一
それは、華はなやかな日がさして、瞞だまされたような暖あったかい日だった。
遠藤清子の墓おは石かの建ったお寺は、谷やな中かの五ごじ重ゅう塔のとうを右に見て、左へ曲った通りだと、もう、法要のある時刻にも近いので、急いで家を出た。
と、何やら途中から気流が荒くなって来たように感じた。
﹁これは、途中で降られそうで――﹂
と、自く動る車まの運転手は、前の硝ガラ子スから、行く手の空を覗のぞいて言った。
黒い雲が出ている。もっと丁寧にいうと、朱のなかへ、灰と、黒とを流しこんだような濁りがたなびいている。こちらの晴天とは激しい異ちがいの雲行きだ。
赤坂からは、上野公園奥の、谷中墓地までは、だいぶ距離があるので、大たい雨うには、神かん田だへかかると出合ってしまった。冬の雨にも、こんな豪ごう宕とうなのがあるかと思うばかりのすさまじさだ。
私はすっかり湿っぽく、寒っぽくなってしまって、やがてお寺へ着いたが、そこでは、そんなに降らなかったのか、午前中からの暖かい日ざしに、何ど処こもかも明け放したままになって、火ひば鉢ちだけが、火がつぎそえられてあった。
その日のお施せし主ゅ側は、以も前との青せい鞜とう社しゃの同人たちだった。平ひら塚つからいてう、荒あら木きい郁く子こという人たちが専ら肝きも入いり役やくをつとめていた。死後、いつまでも、お墓がなかった遠藤清きよ子このために、お友達たちがそれを為なした日の、供くよ養うのあつまりだった。
会計報告が、つつましやかに、秘ひそ々ひそと示された。ずっと一いち隅ぐうによって、白しら髪がの、羽織袴はかまの角かくばった感じの老人と、その他ほかにも一、二の洋服の男ひとがいたので、その人たちへの遠慮で、後あとのことなどの相談をした。会費と、後のち々のちの影えこ向うり料ょうとがあつめられたりした。
やがて、本堂へ案内された。打揃そろって座についたが、本堂は硝子障子が多いので、書院よりは明るいが、その冷ひえはひどかった。読どき経ょうもすこしも有難みを誘わなかったが、私は、眼の前の畳の粗あらい目をみつめているうちに、そのあたりの空間へ、白光りの、炎とも、湯ゆ気げとも、線光とも、なんとも形容の出来ない妙なものが、チラチラとしてきた。
――遠藤清子さんは悦よろこんでいるだろう。
たしかにそうも思いはしたが、それよりも、急に、わたしの胸を衝ついてきたものがある。廿五年の歳月は、こんなにもみんなを老おわしたかと――
誰の頭あた髪まにも、みんな白しら髪がの一本や二本――もっとあるであろう。その面上にも、細かき、荒き、皺しわが見える。
ひとり、ひとりが、焼香に立った。
悪おか寒んが、ぞっと、背せす筋じをはしると、あたしはがくがく寒がった。雨のなかを通りぬけて来た時からの異状が、その時になって現われたのだが、すぐ後うしろにいた岡おか田だ八や千ち代よさんがびっくりして、
﹁はやく、火鉢のある方へ行かなければ。﹂
と案じてくれた。生いく田たは花な世よさんも、外がい套とうをもって来ましょうかといってくれた。
みんなも気がついて、向うへ行っていよとすすめる。焼香もすましているので、あたしは親切な友達たちのいう言葉にしたがった。
外套にくるまって、火鉢に噛かじりついていると、どんなふうかと案じて来てくれながら、そうではないような様子に、
﹁おお寒い寒い。﹂
と、自分も逃げて来たように言って、八千代さんはそこらの障子を閉しめてくれて傍そばへ来た。
﹁どう? お寺で風か邪ぜなんぞひいたらいけないから。﹂
あたしは大丈夫と言いながら丸くなって、友達の顔も見なかった。見たら、涙が出そうでしかたがない。
みんな、たいした苦労だ――
と、そればかりを噛かむように思った。みんな、跣はだ足しで火を踏んだような人たちだ。今こん日にちの若わこ人うどたちの眼から見たらば、灰か、炭のように、黒っぽけて見えもするであろうが、みんな火のように燃えていて、みな、それぞれ、その一人々々が、苦闘して、今日の、若き女ひ人とたちが達しるというより、その出発点とするところまでの茨いばらの道を切り開き、築きあげて来たのだ。いたずらに増ふえた髪の霜しもでもなく、欠あく伸びをしてつくった小こじ皺わでもない。
――その間に、こんなにも、こんなにも、女おん人なの出る道は進展した――
前の夜よ、あまり生いき々いきしたグループのなかで、何い時つまでもいつまでも話しこんでいたあたしは、あんまり異ちがった仲間のなかにいて、たしかに戸まどいもしているのだった。年月などというものを、さほどに意識しない日頃であって、何い時つも若い友達と一緒になっていられる幸福のために、かえって、死しにもの狂いであった誰たれ彼かれなしの過去に、ひたと、面おもてをこすりつけられたような思いだった。
表おも面てに、溌はつ剌らつと見えるからといって、青わか春いひ者とたちが、やはり世の中へたつのは、多少とも死もの狂いであるのと同様、先さき覚のひ者とたちも決して休止状態でいるのではない。おなじ時代を歩んでいるのではあるが、まあ、なんと、今い日まから見れば、そんな些こ事とを――といわれるほどの、何もかもの試練にさらされて来た人たちだろう――
