テルモンド市の傍かたはらを流れるエスコオ河に、幾つも繋いである舟の中に、ヘンドリツク・シツペの持舟で、グルデンフイツシユと云ふのがある。舳に金きん色しよくに光つてゐる魚うをの標しる識しが附いてゐるからの名である。シツペの持舟にこれ程の舟が無いばかりでは無い、テルモンド市のあらゆる舟の中でも、これ程立派で丈夫な舟は無い。この大きい、茶色の腹に、穀物や材木や藁や食料を一ぱい積んで、漆塗の黒い煙突から渦巻いた煙を帽の上の鳥毛のやうに立たせて走るのを見ると、誰でも目を悦ばせずにはゐられない。 今宵は外の舟と同じやうに、グルデンフイツシユも休んでゐる。太い綱で繋がれてゐる。午後七時には、もう舟の中が暗くなつたが、横腹に開いてゐる円い窓からは、魚の目のやうに光る燈ともしびがさす。これはブリツジの下の小部屋で、これから聖ニコラウスを祭らうとしてゐるからである。壁に取り附けてある真鍮の燭台には、二本の魚ぎよ蝋らふが燃えてゐる。鉄の炉は河水が堰を衝いて出る時のやうな音を立ててゐる。 ネルラ婆あさんが戸を開けて這入つて来た。其跡から亭主のトビアス・イエツフエルスが這入つた。これが持主シツペから舟を預けられてゐる爺いさんである。 部屋の中から若々しい女の声がした。﹁おつ母さん。わたしあの黒い川かは面つらに舟の窓の明りが一つ一つ殖えるのを見てゐますの。﹂ ﹁さうかい。だがね、お前、窓に明りが附くのを、そんなにして長い間見てゐるのではないだらう。ドルフが帰るのを待つてゐるのだらう。﹂ ﹁おつ母さん好く中あたりますことね。﹂かう云つて若い女は窓の下から炉の傍へ歩み寄つて、腰を卸しながら、持つてゐた小さい鍼を帽子に插した。 ﹁それは、お前、おつ母さんでなくつて、誰が御亭主の事を思つてゐる若いお上さんの胸が分かるものかね。﹂ かう云ひながら、婆あさんは炉の蓋を開けて、鍋を掛けた。炉はそれが嬉しいと見えて、ゆうべ市長さんの代かは替りの祝に打つた大砲のやうな音をさせてゐる。それから婆あさんは指を唾つばきで濡らして、蝋燭の心を切つた。 部屋は小さい。穹きう窿りうの形になつた天井と、桶の胴のやうに木を並べて拵へた壁とを見れば、部屋は半分に割つた桶のやうだと云つても好い。壁はどこも児テエルに包まれて、殊に炉に近い処は黒檀のやうに光つてゐる。卓が一つ、椅子が二つある。寝ねだ台いの代りになる長持のやうな行李がある。板を二枚中なか為しき切りにした白木の箱がある。箱に入れてあるのは男女の衣類で、どれも魚の臭がする。片隅には天井から網が弔つつてある。其の傍には児テエルに児を塗つた雨外套、為しご事と着ぎ、長靴、水を透さない鞣革の帽子、羊皮の大手袋などが弔つてある。マドンナの画ゑが額くの上の輪飾になつてゐるのは玉葱である。懸時計の下に掛けてあるのは、腮あごを貫ぬき通した二十匹ばかりの鯡にしんで、腹が銅あか色がねいろに光つてゐる。 この一切の景けい物ぶつは皆黄いろい蝋燭の火で照し出されてゐる。大きい影を天井に印いんしてゐる蝋燭の火である。併しこんな物よりは若いよめのリイケの方が余程目を悦ばせる。広い肩、円い項うなじ、丈夫な手、ふつくりして日に焼けた頬、天びろ鵝う絨どのやうに柔い目、きつと結んだ、薄くない唇、それに背うし後ろで六遍巻いてある、濃い、黒い髪。どこを見ても目を悦ばせるには十分である。併し此女の表情は亭主のドルフが傍にゐる時と、ゐない時とで違ふ。ゐない時は、やさしく、はにかんでゐるかと思ふと、なぜと云ふこともなく度々陰気な物案じに陥いる。ドルフが出てさへ来れば、情じやうのある口の両脇に二本の※ひだ﹇#﹁ころもへん+辟﹂、U+27783、144-上-2﹈が出来て、上唇を上へ弔り上げる。そして水を離れて日に照された櫂のやうに光る白歯が見える。哀しい追憶を隠す、重い帷たれぬのが開くやうに、眉の間の皺が展のびる。水から引き上げた網の所しよ々〳〵に白魚が光つてゐるやうに、肌の隅々から、喜が赫き出す。そんな時には、リイケはドルフの目をぢつと見て、手を拍つて笑ふのである。 今の処では此女の両方の頬が、炉の隙間を漏る火の光で、干鮭の切身のやうに染まつてゐる。そして手てし為ご事とを見詰めてゐる、黒い目が灰の間から赫く炭火のやうに光つてゐる。併し光つてゐるのはそればかりでは無い。耳輪の金と約束の指輪の銀とも光るのである。 