﹁先生﹂ とその男はいった。 ﹁僕に結核があるかどうか、御診察の上で、包みかくしのないところを仰おっしゃって下さい。大丈夫ですよ、僕は確しっかりしています。どんな診断を聞かされたって平気なもんです。第一、先生はぶちまけていって下さる義務があります。それに、僕は自分の病状を知っておく権利があると思う。ですから是非聞かして頂きたいんです﹂ ドクトルは一寸ためらったが、肱掛椅子を退ずらかして、火の燃えさかっている暖炉の棚へ倚よりかかりながら、 ﹁承知しました、着物をお脱ぎなさい﹂ そして患者が服を脱いでいる間に、問いをかけた。 ﹁衰弱を感じますか。寝汗はどうです……朝、明け方にはげしい咳が出るようなことがありませんか……御両親はお達者ですか。うむ、何な病んでお亡くなりでしたかね……﹂ 患者はやがて上半身だけ裸になって、 ﹁さア仕度が出来ました﹂ ドクトルは打診をはじめた。患者はその打診音の一つも聞きもらすまいと踵かかとをそろえ、両りょ腕うてをさげ頤あごをつき出して、耳を澄ました。ひっそりとした室へやの中にその指の音が鈍い音調でひびいた。 それから長い念入りな聴診をやったが、それが済むと、ドクトルは笑いながら軽く男の肩をたたいていった。 ﹁着物をきてよろしい。貴方はえらい神経家ですね。だが保証します、何処も何ともない。些ちっとも悪いところはない……どうだね、これで満足しましたか﹂ 服を着かけていたかの男は、両りょ腕うてをあげたまま、シャツの前穴から顔を出したところだったが、薄笑いをうかべながら屹きっ度とドクトルを睨みつけて、 ﹁ええええ、大満足﹂ 彼はそれっきり黙って着物を着てしまったが、ドクトルが卓テー子ブルに向って処方を書いているのを見ると、 ﹁そんなものは要りません﹂ と手真似で制とめて、かくしから取りだした一ルイの金貨を卓テー子ブルの隅においた。それから彼は坐りこんで語りだした。声は少しふるえを帯びていた。 ﹁さてお話がある。外でもありませんが、今から一年前に一人の患者がここへやって来て、僕が今いったように、ぶちまけて真ほん実とうのことを教えて下さいとお願いしたんです。そのとき貴方は診て下さったが――随分ぞんざいな診察でした――そしてその患者に、結核でしかも非常に手重いと宣告しましたね。いや弁解しなさんな、僕は嘘はいわない。それから貴方は、結婚も可いけないし、子供は尚更生んでならんと云ったではありませんか﹂ ﹁左そ様うかなア、私は思い出せないが﹂とドクトルはつぶやいた。﹁そんなことがあったかも知れん。何しろ大勢の患者なんだから。しかし貴方は何でそんなことを問題にするのかね﹂ ﹁何を隠そう僕がその患者だったのです。独り者といったのは嘘で、僕はすでに妻子をもった一家の主人でした。あのとき僕が帰ったあとで、貴方は僕のことなんか考えても見なかったんでしょう。貴方から見れば僕なんかは、毎年肺病で死んでゆく何千という惨めな患者の一人に過ぎないんだ。しかしそのおかげで、僕は実に恐ろしいことになったのです﹂ 彼は手でちょっと涙を払って、語りつづけた。 ﹁あの日家へ帰ると、妻や小さな娘たちが待っていました。冬の寒い時であったにも拘らず、家の内なかは愉快でした。暖炉には火がかんかん燃えていて、室へやには暖かい幸福と優しさが溢れていました。あの日までの僕は、帰宅の時刻――愛する者達に取り囲まれて骨休めをする時刻が来ると、心が勇み立ったものです。妻の接吻も、子供達の抱擁も、ほんとうに嬉しかった。で、僕はその時刻を待ちかねて家へ帰って来ると、その瞬間に、どんな心配も仕事の疲れもからりと忘れるのでした。ところがあの晩は、妻が僕に唇をのべたとき僕は撞つきのけました。小さな娘達が僕へ搦からまろうとして駆けて来ると、それをも押しのけました――貴方が僕の心に蒔いた種が芽生えて来たのです。 僕達は晩餐の卓テー子ブルについたが、食事中僕は心配な顔を見せまいとして一生懸命に努めました。しかし僕は悲しかった。この者達は直じきに僕と死しに別わかれねばならん。後には貧しい家庭が残る。そして娘達は父てて親おやなしで寂しく育つだろう――そんなことを思うと、この胸がはり裂けるようでした。 