私は、神かみ近ちか市いち子こさんの横顔を眺め、舞踊家林きん子になった、日ひな向たさんに、この人だけは面おも影かげのかわらない美しい丸まる髷まげを見た。
﹁清きよも、よろこんでおりましょう。﹂
と、もとの座についた、白髪の老人は、重い口調で挨あい拶さつをしていられる。
それをきくと、周囲の人がわやわやとして、
﹁長い間、お心が解けなかったそうですが、いま、お兄さんがそう仰しゃったので、これで、仏さまとの仲も、解けて――﹂
と、いうような意味の言葉を、一ひと言ことずつ、綴つづるように言った。とはいえ、解けあわぬ兄きょ妹うだいでも、遺骨は墓地に納めさせてくれてあったのを、その人々も知っている。墓を建てたのを、差出たことをしたと思われないようにとも、友達たちは老人をいたわるようにいった。
﹁どういたしまして、よく、あれの心を知ってやってくださる、あなた方がたに、こうして頂いた事は、よい友達をもった、彼あ女れの名誉で――﹂
と、兄という人は思慮深くいうのだった。
﹁あなた方は、彼あ女れのことばかりお聞きなさってでしょうが――﹂
と、老人は、感慨を籠こめて、わたくしも困りましたと言っていた。
そんな事も、よく聞きたいが、老人とわたしの座とは、かなり間がへだたっている。それに、洋服の男ひ子とが、その老人の方へむかって坐って、何か話しかけているので、老人のいうことは、半分もきこえてこなかった。
﹁彼あ女れも、さぞ、わからない兄だと思ったでございましょうが、わたくしも困りました。わたくしの眼の悪くなったのも――﹂
と、黄きじ白ろい四角い顔の、腫はれあがったような眼まぶ瞼たに掌てのひらをかぶせて、
﹁ただいまで申す、殴なぐりこみのようなことを、彼あ女れがいたしましたので――﹂
新旧思想の衝突――さまざまな家族苦難の一節の、そんなことを話すように、口がほぐれて来たのは、記念の写真をとったり、お墓へ参ったりしたあと、谷やな中か名物の芋いも阪ざかの羽はぶ二たえ重だ団ん子ごなどを食べだしてからだった。
﹁それはどんな訳で?﹂
と、きいたものがある。
﹁荷物でしたかなんだか、なんでもわたせと、男どもを連れて押かけてくるというので、それならばと、こちらでも、用心して人もいたのですが――戸障子をたたき破こわすような騒ぎで、その時、乱あば暴れも人のに眼を打たれました。﹂
視力も失なくしたとでもいったのか、まあね、という嘆息もまじってきこえた。
﹁あ、あすこの――あの時の方ですか?﹂
後向きの男の人の一人が、そんなふうに言っている。も一人の人は、遠藤氏といって清子さんとは同姓であって、死ぬきわまで一緒に暮していた人だということを、誰だったか、ささやいていた。
雑誌﹃青せい鞜とう﹄や、その他の書籍がひろげられて、なき人の書いたものが載っているのを、人々は見廻した。しめやかではあるが、わやわやしたなかなので、気分も悪いわたしは、近ちか間まで話している、ほんの一つ二つの逸話しか耳に残らなかった。
﹁ごく若い時には日にほ本んが髷みがすきでね。それも、銀いち杏ょうがえしに切きれをかけたり、花はな櫛ぐしがすきで、その姿で婦人記者だというのだから、訪問されてびっくりする。﹂
﹁﹃二十世紀婦人﹄の記者でしたろう、その時分は。﹂
﹁たしか、東洋学生会の仲間で、印度人に、英語を教えていたでしょう。﹂
人々の眼には、ずっと若い時分の、遠藤清子さんが話されていた。わたしの眼には、それよりずっと後あとの、大正六、七年ごろ、もう最後に近いおりの、がくりと頬ほおのおちた、鶴つる見みのわたしの家で会食したおりの、つかれはてた顔ばかりが浮んでいる。
荒木郁子さんが、清子さん母子の墓のことを気にかけていたのは、清子さんの死後託された男の子を、震災のおり見失なって以来、十年にもなるがわからないから、その子も一緒に入れて建てたいという発ほつ願がんだった。
郁子さんは、玉ぎょ茗くめ館いかんという旅館の娘だったので、清子さんの遺児はその遺志によって、﹃青鞜﹄同人たちから、郁子さんに依託することになった。そして、あの大正十二年の大震火災のおり、広い二階座敷にいたその子は、表おも階てば段しごの方へ逃げた。郁子さんは、裏うら階かい段だんへ逃のがれた。表おも階てば段しごの方へ駈かけていった後姿は見たが、それっきりで、どんなに探しても現われてこないのだった。その子は――民たみ雄おは、岩いわ野のほ泡うめ鳴い氏の遺児ではあったが、当時の岩野夫人清子には実子ではないという事だった。父につかないで、清子さんの養子になり、離婚後も母と子として一緒にいた薄命な子だった。
泡鳴氏には、他ほかにも子供は沢山ある。清子さんより先妻のお子、清子さんより後のちの妻の子。だが、清子さんとの結婚が風がわりであるばかりか、その子になっている民雄も、また別の腹に生れている不ふし幸あわせな子だ。