姑しうとめは折々気を附ける。﹁お前らくにしてお出かい。足が冷えはしないかい。﹂穿いてゐるのは、藁を内側に附けた木きぐ沓つである。 ﹁おつ母さん。難有うよ。わたくしこれでお妃きさ様きさまのやうな心持でゐますの。﹂ ﹁なんだつて。あのお妃様のやうだつて。まあ、お待よ。今にわたしが林檎を入れたお菓子を焼いて食べさせて上げるからね。その時どんなにおいしいか、どんなに好い心持がするか、その時さう云つてお聞せ。おや。ドルフが桟橋を渡つて来るやうだよ。粉と、玉子と、牛乳とを買つて来てくれる筈なのだよ。﹂ がつしりした体の男が、此部屋の赤み掛かつた薄暗がりの中へ這入つて来た。物を打ち明けたやうな、笑ゑましげな顔をしてゐる。頭は殆ど天井に届きさうである。﹁おつ母さん、唯今。﹂ 男は帽子を部屋の隅に投げ遣つて、所々の隠しの中から、細心に注意して種々の物を取り出して、それを卓の上に並べてゐる。 やつと並べてしまふと、母が云つた。﹁ドルフや。牛乳を忘れやしないかと思つたが、矢つ張り忘れたね。﹂ ドルフは首を肩の間へ引つ込ませて、口を開あいて、上うへ下したの歯の間から舌の尖を見せて、さも当惑したらしい様子をした。又桟橋を渡つて買ひに往かなくてはならぬかと云ふ当惑である。併しこれと同時に、ドルフはそつとリイケに目食はせをした。これは笑談だと云ふ知らせの目食はせである。 母はそれには気が附かずに、右の拳こぶしで左の掌を打つて云つた。﹁ドルフや。牛乳なしではどうにもしようがないね。わたしが町まで往かなくてはなるまいね。ほんに、お前のやうな大男を子に持つてゐて、これでは。﹂ ﹁まあ、お待なさいよ。今わたしがリイケの椅子の下から、魔法で牛乳を出したらどうでせう。おつ母さん、キスをして下さいますか。さあ、どうです。早く極めて下さい。一つ。二つ。﹂ 母はよめに言つた。﹁どれ、立つて御覧。でないと、お前の御亭主にキスをして遣つて好いか、どうだか、分からないから。﹂ ドルフはリイケの椅子の下にしやがんだ。そして長い間何やら捜す真似をしてゐた。それからやつと手柄顔に牛乳の罐を取り出して、左の拳で腰の脇を押さへながら云つた。﹁さあ。誰がキスをして貰ふのです。えゝ、おつ母さん。﹂ 母は云つた。﹁ドルフや、矢つ張りわたしよりリイケにキスをするが好いよ。蠅は蜜を好くものだからね。﹂ ドルフは摩すり足あしをして、左の手で胸を押さへて、リイケに礼をした。これは上流の人の貴婦人にする礼の真似である。そして云つた。﹁もし。あなたのやうなお美しい方にキスをいたしても宜しうございませうか。﹂かう云つたかと思ふと、ドルフは女房の返事を待たずに、両腋に手を插し込んで、抱いて椅子から起たせた。そして項うなじにキスをした。 リイケはそれでは不承知と見えて、振り向いて唇と唇とを合せた。 ドルフは云つた。﹁ああ、旨かつた。ミルクで煮たお米のやうだつた。﹂ 此時これまで黙つてゐた爺いさんのトビアスが婆あさんに言つた。﹁おい、己達も若い者の真似をしようぢやないか。己はこいつ等が中の好いのを見るのが嬉しくてならん。﹂ ﹁えゝ〳〵、わたし達も丁度あの通りでしたわねえ。﹂ トビアスは婆あさんの頬にキスをした。婆あさんが返報に爺いさんにキスを二度して遣つた。丸で真ま木きを割るやうな音がしたのである。 ドルフが云つた。﹁リイケや。こつちとらもいつまでも中好くしようぜ。﹂ ﹁わたしあなたと中が悪くなる程なら、死んでしまふわ。﹂ ﹁さうか。己はお前より二つ年上だ。お前が十になつた時、己は十二だつたが、今思つて見れば、己はもうあの時からお前が好だつた。それは今とは心持は違ふが。﹂ ﹁あら、それはよして下さいな。わたしとあなたとの識合になつたのは、五月からの事にして下さらなくては厭。それより前の事は、どうぞ言はないで下さいね。どうぞ五月より前の事は言はないとさう云つて頂戴ね。でないと、わたし恥かしくつて、あなたと中好くすることが出来ませんから。﹂かう云つて、リイケは夫の胸に縋つた。そのとたんにリイケが少し身を反らせたので、産うみ月づきになつた女だと云ふことが知れた。 ﹁さあ〳〵これからお菓子を拵へるのだ。﹂婆あさんは先に立つて、ドルフの買つて来た物を蒸むし鍋なべに入れて、杓子で掻き交ぜはじめた。