前がき
アナトール・フランスは本ほん名みょうをアナトール・チボーといい、フランスでも第だい一流りゅうの文学者であります。千八百四十四年、パリの商しょ家うかに生まれ、少年の頃から書しょ物もつの中で育ったといわれるくらい沢たく山さんの本を読みました。それもただ沢たく山さんの本を読んだというだけでなく、昔の偉えらい学者や作さっ家かの書いた本を実じつに楽しんで読よんだのです。
彼は、詩し、小しょ説うせつ、戯ぎき曲ょく、評ひょ論うろん、伝でん記き、その他たいろいろなものを書かきましたが、すべて、立りっ派ぱな作品として長く残のこるようなものが多く、中でも、小説と随ずい筆ひつとには、世せか界いて的きな傑けっ作さくが少なくありません。
ここにのせた﹁母の話はなし﹂は、その追つい憶おく風ふうの小説﹃ピエール・ノジエール﹄の中の一章しょうで、これだけ読よめばアナトール・フランスがみんなわかるというようなものではありませんけれど、まずまず、どんな人か見けん当とうがつくでしょう。
非常に物ものしりですが、わざわざむずかしいことをいわない。なんでもないことをいっているようで、よく読よんでみると、なかなか誰だれにでもいえないことをいっている。ちょっと皮ひに肉くなところがありますが、優やさしい微びし笑ょうをたたえた皮肉で、世の中の不正や醜みにくさに、それとなく鋭するどい鋒ほこ先さきを向けています。
何よりも、力りきみ返かえること、大おお声ごえを立てることが嫌きらいです。どんなことでも、静かに話せばわかり、また、静かに話はなし合あわなければ面おも白しろくないという主しゅ義ぎなのです。
熱ねつ情じょうも時には素す晴ばらしい仕事をさせる武ぶ器きですが、冷れい静せいは常に物の道理を考えさせる唯ゆい一いつの力です。
アナトール・フランスは、また、世界で屈くっ指しの名めい文ぶん家かです。文章は平へい明めいで微びみ妙ょうで調ちょ子うしが整ととのっていて、その上自然な重々しさをもっています。これを澄すんだ泉の水にたとえた人がいますが、実じっ際さいフランス語でこれを読むと、もう百倍も美うつくしい文章だということがわかります。
千九百二十四年、すなわち大正十三年に、彼は死しにました。これで一時じだ代いが終わったといわれるほど大きな事じけ件んでありました。︵訳者︶
﹁わたしには、どうも想そう像ぞう力りょくっていうものがなくってね。﹂と、母はよくいったものだ。
﹁想そう像ぞう力りょくがない﹂と彼かの女じょがいったのは、それは想そう像ぞう力りょくといえば、小しょ説うせつを作るというようなことだけをいうものと思おもっていたからで、その実じつ、母は自じぶ分んでは知しらずにいるのだけれど、およそ文ぶん章しょうでは書きあらわせないような、まことに愛あいすべき、一種しゅ特とく別べつな想像力をもっていたのだ。母は家かて庭い向むきの奥おくさんという性たちの人で、家うちの中の用事にかかりっきりだった。しかし、彼かの女じょのものの考え方には、どことなく面おも白しろいところがあったので、家うちの中なかのつまらない仕しご事ともそのために活かっ気きづき、潤うるおいが生しょうじた。母は、ストーヴや鍋なべや、ナイフやフォークや、布ふき巾んやアイロンや、そういうものに生いの命ちを吹ふきこみ、話をさせる術じゅつを心得ていた。つまり彼女は、たくまないお伽とぎ話ばなしの作さく者しゃだった。母はいろいろなお話はなしをして、僕ぼくを楽たのしませてくれたが、自じぶ分んではなんにも考え出だせないと思っていたものだから、僕の持っていた絵えほ本んの絵えを土どだ台いにしてお話はなしをしてくれたものだ。
これから、その母の話はなしというのを一つ二つ紹しょ介うかいするが、僕は出で来きるだけ彼女の話しっ振ぷりをそのまま伝つたえることにしよう。これがまた素すて敵きなのである。
