――一ヶ所で打石斧二百七十六――肩骨がメリ/\――這んな物を如何する――非常線――荏原郡縱斷――
余よの陳ちん列れつ所じよの雨あま垂だれ落おちに積つみ重かさねてある打だせ製いせ石き斧ふは、數かぞへては見みぬが、先まづ謙けん遜そんして六七千箇こは有あると云いはう。精せい密みつに計けい算さんしたら、或あるひは一萬まんに近ちかいかも知しれぬ。
これは地ちの理りを得えて居ゐるから、斯かう打だせ石き斧ふを多おほく集あつめられたのである。玉たま川がは沿えん岸がんには打だせ石き斧ふが多おほい。其そ處この何ど處こへ行ゆくのにも余よの宅たくは近ちかく且かつ都つが合ふが好よい。
それに余よは蠻ばん勇ゆうを以もつて任にんじて居ゐるので、一度ど採さい集しふした物ものは、いくら途とち中うで持もち重おもりがしても、それを捨すてるといふ事ことを爲せぬ。肩かたの骨ほねが折をれても、持もつて歸かへらねば承しよ知うちせぬ。
人ひとは打だせ石き斧ふかと云いつて、奇きけ形いで無ないのは踏ふみ付つけた儘まゝ行ゆくが。余よは其その打だせ石き斧ふだらうが、石せき槌つゐだらうが、何なんでも彼かでも採さい集しふ袋ぶくろに入いれねば承しよ知うち出で來きぬ。
故ゆゑに、どんな不ふれ漁ふの時ときでも、打だせ石き斧ふを五六本ぽん持もつて歸かへらぬ事ことは無ない位くらゐである。
打だせ石き斧ふの一番ばん多おほかつたのは、深しん大だい寺じである。此こ所ゝでは先せん輩ぱいが、矢やは張り打だせ石き斧ふを澤たく山さん採さい集しふした。
何なにもそれを目もく的てきといふ譯わけではなかつたが、三十六年ねんの六月ぐわつ二十三日にちであつた。望ぼう蜀しよ生くせいと共ともに陣ぢん屋やよ横こち町やうを立たち出いでた。
此この日ひは荏えば原らぐ郡ん縱じう斷だんを試こゝろみるつもりであつた。
先まづ權ごん現げん臺だい、大おほ塚つか、洗せん足そく小こい池け、大おほ池いけと過すぎ、祥しや雲うう寺んじ山やまから奧おく澤ざわへ出でた。
此この邊へんまでは能よく來くるのだ。迂う路ろつき廻まわるので既すでに三里り以いじ上やう歩あるいたに關かゝはらず、一向かう疲ひら勞うせぬ。此この時とき既すでに打だせ石き斧ふ十四五本ほんを二ふた人りで拾ひろつて居ゐた。
それから下しも野の毛げ、上かみ野の毛げの兩りや遺うゐ跡せきを過すぎ、喜き多た見みへ出でた。
大だい分ぶ疲ひら勞うして來きた。
路ろば傍うの草くさの上うへに腰こしを掛かけて、握にぎ米りめ飯しを喫きつし、それから又またテクリ出だしたが、却なか々〳〵暑あつい。
砧きぬ村たむらの途とち中うで磨ませ石き斧ふを拾ひろひ、それから小こや山まの上あがり口くちで、破はへ片んを拾ひろつたが、既もう此こ所ゝまでに五里り近ちかく歩あるいたので、余よは少すこしく參まゐつて來きた。
八王わう子じ街かい道だうを横よこ切ぎつて、いよ〳〵深じん大だい寺じ近ちかく成なつたのが、午ご後ゞ﹇#ルビの﹁ごゞ﹂は底本では﹁ごと﹂﹈の五時じ過すぎ。夕ゆふ立だちでも來くるか、空そらは一杯ぱいに曇くもつて來きた。
深じん大だい寺じの青あを渭なみ神じん社じや﹇#ルビの﹁あをなみじんじや﹂は底本では﹁あをなみしんじや﹂﹈前まへの坂さかまで來くると、半はん磨ませ製いの小せう石せき斧ふを得えた。
それから横よこ手ての坂さかの方はうへ掛かゝつて見みると、有あるわ〳〵、打だせ石き斧ふが、宛ちや然うど、砂じや利りを敷しいた樣やうに散さん布ぷして居ゐる。
望ぼう蜀しよ生くせいと余よとは、夢むち中うに成なつて、それを採さい集しふした。其その數すう實じつに二百ひやく七十六本ほん。それを四箇この大おほ布ふろ呂し敷きに包つゝみ、二箇こ宛づゝを分わけて持もつ事ことにした。
振ふり分わけにして、比ひか較くて的き輕かるさうなのを余よが擔かついで見みると、重おもいの重おもくないのと、お話はなしにならぬ。肩かた骨ぼねはメリ〳〵響ひゞくのである。
蠻ばん勇ゆうに於おいては余よよりも豪えらい望ぼう生せいも、少すくなからずヘキエキして見みえた。
それで一ひと先まづそれを、雜ざふ木きば林やし﹇#ルビの﹁ざふきばやし﹂は底本では﹁ざふきばなし﹂﹈の中なかへ擔かつぎ込こんで。
﹃如ど何うだ、此この邊へんへ隱かくして行ゆかうか﹄
﹃然さうですな、埋うめて置おいて、今こん度ど來きて掘ほり出だしますかな﹄
話はなしして居ゐる處ところへ、突とつ然ぜん、林はやしの中なかから、半はん外ぐわ套いとうを着きた、草わら鞋じ脚きや半はんの、變へんな奴やつが出でて來きた。