袖を高くたくし上げて、茶色の腕を出して、甲斐々々しく交ぜるのである。交ぜてしまふと、蒸鍋を竈の傍に据ゑて、上に切れを掛けて置く。爺いさんは焼やき鍋なべを出して、玉葱でこすつて、一寸火に掛けて温める。ドルフとリイケとは林檎を剥いて、心を除のけて輪切にしてゐる。 此の時婆あさんが今一つの蒸鍋を出して、水に、粉に、チミアンに、ロオレルと其中へ入れてゐたが、最後に何やらこつそり出して、人に隠すやうに入れて、急いで蓋をして、火に掛けた。 ドルフは何を入れたのか見えなかつたので、第二の蒸鍋の蓋が躍つて、茶色の蒸気が立ち出すや否や、鼻を鍋の方へ向けて、胡くる桃みが這入る程鼻の孔を大きくして嗅いでゐた。併しどうも分からなかつた。そのうち母親が蓋を取つて見さうにするので、ドルフは足を翹つまだてて背うし後ろへ窺ひ寄つた。屈んだり、伸び上がつたり、わざと可を笑かしい風をして近寄つたのである。リイケは横目でそれを見ながら、平手で口を押さへて、笑声を漏さぬやうにしてゐる。ドルフはやう〳〵母親の背後に来て、﹁わあつ﹂と声を出しながら、鍋を覗いた。併しネルラは息子の来るのを知つてゐたので、すぐに蓋をして、振り返つて腰を屈めて礼をした。 ドルフは笑つて云つた。﹁おつ母さん、駄目々々。わたしはちやあんと見ました。シツペの檀那のとこの古猫を掴まへて、魚蝋の蝋で煮てゐるのでせう。﹂ ﹁さうだとも。今にあつちの焼鍋の方では、鼠を焼いて食べさせます。もうわたしに構はないで食事を拵へておくれ。﹂ ドルフはこそ〳〵部屋に附いてゐる板囲の中へ逃げ込んだ。そして糊の附いた上シヤツを上うは衣ぎの上へはおつて、シヤツの裾を振り廻しながら出て来た。母親はふいと振り向いて見て、腰に両手を支へて笑つてゐたが、目からは涙が出て来た。リイケは一しよに笑ひながら手を拍つた。親爺は独り笑はずにゐたが、つと立つて棚から皿を卸して、白シヤツで拭き出した。ネルラ婆あさんはとう〳〵椅子の上に腰を卸して、苦しくなるまで笑つた。 食事は出来た。水に映つた月のやうに皿が光る。錫のフオオクが本銀のやうに赫く。 婆あさんが最後に蓋を切つて味を見て、それから杓子を令れいの杖のやうに竪たてて、﹁さあ、皆お掛、御馳走が始まるよ﹂といつた。 ドルフとリイケとは行李を引き寄せて腰を掛ける。爺いさんは自分が一つの椅子に掛けて、今一つのを傍へ引き寄せて、それにネルラを掛けさせる。 婆あさんが卓の上へ、秘密の第二の蒸鍋を運ぶ。白い蒸気がむら〳〵と立つて、日の当たる雪の消えるやうな音がする。 ﹁シツペさんとこの猫です。わたしにはすぐ分かつた。﹂ドルフは母親が蓋をあける時かう云つた。 皆が皿を出す。婆あさんが盛る。ドルフは自分の皿を手元へ引いて、丁寧に嗅いで見て、突然拳こぶしで卓を打つた。﹁や。リイケ、どうだい。すてきだ。臓物だぜ。﹂秘密は牛の心臓、肝臓、肺臓なんぞを交まぜ煮ににしたフランデレン料理であつた。 爺いさんが云つた。﹁王様は臓物を葡萄酒のソオスで召し上がるさうだが、ネルラが水で煮るとそれよりも旨い。﹂ 食べてしまふと、婆あさんが立つて、焼鍋を竈に掛けて、真木をくべて火を掻き起して、第一の蒸鍋の上の切れを取つた。菓子種はふつくりと溲しう起きしてゐる。すくつて杓子を持ち上げると、長く縷るを引く。それを焼鍋の上に落して、しゆうと云はせて焼くのである。 ﹁早く皿をお出し﹂と云ふと、ドルフが出す。金きん色しよくをして、軟く脆い、出来立の菓子が皿に乗る。﹁先づお父うさんに﹂と云つて出すと、トビアスが﹁いや、リイケ食べろ﹂と云ふ。とう〳〵リイケが二つに割つて、ドルフと一切づつ食べた。次にトビアスの皿へは大きいのが乗る。トビアスは云つた。﹁桟橋から水に映つたお天道様を見るやうに光るぜ。﹂ 菓子種は小こが川はのやうに焼鍋の上に流れる。バタが歌ふ。火がつぶやく。そして誰の皿の上にも釣り上げられた魚うをのやうに、焼立の菓子が落ちて来る。婆あさんは出来損つたのを二つ取つて置いて、それを皿に載せて、爺いさんの傍に腰を卸して食べた。 ドルフが起つて、今日菓子屋が店に出してゐるやうな人形の形をした菓子を焼かうとする。最初に出来たのを、リイケの皿に取つて遣ると、まだ熟よく焼けてゐなかつたので、はじけて形がめちや〳〵になる。それから何遍も焼いて見るうちに、とう〳〵手足のある人形らしい物になつたので、林檎を顔にして、やつと満足した。 