自由の使徒・島田三郎

木下尚江




   

 
 
 
 










 

 
 
 

 

 
 
 
 

   

 

 


※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)
 
 
 
西西

 
西西使

 
 
 
 

  

 
西
 大正十三年のことだ、僕は書いたことさへ覚えて居ないが読んで見ると僕の文章に相違ない。この不用意に書き捨てた十年前の駄文の中に、先生に対する僕の讃歎と評論とは尽きて居るやうな気がする。
 考へて見ると、明治二十年、先生が一時世上の交渉を絶つて、閑窓の下に「開国始末」の著作に没頭された時、攘夷論の犠牲となつて桜田門外の雪と消えた井伊大老の為に、雪寃の史筆を揮つて居られた時は、維新以来久しく窒息状態に潜伏して居た攘夷的感情が、機運一転して擡頭の時節接近した時であつたらしい。「国会開設」「条約改正」の二大要求は、今や政府の一手に収められて、民間の政客志士は、疲労と無事に苦んで居た。総理大臣伊藤博文は憲法起草中。外務大臣井上馨は条約改正の準備。天下泰平謳歌の春。
一、四月二十日、伊藤首相の主催で、日比谷の鹿鳴館に内外紳士貴婦人の仮装舞踏会。
使
 
廿
一、七月廿六日、谷農相、依頼免官。
一、同廿九日、条約改正会議無期中止。
一、九月十七日、井上馨外務大臣を辞め伊藤博文外相兼任。
一、十一月十五日、浅草鴎遊館に全国有志大懇親会を開く、後藤参会。

廿

  条約改正問題の禍乱

 先生の「開国始末」は、十二月に脱稿し、翌二十一年三月出版。同時に先生は予定の如く欧米漫遊の途に上られたが二十二年八月帰朝の際、日本は再び条約改正問題の為め鼎沸の如き禍乱の最中であつた。
一、二十一年二月一日、大隈重信外務大臣就任。
一、二十二年二月十一日、憲法発布。
一、八月十八日、江東中村楼に条約反対者大懇親会を開く。
一、九月廿五日より三日間、改進党の条約賛成大演説会。
一、十月七日、帝国大学教授等条約改正案反対の意見書提出。
一、同十一日、枢密院議長伊藤博文辞表を上る。
一、十五日、御前会議。
一、十八日、大隈外相重傷、一脚を失ふ。
 

  

 西鹿
一、二十三年十月九日、議会召集令が出て、十一月廿五日を以て愈々多年の民望たる国会が始て開かれることになつた。
一、同三十日、教育勅語。
 
一、二十六年九月、山県系の政党国民協会は九州に東北に大会を開いて「非内地雑居」を決議した。
一、同年十月一日、阿部井[#底本は「阿部井」が正しくは「安部井」である旨を注記]磐根、神鞭知常等「非内地碓居」を標榜する大日本協会組織。
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一、同二十九日、外務大臣陸奥宗光、衆議院に於て条約励行反対の演説。



  

 
 便
 便便
 
「衆議院は、政府が現行条約の実施上我帝国の権利を汚損する所あるを認む。故に衆議院は切に政府に望む、政府が条約の権利を明確にしてこれを励行せられんことを。敢て建議す。」
 先生もこの建議案賛成の一人だ。然れ共この一つの建議案の内容には黒白氷炭相容れざる思想と感情とが流れて居る。
一、内地雑居主義の自由派――島田先生等。
一、非内地雑居主義の国権派即ち攘夷派。
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「今回、木村利右衛門君と私との競争に就て、その争点を申す必要があると考へます。木村君よりの申込に対し本月八日某々二君に面会致しました。その趣意は、『足下の人となりに就ては不同意はないが、二つの条件がある。その一つは監獄費国庫支弁案に賛成して呉れい。今一つは条約励行案の賛成を取消して貰ひたい。この二件は横浜市の利益であるから、さうすれば競争しない』と、かう云ふことでござりました。私は『左様なる条件を付けたる約束は一切出来ない。と云ふものは、私の心を欺いて可い加減のことをするわけには参らぬ。その事が果して必要な条件であり、また私の方針持論が国の不利益横浜市の不利益と云ふことなればその理由を悉く話され、互に胸襟を開いて講究するは別段なれど、只理由なく申込まれ、私が木村君の競争を避ける為に、条件付の申込にお答へ申すことは出来ない。国家公共の利害横浜市実際の利害と云ふ明瞭なる理由から互に説を尽すは宜いが、たゞ円滑の為に事情の為に抂げることは出来ない。私は何時の競争でも負けることのあるを覚悟して居る。少数で負けたら、尚ほ多数の同意を得るまで待つのが、代議政体の本体で、内閣が国会で負けて潔く辞職すると同じ道理だから、負けるのは恥でないが、故なく説を抂げるのは、この上もなく良くないことゝ思ふ。――一生の働から見れば、一時負けた方が、説を曲げて勝つより宜いと覚悟して居る。一時の為に条件を承諾し、それで嘘言を吐くと云ふことは、後来私の一身に関することであるから出来ない』かう云ふのが初めの挨拶であります云々」
 