夏なつ、黒くろ羅らし紗やの半はん外ぐわ套いとう、いくら雨あま模もや樣うでも可を怪かしい扮みな裝りだ。
此こつ方ちからも怪あやしい奴やつと睨にら付みつけると、向むかふからも睨にら付みつけて。
﹃おい﹄と來きた。
﹃何なんです﹄と余よは答こたへた。
﹃何ど處こから來きた﹄と又また問とふ。は、はア密みつ行かう巡じゆ査んさだなと覺さとつた。
﹃東とう京きやうから﹄
﹃東とう京きやうは何ど處こだ﹄
﹃品しな川がは‥‥﹄
﹃品しな川がは町まちか﹄
﹃然さうです﹄
﹃荏えば原らぐ郡んの品しな川がは町まちか﹄
﹃然さうです﹄
﹃東とう京きやうと云いつたり、品しな川がはと云いつたり、何どツ方ちなんだ﹄
﹃東とう京きや府うふ下かの品しな川がは町まちの意い味みなんで‥‥﹄
﹃何なにをしに來きたのか﹄
﹃いろ〳〵調しらべに‥‥﹄
﹃持もつて居ゐる物ものは何なんだ﹄
﹃これは掘ほる道だう具ぐで‥‥﹄
﹃何なにを掘ほるんだ﹄
﹃石いしを‥‥﹄
﹃石いしを?﹄
人にん相さうの惡わるい余よと望ぼう生せい。それが浴ゆか衣たがけに草わら鞋じ脚きや半はん、鎌かまや萬まん鍬ぐわを手てに持もつて居ゐる。東とう京きやうだと云いつたり、又また品しな川がはだとも答こたへる。怪あやしむのは道だう理りだ。それが又また石いしを掘ほるといふのだから、一層そう巡じゆ査んさは怪あやしんで。
﹃その埋うめて隱かくすとか云いつたな、其その布ふろ呂しき敷づゝ包みを開あけて見みせろ﹄と來きた。
此こ所ゝで余よに餘よゆ裕うが有あると、之これを開ひらくのを拒こばんで、一ひと狂きや言うげんするのであるが、そんな氣きは却なか々〳〵﹇#ルビの﹁なか〳〵﹂は底本では﹁なな〳〵﹂﹈出でぬ。ぶる〳〵顫ふるへさうで、厭いやアな氣きも持ちがして來きた。
望ぼう生せいも不ふく快わいの顏かほをしながら、之これ見みろとばかり、布ふろ呂しき敷づゝ包みを解とくと、打だせ石き斧ふが二百七十六本ほん※﹇#感嘆符三つ、44-7﹈
巡じゆ査んさ、唖あぜ然んとして。
﹃這こんな物ものを如ど何うする?﹄
﹃これは學がく術じゆ上つじやうの參さん考かう材ざい料れうである﹄
﹃這こんな物ものは何ど處こにでも有あるぢやアないか﹄
﹃然さう有あるやうなら、わざ〳〵此こ所ゝまでは來こない﹄
﹃全ぜん體たい、君きみ達たちは品しな川がはの何ど處こだ﹄
﹃陣ぢん屋やよ横こち町やう四十番ばん地ち四十一番ばん地ち﹄
﹃四十番ばん地ちかい、四十一番ばん地ちかい﹄
﹃屋やし敷きは兩りや方うはうに跨またがつて居ゐる﹄
屋やし敷きが兩りや方うはうに跨またがつて居ゐるといふ柄がらではない。汗あせだらけの浴ゆか衣た掛がけである。が、實じつ際さい余よは此この時とき、四十一番ばん地ちに住じうし、角すま力ふの土どへ俵うを﹇#﹁土俵を﹂は底本では﹁士俵を﹂﹈築きづいたので、四十番ばん地ちをも借かりて居ゐたのだ。大だい分ぶ茶ちや番ばん氣げがさして來きた。
巡じゆ査んさはいよ〳〵怪あやしみながら。
﹃それで姓せい名めいは‥‥﹄
﹃エミタヾカツ﹄
今こん度どは望ぼう生せいに向むかひ。
﹃お前まへは何なんだ﹄
﹃僕ぼくは此この人ひとの從じう者しやです﹄
從じう者しやも主しゆ人じんも同おなじ樣やうなのだ。いよ〳〵怪あやしい、今こん度どは又また余よに向むかつて。
﹃職しよ業くげふは何なんだ﹄
﹃ブンシだ﹄
﹃ブンシといふ職しよ業くげふが有あるか﹄
﹃有ある﹄
﹃あゝ文ぶん士しか。エミタヾカツといふ文ぶん士しかい。エミ‥‥ あゝ、江え見み‥‥ 水すゐ蔭いんさんですか﹄
﹃然さうです﹄
﹃それなら分わかりました﹄
馬ば鹿か々/々\﹇#ルビの﹁ばか〳〵﹂は底本では﹁ばゝ〳〵﹂﹈しい。聞きいて見みると、強がう盜たうが徘はい徊くわいするといふので、非ひじ常やう線せんを張はつて居ゐたのであつた。
斯かうなると、打だせ石き斧ふを隱かくして行ゆくわけにも行ゆかず。強がう盜とうと間まち違がへられた憤ふん慨がい紛まぎれに、二ふた人りはウン〳〵汗あせを絞しぼりながら、一里り餘よの道みちを境さかいの停てい車しや場ばに出いで、其その夜よの汽きし車やに乘のつて、品しな川がはまで歸かへつたが、新しん宿じゆくの乘のり替かへで、陸ブリ橋ツチを上じや下うげした時ときの苦くるしさ。――これならどんな責せき任にんでも背せ負おつて立たてると、つく〳〵﹇#﹁つく〳〵﹂はママ﹈蠻ばん勇ゆうの難あり有がたさを覺おぼえた。