十一時が鳴ると、アルトヴェル氏は麦ビー酒ルの最後の一杯をぐっと飲み乾し、ひろげていた新聞をたたんで、うんと一つ伸びをやって、欠あく伸びをして、それからゆったりと起たちあがった。 吊り飾ラン燈プの明るい光りは、弾た丸まや薬苞の散らばっている卓ナッ布プの上をあかあかと照らしていた。そして暖炉のそばには、肱掛椅子に深々とうずまった婦人の横顔がくっきりと影絵のように見えていた。 屋そ外とでは、はげしく吹き荒れている風が窓をゆすぶり、しぶきはその窓硝子を騒々しく叩いて、ときどき犬いぬ舎ごやの方から犬どものウウと唸る声が聞えた。犬どもはその日朝から終いち日にち騒ぎ立っていたのであった。 その犬いぬ舎ごやには、四十頭からの猛犬が飼ってあって、口元の不気味な巨マー犬タンや、ヴァンデイ産の毛のもじゃもじゃした粗グリ毛フ猟ォ犬ンなど、いずれも猟に伴つれてゆくと、獰猛な勢いで野のじ猪しに喰いつく奴等である。そして夜になると彼きゃ奴つ等の猛たけしい唸り声を聞いて、遠あち近こちのさかりのついた野良犬や、狂犬どもが盛んに吠え立てるのだ。 アルトヴェル氏は、窓掛をあげて、真暗な庭に園わの方を覗いてみると、濡れた樹々の枝は刃やいばのように光り、秋の木の葉が風に吹きまくられて、ばらばらっと壁を打った。 ﹁厭な晩だな！﹂ 彼は呟くようにいった。そして両手をかくしに突込んだまま、五、六歩あるいて暖炉の前に立って、燃えさしの薪を靴の爪つま尖さきで踏みつけると、真赤な焚きおとしが灰の上にくずれて、新らしい焔ほのおがまっすぐに尖とんがって燃えあがった。 夫人は身じろきもしない。薪の火光は彼女の顔を照らし、頭か髪みを金こん色じきに染め、その蒼白い頬を生々した薔薇色に見せ、彼女の周まわ囲りをちょろちょろとダンスをやりながら、額や、眼まぶ瞼たや、唇のあたりに気まぐれな陰か影げを投げかけた。 一時ひっそりしていた猟犬が、また吠えだした。その吼こ声えと、風の呻うなりと、樹々を打つ雨の音を聞くと、静かな室へやの内な部かが一しお暖かそうに思われ、そこにじっと黙もだしている婦おん人なの姿が、何となく懐かしい感じをさえも与えるのであった。 アルトヴェル氏は少し変な気持になって来た。猟犬どもの暴れもがく声と室へやの暖ぬくもりとで唆そそられた或る情慾が、だんだん体みう内ちにひろがって来た。で、彼は夫人の肩を軽く押えて、 ﹁もう十時だよ、寝ようじゃないか﹂ ﹁ええ﹂ 彼女は残り惜しそうに椅子を離れた。 アルトヴェル氏は、暖炉の薪まき架だいに片足をかけて、もじもじしながら傍わきをむいて低こご声えでいった。 ﹁お前の寝へ室やへ行っていいだろう﹂ ﹁駄目よ、今夜は﹂ アルトヴェル氏はしかめっ面をして、しかし一寸腰をかがめて、 ﹁御随意になさいだ﹂ 彼は両脚をひろげて肩で暖炉棚へもたれたまま、夫人の出て行くうしろ姿をじっと見送った。夫人はいかにも優美な、なよなよした身のこなしで、衣きも物のの裾がさざ波の動くようにさやさやと絨毯の上を辷すべっていった。それを見ていると、彼は癇が高ぶって来て、あらゆる筋肉が鯱しゃちこばるのを感じた。 アルトヴェル氏は元々夫人に対する嫉妬のために、此こ邸こで彼女を厳重に監視しているのであった。 彼は以前妻というものについてこんな理想を描いていた――妻は何でも良おっ人とたる自分と二人っきりで暮らすことを楽しんで、よく自分の望みに添うて、いつも機嫌よく、黙ってあらゆる要求を受入れてくれなくてはならぬ。