 

  

 
 
 
 
「今日は政府と提携を絶つや否やが問題となり居れり。予は昨年総務委員諸君が提携を首唱せし当時より、提携其事に反対したるものなり。予が今日の問題に於ける一己の位地より見れば、冷眼看過すべきものにして、更めて喋々論弁するの必要なし。予は常議員に選ばるとの通知を得たるも、昨年以来一回も本部に出でたることなし。促がされたるも、本部の依頼は一切峻拒して之に応ぜざりき。是れ予が意を政界に絶ちたるが故に非ず、また社会を度外に置くが為に非ず。予が良心の指導する処は、進歩党の誤れる方針、特に本部諸君の方針と反対なるが為にして、予は初より政府と提携するの不可なるを確信したり云々」
 政党が「政権」と云ふものを中心にして進退する時代には、先生のやうに主義政見で動くと云ふ人は、一個の邪魔物だ。三十一年十二月の議会で、先生が財政意見で憲政本党と相容れず、遂に全く党界を脱して、一個独立の島田三郎になられた時「政友諸君に告ぐ」と題して発表された文章には、次のやうに書いてある。
「予は遂に憲政本党を脱し、議会に於ては独立の議員となれり。近時不幸、政友諸氏と意見を異にして歩武を共にするを能はず、故を以て党中の要局に当りて責任の位地に立つことを固辞したり。人或は予に党外に退かんことを勧むるあり。然れ共予の本党に対する関係極めて旧く、明治十五年改進党組織の初より諸氏の後に随つて鞅掌し、其の一変して進歩党となり、再変して憲政党となりまた憲政本党となるの今日に至る迄、先輩の訓を奉じ、同列と喜憂を共にし、諸氏と進退を同じくし、自ら紹介せし議員も亦少しとせず。予の頑硬を以て屡々諸氏に逆ひしと雖も、諸氏能く包容して予と絶つに至らず。其の友義交情久しく且つ深きこと此の如し。仮令小事の意見牴牾するも、豈俄に党外に退くこと、其の経歴を異にする田口卯吉の如くするを得んや。而して今や財政問題に於て党議と相反するものあり、遂に已むを得ずして党籍を脱す。豈今昔の感慨無からんや。」
 退

  

 
 西

  

 
一、三十五年十二月六日が第十七議会召集の予定。桂太郎内閣時代。
婿
一、停会また停会、二十八日遂に解散。
一、三十六年三月一日、選挙予定。
 
 退退

  

 
 
 
 
 

  
 沿
 

 


 
一、第二回、本郷春木町中央会堂に開会。
一、十二月十日、田中翁直訴。

 
一、翌二十八日、青年会館に学生視察の報告会。
一、翌年元日から学生の路傍演説。
一、一月七日、帝国大学生発起の鉱毒地視察。
一、その前夜、文部大臣菊池大麓は大学総長山川健次郎を招きて、大学生の鉱毒地視察禁止。
一、鉱山主古河市兵衛の老夫人、神田川に水死。
 

  
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星亨

 
 
 
 
 
 
  
島田三郎
 
 
 
 

  

 
 
 
 
「明治の初年は如何なる人に依て改革を遂げられたかと申しますと、青年先づ活動して、壮年これに応じ、老年の人これに追随すると云ふことが、明治初年の改革の大に振うた所以であります。――明治初年の先輩に対して、今日この議会に居る所の御同様、甚だ相済まざる感が起つて、吾輩先づこの怠慢を謝さなければならぬ。」
 

〔『中央公論』昭八・五〕






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2006918

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