに、用箪笥の方へまっすぐに歩いて行った。やがてその用箪笥へ手がとどくと、頂上から正面を撫でおろして、錠のところに左手の指を一本あてておいて、右手で衣かく嚢しの鍵束をさぐった。 そのとき彼はちょっと慌て気味になっていた。といっても、暗さと静しじ寂まに対するあの不思議な恐怖が盛りかえして来たのではない。彼は今、賭博者が切り札を出す前に忙せわしく指先でいじくらずにいられないような焦もどかしさを感じているのだ。 この用箪笥の中には何が入っているだろうか……財産権利書か……それとも紙幣か……どのくらい入っているだろう……どんな幸運がこの板一枚の蔭に彼を待っているだろうか。 だが生あい憎にく、鍵束が容易に衣かく嚢しから抜けて来ない。先さっ刻き銀器を取りこむときに、そそっかしく叩きこんだので、それが衣かく嚢しの中で鍵束とこんぐらかってしまったのだ。で、彼はやたらに衣かく嚢しを掻き廻わしているうちに、匙が鍵輪へ喰いこみ、フォークの尖さきは折れ曲って、上衣の裏をとおして肌を引掻くという騒ぎだ。焦れば焦るほどへまに行く。 彼は床を踏み鳴らし、口小言をいったり、歯を喰いしばったりして力一杯鍵束を引抜いた拍子に、糸がぷっつりと切れて、錆び鉄ぐさ鎖りのような音お響ととともに、鍵も銀器も一しょくたになって床に散乱した。彼はまた焦りだした。もう一息というところまで来ていながら、ぐずぐずするうちに時が移る。正確な時刻はわからないが、入りこんでから可成り暇どったようだ。そのとき初めて時計のチクタクが耳についた。時がぐんぐん飛んでいるのだ。 彼は膝まずいて、一本の鍵を鍵穴へさしこんで、耳を澄ましながら廻したけれど、手応えがない。そこでもう一本の鍵を拾いあげた。更に第三、第四と、他の鍵を注意ぶかく試して行ったが、やはり可いけない。結局一本も役立たぬと知ったらまた癇癪が起って来た。 ﹁面倒だ、打ぶち破こわしっちまえ﹂ 懐中鉄かな梃てこを取りだし、器用な手つきで錠をねじ切ると、いきなり懐中電燈で抽斗の内な部かを照らしたが、彼は思わず歓びの吐息をもらした。まず眼を惹いたのは、一ト区切ずつ帯封を施した厚ぼったい紙さ幣つ束であった。そこで彼は悠々と、順序よくその紙さ幣つ束を取りあげて、一々数をよんで、それから懐中電燈で仔細に検しらべたり、手の甲で撫でてみたりした。 なお椅子を引きよせて、ゆっくり抽斗の中を探すと、金貨を入れた金袋が一つあって、その下に額面二万フランからの記名株券が一ひと重かさね詰まっていた。 ﹁惜しいものだが、こいつは仕様がない﹂ で、株券だけはそのままにしておいた。獲物がきまったので、今度は金貨をば、四、五十フランだけ表面の刻字を引きくらべてから、チョッキの衣かく嚢しへ取りこんだ。すっかりいい気持になって、慌てず騒がずという態度だ。 恰度そのとき、重い荷物を積んだ荷馬車が街を通りかかったので、その地響きのために窓硝子や箪笥の類ががたぴし鳴って、床に散らばっていた銀器までがかすかな音を立てた。 彼はその物音ではっと我れにかえったが、懐中時計を出してみると、正まさに四時――もうぐずぐずしてはいられない。そこで素早く金貨や紙さ幣つを衣かく嚢しへねじこみ、まだ何か残っていはせぬかともう一度抽斗の中を覗くと、幾らかの小こぜ貨にが書類の間に散らばっていたので、彼はそれをも取りこみながら、 ﹁これはお小遣だ﹂ 卓テー子ブルの上に、雅致ある青銅の文鎮が一つ置いてあった。株券や宝石には手をつけなかったほどの利口な男だが、今宵の記念としてこの文鎮を貰ってゆくのも悪くはあるまい――そう思って猿えん臂ぴをのべた瞬間、置時計が高々と四時を打ちだした音に、彼はぎょっとして立ちすくんだ。 やがてその音が歇やむと、再び威圧するような、厳おごそかな静寂に立ちかえって、室内はたった一つの微動だも感じない。掛布の襞ひだのほぐれる音や、乾いた木口の裂ける音――そうしたものは昼間眠っていて夜になると目ざめて来るものなんだが、それさえも今は死んだようにしんと静まりかえっている。その静寂の中に聞えるものとては、ただ自分の動悸と、顳こめのあたりにずきんずきん波打っている血の音だけだ。 彼は再びわけの分らない不思議な恐怖に囚われた。