自分が日中猟に出て、手が寒さで藍色になり、さすがに強健な体もぐたぐたに疲れて、日が暮れてから野原や沼地の清気と、乗馬や獲物や猟犬の臭においを満身に浴びて家に帰って来たならば、妻は優しい言葉でいそいそと出迎えて、良おっ人との接吻をうけるために熱い唇を向ける。そうして、良おっ人とは吹き荒すさぶ風を物ともしずに終日馬上に駆けめぐり、或は冬の乾ききった大気を息づまるほど満喫し、或るときは徒か歩ちで畝うねや畦あぜを渉わたり、樹の枝に髭を撫でられそうな森林の中を、大駆けで馬を飛ばしたりした後で、恋の長い夜が来ると、互いの愛撫で魂たましいも蕩とろけるような悦楽をしみじみと味わうことが出来るのだ―― ところが、理想と現実とはこうも違うものか。 戸口がしまって、夫人の跫あし音おとが廊下の向うへ消えてしまうと、彼も仕しよ様うこ事となしに自分の寝室へ行ったが、やがて寝床に入ってから、読書でもしようと思って、一冊の本を引きだした。 雨の音が一きわ騒がしくなって、風が煙突に呻うなり、庭に園わの方では木の枝の断ち切ぎれて飛ぶ音がする。それに、猟犬どもが間ひっ断きりなしに吠え立てるので、暴あ風ら雨しの叫びや樹々の軋る音も気け圧おされるくらいだ。彼きゃ奴つ等が巨おお大きな体で打ぶっ突つかるものだから、犬いぬ舎ごやの扉とが今にもはち切れそうな音がする。 彼は窓を開けて、大声で呶鳴りつけた。 ﹁こらっ﹂ すると犬どもは少しの間鳴りを鎮めた。 冷い雨しぶ走きがさっと顔へかかると、彼は清々しい気持になった。が、犬がまた吠えはじめたので、彼は拳骨で鎧戸をどんどん叩いて、 ﹁こらっ、静かにせい﹂ そのとき、ふと或る声を聞いたような気がした。それは唄とも、囁きとも、響きともつかぬ声であった。と、こんなときに犬どもを滅多打ちに打ち据えて、拳の下に肉に塊くの顫ふるえを感じたいという欲求が、むらむらっと込みあげて来た。 ﹁ようし、待っていろ﹂ 窓をぴしゃり閉めきると、鞭をさげて廊下へ出た。 荘やし邸き中の者が寝静まっているというようなことは、一向気にも止めないで、大おお跨またにどんどん歩いて行ったが、夫人の寝へ室やの前へさしかかったときは、彼女の眠りを妨げまいとして歩調をゆるめて静かに歩いた。ところが、戸の下の隙間から燈あかりが洩れていて、室な内かに人の跫あし音おと――やわらかい絨毯でさえも消すことが出来ないほど慌てた跫あし音おとがしたので、彼は聴耳をたてた――やがてその跫あし音おとが止んで、燈あかりが消えた。 彼は戸の前にじっと佇ちょ立りつしていたが、ふと或る疑念におそわれて、そっと声をかけた。 ﹁マリー・テレーズ﹂ 答えがない。 今度は少し高く呼んでみた。好奇心――いや、判はっ然きりと云うのを憚る或る疑いで、彼は一瞬間、呼い吸きもつけなかった。 戸を鋭く二度叩くと、室な内かから、 ﹁誰だアれ？﹂ と咎める声。 ﹁わしだよ。此こ所こを開けなさい﹂ 戸が細めに開いて、一陣の生温かい温うん気きが、婦人部屋に特有な好い匂いの中にエーテルのらしい臭気をまじえて、むっと彼の顔へ吹きつけた。 ﹁何か御用ですの﹂ 室な内かの声が問いかけた。 黙って入ってゆくと、夫人が恰度閾しき際いぎわに立ちはだかっていたものだから、その呼い吸きが彼の顔にかかり、衣きも物ののレースが彼の胸にふれた。衣かく嚢しを探したけれどマッチがないので、 ﹁燈あか火りを点けなさい﹂ と彼は命じた。