四十九歳で死んだ岩野泡鳴も、十九年間、わびしく墓ぼひ表ょうばかりで、それも朽ち倒れかけた時、やはり荒木郁子さんの骨折りで、昨年、知友によって立派な墓石が建てられた。この人の半獣主義、刹せつ那な哲学、新自由主義は、文芸愛好者の、あまりにもよく知っていることだが、まだ知らぬ人のためにもと、昨年建てられた石碑の、碑文は、尤もっとも簡単でよく述べられているから、それを記しるしておこう。
岩野泡鳴本名美よし衛え、明治六年一月二十日淡あわ路じの国くに洲すも本とに生る。享年四十八歳、大正九年五月九日病死す。爾じら来い墓石なきを悲み、友人相寄り此処にこの碑を建つ。泡鳴著作多く、詩しい歌かに小説に、独自の異才を放つ。その感情の豊ほう饒じょうと、着想の奇抜は、時人を驚せり。その表現の率直なるは善良なる趣味性を害そこなふの感あるも、誰も泡鳴の天賦を疑ふものあるを聞かず、彼が文学的円熟期に入らずして死せるは、最も惜しむべきものとす。泡鳴初め浪漫主義を信じ、転じて表象主義に入り、再転して霊肉合がっ致ちより本能の重大を力説して刹那主義なる新語を鋳造せり。泡鳴は人生の神秘を意識し、その絶対的単純化に依よる生活力の充実を期せるものなり、遂ついに彼は、その信念を進めて新日本主義となせり。思ふに泡鳴は、一時代先んじたるものにして、将まさに来きたらんとする時代を暗示せり。
死ぬること愚 なりといひて
高笑ひ君はまことに
命惜しみき
泡鳴子をおもうと、蒲かん原ばら有あり明あけ氏の歌も刻されてある。
かくのごとき文人と、その最も、思想的にも人間的にも精せい悍かんであったであろう時期に、深い交渉をもったのが遠藤清子なのであった。
一方に泡鳴氏が、一風も二風もある、風変りの人であるのに、彼女もまた、一通りのものでない考えを、恋愛と結婚についてもっていた。それがまた、潔癖すぎるほどに堅固に霊の結合をとなえ、精神的な融合から、性の問題にはいるべきだと、実に、きびしすぎるほど真ま面じ目めに、彼女自身への貞操を守っているのだった。
彼女は、泡鳴氏に結婚を申込まれる前に、五年間もある人を思っていて、そして失恋している。プラトニックラブにやぶれた彼女は、国こ府う津づの海に入じゅ水すいしたほど、﹁恋﹂に全霊的であり、彼女は事業も名誉も第二義的のもので、恋を生命としていたものは、それに破れれば現世に生きる意義を見出せないとまでいっている。そして、その最初の恋を、心の底にいつまでも宿していた。
彼女は、明治末期の、女性覚かく醒せい期に生れあわせて、彼女は大きな理想のもとに、それまでの女性とは異なる、生活方針を創造しようとした。我国において最初、覚醒運動を起した仲間の一人なので、彼女は彼女のゆく道を正しく歩もうと闘たたかったのだ。その理想主義者――泡鳴にいわせればローマン主義者の、愛の闘争は、破れたといっても決して敗北とはいわれまい。
そこへ忽こつ然ぜんと現われたのが、半獣主義を標ひょ榜うぼうする泡鳴だったのだ。
明治四十二年十二月に、泡鳴は、突然面識もない彼女に、逢いに行って、二時間ばかりの間、率直に自分の半生の経歴を、告白的にあからさまに語りきかせた。清子はそのおりのことを日記では、泡鳴氏の素行には同感できなかったが、恬てん淡たんな性質には敬意を持つことが出来たと書いている。
その日はそれで帰ったが、五日ほどたつと、泡鳴は二度目の訪問をした。その日は清子の父親が来あわせていたので、
﹁明あし日た、も一度会見したい。実は、重大な御相談があるのだが。﹂
と言って帰っていった。翌日は、ちゃんとやって来て、こんどは家庭の事情を告白した。
――妻とは名義だけであって、物質の補助をしてやるだけだから――
﹁三年以上も絶縁しているのだが、妻の同意がないので、正式の離婚が出来ないでいるだけだ。﹂
だから、気にかけないで清子に同どう棲せいしてほしい、同時に結婚もしてくれと申込んだ。
午後二時ごろ、お昼ひる飯はんをたべに、麻あざ布ぶの竜りゅ土うど軒けんへ行き、清子は井せい目もくをおいて、泡鳴と碁を二回かこんだが、二度とも清子が敗まけた。そのあとを、二時間ばかり、泡鳴が玉突きをするのを見物していたが、こうした友人づきあいが、すっかり打解けた気分にはいりこめたものと見えて、幽霊坂の上でわかれる時には、引っこしの話までまとまって、新らしく家を借りる金を十五円泡鳴は清子に渡した。
﹁愛のない結婚なんて、自身を辱はずかしめることだし、男を欺く罪悪だ。﹂
と清子は結婚は拒絶したが、一家に同棲して見るのは承知した。
﹁無論、あなたの人格を尊重して――﹂
という約束をした。
この約束は、突とっ飛ぴなようでもあるけれど、二度の告白で、泡鳴の正直さは、正直な彼女の心に触れたのでもあったろうが、だが、彼女は独りになると机の前で考えこんだ。愛は霊からはいったものでなければ本当でない、そして、正しい理智から出発したものでなければならないという、平へい常ぜいからの持論が拒んだ。
――あたしは、あなたに友情以上はもてない。
そう書いて、預かったお金を封入してかえそうとするうちに泡鳴の方から手紙が来た。
勿もち論ろん第一条件だけでも拒絶されるよりもよいが、第二条件もなるべく考え直して承諾してもらいたい――そんな文面だった。