何か只ならぬことが突発したために、こう寂ひっ然そりとなったのではないか知ら。こんなときに迂う闊かと身じろきをしてこの静寂を掻き乱したら大変だ、というような気もした。 彼は懐中電燈を消して、闇の中に佇ちょ立りつした。それから、背を丸めて頸を前方へのばし、呼い吸きを殺して聞き耳を聳たてながら、じっと暖炉棚の方をのぞきこんだ。その棚の上では、小さな置時計があんなに判はっ然きりと時を刻んでいたのに、今はそれさえ止まっている。そうだ、時計が止まった。単にそれだけで、何も恐ろしいことではなかったのだ。それにも拘らず、彼は背筋がぞっとした。そして何か差迫った、恐ろしい危険に脅やかされているような気がして、いきなりナイフを逆手に持ち、懐中電燈を点けながら素早く身を転かわした。 と、薄ぼんやりと蔭った凹くぼみの間まに臥ねている一人の老人の顔が見えた。その老人は口を半開きにして、両眼をかっと見開いたまま彼の方を睨みつけていた。少しも恐れた気色がなく、瞬まばたきもしないで彼の眼中を見すえているのだ。敷布の上にひろげた手は泰然として震えだも帯びていない。夜具の間から突き出した脚も、落ちつき払ったようにじっとしていた。 そのとき彼は、何者かが突然首を絞めに来はせぬかと思った。その蒼白い無言の敵の息吹が、今にも頬へかかりそうな気がした。 彼は顔を動かさずに、眼め球だけを廻わして戸口の方を見た。紙さ幣つ束が衣かく嚢しから抜けて床へころがっているけれど、それを拾う気にもなれず、寧むしろそのまま逃げだしたかった。しかし老人が睨んでいるので、どうしたって戸口まで逃げられそうもない。駆けだしたら老人が声を立てるだろう。そうすると、どうせ逃げ終おおせるわけにゆかぬ。 で、彼は一秒間の躊躇もなく、まるで死物狂いになった獣のように、寝台へ駆け寄るが早いか、ナイフを振りあげて怒れる掛け声もろ共、老人の胸を続けざまに二度もとおれと突き刺した。が、老人は呻き声一つ立てないので、何の物音もなく、ただ枕が静かに床へころげて、頭がぐったりと落ちこんだ。そして、口は相変らず半開きのままで、頤おとがいががっくりと胸の方へくっついた。 彼は後あと退すざりをして、犠牲者の様子を覗きこんだ。小さな懐中電燈の燈あかりだけでは、シャツの上から刺した創きず口ぐちがどんな風か、血が出たか何どうかも見分けがつかなんだ。しかし手許狂わず正まさしく心臓を突き刺した筈だ。その証拠に、犠牲者の相好が少しも変っていない。最初の一撃が狙いを過またず、ピストルの一発と同様、即座に呼い吸きの根を止めたらしい。 彼は自分の腕の確かさを誇りながら、 ﹁貴様は家にいて、おれを見張っていやがったな。うむ、見たな、此こい奴つめ﹂ と憎さげに怒鳴った。しかし老人の顔面を覗くと、少しも表情が崩れていない。ひょっとすると、ナイフが夜具を透しただけで、老人は依然生きていて、皮肉にも彼を監視しているのではあるまいか。 彼は向っ腹を立てて、ナイフを振りあげるが早いか、また続けざまに老人の胸を突き刺した。そして刃やいばを突こむときの鈍い音響に陶酔して、止め度なく喚きながらその打撃をくりかえした。シャツはめちゃくちゃに破れ、肉には大きな創きず口ぐちががっくりと開いたが、老人は泰然自若として相変らず凄まじく彼を睨みつけていた。彼はいよいよ堪たまらなくなって、懐中電燈を投ほうりだすと、今度こそは確しかと呼い吸きの根を止めようとして、頸ったまを押えつけた。 と、振りあげた右め手ては宙に止まり、叫びかけた呪いも唇くちに凍いてついた。というのは、老人の頸を押えた左の手先に、何とも譬たとえようのない不気味な冷さを感じたからである。その冷さは瀕死の人の汗ばんで痙攣している皮膚のではなくて、すでに長時間を経過した屍体の冷さであった。 空家と信じきって入って来たのに、案外にもそこに屍体が横よこたわっていたのだ。それで、この家が墓穴のように真暗で、いやに森閑としていたわけが漸やっと呑みこめた。 何処か遠いところで時計が五時を打った。 彼は慌てふためいて帽子を引つかみ、うろ記おぼ憶えの祈祷の文句を口に唱えながら、もう落ちこぼれた獲物なんかには目もくれずに、転げるようにして其そ家こを飛びだした。