男は腰掛に腰を据え卓テー子ブルに片肱ついて、肉スー汁プをさも不ま味ずそうに、一匙ずつのっそりのっそりと口へはこんでいた。 女房は炉のそばに突立って、薪まき架だいの上に紅あかく燃えてパチパチ爆はねる細ほそ薪まきをば、木サ履ボのつま尖さきで蹴かえしながら頻しきりに何か話しかけたが、男はむっつり黙りこんでいて滅多に返事もしない。 ﹁シャプーの家では、あの老ぼれの牝鶏を皆んな片づけたって、真ほん実とうかね? それからリゾアの家では、乳バ酪タがすっかり溶けてしまったっていうじゃないの﹂ ﹁そんなことをおれが知るもんか﹂ と男は顔もあげずに、口の中でいった。 ﹁それはそうと、お前さん、仕事の方はどうだったの。好い手間になって?﹂ ﹁何を云うんだい﹂ ﹁あら、大層御機嫌がわるいのね。何どうしたっていうの﹂ 男は匙をおいた。そして両腕をつきだし、卓テー子ブルの上に拳骨を構えて、大きな小麦袋でも抜き取ろうとする時のように、ふうっと深い溜息を一つ吐ついたが、 ﹁それはな……それはな……﹂ と云いかけてふと口を噤つぐんだ。そして一度押しのけた皿をまた手許へひきよせ、麺パ麭ンを小さく切ってからナイフを閉めて、それから手の甲で口を押拭いながら、 ﹁何でもねえんだよ﹂ ﹁お前さん、何か怒ってるんだね﹂ ﹁何でもねえよ、煩うるさいっ﹂ 二人は沈黙した。外では雨が屋根瓦をたたき、風は樹々の枝に吹き荒れて、煙突にまでも呻うなりこんでいた。炉の火は威勢よく燃えさかり、その大きな焔ほのおの舌がへらへらと壁に舞いあがっていた。 ﹁スープはもう済んだの? もっと何かあげようか﹂ 男は首をふって、 ﹁沢山だ﹂ 素そっ気けない返事をして、眼をしばたたいていた。女房は何だかじっとしていられないといった風で、また村の噂話しをやりだした――まるで何ヶ月も家を空けて村の噂をば何くれと聞きたがる人にでも物をいうような調子で、 ﹁お前さん知らないの? ウールトオの家の犬ね、あの大でっかい赤あ犬かよ。彼あ犬れが狂犬になったんだとさ。それでね、射うち殺ころそうとして鉄砲を取りに行っているうちに、彼あ犬れが逃げだして、それっきり何処へ行ってしまったのか、誰も見かけた者がないっていうのよ﹂ 男は知らん顔で口笛を鳴らしていた。と、女房は口く惜やしがって、 ﹁お前さん、余あんまりじゃないの、一体どうしたっていうんだろう。また居酒屋へ寄ったね。いつも帰って来ると上機嫌で饒おし舌ゃべりをするのに、今日に限ってうんともすんとも云わずに、黙アって坐りこんで、毒でも食べるように不ま味ずそうに夕ゆう食めしを食べてさ。それに、坊やが何どうしたと一言訊くでもなし……﹂ すると、男はゆったりと女房の方へ向き直り、その眼の中を真ま正と面もに見すえて、 ﹁お前は背のっ高ぽうのジャッケと久しく会わないだろうな﹂ そのとき薪が一本、馬鹿にパチパチ爆はねて炉の口の方へすべりだしたのを、女房は木サ履ボのつま先で蹴かえしながら、もじもじして、 ﹁背のっ高ぽうのジャッケ? 会わないわ。それが何どうしたのさ﹂ ﹁先さっ刻き此こ家こへ来ていたと思ったがなあ﹂ ﹁そんなことがあるもんですか﹂ ﹁嘘を吐つけ﹂男は声高に怒鳴った。﹁おれは郵便屋に聞いたんだが、郵便屋は、今朝彼あい奴つが此こ家こから出て行ったのをたしかに見かけたといっていたぜ﹂ 女房はいい繕おうとして、 ﹁ああ、ほんに、わたしは迂うっ闊かり忘れていたんだよ、つまらないことだからね﹂ そういいながら、肩をすぼめて向うへ行きかけると、今度は男の方で荒々しく呼び止めた。 ﹁待て、話がある﹂ 女房は真蒼になって口籠りながら、 ﹁お前さんは、謎がうまいのね﹂ と冗談でいい紛らそうとした。 男は拳骨で女房の肩をぐいと押えつけて、 ﹁まア坐れってことよ。おれは長い間我慢をして来たんだが……どうせ一度は話をつけにゃならねえ……さんざっぱら村の笑いものになってさ……村の奴等は、現在おれのいる前でひそひそ話しをしやがる。おれが成るだけそんなことを信じまいとしたことは、神様が御承知なんだ……だが今度こそは了見出来ねえ。どうしても突き止めにゃ措かねえぞ。おい、あの背のっ高ぽうのジャッケはお前の情い夫ろなんだろう﹂ 女房はそれを聞くと、思わず跳びあがって、 ﹁馬鹿なことをおいいでないよ﹂ ﹁口先はどうでもいいから、証拠を出せ。おれは知ってるぞ。え、おい、知ってるんだぞ﹂ 男はつづけざまに胸を叩いて﹃知っている知っている﹄を繰りかえした。こう口へ出して詰きっ責せきすると、今まで抑えに抑えていた憤怒がかっと燃えあがった。彼は大きな手で卓テー子ブルをがんがん叩きながら女を罵倒し、威嚇した。女はこの激しい憤いかりの前にどぎまぎして、云い訳もしどろもどろだった。 ﹁お前はどこまでも誤魔化してゆけると思ったんだろう。無理アねえ、おれがこれっぱかしも疑らなかったほどのお人好しだからなア。だがおれがほんとうにそんな間まぬ抜けかどうか、今にわかるぞ……そればかりじゃねえ……一体誰の子だい、あの餓鬼がさ。誰の子だい﹂ ﹁そりゃ余あんまりだわ。余あんまりだわ﹂ 女房はエプロンを顔にあてて、しくしく泣きながら不平を訴えだした。 しかし、男は矢庭に女の両手をひっ攫つかんで真直に引きおろし、血走った眼を据え腮あごをぐっと引きしめて、何処までも追及した。 ﹁誰の子だい。誰の子だい﹂ 女房はまた溜息をついて、 ﹁そんならお前さんは、あの子に覚えがないっていうの?﹂ 女房のそうした言葉とその涙に動かされて、男は我れにもあらず一寸躊ため躇らっていたが、やがて少し不ふた確しかな声で、 ﹁おれに判るもんか……まるっきり判らねえ……さア云って見ろ……﹂ 女房は気が顛倒しながらも、男が急に不決断になり、弱気になったらしいのを見て取ると、今度はぐっと強く出て、声も荒々しくいった。 ﹁そんなことはね、お前さんのためにもわたしのためにも、取り合いたくないのよ﹂ と、男はまた癇癪が盛りかえして来た。長い間胸にこだわっていた憤ふん恚いが一時弛ゆるんだとしても、それはやがて猛然と爆発する前提に外ならなかった。彼はかっと腕を振りあげ、はげしい忿いか激りのために却って低こご声えになって、 ﹁こらっ、正直に云え。厭なら覚えていろ……おれは随分思いきったことをやりかねないぞ……どうしてもおれはあの子の父てて親おやが知りたいんだ……お前とおれの始末はいずれ後でつける。だが、あの餓鬼のことは今この場で聞かにゃならねえ。わかったか……おれは他ひ人との子は育てたかアねえ……おれはな、あの子に少しの地所でも残してやろうと思えばこそ、こうして寒さ暑さも厭いとわずに、真黒になって働いているんだ。いいか、わかったか……おれはことによると人殺しでもやりかねないぞ……お前や、彼あい奴つや、村の奴等のために、おれはもう少しで狂きち気がいにされるところだった……が、もう大丈夫だ……お前はおれと一緒になったときは、キャラコの襦じゅ袢ばん一枚しか持たないような態ざまだったが、そのくせ前々から、稲いな塚づかの蔭でジャッケと巫ふ山ざ戯けていたっていうじゃないか。