トビアスはドルフに言ひ附けて、部屋の隅の木屑の底から、オランダ土産の葡萄酒を出させて自分と倅との杯に注ぐ。二人にんは利きゝ酒ざけの上手らしく首を掉つて味つて見る。 ﹁リイケや。もう二年立つて此祭が来ると、あそこの烟突の附根の下に小さい木沓があるのだ。﹂かう云つたのはトビアスである。 ﹁さうなると愉快だらうなあ﹂と、ドルフが云つた。 リイケの目の中には涙が光つてゐる。其目でドルフの顔を見てささやいた。﹁ほんとにあなたは好い人ねえ。﹂ ドルフはリイケの傍へ摩すり寄つて、臂をリイケの腋に廻した。﹁なに、己は好い人でも悪い人でも無い。只お前を心から可哀く思つてゐる丈さ。﹂ リイケも臂をドルフの腋に絡んだ。﹁わたし、本当にこれまで出逢つた事を考へて見ると、どうして生きてゐられるのだらうと、さう思ふの。﹂ ﹁過ぎ去つた事は過ぎ去つたのだ﹂と、ドルフは慰めた。 ﹁でも折々はわたし早く天に往つて、聖母様にあなたのわたしにして下すつた事を申し上げた方が好いかと思ふの。﹂ ﹁おい。お前が陰気になると、己も陰気になつてしまふ。今夜のやうな晩には、御免だぜ。﹂ ﹁あら。わたしちよいとでもあなたのお心持を悪くしたくはないわ。そんな事をする程なら、わたしの心の臓の血を上げた方が好いわ。﹂ ﹁そんならその綺麗な歯を見せて笑つてくれ。﹂ ﹁わたしなんでもあなたの云ふやうにしてよ。わたしの喜だの悲だのと云ふものは、皆あなたの物なのだから。﹂ ﹁それで好い。己もお前の為にいろんなものになつて遣る。お前のお父つさん、お前の亭主、それからお前の子供だ。さうだらう。少しはお前の子供のやうな処もあるぜ。今に子供が二人になるのだ。﹂ リイケは両手でドルフの頭を挾んで、両方の頬にキスをした。丁度甘うまい物を味ひながらゆつくり啜るやうなキスであつた。﹁ねえ、あなた。生れたら、矢つ張可哀がつて下さるでせうか。﹂ ドルフは誓の手を高く上げた。﹁天道様が証人だ。己の血を分けた子の様に可哀がつて遣る。﹂ 炉の火が音を立てゝ燃える。短くなつた蝋燭がぷつ〳〵云ひながら焔をゆらめかす。今度はネルラ婆あさんが心を切ることを忘れてゐたので、燃えさしが玉のやうに丸くなつて、どろ〳〵した、黄いろい燭涙が長く垂れた。トビアスの赤くなつた頭が暗い板壁をフオンにしてかつきりと画かれてゐる。其傍にはネルラが動かずに、明りを背にしてすわつてゐる。たまに頭を動かすと、明るい反射が額を照すのである。 ﹁おや、リイケどうした﹂と、突然ドルフが叫んだ。リイケが蒼くなつて目を瞑つぶつたのである。 ﹁あの、けふなのかも知れません。午過から少し気分が悪かつたのですが、なんだか急にひどく悪くなつて来ました。あの、子供ですが、若しわたしが助からないやうな事があつても、どうぞ可哀がつて遣つて。﹂ ﹁おつ母さん。どうも胸が裂けるやうで﹂と、云つた切、ドルフは涙を出して溜息をしてゐる。 トビアスは倅の肩を敲いた。﹁しつかりしろ。誰でもかう云ふ時も通らんではならぬのだ。﹂ ネルラは涙ぐんでリイケに言つた。﹁リイケや。おめでたい事なのだから、我慢おしよ。貧乏に暮してゐるものは、お金持より、子供の出来るのが嬉しいのだよ。それに復活祭やニコラウス様の日に生れるのは、別段に難有いのだからね。﹂ トビアスが云つた。﹁おい。ドルフ、お前の方が己よりは足が達者だ。プツゼル婆あさんの所へ走つて往つてくれ。留守の間まは己達がリイケの介抱をして遣るから。﹂ ドルフはリイケの体を抱いて暇を告げた。桟橋が急いで行く足の下にゆらめいた。 ﹁もう往つちまやあがつた﹂と、トビアスが云つた。 ―――――――――――― 夜が大鳥の翼のやうに市いちを掩おほつてゐる。此二三日雪が降つてゐたので、地面の蒼ざめた顔が死人の顔のやうに、ドルフに見えた。丁度干潟を遠く出過ぎてゐた男が、潮の満ちて来るのを見て急いで岸の方へ走るやうに、ドルフは岸に沿うて足の力の及ぶ限り走つてゐる。それでも心臓の鼓動の早さには、足の運びがなか〳〵及ばない。遠い所の瓦ガ斯スの街燈の並んでゐるのを霧に透して見れば、蝋燭を持つた葬の行列のやうである。どうしてさう思はれるのだか、ドルフ自身にも分からない。併しなんだかあの光の群の背うし後ろに﹁死﹂が覗つて居るやうで、ドルフはぞつとした。