夫人はすぐにランプを点けた。室内の様子を見ると、窓にはすっかり窓掛がおろしてあって、絨毯の上には襟巻が一本落ちていて、寝床の真白な広布団は、はだけたままになっていた。そして一人の男が、暖炉の傍そばの長椅子の上に横よこたわっていたが、その男は襟をひろげたまま、頭をぐったり下げ、両手をだらりと垂れて眼をつぶっていた。 アルトヴェル氏は、夫人の手くびを押えつけて、 ﹁こら、何という汚らわしいことだ。わしに情つれない理わ由けがわかったぞ﹂ 夫人は良おっ人との手を振り離そうともしないで、じっとしていた。その蒼ざめた顔には些すこしも恐怖の陰か影げがない。彼女はしゃんと顔をあげて、 ﹁貴あな郎たは何を仰おっしゃるんです﹂ アルトヴェル氏は夫人を突離すと、現うつつない男の上へのしかかって、拳を振りあげながら呶鳴った。 ﹁此こい奴つ、他ひと妻づまの寝室へ忍びこんだ姦夫……や、何ということだ、わしの友人でしかも子供のように齢の若いこの男を……淫婦奴めが﹂ すると、夫人は良おっ人との言葉をさえぎって、 ﹁この人、何でもありませんわ﹂ ﹁ははア、そんなことでわしが欺だませると思うか﹂ 彼はぐったり横よこたわっている男の襟くびを攫つかんで、ぐいと手許へ引きよせた。が、顔は真蒼で、唇くちがゆるんで、白い歯並や歯はぐ齦きがむき出ているばかりでなく、手をふれると異様な冷さを感じたので、愕ぎょ然っとして突離した。すると男は、体がどたりと椅子へ仆たおれる拍子に、額が他愛もなく二度もその肘掛に突きあたった。 アルトヴェル氏は堪たえがたい憤いかりを夫人の方へ向けた。 ﹁この有様はどうしたのだ。さア云って御覧﹂ ﹁何でもないんです﹂と彼女は説明した。﹁わたしが寝床へ入ろうとしていますと、廊下で何だか蹌よ踉ろけるような跫あし音おとがして、間もなく﹃戸を開けて、戸を開けて﹄という声がするものですから、きっと貴あな郎たが御気分でもおわるいかと思って、戸を開けますと、この人が入って来ました。いえ、仆たおれこんだのでございます。何だか急に心臓がわるくなった様子ですからここへ臥ねかしておいて、それから貴あな郎たを探しに行こうと思っているところへ、丁度貴あな郎たがいらしたのです。それだけでございますわ﹂ アルトヴェル氏は倒れている男をじっと覗きこんでいたが、やがて冷静に立ちかえったらしく、屹きっ然とした語調で問いかけた。 ﹁この男が入って来たことを、家の者は知るまいな﹂ ﹁誰も知りません、猟い犬ぬがあんなに騒いでいるものですから﹂ ﹁それにしても、此こい奴つ何でこんな時刻にやって来たんだろう﹂ ﹁不思議でございますね。だけど、何じゃないでしょうか、急に気分が悪くなったものだから、この人は独りぽっちで、不安になって、助けて貰うために来たのではないでしょうか。今に気分が癒なおって物が云えるようになったら、自分で説明するでしょう﹂ ﹁多分お前のいう通りだろう。が、その話はこの男の口からはもう聞けないんだよ。此こい奴つ死んでしまったからな﹂ 夫人はそれを聞くと、歯の根も合わぬほどふるえだして、吃どもり吃りいった。 ﹁そ、そんなことがあるものですか、この人が﹂ ﹁いや、死んでいる﹂ そういって、アルトヴェル氏はちょっと考えこんでいたが、やがて前よりも落ちついた声で、 ﹁しかし、よく考えると何も不思議はないさ。この男の父親も、叔父も、こんな風に突然亡くなったのだ。心臓病の血統なんだよ。