学校
誰だれがなんといっても、ジャンセエニュ先せん生せいの学がっ校こうは、世せか界いじ中ゅうにある女の子の学がっ校こうのうちで一番いい学がっ校こうです。そうじゃないなんて思おもったり、いったりする者ものがあったら、それこそ神様を敬うやまわないで、人の悪わる口くちをいう人だといってやります。ジャンセエニュ先せん生せいの生せい徒とはみんなおとなしくて、勉べん強きょ家うかです。ですから、この小さな人たちがじっとお行ぎょ儀うぎよくしているところは、見ていてこんないい気きも持ちのことはありません。ちょうど、それだけの数すうの小さな壜びんが並ならんでいるようで、ジャンセエニュ先せん生せいは、その壜びんの一つ一つへ学問という葡ぶど萄うし酒ゅをつぎ込こんでいらっしゃるのだという気きがします。
ジャンセエニュ先せん生せいは高い椅い子すに姿しせ勢いを真まっ直すぐにして腰こし掛かけていらっしゃいます。厳げん格かくですけれど、優やさしい先せん生せいです。髪かみはひっつめに結ゆって、黒くろの肩かたマントをしていらっしゃる、もうそれだけで、先せん生せいを敬うやまう気きも持ちがおこると一しょに、先せん生せいがどことなく好すきになるのです。
ジャンセエニュ先せん生せいは、なんでもよくお出で来きになるのですが、この小さな生せい徒とたちに先まず計けい算さんの仕しか方たをお教おしえになります。先せん生せいはローズ・ブノワさんにこうおっしゃいます。
﹁ローズ・ブノワさん、十二から四つ引ひいたら、幾いくつ残のこりますか。﹂ ﹁四つ。﹂と、ローズ・ブノワさんは答こたえます。 ジャンセエニュ先せん生せいはこの答こたえではお気きに入いりません。 ﹁じゃ、あなたは、エムリーヌ・カペルさん、十二から四つ引ひいたら、幾いくつ残のこりますか。﹂ ﹁八つ。﹂と、エムリーヌ・カペルさんは答こたえます。 そこで、ローズ・ブノワさんはすっかり考かんがえ込こんでしまいます。ジャンセエニュ先せん生せいのところに八つ残のこっているということはわかっていますが、それが八つの帽ぼう子しか、八つのハンケチか、それとも、八つの林りん檎ごか、八つのペンかということがわからないのです。もうずいぶん前まえから、そこのところがわからないで頭あたまを悩なやましていたのでした。六の六倍ばいは三十六だといわれても、それは三十六の椅い子すなのか、三十六の胡くる桃みなのかわからないのです。ですから、算さん術じゅつはちっともわかりません。 反はん対たいに、聖せい書しょのお話は大たい変へんよく知っています。ジャンセエニュ先せん生せいの生せい徒とのうちでも、地ちじ上ょうの楽らく園えんとノアの方はこ舟ぶねの事ことをローズ・ブノワさんのように上じょ手うずにお話しできる生せい徒とは一人もいません。ローズ・ブノワさんは、その楽らく園えんにある花の名なま前えを全ぜん部ぶと、その方はこ舟ぶねに乗のっていた獣けものの名前を全部知しっています。それから、ジャンセエニュ先せん生せいと同じ数だけのお伽とぎ話ばなしを知っています。鴉からすと狐きつねの問もん答どう、驢ろ馬ばと小犬の問答、雄おん鶏どりと雌めん鶏どりの問答などを残のこらず知っています。動どう物ぶつも昔むかしは口をきいたということを人ひとから聞きいても、ローズ・ブノワさんはちっとも驚おどろきません。動どう物ぶつが今ではもう口くちをきかないなんていう人ひとがあったら、かえって驚いたでしょう。ローズ・ブノワさんには、自じぶ分んの家の大きな犬いぬのトムと小ちいさなカナリヤのキュイップの言こと葉ばがちゃんとわかるのです。実じっ際さい、それはローズ・ブノワさんの思おもっている通りです。