ふと気が附くと、忍びやかに、足音を立てぬやうに、自分の傍を通り過ぎる、ぎごちない、沈黙の人影がある。﹁あれは人の末期に暇乞をしに、呼ばれて往くのぢやあるまいか﹂と、ドルフは思つた。併し間もなく気が附いて思つた。此土地ではニコラウスの夜に、子供が小さい驢馬を拵へて、それに秣まぐさだと云つて枯草や胡にん蘿じ蔔んを添へて、炉の下に置くことになつてゐる。金のある家では、その枯草や胡蘿蔔の代りに、人形や、口で吹くハルモニカや、おもちやの胡弓や、舟底の台に載せた馬なんぞを、菓子で拵へたのを買ふのである。 ﹁あの影はそれを買ひに往く父てゝ親おやや母親だらう﹂と思つたので、ドルフは重荷を卸したやうな気がして、太い息を衝ついた。 それでも霧の中の瓦斯燈が葬の行列の蝋燭のやうに見えることは、前の通である。その上其火が動き出す。波止場の方で、集まつたり、散つたり、往き違つたり、入り乱れたりする。丸で大きい蛾が飛んでゐるやうである。﹁どうも己は気が変になつたのぢやないか知らん。あの蛾てふちよは、あれは己の頭にゐるのだらう﹂と、ドルフは思つた。 忽ち人声が耳に入つた。岸近く飛びかふのは松たい明まつである。その赤い焔を風が赤旗のやうにゆるがせてゐる。ちらつく火ほか影げにすかして、ドルフが岸を見ると、大勢の人が慌だしげな様子をして岸に立つて何かの合図をしてゐる。中には真つ黒に流れてゐる河水を、俯して見てゐるものもある。街燈は動きはしなかつたが、人の馳せ違ふのと、松明が入り乱れて見えるのとで、街燈も動くやうに見えたのだと、ドルフは悟つた。 忽ち叫んだものがある。﹁ドルフ・イエツフエルスを呼んで来い。あいつでなくては此為しご事とは所詮出来ない。﹂ ﹁丁度好い。ドルフが来た。﹂ぢき傍で一人の若者がかう云つた。 ドルフは此の時やつと集まつてゐる人達を見定めることが出来た。皆友達である。船頭仲間である。劇はげしく手真似をして叫びかはす群が忽ちドルフの周まは囲りへ寄つて来た。中に干ひも魚ののやうな皺の寄つた爺いさんがゐて、ドルフの肩に手を置いた。﹁ドルフ。一人沈みさうになつてゐるのだ。頼む。早く着物を脱いでくれ。﹂ ドルフは俯して暗い水を見た。岸辺の松明を見た。仰いで頭の上にかぶさり掛かつてゐる黒い夜を見た。それから周囲に集まつて居る友達を見た。﹁済まないが、けふはこらへてくれ。女房のリイケが産をし掛けてゐる。生あい憎にく己の命が己の物でなくなつてゐる。﹂ ﹁さう云ふな。おぬしの外には頼む人が無い。﹂かう云ひさして爺いさんは水の滴る自分の着物を指さした。﹁己も子供が三人ある。それでももう二度潜もぐつて見た。どうも己の手にはをへねえ。﹂ ドルフは周囲の友達をずらつと見廻した。﹁いく地がないなあ。一人も助けにはいるものはないのかい。﹂ 爺いさんが又ドルフに薄せまつた。﹁ドルフ。お主がはいらんと云へば、死ぬるまでだ、己がもう一遍はいる。﹂ 川へ松明を向けてゐる人達が叫んだ。﹁や。又あそこに浮いた。手足が見えた。早くしなくちや。﹂ ドルフはいきなり上着をかなぐり棄てた。﹁好し。己がはいる。その代り誰か一人急いでプツゼル婆あさんの所へ往つて、グルデンフイツシユの桟橋迄あれを案内してくれ。﹂それから空中に十字を切つて、歯の間で唱へた。﹁人間のために十字架に死なれた主よ。どうぞ憐をお垂下さい。﹂ ドルフは裸で岸に向つて駆け出した。群ぐん集じゆはあぶなさに息を屏つめてゐる。ドルフは瞳を定めて河を見卸した。松明が血を滴らせてゐる陰険な急流である。其時ドルフは﹁死﹂と目を見合せたやうな気がした。渦巻き泡立つてゐる水は、譬へば大きな鮫が尾で鞭打つてゐるやうである。 ﹁それ又浮いた﹂と人々が叫んだ。 ﹁リイケ。勘辨してくれ。﹂どん底がさつと裂けた。流は牢獄の扉のやうに、ドルフの背の上に鎖された。 群集の中から三人の男が影のやうに舟にすべり込んで纜ともづなを解いた。徐しづかにを操つて、松明の火を波に障さはるやうに低く持つて漕いでゐる。 能く人を殺すエスコオ川は、永遠なる﹁時﹂の瀬の如くに、滔々として流れてゐる。 ―――――――――――― ドルフは水面に二度浮かんで、二度共又潜つた。夜の不慥な影の中に、ドルフの腕が動き、其顔が蒼ざめてゐるのが見えた。 ドルフは氷のやうな水層を蹴て、河のどん底まで沈んで行つたのである。