急激な感動――非常な歓び――そうしたことに出っくわすと、何といっても人間は脆い生いき物ものだからなア﹂ と、椅子を引きよせて暖炉の方へ手をかざしながら、 ﹁だが、それだけの単純な出来事だとしても、他よその男が夜やち中ゅうにお前の寝室で死んだという事実は打消すわけに行かんじゃないか﹂ 夫人は両手に顔をうずめたっきり、何の答えもない。 ﹁今のお前の話でわしの疑うた念がいは解けたとしても、他人にまでそれを信じさせることは出来ない。召使どもは勝手な憶測で何のかのと云いふらすだろう。さアそうなると、お前の不名誉だけでは済まん。わしの顔にもかかるし、家名にも疵きずがつくというものだ。どのみち放うっ抛ちゃっておける問題ではないから何とか方法を考えにゃならんが――そうだ、わしに一つ考えがある。今夜のことは幸いお前とわしの外に知った者はなし、此こい奴つが入って来たところを見かけた者もないから、誰も勘づく筈がない。そこで、お前ランプを持ってわしについて来い﹂ そういって、彼は屍体を抱きあげたが、 ﹁さアお前が先きに立て﹂ ﹁貴あな郎た、どうなさるの﹂ ﹁心配せんでもいい。先きへ行ってくれ﹂ 両ふた人りは徐そろ々そろと階段を降りていった。夫人のかざしたランプの灯ひが壁にちらついた。アルトヴェル氏は屍体を抱えて、注意ぶかく一歩一歩踏みしめるようにして階段を降りた。そして庭に園わの方へ出る戸口のところで、 ﹁音がしないように此こ戸こを開けなさい﹂ 夫人が戸を開けたとたんに、さっと吹きこんだ風でランプは消え、しぶきが横っ倒しに来ると、熱した火ほ屋やが破裂してその破片が閾しきいに散った。 仕方がないからその消えたランプをそこへ置いて、それから庭に園わへ踏みだした。砂利が靴の下でざくざく鳴って、篠つく雨が両ふた人りを叩いた。 ﹁径みちが見えるかい。見える？ そんならわしの傍そばへ来て、屍体の足を持ってくれ。重いぞ﹂ 両ふた人りはしばらく黙って歩いた。やがてアルトヴェル氏は、とある低い戸口の前に立ちどまると、 ﹁わしの右の衣かく嚢しを探してくれ。鍵があるだろう。それだ……それを出せ……さア足を離していいよ。まるで墓場のような暗さだ。鍵穴が分るかい……いいか……分ったら鍵を廻せ﹂ 犬どもはその音を聞きつけると、亢奮して俄かに吠え立てた。と、夫人はびっくりして跳びのいた。 ﹁怖いか？……さア鍵を廻せ……もう一度……それでいい……退どいてくれ﹂ 彼は扉とに膝をあててぐいと押し開けた。猟い犬ぬどもが外へ出られると思ってむやみと脚へ打ぶっ突つかって来るのを、彼は靴で蹴かえしながら、突然ヤッといって屍体を頭上に高く担さしあげたと思うと、一つはずみをつけて犬いぬ舎ごやの真只中へ
と投げこむが早いか、ぴしゃり扉とを閉めきった。
猛い犬ぬどもは物凄い唸りとともに一斉にその餌食に跳びついた。と、
﹁助けてくれい﹂
一声けたたましい叫びが獣けだ等ものらの咆哮の中から聞えて来た。それは実に、この世のものとも思われぬ凄惨な声であった。
あとにはまた獰猛な唸りが入り乱れた。
夫人は何ともいいようのない恐怖に襲われた。そして、稲妻の閃めくようにその真相がわかると、狂おしい眼付をして、矢庭に良おっ人とへ跳びかかって、めちゃくちゃに顔を引掻きながら、
﹁悪党……あの人は死んでいたんじゃない……死んでいたんじゃない﹂
アルトヴェル氏は突立ったまま夫人を手の甲で押しのけて、嬲なぶるような口調でいった。
﹁左パ様ルだプとルもー﹂