﹁あなたは、樗ちょ牛ぎゅうを愛読することから来たロマンチスト、僕があなたのロマンチストになるか、君が新自然主義になるか。﹂
泡鳴はそんなふうにもいったが、とも角かく共同生活にはいる話は、手っとりばやく纏まとまったのだった。
それまで、彼女は、五年間ばかりいた赤坂檜ひの町きちょう十番地の家を引き払うことにしたのだ。拾った猫で、よく馴なれているのがいたが、泡鳴が厭きらいだというので、近所へあずけてまで行くことにした。たしかに清子は、泡鳴に引かれたものであったには違いない。
その前年かに、泡鳴は小説﹁耽たん溺でき﹂を﹃新小説﹄に書いている。自然主義の波は澎ほう湃はいとして、田たや山まか花た袋いの﹁蒲ふと団ん﹂が現れた時でもあった。
ここで、泡鳴と清子の、不思議な生活がはじまることを書こうとする前に、婦人解放の先駆、青鞜社の文学運動が、男の連中をも、かなり刺激したことを思出した。生いく田たし春ゅん月げつさんが、花はな世よさんに求婚したのも、そんなふうな動機だった。
そしてまた、そのころは、自由劇場が、小おさ山な内いさんによって提唱され、劇運動の炬きょ火かを押出した時でもあった。
偶然といえば、今、わたしが机にむかっているところは、赤坂檜町である。十番地は乃のぎ木ざ坂かのちかく、わたしの住すま居いの裏の崖がけの上になっている。いま、音楽家の原はら信のぶ子この住んでいるところとの間になっている。あたしが、はじめに赤坂の家から遠藤清子のお墓にゆくところを書きだしたのも、ふと、その事を思ったからだ。しかも、泡鳴が清子を訪れたのは十二月の一日がはじめてで、十日にはもう大おお久く保ぼへ移ひっ転こしている。
今日は、昭和となってから十二年、もっとも画期的な年の、南ナン京キン陥落をつげたその十二月であり、暦は廿二日だが――新劇運動の親、小山内薫かおる氏のなくなったのも、クリスマスの晩で、十年前のこの月廿五日の宵よいだった。そして、自由劇場再進出の計画が、市いち川かわ左さだ団ん次じによって実現されようとしている。
私は、霜白き暁を、多少の感傷をもって黙もく然ねんとしている。
二
テトテトと、暁の霜に冴さえるラッパの響きに、眠りついたばかりの床とこのなかで、清子はうっすら眼をさました。
歩兵一聯れん隊たいの起床ラッパを、赤坂檜町の旧居で聴いている錯覚をおこしていたが、近くで猫が、咽の喉どを鳴らしている気もした。
はっきりしない頭のどこかで、猫は近所へあずけて来たはずだがと、預けたとはいえ、空あき家やへ残して来た、黒と灰色との斑まだらの毛並が、老とし人よりのゴマシオ頭のように小こぎ汚たならしくなってしまっていた、老おい猫ねこのことがうかんだ。
――あれは、一ひとツ木ぎの縁日へいった時、米屋の横の、溝どぶっぷちに捨てられていたのを拾ってやったのだが、また宿なしになってしまやしないかしら。
泡鳴氏が汚ながるし、厭きらいなので、捨てて来はしたが――
と、そう思うと、引越しのとき、山のように積んだ荷車の、荷物の上へせっかく捨てた古ふる柄ひし杓ゃくを、泡鳴氏は拾って載せた――あんなことをしなければ好いのにと、見ないふりをして眼を反そらしたが、冬の薄ら陽びが、かたむきかけたのを痩やせた背に受けて、古びしゃくを拾いあげて荷物の上にさしこんでいる、厭いやだった姿が、まぶたの上にはっきりとした。
﹁あ、赤坂の旧う家ちじゃない。﹂
パッチリと眼がさめると、猫だと思ったのは、隣とな室りから、男のいびきがきこえていたのだった。
ラッパの音は、戸山学校からきこえてくるのだった。大久保の新居に来ての朝夕、馴なじ染みのない場とこ処ろでありながら、赤坂に住んだ五年間と変らないのは、陸軍のラッパの、音をきくことだけだった。
――もう、やがて、二十日ぢかくにもなる――
目がさめさえすれば、妙にしょんぼりと、越して来た日のことが、目に浮ぶのが、この頃のならわしになっていて、十二月九日に泡鳴氏と、此こ処こに同どう棲せいしはじめてからのことが、またしても繰返して思いだされるのだった。荷物を出してから、二人して来たこの家に、家やぬ主しのところから提ちょ燈うちんを借りて来て、二人は相対していた。冷ひえ々びえした夕ゆう闇やみのなかで、提燈を抱かかえるようにして暖まったり、莨タバコを吸ったりして荷物のくるのを待った。
お蕎そ麦ばで夕食をすませると、もう荷物も着くだろうと、家うちのなかを見廻して清子は言った。
﹁とにかく、同棲しても、まだ友人関係なのですから、あたしの寝ね間まは、此処を茶の間にして、そっちの六畳ときめますから。﹂
﹁では、僕は、八畳の方か。あすこ、客間だね。﹂
と泡鳴氏はいった。二人は寒い、なんにもまだ置いてない室へやに眼をやった――その寝間から、いびきは洩もれてくるのだった。
﹁あんなに、泣いたり、怒ったりしても、よく寝られるものだ。﹂
清子は毎夜のように持ちあがる、二人の間の暗闘――許す、許さぬの絡からみあいを思った。俺おれは腹を切るといって怒るかと思えば、これほど熱愛を捧ささげる誠意を酌くまないのかと泣く男が、枕まくらにつくと、ぐっすりと寝てしまうのを、不眠症になってしまって、朝まで眠れない自分とを思いくらべた。