忽ち水に住む霊怪の陰険な係わ蹄なに掛かつたかと思ふやうに、ドルフは両脚の自由を礙さまたげられた。溺死し掛かつてゐる男が両脚に抱き附いたのである。これを振り放さなくては、自分も其男も助からないことが、ドルフに分かつた。両脚は締しめ金がねで締められたやうになつてゐる。二人の間には激しい格闘が始まつた。そして二つの体は次第に河床の泥に埋まつて行く。死を争ふ怨敵のやうに、二人は打ち合ひ咬み合ひ、引つ掻き合つて、膚はだへを破り血を流す。とう〳〵ドルフが上になつた。絡み附いてゐた男の手が弛んだ。そして活動の力を失つた体が、ドルフの傍を水のまに〳〵漂ふことになつた。ドルフもがつかりした。そして危険な弛緩状態に襲はれた。頭が覚えず前屈みになつて、水がごぼ〳〵と口に流れ込むのである。 此時ドルフの目に水を穿うがつて来る松明の光が映つた。ドルフは最後の努力をして、自分がやつと貪どん婪らんな鮫のから奪ひ返した獲ものを、跡の方に引き摩つて浮いた。ドルフはやう〳〵の事で呼吸をすることが出来た。 岸の上の群は騒ぎ立つた。﹁ドルフしつかりしろ﹂と口々に叫んだ。 数すに人んの船頭は河原の木ぎれを拾ひ集めて、火を焚き附けた。焔は螺旋状によぢれて、暗い空へ立ち升のぼる。 ﹁こつちへ泳ぎ附け、ドルフ、こつちだ。我慢しろ。今一息だ。﹂大勢の声が涌くが如くに起つた。 ドルフはやう〳〵岸に泳ぎ附かうとしてゐる。最後の努力をして波を凌いで、死骸のやうになつた男の体を前へ押し遣るやうにして、泳いでゐる。焚火の赤い光が、燃える油を灌そゝぐやうに、ドルフの顔と腕とを照して、傍を漂つて来る男の顔にも当つてゐる。 ドルフはふと傍を漂つてゐる男の顔を見た。そして拳を揮つて一打打つて、水の中に撞き放した。口からは劇怒の叫が発せられた。其男はリイケを辱めて娠はらませた男であつた。ドルフは気の毒なリイケを拾ひ上げて、人に対し、神に対して、正当な女房にして遣つたのである。 ドルフは其男を撞き放した。併し撞き放されて、頭に波の被かぶさつて来るのを感じた其男は、再び鉄よりも堅くドルフにしがみ附いた。そして二人は恐ろしい黒い水の中に沈んで行かうとする。 ドルフの心のうちから、かう云ふ叫声が聞える。﹁死ね。ジヤツク・カルナワツシユ奴。お主とリイケの生む子とは、同じ地を倶に踏むことの出来ない二人だ。﹂ 併しドルフの心のうちからは、今一つかう云ふ叫声が聞える。﹁助かれ。ジヤツク・カルナワツシユ奴。己にもお主の母親の頭を斧で割ることは出来ない。﹂ ―――――――――――― グルデンフイツシユの舟の中では、一時間程持つてゐた娑あさんネルラが叫んだ。﹁おや。あれはドルフがプツゼル婆あさんを連れて帰つたのでせうね。﹂ 果して桟橋が二人の踏む足にゆらいだ。次いでブリツジを踏む二人の木きぐ沓つの音がした。﹁トビアスのをぢさん。ちよいと明りを見せて下さい。プツゼルをばさんが来ました。﹂ 二本点ともしてあつた蝋燭の一本を、トビアス爺いさんは取つて、風に吹き消されぬやうに、手の平で垣をして、戸をあけた。﹁こつちへ這入つて下さい。どうぞこちらへ。﹂ プツゼル婆あさんが梯を降りる。跡からは若い男が一人附いて来る。 爺いさんが声を掛けた。﹁あゝ。プツゼルさんですか。あなたが来て下すつて、リイケは大おほ為じあ合はせです。どうぞお這入下さい。や、御前さん御苦労だつたね。おや。ルカスぢやないか。﹂ ﹁えゝ。トビアスをぢさん、今晩は。ドルフさんは途中で友達に留められなすつたので、わたしが代りにプツゼルをばさんを連れて来て上げました。﹂ ﹁それは御苦労だつた。まあ這入つて一杯呑んでから、ドルフのゐる処へ帰りなさるが好い。﹂ ネルラ婆あさんが背うし後ろから出て来た。﹁プツゼルをばさん、今晩は。お変りはありませんか。さあ、こゝに椅子があります。どうぞお掛なすつて、火におあたり下さいまし。﹂ 背の低い、太つたプツゼル婆あさんは云つた。﹁皆さん、今晩は。ではもうぢきにグルデンフイツシユで洗礼の御馳走がありますのですね。ねえ、リイケさん、これがはじめてのですね。ネルラさんはコオフイイを一杯煮てさへ下されば好いのですよ。それからわたしに上うは沓ぐつをお貸なすつて。﹂ 若い男がリイケに言つた。﹁わたしは頼まれてプツゼルをばさんを連れて来て上げたのです。