どうせ助からないにしても、他の病人だと、後に残る者達を心ゆくまで抱擁して、彼等の面影をあの世へまでもってゆけるという慰なぐ藉さめがあります。ところが僕の場合は、人に近づくということが非常に危険なのです。﹃死﹄を背し負ょってるんですからね。生きながら生木を割さくように人から隔てられて、もはや他人の歓びに加わる資格を失ったのです。 寝床へ入る時間になると、子供等はいつものように﹃お寝やすみ﹄の挨拶をするために抱きついて来たが、僕は彼等を押しのけました。僕の口――この恐ろしい口を彼等に触れてはならぬのです。 子供等が寝たあとで、僕も寝室へ入りました。家の中も、街も、次第にひっそりと更けわたりました。僕は電燈を消して、妻の傍そばへ身を横よこたえたけれど、なかなか眠れない。妻のすやすやと寝やすんでいる平和な寝息が聞えていました。 眼が冴えるままに、悲しいことを思いつづけていると、時の経つのが馬鹿にまだるっこしいものです。僕は両手で胸を押えて、指先で肺の悪い部分を探しあてようとしました。けれど、痛くも苦しくもない。で、貴方の診断が出鱈目じゃないかと疑ったくらいです。ついには貴方が間違ったんだと信じきって、専らそれに望みをかけました。まったく、そうした無茶な考えも起したくなるんです。 ﹃僕が結核だなんて、そんなことがあるものか。もう一度外のお医者に診て貰おう﹄と僕は決心しました。 と、突然次の部屋で咳入る声がしたので、僕はぎょっとしました。咳は子供部屋から再びひびいて来たが、それは乾いた、鋭い咳で、しまいにごほんごほんとやりだしました。僕は恐ろしくなって、妻の方へ手をのべたけれど、眼を覚まさせるのも気の毒なので、そのまま耳を澄ましていると、咳はまた起りました。僕は起きて子供部屋へ行ってみると、そこには仄ほのぐらい燈あか火りが点いていて、彼等はめいめいの寝床に寝やすんでいたが、長女の顔がぽうっと赤くなってるので、触ってみると熱があるようです。それで僕は彼女の上にかがんで、様子を窺っていると、彼女は数回咳をして、苦しそうに寝がえりをうちました。それからなおときどき咳がつづきました。僕はやがて自分の寝床へかえったが、枕につくと同時に、或る恐ろしい考えが浮んで来ました。あの娘こも僕と同じ結核だ。てっきりそれに違いないと思いました﹂ かの男は膝の上で拳骨を堅め、少し前へのしかかるようにして、詰なじるような口吻で後をつづけた。 ﹁貴方はあのとき、御自分の診断がどういう結果を与えるかを考えもしなかったでしょう。ところが、その翌くる日が堪たまらないんです。僕は娘の病気を妻に告げるも気の毒だし、お医者を招ぶ勇気もありませんでした。お医者の診みた断ては大てい察しがついたし、またそうした宣告を聞かされるのが辛かったのです。僕は臆病と恥かしさで、それっきりになっていました。 けれども心は休まらない。もう伝染なんかの問題ではない。もっともっと恐ろしい妖ばけ怪ものが僕の前に立ち現われたのです。それは遺伝という奴です。子供等は僕の眼付や毛色を遺伝したと同じく、僕の病気をも遺伝したにちがいない。仮りにその忌まわしい法則から免れたとしても、彼等に接近していた僕が、すでに病気を感染させてしまったのです。 なに、想像に過ぎないって? 冗談いっちゃいけません。貴方がたお医者達が、新聞雑誌だの講演会に意見を発表して、無学な公衆に向ってそうした智識を吹きこんで来たではありませんか。僕はそのとき、前々から読んだり聴いたりしたことが、記憶に沸きかえったのです。 妻や娘等が次々に衰弱して、健気にも病苦と闘いつつ、最後にのっぴきならぬ臨おわ終りがやって来る。僕はそれを眺めていなければなるまい。彼等の痩せ衰えてゆく顔や体に、病気の進行をありありと見せられるでしょう。しかもどんな科学の力だって、この避けがたいものを救うことは出来んのです。 ところでお聴きなさい。人は或る場合には、避けがたいとわかっている苦痛ならそれを除いてやる義務がある。また人は自分でこしらえたものを解体する権利がある。肉体の苦くる悩しみをうけるばかりでどうせ助かる見込のない者なら、その生存を止めて、楽にしてやる権利がある。僕は煩悶の結果、こう信ずるようになりました。