そして、嫁に来てから八月目にお産をしたが、お前はそのとき、牛小屋から牝牛が逃げだしたのを見て吃びっ驚くりしたために、月足らずの子が生れたと云ったな。おれはそれを真にうけていたんだ。しかし、もう信用出来ねえ。村の奴等がおれの眼を開けてくれたのさ。あの餓鬼はおれの子じゃねえ。もしもおれの子なら左そ様うだといって見ろ。おれは誰に尻をもってっていいかを知ってるんだ。さア云え、神様の前で云ってみろ﹂ 女房は両手で顔をかくしたなり、歯の根ががたがたふるえて返事が出来ない。男は拳骨を振りあげながら、つかつかと傍そばへ寄って行った。 ﹁うぬ、売ばい女た奴め﹂ その瞬間に戸口が開いて、泥まみれの木サ履ボを穿いて頭巾つきのマントをかぶった子供が外から帰って来たが、父親の只ならぬ見幕とその怒鳴り声に胆きもをつぶした。 男は子供の顔を見ると、呪いの言葉を中途で止やめて、振りあげた拳を引こめた。そして声もいくらか穏やかになって、女房を押しのけながら、 ﹁彼あっ方ちへ行って寝ろ﹂ それから少年の方へ向きなおって努めて優しい声で、 ﹁お前はここに居な﹂ 子供は恐る恐るマントを脱とり戸口の片隅で木サ履ボをぬいで、そこにじっと突立っていた。 男は炉ばたで両肱を膝についたまま考えに沈んでいたが、やがて顔をあげると、頤あごで子供に合図をした。 ﹁ここへ来い﹂ そして少年を股またの間へ引きよせ、両手でその顔を押えながら、しげしげと打ち眺めた。その子の顔の中に或る面影を見出そうとして、全心全力をそこに集中した。が、そのおどおどしている幼いた弱いけな体に触ると、限りない愛撫の情がおのずから身内に沁みこんで来るのであった。 他よその男に似た面影を見出すことの余り恐ろしさに、二度とこの子の顔を見ない方が優ましだとさえも思った。しかし或る一つの力が、どうしても視線を子の顔の方へ引きつけずにはおかなかった。で、彼は子供の頭を押え、股ももでその繊かぼ細そい腰こ部しを締めつけた――子供は両手を男の膝の上においていたが――そのとき男は、或る憎にく悪しみが、われにもあらず、むらむらっと心中に沸きかえった。 最初は躊躇したけれど、真実を見極めようとする欲求をどうすることも出来なんだ。子供の眼――その凹くぼんだ小さな眼付は、あの男にそっくりだ。その微笑しているような口元も彼あい男つの口だ。それに前歯の少し離れている歯並みといい、取りわけ、茶褐色のもじゃもじゃと濃い髪の毛など、あらゆる細部まで、何一つ間然したところがない。もう駄目だ。やっぱり真実であったか! 女が欺いていたのだ。売ばい女た奴めが、姦夫の子をば亭主の食卓に坐らせていたのだ―― 証拠がそこに、絶えず叫び立てていたではないか。生きた証拠が眼の前に転がっていたのだ。しかし彼はそうした真実をも信じまいとして、そしてもっと疑い迷うべき理由を見出そうとして、自分自身と闘った。 男は長い間、この少年をば自分の血を分けた子供と信じていたものだから、親身に可愛がって、その生おい長たちを見守って来たのであった。子供は彼をパパと呼んで、いつも一緒に野良へ出ては、彼の傍そばで嬉々として遊んでいた。他ひ人との子だったら、それほど愛情がうつるわけはない。こうした愛憐の情は真に骨肉を分けた子供に対してのみ起るもので、赤の他人だったらとても左そ様うは行かぬものだ。して見れば、たとえこの子の眼付や、髪や、歯並や、口元が他人に似ているらしく見えたとしても、それは単に想像でそんな風に思われたのではないだろうか―― そのとき、ふと、呻くような声が寂じゃ寞くまくを破った。男は聞き耳を欹たてると、その声がだんだん戸口の方へ近づいて来た。 