ドルフさんを途中で友達が留めて、連れて往つたものですから。なんでもあなたの苦しがつてお出のを、ドルフさんが見るのは好くないから、一杯呑ませて元気を附けて上げると云ふことでした。﹂ ﹁あゝ。さうですか。皆さん御親切ですわねえ。わたくしもあの人が傍にゐて下さらない方が却つて元気が出ますの。﹂リイケはかう返事をした。 トビアスは焼酎を一杯注いでルカスの前に出した。﹁さあ、これを呑んでおくれ。呑んでしまふと、風を孕はらんだ帆よりも早く、御前の脚がお前を皆の所へ持つて往くからな。﹂ ルカスは杯を二口に乾した。最初の一口を呑む時には、﹁皆さんの御健康を祝します﹂と云つた。二口目には黙つてゐたが、心の中でかう思つた。﹁これはドルフの健康を祝して呑まう。だがそれは命を取られないでゐた上の事だて。﹂呑んでしまつて、ルカスは﹁難有う、さやうなら﹂と云ひ棄てて帰つた。 ルカスが帰つた跡で、炉の上で湯が歌を歌ひ出した。そして部屋一ぱいにコオフイイの好い匂がして来た。ネルラ婆あさんがコオフイイの臼を膝頭の間に挾んで、黒いコオフイイ豆を磨りつぶしてゐるからである。 プツゼル婆あさんは黒い大外套の襟に附いてゐる、真鍮のホオクを脱はづした。そして嚢の中から目金入と編みさしの沓くつ足た袋びとを取り出した。さて鼻柱の上に目金を載せて、編み掛けた所に編鍼を插して、ゆたかに炉の傍に陣取つた。婆あさんは編物をしながら、折々目金の縁の外から、リイケを見てゐる。リイケは不安らしく部屋の内を往つたり来たりして、折々我慢し兼ねてうめき声を出してゐる。 婆あさんはそんな時往つてリイケの頬つぺたを指で敲いて遣つて、こんな事を言ふ。﹁しつかりしてお出よ。自分の生んだ子が産声を立てるのを聞くと云ふものは、どの位嬉しいものだか、お前さんまだ知らないのだ。天国へ往くと、ワニイユの這入つた、甘あまい、牛乳と卵とのあぶくを食べながら、ワイオリンの好い音ねを聞くのださうだが、まあ、それと同じ心持がするのだからね。﹂ トビアスはいつも寝台にする、長持のやうな大箱を壁の傍に押し遣つて、自分の敷く海草を詰めた布団を二枚其上に敷いた。海草の香が部屋の内に漲つた。ネルラが其上に粗末な麻布の、雪のやうに白いのをひろげて、襞の少しもないやうに、丁寧に手の平で撫でた。オランダの鳥の毛布団のやうに軟く、敷心地を好くしようと思ふのである。 夜なか近くなつた時、プツゼル婆あさんが編物を片附けて、目金を脱はづして、卓の上に置いて、腕組をして、暫く炉の火を見詰めてゐた。それから襁むつ褓きの支度をした。それから六遍続けて欠あく伸びをして、片々の目を瞑つぶつて、片々の目をあけてゐた。 そのうちリイケが両手の指を組み合せて、叫び出した。﹁プツゼルをばさん。どうかして下さい。﹂ ﹁それはね、をばさんもどうもして上げることは出来ません。我慢してゐなさらなくては。﹂プツゼル婆あさんはかう云つた。 トビアスが傍で云つた。﹁もう夜なかだ。料理屋にゐる人達も内へ帰る時だ。﹂ リイケは繰り返して云つた。﹁あゝ。ドルフさん。なぜまだ帰つて下さらないのだらう。﹂ ネルラがリイケを慰める積で云つた。﹁繋かかつてゐる舟でも、河岸の家でも、もう段々明りを消してゐます。ドルフも今に帰つて来ませうよ。﹂ 併しドルフは容易に帰らない。 夜なかを二時過ぎた時、リイケはひどく苦しくなつたので横になつた。プツゼル婆あさんは椅子を寝台になつてゐる大箱の傍へずらせた。ネルラは祈祷をしようと思つて、珠数を取り出した。それから又二時間過たつた。 ﹁あゝ。ドルフさん。わたし死にさうなのに、どこにお出なさるのでせう。あゝ。﹂ トビアスは折々舟の梯を登つて、ドルフが帰つて来はせぬかと見張つてゐる。それにドルフは帰らない。もうこのグルデンフイツシユの窓の隙すきから黒い水の面おもてに落ちてゐる明りの外には、町ぢゆうに火の光が見えなくなつてゐる。遠い礼拝堂で十五分毎に打つ鐘が、銀しろがねの鈴のやうに夜の空気をゆすつて、籠を飛んで出た小鳥の群のやうに、トビアスの耳のまはりに羽は搏うつ。次第に又家々に明りが附く。水の面に小さい星のやうにうつる燈とも火しびもある。そのうち冷たい、濁つた、薄緑な﹁暁﹂が町の狭い巷こうぢを這ひ寄つて来る。 その時舟の中で赤子の泣声が聞えた。丁度飼かひ場ばで羊の子が啼くやうに。 ﹁リイケ。