――けれど、だんだん私は岩野を好きになっている。
と思わないわけにはゆかない。けれど、恋こ愛いの芽もまだ宿してはいないと、心で頭かむりは横に強く振った。
そんなことを思う傍らで、まだ移ひっ転こしの日のつづきを思い出しているのだった。翌日に着いた泡鳴の荷物は、荷車に二台の書籍と、あとは夜よ着ぎと、鉄の手てあ焙ぶりだけだった。
﹁僕は、なにしろ、蟹かにの缶かん詰づめで失敗したから、何にもない。洋服が一着あるのだけれど、移ひっ転こしの金が足りなかったから、質しちに入れてしまった。﹂
その費用の幾分でも、分担しようと、清子が銀時計を出すと、
﹁君の品ものなんぞ出さなくったって好いい。何しろ、樺から太ふとで、蟹の缶詰で一ひと儲もうけしようと思ったのだが――蟹はあるが、缶の方がうまくいかなかったんだ。﹂
彼はてれくさく、笑いながら言った。
――良いいところのある人だ――
清子は頬ほおをおさえた手に、頬骨がさわる気がした。毎朝見る鏡に、眼ばかり大きくなってゆくのがわかるのだが、こう段々に、夜が苦しいものになって来ては堪たまらないし、眼のさめた瞬間の心さびしさも、朝々ごとに、たまらないものに思った。
腕力をもってくるなら、反抗する決心もあるが、沁しみ々じみと訴えられるのは愁つらい。自分の思想を守るのに、そんなことで屈伏したり、陥落は出来ないとも思った。
最初の﹁霊の恋﹂の対あい手ての男は、もう、すっかり醒さめてしまっているのに、
﹁あなたは、泡鳴氏と、もう結婚したのですか。﹂
と、この同棲の新居へ訪たずねて来て言った。
﹁どうとも、あなたの御想像にまかせます。﹂
と答えただけで、並んで月を見た。泡鳴もそれを見ていた。あとで嫌いや味みをいったが、十月の冬の月は、皎しろ々じろと冴さえ渡っていた。
お互の胸は、月と我々との距離だけの隔りを持っていると、その時はっきりそう思った。その男への執着でなく、霊の恋の記念のものだけが焼きすてかねて、再び見まい、手にも触れまいと、一包にくくって、行こう李りの底に押おし籠こんでしまった。
――だから、言って見れば、泡鳴に、霊の恋が芽め生ばえさえすれば好いいのだ――
けれど、それは、半獣主義を標榜する人に無理はわかっている。といって、それがそうならないからこそ、もろともに悩み呻う吟めくのではないか――
彼女は、窓の外の、軒のき端ばで笑っているような、雀すずめの朝の声をきくまいとした。蒲ふと団んをひきかぶるようにして、外は、霜柱が鋭いことであろうと思った。なにもかもが、きびしすぎると感じながら、自分の主張は曲げられないと、キッシリと眼を閉じていた。見かけだけは仲の好いい、新婚夫婦に見えて、霊肉合致の域にいたるまで、触れさせまいとする闘いに、互に心肉の鎬しのぎを削っている、妙な生活!
去年の今ごろ︵明治四十一年︶は、日本婦人の権利擁護のために、治安警察第五条解禁の運動に朝から晩まで駈かけ廻っていたものだが、今年は肉と霊との恋愛合戦に、血みどろの戦いだ!
彼女は、首を縮すくめて、ふとんをかぶると、大おお丸まる髷まげが枕にひっかかった。
*
許す許さぬの解決はつかないままだが、日が立つにつけ、この同棲生活の厳寒も、いくらかゆるんで来た。いらいらした霜柱も解けかけて来た。杉の木の二、三本あった庭には、赤坂からもって来た、乙おと女めつ椿ばきや、紅梅や、海かい棠どうなどが、咲いたり、蕾つぼみが膨ふくらんだりした。清子の大好きな草花のさまざまな種類が、植えられたり種を播まかれたりした。
﹁まあ、あなたが、そんな事して下さるようになったわね。﹂
と清子がいうように、泡鳴氏が土をいじっていることがある。文壇の交友たちの話をきくことも多くなって、清子も小説を書こうと思いたったりしはじめた。
一ツ石シャ鹸ボン箱ばこをもって、連つれ立だって洗お湯ゆにゆくことも、この二人にはめずらしくはなかった。男湯の方で、水野葉よう舟しゅうや戸川秋しゅ骨うこつ氏と大声で話合っているのを、清子は女湯の浴ゆぶ槽ねにつかってのどかにきいていることもあった。今日も、一足おくれて帰ってくると、家うちのなかで女の声がしていた。
﹁いま現金がないから、そのうち金のある時に返すといっているのに。肯きかないのか。﹂
と、言っていたが、
﹁さあ、これが証文だ。﹂
何か書いて渡している様子だった。帰してしまうと、六畳の部屋へ顔を差入れて、化粧をしている清子の鏡のなかへ、自分の顔をうつしこんだ泡鳴は、
﹁彼あ女れだよ、放浪︵小説︶のモデルの女は。缶詰事業のとき、彼あい女つの着物も質に入れてしまったので、返してくれといって来たのだ。金がなければ、証文にしろといって、持っていった。﹂
清子は、今帰っていった女のことなどは、あんまり気にならなかった。鏡にむかって、鬢びんを掛きながら、思いだしていたのは、いつぞや、此処へ来て間もなく、やっぱりお湯から帰ってくると、主客の問答を、襖ふす越まごしにきいた。
﹁まだか?﹂
﹁まだだ。﹂