動どう物ぶつはいつの時じだ代いにも口をききましたし、今いまでもまだ口をきくのです。しかし、鳥とりや獣けものは自分のお友だちにしか口をききません。ローズ・ブノワさんは動どう物ぶつが好すきで、動どう物ぶつの方でもローズ・ブノワさんが好すきです。だからこそ鳥とりや獣けもののいうことがわかるのです。相あい手ての気きも持ちをのみ込こむのには、お互たがいに仲なかよくし合うことが何なによりです。 今きょ日うも、ローズ・ブノワさんは読よみ方かたで習ならったところをちっとも間まち違がえずに諳あん誦しょうしました。それで、いいお点てんをいただきました。エムリーヌ・カペルさんも、算さん術じゅつの時じか間んがよく出で来きたので、いいお点てんをいただきました。 学校から帰かえって来くると、エムリーヌ・カペルさんは、いいお点てんをいただいたということをお母さんにお話はなししました。それから、その後あとでこういいました―― ﹁いいお点てんって、なんの役やくに立たつの、ねえ、お母かあさん?﹂ ﹁いいお点っていうものはね、なんの役やくにも立たたないんですよ。﹂と、エムリーヌのお母かあさんはお答こたえになりました。﹁それだからかえって、いただいて自じま慢んになるのです。そのうちに、あなたもわかってきますよ。いちばん尊とうとい御ごほ褒う美びっていうのは、名めい誉よにだけなって、別べつに得とくにはならないような御ごほ褒う美びです。﹂ 大きいものの過あやまち 道みちというものは川かわによく似にています。それは、川かわというものがもともと道みちだからです。つまり、川というのは自しぜ然んに出で来きた道で、人は七里りひと跳とびの靴くつをはいてそこを歩き廻まわるのです。七里りひと跳とびの靴くつというのは船ふねのことです。だって、船ふねのことをいうのにこれよりいい名なま前えがありますか? ですから、道みちというのは、人にん間げんが人間のためにこしらえた川のようなものです。 道みちは、川の表ひょ面うめんのように平たいらで、綺きれ麗いで、車くるまの輪わや靴くつの底そこをしっかりと、しかし気きも持ちよく支ささえてくれます。これはわたしたちのお祖じい父さま様が方たが作つくって下くださったものの中なかでもいちばん立りっ派ぱなものです。このお祖じい父さま様が方たはお亡なくなりになった後あとにお名なま前えが残のこっていません。わたしたちは、ただそのお祖じい父さま様が方たがいろいろいいことをして下くださったということを知しっているだけです。ほんとうに有あり難がたいものですよ、道みちっていうものは。そうでしょう、道みちがあるお蔭かげで、方ほう々ぼうの土と地ちに出来る品しな物ものがどんどんわたしたちのところへ運はこばれて来ますし、お友ともだち同どう士しも楽らくに往いったり来きたりすることが出来ます。 それで今きょ日うも、お友ともだちのところへ行こうと思って、そのお友だちはジャンというのですが、ロジェとマルセルとベルナールとジャックとエチエンヌとは国こく道どうへさしかかりました。国こく道どうは日に照てらされて、きいろい綺きれ麗いなリボンのように牧まき場ばや畑はたけに沿そって先へと伸のび、町や村を通りぬけ、人の話では、船ふねの見える海まで続つづいているということです。 五人の仲なか間まはそんな遠とおくまでは行きません。けれども、お友ともだちのジャンの家いえへ行くのには、たっぷり一キロは歩かなければならないのです。 そこで五人は出でかけました。お母かあさんにちゃんとお約やく束そくをしたので、五人だけで行いってもいいというお許ゆるしが出たのです。ふざけないで歩くこと、決けっして傍わき道みちをしないこと、馬や車をよけること、五人のうちで一番ばん小さいエチエンヌのそばを決して離はなれないこと、そういうお約やく束そくをして来きたのです。 