何だか引掻く音。つづいてウウという唸り声。 男は子供を突離すと、子供はそのまま炉ばたで余念もなく、燃えている薪をいじくりはじめた。 男は窓をあけて外を覗いたが、すぐにぴしゃりと締めきった。戸口の向うに大きな真黒なものがうずくまって、鼻っ面を地じべ面たにつけ、眼玉が暗がりにぎらぎらしているのを見たのであった。 男は室へやの隅から鉄砲を持ちだすが早いか、銃身をはねかえして薬た莢まを二ふた個つ挿しこんで、それから、射撃するために窓を開けようとしたが、ふと、子供が銃声に怖おびえてはいけないと気づいたので、鉄砲を一旦卓テー子ブルの上において、 ﹁おい、母ちゃんの方へ行って、吃びっ驚くりしないように左そ様ういっておやり。今パパがウールトオの狂きち犬がいいぬを射し止とめるからな﹂ 子供は此こっ方ちへ振りむいた。今まで炉の前にしゃがんでいたのが、燈あか火りを真ま正と面もにうけてひょいと起たちあがったところを見ると、それが背のっ高ぽうのジャッケに酷そっ似くりではないか。似たとはおろか、恐ろしいほど似ているのだ。 男は憤いか恚り心頭に発して、思わず身をかがめて子供を手許へ引きよせたが、その瞬間にアッといって呪いの言葉も喉につかえた。というのは、子供の頬っぺたの、恰度唇くちの切れ目のところに、鳶色の痣あざが一つあるのが目に止まった。それはごく小さいけれど、背のっ高ぽうのジャッケの頬っぺたにある痣とそっくりそのままだった。しかもジャッケは、その愛嬌痣をばひどく自慢にしていたのであった。 迷い心ががらりと崩れた。そうだ、此こい奴つは自分の子供じゃない。やっぱり他ひ人との子であったのだ――と思うと、眼の前が急にまっ暗になった。炉に燃えさかっている火ほの焔おが胸に突き入って、肉を灼きただらせるのを感じた。あまりのことに物がいえない。呪いの言葉さえも出ない。 彼はいきなり子供へ跳びかかって、襟くびをひっ攫つかんだ。 ﹁出て行け、もう見るのも厭だ。行きアがれ﹂ 少年は出されまいとして頑張ったけれども、男はぐいぐい戸口へ引ぱって行って、颯さっと戸を開けると、汚い犬猫でも追い出すように、子供を外へ突きとばすが早いか、ぴしゃりと締めきった。 と、猛犬の凄まじい呻うなり――それにつづいてひいと魂たま消ぎる子供の声が闇をつん裂いた。 男は気抜けがしたように、呆然と突立っていた。 母親はこの物音を聞きつけて奥から駆けだして来たが、子供の姿はなくて、亭主が独り凄い眼つきをして戸口に佇たっているのを見ると、仰天して喚きたてた。 ﹁お前さん、何をしたんだね?﹂ 外ではまた助けを呼ぶ声。 ﹁母アちゃーん。母アちゃーん……﹂ ﹁おお、坊や。坊や﹂ 女房は狂きち人がいのようになって戸そ外とへ飛びだした。 石段の下に仆たおれていた子供は、顔は狂犬の牙でめちゃくちゃに咬み裂かれて、もう虫の息だった。犬はなおも獲物へ喰いつこうと猛り狂うていたが、女房はそれを物ともせずに、呪いと歎きの言葉を口走りながら傍そばへ飛んで行って子供を抱きあげた。 彼女は子供を卓テー子ブルの上に臥ねかした。子供は、無惨にも喉笛を喰い裂かれ、呼い吸きは小刻みにハアハアいっているばかりだったが、彼女はその児この体にしがみついて、処嫌わず接くち吻づけをした――泥まみれになった哀れな頭に、血だらけの小さな顔に、それから、ぱっくり開いたまま最期の呼い吸きに喘あえいでいるその唇に―― 男は床に突伏して、両眼を閉じ耳を塞いで、涙に咽むせびながら祈った。 ﹁おお、坊や……聖母さま、ど、どうぞ坊やをお救けなすって下さい!﹂