その時の客は、正まさ宗むね白はく鳥ちょう氏だったのだ。泡鳴氏の友達の方には、もっと手厳しいのがあって、ハガキで、そんなことをしていて、清子に男が出来たらどうするとか、彼女は生理的不具者なので、よんどころなくそうしているのだろうなぞといってきているのもあるのだった。
清子には、そんなことはなんでもない非難だと思えた。それよりも辛抱のならない女客があることが厭いやだった。それは、泡鳴氏の先妻幸さち子こだ。三年前から別居しているという彼女は、冷やかな調子で、
﹁私は、貰もらうものさえ貰えば好いいんですからね。どうせ、この夫ひととは気が合わないんだから、この夫ひとはこの夫ひとで、勝手なことをなさるがいいんです。あなたとは、気があっているそうだから結構でさあね。﹂
永遠性を誓えない邪恋を押おし退のけ純一無二のものでなければならないと、賤いやしむべき肉の恋をこばんで、苦しむ身に投げつける言葉のそれは、まだ忍がま耐んするとしても、名ばかりの夫妻とはいえ、夫が厳冬の夜よも二時三時まで書いていることを、この女は知らないのだろうか、文学家の朝ちょ夕うせきは、思ったより悲惨なものであるのに、その金を催促に来て、いう言葉がそれなのだ。
――あの、賤しい女に、何なんで、わたしは見下げられるのだ――と、ふと、そのことを、いま、帰っていった、襖ふすまの向うの女の声から、連想を呼び出されていたところだったのだ。
﹁なにをぼんやりしているのさ。﹂
泡鳴氏は、はりあいなさそうにいった。
﹁ふん、これね、なんだか冷たい恋のようで、わたしたちに似ているから。﹂
と、清子は心にもないことをいって、はぐらかして、生けてあった連れん翹ぎょうの黄色い花を指さしたが、鏡の中に、陰気くさい、気むずかしい顔をしている自分を見出すと、彼女は、またしても家のなかの空気を暗くしてしまう自分を、どうしようもなくなって、気をかえに散歩にでも一緒に行こうと、立上ると、八畳の部屋を覗のぞいた。すると、泡鳴氏は後むきになって横になっていた。清子はその背中から、悶もん々もんとしている憂愁を見てとった。
*
﹁僕はもう諦あきらめる。僕にそういう心を起させるものを切りすてる。泣くには及ばない。﹂
せせぐり泣く枕まく許らもとで泡鳴はそういった。そんな事をさせてはならないと、二十八歳の処女は泣いたのだ。とはいえ、二ツの思想が同棲している以上、この争あら闘そいはくりかえされなければならない。
彼女は、どうかすると早はや起おきをして、台所に出たり、部屋の大掃除をしたり、菜なづ漬けをつけたりする。と思うと、戸山が原へ、銀のような色の月光を浴びにいったりする。﹁別れたる妻に送る手紙﹂という小説を書いた、近ちか松まつ秋しゅ江うこう氏に同情して、この人のロストラブの哀史を、同情をもって読んでみようと思うといったりしていた。
立場の違う苦しみに、互に、弄なぶり殺しのような日をおくりながら、二人の相愛の気持ちは日々に深まっていったのだった。日記をつけるのにも、岩野氏とか、泡鳴氏とか書いたのが、﹁君﹂となったが、三月ばかりするうちに、主ある人じという字になった。
﹁あの女ひとって、随分失礼な女ひとだ。不作法ったってなんだって、教養のある婦ひ人とだというのに、いつだって案内もなしで、いきなり上りこんでくるなんて我慢が出来ない。﹂
彼女は先妻の幸子が、いつもの癖で、ずかずか上り込んで来て、例いつものくせで、朝、起きはぐれているところを、荒い足音で、わざと目をさまさせられたのを憤いきどおった。
中学教師をしていた時代の泡鳴と、女学校教師だった幸子とは、泡鳴が樺から太ふとへ蟹の事業をはじめる前に別れたのだが、清子は友人同棲をはじめてからも、幸子に同情して、泡鳴に復帰するようにさえ勧めたこともある。米や炭を送って、幸子の生活をたすけもした。それなのに、何い時つも来ると、自分が退のいてやっているのだぞといわないばかりの仕打ちに、清子は腹を立てた。
だが、そんな不愉快な日ばかりもなかったのは、若葉の道を蛇じゃの目め傘がさをさしかけて、連れ立って入お湯ゆにゆくような、気楽さも楽しんでいる。
――主ある人じの体量、万年湯ではかったら、十四貫三百五十目めあったといって、よろこんでいらっしゃったと、日記につけたりしている。
暑い晩に、泡鳴は半裸体で原稿を書き、彼女は傍かたわらでルビを振っている。と、青あお蛙がえるが飛び込んで来た。泡鳴は団うち扇わで追いまわし、清子も手伝った。灯ひによって来た馬うま追お虫いもいる、こおろぎもいる、おけらもいるという騒ぎに、仔こい犬ぬもはしゃいで玄関から上ってくれば、飼かい猫ねこも出て来た。虫のとりあいをして、猫がこおろぎを食べると、犬がくやしがってワンワン吠ほえたてた。
﹁まるで動物園だ。﹂
と泡鳴が笑っているという図もあったりした。家庭生活にそこまで、犬も猫もきらいな泡鳴をひっぱりこみ、浸らせた清子の、一筋でない信念の強さがそれでも知れるが、そればかりではなかった。泡鳴は、そうした和なごやかな団だん欒らんには、勧進帳をうたったりなんかして、来あわした妹に、こんなことは兄さんはじめてだと、びっくりさせたりした。