そして五人は出でかけました。一列れつになって規きそ則くた正だしく進んで行きます。これくらいきちんとして出かければ、申もうし分ぶんはありません。しかし、それほど立りっ派ぱで一いっ糸しみ乱だれないなかに、一つだけいけないところがあります。エチエンヌが小ちいさすぎるのです。 エチエンヌは非常な勇ゆう気きを奮ふるい起こします。一生しょ懸うけ命んめい、足を速はやめます。短みじかい脚あしを精せいいっぱいにひろげます。まだその上に、腕うでを振ふります。しかし、なんといっても、小ちいさすぎます。どうしても仲なか間まについて行けません。遅おくれてしまいます。これはわかりきったことです。哲てつ学がく者しゃといわれる人たちは、同じ原げん因いんがあればいつでも同おなじ結けっ果かになるということを知っています。しかし、ジャックにしてもベルナールにしても、マルセルにしても、またロジェにしても、哲てつ学がく者しゃではありません。四人は自じぶ分んの脚あしに応おうじた歩き方をします。可かわ哀いそうなエチエンヌも、やっぱり自分の脚あし相そう応おうに歩あるいているのです。調ちょ子うしが揃そろう筈はずがありません。エチエンヌは走はしります。息いきを切きらします。声を出します。それでも遅おくれてしまいます。 大きい人たちは、つまりお兄にいさんたちなんですから、待まってやればいいのに、エチエンヌの足にあわせて歩あるいてやればいいのにと思うでしょう。ところがそれは駄だ目めなのです。そんな心ここ掛ろがけは、この子こたちにはそもそも註ちゅ文うもんするだけ無む理りなのです。そういうところは、この子たちも大おと人なも同おなじです。﹁進すすめッ﹂と、世せけ間んの強つよい人たちはいいます。そうして弱よわい人ひとたちをおいてきぼりにします。ですが、このお話はなしがどうなるか、おしまいまできいていらっしゃい。 ところで、この四人にんの、大きい人たち、強つよい人たち、元げん気きな人ひとたちは、急きゅうに立たちどまります。地じめ面んに一匹ぴきの生きものが跳とんでいるのを見つけたのです。なるほど跳とぶはずです、その生いきものというのは蛙かえるで、道みちばたの草くさ原はらまで行こうと思っているのです。その草原は蛙かえるさんのお国です。蛙さんには大たい切せつなお国です。そこの小おが川わのそばに自分のお屋やし敷きがあるんですから。そこで蛙かえるさんは跳とんで行きます。 蛙というものは、天てん然ねん自しぜ然んの細さい工くも物のとして、これはたいしたものです。 この蛙は緑みど色りいろです。まるで青い木の葉のような恰かっ好こうをしています。そうして、そういう恰かっ好こうをしているので、なんだか素す晴ばらしくみえます。ベルナールとロジェとジャックとマルセルは、それを追おいかけはじめます。エチエンヌのことも、真まっ黄きい色ろな綺きれ麗いな道のことも忘れてしまいます。お母かあさんとのお約やく束そくも忘わすれてしまいます。もう四人は草くさ原はらの中へはいっています。しばらくすると、草が深ふかく茂しげっている柔やわらかい地じめ面んに、足がめり込こんでいくのがわかります。もう少し行くと、膝ひざのところまで泥どろの中にはまり込こみます。草で見えなかったのですが、そこは沼になっていたのです。 四人は、やっとこさでそこから足をひきぬきました。靴くつも、靴くつ下したも、腓ふくらはぎも真まっ黒くろです。緑の草くさ原はらの精せいが、いいつけを守まもらない四人の者に、こんな泥どろのゲートルをはかせたのです。 エチエンヌはすっかり息いきを切らして四人に追おいつきます。四人がそんなゲートルをはかされているのを見ると、喜よろこんでいいのか、悲かなしんでいいのかわからないような気きも持ちです。