つまり運命の神の代理に立って、そうした苦くげ患んから彼等を救うてやろうとしたのです。 貴方はふるえていますね。先きを聞くのが恐ろしいんだね?……そうです、僕はこの手で妻子を殺しました。ああ殺したとも。わかりましたか。皆んな毒殺してやったのです。迅速に、手際よくやっつけたもんだから、誰も感づいた者はありません。 初めは僕も一緒に死ぬる考えだったが、しかし、僕は自から罰をうけねばならぬと思いました。尤もその罰は、彼等を殺したためにうけるのではありません。殺したことは正当だと信ずるからです。それよりも寧むしろ、彼等を生んだがためにです。僕は彼等を生の重荷から救い、苦患から自由にしてやった代りに、今度は僕がその重荷と苦患を一身に背し負ょって、死物ぐるいの生涯を送ろう。おそらくそれ以上に大きな贖罪がなかろうと決心しました。ところが不思議じゃありませんか。妻子が死んでから数週間経って、僕は元気が出て来たんです。胸の痛みが去って、血痰も止まりました。食慾が旺さかんになって、肉がついて来ました。そうです、僕は肥ふとりはじめたのです。 最初、これは何か微妙な作用で病勢がちょっと停滞したに過ぎないので、後に一層はげしく盛りかえして来るだろうと思っていました。ところが数ヶ月後には、僕は全快を認めなければなりませんでした。まったくけろりと癒なおったんです。一体どうしたんでしょう。病気が癒ったのか、それとも僕は最初から結核ではなかったかも分らん。こうした漠然たる疑いが、しだいにはっきりと頭にうかんで来ました。この恐ろしい意味がお判りですかね? つまり僕が結核患者だったら、自分のやったことは正当だが、結核患者でなかったとすれば、僕は理由もなく、徒らに人殺しをやったということになります。 僕はそれを確かめるために、一年間待ってみました。その間に、僕は病気をぶりかえさせようとして、あらゆる不摂生をやりました。しかしどうしても駄目でした。そこで僕は、たしかに貴方が間違っていた、しかもひどい誤診であったということを確信すると同時に、悲しくなりました。曾かつて泣いたことのない僕も、それからというものは、極端に涙もろい男になりました。ああ僕は生涯を誤った。罪もない者達を殺した。そして、永久に悲歎の涙にくれなければならなくなったのです。これも皆んな貴方の誤診のお蔭です。それで今日は、貴方の口から、誤診したということを告白させるためにやって来たんです﹂ 彼は起たちあがって、腕ぐみをして、 ﹁ところが、貴方は迂うっ闊かりそれを告白してしまったんだ。貴方は先さっ刻き僕を診察して﹃何ともない、何ともない﹄といったときに僕の眼付を見なかった。ええ確かに見なかった。もしも僕の眼付を一目見たなら、貴方はふるえ上ったにちがいない。何故なら、これから僕が云おうとすることを、あの時すでに察しただろうから……﹂ するとドクトルは真蒼になって、どもりどもりいった。 ﹁そりゃ私だって誤りがないとは云えない。近頃の医学界では、この結核という考えが煩うるさく何にでも附纏うようになったものだから、我々もついそれに釣りこまれて、一過性の、偶発性のラッセルでも、誤って結核と解釈することがある。私が間違ったかも知れない、いかなる名医だって誤診ということは免れないんだから。ドレもう一度拝見しましょう﹂ そのとき男はからからと凄い笑い方をして、 ﹁もう一度だって? 人を馬鹿にしちゃいけない。切きっ先さきへ飛びこんだ上は、今さら体たいをかわそうたって駄目だよ。何処も何ともないと貴方が明言したではないか。僕は何ともないのだ。今度は僕が無条件で貴方の言葉を承認しよう。 しかし貴方のおかげで僕は人殺しをやったんだ。貴方は共犯者だ。なに、意識しない共犯だって? そんなことがあるもんか。貴方が首セル脳ヴォで、僕は手ブ先ラだったのさ。﹃正義の裁さば判きは唯一にして不変なり﹄っていうから、僕――﹃神ネル経ヴ家ー﹄の僕が審さばいて、判決を下して、そして刑罰を行ってやろう。貴方が先きだ、それから僕だ﹂ 轟然二発の銃声がひびいた。召使が駆けつけたときは、二人は仰あおのけに倒れて縡こと切きれていた。 脳漿と鮮血が卓テー子ブルへはねて、その上にあった、
蒸水 …………