――進んでノラともなれず、退いて半獣主義に同化することも出来ない。恋と思想と一致しない。私たちは常に絶えざる苦くも悶んと懊おう悩のうとを免かれない。しかも君に対する恋の執着はどうすることも出来なくなっている――
それは偽りのない彼女の告白だ。
泡鳴は、金が出来たら広い場処に移って、鍵かぎのかかる部屋をつくってあげようといい、結婚式は立派にしようと、優しくいった。
けれど、けれど、清子の思想は主張は、強かった。四十三年の一年は、その相そう剋こくをつづけて、四十四年の一月、熱あた海みへの三泊旅行も、以前の関係のままで押通した。
熱海の間かん歇けつ温泉ではないが、この、珍無類夫妻の間には、間歇的に例の無言の闘争が始まるのだった。そして、彼女は終日唖おしになり、泡鳴はいろいろの所作をした。
﹁泣いたり、怒鳴ったりするのは、まだ悲しみや怒りの極きわみじゃない。悲痛の極きょくは沈黙だ。沈黙が最も深い悲痛だ。﹂
と、泡鳴は言った。
飽ほう満まんの後のちにくるたるみならば、まだ忍べるが、根本の愛の要求に錯誤があるからだと、彼女は悩みになやみぬいた、その夜の夜明けに、いよいよ気分をかえて、新しく彼を愛してゆこうと決心した。
﹁理智の判断を捨ててしまって、盲目に恋に身を投げだそう。そうしたら泡鳴も満足し、自分の淋しさも消えるかもしれない。﹂
自分を没なくなすことは、もっと大きな自分をつくるために必要かもしれないと、彼女は自分に言いきかせた。そして、それをするならば、それは今日だ、この覚悟が崩くずれないうちにと思った。
打明けるには、快こころよい顔をしていたかった。気分を軽くするために、晴れた日の下に出た。お友達の家うちで闘球をして遊んで、夕ぐれになって帰るとき、これならば、心から笑って話せると思った。新しい恋人の心持ちで話しあおうと急いだ。はずみきって玄関から上りながら、旦那さまおうちときいたら、婆ばあやは、お出かけですと答えた。
清子の勢いこんだ覚悟は挫くじけてしまった。
泡鳴氏も苛いら々いらして酒ばかり飲んだ。そして、
﹁私は不幸な男だ。あなたも不ふし幸あわせだ。その上、貧乏はする。さぞ詰らないだろう。﹂
とつくづく言った。精神的にも、物質的にも、なんとか打破しなければいけない。それには、生活をすっかり改かえるのに、限ると思ったためかどうか、﹃大阪新報﹄に入社することになった。後あとから清子も行くことになる前に、音楽家の北村氏夫妻が、新劇団体をつくるのに、女優にならないかと勧められて、清子の心は動いた。
﹁僕は自分の妻を、公ひ衆とに見せるのは嫌いやだな。﹂
と泡鳴は反対した。それには、うんといわなかった清子も、稽けい古こを見にいってくると、すっかり厭いやになって断ってしまった。
*
いよいよ泡鳴が大阪へ出しゅ立ったつする二日前の、三月廿六日の日記には、
――私の心は黒い夜の森のような、重い空気につつまれている――
と清子は書いている。二人で饑うえても離れて心配するよりいいというような泡鳴からの手紙を読むと、想思の人が東西を離れるようになるとは、ほんとに憂うき世よではあるといい、苦労をともにする人は、呼べど答えぬ百余里の彼かな方たの難なに波わの宿にいるといい、すこしばかりの金を手にすると、この金を旅費にして、大阪にゆこうかしら、会いたいのは私ばかりでもあるまいからと、一緒にいれば、争あら闘そいつづける泡鳴を恋い慕った。蛙かえるの声が気のせいか、オオサカオオサカときこえるともいうようになっていた。
君帰り物語りすと見しは夢、ふとうたたねの春宵 の夢
君住むは西方 百里飛鳥 の、翼うらやみ大空を見る
君住むは
と、だらしがないほど彼女は恋しさを告白するようになった。
とうとう、婆やを連れて、大阪へ、家財道具そっくり持ってゆく日が来た。
*
大阪郊外池田山の麓ふもとに家かき居ょした彼女は、汽車に乗っただけで、郊外から郊外へ移って来たほど気が軽かった。
青菜に靄もやのかかる宵は、青葉の匂いのはげしいころだった。おなじような郊外の住すみ家かというが、二階から六甲山も眺められる池田での生活には、彼女はガラリと様子が一変してしまった。主ある人じが、今け朝さのお出かけには御機嫌がよかったのに、お帰りになってから悪い、私がお出むかえしなかったからだろうか、なんぞというようになった。だが、それは表面だけで、四十四年五月十一日の日記には、
――私は結婚生活に経験がない。始めて男性に心身を許してしまった今こん日にち、私の結婚生活に対する幻影は早くもさめてしまった。古人が結婚は恋愛の墓だといっている。私は、恋人の努力によって、内外一致した恋愛生活が、真の結婚生活だと信じていた。結婚を葬るのは、当事者の努力が足りないためだと思っていた。しかし、これは私一人のイリュージョンかもしれない――
と、何ど処こやらに絶望を噛かみながら、それでも、純一に夫を愛そうと、恋の自伝を書くために、行こう李りの底へ押込めておいた、五年間もつづけたという霊の恋の、形見の書簡を、陶せと器ものの火鉢をひっぱり出して燃してしまった。電燈が薄ぐらく曇る煙りのなかで、泡鳴を揺り起して見せると、
﹁妙なことをする人だ。急に何を思出したんだ、この夜よ更ふけに。﹂