そこで、大きい人や強つよい人には大たい変へんな災さい難なんが降りかかって来くるということを、無むじ邪ゃ気きな頭の中でいろいろと考かんがえてみます。ゲートルをはかされた四人の方ほうは、しおしおとひっかえします。だって、そんな恰かっ好こうをして、お友ともだちのジャンのところへ行いけるはずがないでしょう? 四人がお家へ帰かえったら、みんなのお母かあさんは、その脚あしをごらんになって、四人が悪わるいことをしたということがちゃんとおわかりになるでしょう。反はん対たいに、小ちいさなエチエンヌの清せい浄じょ無うむ垢くなことは、その薔ば薇らいろの腓ふくらはぎに、後ごこ光うのように現あらわれているでしょう。 挿絵 大野隆徳
﹁ローズ・ブノワさん、十二から四つ引ひいたら、幾いくつ残のこりますか。﹂ ﹁四つ。﹂と、ローズ・ブノワさんは答こたえます。 ジャンセエニュ先せん生せいはこの答こたえではお気きに入いりません。 ﹁じゃ、あなたは、エムリーヌ・カペルさん、十二から四つ引ひいたら、幾いくつ残のこりますか。﹂ ﹁八つ。﹂と、エムリーヌ・カペルさんは答こたえます。 そこで、ローズ・ブノワさんはすっかり考かんがえ込こんでしまいます。ジャンセエニュ先せん生せいのところに八つ残のこっているということはわかっていますが、それが八つの帽ぼう子しか、八つのハンケチか、それとも、八つの林りん檎ごか、八つのペンかということがわからないのです。もうずいぶん前まえから、そこのところがわからないで頭あたまを悩なやましていたのでした。六の六倍ばいは三十六だといわれても、それは三十六の椅い子すなのか、三十六の胡くる桃みなのかわからないのです。ですから、算さん術じゅつはちっともわかりません。 反はん対たいに、聖せい書しょのお話は大たい変へんよく知っています。ジャンセエニュ先せん生せいの生せい徒とのうちでも、地ちじ上ょうの楽らく園えんとノアの方はこ舟ぶねの事ことをローズ・ブノワさんのように上じょ手うずにお話しできる生せい徒とは一人もいません。ローズ・ブノワさんは、その楽らく園えんにある花の名なま前えを全ぜん部ぶと、その方はこ舟ぶねに乗のっていた獣けものの名前を全部知しっています。それから、ジャンセエニュ先せん生せいと同じ数だけのお伽とぎ話ばなしを知っています。鴉からすと狐きつねの問もん答どう、驢ろ馬ばと小犬の問答、雄おん鶏どりと雌めん鶏どりの問答などを残のこらず知っています。動どう物ぶつも昔むかしは口をきいたということを人ひとから聞きいても、ローズ・ブノワさんはちっとも驚おどろきません。動どう物ぶつが今ではもう口くちをきかないなんていう人ひとがあったら、かえって驚いたでしょう。ローズ・ブノワさんには、自じぶ分んの家の大きな犬いぬのトムと小ちいさなカナリヤのキュイップの言こと葉ばがちゃんとわかるのです。実じっ際さい、それはローズ・ブノワさんの思おもっている通りです。動どう物ぶつはいつの時じだ代いにも口をききましたし、今いまでもまだ口をきくのです。しかし、鳥とりや獣けものは自分のお友だちにしか口をききません。ローズ・ブノワさんは動どう物ぶつが好すきで、動どう物ぶつの方でもローズ・ブノワさんが好すきです。だからこそ鳥とりや獣けもののいうことがわかるのです。相あい手ての気きも持ちをのみ込こむのには、お互たがいに仲なかよくし合うことが何なによりです。 今きょ日うも、ローズ・ブノワさんは読よみ方かたで習ならったところをちっとも間まち違がえずに諳あん誦しょうしました。それで、いいお点てんをいただきました。エムリーヌ・カペルさんも、算さん術じゅつの時じか間んがよく出で来きたので、いいお点てんをいただきました。 