リイケ。﹂遠くからかう呼ぶのが聞えた。桟橋からブリツジへ、ブリツジから小部屋へと駆け込むのは誰だらう。別人ではない。ドルフである。うつら〳〵してゐたリイケが目をあいて見ると、ドルフは床の前に跪いてゐた。 トビアスは帽子を虚空に投げ上げた。ネルラは赤ん坊の口をくすぐつてゐる。プツゼル婆あさんは膝の上に載せてゐた赤ん坊をよく襁褓にくるんで、そつとドルフの手にわたした。ドルフはこは〴〵赤ん坊に二三度接吻した。 ドルフは﹁リイケ﹂と呼び掛けた。リイケは両手でドルフの頭を持つて微笑んだ。そして寐入つて、明るくなるまで醒めなかつた。ドルフも跪いた儘、頭をリイケが枕の傍に押し附けて朝までゐた。二人の心臓の鼓動が諧かい和わするやうに、二人の気息も調子を合せてゐたのである。 ―――――――――――― 或る朝ドルフが町へ往つた。 葬式の鐘が力一ぱいの響をさせてゐる。其音が丁度難船者の頭の上を鴎が啼いて通るやうに、空気を裂いて聞えわたる。 長い行列が寺の門の中に隠れた。寡婦の目の涙のやうに、黒布で包んだ贄にへ卓づくゑの蝋燭が赫く。 寺の石段にしやがんでゐる女乞食にドルフが問うた。﹁町で誰が死んだのかね。﹂ ﹁お立派なお内の息子さんです。お金持の息子さんです。ジヤツク・カルナワツシユと仰やいます。どうぞお冥加に一銭戴かせて下さいまし。﹂ ドルフは帽を脱いで寺に這入つた。そして円柱を楯にして、銀の釘を打つた柩の黒いキヤタフアルクの下に隠れるのを見送つた。 ﹁主よ。御身の意志の儘なれ。わたくしがあの男に免したやうに、御身もあの男に免し給へ。﹂ 会葬者が手向の行列を作つた。ドルフは一人の歌童の手から、燃えてゐる蝋燭を受け取つて、人々の背うし後ろに附いて歩き出した。盤の四隅から焔の立ち升つてゐる、高い大燈明の周囲を廻るのである。それが済むと、外ほかの会葬男なん女によの群を離れて、ドルフ一人は暗い片隅に跪いて祈祷した。 ﹁主よ。どうぞわたくしにもお免ゆるし下さい。わたくしはあの男を水の中から救ひ出しながら、妻さいリイケを辱めた奴だと気が附くや否や、それが厭になつて、復讐をしようと思ひました。わたくしはあの男を撞き放しました。わたくしはあの男に母親のあることを知つてゐました。母親の手に息子を返して遣ることが、わたくしの自由であつたのに、それを撞き放しました。まだ水から引き上げない中に、撞き放しました。主よ。どうぞおゆるし下さい。若し罰を受けなくてはならない事なら、どうぞわたくし一人にそれを受けさせて下さい。﹂ 祈祷してしまつてドルフは寺を出た。そして心のうちに思つた。﹁もうこれで世の中に、あのリイケの生んだ子を己の子でないと云ふことの出来るものは、一人もなくなつた。﹂ 河岸の方から﹁おい、ドルフ﹂と呼ぶ声がした。見ればジヤツクを救ひに河に這入つたのを見てゐた仲間達である。皆気の荒い男ではあるが、ドルフが水に潜つた時は、胸が女の胸のやうに跳つた。そしてドルフが無事で陸おかに上がつた時、身のめぐりを囲んで、﹁どうも己達皆を一つにしても、お主ぬし一人程の値打はないなあ﹂と叫んだのである。仲間達は今ドルフに進み近づいて握手して云つた。﹁おい、ドルフ。まあ、己達はこの儘死んでしまつた所で、度胸のある男を一人は見て死ぬと云ふものだなあ。﹂ ドルフは笑つた。﹁いや。己は又こなひだの晩に生れたリイケの赤ん坊の健康を祝して、お主達と一杯飲まずには、どうしても死ぬることが出来ないのだ。﹂
頃この日ごろ亡くなつたベルジツク文壇の耆きし宿ゆくカミイユ・ルモンニエエの小説を訳したのは、これが始ではあるまいか。或は此前にあるかも知れぬが、己は見ない。バルザツク、フロオベル、ゾラと数へて来ると、ルモンニエエの名は自然に唇に上のぼる。それが冷遇せられて、丁度フランスのモオパツサンなどと同じやうに、ベルジツクでマアテルリンクだけが喧伝せられてゐるのは遺憾である。此訳文には頗る大胆な試みがしてある。傍看者から云つたら、乱暴な事かも知れない。それは訳文が一字脱けた、一行脱けたと細かに穿鑿する世の中に、こゝでは或は十行、或は二三十行づゝ、二三箇所削つてあることである。訳者は却つてこれがために、物語の効果が高まつたやうに感じて居るが、原文を知つてゐる他人がそれに同意するか否かは疑問である。一九一三年十月二十八日記す。