と、もうそんな事には興味ももたなかった彼は、ともすると、
﹁なにも、いやいやいてもらいたくない。﹂
というようになった。
*
前号に、荒木郁子さんに養われて、震災の時に死んだ男の子を、清子の実子でないように書いたが、それは、あんまり諸方訊ききあわせたための行きちがいであった。生田花世さんは、その頃、ペンネームを長なが曾そ部べ菊子といわれたが、芸術まず生活の実行からと、水野葉舟氏の家に女中奉公をされていた。仲のよかった岩野、水野の両家の交わりは、紫紺の釣つり金がねマントを着て、大丸髷の清子女史を伴なった泡鳴氏がお得意の面おもで、
﹁清子も、とうとう僕の子を、ここへ入れている。﹂
と、細君のお腹なかをさして、満足気にいってたのを見て知っているということだった。
釣鐘マントの流行は大正三、四年ごろだった。その時分に、この夫妻は大阪から帰って、東京巣すが鴨もみ宮やな仲かに住んでいた。四年の夏のころ、清子の健康はすぐれていなかったことや、大正十二年に九歳位だというのにも合っている。しかも、泡鳴氏が清子さんに別れる時、
﹁もう、あなたとも、永久のお別れですね。﹂
といったとき、泡鳴氏はこういっている。
﹁おれはそうは思わない。いつ喧けん嘩かして帰って来るかも分らない。それに坊やは時々見にくるよ。﹂
泡鳴氏は、そのころ、筆記者に雇った蒲かん原ばら房ふさ枝え︵後のちの夫人︶と、不義の交わりがつづいていたのだった。
﹁蒲原とのことならば、もう一月も前から……が出で来きていたのだが、私はあなたに対する尊敬は、今日でも持っている。﹂
とその関係を軽い調子で告白したのだった。
それは、清子にとって、重大なことだった。同棲して七年間、泡鳴の品行に一点の汚点もなくなったことは、清子の誇りでもあり、泡鳴の誇りでもあったのだ。多年の放ほう縦しょう生活を改めたという、家庭の美びじ事こう光みょ明うが、一瞬にひっくりかえってしまったのだ。
清子はその侮辱を、冷静に考え処理しなければならないと思ったが、昂こう奮ふんした。謀むほ反んし者ゃの間にいることがたまらなかった。
蒲原房枝は彼女にこういった。
﹁こんな関係になりましたからって、決して定まった月給よりほか頂こうとは思っていません。私は、お金をもらって囲われているようなことはしたくないのです。﹂
それからの泡鳴は、いっそ知れてしまったのをよい事にして、夜ごとに公然と、蒲原のところへ出かけて行くようになった。
千せん仭じんの底へつきおとされた気持ち――清子にとって、それよりもたまらないのは、そうなっても夫婦関係をつづけようとすることだった。
別居か離別か、その二ツに惑った彼女は、青せい鞜とう社しゃに平塚明はる子こさんをたずねた。
別居する決心がついた。収入の三分の二を渡してもらって、子供を養い、妻としての権利をもつのを条件に、私製証書は二通つくられた。
あんまり事こ件とが突然なので、誰も彼もびっくりしたが、岩野氏はあっさりと、荷物を積んだ車と一緒に、
﹁さようなら。﹂
といって出ていってしまった
白しら々じらしい寂せき寞ばく!
彼女はこんなことをいったことがある。
﹁あたしは芝で生れて神かん田だで育って、綾あや瀬せ︵隅すみ田だが川わ上流︶の水すい郷ごうに、父と住んでいたことがある。あたしの十二の時、桜のさかりに大火事に焼かれて、それで家うちは没落しはじめたのです。その時の、赤い赤い火事に、幼い心をうたれた紅さと、泡鳴氏が出ていった夏の日の――八月でしたが、あの真昼の、まっ白な空虚さは、心からも、眼からもわすれられない。﹂
*
その後の清子さんは、切きり花ばなや、鉢植の西洋花を売る店をひらいた。
泡鳴氏からの物質は約束通り届けられなかったものと見えた。後には、店の面倒をよく見てくれたり、深切にしてくれた青年と結婚した。大正九年に、その人との中に女の子が生れたので、夫の郷里京都へ、もろもろの問題を解決に旅立ったが、持病の胆石が悪化して、京都帝大病院で亡なくなった。
暮の押迫った時分だった。﹃青鞜﹄はもうなくなったが、新婦人協会の仕事で、平塚さんは東京が離れられなかった。ありったけの手許の金を送ってやると、
﹁まあ、あの人も、仕事のことで、いま、お金がなくって困っているだろうに、送ってくれるなんて、少しでも、これは実に尊いお金だ。﹂
と、悦んだが、その時分には死を充分覚悟していて、泡鳴氏との遺児を、友達に頼みたいということを、遺言の第一に書いた。
悲しい結びつきであった。泡鳴氏にしても、大正四年四月、﹁新体詩作法﹂と、﹁新体詩史﹂を合したものを提出して、博士論文を要求していたのだが、審議に上のぼっていた時に、清子さんと蒲原房枝とをめぐる事件の、世評がやかましくなったので、殆ほとんど通過する間まぎ際わになって否定されたということだ。
廿八歳まで、霊肉一致の、恋愛至上主義に生きぬこうとした意志の強い女性の、ほんとにこれは、断片を語るにすぎないが、彼女が、泡鳴氏との同居に、頑かた固くななほど身を守っていた明治四十三年は、幸こう徳とく事件があったりした時だった。