学校から帰かえって来くると、エムリーヌ・カペルさんは、いいお点てんをいただいたということをお母さんにお話はなししました。それから、その後あとでこういいました―― ﹁いいお点てんって、なんの役やくに立たつの、ねえ、お母かあさん?﹂ ﹁いいお点っていうものはね、なんの役やくにも立たたないんですよ。﹂と、エムリーヌのお母かあさんはお答こたえになりました。﹁それだからかえって、いただいて自じま慢んになるのです。そのうちに、あなたもわかってきますよ。いちばん尊とうとい御ごほ褒う美びっていうのは、名めい誉よにだけなって、別べつに得とくにはならないような御ごほ褒う美びです。﹂ 大きいものの過あやまち 道みちというものは川かわによく似にています。それは、川かわというものがもともと道みちだからです。つまり、川というのは自しぜ然んに出で来きた道で、人は七里りひと跳とびの靴くつをはいてそこを歩き廻まわるのです。七里りひと跳とびの靴くつというのは船ふねのことです。だって、船ふねのことをいうのにこれよりいい名なま前えがありますか? ですから、道みちというのは、人にん間げんが人間のためにこしらえた川のようなものです。 道みちは、川の表ひょ面うめんのように平たいらで、綺きれ麗いで、車くるまの輪わや靴くつの底そこをしっかりと、しかし気きも持ちよく支ささえてくれます。これはわたしたちのお祖じい父さま様が方たが作つくって下くださったものの中なかでもいちばん立りっ派ぱなものです。このお祖じい父さま様が方たはお亡なくなりになった後あとにお名なま前えが残のこっていません。わたしたちは、ただそのお祖じい父さま様が方たがいろいろいいことをして下くださったということを知しっているだけです。ほんとうに有あり難がたいものですよ、道みちっていうものは。そうでしょう、道みちがあるお蔭かげで、方ほう々ぼうの土と地ちに出来る品しな物ものがどんどんわたしたちのところへ運はこばれて来ますし、お友ともだち同どう士しも楽らくに往いったり来きたりすることが出来ます。 それで今きょ日うも、お友ともだちのところへ行こうと思って、そのお友だちはジャンというのですが、ロジェとマルセルとベルナールとジャックとエチエンヌとは国こく道どうへさしかかりました。国こく道どうは日に照てらされて、きいろい綺きれ麗いなリボンのように牧まき場ばや畑はたけに沿そって先へと伸のび、町や村を通りぬけ、人の話では、船ふねの見える海まで続つづいているということです。 五人の仲なか間まはそんな遠とおくまでは行きません。けれども、お友ともだちのジャンの家いえへ行くのには、たっぷり一キロは歩かなければならないのです。 そこで五人は出でかけました。お母かあさんにちゃんとお約やく束そくをしたので、五人だけで行いってもいいというお許ゆるしが出たのです。ふざけないで歩くこと、決けっして傍わき道みちをしないこと、馬や車をよけること、五人のうちで一番ばん小さいエチエンヌのそばを決して離はなれないこと、そういうお約やく束そくをして来きたのです。 そして五人は出でかけました。一列れつになって規きそ則くた正だしく進んで行きます。これくらいきちんとして出かければ、申もうし分ぶんはありません。しかし、それほど立りっ派ぱで一いっ糸しみ乱だれないなかに、一つだけいけないところがあります。エチエンヌが小ちいさすぎるのです。 エチエンヌは非常な勇ゆう気きを奮ふるい起こします。一生しょ懸うけ命んめい、足を速はやめます。短みじかい脚あしを精せいいっぱいにひろげます。まだその上に、腕うでを振ふります。しかし、なんといっても、小ちいさすぎます。どうしても仲なか間まについて行けません。遅おくれてしまいます。これはわかりきったことです。哲てつ学がく者しゃといわれる人たちは、同じ原げん因いんがあればいつでも同おなじ結けっ果かになるということを知っています。しかし、ジャックにしてもベルナールにしても、マルセルにしても、またロジェにしても、哲てつ学がく者しゃではありません。四人は自じぶ分んの脚あしに応おうじた歩き方をします。可かわ哀いそうなエチエンヌも、やっぱり自分の脚あし相そう応おうに歩あるいているのです。調ちょ子うしが揃そろう筈はずがありません。エチエンヌは走はしります。息いきを切きらします。声を出します。それでも遅おくれてしまいます。 大きい人たちは、つまりお兄にいさんたちなんですから、待まってやればいいのに、エチエンヌの足にあわせて歩あるいてやればいいのにと思うでしょう。ところがそれは駄だ目めなのです。そんな心ここ掛ろがけは、この子こたちにはそもそも註ちゅ文うもんするだけ無む理りなのです。そういうところは、この子たちも大おと人なも同おなじです。﹁進すすめッ﹂と、世せけ間んの強つよい人たちはいいます。そうして弱よわい人ひとたちをおいてきぼりにします。ですが、このお話はなしがどうなるか、おしまいまできいていらっしゃい。 ところで、この四人にんの、大きい人たち、強つよい人たち、元げん気きな人ひとたちは、急きゅうに立たちどまります。地じめ面んに一匹ぴきの生きものが跳とんでいるのを見つけたのです。なるほど跳とぶはずです、その生いきものというのは蛙かえるで、道みちばたの草くさ原はらまで行こうと思っているのです。その草原は蛙かえるさんのお国です。蛙さんには大たい切せつなお国です。そこの小おが川わのそばに自分のお屋やし敷きがあるんですから。そこで蛙かえるさんは跳とんで行きます。 蛙というものは、天てん然ねん自しぜ然んの細さい工くも物のとして、これはたいしたものです。 この蛙は緑みど色りいろです。まるで青い木の葉のような恰かっ好こうをしています。そうして、そういう恰かっ好こうをしているので、なんだか素す晴ばらしくみえます。ベルナールとロジェとジャックとマルセルは、それを追おいかけはじめます。エチエンヌのことも、真まっ黄きい色ろな綺きれ麗いな道のことも忘れてしまいます。お母かあさんとのお約やく束そくも忘わすれてしまいます。もう四人は草くさ原はらの中へはいっています。しばらくすると、草が深ふかく茂しげっている柔やわらかい地じめ面んに、足がめり込こんでいくのがわかります。もう少し行くと、膝ひざのところまで泥どろの中にはまり込こみます。草で見えなかったのですが、そこは沼になっていたのです。 四人は、やっとこさでそこから足をひきぬきました。靴くつも、靴くつ下したも、腓ふくらはぎも真まっ黒くろです。緑の草くさ原はらの精せいが、いいつけを守まもらない四人の者に、こんな泥どろのゲートルをはかせたのです。 エチエンヌはすっかり息いきを切らして四人に追おいつきます。四人がそんなゲートルをはかされているのを見ると、喜よろこんでいいのか、悲かなしんでいいのかわからないような気きも持ちです。そこで、大きい人や強つよい人には大たい変へんな災さい難なんが降りかかって来くるということを、無むじ邪ゃ気きな頭の中でいろいろと考かんがえてみます。ゲートルをはかされた四人の方ほうは、しおしおとひっかえします。だって、そんな恰かっ好こうをして、お友ともだちのジャンのところへ行いけるはずがないでしょう? 四人がお家へ帰かえったら、みんなのお母かあさんは、その脚あしをごらんになって、四人が悪わるいことをしたということがちゃんとおわかりになるでしょう。反はん対たいに、小ちいさなエチエンヌの清せい浄じょ無うむ垢くなことは、その薔ば薇らいろの腓ふくらはぎに、後ごこ光うのように現あらわれているでしょう。 挿絵 大野隆徳